古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月22日・「アメリカ」の由来である探検家・アメリゴ・ヴェスプッチの命日

1512年の明日2月22日は大陸や合衆国の名称「アメリカ」の由来になっているイタリアの探検家・アメリゴ・ヴェスプッチさんの命日です。
野僧は1976年にニューヨークで行われたアメリカの独立200周年を記念する国際観艦式と帆船パレードでソ連が誇る世界最大の4本マスト・バーグ型帆船・クルーゼンシュテルンと並ぶ存在感を発揮していた3本マスト・フリゲート型の帆船に興味を持って調べたところ(当時は海軍少年だったこともあって)、それはイタリア海軍の練習船で名称はアメリゴ・ヴェスプッチでした。
舳先を飾るフィギア・ヘッドは女神であることが多い中でこの帆船は宣教師のような服装をした男性で、今度はその人物に興味を持って調べることになったのです。
するとアメリカと言う地名の由来になっていることが判ったのですが、世界史では初めてアメリカ大陸に到達したのは1492(いよーッ、国が見えるぞ)年のコロンブスさん(こちらもジェノバ=イタリア出身)と習っているため、到達第1号を差し置いて名前を採用されたことの謎が謎を呼んで、探求心が毎度の暴走を始めてしまったのです。
しかし、県下有数の蔵書数を誇る図書室を探しても詳しくは載った本は見つからず、揚句の果てに隣の水産高校に電話したのですが、それでも知っている人はいませんでした。結局、市の図書館で海の男たちの伝記コレクションを見つけて解決したのです(この執念はかなり病的でしょう)。
それによるとコロンブスさんは「アメリカ大陸に到達した」と言っても、実際はカリブ海の島々まで行っただけで大陸には上陸していていませんでした。それよりも遥か前に北欧のバイキングがグリーランドなどを経て現在のカナダに辿りついていたとの伝承と痕跡があるようです。
コロンブスさんは現地人をインディアン=インド人と呼び、カリブ海の島々を西インド諸島と命名したように死ぬまでそこがインドであると信じ、西回り航路を開いたと思っていたのですが、一方、アメリゴさんはコロンブスが届かなかった大陸にまで足を踏み入れ、その全貌を解明していきました。
先ず1497年にはスペイン王の要請を受けてコロンブスさんがポルトガルによって派遣され、略奪と虐殺の限りを尽くしてきたカリブ海を探検し、1499年には2度目として南アメリカの大西洋沿いに南下し、現在のブラジルの北部まで行っています。
ところが同じ頃、ポルトガル王によってアフリカ大陸の南端・喜望峰を回る航路を開拓していた船団が偶然にもブラジルへ漂着し、これがアメリゴさんが報告していた土地なのか否かで領有権の問題が起こったのです。
そこで1501年から3度目の探検航海に出て、マゼラン海峡の手前である南緯50度にまで到達したことで(寒さ対策が不十分だったため引き返さざるを得なくなった)、「これはインドではない新たな大陸であること」を確認することになりました。
ちなみにこの航海でアメリゴさんはヨーロッパ人としては初めて南半球での天体観測を行いましたが、その記録・資料はスペイン王に国家秘密として没収されてしまいました。当時の航海は4文儀(現在は6文儀)と言う器材で位置を測定するため、その基準となる星の位置は重大な秘密だったのです。後にアメリゴさんは航海と探検の記録を地理学の専門書や「新世界」と言う本にしたのですが、その中で「あの時の記録・資料を返還して下さい」と何度も懇願しています。
つまりコロンブスさんはあくまでも西回りでインドへ行ったつもりでいたのに対してアメリゴさんはそれが新大陸であることを発見したのですから、「アメリカ(ラテン語読みの女性形)」と命名されたのも至極当然だったようです。
余談ながら南アフリカ大陸の北端にあるカリブ海と太平洋にまたがる国とアメリカ合衆国の州の「コロンビア」と言う名前はコロンブスさんに因んでいます。
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  1. 2017/02/21(火) 09:32:57|
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振り向けばイエスタディ741

検察側は防衛庁に証拠として業務日誌の提供を求めていたが防衛秘密を理由に拒否され、オランダ軍に対する検屍や現場検証記録などの関係資料も同様の結果になり、証拠調べでの引き延ばしを断念せざるを得なくなった。いよいよ弁論手続きに進み、論告=求刑が行われるのだ。この頃、国連の査察団はイラク国内では大量化学兵器や生物化学兵器は見つからず、武装解除が進んでいることを評価する報告を提出し、それに対してアメリカとイギリスは「イラクはナイジェリアからが核兵器の材料であるウランを購入しようとした」「イラクが大量破壊兵器を隠し持っている証拠が見つかった」と独自調査の結果を発表していた。
そんな中、日本の首相はアメリカの主張を全面的に支持することを表明したため、これを受けて国内では「自衛隊が対イラク戦に参加するのではないか」と言う風説が流れ始めた。
そして社人党は「貴方の夫・我が子を殺人犯にしないために・イラク派遣を拒否しよう!」と言うスローガンに目だけを隠した私の写真を載せたチラシを自衛官の父兄・家族宛に送りつけたらしい。やはりこれが中身のない裁判をここまで引き延ばしてきた目的なのだ。
「それでは弁論手続きに入ります」次のステージも裁判長の口上から始まった。傍聴人席のマスコミ関係者も最近はまばらになっていたが、今日は幾分人数が多いようだ。
「検察官、論告をどうぞ」「はい」検察官は立ち上がると私の顔を一瞥してから論告を始めた。
「被告人・モリヤニンジンは2002年5月×日、午後4時頃に現在は独立していますが、当時は国際連合の暫定統治下にあった北キボールのトバラ市郊外の耕作地域で、現地の男性3名、被害者の氏名、年齢、住所等は不明です、を殺害しました」検察官の論旨は証拠調べを経ても進展していない。要するに「私戦の予備陰謀」と「中立義務違反」は諦めて私が3名の人命を奪ったと言う事実だけを犯罪として立件するつもりなのだろう。
「このうち2件目の殺害については手榴弾を投げ込まれるのを回避するための正当防衛と認められますが、3件目はあらかじめ用意していた殺傷能力十分のナイフで刺殺していますから、殺害を回避する努力義務を放棄した過剰防衛、さらに1件目は前方を見て銃を構えていた被害者を横から明確な殺意を持って銃撃しており、これは殺人と判断します」つまり私の罪状は1名の殺人と1名の過剰防衛と言うことだ。
「そうなると求刑はどうなるのか」被告人以前に司法試験の受験生としての興味が湧いてきた。
「また本公判での被告人の言動を見る限り改悛(かいしゅん=後悔・反省)の情は感じられず、したがって被告人に懲役10年を求刑します」これは判例から見て検察官が過剰防衛と判断した1名の殺害も殺人に加えたことになる重い求刑だ。今後も判決が出るまで私を「殺人犯」と書き立てられることになった社人党の徳島水子党首のほくそ笑む顔が浮かんだ。
「次は弁護人、弁論をどうぞ」「はい」今度は牧野弁護士が起立して裁判長に一礼した。
「本件は我が国も1911年11月6日に批准している1899年ハーグ陸戦規則の規定に基づいて行われた正当な戦闘行為であり、被告人による3名の殺害に違法性と過失はありません。また我が国の刑法に鑑みても小銃を構え、被防護対象であるオランダ軍の軍人2名を明らかに殺意を持って狙っていた者を射殺したのは緊急避難であり、その後の2件が被告人自身に対する危険を回避するための正当防衛であることに疑義を差しい挟む余地はなく・・・補足すればこの当該者たちは陸戦規則が定める戦闘員の要件を満たしておらず武力行使は違法です。したがって無罪です」裁判が始まったばかりの頃であれば「無罪」に不満を示す舌打ちが響いたはずだ。しかし、あれから半年が過ぎ、証拠らしい証拠もなく、私を断罪するはずの証人たちも徳島弁護士を除けばその役割を果たさずに終わってしまっている。誰が見ても私に「殺人犯」の看板を掛けるための裁判であることは明らかなのだ。
何にしても私は間もなく受験する司法試験の第1次試験の方が本番のような気分だった。
  1. 2017/02/21(火) 09:30:57|
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2月21日・理解不能な科学者・糸川英夫博士の命日

平成11(1999)年の明日2月21日は片手サイズのペンシル・ロケットから人工衛星を打ち上げられるラムダ、ミュー型に至るロケット開発を指揮して「日本のロケット開発の父」と呼ばれている一方で、晩年まで多種多様な可能性を追求していた糸川英夫博士の命日です(「たけしと逸見の平成教育員会」にも生徒役でレギュラー出演していました)。
野僧は小学生の頃にアポロの月着陸や大阪万博によって湧き起こった宇宙ブームの時、同級生がアポロのサターン・ロケットの開発しを指揮したヴェルナー・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル・フォン・ブラウン博士の知識を披露したのに対抗しようと日本の糸川博士のことを調べたため少し詳しいのです。
糸川博士は明治が終わり、大正が始まる10日前の1912年7月20日に東京の小学校の教師の次男として生まれました。この「英夫」と言う名前は父親が東京大学を首席で卒業した人物から採ったそうです。
成長期には大正デモクラシーが花開いたので現在で言えばバブル世代のような育ち方をしており、実際に(旧制)中学・高校では校内紛争を起こしていますが、成績は一貫してトップだったようです。
しかし、大正デモクラシー世代は一転、軍国主義と大陸での武力紛争の中で大人になっていきますが(=バブル世代の長期不況よりも悲惨)、糸川博士が航空工学を選んだ理由は受験に当たり東京帝国大学工学部土木科に入っていた兄に「どこが一番難しい」と質問し、「航空工学だ」と言われたことだそうで、学問的な興味や将来への夢、ましてや科学技術で祖国を守ろうとする愛国心などではなかったようです。
卒業後は中島飛行機(現在の富士重工=日本の航空機業界のトップ企業)に入社し、97式戦闘機や1式戦闘機・隼、2式単座戦闘機・鍾馗などの設計やドイツからもたらされたジェット・エンジンの研究に携わったものの軍の要求に基づき軍事機密の保持や予算の制約を受けながらの仕事に嫌気が差して退社すると東京帝国大学が千葉県に設立した第2工学部の助教授に就任し、敗戦後も在職しました。
ちなみに中島飛行機は初の国産ジェット戦闘機・橘花(事実上はナチス・ドイツのメッサーシュミット・Me262Aの改悪型)を飛行させており、その経験で戦後に初の純国産ジェット練習機T-1B(Aはアメリカ製のエンジンだった)を開発しています。
東京帝国大学第2工学部は敗戦によって休眠に入ったものの日本が独立してから本格再始動して糸川助教授は超音速旅客機の開発を目指したのですが、アメリカへ出張した時に目にした航空工学の本で、宇宙空間が人体に与える影響を研究した記事を読み、「アメリカは宇宙へ人間を送り込もうとしている」と発奮したそうです。この辺りもバブル世代に似た衝動的な行動原理だったようです。
そして帰国後は米ソ2大国がしのぎを削っている宇宙開発に敗戦国の日本が参入することを嘲笑する政治屋や官僚、さらに経営上の収益が期待できないと関心を示さない企業を説得して回り、1955年3月に東京都国分寺市の廃工場で全長23センチ、直径1.8センチのペンシル・ロケットの水平射実験を行ったのを皮切りにして開発を進め、本格的人工衛星打ち上げ用のミュー・ロケットの事前実験として開発したラムダ型でも人工衛星の発射が可能なことに気づいて実行したのですが4回連続して失敗、その責任を負って東京大学を退官して宇宙開発から身を引きました。
ここからの転身が理解不能なのです。教え子たちがラムダ4Sにより人工衛星・おおすみの打ち上げに成功して世間の評価が批判から賞賛に代わっても背を向けて、「逆転の発想」と言う本を出版してベストセラーにしたのは良いのですが(現在では普通に用いられているこの言葉はこの本の題名に由来する)、20年後の1990年代を予言する小説を発表するなど名誉を自ら貶めるような行動を続けていきました。
60歳を過ぎてから有名なバレエ団に入ると雑誌などがまだ初心者の段階なのに厚化粧をしてバレエの衣装を着た写真を掲載し、これは変態趣味なのか、天才の狂気なのかと物議をかもしました。
ただ、このバレエ団の経営者は作曲家の富田勲先生と知り合いで、ある日、シンセサイザーを研究して演奏したホルストの組曲「惑星」の録音テープを持ち込んだのに立ち会い、「この曲を使った公演でソロで踊りたい」と訴えたそうです。この頃はまだ初心者に毛が生えた程度だったので経営者は「無理だ」と思ったのですが富田先生は賞賛・応援し、本人は練習に励んで実際に演じたようです。
何にしても日本の宇宙開発が米ソやフランス、中国とは異なり純粋に科学と民間需要を目的に進められたのは糸川先生が先頭を引っ張って行ったからでしょう(自衛隊が地対空ミサイル=ロケットのナイキ・エイジャックスを導入したのは1962年のことでした)。
日本の小惑星探査衛星・はやぶさが到達した「イトカワ」が糸川博士に由来しているのは言うまでもありません。
  1. 2017/02/20(月) 09:12:38|
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振り向けばイエスタディ740

岡倉と杉本はイギリスから引き揚げられなくなっていた。年が明けてからアメリカとイギリスによるイラクへの疑惑と非難が激化し、それがイギリス発の情報とされているため現地で事実を確認しなければならないのだ。
「誰がこんな嘘を報告しているんだ」2人の宿舎に来てもジェームズは怒りが鎮められないようだ。1月9日に国連の査察団が「イラクでは国連決議に違反した証拠は見つからなかった」と疑惑を否定する中間報告を提出すると、その1週間後には「イギリスの情報機関が化学兵器を搭載可能なミサイルを発見した」とアメリカが発表した。つまり「国連の査察団よりもこちらの情報を信用しろ」と2つの常任理事国が迫っていることになる。
「やはり嘘なのか」「俺の同僚が査察団に加わっているが、イラクは非常に協力的で思いつきで立ち入ろうとした場所も進んで公開していたそうだ」ジェームズの話では各種学術の専門家で構成されていた査察団にイギリスは諜報部員を潜り込ませていたようだ。「流石」と言うべきだが人材の厚みの違いを思い知れされる話でもあった。
「要するに大儲けをたくらむアメリカの軍産複合体の開戦要求をライスが『キリスト教の聖戦』と言い包めてブッシュを焚きつけ、それにブレアも同調しているんだな」これはアメリカ側に立った見解だがジェームズは厳しい顔をしてうなずいた。
「早く首相に偽情報を伝えている人間を特定して消さなければ、我が国は無用の戦争に加わることになる」「MURDER(殺害)」と言う単語を表情も変えずに口にしたジェームズに岡倉と杉本は先日の仕事振りを思い出して背筋に寒いものが走った。
「俺たちが見る限りブレアは直接アメリカの指示を受けているんじゃあないかな」「むしろ実際に偽(にせ)の情報がイギリス政府内に存在することを確認するべきだろう」2人が交互に見解を述べると立場が逆転していることに気づきジェームズは顔をしかめた。
「内向きの仕事は5の担当なんだ。イリヤたちは女王陛下が信任した内閣にも忠誠を尽くしているから裏切りの調査などは認めないだろう」確かに自国の将兵を他国の意向に従って戦場に送るのは「裏切り」以外の何物でもない。しかし、行政機関の一部として防諜を業務としているMI5と女王が君臨する国家に忠誠を尽すMI6では意識が違うようだ。これは日本でも同じことが言える。政府のために仕事をしている警察や公安調査庁は1955年の保守合同以降、長期単独政権が続いてきた結果、それが与党のためになっている部分があることは否定できない。
「俺たちとしてはアメリカとイギリスが主張しているイラクへの疑惑が虚構であることが確認できれば十分だ」「ニュースを見る限り、他のヨーロッパ諸国は今回のイラクへ疑惑には懐疑的のようだな」ここでも2人が口を揃えるとジェームズは不快そうに唇を歪めた。
「流石に無理があるんだよ。ただ軍事産業が戦争を期待するのはどこでも同じだから、アメリカとイギリスが提供した儲け話を拒否するのは難しいだろう」「それで死ぬのは軍人だ」杉本の嘆き節に岡倉とジェームズは顔を見合わせた。
「俺たちもイギリス政府の内情を探る必要があるな。それを手土産に帰らないと日本の参戦を阻止するのに間に合わなくなる」杉本の意見に岡倉もうなずいたが、ジェームズは思いがけない注意を与えた。
「政府関係者と接触するのに中国人と間違われないように気をつけろ。俺たちにとってはどちらもアジア人に変わりがないからな」若し、中国人が日本人を装っていると誤解されればMI5の出番になり、諜報機関の取り調べ(=拷問)を体験学習することになりかねない。
「本当に中国人が多いな」2人は街で頻繁に耳にする中国語に呆れていた。現在のイギリスでアジア人と言えば中国人を差すのかも知れない。
  1. 2017/02/20(月) 09:09:38|
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2月20日・不可思議な将軍・アレクサンダー・ヘイグ大将の命日

2010年の明日2月20日は朝鮮戦争・ベトナム戦争を経験した歴戦の勇士であり、北大西洋条約機構(=NATO)軍司令官で退役した後にはレーガン政権の国務長官に就任したものの今一つ活躍仕切れず、晩年は経済ニュースに出演していたアレクサンダー・メグス・ヘイグ・ジュニア大将の命日です。
ヘイグ大将は1924年にペンシルバニア州フィラデルフィァで生まれ、アメリカのカソリックの名門であるノートルダム大学に入学したものの第2次世界大戦中にウェストポイント=陸軍士官学校に転学しました。
卒業したのは1947年だったので第2次世界大戦は終わっていたのですが、3年後の1950年に朝鮮戦争が始まったため、若手士官でありながら日本で指揮を執っていたマックアーサー元帥の司令部要員になりました。そこでの担当業務は前線からの報告を受けて戦況図を最新の状態にすると共に質問にも答えることで、若手士官としては高い視点から戦争の実相を学ぶ好機になったようです。その後、参謀長だったアーモンド中将が第10師団長に就任するとこれに加わって前線に立ち、7つの作戦での軍功で勲章を受けています。
帰国後には陸軍参謀本部での勤務を命ぜられ、3年間の在籍で国防長官の補佐官にまで昇りました。
アメリカ軍がベトナム戦争に本格的介入を始めると中佐の大隊長として出陣し、ここでも勇猛果敢な指揮で3倍のベトコンを撃破して、アメリカ軍としては上から2番目の格式を持つ勲章を受けました。さらに1年間のベトナム在勤中に大佐に昇任して旅団長になっています。
帰国後はウェストポイントで学生隊の連隊長になりましたが、翌年にはニクソン政権の外交を取り仕切っていたキッシンジャー大統領補佐官の軍事顧問に選任され、そのまま大統領の大統領副補佐官としてベトナム戦争の一時停戦を実現し、その功績もあって陸軍参謀次長に抜擢されるとアメリカの役職に連動する階級制度で2階級特進して大将になりました。
軍務復帰で政権内の活動はこれで終わりかと思えば折しも大統領の犯罪=ウォーター・ゲート事件が発生したことで告発者の首席補佐官が辞任したため、陸軍在籍のままその後任になったのです。それは政権中枢が事件への対応に忙殺されている中で唯一機能している歯車と言う役割で「ニクソン大統領の辞任とフォード大統領への政権移譲までの政務を滞りなく進められたのはヘイグ首席補佐官の力であった」とする評価を受けています。フォード政権発足後まで務めた首席補佐官の後任は国防長官として2代目ブッシュ政権を対イスラム戦争=第3次世界大戦に引き込んだ元凶の1人・ラムズフェルドでした。
1974年に軍務へ復帰すると5年間にわたり在ヨーロッパ・アメリカ軍とNATO軍の最高司令官に就任しましたが、このヨーロッパでの勤務中、暗殺未遂事件に遭遇しています。
ヘイグ司令官が軍用車でベルギーの古都・モンスの橋を走行中に地雷が爆発し、本人は無事だったものの後続車に乗っていた警護官3名が負傷しました。これはドイツ赤軍の犯行と特定されています。
そして1979年に退役すると民間企業の社長を務めましたが、1981年に発足したレーガン政権では国務長官に就任したのです。ところが発足した間もない3月30日にレーガン大統領が狙撃されて入院すると、記者団の「大統領が死んだ時、誰が後継者になるのか」と言う質問に「ホワイトハウスは私が統制している」と発言して物議を醸してしまいました。ヘイグ長官自身としては「実務は」と言う意味のつもりだったようですが、記者たちは「国務長官が法の規定と手続きを無視した」と批判を始め、政治的失点となってしまったのです。
その後もフォークランド紛争の開戦直前にはイギリスとアルゼンチンの仲介・調停に失敗し、イスラエルとレバノンの紛争でも「イスラエルは開戦の口実を探している」と大統領に報告したことをイスラエルが「アメリカの承認を得た」と曲解して(本人としてはイスラエルに自制を求めたつもりだった)、失点を重ねてしまい、結局、国務長官を1年半で辞任しました。
76歳を過ぎてからCNBCテレビのワールド・ビジネス・レビューに番組の総括コメントを述べる役で出演し、これは82歳まで続けました。
それにしても激戦の中で銃弾を浴びることなく、地雷が爆発しても無事だったヘイグ大将が政治の場では不運の連続で、ブッシュ政権で同じ役職に就いたパウエル大将の不運と考え合わせると、騎士道の美学に生きた職業軍人は権謀術数が渦巻く国務省の濁り切った水には棲めないと言うことかも知れません。
  1. 2017/02/19(日) 08:58:30|
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