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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

結局、旧民主党と共産・社民は異床同夢なのか。

ブログ・古志山人閑話では基本的に選挙中は政治に関する話題を避けていますが、今回は自己規制を破って山口県内の各選挙区を見ていて感じることを述べます。
今回の山口県内の4つの選挙区のうち旧小郡町を除く山口市・防府市・周南市の旧徳山市・旧新南陽市・旧鹿野町の1区ではK村外務大臣の息子(50歳)と立憲民主党の新人(48歳)。下松市・岩国市・光市・周南市の旧熊毛町・周防大島町・和木町・上関町・田布施町・平生町の2区ではK防衛大臣(62歳)と共産党の新人(64歳)。宇部市・萩市・美祢市・山陽小野田市・山口市の旧小郡町の3区が参議院から鞍替えした万能大臣(60歳)と毎回衆参両院の選挙に出馬して落ちている立憲民主党の新人の女性(66歳)の直接対決。そして下関市と長門市の4区では最長政権を達成したA元首相(67歳)とれいわ新選組の元プロレスラーの新人(49歳)に元地元新聞社員の美貌の新人の女性(47歳)と言う構図になっています。つまり野党は政治への関心が他県以上に強い山口県の有権者に「立憲民主党と共産党、れいわ新選組に大差はないので自民党政権に不満を持つ人は政党に関係なく一票を投じろ」と言っている訳で野党共闘を叫んでいる国民民主党と社民党も含めて看板が違うだけで政治的思想信条・政策目的が同じ異床同夢(同床異夢=別の床に寝て同じ夢を見るの逆)なのを自白しています。
確かに野党各党が口を揃えている「分配」はマルクス主義の原理であり、民主党政権が「失われた20年」の長期不況で不満が鬱積した国民をなだめるために手当てを作って配ることの繰り返しだったのも根底にはマルクス主義の「資本家による労働者の搾取」の階級闘争理論に基づく「企業独自の社員の福利厚生は信用できない。収益を国家が管理して分配するべきだ」と言う社会認識があったようです。
実際、枝野幸男立憲民主党代表が官房長官を務めた菅(かん)直人内閣は東北地区太平洋沖地震の時、自民党の歴代防衛庁長官・防衛大臣よりも優れていた北沢俊美防衛大臣が「初動対処で戦力の集中発揮させる軍事行動の原則」を説明して陸海空自衛隊の全力投入を主張したのを退けて災害派遣を必要最小限にする方針で動き、東北方面隊単独では対処し切れないと判ってから小出しに他方面から増員を送る村山富市社会民主党内閣が阪神淡路大震災で犯した大失策を繰り返しました。さらにオバマ政権が震災直後に申し入れた在日アメリカ軍による災害派遣「トモダチ作戦」を先延ばしにした上、マスコミが取材に入っていない気仙沼沖の離島を担当させ、真っ先に到着した馬英九政権の台湾の緊急援助隊を共産党中国が来るまで足止めにしたことでも本性は明らかでした。
今回の選挙で野党各党は「安倍・菅(すが)政権の9年間で国民の経済格差は拡大した」と声を極めて批判しながら前述の「分配」の必要性を訴えていますが、それを言うなら「深刻な不況に何もできず、事業仕分けで必要経費まで削減して行政を阻害し、外交では共産党中国の言うままに日本を三流国家に堕とした悪夢の民主党政権を復活させたいのか」を国民に問うべきでしょう。今回は共産党と過激派を美化した極左映画の主演俳優がトレンディ・ドラマで素性を誤魔化した代表のれいわ新選組もワンセットです。
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  1. 2021/10/23(土) 14:29:33|
  2. 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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振り向けばイエスタディ2439

舩岡地区の考えてみれば禅僧の名前の斎場での葬儀が終わり、佐伯元准尉の棺は霊柩車で隣りの村田町にある火葬場に向かった。舩岡施設OB会の会員たちも斎場のマイクロ・バスで同行したが、車内では前の方に親戚や近隣住民が座ったため後ろ半分はOB会の貸し切りになった。
「佐伯准尉は山形出身なんだよな」「だから曹洞宗なのか」「堅物な訳だ」OB会は現役時代の階級よりも年齢を尊重する傾向があるので70歳代の茶山元3佐は最後列の5人掛けの席に座り、両隣りから佐伯元准尉の人となりを聞くことになった。山形県は愛知県の東三河や静岡県の遠州と並ぶ曹洞宗王国で浄土真宗が多数派の他の東北各県とはかなり県民気質が違う。兎に角、四角四面の堅物ばかりで他力本願とは真反対に自学研鑽の努力家が多い。
「それにしても曹洞宗の葬儀は賑やかだよな」「あの楽器演奏には驚いたよ」「お布施は坊主の人数分を払うのかな」やはり人事幹部だった元2尉は経費が気になるようだ。実際は導師に一括払いでそれを「伴僧(ばんそう)」と呼ばれる参加者たちに分配するのだが、金額は他の宗派と大差はないはずだ。曹洞宗は戦国時代に喰うに困って無住になった真言宗の廃寺を乗っ取って宗勢を拡大したため貧乏寺ばかりで、他の宗派以上に坊主同士の相互扶助が発達しているので葬儀も1人でも多く参加できるようにあのような形式を整えたと言われている。また血縁者以外の他人が寺を譲ってもらう時、「恩金」と呼ぶ住職の退職金を支払うのは曹洞宗だけで、これを檀家たちは「寺を金で買った住職」と陰口を叩いている。その意味では貧困階層だった門徒たちが江戸時代に財産を築き、報恩の志納金で寺を大きくした浄土真宗とは逆だ。
佐伯元准尉の肉体が火葬炉の中で焼かれている間、参列者たちは控室で巻き寿司や稲荷寿司に煮しめなどの精進弁当に酒を振る舞われる。浄土真宗以外の宗派では本来、49日間は肉魚と酒類を断って追善供養を勤め、四十九日の法要でその禁が解かれるため精進落としの宴席が設けられるのだが、参列者の大半は門徒なので49日間を精進で過ごす発想そのものがない。
「それにしても今の政治はどうなってるんだ」酒が入って話題が新聞の1面から始まるのは元特別職国家公務員でも管理職の習性だ。これが庶民階層の陸曹だとスポーツ覧や3面記事になり、陸士ならスポーツ中継を含むテレビ覧かも知れない。
「花見の話か」「桜を見る会だよ」「招待客が多過ぎるって問題だな」茶山家でも桜を見る会の問題は加倍首相が招待した選挙区の支持者の人数や経費の額よりもマスコミが事件化しようと異常に執着している態度に疑問を感じているが、この口調と表情を見る限り同様らしい。
「あの行事は首相主催なんだから予算の枠内なら誰を何人呼んでも問題ないだろう」「その予算が倍増しているって騒いでるんだよ」「加倍政権になって景気が回復傾向だから予算が増えるのは当然じゃあないのか」茶山元3佐の指摘は考えていなかったらしく、ここでの時事阿呆談の参加者は揃って黙り、弁当の巻き寿司を頬張った。
「雀山の時の桜を見る会では岩手の水沢から観光バスが列を連ねて東京に向かったって言うぞ。加倍さんと何が違うんだ」「尾沢は民政党を壊してからは別行動だから杖野(つえの)たちとは関係ないんだろう」寿司をビールで流し込んで雑談を再開させると今度は民政党政権への批判になった。岩手県の水沢は尾沢一郎の選挙区で、2010年の雀山由紀夫首相主催の桜を見る会では招待者を乗せた観光バスが東北自動車道で長蛇の列を作ったらしい。
「その割には震災後の復興事業では利権を貪ってるな」「ワシのダンプ中隊の元曹長が退職金で自家用ダンプを買って土砂や廃材の運搬の仕事を始めたんだが、津波で倒壊した廃材の集積場から処理場へ運ぶ仕事があるって聞いて仲間と出かけたら県庁か市の若い職員に『尾沢事務所の参加証明書は』と訊かれて、『ない』と答えたら追い払われたそうだ」この問題は元施設幹部たちも現役時代に部外工事で関係した東北防衛施設局の職員から愚痴として聞かされたことがある。尾沢一郎は自民党の有力政治屋時代に子飼いの政治屋志望の人間を東北一帯の県議会・市町村議会の議員にして県庁や市役所、町村役場の職員を手懐けさせた。そうして宮古市の大規模堤防に代表される東北地方での公共事業に投じられる莫大な予算が懐に入いる仕組みを構築したから落ち目の野党党首になっても絶大な政治力を維持しているのだ。
「立憲民政党の杖野は東北大学の法学部だろう。独自の東北人脈を作れないのかな」「東北大学出身でも生まれと選挙区は栃木の宇都宮だから所詮は余所者なんだよ」茶山元3佐はこの情報は初耳だったが、すると元ダンプ中隊長が声を低くして補足した。
「それを言えば尾沢だって震災の後も岩手に帰らなかった。だから犠牲者に手を合わせていない。被災者を見舞わっていない。余所者以上に酷い奴だよ」「新潟は田中牧子を落としたけど岩手は駄目だな」岩手県人の茶山元3佐としては不本意な結論になってしまった。火葬されている佐伯元准尉とは無関係だが、葬儀とはそのように淡々と流れていくものだ。
  1. 2021/10/23(土) 14:28:13|
  2. 夜の連続小説8
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コリン・パウエル大将の逝去を悼む。

10月18日に湾岸戦争では統合参謀本部議長として多国籍軍司令官のノーマン・シュワルツオフ大将とパパ・ブッシュ政権の調整に手腕を発揮した一方で、2代目ブッシュ政権では軍事産業と結託したネオコン(キリスト教原理主義的過激派)の策略で辞任に追い込まれて対イスラム戦争=第3次世界大戦を阻止できなかったコリン・パウエル大将が共産党中国の細菌兵器の合併症で亡くなったそうです。84歳でした。
パウエル大将は1937年にニューヨーク市のハーレムでジャマイカ系移民の子供として生まれ、ニューヨーク市立大学で地学を専攻するのと同時に予備士官候補生課程を受講し、卒業後は少尉に任官しました。ベトナム戦争に2度従軍して最前線で負傷を繰り返したことで陣頭指揮を実践している陸軍士官として評価されるようになり、1971年にジョージ・ワシントン大学の経営学修士課程を修了するとリチャード・ニクソン政権では政権中枢の助手として経験を積む研修生に選ばれ、ドナルド・レーガン政権では予備役に編入された上で国家安全保障担当の大統領補佐官に指名されました。それでも政治家に転身することなく1989年1月のレーガン政権の退任で現役に復帰すると大将に昇任して陸軍総軍司令官、10月には軍服組のトップの統合参謀本部議長に指名されました。そして1990年8月2日にサダム・フセイン政権のイラク軍がクエートに侵攻して湾岸戦争が始まると国際連合は多国籍軍によるイラク軍の撃退=クエートの開放を決議し、現地部隊とアメリカ政府や多国籍軍参加国の調整に抜群の手腕を発揮しました。湾岸戦争におけるパウエル大将の最大の軍功は4日間の戦闘でイラク軍地上部隊を撃退した多国籍軍がイラク国内に侵攻することを要求し、パパ・ブッシュ政権も国民に戦果を誇示するために許可しようとした時、国連決議がクエートの開放なのを双方に説得して早期停戦を実現したことだと言われています。
湾岸戦争後は「支持率低下で再選が危ぶまれているパパ・ブッシュが副大統領候補に交代させる」「民主党のクリントン政権が国務長官への指名を検討している」などの噂が流れ、クリントン党政権の再選を阻止したい共和党内ではパウエル大将を大統領候補に擁立する動きが本格化しましたが暗殺を恐れる妻の反対で辞退しました。
そうして2代目ブッシュ政権で国務長官に就任しましたが、国際連合と協調する常識的な外交政策を推進しながらも対イスラムの大規模戦争を要求する軍事産業と結託するチェイニ―副大統領とラムズフェルド国防長官が閣議の席で同じくネオコンでアフリカ系のコリーザ・ライス大統領補佐官に論破させる策略を弄したため2代目ブッシュがライス補佐官の意見を重用するようになり、国務長官の席を引き渡すように辞任に追い込まれてアメリカが虚偽・捏造の開戦理由で他国を侵略するナチス・ドイツと同じ戦争犯罪国に堕ちることを阻止できなかったのです。しかし、日本のマスコミは元軍人のパウエル長官やリチャード・アーミテージ副長官を好戦的な強硬派、ライス補佐官を知的な穏健派と決めつけていました。せめてアフリカ系のバラク・オバマ政権の成立と業績を見届けられたことで満足して下さい。元同業者として心からの敬意を表し、弔銃3発
  1. 2021/10/22(金) 14:20:58|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ2438

舩岡施設OB会の入会資格は舩岡駐屯地に限らず全国各地の施設科部隊で定年退官・任期満了退職して会合に参加可能な場所に住んでいる元隊員たちなので自衛隊の歴史と連動して高齢化が進み、亡くなる会員も増えてきた。今日、茶山元3佐が葬儀に参列したのは部内で幹部候補生学校に入校するまで一緒だった新隊員後期課程の同期の佐伯元准尉だった。
「今時、70歳代で死ぬのは若死にだよな」「そうですね。自衛隊は定年してすぐに死ぬ者が多いって言われてますが、我が施設OB会では80歳を過ぎないと許されないですよ」葬儀が始まるまで茶山元3佐は3尉候補者出身の人事幹部の元2尉と小声で話していた。参列者には会員が多いが、弔辞は定年前に舩岡で一緒に勤務していた元中隊長が読むらしい。
「これは何宗の葬儀だい」「曹洞宗らしいですよ」葬儀が近づき頭を剃った坊主たちが6人も入場してきたのを見て茶山元3佐は元2尉に訊ねた。茶山家は浄土真宗なので葬儀には毛を生やした坊主が1人か2人だ。これまでも葬儀には何度も出ているが、曹洞宗王国の豊川で勤務していた頃にはOBを含めて年齢が若かったので経験がなく、東北に来てからは浄土真宗が多い。坊主たちは向い合って並べられた椅子に腰を下ろすと置いてある楽器のような佛具を膝に置いた。
「それでも真ん中の席が空いているからまだ主役は登場していないんだな」「主役は佐伯准尉でしょう」1科勤務が長い元2尉の頭は常識的に働くらしく、茶山元3佐が坊主だけに意識を向けていると葬儀全体で答えた。やはり葬儀の主役は亡くなった本人で、準主役は喪主だ。
チーン、チーン、チーン・・・「お導師さまの入場です」やがて坊主の1人が手鐘(しゅけい)を打ち鳴らし始めると斎場の若い女性の司会者が案内した。同時に後ろに黒の法衣を着た若い坊主=侍者を従えて緋色の法衣を着て頭に袈裟と同じ金襴の帽子(もうす)を被った坊主が杖をついて入場してきた。これが「お導師さま」らしい。導師は正面の曲禄の前に立って合掌すると数珠を揉んで頭を下げ、侍者が袈裟を尻に敷かないように持ち上げてから腰を下ろし、帽子をとって侍者に渡した。曹洞宗の葬儀では導師が歩いて式場にやってくる場面から再現するのだ。
「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」曹洞宗の葬儀の前半は死んだ者を出家入道させる得度式で、最初に手鐘を打った坊主が剃刀を振りながら剃髪の偈文を3回唱えた。そこからは導師が独り舞台の主役を演じていく。茶山元3佐は演劇のような演出に不謹慎ながら好奇心を持って見入ってしまった。
続いて後半に入ると導師と一緒に6人の坊主が手に手鐘と太鼓、シンバルのような鐃鈸(にょうはつ)を持って立ち上がり、チン・ドン・シャンと打ち鳴らした。これは火葬場へ移動する葬列の再現だが、葬儀とは思えない賑やかさだ。
「それではここで参列者を代表して佐伯勇三さまの自衛隊時代の中隊長であらされます近藤荘二さまより弔辞を賜りたいと思います。近藤さま、お願いします」賑やかな葬列が終わり、形式上の火葬で肉体が失くなる前に導師が引導を渡すと続いて弔辞になる。指名された近藤元3佐は息子らしい喪主に10度の敬礼をしてから焼香台の前に立てられているマイクに向かった。
「先任、70余年の人生をご苦労さまでした。つたない私が無事に中隊長の重責を果たすことができたのも先任の支えがあったればこそです。先任は若い頃から鬼軍曹ならぬ佛さん陸曹として若い隊員に慕われ、人材育成に貢献してこられましたが最後に一番手を煩わせたのが私だったのでしょう・・・退官後も先の大震災では舩岡施設OB会の一員として被災地に入り、操縦手がおらず放置されていた建設機材を借りて土木作業に当たるなど老兵の腕が落ちていないことを示されました・・・最後に」近藤元3佐は読み終わった弔辞を畳んで胸ポケットに納めると回り右をした。鳴らした踵の音をマイクが拾って場内に響いた。
「自衛隊のOBのみ起立を願います」近藤元3佐の指示に舩岡施設OB会の会員たちは黙って立ち上がった。それを確認した近藤元3佐はもう1度回れ右をして大きく息を吸うと背中を仰け反らせた。高齢化で背中が丸くなっているOBたちも久しぶりに不動の姿勢をとる。
「挙手の敬礼とする。気をつけーッ。佐伯准尉に対ーしッ、敬礼」近藤元3佐の号令でOBたちは一斉に右眉の前に掌を掲げた。本来であれば慰霊のラッパの「国の鎮め」を吹奏したいところだが現役時代のラッパ手は来ていなかった。
「近藤さま、有り難うございました。続いて焼香でございます」近藤元3佐が日付を唱えて弔辞を焼香台に置くと司会者の案内で喪主と遺族から焼香が始まった。茶山元3佐は立ち上がってポケットから数珠を取り出したが、先に焼香している喪主から遺族、親族たちの作法が同じことに気づいて注視してしまった。浄土真宗では本願寺派が1回、大谷派は2回と聞いているがそれだけだ。一方、曹洞宗では1回目は仰々しく顔の前で押し戴いて2回目はサッと振りかけている。
「モリヤくんは曹洞宗じゃあなかったかな」茶山元3佐は質問する相手に思い当たってしまった。
  1. 2021/10/22(金) 14:19:46|
  2. 夜の連続小説8
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10月21日・沖縄出身の将軍・長嶺亀助少将の命日

昭和50(1975)年の10月21日は陸上自衛隊の第1混成団長を務めた桑江良逢陸将補と共に沖縄県出身の将軍の長嶺亀助陸軍少将の命日です(初代沖縄地方連絡本部長だった又吉康助陸将補=陸軍士官学校55期は退官昇任なので加えません)。
野僧は那覇基地で勤務している時、小禄の居酒屋のカウンターで隣りになった小父さんから小禄出身の陸軍少将で、しかも航空士官だった人物として長嶺少将の話を詳しく聞き、毎度の悪癖で調べるようになりました。
長嶺少将は明治17(1884)年に小禄の当間(野僧が勤務していた頃は復帰後に取り壊された米軍住宅地跡で一面の空き地だった)の農家の孫として生まれました。小禄尋常小学校から那覇尋常高等小学校、旧制・沖縄第1中学校=現在の首里高校を卒業して第18期生として陸軍士官学校に入営すると生徒として日露戦争を体験し、終戦後の明治38(1905)年に修了しました。なお、敗戦時の陸軍大臣・阿南惟幾大将や「マレーの虎」・山下奉文大将、日独伊3国同盟を推進した大島浩中将は同期です。
修了後は福岡に在った歩兵第24連隊に配属されて翌年6月に歩兵少尉に任官しました。歩兵第24連隊から第28期生として陸軍大学校に入校し(同期にはA級戦犯で死刑になった板垣征四郎大将と木村兵太郎大将、沖縄第32軍司令官・牛島満大将、山下奉文大将、最後の陸軍大臣・下村定大将、帝国陸軍切っての英才・田中静壱大将などがいた)、修了後は大尉の中隊長として1年間だけ勤務しましたが、翌・大正6(1917)年に参謀本部への転属を命ぜられ、ロシア革命が勃発すると出張命令で現在の新疆ウィグルに2年間滞在しています。そうして翌年には関東軍司令部に転属になり、大正11(1922)年に少佐に昇任して大正13(1924)年に名古屋から移駐してきた歩兵第6連隊の大隊長になったのが、大空へテイクオフ(離陸)するランウェイ(滑走路)になりました。
まもなく歩兵第6連隊に飛行機が配備されるとこれを管理・運用する関東軍飛行隊長を兼務することになり、大正14(1925)年に兵科を歩兵から新設の航空に転換して飛行隊長専任になると航空中佐に昇任し、以降は航空部隊の建設に邁進したのです。昭和2(1927)年に下志津の陸軍飛行学校の教官に転属して昭和5(1930)年に航空大佐に昇任すると関東軍で創設した飛行第6連隊長として赴任し、翌年には関東軍飛行隊長として満州事変に参戦、翌年に飛行第6連隊長に復帰すると今度は所沢の陸軍飛行学校(後の航空士官学校)の教育部長や幹事などを歴任して陸軍の飛行教育を確立し、昭和9(1934)年に陸軍少将に昇任して航空産業を育成する陸軍航空本廠長に就任しました。ところがこの時点でも航空戦力の重要性を理解していなかった陸軍の人事で昭和11(1936)年に予備役編入になり、退役後は特殊軽金属会社の社長を勤めました。
これだけ多大な業績を残しながら陸軍大学校の同期たちのように大将、中将にさえなれなかったのは帝国陸軍の将官人事は派閥・人脈が物を言うので新規参入の航空科では引き上げ、押し上げる先人がいなかったのでしょう。この業績を顕彰するためにせめて郷土の那覇基地に銅像を建立したいものです。
  1. 2021/10/21(木) 14:01:23|
  2. 日記(暦)
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