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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月18日・国際博物館の日

5月18日は1977年のこの日からソビエト連邦の首都だったモスクワで開幕した第11回国際博物館会議が「博物館が社会に果たす役割を広く普及啓蒙するため活動期日」として「国際博物館の日」の制定を採択したことを記念する国際博物館の日です。ただし、博物館と言っても古い物や貴重な品を発掘・収集・分析・研究・保管・展示する一般的な博物館だけでなく科学館や美術館、動植物園に水族館なども含まれます。
また日本で開催されるようになったのは2002年からで無料開放や記念講演などが行われているようですが、一般市民には博物館や科学館、美術館よりも親しみがある動物園や水族館の日本動物園水族館協会は2009年から4月19日を語呂合わせで「飼育の日」にしているのであまり盛り上がってはいないようです。
野僧は幼い頃から歴史好きだったので岡崎城址の公園に行くと遊園地よりも天守閣に展示してある武具を見ていました。おまけに小学校2年生で大河ドラマ「天と地と」を見て以来、歴史の学習百科を読み耽るようになり、展示物の刀剣や槍、鎧兜・具足の形式や時代などを質問するため親は巡回している学芸員に任せて放置していました。
また野僧の矢作南小学校は伝統校だけに校内に地元で出土した石器や土器、動物の化石化した骨格、古い農具、石の加工道具などを展示した博物室と寄贈された動物の剥製と科学部が作成した解剖標本の科学室があり、校庭には北海道から沖縄までの植物を植えた植物園があって本格的な博物館や科学館、美術館に興味を持つように誘導していました。
そんな小学生時代を過ごしたため高校生になると学術的好奇心は全開になり、愛知県内の列車で行ける本で知った史跡はかなり回りました。そうして大学を中退して航空自衛隊に入るといきなり全国各地に行動範囲が大きく開がり、独身時代はデートで、妻子持ちになってからは家族旅行で赴任する先々の博物館、科学館、美術館、動物園、水族館を巡るようになったのです。特に亡き妻は野僧の沖縄史の研究に興味を持って協力してくれたので冷房が効いた県立博物館と市立図書館がデートの定番になり、八重山の竹富島にある日本最南端の寺院・貴宝院の史料館にも行きました。その後、奈良基地の幹部候補生学校では法衣や作務衣を着て威儀細を掛けていれば入場料が要らないため奈良や京都の寺を巡り歩き、春日基地では愚息との父子家庭の身軽さで九州を何周も回って各県の博物館と美術館、科学館、動物園、水族館を完全制覇しました。浜松基地では子供の年齢から動物園と水族館が中心になりましたが、目黒基地の幹部学校に入校中は東京都内の博物館と美術館を見学しながら鎌倉の寺院にも足を延ばしました。そして青森県車力分屯基地で勤務している間は夏と冬の休暇と連休を使って北海道と東北を巡り、青森では縄文文化と棟方志功さん、岩手では民俗学と宮沢賢治さん、山形では東北随一の人物群と文化財に触れて感激し、旭川市の川村カ子ト記念館で飯田線の敷設工事に参加した資料を見て深く頭(こうべ)を垂れました。しかし、現在では個人が趣味で収集したコレクションを展示した美術館や博物館などが乱立しているようですが、そのような個人経営の博物館や美術館などもこの記念日の対象になるのでしょうか。小庵もサファリパーク=動物園になっています。
  1. 2024/05/17(金) 11:02:22|
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5月17日・イギリス軍のチャスタイズ作戦でライン川のダムが破壊された。

ウクライナ軍の反転攻勢で苦境に陥っていたロシア軍が2023年6月6日にウクライナ南部のドニエプル川の巨大ダムを破壊して下流域では大規模な水害が発生させましたが、1943年の明日5月17日にイギリス軍もライン川のナチス・ドイツの工業地帯への取水系統を破壊し、併せて下流域を水害で壊滅させることを目的にダムを爆撃するチャスタイズ作戦を実施しました。
イギリス軍は当初、ダム湖に魚雷を投下してダムを破壊する計画でしたがナチス・ドイツ軍は艦船が停泊中に展張する防護ネットを設置していたため断念、続いて10トン爆弾を投下して破壊することを検討しましたが開発中の重爆撃機・ウィンザーでも最大搭載重量は3.63トンだったので却下、そこで採用したのが高速度で回転させて投下することで地上や水面を跳ねながら直進し、ダム本体に衝突した後に水没して爆発するドラム缶型のバウンシング・ボンブ=跳躍爆弾でした。
作戦はアルプス山脈の雪解けでダムの湖水が増える5月とされ、攻撃目標としてはライン川からルール工業地帯に水を供給しているメーネダム、ゾルぺダム、エンペネダムと全長27キロのエーダーゼー貯水湖を作っているエーデルダムが選ばれました。
攻撃はアフロ・ランカスター爆撃機を第1編隊、第2編隊、第3編隊に各3機で計9機に予備編隊として4機ずつの2個隊で編成し、ナチス・ドイツ軍のレーダー網を避けるため霧の中を高度50メートル以下の超低空を飛行して第1波の第1編隊と第2編隊がメーネダムを攻撃し、ダムの中央部を破壊することに成功しました。続いて第2波として第3編隊がエーデルダムに向かいこちらもダムの中央部を破壊しました。そして予備編隊がゾルぺダムとエンペネダムに第3波を加えましたが霧が濃くなったためダム湖に投下することには成功したもののダムに命中させて破壊することはできませんでした。
また跳躍爆弾が4200キロ(炸薬量3000キロ)と重く、使用するアブロ・ランカスター爆撃機の標準搭載量6400キロでは1発しか積めないので重量軽減のため機銃や爆弾倉の扉まで取り外して2発を積んだ結果、固定が不十分になって高射砲に対する回避行動が困難になり出撃した133人中53人が戦死しました。
この攻撃でメーネダムとエーデルダムが決壊して3億3千万トンの水が80キロにわたって氾濫して東部戦線から収監されていたウクライナ軍捕虜を含む1249名が犠牲になり、家畜6500頭が死亡し、3000ヘクタールの農地が耕作不能になりました。
戦争法が共通の理念にしている文民保護と戦闘地域の局限に反する意図的な加害としてはかなり悪質ですが第1次世界大戦の戦勝国であるイギリスはフランス、イタリアと共に大戦後の空戦に関する国際法の制定を求める機運に抵抗して現在も続く無法状態を造り出した首謀者であり、第2次世界大戦においてはこの作戦の後、都市部への無差別爆撃を極めて非人道的な方法で実施しましたから(それに加担したカーチス・ルメイ大将が日本の都市空襲を指揮した)この程度は朝飯前であり、ルールがなければ戦闘手段に制約を受けないから空戦に関する国際法を阻止したのです。
  1. 2024/05/16(木) 14:10:55|
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5月15日・イギリスの海運会社の提督・ヘイズ船長の命日

第2次世界大戦中の1941年の5月15日は第1次世界大戦での戦時徴用を含む25年間にわたりイギリスの大手海運会社ホワイト・スター・ラインの大西洋航路の大型船の船長として指揮しながら一度も損傷を受けることなく無事に部隊や乗客を運び続け、予備役士官として参戦していた1918年5月12日にはイギリス海峡でドイツ軍の潜水艦U103の雷撃を受けながら見事に回避した後、そのまま突進して体当たりで撃沈する武勲を上げてイギリス軍から殊勲勲章を授与され、ナイト(騎士)に叙せられて予備役の提督になったサー・バートラム・フォックス・ヘイズ船長の命日です。生涯独身の77歳でした。
ヘイズ船長は1864年にグレートブリテン島の中央部西岸の広大な干拓地のマージサット州バーゲンヘッドで生まれました。4歳の時、父がグール蒸気船会社の事務長兼社長秘書になったためグレートブリテン島でもやや北部東岸のヨークシャーのグールに転居して海を眺め潮風を浴びながら育ちました。14歳で父と同じ会社に就職しますが体内には海の男の血が醸成されていたらしく1880年に16歳でリバプールの帆船ラオメ号に少年見習い船員として乗り組むと天賦の才を発揮して1887年には2等航海士になり、チリのタラチュアノからグールまで穀物を運搬するバーグ型帆船に乗務しました。1889年には航海の修士号を取得して1897年にはエクストラ・マスターの資格を取得しました。この資格を取得したことでイギリスの後にホワイト・スター・ラインになる大手海運会社イスメイ・イムリー・アンド・カンパニーに採用されて1881年に就役した蒸気貨客船コプト号に乗務しました。
やがてマスターに昇任すると姉妹船ゲルマン号と共に大西洋横断航路に就役していた大型客船ブリタニック号の船長に就任しました。すると1899年10月から南アフリカのゴールド・ラッシュで大量に流入したイギリスの下層民がオランダの植民地だったボーア自治区の非正規軍と民兵と共謀して農場や鉱山、漁港、市場などを攻撃した第2次ボーア戦争が勃発したためイギリス本国から派遣軍を輸送することになり、3年間で37000人を乗船させた軍功で輸送勲章を授与されました。
その後はホワイト・スター・ライン社の船長として大型客船チュートン号、ゲルマン号、エスビック号、アラビア号、ローレンティック号、アドリア海号に乗務して大西洋を何度も往復して経験を重ね、1914年8月4日にイギリスが第1次世界大戦に参戦するとキュナード社のルシタニア号がUボートに撃沈されて輸送力不足に陥ったイギリス軍によってホワイト・スター・ライン社では唯一の大型客船オリンピック号も戦時徴用を命じられるとヘイズ船長の指揮によるインドへの数万人単位の派遣部隊の往復輸送が検討されましたが、それよりも優先すべき懸案としてカナダ軍の義勇派遣とルシタニア号の撃沈による自国民の犠牲を口実に参戦を決定したアメリカ軍の輸送を担当することになったのです。そんな中でU103を撃沈する武勲を上げました。
第1次世界大戦後は1924年に60歳で引退しましたが、リバプールの自宅で亡くなるまで船乗りに育ったグールを愛し、商船に関する提言や支援活動を続けました。
  1. 2024/05/15(水) 10:16:13|
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5月14日・日本のピアノ練習曲の代名詞・バイエルの命日

1863年の5月14日は日本においては定番以上の代名詞になっているピアノ練習曲を編曲したフェルディナンド・バイエルさんの命日です。56歳でした。
日本では明治初期の西洋音楽の受け入れに当たって招聘された後に東京音楽学校の教授になるアメリカ人音楽家のルーサー・ホワイトニング・メーソンさんが「バイエルピアノ教則本」を紹介したことで東京音楽学校に連なるピアノの教育者たちの基本的教材本になって日本全国で師から弟子へと継承されていったのです。
現在も日本のピアノ教室ではショパンさんやメンデルスゾーンさんなどのピアノ曲を習い始める前にはバイエルさんの教則本の初心者=子供向けの赤表紙と次の段階の黄表紙を使っていて段階的に難易度が上がっていく一連番号で技量を判定しているだけでなく小学校と幼稚園の教員や保育士の採用試験の課題曲にされていますが、海外では多くの作曲家が手掛けた練習曲やピアノ曲の小品などを教育者が選んでいるようです。
確かにドイツ人のバイエルさんの教則本では収録されている106曲と幾つかの練習曲に名称が付されておらず一連の番号だけなので演奏を楽しむ意識は養われず、単に技量の向上を図っているだけのようでした。実際、野僧のピアノの先生はバイエルさんと並行してフランス人のエルネスト・ヴァン・ド・ヴェルトさんが作曲したフランスではピアノ練習曲の定番になっているメトード・ローズ(ヴェルトさんのバイオリン練習曲集はプチ・パガニーニ)で身につけた技量でより高度な曲を演奏できる喜びを味合わせていました。
そんなバイエルさんは日本での教則本を作った音楽教育者と言うイメージとは異なり、ドイツでは大衆向けの幻想曲や室内軽音楽、愛国歌を大量に発表した流行作曲家であり、ヨーロッパの音楽学界では軽視されていて熱心な研究者はなく出生地はドイツ中部のクヴェアフルトと判明していても生年や死没地も特定されていません。それでも近年になって日本の研究者が戸籍や教会の洗礼記録から1806年出生と発表しています。家系としては父が仕立て職人の親方で母は教会のオルガニストでした。母の祖父も教会の声楽家兼オルガニストなので音楽の才能は母の血統のようです。
12歳で近傍のライプツィヒの神学校に入学させられますがここでは讃美歌=声楽とオルガン演奏に取り組み、16歳で父が死亡したのを受けて音楽専攻に転換しました。20歳代には作曲家を目指しながらもピアノ演奏で生計を立てようとしますが行き詰ってしまい28歳で結婚したのを機にピアノの教育者になると現在もある音楽専門出版社のショット社の専属作曲家に採用されました。このショット社で大衆向けの軽音楽や小品を大量に作曲しながら1850年8月30日に発表したのがドイツの民謡やオペラなどを改作=編曲した「バイエルピアノ教則本」です。
バイエルさんの教則本の問題点としては大半が右手でメロディー、左手は伴奏と役割が固定されていることや中心音からの展開と調整=調法の限界や奏法の偏りが指摘されています。その意味では野僧のピアノの先生がメトロ・ローズと並行させたのは大正解でしたが、親にピアノを買う気がなかったので無駄に終わりました。
  1. 2024/05/14(火) 11:34:05|
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5月14日・富永俊助中尉が空母・エンタープライズを大破させた。

昭和20(1945)年の明日5月14日に神風(しんぷー)特別攻撃隊・第6筑波隊の隊長で百田直樹さん原作の小説と岡田准一さん主演の映画の「永遠のゼロ」の主人公・宮部久蔵少尉のモデルと言われている富安俊助中尉が描かれているのと同じ突入方法で太平洋方面の戦闘で15回の攻撃で大小の損害を受けながら至短時間の修理で戦列復帰を繰り返したことから「ビッグE(偉大なるE)」の仇名で呼ばれていた航空母艦エンタープライズに終戦まで戦線離脱する致命傷寸前の大損害を与えました。
富安中尉は大正11(1922)年に長崎で生まれましたが幼い頃から学業優秀、身体堅固で昭和18(1943)年3月に早稲田大学経済学部を卒業して満州で働いていた9月に召集令状が届いて土浦航空隊に入営したのです(ここは「永遠のゼロ」とは違う)。
筑波航空隊で零式艦上戦闘機の搭乗員としての訓練を受けますが神風特別攻撃隊が始まったのは昭和19(1944)年10月からなので出征学徒のような特攻要員としての急速練成ではなく通常の教育・訓練だったはずです。昭和19(1944)年5月に少尉に任官して松山航空隊(まだ紫電改ではない)や岡崎航空隊で訓練を受けると持ち前の明晰な頭脳と並外れた体力を発揮して操縦技量を急速に向上させて中尉に昇任してからは筑波航空隊に戻って出征学徒の教育に当たりました(ここは「永遠のゼロ」と重なる)。
そんな冨永中尉は昭和20(1945)年3月28日に神風特別攻撃隊の隊長要員の指名を受けて5月14日の午前5時30分に教え子を含む26機を率いて出撃したのですが搭乗した零式艦上戦闘機52型には500キロ爆弾が装着されていたのです。通常の250キロ爆弾であれば容量300リットル超の増槽タンクの重量と大差ないのですが500キロ爆弾となると離陸速度まで加速するにも不安があり、上昇して安定飛行に入るまで気を抜けない綱渡りの出撃でした。それでも26機は無事に編隊を組んで沖縄本島を包囲しているアメリカ艦隊に向かいましたが上空で待ち構えていたアメリカ海軍のF6Fヘルキャット艦上戦闘機に19機が撃墜され、突入を開始した6機もVT信管(近接作動信管)を装着した艦砲射撃で全滅して雲の中に隠れていた富安中尉だけになってしまいました。
ここからが「永遠のゼロ」の実話版で上空からエンタープライズの位置を確認していた富安中尉は500キロ爆弾の荷重を計算しながら緩やかに降下すると防御態勢として艦尾を向けて丸出しになった飛行甲板に向かって接近し、護衛の艦艇も加わった激しい対空砲火を巧みにかわしながら急上昇すると背面飛行で旋回して後部エレベーターに狙いを定めてほぼ垂直に突入しました。これによってエレベーターは120メートル上空まで吹き飛ばされ、爆弾は飛行甲板の下の階の作業甲板を突き抜けて艦底に達して爆発したのです。火災は過去の損害で熟練していた乗員の消火によって30分で鎮火して爆弾や燃料への誘爆も防いだので撃沈は免れましたが、舷側に空いた大穴から浸水していて修理は1945年8月31日まで掛かり、ドック内で日本の降伏受託の報を聞くことになりました。
艦内で発見された冨永中尉の遺骸は13名のアメリカ軍の戦死者と同じく海軍軍人としての儀礼を尽くして水葬され、機体の破片と遺品は後に遺族に手渡されました。
  1. 2024/05/13(月) 10:39:07|
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