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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月1日・アメリカ特許庁認定のドクター・ペッパーの発売日

1885年の明日12月1日はアメリカ特許庁が世界初の瓶詰の炭酸飲料として認定しているドクター・ペッパーの発売日です。
野僧が沖縄に赴任した昭和57(1982)年は日本に返還されて十年目で街中にはまだ復帰前にシマンチュウ=沖縄県民が慣れ親しんでいたアメリカ製食品が溢れていて、中でもジュースの自動販売機には日本味とアメリカ味のコーク=コカ・コーラやペプシ・コーラ2種類ずつと一緒にドクター・ペッパーとルートビアと言う本土では見なかった銘柄の黒っぽい炭酸飲料が並んでいました(当時は瓶だったの中身が見えた)。
そこで基地のBX(売店)でも売っているのを見つけて試し飲みしたのですが、どちらも日本人味のコークやペプシ・コーラに比べて癖が強く=薬臭く、強いて言えば瓶が大きい(500ml)ので飲み応えがありました。実際、先輩たちは我々を自動販売機に買いに行かせる時、ドクター・ペッパーを「味より量」と呼んでいました。
そんなドクター・ペッパーは1880年代にアメリカのテキサス州ウェーコのドラッグ・ストアで働いていたイギリスの大学に留学し、テキサス大学医学部で薬剤師の資格を取得したチャールズ・コーティス・アルダートンさんが店内で客に出している清涼飲料の売り上げが落ちていることを店主に相談されて、訊き取り調査するとこれまでの伝統的なサルサパリラ(ルートビアを自家製する時に用いることが多い)やレモン、バニラなどの香り、味覚、飲料感が飽きられていることが判明して新たな風味を研究して最終的にリン酸と組み合わせた23種類の原料を混合して炭酸水に配合することで落ち着きました(ドクター・ペッパーはコークと同じく成分は非公開です。ペプシ・コーラは公表しています)。
こうして1885年12月1日に発売を開始したとされていますが、誰も記録を残していないためアメリカ特許庁が何を根拠に認定しているのかは不明です(2009年にテキサス州の骨董店で製法とレシピを記したノートが発見されましたが内容は非公開です)。ちなみにコークの発売開始は半年後の1886年5月8日、ペプシ・コーラは1893年です。ルートビアも1893年ですがこちらは前述のサルサパリを用いて自家製されていたのを1866年に薬剤師のチャールズ・エルマー・ハイアーさんが成分を確定して広まっていたのが30年近く経過して商品化されたのです。
またコークとペプシ・コーラはコカの葉を主成分としていますが、ドクター・ペッパーとルートビアには用いられておらず、そのため黒っぽい見た目や薬草のような味、炭酸による飲料感は非常に似ていてもアメリカでは「コーラ」と名乗ることはできません。
これらの癖がある炭酸飲料は1920年1月17日から1933年12月5日までの禁酒法の時代にビールの喉への刺激が忘れがたい男たちの間で広まりましたが、ドクター・ペッパーについては「女性向きの味ではない」と言われていました。実際、父親の会社がカナダドライと営業提携を結んでいたため委託販売していたドクター・ペッパーを持ち帰ったことがありましたが、妹が珍しく「不味い」と言ったので我が家の炭酸清涼飲料はジンジャエールになりました。野僧は嫌いではありませんでしたが。
  1. 2023/11/30(木) 14:58:59|
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11月30日・千島艦事件=水雷砲艦・千島が衝突事故で沈没した。

明治24(1892)年の明日11月30日に日本海軍の手でフランスから神戸港に回航していた水雷砲艦(正式な艦種指定は到着後の予定だった)・千島が愛媛県和気郡沖の瀬戸内海でイギリスのP&O社の商船と衝突して両方が沈没する事故が発生しました。
全長71メートル、排水量750トンの水雷砲艦・千島は明治19(1886)年にフランスで完成して日本海軍軍人7名と実習の生徒1名にフランス人乗組員79名とアラブ人窯焚き夫9名で日本に回航中にシンガポールを出航後の12月中旬に消息を絶った3本マストバーグ型の防護巡洋艦(同前)・畝傍の保険金でイギリスに代用の巡洋艦・千代田を発注したためフランス側の造船所が残高回収のために強引に建造した曰く付きの艦でした。
それでも水雷砲艦・千島の航海は順調で4月18日にフランスを出航してアレクサンドリア、スエズ運河を通ってシンガポールに寄港して11月24日には長崎で祖国の土を踏み、後は勝手知った日本の内海・瀬戸内海を横切って神戸港に向かうだけでしたが、そこで水雷砲艦・千島の右舷中央部にイギリスの商船・ラヴェンナ号の船首が突っ込む形で衝突したため千島は沈没して90名の乗員のうち74名が死亡しました。
この事態に第2次伊藤博文内閣はイギリスに留学して法廷弁護士の資格を取得していた岡村輝彦弁護士を代理人として安政の日英修好通商条約に基づいて在日本イギリス領事館に損害賠償85万ドルを請求して提訴するとラヴェンナ号も同様に沈没したためP&O社も10万ドルを請求する反訴を起こしたのです。
領事館長による裁判は法と秩序を尊重するイギリス紳士らしく日本側の全面勝訴になりましたが、P&O社側が上海のイギリス高等領事裁判所に控訴すると品性下劣な中国人の犯罪を見飽きていた高等領事裁判長はP&O側を逆転全面勝訴にしました。すると国力の進展を実感して国家意識が高揚していた国民の間で不満の声が起こり、国会でも衆議院で対外強硬派が即時条約改定を要求して伊藤内閣の弱腰を指弾するようになったため2度の解散で事態の鎮静化を図ったもののかえって不満が拡散してしまってロンドンのイギリス枢密院に上告することにしました。
結局、岡倉弁護士がイギリスに出張して留学中の人脈とイギリス仕込みの法理論を発揮して日清戦争中の明治28(1985)年に上海高等領事裁判所の判決を破棄して在日本領事館への差し戻し判決が下り、イギリス外務省の仲介によって和解が成立したのです。
日本が安政年間に徳川幕府がアメリカやヨーロッパ列強と結んだ修好通商和親条約の領事に裁判権を与えた治外法権が改定されたのは日清戦争開戦直前の明治27(1894)年ですが、この裁判を巡る岡村弁護士の活躍によって日本が先進的な法治国家であることが認識されたのも大きな理由でしょう(幕末の尊皇攘夷テロでも幕府側は国内法規と判例に基づく処罰を主張してインドや中国と同一視していたアメリカやヨーロッパ諸国に意外な近代性を認識させていた)。
また日本海軍はフランス製の艦艇の性能(水雷砲艦・千島も21ノットの要求速度が19ノットしか出なかった)と強度に不安を持ち発注を止めました。
  1. 2023/11/29(水) 19:24:54|
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11月26日・陸上自衛隊の木下藤吉郎・渡部敬太郎陸将の命日

1997年の11月26日は小賢しい猿知恵が回りそうな風貌と口八丁手八丁で実現させる手腕から「陸上自衛隊の木下藤吉郎」と仇名されて制服組のトップ=武家の頭領である統合幕僚会議議長にまで昇り詰めた渡部(わたなべ)敬太郎陸将の命日です。
渡部陸将は昭和2(1927)年1月(=昭和元年と最後の64年は1週間しかなかった)に生まれた陸海空で初の幕僚長でした。仙台陸軍幼年学校に入営して陸軍予科士官学校を経て昭和20(1945)年に陸軍士官学校60期に入校しましたが9月2日の敗戦で軍歴は終了しました。ところが塞翁が馬なのか任官前に軍人としての身分を失ったことが幸いして公職追放にはならず、昭和25(1950)年に創設された警察予備隊に2等警査=2等陸士=足軽として入隊することができました。
そこからは木下藤吉郎のような立身出世を重ねて昭和40(1965)年1月には2等陸佐に昇任すると昭和44(1969)年9月に在ソビエト連邦防衛駐在官としてモスクワへ赴任しました。この頃のソビエト連邦は1964年10月14日に「スターリン批判」のフルシチョフ第1書記が解任されてブレジネフ書記長を中心とする集団指導体制が「スターリン回帰」を標榜していた時期で渡部2佐はソビエト連邦と共産主義の実態を現地で確認して日本への侵略を防衛するだけでなく波及を阻止することを決意することになりました。またソビエト連邦軍の軍人から「自衛官は軍人ではない」と言われたことを侮辱と受け止めて敵愾心も抱くようになったようです。
防衛駐在官に在任中の昭和45(1970)年1月には1等陸佐に昇任して帰国後の昭和47(1972)年11月からは陸上自衛隊幹部学校の研究要員、陸上幕僚監部3部防衛班長を経て新潟県の高田駐屯地司令を兼務する第2普通科連隊長と城主になり、昭和51(1976)年に陸将補に昇任して西部方面隊幕僚副長、陸上幕僚幹部人事部長になると昭和54(1979)年7月に陸将に昇任して第10師団長に就任したのです。
第10師団長としては小賢しい猿知恵を発揮して「体育訓練は戦闘服でなければ戦闘の役に立たない」と銃剣道と持続走を乙武装=半長靴で実施させることを命じたのです。このため豊川駐屯地の外周走路では第10師団の第10特科連隊の隊員はジャージに半長靴を履いて走り、中部方面隊第4施設団の第6施設群の隊員はこれまで通りジョギングシューズだったのを見ました。この結果、第10師団の隊員、特に両競技の強化選手には膝の故障やアキレス腱断絶が続発して「緩衝材が入っていない半長靴は体育訓練には向かない」ことを多くの犠牲を払って確認したのです。それにしても実戦どころか警備にも役に立たない銃剣道(警備用具は刑法の威力均衡原則が適用されるので攻撃用の長い木銃は過剰防衛になる可能性が高い)に疑問を抱くことなく乙武装での実施を命じたのも所詮は渡部陸将の猿知恵であって後に北部方面総監や陸上幕僚長として弄した派手なパフォーマンスも太閤秀吉的な虚仮脅しだったように思えてしまいます。
野僧が航空自衛隊に入っていた昭和59(1984)年には統合幕僚会議議長になりましたが海空自衛隊には影響を与えることなく昭和61(1986)年に退役しました。
  1. 2023/11/25(土) 13:27:52|
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11月24日・占領下の青年の犯罪=光クラブの社長が自死した。

昭和24(1949)年の11月24日の午後11時48分55秒に戦前の日本的倫理が崩壊し、アメリカ式自由を押しつけられた占領下の青年の犯罪としては異色な事件、高利貸し「光クラブ」を経営していた現役東京大学生の藤本晃嗣社長が腹毒自死しました。
藤本社長は昭和8(1923)年に医師の5男として生まれました。父親は昭和21(1946)年から事件後の昭和30(1955)年まで千葉県木更津市長を務めました。旧制・木更津中学校から第1高等学校を経て東京帝国大学法学部に進学しましたが、学徒出征で陸軍主計少尉に任官して北海道旭川の北部第178部隊の糧秣=給食担当士官として赴任しました。藤本社長の死後に事件の経緯を取材したマスコミの真偽不明(当時は陸軍を指弾すれば読者にウケた)の記事によると訓練中に第1高等学校の同級生が上官の私的制裁によって死亡するのを目撃しながら隠蔽を命ぜられ、敗戦後には上官の物資の横領に加担するように強要されましたが実行前に発覚したため罪を1人で被ると事情聴取では警察官から拷問を受け、懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の判決を受けたことになっています。
これらの経験によって社会に対する深い不信と強い怨嗟を抱くようになったと言うのがマスコミの分析ですが、裁判を終えて帰京した山崎社長は東京大学に復学して「全科目で優を取る」と言う目標を立てて猛勉強に励んでいます。その時、勉強や睡眠、女性との性行為まで細かく分単位で記録して、それが自分にとって有益か否かを自己評価するようになり、それは死ぬまで続けていました。
そんな山崎社長が心を許した数少ない友人の東京医科大学生と開業したのが「光クラブ」でそれまでの借金を恥じる風潮の中で広告と派手な張り紙で投資と利用を呼びかけ、アメリカの銀行経営者の勧告を受けて占領軍が命じていた低金利政策で1.83パーセントだった年利(現在の0に等しい超低金利と比べればかなり高いが戦前に比べて極めて低い金利だった)に対して光クラブでは18パーセントの高金利を保証し、それ以上の金利で銀行の貸し渋りに苦しんでいた中小企業や個人商店に貸し付けていたのです。
借りる側も山崎社長が従業員として雇った学生服を着た現役の東京大学の学生たちが公証人を立てて公正証書を作成している光景に完全に信用してしまい開業3カ月で1000万円=現在の10億円の利益を上げ、4ヵ月後には株式会社化しましたが昭和24(1949)年7月に山崎社長が高金利を物価統制令違反として逮捕されると客足は一気に遠のき、企業名を変更して資金集めを再開しても負債は膨らむ一方でこの日を迎えたのでした。
藤本社長の遺書は「1、御注意、検死前に死体に手を触れること。法令の規定するところなれば京橋警察署にただちに通知し、検死後、法に基づき解剖すべし。死因は毒物。青酸カリ(と称し入手したるものなれど、渡したる者が本当のことをいったかは確かめられたし)。死体はモルモットと共に焼却すべし。灰と骨は肥料として農家に売却すること(そこから生えた木が金のなる木か、金を吸う木なら結構)。2、望みつつ 心やすけし 散る紅葉 理知の生命の しるしありけり=辞世。3(省略)。4、貸借法すべて清算借り=青酸カリ自殺。晃嗣。午後一一時四八分五五秒呑む。午後一一時五九分」と言うものでした。
  1. 2023/11/24(金) 20:13:35|
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11月24日・初めてアウストラロ・ピテクスの全身骨格が発見された。

1974年の明日11月24日にアフリカのエチオピアで現在では人類=ホモ・サピエンスとチンパンジー=パン・トロクロディテスの分岐点=共通の祖先と推定されているアウストラロ・ピテクス=猿人の全身骨格が初めて発見されて「ルーシー」と命名されました。
この名前の由来は骨盤の形状から女性=雌と推定されていることと国際アファール調査隊の宿営地での祝宴の間、ビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」がカセット・テープで流れ続けていたことによります。
国際アファール調査隊は1972年にエチオピアのアワッシュ川流域で太古の地層が露出しているハダール累層を発見したフランスの地質学者のモーリス・タイーブさんが世界の関係する学界に呼びかけてアメリカの人類学者のドナルド・ジョハンソン博士を始めイギリスの考古学者のメアリ・リーキー博士、フランスの古生物学者のイヴ・コパン博士などの壮々たるメンバーが共同研究者として参集したほかアメリカ人4人とフランス人7人の助手を加えて1973年の秋から現地で調査を開始しました。
第1次調査の期間終了が近づいた1973年11月にジョハンソン博士が脛骨の上端を発見し、続いて大腿骨の下端が発見されたため両者を接合すると明らかに直立歩行していた形状でした。こうして期待を沸き立たせて翌年の第2次調査に入ると今度は顎の骨を発見しましたが、それ以外は新たな発見もなく再び期間終了が近づいて来ました。
そんな11月24日に調査記録の更新作業をするつもりだったジョハンソン博士を化石の研究をしているトム・グレイ助手が誘ってアワッシュ川の第162調査地点に出かけました。ところが炎天下の2時間の発掘調査でも得る物はなく帰ることにした時、単なる思いつきで過去に2回ほど調査した小さな谷川に遠回りしてみたのです。そこは第1次調査で脛骨上部と大腿骨下部を発見した場所から2・5キロほど離れていて特に学術的好奇心をそそるような気配はなく単に川面の涼しい風に当たるつもりだったのかも知れません。実際、ジョハンソン博士は車内から川底を覗いただけでしたが斜面で上腕骨の断片を発見したのです。そこで下車して2人で発掘すると後頭部、脊椎骨、骨盤、肋骨、顎骨が次々と発見されて午後からは全員で調査を再開して3週間で100数点の全身の40パーセントに当たる骨格を発掘しました。さらに発見した地層の放射年代測定法によって318万年前の化石と推定され、脳の容量はチンパンジー並みでも下半身は2足歩行していたことが明らかなため、これまでの「大脳の発達によって重量が増したため脊椎で垂直に支えるようになったことが2足歩行を始めた理由」とする定説に疑問符を付けました。
その後、ルーシーの年齢や死因まで推理が及び骨の状態から成長は止まっているものの老化は始まっていないので25歳から30歳と推定され(ただし、頭蓋骨と足が発見されていないため「身長は140センチ程度」としか推定できない)、獣に襲われた負傷の痕跡が見られないため川辺で病気や水難事故で死亡してすぐに泥に埋もれたと空想が膨らみ、上腕骨の折れ方から「猿も木から落ちたのではないか」と言う新説が2016年にイギリスの権威ある学術誌・ネイチャーで発表されています。
  1. 2023/11/23(木) 15:13:21|
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