アメリカ空軍に学ぶ
私はアメリカ空軍から軍人のイロハを学びました。
その頃、つきあっていた彼女の両親は共にアメリカ空軍の軍人で、官舎に行くと男の子供がいないこともあって少佐の母は軍の存在意義や戦争の目的、国際軍事情勢などを、1等軍曹の父が下士官のあるべき姿などを熱く語り、英語力の向上と同時進行で多くを学ぶことができました。

※父が語ってくれたアメリカ空軍の新兵教育隊の校則=資料もくれた
1、合衆国の任務遂行(24時間)
2、行動の優先順位
(1)国家、(2)任務、(3)部隊、(4)同僚、(5)家族、(6)自分
3、任務は国家、国民、自由社会を守ること
4、カミの前に公正であれ、国家の前に公正であれ、同僚の前に公正であれ・・・(中略)・・・他人に迷惑をかけるな。誇りを持って敬礼せよ。
※父が語ってくれた敬礼教育(私の人種問題に関する質問への答え)
白人の兵士が黒人の士官にワザと欠礼をした。
すると士官は「私が誰であるかは問題ではない。合衆国が与えてこの階級に君は敬礼する義務がある」と言って敬礼をさせた。
※ついでに語ってくれた敬礼に関する標語
You must salute all moving and fixed objects
=君は動いている全ての物と据えつけてある物に敬礼しなければならない。
When in doubt salute =上官か疑わしい場合は敬礼せよ。
※父が語ってくれた下士官の資質(NCO Leadership)=資料もくれた
Integrity(高潔)、 Knowkedge(知識)、 Courage(度胸)、 Decisiveness(決断)、 Dependability(信頼)、 Intiative(率先)、Tact(機転)、 Justice(公正)、 Enthusiasm(熱意)、 Bearing(威厳)、 Endurance(忍耐)、 Unselfishness(無私)、
Loyalty(忠誠)、 Judgment(判断)
※父が語ってくれた「空軍とは」
空軍にはOfficer AirForce(士官の空軍)とSoldier AirForce(兵士の空軍)がある。
士官の空軍は業務の企画と管理を任務とし、兵士の空軍は実務を行う。
Diamond Sargent=特務曹長は兵士の空軍のトップである。
※母が語ってくれた「USAF 3SHARP」
LOOK SHARP (身嗜み良く)
BE SHARP (ぼんやりするな)
ACT SHARP(機敏に行動せよ)
※母が語ってくれた「空軍とは」
Army, Navy, MarineCorps are thinking almost, everytinme kill, kill, kill.
But AirForce is ・・・・
=陸軍、海軍、海兵隊は常に、いつも敵を殺すことしか考えていない。しかし、空軍は
技術者としての仕事を遂行するだけだ。パイロットもTarget(目標)に向かってTrigger(引金)を引くだけで、敵を殺すと言う意識はない。
※両親が語ってくれたMilitary slang (ミリタリー スラング)
「死」の隠語
第1次世界大戦当時
He has gone West =彼は(天国がある)西へ逝った。
第2次世界大戦当時
He has it. =彼はそれ(死)を持った。
朝鮮戦争当時
He bought the Farm =彼はついに(埋葬する)農場を買ったよ。
ベトナム戦争当時
He got greased. =彼も(腐敗防止用の)グリスを塗られたよ。
陰口の呼び名
陸軍(Army) Doggy =犬ころ・犬が土を掘る動作で兵士が壕を掘ることを表す。
海軍(Navy) Squid =烏賊・聖書では悪魔の手先のような扱いをされている。
空軍(AirForce) Zoomies =「バーン」と言うジェットの衝撃音
海兵隊(MarineCorps) JarHead =壺の頭部・海兵隊刈りの頭を上から見た形
沿岸警備隊(CoastGuard) BathTab =浴槽・外洋に出られないため
※これを使ったモリノ2尉作の馬鹿受けジョーク(ただし英語で)
三沢基地の犬舎で「空軍の犬はZoomiesと鳴くのかと思ってたが・・・」
横田基地の犬舎で「陸軍に犬はいないだろう、奴らがDoggyなんだから・・・」
岩国基地の犬舎で「海兵隊なのに犬の頭はJarHeeadじゃあないなァ・・・」
※両親が語ってくれたミリタリー小噺
小隊長「トムとジャックよ。お前たちは何故、軍隊に入隊したんだ?」
トム 「はい、小隊長殿。私には妻はいないし、戦争が好きだから入隊しました」
ジャック「はい、小隊長殿。私には愛する妻がいますし、平和を愛するから入隊しまし
た」
※イキナリ英語教育
初めて嘉手納基地の米軍官舎へ遊びに行った時、「アイ アム ジャパン エアホース(日本空軍)」と自己紹介すると父はいきなり両手で筒を作り、息を吹き込みました。
私が呆気にとられて彼女と顔を見合わせると、父は「これがエア・ホース(空気の管)だ」と言ってニヤリと笑いました。「エアフォース」いきなり父親から発音の教育を受ける羽目になったのでした。
「サージェント」「イエス・サー」二人でリビングルームの掃除をしている時、父が呼んだので私は軍隊式に返事をしました。「それを取ってくれ」父は拭き掃除をする手を止めて、箒を指差しました。
「ラジャー(了解)」私が空軍式に返事をして箒を取ると、父が「チッチッチッ・・・」と口を鳴らして首を振り、私は「何の事か」と思って父の顔を見返しました。
「ロージャ」父はいきなり私の発音を言い直しました。「ロージャ」「ノ―、ロージャ」航空自衛隊員が手軽に「ラジャー」と使いなれている「了解」の返事も、正しくは「ロージャ」に近い発音とアクセントのようでした。
そのまま個人レッスンが始まりましたが、中々上達出来ません。「ロージャ」「ロージャ」「ロージャ」それが十数回の繰り返されたところで、ようやくで父の合格がもらえましたが、その時、二人とも用事を忘れていて、顔を見合わせて笑い合いました。
※アメリカ人の味覚、食習慣1
彼女と初めてデートした時、私は行きつけのスパゲティー店に誘いました。
すると彼女は「私はイタリア人ではない」と拒否しました。
そのイタリア人と言う言葉には少し蔑視のニュアンスがあるようでした(後日、父から「モリノ」はイタリア人の名前だからパスタが好きなのかとからかわれました)。
そして本人がリクエストしたのがハンバーガーでしたが、そこでも「何でハンバーガーに野菜を挟むの?肉が水っぽくなるよ」と言って指で摘まんで抜き、それを私が食べました(ピクルスは良いらしい)。
日本人は「今日のオカズは何かな?」と違う物を食べるのも楽しみですが、アメリカン人は好きな物を毎回食べることは普通のようでした。
それからアメリカン人には米は野菜に入るようで、カレーライス(インド人ではないと拒否はしなかった)をパンに挟んでサンドイッチにしたがったり、牛乳やケチャップをかけて味をつけて食べ、白米でオカズを味わうと言う発想はないようでした。
※日米共通?父と母の違い
ある日、妹が私に「シンシアのLover(恋人)は若いのにサージェントなの?」と訊いてきました。
すると父が「Boyfriend(ボーイフレンド)だろう」と横から変な返事をし、それに「Loverだよ」父の台詞にシンシアと母、妹まで口を尖らせて反論しました。
父は黙って私の顔をマジマジト見直してきて、私はこの父と母の反応の違いは、世界共通だと知り愉快な気分になりました。
※空軍と海軍はライバル?
ある日、父が「An officer and a gentleman(愛と青春旅立ち)」のビデオを借りて来て見せてくれました。家族揃って鑑賞するのもアメリカでは普通のことのようでした。
「やっぱりNavy(海軍)は格好良いね」ビデオのラストで海軍の白い詰襟の軍服姿のリチャード・ギアが恋人を迎えに行くシーンを見ながら彼女が何気なく呟き、私も内心では同感でしたが、突然、父が「何を言ってるんだ、空軍が一番だよ」と大声を出し、彼女は驚いたような顔をして父を見ました。
「Uniform(軍服)だけだよ」と彼女は言い訳をしましたが、今度は母が横から「Uniformも、AirForce・Blue(エアフォース・ブルー=空軍の青)が一番美しい」と口を挟みました。私はそんな両親を「意外に大人げないなあ」と呆れながら黙っていると、話はいきなり私に飛び火してきました。
「君は自分の恋人が、エアフォースよりもネービーの方が好いと言っても平気なのか?」彼女は驚いて妹と顔を見合わせ、私が返事をしないと母まで説教を始めました。
「貴方はサージェントなんでしょ、もっとしっかりとしたプロ意識を持たないと駄目」彼女は自分の一言で私まで叱られて困り果てていましたが、それも空曹として有り難い教訓になったのです。
後年、海軍を描いた映画「トップ ガン」の大ヒットにライバル心を刺激された空軍が全面協力して空軍が活躍する映画「アイアン イーグル」が製作され、それに「愛と青春の旅立ち」の軍曹役だったルイス・ゴセット・ジュニアが準主役で出演していたのを見て、この時の両親の態度を思い出して笑ってしまいました。
※日米の戦争観
あの頃は嘉数高地にあった「愛国知祖の塔=愛知県の慰霊碑」に参った時、私は日本軍の「玉砕」について説明しました。
「そんなのクレイジーだよ。間違ってる」日本軍の「生きて虜囚の辱めを受けず」と言う「戦陣訓」の説明に、彼女は怒りを隠そうとしませんでした。
「軍人が危険を顧みずに任務を遂行することは責任だけど、死ぬ義務はないはずよ」
軍人の娘の見解は至極尤もでした。
「でも、ここでも沢山の日本の軍人たちがそうやって死んだんだよ」しかし、私はそう答えて丘の上から見える普天間基地を眺めました。
「貴方は、私のために生きて帰って来て」彼女はそんな私の横顔を見詰めながら両手で片手を握ってきました、
※アメリカ人の家庭
日本人は放任主義をアメリカ式だと思い込んでいるようですが、ある程度の社会的地位(母が空軍士官)にある家庭では、子供に対する躾は厳格で、生活そのものにキリスト教的な戒律が色濃く投影されていて、昔の日本のように父を軸にして「ピン」と筋が通ったところがありました。
初めてデートに誘った時も女子大生でありながら母親に電話をして許可をもらい、親しくなってからは家族に会わそうとすることなどは、日本ではとっくに忘れられていた昔の家庭のような雰囲気で、戦後、よくテレビで放送されていたアメリカのホームドラマの場面がそのまま目の前で実演されているような気がしたものです。
また家族をとても大切にし、お互いの人格を尊重しながら信頼し合い、夫婦は家事を分担し、子供は親の手伝いをして、それを楽しんでいるようでした。
実際、米軍官舎でも休日には夫は草刈りや日曜大工に励み、子供たちが車を洗っているのをよく見ましたし、隣家のガーデンパーティーにも何度か呼ばれました。
また、ダンスミュージックが流れると両親がリビングで踊り出し、娘たちが後をせがむのは将来の社交デビューの練習のようで、その後の両親のキスも真似したかったのですが、そこは日本人の感覚でためらうと彼女からしてくれたのも練習でした(何の?)。
テレビのニュースや映画を見ながら夫婦で互いの見解を討論し合い、それに子供たちが質問をして家族で考えると言うのは「日本人も学ぶべきだ」と思いましたが、ウチの実家では私が父親よりも難しいことを口にすると「プライドを傷つけた」と激怒されましたから、自分の家庭を持つまでは駄目でした。
※激励に悩む
3曹に昇任してから私の仕事へのプレッシャーは厳しくなりました。
曹候学生の士長の頃には許された仕事のミス、出来ない仕事も周囲は認めてくれません。戦闘機の故障が手に負えず助けを求める私に、先輩たちは「3曹になっても駄目か」と厳しい言葉を投げかける。そんな毎日が続いていました。
「責任を果せ」「努力に不可能はない」、私が子供の頃から父に叩き込まれてきた言葉は、不甲斐ない現状を自分自身への失望へと追い込んでいました。
しかし、彼女の父は空軍の上級軍曹=先輩として「出来ないものは出来ないと正直に言うのも責任なんだよ」と慰めとも違う言葉で私を激励してくれ、母は士官として「出来るように頑張ってるだけで今はいいんじゃないの。人材育成も空軍の勤めだよ」と言って落ち込んでいる私の顔を優しく見詰めてくれました。
彼女の激励は決まっていました。「Do your best !」です。
しかし、私は「日本軍の下士官が米軍人に慰められていて良いのか」を悩んでいました。
(下士官の父は一般空曹補学生と言う個人の技量に関係なく2年で一律に昇任させる人事制度についてどう説明しても納得せず、士官の母は優秀な隊員の確保と人材育成の施策として理解してくれました)
※アメリカ人の倫理観
彼女の日本語が私の英語以上に上達した頃、映画「人生劇場」を見に行きました。
人生劇場の原作は尾崎志郎が故郷の幡豆郡吉良町を舞台に書いた小説だったので、「愛知県が舞台の文芸作品だ」と説明して行ったのですが、評価は激烈でした。
「これはポルノなの?」「いや、何で?」「Sex scene(性描写)ばかりだったじゃない」
確かに娼婦役の中井貴恵さんが愛人の松方弘樹や客の風間守夫と絡む激しい性描写が何度もありました。
「あの、女性は売春婦なの?」「うん、そうだけど、ヤクザのお妾さん(=愛人)だね」
私は中井貴恵さんが松方弘樹さんと風間守夫さんに抱かれていた経緯を補足説明しました。
「貴方の故郷には売春宿があったの?」「昔はあったかも知れないな」
私のそれを認める返事に、彼女は黙り込んでしまいました。
「そんなの不道徳よ」しばらくの沈黙の後、彼女は吐き出すように言いました。
「善きアメリカ人」として育てられてきた彼女にとっては、買春婦も愛人も倫理に背く許せざる存在で、日本的に「男の性(さが)」などと寛容な目では見てはくれず、スポーツ選手や芸能人の不倫騒動に社会的制裁が加えられるのも当然なのでしょう。ましてや浮気などすればどんな目に遭うか、私は背筋がゾッとしました。
「ゴッド ファーザーだって愛人を抱くシーンなんて描かないワ、日本映画は不潔よ」
確かにあの頃の日本映画は人気女優の性描写を売り物する傾向があり、その点、性モラルへの認識が低かったのかも知れません。
※日本の英語教育のレベル?
彼女と南部の新原ビーチでキャンプをしながらサイクリングに行きました(公認になれば結構自由で、アチラコチラのビーチにテントと毛布を持って出掛けていました)。
すっかり日が落ちて暗くなった夜空を見上げるとその夜は満月でした。
「シンシアって月の女神の名前なんだよ」彼女は月を見上げながら話し始めました。
「英語ではダイアナ(Diana)とも言うんだ」「フーン、Princess of Wellesと同じなんだ」私はその頃、結婚したイギリス皇太子の若い妻の顔を想い浮かべて答えました。
「月が明る過ぎてSoutherncloth(南十字星)は見えないね」「沖縄から見えるの?」「水平線すれすれで上の一つだけだよ」「北半球なのにね」これは本で読んだ話ですが、「南部のビーチからなら見えるかも」と期待していましたが無理でした。そこで彼女が逆のことを言い出しました。
「アラスカの州旗は、ノースポール(北極星)と北斗七星なんだよ」これは中学校の英語の教科書にあった物語で、私がその話をすると「それは小学校の教科書にあった話だよ」と言って呆れ顔をしました。
「そうか日本の中学校の英語は小学校のレベルかァ」とぼやくと「貴方はレベルアップしているよ」と優しく笑ってくれました。
後年、私は大学(中国研究では日本最高峰を自賛している)で使っていた中国語の教科書を中国人の友人に見せると同じことを言われ、さらに落胆しましたが・・・。

※本場のハロウィン&クリスマス
今でこそ日本でもハロウィンを楽しむことが普通になってきましたが、あの頃(昭和60年前後)はまだ街中で楽しむ仮装大会のように思われていました。
ところが米軍の官舎は法的にもアメリカ合衆国であり、この変な行事も本格的に行われていて、私も体験することができました。
女子大生の彼女は「子供の行事」と白けた顔をしていましたが(その辺りは日本と同じ)、中学生の妹は大はしゃぎで父の黒の古コートとつばの広い帽子に箒を持って魔女に仮装し、母も日頃の威厳ある空軍少佐の顔を忘れてそれにつき合っていました。
夕暮れ時なると官舎には映画「ET」のように色々なお化けが現れ、それぞれ家々を回るのですが、玄関には籠に盛ったキャンディーなどの菓子を置いておき、お化けにそれを渡して除けてもらうのです。
これがキリスト教が伝来する前に北欧で行われていた精霊信仰に由来する宗教行事であると聞いて、私は秋田県男鹿半島のナマハゲを思い出しました(この行事を知らなくてカメラを持って行かなかったのが悔やまれます)。
逆にクリスマスは非常に厳粛で、家族で教会に出掛けて祈りを捧げ、その後、教会で讃美歌のコンサートを聞いて家に戻るとホームパーティーが始まります。
リビングにテーブルを運び、その中央に「トムとジェリー」と言うフルーツを浮かべたカクテルの鉢を置き、七面鳥の丸焼は無理だったので鶏にして、あとはケーキやクッキーを並べ、クリスマスキャロルをBGMにしながら談笑し、ダンスを踊って楽しむのですが、父と私はカクテルを飲んで酔っ払い、「佛教徒がクリスマスを祝っていいのか?」などとタブーに近い宗教談議を始め、私も何故か日本語で熱弁をふるい、それでも会話は成立していました(お互いに言いたいことを言っていただけ?)。
本来は日本の年始の挨拶のように、友人を招いてホームパーティーにすることもよくあるそうですが、その年は来客はありませんでした(断ってくれたのかは不明)。
大晦日は警備勤務だったので行けませんでしたが、0時の10秒前からカウントダウンをするだけで特別なことはしないそうです。どちらかと言えばクリスマスに全力投球して、経済的にも体力・気力も残っていないのでしょう。
イースター(復活祭)も大切な行事だそうですが、一緒に色つきの卵を作った以外は記憶にありません。
※基本教練の話
アメリカ軍の「回れ右」は2動作です。自衛隊では第1動作でそのままの角度(60度)で真っ直ぐ足を引き、第2動作は両かかとで回転し、第3動作で足を引いて揃えますが、アメリカ軍では第1動作は後ろに引いた足をつま先立ちにして、第2動作で回るのと同時に揃えるのです。父に教えましたが中々のマスターできず、発音指導の「恩」をこんなところで返しました。
※初詣に行って
沖縄に帰った私を空港まで迎えに来た彼女と一緒に、奥武山公園にある沖縄県護国神社に初詣に行きました。彼女は神社に参るのは初めてでした。
二人で鳥居をくぐり参道を歩きながら神社、神道のレクチャ―が始まりました。
「日本には大勢の神がいるんでしょ?」いきなり文化人類学専攻の質問です。
「Eighty million Gods(八百万の神々)って言うね」「ふーん、英語ではGodを複数形にはしないよ」確かにそうだろう。アチラは唯一絶対のカミ様ですから。
「でも、初めてキリスト教が日本に来た時、神道の神職が日本に来ればキリスト教の神も八百万の神々の一人になるって言ったそうだよ」「ふーん」私の話を彼女はメモでもとり出しそうな真面目な顔で聞いていました。
「実際、そうなってるよ。日本ではクリスマスを祝って、一週間もしないうちに大晦日には除夜の鐘を聞いて、夜が明けたら正月で初詣に神社へ行くんだから」「ふーん、だからBuddhist(佛教徒)のサージェントも初詣に来るんだね」この理解力は流石でした。
そこまで話したところで拝殿につき、私は二礼、二拍手、一拜の神社の拜礼の作法をゼシュチャ―で教えましたが、その意味を尋ねる彼女の質問に答えるには知識も英語力も不足していました。
ただ、「神社はユダヤ教の神殿に似ている」と言う感想には坊主として関心を持ちました。米軍基地には従軍牧師(Chaplain)の教会と同じようにユダヤ教の神殿もあるそうです(佛教の寺院があれば就職したかった)。
※アメリカ人の味覚・食習慣2
ある日、彼女と母と妹が天ぷらにチャレンジしました。
「レシピを見ながら作ったから・・」と自慢半分、心配半分の顔をしている彼女の横で母は「まあ、基本的にはフライと同じかな」と言って腕組みをしています。
「でも、ご飯がないね」「そうかァ、日本食だった」私の指摘に母は「シマッタ」と言う顔をし、彼女と妹は顔を見合わせました。
「まぁ、オカズになれば十分です」私の助け船に母はホッとしたように笑いましたが、続いて「ところでソイ ソース(醤油)は?」と今度は彼女が鋭い指摘をしました。
「それもないよ、材料を探すだけで手一杯だったからね」母はそう答えるとため息をつき、彼女と妹はまた顔を見合わせました。
「なければSalt(塩)でも美味しいですよ」今日は妙にフォローに忙しい。
私の返事に困った顔をしていた彼女はパッと笑顔をほころばせ、妹も微笑んで「早く食べたい」と言って皿に手を伸ばし、「行儀が悪い」母に叱られました。
「ところで私、日本食はどこで習えばいいの?」「彼の母親が教えてくれるよ」彼女の質問に母は微笑みましたが、私は自分の親の頑な性格を想い急に食欲がなくなってしまいました(当時、沖縄での結婚は許さないと厳命されていて、ましてやアメリカ人では・・・)。
※アメリカ人の味覚・食習慣3
キャンプでの夕食は父親提供の米軍のCレーション(携帯食)でした。
それは日本軍の乾パンにあたる厚くて大きなビスケットにたっぷりマーマレードをつけて食べ、携帯燃料で沸かした湯でインスタントコ―ヒ―を作って飲むのです。
「こんな時は軍人の娘は得なんだよ」コーヒーを飲みながら彼女は自慢しましたが、私は「携帯食は日本軍(自衛隊)の方が美味しいな」と答え、その話に興味津々と言う顔をしました。
「日本軍のは色々な味のライスとオカズの缶詰の組み合わせなんだ」 「フーン、美味しそうだけど重くない?」「確かに重いな」これは軍人の娘と言うよりも登山家としての意見でしょう(現在はパックライスになって軽量化された)。
「今度、演習で出たら食べさせてあげるよ」「うん、楽しみ」
後年、自衛隊の携行食はPKOなどで食べ比べた各国軍に高く評価され、そのコンテストで最優秀に選ばれたそうですが、ここでも大好評で父はかなり羨ましがりました。
※アメリカ人の味覚・食習慣4
奥武山公園で開催された那覇市の夏祭りに行きました。
広い会場は夜になって灯りがともり、露店が並び、迷子になりそうなくらいの人ゴミと相まって、本土と同じ夏祭りの雰囲気が出ていました。
ズラリと並んだ露店を覗きながら、彼女はいつもの質問を始めました。
「これは?」「Octopus(タコ)シュークリーム」私はタコ焼きをそう説明しましたが、これが名訳なのか、迷訳なのかは判りません。
ただ、クリスチャンは聖書で鱗がない魚を食べることを禁じられていてタコ、イカも食べないらしく、彼女は肩をすくめて、気味が悪そうな顔をしました。
次は、お好み焼きでした。
「これはピッッァ(ピザ)?」「Yes(うん)、But Japanese taste(だけど日本の味)」
最初のデートの時、「ピザはイタリアのスナックだから食べない」と言っていましたが、日本のお好み焼きは良いらしく、「Let‘s try(試してしてみよう)」と言うと「うん」と答えました。
ところがピザかクレープを想像していたのか、「あれ?ホット(辛い)」とお好み焼きに入っている紅生姜を一口食べて彼女は戸惑っていました。
「キャベツと肉が入っていて、ハンバーガーと同じくらいヘルシーな食べ物だよ」私の説明に「ソースは日本の味なの?」と相変わらず鋭い質問が返ってきました。
「多分、『お多福のお好み焼きソース』って言うスペシャルなソースだよ」と結論にしましたが、 「Special crepe sauce of Otafuku‘s」で意味が通じたかは判りません。
※これも英語の練習?
「アメリカは18歳(州ごと違う)でも日本の国内法では20歳だから」と言う母の許可がようやく出て、彼女を行きつけの喫茶スナックへ連れて行きました。
マスターには「アメリカ人の彼女を連れて来る」と予告していましたが、それが現実になると「英語は苦手」と言って、カウンターの向こうで内職のようなことを始めました。
「ねェ、Elvis(エルビス)って好き?」カラオケでCarpentersやBeatlesの英語の歌を何曲か歌ったところで彼女が私の顔を覗き込んで訊いてきました。
「Presley(プレスリー)ねェ?」どうもロックと彼女のイメージが結び付かないでいると、
「父が好きなの」と彼女は少し得意そうな顔をしました。
言われてみれば父は、オールディ―ズのテープを聴いている時があります。
彼女が聞き覚えのある歌を口ずさみ始めるとマスターが話に加わってきました。
「Love Me Tenderねェ?ラブ ミー テンダ― ル―ルルー・・・」このくらいの英語は判るらしくマスターは判るところだけ口ずさみ、私はそれを聴いて、この歌は唄えることを確認しました。
「よし、唄ってみよう」そう言いながらマスターと男同士で額を寄せてカラオケのメニューを覗き込んで選曲し、やがて「ラブ ミ― テンダ―」のイントロが流れ始めました。
「love me tender, love me sweet・・・」英語の歌を唄うには画面の歌詞を読んで、頭の中で発音を確認しなければならない。私は汗をかきながら一生懸命に歌い、彼女は
そんな横顔を嬉しそうに見ています。
「サージェント、Thank you」彼女はそう言いながら私の顔を見て微笑み、「うん、一応、英語の歌には聞こえたね」とマスターは相変わらず、ズケズケとモノを言いました。
確かに初めての歌では、発音も棒読みに近かったはずです。
「でも、『love』の発音がおかしかったよ」「そうかなァ?」彼女はそう言ってゆっくり「I love you」と手本を聞かせてくれました。
「I love you」私もそれに倣いましたが、日本人が苦手な「L」と「V」が入っていて、こうしてあらたまると中々上手く発音が出来ません。
「I love you」「I love you」「I love you」・・・・彼女は何度も練習させながら、何故か嬉しそうに笑いだしました。
「あんたらねェ、何回告白すればいいんだい?」マスターの呆れた声で、私も彼女がさっきから嬉しそうな顔をしていた訳が判りました。
「サージェント、I love you」「Me too(僕もだよ)、I love you」「はいはい、ごちそうさま」見つめ合って微笑む私たちに、マスターは私のボトルのバーボンで勝手に水割りを作り、一人で「カンパーイ」と言って飲み干した。
※私の語学力
私の英語は中学生の頃、女学校時代から得意だったと言う祖母から習い、この時にマスターしたのですが、両親はアラスカ出身、彼女もアラスカ生まれでかなり訛りがあったらしく、後年、米軍人と話すと必ず「君はかなりアラスカ訛りがあるが、若しかしてイヌイット(=エスキモー)か?」とからかわれました。
前回の大統領選挙でサラ・ペイリン・アラスカ州知事が注目された時、その演説やインタビューを聞いて妙に懐かしかったのも、「ふるさとの 訛りなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく(石川啄木)」のような気持ちだったのでしょう。
また、ソ連軍のベトナムへの輸送機と交信した際、ソ連軍はアラスカの空軍と話し慣れているので私の英語に「Oh, your English is excellent(=君の英語は素晴らしい)」と返事をしてきて雑談が始まりそうになりました。通常は無視するそうですが。
さらに日本人のパイロットと交信すると「おっと米軍につながったかと思ったよ」と言われるくらい訛った英語のようで、航空自衛隊英語弁論大会の予選では「勉強不足なら鍛えれば何とかなるが、あの訛りの修正は難しい」と山形出身の審査委員長に評価されましたから、私のアラスカ英語は東北弁と同じと言うことのようです。ちなみに航空自衛隊の英語は、太平洋空軍の司令部がハワイにあるためハワイ訛りです。
ただ、普通の日本人は英語を読むことから始めるため、読解は得意でも会話は苦手と言いますが、私は逆に彼女から口伝え(口移し?)で習ったため、電話はできても手紙は読むにも書くにも辞書が手放せません。何より私の場合、英語を日本語に訳さずにそのまま理解するので、文章は音読が欠かせません。
次に私は中学2年から自衛隊に入るまで、勉強の合間にモスクワ放送を聞いていたためロシア語もある程度話せ、領空に接近するソ連機にロシア語で通告すると向こうが妙に反応することもありました。
ところが方面隊指揮所から「国際問題になるから余計な話をするな」と指導が入り、日ソ友好は促進できませんでしたが、退職後にボリショイサーカスを見に行った時も、係員とロシア語で会話できましたから雑談してみたかったものです。
中国語は愛知大学で習っただけでしたが、あの頃、沖縄に働きに来ていた台湾人女性たちと仲良くなるのに役立ちました。
中華街のように飾り付けたアパートの部屋で、広東語のテレサ・テンを聴きながら食べた手作り餃子や春巻は美味かったです。
※理解すると嬉しい英語の用法
彼女は私のことをいつも「サージェント」と呼んで名前を呼ぶことはあまりありませんでした。しかし、私は他人行儀な気がしてある時、「何故、名前を呼ばないのか?」と訊いたのですが、すると彼女は「だって貴方が軍曹であることは私の自慢だもん」と答え、かえって不思議そうな顔で首を傾げました。
軍人が名誉ある職業とされているアメリカでは、階級は単なる役職ではなく、その人が国家に果たしている貢献を意味する表現のようでした。
後年、映画「トップガン」でトム・クルーズが演じる主人公をケリー・マクギリスの恋人の美人教官・チャーリーが、コールサイン兼ニックネームのMaverickや本名のピートではなく、「ルテナン(大尉)」と呼んでいるのを見てこのことを思い出しました。
ケリー・マクギリスがトム・クルーズを「ピート」と呼んだのは、二人きりで甘える時だけで、そこも同じでした。一度、「ルテナン」と呼ばせてみたかった。
※軍事英語のワンポイントレッスン(字幕や同時通訳でよく間違っている単語)
まず階級で「キャプテン」は陸空軍・海兵隊では大尉ですが、海軍では大佐です。
「ルテナン」は陸空軍・海兵隊では中尉・少尉でも海軍は大尉・中尉です。
次に部隊単位の「スコードロン」は空軍では「編制単位部隊」ですが、陸軍・海兵隊では「分隊」です。したがってスコードロンの指揮官は、空軍では「コマンダー」ですが、陸軍・海兵隊は「リーダー」になります。
また戦争映画の題名にもなった「プラトーン」は陸軍・海兵隊の小隊で、空軍では小隊は「ユニット」とするのが一般的なようです。
※中国語のワンポイントレッスン(と言っても熟語の話です)
日本人は漢字が並ぶと中国語と同じだと思いがちですが、実は意味と言うよりもニュアンスが違うことがよくあります。
例えば政治家が正式に謝罪することはできないが詫びておく時などに用いる「遺憾」と言う言葉は、中国語では文字通り「残念でした」程度の意味で、使い方を誤ると向こうは「軽く見ている」とかえって激怒させかねません。
逆に先日も尖閣問題について習近平氏が発言し、日本人が激怒した「茶番」と言う言葉は、まさに「軽い出し物」のことで、日本人のように「馬鹿にしている」と言うニュアンスはなく、むしろ「日中関係においてそれほど重大な問題ではない」と解決を求めたと好意的に解するべきでしょう。
※発音を間違うととんでもないことになる英単語
オレンジなどのブランド「SUNKIST」をどう発音されるでしょうか?
米兵と飲んでいる時、テーブルに刻んだオレンジが出て、私がそれを食べながら「美味しい。 I like Sunkist」と言うと、突然、隣の席の米兵の顔が変りました。
「Are you Sunkist ?」と訊くので「文章としておかしい」とは思いながらも私が「イエス」と答えると、彼の眼が妖しく光りました。
彼はいきなり私を抱き締めて口づけをしてきたのです(唇を奪われてしまった)。
驚いて跳ねのけるとその様子を見ていた別の米兵が説明してくれました。
「Sunkistは英語では『スンキスト』と発音しなければならず、『サンキスト』では息子にキスをする人と言う意味になる。この場合の息子は男性自身で『ホモ』を意味する」と言うことでした。
つまり私はホモを相手に「自分はホモが好きだ」と告白してしまった訳で、「悪いことをした」と深く謝りましたが、彼は本当にガッカリした顔をしていました。
その後も「君は肌が綺麗で魅力的だ」「男性との愛に目覚めればきっと夢中になるよ」などと口説いてきましたが、そちらの趣味はありませんので逃げました。
しかし、男に接吻をされて舌まで入れられてしまった・・・これも経験(?)。
※使い方を間違うととんでもないことになる英単語
日本の学校では「pretty(プリティー)」と言う単語を「可愛い」の意味で教えますが、これには「幼い者」「小さい物」を愛でる上から目線のニュアンスがあり、女性が男性に用いると侮辱的な意味を持つことがあります。
ある時、米兵と飲んでいて、酔った黒人軍曹が潤んだ目で有線放送に合わせて口ずさんでいるのを店の女の子が「He is pretty」と笑ったのです。
すると彼の眼が突然鋭く光り怒り始めました。
私は興奮した彼の怒鳴り声を通訳しながら怯える女の子に説明しましたが、要するに「俺を幼稚な奴、小物と言った=馬鹿にした」と言うことでした。
私は彼に「日本人はprettyにそんな意味があることを知らないのだ。彼女はfunny(微笑ましい)と言いたかったのだ」と説明してようやく納得してもらいましたが、そのあたりも学校で教えないとどんなトラブルに巻き込まれるかも知れません。
※日米対戦?
ある日、彼女と本島中部のタイガー・ビーチでキャンプしました。このビーチはベース(基地)やキャンプ(駐屯地)に近いこともありアメリカ人が多く、アバンチュールを狙った本土からの女の子たちも集まっていて、余り雰囲気は良くありません。
ところで彼女の水着姿はアメリカ人女性=グラマーと言うイメージとは正反対ですが、ロッククライミングが趣味なだけに筋肉質で腕と下半身はしっかりしていました。
「ビキニは着ないのか?」「駄目、自信がないよ」スポーツ水着の彼女は首を振り、「まあ、俺もマッチョじゃあないからな」と言いながら私も自分の細身の体をビーチで本土の女の子と戯れている米兵たちの筋肉質な体と見比べてうつむきました。
「ハーイ、シンシア」その時、同年代の男女の集団が声をかけてきました。それは彼女のインターナショナル・カレッジの同級生たちでした。
「ハーイ」彼女が座ったまま微笑んで手を振ると彼等は私たちを取り囲みました。
「貴方がサージェントね」同級生の女の子たちは興味津々と言う顔で私を見て、その横で男たちは対抗意識丸出しの顔をしていました。それから暫くは彼らと一緒に海に入ったり、ビーチボールで遊んだりして楽しみました。
「サージェント、君はもっと食べた方がいいよ」昼食にビーチの売店で買ったコーラとハンバーガーやホットドッグを分けて食べ始めると同級生の男がからかってきました。
「可哀想に、Japanese AirForce(日本の空軍)では飯も出ないのかい?」別の男も私の貧弱な体を眺めながらボディ―ビルのポーズで隆々とした筋肉を見せびらかし、「これも食べたら」女の子の一人が私にホットドッグを差し出したのを見て、彼女はムッとした顔で言い返しました。
「彼は、KENPO(拳法)のBlack Belt(黒帯)よ」しかし、彼等はそれを信じません。
「沖縄大会でBronze Medalist(銅メダル受賞者)なんだから」「だったら、KENPOの技を見せてみろ」彼女がムキになって繰り返すと、中でも一番身長も体格も大きな男がコーラを飲み干して私の前に立ちました。
彼の顔は明らかに挑戦的でした。イザとなれば力でねじ倒してやると書いてあります。ほかの同級生たちも半信半疑、むしろ冷かしの顔で私と彼を取り囲みました。
私は米軍関係者とトラブルになることを恐れてためらっていましたが、横で真顔でうなづいている彼女の目を見て覚悟を決めました。
「痛くても絶対に怒るなよ」「OK」私の言葉に彼は嘲笑うように了解する。私は拳法よりは安全な柔道の技を使うことにしました。
先ず、彼の右手首を掴み、左わきに手を差し込むと、その場に払い腰で投げ飛ばし、彼は一瞬で砂地に投げ倒されて「何が起こったのか」と言う顔で私を見上げている。
「オ―」同級生たちも呆気にとられた後、驚きの声を上げました。
「今度は俺だ」別の男が掴みかかってきた。彼も私より身長が高い。今度は大内刈りで仰向けに倒しましたが、受身の心得がない彼は少し後頭部を打ちました。
彼のそばで様子を確かめる私に、今度は別の男がボクシングのポーズで殴りかかってきてので、私は拳法の技でそれを受けると、そのまま連続した蹴りを繰りだしました。
「痛い!痛い!Give up(参った)」「当て止め」とは言え、胸への前蹴り、両脇への回し蹴り、最後に腹に足刀を受けて彼は後ずさりしながらひっくり返りました。
私は、構えを解くと少林寺拳法式に姿勢を正して彼らに合掌しました。
彼等は戸惑いながら顔を見合わせている。アメリカならば勝者は勝ち誇るのが常識なのです。
「だから彼はBlack Beltだって言ったでしょ」彼女の自慢げな言葉に女の子たちは黙ってうなづいていました。
※終幕
8月上旬のある日、私は彼女の両親に呼ばれました。
私は8月下旬からF―4EJ戦闘機への転換OJTのため、福岡の築城基地へ約2ヶ月間臨時勤務するため、夏期休暇は早目に取る予定でした。
「サージェント・モリノ、私たちは9月にアラスカに転属することになったんだ」食事の後、全員が揃った席で父が私に向って話を切り出しました。
「リアリィ(本当ですか)?」私は、それだけを答えるとシンシアの顔を見ました。
「私たちは故郷へ帰ることになるけれど、シンシアをどうするかを決めなければならないのです」言葉が出ないでいる私の横で母が話を続けました。
「シンシアは、インターナショナル・カレッジだから転校は問題ないけれど、ここに残って寮に入ることも出来るのです」母の説明に彼女は黙ってうなづいていました。
私は先日、映画「南極物語」のオーロラを見て彼女が涙を流していた訳が分りました。
「貴方がシンシアをどう考えているかを聞かせて下さい」母はそう言うと私の顔を見詰め、父と妹も同じように私の顔を見ましたが、彼女だけはうつむいていました。
彼女とのことをあの家で許してもらうことは、どう考えても不可能なことでした。
「将来に対する責任」、父が幼い頃から繰り返していた教えが胸に重く圧し掛かってくる。私の胸に言いつけに背いて激怒する父と、それに怯える母の顔が浮かびました。
「あの家の子は親に従うしかない」私は哀しい決断をしました。
私は頭の中で慎重に英訳して、両親の顔を見返しながら答え始めました。
「私はまだ若いですから、何の約束も出来ません。私にはシンシアとの将来に責任が持てません」そこまでの答えを聞いて彼女は顔を上げて驚いた目で私を見ました。
彼女は「自分をここに残してくれ」と言う答えを待っていた、信じていたのでしょう。
「それはこれでお別れと言うこと?」彼女は唇を震わせながら、絞り出すような声で訊き、「イエス・・・」と私は深くうなづきました。
私の答えを聞いて両親は顔を見合わせ、彼女の目からは涙がこぼれ落ちました。
「責任とか約束とか言う問題ではなく、それは君とシンシアが決めることだよ」父は私に解るように易しい英語で訊き返しました。しかし、それはモリノ家の教えにはない考え方でした。
「私はまだ下士官として技術を磨かなければなりません。プライベートなことを考える余裕はありません」私の答えは確かに綺麗事でした。私の胸には勝ち誇った父と安堵した母の顔が浮かんでいました。
父は意を決した表情で彼女に訊きました。
「シンシア、これがサージェント・モリノの答えだ。わかったな」「ノ―、私は沖縄に残る・・・」父の言葉にも彼女は首を振りました。
「シンシア、仕方ないんだよ。サージェントは今、仕事しか考えられないのだから」「お前がいるとサージェントの迷惑になるんだ」両親の説得にも彼女はまだ泣きながら首を振っていました。
彼女の胸に妹がすがりつき抱き合って泣く姿に、私も両親もかける言葉がなく、ただ、軍人である両親は私の立場を理解して励ますようにうなづいてくれていました。
結局、私の人生には親の意向以外の選択肢はなく、この苦しみ、哀しみは、その後も何度も繰り返されることになりました。
私は夏期休暇明けの8月下旬、築城基地に臨時勤務しました。
築城基地からは少し落ち着いた彼女に毎晩のように電話をしました。
私はその日あった仕事の話をし、彼女は「母の本と父の趣味の物が多くて片付かない」と引っ越し準備の話をする。そして「Do your Best」と言って話を終わる時、急に泣き始めることの繰り返しでした。
彼女のこの言葉に、どれだけ救われ、励まされ、力をもらっていたか、それは私が一番知っていました。
彼女がアラスカに旅立って三週間後、私はOJTを終え、沖縄に帰りました。
そして、しばらくしてアラスカから小さな荷物が届きました。
中には「アラスカを忘れないで」と言う手紙と、紺色地に北極星と北斗七星を描いた大きなアラスカの州旗が入っていました。
それから父の「君は考え過ぎるから下士官よりも士官が向いている」と言うメッセージとアメリカ空軍の徽章のキーホルダー、母からは「しっかり勉強して、良い士官になりなさい」と言う激励とアメリカ空軍大尉の階級章。そして、あの日、彼女が涙を拭いたハンカチも入っていて、確かに愛した人の匂いがしました。
この時、届いた物は全て私のかけがえのない宝物として大切に保管しています。
- 2012/08/19(日) 11:06:56|
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