「愛知県人原日本人説」と言うモノがあります。
これは他県人が愛知県人に接して抱く違和感は、外国人が日本人に会って感じる違和感と共通すると言うことです。
かつてトヨタが福岡県に大規模な工場を建設した時、当時の奥田社長は「愛知には人材がいない。九州の優秀でやる気溢れる人材に期待している」と挨拶しました。また、渥美半島に田原工場を作った時も当時の社長は、雇用確保を申し入れた地元自治体の長たちを前に「東三河で正社員を雇うつもりはない」と言い放ち、実際、東三河ではパートと子会社の社員は募集しても正社員は採用しなかったそうです。
さらに野僧が幹部自衛官として浜松基地で勤務している頃に知り合った地元企業の経営者たちから出身地を訊かれ、「豊川だ」と答えると「東三河の人にしてはよく働くな」と妙な誉められ方をしました。
野僧が防府南基地で一般空曹候補学生の教育に当っていた時、全国各地からほぼ同程度の選抜試験に合格してくる学生たちの中で、東三河(それなりの進学校卒)の出身者だけが極端に社会性が劣っていることを痛感しました。
彼らはリーダーとして自己判断を求められること、責任を負うことを避け、その癖、他の学生の失敗や怠慢を目敏く見つけて報告することには長けていました。このため他の地域の出身者からは「責任逃れの卑怯者」「粗探しの嫌味な奴」と言われて孤立していましたが、自分の問題点を反省することはありませんでした。
これが数名の話であれば個人の問題でしょうけど、毎期に共通していることとなれば東三河の地域性の問題と判ぜざるを得ません。結局、「愛知には人材はいない」との評価の最たる地は東三河であり、野僧が防府で痛感していた東三河の若者の「自分から何かをしようとはしない」「自分たちの常識から脱することをしない」社会性の欠落を企業人たちも認めているのでしょう。
東三河は江戸時代、豊橋の吉田藩は枝胤(徳川一門)の松平家、豊川、新城は幕府天領であり、政治的に幕府の手厚い庇護を受け、島津家、毛利家や伊達家に代表される外様藩のような役務を科せられることも、幕府の監察による不始末発覚で取り潰されるなどの緊張感もなく、平穏無事に太平の世を謳歌してきました。
また、気候温暖で肥沃な平野の中央を豊川が流れて水利に恵まれ、眼前には波静かな三河湾が広がり、背後には木々が生い茂ったなだらかな山々が続き、さらに東海道や飯田街道、水運などの交通網が整備され、農業、漁業、林業から商業、運送業まで産業が発達し、領主や為政者も、とり立てて殖産興業の努力を必要としませんでした。
つまり東三河では、今までと同じことをやっていれば万事安泰、殊更に頑張らなくても何とかなる訳で、逆に「何が正しいのか」と言う探究心や「これも正しい」と新たな価値観を持ち込むことは、護り受け継いできた伝統や現在の調和を否定することであり、直ちに否定、排除されなければならないと言う鉄則が培われたのでしょう。
その点、東三河でも田原と蒲郡の両地域は異質です。
田原藩は譜代とは言え、天領や枝胤に比べれば立場が弱く、さらに渥美半島は豊川用水が通じるまでは水利がなく、常に潮風に晒される米が出来ない土地でした。
その貧窮耐乏の中で学問に取り組む人材育成の気風が生まれ、渡辺崋山先生、小崋父子や椿椿山(つばきちんざん)、菅江真澄(異説あり)などの偉大な人物が数多く輩出されたのでしょう。
ただ、崋山先生は藩政改革を面白く思っていなかった守旧派からの指弾を受け、「藩君に迷惑がかかる」と言う極めて東三河的な理由で自刃しました。
それにしても東三河の人たちにとって田原はあくまでも番外地に過ぎず、時代の先覚者であり、偉大な芸術家、鎖国の日本に於いて世界を知悉していた大学者の渡辺崋山先生ですら郷土の偉人に数えていませんでした。
一方、蒲郡は他の東三河の地域とは異なり、昔から農業だけでなく漁業も盛んで、さらに温泉と言う行楽地も有していて多様な価値観が共存していました。
蒲郡の友人曰く、「百姓は隣りが種を蒔いたらウチも蒔くが、漁師は隣りが行った漁場では魚が獲れない」。さらに「蒲郡の女は亭主の稼ぎが悪ければ温泉芸者になって家族を養う」。こうして個性を認め合い、自己主張が強い気風が出来たようです。
もう1つの切り口から考察致します。
西三河は矢作川をはさんで城側は浄土宗、矢作平野は浄土真宗の本場で、矢作川の上流に曹洞宗が入り込む宗教分布になっています。
徳川家康が若い頃に生起した三河一向一揆では、忠誠無比を謳われた三河武士が信仰ゆえに主君・家康に反抗し、川をはさんで家臣、領民まで相争いました。
一方、東三河は曹洞宗の豊川稲荷を頂点とする大寺院と、それにつながる末寺が乱立して、曹洞宗が一大勢力を形成しています。
この末寺の中には、「寺院を建立する土地の年貢が免除される」と言う当時の宗教施策を当て込んで次々に建てられた民家と大差がないような小寺も多いです。
曹洞宗の教義は「只管打坐」「威儀即佛法」「作法是宗旨」とされていますが、これも道元禅師の時代には「坐禅をすること自体が安心安楽の道であるから只管打坐」「悟った世界観に則った威儀こそが佛法」「作法を正すことが宗旨」であると言う意味だったのですが、禅師が遷化されて百年を経ずして永平寺はほぼ無人になり、宗勢は衰退の一途をたどり、残った者たちは禅師が否定していた葬儀、法要、祈祷などに励むように宗旨を変質させて、ようやく宗門を守り、宗勢を盛り返したのです。
その代表が商売繁盛の祈祷を生業とする豊川稲荷です。
したがって東三河では曹洞宗の教義も在家向けに「現状肯定」「形式重視」「大勢従順」とお手軽に理解されることになりました。
つまり東三河では信仰に於いても、求道者的に一歩踏み出して殊更に頑張るよりも、今までと同じこと、周囲と同じことを守るのを唯一絶対の美徳として、自学研鑽、改善工夫の気風は悪業と排除されるようになったのでしょう。
野僧のように求道心を持つ者は「我を張る異端者」と否定され、ただ教えられたことに盲従することが東三河の佛教界で生きていく必須条件でした。
何にしても家康公が秀吉によって転封された時、有能な家臣と美女は江戸へ連れていかれ、さらに幕府を開府した際には譜代大名としてそれを全国にバラ撒きましたので、優秀なDNAが三河に残っていないのは間違いないでしょう。
幕末の戊辰戦争の折、豊橋の吉田藩は新居の関所を守る任を負いながら、薩長軍を通過させたばかりか荷役人夫まで提供してこれに協力した。
一方、第2次長州征討では山陰地方を進撃する大村益次郎の軍に対して、扇原関門を守っていた浜田藩士・岸静江国治は足軽や農民兵を逃がした後、1人立ちはだかり射殺された。結局、豊橋・吉田藩にはこの岸静江の気概を持つ武士は一人もいなかったと言うことです。
東三河で人材が育たない理由として、野僧は学校教育の問題も指摘したいと思います。
野僧の愚息1(長男)は東三河、愚息2(二男)は長州で高校に進学したのですが、それぞれの進路指導を見比べると東三河に人材が育たない理由がハッキリしてきました。
愚息1が豊川市の中学校で受けた進路指導は「この成績ならこの高校」と生徒を成績で輪切りにしてそれぞれを当てはめるだけで、本人の希望、適性などはあまり考慮されず、高校に合格させることだけが教師の仕事であり、父兄の方も高校への進学は、高卒という学歴を得ることだけが目的と言うと考え方のようでした。その点、野僧親子は愚息1の夢の実現と言う視点から進路について意見を求め、静岡県出身の担任教師は「こちらの学校で初めてそんな質問を受けました。それが教育ですよね」と困惑しながらも懐かしがっていました。
野僧自身も東三河で高校へ進学したのですが、猛勉強の末に合格した海上自衛隊生徒の合格通知を父親に破り捨てられ、公立の普通科高校へ進学するしかなくなり、せめて豊川(とよがわ)の流域から離れたいと蒲郡市の高校へ進んだのです。
ちなみ蒲郡市では、東三河に属していながら相手にせず、優秀な生徒は勿論、私立高校も西三河へ進学させていました。西三河トップのO崎高校は公立高校の東大合格者数の全国1位ですが、東三河のJ習館高校は県内トップ10に入っていませんから当然でしょう。
一方、愚息2は小学校6年の1学期に下関市豊北町に転校してきたのですが、夏休みの宿題でイキナリ「将来の夢」と言う作文が出され、これは中学校に入っても続きました。そして中学校で進学が具体的な課題になると、将来の夢を実現するためにはどんな資格が必要であり、それを取得するにはどの高校が好いと言う話し合いが行われ、同時に親に対して「大学へ進学させられる経済力はあるか?」「後を継がせなければならない家業はあるか?」などの確認がありました。つまり長州では、先ず「志」を立てさせ、その実現のために必要な勉強をすることが高校進学の目的なのです。
実際、愚息2は「親に進学させる経済力がない」と言うことで、下関市内の工業高校へ進学したのですが、その倍率は2倍を超えていて、しかも中学校でもクラスでトップの成績の生徒も愚息2と同様の理由で受験しているため、合否結果の予測は全く立たない状況でした。東三河の親にはそんな不安は耐えられないでしょう。
また工業高校に入学してからも、優秀な生徒に引っ張られる形で専門科目への真剣な取り組みが行われ、愚息2は毎晩、野僧の高校時代以上の猛勉強に励んでいました。
山口県の専門科高校は難関と言われる国家試験の合格者や専門科目の研究成果や技能競技会での優勝者が毎年のように出ています。このため山口県知事が「我が県の特産品は人材です」と豪語した通り、県外企業からの募集が引きも切らず、それが県の高齢化率を引き上げる原因にもなっています。さらに相撲協会の前理事長・放駒親方や芥川賞作家の田中慎弥さんは愚息2の工業高校のOBであり、菅内閣の高木義明文部大臣は隣りの工業高校のOBです。
考えてみれば東三河式の進路指導では、普通科の進学校には優秀な生徒が集まるものの、普商工農水と言われる成績序列で振り分けられる専門科高校では、成績下位=勉強嫌いの生徒ばかりが集まる訳で、お互いに楽な方に流れて淀んだ水のような状態になり、リーダーとなってクラスを引っ張る者もなく、教師も大過なく3年間を過ごし、地元の企業に就職させることがけを教育目標にするしかないのでしょう。
しかし、それはあくまでも穏当に進んだ者の話で、各高校へ振り分ける基準はあくまでも中学校のテストの結果であって、手先が不器用でも工業高校、人づきあいが下手な者が商業高校、さらに言えば農家や漁師の息子でないのに農業や水産高校などと言う愚かな進路指導が現実に行われているのです。
トヨタの社長の言葉の原因はここにもあるのでしょう。
私は沖縄で勤務していた頃、よく嘉手納基地のアメリカ空軍の整備兵たちと飲みました。向こうが3人、こちらが2人(ある程度、英語ができる者)くらいのメンバーでしたが、酔って那覇の街を歩いていると、観光客の女の子たちから声を掛けられることがありました。
向こうも少し酔っているようでしたが、イキナリ私に向かって「ねェ、こちらの外人さんを紹介してよ」と言うので、「私は日系アメリカ人だ。日本語はあまり分からない」と英語で答えると、彼女らは大声で「この人もアメリカ人だってさ」「日本語が分からないんだってよ」などと言い合って、やがて誰がどの外国人と寝るかを決めるジャンケンを始めました。
そして勝った者から順番にアメリカ兵を選んで腕にすがりつき、中にはその場でキスを始める者もありました。
一番負けた女の子が日系人の私になるのですが、白人に当った者たちは「日系人だってアメリカ人だらァ」「優しそうでいいじゃん」などと慰めるので私は英語訛りの日本語で「ヨロシク」と言って手を握りました。
そこで解散になりアメリカ兵たちはそれぞれの女の子を連れて次の店に行ったり、飲酒運転でドライブに行ったりするのですが、私は勤めて優しく扱い(ただし会話は英語と片言の日本語のみ)、やがては彼女のホテルへ、いよいよベッドインになるのですが、そこまでくると女の子は急に緊張して泣きだしました。
彼女が片言の英語で言うには「友達がそうしたいと言うから合わせていただけで本当はそんなことはしたくない」「地元に好きな人がいる」とのことでした。
そうなると国民を守る自衛隊の使命に則って私は退却するのですが、その地元とは愛知県豊橋市、職業は保母で、つまり真面目でウブな女の子も、周囲の目が届かなくなり、一緒にいる友人が調子に乗れば、それに無批判に同調してしまうのが東三河人なのです。
あれが私だったから退却しましたが、若しジャンケンで勝って別の相手を選んでいたなら、ホテルの部屋に入ってベッドに座るところまで行けば彼女は間違いなく好きな人を裏切ることになったでしょう。
実はこの話は1回だけでなく何度もあったのですが、そのうち1回は豊川市の地方公務員でした。この時も私はホテルまで送って撤退しましたが(地元で会うとまずいと言う判断です)、都会の遊びなれた女性なら兎も角、真面目そうで堅い職業の女の子がここまで乱れるのを目の当たりにすると、つくづく東三河の女性不信になりました。
と親に言いましたら東三河を批判したことに激怒しましたが。
- 2012/09/22(土) 09:35:00|
- 東三河の文化人類学的考察
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