自衛隊の帽章、階級章、徽章などの由来
現在の陸海空自衛隊の正帽(略帽に対する正帽です)の帽章についてです。
陸は桜の花を桜の葉で囲む形ですが、これは帝国陸軍の近衛師団の帽章のデザインを踏襲しています。ただし、近衛師団は桜の花ではなく星ですが。
海は帝国海軍の完全コピーかと思いきや意外にも手直しされていて、先ず錨の形が商船と共通の形状から軍艦用に変更され、囲む葉もオリーブから桜になっています。
空は武者がかぶる兜の鍬形を意味する翼に鷲(鷹と言う説もある)、星、月を配して大空をイメージしていますが、最初はこの鍬形の部分に小さな雲が入っていたのを洗練させるためなくしました。そして、以前は幹部と曹士では大きさが違いましたが今は大量量産してコストを下げるため共通になりました。
陸・空の幹部の階級章の星は「桜星(おうせい)」と言って、よく見ると花びらの端に切れ込みを入れて桜らしくしてあります。、
ちなみに税関職員の階級章もほぼ同じデザインですが、採用したのはアチラが先で、しかも一番下の者が3尉の階級章をつけています(戦時国際法上、戦闘中に軍人として射殺されても文句は言えません)。
ところで海外では昔の軍服の襟に金色の生地が多かったため、目立つ銀色が上位の場
合が多く、米軍でも少尉は金、中尉が銀のバー、少佐、中佐は同様の葉です。
ついでに米軍の話をすれば、士官の階級章は少尉・中尉が木の幹、大尉が枝、少佐・中佐は葉と上に登り、大佐は鷲で空を飛び、将官は星になっていまうのだそうです。
そう言えば昔は陸・空幕僚長の階級章は陸・空将と同じ星3個だったのですが、源田実航空幕僚長が海外出張した時、3個では中将扱いされるため勝手に4個付けたの
が報道されて問題になり、「何とかならんか」と言われた空幕の担当者がアレコレ調べ
た結果、海上保安庁長官の階級章が違うことを見つけ、何とか変更にこぎつけたの
だそうです。
海はほぼ世界共通ですが、階級章を付け替えると袖に縫い跡が残るため、昇任する
と制服を新調しなければならないそうです(付け替えを頼むとミシン屋に呆れられ
るらしい)。
それから意外に知られていませんが、帝国海軍の紺の詰襟の軍服にも襟の階級章のか袖にも同様の階級章が黒で縫いつけてありました。
陸・空の「曹」の階級章は、昔の武者が戦場に立てていた板の盾を意味していて、盾1枚
に武者が10名程度控えていた歴史的経緯に基づいています。
昭和56年に曹長が出来た時、1曹の階級章の桜の花の下に無理やり線を入れたためデザインがアンバランスになっていまい、「曹長は おハナの下に 髭がつき」と言う川柳が作られました。
陸・海・空の「士」の階級章は、戦後しばらく警察官の巡査、巡査長、巡査部長の階級章が三角を袖に縫い付けるもので(尖った方が上)、これを逆にして桜の花をつけたのが自衛隊の階級章になったのだそうです。ただ、私は2士の階級章が初心者マークに見え、1本線が増えればようやく1人前と思っていました。
ちなみにアメリカ陸軍、空軍、海兵隊の兵から下士官の階級章は同じデザインで線が減らないのが年輪のような成長の過程を表していると言っていました。
最近、陸、空は職種徽章などが増えて制服が賑わっていますが、ほとんどが米軍の徽章に少し手直ししただけのコピーで、陸の施設科などは米軍の工兵科の石積みの城砦を日本の城の天守閣にした珍品です。
一方、アメリカ海兵隊は「海兵隊員であることが特殊技能(スペシャリスト)である」と
言う誇りと美学の下に、陸軍のような空挺やレンジャー、射撃などの徽章はなく、さらに部隊章も多国籍軍などで必要とされた場合を除き、迷彩服の右胸のポケットに「USMC(合衆国海兵隊)」と染めてあるだけです。
どうですシンプルも格好いいでしょう。
歩哨犬の話
航空自衛隊では警備用の犬のことを「歩哨犬」と呼んでいます。
犬種としてはシェパードかどーベルマンになっていますが、入間基地で購入し、基本的な訓練を施した後、各基地には配置されます。
ただ、一部には各基地に寄付と言う形で入隊してくる犬もあり、浜松基地でもOBが飼っていたシェパードを「大きくなり過ぎて(体重54キロ)を持て余したから」と引き取ったことがありました。この犬は訓練中に死んでしまい、それをOBに伝えに行く時は戦死通知を届けに行く従軍牧師の気分を味わいました。
さらに市内のシェパードの種付け業者から寄付を申し込まれたことがあったのですが、その犬は1頭2千万円。ドイツの旧貴族の家で飼われていた犬の血統で、1回の種付け料は百万円になり、それを2十数回繰り返せば儲けも出るのですが、あまり血統が増え過ぎると価値が下がるので、適当なところで去勢して売りに出すか、それもせずに殺すのだそうです(こちらの方が一般的)。
私もその犬と面接をしたのですが体形は美しく、立ち姿、動作にも品があり、流石は貴族の「お犬様」と言う感じでしたが、犬としての躾は全くされておらず、年齢から考えて歩哨犬にするのは無理と考えて断りました。するとその電話の直後に業者が自分で毒を与えて殺したそうです。合掌
またある時、新聞に米軍の警備犬の記事が載っていたのですが、その犬種は「ベルジャンマラノイ」と言って、ペット百科にもないモノでした。
そこで私は横田基地へ研修に出かけたのですが、米軍と航空自衛隊では歩哨犬・警備犬の運用が全く違うことを学びました。
自衛隊では重要施設にランニングチェーンでつなぎますが、米軍は犬単独での使用は禁じられており、むしろ武器が使用できない時の威嚇、攻撃などに威力を発揮していると言っていました。
ちなみに犬は殺傷目的に作られた道具ではないので、例え相手を殺し、負傷させても武器使用にはならないそうです(日本の警察に確認)。
米軍が採用したベルジャンマラノイはこの目的に適合した犬で、顎の力はシェパードの3倍あって標識も噛み折ることができ、闘争心はドーベルマン以上のものがあるそうです。
何よりもシェパードは改良のための交配を重ね過ぎて身体が弱く、心臓病などシェパードだけの病気が多く、特にヘルニアはある年齢になると100パーセント患います。
さらにヨーロッパで作られた犬種であるため高温多湿の気候に弱く、ベトナム戦争でも多くが病死し、これを受けて犬種の研究が始まり、ベルギー王室で飼われていたベルジャンマラノイ(現在、日本ではベルギー・シェパードと呼ばれている)を選んだのだそうです。
この研修には入間基地の歩哨犬訓練所の教官もドライバーとして同行しましたが、米軍の警備犬訓練や運用方法に大いに関心を示し、侵入者に唸る犬を見せながら「この犬は貴方を噛み殺し、重傷を負わせる可能性がある」と警告することなどは自衛隊でも取り入れたいと言っていました(浜松基地でも航空祭などで採用した)。
その後、歩哨犬の話は脱線し、フランス外人部隊が砂漠の戦場では草を食べて自活し、高い声で鳴く山羊を配置すると知り、元フランス防衛駐在官の群司令に資料をお願いしたのですが、「日本国内でその必要はないだろう、まったく何でもありだな」と笑われてしまいました。
さらによく訓練されてシェパードは命令がないと吠えないため自衛隊の運用に合う犬種の研究も始めまし
た。友人の動物学者の「番犬なら縄張り意識が強い日本犬が適している」との意見を受けて、秋田犬、紀州犬の採用を要望したのですが、根拠不明確として却下されました。
これは怪僧・モリノ2尉が作した歩哨犬顕彰碑の碑文です。
「軍用警備犬、通称歩哨犬、其祖出独逸国、生於日本国之各所、徴用皇国空軍了訓練武蔵野、配属当基地、以来任基地重要施設警備、極寒酷暑中遂行任務也、彼等濫不吐弱音責任放棄尤悪、好跳走興一至追獲物、古人曰猫亦佛性有、然生軍務倒軍務死軍務、軍用警備犬是軍神如何(軍用警備犬は歩哨犬と通称されている。その祖は独逸(ドイツ)国に出る。日本国の各所に於いて生まれ、皇国空軍(航空自衛隊)に徴用され、武蔵野(入間)に於いて訓練され、当基地に配属され、以来基地重要施設の警備を任として、極寒酷暑の中を任務遂行する也。彼等は濫りに弱音を吐かず、責任の放棄を尤も悪(にく)む、好んで跳び走り、興一至れば獲物を追う。古人曰く『猫にも亦佛性がある』、然らば軍務に生き、軍務に倒れ、軍務に死す、軍用警備犬の是を軍神とすることや如何に)」
※旧軍では軍用犬は伍長だと言われていますが(真偽不明)、自衛隊では「高価格品」つまり物品です。
※横田基地の犬舎でウチの隊員が犬に「ジョン、ジョン」と呼び掛けたところ、案内の米兵が「イエス サー」と返事をしました。

横田憲兵隊・左端がジョン上等兵です。

ベルジャン・マラノイ(ただし海兵隊員です)
航空自衛隊武道大会での銃剣道再発について
最近、航空自衛隊の現役幹部の友人から耳を疑うような愚かしくも情けない話を聞いて、呆れ果て嘆いています。それは防府南基地で行われる航空自衛隊武道大会で、すでに徒手格闘の採用で廃止になっていた銃剣道が復活したと言うのです。
銃剣道は大日本帝国陸軍のお家芸ですが、そもそも長い30式歩兵銃(日露戦争当時の制式銃)に、これも長い長ーい30年式銃剣(40センチもあった)をつけて槍のようにした銃を持って刺突するだけの極めて限定された格闘技術です(槍でも振り回す技がありますが銃剣道では反則です)。
現在、銃剣道と称して武道に名を連ねていますが、元来はフランスから輸入された格闘術でフェンシングの兄弟に当ります。明治の創軍期、銃剣術の導入に当り士族が多かった陸軍首脳には「外来の格闘術よりも日本古来の槍術を演練すべし」と主張する者が多く、体育訓練を研究していた陸軍戸山学校の担当者が元久留米藩士であっため、若い頃に藩で学んだ宝蔵院流を取り入れて槍のような銃剣術ができ上がりました。全日本銃剣道連盟はこの史実を以って銃剣道が日本古来の槍術の系譜にある=武道であると主張しています。
しかし、銃剣を閃かしての万歳突撃は日露戦争の旅順要塞攻撃でも機関銃による掃射で犠牲ばかりが大きく時代遅れであることが指摘され、第1次世界大戦の青島攻撃でも同様であったにも関わらず、これを改めることなく太平洋戦争でも繰り返され、さらに現在の陸上自衛隊でも未だ銃剣道に励んでいる。
冷静に考えれば30式歩兵銃の長さの木銃を使っての銃剣道が89式小銃で役立つ否かは自明の理で、ましてや航空自衛隊員が銃と銃剣を持つことがどれほどあるのか?
だからこそ素手で戦う徒手格闘の有用性を認めてこれを採用する英断を下したのにも関わらず役にも立たぬ敗軍の遺物をワザワザ復活させるとは・・・また教育幹部が得意とする裏工作があったのです(あえて断定します)。
全日本銃剣道連盟は退官した陸上幕僚長を理事長に就任させたことがあり、各都道府県支部も地元部隊OBが固める典型的な天下り団体であり、航空教育隊もその恩恵を預かっているのです。
航空教育隊にとって銃剣道は、新隊員などの教育課程で形式的な審査を受けて手数料を払えば漏れなく「初段」をくれ、「昇段」させてくれる有り難い武道で、公式戦への出場経験がない野僧でさえ5段の元公式審判員です(形は体育学校仕込みで模範的ながら)。
銃剣道連盟にとっても年間、数千人の多額の審査料は貴重な定期収入であり、さらに有段者は愛好者の実績とできるのですから、これを維持することは死活問題なのでしょう。
しかし、ほかの武道(柔道、拳法)では血と汗に塗れた精進努力の結果、黒帯になったことを思うと銃剣道5段はあまりにも軽く、単に個人訓練の練成基準を達成するために買わせる銃剣道初段に何の意味があるのかと、あまりの御都合主義に怒り心頭です
戦闘員に必要なのが段位認定ではなく格闘技術であることも弁えぬ輩が教育に当たっているようでは航空自衛隊には武装組織としての未来はないのかも知れません。
尤も、第1次イラク派遣の主力部隊になった名寄の陸上自衛隊第3普通科連隊も番匠連隊長の頃に廃止した銃剣道を再開したそうですから、こうなると最早、自衛隊を蝕む遺伝性の病気でしょうか。
ちなみに航空自衛隊に銃剣道が入り込んだのは、創設メンバーに大日本陸軍航空士官学校出身者が多く(海軍出身者はスタンドプレイヤー・源田実を嫌って海上自衛隊に走ったと言われています)、警察予備隊、保安隊の流れを受ける陸上自衛隊以上に陸軍の気風を持ち込んだためと言われています。その点、海上自衛隊は武道がもたらす弊害に着目して、江田島の幹部候補生学校では訓練課目から外したそうですから流石です。
航空自衛官に相応しい格闘技の問題について野僧は現役時代から研究を重ね、そのため色々な種目に手を出し、段位はしめて17段です(ただし中身のない銃剣道5段を含む)。
今回、航空自衛隊に再発した悪性腫瘍=銃剣道は刺突だけの極めて限定された格闘技と言うよりもビリヤードに近いものですが、アメリカ軍のバイオネット・ファイティング(銃剣格闘)では刺突だけでなく主に頭部への打撃も重視しており、試合はフットボールのヘルメットをかぶり両端に大きなクッションがついた棒での叩き合いです。
また刺突も、銃剣道では昔の槍術そのままに剣を立てて足の踏み切りと合せて真っ直ぐに突き出しますが、バイオネット・ファイティングでは銃剣を寝かせて腕で振るように突き出します。
アメリカ海兵隊員にその理由を訊いたところ「肋骨の形を考えれば剣は寝かせた方が刺さりやすい」「この方が銃床での打撃に続けやすい」とのことでした。
アメリカ人と日本人では腕力が違いますからアメリカ式をそのまま導入しろとは言いませんが、銃剣道は長い銃と銃剣があって成立する格闘術であることは間違いなく、自動小銃の時代では有効性がとうに失われているのです。
では徒手格闘はどうかと言えば、これは本来、柔術の流れをくむ日本拳法に対武器などの技を加えて発展させたもので、試合は防具、グローブをつけての殴る蹴る、掴む投げる、締める関節を極めると何でも有りですが、これも戦闘技術であれば当然です。
また柔術の流れだけに、殴る蹴るの当身技と組みついての投げ技、関節技が両立しており、むしろ相手を転ばして当身技でとどめを刺すことを基本としています。
実際、当身技で相手を倒すには上手く急所に当てるか、それだけの破壊力をつけなけらばならず、かなりの修練が必要であり、投げ技で抵抗を封じて急所を突くことは理に適っています。
一方、野僧は自衛隊体育学校格闘課程に入校している時、改善意見を求められたので「現在の金属の面や硬いプラスチック製の胴を強化プラスチックの面、クッション入りの柔らかい胴に替えるべきだ」と回答しました。そうすれば手にはめる大きなグローブを拳サポーターにすることができ、投げ技も容易になって少林寺拳法の演武のように関節技さえ試合で使えるようになるからです。しかし、体育学校も所詮は「先例大事」「上意下達」の陸上自衛隊であって下からの新たな発想は採用してもらえませんでした。
野僧は警備小隊長時代には格闘技として相撲を奨励していました(ただし土俵なしで転ばすまでのモンゴル相撲ルールでしたが)。
相撲の頭から当たる破壊力は拳や足での当身技以上の衝撃があり、柔道で言う自護体から身体で押しながら態勢を崩す投げ技は実戦性が極めて高いのです(ただし、足技は掛けて押す相撲よりも刈る柔道の方が正しい)。しかも組み合う態勢は機動隊の盾の動作に通じ、警備小隊員には極めて有用でした。
しかし、先ず為すべきは何の種目にしろ武道の一本勝ちを止めて、ボクシングやレスリングのように時間内戦い続け、ポイントの累積で勝敗を決するようにルールを改めことです。
現代の航空作戦は戦闘機や攻撃機による戦闘だけでなく、打ち漏らした敵をミサイルで迎え撃ち、救難機で人員を救助し、輸送機で物資を運ぶ総合戦であり、1本勝ちの発想はそれを損なう惧れが大なのです。それで海上自衛隊は課目から外したのですから。
- 2012/06/17(日) 11:23:45|
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防衛裏話(現場から聞いた話ばかりです。防衛秘密の漏洩にはならないと思いますが)
1、竹島問題
日本国民は、日本と韓国が竹島の領有を巡って争っていると思っていますが、日本の外務省は航空自衛隊が竹島を日本の領土として対処することを許していません。
日本海で行動する国籍不明機に対して航空自衛隊が緊急発進しても、その機が竹島の方向に移動すると航空自衛隊機は追尾することは出来ませんでした。
それは海上自衛隊の対潜哨戒機の監視行動でも同様だそうです。
若し、日本政府が竹島を日本の領土だと主張するのならば、竹島に接近する韓国機に対しても警告や緊急発進などの領空侵犯処置を執るべきでしょうけど、それは「イザコザには関わらない」と言う外務官僚の「事勿れ主義」には通じません。
それどころか航空自衛隊は、探知、記録していた竹島周辺空域での韓国機の行動データも政府指示という形で消去させられていました(当時、防衛庁は総理府外局に過ぎず、外務省と対等ではありませんでした)。
したがって竹島は日本の外務省の認識ではすでに韓国領であり、外務官僚の言うままだった当時の自民党政権の本音だったのかも知れません。
せめて我々は、三河湾に浮かぶ蒲郡の「竹島」の写真を使って、「これが我らの竹島だ」と愛国政治団体に逆説、自虐の宣伝でもしてもらいましょう。
2、台湾海峡問題
台湾空軍は中国軍用機の性能向上や活動の活発化に対応するため、防空識別圏(ADIZ)の空域を広げ、それまで日本の領空との中間に設定していた防空識別圏の境界線も沖縄の宮古島と八重山の間に移動させました。
このため救難や急患空輸のため自衛隊機が八重山方面に飛行すると、台湾空軍の戦闘機が緊急発進して日本の領空に向かって飛来し、それに対して航空自衛隊が緊急発進すると言う馬鹿げた状況が生起していました。
ところが台湾海峡を飛行する中国機に台湾空軍機が緊急発進し、それが北上して日本の尖閣諸島周辺の領空に接近しても、それに航空自衛隊が緊急発進することは日本の政府(=外務省)が許さず、航空自衛隊の現場は黙って監視し、領空に接近すれば通告、警告を与えデータを記録することしか出来ませんでした。
また、台湾の総統選挙で独立派が優勢なのに危機感を持った中国が大規模演習を行い台湾海峡にミサイルを多数撃ち込んだ時も、政府(=外務省)は、「自衛隊が何らかの対処をすれば中台紛争に関与することになる」とこれを許さず、丁度、年末年始休暇に入って、隊員が通常通りに本土へ帰省すれば、不測事態があっても対応することが出来ないと自衛隊のエライさんはかなり悩んだそうです。
3、北方領土偵察写真
まだ偵察衛星がこれほど普及していなかった頃、航空自衛隊では偵察機を根室への飛行訓練を名目にして、北方領土ギリギリのところまで接近させ(本当はもっと危ないことをしていた)、高性能カメラでソ連軍基地の偵察写真を撮影していました。
ところが百里基地の偵察航空隊が根室経由で太平洋側へ旋回して戻るフライトプラン(飛行計画)を運輸省(当時)の航空局に提出すると、飛行予定日のその時間に、何故かソ連機は格納庫に引っ込んでしまい、車両はおろか兵員さえも歩いておらず、偵察機は基地施設の写真しか撮れないことが多かったそうです。
そこで航空自衛隊は、偵察機をあらかじめ千歳や三沢基地に移動させ、そこから根室へ飛行させて写真を撮ると、しっかり軍用機が写りましたが、それもすぐに先方に伝わり、その手も通じなくなったそうです。
その後も連日、根室に飛行し、そのうちの1回接近するなどの手段(戦術)を講じましたが、やがては同様の結果になりました。
「秘密保全はソ連の前に先ず運輸省」と言うのが、偵察航空隊の隊員が宴席で口にするボヤキでした。
4、運輸省の労組職員
私が勤務していた沖縄の運輸省にも公務員労組があって、御多聞に漏れず過激な反自衛隊活動を展開していました。
航空管制官が労組だと、緊急発進(ホットスクランブル)がかかって3分以内で発進準備を終え、滑走路に向かったスクランブル機が、「着陸機がある、待て」と発信許可が下りず、はるか遠くで姿も見えない旅客機を、滑走路の手前で何分も待つことがあり、緊急発進機格納庫(アラートハンガー)の前で見送っている整備員たちも、「何のための『緊急』発進なのか」と怒っていました。
また、急患空輸の陸上自衛隊のヘリコプターが、「県の要請が入っていない」と離島の空港から着陸を拒否され那覇に引き返したことがありましたが、そのため患者が亡くなると、「自衛隊に要請しているのが原因だ。県独自に急患空輸の体制を整備しろ」と地元マスコミは問題をすり替えていました。
空港を管理するCAB職員が労組では、滑走路の点検中に緊急発進がかかるといつもよりも念入りに点検を始め、スクランブル機は滑走路の手前で、CABのライトバンが退くのをジッと待つことになりました。
さらに自衛隊機が不具合で緊急着陸すると、運輸省にしか知らせていない情報がたちまち地元マスコミに流れ、「危険な軍民共用をやめろ。県民の安全のため自衛隊は那覇空港から出ていけ」と言う基地反対運動につながっていきました。
実はこれは沖縄だけの話ではなく、福岡航空局が管理する福岡空港の周囲には、航空自衛隊の築城基地、芦屋基地、防府北基地、海上自衛隊の小月基地、アメリカ海兵隊と海上自衛隊が共用する岩国基地があり、航空局はこれを監視していて、何か特異な動きがあると情報はすぐにマスコミや反対派政党に流れるので、自衛隊機や米軍機が防衛行動のため飛行する時には、秘密保全のため運輸省の管制レーダーに映らないように、識別装置を消して飛行させたりもしていました。
これは当時、全国的な問題だったそうです。
とどめがアメリカ大統領が搭乗する専用機・エアフォース1(海兵隊機ならマリン1)は実は2機編隊で飛行するのですが、1は羽田、2は横田基地に着陸しました。
そして大統領が次の訪問国に向かう時、運輸省の航空局が大問題を起こしました。
大統領の行動日程は国家機密に属し(山本五十六を撃墜した国だけに)、エアフォース2もギリギリまで飛行計画を提出しませんでした。
ところが運輸省の職員は、それを通常の軍用機の飛行計画として処理したため許可が間に合わず、エアフォース1と2が同時に発進できないことになりました。
アメリカ政府は「エアフォース1が標的にされたらどうする」と激怒し、震え上がった総理の一声で、許可が下りてことなきを得ましたが、非常識は国内だけにしてくれと言う話です。
日本の航空自衛隊の政府専用機も2機編隊で運航していますが、同様のことが起きた時、外務省にここまで強硬な要求が出来るでしょうか?
5、航空自衛隊VSアメリカ海軍航空隊の空中戦
アメリカ海軍の空母艦隊が北海道沖の太平洋において海上自衛隊との協同演習を実施し、その一環として襟裳岬のレーダーサイトを目標にして攻撃訓練を行いました。
ところが空母艦載機の行動は軍事秘密に属し、当然フライトプランを提出せず、攻撃態勢に入ると通信機、識別装置もOFFにするため、航空自衛隊としてはわが国領空に接近する事前データのない国籍不明機と識別するしかなく、警告にも応えないため、千歳から緊急発進をかけました。この時、自衛隊側としてはスクランブル機のパイロットが米軍機と確認すれば良しと言う程度の認識でした。
しかし、米海軍の規定では、作戦行動中の空母艦載機が外国機から攻撃を受けた場合、これを撃墜しても良いことになっていて(映画「TOP GUN」の通り)、米海軍の艦載機はマジに空中戦を挑んできました。
これには航空自衛隊の元ブルーインパルスのパイロットも歯が立たず、必死になって日本の領空に逃げ込み、航空自衛隊としては三沢の米空軍を通じて空母艦隊に連絡を試みましたが、相手は無線封鎖をしていて交信不能、仕方ないので後続機を発進させ、向こうも続々と艦載戦闘機を上げてきて日米開戦の一歩手前まで行き、航空自衛隊の司令官以下のエライさんたちは、腹を切る覚悟を決めたそうです。
結局、海上自衛隊を通じて連絡がとれて事なきを得ましたが、米軍は本当に味方なのか?私はあまり信じていません。
6、南沙諸島問題
小牧のC―130輸送機は中東、アフリカに派遣されているPKOなどの部隊、要員に対する輸送業務を担い、小牧から那覇、フィリピン軍の基地、タイ軍の基地、インド洋ディエゴガルシア島の米軍基地を経由して、中東、アフリカ方面に飛行しますが、フィリピンからタイまでは非常に遠回りをしています。
南沙諸島上空を通過すれば、距離はかなり縮まるのですが、南沙諸島は現在、フィリピン、ベトナム、中国が領有権を主張していて、このうちのどの国に南沙諸島上空を通過する飛行許可を求めるかは日本政府の公式見解を表明することにもなり、外務省がそれを許さず、結局、どの国にも関わらぬように遠回りしています。
ちなみに最近は、アジア、アフリカ諸国への災害援助物資などの輸送にも、C―130輸送機を使いますが、貨物を搭載して飛行すると飛行性能、航続距離が悪くなるため、小牧からタイまでは貨物なしで飛び、タイまで民間の輸送機で空輸しておいた貨物を現地で積み込んでいるそうです。
これも南沙諸島を遠回りするための窮余の対策かも知れません。
7、テポドン発射騒動
北朝鮮がテポドンを発射し、日本列島を飛び越して太平洋に達しさせた時、その航跡をとらえていたのは日本海で監視行動をとっていた海上自衛隊のイージス艦だけだったと言われていますが、その裏には航空自衛隊の失態がありました。
航空自衛隊のレーダー部隊も当然、この航跡をとらえ、記録、解析しようと、航空総隊、各航空方面隊、各警戒管制団の防衛部サイドは、警戒管制団防空指令所や各レーダサイトに監視を強化させていたのですが、それ以前から新型レーダーに更新、改修工事が完了したレーダーに対して、装備部サイドが出していた探知に関する制限を解除することを担当者が忘れていて、このため肝心の日本海側のレーダーの探知能力が十分に発揮出来ず、その結果、航跡も捉えられなかったと言います。
尤も、私は当時、テポドンが飛び越した東北地方のペトリオットミサイル部隊にいましたが、テレビのニュースで報じられるまで誰も知らなかったのですから話になりません。
8、下甑島不法侵入者捜索事件
平成9年2月、下甑島の民宿に突然、言葉の通じないアジア人男性が4人現れました。たまたま御主人は留守で奥さんは慌てて宿泊客をおこし、警察に通報して大騒ぎになり、その日のうちに島内で20名の不法侵入者が逮捕されました。
前年の秋、朝鮮半島では韓国の海岸に北朝鮮の潜水艇が座礁しているのが発見され、不法侵入した乗組員を完全武装した韓国軍が捜索して発見、交戦する事件が発生し、その場面がニュースでも報じられていて、下甑島にも乗組員が不法侵入したのではないかと言う噂が島内に広まり、役場に対応を迫る声が一気に高まりました。
しかし、下甑島内には2ヶ所の駐在所に警察官が1名ずつしかおらず、九州からのフェリーは天候の回復待ちをしていて鹿児島県警からの応援は不可能、そこで消防団を中心にした島民の捜索隊が編成され、島内の山狩りが行われることになりました。
当然、町役場からは下甑島にある航空自衛隊のレーダーサイトにも隊員の差し出し、捜索への参加が要請されましたが、防衛出動、治安出動が発令されていない状況では、自衛隊には、捜索のため私有地に立ち入る捜査権や不法侵入者に対する逮捕権はなく、ましてや武器の使用は絶対に許されていません。
そこで春日基地の西部航空警戒管制団司令部は、ピクニック、ハイキング同様の位置づけの野外訓練の命令を発令し、隊員を山狩りに参加させることとしました。
結局、他の不法侵入者は見つかりませんでしたが、問題は意外なところで大きくなりました。
そのことを伝聞情報で知った九州のマスコミ支社が東京の本社へ伝えたため、やがて全国ニュースで「独断で自衛隊が不法侵入者の捜索に出動した」と報じ始め、そのイメージ場面には韓国軍の捜索と戦闘の様子が流用されていました。
一方、下甑島民は、自衛隊が出るのなら韓国軍のように完全武装して先頭に立って捜索すると思っていたところ、作業服に水筒をつけただけの丸腰で来て、自分たちと一緒に歩き回るだけで、マスコミとは逆の不満を訴え始めました。
その後、天候が回復して運航を再開したフェリーで下甑島にやって来たマスコミ各社の記者たちが、島の実情と自衛隊の参加形態を知り、これでは問題に出来ないと判断して、たちまち話はしぼんで消えましたが、平時には自衛隊は何の役にも立たないことを思い知らされた一件でした。
- 2012/06/16(土) 21:27:42|
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大阪が生んだ2人の総理大臣
太平洋戦争の終結と敗戦後第一歩を踏み出した時の総理大臣が、ともに大阪の出身だったことは御存知ですか?
太平洋戦争を終結させたのは鈴木貫太郎首相です。
この方は現在の堺市中区伏尾の幕臣家庭に生れた海軍大将で、日本海海戦では水雷戦隊司令として勇名を馳せ「鬼貫」と呼ばれ、2・26事件では安藤輝三大尉の襲撃を受けて危うく命を落としかけています。ちなみに江戸時代に生まれた最後の総理大臣であり、77歳2カ月での就任は現在も破られていない最高齢記録です。
鈴木貫太郎首相の功績は言うまでもなく「本土決戦」「一億玉砕已むなし」の陸軍を抑えてポツダム宣言を受託し、無条件降伏を実現させたことです。
東條英機など陸軍の強硬派の前ではかつての英雄の顔で本土決戦に同調しながら、裏では和平に向けて着々と手を打ち、最後には天皇の聖断を仰ぐ形でこれを封じ込みました。
また、太平洋戦争末期、アメリカのルーズベルト大統領の逝去に際し、鈴木貫太郎首相は短波ラジオで「今日、アメリカが優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によってアメリカの日本への戦争継続の努力が変るとは考えておりません。我々もまた貴方たちの覇権主義に対して今まで以上に強く戦います」と言う談話を発信し、それをアメリカで聴いた亡命ユダヤ人作家・トーマス・マンは感銘を受け、「ドイツ国民の皆さん、東洋の国・日本にはなお騎士道精神、人間の死に対する深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな言葉の精神に比べて貴方たちドイツ人は恥しくないのですか」と大統領を口汚く罵ったヒトラーを批判しています。
一方、敗戦直後には東久邇宮稔彦と言う皇族が54日間だけ総理大臣を務めましたが、実際に動き始めたのはその次の幣原喜重郎内閣です。
幣原喜重郎首相は門真市の豪農の生まれで、戦前から外交官として戦争回避に努力しましたが力及ばず、終戦まで世捨て人のように過ごしましたが、東久邇内閣崩壊後に再登場して独自のパイプを駆使して連合国との交渉を行いました。
幣原喜重郎首相は、占領政策の1つとしてGHQから示された草案を受け容れる形で日本国憲法を成立させましたが、その引き換えに日本は民主化された国家として認められたのです。ただ、幣原内閣の閣僚たちはこの時、政治家としての無念さと国民への慙愧の想いから揃って号泣したと言われています。
この2人の政治家を見ると大阪人の現実主義と優れたバランス感覚を強く感じます。大阪商人の先物買い=先行投資の逸話はシバシバ語られますが、果たして現代の大阪の政治家にこれほどの人物がいますか?
内閣総理大臣を特産品にする長州の地から眺めていますが、あまり大阪らしさは感じていません。小泉内閣の塩川正十郎財務大臣くらいでしょうか。
余談ながら歴史的に見れば大阪に「維新」と言う句は相応しくありません。
どうせなら大阪から幕政に一石を投じ、封建社会そのものを大きく揺さぶった大塩平八郎に因み、その私塾「洗心堂」から採ってもらいたかったものです。
愛知が生んだ2人の総理大臣
愛知県は大阪同様に多くの選挙民を抱える国会議員の量産地域ですが、総理大臣はやはり2人しか出ていません。
しかし、歴史に大きな足跡を遺し日本を救った大阪の2人の宰相に比べ、愛知の2人は歴史に汚点を残したとしか思えないような人物です。
一人は加藤高明ですが、コイツは大隈内閣の外務大臣時代、対華二十一カ条要求を行い、それまでは日本を近代化の手本と見てくれていた中国の恨みを買い、欧米には大陸への野心を明らかにして不信を招いてしまいました。
そして護憲三派の後押しで総理大臣になった大正末期には、大正デモクラシーの高まりによる国民世論の圧力に抗しきれず普通選挙法を制定し、25歳以上の男子に選挙権を与えたものの、これは女性の参政権を認めず生活困窮者は除外するなど、決して時代の流れに対応したとは言えない不十分な代物でした。
さらにこの法律に抱き合わせる形で治安維持法を成立させ、当時、胎動し始めていた無産政党(労働者政党)を政治どころか社会からも封殺しました。
後に日本が戦時色を深めるにつれこの悪法は曲解を重ね、やがては最高刑が死刑になるに至り、自由を求める言論人へ弾圧や平和を願う市民の声すら抑制する道具に使われ、あの無謀な戦争に突き進ませたことは議論の余地もなく、戦前の日本史をナチス治世下のドイツに比肩するほど暗く陰惨なモノにしたのは紛れもない事実です。
二人目は海部俊樹ですが、コイツは竹下内閣のリクルート疑惑による国民の金権政治への批判の目を反らすために自民党が登場させた中和剤に過ぎません。
この手はロッキード事件による田中角栄への批判に対し、非主流派の三木武夫を担ぎ出して前首相の逮捕と言う派手な演出で鎮静化させたことの二番煎じでしたが、海部には三木ほどの見識、覚悟もなく、ただ財界からも相手にされないようなクリーンなイメージと他に取り柄のない巧みな弁舌で一時的に人気を博しただけでした。
ところが歴史はこの愚かな総理大臣の登場を許しませんでした。
海部が総理大臣になって357日後の1990年8月2日、サダム・フセイン大統領のイラクが突如、クエートに侵攻して湾岸戦争が生起したのです。
海部には始めからこの事態に対処する見識、覚悟はなく、ただアメリカに言われるままに多国籍軍への財政支援を表明し、それは次第に膨張して日本の戦費で欧米諸国が戦争をするような状況になりました。
しかし、海外からは「日本は金を出すだけで血を流さない」との批判の声が上がり、海部内閣はこれに反論することが出来ず、かと言って自衛隊の海外派遣を危惧する国民に説明して理解を得る努力もせず、ただ追い詰められていくばかりでした。
結局、海部が出した結論は、航空自衛隊の輸送機を丸腰で派遣して難民輸送に当らせると言う無責任なものでしたが、その準備をさせただけで出動を命ずることもなく、3月3日に停戦が成立して湾岸戦争は終結しました(航空自衛隊怪僧記参照)。
ところがこの手を韓国がそのまま実行したため、あちらは国際社会での評価を高め、日本の威信は地に落ち、それで焦った海部内閣が打ち出したのが海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣し、機雷を除去させると言う戦後処理でした。
実はここでも海部は、作業対象海域は公海に限り、公海であれば通常業務の範囲であるから特別な立法はしないと言う小手先の業を弄しました。
結局、本質的な議論もなく、なし崩し的に自衛隊の海外派遣への道を開いたことは、その後のPKO法、さらにイラク特別措置法などにも踏襲され、自衛隊は日本国内の非常識によって手足を縛られたまま戦闘地域ではない戦場に赴き、戦闘行動ではない軍事的任務につくことになったのです。
鳩山由紀夫が登場するまでは、間違いなく海部俊樹こそ戦後最低・最悪の総理大臣でしたが、あれ以下がいたことには驚きを禁じ得ませんでした。
岩手が生んだ5人の総理大臣
岩手県は5人の総理大臣を輩出したと言われますが、これには些か疑問があります。内閣府が示している総理大臣の出身地の定義は、戦前はそのまま出身地、戦後は選挙区と言うことになっており、だから東京で生まれ育った2世、3世議員を地方の人々も「郷土出身の大臣先生」と言うことにできるのですが、5人の中で問題になるのはやはり東條英機です。
東條家は江戸時代、加賀から盛岡藩に召し抱えられた能楽者(早い話が芸人)の家柄ですが、父の英教は陸軍軍人として陸軍士官学校、陸軍大学校の教官として勤務しており、英機も東京で生まれ育ち、地方陸軍幼年学校も仙台ではなく東京でした。
ただ、本籍地は岩手県に残しており、つながりがあったことは間違いありません。
東條英機が人気のある総理大臣であれば「何が何でも岩手県出身」と言われるのでしょうけど、我が国を滅ぼした元凶=A級戦犯でありますから、現在、山口県宇部市出身の菅直人を「選挙区が東京だから山口県出身ではない」と地元が拒否しているのと同様なのでしょう。ただ岩手県の場合、東條を入れれば5人ですが、除くと群馬県と同数の4人になってしまいます。
岩手県の総理大臣と言えば先ずは平民宰相の原敬ですが、政治家になる前は外務省、農林省などの高級官吏で叙勲の話も何度かあったのを本人が拒否したのですから、庶民派と言う意味での平民とはやや趣(おもむき)が異なります。
原首相は大隈内閣の対華21カ条要求や寺内内閣のシベリア出兵で行き詰っていた外交を英米協調路線に転換することで打開しようとし、内政でも山積する各種難題に積極財政処置を行って取り組んでいました。しかし、欧米諸国の中国での権益を認めたことで、その独占を狙っていた軍部、財閥につながる右翼に敵視され、東京駅構内で大塚駅の駅員であった右翼青年に刺殺されました。
次に斉藤実首相ですが、こちらは岩手県出身と言っても盛岡の南部藩ではなく、水沢(=小沢一郎の選挙区)にあった伊達支藩の藩医家庭の出身の海軍大将でした。
日露戦争当時は海軍次官として山本権兵衛海軍大臣に仕え、その後、寺内内閣から山本権兵衛内閣まで8年間、海軍大臣を務めています。
斉藤首相が就任したのには5・15事件の犬養毅首相の暗殺により政党政治が揺らぐ中、昭和天皇は右翼的な人物を嫌い、逆に政界は政党政治家の擁立に躊躇し、その結果、アメリカ駐在武官も経験している穏健派軍人の斉藤大将に白羽の矢が立ったと言う訳です。
斉藤首相は内政としては世界恐慌の処理に努力し、外交ではそのバランス感覚と豊富な人脈で欧米との協調路線をとっていたのですが、そのリベラル色を嫌った軍部や右派政党から粗探しのような政治スキャンダルを演出され、中でも帝人事件では150名近くの逮捕者が出たのに裁判では全員無罪と言う珍騒動になりました。
結局、現在の政界にも通じるこの愚かしい政局によって退陣に追い込まれたのですが、その後も昭和天皇の信任は厚く内大臣を務めたものの、世界恐慌で庶民が味わっていた苦しみの責任を押し付けられる形で2・26事件の犠牲になりました。
東条英機と米内光政閣下については「戦士の戦史」で述べましたので省略します。
最後に鈴木善幸首相ですが、野僧は海部俊樹が登場するまでは、この人が戦後最も愚かな首相だと思っていました。
鈴木内閣当時、中学校の歴史教科書で「大陸への侵略」とされていた記述が「進出」に変更されていると言う問題が新聞各紙でセンセーショナルに報じられ、それを受けて中国、韓国が猛烈な抗議をしてきたのですが、それに対して「今後は近隣諸国に配慮する」と言う談話を宮沢喜一官房長官に発表させ、歴史認識を人質に差し出したのです。ところがこの記述変更は完全な誤報で始めから「進出」とされていたのですが、それでも鈴木首相は宮沢談話を撤回せず、その後の政府が謝罪外交を繰り広げる切っ掛けを作ったのです。
また、膨大な赤字を抱えた国鉄職員の年金が滞った時には、それを自衛隊員と電電公社の職員に肩代わりさせると言う意味不明の対策を取りました。
この結果、自衛隊員たちは自分たちを否定する過激な政治闘争を繰り広げていた国労の年金まで支払うことになり、電電公社の職員は民営化されNTTの社員になってからもJRの経営が軌道に乗るまで払い続けることになったのです。
群馬が生んだ4人の総理大臣
群馬県のすごいところは4人とも戦後の総理大臣であることです。
総理大臣の量産を誇る山口県でも戦後は岸信介、佐藤栄作、安倍晋三の3人だけ(あくまでも菅直人は除く)ですから群馬県は突出しています。
その中でも福田赳夫と福田康夫は初の親子の首相で、岸信介と佐藤栄作の兄弟、吉田茂と麻生太郎、鳩山一郎と鳩山由紀夫、岸信介と安倍晋三などの祖父と孫とは世襲としても一線を画しています。
また福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三は中選挙区時代、同じ選挙区で福田赳夫と中曽根康弘が首位を争い、小渕恵三は指定席の3位当選だったそうです。
それにしても同じ選挙区選出の国会議員の全員が総理大臣まで上り詰めるとは凄いことで、「総理大臣になりたかったら群馬から出馬しろ」何て伝説ができそうです。
ただ、福田赳夫首相についてはダッカ事件の時、連合赤軍の要求に屈して、「人命は地球よりも重い」と言う妄言を発し、活動家でもない囚人たちまでを特別処置として釈放し、身代金をつけて引き渡したことがどうしても許せず、その他の経済政策などに業績があったとしても評価はできません。
中曽根康弘首相は長期政権であり、長身で見栄えのする容貌、低音の魅力の巧みな弁舌、さらにドナルド・レーガン合衆国大統領との「ロン・ヤス」の親密さなど国際社会で日本の地位を著しく向上させた=大国としての地位を確立したことと国鉄と電電公社の民営化などの土光臨調と併せて功績は大でしょう。
小渕恵三首相は自ら「人柄の小渕」と言っていたように、独特のほのぼのとした親しみやすいキャラクターは不況に沈みゆく日本にとっては、癒し、救いになっていましたが惜しむらくは在任中に逝去されてしまいました。
また小渕内閣に於いて北朝鮮の不審船に対して海上自衛隊に初の海上警備行動が発令されました。ただ、小渕内閣が成立させた国旗国歌法の国歌に反対である野僧としては、そこだけが引掛かります。
福田康夫首相は最近過ぎてコメントは避けますが、この方のキャラクターは一見して元優等生・エリート官僚であった父の赳夫首相とは違ったとぼけた味があり、テレビなどで批判され、民主党の小沢辺りが攻撃をすると同情してしまったものです。
「本当に可哀そうなくらい苦労しているんです」と言う答弁には、思わず「頑張れ」と応援していました。
山口が生んだ8人の総理大臣とおまけ1人
こちらは多過ぎますので、とりあえず名前を列挙すると、初代総理大臣・伊藤博文から始まって山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、そして戦後が岸信介、佐藤栄作、安倍晋三の各首相ですが、戦前の5人のうち4人が陸軍大将だったことを見ても、山県有朋が身内を引きたてた長州人脈が確認できます。
山県は高杉晋作の奇兵隊で活躍し、戊辰戦争を経て明治新政府が創設した陸軍内で揺るぎない地位を得たのですが、長州独特の「はぐくみ」と言う前途有望な若者を養子のような形で引き取り、育成しながら子分にして、やがて後継者にする制度をそのまま持ち込み、長州出身者を重用したことが「長州閥」と呼ばれる排他的て独善的な帝国陸軍の風土を作った面は否めません。何よりも現在も問題になっている日本の官僚気質は間違いなく長州人のものです。
ただ、伊藤博文首相は周防国の農民・足軽の出身ですから長州人ではありません。
桂太郎首相は日露戦争当時の首相で国難を切り抜ける力となりましたが、同郷の乃木希典の指揮する第3軍が旅順攻撃で甚大な損害を出したのにかなり参ったようです。また、記録が残っている日本人の中では最も重い大脳の持ち主だったそうですが、だから頭が良かったのかは不明です。
その後の寺内正毅首相は政治に陸軍の主張を持ち込むことしかせず、ロシア革命に驚いてシベリア出兵を強行しましたが、どんな情報、見通しがあってのことだったのかは判りません。少なくともその後、財政、外交上の負担になっていきました。
田中義一首相は自分のことを「オラ」と言うので「オラが総理」と呼ばれ親しまれていたと言いますが、野僧は山口県に住んで久しいものの、こちらで「オラ」と自称する人に会ったことがなく真偽、経緯について首を傾げています。
張作霖爆殺事件の支離滅裂な上奏で昭和天皇の不信をかい、「オラは陛下の信任を失った」と言って退陣したとも伝わりますが、これもどうでしょう。
戦後は岸信介、佐藤栄作兄弟と岸首相の孫の安倍晋三首相ですから、こうなると長州閥と言うよりも一族と言うことになります。
今でも地元の人は「信介さん(岸首相)は優秀だったが、栄作(佐藤首相)は馬鹿じゃった」「信介さんは帝大を出て東京で役人になったが、栄作は所詮、国鉄じゃからのう」「だけど男前は栄作の方が上じゃった。政界の玉三郎じゃけん」などと親しみを込めて評価しています。
ちなみに岸信介首相は元A級戦犯ですがこの辺りが東條英機とは違うのです。
復活を果たした晋三さん(地元での呼び方)はどうしても「晋太郎さんの息子」「信介さんの孫」と言う評価から脱することができず、期待よりも心配が先に立っていましたが、今回は民主党政権で混乱した国政の再建を待望する歓声になりました。
民主党の菅直人首相が就任した時、出身地の宇部市を中心に「山口県出身の9人目の総理大臣」と歓びかけたのを当時の二井知事が、「総理府が示している総理の出身地の基準に適合しないので、山口県出身ではなく縁(ゆかり)のある総理大臣だ」と水をかけました。しかし、現在では「二井さんは見る目があった」とその達見が評価されています。
各都道府県が生んだ総理大臣
岩手県のところで紹介したように総理府が示している出身地の基準は、戦前が生まれ育った故郷、戦後は選挙区と言うことのようです。
北海道 鳩山由紀夫
岩手県 原敬 斉藤実 東條英機(東京都?)米内光政 鈴木善幸
栃木県 小磯国昭
群馬県 福田赳夫 中曽根康弘 小渕恵三 福田康夫
千葉県 野田佳彦
東京都 高橋是清 近衛文麿 鳩山一郎 菅直人(山口県?)
神奈川県 片山哲 小泉純一郎
新潟県 田中角栄
石川県 林銑十郎 阿部信行 森喜郎
福井県 岡田啓介
長野県 羽田孜
静岡県 石橋湛山
愛知県 加藤高明 海部俊樹
滋賀県 宇野宗佑
京都府 西園寺公望 東久邇稔彦 芦田均
大阪府 鈴木貫太郎 幣原喜重郎
岡山県 犬養毅 平沼騏一郎 橋本龍太郎
広島県 加藤友三郎 池田隼人 宮沢喜一
島根県 若槻礼次郎 竹下登
山口県 伊藤博文 山県有朋 桂太郎 寺内正毅 田中義一 岸信介 佐藤栄作 安倍晋三
香川県 大平正芳
徳島県 三木武夫
高知県 浜口雄幸 吉田茂
福岡県 廣田弘毅 麻生太郎
佐賀県 大隈重信
熊本県 清浦奎悟 細川護煕
大分県 村山富市
鹿児島県 黒田清隆 松方正義 山本権兵衛
しかし、この基準で考えると、例えば元々は兵庫県芦屋の令嬢でそこが選挙区だった小池百合子氏は小泉郵政選挙の折、東京へ国替えしており、若し女性宰相になったなら東京出身になるのでしょうか?(だからと言って菅直人はいらないですが)
一方、未だ総理大臣が出ていない県は青森県、秋田県、宮城県、山形県、福島県、茨城県、埼玉県、山梨県、富山県、岐阜県、三重県、奈良県、和歌山県、兵庫県、鳥取県、愛媛県、長崎県、宮崎県、沖縄県ですが、山形県は加藤紘一、山梨県は金丸信、兵庫県は小池百合子(土井たか子?)で期待を裏切られ、岐阜県は野田聖子、奈良県は馬淵澄夫、鳥取県は石破茂の今後に期待ですかね。
- 2012/06/15(金) 20:00:09|
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戦士の先史
野僧は、西部航空警戒管制団防空管制隊に勤務している時、西日本から朝鮮半島までカバーした画像を見ながら、思い浮かべていた歴史書がありました。それは「古事記」です。
また、後年、北部航空方面隊第6高射群に赴任して学んだ歴史書があります。それは「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」です。
つまり大陸から我が国に向かってくるunkown(アンノン)の航跡を見ながら天孫降臨を想い、津軽の地で部隊の機動計画を策定しながら迫り来る大和朝廷軍を迎え撃つ戦術を考えていたのです。
これはそんな古代戦史ですが、あくまでも素人の勝手な空想の産物であることをあらかじめお断りしておきます。
古事記は昨年は編纂1300年にあたり注目を集めていましたが、東日流外三郡誌の方はあまり知られていないので簡単に内容を説明いたします。
古代日本には北から移入したアソベ族が先住していて、そこに大陸からツボケ族が渡来して、津軽を中心とする第一古代王朝を建国しました。
そこには古代文字があり、奥羽山脈に「石の塔」と呼ばれる巨石建築物を建設し、遮光式土偶を神像として祀っていたとされています。
その後、神武東征により関東地方から追われた耶馬台(やまたい)族が移入、融合してアラハバキ王国を樹立したと言う、ある意味、皇室による日本統治を否定する史観であり、それゆえに異端の史書として否定されてきたのです。
しかし、野僧は三内丸山遺跡の縄文文化が注目を受けている時期に津軽へ赴任して、地元の人たちと親密につき合うことで、そこにかつて馴れ親しんでいた沖縄の人々との深い共通性を見い出し、この歴史観が事実であると確信するようになりました。
例えば弔いや吉凶占い、祓いなどの神事を行う女性を東北ではイタコ、沖縄ならユタ、奄美はノロと言い、男性は東北なら毛坊主(毛がある坊主)、沖縄ではニンプチャア(念佛者)と呼称こそ異なるものの果たしている役割や祭礼の儀式は殆ど同じです。そもそも中央では非人として蔑まれていた芸能を生業とした人々も、東北と沖縄では神事との区別がなく尊重されていたことも共通しています。
さらに江戸時代、佛教の庶民への浸透によって避けられるようになった肉食も津軽と鹿児島、沖縄では明治まで残って郷土料理になっています。
ただし東北でも津軽以外、九州なら鹿児島以北の地域は鎌倉時代以降は中央からの派遣領主、進駐軍によって支配されていたため、固有の文化は民間信仰としてのみ痕跡を留めるだけになってしまいました。
つまり津軽と九州南部、沖縄の文化が共通であると言う仮定に立って眺めると、古代の日本には縄文人が先住していて、後から割り込む形で稲作文化を持った弥生人が移入してきたと言う先史が浮かび上がってくるのです。
古事記では、上つ巻の冒頭から伊邪那岐命と伊邪那美命の夫婦神が最初に産んだ子は奇形児だったので「蛭子(ひるこ)」と名づけて海に流したと言うショッキングな話がありますが、この「蛭子」が日本の先住民族・戎(えびす。恵比寿は後世の当て字)を表しているとも言われ、「蛭子神社」と書いて「エビス神社」と呼ぶところもあります。
野僧も玄界灘沿いで幾つかの「蛭子神社」を見ましたが、これは先住民族と言うよりも、この国に先兵として送られた王族が先住民と同化するなどしたことを意味しているのではないかと愚考しています。
続いて天孫降臨ですが、この舞台が九州だとすれば朝鮮半島からの移入にも無理はありません。
高千穂の峰、天の岩戸、木花の佐久夜毘売が海幸彦、山幸彦を生んだ鵜戸神宮の洞窟などを現地に見ると神々の吐息、鼓動が聞こえてくるようでした。
余談ながら野僧は、「邪馬台国は九州にあった」と考えております。
その論拠は、当時は陸路の整備は殆どなされおらず、近畿と九州の交通手段は水運だったはずで、当時の造船・航海技術から見れば、近畿地方から瀬戸内海を通って関門海峡を経て玄界灘、東シナ海を渡って中国へ行くことには無理があり、九州で覇権を確立した国家と考える方が自然だろうと言うことです。
野僧は北部九州、奈良の両方に暮らしたことがありますが、古事記でも九州は上つ巻、大和(奈良)は中つ巻以降の舞台だと感じていました。
古事記の出雲神話は、朝鮮半島から山陰地方に上陸した別の族があり、そこに九州を中心に支配権を確立していた王族が侵攻し、奪った過程を説話的に表現したのではないでしょうか。
古事記にも出てくる因幡の白兎の昔話も、隠岐を経て出雲に上陸した族が先住民によって被害を受け、それを侵攻してきた王族が救済した史実が変質したものではないかと推理しています。
中つ巻に入ると神武東征により中央地域に拠点を移したの王族は、地歩を固めるとともにやがて倭建命(やまとたけるのみこと)を派遣し、九州の熊曽建(くまそたける)を討ち、さらに東伐で関東地方へ進出しますが、
ここで東日流外三郡誌とつながります(北畠親房の「神皇正統記」では「転じて陸奥国にいる」とあります)。
ただ、この中央の王族、すなわち皇室の日本支配のための戦いは、その後も奈良時代には征夷大将軍・坂上田村麻呂の東北侵攻、さらに平安時代に入っても坂東独立を目指し乱を起こした平将門が「新皇」を名乗り、その鎮定に大軍が派遣されたこと(鎮定軍が到着する前に坂東武者によって滅ぼされた)、さらに源頼義、義家父子と安倍一族との前九年、後三年の役に続き、鎌倉幕府によって奥州藤原氏が滅ぼされるまで、ヒョッとすれば戊辰戦争における薩長土肥による奥羽越列藩同盟攻撃もその延長線上にあるのかも知れません。
前回、因幡の白兎の話を書きましたが、実は桃太郎伝説にも同様の背景があると言われています。
桃太郎伝説は吉備(岡山県)が有名ですが、愛知県など全国各地に伝承されています。これらの地域に共通しているのが大和王朝に臣従しない古代勢力が存在したことで、つまり桃太郎は大和王朝から派遣された征討軍、鬼が臣従しない古代勢力と言うことになります。
こうして弥生人の農耕文化を持った皇室が、東北と南九州へ鬼を追いやる形で日本国中を支配していったのですが、そんな中で各地に取り残された人々がいました。
彼らは血の穢れを忌み嫌う農耕文化の中で、死人の埋葬や家畜の交配、屠殺、皮の加工などを生業としていて徹底的な差別を受けてきました。
現代の日本に生きる我々は、この問題の背景には「民族の文化」「抗争の過去」があることを認識しておくべきであり、この過去の遺物である差別意識は即刻捨てなければなりません。
皇室の御先祖さんの物語「古事記」が血みどろの戦闘シーンばかりだと誤解されても困りますので、(ホッと一息つくため)その中のエッチなシーンばかりを集めてみました。これも「いざ一戦」ではありましょうけど。
この国土が出来た場面から始まるのは旧約聖書の天地創造に通じますが、古事記ではいきなり男神・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と女神・伊邪那美命(いざなみのみこと)が登場し、自分の身体を確かめた後、男神が「お前の身体はどうなっている」と問い、すると女神が「私の身体は出来上がっているが一カ所足りないところがある」と答えたので、男神が「私は一カ所余っているところがあるので、それで足りないところをふさいで国を生もう」と言います。
つまり、いきなりエッチなシーンから始まるのがこの国の神話なのです。
こうして国を生むことにした二柱(神さんは柱と数えます)は、天の御柱の周りを回りながら出会い、女神が先に「あら、好い男」、続いて男神が「おッ、好い女」と言い合ったのですが、男神が「女からナンパするのはよくない」と言って、案の定、骨のない子供・蛭子(ひるこ)が生まれたので海に流して捨てたことは先に述べました。
次に、この二柱の末裔である邇邇藝能命(ににぎのみこと)がある時、郷に降りて来て、美しい娘・木花の佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)に会いました。
そこで邇邇藝能命はナンパしたのですが、その時、「お前には姉か妹はいないのか?」と訊き、すると娘が「姉がいます」と答えたので、「今夜、姉と一緒に訪ねて来い」と命じたのです。
その夜、姉妹が訪ねてくると姉は非常にゴツくて不細工だったので、邇邇藝能命は「お前は帰れ」と追い返し、妹の木花の佐久夜毘売とちぎりました。
この話を聞いた郷の神である姉妹の父は、「姉の石長毘売(いわながひめ)は岩の化身、妹は木の花の化身なので、これから神の寿命は木の花のようにはかなくなるだろう」と言い、これ以降、神の寿命は次第に人間のように短くなりました。
やがて木花の佐久夜毘売が妊娠したのですが、そのことを邇邇藝能命に言うと、「お前とは一晩しかちぎっていない。それは郷の神の子だろう」と責任を認めませんでした。それに怒った木花の佐久夜毘売は「火の中で無事生まれてくればそれは貴方の子だ」と宣言し、洞窟に籠って火を放ち無事二人の子供を生みました。
この場所が現在の宮崎県の鵜戸神宮で、生まれた子供が海幸彦、山幸彦だと言われています。ちなみに海幸彦の子供が初代・神武天皇です。
続いて日本神話最大の英雄、倭建命(やまとたけるのみこと。日本書紀では日本武尊)の話ですが、こちらにもリアルなエッチシーンが出てきます。
倭建命は、父である景行天皇の命令で九州や関東を征討したのですが、現在の名古屋の熱田神宮がある場所に妻・美夜受比売(みやずひめ)がいて、関東から信州を攻めて戻り、妻と「イザ一戦」と迫ると妻に生理がきて、倭建命は「久しぶりに枕を共にして我れはイザしようと思ったのに汝の着物の裾が月のモノで汚れた」と言う歌を送って嘆きました。すると妻は「何カ月もほかっておくから待ちかねて月のモノがきたのよ」と答えたのです。
古事記には倭建命は関東を攻めた時、足柄山に登り妻を思い出して三度嘆いた後、「吾妻(あづま)はや」と呟いたので、その地を「阿豆麻(あづま)」と言うようになったと記されていますが、これほど恋焦がれていた妻だったのですから、さぞやガッカリしたのでしょう。
その後、倭建命は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ。後の草薙剣・くさなぎのつる
ぎ)を妻の元に残して伊勢方面を攻めたのですが、その時「脚が三つに重なる
ほど疲れた」と言って亡くなりました。
これが三重の地名の由来とされており、現在も天皇さんの皇位を示す三種の神器の一つ草薙の剣は熱田神宮の御神体になっています。
ちなみに「神宮」と言う呼称は本来、伊勢のことを表しますから「伊勢神宮」と言う呼び方は間違いです。これは「大社」の「出雲大社」も同様です。
最後は雄略天皇で、ある時、奈良の三輪山の辺りまで遊びに行くと、そこで非常に美しい童女に会いました。
そこで天皇さんが名を訊くと「赤猪子(あかいこ)」と答えたので、「すぐに迎えに行かせるから、嫁にいってはならぬ」と命じて御所に帰りました。
ところが天皇さんはそのことをスッカリ忘れてしまい、月日はドンドン流れて赤猪子は80歳になり、思い余って御所に天皇さんを訪ねました。
すると天皇さんが「婆さん、お前は誰だ?何しに来た」と尋ねましたので、赤猪子は「私は貴方に昔、ナンパされた女です。その命令を守っているうちに八十歳を過ぎてしまいました。身寄りもありません。ただこの気持ちをお伝えしたくて訪ねてきました」と答えました。
それを聞いて天皇さんは大いに驚き、本当は「抱いてやりたい」と思ったものの余りにも年老いていたので、「ワシはすっかり忘れておった。お前はワシの命令を守っておったのか。しかし、もう年で駄目だ、何とも残念だァ」と言って、赤猪子に多くの褒美を与えて帰したと言うことです。
さて、日本の天皇さんを海外では「最もスイトイックに一夫一妻制を守っている皇帝」と呼ばれ、日本人も「理想の夫婦像を体現されている」存在と思っていますが、御先祖様はこんな自由に気持ち(欲望?)の赴くまま振舞っていたのです。
その意味では愛妻だけが取り柄のような今上さんの現代皇室よりも、源氏物語に描かれている光源氏の女性遍歴の方が日本の皇室の本来の姿かも知れません。
日本人の国防観
日本人は、切腹による自栽(=自分を裁くこと)や特攻、玉砕などの戦いぶりなどから、「死を恐れない勇敢な民族だ」と思われていますが、実は「信仰」とも言えるほど死を懼れ、忌み嫌う一面も併わせ持っていました。
日本には「言霊(ことだま)」と言う信仰があります。これは言葉には現実を引き寄せる力があり、悪いことを口にすると悪いことが現実に起こるというもので、音が「死」に通じる「四」を嫌って建物の4階を呼び飛ばす習慣などにも表れています。
「し」の音なら「幸せ」にも通じると思うのですが、そうならないところが日本人の根暗な性格、後ろ向きな性分なのかも知れません。
日本人は古来、「死」を恐れるあまり、「死」につながる原因である「病い」や「戦い」「災い」なども懼れ怯え、それを治す、それに勝つ、それを防ごうと立ち向かうより、それに関わらないことでやり過ごそうと努めてきました。
それが最も顕著になったのが平安時代の公家による政治です。
現代の保守派の人々は、日本国憲法、中でも第9条の「戦争の放棄」を占領軍・GHQが占領政策を円滑にするために押し付けたもの、日本人が再びアメリカに抗することがないように弱体化させるためのものと批判しますが、公家政権の憲法と言える大宝律令でも、戦争に関する規定は意図的に有名無実、空文化されていました。
古代、近代を問わず国防、治安維持、大規模災害対処などの国家を維持、運営するため必要不可欠なこれらの業務は、大宝律令の制定に際して参考にした中国の律令にも当然、明文化されていますが、これを平安朝廷の公家たちは懼れ、忌み嫌い、その担当部署を空席にして(=公家はその役職に就くことすら嫌っていた)、公には関わらないようにしました。しかし、それでは国家が維持出来ないので、苦し紛れに創ったのが律令に規定しない「令外の官(りょうげのかん)」である検非違使でした。
検非違使の担当業務は、国防(と言っても京都の防衛)、治安維持、犯罪捜査と共に非人を使って死者を埋葬すること、災害復旧、掃除など死、穢れにまつわる忌まわしいこと全般でしたが、検非違使が令外の官である以上、朝廷は口は出しても手は出さず、公には不関与、無関係と言うことになっていました。
これは日本国憲法の令外の官である自衛隊の任務が、防衛出動、治安出動、災害派遣と言う非常事態であることにも符合します。
逆説的に言えば、日本国憲法が、「戦争の放棄」を高らかに謳っているのは、日本人にとっては先祖伝来の信仰の発露と言え、国防のみならず、本来なら国政を担う政府の主要業務、存在理由たる治安維持や大規模災害対処などの規定がないことも、些か皮肉な見方ではありますが、(この憲法の制定が占領軍の命令によるとしても)その内容が極めて日本的であることの証左ではないでしょうか。
確かに、世界的常識から見れば、日本国政府が憲法上、政治の存在理由とも言える国家非常時に対処する根拠さえ有さないことが理解出来ないかも知れません。
しかし、建前と本音の使い分けに慣れた日本人には、理想=建前を掲げる憲法と、それでは対処出来ない現実=本音に対処するために自衛隊、警察、海上保安庁、消防を設け、維持していることに矛盾は感じないでしょう。
日本においては、「戦争に備えろ」と声を大にして叫ぶような者は、言霊により戦争を引き寄せる危険人物として嫌われるしかなく、政府も国民も、そのような忌み嫌うべき災厄からは目をそらし、無関心を決め込むのが本来の生活態度なのです。
その陰で令外の官だけが人知れず、黙々と災厄を防ぎ、これに対処するのですが、京都の公家たちは鎌倉時代になって元寇が生起した時も、元軍を打ち破ったのは皇室や公家が寺社に行った「怨敵退散」の加持祈祷の結果、現地で巻き起こった「神風」であり、難敵・元軍と戦い、血を流し、傷ついた鎌倉武士の功績、活躍は認めようとしませんでした。
「近代化しなれば欧米列強の植民地になる」と言う危機感にとらわれ、欧米の制度を導入することに躍起になっていた明治新政府が制定した大日本帝国憲法においては、天皇に関する規定でさえ、王権成立の経緯が全く違う欧州の立憲君主制を無理やり当てはめて変質させていますが、明治よりも前の天皇の在り様が、権威はあれども権力は持たぬ存在であったことを考えれば、むしろ日本国憲法が宣している「国の象徴」であったと言うべきでしょう。
軍もまた然り、戦争によって国家を成立させ、戦争とは国家意志を他国に強制する手段、即ち正義であると定義する欧米では、軍、軍人は国家意志を実現するため、自己の危険を顧みず奉仕する職業として尊敬の対象になりますが、ここ日本においては戦争とは死をもたらす忌み嫌うべき災厄であり、軍は人を殺傷するための危うき存在、戦さを生業とする忌まわしき集団であり、「無いに越したことはないが無いと困るから飼っておく」謂わば必要悪に過ぎないのです。
古来、武士たちは「悪源太」「悪太郎」など、名に「悪」を冠することを喜びました。ここでいう悪とは、死を懼れ、それから眼をそらすばかりの公家が治める社会、公家が持つ常識に対するアンチテーゼであって、死を懼れぬ勇気の表現でもありました。
しかし、それは武を持って生業とする禍々しき存在だけの話で、正業にある人々は、死を懼れ、危うきものから目をそらしながら暮らすのが、この国の作法なのです。
- 2012/06/14(木) 20:37:14|
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朝鮮戦争
朝鮮戦争の開戦は「どちらが先に手を出したのか?」この問題は日本国内でも左右両陣営によって長年、論議されてきました。
日本社会党(朝鮮労働党日本支部)を中心とする左派政党は「北朝鮮が韓国軍の北への侵攻意図を察して、その脅威を排除するため先制攻撃を行った防衛戦争だ」と主張し、自民党(米共和党日本代理店)は、「北側が半島統一の意図を持って侵攻した侵略戦争だ」と主張しています。
まあ、結果を見ればどちらに説得力があるかは明白ですが、ただ、知人の元韓国軍将校は、北朝鮮を批判する前に、「北の侵攻を防げなかった我が(韓国)軍の油断と怠慢が許せない」と怒っていて、野僧も「これこそが軍人たる者のあるべき態度だ」と感服しました。
実際、戦争の初期、北朝鮮の軍事侵攻により韓国政府が釜山付近に追い詰められた時には、マッカーサー(アメリカ的な発音ではマックアーサー)司令部は、山口県豊浦郡(現・下関市)豊浦町付近に人口6万人程度の都市を建設し、韓国亡命政府を受け入れる計画があったそうで、それほど事態は切迫していました。
この敗戦寸前の不利な戦況を一気に逆転させたのは、マッカーサー司令官の指揮による米軍を中心とした国連軍の仁川上陸作戦でした。
これにより釜山にまで韓国軍を追い詰めていた反面、補給線も延び切っていた北朝鮮軍は、側面を突かれて寸断され、敗走しました。
ただ、米軍は、この作戦を上陸には不向きな遠浅の仁川の地形を殊更に強調して、「奇跡の作戦」であったかのように宣伝していますが、日清、日露戦争の時にも日本陸軍はここから上陸しており、マッカーサー得意の誇大広告と言えなくもありません。
この結果、国連軍は逆に一気に平壌付近にまで北朝鮮軍を追い詰めたのですが、これに呼応したのが、当時はまだ建国して間もなく、国際連合に未加入だった中華人民共和国でした。
中国人民解放軍は、得意の人海戦術を駆使して、国際連合軍を朝鮮半島の中央付近まで押し返しました。
人民解放軍は、国連軍の機銃掃射にも怯まず、山の稜線から雪崩をうったように一気に押し寄せて陣地に殺到して兵士の海に呑み込んだ。
記録映像を見ても、陣地を目指して横一線に押し寄せる人民解放軍兵士の波の後には機銃弾に斃れた兵士の遺体だけが残されていました。
また、夜間に音もなく陣地、宿営地に潜入すると、寝袋で寝ている米兵を銃剣で刺し殺して回ったようです。このため、国連軍は極寒の朝鮮半島北部で、暖かい寝袋に包まれて安眠することも出来なくなりました。
マッカーサー司令官は、これに対して積極的に空爆を行いましたが、対日戦争では猛威をふるった無敵の空の要塞・B―29爆撃機も、この戦争ではソ連製のジェット戦闘機に多くが撃墜されました。
初期の空中戦ではアメリカ軍のF―80シュ―ティングスター(T―33A練習機と同型)はソ連製のミグ17に歯が立たず、アメリカ軍は急遽、新型機Fー86Fセイバ―を投入して漸く形勢挽回しました。
マッカーサーは成立まもない共産主義・中国そのものを倒せると判断し、北京を始めとする中国各都市への空爆、原爆の使用までも主張しましたが、国連軍の枠内での対処と朝鮮半島に地域限定することを決定していたトルーマン合衆国政府と対立し、解任されました。
これは後年の湾岸戦争でも、イラク本国への逆侵攻を主張する現地・多国籍軍司令部とブッシュ政権の対立と言う形で繰り返されました。
結局、両者は現在の38度線付近の国境線(正しくは休戦ライン)で停戦しましたが、開戦以前の国境線は、北緯38度の緯度線の通りの一直線だったそうですが、現在は地形に沿った線になっています。
しかし、朝鮮戦争は未だ休戦状態であって、終結はしていないのです。
インドシナ戦争
ベトナムで行われた戦争と言うと日本では、北爆や泥沼の地上戦と住民の被害などの報道映像に反戦運動が燃え上がったアメリカとベトコン・ゲリラのベトナム戦争のイメージになっていますが、それ以前、同じ地域で行われたインドシナ戦争を呼ばれるフランス軍と北ベトナム(現政権)の戦いも激戦だったとも言われています。
インドシナ戦争に於いては、フランス軍には始めから、支配する南ベトナム地域でさえも国民の支援、支持はありませんでした。
海軍陸戦隊を中心とする日本軍の攻撃により、植民地の宗主国としての地位を奪われたフランスは、日本の降伏後、再占領をしたものの、すでにベトナム人民は、日本が占領の正当化の宣伝文句に唱えた「大東亜共栄圏」の夢に目覚め、独立の気運が高まっていて、旧宗主国フランスも、所詮は倒すべき旧敵、南ベトナム政権はその傀儡に過ぎませんでした。
北ベトナム軍とフランス軍の戦闘が開始されると南ベトナムの首都・サイゴン市(現・ホー・チミン市)では、佛教の僧侶による抗議の焼身自死が起こり、その一部始終は世界中にニュース映像として配信され、大きな衝撃を与えました(野僧も先年のチベット僧侶への弾圧事件に際して、博多の中国領事館前でやろうと思ったが、身体が耐えられず、何よりも旅費がなくて実行できませんでした)。
精鋭・外人部隊を中心とするフランス軍が立て篭もるビエン・バン・フー陣地を巡る戦いでは、陣地を取り囲んだ北ベトナム軍は、陣地のはるか遠くから、塹壕を掘りながら前進し、モグラのように陣地近くまで辿り着き、突入、制圧、占領したと言われています。
この過酷な長期戦を支えたのも、ホー・チミンの指導の下、北ベトナム政権が南ベトナム地区の農村部で行ってきた毛沢東式の浸透戦略による住民の物心両面での全面的支援でした。
北ベトナム軍兵士は戦い、その横で銃弾雨飛の中、農夫が塹壕を掘り進め、農婦がその土を捨てる。給食、休養も負傷者の手当ても農家で行われる。この軍民が一体化した強固な敵に十重二十重に包囲されては、陣地への補給はヘリコプターによる空輸に頼るしかなく、精鋭フランス外人部隊も降伏せざるを得ませんでした。
もう1つ、ベトナム軍の勝利には、中国の全面的バックアップがあって、中越国境を越えて前線までの道には、中国からの支援物資が列を作り、車が走れるところは車で、車が走れない山道、田舎道は馬や牛で、それも通れない悪路は人が担いで、「一歩でも前へ」を合言葉に軍民を問わぬ人々の手で、軍民を分けぬありとあらゆる支援物資が運び続けられました。
これは、フランスが撤退した後、共産主義拡散防止の大義名分で介入したアメリカ軍との戦いにおいても継続され、この輸送の列はアメリカ軍機に爆撃されて道路が寸断され、機銃掃射を受けても、絶え間なく、ありとあらゆる物資を運び続けたようです。
ヨーロッパのベルリン封鎖に於いてはマーシャル・プランと言う大空輸作戦で共産主義に勝ったアメリカが、アジアのベトナム戦争ではこの人海輸送作戦に敗れたのも戦史上の皮肉でしょうか。
後に中越戦争でベトナム領に侵攻した中国人民解放軍は、この時の輸送作戦に参加した兵士を道案内に先導させたとも言われています。
ベトナム戦争
アメリカ軍がベトナムに介入した時には、北ベトナムの南ベトナム地域、人民への懐柔策=侵攻準備はほぼ完成しており、アメリカは完全アウェー、敵地に乗り込んだも同然で始めから勝てる戦いではありませんでした。
戦争が激しさを増していた頃、韓国軍がベトナムに派遣され、アメリカ軍、南ベトナム軍と共に戦い、その非情なまでの戦いぶりによって勇名を馳せましたが、北ベトナム側にも中国人民解放軍が派遣されていて、知人の元解放軍軍人の話では、暗夜の戦闘では、人影に近づくといきなり顔を手で掴み、鼻が高ければ「アメリカ兵」だと判断して、刺し殺したのだそうです。
毛沢東式の人海戦術は、戦時国際法に規定されている戦闘員と文民の区分を無視した、寧ろその混乱を利用した違法戦術であって、アメリカ軍は相手とするべき敵が明確でない(戦時国際法には、服装、組織、行動などの戦闘員が守るべき各種規定がある)ことで追い詰められていき、疑心暗鬼に陥り、次第に「ゲリラ狩り」と称する村落の襲撃、住民の虐殺事件を続発させていきます。つまり日中戦争時の日本軍と何も違わないことになりました。
この事態を受けてアメリカ国内でも反戦運動が激化し、多くの歌手による反戦歌や有名俳優による反戦映画が作られヒットしましたが、本質的にアメリカ人は、アメリカ軍を「十字軍」、自分たちの戦争を「聖戦」だと考えていて、アメリカ国内の反戦運動も日本人のように戦争そのものを否定する「反戦平和」と言うよりも、「この戦争に神の正義があるのか」と言う戦争の正当性を問うものだと国民には理解されていたようです。
しかし、実際に現地司令部を悩ませたのは、反転攻勢の切っ掛けがつかめない北ベトナム軍との戦闘もさることながら、国内世論の動向に右顧左眄、朝令暮改する本国政府の態度でした。
仮に攻勢に出て空地からの激しい攻撃を加えれば、戦果の多少よりも、傷つき死んだベトナム人民の姿が世界中に配信、報道され、アメリカ国内でも反戦運動が沸騰し、本国政府は批判の嵐に晒される。
その結果、作戦には「政治的判断」と言う数限りない制限が加えられ、そのため戦況が不利になれば、今度は保守系政治団体や、軍事費を投資と同一視していた財界、資産家層から突き上げを受ける。
戦争末期には、現地司令部はありとあらゆる判断をワシントンに求めなければ何も決められない状態だったと言われています。
余談ながらアメリカの女優・ジェーン・フォンダが北ベトナム軍を訪問して高射砲を操作して御満悦のニュース映像がありましたが、彼女は米軍機=同胞のパイロットがその砲に撃墜されることには心が痛まなかったんですかね?ここに「反戦」を「反米」に置き換え、正義のべトコンVS悪のアメリカ軍と言うイメージを作り上げた反戦運動の欺瞞を感じます。
勿論、都市を無差別に爆撃し、村落を襲って文民を多数殺傷し、枯葉剤やナパーム弾で森林への環境破壊を行い、捕虜を虐待、殺害したアメリカ軍の戦時国際法違反行為=戦争犯罪を許すことは出来ませんが。
フォークランド紛争1「開戦」
日本から一番遠いところで起こった戦いですが、ある意味、日本人には妙に共感する面がありました。それは、この戦争はアルゼンチンが長年にわたるイギリスとの領土問題を解決しようとしたことが名目だったと言うことです。つまり日本が北方領土奪還作戦を強行したようなものです。
実際、日本でも保守系評論家の極一部に「我が国も北方領土を奪還せよ」と言う発言がありましたが、北方領土を占領する相手が、女王を戴き、当時、女性が首相を務ていた紳士の国・イギリスではなく、凶暴なソ連であっては「非現実的で危険な意見だ」と忽ちの内に打ち消されました。
しかし、ガルチエリ大統領のアルゼンチン軍事政権の読み間違いは、そのイギリスの首相・マーガレット・サッチャーが「鉄の女」だったことでしょう。
アルゼンチン軍による侵攻の第一報を受けて、取り囲むマスコミから、「開戦の可能性」を問われたサッチャー首相は、「I want to Justice(私は正義を欲する)」とだけ答えました(これはシェークスピアの「ベニスの商人」の中の台詞です)。
日本では春休み、花見の真っ最中の昭和57年4月2日早朝、アルゼンチン軍四千名が大挙上陸し、フォークランド島のハント総督と守備隊のイギリス海兵隊員60名が捕虜になったところから紛争は始まりました。
この紛争は、戦時国際法の研究者の間では、日露戦争と並んで「戦時国際法上の模範的戦争」とされていて、ほぼ無血状態での占領だったようです。
一方、イギリスの対応は早く、4月3日には空軍の輸送機を大西洋上の中継地点にあるアセンション島に派遣し、5日には空母「ハーミーズ」「インヴィシブル」の2隻を中核とする30隻余りの海軍の艦隊をポーツマス軍港から出撃させ、哨戒機をアセンション島に派遣しています。
さらに6日にはイギリス海兵隊員が揚陸艦で出撃しましたが、この対応の速さは、日頃、我が国の自衛隊さんが御題目のように唱える「有事即応」の何たるかを示してくれているようです。
出撃したイギリス艦隊は、訓練を繰り返しながら大西洋上を南下しましたが、この訓練で艦載ヘリ3機を失っています。
フォークランド紛争2「007=ジェームズ・ボンドの国」
「流石に007の国だ」と感心したのは、イギリス政府がこの前年に既にアルゼンチンのフォークランド諸島への侵攻の可能性を察知していて、密かに潜水艦を派遣してアルゼンチン艦艇の動向を監視させていたことです。
しかし、私の海上自衛隊の友人の話では、我が国の潜水艦も北朝鮮や中国などの軍港の沖に潜行しながら監視活動を行っているそうですから、それが潜水艦の平時の使い方、任務なのでしょう(これは内緒ですよ)。
開戦後の5月2日には、イギリス海軍の潜水艦「コンカラー」は、アルゼンチン海軍の巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」を撃沈しています。
もう1つ映画的なのは、SBS海軍特殊部隊(有名なSASは陸軍特殊部隊)は、4月22日には早くもサウス・ジョージア島に上陸して、偵察活動と共にイギリス人住民への連絡工作などを行っていたことです。
アメリカ陸軍のグリーンベレーなども同様の任務を負っていますが、実はグリーンベレーの方がベトナム戦争当時にイギリス軍の特殊部隊を参考にして作られたとも言われています。
フォークランド紛争3「海戦」
4月7日、イギリス政府はフォークランド諸島周辺200浬の海上封鎖及びアルゼンチン沖の200浬の作戦海域指定を宣言しましたが、アルゼンチン海軍は「へネラル・ベルグラノ」の撃沈に以降は、怖れをなして軍港から出ず、陸軍司令官を兼ねるガルチエリ大統領の再三の出撃要請にも応じませんでした(フォークランド諸島周辺海域で補給船などが撃沈された)。
アルゼンチンがオランダから一九六九年に中古購入した空母「ペインシンコ・デ・マヨ」も、艦載機をフォークランド諸島の基地に陸揚げしてからは母港に引き揚げて動きませんでしたが、この空母は、元はイギリス海軍の「コロッサス」級空母「ベネラブル」でしたから、若し、戦っていたならばイギリス建造の新旧空母対決になっていました。
フォークランド紛争4「航空戦」
イギリスの空母搭載型VTOL(垂直離着艦)機のシーハリアー(後に空軍のハリアーも加わった)VSアルゼンチンのフランス製ミラージュ(発展途上国ではアメリカ製の戦闘機よりも売れている)の空中戦での、圧倒的なシーハリアー優位の戦績に、「航空自衛隊でも導入しろ」と言った日本の軍事評論家がいました。
確かにVTOL機のシーハリアーは、空中戦で空中に停止すると言う離れ技を使えますが、航続距離、速度、レーダー探知能力、武装などの全てが垂直離着陸するために制約を受けており、日本のように海上で迎撃する防空任務には不向きなのは、少し考えれば判ることです。
アメリカ軍でも海兵隊が支援戦闘機(攻撃機)として保有していますが、空軍は防空戦闘機としては導入の検討もしていません。
また、イギリス海軍では垂直の離着艦では燃料消費が激しいため、「インヴィシブル」でも飛行甲板に「スキージャンプ」と呼ばれる斜面をつけて、短距離離陸(STOL)する発艦方式を取っています。
一方、アルゼンチン側が健闘したのは対艦攻撃で、前年の12月に買ったばかりのフランス製の空対艦ミサイル・エグゾゼが威力を発揮して、5月4日にはイギリス海軍の駆逐艦「シェフィールド」に命中、弾薬庫に引火して炎上、六日後に沈没していますし、同25五日にはヘリ母艦として行動していた輸送艦「アトランティック・コンベアー」にも命中し、3日後に沈没させています。結局、爆撃などによるものを含めるとイギリス側は駆逐艦×2、フリゲート艦×2、補給揚陸艦×1、輸送艦×1が撃沈され、駆逐艦×3、フリゲート艦×6、補給揚陸艦×1が損害を受けています。
この時も、日本の軍事評論家たちは、「日本もエグゾゼを導入しろ」などとしたり顔で強弁しましたが、この頃、航空自衛隊ではFー1支援戦闘機用に国産開発したASMー1の配備が始まっていて、彼らも吐いた唾は飲めないので、慌てて両者の性能と価格の比較に話題を変えていました。
フォークランド紛争5「宣伝戦」
アルゼンチンの折角の赫々たる戦果も、イギリスの空母「インヴィシブル」を炎上させたと言う下手な合成写真(手書きの煙を書き加えた)を発表したため、マスコミの信頼を喪失してしまいました。
一方、イギリスは流石に情報巧者でした。イギリスのBBC放送は、時々、イギリス政府の発表を疑い、否定するような内容を報道し、それをイギリス政府が痛烈に批判する。そうすると「BBCが公平中立だ」と信頼が高まり、アルゼンチン国内でも視聴者が増える。そこでイギリス軍の戦果を報道すると言う見事な情報戦略を行いました。
フォークランド紛争6「地上戦」
地上戦では、制空制海権はイギリス側が握っていて、フォークランド諸島のアルゼンチン軍に補給手段はなく、住民の支援もイギリス側に在り、アルゼンチン軍は島を占領はしているモノの実態は孤立無援でした。
アルゼンチン軍の現地司令官・メネンデス将軍は、ゲリラ掃討戦などの歴戦の勇士でしたが、周囲をイギリス艦隊に包囲され、上空にはイギリス軍機が飛び交い、地上部隊は何時でも好きな所から攻めてくる。これでは為す術もありませんでした。
イギリス軍は、戦時徴用された「クイーンエリザベス2世」や「キャンベラ」などの豪華客船での移動で「クルーズ気分か」と言われていましたが、実際は簡易ベッドの寿司詰め状態で、決して優雅な船旅ではありませんでした。
地上戦は四月二十五日に先ず海兵隊が隣りのサウス・ジョージア島に上陸し、その日のうちにこれを占領するところから始まりました。
それから約一カ月間、イギリス軍はフォークランド諸島のアルゼンチン軍陣地や基地へ航空機による爆撃、艦艇による艦砲射撃を加え、5月21日、陸軍部隊が上陸し、島内各地のアルゼンチン軍陣地を制圧しながらケント山を越えて島都・スタンリーに迫りましたが、流血の決戦を迎えることなく6月14日にアルゼンチン軍が降伏して終結しました。
この辺りも「戦時国際法の模範的戦争」と言われる所以でしょう。
イギリス軍には「指揮官先頭」の伝統があります。これはイギリス軍の将校士官には貴族階級出身者が多く、彼らには王への忠誠、国家への奉仕の義務があって、それは位が高い者ほど強く求められるからです。
「ノブレス・オブリージェ」と言う貴族の精神を語った言葉がありますが、この例え話として「あるイギリス貴族の息子たちが学校の休みに友人同士で国内旅行に出ていて、そこで第1次世界大戦の開戦を知った。彼らはそのまま最寄りの陸軍部隊に行き、志願兵として入隊した」と言うものがあります。この紛争でもエリザベス2世女王の王子も、艦載ヘリコプターのパイロットとして参戦していて、アルゼンチン軍の兵士は対艦爆弾などに「王子様宛」などと落書きして茶化していました。
五月二十八日までのポート・ダーウィン、グース・グリーンへのイギリス陸軍第2空挺大隊の攻撃では、大隊長が先頭で突撃して戦死、階級の上位者から中隊長クラスまで戦死すると言う事態が起きましたが、これもイギリス軍の伝統として称賛されるだけで、指揮官の戦死による指揮の混乱などへの検討や改善の必要性も問われませんでした。
もう一つ地上戦で有名になったのが、北部インドの少数民族の傭兵であるグルカ兵で、粗食に耐え、体力、耐力に優れ、勇敢で忠誠心が強い彼らは、第2次世界大戦のインパール作戦でも、ジャングルの樹上で何日でも待ち伏せをしていて、イギリス軍コマンド以上に日本軍に怖れられていましたが、これもその伝統が守られていることを証明しました。
フォークランド紛争7「戦後」
アルゼンチンのガルチエリ大統領兼陸軍司令官は降伏3日後の6月17日に辞任しました。一方、イギリスはそれまでの軍事費削減の政策の方針転換を余儀なくされ、多大の軍事予算に苦しむことになりました。
「フォークランド諸島にこれだけの予算をかける必要があるのか?」BBCがそんなレポートをしたのもイギリス人が好きなジョークなのでしょうか。
スリランカ内戦
スリランカ内戦について日本では(殆んど報道されないものの)評論家、文化人と称する人たちが、「多数派シンハラ人の政府の弾圧に少数民族(全国民の23%)タミル人が抵抗し、それを政府が武力で弾圧、人権侵害が行われている」としたり顔で解説していましたが、現地で見聞してきた実態は、そのようなものではありませんでした。
タミル人とは元来、インド南部に住む民族で、インドのカースト制では最下級とされ、シンハラ人同様に古代からスリランカに移り住んで来た者と、植民地時代に肉体労働者として連れて来られた者の2つがあります。
このうち古代から定住していたタミル人は当然、シンハラ人と共存して、社会的地位も築いていましたが、後から連れて来られたタミル人は、社会的地位や経済的基盤もなく、独立後は貧困に苦しみ、やがて反政府組織を作り、間接侵略を狙うインド政府、続いて拡張路線を取り始めたイスラム過激派の支援を受けてゲリラ活動を行うようになりました。
タミル人ゲリラはスリランカの宗教、文化、歴史には一切敬意を払わず、
国宝寺院や空港、ダムなどの重要施設さらに王権の象徴(日本で言えば「三種の神器」にあたる)であった「佛歯(釈迦の歯)」へも爆破攻撃を行い、政府要人の暗殺などのテロ活動を行ってきました。
特にスリランカ政府が民族間のバランスを取るため入閣させているタミル人の閣僚を「裏切り者」として殊更に狙い、暗殺を繰り返してきました。
スリランカは世界最古の佛教国であり、スペインの植民地になるまでの二千年以上、日本の皇室よりも古い一系の王朝を保ち、二千年以上前に世界最古の動物愛護法(徳川綱吉の「生類憐みの令」とは時代も次元も違う)や自然保護法を制定したくらい佛教の慈悲の精神を実践してきた歴史をもち、貧富の差はあっても相互扶助の精神が社会に根差した国家であって、民族問題についても穏健な融和政策を基本姿勢としていました。
しかし、タミル人ゲリラは北部タミル人地域(インドに近い側)で、市町村単位で住民を人質にして、無理やりゲリラに参加させ、逃亡すれば家族を虐殺するなどの行動を取ってきたため、住民の支持を得ることはなく、むしろポルポト政権末期のような恐怖政治を強いていました。
近年、政府軍により追い詰められていたタミル人ゲリラは、インドネシア、スマトラの大地震による津波でスリランカも深刻な被害に受け、政府軍が災害救助に兵員を割かれたことに乗じて、反転攻勢を試み、自爆テロや要人暗殺、空軍基地への爆弾投下などを繰り返していましたが、住民の支持無きゲリラ活動には限界があり、二〇〇九年、追い詰められて逃亡を図った主要メンバーが政府軍の攻撃で死亡し、内戦は終結しました。
スリランカ内戦では政府軍こそ解放軍であり、政府=強者=悪、反政府=弱者=正と言う固定観念に捉われてこれを批判してきた欧米や日本の人権団体や文化人たちのタミル人ゲリラ擁護の主張は、実態を無視し、政府軍の活動を妨害したものとして強く批判されるべきでしょう。
内戦が終結した時の、ゲリラに支配されていた地域のタミル人の住民たちの歓喜と安堵の表情が雄弁に全てを物語っています。
それにしても義勇軍軍人として「佛敵」との戦いに参加出来なくて残念でした。見事に戦死を遂げ、「元自衛隊幹部、スリランカ内戦で戦死」と国際的に報道されることを切に願っていました。
あの時、語り合ったスリランカ政府軍の将校、兵士たちが無事、今日を迎えられたことを信じ、祈ります。
湾岸戦争
日本が平成に入って2年目の年に起こったのが、この戦争でした。
まだ記憶に新しいので、私が何かを語る必要もないでしょうが、私が非常にショックを受けた(日本ではあまり報道されていない)、アメリカ軍から直接、見聞した戦争の場面を1つだけを語らせていただきます。
暗夜のアメリカ軍とイラク軍の戦闘は、「屠殺」と言う作業でした。
最新式の暗視装置を装備するアメリカ軍は、暗夜の砂漠に油断して動き回るイラク軍兵士を発見すると、これに機銃弾を浴びせます。
それは逃げ惑うイラク兵の姿が消えるまで続けられます。
やがて画面からイラク兵の姿が消えると、アメリカ軍は、赤外線での探知に切り替えて、潜んでいる兵士の体温を探します。
すると砂漠の窪地や砂山の影にボーとイラク兵の体温が浮かび上がり、アメリカ軍は躊躇うことなくそこに銃弾を浴びせ、体温が消えるまでその作業を続けます。やがて砂漠から生物の反応が消えます。
その時、砂の中に伏せて恐怖に顔をひきつらせ、息を殺しているイラク兵のことなどを考えていては、この「作業」はコナセナイと言うことでしょうか。
「この戦争で敗れたのはイラクと同時にソ連だった」とこの映像を見せてくれたアメリカ軍の軍人は言っていました。
イラク軍は、イラン・イラク戦争以降、ソ連の最新鋭の兵器を買い揃え、軍事顧問団の指導で訓練を受けてきた、東側ではワルシャワ条約機構加盟諸国の軍などは及びもつかないエリートの軍隊でした。
それが西側、特にアメリカの軍隊と兵器に苦もなく敗れ去った。この衝撃はソ連軍全軍の戦意を喪失させるに十分だったのです。
- 2012/06/13(水) 20:09:03|
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