車力分屯基地は津軽半島の中央、十三湖の畔で屏風山と言う砂丘の上にあります。
昭和55年の設立ですが、それは昭和52年のビクトル・ベレンコ中尉が操縦するミグ25戦闘機による亡命事件が理由でした。
この時、千歳からFー4EJファントムがスクランブルに上がったのですが、マッハ3以上とも言われるミグ25に追いつくことができず、函館空港への着陸を許してしまい、その対策として航空自衛隊は新たな地対空ミサイル・ナイキJの部隊を津軽海峡の両側、北海道の八雲と車力に創設することを要求し、予算手続き通り3年後に執行されたのです。
しかし、ミグ25は高速ではなく、地上レーダーが捉えにくい低空を飛行してきた上、ルックダウン能力に劣るFー4EJは発見できず、探しているうちに領空を侵犯されたのであり、高高度の目標に対処するためのナイキJでは何ともならないことが判りました。
そこで航空自衛隊はナイキ部隊にアメリカで実施させている年次射撃(ASP)をここで実施することを検討したのですが、「アメリカに官費旅行できなくなるとナイキの希望者がいなくなる」と言う情けない理由で高射幹部が反対し、沙汰やみになりました。
現在は米軍のXバンドレーダー(AN/TPYレーダー)部隊が配置されて防衛上の重要拠点になっていますが、それ以前は存在理由も不明確な(防衛計画でも全く違う地域へ移動することになっていた)、僻地と寒冷地手当てをもらうだけの部隊でした。
そんな新しい基地ですから怪談などはなさそうですが、不思議に死者が続いていて、ある幹部は出来島(地名は何と「できしま」)の海水浴場で溺死し、別の若い隊員は基地の外の藪の中で首を吊り、さらに野僧の同期も官舎で自死しました。
野僧が赴任した夜、夢枕にその同期が立ったのですが、何故か腹部と両手、下半身が血塗れで、「どうしたんだ?」と訊くと「包丁で腹を切ったが死に切れず、ベランダから飛び降りた」と答えました。事故報告では飛び降り自殺と書いてあったので不思議に思い、翌朝、古手の隊員にその件を訊くと「何で知っているんですか?それは秘密のはずですが」と驚き、「御本人が教えたのなら」と顛末を説明してくれました。
ところで十三湖には昔、十三湊(とさみなと)と呼ばれる都があり、源頼義、義家父子に滅ぼされた安倍一族と同族の安東氏が水軍を作り、蝦夷地や朝鮮半島などとも直接、交易をして大いに栄えていたのです。
ところが奥州藤原氏を滅ぼした後に入った源氏一派の南部氏はこれを執拗に攻め、南北朝の頃には地震による津波で水没し、10万人の死者を出して滅びてしまいました。
このため屏風山には十三湊から逃れて討たれた落人の亡霊が出て、徒歩通勤していた野僧は残業で遅くなると首のない幼子や強姦されたらしい乱れた着物姿の女性に会いました。
しかし、何よりも野僧は厳寒の夜道で雪女に出会ったのです。
それは月明かりの夜道のことで、突然、つむじ風が起こり、そこに白く長い髪を振り乱した白い着物の美しい女性が立ち、ゆっくり手招きをしていました。真っ白い顔に唇だけが赤く、鉄漿(おはぐろ)をした口許で妖しく笑っていましたが、抱きつこうと手を伸ばしてきた瞬間、念佛を唱えると「アッ・・・」と大きなため息をついて消えてしまいました。
すごい美人でしたから(稲森いずみさんタイプ)是非とも抱いてみたかった。せめて口づけだけでも・・・今夜も氷の唇が僕を奪い(甲斐バンド)。
野僧は若い女性の幽霊なら抱いたことがありますが、冷たくて手応えのない不思議な感じです。乳に触れても(=揉んでも)弾力も何もありません。一度試してみて下さい。
お後がよろしいようで。おしまい。
- 2013/08/16(金) 10:21:47|
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入間基地
入間基地は陸軍航空士官学校がおかれていた所沢飛行場でした。
ですから米軍に接収されてからも広大な敷地が残され、それが航空自衛隊に移管されたのですが、所沢が東京のベッドタウンとして注目されると国有地を自分の財産と思っている大蔵省(現・財務省)は分割を繰り返したため、出張で行く度に狭くなり、ゲートが移動し、その度に住所が変更されました。
そんな基地ですから、練習機の墜落が日常的だった上、開戦後には何度も爆撃された旧軍時代、朝鮮戦争などに出撃した米軍時代、そして事故を繰り返してきた自衛隊まで心霊スポットは数多く存在し、どれが何の幽霊なのか判らない状態でした。おまけに特攻兵器「桜花」もありますが、こちらは未使用なので残っているのです。
補給処の広い倉庫の中に赤子を連れた女性の幽霊が出るとか、西武鉄道の踏み切りに子供が立っているとか、軍人ではない幽霊の噂は出所不明です。
入間基地は航空自衛隊になってからも事故が絶えませんが、周囲が市街地化したため事実上、脱出不能になっていて、数年前には操縦不能になったTー33Aをパイロットは脱出せずに河川敷にもって行こうとして高圧電線に引っ掛かり墜落した事故がありました。
中でも記憶に残っているのは、千歳基地でFー15のシェルター=耐爆格納庫の自動扉に頭部を挟まれて殉職した隊員(曹候学生の教え子)の部隊葬に出席するため遺族が乗ったCー1輸送機が大雪のため離陸に失敗した事故です。この時は死亡者こそいなかったものの両親が軽傷を負い、そのまま羽田空港まで車で急行して部隊葬に間に合いましたが。
府中基地
府中基地は昭和15年5月に陸軍燃料廠として設立された石油プラントでした。戦後は昭和20年から32年8月まで米軍基地になりましたが、現在も当時の建物が多数残っています。昭和57年に3分割され、北側を大蔵省、西側は地方自治体に移管され、高級司令部が所在する割に狭い基地になってしまいました(警備上は大変問題ですが、管理は楽になりました)。
米軍の隊舎は広くて立派ですが不気味な雰囲気も漂っていて、廊下の大鏡の前に立っていると後ろを米兵が通り過ぎたので振り返ると誰もいない。支援集団の運航統制では墜落したパイロットの声が混信するなど色々聞きましたが、野僧は総合演習中の総隊司令部への臨時勤務だったので確認する暇がありませんでした。
- 2013/08/15(木) 14:04:26|
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浜松基地は陸軍航空隊の基地でした。このため滑走路の西端の延長線にある谷間には爆撃機・呑竜が墜落・炎上・爆発して全滅した集落跡がありました。
この場所は浜松基地の飛び地になっていて、現在は基地から出た廃材などを投棄していますが、木立の中には石垣や井戸がそのまま残り、井戸は食器などで埋めてありました。
やはり多くの家族が死んだ土地ですから草木も眠る丑三つ時にパトロールするとヘッドライトに走っていく子供の背中が照らしだされたり、木立の中にないはずの家の灯りが見えたりして、確認のため車を降りると家族の話し声が聞こえたりすることがあるのです。
また南地区の滑走路の付け根にあたる場所には、くぼ地に涌水と小さな祠が祀られています。三方ヶ原の合戦の時、このくぼ地に隠れていた徳川方の武士が討たれ、湧水で首を洗ったと言う伝承がありました。
夜には首がない鎧武者の幽霊が現れ、「水・・・水をくれ」と懇願されるから入ってはいけないと言うのですが、基地に侵入しようとする者にとっては管制レーダーが間近にある潜伏適地ですから警戒していました。
どんな怪談があっても基地を守る警備小隊はパトロール(巡察)しますが、教育隊から配置になって警衛に初上番した新兵さんたちはここで恐怖体験することになるのです。
そんなコワイ話を巡察に行くまで散々に聞かされた後、くぼ地に差し掛かると空曹のドライバーが車を止め、「首なしの武士がいないか見てこい(不審者と言わないところがポイント)」と命じ、新兵さんは何故か小隊長(野僧)が「暗記しろ」と教えてくれた不動明王の真言を唱えながら下りて行きます。するとその間に車はヘッドライトを消して50メートルほど進んでいて、戻ってきた新兵さんは半分べそを掻きながら走ってきました。
次に谷間地区に到着するとドライバーが突然、「今、人がいたな」と言います。そして「見てこい」と命ぜられて新兵さんはコワゴワ車を下り、懐中電灯を片手に歩きだすと、突然、ヘッドライトが消え、無灯火のまま車はバックして行くのです。これで気の弱い奴は泣きます。
これで済めばいいのですが、態度が悪い新兵には念を入れて、くぼ地に銃剣道の胴をつけて頭から黒い袋をかぶった隊員が待っていたり(懐中電灯で照らすと首のない武者に見える)、谷間地区に数名で隠れていて新兵が下車した途端に大声を上げるなどで脅かすのですが、警備の隊員たる者は幽霊など物ともせぬ胆力がなければ務まりませんから、小隊長公認の肝試しでした。心霊スポットで待ち伏せしている先輩たちの方が怖い?それをやらせる小隊長はもっと恐い?
一度、巡察車両の後席に隠れていてイキナリ首を締めたらパニックになったため、これは禁止しましたが。
- 2013/08/13(火) 00:42:59|
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浜松基地は航空自衛隊発祥の地で、航空機の尾翼にはチェッカーの模様が描かれていますが、これは試行錯誤(チェック)してきた開拓者の誇りを表しています。
現在のパイロット教育は複座式の練習機で、学生と教官が一緒に搭乗して行われていますが、当時のFー86Fには複座式の機体はなく、地上で滑走訓練を終えると後は単独で飛び立ち、隣りで飛ぶ教官が無線で交信しながら操縦技量を習得していったのです。
都会の自動車教習所では教官が無線で指導しながらコースを単独走行する経験をさせるようですが、航空機は「判らない」「迷った」「しくじった」からと言って停止することができず、墜落事故は日常茶飯事でした。この命を掛けたブッツケ本番で航空自衛隊のパイロットの「死を恐れぬ」気風が培われたのです。
一方、作業の安全管理も十分に確立されていなかった時代、初体験のジェット機を取り扱う整備員も毎日が危険と隣り合わせでした。Fー86Fの飛行前点検中に空気吸入口に頭から吸い込まれ肩が引っ掛かったものの、窒息の上、毛穴から体液を吸い出されて死亡したり、輪止めを外そうとして転倒し、轢かれて死亡したりと、現在、航空機整備員に教育される事故事例の多くは浜松で起こっています。
そんな基地ですから怪談、心霊スポットには事欠かず、おまけに基地周辺の道路は住宅地から中心部に向かう周回路になっているため交通量が多く、死亡事故が多発しており、新たなスポットが増え続けています。
野僧が警備小隊長だった時には、直線で見通しの良い場所で死亡事故が繰り返されるため、基地司令から「供養をしろ」と電話が掛かったので読経しましたが、後日、その場所にある立ち木で米兵に集団レイプされた女性が首を吊ったと言う話を聞き、もう一度、ロウソクと線香を用意した上、法衣を着て勤め直しました。
このような祟りを及ぼしている怨霊の除霊を本気でやると「僧侶の徳を擦り減らす」「寿命を縮める」と言われますから、浜松から転出する直前に病に倒れ、移動先で自衛官として抹殺されたのも、このためかも知れません。、
そん中で北地区にある殉職隊員の慰霊碑にまつわる伝承を語らせていただきます。
この黒い御影石で作られた慰霊碑は旧第1航空団司令部の前に在りますが、この慰霊碑が夜になって青白く光る(耀くのではなくボーッと)と航空機が落ちると言われていました。
昭和57年の基地航空祭でブルーインパルスが墜落しましたが、その時にも目撃され、北基地司令の第1航空団司令は登庁して話を聞き、そのまま参拝に行きましたが事故は起こりました(航空祭は南基地が主催・会場でした)。
- 2013/08/12(月) 09:25:06|
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野僧が赴任した頃の那覇基地は米軍時代そのままで、建物は2階建てまで、その建物と建物の間隔はだだ広く、その空いた土地は一面に芝生が敷き詰められ、植木や電柱はなく、風景は完全にアメリカの街でした。
格納庫も米軍が建設したもので250キロ爆弾に耐え得る構造になっていました。
ただ米軍の基地であったと言うことはベトナム戦争でも使用されたことになり、先輩と基地内を歩いていると「あれが戦死者を本国に送る前に空輸してきて防腐処理をした建物だ」などと教えられました。
航空自衛隊に移管されからも緊急発進したFー104Jが着陸時、脚が折れた事故がありました。この時は胴体を地面に擦りつけたため、半分まで削り取られ、パイロットも下半身がなくなって死亡しました。
閉鎖された滑走路へ部品の回収に行くとバラバラになった機体の破片と一緒にパイロットの肉片がこびりついていて、生前そのままの姿で操縦桿を握っていた上半身とは対照的だったそうです。
またECM(対電子戦)訓練のためチャフポット(細かく裁断したアルミ箔を射出する装置)を装着したTー33Aが離陸しようとした時、漏れていたチャフを煙と誤解した運輸省の管制官が発進中止を命じたためテトラポットに突っ込んで炎上した事故がありました。
この時は野僧も深夜に事故機の警備につきましたが、テトラポットに打ちつける波の音の中に女性の押し殺した泣き声を聞きました。それは事故の後、聞こえる夫(息子)の死を受け留めた妻(母)の生霊の声だと言われています。
さらに野僧が赴任する2年前に基地内の弾薬作業所でサイドワインダーが爆発し(テスターに市販の電池を使用したため過電圧になったことが原因)、整備員2名が殉職しました。
この時は室内が瞬時に高熱の火で一杯になったため遺骸は炭化し、壁には人の形に影が焼き付いていたそうです。
こうした殉職した隊員たちの英霊は基地内にとどまっているらしく、格納庫内に保管している事故機の傍にパイロットが立っているのを深夜にトイレへ行った格納庫当直が目撃しましたし、野僧が弾薬作業所当直についた時も2名の話し声を聞きました。
そしてトドメが隊員の自死で、野僧が勤務していた5年間に5人が自死しました。
原因は沖縄の女性との結婚に親が反対(すでに同棲していた)、単身赴任者の留守宅を守るはずの妻の不倫、親の借財の立て替えによる生活困窮など様々でしたが、このうち一度は野僧が首を吊った遺骸を下ろすのを手伝いました。
この単身赴任者の妻の不倫相手は娘にまで手を出し、それを聞いていた我々は葬儀に来ていた妻を冷ややかに見ていましたが、夜勤を終えて暗い廊下を歩いていくと首を吊ったシャワー室から出てきた本人にすれ違い、「やっぱり帰れませんよね」と声を掛けました。
一方、首を吊った倉庫に親を恨む声が響いたと言う噂が実しやかに広まりましたが、真偽のほどは判りません。
- 2013/08/11(日) 10:23:38|
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