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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

「どさ?」「江戸さ」下

「どさ?」「江戸さ」下

その頃、幕府は外交問題で頭を抱えていた。
寛政4(1792)年の9月3日(太陰暦)、蝦夷地の根室に3名の漂流民を送り届けに来たロシア船・エカテリーナ2世号が入港したのだ。3名の漂流民とは伊勢の船頭・大黒屋光太夫、水夫の小市、磯吉である。
当時の根室は数十軒のアイヌ小屋と運上屋(松前藩の許可を受けた商人)の施設、そして松前藩の役人の番所と住居が2、3軒あるだけで、役人は公使のアダム・ラックスマンを招いて渡航目的などを確認し、松前へ使者を送って報告した。
ちなみに一行の中には日本人の漂流民を父に持つ若者が通訳として同行しており、日本文で書かれた書簡も使者に持たせている。
その書簡には「漂流民3名を江戸で引き渡したい」と書いてあったが、老中・松平定信はその前年に海防の必要性を訴える「海国兵談」を著した林子平を「虚言を弄して不安をあおった」として発禁の上、版木を没収、焼却していただけに面子は丸潰れであり、また前例踏襲に馴れ切っている幕閣としてはこの事態に対応できず、「長崎へ行かせろ」などと間抜けな指示を出す始末であった、
根室から松前まで2週間、そこで藩主や重役が内容を確認してから江戸へ報告するため交渉の長期化は避けられずラックスマンたちは越冬のための住居を建てる許可をもらい、ロシアの水夫たちが自力で建設した。
一方、幕府はこの外交交渉を辺境の一藩に任せる訳にいかず、代表者を派遣する準備にか
かった。ましてや松前藩は蝦夷地で米が収穫できないため経済力と領地の大きさから「1万石並み」と最下級の格式で認められた特例の大名なのである。
このような外交問題を庶民が知るべきもないが、代表団を編成するため密かに人材の召集が行われた。先ずは警護や下働きの足軽同心、連絡のための飛脚、さらに小舟を操る船頭まで、それはトモ造の周りの人たちにまで及んだ。

ある日の夕餉の席で修作が母に告げた。
「母上、拙者は蝦夷地へ参ることになり申した」「蝦夷地へ?」母は給仕の手を止めた。母には町奉行所の同心である修作が蝦夷地へ行く理由が判らない。
「蝦夷地に公儀の使者が使わされることになり、それに従えとの命でござる」「蝦夷地と申せば津軽から海を隔てた北の果てでございます。そんなところへ行かれるのですか」「うむ・・・」母が差し出した茶碗を受け取りながら修作はうなづいた。
「これは他言無用でござるが、おロシアの船が来ておるらしくての、その話し合いに公儀から使者が向かうようじゃ」「おロシア?」この時代の庶民にとって他国とは自分が暮らす国元以外の土地を言い、海外などは存在することすら思いもよらないことなのだ。
「うむ、父が大番頭を勤めておった頃、阿波や土佐の海岸に弁五郎なる異人が来たことがあるらしいが、赤毛の背が高い、天狗のような異形(いぎょう)の者だったそうじゃ」「何だか恐ろしゅうございます」母は怯えたように身体を固くした。それはベニョヴスキーと言うロシアのシベリア流刑囚が反乱を起し、聖ピョートル号を奪って逃走した事件で、ヨーロッパへ向う途中で日本に寄港したのである。この時、べニョヴスキーは「ロシアが日本を攻撃する」と言う怪文書を残していったため大番頭であったテンジンも知っていたのであろう。
「それでじゃ、母上、北へ行くには何を仕度すれば好いのか教えていただきたいのだ」「はい、それは何時のことでございますか?」「すでに内偵が2名、出立されたがワシらは春になってからでござろう」「それでも蝦夷地の春は江戸とは違いましょう」母は修作が今来ている綿入れの半纏をもう1枚作ろうと思った。

飛脚の猪走(いばしり)ではカツが親方に呼ばれていた。
「カツ、オメェ、蝦夷地へ行っちくれい」「蝦夷地?そりゃあ津軽の向うの蝦夷地ですけェ?」親方は奉行所から公儀の使者に同行する飛脚を差し出すように命ぜられている。
幕府としては外交交渉に松前藩を関与させることを嫌い、そのため飛脚に至るまで江戸から同行させることにしたのだ。
「うん、御公儀が蝦夷地で何やら大仕事をされるらしくってな、その書状を運ぶらしいんでェ」「そりゃあ、オイラは津軽までは何度も行ってやすからお安い御用でござんすが・・・海峡を渡るのは初めてなんで」快諾しないのは仕事上の駆け引きだが、カツは内心「この仕事ができるのは自分しかいない」と腹を決めていた。
元来、人に命じられることが嫌いなカツは、寛政の改革で庶民の日常生活の裏側にまで公儀が指図してくる江戸での暮らしに辟易としており、蝦夷地の居心地がよければそのまま住みついても好いと思った。
カツが飛脚になったのは書状を運ぶのは単独行動であり、他の商売のように客の御機嫌をとってお世辞を言ったりする必要がないからなのだ。
「蝦夷地かァ・・・江戸地じゃあねェだろうな」カツは珍しく駄洒落を言うと自分の背中が寒くなって身震いをした。

公儀(幕府)の蝦夷地派遣は思いつきで手配するためとてつもなく大所帯になってきた。
「ゲン希、オメェは津軽から帰ったんだよな」「へい」日暮れで渡しが終った後、舟を岸に立てた柱に縛りつけながらケイ次がゲン希に声をかけた。
「蝦夷地へは行ったことあるんか?」「ありやせんが、北前船は函館まで行ってやしたから話は聞きました」「そうか・・・」そこで櫓と竹竿を舟に納め、2隻目にかかった。
「俺に蝦夷地へ行けって話が来たたい」「蝦夷地へ?」「うん、親方が奉行所に呼ばれて申しつけられたらしか」ゲン希は「ならば自分が」と思ったが、ケイ次は意外な話を始めた。
「オイの女房は秋田の生れたい」「秋田って陸奥(みちのく)のですかい?」「あそこは出羽だけどな」東北でも現在の秋田県と山形県は出羽の国である。それは平安時代から朝廷に対して租税を納めていたため国として認められていたのだが、その時、矢羽にする鷲の羽が特産品として珍重されていたから「出羽」と呼ばれるようになったのだ。
「それにしても何処で秋田美人を見つけたんですかい?」秋田が美人の産地であることは津軽にいた頃から聞いてはいたが、ケイ次の妻には会ったことはない。
「そげなこつ知らんでもよかばい」ケイ次はそう言うと拳を軽く頭に当てる。ケイ次が江戸へ出てきた頃、妻も秋田杉を江戸に下している材木屋に奉公に来たことは後で聞いた。
「ならばそのまま秋田へ帰れると好いじゃんね」「蝦夷地に家族を呼んで住みつくかも知れんたい」ケイ次はそう言うと真顔でゲン希を見た。
「だから後をしっかり頼むたい」ケイ次は遠回しに今回の蝦夷地行きに命をかける覚悟をしていることを言いたかったようだった。

トモ造は渡し場へ荷車修理の仕事を探しに出掛けるとケイ次が客待ちをしていた。
渡し船はケイ次が抜けた後は次が決まるまでゲン希が頑張り、手が足らなければ親方が出ることになっているが高齢でもあり不安は隠せないようだった。
「ケイ次さん、オイラに船漕ぎを教えてくれねェか?」突然、トモ造が言い出した。
「大将には車作りの仕事があるばい。そげんこつせんでもよかでしょ」ケイ次はトモ造の真意を測りかねてうなづけなかった。
「ケイ次さんが抜けちまうとゲン希だけになっちまう。オイラも仕事を探してるくれェで
暇なんでェ。手伝えればこっちも助かるんだい」ケイ次は「船頭の仕事を舐めているんじゃないか」と少し不快そうな顔をしたが、トモ造の生真面目で善良な人間性を思いうなづいて立ち上がった。

ケイ次は留めている渡し船で構造の説明を始めた。
「大将」「オイラが習うんだからトモ造と呼んでくり」トモ造の返事を聞いてケイ次は微笑んでうなずいた。その辺りの筋の通し方がトモ造なのだ。
「でトモさん、これが櫓ベソだ」「確かにヘソみてェだ」櫓ベソとは船尾に突き出ている杭のことで櫓杭(ろくい)と呼ぶこともある。
「この紐が早緒(はやお)で舟と櫓をつなぐんだ」ケイ次は船床(船底)にある紐を摘み上げて説明した。続いて今は外して船の上に寝かせてある櫓の説明になったが、櫓は3間(約5・4メートル)ほどもある。
「意外に長げェな。重そうだ」その長く太い櫓を見て、トモ造は少し心配になった。
「この上の方が腕(うで)」「うえ?」「うで!」「下の方が脚(あし)」「あし」子供のように返事をするトモ造にケイ次も楽しそうな顔になった。正式には櫓をつけて「櫓腕」「櫓脚」と言うのだが、ケイ次は言いなれた略称を教えた。
「それで腕と脚をついであるところがタガイばい」「かたい?」「たがい!」「たがい」これは櫓腕と櫓脚を互い違いに接続するためつけられた名称だ。ここまで説明するとケイ次はトモ造を手招きした。
「ここが入れ子(いれこ)で、櫓ベソをはめるたい」ケイ次が指差した櫓の腕の部分にある金具を見ると2つの円をつなげたような穴が開いている。ここに櫓ベソの上端のくびれた部分をはめるようだ。
「そいでここが櫓杆(ろづく)、ここを握って漕ぐんたい。そいでさっきの早緒はここにつなぐんだ」ケイ次は櫓腕の端の方にある垂直に突き出た杭を握りながら説明した。
しかし、大した数の名称ではないが修行を終えて久しいトモ造には初めて聞くモノばかりで自信がない。この時代には学科試験がなくって助かった。

次は実技だった。先ずは櫓の入れ子を船尾の櫓ベソにはめることからだ。
櫓脚を水に入れて浮力を利用すれば楽なのだが、素人のトモ造が知るはずがなく腕力で櫓を持ち上げようとしてバランスを崩し、船が揺れて船床に尻餅をついてしまった。
「トモさん、力任せにやろうとしても無理たい。海の子ならこんなことは習わんでも見て覚えるんだがな」ケイ次はトモ造の前で櫓脚を水に入れ、浮力で軽々とはめて見せた。
「どうやったんでェ?ケイ次さんは凄ェ力持ちだね」トモ造が素直に感心するとケイ次は笑いながら櫓の浮力を利用する方法を説明した。
ケイ次はトモ造が入れ子と櫓ベソはめて早緒を掛けると外してはめ直すことを繰り返したが、これは操船になれていないと漕いでいる途中で外れることがあり、その対処訓練の意味もあった。
この日は客が来たためここまでで終わった。

車の仕事がないため翌日もトモ造は渡し場へ行ったが、今度はゲン希もいた。
「トモさんも熱心だね」「どうして船頭になんて・・・大将の腕なら箪笥でも作ればいいじゃん」2人が次々に話し掛けるのでトモ造は返事に困った。
「職人は腕を別の仕事に使うことを『脇仕事』って嫌うんでェ。だったら船頭ならいいだろう」確かに寺社大工は普通の家を建てることを「汚れ仕事」と言って許されないのが不文律だ。しかし、実際には喰うに困って請け負ってしまう者が多いのだが、そうすると寺社の仕事の方を止めるのが今も変わらぬ流儀である。
マサ弥は本来、船大工だが「故郷で役に立ちたい」と言う志があるので別だろう。そのマ
サ弥は渋屋など車を納めた店を回っての点検に行かせている。その謝礼を給金として渡す
つもりだ。
「それで大将は船を漕いだことはあるんで?」「それが全くねえんだよ」「だったらマサ弥にやらせれば良いじゃん。あれは船大工だから船ぐれェ漕げるでっしょ」ゲン希に指摘されてトモ造は忘れていた事実に気がついた。確かにズブの素人の自分よりは海辺育ちのマサ弥の方が経験もあり得意だろう。何よりマサ弥の方が体力はありそうだ。
「まあ、マサ弥は俺ッちが雇っているんでェ、俺が別の仕事をやらせちゃ面子が立たねェ」「それが大将なんだろうね」トモ造の言い訳めいた強がりにも2人はうなずいた。

その日は舫(もやい)で桟橋につないだ船で漕ぎ方を習ってからゲン希と一緒に対岸に渡った。
ケイ次とゲン希は対岸の桟橋に船をつないで待ち、岸辺の茶店に客が集まると乗せて渡すのだ(対岸の「船が出るぞォ」の声で客が少なくても出すことがある)。
「大将、どうです。足で漕ぐんですよ」ゲン希は客を乗せた船を軽快に漕いで行く。ゲン希が言うように櫓を腕で引き押しするのではなく、押す時は後ろ足を突っ張って押し、引く時は仰向けに倒れるように引く、腕は櫓杆(ろづく)使って反転させているだけだ。
「ここらが川の真ん中だから少しカミ(上流)に向かって漕がねェといけねェ」ゲン希は説明しながら川の流れにも注意し、客の様子にも気を配っている。
櫓は漕ぐ力の入れ具合で方向も変えることができるので、熟練すれば船を自由自在に操ることができるのだ。ボートのオールも左右の漕ぐ力を変えることで向きを変えることができるが進行方向に背中を向けていることが欠点だ。カヌーのパドルも同様だが腕力で漕ぐため櫓のように長時間の操船には向かない。
「ゲン希さんは誰に習ったんでェ?」「オイラは漁師の息子だから親父が生きていた頃には親父に、親父が死んでからは兄貴に仕込まれましたんで」
ゲン希の実家は横浜の網元のはずだが、やはり漁師の技は伝授されたようだ。その辺りは地主の馬鹿息子が農家であることを知らないで育つのとは違う。
トモ造は暖かい日差しの中、ゲン希が櫓を漕ぐ度に響く「ギー、ギー」と言う軋みや「カタン、カタン」と言う櫓ベソと入れ子の音、そして水面をかく声が心地よく、ウトウトしてきた。するとゲン希が「ウラーッ」と声を上げた。
トモ造が顔を上げるとケイ次が漕ぐ渡船がすれ違って行った。

それから何日か過ぎてトモ造の船頭修業は本格化していった。ただ櫓の扱いには以外な才能があったようでケイ次とゲン希も驚いている。
「うーん、トモさんは中々筋が良いたい」「大将、やるじゃん」客がいない時、川の真ん中まで漕がしてもらうのだが、素人では直進することが難しい操船をトモ造はすぐにマスターしたのだ。
「やはり職人だから、腕力(うでぢから)が強いんだろう」トモ造の前で後ろ向きに座って監督しているケイ次は櫓杆(ろづく)を操る手元を見ながら分析した。誉められてトモ造は更に力を入れて漕ぎだした。
「そろそろ真ん中たい。向きを変えて戻るばい」ケイ次の指示を受け、トモ造は船首を川下に向けてこぎ出した。すると船は川の流れに押されて大きく下り始めてしまった。焦っているトモ造にケイ次が声を掛けた。
「トモさんは理屈で考えて船を操っとるばい。それじゃあ思うように動かんけん」確かにトモ造は向きを変えるには下流に向けた方が流れの力を利用できると考えた。しかし、それはあくまでも理屈であったようだ。
「右へ行くか、左へ進むか、船に任せて、流れに乗せて、あとは川となれ海となればい」ケイ次の話の落ちは「野となれ山となれ」のはずだが、船頭にはこちらの方が好いのだろう。トモ造はかなり大回りしてしまったが何とか向きを変え、桟橋に近づいた。
そこで交代したケイ次は櫓を細かく漕ぎながら方向だけを調整する。
「ここらで櫓を水から上げるたい。後は行き足(惰性)で着くのを待つ・・・・」そう言うとケイ次はテコの要領で櫓を上げて早緒で固定し、舳先に歩いて行くと竹竿を取って川底を突きながら速度を落とし桟橋に横付けした。
「これができなきゃあ、渡し場の船頭はできねェな」確かに砂浜へ戻る船であれば乗り上げればすむが、渡し場の船は客を下ろすために桟橋に接岸しなければならない。それも乱暴では客から苦情が出るだろう。
トモ造は「やはりこれも職人の仕事だ」と思った。

根室にロシア人が建てた越冬住居にはエカテリーナ2世号の乗員30人余りと日本人漂流民3名が暮らしていたが、そこでは松前藩の役人たちとの交流が始まっていた。
食糧や燃料などは松前藩が提供していたので当然ではあったが、珍客の来訪を受けて無視できるほど日本人は閉鎖的ではないだ。
中でも鈴木熊蔵と言う若い役人は好奇心旺盛で、ラックスマン以下のロシア人に質問を繰り返し、時にはエカテリーナ号の船内まで見学させてもらい、それを詳細に記録していった。一方、ラックスマンも鈴木熊蔵の家を訪問し、思いがけない文化交流が始まっていたのだが、そこへ公儀(幕府)が送り込んだ密偵の2人の役人、田辺安蔵と草川伝次郎が到着した。
彼らは先ず鈴木熊蔵を始めとする松前藩士がロシア人と接触することを禁止して情報保全を図ったつもりだったが、通訳が日本人流民とロシア人女性との間に生まれた1人だけだと思い込み、もう1人いた通訳の前で相談を繰り返したため、こちらの意図が筒抜けになり用をなさなかった。
やがて2人は情報保全が無意味であることを覚ったのだが、すると急に好奇心を発揮し始めて、鈴木熊蔵と一緒にエカテリーナ号の模型を作ったとロシア側の記録に残っている。
しかし、北の海がとけ始めた頃、漂流民の中で最年長だった小市が細菌による感染症で死んだ。神昌丸で伊勢を出て遭難し、アリューシャン列島のアムチカ島に漂着したのが天明2(1782)年、それからカムチャッカ半島のコジネカムチャッカへ渡り、光大夫はシベリアを横断してエカテラーナ女帝に謁見し、寛政4(1792)年にこうして戻ってきても17人の乗組員のうち13名が死んでしまった(2名はロシアに残った)。
そして6月、ついに公儀はエカテリーナ2世号を函館に回航する許可を与え、会談を松前で持つことを達した。

それに先立つ4月、修作は八丁堀の与力・同心組屋敷から出立した。
今回、(ケイの)母は下肥え(しもごえ)を買いに来る(この時代の便所の汲み取りは肥料として農家が野菜と引き換えにしていた)農民に頼んで手に入れた稲ワラで草鞋を作った。その草鞋を履く修作を心配そうに見ている。母も草鞋を作るのは久しぶりなのだ。
草鞋を作るには稲ワラを何度も打って繊維状態にして、継ぎ目には同じようにしたワラを重ねて編み合わせながら通常よりも細く長い縄をない、先ず長い縄を足の親指にかけて伸ばし、それに別の長い縄を巻き込んで作るのだが、十分に打って繊維状態にしていないと縄が固く歩きにくく簡単に摩耗して切れてしまう。修作は2本の縄の紐を足首に巻いて立ち上がった。
足軽扱いの同心には袴が許されず、旅をする町人のように着物を膝の高さまで引き上げて脚絆を巻いている。これは着物の襟を頭にかけて腰紐を巻き、頭から外して余った着物を下帯の上に垂らし、形を整えてから腰紐と帯を重ね巻きするのだ。
母はホッと胸を撫で下ろしたが、同時に修作は表情を引き締めて顔を覗き込んだ。
「それでは母上、行って参ります」「お留守はお任せ下さいませ。道中お気をつけて」母が頭を上げると修作は荷物を背中に負った。中には防寒の衣類を入れた風呂敷包みがあり、道中でも目立つほどの大荷物だ。
本来であれば鎧兜一式を具足櫃(ぐそくびつ)に収めて背負っていかなければならないのだが、今回は津軽・南部藩に借りることになっているらしい。
それは修作には二重の意味で助かった。守野家の鎧具足は三河以来の家柄だけに立派な年代物のため足軽・同心には許されないのだ。その鎧兜は目立たないように端午の節句の武者飾りにしているだけだが、売ってワザワザ足軽用の胴具足を買うのも馬鹿らしいだろう。
今回の往路は品川から船で函館に向かうのだが、初の船旅に若い修作は胸躍らせていた。

猪走のカツはすでに蝦夷地で公儀御用の飛脚として根室と松前の間を往復している。
日本海側の南端の松前と根室では北海道を横断することであり、さらに襟裳岬から先には道がなく海岸線を走るしかない。カツは干潮の時間帯を選んで走っているが、野宿のための荷物を背負っているため足取りは重く、流石のカツも疲れていた。
「どこまで行っても村がねェな、会うのは鹿とキツネと熊だけだ」松前藩の運上小屋(=出張所)は当分ないらしい。ところどころにアイヌの村はあるのだが、松前藩からは単独で近づくことを禁じられているのだ。
田沼意次の時代には土山宗次郎を長とする(土山自身は江戸で指揮を執った)本格的な調査隊が派遣され、海岸線の測量、産物の確認などの学術調査と同時に松前藩のアイヌへの不当な取扱いも報告されたのだが、田沼の失脚と同時に公儀(幕府)は手を引き、抑え込まれていた反動を加えた弾圧・搾取が再開し、それは過酷の度を極めていた。
松前藩としては実態を公儀御用の飛脚に知られることを懼れると同時にシャモ(アイヌ語で隣人を意味し、日本人を指す言葉)であることに代わりないタツの安全を守るためでもあったのであろう。
松前藩の歴史はアメリカ大陸のおける白人とネイティブ・アメリカンとの関係に似ており、後から入り込んだ侵入者が優勢な武力を使って先住民を未開の地へと追いやり、やがて交易が始まると狡猾な商法で暴利をむさぼり、搾取と弾圧に堪えかねた先住民が反乱を起こすが、それも鎮圧されることの繰り返しなのだ。
そもそも松前家は応仁の乱の十年前に函館付近で起きた大酋長・コシャマインの反乱を鎮圧したことで支配権を確立した根っからの圧政者であり、徳川四代将軍・家綱の時代にも大酋長・シャクシャインが最大の反乱を引き起こしている(幕府には「一揆」と報告した)。
松前藩は鎮圧によって圧倒的な武力を見せつけることで、各集落の酋長を中心としたアイヌの自治権を奪い、しかも彼らの生殺与奪権を海産物や獣の皮などの特産品の買い付け(取引は物々交換)に入っていた商人に渡したことで徹底的な搾取を招いていた。
「今夜も野宿だな、熊が来ねェところを探さねェとな」そう呟いてカツは砂浜に残る動物の足跡を見てみたが、この辺りは狐だけのようだ。

公儀(幕府)が仕立てた船の中で修作たち足軽・同心は甲板に寝ることになった。
4月とは言え海上の風は冷たく、狭い船内ではやることも限られていて北・南町の同心仲間や幕府の足軽たちと一緒にムシロを体に巻きつけて横になるしかない。
出港して数日後、修作はいつもの癖で謡曲を口ずさんでいた。
「そもそも、こたび平家一ノ谷の合戦に、御一門、侍大将、総じて以上16人の組足のその中に、もののあわれを留めしは、相国の御弟経盛の御子息に、無冠の太夫敦盛にて、もののあわれを留めたり・・・」これは幸若が平家物語を元にした「敦盛」だった。謡曲「敦盛」と言えば織田信長が好んだ「人間五十年 下天のうちをくらぶれば まこと夢幻の如くなり 一たび生をえて 滅せぬ者のあるべきか」の一節ばかりが有名だが、これは後半の年若い敦盛を討った熊谷次郎直実が世の無常を嘆いた台詞である。
修作は父が好んで歌っていたため習わぬのに覚えたのだが、武士を捨てて法然上人の弟子になった直実と父の生き様が重なっているように思っていた。
「その日の御装束、いつにすぐれてはなやか也、梅の匂いの肌寄せの優なるに、唐紅を召され、練貫に色々の糸をもって・・・」ここからは若武者・敦盛の姿の説明が延々と続くため修作は飛ばして合戦の場面を謡おうと思った時、背後から声を掛けられた。
「お主の謡(うたい)は中々のものじゃのう」振り向くと声の主は高い位の武士らしい身なりをしており、修作は座りなおして両手を床についた。
「苦しゅうない面(おもて)を上げよ。こちらから声を掛けたのだ」中年の侍は気軽にしゃがむと半分だけ顔を上げた修作を覗き込んだ。
「潮風に乗って聞こえてきただけだが、お主はかなり謡い込んでおるようだ」「はは・・・」誉められて修作は再び頭を下げる。足軽・同心が直接話せる相手ではないことが判ったのだ。
「面を上げて答えよ。お主の名は何と言う?」「はッ、北町同心、守野修作と申します」「はて、守野?・・・その謡、誰に習った?」「は・・・」「苦しゅうない、答よ」「父でございます」侍の口調が厳しくなったため修作は答えながら肘の角度で顔の高さを調整した。
「幸若の敦盛とは中々に古きもの、並みの武士で謡う者はおらぬ・・・強いて言えば大番頭の・・・守野××殿」修作は久しぶりに父の俗名を聞いたが、それは思い出すことを禁じられたものだった。
「するとそちは・・・?」修作はそれに答えず板目に食い込むほど頭を床に圧しつけた。
「良い謡を聞かせてもらった。昔、大変世話になった方に再会した心もちじゃ、礼を申す
ぞ」侍は修作の態度に複雑な事情があることを察して、それ以上は問わなかった。そして続きを謡うように促して立ち上がった。

その頃、松木直之進は単身で田植えの様子を見に上野国勢多郡の津軽藩領を訪れていた。
検見(けんみ)役としては収穫の頃に米の実りを確かめ年貢を決めれば良いのだが、松木は冬場にも訪れ、領民の暮らし振りを見回っている。このきめ細かさは津軽で河合正左衛門から教えを受けた民情視察の原則だった。
河合は日頃から配下の役人たちに「政(まつりごと)は料理のようなもの、手を加えればそれだけ良い味になってくれる」と言って、調理の味見のような確認を指導していた。
松木は今回も検見の時に雨宿りした寺・応分蓮寺(おうぶんれんじ)に宿泊を頼んでいる。当地の代官・藤原誠太夫に知られるとまた夜伽(よとぎ)の女をあてがったりするので煩わしいのだ。
松木は笠を脱いで山門をくぐり、本堂と庫裏をつなぐ位置にある玄関で声を掛けた。
「頼みましょう(『頼もう』は案内役を呼ぶ場合)」「どーれー」奥から住職の声が返ってきたが最初の時の重々しさはなく、足音も軽く聞こえる。そもそも奥で「ユキエ、松木様じゃぞ」と声を掛けたのが聞こえていた。
この時代、飛脚による書状は高額なので江戸へ出てくる商人が伝言を請け負うことが多く、それができなければ前回に予約しておくしかない。どうやら半年前の宿泊依頼を覚えてくれていたようだ。住職は障子を開けると作ったような無愛想な顔で松木を出迎えた。
「これは松木殿、お勤め大儀でございます」「方丈さま、本日もお世話になり申す」松木が腰から刀を外して頭を下げると住職も床に手をついて頭を下げた。しかし、顔を上げると満面の笑顔になっている。
「ささっ、お上がり下さい」「いえ、先ずは御本尊様に挨拶を」初めてこの寺を訪れた時、松木は住職に案内されるまま方丈へ向かってしまい寺を訪れた時の作法を忘れてしまった。そのことに気がついて前回は本堂で本尊に詫びた。作法は正しく守るのが松木直之進だ。
日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)である応分蓮寺の本尊は佛像ではなく、南無妙法蓮華経の題目に法華経に出てくる諸佛、諸菩薩を加えた「十界曼荼羅」の軸である。
実は松木家の宗旨も日蓮正宗で、それもこの寺を利用するようになった理由なのだ(菩提寺への参拜代わりとして)。
松木は腰の風呂敷を外すと巾着に入れた米を渡し、受け取った住職は三方(さんぼう)にのせて供えた。
「南無妙法蓮華経、南無法蓮華経・・・」「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」住職が火をつけて手渡してくれた線香をそのまま寝かせてから御題目を始めると住職も唱和してくれる。松木は日蓮大聖人直筆と伝わる独特の書体の軸から力をもらっているような気持ちになった。

本尊への挨拶が終わり、方丈(住職の私室)に向かうと廊下でユキエが待っていて、松木は1間(1・8メートル)手前で立ち止まった。武士の作法として刀の切っ先が届く距離には踏み込まないのだ。これは街でも角を曲がる時は遠回りをする。したがって武士に限って「出会い頭」はあり得ない。
「松木様、お久しゅうございます」ユキエは廊下に手をついて頭を下げ、挨拶をした。松木は立ったまま薄手の着物を着ているユキエの背中を見ていた。いつもは色染め無地の質素な着物だが今日は娘らしい花柄が染めてある。
「うむ、世話になり申す」松木の返事にユキエは顔を上げた。その唇に紅が差してあることに気がついて松木は胸がときめいたことに少し焦った。
昨年の暮れ当地を訪れた時、領内の村々をユキエが案内してくれた。松木としては年貢を納めた後に領民が無事に年を迎えられるかを確かめたかったのだが、代官や庄屋に知られると汚いものに蓋をしかねない、ユキエはそれを察して家々を訪ねては本当の暮らしぶりを見せてくれたのだ。
年貢を例年通りとしたが収穫は例年以上だったため、そこそこに暮らしは立っていた。津軽の年末年始(太陰暦)は冬本番で吹雪の日には家にこもって過ごすことになる。松木も農家の餅つきに加わって気忙しいが心浮き立つ関東の年の瀬を味わえた。
その時、領民たちは親しみと敬意をこめて「ユキエさま」と呼んでいた。ユキエの家は戦国時代の領主が郷士となってからも大地主としてこの地域を治めていたのだが、津軽藩への年貢を考慮した地代しか徴収せず、けっして豊かな生活ではなかった。だからユキエも幼い頃から両親が働く田畑を遊び場として育ったと言う。
今でも領民は心の中では代官よりもユキエの両親に臣従しているようだ。津軽藩士としては捨て置けない事実だが、すでに一族はユキエだけになっていると住職は言っていた。そんなことを考えている松木の顔をユキエは不思議そうに見え上げている
「松木様、本日はユキエが茶を点てます故、同席をお許し下さい」松木が次に何を言おうか迷っていると、先に部屋に入っていた住職が中から声を掛けた。
ユキエが茶道具を運んでいる間に住職は炉(畳の一角を切った釜戸)の炭を整え、茶釜をのせ直した。季節から言えば夏用の風炉(ふろ・火鉢のような移動式の釜戸)にしても良い時期だが、この寺ではまだのようだ。やがて釜が「シューシュー」と鳴り始めた。
「うむ、松風じゃのう」住職はその音をこう表現した。確かに松に吹いた風に聞こえる。これは湯の温度が適温になった合図でもある。
湯が沸く様子は早い順に、先ず「蚯音(きゅうおん)」と言うのはミミズの鳴き声ほどの小さな音、続いて「蟹眼(かいがん)」とは蟹の目のような小さな泡、「連珠(れんじゅ)」は真珠のような泡が続いて立つこと、「魚目(ぎょもく)」は大きな泡が立ち始めてそろそろだ。
「失礼いたします」そこへ障子の外からユキエが声を掛けた。
「どうぞ」この茶席の亭主である住職が返事をすると作法通りにユキエが入ってきた。ユキエの手には梅干しを漬けるのに使う蓋つきの壺がある。松木が不思議に思って首をかしげていると住職が説明した。
「ウチには茶席用の水差しがありませぬゆえ、代わりでございます」住職の説明に何故かユキエが恥ずかしそうに笑った。
そうして道具を運び終わるとユキエのお手前が始まる。先ずは袱紗捌き(ふくささばき)
からだ。ユキエの所作は美しく、松木は武家の常識として習っただけの作法を忘れてしま
いそうだった(この時代の茶道は武家や豪商の社交の作法であった)。
今までは住職が茶を点ててくれたが手慣れている分、省略している点もあり、この美しさはない。見とれている松木の横から住職が話しかけた。
「松木殿は遠州流でございますな」「さよう、藩の御用流儀でござる」遠州流は古田織部の門弟であった小堀遠州を始祖とする流派である。小堀遠州は築城、寺社建築、造園、華道などでも名を馳せた人物だけに表・裏・武者小路の千家三家の「わび茶」「さび茶」を基礎としながら少し趣が異なり、古田織部の武家茶道・織部流の華やかさを加味した「綺麗さび」と呼ばれている。
「拙僧は裏千家でして・・・」そう言われてユキエの手元を見ると茶筅を素早く振って細かく泡立てている。これは裏千家の薄茶の点て方でユキエも同じようだ。裏千家の「必要最小限」とも言われる簡素な作法なので安心して茶を味わうことができる。
松木はユキエが勧めた茶碗を受けて中を覗くと表面は細かい泡で覆われている。よく泡立てることで薄茶と酸素が結びついて甘味が増すらしい。
松木は茶席の作法としての場を和ます会話を忘れてしまいそうだった。
「和尚、日蓮正宗と日蓮宗では何が違うのでござるか?藩邸の傍には日蓮宗の寺はあっても日蓮正宗はありませぬ故」松木の率直な質問に住職はゆっくりうなずいた。
江戸時代に入り、公儀(幕府)は領民を管理・監督する役割を寺院に担わせ、同時に檀家・門徒制度を創設した。領民は子供が生まれると寺院に届け、死んでも寺院に届ける。これを宗門人別帳に記録して管理するのだ(道中手形も発行できた)。
このため民衆は信仰に関係なく集落の寺に登録することになり、引っ越せば宗派替えしてそのまま檀家・門徒となるため、宗教が制度になってしまった側面は否定できない。
またキリシタン禁教の取り締まりもあり、盆の法要では家々を回り、佛教の本尊を祀り、佛具を揃え、先祖代々の位牌が備えてあるかを確認する。これが簡略化され僧侶が草鞋を脱いで上がらないですむように佛具を縁側に並べたのが棚経である。やがて民衆への教育の機能も果たすようになり、それが寺小屋になった。
一方、武士は人別帳の対象外であるが、こちらは先祖代々のつき合いであり、制度になっている点では民衆と大差はない。
「簡単に申せば妙法蓮華経の中におわす御佛が釋迦牟尼佛か、日蓮大聖人かの違いじゃの」住職の意外な答えに松木は首を傾げた。
「妙法蓮華経に日蓮さまが出てきますか?」松木も漢文の勉強として妙法蓮華経を素読したことがあるのだが、釋迦牟尼佛や多宝如来、観世音菩薩はあっても日蓮の名前が出てきた記憶はない。この質問は住職には訊かれなれているものらしく、判り易く説明してくれた。
「経典の文章にお名前は出てこぬが、それを我らに説き示して下さったのは・・・」「日蓮大聖人であると」「そのとおり」住職は我が意を得たりとうなずいた。しかし、松木は胸の中で「だったら日蓮宗の寺でもいいのでは」と考えていた。

翌日は田植えの様子を見て回った。今回も住職はユキエを同行させてくれた。
「方丈様、シキミ(日蓮宗・日蓮正宗は花ではなくこの葉を献ずる)は替えておきました。水と佛飯も供えました」朝の勤経のため松木が住職と本堂に向かうとユキエが台所から声を掛けた。
夏になり夜が明けるのは早くなったがまだ早朝である。寺院の裏庭にはシキミの植えてあるものだが、それでも松木は「何時起きたのか」と驚いた。
朝の勤経を終えると朝食になる。禅宗では粥座(しゅくざ)と言って粥に胡麻塩と漬物だけの極めて質素な食事だが、日蓮正宗でも貧乏寺の応分蓮寺では大差なかった。
「松木様、昨日のお米を下げさせていただきました」飯を茶碗によそいながらユキエが礼を言った。夕方の勤経の後、住職が供えていた米を下げてきたのは見ていたがこれは炊事番としての礼儀だろう。
「今日は歩かれるようなので粥ではなく飯にしました。握り飯にもしなければなりませんゆえ」住職の説明にユキエもうなずいたが、禅宗の寺では食堂(じきどう)は坐禅堂、東司(トイレ)と共に三黙堂と言って会話は禁止されている。その点、多少は気楽なようだ。

その日も松木はユキエの案内で冬とは別の集落を見回ったが、飢饉による餓死や領民の流出により人手不足は明らかだった。その意味では松平定信が行っている「人返し令」は正しいのだが、江戸での仕事が軌道に乗っている者や喰いつめて故郷を捨てた小作人まで一律に対象としていることが間違いなのだ。
「ユキエさま」「ユキエたま」「ユキエちゃま」2人肩を並べて田植えの様子を見ていると子供たちが取り囲んだ。
「松木さま、御無礼をお許し下さい」子供たちの遠慮がない態度をユキエは詫びた。本当は地面に両手を地面につくべきなのだが、幼い子供たちが手足にまとわりついてそれができなかった。松木は笑ってうなずくと危険がないように腰から刀を外して手に提げた。子供とは言え武士の魂である刀に粗相をすれば手討ちにしなければならないのだ。
そんな様子をユキエは安堵したように見詰めていた。

「松木殿、御相談がございまして」夕食後、住職は松木を方丈に呼んだ。いつもならユキエが呼びに来るのだが、今は台所で片づけと明日の準備にかかっているようだ。松木は袴をはくと素足のまま方丈に向かった。
方丈では住職が急須で入れた茶を勧めた。
「実は拙僧も年老いてこの寺を守ることが辛くなって参りまして・・・」檀家が少ない応分蓮寺(おうぶんれんじ)では住職自ら托鉢に出て米を得て、ユキエが畑仕事で野菜を作っている。若い頃は住職が両方をやっていたのだ。
「幸い高崎城下に甥がおりまして拙僧を死んだ兄の隠居屋に住まわせてくれると申すのです」これが弟子をとる程の寺であれば死ぬまで東堂(隠居した住職)として暮らせるのだがこの応分蓮寺では無理であろう。
「後任は大石寺に頼んでおるのですが、おそらく若い和尚が来ることになるでしょう」江戸時代は宗祖から妻帯していた浄土真宗以外の僧侶の結婚は許されておらず、後継者は寺同士の力関係で紹介されることが多いのだが、小さな貧乏寺ではなり手がないのは現在と同様であった。そうなると本山に頼むしかないのだ。
「そこで問題となるのはユキエのことでございます」住職が膝を正したので松木も倣った。
「拙僧のような老いぼれなら若い娘を住まわせておっても何も言われませぬが・・・」寺院には公儀(幕府)の寺社奉行による破戒(戒律違反)の取り締まりだけでなく、宗門からも修行の度合いを点検する使者が巡回してくる。若い住職とユキエが一緒に暮らしていて良いはずがない。何よりもユキエの操(みさお)が危ないだろう。
「松木殿、ユキエを引き取っていただけませぬか」住職は湯呑を脇に置くと両手をついた。確かに検見の役の時、宿泊先にした庄屋の家では身の回りの世話をする女が寝所にまで入り込み誘惑してきた。それは代官や庄屋たちが自分を篭絡しようとしたこととは判っている。そのような土地でユキエが1人になればそれも危ないだろう。住職が松木の視察にユキエを同行させた理由も理解できた。
「わかりました。されどソレガシも武家ゆえ、嫁をめとるには色々と手続きがいり申す。それまでユキエ殿が身を置くところを探しましょう」松木には津軽藩の上級武士の娘の許婚があった。しかし、今回の江戸赴任が長くなることを知って同行を拒んだため、松木の方から破談を申し入れたのだ。このため先方の親や仲人は怒っており、おそらく結婚を世話する者はないだろう。河合正左衛門も職務のことでは守ってくれているが、立場上、私的なことまでは介入はしないはずだ。
問題は郷士の娘であるユキエを松木家と家格が見合う家の養女にしなければ藩主の許可が下りないことだった。

船頭のケイ次も修作と同じ船で函館に向かい、到着後は公儀(幕府)が手配した舟でエカテリーナ2世号が入港した時に役人を運ぶための準備に励んでいた。
6月8日、エカテリーナ2世号は函館に入港したが、初めて見る西洋式大型帆船を一目見ようと押し掛けた町衆を地元の漁民が舟に乗せて接近し(有料の遊覧舟)、浜も沖も大変な騒ぎになった。
ケイ次は小舟を操りながらも役人を運ぶ本来の任務よりも見物人を追い払うことが仕事になっている。追い払うのは修作たち同心だった。
「異国船に近づいてはならぬ、下がれ!下がれ!」どの舟の上でも同心たちが声をからして捕り杖を振り回し、エカテリーナ2世号と遊覧舟との間に割り込もうとしているが、やはり地元の漁師の方が腕は上で見事にかわされて船頭は客の喝采を浴びている。そんな中でケイ次だけは違っていた。
江戸から来ているのは渡し船の船頭ばかりで、川の流れと海の波では自ずから操船は違う。一方、ケイ次は元が漁師であり船頭としても十分に腕を磨いてきたのだから蝦夷地の漁師に引けを取るはずがなかった。
「あの船に近づくと鬼か天狗のような連中に捕まるぞ」「鬼は血をすすり死肉を喰らうそうだ」修作はケイ次が並走させる舟の上で声を荒立てることなくこのような説明をするだけだが、それでも客は青ざめて退去する。客だけでなく漁師まで青ざめているようだ。
この時代、寺院の生き物の肉を食べない戒律が庶民にも広まっており、獣の「4つ足」の「4」が「死」に通じると忌み嫌われ、山奥の住人を除けば動物性タンパク質は魚と鳥に限られていた。ただし、野ウサギは身近で捕れるため長い耳を鳥の羽と言うことにしていた。これがウサギを「×羽」と数える理由である。
「旦那、やりますね。その噂が広まれば近づく者もいなくなるでしょう」ケイ次の誉め言葉に修作は照れたように笑いながらも、船の中からこの騒ぎを見ているロシア人たちがどう思っているのかが気になっていた。
ロシア人に侮られれば間もなく上陸し、松前へ向かってから始まる公儀(幕府)との外交交渉に悪影響があるのは間違いない。ただ、このような発想は同心としては分不相応ではあった。

一方、カツは根室から函館に移動し、毎日のように出される報告を松前にいる公儀(幕府)の代表団に運び、休む暇もなくくたびれ果てていた。
宿舎にあてがわれている町家で北海の魚をおかずに飯をかき込んで横になるとカツはすぐにイビキをかき始める。寝酒など不要だった。
根室から届けた書状ではロシア側は江戸湾に向かい、直接、公儀と交渉することを希望していたが、カツがその文面を知るはずもない。しかし、公儀(幕府)としては何の防備もしていない公方(将軍)のお膝元の江戸湾に乗り込まれては厄介である。だから半年の期間をかけて幕内の意見を統一し、万全の準備を整えて臨んだのである。
ただ、老中筆頭・松平定信はこの問題からは遠ざけられており、将軍・家斉が直接指揮を執ったされているが、これもカツが知るはずがなかった。
当時の通信手段は船便かカツのような飛脚であり、松前藩からの報告、公儀からの指示・命令についても書状が行き交ったのだが江戸と蝦夷地ではかなりの時間を要する。したがって使節に全権委任するのが常識であるが、そうはならないのが日本人だった。
このためカツは日誌的に送られる報告書を持って松前から函館へ駆け続けるのだが、外交交渉も始まっていない段階でどの程度の内容があるかはカツにも判る疑問である。
そもそも函館にいるロシア船の様子の報告なら公儀の役人が現地に来れば早いであろう。それを函館の下級役人が松前に報告し、それを読んだ上級役人が書式を整えた上で江戸へ送っているのである。
この外交交渉が終わるまでに何人の飛脚が命を失うのか・・・カツは眠りながらうなされていた。

6月17日、ロシアの使節は上陸し、津軽・南部両藩から差し出された大名用の行列で函館から松前に向かった。
道中は3泊4日、沿道は野次馬でごった返し、修作たち同心は居並ぶ松前藩士たちとは別に裏で警戒に当たっていた。それがロシア人を狙う暴徒よりも人ごみに紛れて商売に励むスリの取り締まりになるところは町奉行所の同心であろう。
6月20日、松前藩が用意した宿舎についたラックスマンたちを公儀の役人が訪ねた。それは翌日からの外交交渉における細部調整、特に礼式の打ち合わせだった。
「明日の会見では我が国の作法に則った儀礼をお願いしたい」「日本の?具体的には」思いがけない申し出にラックスマンが訊き返した。
「座礼をするのでござる」「座礼?」ロシア側には日本人の漂流民とロシア人女性の間に生まれたトラベスニコフと言う若者が通訳として同席していたが、水夫の知らない言葉は通訳できないのは当然だった。そこで役人が侍者に土下座をさせるとラックスマンは激怒した。
「例え日本の礼式であっても、ロシア皇帝の外交使節である我々がそのような姿勢をする
ことはできない」「日本が唯一ヨーロッパで国交を持っているオランダの外交使節は、江戸出府の折には行っているのでござる」役人側は言い張ったがラックスマンは断固拒否した。役人は応対使節のところへ駆け戻り、この件は取り下げた。
外交儀礼では相互の様式に基づいて礼を交換するのが当然なのだが、床に頭をつける姿勢はヨーロッパ人には屈服の態度であり、侮辱以外の何物でもないのだ。
ちなみに中国では皇帝に対して三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)と言う礼を行う。これは跪き、3度頭を床に叩きつけ、立ち上がることを3回繰り返すだが、清国は国交を申し入れるため派遣されたイギリスの外交使節にもこれを強要し、逆に中国が「国際儀礼を理解せぬ傲慢な野蛮国」として蔑視される原因になった。ここで公儀(幕府)が引き下がったのは賢明な対応だったのかも知れない(対象が役人であったため無理に強要する必要もなかった)。
「何ならロシア式に抱き締めてキスでもしてやればよかったなァ」「そうですね。どんな顔をするか見てみたいものだ」こんな冗談でロシア人同士は盛り上がったが、日本人は2重の意味で身震るいした。
「とんでもない・・・男同士の口吸い(接吻)だけはワシも御免だよ」「そんなことすれば、たたっ斬られますよ」それにしてもどのような結果になったのか興味はある(記録では握手も交わさなかったらしい)。

翌21日の朝、ロシアの外交使節は会見の場に指定された松前藩家老邸へ向かうと、門から玄関までの通路の両側には松前藩の弓矢・火縄銃の鉄砲隊が立ち並んでいた。
「これは何のつもりだろう?」「骨董品の展示か?」「これが日本の礼式なのかな?」ラックスマンたち4名はその意味が分からず戸惑っていた。実際は松前藩の威圧だったのだが、それらの武具が時代遅れであることが判っていなかったのだ。
会場になった座敷には床几(しょうぎ・折りたたみ式の椅子)が向かい合う形で置いてあり両者は座った。この時も日本側にはロシア語ができる通訳はおらず、ロシア側の通訳が両者の言い分を伝達した。
「公儀(幕府)より応対使節に任ぜられ申した村上大学でござる」「同じく石川将監でござる」今回の対外交渉に当たる公儀の応対使節はこの2人だが、この石川は本来、六右衛門と言う名前であった。ところが幕閣の中から「六右衛門と言う名前では使節としての格式に合わずロシア人にあなどられる」と言う声が出て急遽「将監」と改名したのだ。当時の日本人の国際感覚を物語る逸話であろう。
こうして始まった会見では冒頭、根室に到着した折に松前藩を通じて公儀(幕府)に送られたロシア語と日本語の書状2通が返却された。
「これは国交を樹立するための手続きの進め方の当方の希望を記した私信である。何故、返されるのか?」「我が国には帰国の言葉を解する者がおらぬ故でござる」応対使節の返事にロシア側の通訳は唖然とした。何故なら日本文の1通はこの通訳が書いたからだ。
「1通は貴国の言葉で記したはずだが」「あれは和文だったのでござるか」ロシア側の説明に応対使節はととぼけ、結局、書状は返却された。
確かに通訳が日本語を学んだ日本人は漂流民たちであり、会話はできても(これも出身地で方言が変わり、混乱したらしい)筆記能力は大したことなかったのであろう。
続いて日本側は漂流民を保護し、送り届けた謝礼として米百俵と日本刀3振りを送った。
そして「鎖国法事」と言う日本の国法を記した文章を手渡し、国交はできないことを説明した。これに対してロシア側が「国交を求めるエカテリーナ女帝の国書を漂流民と共に江戸で渡したい」と申し入れ、日本側が難色を示してこの日はこれで終わりだった。

24日、2度目の会見が行われ、応対使節は「長崎でなら入港を許可することができる」と回答した。この期間で江戸の意向を確認することは不可能であるから公儀としてはあらかじめ決めていた落とし所であったのであろう。
そしてロシア側が国書の伝達を依頼するとそれは拒否した。その理由は「長崎以外で外国からの文書の受け取ることは法度に背く」と言うことで、ロシア側は日本人の頑なさに溜め息をついたはずである。結局、ラックスマンは応対使節の前で国書の封を切り、読み上げてこの日は終わった。
その夜、漂流民である船頭・大黒屋光太夫と水夫・磯吉は日本側に引き渡された。
27日に3度目の会見が行われ、日本側から「長崎への入港信牌(しんぱい=許可証)」が公布された。
「これまで我が国は清国(中国)、朝鮮、オランダ以外とは国交を持ってこなかった。これは格別の対応でござる。帰国されれば皇帝陛下にさよう申し伝えられよ」その説明にラックスマンはこれを成果として帰国することを決めた。そこでもう1つ、提案してみた。
「当方のエカテリーナ号には我が国の品々が積んである。それを交易の手始めに取り引きしてみないか?」「滅相もない」日本側はこれも拒否した。
「しかし、交易許可が下りたのだから問題はありますまい」「長崎以外での取り引きは法度
に背くのでござる」「拙者らは腹を切らなければならなくなり申す」ロシア側は日本人の頑なさに改めて呆れると同時に2言目には「腹を切る」「たたっ斬られる」と言う残虐性と目の前で紳士的に対応している日本人の矛盾に首を傾げた。
「ならば最初にお礼の品をいただいたようにプレゼントなら問題なかろう」「うむ、ならば当方も」そこでロシア側は応対使節や同席した公儀役人、松前藩士に大きな鏡やガラス製品、最新式の拳銃など数々の記念品を贈り、日本側は返礼として陶器や漆器、絹織物などの記念品を返し、これで外交交渉は終わった。
この入港信牌が十年後、新たな外交問題を引き起こすことになるのだが、そんなことは登場人物の誰も知るはずがなかった。

7月24日、エカテリーナ2世号は函館を出港した。
この時、ケイ次は公儀の役人を乗せて函館で雇われた数人の船頭と交代で櫓を漕ぎ、エカテリーナ号を追跡することになった。それにしても3本マストの帆船であるエカテリーナ2世号を、いくら交代でとは言え櫓を漕いで追跡するのは無茶である。
「追え、追わんかァ」追跡を命ぜられた役人は舳先で絶叫しているが、船頭たちは早櫓と呼ばれる短距離用の漕ぎ方で速度を上げることしかできることはない。7月とは言え寒流の上を吹く風は冷たい。櫓を漕いで汗をかいた身体で休憩すると急速に体温が奪われた。
願わくは凪で帆船の速度がこのままであることだが、エカテリーナ2世号も向かい風になるためメインセイルを使うことができず、マストとマストの間に張っている三角形のジブセイルで風を後方へ受け流しながらタッキングを繰り返す(ジグザグ航行)クロス航法で進むしかなかったことが幸いした。
「それにしてもどこまで追っかけますんで?外海(そとうみ=外洋)に出るにはこの舟では小さ過ぎますばい」漕ぎ出して3日目になった時、ケイ次が最下級の役人に訊いた。それは船頭の誰もが考えていたことだが、侍を怖れて口にできなかったことだ。
「オノレらはそんなことを考えずに命ぜられるままに漕げばいいのじゃ」案の定、上位の役人が怒鳴りつけた。しかし、ケイ次はひるむことなく言葉を続けた。
「外海に出れば波が高くなり、流れもきつくなります。進んだ分だけ戻らなければならないことが判っているんで?」ケイ次の挑発的な言葉に役人は刀に手を掛けた。
「オイを斬れば漕ぎ手が1人減りますばい。それで帰り着くまでもちますか」疲れ果てて座り込んでいた船頭たちも身を起してケイ次の言葉にうなずいた。それを見て役人は手を下ろし、忌々しげに説明した。
「あの船が根室に寄らず、長崎に向かわぬことが確かめられればよいのじゃ」「ならば色丹あたりで十分だべ」「うむ」ここで函館の船頭が口を挟み、役人もうなずいた。
実際、色丹沖まで追跡し、引き返したのだが、ケイ次の度胸と腕は函館の船頭の間で評判になり、そのまま回船問屋(=海運業者)に雇われて残ることが決まった。

役目を終えた修作は陸路で江戸へ帰らなければならなかった。任務で現地へ連れていかれても、帰還は自力と言うのが日本の常識であり、実際、奈良時代の防人たちは関東から遠く九州や壱岐・対馬などへ送られると任務満了後は旅費も与えられないまま自力で帰らなければならず、多くが途中で命を落とした。今回も公儀の直参・旗本は御用船で帰ったが動員された足軽・同心以下の軽輩たちは自力で戻るしかないのだ。
そんな修作が松前の街を歩いていると整った身なりの町人に声を掛けられた。
「お役人様」「うむ、ワシか?」修作の言葉遣いはどうしても武家風になる。袴をはいていないことで士分ではないことは一目瞭然だが、腰に刀と十手を帯びていることで江戸から来た町同心であることを察したのであろう。
「ミドモは藩御用の研師(とぎし)を務めております高田知介と申します」研師は町人ではあるが武士の魂である刀を整える職人であるため刀匠と同じく別格扱いされており、屋号も姓に準ずる名を与えられていることが多い。
「藩御用の研師が何用だ?」「はい、御無礼ながらお差料(さしりょう=腰に差している刀)が気になりまして」そう言われて修作は腰に帯びた刀に手を伸ばした。
以前から父が施した拵え(こしらえ)は武家でも中々見ないほどの重厚さがあり、身分不相応だと思っていたが、奉行所では上司・同僚も修作の出身を知っているため何も言われたことはない。それを研師が気に留めても不思議はなかった。
「この拵えはな・・・」「いえ、拵えもご立派ですが私が気になっておりますのはその刀が発する『気』でございます」「気?」「はい、かなりの業物(わざもの)。高名な鍛冶の手による物と拝察申し上げます」そう言うと高田知介と名乗った研師はその場に正座して刀に向かって両手をついた。
藩御用の研師にここまでされては仕方なく修作は刀を見せることにした。知介に案内されて城下の老舗料亭の暖簾をくぐった。

贔屓らしい知介は女将の案内で奥の座敷に入ると「しばらく誰も近づけるな」と言った後、窓の障子を開けさせて向かい合って座った。
「御無理をお願い致しまして・・・」そう言ってあらためて手をついた知介に修作は右脇に置いた刀を差し出した(左脇に置いた場合は臨戦態勢)。
足軽・同心に対して藩御用の職人がここまで礼を尽すことはないのだが、それはこの刀に対する職人としての畏敬の念であったのだろう。知介は両手で刀を受け取ると高く掲げ、再度、頭を下げた。
「それでは拝見させていただきます」知介は膝で体の向きを変え、丁寧に刀を置くと胸の袷(あわせ)から懐紙を取り出して口にくわえた。口からの吐息は水分を含むため刀身を曇らせ、錆の原因にもなるのだ。
知介は左手の親指で鯉口を切り右手で柄を握ると左手で鞘を引き、刀を抜いて鞘を脇に置いた後、柄を両手で握り直し、刀身を寝かせて窓からの明かりにかざしながら刀身を眺めた。知介は懐紙を口にくわえているため言葉は発さず、十分に堪能して刀を鞘に納め、修作に返してから講評を口にした。
「この大ぶりで飾りを廃した豪壮な作り、刃肉は厚く鍛えは板目肌流れ、端正な直刃(すぐは=反りが浅く切っ先が伸びている)・・・肥後正国、同田貫(どうだぬき)でございますね」知介は自分の鑑定に絶対の自信を持っているようで、よくありがちな正否を確かめる目はしない。ただ作法として言葉を続けた。
「して御銘は?」「肥後州同田貫とある」「やはり・・・」肥後正国はその抜群の切れ味と絶対に刃こぼれしない強靭な作りを愛した藩主・加藤清正から絶大な庇護を受けていた刀匠で(名前も「正」の一字を与えられている)、人間を田に横たえて一太刀すると胴体だけでなく田まで斬り貫くことから「胴田貫」とも呼ばれた戦場刀であった(子連れ狼・拝一刀の愛刀)。
「しかし、慶安より御武家さまでも戦場刀を帯びることは戒められておりましょう。お役人さまはよろしいので?」「うむ、大番頭だった父の形見なのだ」慶安とは3代将軍・家光の時代で、幕府も安定期に入り、庶民には職業倫理を指導する一方で、武士には猛々しい振舞いを戒めて作法に基づく厳格な日常生活を命じ、茶筅髷(ちゃせんまげ=後頭部に立った髷)を禁じ、細い刀の2本差しを命じた。この時代になると同田貫も反りが深くなり装飾性を帯びて作風は一変している。
「父上さまは大番頭でございましたか・・・」「これは余計なことだった忘れよ」「はい」そこからは知介の謝礼の接待を受けて修作は松前の味を満喫することができた。

翌日、修作は高田知介の仕事場へ招かれた。
「後学のために同田貫を研がせてもらいたい」と申し入れられたのである。刀を研ぐには現在でも大刀であれば冬のボーナス、脇差でも夏のボーナスほどの代金が掛かり、足軽・同心の収入では中々発注することは難しかった。
このため修作も「後学のために」と仕事を見学させてもらうことにした。先ず仕事場の前を流れる小川で身を清めることから始まり、続いて白い木綿の袷と袴に着替えた。これは仕事を誤った時に腹を切る覚悟を示す死に装束とも言われている。
包丁や鎌とは違い刀は、描いている曲線(=反り)を損なってはならず、さらに刃紋なども整えなければならない。このため刀を研ぐには多くの砥石を使い分けるが、その形も丸みを帯び、接点を最小限にすることで微妙な調整を加えるのである。
知介は修作から受け取った同田貫を頭上に掲げて礼をした後、鞘から抜き、目貫を外して柄(つか)をとった。そして銘を確かめると土間の仕事場へ移った。
始めは下地研ぎからである。下地研ぎとは刀身の整形のための工程で、背中に当たる棟(むね・峰=みねとも言う)、側面上方の鎬地(しのぎじ)は比較的単純な作業であるが、それでも刀身は先に行くほど薄くなり、その微妙な変化を乱せば強度に影響する。
側面中央部から刃にかけての平地(ひらじ)と切っ先と刃の接合部に当たる横手(よこて)は細心の注意を払う。力の入れ方一つで刃の形が乱れ、切れ味が失われてしまうのだ。
知介は左の膝は砥石を置いた台の上にのせ、左足は立てて腰を浮かせた姿勢で黙って刀を押し引きしている。修作もピンと張り詰めた空気の中、シュッ、シュッと言う刀身と砥石の擦れ合う音が父の愛刀を甦らせてくれているように感じていた。そうした仕事の間にも知介は砥石を取り換えて微妙な調整をしている。職人として持てる力の全てを注ぎ込んでこの銘刀を磨き上げようとしている気迫が伝わってきた。
次は仕上げ研ぎであるが、ここでは刃艶砥(はづやと)と言う現在のサンドペーパーのような砥石で磨きを掛け、刀身の沸(にえ=おぼろげな刃紋)や匂(におい=くっきりとした刃紋)を引き出すのである。
最後は磨きで、これは磨き棒やヘラを使って仕上げを加えるのだが、この時の刃紋の際立たせ方で前回の研ぎが誰の仕事であるかが判ると言われる工程なのである。
仕事を終えて知介は同田貫を修作に渡し、床に両手をついて頭を下げた。修作もその礼が刀に向けられているものと理解し、両手で高く掲げて受けた。
座敷に通され知介の妻が入れた茶を飲んでいる時、気になることを言われた。
「この刀は人を斬ったことがございますね」戦場刀・同田貫であっても人を斬った後には研ぎに出す、研師の目にはその跡が見て取れたらしい。
「うむ、父は何度か介錯を務めたことがあると申しておった」「さようですか・・・」それを聞いて知介と江戸でも滅多に見ないほど美しい妻は手を合わせて「南無阿弥陀佛」と唱え、修作も倣った。
修作は知介のおかげで何よりもの親孝行ができたような気がしてきた。

仕事をし遂げたカツは公儀(幕府)からもらった手当てで、疲れをいやすため通いなれている津軽へ渡り、温泉で湯治をするつもりだった。ところが出立前、松前藩から呼び出しを受けた。
「猪走のカツ、作事奉行所まで同道(どうどう)いたせ」宿舎になっている町家の玄関で役人はふんぞり返って命令した。しかし、カツには津軽藩の重臣であった河合正衛門もこのような態度で接してはいなかった(多分に河合の人間性もあるが)。そこで少しごねてみせた。
「アッシは公方さまの御用でこちらへ参りやした。こちらの藩に関わりはござんせん。御用がすめばとっとと江戸へ帰りやす」町人が武士の言葉に反論することなどはあり得ないことである。その役人もそう高をくくっていたのだが、カツの不敵な態度に圧倒された。実は松前藩は「公儀(幕府)の隠密ではないか」と疑っていたこの飛脚が、町人とは思えぬ使命感を持ち、人並み外れた体力と精神力を有していることに注目し、藩に召し抱えたいと考えていたのだ。ここでカツに逃げられては役人は腹を切ることになる。
「すまぬ。御用と言っても詮議ではない。重役の中にソチを召し抱えたいと申される方がおられるのだ。頼むから同道いたしてくれ」役人はメンツを捨てて頼み込んだ。こうなればカツも長引かせたりはしない。むしろ蝦夷地で働くことも考えていたのだ。
「へい、分かりやした。御一緒いたしやしょう」カツは身支度のために奥へ戻ったが、一瞬、津軽藩の御用飛脚・尾野のタツの顔を思い出した。河合や松木の命で内密の書簡を江戸から津軽へ運ぶ時、帰路にはその返事を運ぶ尾野のタツに抜かれることがあった。
藩内で審議した後に決定事項を書簡にしたためて送るまでに何日掛かるのか?遅れて出発しながら途中で抜かれる尾野のタツの脚力にはいつも感心していた。
今度は自分もあのように「藩御用」の看板を背負って走ることになるのかと思うと、カツは気分が少し滅入ってきた。

結局、カツは松前藩御用の飛脚になったが、江戸までは船便で送るため主に島内各地の運上所(出張所)までの命令を配ることが仕事になった。

その頃、江戸の車智ではゴタゴタが起きていた。それはマサ弥の申し出から始まった。
朝から船頭の仕事のためケイが作った握り飯が入った弁当を抱え、出掛けようとするトモ造をマサ弥が呼び止めた。
「大将、オイは肥前に帰ろうと思っちょりますばい」「へッ?」トモ造は弁当を落としそうになる。マサ弥はその場に膝をつくと立っているトモ造の顔を見上げながら話を続けた。
「大将がオイに仕事を任せて船頭を始めたのは2人分の仕事がないからでっしょ」「・・・」「だったらオイは車造りの仕事を覚えたんで、そろそろ親がいる肥前へ帰りますたい」確かにマサ弥の腕は単独で仕事を任せられるほどに上達している。だから贔屓の仕事を任せ、その代金の大半を手当てとして渡しているのだ。
「大将は元の車屋に戻って下さい」ここまで言ってマサ弥は両手を膝にのせ頭を下げた。この頭の回転が速い若者は全てを察しており、自分の技量も冷静に分析していた。
マサ弥の家は船大工だった父を火砕流の津波で亡くし、母と弟が小さな畑と田を耕しながら暮らしている。漁師の多くが亡くなって船大工だけでは食べていかれなくなったため、車職人の技を学びに江戸へ出てきたのだ。
それはケイ次がマサ弥を連れてきた時に聞いていたことだった。しかし、実直だが思考もまっしぐらのトモ造には簡単に答えは出そうもない。
何よりもトモ造は職人としての腕は立っても店主としての商才に欠けるところがある。寛政の改革による市場への統制は流通の低迷を招き、江戸の車屋を熾烈な顧客獲得競争に走らせており、車清以来の顧客にも他の車屋が低価格や早い納期を売り込んで奪われていた。
そもそも仕事が減っているのなら雇っているマサ弥をクビにすれば、結果は同じだったはずだ。それができなかったのはトモ造に流れる江戸っ子の血の熱い義理と人情だった。
「その話は帰ってからにしよう。今日の仕事も頼むぜ」トモ造はそれだけ言うと舟着き場に向かった。こちらもケイ次不在の穴埋めを自分から買って出た以上、勝手に辞める訳にはいかない。最近、船頭の腕が上がり、仕事も面白くなっているところだった。

その夜、トモ造はケイに酒をつけさせ、一杯飲みながら考えることにした。普通、酔えば思考が鈍るものだが、そこは「勢いをつける」と言う江戸っ子の論理なのだ。
「ケイ次さんは『そのまま蝦夷地に住みつくかも知れねェ』って言ってったらしいから帰って来ねェかもな・・・」これは今日、ゲン希に聞いた話だった。渡船場の親方にも「お世話になりました」と丁寧な挨拶をしていったため半ば諦めているらしい。親方もケイ次から色々と話を聞いていたのだろう。
「と言ってマサ弥の野郎を引き留める訳にゃあいかねェし・・・」こんなことならマサ弥に船頭の仕事を手伝わせておけば良かったと少し後悔した。
確かに職人である以上、キヨ助親方から引き継いだこの車屋を潰すわけにはいかない。しかし、人々の暮らしを運ぶ船頭と言う仕事にも物を作る職人とは違うやりがいを感じ始めていた。今日も結納の品を抱えた仲人と父親を乗せ、「こんな広い川の向こう岸へ嫁に行くなんて・・・」と嘆く父親を励ます仲人の姿に自分の将来を重ねてしまったのだ。
「月日は百代(はくだい)の過客にして行きかふ年も又旅人なり、舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらえて老いをむかふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす」これは元禄期に活躍した俳人・松尾芭蕉の代表作「奥の細道」の書き出しだが、トモ造がこの気分になるにはまだ経験不足だった。
「あちら立てばこちら立たずけェ、オイラはどうすりゃあ良いんでェ」トモ造は茶碗に注いだ酒を飲み干した。そこへ台所仕事を終えたケイがやってきた。
「お前さん、マサ弥が国に帰るんだって?」「おう、そのことで考えているんでェ」トモ造は酒臭い溜め息をつきながらうなずいた。
「アタしゃあ、お前さんに車屋に戻ってもらいたいよ」「どうしたんでェ、藪から棒に?」思いがけないケイの言葉にトモ造は半ば驚き、半ば憤った口調で問い返した。
「お前さんは船頭になってから家のことを全く構わなくなっちまって、ショウ大も全然なつきゃしない。最近じゃあマイも膝に乗んないべ」確かに職人は家で仕事に励み、その背中を見ながら子供たちは育つのだ。
「でもなァ、仕事が減っちまってるし、ケイ次さんが抜けて渡船場も困ってんでェ」「仕事が減ってるからって他所へ逃げたんじゃあお前さんらしくないよ。渡船場のことは始めからお前さんに関わりのないことだべ」ケイの言葉は1つ1つ胸に響いた。
「飲めよ」トモ造は茶碗をケイに渡し酒を注いだ。するとケイが小声で呟いた。「あまり酔わせるとイビキがうるさくて寝られないからこの辺でやめるべ」

翌朝、トモ造は渡船場の親方に弟子が辞めることになったため船頭を続けることができないから早く後任を探すように申し入れた。
それで「もうやめた」と責任放棄しないところがトモ造であろう。

蝦夷地からの帰路についた修作は函館の波止場で懐かしい物を見た。津軽藩の荷駄を運ぶ大八車の傍に「車清」と染めた半被を着た若造が2人いたのだ。
かつてトモ造が同じ半被を着ていたのを見たことがある。あの時、トモ造は師匠の店の物だと言っていた。修作はその若造たちに声を掛けてみた。
「お前らは弘前城下の車清の者か?」突然、声を掛けられて振り返った2人は地面に座り両手をついた。修作が武士ではないことが判らなかったのだろう。その様子を見て修作は苦笑しながら話を続けた。
「武家ではないゆえ立ち話でよい。別に御用の筋ではないから安堵いたせ。その半被について訊きたいのじゃ」「へい・・・」今度は幾分貫禄がある方が返事をした。
「ワシは江戸の北町同心・守野修作と言う。それと同じ半被を江戸の街で見たことがあるのじゃ」修作の説明に2人は顔を見合わせた。
「確かトモ造と言う車職人が着ておったが・・・」すると小柄な丸い体系のヒヨコのような若造が「兄さん(兄弟子)では」と言うと、もう1人の口元が歪んだ。
「アッシは車清のマサ吉と言いやす。それは兄弟子のトモ造ですが、まだ車清の半被を着てるんで?」「いや、出会った頃の話じゃ。今では車智と言う半被を作っておる」修作は同心の習い性でマサ吉の言葉が江戸弁の混じった上州訛りであることに気づいた。
「ところでお前たちは津軽藩の御用でまいったのか?」「へい、大八車を納めましたついでに車引きをやれと言われました」かつては無礼な言葉遣いで手討ちになりかけ、客の機嫌を損ねてきたマサ吉だったが、キヨ助親方に「俺は鍛冶屋じゃねェぞ」と言われながら殴られて人間的にも成長したようだ。その意味ではキヨ助親方の拳は人間を鍛える木槌だ。
「こちらはお前の弟子か?」「いいえ、弟分のマサ太でござんす」腕を上げたマサ吉は単独での仕事も任されるようになり、ノレン分けが近づいたことで、城下の車屋の跡取りであるマサ太が見習いに雇われたとのことだ。
マサ吉の返事を聞き修作はトモ造の弟子が「マサ弥」であることを思い出して、車職人は「マサ」が付く名前になるか首をかしげた。
「それでは弘前城下へ戻ったなら、親方にトモ造とお内儀も息災で暮らしておると伝えてくれ」「へい」それで別れたが東北育ちでトモ造を知らないマサ太は「何か悪いことをして役人に捕まった」のかと思っていた。

弘前に帰ってからのキヨ助親方とマサ太の会話。
「親方、トモ造って兄さんは何かやって役人に捕まったんだべか」「馬鹿野郎、トモの野郎は真面目さだけが取り柄なんでェ、おめえらとは違うんだ」「ボコッ」「ボコッ」「バシッ」「・・・父ちゃんに言いつけてやる(小声)」親方の鍛冶屋は止められないようだ。

函館から大間へ渡る船の中で修作は意外な人に会った。
「あれ、お役人さん」「おや、船頭さん」それはエカテリーナ2世号に群がる野次馬を追っ払う時に一緒だったケイ次だった。ケイ次は函館の回船問屋に雇われ、函館と大間や野辺地を結ぶ航路の船頭見習いとして働いていると言う。
函館と津軽海峡を隔てた大間、野辺地には小さな帆を立てた伝馬船が使われていたが、風が複雑に変わる海峡では帆よりも櫓の方が活躍している。ケイ次も渡し船より大きく長い櫓を全身の筋力で漕いでいた。
「この海峡は潮によって西から東へ、東から西へと流れが変わるんで」「ふーん、川とは違うんだね」修作は素直に感心した。ただ、ケイ次が渡船場の船頭ではなく元は有明海の漁師であったことは聞いているので海に慣れていることも知っていた。
「それにしても思い切ったね」「いや、北国は魚も酒も美味いんで気に入ったんですよ」ケイ次はそう言うと急に表情を引き締めた。
「おっと風が出てきた。帆を張るんで喋ってる余裕がないんでさ。おいイチの兵(いちのへい)!」そう言うとケイ次は若い水夫を使って帆を広げ、帆柱に引き上げる。その手慣れた仕事は有明海での経験があるのかも知れない。
帆が風をはらむと速度が上がり、対岸が目に見えて近づいてくる。今日は天気が好いので前方には下北半島の険しい山々、後方には函館のゆったりとした丘陵が見えている。しかし、七月とは言え津軽海峡を吹く風は冷たく、ケイの母親が持たせてくれた綿入れが役に立った。
やがて前方に白い断崖絶壁が見えてきたところで風が弱まったのだろう、ケイ次は水夫と2人で帆を下ろすと「おい、イチの兵、やれ」と若い水夫に櫓を漕がした(逆風を受ける可能性があるため使わない時は帆を下す)。
「それにしてもおロシアの船は向かい風でも進んでたばってんが、どげんなっとるんかいのう?」ケイ次は2人で下した帆を船縁に固定すると、後ろ向きに座りイチの平の操船を監督しながら説明してくれた。
「前に白い壁のような崖が見えるでしょう。あれは佛ヶ浦と言うんでやんす」「ふーん、佛ヶ浦かァ、それで恐山はどこかな?」「恐山?お役人さんはお参りをされるんで?」「うむ」修作はケイの母親から聞いているイタコの口寄せを受けたいと思っていた。
「恐山ならイチの兵の方が詳しいでしょう。後で教えさせます」ケイ次はそう言うと「恐山へ行く道をお教えしろ」と命じ、イチの兵は櫓を漕ぎながらうなずいた。

伝馬船が大間の砂浜に乗り上げると修作は「自分よりも役に立つだろう」と羽織っていた綿入れをケイ次に渡して下船したが、ついでに「函館に来い」と言う家族への伝言を頼まれ、イチの兵からは「オラ、江戸へ行きてェだ」と打ち明けられた。

うっそうと茂った深い森の中の山道を登っていくと急に開けた明るい風景に出る。そこが霊場・恐山だった。恐山は山頂の火口湖の畔に建っているため樹木はあまりなくゴツゴツとした岩肌がむき出しの一種異様な風景だ。岩肌をぬうように作られた参道を町人の参拝者たちについて進んでいくと、やがて古びた山門が見えてきた。
修作は笠を取り、帯から刀を外し、膝まで上げていた着物の裾を下ろして身なりを整えてから山門をくぐった。山門から本堂までの両側には参拝者が宿泊する宿坊が立ち並び、その一角でイタコが口寄せをしているのが見える。このような北の果ての山奥の寺だが参拝者は多く、イタコの前にも列を作っていた。
本堂に参拝し、宿坊へ宿泊の予約をしてからイタコのところへ向かうと刀を下げた修作を侍だと思ったのか前に並んだ町人たちが順番を譲ろうとする。そこで修作は手で制して最後尾に立った。
しばらく待ってから修作の順番がきたが、侍の後に並ぶのは遠慮したのか後ろには誰もいない。これはユックリと口寄せしてもらえると言うことでもある。
「これはお武家様」「いや、町同心じゃ。気楽にせよ」イタコが座っているムシロに両手をついて土下座したので、修作はこれも制してその場に腰を下した。ただイタコには「町同心」が何なのか判っていないようだった。
「それでバチドーシン様が誰を呼ぶんだべか?」下北半島の方言には津軽弁、南部弁とは異なる独特の訛りがあるが、イタコは各地からの参拝者を相手にしているため比較的判り易い言葉遣いだった。
「うむ、父を呼んでもらいたい」「そんではお墓の在る寺と法名が判れば言ってけれ」「江戸御府内(町奉行が管轄した地域)目黒の文代寺、大空テンジン首座じゃ」「それはお坊様だべ」修作の説明を聞いてイタコは首を振った。
「オラたちじゃあ、お坊さまの霊をお呼びすることは畏れ多くてできねェんだ」いきなり断られてしまい修作は途方に暮れたが思い直してもう一度頼んでみた。
「それでは母を頼む。江戸府内葛飾の真諦院(しんたいいん)、典室慈聖大姉じゃ」イタコは町人ではあり得ない高い位の戒名に困った顔をしたが、すぐに色々な飾りがついた不思議な数珠を揉みながら聞いたことがない経文を唱え、覚えたところだけをハッキリと、判らないところはモゴモゴと誤魔化して口寄せを始めた。

「修作、オッカァだ」イタコは先ほど訊いた名前で呼びかける。修作はかすかに記憶に残る母の口調を思い出してみたが東北訛りが似ているような気もした。
「母上、お久しゅうございます」いきなり両手をついて平伏した修作にイタコは驚いて飛び上ったが、それでも構わず心の中の想いを吐き出し始めた。
「母上、ソレガシには守野の名が重うございます。父上の跡を受け継いで大番頭になることもできず、この名を足軽同心に落としてしまいました」思いがけない同心の告白にイタコは返事ができないでいる。それでも修作は言葉を続けた。
「母上、父上はお怒りでしょう。祖父上、祖母上はお前を決して許さぬ、一族の面汚しと仰って三河へ帰られました」ここで修作の言葉は嗚咽になった。
するとイタコは身体に電流が走ったように硬直し、一転して穏やかな口調で話し始めた。
「修作、父上は決して怒ってはおられぬ。むしろソナタに苦労を押しつけて申し訳ないと仰っておいでじゃ」修作は「泣き顔を人に見せぬ」と言う武家の作法のため顔が上げられないでいたが、涙の滴を垂らし続けている。
「同心がソナタの心に合うのならそれを極めればよかろう。為すべき務めを誠実に果たすことが忠義の道、それでその刀が重くなれば捨ててしまえ。と隣りで父上が言っておられるぞ」ここで修作は懐から手拭いを出し、顔を覆うように拭きながらイタコの顔を見た。その表情は先ほどの田舎の婆さんではなく生前の母・キヨのような気品と慈愛に満ちている。確かにこのような難しい言葉をイタコが語ることは無理だろう。
「母上・・・」「そちには家で待っている母がおろう。だから安心して父上と見守っておられるのじゃ。大切にいたせよ」そう言って微笑んだイタコの顔は母そのものだった。
修作の胸に城番の長屋で暮らした幼い頃、仲睦まじかった両親の姿が浮かび、それがあの世で再現されているように思われ妙に嬉しくなった。父は帰宅すると大番頭と言う立場を忘れたような気軽さで近所の住人たちを呼び集め、酒盛りを楽しんでいた。母も妻たちを呼んで料理を作りながら盛り上がっていた。
武家の身分に執着していたのは無能な癖に世襲でその役職についた祖父であり、それを誇示していた祖母であった。おそらく父には大番頭が心に合っていたのであろう。
「同心が心に合うのなら極めればよい」母が伝えた(実際にはイタコ)父の言葉が重く響いてきた。同心の仕事は自分に合っているように思う。ただ、身分が足軽並みであることを恥じる気持ちが重荷になっていたのだ。しかし、父は「為すべき仕事を誠実に果たせ」と言いながら「刀を捨ててしまえ」とも言った。刀を捨てることは農民、職人、町人になれと言う意味だ。
修作は松前で高田知介に研いでもらった同田貫を見詰めながら意味を考えた。その時、出家した父の「放下著(ほうげじゃく)」と言う口癖を思い出した。放下著とは「投げ捨ててしまえ」と言う意味の禅語で、何もなければ得たもの全てが有り難い、働く仕事があればそれだけで満足しろと言うのが父の教えだろう。
「修作、母が生まれた出羽の戸沢様の御領内、角川郷に寄っておくれ」こう言ってイタコは疲れ果てたように放心した。

結局、マサ弥は肥前へ帰ってしまうことになった。腕が立ち、喧嘩が強く、男前で、機転が利くマサ弥のおかげでどれ程助けられたかは判らないが、市場原理を理解しない老中筆頭・松平定信の硬直した倹約令と経済統制、そして庶民の生活にまで介入する風紀取り締まりにより、物資の流通は滞り、流通が減れば車の需要も減り、使用頻度が落ちれば修理の仕事もなくなる。トモ造の預かり知らぬお上の事情でこの若者を手放さなければならないのだ。
出立の日が近づくと車智では女子供が寂しがり始めた。
「マサ弥、行っちまうんだね」「うん、行っちまう」「寂しくなるね」「うん、寂しくなる」食事の時にケイが嘆いても、トモ造はマサ弥が去った後の仕事をどうするかで頭が一杯のため生返事を繰り返していた。
「引き止めることはできないのかい」「うん、できねェな」「お前さんが代わりに帰りなよ」「うん、帰ろうかな」トモ造の返事にケイはマイと顔を見合せ、肩をすくめて笑った。
「マイ、マサ弥のお嫁さんになる」「うん、お嫁になるかな・・・何を言ってやがるんでェ!」マイの思いがけない言葉に流石のトモ造も我に返った。
トモ造の強い口調に半分べそを書いたマイとケイは対話でトモ造に抗議を始めた。
「マイ、マサ弥が好き」「うん、父ちゃんがウチにいなくなってからはマサ弥に遊んでもらってたもんね」「うん、父ちゃんはお出かけばっかり」「帰ってくるのは寝る時だけだ」車智ではショウ大が眠っている時には静かにしていなければならず、ケイも子育てに掛かり切りでマイの居場所がなくなっている。そこで仕事から戻ったマサ弥が散歩に連れていくようになっていた。先ほどまでマイが遊んでいた木彫りの玩具もマサ弥が作ったものだ。
「うるせェな!そう目のめェ(前)でやいのやいのと騒がれちゃあ考えもまとまりゃしねェ」「静かにしてたってまとまんないよ。マイ、母ちゃんと2人で喰うべ」そう言うとケイとマイはお膳とオヒツを持って台所へ行ってしまった。
トモ造の隣りには食事前、オジヤ(離乳食)をもらって眠っているショウ大だけだった。
「うーん、俺の居場所がなくなっちまってるぜ・・・やっぱり職人に戻るか」そう呟いてトモ造は車智の2代目・ショウ大の寝顔を眺めて溜め息をついた。

出立の朝、マサ弥を見送ろうとする近所の女房や娘たちが集まって車智の表は人だかりになっていた。娘たちは妙に着飾って「自分に目を止めてくれ」と言いたそうな風情だ。
「大将、有り難うございました。教えていただいたことは必ず役に立てます」「おう・・・」感激屋のトモ造は師匠として掛ける言葉が出てこなかった。
初めてケイ次に連れられてマサ弥が店に来て以来、一緒に働いてきた出来事が思い出されて目頭が熱くなる。しかし、「旅立ちに涙は禁物」とグッとこらえるのが男・トモ造だった。
「お上さん、本当にお世話になりました。スクメを国でも作ってみます」マサ弥は昼・夕食は車智で食べていたためケイの津軽料理にも親しんできた。中でもケイが鮫を買ってきたのには驚いたらしく、台所でスクメの作り方を習ったのだ。
「あっちでも鮫が獲れるべか?」「んだ、獲れますけんど邪魔者になっとりますばい」知らない間にマサ弥も津軽弁がうつっている。ただし、両者とも気づいていなかった。
マサ弥はケイの腕のショウ大の頭を撫でた後、しゃがんでマイに声を掛けた。
「マイちゃん、元気で大きくなるんだよ」そう言って頭を撫でるとマイは涙声で訴えた。
「マサ弥、マイをお嫁さんにして」しかし、マサ弥は何も言わずにもう一度頬を撫でて立ち上がった。
その時、集まっていた娘たちの間から「お嫁ならアタイが行きたいよ」「アタイは地の果てだってついてくよ」「アチキはあの世にだって」とささやき合う声が聞こえてきた。男前で生真面目、それでいて心優しいマサ弥に惚れない娘はいないだろう。
特に刀を持った押し込みを木切れで叩き伏せた武勇伝が広まって以降、マイを散歩に連れて歩くと「マイちゃん、いいなァ」「ウチの子じゃあ駄目かね」と羨ましがり、お菓子をくれるなどして妙に可愛がってくれる近所の女房が続出していたのだ。
マサ弥は苦笑しながら深く頭を下げ、「それじゃあ皆様、お達者で」と言って旅立った。同時に悲鳴のような声が起こったがマサ弥は振り返らなかった。

マイはマサ弥の後を追って必死に走った。それは幼い恋心が突き動かしていたのだろう。
車智から西への旅には総州街道を江戸に向かい、品川から東海道に入ることになる。マイは脇目もふらず走ったが普通の男よりも足が早いマサ弥では背中はどんどん小さくなっていく。何かに急いでいるような早さに一途なマイも諦めようとした時、町外れの地蔵堂の前でマサ弥が立ち止ったのが見えた。
「待ってェ!」マイが叫び声を上げようとした時、地蔵堂の裏から旅支度をした若い娘が現れた。マイは慌てて手前の松並木の陰に隠れると2人の様子を黙って見た。
「待ったか?」「うん、待ち遠しくてこっちから迎えに行きそうだったよ」マサ弥と娘は向かい合って楽しげに話し始める。
「ばってん、駆け落ちなんて本当に良いのかな?」「仕方ないよ。父ちゃん、箱根の山の向こうには嫁に出さないって言い張るんだもん」「大将に頼んでもらっても敵いそうもないからな」幼いマイの胸に「駆け落ち」と言う言葉が刻まれた。
「和尚さん、道中手形には夫婦旅(めおとたび)ってことにしてくれたからな」「うん、もう夫婦なんだね」どうやらマサ弥と娘は将来を相談した菩提寺の和尚の配慮で、夫婦としての手形を発行してもらったようだ。道中手形は公的な役所だけでなく人別帳を管理する菩提寺でも発行できた。早い話が通行許可証と言うよりも身分証明書的な意味合いが強いモノなのだ。
仮に経緯を知った娘の親が町奉行所に訴えても寺院は寺社奉行の管轄なので和尚に類が及ぶことはない。また檀家・門徒は強制加入なので娘の親が怒鳴り込んでも喧嘩別れすることはできない。つまり和尚の胸一つなのである。
「それじゃあ、行くか」「あいよ、お前さん」マサ弥は娘の手から風呂敷包みを受け取ると腰に結わえて肩を並ならべて歩きだした。
こうしてマイの幼い初恋が総州街道の向こうへ消えていった。

その夜、マイが「駆け落ちって何?」と訊いたことで、マサ弥の逃避行はケイには知られてしまった。が、意外に心配性なトモ造には内緒にしておいた。

恐山を下った修作は下北半島の海岸沿いを南に下って行った。
真夏の旅には海からの潮風が心地よく猫のような鳴き声の海鳥が気持ちを和ませてくれる。やがて大きな湖に出たが、地元の者たちが胸まで水に漬かりカニや貝を獲っていた。
岸に置いている籠を覗くと江戸では見たことがない貝で、そんなことにも旅情を感じることができた。ただ、そんなノンビリした旅を楽しんでいてはいけなかった。
天明の大飢饉の時、南部藩では江戸で米価が高騰していることを知り、種もみまで奪い取る非情な年貢を行ったため、全員が餓死したり、流民となった廃村が多く、この日のうちに八戸城下に入らなければ宿泊する旅籠がないのだ。
松の森の中に「しもだ」と刻んだ道標はあったものの、夏草が生い茂った畑が広がるばかりで点在する人家にも住んでいる気配はなさそうだ。
この時代、まだ正確な地図はなく(伊能忠敬が奥州での測量に出発したのは9年後の享和元年)、初めての旅では行き当たりバッタリにならざるを得ないのだが、旅籠が軒を連ねる街道とは違い村落の多くが無人となると幽霊と一緒に野宿しなければならなくなる。
森を抜けると急に開けた畑に出た。そこでは1人の農夫が黙々と鍬を下ろしていた。
「すまぬ」修作は声を掛けたが、仕事に熱中しているようで気がつかない。
「あい、すまぬ」もう一度、大きく声を掛けると農夫は振り返った。その顔には農夫と言うよりも古武士の風格があり、修作は思わず姿勢を正した。
「お役人さんかァ、何の用だァ?」農夫の返事に修作は戸惑った。各藩では独自の役職を作ることを避け、努めて公儀の制度を踏襲している。このため各藩にも町奉行所があり、そこに与力、同心も勤めているのだが、江戸の町同心のような袴をはかずに同心羽織、1本差しで十手を持っている風体とは限らない。むしろ他の足軽と同様に刀は脇差まで(短い木剣のことも多い)、捕りもの棒を持っていることが一般的である。だから長い刀を差していれば侍だと思って座って手をつく者が多いのだが、この農夫は一目で言い当てた。
「ソレガシは江戸の北町に勤めておる者、ここより八戸のお城下までは遠いのか?」「お城下け?日が暮れるまでに着くのは難しいなァ」「それまでに旅籠(はたご)は?」「ねえ(無い)」修作の困惑した顔を見て農夫は鍬の土を振り落とすと担いで歩み寄り、置いてあった竹かごの紐を両肩に掛けた。
「しかたね、ウチに泊めてやっからついてきな」思いがけない話の展開に修作は「キツネに化かされていないか」と頬をつねってみた。

家までの道すがら農夫はダイ司と名乗った。この辺り一帯を治めていた豪族・松森家の末裔だが、2男のため冬には出稼ぎに出ていて、江戸の町同心の風体も判っていたのだ。
本家を継いだ兄から小作人の多くが死んだ土地をまかされたため、こうして田畑の耕作に励んでいると言う。ところがダイ司は修作から聞いた名前に首を傾げていた。
「守野さんて言いなさるんで・・・どこかで聞いたことがあるな」そう言われて修作が思い当たるのは旅坊主になっていた父であるが、出家後は俗名を名乗ることはしなかったはずだ。そんなことをしている間に屋敷についた。それは2男に与えられたとは思えない立派な邸宅である。むしろダイ司の松森一族が引き続きこの辺り一帯の庄屋を勤めているのかも知れない。
「けえったぞ」ダイ司が土間で声を掛けると奥から農家の嫁と言うよりも旧家の奥様と言う感じの品が良い妻が出てきた。
「あら、早いと思ったらお客さんかい?」「おう、これからお城下まで行かれると言うから、それじゃあ日が暮れちまうからウチに泊まれって案内したんだ」普通、夫が予定外の来客を連れてくると妻は機嫌を悪くするものだが、この妻は妙に慣れた態度で修作を招き入れた。
「んだば、今晩の泊まりはお1人け?」「今のところはな。だどもメシ時になったらやってくるかも知れねェが」そう言うとダイ司はカゴの中の夏野菜を妻に渡し、鍬を片づけに広い土間の奥の納屋へ行った。
妻は刀を持っている修作の身分を計りかねていたが、先ほどの夫の親しげな口調を思い出して座っただけで話を続けた。
「江戸の方のお口に合うようなもてなしはできねェだども、ゆるりとくつろいでくろ」「はい、突然で申し訳なく存じます。どうぞお気遣いなく」修作が上がり端に腰を下して草鞋の紐を解こうとすると、そこにダイ司が釣り竿を持ってやってきた。
「飯の種に岩魚を釣りに行くベ」「岩魚?」「何だ、岩魚も知らねェのか。美味ェのに」そう言うと大司郎は「刀をお預かりしろ」と妻に指示して先に出て行った。
「結局、釣りがしたかったんだね」妻は独り言を呟きながら刀を受け取ったが、両手で掲げて頭を下げる作法は正しく、修作は十手だけを帯に差して後に続いた。

その夜、畑で採ってきた野菜の煮物を入れた鍋を囲炉裏に掛け、その周りに串に刺した釣果の岩魚や山女を立てて夕食となった。岩魚や山女は本来、山奥の清流に棲む魚とされているが、ダイ司が釣ったのは田圃脇の水路である。それも庭先で捕まえたミミズの餌で入れ食い状態であった。
「まあ、一杯」大司郎は燗をつけさせた徳利から茶碗に酒を注いだ。
「お前さん、酒は飯の後にしては」「酒も飯も元は米、腹に入れば同じことだ」この時代、江戸では「下り物」と呼ばれる関西で作られた銘酒が出回っていたが、天明の大飢饉の深刻な米不足で酒に対する製造制限が敷かれ、とても庶民の口には入っていなかった。その後、飢饉が回復するにつれ自家製の濁酒が作られるようになっていたが、これも食用の米が十分に確保できる豪農の特権であろう(関西では専用の酒米が作られていたが、地方ではまだ余った食用米で自家醸造する程度だった)。
「さあ、魚も焼けた。喰いなせい」「はい、いただきます」修作は目の前の岩魚を灰から抜くと背中から口にした。擦り込んだ塩が岩魚の油と一緒に口の中に広がり、絶妙の味わいで言葉も発せられないまま夢中で食べていた。
その時、修作は食通が鮎の腹を珍味として食べると言う話を思い出し、太った岩魚の腹にかぶりついた。すると腹の中に妙な食感の物が入っている。おそろおそる掌に出してみるとそれは大きな青虫だった。岩魚は「悪食」と言われる通り、あらゆる物を口にする。「鮎の腹が美味い」とされるのは春先に水中の苔を食べ、それが独特の苦味と匂いを感じさせるからで川魚なら全てに適用できる訳ではないのだ。
「しまったァ、虫を食べてしまった」そう言って出されたさ湯で口をすすぐ修作をダイ司と妻は可笑しそうに笑った。
「お晩でがんす」「御免だす」そこへ若者たちが土間へ入ってきた。
「来るのが遅いベ。暗くなってうろついていると狼に喰われちまうぞ」ダイ司は若者たちを囲炉裏の傍に招き入れ、妻は若者から火の点いた松明(たいまつ)を受け取ると茶碗を取りに台所に行った。まだ灯明の油にする菜種などを作る余裕がなく、囲炉裏の火だけの薄明かりではよく見えないが、若者と言うよりも少年に近い年齢のようだ。
近づいた若者たちは武家の髷を結っている修作に戸惑っていたが、ダイ司が「江戸のお役人さんだが遠慮はいらない」と紹介すると安心して腰を下した。
「こいつらは飢饉で逃げ出した百姓のガキどもだが、親とはぐれて泣いていたのを拾って畑をやらせてんだ。そんで時々、飯を喰いに来んだァ」ダイ司の説明に若者たちもうなずいて頭を下げた。
天明の大飢饉が終息して4年、復興に取り組んでいるのはこうした地元に根を下ろした実力者たちで、武士たちはひっ迫する藩の財政を埋め合わせる年貢のソロバン勘定だけに励んでいるのであろう。

「ところでお役人さん、確か守野さんって言ったべ」「うむ、守野修作じゃが」「テンジンさんって坊さんと関係あるんだべか?」突然に父の名前を言われ、修作は飲みかけていた酒でむせてしまった。
「父を知っているのか?」修作の返事を聞いてダイ司は妻と顔を見合わせた。
「あれは変な坊さんだったなァ」「はい」妻も素直に同意する。思いがけない生前の父の秘話に修作は身を乗り出したが、ダイ司は宥めるように酒を注いだ。
「飢饉の後、年貢に種籾まで取り上げられたんで、もう我慢できねェって一揆を起こそうとしてたんだ」その言葉に今度は若者たちが身を乗り出した。実際は彼らの親たちの鬱積した不満を大司郎たちが抑え切れなくなったのだろう。
「そこへ旅の坊さんがやってきて、死人の弔いをして回り出したんだ」「・・・」修作は天明の飢饉の後、父が死んだ者の供養をするため奥州に旅立ったことを思い出した。
「だども布施を渡す者もねェから見かねて細い大根をやったんだ」「それはどうも・・・」修作は思わず父に代わって手を合わせてしまった。
「したら、半分に折って返したんだ」「返した?」「喜捨は拒めねェから受け取るが、先ずは働く者が喰わねェといけないってさ」まさに父の口癖だった。ここで妻が代わって説明した。
「それじゃあ、坊さんも困るでしょうって言ったら」「言ったら?」「武士は喰わねど高楊枝って笑われたんだァ」このとぼけた返事に若者たちは顔を見合わせて笑った。
「だども、坊さんが何で武士なんだべかと思ってたら、すぐに役人に捕まったんだよ」「捕縛された?」「コーギ(公儀)のミッテイだろうって」「密偵?」若者たちは「密偵」が判らないようなので、ダイ司が「探りだ」と説明した。
「役人が取り囲んで奉行所まで来いって言ったんだ」話は一転、捕り物劇になった。
「ところが役人が縄を掛けようとした途端、僧侶は何物にも縛られぬと言って大暴れ」「杖を振り回して滅多打ち、刀にも負けてなかった」これには「それはそうだろう」と修作は納得した。
「おまけに領民の糧(かて)を奪って恥じぬとはそれでも武士かって説教もしてた」夫婦の熱弁に若者たちは講談でも聞くような顔になって膝の上で拳を握っている。
「だども一暴れした後、腹が減った、飯を食わせろって先に奉行所へ歩き出したんだ」「そこから先のことは判んねェけど、後で役人から元は守野某(ナニガシ)って名の旗本だって聞いたんだ」奉行所での取り調べとは言え、あれほど嫌っていた俗名を名乗らなければならなかった父はさぞや無念であったろうと思い修作は唇を噛んだ。
「と言うことで一揆も止めたんだからオラの命の恩人でもあるんだ」とダイ司が落ちをつけてこの話は終わった。
翌朝、旅立った修作は道に父の足跡が残っているような気がした。

江戸ではケイの母が同心長屋で留守を守っている。ただ母は正式な家族でないため給金は奉行所預かりで届かず、情報も全く伝わってこない。それでも修作が「生活費に」と残してくれていった蓄えで暮らしていた。長屋の同心たちも修作が実母のように大切にしていることを知っているので、噂話として情報も耳に入っている。
守野家では祖父の代までは見栄を張った生活をしていたが、根っからの武人だった父親のテンジンは「いざ合戦」の備えとして質素倹約を徹底していた上、母親のキヨは貧しい農家の娘で武家育ちのお嬢様のような贅沢を言わなかったからその息子である修作も贅沢はせず同心の薄給でも蓄えをしていたのだ。
「それにしても暑い・・・これでは津軽の夏が恋しくなるわ」朝からの掃除を終えて、水汲み場ですすいだ雑巾を絞りながら母は夏の空を見上げた。屋根と屋根の間に見える青空は真夏の太陽が高く上り、眩しいほど白い雲が浮かんでいる。
流石に暑いのかいつもは元気に遊んでいる子供たちの姿はない。庶民の子供なら昼食前に寺小屋へ行っているのかも知れないが同心長屋では武家に倣って家で自主学習している家が多いようだ(子弟の教育は隠居の仕事だった)。
長屋の井戸は棟と棟の中央に掘ってあるものだが、江戸の埋め立て地では海抜が低く飲用に向かないため、井戸ではなく多摩川などの上流から水を引いている通水なのだ。このため本草学者・貝原益軒は「養生訓」の中で飲料水としては直接貯めた雨水を最上としている。季節を分かたず涌かした湯を飲用にしていたのは衛生上、適切であった。したがって水汲み場の生水では野菜や食器の洗浄、米を研ぐこと、そして洗濯を行うのだ。
それにしても江戸出てきて何年過ぎてもこの暑さには慣れることはできない。真夏でも日が影れば涼しく、岩木山から吹き下ろす風が心地よかった津軽が懐かしくなる。
「江戸でここまで暑ければ蝦夷地でも寒くはないはず。旦那様に余計な荷物を持たせてしまったかも・・・」絞った雑巾を入れたタライを抱えて家に戻り、汗を拭きながら母は修作に持たせた防寒衣類の大荷物を思い出した。修作から蝦夷地行きのことを聞いたのはまだ寒さに向かう時期で、そこから支度を始めたため、あのようなことになったのだ。
「噂ではお盆明けには帰ってこられるとか。いっそ向こうで売って下されば道中の足しにもなるけれど」並みの若者なら初めての土地に行けば不要な物を売ってでも遊ぼうするはずだが、修作の性分ではそんなことはしそうもない。帰路は徒歩だと聞いているので大荷物を背負っての道中の苦労を思うといたたまれなくなった。
「もう一度、お参りしておこう」母は立ち上がると自分の佛壇に祀ってあるトモ造手製の地蔵菩薩に修作の無事を祈ることにした。

「母上さま」昼過ぎに玄関の障子の向こうで声を掛ける者があった。その声が向かいの同心の妻であることは判っている。ケイの母は農家の妻なのだが、武家出身の修作が「母上」と呼んでいることから近所の同心の妻たちもそれに倣うようになっていた。
「はい、池口さまの奥さまで?」「はい」中から声を掛けながら障子を開けると、顔なじみの同心の妻がざるに瓜を2つ載せて立っていた。
「母上に習いながら作った瓜が見事に生りましたので、報告がてらお裾分けに」「これは見事な瓜ですね。冷やして食せば美味しいでしょう」教官である母に誉められて弟子の妻は嬉しそうにうなずいた。
同心長屋には洗濯物干し場と十坪ほどの庭があり、守野家ではそこを畑にしている。これも父親のテンジンが「三河武士は農耕をして暮らしておった。そこで鍛錬したから天下無双の強さが身についたのだ」と言って城番長屋の庭に畑を作っていたことを踏襲しているのだ。ただテンジンも素人であり、農家の娘だった母親のキヨが亡くなってからは見よう見まねの家庭菜園であり、収穫量や作物の質は大したことがなかった。
そこへ本職の母がやってきて耕し始めたのだから収穫は倍増、売り物になるほどの作物を配られた近所の妻たちも教えを受けて家庭菜園に励みだしたのだ。
「実の下に藁を敷かなければならないとは知りませんでした」「はい、土に触れさせておくと、そこから腐ってくるのです」「おかげで美味しい瓜ができました」そう言って三浦の妻はすでに試食済みであることを自分から白状したことに気づき困った顔をしたので、母は瓜を手にとって点検を始めた。
傷などがなく上手く藁を敷いていたことを確かめると母は瓜を受け取った。
「それにしても水汲み場ではあまり冷えないのが残念です」「井戸なら本当に冷えますが」「畔を流れる川も良いですよ」「アゼですか?」江戸の下町の生まれらしい妻は田園風景と言うものをあまり知らないようで、どうやって田と田の畔の間を流れる川で瓜を冷やすのか判らないらしい。
「田と田の間には水を引く小さな川が流れているのです」こう言って母は瓜を持った両手を使って川の幅を説明した。
「そこに籠に入れた瓜やキュウリを漬けて流れに晒しておくと、よく冷えて洗う手間も省けるのです」「水はきれいなのですか?」「はい、山からの流れですから」これは津軽の平賀の話で関東平野の田舎では当てはまらないが、この妻が実際にやることはないからそれでよかった。
「旦那様の好きな瓜をもらったけれど・・・先ずはお供物にするベ」修作の好物の瓜だが、今日は佛壇に供えられてから母の口に入った。

修作の留守中に盂蘭盆会の時期が来た。明治になって太陽暦に改めた時から暦のままの7月と季節感で8月に分かれたが、この時代は全国一律に太陰暦の7月15日だった。
「確か去年は文代寺(もんだいじ)からお坊さんに来てもらってから、墓参りは目黒の文代寺と葛飾の真諦院(しんたいいん)へ行ったわね」文代寺は浄土宗、真諦院は臨済宗なのだが母にはよく判らなかった。ただキヨの墓参りに行った真諦院で僧侶が唱えていたお経の方が津軽で聞いていた曹洞宗のものに似ていたように思った。
「文代寺へは旦那様から頼みに行ったのかしら?」この時代の盆参りは宗門改めの意味もあり、僧侶が家に上がって佛壇の本尊や位牌を点検し、法要中の家族の態度でキリシタンではないことを確認していた。したがって檀家・門徒が頼まなくても菩提寺からやってくるのが盆参りなのだが、武家ではそれぞれの菩提寺から招く形になるため農家や庶民のようにはいかないらしい。と言いながら足軽並みの同心は武家ではなく、家々によってやり方が違うようだった。
「勝手なことをして旦那様に迷惑がかかっても困るし、かと言って法要をせずにお盆を過ごせば申し訳ないし・・・」そんなことを考えながら昨年の盆には修作が夫の位牌を佛壇に収め、テンジンとキヨと一緒に文代寺の僧侶のお経で供養させてくれたことを思い出して鼻をすすった。
風の便り(尾野のタツが車智に寄ってしていく噂話)では夫の墓にテンジンが建立した地蔵は願を掛ける参詣者がひきも切らず大変に賑わっているらしい。
「うーん、マイが来ればテンジンさまにどうすればいいか訊いてもらうのに、最近はトンと顔を出さないから」イタコの才能があるマイならテンジンの意見を訊いてもらえるはずだ。しかし、母はトモ造とケイの足が遠のいていると思っているが、実は何度か訪問した時、「御主人様の留守中に上げる訳にはいかない」と玄関で追い払ったことで気を使って遠慮しているのだ。おまけにトモ造が船頭になったため車の修理のついでに寄ることもなくなっている。
「托鉢の坊さんが来れば頼めるけど・・・その方がテンジンさまのお好みでしょうから」確かにテンジンは托鉢をしながら旅を続けた風来坊主だったが、普通の托鉢の坊主は家を持てない貧乏人が暮らす長屋を回ることはあまりしない。中にはどこかで手に入れた法衣を着て笠をかぶり托鉢に回っている偽坊主が暮らしていることもある。
ましてや町奉行所の同心が暮らす長屋に近づくのは余程の道心堅固な修行者か、単なる喰い詰め坊主であろう。
母の思案は結論が出なかったが、法要の時に着るキヨの形見の喪服を衣裳櫃(いしょうひつ)の底から出して干すことにした。

お盆に入り、街には日傘をさした坊主たちが黒い法衣で汗をかきながら歩き回るようになった。田舎では村一軒の菩提寺の坊主が家々で法要を勤めて回るのだが、数多くの寺が競合している江戸では坊主同士がすれ違うことが珍しくない。しかし、お中日を過ぎても文代寺から坊主が来る様子はなく母は心配になってきた。
迎え日を焚いて、盆提灯を提げ、胡瓜の馬と茄子の牛を作り、縁側に置いた盆棚には佛壇の本尊や位牌を並べ、津軽の家で作っていた精進料理を供えている(内心では夫の霊のためにでもある)。あとは坊主に先祖供養をしてもらうだけなのだ。
「やはり旦那様はご自分で申し入れに行っておられたのかしら・・・」本来、坊主は出家した時点で実家とは縁を切っており、寺で没した住職ではない坊主の供養は「亡僧霊位」として歴代住職の後に勤められている。家族としての法要が行われるようになったのは明治以降、僧侶の妻帯が一般的になり寺が世襲制になってからだ。したがってこちらから申し入れなければ法要が行われないことを母は知らなかった。
「旦那様もまさかお役目がこれほど長くなるとは思っておられなかったのね」4月に出立して3か月、単なる交渉ごとの役目にしては長い務めだった。
公儀としては前例がない外交交渉であったため、事前に予想問答集を作り譲歩できる線を決めながら実際の回答にも慎重を期したため時間がかかった上、ラックスマンたちが帰国することを見届けるまで手を引くことができなかったのだ。
「今からでも法要のお願いに行こうかしら?」そんなことを考えていると玄関で「頼みましょう」と聞き覚えがない若い男の声がした。
「はい、ただいま」母が玄関の土間に下りて障子を開けと若い坊主が網代笠を胸の前にさげて立っている。非常に痩せた頼りなさげな風情だった。
「拙(せつ=拙僧の略称)は文代寺の雲衲(うんのう=修行僧)でモジュと申す者、今年は守野様より盆の勤めの御依頼がありませぬが・・・」母は「やはり申し入れなければならなかった」と自分の失敗であるかのように後悔した。
「拙は寺に上がった頃、テンジン師に大変可愛がっていただきました。師はいつも自室に自ら彫られた観音様を祀り、奥様の菩提を弔っておられました」これは出家した僧侶には許されない俗世への執着なのだが、普通の坊主ではないテンジンはそのような慣習にしばられるつもりは毛頭なかったのであろう(確かに毛はないが)。
「本日は近くで勤めがありましたので、テンジン師と奥様のお参りをさせていただきたく勝手ながら寄らせていただいた次第です」そう言ったモジュに母は大きな溜め息をつきながら頭を下げて庭に案内した(草鞋を脱ぐ手間を省くため縁側に棚を置き、佛具を並べるようになったのが棚経の由来)。

庭で立ったままお経を上げたモジュに母は縁側に敷いた座布団を勧め、小さ目の湯呑に入れた湯冷ましを出した。盆の勤めでは家々で茶を出されるため汗き、飲み物は喉を湿らせる程度にするのが作法なのだ(持ち帰れる缶コーヒーもお勧めです)。
「ついでに寄らせていただきましたから、すぐにお暇(いとま)します」そう言ってモジュは立ったまま湯呑を取った。
「本日、御子息はお勤めですか?」「主(あるじ)はお役目で遠くへ出ております」昨年の盆には修作も立ち合って、縁側に正座して一緒に念佛を唱えていた。
逆に言えば勤めが休みの日に法要を頼んでいたのであろう。ただし、同心の仕事は事件が起これば急に出仕を求められることもあり、不在の時には僧侶は庭で勝手に法要を勤め、線香を途中で消して香炉に寝かせておくなどの証拠を残すことが多い。
「お急ぎのところ1つ、伺いたいのですが、文代寺様と奥様の真諦院様ではお経が違うようなのですが・・・」これは以前から感じていた疑問だった。宗教法人と言う組織制度がなかったこの時代には宗派と言う区分も庶民には周知されておらず、蓮如聖人によって宗門意識が固められていた門徒=浄土真宗や他宗派を敵視していた日蓮聖人の法華宗を除けば「お大師様の御祈祷」「法然上人のお念佛」「道元禅師の坐禅(実際には祈祷と供養だけが法務だった)」程度の認識だった。
「ウチは法然上人のお念佛の宗旨ですが真諦院様は坐禅の宗門ですから、お経も違うのでしょう」「それでテンジン様はどうして奥様とは違う御教えのお寺に入られたのですか?」この質問にモジュは懐かしそうな目をして答えた。
「テンジン師は全国各地の寺を巡り歩いて悟りに至られた方なのですが、佛になって振り返れば宗旨などと言うものは大樹に茂る枝葉のようなものだ。どの枝の花が美しい。この実が美味いなどと言い争うのは無駄なことだ。美しいのも美味しいのも御佛の教えの木なのだと仰っておられました」母には難しく、その悩んだ顔を見てモジュは言葉を続けた。
「誰もが念佛で救われるのなら坐禅や厳しい修行など無駄なことだ。南無阿弥陀佛で生きながらにして往生してしまえと言うのがテンジン師の教えでした」湯呑を盆に置くと、モジュは母が差し出した紙に包んだ布施を受け取り帰って行った。その時、何故か念佛の代わりに「ホウゲジャク(放下著)」と唱えていた。
モジュを見送った母の胸に津軽の家にケイと一緒に現れたテンジンの姿が甦ってくる。あの夜、泊めたテンジンは「こんなに美しい母娘と枕を並べては煩悩が疼いて眠られぬ」と言って土間の藁の中で寝た。そのとぼけた台詞にケイは愉快そうに笑ったが、母は心の中で「すけべ坊主」と非難していたのだった。
ところが参ることが許されぬ夫の亡骸が眠る土地にトモ造に彫らした石地蔵を建立し、「墓参ではない地蔵様への参詣だ」と知恵を授けてくれた。
この家で修作から聞く大番頭だった頃の烈しい武士としての姿、身分違いの妻を愛し抜いていた夫、母を失った我が子を育てた優しい父、どれも母には理解できない特別な人物像なのだが、また1つ謎が増えてしまった。

修作は伊達領・一関(いちのせき)で一緒に松前へ赴いた同心たちに追いついた。一関は伊達領と言っても初代藩主・政宗公の妻・愛(めご)の実家・田村氏が治める支藩で、官医・建部清庵は江戸・小浜藩邸の官医で解体新書の翻訳に参加した杉田玄白と幾度も往復書簡を交わし(この書簡は「和蘭医事問答」と言う本になっている)、蘭方医学を東北の地にもたらした。なお清庵の五男・伯元は杉田玄白の養子になり跡を取っている。
清庵は浅間山噴火の前年、天明2年に亡くなっているが当時、度重なっていた飢饉の再発を予測し、「民間備忘録」と言う保存食の作り方や木の根、樹皮、ワラ、野草の食べ方、土の養分を食用にする土粥の製法、さらに体力を消耗しない暮らし方などを説いた研究書を残し、これで天明の大飢饉でも多くの領民の命を救うことになった。
さらに一関からは「海国兵談」と言う海防の必要性を説いた本を著した寛政の三奇人・林子平も出ているが、この本で説いている海からの脅威が現実になったラックスマンの来日の前に松平定信によって処断され、この頃は藩医である兄・嘉善に預けられていた(翌年に死去)。
江戸の町同心たちはそんな人物を輩出している土地であることも知らずに仕事をやり遂げた達成感と多めにもらった手当てで物見遊山の旅をしていた。
他の同心たちは大間ではなく下北半島の付け根である野辺地に上陸したものの八甲田山の秘湯・酸ケ湯で疲れを癒し、十和田湖や松尾芭蕉の「奥の細道」に倣って平泉を拝観しながらの道中だったため、若い修作が追いつくのは簡単だった。
同じ用向きで赴いた者の帰着に差があれば遅れた者の寄り道が疑われのは当然であろう。ただ、同心たちは「過労により途中で体調を崩す者が続出した」と口裏を合わせる相談はできており、堅物の修作が遅れてくれることはもっけの幸いなのだ。
宿での夕食後に始まった酒席では他の同心たちと修作の腹の探り合いになる。
「守野殿、ここから江戸へ真っ直ぐに帰るつもりか?」「はァ、皆様は如何なさいますか?」修作は恐山で母に言われた「戸沢領角川郷」に寄りたいと思っていたが一人だけ遅れる訳にもいかず悩んでいるところだった。
「伊達領と申せば・・・」「日本三景」「松島や ああ松島や 松島や」「奥州一の宮」「塩竈神社」「日本三奇の」「塩竈は霊験あらたかなり(凶事の前には釜の中の水が変色するとされている)」少し酒が入った同心たちは代わる代わる自分たちの希望を説明した。要するに修作を誘っているのだが、ならばとこちらも希望を申し出た。
「ソレガシの母は戸沢領の生まれでして」「あの大番頭様の御妻女か?」「確か吉原へ・・・」酔った勢いで余計なことを口にした同心が周囲から睨みつけられた。
「皆様が松島へ行かれるのならその間にソレガシも・・・」「行ってきなさい」「親孝行」「水呑み百姓の墓参り・・・」また余計なことを言った同心は口を押さえられた。

翌朝、修作は早目に出立して戸沢領に向かった。奥州の深い山を越えると出羽の国・戸沢領に入るのだが、「戸沢藩の城下町・新圧に着けなければ野宿するしかない」と言われていたため修作は必死になって歩いた。
ただ、新庄は伊達藩の仙台と公儀譜代の名門・酒井家が治める庄内藩を結ぶ交通の要衝であるだけでなく出羽国内の米沢、山形、天童、上山各藩の商人たちが北に向かう時の経路でもあり、時折ではあるが荷を背負った行商たちとすれ違う。こうした行商人たちを宿泊させているため旅籠は地域情報の集積場になっているのだ。
ようやく到着した新庄は六万石の小藩の城下にしては大変に賑わっていて、そんな様子からも天明の大飢饉の終息が実感できた。
新庄からは大蔵村で舟に乗り最上川を下ることになる。松尾芭蕉が「奥の細道」で「五月雨を 集めてはやし 最上川」、明治になって正岡子規が「ずんずんと 夏を流すや 最上川」と詠った急流が山肌を抉り大蔵から先は確かな街道が作れないのだ。
蔵岡村の船着き場で舟を下りて村人に道を訊ねたが訛りが酷く要領を得ない。ただ角川と言う地名にうなずいて指差した仕草に山を越える道と川沿いに上る道があることだけは判った。修作は暑い季節だけに川沿いを上ることに決めた。

夏の日差しを木々が遮って薄暗い川沿いの山道を歩いていくと急に開けた土地に出て、道端に立っている「つのかわ」の道標でそこが母の故郷・角川郷であることが判った。
山裾の平地には田畑が広がり、農民たちが働いているのが遠目に見える。
「母上、お約束通り角川へ参りました」道標の傍らで修作は笠を取り、風景に向かって礼をした。
ここで母の実家を探すのだが、母が江戸へ売られてきたのは二十年以上前であり、娘を売るほど困窮していた実家がどうなっているかを知る術がない。そこで集落から外れた盆地の奥に見える寺を訪ねることにした。
山裾に流れる小川に並行して作られている小道を歩いていくと、農民たちは刀を差している修作に気づき慌てて礼をしようとするが、修作は手で制しながら通り過ぎた。ただ、その顔が母と自分に似ていて不思議な懐かしさを噛み締めていた。

古びた山門をくぐり、本堂と庫裏をつなぐ回廊にある寺の玄関で案内を乞うと住職は快く招き入れてくれた。ただ、住職の私室である方丈ではなく庫裏の座敷に通された。
勧められたワラ座布団(ムシロを重ね縫いした敷物)に座り刀を右脇、十手を前に置くと挨拶もソコソコに修作は用件を切り出した。
「ソレガシは江戸北町奉行所の同心、守野修作と申します」「同心?奉行所のお役人さんだべか。江戸では立派な刀さ帯びてんだね」そう言って住職が興味津々に父の形見の同田貫を注視したので修作は黙ってうなずいた。これは本来、無礼な態度であるが田舎の寺の住職には関わりないことなのだろう。
「本日、まかり越しましたのは亡き母のことでございます」「母上様の?」突然の話に住職の顔が困惑に代わった。地元の顔立ちをしていても江戸の町同心と名乗るこの若者の母親のことを自分が知っているか先走って自問したようだ。寺は地域住民の人別帳を作成、管理していたためこうした問い合わせを受けることがあり、それに応えられないと面目丸つぶれである。
「母は2十年余り前、この村から江戸へ売られたキヨと申す者、御存知ありませんか?」初老の住職であれば知らぬはずはないのだが、腕組みして試案を始めた。町同心の母親が村から売られていった娘と言うのに合点がいかず、真意を探っていたのかも知れない。そこへ中年の女性がさ湯と漬物を乗せた盆を持って現れた。
「これは参籠されている方で、庫裏を手伝ってもらっております」住職は何も訊かれる前に説明する。当時、僧侶は妻帯を許されていなかったためこのような言い訳をするのが約束事だった。ところが女性は無頓着に話へ割り込んできた。
「キヨさんって言えば久左衛門さんの娘がそんな名前だったべ」この言葉で、この女性の参籠が二十年以上になることが判明した。つまり事実上の妻と言うことだろう。江戸であれば僧侶の破戒は特に寺社奉行所が目を光らせているが、戸沢藩ではかなり緩やかなようだ。
「あの器量よしのキヨさんか・・・角川小町が吉原に売られたと大変な評判だった」ちなみに小野小町も出羽の国雄勝郡(現在の湯沢市)の出身とされている。
修作は住職と参籠中(?)の女性が怪訝そうな顔で自分を値踏みしているので、江戸で客を取る前に足抜けした母が父に見染められて結婚したことだけを説明した。
「して、母の実家は?」「皆、大飢饉で亡くなったども親御さんは娘だけでも江戸で生きていればと言っていたんだが・・・」住職の言葉に修作は母が「訪ねてくれ」と言った訳が判ったような気がした。

修作は住職に連れられて寺の裏山に並ぶ墓を参った。そこには度重なる飢饉で亡くなった村人の墓標が林立している。
この時代は文字を刻んだ石塔は普及しておらず、地方では土葬した土饅頭(どまんじゅう)の上に目立つ程度の大きさの石を置き、白木の卒塔婆を立てていた。
角川郷は古くから戸沢氏が治めた土地であったが平地が狭い上、寛永・元禄・享保・宝暦と続いた飢饉によって蓄えが底をついていたため被害は大きかったようだ。
戸沢藩は元禄の頃までは新田開発などが軌道に乗り、実際の禄高は倍の十三万石程度にまで拡大していたものの、それを過信した藩主と重臣の放漫経営により財政が逼迫し、度重なる飢饉もあり一時期は禄高の三倍近い借財を抱えるようになった。このため重くなる年貢に耐え切れず娘を売る者も少なくなく、母が江戸に売られてきたのもそんな時期だったのだろう。
「この辺りが久左衛門さんとこの墓だ」住職は奥の墓標のかたまりの前で立ち止まった。まだ立っている古びた卒塔婆にはかすかに戒名が見て取れるので、裏面の没年から母の両親=修作の祖父母の墓を探したが、この土地の風習で当主は代々屋号の「久左衛門」を名乗っているため住職もハッキリ判らないようだ。
住職は持ってきた引鐘(いんきん・携帯用鐘)を叩きながら先ほど修作が渡した些少の布施に見合う「舎利礼文」と言う短いお経を唱え、先に帰って行った。
「ジジ上、ババ上、孫の修作です・・・」残された修作が手を合わせて挨拶を始めると背後で「修作・・・」と呼ぶ囁き声が聞こえた。
振り返るとそこには母が微笑んで立っている。母は亡くなった時のまま現在の修作と同じくらいの年齢で、自分をかばって早馬に巻き込まれた時に着ていた浅葱色染めの着物姿だ。修作は一瞬、「こんなに美しい女性だったのか」と見惚れてしまった。
「母上・・・・?」「修作、よく訪ねてくれました。ここでなら私はお前に会えるのです」そう言うと母は足を使わず、そのままの姿勢で近づいた。
「ここでなら・」「そうです。ここは私が生まれた土地、あの世からこの世にい出た土地ですから」母の説明に修作は人が生まれることは死と生の境目を超えることだと理解した。
「恐山でお前が私を呼んだ時、父上のお許しを得てここにお前を呼ぶことにしたのです」「父上は何と」「傍におられるのだが、お前が固くなるからと遠慮しておられるのじゃ」そう言って母は呆れた顔で傍らを見る。姿を見せることには幽霊側の意思があるようだ。
修作はやはり両親が再会を果たし、仲睦まじい時間を過ごしていることが判り安堵した。

突然、幽霊の母が傍らと問答を始めた。
「そのようなこと御自身で仰ればよいではありませぬか・・・私が伝えれば良いのですね」そう言って母は少し真顔になって話を続けた。
「父上がいっそのこと刀を捨てて農家になればどうかと仰っておられる。お前は不器用だから職人は勧めんが商人も悪くない。坊主だけは止めておけとも・・・」そう言って母は再び傍らと問答を再開した。
「しかし、修作は同心として生きていこうとしているのです。貴方がそのようなことを仰られては・・・なるほど挫折した時の迷いを防ぐためですか、貴方らしい」この両親の問答を聞いて修作は母の生前、城番長屋で暮らしていた幼い頃に見ていた日常生活がこのような調子だったのか考えてみた。
あの頃の母は武士の妻になっても何も判らず、身分制度の枠の中の人間関係や武家の作法なども全て父に教えられていたはずだ。こうして普通の夫婦のような問答を交わせるようになったのは母が死後も父や自分の生活を見守ってきたからだと判った。何よりも東北訛りがすっかり消えている。
「それなら貴方が直接話しなさいよ・・・修作、父上が会うなら侍と坊主のどちらがいいかって」「それは勿論、大番頭(おおばんがしら)様です」「ですって」その言葉が終わるのと同時に母の隣りに大番頭だった頃の父が立った。頭には陣笠をかぶり、羽織と袴姿だが腰には脇差しか差していない。同田貫は修作に譲ったので幽霊まで差していては「どちらが本物か」と言うことになってしまうのだろう。
「父上、御無沙汰しております」いきなり地面に座り、両手をついて頭を下げた修作を見て父・テンジンは母・キヨに「こうなるから出てきたくなかったのだ」と言った。
「坊さんの方が良かったでしょうに何でお侍を頼んだの?」「坊さんになってからの父上はソレガシの判らない方ですから・・・」「それはどう言う意味じゃ」幽霊の父が拳を握ったので修作は座ったまま後ろへ下がった。
「幽霊は嚇すことはできても殴ることはできぬから安心せよ・・・それにしても坊主のワシはそれほど難しかったか?」「はい、この世の方とは思えませんでした」「貴方の坊さんは私には素敵でしたが修作には難しいのかも知れません」「それで良い、ソナタが判ってくれれば十分じゃ」両親は修作を放ったらかしにして見つめ合った。その意味では侍姿を選んだ修作は親孝行なのだろう。
「修作、後はお前の好き勝手に生きればよいぞ。常に前を向いて歩んで行け。父は常に後ろから見守っておる」「母はいつも一緒ですよ」父は母の手を握るとそのまま消えてしまった。

角川郷を歩き回り、母が幼い頃に見てきた風景を心に書き写してから修作は肘折温泉に向かい峠を越えていた。角川郷に長居し過ぎたため山がちなこの土地では完全に日は落ち、すっかり暗くなっている。
月明かりが山道を白く照らしているものの提灯も持たないのでは足元もおぼつかなかった。両側の深い森の奥では鹿の甲高い鳴き声が響き、獣が枝をかき分ける音が聞こえてくる。
峠の頂上で立ち止まり角川郷で汲んできた竹筒の水を飲んで一息つくと修作は下り始めた。その時、前に数名の男が立ちはだかったのが月明かりに浮かんだ。男たちの手には竹槍や出刃包丁、山の下草刈りに使う大鎌が握られているのが影で判る。
「金さ、けろ(くれ)」正面で鎌を振り上げている男が脅しをかけた。修作には言葉の意味が解らなかったが状況から見て山賊であることは判る。
先ずは同心の冷静さで火縄銃を持っていないか臭いを嗅いだ。火縄銃はないようだ。問題は弓だがこの暗さでは的を狙うことは不可能だろう。動く気配で山賊は4人と判断した。
「身ぐるみ、置いでげ」黙っている修作に別の男が続いたが、それでも返事はしなかった。
同心としては捕縛して戸沢藩の奉行所に引き渡すべきだろうが相手は4人いる。腹を決めた修作は同田貫の柄を握り鯉口を切った。慣れた山賊であれば刀を取り扱う音で危険を察知するのだが、素人のようで修作が黙っていることに焦り出していた。
「いいがら金か身ぐるみ、よごぜ」正面の男が怒気を含んだ声を掛けた時、修作は同田貫を抜き放ち、そのまま父が得意としていた上段に構えた。
月明かりが頭上の同田貫を青く光らせる。それは松前藩御用の研師・高田知介が磨き上げた銘刀の輝きだ。その青銀の光りは見る者を畏怖させるのに十分だった。
「ゲッ」「ギャッ」「ワッ」「デッ」男たちはその場で腰を抜かした。
修作は上段に構えたまま正面の男ににじり寄った。1人で複数の人間を相手にする時には取り巻きを相手にせず一番強い者を倒すしかない。それは父から習った戦いの原則だ。
腰を抜かしたまま後ずさっていた男は修作が振り下ろす間合に迫ると震える両手を合わせた。それでも修作は背後の男たちに備えて構えを解かなった。しかし、他の男たちも同様で、その場に座り込んで両手を合わせている。修作は刀を片手に持ち替えると男たちの鎌と竹槍、出刃包丁を谷底に投げ落とした。
「名匠・高田知介の技を試みる良き機会であったが、手を合わせている者を斬る訳にはいかぬ。ワシも坊主の息子じゃからな」自分でも思いがけない名台詞を吐いて同田貫を鞘に収め、その場を後にした。

津軽ではキヨ助親方が悩み多き毎日を送っていた。親方は金木郷の農家の2男だったが兄が出稼ぎに出たまま帰らなくなり、老いた親から「跡を取ってくれ」と言われているのだ。
と言っても藩御用の車職人としては車清を畳む訳にもいかず、最近は腕を上げたマサ吉に仕事を任せ、弘前城下から金木郷までを往復して田畑の仕事と両立させているのだ。
「ウチの娘がマサ吉と似合う年頃なら婿にして跡取りにするんだが二十も違うんじゃな」娘2人しかいないため、養子を取らなければ車清は続けられないのは判っている。
しかし、マサ吉は見込んだ通りの腕だがトモ造以上に商才がなく、店をまかすには不安なのだ。無愛想なマサ吉は娘たちからも不人気で夕食の時はソッポを向かれている。
一方のマサ太は同業者の息子を預かっているだけで仕事が終われば実家に帰り、あまり身を入れた仕事はしていない。おまけに幼馴染の許婚(いいなずけ)がいると自慢してはマサ吉を怒らせている。
夕食が終ってマサ吉が帰った後、妻と娘が談笑している輪から少し離れて親方は酒徳利を相手に独り言で語っていた。
「トモ造の野郎、上手くやっているのかな・・・アイツの江戸っ子の性分は商売にゃあ向かねェが職人には打ってつけだ。問題は客の奪い合いになった時だがな」江戸での商売が公儀の杓子定規な制限を受けて滞っていることは聞いている。
その点、津軽に戻ってから取引ができた木村屋の広三郎はトモ造と同じ年のはずだが頭の回転は速く、特に情報収集と状況判断には親方も舌を巻くほどだ。
現在も深浦で取引している北前船から各地の情報を驚くほど集めていて、港での積み荷の選定だけでなく、津軽で売れそうな商品を次回の積荷に加えてくれるように注文しているようだ(北前船は次回の寄港の確証がないため、基本的に注文は受け付けていなかった)。
トモ造やマサ吉を職人としては1人前に育て上げたと言う自負はあるが、「何かが足らない」そんな気持ちで茶碗に酒を注いだ。
「マサ吉は俺が親のつもりになって情ってものを教えてやらねェとな」「マサ太の野郎は江戸へでも出さなきゃ独り立ちできねェ。辛ェことがあると親から文句を言われるんじゃあ鍛えようがねェぜ」松前から帰った後、マサ太が分りもしないことを決めつけた言い方をしたため、親方は拳を数発振るったが、翌日には両親が揃って抗議に来た。
職人の修業を知っている父親は強く言わなかったが、母親が「大切な息子に親も上げたことがない手を振るうとは」と怒り狂っていた。その後ろで満足そうに聞いていたマサ太の顔=性根を叩き直すことはどうにも難しい。
江戸でトモ造を1人前に鍛え上げていた頃が妙に懐かしくなった。
「俺が手を引いたらマサ吉は木村屋に雇ってもらう方が間違いないかもナ」考えをまとめて茶碗酒を飲み干すと親方はその場で横になった。

男鹿には妻と娘2人を金木郷の実家に預けキヨ助親方自らが赴くことにした。これで江戸っ子の妻にも津軽の農家の嫁としての修業をさせる一方で娘の養育には母の助けを受けられるはずだ。
「車清」が請け負っていた仕事はマサ吉に任せることになるが、経営は木村屋の店主・広三郎の指図を受けることで藩の作事奉行の許可を得た。
マサ太には男鹿へ付いてくるかを訊いたが、「親元を離れたくない」と言って実家に帰ってしまった。本音では許婚と別れたくなかったのだろう。
それにしてもトモ造を津軽に送り出した時は親方の知らないところで話が進み、気がつけば「車清」弘前支店ができて、こうして帰って来るための地固めをしてくれた。あの時も木村屋、中でも広三郎の助言があったから商売に関しては不器用者のトモ造も店を切り盛りできたのであり、今回の決断にはマサ吉を独り立ちさせるための試練と言う意味もあるのだ。
それから親方は嫌がる妻をなだめて納得させ、後のことを木村屋の先代店主・辰次郎を交えてマサ吉と広三郎の4人で話し合うことにした。
木村屋の座敷に通されてもマサ吉は特に緊張した様子はないが、逆にそれが不遜に見られてしまう。女中が出した茶も無遠慮に飲み干した。親方は溜息をついて座敷の襖を見渡したが、目を患う前には書家であり、津軽凧絵の名手でもあった趣味人の辰次郎が描いたものだ。やがて広三郎に手を引かれたタツ次郎が入室し、話し合いが始まった。
ここでも新たな仕事を提供した木村屋と世話になる側の車清では一定の礼節があるのだが、どうしてもマサ吉の態度は誠実さに欠けてしまうようだ。ただ、幸か不幸か目が見えない辰次郎は出席者の会話で雰囲気を察しているため、マサ吉の表情や態度は判らない。
内容は広三郎が話を持ってきて以来、交わしていた段取りの確認だったが、広三郎もマサ吉が藩だけでなく同業者との関係を上手く続けられるかを心配している。そこで親方は「マサ吉は木村屋の雇われ職人になるのだ」と言い渡した。
車清の看板は親方が男鹿へ持って行き、城下の同業者には「木村屋として車を作る」と申し入れており、車屋の寄り合いには広三郎が出ることになるのだ。
親方は先日、トモ造が江戸で「車智」を上手く経営しているか心配していたが、「車清」の方が弘前城下から消えてしまうことになった。マサ吉が独り立ちを果たし、木村屋からの暖簾分けと言う形で「車雅」を立ち上げてくれれば、それで満足するしかないだろう。
広三郎が先代店主の名前で「車辰の半被を用意する」と言うと辰次郎は「ワシを忘れてなかったのか」と皮肉を言って笑った。

「行くのはマサ吉ではないのか?」作事奉行所に道中手形の発行を申請すると木村屋を通じて内諾を得ていたにも関わらず難色を示した。職人の腕は現場だけが知ることで奉行所としてはマサ吉の礼節を弁えぬ態度を問題視しているようだ。手形を受け取りに赴いた時も下級役人は同じことを繰り返した。
「御用の仕事は木村屋を通して受け給わることになっていますから御心配には及びません。職人としての腕はもう一人前です。御安心を」キヨ助親方はこの役人の態度をマサ吉が何か問題を起こした時の責任を押しつけるための方便であると受け留め、逆らわぬよう言葉に注意しながら弁明に努めた。
「うむ、後のことはソチが請け負うと申すのなら言うことはない。あちらでは当地のことを漏らすではないぞ」それだけ言うと下級役人は脇の盆に入れてあった手形を一段高い段の端に置き、キヨ助親方は土下座をしてから膝で居ざるように前に出て受け取った。

家族の荷物を車に積んで金木郷へ運び、辺りをはばからず泣く妻や娘たちと別れ、翌日の早朝、自分の道具と身の回りの品を車に積んで親方は男鹿へ出立した。マサ吉は自分の長屋の片づけに手間取っているらしく顔を出していない。
「キヨ助、早い出立じゃのう」まだ夜も明け切らぬ静かな街で車を牽いて歩きだそうとした時、後ろから声を掛けられた。振り返るとそこには笠をかぶった侍が立っている。親方は土下座をしようと車の枠から出ようとしたが侍は手で制し、そのまま笠を取った。
「河合様・・・」それは前藩主の作事奉行から新藩主によって大目付に抜擢された河合正衛門だった。河合は前藩主・信明(のぶあきら)公の側近だったため急逝された折には公職を辞し、十三湖の畔で畑を耕し、前藩主が推し進めていた半士半農を実践していた。
しかし、黒石支藩の藩主から末期養子として津軽藩を継承した新藩主・寧親(やすちか)公にその高潔な人格と比類なき実力を買われ、高級藩士の規律指導・犯罪捜査を担任する大目付に抜擢されたのだ。ただ、黒石支藩から弘前に乗り込んだ腹心からは「変節漢」と中傷され、藩主交代に際して江戸表が画策した謀略の処理に対する旧弘前派の側近からの非難もあり、苦しい立場にあるように聞いている。それがこんな早朝から一介の町人の旅立ちを見送ってくれたのだ。
「車清の看板も持って行ってしまうのか?」「へい、アッシが車清ですから」「そうじゃのう、職人は自分の腕が売り物なのじゃ、お主が腕を奮うところに看板がなくてはな」そう言うと河合は車の前に回り、枠の中で両膝を地面につけているキヨ助に懐から出した巾着袋を手渡した。受け取るとかなりの大金が入っているようだ。
「これは?」「餞別じゃ、新たな地に住めばいり用であろう。邪魔にはならぬ・・・ではな」河合はそれだけを言うと笠をかぶって歩き出した。明らかに高位の武士が町人と立ち話をしているところを他人に見られたくないのであろう。
キヨ助親方は荷車の枠から出るとその場に土下座をして静かな街から足音が消えるまで送った。

トモ造は相変わらず船頭を続けていた。船着き場の親方には「後釜が決まるまで」と言ってはいるが肝心の後釜を探している様子がない。
マサ弥が旅立ってしまってからは贔屓に納めた車の点検と修理に回る日だけ休むようにしているが、それがなければ車職人ではなく船頭が本業になってしまう。
同業者の寄り合いに顔を出しても末席に座らせられ、手酌で飲むばかりで商売の話にも加わることができないでいる。
ケイもどちらつかずになっているトモ造に冷ややかな態度を見せるようになっていた。ケイにとってのトモ造は自分の仕事の夢を熱く語っていた出会った時の車職人なのだ。
生まれた時、「車智の2代目」と言って大喜びしてくれたショウ大が成長しても、初代のトモ造が車職人をやっていないのでは、あの感激した顔が嘘のように思えてしまう。
こうなると今まで子守歌代わりだったトモ造の大イビキも眠りを妨げる騒音になってしまうから不思議だ。最近では子供たちが寝つかないと言ってケイとマイ、ショウ大は母が使っていた部屋で眠るようなっている。
トモ造は腕のいい羽織職人の父を支える母の両親の家庭で育ったため、外で稼ぐ夫、父の在り方を知らないのだ。
ケイもまた夫婦で力を合わせて耕作する農家の娘の上、作業場がある自宅で所帯を持ったためトモ造以上に判らなかった。
「けえったぜ」「おかえり」ケイの返事は作業場に続く台所からだ。1日の仕事を終えて戻ってもケイはトモ造の足を洗わなくなった。ただ濡らした雑巾が上がり端に広げてあるだけだ。
トモ造は草履を脱ぐと足を拭き自分の席に座ったが、テレビがない時代には手持無沙汰はどうしようもない。こう言う間の悪さは居心地の悪さでもある。
車職人の頃は作業場にケイが支度する夕餉の匂いが漂ってくると切りのよいところで仕事を終わり、後は片づけと翌日の段取りで待っていた。
「お前さん、次の船頭は見つからないのかい?」「おう・・・」ケイはトモ造のお膳を運んでくると毎日繰り返されている質問をした。今日のオカズも裏庭の畑で収穫した野菜と魚屋が売りに来る川魚だ。
「そう・・・最近、ショウ大が置いてあるお前さんの道具を玩具にしたがって困るのよ」そう言ってケイは奥の部屋の子供たちに声を掛けた。

ある日、いつものように船着き場に行くとゲン希に言われた。
「大将、夏は褌(ふんどし)に限りますよ」今日のゲン希は現代のバミューダーパンツのような股引ではなく、サラシの腹巻きの下は股間を覆う六尺(ろくしゃく)褌だけだ。
夏本番になり照り返しが強くなると川風が吹く水の上でもかなり熱い。櫓を漕ぐ船頭は肉体労働なので尚更だろう。
この時代にも3尺(約90センチ)のサラシ布を腰から股間を通して前で結んだ紐に引っ掛けて下げる越中(えっちゅう)褌はあったが、緩み易いため肉体労働をしない高齢者や高位の武士、豪商、僧侶などが使うものだった。庶民に普及したのは明治になって徴兵された軍隊で官給品として支給されたことによる。
一方、六尺褌は長さ6尺から10尺(約1・8から3メートル)、幅1尺(約30センチ)の布の端を顎で押さえ、跨ぐようにして局部を覆い、尻から捩りながら腰を回して前部を固定し、腰に返って締めるものでこの時代の一般的な庶民の下着であり、特に船頭や漁師などには水着を兼ねていた。
もう少し厚手の布で腹巻きを兼ねた締め込みもあるが、こちらは布自体が重いので水泳には向かず、陸上での肉体労働者や祭りの男衆の定番だ。
「褌かァ、オイラは裸になるのは好きじゃねェんだよな」確かに鍛え抜いて引き締まった身体のゲン希に比べ、トモ造はケイの料理が美味いこともあり、太り気味である。六尺褌ならまだ良いが締め込みでは廻しを締めた関取と間違われるだろう。
「裸で汗をかいて風に吹かれると気持ちいいですよ。何ならそのまま飛び込んで泳いじまってもいいじゃん」それはそうだろうが実はトモ造は泳ぎがあまり得意ではなかった。
「やっぱりオイラは船頭には向いていねェのかな・・・」と言いながら船着き場の人手不足を知っていては投げ出すことができない。かと言ってキヨ助親方の下で修業してきた車職人としての技を捨てることもできない。義理と人情の狭間でいくら悩んでも結論が出せないトモ造は目の前の仕事をやるしかなかった。

松木は応分蓮寺から預かった幸恵を江戸下屋敷の納戸役・村上貢蔵に預けることにした。若い独り身の男が愛しい女を預かれば「下女(=家政婦)」などと口実をつけて同居しようとするものだが、そこが松木直之進であろう。
尤も松木が住む中級藩士の長屋で独身者の家には妻でもない女性が同居すれば、たちまち上中下(かみなかしも)江戸屋敷で評判になるのは容易に予想できる。そうなれば手続きを進める前にどのような横槍が入るかも判らず、下手に隠し立てするよりも信頼が置ける人物に堂々と預ける方が賢明な選択だった。
村上は高野忠兵衛の死後、津軽から赴いた後任で見るからに古武士の風格があり松木は河合正衛門同様に尊敬していた。御馬廻り役として藩主の馬の飼育と共に騎馬隊を率いていたが代替わりを機に「体力の衰え」を理由として隠居を申し出たところ、この役を命ぜられたのだ。
「そうか、お主の嫁じゃな。しかと預かるから安堵せよ」松木は「先ずは相談を」と順を踏むつもりだったが村上は2つ返事で引き受けた。
村上は江戸下屋敷に勤める藩士として高野の旧宅を与えられていたが、当時の武家の不文律により後を追って無念の死を遂げた妻子の幽霊が出ると評判だった。
そうとも知らず夜中に忍び込んだ泥棒が廊下で遊ぶ子供を見て驚いているとそのまま消えてしまい、腰を抜かしているところへ無念の形相をした妻の幽霊が現われて気を失ったまま見回りに来た藩士に捕縛されたのだ。
泥棒の証言を聞いた若い藩士たちは度胸自慢の肝試しを始めたが目撃して寝込む者が続出して夜間の立ち入りは禁止されている。
ところが村上は夜中に現れた母子の幽霊を「とっとと成佛せんか!子供を忘れるな」と一喝し、浄土へ強制往生させてしまったそうだ。その話が評判になると「妻が来るまで女っ気がないから残念なことをした」と笑っていた。
その妻も江戸へ到着し、屋敷の方も落ち着いたところで松木は頼んでみたのだ。
幸恵は応分蓮寺でも庫裏を切り盛りしていたので、慣れない江戸生活を始める村上の妻の手助けにもなるだろう。つまり武家の妻見習いを兼ねた奉公のようなものだ。
「関白秀吉に最後まで歯向った北条の家臣の血筋とは頼もしいのォ」幸恵の身の上を説明すると村上は妙に関心を示した。
「しかし、津軽の田舎侍の養女などにするよりも坂東武者の方が格上じゃろう。ワシが人物を見極めた上で折を見て殿に申し上げてやる」この即断即決は河合にはない。長年の御馬廻り役で疾走する馬の速さで考える癖がついているのかも知れない。
ただし、「泊りに来い」と言う粋な計らいはなかった。

ケイの母がいつものように庭で秋野菜の収穫に向けて畑仕事をしていると玄関から聞き覚えがある声がした。
「母上、戻りました」それは勿論、修作である。奉行所からの正式な連絡はないが、帰参予定がそろそろであることを同じく夫を迎える近所の同心の妻に教えられ、母は頸を長くして待っていたのだ。
「はい、ただいま」母は開け放ってある建物を通して聞こえるように大声で返事をした。急いで縁側に上がり手水鉢で手を洗うと、修作が立っている玄関に向かって速足で進みながら袖を上げているタスキを外し、襟元を整え、両手で髪を撫でた。
玄関には日に焼けた修作が立っている。母はその場に座り、両手をついて深く頭を下げた。
「長きお勤め、ご大儀様でございました」これは修作から習った武家の挨拶であるが今日はそれを本人に返した。
「母上こそ長き間、(家を)お守りいただき、かたじけなく存じます」こう言って修作は背負っていた風呂敷包みを置き、帯の刀を外し、向きを変えて上がり端(はな)に腰を下して草鞋の紐を解き始める。この間に母は足を洗う水を桶に汲んで運んで来た。
草鞋の紐を解き終えて足袋を脱いでいる修作の背中越しに置いてある荷物を見ると、出発時よりも小さくなっていることに気がついた。しかし、そのことには触れず母はしゃがんで桶を置き修作の素足を洗い始めた。
「ご主人様はお若いから長旅も苦にならなかったことでしょう」実際には足の手触りでかなり過酷な旅であったことを察していたが、武士は「『苦しい目に遭った』と慰められることを恥とする」と言う心得も修作から習っていた。
「いえ、ここだけの話、あちらこちらに回り道をしてきまして・・・」「回り道?」「先ずは恐山へ参ってイタコに口寄せを頼んでまいりました」「恐山?では南部の方に渡られたのですね」母の口調が少し沈んでしまった。胸の中では「函館から蟹田へ渡り、津軽を見てきて欲しい」と言う願いを抱いていたのだ。
「はい、父に訊きたきことがございました故、大間へ渡ったのです」「イタコさんなら津軽にもいますよ」「えッ?」修作には初耳だったがイタコは現在の岩手県、秋田県の北部から青森県、函館にかけての各地で口寄せだけでなく占いや除霊、厄祓い、佛教寺院と競合しない範囲で供養などを行っている。修作は顔を上げて母の表情を見ると、その胸の内を察した。
「ならば母上の地元の様子を見てくるべきでしたね。申し訳ありません」「いいえ、捨ててきた故郷ですから気になされますように」修作の心からの詫びに母も気を取り直して笑顔を作った。
「そう言えば母上に作っていただいた綿入れですがトモ造さんの知り合いと言う船頭が松前に残ると言うので餞別にやってきてしまいました」修作は本当に申し訳なさそうな顔をしているが、母はホッと安堵の溜め息をついた。その一方で母はケイが何度か訪ねてきてこぼしていった愚痴を思い出していた。

「母上、お盆はどうされましたか?」真っ先に佛壇を参った後、修作は心配そうに訊いた。やはり松前での仕事は盆前に終わると思っていたため、出立前に依頼しておかなかったようだ。
「お寺の方から若いお坊様が訪ねてきて下さいました」「若い?」「はい、父上様にお世話になったとかで、檀家回りのついでに寄ったそうです」「ふーん、父も妙に若い者に慕われるところがござったから、そのようなこともあるのでしょう」父の遺骸を荼毘に伏した時、人の死には慣れているはずの僧侶が何人も泣いていた。そんな1人が訪ねてくれたのだろう。
「そう言えば八戸の領内で父上を知っている者がおりました」「八戸で?」「何でも飢饉で死んだ者の弔いに回っていたとか・・・津軽へ行く前でしょう」「確かにそのようなことを仰っておられました」母は記憶の中でケイと一緒に現れたテンジンを思い出してみた。
「しかし、隠密ではないかと疑われて役人に捕まったらしいですよ」「そのようなことが・・・」これは松森のダイ司から聞いた話だった。
「やはり津軽に行けばよかったですね。母上がいつも言っておられる父が開眼した地蔵様のお参りにも」南部領内で父の足跡を辿えたのだから津軽でなら更なる発見があったはずだ。尤も1人旅ではなかったから、あまり自由気ままに行動することはできなかった。
角川郷からの帰路、修作は松島を回った同心たちに追いつけず、かなりの強行日程になっていた。宿場では旅籠の軒に手ぬぐいを付けた笠を下げる目印を決めていたのだが、それが見つからず暑い中、ヘトヘトニなるまで歩き通しだったのだ。
「津軽では殿のお召を受けたのですが、手紙をトモ造に預けて逃げてしまわれました」「なるほど・・・信明(のぶあきら)公は英明な方でしたから、父のことも変わった坊主がいると言う評判を耳にされていたのかも知れませんね」子供の頃には偉大な父であったが大人になってから角川郷で再会し、幽霊の癖に母と仲睦まじいところを見せられて急に親しみを感じるようになった。
「それで母上の供養も勤めてもらえたのですか?」「はい、盆棚の端に夫の位牌も置いておきましたからご一緒に」「それはよかった」母は修作の気遣いに改めて感動と感謝をした。
「ソレガシは松前で父の供養をしてきたのですよ」修作にそう言われて母は戸惑った顔をする。しかし、修作は何も言わず佛壇の横に立ててあった刀を手に取って正面に掲げた。母は表情を硬くして少し後ずさったが、修作はそれに構わず鯉口を切ると鞘を抜いた。
「松前の街で藩御用の研師に声をかけられまして見事に整えてもらったのです。刀は武士の魂、父上の魂も研ぎ澄まされたことでしょう」修作は青光りしている刀身に惚れ惚れした顔だが、やはり母には「人切り包丁」にしか見えず、心の中で「早く仕舞ってくれ」と願っていた。

「母上、湯屋にまいりましょう」荷物を解いて片づけを終えた修作は洗濯物を終えて土間にかけた竿に干しているケイの母を誘った。この時代、街中の自宅に浴場があるのは高位の武士か豪商くらいのもので、湯屋=銭湯は士農工商を問わず利用する一大娯楽施設なのだ。
武士も湯屋に行く時だけは袴をはかない丸腰が許されていたため(湯屋に刀を預かる係を置く余裕がないためでもある)、髷の結い方で武士と庶民を見分けるしかなかった。
ちなみに江戸では「湯屋」と呼ぶが上方では「風呂」である。それは関西の方が古来の入浴がサウナ式であった名残りが色濃いからであろう。
また松平定信が寛政の改革の風紀取り締まりで禁じるまでは混浴だったのだが、民間施設である湯屋が全て浴場を改築できるはずがなく、大半は女性が昼間、男性は仕事帰りで夕方と時間を分けていた。つまり日のある時間に行かなければ母は入れないことになる。
「しかし、私と一緒ではご主人様が入れませんが・・・」「ソレガシはこれで」そう言って修作は十手を見せた。町同心は捜査情報の収集や犯罪防止のため時間を問わず女湯にも入浴できる特権があった。勿論、多くの女性たちと一緒に湯船につかるかは別問題だが、若い修作としては母と一緒なら丁度良い口実になるだろう。女性に囲まれると男性の方が委縮するもののようだが、妙なところで図太い修作は平気なのかも知れない。
「それではお伴いたします」母は入浴用の手拭いを渡すと玄関で修作の草履を揃え、後に続いた。この時代には石鹸やシャンプーなどはなく、手拭いも湯屋で借りられるのだが、やはり体を洗う道具だけは自分の物と言うのが一般的だった。
「帰りには団子でも食べましょう」「まァ、嬉しい」半歩遅れて歩く母は声で喜びを表す。修作は「夕食を」とも思ったが用意してあれば申し訳ないと考えオヤツにしたのだ。
湯屋の看板には弓と矢を描いたデザインが多く、中には矢をつがえた弓の実物を下げている店もある。これは「弓を射る」を「湯に入る(いる)」にかけた洒落だが、文字が読めない人にも判り易くする目的もあった。
番台で金を払うと揃って中に入った。足軽並みとは言え町同心は髱(たぼ=裾の膨らみ)のある町人髷(ちょうにんまげ)ではなく、侍(さむらい)髷なので疑われることはない。武士にとって「倫理」は命を掛けて守る存在理由であり、疑念を差し挟むことは「死ね」と言っているのと同義であって庶民には決して許されないのである。
修作は老婆から幼女まで全裸になっている脱衣場で裸になった。すると若い娘たちは恥ずかしがるどころか修作の裸に興味を示し視線は股間に集中している。しかし、そこは修作である。むしろ男根を突き出して浴場に向かい男性ストリッパーになって女たちを堪能させた。
ただ、混み合った女たちの間を「冷えものでございます=入浴前の汚れた身体です」と断って通る。それは武士も庶民もなく互いに不快な思いをしないための入浴マナーなのだ。

湯屋の帰り道、約束通り修作は団子の屋台に寄った。この時代、ウドン、ソバなどの麺類だけでなく鰻や寿司、天婦羅も屋台で食べる気軽な料理であったが、武士は席のある店に入ることを作法としていていた。その点、足軽同心は適用除外であるが湯屋帰りでは識別できないため、武士の恥とならぬようやはり持ち帰りにしなければならない。しかも注文は母がすることになる。
「ご主人様、お幾つ召し上がれますか?」「母上は?」「私は2本です」「ならばソレガシも」この会話で屋台に置いた長火鉢で団子を焼いていた店主は親子のようで違うような2人の関係を計りかね怪訝そうな顔をした。
「それでは4本、頼みます」「へい、4本でがんすね」みたらし団子は京都の下賀茂神社の祭礼で竹を扇状に割って開いた十本の串に5個ずつ刺した団子が発祥で、境内の糺(ただす)の森にある「御手洗(みたらい)池」に湧く泡に似ていることから命名されたとされている。一方、江戸では1個1文、4個で4文にしたため少し大き目の4個刺しが定番になり、現在でも関東は4個、関西は5個と分かれている。
「母上、持ち帰りにするよう言って下さい」「はい、持ち帰りでよろしゅう」「へい」本来であれば修作が直接、声を掛ければいいのだが、それも武士の対面を保つ=無用のトラブルを避ける生活の知恵であろう。
「へい、お待ちどう様でござんした」店主は砂糖醤油のタレの壷に差し入れた団子4本を笹の葉にくるみ、麻紐でくくって母に手渡した。笹や栃、柏などの葉は高価な紙の代用品として食品を包むのに常用されており、さらに葉自体に殺菌作用や独特の風味があり、現在も郷土料理などに残っている。
それにしても屋台の団子を買う武士(に見える)も珍しいが、関係不明の男女の組み合わせに気疲れしたようで、店主は修作が母を介して渡した代金16文を受け取ると前まで出てきて深く一礼したため、母も深く礼を返し益々ややこしくなった。
八丁堀の同心長屋に帰りながら修作は思い出話を始めた。
「ところで母上がみたらし団子をどのように食(しょく)されますか?」「えっ?」母は突然の意表を突いた質問に即答できない。上から1つずつ食べるか、横からかじりつく違いしか思い浮かばない。
「守野の祖父は大口を開けるは見苦しい、祖母は口や手が汚れるからと箸で食させたのです」「はー」母は呆れて口がふさがらなくなった。
「ところが父は串刺しは陣中食、手早く喰えと両手に持たせて食らいつかせたのです」「ほー」これも別の意味で呆れてしまった。
「それで母は口が汚れたから洗いなさいと後で井戸へ連れて行ってくれました」これだけは納得できる。しかし、どう考えても武家の祖父母とテンジンよりも出羽国の貧しい農家の娘だったと言う母親のキヨの躾が一番正しいように思えた。

家に戻ってから支度にかかり、夏の長い日が沈んだ頃、行燈の灯の下で夕餉になった。
「母上の料理を食すと帰ってきた気がします」母が揃えた心づくしの手料理が並んだ膳を前に修作はシミジミ言った。
「奥州もようやく飢饉から立ち直り始めておりましたが、どこも人手が足らず豊かな実りには程遠いようでした」この時代、目的地から戻るには時間がかかり食品の土産は持ち帰れなかった。珍しい民芸品なども背負う荷物が重くなるため小さな物だけで、佛閣・神社のお札や守り袋などが定番だ。したがってそれがなければ土産話しかない。
江戸や上方で道中図の浮世絵が盛んに刷られたのは土産話に臨場感を持たせることも目的の1つだろう。
「南部領でも母が生まれた戸沢領でも耕し手がおらず荒れ地のままの畑が目立ちました」修作は母親・キヨの故郷・角川郷へ向かったため伊達62万石の仙台には寄らなかった。その代わり妙な寄り道をしてしまい、これが同心一向に中々追い付けなかった理由なのだ。
「そう言えば伊達領で不思議な方にお会いしましたよ」「不思議な?」ようやく土産話が始まりそうなので母は箸を膳に置いて修作の顔を見た。
「戸沢様の御領内から奥州道中(=街道)に戻る時、山形城下から笹谷峠を越えたのでござる」「なるほど」しかし、母が津軽領内から出たのは江戸へ来る道中だけでよく判らなかった。
「それで道中に出たつもりが船岡なる地に入ってしまいまして・・・船岡は伊達騒動の原
田甲斐が治めた土地なのですが」「はァ」と言われても母には一向に判らず本当に面白くなるのか心配になってきた。
「並木の下を歩いておったら枝が落ちてくるのです」「枝が?」「それで見上げると大きな狒々(ひひ)が高い高い場所に登っているのでござる」「狒々?」狒々と言うのは猿が大型化した妖怪で女性をさらうとされている。したがって母は怯えた顔を見せた。
「ところがその狒々は鋸をつかって枝を切っているのです」「それは妙な狒々ですね」「そこで声を掛けるとスルスルと下りてきたのですが、それが不思議な方で」「方?」母はここで修作が敬称を使ったのに戸惑った。樵や庭師であれば身分は下のはずである。
「何でも桃太郎を育てた爺様の末裔で女土津桃衛門と名乗られました」「メドツモモエモン?」母には訳が判らなかった。
「その方が仰るには船岡が桃太郎の生まれ育った土地だそうで、その屋敷跡に祠を祀っているそうなので参ってきました」ここで修作は懐から桃の印が入ったお札を取り出して母に手渡した。
「そのまま御自分で建てられた総起庵(そうきあん)に泊めていただいたのですが・・・」「が・・・?」「通りがかった領民が平伏するので訊いてみたところ船岡屋敷の代官様だそうで、刃物なら刀よりも鋸、鉈、鋏がお好みだそうです」この落ちだけは母も納得できた。

いつものようにケイが別室に母子の布団を敷いているとマイが独り言を始めた。
「だってお父っつあんのイビキ、うるさいんだもん。こっちで寝てても聞こえるんだよ」「それに寝ていてオナラするんだよ。ボンッて花火みたいな」布団を敷き終わったケイが声を掛けた。
「マイ、またおジィけ?」「うん、おジィがお父っつあんと一緒に寝なきゃ駄目だって」ケイは父親がトモ造との夫婦関係を心配していることを察した。トモ造が船頭になって以来、夫婦で助け合っていた生活の形が崩れ、家事から子育て近所との関わりまで全てを自分一人に押し付けられているような気がしている。朝、弁当を持って出かけ、夕方に腹を空かせて帰ってくれば行水して夕餉を食べ、後は「疲れた」と言って寝るだけだ。車職人の時には家中に響き渡り、生活のリズムを作っていていた槌や鉋、ノコギリの音がなくなり、一緒に生きていると言う実感までも消えてしまったようだった。
「そんなこと言ったって子供たちも静かな方がよく寝るんだよ」ケイはマイが向いている壁に訴えた。するとマイが父親の返事を伝えた。
「イビキの音がテテオヤの寝ている時の声だって・・・テテオヤって何?」「うん、お父っつあんのことだね」マイには「テテオヤ=父親」と言う単語が難しかったらしく祖父が説明したようだ。その様子を見てケイが反論をした。
「あの人だって先に寝ちまって朝まで目を覚まさないんだから私たちがどこに寝たって判らないよ」するとマイは壁の一点を注視して何かを聞いている。
「えーッ、そんなの難しいよ。うん、チョとずつだよ」今度の父親の答えが難しいようでマイは壁に向かって抗議した。
「メオト・・・メオトって目で音を聞くの?お父っつあんとお母っつあんのことだね。メオトは体が離れるとココロが冷えてしまう・・・ココロって何?」マイには言葉が難しいようだったが、ケイには父親の教えがよく判った。
津軽の冬、布団の中でトモ造に抱き締められて眠った時、暖かだったのは身体よりも気持
ちだったのかも知れない。あの頃はトモ造のイビキがウルサイと鼻を摘まんで遊んだものだった。
その時、襖の向こうでトモ造が大きなクシャミをした。盆を過ぎて夜には涼しい風が吹くようになってきた。船頭の仕事で疲れ切って眠るトモ造は布団も掛けていないのかも知れない。
ケイはもう眠っているショウ大と寝てしまったマイに肌布団を掛けると、襖を開けてトモ造の様子を見に行った。やはり褌と腹巻きだけで丸まっている。寝汗で濡れた背中に夜風が吹きつけて冷えているのだろう。
ケイはトモ造の足元に畳んだままになっている肌布団を広げると身体に掛けて部屋に戻った。しかし、襖を閉めるのと同時に大イビキが始まり、ケイは父親の教えを守り「明日から一緒に寝よう」と決めたことに自信がなくなった。

数日後、修作が船着き場にやってきた。トモ造は丁度、対岸から客を乗せ到着したところだった。
岸では親方の女房が渡し料を集めているが、客たちは十手を差した町同心の姿を見て何時になく神妙に銭を器に入れて通り過ぎ始めた。
「これは守野様」「母上から聞いていましたが本当に船頭になったのでござるね」舟を桟橋の杭につないだトモ造が挨拶をすると修作は腹巻きと六尺褌姿のトモ造を検めて眺めた。
女房は客がいなくなったところで一礼だけして乗船待ちを兼ねた茶店に戻った。町同心には取り入る気がない者は近づかないのが今も変わらぬ庶民感情だろう。
「実は2つほど用件があって来たのですが・・・」「アッシに用件でやんすか?」自分と修作の関係を考えれば御用の筋ではなくケイの母からの苦言だろうと想像できる。
トモ造は頭に巻いた手拭いを外し背中の汗を拭いた。そろそろ川風が汗をかいた身体には冷たくなってきているのだ。
「1つはケイ次からの言伝(ことづて)でして」「船頭のケイ次さんがですかい?」「松前でオロシアの船に近づく見物客を取り締まった時の相方だったのです。家の者に松前へ来いとのことです」トモ造は不思議な取り合わせに感心しながらも「これで船頭が辞められなくなった」と困惑した。
「もう1つは母上から頼まれた話です」「母上ってケイのですかい」トモ造の返事が終わる前に修作は腰の同田貫を抜き放った。
「・・・」目の前に昼間の日の光を受けて眩しく輝く刀がある。トモ造は声も立てられずに腰を抜かし、茶店の中で「ガチャン」と女房が茶碗を落として割った音がした。遠目にはトモ造が怒りを買い無礼討ちされるように見えたのだろう。
トモ造は母が「斬ってくれ」と頼むようなことをケイにしたのか必死に考えていた。しかし、修作は固まっているトモ造に刀身を見せながら話を続けた。
「この刀は父の形見なのですが松前で藩御用の研師に磨き上げてもらったのでござる」「・・・」「熟練した職人の技には人を呑む力があると言うことでござろう」確かにトモ造も職人としてノミや鉋などの刃物を研ぐことはある。それに比べてもこの刀の光り方は鬼気迫るものがあり、職人の技の極致をトモ造に見せつけた。
母は目の前で修作が同田貫を抜いた時に感じた恐怖をトモ造にも見せることで職人の魂を思い起こさせようとしたのかも知れない。
「でもアッシが辞めるとこの船着き場は・・・」「トモ造さんは1人、2役はできますまい」それでも周囲の迷惑を考えてしまうトモ造に修作はテンジンの息子らしく喝破する。
「と言われても・・・」「そんなに2役がやりたいのなら、身体を2つに分けて進ぜよう」そう言うと修作は同田貫を上段に振り上げ、「パッリーン」今度は茶店で皿を割る音がした。
「もう1つ、松前でケイ次と一緒に働いていた若い船頭が江戸へ来たいと言っておりましたぞ」話を終えて同田貫を鞘に納めると修作は「そこんとこよろしく」と言う顔をして船着き場を後にした。

修作は帰りながら茶店に寄り、親方の女房が落として割った茶碗と皿を弁償していった。やはり周囲に客がおらず見ているのはこの女房だけであることを確認していたのだろう。
修作を見送った女房は舟で客を待っているトモ造のところへ歩み寄った。
「あの役人さんは何ねェ。いきなり段平(ダンビラ=大きな刀)を振り回して」やはり女房の目にはトモ造が無礼討ちされるように映ったようだ。ただし無礼討ちは武士だけに許されていた特権で足軽並みの同心には認められていなかった。同心が差している刀はあくまでも護身用なのだ。
「あの役人さんの家で女房の母親が厄介になってやして、そのことで来られたんでさ。あの刀は見せてくれたんでやんす」トモ造の説明にはいささか無理があり、女房も納得しなかった。とは言っても「船頭を辞めて職人に戻れと言いにきた」と口にできるはずがない。
「まあ、茶碗と皿でこんなにオアシ(金銭)をもらちゃあ、唖(おし)になるっきゃないけど」そう言って女房は両手の中でもらった銭をチャリチャリ鳴らした。早い話が口止め料なのだろう。この時代は市街地で刀を抜くにはそれなりの身分と理由が必要であり、修作が抜刀したのも現代の警察官が拳銃を取り出したくらいの意味がある。そこは念には念を入れたと言うことだ。
その時、次の客が来て女房は茶店に戻っていった。客が集まるまでは舟を出さないトモ造は修作に言われたことを思い返してみた。
「先ずはケイ次さんがマツメェ(松前)に残るから家の者に来いって伝えろってたな・・・それにしてもマツメェってどこでェ?」ケイ次が赴いたのは蝦夷地のはずである。この時代の地名は古来の国名と藩主の姓を冠した藩名が入り交じり複雑だった。そもそも庶民にとって地理・地名の知識は暮らしている隣近所のことで十分なのだ。
「それからケイ次さんが使ってる若ェ船頭が江戸へ来てェったな」地名のことを気にしている間に記憶がスキップしてしまった。要するにケイ次は戻ってこないが、こっちに来たい若い船頭がいると言う都合が好い話だ。これでは禁を犯してまで刀を抜いて見せた修作の立つ瀬がない。
「ケイ次さんの家にはゲン希の野郎に言わせればいいな。後釜が見つかればオイラは用済みだ・・・・それじゃあオイラは何をするんでェ」ようやくトモ造の思考は修作がやってきた目的に戻ったが炎天下で頭の地肌を照らされて(月代=サカヤキを剃っているため)ショート寸前のようだ。
本来であれば船頭を辞めて車職人に戻るための手筈を確認しなければならないのだが、頭はボーとして働かない。トモ造は桟橋に膝をついて座り、川の水で月代を洗った。

津軽ではマサ吉が悪戦苦闘していた。今までキヨ助親方は仕事の手抜きを中心に目を光らせ、叱責する時は先ず怒鳴り飛ばし、次は拳骨を振るったのだが、それはどちらも一瞬のことで通り過ぎればサッパリしたものだった。
ところが広三郎は声を荒げることはしないものの、商品として売る側の立場から細かく目を配り、欠陥や仕上げの不十分な点を見つけると徹底的に直させ、それを同じ作業工程の度に指摘するのだ。これは痛い急所を針で繰り返し突かれるようなものだろう。
この日も藩に納める荷車の仕上がりを点検している広三郎の指摘が始まった。
「マサ吉、この車輪の材に木の節が入っているが、そこから折れたりしないのか?」確かに木の節は他の部分よりも硬いため重い圧力が加わると強度の格差で周囲から折れることがある。マサ吉は以前、指摘された材料のやり繰りを優先して、使い残していた余材を加工したのだ。それにしても車職人でなければ車引きでもない広三郎がこのような点に気づくのは驚きだった。商品を吟味するこの眼力が中規模な老舗だった木村屋を弘前城下一の大店(おおだな)にのし上げたのだろう。
「へい、確かに折れやすくはなりやすが、丁度、手頃な材が残ってたんで使いました」「材を無駄にしないことよりも車の出来の方が大切なことは職人なら判るだろう。キヨ助親方は当たり前だが、トモ造さんもこんな仕事はしなかったぞ」マサ吉にとってこれは一番言われたくない台詞だ。広三郎はマサ吉が「兄弟子であるトモ造にだけは負けたくない」と言う感情を抱いていることを知った上で言っているのだ。
「へい・・・」マサ吉はアカラサマに不快そうな顔をして黙りこむ。広三郎はそれを叱責
した。
「自分の間違いを問題にされて不満そうな顔をするのは怒られて脹れっ面するガキみたいだぞ。お前も一端(いっぱし)の職人だったら、こんな落ち度をした自分が許せないって面をしろ」これは職人ではなく商人の心得だ。商人が客に品物の不具合を指摘されて不満そうな顔をすれば店の信用を失ってしまう。相手の顔色を覗いながら笑って誤魔化すか、深く反省している態度を取るかを選び、時には偽りの涙も溢せなければならない。マサ吉にここまでは必要ないが、将来、自分の店を持つようになった時、無駄にはならないだろう。
マサ吉は広三郎の叱責に職人としての誇りを学び、真剣に反省し始めた。その顔を見て広三郎は思い掛けない台詞を吐いた。
「この車輪の材は無駄になったんだから、お前の給金から差し引くぞ」「えッ?」またマサ吉の顔は不満そうになる。しかし、こうして一皮一皮、甘えや自惚れを剥ぎ取られ一人前の職人、大人の男になっていくのだろう。

最近、広三郎は城下に御用聞きに出ると必ず仕事場に寄るようになっている。それは作事奉行所や他の店で請け負った車の仕事を伝えることもあるが、多くの場合、マサ吉の仕事ぶりを監督するためのようだ。
「マサ吉、この切れ端は冬場の薪にして売るから勝手に使うなよ」「えッ?」マサ吉は呆気に取られて仕事の手を止めた。キヨ助親方の頃は木村屋から加工した材料を買っていたので切れ端は釜戸や囲炉裏の焚きつけに使っていた。現在は木村屋に雇われている車職人なので材料は無料で提供されているが、廃材まで商品にして所有権が及ぶとは思っていなかった。
「オイラも焚きつけに使うんだども」「それも買え・・・とは言わないが、他に使い途がない長さの物だけにしろ」「へい・・・」「そこでふて腐れた面をするな」マサ吉は木村屋に車職人として雇われているのではなく丁稚奉公しているような気分になってきた。
広三郎自身も農家の3男として兄の小作人で終わることを嫌って家を飛び出し、弘前城下で先代の辰次朗に拾われてからはこのような苦労をしてきたのだろう。店主に才覚を買われ頭角を表せば、番頭や古参の奉公人から出る杭として叩かれるのは今も変わらぬ日本社会の悪習だ。
「何で手を止めている。親方はお前やマサ太を使っていたがお前は1人で仕事をしてるんだ。親方の時に増えた仕事を1人でやるにはどうすれば良いか考えろ」職人の世界では無理な仕事は手抜きや見落としの原因になるため控えるのが常識であり責任だ。「粗製乱造」などと言う仕事は職人の誇りに賭けて請け負うことができない。それはキヨ助親方からも徹底的に叩きこまれてきた美学だった。
しかし、広三郎が言っていることは一歩上を行っていた。品質を落とさず、然も獲得した顧客を減らさず、作業量を維持しろと言う現代風の経営方針なのだ。
これは広三郎がマサ吉の中に頑固者のキヨ助親方や真っ正直だが不器用なところがあったトモ造とは違う能力を見出しているから要求している無理難題だった。
その意味では広三郎の経営者としての発想は奥州の田舎の城下では革命的なものだろう。
「お前がいくら良い仕事をしても売れる品を作らなければ金にはならない。売れる品と言うのは必要な品だ。必要な時に売らなければ不要な品になってしまう」マサ吉は手を止めて話に聞き入りたくなったが、また怒られるので騒音を立てる叩く仕事だけは控えながら広三郎の言葉に耳を傾けた。
ところが広三郎はマサ吉が切り落とした角材の切れ端を拾い上げて訊いた。
「マサ吉、この切れ端で何か作れないか?」わずかな切れ端まで無駄にしないのでは焚きつけに使う木材など出そうもない。この冬は暖房の燃料に不自由しそうだ。その前に今夜の夕餉の支度で使う廃材が欲しかった。

その日、マサ吉は広三郎に連れられて以前、納品した車の具合を見て回ることになった。ところが出かける前に叱責された。
「半被が違うじゃあないか」マサ吉は「車清」の半被を着ているのだ。
「もらった半被は洗濯して乾いてないんでさ・・・納めた車は車清のだからいいっぺ」反論をするとマサ吉は上州弁が混じった。
マサ吉は広三郎から背中に「車辰」と染め上げた新しい半被をもらっていた。染めや仕立ては江戸で作った「車清」の物よりも丁寧で、マサ吉も気に入っている。
ところが盆を過ぎて弘前では岩木山から肌寒い風が吹く季節になり、仕事の時も羽織るようになって柿の渋汁(=脱色防止に使われた)が手に入ったところで今朝、洗ったのだ。この時代の脱水は手で絞るしかない。したがって洗濯物は水が滴り落ちていない程度だ。
「職人の半被は商人(あきんど)の看板だ。店が替わったのに古い看板じゃあ客の信用は買えないべ。先ず看板を売り込むくらいでないと駄目だ」職人の美学では売り込むのは先ず腕であり、評判は黙っていてもついてくるものだ。ただし、マサ吉は美学などに興味はなく、単に仕事以外のことを考えるのが面倒臭かっただけだろう。
「仕方ない。ワシの半被を貸してやるから着な」そう言うと広三郎は提げていた風呂敷から真新しい半被を取り出して渡した。
広三郎が「車辰」の半被を着て街を歩けば木村屋の贔屓に会った時、変に思われる。あくまでも車を買った相手の店に入る前に着替えるつもりだったようだ。こう言うキメ細かい気配りはマサ吉だけでなくトモ造にもできないだろう。
それはあくまでも客を相手にする商人として必要な能力であり、腕で勝負する職人には無用かも知れない。ただマサ吉は木村屋に雇われている以上、無視することはできなかった。
実はマサ吉も最近、広三郎の叱責が自分に欠けている社会的常識を教えてくれているような気がしていた。キヨ助親方の罵声と拳骨が鋼を鍛える鍛冶屋の木槌なら広三郎の嫌味は一皮剥いてくれる包丁なのかも知れない。
マサ吉が半被を着替え、車清の半被を上がり端に放り投げると広三郎は注意した。
「親方からもらった半被を粗末にするんじゃない。第一、留守中にお客が来れば見苦しいじゃないか」「・・・」「そこでふて腐るな」「へい」マサ吉は素直になろうとした自分を「やはり似合わないことはするもんじゃない」と反省した。
マサ吉が道具箱を担いで一緒に店を出ると広三郎はトドメを刺すような台詞を吐いた。
「お前が独り立ちする時には『車雅』の半被を原価で作ってやるよ」「祝いに下さるんじゃないで?」「儲けなしで作ってやるんだ。儲けの分がお祝いだ」このまま木村屋で修業すればマサ吉は全国チェーンの車屋になるかも知れない。

道具を担いだマサ吉と歩きながら広三郎は思いがけないことを言った。
「車は何でも直せば良いってもんじゃあないぞ」「えッ?」これはキヨ助親方からは聞いたことのない教えだ。マサ吉にはこの雇い主が何を言おうとしているのか全く判らない。
「壊れて直せないと言って新しい車を買ってもらえれば金になる。修繕の代金よりも売った方が儲かるだろう」黙っているマサ吉に広三郎は話を続ける。
「と言って簡単に壊れたんじゃあ車辰の信用がなくなる。客が仕方ないと諦めがつくくらい使い込んだ『壊れ時』の車の話だ」マサ吉は歩きながら考えた。
職人には「壊れ時」などと言うものはない。作った車は1日でも長く、少しでも役に立ってもらいたいと願って仕事をしているのだ。マサ吉は今まで感じたことがなかった職人としての誇りが胸に湧き上がってきた。
「アッシには壊れ時何てもんは判りやせん。具合が悪ければ良くなるように直すだけでさ」マサ吉の反論に広三郎は冷ややかな薄ら笑いではなく真顔で見返した。
「お前もトモ造さんみたいなことを言うな。やっぱりキヨ助親方の弟子だね」いつもは比べられると気分が悪くなるトモ造の名が今日は素直に胸に響いた。
上州から江戸へ流れ着いてキヨ助親方に拾われた時、兄弟子として出会ったトモ造は面倒見がよく、事細かに世話を焼いてくれた。それが自分を服従させているように思え、心の中で反発し、いつかは追い抜いてやろうと敵視していたのだ。
それが「腕では追いついた」と言う自信を持てるようになると「職人としての資質」の違いで競わなければならなくなる。
江戸でも指折りの羽織職人の息子として生まれ育ち、始めからキヨ助親方に弟子入りして、車職人として修業してきたトモ造には貧しい小作人の子であるマサ吉にはない「職人としての血統」があるように感じていた。
黙り込んで歩くマサ吉に広三郎はいつもの薄ら笑いを浮かべながら話しかけた。
「トモ造さんは千手観音さまの手を2本借りてるんだってよ」「手を?何ですかいそれは」「車の仕事は世のため人のためだってことだ」「・・・」またマサ吉は黙り込んでしまった。1人なら立ち止ったかも知れない。

その日の最初の仕事はトモ造が作った車だったが、客は「先代の車清」と呼んでいた。
弘前の客にとってトモ造は江戸前の具合がいい車を持ち込んだ「車清」の創業者であり、キヨ助親方は「真打(しんうち)登場」で現れたその師匠と言うことのようだ。
マサ吉はトモ造が作った車が1日でも長く使われるように念入りに点検、修理したが、その隣りで広三郎は「そろそろ新しい車に買い替えた方がいいですよ」と勧めていた。

その頃、津軽のマサ吉、広三郎は勿論のこと江戸のトモ造もあずかり知らぬ江戸城中で政変が起きていた。10代将軍・家治の死を隠蔽して偽の御意(ぎょい=将軍の命令)を発令し、老中筆頭・田沼意次を追い落とした前回の政変に比べ、今回は波風すら立たない通常業務の中で松平定信が失脚したのである。
実はアダム・ラックスマンが漂流民・大黒屋光太夫、磯吉、小市を送り届けに来日する前、京の朝廷と江戸の公儀(幕府)で同じ問題が発生していた。それは天皇と将軍の父の尊号の贈与だった。
田沼意次が政務を執っていた安永8(1779)年、後桃園天皇が22歳で崩御したが、天皇には皇子がおらず、5代前の東山天皇の曾孫を末期養子(死後の養子縁組)にしたのが10歳の光格天皇なのだ。この天皇が成長すると「皇位を持たない実父に上皇(譲位した天皇)の尊号を贈り、宮廷に住まわせたい」と言い出して、これを皇室の権威回復に利用とした公家が政界工作を始めた。
ところが公儀でも11代将軍・家斉が「帝の孝心に倣いたい」と実父・一橋治済(はるさだ)に大御所(譲位した将軍)の尊号を贈り、城内に住まわせたいと言い出したのだ。
家斉は8代将軍・吉宗の2男・一橋宗尹(むねただ)の孫だが、松平定信は3男・田安宗武の子である。ところが枝胤(しいん=徳川家の親族・松平家)である奥州白河の藩主の養子に出され、甥である将軍の家臣となっていた。
その欝憤もあり定信は天皇からの申し出を「前例がない」「上に立つ者は世に範を示すべきである」と徹底的に突っぱね叩き潰したのだ。
定信はそれだけで済まさず政界工作に熱心だった過激派公家・中山愛親(なるちか)と正親町公明(おうぎまちきんあき)を江戸へ呼びつけて、若い天皇を諌めなかった責任を厳しく指弾して公儀の決意を示したが、これは同時に将軍に断念させるためでもあった。
そのしっぺ返しは将軍・家斉自身が言い渡した。ラックスマンへの対応が幕閣の間で検討されている中、定信には沿岸警備の状況視察として相模湾と伊豆半島への出張が命じられ、出張から帰って登城してもこの一大事にはノータッチのまま全ての仕事は素通りするようになり、やがて老中を解任されたのだ。
実際には倹約のターゲットにされて衣装、化粧から食事まで制限されていた(将軍が愛妾を抱く回数まで制限した)大奥が不満を夜毎に訴えたため、将軍の怒りが燃え上がったとも言われている。
雲の上のできごとでも江戸の城下に広まるのは早く、七年間にわたり綺麗事を強要する圧政から解放された庶民は快哉を叫び、解任の理由を定信が呼びつけて指弾した公家2人が、叱責するために下向したと逆の解釈をして、中山愛親の名前にあやかった商品が大流行したそうだ。それが登場人物たちにどのような影響を及ぼすかは不明だが。

秋、津軽藩主・寧親(やすちか)公が参勤してきた。大名の参勤は1年在府(江戸)、1年国元の交互在住なのだが、代替りにより「用捨(ようすて=特別免除)」されていたので久しぶりの江戸出府となる。
支藩の藩主は本藩の藩主と交代で江戸詰めしているが、中屋敷を与えられていたため寧親公も江戸城に近い本所(墨田区)の上屋敷に住むのは始めてだった。
妻子も藩主交代と同時に上屋敷に移っているが、待つ身としては用捨など返上して早く江戸に来て、藩主の家族として暮らしたかったであろう。
秋の出府は領内の収穫を確認してからと言う配慮であるが、津軽から佐竹(=秋田)辺りまでは雪混じりの道中になりかねず、温暖な江戸に着いて一行は安堵していた。
寧親公は英君の誉れが高かった先代・信明(のぶあきら)公に比べると凡庸で、黒石支藩からの古株家臣の言うことを鵜呑みにして、先代が天明の大飢饉を乗り切るため断行した藩政改革も旧来に服すことが多かった。
それでも分を弁えた誠実な人柄で幕閣の評判は悪くなかったが、これで後年、大きな事件に巻き込まれることになるのだ。
江戸詰の藩士たちが序列順に藩主と対面したが、下屋敷納戸役の村上貢蔵は御馬廻役だった頃、支藩の藩主だった寧親公に乗馬の指南をして顔見知りだった。
「この度(たび)、御意(ぎょい)を得ました村上・・・」「おう、師匠ではないか」寧親公は村上が挨拶を終える前に懐かしそうに声を掛ける。それは藩主と家臣の作法から外れ、傍らに控えている江戸家老が「ゴホン」と咳払いをした。
「そうじゃったの。苦しゅうない面(おもて)を上げよ」「はは・・・」「構わぬ、面を上げよ」「村上、面を上げよとの思(おぼ)し召しじゃ」「はは・・・」これでようやく顔見知りの対面となる。武家の作法とはさように面倒臭いものだった。
「村上、馬から下りて慣れぬ江戸での藩邸勤め苦労も多かろう。大事ないか?」声を掛けられれば恐縮して土下座に戻る。この馬鹿らしいほど形式的な作法には城内で馬の世話と調教を差配していた頃が懐かしくなった。
「はは、慣れぬお役ゆえ、行き届かぬこともあろうかと存じますが、何卒、お許しを賜りたく伏してお願い申し上げます」村上は舌を咬みそうな長台詞を一気に言い切った。
「妻女も慣れぬ江戸暮らしに難儀しておらぬか?」気さくなところは黒石支藩の小所帯で家臣・領民と親しく交わっていた寧親公の身上だが、江戸家老は渋い顔をしている。村上は両者の間で綱渡りのように話を進めた。
村上貢蔵は寧親公が思いがけず妻を気遣う言葉を掛けてくれたことで松木直之進の許婚(いいなずけ)のことを持ち出すことにした。
「実は当藩の者から北条家の家臣の末裔と言う娘を預かりまして家事を手伝わせております」「ほう、北条家のか」寧親公は率直に興味を示したが、この興味が変な方に向かえば「側室に上げろ」と言うことになりかねず、村上は「藩士から預かった」と予防線を張ることを忘れなかった。
東照大権現・徳川家康公は秀吉により関東へ転封された時、多くの北条家の遺臣を召し抱えた。それは信長が武田家を滅ぼした後も同様で関ヶ原でも活躍した井伊家の赤備え隊は信玄配下の飯富兵部少輔(おぶひょうぶしょうゆう)虎昌のものだった。
つまり滅んだ旧領主の遺臣は必ずしも忌み嫌われる存在ではなく、武名を称えられる武将であればむしろ進んで召抱えられることも少なくなかったのだ。
さらに津軽藩2代藩主・信枚(のぶひら)公は石田三成の娘・辰姫を愛し、公儀から「家康公の養女・満天姫を正室に」と強要されても上州大館村の飛び地(ユキエの故郷)に建てた屋敷に側室として住まわせて、参勤の度に逗留していたのだ。
「ゆくゆくは妻に迎えたいようなのでございますが、郷士の娘では殿のお許しを得ること
ができず、拙者が相談を受けて預かっておるのでござる」「ワシの・・・世の許しか」本藩の藩主となると1人称まで変わる。それが身についていないところを見ると江戸へ参勤するまで弘前城内ではもっと気軽に話していたのかも知れない。
話が盛り上がってきたところだったが家老は「話が長い」と咳払いをしたため、その場は退席した。
次の対面は何時になるかは判らないが、少なくとも事前情報を伝え、悪くはない反応を得た。しかし、藩主の周りには自分たちの主君を常識の型にはめることを忠義と信じる頑迷固執な宿老も多いので糠よろこびを与えて失望させることがないように松木に知らせることは先送りにした。

この日もトモ造は船頭として働いていた。夕暮れ時、最後の便として客のない舟を対岸から渡船場に向かって漕いでいる時、川の中ほどで白い塊が流れてくるのが見えた。
しかし、夕日の逆光のためはっきりは見えず、そのまま直進させると舳先で「ゴンッ」と言う音がしてそのまま櫓に何かが絡みつき重くなった。
「うん!」トモ造は全身の力で櫓を前後させながら進むが、水中から何かに引っ張られるような感覚で川の流れに逆らうのにも苦労する。
全身の力を使い果たして渡船場に着いた時には日が沈み、月明かりに代わっていた。
「大将、遅いじゃん。客を待ってたんですかい」桟橋で待っていたゲン希が声を掛けてきたがトモ造には返事をする元気もない。ゲン希は艫綱(ともづな)を杭に括りつけ舟を固定すると、トモ造を手伝って櫓を引き上げようとしたが、やはり水中に引っ張られるような感覚だ。2人は怪訝そうな顔をして互いを見合った後、力を込めて櫓を持ち上げた。
すると「ドボドボ」と嫌な音がして女の水死体が水面に浮かび上がった。満月の青い光に照らされたその顔を見て、ゲン希は「ヒーッ」と引きつった悲鳴を上げ、トモ臓は黙って船底に腰を抜かした。
水死体はそれ程時間が経っていないようで腐敗はしていないが、その分、水を呑んだ苦悶の表情が凄みを帯び、長い髪が櫓に絡みついている。
「アッシは番所に一走りしてきやすから、大将は仏が流れないように見ていて下せェ」ゲン希は腰を抜かしたまま動けなくなっているトモ造に櫓ベソを握らすと、桟橋に飛び移り茶店で片づけをしている親方の女房に簡単な説明をして石の河原を駆けて行った。
流石の女房も女の土左衛門(ドザエモン=水死体)と聞いては近づいてこない。後に残されたトモ造は舟の上で水死体に背中を向けながら櫓にしがみついていた。
水死体は再び水中に没しているが、櫓を揺らしても動かないことで絡みついていることは
判る。そうしながらトモ造は舟のへりを叩く「ピチャピチャ」と言う水音が不気味に思えてきた。
「水面から手が伸びてきて引き込まれてしまう」それとも「振り返ると水面に女が立っていて手招きをしている」そんな怪談の場面が始まるような気がして、法事で菩提寺の坊主が唱えているお経を思い出そうとしたがトモ造の実家は真言宗なので、難しい呪文は覚えていなかった。頼みの綱の千手観音も職人を止めていては加護がないかも知れない。
「何でも好いから助けてくれェ」トモ造の悲痛な叫びが暗い川面に響いた。

舟(ふな)番所では当番の同心として守野修作が詰めていた。この時代、江戸市中に入る街道の渡船場には舟の客や積み荷を監視する町奉行所直轄の番所が置かれており、勤務時間は渡船の営業中だけなので連絡を待っていたのだ。
番所には奉行所や関所から派遣される役人の他に読み書きソロバンができる程度の教養を持つ独り身の老人が住み込んで普段の雑用を担当している。
これが江戸市中を隔てる柵の木戸番であれば夜間通門の記録などの防犯業務もあるが、街外れの舟番所では建物の管理だけが仕事だろう。
「お役人様、土左衛門でござんす」息を切らして駆け込んだゲン希に修作は食べかけていた弁当の握り飯を包みの笹の葉に置き、立ち上がって蜀台の明かりを近づけた。
土左衛門と言うのは八代将軍・吉宗の時代の力士・成瀬川土左衛門の白く膨れた身体が水に漬かっていた水死体に似ていたことから言われ始めた俗語だ。
「土左衛門?どこで上がった」修作にはゲン希の風体から渡船場の船頭であることは察したが手順としての現場確認をして硯の筆を取った。
「へい、舟の櫓に引っ掛かりまして」「ソチの舟か?」「いいえ、船頭はトモ造と言いやす」「トモ造さんか?まだ車作りに戻っておらぬのだな」ゲン希は同心がトモ造を知っていることに驚いたが、修作は発見現場と発見者の名前を記録すると立ち上がり、蜀台から提灯のロウソクに灯を点けた。この時代は和紙の紙縒り(こより)を芯にした和ロウソクなので火は点きにくいが、風でも簡単には消えない。
また、時代劇などの捕り物シーンでは「御用」とだけ書いた提燈だが、実際には奉行所の名前なども併記されており、どこの役人であるかを一目瞭然にしていた。現在で言えばパトカーの車体に「○○県警」と表示してあるようなものだろう。
修作は刀を帯に差し、十手を右手、提灯を左手に持ったが、「土左衛門を見てからじゃあ、飯が咽を通らないな」と言って握り飯を口に入れてからゲン希の案内で渡船場に向かった。
すると番所に住んでいる老人が「こちらに運びますね」と確認し、修作は「よろしくたの
む」と返事した。この老人は今夜、水死体と過ごすことになるのだが特別な感情は見せなかった。川で上がった水死体を預かることには慣れているのだろう。

待ちくたびれていたトモ造は月明かりの下、「御用・舟番所」と書いた提灯を持った人影が近づいてくるのを見て「ホッ」と溜め息をついた。
「トモ造さん、仏は?」「これは守野さま」トモ造は提灯を持っているのが修作だと判り、もう一度、溜め息をつき直して櫓の先を指差した。
「ゲン希、戸板を持ってきてくれ」「へい」修作に名前を呼ばれゲン希は周囲を見回したが、待ち合いになっている茶店の扉しかない。茶店の中では親方の女房がまだ待っていた。
「お上さん、お役人さんが板戸を貸せと言ってまして・・・」「これに土左衛門を載せるのかい?困るよ」女房は板戸で水死体を運ぶことを察し、嫌そうな顔をした。
日中であれば川原で検屍するのだが月明かりでは不可能であり、番所まで運び翌日まで安置することになる。遺体を運んだ板戸を再利用することは誰でも嫌だろう。女房が嫌がっても役人の要請を拒否することはできないので、ゲン希は扉を外すと桟橋に運んだ。ゲン希が到着すると修作は2人に声を掛けた。
「さて、仏を上げよ・・・普通はワシらが来る前に上げておくものだがな」役人は自分の手は汚さず、身分が低い者にやらせるのは現在も変わらない。2人は諦めて顔を見合すと力を込めて櫓を回し、桟橋に遺骸を寄せた。すると修作は桟橋から両手を伸ばし、「南無阿弥陀佛」と念佛を唱えながら遺骸の両脇に手を差し入れて引き揚げた。
「うむ、若い女子じゃな。勿体ない」驚いている2人にかまわず修作は桟橋に遺骸を寝かせると瞼に手を置いて見開いた目を閉じさせ、同様に両頬を掌で温めて歪んだ口を塞いだ。一般的には目を開けている遺骸は瞼を指でふさぐと思われているが、硬直した遺骸の目は簡単には閉じず、体温で温めて筋肉を弛めればまれに閉じることがある程度なのだ。遺骸を整えた後、修作は提灯の明かりを近づけて簡単な検屍を始めた。
「どうやら心中だな」修作は女の腕を縛っている赤い紐を見つけ呟いた。心中する男女が死んでも別れ別れにならないように赤い紐で腕を結ぶのはこの時代の習慣であった。
そう言われてゲン希が恐る恐る見ると遺骸の顔には苦悶の表情が消えている。優しさに触れると死者も安らかな気持ちになれるのかも知れない。
一方、トモ造は顔を背けて手を合わせて震えていたが、修作は質問を投げかけた。
「トモ造さん、男の仏はいなかったのか?」「へい・・・わかりやせん」あの時には白い塊が流れているように思っただけだ。それが水死体だったとは思いも寄らなかった。修作は曖昧な返事をしたトモ造に非情な命令を下した。
「では仏を戸板に乗せて番所まで運んでくれ」「へい」「げッ」2人は別々の返事をする。ゲン希は漁師の息子だけに水死体を見たことがあり、先ほど修作が自分で引き上げたことで腹を決めているようだが、一方のトモ造は身内の死にも立ち合ったこともなかった。

ゲン希が肩を、トモ造は足を持って遺骸を戸板に寝かせた。すると修作は乱れて乳房と足があらわになっている肌着の胸元と裾を直し、顔に懐から取り出した手拭いを被せた。本来であればムシロを掛けるのであるが人家もない川原では手に入らないと考えたのであろう。トモ造は初めて触れた遺骸の冷たい感覚が手に残り、指先が凍りついた思いがしていた。
「それでは参ろうか」修作に促され2人は戸板に取りついたが、今度もゲン希が前、トモ造は後ろになった。遺骸は頭が重いため若いゲン希は辛い方を選んだのだがトモ造としては「顔から少しでも遠くに」と考えていた。しかし、前なら背中を向けて歩くが、後ろでは遺骸の全身を見ながらになる。その辺りの状況判断は今一つだろう。
修作は提灯を持ち先に立って歩き出したが、茶店の前に立っている親方の女房に会釈をし、女房は両手を合わせて頭を下げた。茶店を閉める戸を使われることに腹を立てていた女房だったが、いざ死人(しびと)を見てしまうと「それも供養」と言う気持ちになるようだ。
舟番所は川岸から少し離れた高台にある。それは河川工事が現在ほどしっかりしていなかったため増水すれば溢れることも珍しくなく、建物内が水浸しになることを避けるためだった。川岸からの街道を修作は提灯で照らしながら先導しているが満月の光で十分だ。
「お役人さんは恐ろしくないんでやんすか?」前を歩くゲン希が修作の背中に声を掛けた。
「ワシは武家の出での、武士は人を斬るのが商売、死人は売り物のようなものじゃ」修作の身の上を知らぬゲン希は驚いたのか戸板を持ち直し、遺骸が揺れたことでトモ造は身体を固くした。
「お主こそ、若いのに良い度胸じゃのう」とゲン希よりも年下の修作が褒める。
「アッシは漁師の出でやすから土左衛門には慣れていますんで」そこは足軽並みとは言え役人には礼を尽してゲン希は説明した。
「なるほど、大平の世では侍よりも漁師の方が余程、生き死にの挟間に身を置いているのかも知れぬの」修作が僧侶の息子とは知らぬゲン希はこの台詞に感心した。
普通、足軽並みの町同心の言葉づかいは庶民的で、それが情報収集の時に距離感を埋めることにも役立っているのだが、この若い同心は言葉遣いだけでなく立ち振る舞いも武家そのもので、さりげない台詞にも教養を感じさせる。
「この同心はトモ造を知っているようだから、後で訊いてみよう」とゲン希は思った。
一方、トモ造は戸板の上で月明かりに照らされている遺骸が今にも起き上がるのではないかと怯えていて2人の会話は耳に入っていなかった。

「お疲れ様でございました」舟番所では住み込みの老人が準備を終えて待っていた。同心が書き物や食事をする机と腰掛けは土間の隅に移動してあり、蜀台の横に置いてある香炉の前には竹筒に入れた線香が置いてある。
修作の指示で2人が土間の中央に戸板を置くと、老人は顔に手拭いを掛けてあるだけの遺骸を見て、裏からムシロを持ってきて掛けた。
「まだ新しい仏だからよろしいですが、古い仏では臭いが酷くて線香を幾ら焚いても間に合いません」「へい」修作が1本立てた線香を見て老人が言った台詞にゲン希が返事をしたが、トモ造だけは土間の隅で黙りこくっていた。
トモ造は先程から背中に冷たいものが覆いかぶさっているような悪寒を感じているのだ。それでも修作が線香に火を点けて立て、手を合わせると一緒に頭を下げた。
「それではソチたちは帰ってくれ」外傷を調べるには着物を脱がして裸にしなければならず、この若い女性の遺骸に恥をかかせることになる。それを避けるため修作は2人を帰したのだ。この時代の町同心は捕縛する下手人も家族の前では縄を掛けないなど人情を弁えていた。それが明治になって毛利・島津・土佐・佐賀の藩士が警察を組織すると見せしめのように非情な態度を取るようになったと言われている。

「・・・」入口の障子を開けてもトモ造は敷居を踏み越える力がなかった。背中の冷たいものは重さを増し、このまま地の底へ連れて行かれそうな気分になっている。いつもよりも鐘1つ分(2時間)は帰宅時間が遅く、ケイは奥の部屋で子供たちを寝かせつけているのだろう。
「お前さんかい?」障子を開ける音はしたが閉める気配がないことを不審に思ったケイが奥から声を掛けた。その声と同時に背中の冷たいものは全身に絡みつき、「ドサッ」と言う音を立ててトモ造は土間にうつぶせに倒れた。
「お前さん!」ケイは慌てて襖を開け、上がり端に飛び出してきた。
「お父っつあん」ケイの後ろにはマイもいる。しかし、トモ造は2人の声を遠いところで聞いていた。意識はドンドンと地の底へ引き込まれていくのだ。
「お姉ちゃん、誰?お父っつあんに何をしてるの?」マイが倒れているトモ造の背中に声を掛け、ケイが驚いて顔を見るとマイは横を向いて話し始めた。
「お姉ちゃんと話してはいけないの?だってお父っちあんの上に乗ってるじゃない」「うん、オジィがそう言うならやめるよ」ケイはトモ造の上に若い女の霊が乗っており、マイが話しかけるのを父が止めたことを理解した。そして土間に倒れているトモ造の重い身体を無理して背負い、敷いた布団に寝かせた。

それからトモ造はうなされ続けた。目を開け意識を取り戻したように見えると天井に向かって「許してくれ」「俺は知らねェ」と絶叫し、意識を失うことの繰り返しだ。
仕事を休んだトモ造を見舞ったゲン希から渡船場で水死体を引き上げたことを聞いたが、ケイにはどうすればいいのか判らない。医者に往診を頼んでも「どこも悪くない。祈祷でも受けろ」と匙を投げられただけだ。
それにこのような状態のトモ造を置いて家を空けることはできず、できることは枕辺を離れず、時折、ケイ自身が口に含んだ水を唇づけて流し込み、意識を取り戻した時に食べさせる雑炊を作っておくことだけだった。

「今日もオジヤ?お父っつあん、食べないね」夕食ではトモ造が食べなかった雑炊を家族で食べる。マイやショウ大には庭で飼っている鶏が産んだ卵を落としているので喜んで食べているが、太目だったトモ造は随分と瘦せこけてきた。何よりもサラシ布のオムツを当てているが便も尿も出なくなってきている。
「このままでは・・・」ケイは1番恐れていることが頭をよぎり1人首を振った。その時、またトモ造が天井に向かって叫び始めた。
「俺は知らねェ。俺はアンタを引き上げただけだ」その声はかすれ、弱々しくなっている。以前は両手を天井に向けて突き出していたが今は体力が落ちているのだろう胸の横で立てているだけだ。子供たちも見慣れてしまって怯えた顔はしなくなったが、父親が弱っていく姿を心配している。その時、マイが祖父と話し始めた。
「おジィはお父っつあんを助けられないの?うん、私たちを守るだけなんだね」父には怨霊を退散させる力はないようだ。だからこうして娘と孫たちを守ってくれているのだろう。ケイが「テンジン和尚を呼んできてくれ」と頼もうと思った時、マイが父の提案を口にした。
「お線香を上げてみろって?お父っつあん、死んじゃうの?」マイの素朴な質問にケイは思わず頬を打ってしまった。突然、頬を打たれたマイは手で押さえ、怯えた顔で母を凝視している。しかし、ケイの方が涙を流していた。
「お父っつあんが私たちを置いて死ぬはずないべ」ケイの胸には何もできない自分の無力さとこのままトモ造を失う恐れが蓄積していて、マイの一言でそれが一気に溢れ出したのだ。
驚いて泣き出したショウ大と泣きじゃくるマイを抱き締め、ケイは声を上げて泣いた。行灯の薄明かりの中、車智ではトモ造のうめき声と母子の鳴き声が響いていた。

翌朝、様子を見に寄ったゲン希にトモ造の実家への伝言を頼むと仕事を投げ出して掛けてくれたようで、昼過ぎには両親が菩提寺の僧侶を連れて訪ねてきた。
「トモーッ」母は上がり端の布団に横たわる我が子に取りすがったが、その時、トモ造は弱々しく叫び始めた。
「俺は知らねェ・・・違うんだ・・・もう許してくれ」その声は溜め息のように掠れている。手も指を開き握るだけだった。
「和尚、お願いしやす」トモ造の父親は横に控える中年の僧侶に声を掛けた。
「うむ、支度をしますのでお待ちを・・・着替えに部屋をお貸し願いたいのだが」僧侶はケイに声を掛け、奥の部屋へ案内させた。その間、母親はトモ造の痩せた顔を不安そうに見ていたが、羽織職人の父親は意識を取り戻さない息子を叱った。
「だから職人が船頭何ぞになっちゃあいけねェんだ。腕の使いどころが違うだろう」しかし、母親は夫の言葉には耳を貸さずトモ造の手を両手で握りながら声を掛けている。
「トモ造、苦しかろう。お母っつあんが変わってやるから憑き物をよこしな」するとトモ造はもがくように叫び始めた。
「やめてくれェ・・・駄目だ・・・嫌だ・・・」家族が互いの顔を見合わせた後、トモ造を覗き込むとそこへ派手な法衣に着替えた僧侶が襖を開けて現れた。
僧侶はトモ造の枕元から家族を下がらせてから父親に持たせてきた大きな風呂敷から香炉と小さな火鉢を出して並べ、ケイに釜戸から持ってこさせた火種で火をつけた。
「ではお勤めします」僧侶は座布団に座ると数珠を「ジャラジャラ」と音を立てながら揉み、太い声で経文を唱え始めた。
始めに洒水と言う清めの水を器から散杖(さんじょう)でトモ造に振り掛ける。続いて火鉢の中に護摩木と呼ばれる木片と粉を入れると炎が上がった。立てた線香からは白い煙が1本立ち昇っていく。その様子をショウ大は黙って見ているがマイは怯えたようケイにしがみついた。
やがて僧侶は残った護摩木を次々と投げいれながら「ノウマク・サンマンダ・バーザラダン・センダー・マーカロシャーダー・ソワタヤ・ウンタラ・ターカンマン」と不動明王の真言を繰り返し始めたがトモ造はそれには関係なくうなされ続けている。
やがて最後の護摩木が燃え尽きてしまった。僧侶は家族の方に向き直ると懐から取り出した手拭いで汗を拭きながら弁明を始めた。
「まだ苦しんでくれれば読経が届いていることになるのだが、このように関係なしでは手の施しようがありませぬ」すると父親が激昂した。
「てやんでェ、ウチのガキが死ぬか生きるかの瀬戸際なんでェ、何とかするのが坊主だろい。おめェは葬式の算段をしてるんじゃあねェだろうな」それが図星だったのか僧侶はきまり悪そうな顔をして帰り支度を始めた。結局、医者が勧めた祈祷も効果はなかったのだ。

その日の夕方、両親が残っている車智に修作が訪ねてきた。障子を開けた修作にトモ造の枕元に座っている父親がぶっきら棒な言葉を投げかけた。
「お役人が何のようでェ、ウチのガキはまだ死んでねェぞ。帰った帰った」その声を聞いて土間からケイが顔を出した。
「守野さま・・・」日に日に弱っていくトモ造の姿に必死に堪えていても不安は頂点に達しており、ケイはそのまますがりつきたい心持ちだった。
「渡船場を訪ねましたところトモ造さんが倒れたと聞きまして急ぎ駆けつけた次第です」そう言うと修作はケイに深く頭を下げた。両親はこの同心がトモ造やケイの知り合いと判り、気まずそうに顔を見合わせた。
修作は刀を帯から外すと上がり端に腰を下ろして草鞋の紐を解き、両親が席を譲ったトモ造の枕元に座り、弱り切って呻き声も上げられなくなっているトモ造に話し掛けた。
「あの女は上流の街道筋にある旅籠の出女で、色(男)と心中をしようとして川に突き落とされたのでござる」出女とは旅籠に足洗い女、飯盛り女として雇われた娘たちで、客へのサービスと同時に夜の相手もさせられている実質的な女郎であった。
「死んであの世で一緒になろう言い交わしておったようでござる」修作の説明に突然、トモ造が最後の力を振り絞るかのように泣き叫び始めた。
「アンタ・・・アンタ・・・何で・・・何で・・・」その声は女のものだった。
「橋から飛び降りようと腕の赤い紐は男が結び、女が男の腕に結ぼうとした時、突き落さ
れて・・・流れ着いたのがトモ造さんの舟だったのでござろう」トモ造は力が尽きたのか声は出さず眠ったまま嗚咽を繰り返している。修作は女の腕に結んであった赤い紐の反対側が腕から抜けた状態ではないことに疑いを持ち、上流の宿場町で捜索を始めていたのだ。
捜索は簡単であった。足抜けした出女は仲介した人買いも血眼になって探しており、色はすでに捕縛され、折檻(拷問は訊き出すための虐待)を受けて半死半生になっていた。
手下たちは女が泳ぎ着いていないかだけを確かめに川下を探していたが、修作から水死体になって見つかったことを聞いて引き上げた。
事の顛末を聞かされ、その場にいるケイと両親は夫・息子を苦しめている女に同情して涙を浮かべた。それでもトモ造は意識を取り戻さない。相変わらず苦しみ悶えているが、先ほどの号泣で生命の火が燃え尽きようとしているのか声はなく荒い吐息だけになっている。その時、祖父の隣に座っているマイが誰もいないトモ造の向こうに話し始めた。
「えッ、それをお役人さんに言うの?」マイのイタコとしての能力を知らない両親は驚いて顔を見合わせ、「お役人さん」と言われた修作も振り返った。

「うん、お坊さんの言うことならね」マイは寝ているトモ造の向こうに返事をすると修作に話し始めた。
「お役人さん、ドータヌキを抜けってお坊さんが言ってるよ。ドータヌキってタヌキさん?」「ふーん、刀のことかァ」ケイはマイのイタコとしての能力を説明しようとしたが、修作はその前にうなずいた。
「マイちゃんはイタコのようでござるな」「へッ?」「ソレガシは恐山でイタコの口寄せを受けてきたのでござる・・・父上がこの同田貫を抜けと申されておるのだな」修作の返事にマイはうなずいたが、両親はキツネにつままれたような顔のままだ。修作は右脇に置いていた同田貫を取ると両手で掲げた後、鯉口を切り、鞘を抜いた。
一般的には「刀を抜く」と思われているが居合道では鞘を引き抜く。何故なら刀を抜くには刀身の長さを突き出さなければならず、それでは姿勢が大きく崩れ、そのまま構えに移ることができないからだ。
「えーッ、お父っつあんを斬っちゃうの?駄目よ、駄目駄目」テンジンの次の指示にマイは首を振る。やはり幼い子供には難しいようだ。
「うん、わかった・・・その刀でお父っつあんの上を斬れって」「上を?」「うん、すぐ上を」マイの説明に修作は頭の中でやるべきことを描いてみた。要するに刀を横一線に振り抜けと言うことのようだ。
「御一同、危ないですから下がってなさい」修作は正面に同田貫を立てながら両親とケイ、マイを下がらせた。ショウ大はケイが抱いている。マイも母親が抱き締めた。
周囲の安全を確かめると修作は腰を上げ、左足を敷き、右ひざを立てる構えになった。そして同田貫を右脇に寝かせて深く息を吸い、雑念を祓うように目を閉じる。家族たちは固唾を飲んで見守り、母親はマイの口を手で押さえた。
やがて「カーッ」と言う気合いと共に両手で同田貫を横一線に振り抜いた。それはトモ造の鼻を削ぎ落としたのではないかと思う高さだった。
庶民である家族たちは刀の抜き身を見るのも初めてであり、ましてや振るところなどは恐怖以外の何物でもない。「ブンッ」と空気を切り裂く唸りには度胸が座っているはずの父親まで目をつぶり、膝の上で拳を握っていた。
するとトモ造が「フーッ」と大きく息を吐き、静かに吸い込んだのが分かった。修作が同田貫を鞘に納めるのを待って家族はトモ造ににじり寄り、顔を覗き見た。その顔には苦痛はなく、穏やかな寝顔になっている。今度は家族が一斉に溜め息をついた。

トモ造の寝顔を見て両親は安心して帰って行った。ケイは「夜道は危ないから」と泊まっていくように勧めたが、「慌てて来たから戸締りも適当だ」と提灯を借りて帰ってしまったのだ。
帰りながら父親は「先払いした布施を取り戻す」と息巻いていたが、母親は「これからの
つき合いがあるからよしなさい」と止めていた。檀家をやめる訳にはいかないので取り戻しには行かないにしても「祈祷には功徳がない」と言う烙印は押されるだろう。
両親が帰り、子供たちには雑炊を食べさせ、土間で行水させてから奥の部屋に寝かせたが、それでも意識を取り戻さないトモ造にケイは寄り添っている。いつもは安眠の妨げだった大イビキが始まるまで安心できない。
障子ごしの月明かりでトモ造の寝顔を見ると唇が渇いていてケイは枕元に置いた急須から茶碗に水を注ぐと、それを口に含みトモ造の唇に口づけて流し込んだ。すると確かに「ゴクン」と咽が音を立てて飲み込んだ。ケイはトモ造が生命力を取り戻していることを確かめることができたような気がして頬に触れながら涙をこぼした。
外ではトモ造の細い寝息と合わせるかのように秋の虫が鳴いている。「コロコロ」「スースー」「リンリン」「スースー」「ガチャガチャ」「スースー」「スーイッチョン」太り気味の人のイビキは喉が圧迫されることによって起こることもある。船頭になってからは「腹が減る」と言って大食になり、以前から太り気味だった体形が相撲取りのようだった。数日の絶食でやせてしまったトモ造がイビキをかくことはないのかも知れない。
イビキをかくように太らせるつもりは毛頭ないが、体力を戻すためには食べてもらいたい。ただ大飢饉の時、お助けの炊き出しを受けてむさぼり喰った者は命を落とし、少しでも我慢した者だけが生き永らえた。
それを「欲をかいた罰(ばち)が当たった」と言う者もあるが、飢餓状態に陥った身体は生命を維持するために消化器官を縮小して脂肪を糖の代用として燃焼させている。この機能が低下した器官に大量の食糧を与えれば消化不能になり、嘔吐から胃痙攣を引き起こし、多臓器不全によって死ぬことも珍しくない。特に刺激物は厳禁なのだ。
これは飢饉だけでなく、戦国時代の兵糧攻めから解放された城兵に食事を与えた時の教訓でもある。ケイもトモ造が目を覚ましたら塩を加えた重湯(薄い粥の上澄み液)から始めなければならないだろう。
「クションッ」その時、奥の部屋でショウ大がクシャミをした。寝入った時には暑かったので蒲団を蹴ってしまったのかも知れない。ケイはトモ造の唇に自分の唇を重ねてから、子供たちの確認に立った。

翌朝、トモ造は目を覚ました。

トモ造の体力が戻り、仕事を再開することになったのは秋の色が濃くなってきた候だった。社会保障制度が完備していないこの時代には稼ぎ手が倒れれば女房が働くか、親族や隣り近所の世話になるしかない。「情けは他人のためならず」と言う教訓は本来、この相互扶助の意味を説いているのだ(「相手のためにならない」と言うのは曲解)。
結局、船頭の仕事は辞めることになった。目を覚ましてから修作が同田貫を振って除霊したことを聞き、その刀に関する話を噛み締めたのだ。おそらく名工が魂を込めて打ち出した銘刀を名匠が整えたからこそ、僧侶の祈祷にも耳を貸さず自分に憑依して離れない女の怨念を断ち斬る力を持ったのだろう。
「それじゃあ、仕事を探しに行ってくるぜ」トモ造は久しぶりに「車智」の半被を羽織り、上がり端に腰を下ろし、草鞋の紐を結んだ。この草鞋はケイが米屋の俵を安く買ってきて内職に作って売っていた物だった。
「お前さん、行っとおいで」「お父っつあん、行っといで」「といで」上がり端には母子が勢揃いして見送った。それにしてもマイの台詞は母親と同じだ。娘は母親を見て娘から女になっていくものだが、最近のケイは随分と近所の女房たちに染まっている。このままではマイは気風のいい江戸っ子の嫁になるだろう。
「おう、行ってくるぜ。ついでに迷惑かけたところにも挨拶回りしてくらァ」これが武家なら玄関に手をついて頭を下げ(ケイの母親はやっている)、侠客なら火打石を「カチッ、カチッ」と切るところだ。ちなみに火打石を切る風習は打ち出される火花を「切り火」と呼び、生れたばかりの清浄な火で邪気を近づけない厄除けだ。

最初に渡船場の親方に挨拶に渡船場に向かった。素人の手習いが上達した程度だったトモ造をケイ次の保証だけで雇ってくれた感謝と妙な事件で突然辞めることになった謝罪をしなければならない。ただ年を取って引退していた親方に再び櫂を漕がせていることを思うと気が重かった。
「おや、トモさん、もう好いのかい?」茶店では今日も親方の女房が商売をしている。
「おかげさんで」そう言って頭を下げたトモ造に女房は先廻りして声を掛けた。
「ウチの人なら新しく雇った船頭の腕を試してるよ」「新しい?」トモ造は安心すると同時に少し落胆した。しかし、後釜が見つからないことでトモ造は辞められなかったはずだ。
「よく見つかりましたね」「ケイ次の伝(つて)なんだよ」「ケイ次さんの?」それにしても松前へ住みつき家族も呼び寄せたケイ次がどのように、誰を紹介したのだろうか?トモ造は桟橋に出て川の中ほどで親方を乗せて舟を漕いでいる船頭を眺めた。

「おう、トモ造、もう好いのか」見知らぬ若者が漕ぐ舟で桟橋に着いた親方は待っているトモ造に声を掛けた。
「どうも御迷惑をお掛けしやして」トモ造は桟橋の上で深く頭を下げた。その間にも若者は櫓を上げてモヤイ綱を杭に掛け、手際よく作業を進めている。その様子を見ても本職(プロ)だと判った。
「コイツは今度、雇うことにしたイチの兵だ」「イチノヘイ?」トモ造は紹介された名前が判らなかった。先ほど親方の女房から「ケイ次の紹介」と言われた若者の顔をあらためて見たが、年の頃はゲン希と変わらないだろう。色黒で細身だが目鼻立ちのハッキリした中々の色男だ。トモ造が船頭だった時もゲン希を選んで乗る失礼な女の客がいたが、これなら人気を二分することになりそうだ。
「ケイ次さんの伝(つて)だとか?」「おう、松メェ(前)の函館で水夫をしてたんだが、江戸へ来る船があったんで乗ってきたそうだ」古来、蝦夷地や東北諸藩との海運は海流や風向・気象が比較的安定している日本海側と瀬戸内海を通って大坂までの北前船(きたまえぶね)の東廻りが中心だった。
太平洋側の西廻りは暖流と寒流がぶつかる三陸沖や黒潮が大きく方向を変える犬吠埼は難所であり、手前の銚子で荷を下ろし、利根川の水運で江戸へ運ぶのが普通だったが、4代将軍・家綱の時代に幕命を受けた川村瑞賢が犬吠埼を迂回して伊豆の下田に寄り、そこから江戸湾に入る航路を開拓した。しかし、北前船は蝦夷地からの帰路には秋田、庄内、越後で秋の収穫を終えた米を積み、大坂で卸せる大きな利点があり幕末まで優位さは変わらなかった。
「それにしてもイチの兵ってのは変わった名メェ(前)だね」「おう、そうだな」トモ造に言われて親方も初めて気づいたようにイチの兵の顔を見る。2人に見られたイチの兵は仕方なしに説明を始めた。
「オラの先祖は津軽の安東水軍だったんだァ、だから男の子には先に立って戦うイチの兵って名をつけてんだよ」そう答えたイチの兵には津軽訛がある。親方は困惑した顔をしたがトモ造には懐かしかった。おそらくゲン希も懐かしく思っているだろう。
安東水軍とは十三湊(とさみなと=現在の十三湖)を拠点として活躍した水軍で日本海を越えて大陸とも交易し、壇ノ浦の合戦の時には平家の援軍に向かったが途中で嵐に遭い果たせなかった。その血を受け継いでいるのなら生粋の船頭であり、ゲン希とは格好の競争相手になるかも知れない。自分の後釜が津軽の若者だと知ればケイがどんな顔をするか楽しみになった。
「俺の女房も津軽の百姓の娘だ。津軽の料理が喰いたくなったら遊びにきな」トモ造に言われてイチの兵は本当に安心した顔でうなずいてから頭を下げた。

久しぶりに顔を出したトモ造に渋屋の手代はいつものノリで応対した。
「大将、久しぶりでんがなァ、最近はマサ弥さんって若い衆ばっかりで顔出さへんからどないなってんか心配してたんやで」「そりゃどうもすんまへん」この店に来ると江戸っ子のトモ造も関西弁になってしまう。
「車はどんな調子でっか?」「大将に頼んだおかげでアンジョウ働いてまっせ」「それはよろしました」そこでトモ造は腰を上げようとしたが手代は引き留めた。
「そこで『新しい車はどないでっか』と訊かなきゃあきまへんがな」松平定信による寛政の改革の嵐、と言うよりも冷え込みが江戸を覆っていた頃、市場は圧迫され、流通は停滞していた。当然、輸送手段の車の需要は激減していたのだが「それでも何とかしよう」と言う経営手腕がないところがトモ造の欠点なのだ。
「車の注文があるんで?」「お城の中でチャブ台が引っ繰り返ったんは知ってますやろ」「へッ?」トモ造は松平定信が老中首座を解任された話を知らなかった。これまでやっていた船頭の仕事は客の会話に耳をすませば世の中の情報は幾らでも入ってくるはずだ。実際、現代でも酔った客を乗せるタクシーの運転手の情報量は凄まじいものがある。しかし、トモ造は船頭として未熟だったため、そんな余裕はなかったのだ。
さらに車職人に雲の上での出来事などは関係なく、注文が入った車を全力で作ることだけが仕事であり、腕を磨けば注文は自ずから入ってくるものだと信じている。しかし、それはキヨ助親方やトモ造の父のように「車は車清」「羽織は池田屋」と言う信頼を確保していればこその話で、江戸に戻った時は寛政の改革の真っ最中だったため「車清」の客を引き継ぐことに失敗してしまった。
「口やかましい老中はんが辞めなはったんや。石の下の虫も石をどかせばモゾモゾと動き出しますやろ、今まで我慢してはったお客さんも買い物を始めるはずでっせ」「なるほど・・・」つまり渋屋は反動の消費拡大を予測しているのだ。消費が拡大すれば流通は増加し、輸送手段である車の需要も増える。確かに「それを逃す手はない」だろう。
「で御注文は?」「港から店まで運ぶ大きなのはこないだ(この間)ので間に合ってます。配達用の小さいのが3つほど要りますな」港から店までの大八車は使用頻度が低いのだが、配達用の小車は毎日のように動き回っている消耗品なのだ。
「お納めするのはいつ頃で?」「市場がいつ動き出すかは天の声が聞こえなければ判りまへん。どっちにしろ早目に頼みまっせ」「・・・わかりました」トモ造はマサ弥抜きでの作業見積もりができず即答できなかったが、小車3台なら何とかなるだろうと請け負った。
渋屋は上方から進出してきた店であるからこうして注文を取れるが、江戸の老舗では他の車屋の顧客を横取りすることにならないように気をつけなければならない。
田沼時代は「株仲間」と言う同業者の組合による独占が納税と引き換えに認められていたが、松平定信によって解散させられているので現状は寄合に顔を出していないトモ造には判らなかった。

最初の挨拶回りで注文を取ることができたトモ造だが久しぶりの単独作業には苦労していた。元船大工のマサ弥は職人として完成していた上、呑み込みが早く1人2役で仕事をしているようなものだった。それが部品の加工の下ごしらえから1人でやらなければならなくなり、津軽の車清弘前支店でやっていた頃の仕事には中々戻らないのだ。
久しぶりに「トントン、カンカン」と槌音が響き始めた車智ではショウ大が作業場を覗いている。ケイから子守りを頼まれているマイも一緒だ。
「ちゃん、トントン、トントン」ショウ大はトモ造が振る鉄鎚、木槌の音に合わせて調子を取ってくれる。その横でマイは「今度はギーコギーコ」と鋸を引く音で合いの手だ。船頭になる前はショウ大が赤子だったので槌が立てる音にも気をつけていたが、今度は子供たちも楽しんでくれていて、それが遣り甲斐になっている。
「ショウ大、早く大きくなって手伝ってくれよ」そう言ってトモ造がショウ大の頭を撫でようするとマイが「手を洗わなきゃ駄目」と立ちはだかった。マイはお姉さんと同時に母親にもなっているようだ。
「マイ、ショウ大が入ってこねェように見張っていてくれよ」「あいよ、お父っつあん」トモ造は道具に興味を示しているショウ大をマイに頼んだが、ケイ譲りの返事をされてやる気が失せてしまった。ケイは内職で作った草鞋を納めに街道筋の雑貨屋へ行っている。
トモ造は頭に巻いた手拭いを取るとマイの前で両手を拭き、許可を得てからショウ大を抱いた。
「それにしても夏なら窓を開けっ放しで仕事できるから良いが、寒くなってくると締めっ切りで埃がこもっていけねェな」暖かい時間帯だけ開けてある窓から差し込む光には舞っている埃が無数に映り出されているが、子供の鼻や口の位置は大人よりも低いので淀んだ空気を吸うことになる。現在のように蛇口を捻れば水が出る訳ではないのでウガイをするにもケイが共同井戸で汲んで貯めている水瓶から柄杓でしなければならない。飲用は湯冷ましだ。
上がり端に腰を下したトモ造にマイが話し掛けた。
「お父っつあんが叩く音はお母っさんが藁を叩く音と違うね」「うね」膝の上でショウ大も唱和する。ケイはマサ弥が国に帰って以降、使う者がいなくなった作業場で草鞋作りに励んでいた。その作業は米屋で安く買ってきた俵をほぐした藁を叩いて繊維にすることからだ。藁を打つ杵は繊維を傷つけないため切って皮を剥がした丸太の側面を使う。しかも片手で扱うには重いので「トンッ、トンッ、トンッ」と単調になる。
「お母っさんの音は眠くなるよ」「るよ」ショウ大の合いの手に微笑みながらトモ造はマイに質問した。
「それじゃあ、お父っつあんのは?」「元気が出る」「出う」子供2人が声を揃えた返事にトモ造はやる気が湧いてきて、ショウ大をマイに渡し仕事を再開した。

ケイが妙な若者を連れて帰った。年の頃はマサ弥、ゲン希、イチの兵よりも2、3歳上に見えるが、フワ~として頼りなく、突っつけば手が通り抜けてしまいそうな存在感のなさなのだ。
「お前さん、この子を仕込んでやっておくれよ」「へッ?」トモ造は即答できなかった。確かに人手が足らずに困っているが、どう見ても職人に向いているようには思えない。そもそもどこの何者なのか説明を受けていないのだ。するとケイはトモ造の顔を見て先に説明を始めた。
「この子はユウ市って言うんだけど風来坊の働き者なのよ」「風来坊の働き者?」ケイの説明でトモ造は益々訳が判らなくなった。
「この子が行商しているところによく会うけど毎回売り物が違うんだよ」「毎回?」トモ造が顔を見るとユウ市と呼ばれた若者は気まずそうな顔をして下を向いた。
「どうも自分で商売を打ってるんじゃなくて、雇われているみたいなんだわ」「それじゃあ、確かにその時雇いの風来坊だな」トモ造が納得するとユウ市は安堵したように笑ったがこの反応も変だろう。
「そろそろ腰を落ち着けて仕事を身につけないとフラフラとしたまま一生を終わっちまうって連れてきたんだよ」「ふーん、おめェ(お前)がそう言うなら仕込んでみるか」トモ造とケイで話しを決めたがユウ市は口を挟まなかった。これでは都合の良い便利屋として使い捨てにされて終わるかも知れない。そこでトモ造はユウ市に最初の仕事を与えた。
「どうでェ1つ、おめェがやってきた商べェ(売)の口上(呼び声)をやって見せてくれ」トモ造の命令にユウ市は土間の広い場所に移動して声を張り上げた。
「先ず朝一番でやんす。ナット、ナットー(納豆)。アッサリー(浅蜊)シジミ(蜆)。次は昼日中でやんす。トーフ(豆腐)、生揚げ、ガンモドキ(鴈もどき)。竿や竿ダケー(竹)。そいで夜でやんす。茹で出しウドーン(饂飩)。夜鳴き~ソバ~(蕎麦)。オイナーリサン(お稲荷さん)よ」次から次と出てくる呼び声にトモ造と子供たちは大喜びした。
「上手ェもんだ。他にはねェのか?」子供たちの拍手にユウ市も調子が出てきたようだ。
「これは夏場だけでやんす。金魚―ェ、金魚。フーリン(風鈴)はいらんかねェ」大喜びしているトモ造や子供たちの横でケイは指を折って何かを数えていた。
「ユウ市、アンタは7つも商売をしてたんだね。それで本気でやろうと思った仕事はなかったのかい?」「へい・・・朝、早ェのはどうも苦手でして」浅蜊や蜆は朝の味噌汁の具として売るため夜明けと同時に海岸や沼で採らなければならず、豆腐も昼に売るためには仕込みは早朝になる。
「饂飩や蕎麦に稲荷寿司なら夜だから仕込みは昼だろう」「暗い夜中の商売は恐ろしくて・・・夜盗に辻斬り、幽霊に物の怪(妖怪)、おお恐ろしい」ユウ市は演技の身震いをしたがトモ造の方は幽霊に物の怪を経験したばかりだ。
早朝と夜中の仕事が駄目となると消去法的には昼日中に働く職人に向いていると言うことだろう。これ以上ないほど消極的な理由だが。

ユウ市を雇ってからのトモ造はキヨ助親方になっていた。朝から夕まで「何やってんでェ」と怒鳴り放しで、時には「ボコッ」「バシッ」と手が出ることもある。トモ造もキヨ助親方からビシビシ仕込まれたが怒鳴られるツボが違うのだ。
ユウ市は色々な商売を渡り歩いていただけに意外と手先が器用で、見かけよりも頭は良いのだが、雇い主が用意した商品を1人で売り歩くだけだったため「人に使われる」「人と一緒に働く」と言う感覚が身についていなかった。
現在でも新入社員には「報告」「連絡」「相談」の「ホウレンソウ」を徹底的に教え込むが、雇われの行商は受け取った商品を完売して代金を納めればよく、売り方は自分流でも許されていた。それぞれの商品の口上は客に判らせる看板のようなものだ。
この自己流が職人の仕事では、何度かやらせると「もうできる」と思い込んで勝手に先に進めてしまい、トモ造が考えていた工程が狂ってしまうことが続いている。
その日は車輪の軸になる材を切らせたのだが、妙に鋸を引く音が続くので作業を止めて見るとユウ市は角材を全て同じ長さに切っていた。
「誰がこんなに切れって言ったんでェ。勝手なことをするな!」弘前では木村屋が材料を部品の規格に揃えて卸していたが、江戸では丸太から材に加工している。トモ造は車軸を切った残りで車体の横枠を作るつもりだった。
「でも車は3つ作るんですから、そちらの軸に使えばいいじゃあねェですか」いつもは叱られればシュンとなるユウ市が珍しく反論したのでトモ造は教えを垂れた。
「ここに節があるだろう。節のところで強さが違っちまうから使い道を考えなきゃあいけねェんだ」「へい・・・」やはりシュンとなったが不貞腐れてはいない。
「そこがマサ吉とは違うところだ」とトモ造は思ったが、そのマサ吉も弘前で広三郎の下で大変な修業をしているとは知らなかった。
「材も銭を出して買ってるでェ、無駄にしちゃあ困るんだ」「へい・・・」顔は反省しているが、どこまで判っているのか?そこで指導は具体的になる。
「先ずは言われた仕事が終わったら、終わりましたって言え」とりあえず報告を教えた。
「へい・・・」「へいだけじゃなェ、大将ってつけろ」「へい・・・タイショウ」江戸っ子のユウ市にはトモ造を「大将」と呼ぶ理由が判らないようで、そんな困惑している顔を見てもうひと押しをした。
「おめェ(お前)、大将ってのは判ってるのか?」「へい・・・いえ」「どっちなんでェ」ユウ市はどう答えれば怒鳴られないですむのか考えているらしい。それは行商と言う接客業で身につけた処世術のようだ。
「いいえ、判りやせん」「判らねェことは訊かねェか」「へい、タイショウ」これでは職人の技術教育ではなく社会人としての精神教育だ。
「おっと余計なことで仕事が止まっちまった。次はな・・・」トモ造は思うように進まない仕事に渋屋への納品期限が心配になってきた。

キヨ助親方は毎月のように男鹿半島と津軽の金木郷の実家を往復している。男鹿半島での仕事は秋田杉を保護する久保田藩の統制が独り歩きして違う木にまで及んでいるため材料の調達が難しく、弘前城下の頃に比べると暇だった。
暇と言うことは稼ぎも減っていることになる。このため飢饉で死んだ近隣農家の土地を加えて広がった田畑をシッカリ耕して家族の喰い扶ちを作らなければならなかった。
男鹿半島から金木までの道中は途中で一泊しなければならない。大概は深浦で行燈・提灯職人をやっている友人の三浦屋に泊めてもらっており、今回の帰り道も寄った。
「世話になるぜ」キヨ助親方は宿泊代替わりに個人用の小型荷車に積んできた自家製の野菜を渡すと三浦屋はニコヤカに笑いながら受け取った。
「少しは喰わなきゃ、冬は越せねェぜ」「親方の手作り野菜を喰えば大丈夫だろう」三浦屋は非常に細身で顔は頬骨が見えるくらいだが独特の風格があり貧相には見えない。灯り職人は細かい仕事だけに金槌を振るように力で押しまくるキヨ助親方とは全く逆の人間性なのだが妙に気があった。
夕食後、キヨ助親方は三浦屋と杯を交わした。津軽では盆を過ぎれば秋は急速に深まり、夜には火鉢が欲しくなることも珍しくない。したがって酒は当然のように熱燗だ。
「どうだい、アチラの暮らしは?」「久保田の連中ってのはどうも腹の中が見えねェ」久保田藩は佐竹藩、秋田藩とも呼ばれている。藩主の佐竹家は豊臣の時代まで常陸(現在の茨城県)の守護大名だったが、関ヶ原の合戦で神君・徳川家康公に敵対した上杉景勝と「関が原に向かう徳川軍の背後を突く」との密約を結んでいたことが発覚し、改易(取り潰し)寸前だったが、家康公と懇意にしていた先代の人脈で出羽へ減封になった。
このため「公儀(幕府)から疑いの目で見られている」と言う疑心暗鬼を抱いていて他国の者には警戒心を隠さない。津軽藩は南部藩から戦国以来の逆恨みを受けており、参勤交代でも久保田領を通っているが、向こうは心を許している訳ではないのだ。
三浦屋はキヨ助親方が底なしであることを知っているので徳利を渡そうとはしない。キヨ助親方が差し出す茶碗に注ぎながら自分は手酌で飲んでいる。
「それで仕事は?」「秋の収穫を積んで城下まで運ぶ車の注文が入れば商売も成り立つんだがな・・・」キヨ助親方は近傍の八郎潟周辺からも注文がくれば資材統制も何とかなると思っていたが、そのためには車清の車の調子の良さを各代官所に周知しなければならない。結局、今年の秋には間に合わないだろう。
「大体、木村屋はマサ吉のつもりで話しをもってきたんだから、俺が行っちゃあ割が合わなくても仕方ねェんだが」そう言ってキヨ助親方は茶碗の酒を飲み干した。
「そう言えば弘前の車清は木村屋が引き継いで車辰ってェ看板を出してたな」「先代の辰次郎さんの名前を採ったんだろう」「うん、親方が置いていった若いのは、中々厳しく仕込まれているみたいだぞ」深浦の三浦屋にまで噂が届いているくらいならかなりものだろう。キヨ助親方は広三郎に仕込まれているマサ吉の顔を覘きに行ってみようと思った。

日本海側では雪が舞う日の方が多くなった候、キヨ助親方は家族と年を越すため男鹿半島の店を閉めて津軽に帰ってきた。そこで回り道して弘前に寄って見た。
久しぶりに元「車清」の前に立って見ると三浦屋が言う通り看板は「車辰」になっている。その上、妙に掃除が行き届き、店の周りも綺麗に片づいていて、キヨ助親方はキツネに摘ままれたような気分になった。マサ吉は車の仕事には力を惜しまず懸命に励むが、掃除などの雑用は嫌がり、無理強いするとアカラサマに手を抜いたのだ。親方はもう一度、看板を確かめたが、間違いなく「車辰」だ。
「おうマサ吉、邪魔するぞ」キヨ助親方は両側に達筆な字で「車辰」と書いてある障子の前で声を掛けると遠慮なく開けた。すると若い娘が「キャッ」と声を上げ、親方は焦って数歩後ずさった。娘は作業場に続く台所で昼飯の支度をしていたようだ。
「おめェさんは?」「マサ吉さんは店の方さ」娘はキヨ助親方の質問には答えず、手拭いで手を拭くと慌ただしく風呂敷を抱えて店から出て行った。その風呂敷にはマサ吉の洗濯物が入っていたような気がする。
「アイツに色気があるとは思わなかったぜ。それにしてもどこで見つけたのかな・・・」親方は娘が釜戸に掛けていった鍋の蓋を取って中を見ると、質素だが丁寧に調理した煮物が入っていた。

娘が飛び出して行って間もなくマサ吉が帰ってきた。ところが障子を開けたマサ吉は上がり端に腰を下ろしているキヨ助親方に深く頭を下げた。
「親方、御無沙汰しています。おかげさんで何とかやっております」「・・・」親方は口が利けなくなった。顔を見れば確かにマサ吉だが表情は柔らかくなり、頭を下げるにも両手を腿に当てて礼式に適い、口調は完全に別人だ。
「へい、御丁寧な御挨拶、痛み入ります。こちらもおかげさんで無事にやらせていただいております」立ち上がって暗記してきたような長台詞を述べた親方にマサ吉はニコヤカに笑って答えた。昔なら例え相手が親方であっても冷笑したはずだ。親方はマサ吉に近寄ると両手で顔を挟んで自分に向け、注視した。
「おめェ、間違ェなくマサ吉だな。いってェどうしちまったんでェ」「また、御冗談を」マサ吉はその手を振り払うこともせず、親方の手の温もりを懐かしむように微笑んだ。親方の背筋に冷たいモノが走る。親方は思わず「夢を見てるんじゃあねェだろうな。1発殴ってみろ」と言ってしまった。

「へい、承りました。拳が良いですかい?平手ですかい?」親方が思わず口走った台詞にマサ吉は真面目に応えようとする。親方も前言を取り消すことができず「平手」と答えた。
「すいやせん(すみません)、親方は高いんで顔を下げて下せェ」背が低いマサ吉は長身の親方に顔の位置を下げるように言った。そして親方が顔を下げて突き出すと平手で頬を思い切り打った。
「バシッ!」頬が音を立てるのと同時に親方の目には火花が散った。
「痛てェ!」叫ぶのと手が出るのとどちらが早かったかは判らない。ただ気がつくと親方もマサ吉の頬を張り倒していた。しかし、マサ吉は表情を変えずにお辞儀をするとこう言った。
「へい、毎度有り難うさんです。張り倒し1回、3文いただきます」「へッ?」昔のマサ吉なら不貞腐れてソッポを向くか、剥きになって文句を言ってきただろう。呆れている親方の顔の前にマサ吉が両手を差し出すので、仕方なく懐から巾着袋を出して1文銭を3枚入れた。マサ吉はそれを押しいただくと当たり前の顔をして土間の片隅に置いてある木箱に入れる。その一部始終を見ながら親方は声を掛けた。
「おめェ(お前)なァ、俺が殴れって言ったのを本気にする奴があるか」「御要望とあらばお応えするのが商売ってもんです」マサ吉の顔が広三郎に見えてくる。
「それじゃあ殴る前に色々訊いたのは?」「仕事を請け負うのに間違いがないよう確かめるのは職人も一緒でしょう」あのマサ吉を短期間にここまで仕上げた広三郎の教育力に親方は感心した。
「これならでェ(大)丈夫だな。おめェの腕に商売上手とくりゃあ鬼に金棒だ」親方は本当に誉めたのだがマサ吉は営業用の笑顔で頭を下げる。やはり人に心を開けない性分は変わっていないのかも知れない。そこで親方は先ほどの娘のことを訊いてみた。
「ところでさっきの娘は何でェ?」「へい・・・」突然、マサ吉の表情が変わった。しかし、それは不貞腐れたのではなく、むしろ照れたような顔だ。親方はマサ吉のこんな可愛い顔を見たことがなかった。
「あれは木村屋の女中です」「女中?」「賄い飯の残りを届けてくれてるんでやす」マサ吉はそう説明したが娘は鍋に手を加えていた。何よりも洗濯物を入れた風呂敷を抱えて行ったところを見ると、ただのつき合いではあるまい。
広三郎は厳しく躾ける一方で木村屋の雇われ人の宴席にも参加させ、頑なだったマサ吉の心をほぐすように努めていた。そんな中で女中とできたのかも知れない。
特に先代の辰次郎、お京夫婦は妙にマサ吉の職人肌が気に入り、可愛がっているらしい。男鹿半島に行ってから苦労続きのキヨ助親方には笑顔で自宅に帰られる良い材料になった。

春になり津軽藩下屋敷では藩主・寧親公の花見の宴が開かれた。各大名の江戸屋敷は参勤した藩主と家族が住む上屋敷、藩主が国元へ帰った不在間の駐江戸大使の役割を担う支藩の藩主や江戸家老の所在地である中屋敷、それに物資の調達、保管、発送などの役務を行う下屋敷があり、下屋敷が一番広いのが一般的だった。
藩主が下屋敷に足を延ばす機会は少ないため花見や紅葉狩りなどを催すことは珍しいことではない。下屋敷に勤める中級藩士たちは藩主と奥方、若君や姫たちを始め、上屋敷勤めの側近のお歴々の覚えを目出度くしようと懸命になるのだが、今回は村上貢蔵の妻が舞踊を披露することに決まった。
現在、日本舞踊の五大流派と言われている花柳流、西川流、坂東流、藤間流、若柳流のうち寛政年間に成立していたのは藤間流と西川流だけで、もう少し後の文化・文政になって坂東流、ペリーが来航した嘉永に花柳流が始まり、若柳流は明治になって宴席での芸妓の舞踊から派生した。日本舞踊は歌舞伎役者が劇中で舞う所作から演目を作り流派を起こすことが多く、現在は日本舞踊協会に登録されているだけでも90を超える流派があり、宮中や神社での雅楽の舞いや地方の祭礼などの踊りを加えれば数え切れないだろう。
村上はここで1つ策を練っていた。松木から預かったユキエを夫婦で気に入っており、妻が舞踊を教えていることを利用し藩主に売り込もうと言うのだ。
家族帯同の花見ならユキエの美貌が関心を惹いても「妾に」などと言われる心配はなく、舞った後の挨拶で紹介すれば一気に承認を得られる可能性は高い。村上は妻と相談して嫁いだ娘の振袖を仕立て直し、準備万端を整えた。
下屋敷の中庭の桜が満開になっていよいよ花見、春の日差しが程良く昇った頃、藩主と奥方、若君と姫たちの籠が到着した。
「おつき―ッ(到着)」行列の先払い(=先導役)の発声で下屋敷の正門が開かれる。江戸市中では将軍以外は「下におれ」と庶民に土下座をさせることができず、「片寄れ」と遠慮がちに声を掛けるのだがそれも無視して侍が追いつけない距離をワザと横切る無礼者もいた。したがって先払いも面目躍如とばかりに声を張り上げるのだろう。
正門が開かれるのは藩主と幕府からの公使だけで(将軍自ら訪問すれば別だが下屋敷に来ることはない)、玄関までの玉砂利は1つ1つ洗い、踏み石には雑巾まで掛けてあった。
その両脇には裃(かみしも)の正装をした下屋敷に勤める藩士たちが身分の高い順に並び、敷物の上で両手をついた土下座をして控えている。藩主の籠が入門すると一斉に頭を下げて地面に額をつけ、それに籠の窓を開けた藩主が「うむ、うむ」と独り言のような声を掛けてうなずきながら通過するのが作法だ。
その頃、屋敷内では緊張が充満していた。先ずは奥座敷で休憩し、頃合いを見て重役が庭に設けた席に案内するのだが、それぞれの場所で出す茶や菓子は毒見役に回さなければならず、その温度や量も藩主や奥方、子供たちの好みに合わせなければならない。しかも全ての作業は騒音を立てることなく行わなければならないのだ。

桜の下での宴は盛り上がっている。桜と言っても現在では代表格となっているソメイヨシノは江戸時代の末から明治にかけて江戸・染井村(現在の豊島区駒込)の造園・植木業者たちが葉に先だって花を咲かせるエゾヒガンサクラや花が大きく派手なオオシマザクラなどの交配から作り出したと言われる新種で、この時代には葉と花が一緒に咲くヤマザクラが主だった。
桜の下に赤毛せんを敷き、藩主・寧親は正室の福の方と並んで座り、家臣たちが披露する芸を楽しんでいる。先ずは茶道の野点てだが津軽家は遠州流なので道具に触れるには袱紗(ふくさ)を用いなければならず、複雑な所作もあって素直に茶を味わう訳にはいかない。次は琴と鼓の演奏、詩吟の詠唱と続き、いよいよ村上貢蔵の妻の舞踊だ。
演目はこの時代に流行り始めた上方舞だった。上方舞は宮中などで演じられる御殿舞や能に人形浄瑠璃や歌舞伎の要素を加えた振りで、三味線と地唄と呼ばれる謡曲で演じるのが特色だ。津軽訛りがないユキエは地唄の担当だが、お庭番として警備の任についている松木直之進も池の対岸から心配しながら見ていた。
この頃は三味線も渡来したばかりで、その音色も珍しく藩主夫妻も興味深げに身を乗り出している。やがて合いの手が入りユキエの地唄が始まった。
「明け渡る 空の景色もうららかに 遊ぶ糸遊 名残りの雪と 謎を霞にこめてや春の 風になびける青柳姿・・・」演目は「寿」だ。
「緑の眉か朝寝の髪か 好いた枝ぶり慕いて薫 好かいでこれが梅の花 宿る鷺 気の合うた同士 変わらで共に祝う寿」この唄は枕草子の冒頭を基に作られたと言われている。
村上の妻の振りとユキエの唄は同じ家で修練を重ねているだけに見事だった。松木も安心しながらユキエの唄声に聞き惚れた時、池の向こうで騒ぎが起きた。藩主夫妻の隣りの毛せんで子供たちは菓子を食べていたのだが、大人の芸に飽きた若君が池をのぞこうと駈け出したのだ。
子供たちに付いていた奥女中や側近の侍たちは舞踊の邪魔をせぬよう手で制止しようとしたが4歳の若君は逃げながら池に近づいて行く。
「若、なりませぬ」「若、お待ち下さい」との懇願に後、女たちの悲鳴が上がった。
着飾った奥女中たちや裃姿の側近たちは池に飛び込むことができず、「高いところから見下ろしては申し訳ない」と妙な気働きをさせてその場に座り、口々に「誰かお助けしろ」「竹竿をもて」などと指示するばかりだ。対岸からは若君が水面でもがいているのが見える。即座に松木が駈け出した。走りながら大小の刀を両手で帯から外し、池の畔に刀を置くと、「御免」と声を発して裃のまま池に飛び込み、胸まで水に漬かりながら若君を助け上げた。
この若君が後に嫡男でありながら黒石支藩を継ぎ17歳で亡くなる津軽典暁(のりあき)だった。津軽本藩を継いだが女と酒に溺れ「夜鷹殿」と陰口を叩かれた2男の信順(のぶつぐ)が生まれるのは数年後のことだ。

宴席は中止になり若君は同行していた典医の診断を受けていたが、間もなく近習頭(きんじゅうがしら)が奥座敷の襖の外から結果を報告した。家臣は主君の喜怒哀楽を直接見ることを避けるため報告の内容によって対応を変えるのだ。
「典医の診立てによれば若君は少し水を飲まれておられるものの心配には及ばぬとのことでございます」「そうか」襖ごしでは返事だけだが、夫婦は親として安堵の溜め息をついた。
一方、若君が診断を受けている間、側近や奥女中たちは深刻な議論を繰り広げていた。それは「誰の責任か?」の一点を巡る堂々巡りの議論で、若君を飽きさせた演芸の企画担当者から始まり、立ち上がった若君を制止しなかった奥女中、駈け出したのを抑えなかった側近など互いの非をあげつらうばかりで、やがて池に近づくのを先回りして阻まなかった身分が低い御庭番の責任と言うことに落ち着きかけた。
それを襖ごしに聞いていた村上貢蔵は先手を打った。若君の様子を見に奥方と姫君たちが席を外している時、奥座敷に一人残っている藩主に「謝罪」を申し入れたのだ。
次の間で村上が両手をついて額を畳につけるのを合図に両側の近習が障子を開けた。
「村上、何を詫びることがあるのか?」「ははッ、数々の不始末、腹を切ってお詫びをいたしとうございます」「不始末?ワシには思い当たらぬが。よいから面(おもて)を上げよ」藩主の「面を上げよ」が3度繰り返されたところで村上は顔を上げた。
「先ほどの1件は拙者の妻の舞いが拙い故に若君がお飽きになられたのでございます」「・・・」藩主は思いがけない申し上(もうしじょう)に返事に困った。
「地唄を披露しておりましたのも拙者が預かる者、重ねて拙き芸をお詫び申し上げなければなりませぬ」この説明で藩主は参勤で江戸に来た時の話を思い出した。
「さらに拙者が命じた御庭番・松木直之進が若君をお止めせず、警固の任を投げ出して池に入りました段は誠に申し訳なく、共に腹を切りたくお願い申し上げ奉る」ここまで言って村上は再び畳に額を擦りつけた。すると藩主が村上の背中に声を掛けた。
「そうか、あれがソチの預かる北条の旧臣の娘とその許婚か。構わぬ、ここへ呼べ」「ははッ」藩主の御前から下がって村上は下屋敷内に控えさせている妻とユキエ、松木を呼んだが、松木は池の濁り水で汚れた裃を洗濯中だった。出仕する時に着てきた羽織、袴はあるが藩主の前に出るには許されない。かと言って家紋が異なる他人の裃を借りることは身元詐称に当たる絶対禁止条項なのだ。おまけに裃は材質上、固絞りはできない。
それでも汚れを落とした裃を着て松木は村上と妻、ユキエと共に藩主の御前に出た。ただし村上と松木では身分が違うため座っている畳の位置が違う。藩主に3度促され4人は顔を上げた。すると藩主の隣には奥方も座っている。
「松木直之進、ソチの働き親として有り難く思うぞ」「ははッ」松木が頭を下げるのにユキエも合わせる。それが揃っていて藩主と奥方、村上と妻は顔を見合わせて微笑んだ。その時、奥方が藩主に目で何かを促した。
「よし、ソチたちに杯を許す」藩主の思い掛けない言葉に今度は松木とユキエが顔を見合わせる。その場で2人は固めの杯を交わし、夫婦になった。

思いがけない藩主の許しによって夫婦になった直之進とユキエだったが、ずぶ濡れでいた直之進は風邪をひいて寝込んでしまった。
必要最小限の家具や布団を買い、村上の屋敷に置いてあった荷物を直之進の中級藩士の長屋に運んだ頃から寒気を感じ、長屋の住人たちを招いた披露目の宴席では熱っぽかったのだが勧められるままに飲んだ酒の酔いのせいだと思っていた。
ところが客たちが帰り、玄関で見送った後、支えられるようにして布団に行く時、手を取っていたユキエが「熱がございます」と言った。荷物を運び込んだ時、直之進が「今日は冷える」と言って仕舞っていた火鉢を出したことで察知していたようだ。
幸恵は直之進を着替えさせると布団に寝かせ、自分の掛け布団も直之進に着せた。そして額に手を当てるとやはり熱がある。ユキエは台所へ行って桶に水を汲み、手拭いを持ってきた。
濡らした手拭いを絞って額に当てると直之進はボンヤリ目を覚まし、「うつるから構うな」と呟いたがユキエは「妻としての初仕事でございます」と答えた。

翌朝、直之進が目を覚ますとユキエが枕元に座っていた。若いユキエは眠らずに付き添っていたのだろう。目を開けた直之進の顔を見て安堵したように微笑んだ。そこでユキエはためらうことなく自分の額を直之進に重ねた。
「熱は下がったようでございます。どこか痛いところはございませんか?」「少し胸が痛むが大したことはない」直之進の返事を聞いてユキエは部屋の隅に置いてある火鉢から鉄瓶を提げてきた。
「ならば丁度良かった。寺でいただいてきた薬湯を煎じておきました」風邪に効く漢方薬は色々な症状で使い分けられている。初期症状だけでも発熱し頭痛、悪寒はあるが汗が出ない場合は麻黄湯。発熱し発汗、頭痛、悪寒の場合や鼻風邪には桂枝湯。発熱、悪寒と背中の痛みはあるが汗が出ない時の葛根湯。発熱、悪寒、頭痛があり、尿が多い時の小青竜湯などがある。ここから先は医者・薬師の処方になるのだ。
「それから昨夜の残りで卵酒を作りましょう」この時代、卵は貴重な動物性蛋白質で、庭付きの家に住んでいる者は鶏を飼っていることが多かった。ただし、長屋では鶏の鳴き声が近所迷惑になるため卵を配って許してもらうのも一種のマナーだろう。ユキエは昨日、近所の妻から卵を分けてもらっていたのだ。
独身の時は病んでも自分でできることをして、後は倒れ込んだ布団に寝るしかない。それで熱が下がっても食事は自分で用意しなければならず快復は先延ばしになる。
「やはり、世帯を持つのは良いものだな・・・」直之進は天井を見上げながら呟き、覗き込んだユキエの顔を見つめ鼻をすすった。
「うむ、まだ鼻水が出る」直之進の照れ隠しにユキエは幸せそうに「はい」と答えた。

直之進は国元への連絡の名目をもらいユキエを伴い津軽へ帰ることになった。旅の途中、高崎城下に寄り甥の家に身を寄せた応分蓮寺の住職に結婚の報告をした。
住職は大きな商家の庭にあるハナレに住んでいる。それは本来、茶室のようで3畳の狭い部屋に炉が切ってあった。床の間にはお題目の軸が掛けてあり、僧侶の居所としての体裁は整っていた。
住職は茶を点てながらも話を続ける。茶をもてなしと捉えれば所作を体で覚えて自由に会話できる方が正しいのかも知れない。少なくとも緊張を強いるのでは意味はないだろう。
「松木さま、拙僧もこうなることを願っておりましたが、これほど早くとは思いも寄りませんでした」「はい、拙者も同様でござる。軍師に任せたのがよかったようです」流石に若君が池に落ちたのは想定外だったのであろうが全ては村上貢蔵の策だった。
本当は舞った後の妻の挨拶に唄ったユキエを同席させ、そこで紹介するつもりだったようだが思い掛けない事態を逆手にとり一気に話を決めた。ただ、話が早く進み過ぎて津軽の親の許可は取っていない。だから尾野のタツの定期便に託して親に一報し、返事が届く前にユキエを連れて帰るのだ。
「ユキエ、願いが叶って好かったの」「はい、方丈さま」先に薄茶を勧められて飲んでいる直之進の隣りで幸恵はうなずいた。抹茶は回し飲みにすると思い込んでいる者も少なくないが、あれは濃い茶であり、薄茶は1杯を飲み切り、お代わりすることも許されている。
「お前が田圃の様子を気にしていたのは松木殿が来られるのを待っておったのだろう」「方丈さま・・・」思い掛けない暴露に幸恵は頬を赤らめた。そこで直之進が飲み終えたので住職は茶碗をすすぎ、ユキエの茶を点て始める。
「松木殿は代官が夜伽の相手をあてがっても見向きもしなかったと聞き、それならお泊めしても大丈夫じゃろうと思ったのじゃ。何せ山内で若い男女が秘め事をされては困るからの」「確かに拙者もユキエと同じ屋根の下に寝ているのかと思うと辛うござった」「ハハハ・・・」思い掛けない直之進の告白に住職は笑い声を上げ、茶杓に汲んでいた抹茶をこぼしてしまった。
「おっと粗相をした。と言ってお武家の御妻女を使う訳にもいかぬ。雑巾を取ってまいります」そう言った住職に直之進が目配せをしてユキエは立ち上がって水屋へ行った。その様子を見て住職は安心したように何度もうなずいた。
本来、茶室は侍も刀を帯びることができぬよう潜り戸を設けてあり、身分は持ち込まない。しかし、住職があえて「お武家の御妻女」と言ったのは2人の呼吸を計るためだったのだろう。それに2人は見事に応え、夫婦の呼吸を披露した。

ユキエにとっては初めての奥州への旅だったが直之進には通いなれた道だった。
津軽藩は長年にわたる南部藩との確執があり、参勤交代でも碇ヶ関から久保田藩領を通って奥州街道に出ている。これは初代藩主・津軽為信公が南部家に反旗を翻して現在の領地を奪取したことを津軽藩では「戦国の習い」としていても南部藩は「裏切り」として恨み続けているためだ。
これから約20年が経った文政4年には南部藩主・利敬が39歳で亡くなった時、蝦夷地警備の功で自分よりも津軽寧親公が先に昇進し、加増で石高も逆転したことを恨む言葉を遺したため、家臣の下斗米秀之進が参勤交代の行列を狙撃して暗殺しようとした相馬大作(逃亡中の下斗米が名乗っていた偽名)事件が起きている。
直之進は天明の大飢饉以降、一揆の噂が絶えない南部藩の実態を視察してみたかったのだが、愛するユキエを危険な目に遭わせることは避け、仙台から出羽山脈を越えて天童に入り、新庄、湯沢から横手への道を選んだ。
久保田領内に入り、田沢湖に寄って幻想的な風景を眺めながら辰子姫の伝説を説明するとユキエは目を輝かせたが、辰子の相手の八郎太郎に会いに八郎潟(八郎太郎は十和田湖に住んでいたが南祖坊と言う修験者に敗れ、八郎潟を作って住んだ)に寄ると遠回りになる。
田沢湖からの山道で2人は気のよさそうな馬子(=マッサキ)に声を掛けられた。
「お武家さま、ご新造さんに山道は無理だべ。馬はどうけ?」馬子の後ろには体格の良い馬が控えている。ユキエは関東の農耕馬よりも一回り大きな馬に少し怯えていたが直之進は頼むことにした。
「んだば大人しくしてろ」馬子は馬を抑え、直之進が幸恵を抱き上げて背中に巻いてあるムシロに座らせた。
「わーッ、高こうございます」馬の背中でユキエはハシャギ声を上げたが、武家の妻の慎みとして控えた。しかし、馬子はそんなことには構わず馬の手綱を引いた。
「オグリキャップ、行くぞ」歩きだした馬に直之進も並んだ。馬に蹄鉄を打つようになったのは明治政府が軍用馬に西洋式の管理法を導入してからで、この時代は蹄を保護するために草鞋をはかせていた。したがって足音も「パカッ、パカッ」と軽快ではなく「ボコッ、ボコッ」と鈍重だった。
「それにしてもオグリキャップとは妙な名前だな」「いつも訊かれるけんど『送る』に『客』だす。調子よく言うとオグリキャップになるんだべさ」馬子は身分などには無頓着に話した。確かに東北弁では江戸前の敬語や謙譲語などを使い分けることはできない。直之進自身も津軽藩士なので気にはしなかった。
「1つ、馬子歌でも披露するベ」馬子の遠慮なさは武家の妻として振舞うことを心がけているユキエの緊張感も解きほぐしたようだ。馬の背中でワクワク期待した顔をする。
「嫁にこねェかァ、オラのところへェ 桜色したァおめェが欲すんだ 日の暮れの山道で馬さ引いて 何故かしら忘れ物してるような気がして 幸せてェ言う奴を探してやっからァ 嫁に嫁にこねェか 体、体1つでェ」山道を下りたところで直之進は多めの銭を払った(金は金貨、銭は銅貨のことだった)。

弘前城下に近づくと岩木山が目の前にそびえ立っている。津軽の人間はこの山の姿が見えると帰郷したことを実感し、立ち止まって頭を下げてしまう。直之進も道の傍らによって立ち止まると笠を取って頭を下げ、ユキエも倣った。
「やはりお山に会うと帰ってきた心持ちになるな」笠をかぶり直して歩き始めた直之進はシミジミと呟いた。岩木山は津軽平野側から眺めると裾野からそそり立つ美しい円錐形だが、麓の弘前では山頂付近が迫ってくるためかなり印象が違う。
「私には赤城山が故郷の姿でございます」「赤城山か・・・」直之進も検見の役で上野国勢多郡に赴いた時に見上げたが、赤城山は複数の火山の総称で、デコボコとした重々しい山容なので独立峰の岩木山の方が高く見えた(赤城山は海抜1828メートル、岩木山は1625メートル)。
「赤城山も好いが、妙に恐ろしげじゃからワシにはこちらのお山が日本一じゃ」「確かに赤城山から吹いてくる空っ風は辛うございます」冬に赤城山から吹き下ろしてくる乾燥した強風を「赤城颪(あかぎおろし)」と呼び、津軽の地吹雪に劣らない寒さなのだ。
「私は江戸に出てきて初めて富士のお山を見ました。雪が積もって白くなった頂が夕陽に染まるのは美しゅうございます」江戸から見ると富士山は西にあるため赤く染まるのは夕陽なのだ。しかし、直之進は先ほど岩木山を「日本一」と言った手前、無理な言い訳をした。
「あれは日本2の山じゃ、高ければ良いと言うものではなかろう」夫の片意地張った台詞にユキエは苦笑した。

「あれは何でございますか?」弘前の手前、平賀郷の外れの森に赤い幟が立ち、菓子や玩具を売る露店が出ていた。幟には「南無義民地蔵尊」とある。
「義民地蔵か・・・ワシがおった頃にはなかったのう」直之進の返事にユキエは益々興味を持ったようだ。直之進は店番の婆さんに声を掛けた。
「ちと尋ねるが、義民地蔵とは何か?」「へい、何でも願い事を聞いて下さる有り難い地蔵さまだべ」「いつからあるのじゃ?」「へい、知らぬ間に祀られていて、気がつくと祠まで建ってたんだァ」婆さんの説明通りなら森の中に突然、出現した地蔵と言うことになる。直之進は確かめてみようと思いユキエと一緒に森の中へ入っていった。
するとそれは素人が彫ったような素朴な石地蔵で、明らかに職人の手による祠の中で優しく微笑んでいた。その時、直之進の胸に弘前にいた頃、聞いた義民の話がよみがえった。
天明の飢饉で米が高騰した時、南部藩では領民から翌年の種籾まで奪い取った。それに倣おうとした重臣の動きを知った平賀郷の庄屋が藩主に直訴して磔になったのだ。しかし、直之進はその庄屋が旧知のトモ造の妻・ケイの父親とは知らなかった。
2人揃って手を合わせたが、ユキエはこれから会う直之進の両親との円満を願っていた。

弘前城下の武家屋敷の隅に中級藩士である松木家はあった。
直之進は松木家の2男で兄は北前船の終着地である大坂に津軽藩が置いている蔵屋敷に勤めており、妻も大坂でもらっている。
2男まで江戸で結婚したとなれば親としては我慢のならないところだが藩主の前で固めの杯を交わしてきたのでは、これ以上の名誉はなく有り難くかしこまるしかない。
そんな訳で親との対面は無事に終わり、その夜は佛檀の前で正式な婚礼の儀を行い、親族と近所の人を集めての披露の宴になった。

翌日、直之進はユキエを連れて河合正衛門を訪ねた。しかし、河合は顔色が優れず、かつての開け広げな雰囲気がなくなり難しい顔をしていた。
「河合さま、何か御心痛がござるのですか?」近況報告の後、直之進は単刀直入に訊いた。中級武士の2男として予備の跡取りである部屋住みか養子の口を待つしかなかった直之進を見出して取り立ててくれたのは河合だった。その河合の暗い表情が本当に心配なのだ。
「うむ・・・殿のなさることは国元と江戸ではまるで違うようじゃな」「違う?」直之進は寧親公が藩主に就任した直後に江戸へ赴いたので国元でのことは判らなかった。
「国元では黒石から連れてきた取り巻きの言うままに先代さまが為された新たな政(まつりごと)を旧弊に戻すばかりじゃ」先代藩主・信明公は度重なる飢饉で農民が減少し、人手不足による生産量の減少に歯止めを掛けるため侍が農耕に従事する半士半農など大胆な藩政改革を断行していた。しかし、身分制度に固執し、古臭い因習を守ることしか能がない守旧派には到底容認できず代替わりを機に白紙撤回を画策し、次々と実行しているのだ。
先代藩主の急逝を受けて河合が十三湖の畔で畑仕事を始めたのは遺訓を守るためであり、そのまま土に埋もれて忘れ去られていくのが河合にとっての殉死だった。ところが新藩主に召し出され藩政の一翼を担うことになったのだが、それは先代藩主の業績を打ち壊し、葬り去る堪え難い役割なのだ。
「そちは江戸で殿にお仕えしておる。村上殿も中々の人物、こうして良き妻女にも恵まれた。後は妻女を泣かさぬことだけに気をつけて思う存分に勤めよ」「はい、今後とも変わらぬ御指導を賜りますようお願い申し上げます」直之進には河合の言葉が遺言のように聞こえたので、こう答えたが唇を歪めて笑い顔を作っただけだった。
幸い河合は数年後(寛政8年)、新たに開設された藩校・稽古館の責任者になり復活を果たした。

河合を訪ねた帰り、ユキエに弘前城下の最勝院の五重塔や禅林街など案内している時、かつてトモ造が車屋を営んでいた店の前に出た。すると看板は「車辰」になっている。
怪訝に思って開け放ってある店の中を覘くと直之進と同世代の職人(マサ吉)が仕事をしながら腹の大きくなった女房と楽しげに話していた。

ある日、トモ造はショウ大を連れて渡船場に行ってみた。今でも川に近づくと夢の中で幽霊の恐怖が甦ってきてうなされてしまうのだが、息子には父が働いていた現場を見せておきたいと言う気持ちが勝ったのだ。
親方の女房が営んでいる渡船場の茶店の前には舟を待つ若い娘たちが群れていた。トモ造は呆気に取られて女房に訊いてみると「ゲン希とイチの兵目当ての客だ」と答える。店の柱に「次はゲン希」と船頭を知らせる札が下がっているのに気がついた。
最近、この渡船場では行きと帰りでゲン希とイチの兵が漕ぐ舟に乗り分けるのが流行していて、女の客たちは後ろ向きに乗って船頭の一挙手一投足を見ているらしい。今は丁度、舟が川の途中で行き交う時のようで舟の姿は見えないが、待っている娘たちが「ゲンさま」「イチさま」と呼んでいるのは人気を集める歌舞伎役者のようだ。
やがて春霞に煙る川面に渡し舟の影が見えてきた。すると娘たちは「ゲンさま」と歓声を上げ桟橋に駆け寄る。トモ造は桟橋が重みに耐えられるかが心配になった。
しかし、娘たちはそんなことには構わず「いつも元気なゲンさまが好き」「無口なイチさまの方が渋い」などと勝手なことを言い合っている。トモ造に手を引かれたショウ大は「何が起こっているのか」とキョトンとしているが、これは父親が励んでいた仕事の風景ではないのだ。

ユウ市の職人としての修業は殴られる回数が減り、怒鳴れる声が小さくなり、指示される内容が大まかになり、任される仕事が増えて次第に使えるようになっていた。
ところがユウ市は意外なところで商売の才能を発揮した。日雇いの売り子をやっていたユウ市は色々な商売に通じていて顔も広かった。このためユウ市が車職人になったと言う噂を耳にした元の雇い主たちが仕事を頼むようになったのだ。ただし、それは車とは限らなかった。
行商人は天秤に商品を入れた桶を下げて歩くため「棒手振り」と呼ばれるが、中には夜鳴き蕎麦や鍋焼き饂飩売りなどの焜炉(こんろ=小型の火鉢)や食器棚まで仕込んだ特殊な天秤もある。これらの修理や製作が仕事だ。
「これは車じゃあねェからなァ・・・」「それでも屋台は良くて天秤はいけねェってのは判りやせん」仕事を引き受けるか迷っているトモ造にユウ市は珍しく反論する。どうやら知人からの依頼を勝手に受けてしまっているらしい。そこでトモ造は職人としての仕事に対する考え方を教えた。
「俺は天秤の仕事をやったことがねェんだ。やったことがねェ半端な仕事をやっちゃあ、お客に顔向けできねェし、車智の看板に傷がつく」「へい・・・」トモ造の説明にユウ市はいつものようにうなだれた。ただ、トモ造としても仕事が減り、船頭になったことを思うと仕事の幅を広げる必要性はよく判っている。
「先ずは修理からだな」「へい」トモ造が出した結論にユウ市は顔を上げて安堵の溜め息をついた。

トモ造がユウ市を仕込んでいるのを間近で見ていたショウ大は道具に興味を持って玩具にし始めた。ケイは怪我や道具を壊すことを心配したが、トモ造は「ガキの力じゃあ指を落とすような怪我はしねェよ」と笑い飛ばし、むしろ使い方を教えることにした。先ずは金槌からだ(流石に刃物は後にした)。
「ちゃん、トントントン」1番軽い金槌を持たせるとショウ大は大喜びで辺り構わず叩き始める。
「トントントン」トモ造が隣りで板を打って見せるとショウ大も叩くが、まだ「打つ」とはいかない。むしろ楽器のように音を楽しんでいるようだ。
「ショウ大、金槌は始めに上げる時だけ力を入れて、後は重さで落し、跳ね返りで打つんだ」トモ造はコツを教えたがショウ大はキョトンとして、隣りのユウ市がうなづいた。
「大将、アッシにはおさらいでやんすね」「おめェはトットと釘を打ちな」「へい」トモ造に言われてユウ市は仕事を再開して、車の枠の組み立てを始めた。
金槌の次は釘を打つことを教えるのだが、こうなると指を叩き、爪の血が死んで青くなる。痛みよりも驚いて泣いたショウ大に駆け寄ったケイは抱き上げてトモ造を睨みつけた。
「ショウ大、大丈夫かい。お前さん、何をやってるのさ」「てェ(大)したことねェよ。釘の代わりに指を叩いただけでェ」トモ造は平然と答える。
「爪が青くなっているじゃないか」「椿の粉でも塗っときゃあ治らァ」「へーッ、そんなもんですかい」椿の花粉は内身の薬とされ、開花期に集めておくのは職人の知恵だ。それもユウ市への教育になった。
刃物となると血を見るが、この頃にはケイも慣れてきて簡単には動じなくなってきた。指先を怪我しても庭に生えているドクダミでこすって汁を塗るか乾燥させたペンペン草(ナズナ)の葉の粉をかけるだけだ(どちらも化膿止めの効果がある)。
「ちゃん、ギーコ、ギーコ」鋸を挽く動作と音は子供には興味をそそられるようでショウ大は大喜びだが、大人の職人が使う道具では幼児のショウ大の手に余り、トモ造が半分切って溝をつけた材にはめた鋸を両手で挽かせた。
「ノコってのはな力を入れちゃあいけねェんだ」「うん」「へッ?」ショウ大は素直に返事をしたがユウ市は驚いて顔を上げた。
「早く切るには力を入れなけりゃ駄目でしょう?」確かに素人考えでは鋸を押しながら挽けば刃が材に喰い込んで早く切れるような気がする。
「それじゃあ、かえって材の目に流されて曲がってしまうんでェ。まさかおめェ・・・」「ギクッ」ユウ市は慌てて顔を背けたが実は今も材木を歪めて切ってしまい、削って修正するところだった。日本の道具は刃の切れ味が優れているため力を抜くことでかえって本来の機能を発揮するのだ。このため道具の刃を研ぐなど手入れにも職人の技があるが。
ショウ大が鉋を扱えるようになれば1人前だが、全身を使った作業ができる身長になるまでは無理だろう。木目に合わせた刃の調整や研ぎ方を教えている間には指を切ることになるが、それは職人になるための痛みだとケイも学んでいる。

ある日の夕方、トモ造は完成した荷車の試運転に出掛けた。マイとショウ大は荷台に乗せられて大喜びしており、ケイはそんな様子を幸せそうに見ている。ユウ市に引かせながらトモ造は車軸を中心に足回りを確認していた。
「うん、おめェの仕事も中々のもんだぜ」トモ造に誉められてユウ市は足を止めてしまい荷台の上で子供たちは転がった。
「馬鹿野郎、何をやってやんでェ」いきなりトモ造の拳がユウ市の頭に飛んだ。
「痛てェ・・・」ユウ市は頭を撫でながら不満そうな顔をする。
「アッシは車引きじゃあねェですぜ」「その商べェ(売)はしなかったのかい?」ありとあらゆる仕事をわたり歩いてきたユウ市が車引きをやっていなかったとは意外だ。
「そりゃあ少しぐらいは・・・」案の定の答えにユウ市はもう1度頭を叩かれた。
ケイは子供を心配してユウ市を怒鳴りかけたがトモ造が先に殴ったことで笑ってしまった。
「ちゃん、トントントン」ショウ大はトモ造が振るった拳に大喜びして合いの手を入れたが、マイは表情も変えずに「駄目な人だね」と言った。
「あッ、星」その時、ショウ大が立ちあがって空を指差した。トモ造とケイは一斉に顔を向けたがマイだけは「ショウ大、座ってないと転ぶよ」と注意した。
「一番星かァ、俺は一番星が好きなんだよな」トモ造の初めて聞く言葉にケイは驚いたように顔を見た。考えてみれば日の暮れ前にはトモ造は仕事の片付け、ケイは夕餉の支度で忙しく一緒に出歩くことはなかった。
ケイはそんなことを考えながら嬉しそうに一番星を眺めているトモ造の横顔を見つめた。
「よし、一番星の歌を唄うぜ」そう言ってトモ造は即興の歌を唄い始めた。
「男の旅は一人旅 女の道は帰り道 所詮、通わぬ道だけど 惚れたはれたが交叉辻(こうさつじ=交差点) アーアー一番星空から 俺の心を見るだろう・・・」ケイが手拍子を始めるとショウ大も倣い、ユウ市もつき合った。
「もののはずみで生まれつき もののはずみで生きてきて そんな台詞の裏にある 心のカラクリ落とし穴 アーアー一番星出る頃は 俺の心に波が立つ」歌い終わったトモ造は照れたように空を見上げたが、聴衆はマイも加わって拍手した。その時、カラスが鳴きながら飛んでいって、あたりは少し薄暗くなっている。
「よし帰ェるか」そう言ってトモ造はユウ市に指で車の向きを変えるように指示し、子供たちに腰を下すように注意した。
「オイラの旅は夫婦(めおと)旅 子供が増えて4人旅・・・」トモ造の即興の歌は続いている。
「どさ?」「家さ」隣りでケイが久しぶりに津軽弁で問いかけるとトモ造は当たり前に答えながら手を握った。お江戸の夕日は遠く富士のお山に沈む・・・。

  1. 2014/12/19(金) 09:40:48|
  2. 「どさ?」「江戸さ」
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「どさ?」「江戸さ」中

「どさ?」「江戸さ」中

(物語はトモ造一家が江戸に戻る少し前から始まる)
藩主・信明の喪も明かぬある日、松木直之進は側用人・河合正衛門に呼ばれていた。
松木は江戸から戻って以来、城中お庭番として藩主と直接話す機会を得ており、その内密の命を受けて藩内の実情を探る任についていた。
この密命の部分が脚色されて御庭番=忍者と言うことになっている時代小説もあるが、実は河合が江戸勤めで松木の才を知り、この役職に推挙したのだった。
「松木、ソチを今回の件の説明役として江戸へ赴かせることになった」「はは」松木は両手を畳につけたまま頭を下げる。
ここで河合は視線を動かして辺りの気配を確認した後、松木に声を掛けた。
「近こう寄れ」松木が顔を上げると河合は顎で招いている。その視線は半間(約九十センチ)向こうを示しており、松木は拳で畳を押しながら居ざるように前進した。
「ソチも知っておるように江戸表では今回の黒石殿の末期養子に反対して公方様(将軍)の御子を養子に迎えようと公儀(幕府)に働きかける動きがあった」その話は藩主・信明が病に倒れた直後、子のないことに不安を感じた河合ら重臣が黒石支藩の津軽寧親を養子に迎えるように動いているのをよそに江戸表では、寧親が信明よりも6歳年上であることなどを持ち出して反対し、15歳から子作りに励む将軍・家斉の子を養子に迎えようと画策していたのだ。
「しかし、江戸表は何ゆえに?」若い松木にも血統を重んじるこの時代、当主に後継ぎがいなければ親族からという常識は判っている。
「表向きは我が津軽家の家格を上げることとしているが、それはあくまでも建て前で自分たちの御膳立てで藩主を迎えれば実権を握られると言うのが本音であろう」河合の答えは松木も考えていたことであった。しかし、前藩主が病に倒れて以降、文字通りお庭番として警護の任に当るしかなく、確認する手立てがなかったのだ。
「藩主が決まった以上、異論を唱える者が藩内にあってはお家騒動の種になる。その根を断つのがソチの任じゃ」「はは」頭を下げた松木の背中には重責が圧し掛かった。
「仕度ができ次第、江戸へ出立せよ」「しかし、河合様は?」側用人は藩主が替わればお役御免になり隠居するのが身の処し方である。しかし、英君・信明の下、天明の飢饉以降の藩政改革を陣頭指揮してきた河合は新たな藩主にも必要な人材であろう。
「ワシは半農藩士として土にまみれる。本来なら追い腹つかまつるべきところだが遺言で禁じられてはそれもならず。せめて侍としてのワシを殺すしかあるまいて」河合はそう言うと腰を浮かし膝で前に出て肩を叩いた。松木にはそれが意志を引き継ぐ所作のように感じられた。

トモ造一家は江戸に戻ってキヨ助親方の家に移り住んだのだが作業場の土間の奥は上がり端(はな)の板の間で、その奥に2部屋があり片方にトモ造とケイ、マイが寝て、もう片方に母が寝ている。仕切りは襖1枚だ。
「お前さん・・・」マイが眠ってケイが待ちきれないようにトモ造にすり寄ってきた。
「おケイ・・・」トモ造も「待ってました」と抱き寄せる。和服と褌はパジャマにパンツではないので片手で裸になれ、その準備は完了した。
「最近、御無沙汰だよ・・・」「うん、俺っちもソロソロ鼻血が出そうだぜ・・・」そう言うとトモ造はケイを抱き締めた。
口吸いを交わしながらケイの着物の前を開くと白く豊かな乳房が現れる。
「ゴクッ」それを月明かりに見てトモ造は生唾を飲んだ。
津軽から江戸への長旅の疲れも徐々に癒え、そろそろ体調も整ってきている。そうなればトモ造とケイは若い夫婦なのだ。
ケイは隣りで寝ているマイの様子を確かめた後、下から両手をトモ造の肩にかけて迎え入れようとする。母の部屋も先ほどから静かになっていて眠ったようだ。トモ造の頭の中でゴング代わりの鐘が鳴った。
「ゴホンッ」その時、隣りの部屋で母が咳払いをした。障子1枚では音は筒抜けである。トモ造はケイの上に「ガクリ」と頭を落とした。

夕食時、ケイと母が料理を運び終わり、飯を盛ると愚痴にも似た相談を持ち出した。
「オトウの墓は津軽に置いて来てしまったからお参りは困るんだよォ」ケイと母は朝、夕に井戸端で太陽を横顔に浴びながら津軽の方向を見て手を合わせているが、やはり祈りが届かないことを心配しているのだ。
この時代、地方では山奥や川辺にあるサンマイ所に土葬を行い、村はずれに墓石を建てて参るのが普通であった。一方、江戸では火葬はまだ割高で寺や墓所に土葬を行うようになっていたが、こちらも墓参が一般的である。
幕府が切支丹禁制の施策として進める寺請(てらうけ)制度で佛壇も徐々に普及していたが津軽にまでは普及していなかった。
「そうだなァ。よし、1つ文台寺へ行ってテンジンさんに相談してこよう」トモ造はテンジンを思い出して母子の顔を見回した。
「テンジンさんかァ」「テンジン様かァ」母子は揃って返事をしたが微妙に違っている。
「様と呼ぶな」と言うテンジンの声が聞えたような気がしてトモ造とケイは顔を見合せて笑い、母は2人の顔を見回して首を傾げた。
「御飯まだだべかァ」手を合わせくたびれたマイが声をかけてきたが、その合掌した姿に両親はまた笑い、祖母は黙って頭を撫でた。

翌日、トモ造は文台寺にテンジンを訪ねてみた。
山門の周りを掃除している寺男に訊いてみると、思いがけない返事が返ってきた。
「テンジンさん?ああ、ダイクウテンジン和尚かい。墓参りなら裏手だよ」「ヘッ?」愕然としているトモ造の顔を見て、寺男は他の者に声をかけた後、「案内する」と言ってくれた。寺男は本堂裏の広い墓地の中を先に立って歩きながら話し始めた。
「そうかァ、アンタは和尚が遷化(せんげ)されたのを知らなかったのか」「センゲ?」「亡くなったのさ」「いつ?」「もう、1周忌はすんだよ」つまり平賀でトモ造の父の供養をやってくれた1年後に亡くなったと言うことだ。
「御病気で?」「いいや」「では怪我か何かで?」「いいや」トモ造の問いに寺男はハッキリ答えなかった。
やがて一般の墓地を過ぎて、裏手の森の中の卵塔(らんとう=僧侶の墓)が並ぶ場所に着いた。文台寺は江戸では古い寺なので歴代住職以外の僧侶の墓も数多かった。
「この丸い石がテンジン和尚の墓だよ」寺男は卵塔の端にある丸く大きな自然石を指した。
「これが?」「うん、テンジン和尚が川で見つけてきたんだ」トモ造はこの石が自然体のようで異彩を放つテンジンに似合っていると思った。
「テンジン和尚は曹洞宗で得度=出家しながらあらゆる宗派で修行してこられたんだが、そのことを寺社奉行に咎められたらしい。この寺も曹洞宗ではないだろう。ただ、マトモに反論しても通じる相手ではないから『侍なら腹を切るところだ』と言って食を断って遷化されたんだ」石の前で手を合わせているトモ造の後ろで寺男は説明した。
「では飢え死にですか」「そんな感じではなかったけどな」「どんな?」「毎朝、様子を見にくる若い坊さんに『腹を切るのと腹が空くのではどちらが辛いか?』って訊いて困らせていた後、『死ねば一緒じゃ』と笑って亡くなったんだよ」トモ造はダイクウテンジンの笑いながら話す説法を思い出した。
そう言えば津軽を離れたので父の弔いも遠慮する必要がなくなり、トモ造の家でも津軽のイタコからもらってきたお札が飾られて朝夕にケイとマイが手を合わせている。
本当は一度、法要を頼みたかったのだがテンジンの弔いになってしまった。

「お前さん、どうしたんだい?」文台寺から帰ったトモ造の顔を見てケイが心配そうに訊いてきた。出掛ける時にはどこかウキウキしたような顔をしていたトモ造が帰って上がり端に腰を下しても無言だった。
「何かあっただか?」ケイは足を注ぐ水をタライに汲んで足元に置いたが、トモ造は草鞋の紐も解かず何かを考えるような顔をしたままだ。
「どうしただよ・・・」「テンジンさんが亡くなったそうだ」「えッ?」トモ造に代わり草鞋の紐を解こうと前にしゃがんだケイは驚いて顔を上げた。
「いつ?」「1年めェに・・・」「病いで?」「・・・」ケイの問いかけにトモ造は正直に答えられない。寺男から聞いたテンジンの死に様はどこかケイの父親の死に重なるところがあり、それを伝えるのが躊躇われたのだ。
「それじゃあオトウの弔いをやってもらってすぐにだね」「うん、江戸へ戻ってすぐだってよ」ケイはうなづくとトモ造の草鞋の紐をほどき足を洗い始めた。
「オトウの弔いじゃあなくてテンジンさんのお参りに行かないと・・・」「うん、そうしたいな」トモ造はそう答えるとケイの手をよけて自分の足を洗おうとした。
「いいよ、オラが洗う・・・洗いたいんだァ」ケイは両手でトモ造の足を洗い始める。冷たいはずの水がトモ造には温かい湯のように感じた。
「お前さんはワの前からいなくなったりしないでけろ・・・ズッと一緒に・・・オトウはオカアを遺して逝ってしまっただ」そう言ってケイはトモゾウの足を両手で掴んだ。
トモ造はそんなケイの首筋を見下ろして両肩に手を置いた。ケイは顔を上げて目を閉じ、トモ造は身をかがめて顔を近づける、
「帰ったよ」「おカア、大根が採れたよ」そこへ母がマイを連れて帰ってきた。

「オラはどこか住み込みの仕事を探すべ」ある日の夕方、母が言い出した言葉にトモ造とケイは顔を見合わせた。
「ここで裏の畑をやっても大して仕事でねェ、こんなのはケイがやればいいだ」母はキヨ助親方の頃にはマサ吉がやっていた畑を耕し直して野菜の種を蒔いている。しかし、それは津軽でやっていた田畑に比べれば猫の額、箱庭ほどのものだった。
「江戸でなら仕事は幾らでもあるべ」江戸での無宿人検めは心配だが母は津軽でも藩作事奉行所の手形を受けており身元保証は十分であろう。
しかし、キヨ助親方が店を譲ってまで逃れようとしたように、わずか数年で街にも役人が隅々まで監視の目を張り巡らしているような緊張感が漂っている。
これはトモ造が生まれる前にあった犬公方・綱吉の「生類憐みの令」でも、始めは「むやみに生き物を殺すな」と言う教訓がいつしか動物を殺すことが罪になり、やがては頬に止まった蚊を叩いただけで島流しになるまで暴走した。
無宿人検めも同様にそれ自体が独り歩きして本来の「治安維持」「防犯」と「労働力確保」の目的を見失っているようだった。
「でも江戸の言葉さ判るだかァ?」「トモさんと話せるくらいだから大丈夫だべ」ケイの心配も母は笑って否定したが、トモ造は1人「そうかなァ」と首を傾げていた。

ケイとマイを連れてトモ造は文台寺に墓参りに行った。
墓苑を抜けて亡僧の墓に行くと若い武家が1人、テンジンの墓に手を合わせており、トモ造たちはそれを遠くから眺めていた。
武家は墓石の前に十手を置いている。しかし、袴をはかず1本差しであるところを見ると町同心であろうか。同心の身分は侍でなく足軽のため刀は護身用の1本差しのみであり、さらに袴をはくことが許されていない。ついでに言えば与力、同心は各役職にいる構成員の呼称で、いわゆる奉行所勤めの十手持ち=不浄役人と呼ばれる者には「町」をつける。
やがて同心は長い祈りを終えて立ち上がり十手を取ると、トモ造たちに気づいて怪訝そうな顔をした。その顔はテンジンに似ている。トモ造は深く頭を下げると質問をした。同心は足軽なので侍に対してよりは肩の力を抜いて話せるのだ。
「お役人様に誠に失礼でございますが、テンジン和尚と御縁のある方でございましょうか?」「うむ、そちは父を知っておるのか?」その同心はうなづいた。
町同心は南北奉行所に勤め、町与力に仕えるが、収入は2百石取りの町与力よりも「付け届け」などの副収入がある町同心の方が多いと言うのが常識である。
また町同心は1年更新で、大晦日に上役の町与力から「来年も頼む」と言われなければお役御免になる。このため公私共に必死に働き実力で世襲していた。
しかし、弘前でテンジンは元幕臣、旗本であったと聞いている。

「アッシは車職人のトモ造と申しやす。テンジン様には津軽でお世話になりまして、この度、一家で江戸へ出て参りましたので御挨拶に伺いましたら亡くなられたとか・・・」トモ造の自己紹介と説明に町同心は黙ってうなづいた。
「ワシは守野修作と申す。北町に勤めておる」北町奉行所は現在の東京駅の北側、南町奉行所は有楽町駅の南側にあり、南北が毎月交代で行政、治安維持、犯罪捜査、消防などの任に当り、非番の月は前月に担当した業務の調査、報告、記録などに追われることになる。
「それでは父上様の後を継がれて・・・?」これはトモ造が木村屋の広三郎に習ったカマカケであった。
「いや、父は大番二番組の番頭(ばんがしら)であったがワシが元服するのを待って隠居し、そのまま出家してしまったのじゃ。それを新たな上役に咎められてワシは士籍を失い、父の友人だった北町の与力に拾われたと言う訳じゃ。ハハハ・・・」修作はテンジンによく似た笑い声を上げた。
大番とは平時は江戸城の警備、戦時には備(そなえ)や騎馬隊になる戦闘員で、番頭と言えば6つある組の長で5百石取りであり、旗本の花形である。
「それはご苦労なさって」「いいや、ワシには父上のような仕事はできぬ。禄盗人(ろくぬすっと=給料泥棒)になるくらいならこの方が気楽でよい」トモ造とケイは修作と話してテンジンに会えたような気分になり顔を見合わせた。
それよりも修作は山の手(江戸城の北西側、現在の千代田区)の旗本育ちらしく、楓川と八丁堀に挟まれた下町にある与力・同心組屋敷辺りとは言葉遣いが違うように感じた。

キヨ助親方は弘前に着くと荷を解く前に作事奉行所にマサ吉を伴って挨拶に行った。
勿論、マサ吉には道すがら礼儀作法を教えたが少し心配ではある。マサ吉は妙に捻くれたところがあり武家の言葉に反論する無礼を働き、手討ちにされることもあり得るのだ。
「マサ吉、オメェに返事はねェ。黙って下を向いておけ」「何故です」「それがいけねェんだ」そこで親方は頭を拳でこずいた。
「だったら俺は店で片づけしていれば好いじゃねェですかい」「仕事でお世話になることもあるから顔見せはしておかねェと何ねェのよ」そう返事をして親方は溜め息をついた。
トモ造の素直さで売っていたであろう「車清」の看板を親方としてさらに大きくするためにもマサ吉の腕は頼りになるが、商売には心配の種だ。
何よりもこうして先に奉行所へ挨拶に行く意味を説明しても分からないマサ吉をどう1人前にするか、技を仕込むよりも難しそうであった。

作事奉行所は車清弘前支店あらため本店からすぐ近くなので、マサ吉に作法を十分に教える前に着いてしまった。
奉行所の裏口で案内(あない)を乞うと2人を中間(ちゅうげん)が庭に連れて行き土下座させ、奥から役人を連れてきた。しかし、2人は地面を見ていてその顔は見えない。
「うむ、車清の棟梁か?」棟梁とは通常、建物を建てる職人のことだがそこは気にせず親方は「はい」と返事をして深く頭を下げた。
「ソチの弟子のトモ造はよい仕事をしておった。先の殿もお気に入っておられたぞ」トモ造のことを誉められてマサ吉が頭を下げたまま唇を噛んだのが判ったが、親方はこれも気にせず「有り難うございます」と礼を言った。
「ところで隣りにおるのは誰じゃ?」役人がトモ造に聞くとマサ吉が返事をした。
「マサ吉でさァ」この役人はそれほど高い身分ではないのでキヨ助親方とは直接話をするがマサ吉がそうすることは許されない。親方はあわててマサ吉の頭を押さえつけ、自分は地面に額を擦りつけた。
「御無礼しました。こいつはトモ造の後にとった弟子でして、まだ礼儀も仕込んでおりません。何とぞお許しを」「うむ、許す」親方の詫びと弁明に役人はうなづいた。
それから役人はトモ造がやっていた仕事と津軽藩が取り組んでいる事業について説明したが、藩主が代わり今後の計画は判らないようだった。
「それではトモ造以上の仕事を頼むぞ」役人はそう言うと立ち上がって奥へ戻っていった。

「マサ吉、テメェには返事はねェって言っただろうが」トモ造親方は中間に挨拶をすますとマサ吉を殴りつけた。
「だって俺のことを訊いたんだべ」「それは俺に訊いたんでェ、オメェがいることだけ判ってもらえば好いんでェ」親方はそう答えてもう1発、マサ吉を殴った。車清本店の船出は波が高いようだ。

トモ造が江戸に戻って非常に落胆したことがあった。それは江戸に限り市中銭湯(公衆浴場)での混浴が禁じられていたことだ。
当時、普段はタライに湯をはっての行水で、銭湯は現在の大型入浴施設同様に社交と娯楽(囲碁、将棋なども楽しめた)の場であり入浴そのものがイベントだった。
特に若い男には女性の裸を直かに見られる性教育の場であったかも知れない。しかし、浴場内での性的なトラブルは公式記録に残っておらず、その意味では当時の性モラルは現在よりも良好だったようだ(かえってオープンな方が好い場合もある)。
「まったく家族風呂が楽しみだったのに津軽の温泉が懐かしいぜ」トモ造はタライに座りケイに背中を流してもらいながら不満そうに呟いた。
「ほんとだァ、あちらこちらへ行っただな・・・お山(岩木山)を1周しただよ」ケイも懐かしそうに相槌を打ったがトモ造は「手が止まってるぜ」と注意した。
「でも、お前さんはあまり長湯しないべ?」「うん・・・」トモ造もまさか「ほかの女性の裸が見たい」とは言えなかった。
松平定信の治世も4年目に入り、老中が殊更に好む厳格な規律を徹底しようと上役の顔色を伺う家臣たちが事細かなことにまで粗探しをし、日に日に窮屈になっている。
特に田沼意次の庶民を自由にさせていた放任主義を堕落と見なす定信の態度が「田沼のやったことは全て悪事」と言うことになり、最近では田沼が埋め立てた両国橋・手前薬研堀の歓楽街を取り壊し、川に戻すような愚挙まで行われていた。
ケイも前回、江戸藩邸で奉公していた時に比べ随分堅苦しくなっていることをこぼした。
「お前さん、江戸に帰ったことを悔いているのかい」「何を言ってやんでィ、俺っちは江戸っ子でェ」ケイの真意を計りながらの問いかけに答えながらもトモ造は溜め息をついた。

松木の内偵により藩主交代に関する裏工作の状況が次第に明らかになってきている。
津軽藩では飛脚・尾野のタツが弘前と江戸を往復していたが、タツを使うには江戸藩邸の上役の許可を得なければならず内密の報告には不向きだった。
そこで弘前を発つ前に河合は江戸藩邸勤めの間に使っていた猪走(いばしり)のカツと言う飛脚を紹介した。河合は内密の情報を送る役割を与えていたようだが、流石にカツは腕っ節が強く不敵な面構えで山賊や追い剥ぎなどにはビクともしない男だった。
藩主・信明が病に伏した時、黒石支藩の寧親を養子にしようと言う国元に対して、江戸表では15歳から子作りを始め、正室以外13人の側室に生涯55人の子をもうけた将軍・家斉の子をもらい受けて養子とする工作が進められていた。
そうすれば江戸藩邸重役は国元にまさる権勢を手に入れることができると言うのが実際であり、それは河合が推察した通りであった。
そしてその実行役として動いたのが勘定奉行とつながりがあった下屋敷納戸役の高野忠兵衛である。高野もまた江戸藩邸重役の顔色を伺い、その意を体するために秋沢篤之丞を使い工作活動を行っていたが、外様の小藩である津軽家では将軍の子を養子にするには家格が違い実現できなかったようだ。
「新藩主・寧親様は自分が江戸詰をしている間に陰で家臣たちがそのような動きををしていたことを知って激怒している」との河合からの書状を読み、松木は自分の報告が及ぼす結果を想い筆を止めて唇を噛んだ。
江戸表の重臣たちは情勢の変化を敏感に読み、ただ独り「藩のために」と言う頑なな意識で事実を公言している高野忠兵衛に全責任を負わせようとしている。
しかし、相手への同情で真実に口をつぐむことは武士として何よりも大切にしなければならない大義(たいぎ)に反すると思い直し、松木は実名入りで報告を記した。

翌日、松木は中屋敷での仕事を終えてから飛脚・猪走へカツを訪ねた。
夕刻なので店主は売上の確認に奥へ引っ込み、店子(たなこ)たちは店仕舞いを始めており、カツだけが松木の相手をした。
「おう、松木の旦那けェ」カツは若い松木に身分を気にせずに声をかける。これは武家に対して無礼討ちにされても文句のない態度であるがカツには相手を呑むような独特の迫力があり、松木も苦笑いをしてうなづいた。
「うむ、これを河合様に届けてもらいたい」「へい、百も承知、二百も合点、三百も判っておりやす」カツの江戸符丁での返事に松木は再び苦笑いをした。
河合は前藩主に殉ずる形で隠居を願い出ていたが、江戸屋敷勤めの間に新藩主・寧親から有能さと人望を評価され重臣に留まったのだ。
「それでは証文を書きやす」カツは松木から厳重に梱包した書状を受け取ると店主の文机から受け証文を持ってきた。
「すいやせん、いつものように河合様と旦那のお名前を書いてくんなさい」カツは読み書きは苦手らしいが、これは飛脚としては途中で読む心配がないと言う信用を得るための演技かも知れない。松木はそんなことを考えながらカツに差し出された筆で宛先の河合正衛門と差出人に自分の名前を書いた。
「へい、有り難うさんです」カツはそう言うとまた文机に行き、「猪走」と店の印を押し、日付を自分で入れて証文を手渡した。その日付も正確に月と漢数字が書いてある。
「やはり演技であろうか」松木は腹で考えていることは顔に出さず証文を懐に入れた。

「おう、トモ造親方ではないか」「あッ、これは松木様」江戸市内では往来が激しいため、武士と庶民であっても膝をついたりはしない。うっかりそんな事をやっていれば通行人に蹴飛ばされてしまうだろう。ただ立ち話も邪魔になるので2人は往来の真ん中から外れた。
「どうだね、商売は?」「へい、そろそろ本腰を入れて始めたいのですが車清の名を車智(くるまとも)に改めましたんで中々客がつきません」そう答えてトモ造は溜め息をついた。
「ワシは下屋敷じゃから使っている車の修理の仕事くらいはあるだろう。用があればまた話をしよう」「と言うことは高野様の御配下で?」トモ造の返事に松木は顔を強張らせた。
「高野様とは違うが・・・つながりはある」松木はむしろ高野の動向を監視する立場であったが、そんなことは億尾にも見せず話を替えた。
「それにしても車智かァ。法被はまだ車清のままだがのう」「へい、そこまでは手がまわりやせん」言われてみればトモ造が着ている法被はキヨ助親方からもらった「車清」の物だった。法被を注文するにも先立つモノがないのだ。
トモ造も江戸に着いてキヨ助親方の贔屓だった客へ挨拶に回ったが物流そのものが減っていて、以前作った車の修理の仕事くらいしか見つからなかった。
これが商売上手の木村屋・広三郎なら修理をしながら「そろそろ買い替えを」と抜け目なく売り込むのだろうがトモ造にはその手の才が乏しいのだ。
「親方は手先は器用でも商売は不器用だからのう」「へい、まったくでやんす」松木はトモ造のそんな職人気質が好きで密かに兄のように思っていた。
「では近いうちに下屋敷へうかがいやす」「いや、しばらくは立ち入らぬ方がよい」「へッ?」「いや、殿が代わられて藩内もゴタゴタしておるからの」松木はこれから藩邸内で起るであろう事態に関わらぬのように気を使ったのだが、トモ造の方は「遠ざけられた」と思い少し落ち込んだ。

「トモさん、ナカってどんなところだァ?」ある日の夕食中、ケイの母がトモ造に訊いてきた。
トモ造は驚いて箸を落とし、ケイとマイはそんな様子に驚いて顔を見た。
「一体、どうしたんでェ?」「ナカってところで飯炊きを探してるって口利き屋が言ってただよ」口利き屋とは現代で言えば派遣業者であり、職業安定所のような機能も果たしている民間業者で、母はそこで仕事を探してきたようだ。
「吉原ですかい・・・」「吉原じゃなくてナカだよ」「ナカってのは吉原のことで・・・」黙ってしまったトモ造に母とケイは顔を見合わせた。
「奉公に上がりてェと思うだども江戸の言葉が判んねェと駄目だって言われて・・・だどもナカなら訛りがあっても大丈夫だって」確かに吉原は田舎から売られてきた娘も多く、独自の方言矯正法もあるらしい。
始めに「イロハニホヘト」の発声練習をさせられ、あとは文末の作法を習えばいわゆる花魁の「さと言葉」になる。固有名詞については実地指導であるが花魁が接客で扱うモノは限られているからそれも大して時間はかからないらしい。
しかし、言葉は兎も角として庄屋の妻だった生真面目な母が女郎たちの中で上手くやっていけるか不安だった。
「トモさんは行ったことあるんけ?」今度はケイが訊いた。トモ造はさらにギクリとして茶碗を落とした。
ケイたちに見詰められていることに気がつかぬままトモ造の心は十年前に跳んでいった。

トモ造は車清の給金を貯め「筆下ろし」に吉原でも外れの安女郎屋に行ったことがある。
若い頃はその道に励んでいたらしいキヨ助親方も、おカミさんの不在を見計らってアレコレ耳学問を教授してくれるがスケベ話はやはり異様に盛り上がった。
「先ずはなァ、酒を飲み過ぎねェこった」花魁に勧められる酒を飲み過ぎるとイザ布団に入った時、ナニが使い物にならなくなったり、酔って寝てしまうこともあるらしい。
「センズリかいてから行った方が好いって言う奴もいるな。溜まってると早く終わっちまうってな」と言われても女と右手がどう違うかが判らないトモ造には難しい教えだった。
「これから」と言う本番前に勿体ない気もする。そんなことを考えるとワクワクして胸が高鳴って鼻血が出そうだった。
と言う訳で親方は暮れの給金のほかに幾らかの小遣いをくれた。

その日、トモ造は浅草から隅田川沿いに吉原に向かったが、同じように給金をもらったらしい若い連中がウキウキした足取りで同じ方向に歩いている。
時々、大店(おおだな)の若旦那らしい着飾った若造が駕籠で通って行くが、トモ造たちは顔を向けることもなく懐の金を握って今夜の自分の相手を思い浮かべて脚を早めた。
やがて吉原の見返り柳と黒い大門が見えてくる。この「見返り柳」と言うのは娘を吉原に売った親が大門を出て振り返るから名づけられたのだが、トモ造は胸の高鳴りと緊張を押さえながら大門をくぐった。ただ、遊びなれた通(つう)はこんな早い時間に大門をくぐるような野暮なことはしない。
日が暮れて灯りに火がともり、三味線の音色が聞こえ始めるまで門前のお茶屋で時間をつぶしながら、素見(ひやかし)の連中から花魁の様子を探るのも楽しみのうちなのだ。
この素見にも通と野暮があり、「傍惚れ(おかぼれ)も3年すれば情人(いろ)のうち。格子なじみも4年越し」と言って熟練した素見は吉原の賑わいとして欠かせぬ存在だった。

そんなことを知らぬトモ造は見世始め(みせはじめ=開店)の吉原を歩いた。
辺りはまだ薄暗く、店先には波の花(=塩)がまかれ箒波(ほうきなみ)が打たしてある。張見世(はりみせ)には湯上りに化粧を終えた花魁たちが入ってきて位に応じた席に着き、店の中からは若い衆(わかいし)の柏手と縁起棚の鈴の音が聞えてくる。トモ造は別世界に入ってきたようで、それだけで興奮してきた。
しかし、大門から正面通りに並ぶ大棚では職人の給金では相手にしてもらえず、格子越しに花魁たちを覗いても声をかけてくる牛太郎(客引きの責任者=女郎を客を乗せる「馬」と呼んだその対語)もいない。
そもそも花魁たちもこの時間に通の上客がいないことは知っており、仲間内で雑談をしているだけで視線も合わせないのだ。
それでも店から店を覗いていくと、やがて街外れの「場末(ばすえ)」と言う表現が当てはまるような寂びれた通りになった。
この辺りの店にはお職(ナンバーワン)を張るような花魁はおらず、盛りを過ぎた流れ花魁や厚化粧でも誤魔化せないないような不美人と相場が決まっていた。それでも懐が寂しい者はここらで女を買うしかない。トモ造もそうだった。
「ニイさん、寄っていきなんす。安くしとくざんす」薄暗い明かりの格子越しにトモ造よりもだいぶ年上の女郎が声をかけてきた。
トモ造は立ち止まってその女郎の顔を見たが、自分よりも母に近い年のように思える。
「ニイさん、アチキの方でどうどすえ。こっちにしなんす」隣りからもう少し若い女郎が声をかけてきたが、これは遊郭の作法から言えば違反である。どこの遊郭でも女郎同士の客の奪い合いは戒められていて、それを統制するのは外で客を呼び込む牛太郎と中で客と花魁をコントロールするヤリテ婆ァの役割なのだ。
その時、トモ造は後ろから声をかけられた。
「ニイさん、どんな娘(こ)がお好みだい」振り返るとそこには牛太郎の配下である若い衆が立っている。
「そんなマジな顔で素見じゃあねェだろう。ニイさんがハッキリしねェから花魁もツイツイ声をかけちまうんでェ」若い衆は少し脅しをかけて引き込もうとしていた。
「若いのがいいか、床あしらい(ベッドテクニック)が上手いのがいいのか言っちくり。まだ馴れていなけりゃ床あしらいだな」若い衆はトモ造が筆下ろしであることを見抜いており、トモ造は思わずうなづいてしまい、最初に声をかけてきた年増の女郎を買うことになってしまった。

「ナカは色街、女郎屋だ」「女郎って客に身を売るのけ?」「そうだ、そんな店が一杯ェ並んでるんでェ」トモ造の説明に母とケイは顔を見合わせた。
「女郎になる訳じゃあねェけんど飯炊きでもそんなところで・・・」母娘は口ごもって食事を再開し、トモ造は溜め息をつき、マイは不思議そうに大人たちの顔を見回していた。

その夜、トモ造は衝撃の初体験のことを思い出して眠られなかった。
「あの時、花魁は・・・」年増の花魁は緊張しているトモ造を優しく楽しませてくれた。
「主(ぬし)さん、初めてありんすね。アチキも嬉しなんす」花魁はそう言うと始めは型通り三味線と引きながら小唄を口ずさみ、酒を勧めたが「飲み過ぎてはいかんす」とたしなめてくれた。それを聞いてトモ造もキヨ助親方の教えを思い出してうなづいた。
花魁にとっては客が酔った方が性技は楽なはずなのだが、この優しさは生真面目そうなトモ造の筆下ろしをすることに母性本能を感じていたのかも知れない。
そして、その後は・・・翌朝、トモ造の枕は鼻血で汚れていた。

猪走(いばしり)のカツは小坂の宿から碇ヶ関に向かっていた。すると前を客を乗せた駕籠が歩いている。しかし、その駕籠かきは前と後ろでは背丈が大きく違い、妙に足元もふらついていた。
「兄貴、シッカリして下さいよ」「オメェ、こそシッカリしろい」2人は客を挟んで言い合いを始めた。
この辺りは道が細い上、草が生い茂っていて仕方ないのでカツは後ろをついていった。
「駕籠はなァ、背が低い方に重みが回ってくるんでェ。オラばかりエライ目にあって大損だ」「だったらマッサキの兄貴を戻せばいいじゃないですか」「アイツは馬と一緒に気楽に稼いでるよ。元は馬持ちの大百姓だからな」そう言うと前の「兄貴」と呼ばれた男は唾を吐いて棒を担ぎ直した。
「オラだって川下りの船大工をやるはずだったんでェ、駕籠かき何ぞになる気はなかったんだ」そう言うと後ろの若い者はカツに気がついて軽く頭を下げた。
「マッナブ、前から馬だぞ・・・マッサキの奴だ」カツが籠越しに前を見ると馬子に引かれた馬が背中に荷物を載せてやってくる。駕籠の方が道をゆずる気がないので馬がやや広くなった道端によけた。
「確かオグリキャップ(送り客)って名前でしたよ」「その割に載せているのは荷ばかりだな」前の男は腹に一物あるようで皮肉な言葉を返した。
「こりゃあ、マッサミの兄貴、後ろはマッナブかァ。背丈もお似合いだぜ」通り過ぎる時、マッサキと呼ばれた馬子が声をかけてきたが、マッサミは言い返さず黙ってやり過ごした。
ここから先は少し道が広くなり、カツはマッナブに手を上げると追い抜いて駆け出した。

カツが河合正衛門に書状を届けると折り返しに尾野のタツが関係者への召還命令を届けた。こちらは公文書と言うことだ。
その召還にはその手先として動いたとされた秋沢篤之丞も同行を命じられていた。
数日後、カツが松木の長屋に河合からの書状を届けたが、そこには「重役方はおそらく高野1人に責任を負わせる気であろう。藩の内紛が長引くのは好ましくないからそれでよい。ただし、実際をつぶさに知らせよ」とあった。河合の判断は新藩主の意向とは違うところにあるようだ。
「拙者の行動は一重に藩の安寧を願う忠心からの挙であり、叱責を受ける謂れは一切ない」高野忠兵衛は国元へ弁明書を送ろうとしたが、養子縁組を進めるように指示していた重臣たちが掌を返すように関与を否定し、全てが自分の独断であったかのように証言していることを知り、「国元へ行っても結果は同じなのだ」と覚悟を決めた。
重臣たちは国元の審問で高野が何を言い出すかを心配し、江戸で腹を切らせることにしている。高野と秋沢は津軽の出身ではなく江戸で仕官した新参者・他所者であり、たとえ腹を切らせても国元で重臣たちが恨みを買うことはない。トカゲの尻尾切りに好都合なのだ。
高野は出立準備も許されず藩邸内の溜の間(たまりのま)で蟄居させられた。溜の間とは何にも使われていない空き室で、蟄居とは事実上の監禁を意味した。
この時代の蟄居は、あてがわれた1室の中央で用便以外は正座して過ごすのだが、常に壁に耳あり障子に目ありの状態で一瞬も気を緩めることができない厳しいモノだった。
座っていると襖越しに隣室で話す重臣たちの声が聞えてくる。
「高野も武士ならば召し抱えて下さった殿の御心に背いた不忠を恥ねばならぬはずじゃ」「アヤツの忠心は忠兵衛と言う名ばかりか?名前負けよのう」「確かに口と筆だけで召し抱えられた軟弱者だからな」重臣としては召喚に応じての出立期限までに腹を切らせなければならず、これは高野が誹謗に耐えるような男ではないことを計算した精神的な圧迫だった。
「介錯は秋沢がよかろう」「しかし、高野に腹が切れますか」「そうじゃのう・・・」重臣たちは立ち話で判決を下していた。
昼餉に3枚の沢庵漬けが出た。これは3切れ=身切れ=切腹を意味する作法である。
「今夜か・・・」高野は唇を固く結ぶと監視役を兼ねて控えている下士に筆と紙を持って来させた。

トモ造が仕事を探して街を歩いていると向こうから若い同心が歩いてきた。
本来、足軽である同心の刀は安物で拵え(こしらえ)も粗末であることが多いが、その同心の刀は一見して武家用の本格的な拵えで、柄(つか)や鍔(つば)、鞘(さや)も立派だった(マジマジ見るのは失礼に当る)。
「これは守野様」「車屋のトモ造さんかァ。先だっては父の墓参痛み入りました」同心・守野修作は驚くほど腰が低い。これも若くして武家の番頭(ばんがしら)から足軽の同心に降格された苦労がそうさせたのかも知れない。
「お役目でございますか?」「いいや、今日は夜番明けで長屋に帰るのだが、食材を求めて行こうと思ってな」トモ造の挨拶に修作はそう答えてはにかんだように笑った。
「守野様はまだお1人で?」「うむ、お三度さんをやっておる」お三度さんとは朝昼夕の3食を自炊していると言うことだ。
トモ造は修作の正直な告白に思わず立ち入った答えを返してしまった。
「早く嫁様をもらわれないといけやせんね」「いいや、没落した家に娘を嫁に出す親もあるまいて」そう答えた修作は別段、そのことを気にしていない様子に見える。その時、トモ造の頭に義母のことが浮かんだ。
「それでは女中はいりやせんか?」「いや、給金が払えん」「それは住み込んで3食一緒にいただければ十分でござんす」トモ造が示した条件に修作は1歩踏み出した。
「そんな者がおるのか?」「へい、アッシの女房の母親でがす」「ソチの妻女(さいじょ)は東北の出であろう」「へい、津軽でやんす」あの時、ケイの紹介はしなかったが修作はトモ造夫婦の会話を聴いて察したらしい。
「ワシの母も出羽の出であった。東北の料理を出してもらえればワシも懐かしい」「母上様とおっしゃいますとテンジン様の奥方様で」「うむ、とうに亡くなったがの」その日、車の仕事は見つけられなかったが義母の仕事は決まった。

翌日、守野修作がトモ造の家へ訪ねてきた。
「頼もーう」玄関で掛けた声を聴いてトモ造はそれが誰か判ったが、台所にいたケイは突然の侍の訪問に驚いてマイを抱いた。
「これは守野様」「うむ、昨日の話を聞いて早速、お願いに参った」修作の返事を聞いてトモ造はケイに義母を呼びに行かせた。
「どうぞ」「お邪魔する」修作は腰の刀を下すと草鞋の紐を解き板の間に上がり、トモ造も仕事を中断して隣りに座った。そこへ裏の畑から義母とケイ、マイが帰ってきた。
「これはお武家様」「いや、刀は差しておるが足軽同心じゃ。気楽にせよ」と修作は言うが、その言葉遣いと態度はどう見ても侍で義母とケイは顔を見合わせた。
ケイは滅多に出さないお茶を入れ(普段はさ湯)、緊張しながら湯呑みに注いだ。
修作はそんな様子に苦笑いしながらトモ造の膝のマイの頭を撫でた後、義母の顔を見た。
「こちらが妻女の御母堂様か?」「へい、母でござんす」義母は初対面の同心に緊張しケイの向うでかしこまっている。今でいえば採用面接に当るのだからある程度緊張するのも当然ではあったが。
修作の話ではテンジンの妻=修作の母・キヨは凶作に苦しむ出羽から吉原へ売られてきた。しかし、足抜けして城門に隠れているところを見つかり、番頭(ばんがしら)のテンジンに引き渡されたのだが、テンジンはそれを隠して屋敷で働かせることにした。どうやらテンジンの一目惚れだったらしい。
一方、テンジンの親=修作の祖父母は上役の娘との縁談を進めており、身分違いの結婚など許すはずがなく、「他家の養女にして正妻に(当時、武士が庶民の娘を妻にする時、必要だった手続き)」と言うテンジンに「妾として囲うなら許す」と命じた。
この時代、婚礼とは家と家が結びつくことであり、親の意向に背くことはできない。しかし、テンジンは上役の娘との見合いの席で「心に決めた相手がある」と言い切り、先方の上役、仲人、何よりも両親を激怒させたが、そのまま家を飛び出して城番の長屋の一室でキヨと暮らし始めた。

この頃、テンジンは棒術と柔術の達人として名を馳せており、組の者を鍛え上げて幕閣のおぼえもめでたく多少のワガママは許されたようだ。
結局、修作はこの長屋で生まれたのだが、両親はキヨを追い出そうと手を回していたため正妻とするための手続きは一向に進まなかった。
それでも修作は仲睦まじい両親の元、長屋の子供たちとも友達になって無事育っていったが、そんな折、母のキヨが早馬に巻き込まれ急死した。
ここまで話して修作は湯呑みを両手で持って茶道の作法で静かに飲んだ。そんな仕草からも修作の育ちが判るようだった。
「それはお辛かったですね」「いいや、ワシは父が母の分まで大切に育ててくれたが、父の方が辛かったのであろう。毎日墓参りにばかり行っておったわ」ケイの遺骨を守野家の墓に入れることは両親が許さず、テンジンが若い頃から坐禅に励んでいた寺に葬ったと言う。
そして修作はテンジンの養子と言う形で守野家に加えられたが、祖父母からは「武家の作法=立ち振る舞い」を厳しく仕込まれ、「毎日が窮屈で長屋が恋しかった」と笑った。トモ造とケイはテンジンが見せた底抜けの優しさの理由が判ったような気がした。
その後、テンジンは修作の元服を待って出家し守野家との関係を断ったらしい。つまり武家、身分と言うモノに愛想が尽きてのことなのだろう。
「と言う訳でソレガシは北の食べ物が好きなのじゃ。よろしく頼みますぞ。母上」そう言って修作はケイの母に向かって両手をついた。あの親にしてこの子なのだ。

高野忠兵衛は遺書を書き終えると下士に秋沢篤之丞を呼ぶように命じた。その時、「大刀(だいとう)を帯びてくるように」と申し添えた。
通常、殿中では脇差までで大刀は当侍(とうさむらい=当番の侍の詰所)の刀掛に掛けている。しかし、高野が置かれている状況を見聞きしている下士は、その意味を察して緊張した面持ちで深く両手をついた。
高野ほどの身分の侍が主命により腹を切るとすれば、白の死に装束を着て庭先に設けられた場で腹を切るものだろう。
これはあくまでも「自死」の形を取らなければならず、その意味では違法行為なのだが、この時代、責任を負っての自死の罪は忠心を汲んで不問に付せられることが多かった。

下士から高野の命を聞いた秋沢篤之丞は顔面蒼白になって震えだした。秋沢は当然のように人を斬ったことはなく、剣の腕にも全く自信がない。
この時代、すでに武士の猛々しい気風はすたれており、刑罰としての切腹では脇差を構え、「いざッ」と声をかけたところで介錯人が首を落とし、衣服を直す振りをして腹を切り、検視役もそれを承知で確認するようになっていた。
また介錯では緊張で筋肉が強張るため中途半端な斬り方では首が落ちず、苦しませることになる。それで「膝まで斬るつもりで降り下ろせ」と元服の折に武士の嗜みとして教えられるものだが秋沢にはそんな知識すらなかった。
「高野様は腹を召されるのか?」「それは拙者からは申せませぬ」この切腹が自死と言う形を取る以上、それは事が起きるまで誰も知らないことにしなければならない。こんな当然のことを弁えない秋沢であったが、若い下士は敬語を使った。つまり秋沢も自死をたすけた罪人として扱われることを下士も知っているのだ。
秋沢は刀掛けから自分の大刀をとると思い詰めた顔で廊下に出た。
「お役目とは言え、お察し申し上げます」「うむ・・・」下士が背中にかけた慰めと励ましの言葉に振り返らず小さくうなづいた。
その後、秋沢は溜の間には向かわずそのまま逐電したが、使い走り程度の下役にしては過剰反応であり、介錯をする自信がなく失敗を怖れたのであろう。
と松木直之進は記録した。

高野は溜の間で秋沢を待ったが一向に現れない。
死を覚悟した者にとってこの待ち時間は、生への未練をかき立て、過去を思い返し、怨みを燃え立たせる苦しみでしかなかった。下士も秋沢が介錯を終えて戻るまでは当侍で控えており、重臣たちも近づかない。高野は1人で耐えていたが、やがて大声で叫んだ。
「ワシは国元へ参るぞ。行って全てを殿に言上(ごんじょう)仕る(つかまつる)のだァ!」静まりかえっていた邸内が急に慌ただしくなった。
「高野殿、乱心」「高野様、御乱心!」(身分によって言い方が微妙に違う)廊下を叫びながら駆け巡る足音が響き、やがて閉じた襖、障子の向こうに多くの者が集まってきたのが判った。
その時、襖を開けて重臣が姿を見せ、同時に廊下側の障子も開けられた。
「高野、血迷ったか。大人しく腹を切れ」「ならば主命を給わりとうござる」武士は主君に仕えており、上役とは言え独断で処罰を下すことができないのが建前である。腹を切らせるには「上意」としての主命が必要なのだ。
「拙者は・・・」高野が抗弁しようとした時、重臣の目配せを受けて若い侍が後ろから脇差で斬りつけ、高野はのけ反って倒れ、脇差が当って腹這いになった。
「後ろからとは卑怯な・・・」「御免」侍はうつぶせに倒れ肩口から血を吹き上げている高野の左わきを刺してトドメにした。
その様子を確認した重臣は、集まっている者たちを見回し、それを受けて全員が座って手をついた。トドメを刺した侍は血に染まった抜身の脇差を背中に回している。
「高野忠兵衛は乱心の上、殿中で抜刀した故に斬り捨てた。よいな」「はは・・・」重臣の裁定に侍たちは揃って頭を下げたが、松木だけは返事をしなかった。

ケイの母が守野修作の同心長屋にやってきた。
引越しにはトモ造が荷物を積んだ車を引いてきたが、それを近所の住人たちは「嫁入り」と勘違いして長屋の玄関先に集まってきた。
「守野殿、御新造(ごしんぞう=新妻)さんは?」同心仲間が声を掛けると皆が一斉にうなづき、修作は困ってトモ造と顔を見合わせた。
「御免なんしょ、通しておくんなさいまし」そこに母が入ってきて、今度は住人が顔を見合わせた。
「エライ老けた新造さんだなァ」「新造さんと言うよりもおっかさんだろう」「しかし、守野殿の親御さんは・・・」ここで皆が口ごもった。
修作の親の顛末は武家の番頭(ばんがしら)から足軽の同心になった時に知れ渡っていて、今で言うところのタブーになっている。そこで修作が母を紹介した。
「こちらは父の知り合いの母者(ははじゃ)で、住み込みで家のことをやってくれることになり申した」「女中でごぜえます」母は江戸弁で挨拶したつもりだったが少し訛っている。
こうして母のオカシナ女中奉公が始まった。

母の引っ越しを終えて帰る途中、総州街道で立ち往生している車に会った。車には下総から江戸へ運ぶらしい荷が積んであるが車軸が折れてしまったようだ。
「どうしやした?」「おう、軸がいかれちまってよ。まいったぜ」トモ造が車の下にもぐり込んでいる車夫に声をかけると返事だけをした。
「あっしは車屋でして、よかったら見せておくんなさい」「そりゃあ助かった。捨てる神があれば拾う神もありだぜ」車夫が車の下から這い出てくると替わりにトモ造がもぐり込み、確かめるとやはり軸が摩耗したところで折れていた。
「こりゃあ、軸を換えなけりゃ駄目だぜ。ウチへ運べば何とかなるが・・・」「俺っちも今日中に荷を届けなければならねェんだ」這い出てきたトモ造と車夫が顔を見合わせていると通りがかった野次馬が声をかけた。
「こっちの空いた車に積み替えればいいじゃねェか」そう言われて2人はトモ造が引いてきた車を振り返った。確かに母の荷を下して車は空である。
「おう、こいつは気がつかなった。1つ貸してくれェ」「へい、そうしてくんな」車夫が言うのと同時にトモ造もうなづいた。
「帰りに寄るが親方は『車清』けェ?」車夫はトモ造の法被の背中を見て訊いた。
「いえ、今は『車智』で・・・」トモ造の返事に車夫は怪訝そうな顔をしたが、説明をしている暇もなく荷を積み替え始めた。
言われてみると職人の法被は看板を背負って歩いているような物なのだ。
「親方、商売が下手だねェ。直す前に客にするよう話をつけなきゃあ」荷を積み替えて車夫が出発すると、まだそこにいた野次馬が妙な教育をする。確かに修理の見積もりの前に相手を助ける顔をして売り込むべきだった。
トモ造は反省をしたが、その一方で店に仕事を頼んで回るよりも目の前の総州街道で仕事を探す方が見つかりそうだと考えた。要するにモータースがJAFと提携を結ぶようなものだが、トモ造にしては中々の商才だった。

高野の死が「乱心」と言うことで片付いたところで、出奔した秋沢の探索が始まった。
津軽藩としても話が広まって幕閣の耳に入る前に処断しなけらばならず、藩士たちは江戸市中を血眼になって捜し回っている。
江戸藩邸としては秋沢が国元へ向うことを懼れたが、そんな度胸があるはずがない。
「母上、津軽藩で何かあったようですな」「へい・・・」修作は仕事から戻って母が仕度した夕餉を食べながら話し始めた。
母は奉公人の作法として一緒に食べることを遠慮したが、修作が「それでは寂しい」と言って向い合って食べるように命じたのだ。そもそも修作は奉公人であり、農民の妻であるはずの母を「母上」と呼んでいる。
「藩士の方々が血相を変えて何かを探しておるのでな」「はァ・・・」町奉行は藩邸に何の権限もないが武家屋敷、武家長屋には調査権が認められており、町人が関わる事件には立ち入った捜査も行う。修作は武家出身ということもあり、この仕事を任されることが多かった。
ただし大名や高い位の旗本は老中直轄の大目付、旗本・御家人、江戸府中では各藩士も若年寄直轄の目付が取り締まる。
「まあ、武家の話は親方や息女には関わりないでしょうけど」「んだな」そう答えながら母はケイとマイの顔を思い浮かべて小さく笑った。
その時、修作がオカズの干し鰯を摘みながら訊いてきた。
「ところで母はハタハタが食べたいって言っておったが、ハタハタって何です?」「ハタハタは魚だよ。秋田では鰤子(ぶりこ)って言うんだ」「ふーん、鰤子って言うくらいだから、脂身があって美味いんだろうね」「そう言ってたらワも食いたくなったよ」母は干し鰯に伸ばした箸を止めてうなづいた。

突然、マイが不思議な歌を唄うようになった。
「でんでらりゅーば 出てくるばってん 出んでられーけん 出て来んけん」テンポよく歌いながら両手を叩いたり突き出して楽しそうに笑っている。
「来んころれんけん 来られられんけん 来ーんこん」ここまで歌うと可笑しそうに転がってしまう。
「これは何の歌ねェ。ワにも判らねェだよ」ケイはマイが口ずさむ歌詞に首を傾げたが、トモ造にもサッパリ判らない。
「津軽訛りだけでもエライことになっとるのに、こりゃなんでェ」マイの話では荒川の船頭の子供と遊ぶうちに覚えたらしい。
義母が修作の家に行って以来、ケイも家事の合間に相手をしているもののマイは近所へ遊びに出るようになったようだ。
その子は話の最後に「ばい」「たい」、質問は「と?」、話を変える時には「ばってん」と言うらしい。
「そりゃあ西国の訛りだな」トモ造も確信がある訳ではないが九州の大名屋敷などで会う侍がそんな話し方をしていたように思った。
ただ、その子たちがマイの言葉を「変な言い方たい」とからかうと聞いて、ケイが「ワは訛ってねェ」と頬を膨らませたのには笑ってしまった。

ある夜、マイを寝かせつけながらケイが声をかけてきた。
「お前さん、ヤヤ子ができただヨ」「えッ?」トモ造は手酌で飲んでいた湯呑みを落としそうになった。
確かに母がいなくなってからこの若夫婦は、お預けが終った後の犬のように互いを求め合い毎晩のように励んできた。だから当然と言えば当然の結果だろう。
トモ造は総州街道に立ち、行き交う車の様子を眺めながら調子が悪いと声を掛け、修理を請け負うようになった。と言うことで仕事もボチボチある。生活の不安がなくなったところで宿ったこの子は孝行者だと思った。
「ふーん、今度は跡取りの男が好いな」トモ造は湯呑みに酒を注ぎたすと口に運んだ。
「でも、お前さんは男2人兄弟だどもワは女1人だァ。女腹だと困るだよ」トモ造の言葉にケイは行燈の灯りの中で顔を曇らせた。
日本では長く女ができやすい「女腹」と言うモノがあるとされ、嫁を取る時には敬遠されてきたが、現代の遺伝子学に於いては男女の違いは女性の卵子よりも男性の精子に起因するとされている。しかし、当時の迷信に近い医学知識では不妊などと同じく跡取りが産めないことは女が離別される理由の最たるものだった。
「うん、それじゃ男でも女でもいいから元気な子を産んでくれェ」「オラはそんなお前さんの優しさが嬉しいだよ・・・グスン」この返事にケイは目を潤ませる。トモ造はそれを見てムラムラしたが今夜は控えた。
「妊娠中にナニを深く致すと子供の頭が凹む」という言い伝えもあるのだ。

「この箱の奥に並んでいる札は何だべか?」ある日、掃除をしながら母が修作に尋ねた。
同心長屋には6畳、4畳半、3畳の3部屋あるが、その狭い3畳間に黒い漆塗りの立派な箱があり、その中央には佛像、その横に漢字が書かれた札が並んでいる。
修作は毎朝、母が仕度した朝食を小さな器に入れてここに供え、ロウソクに火をつけ、線香を炊いて祈っているのだ。
「それは佛壇でござる。守野家は三河以来の家柄ゆえ先祖の墓はアチラに在って参ることもできぬからここで祈るのですよ」修作の祖父母=テンジンの両親は守野家が没落した事実を受け容れることができず、領地があった三河へ帰って縁者の家に身を寄せている。
元々認めていなかった嫁・キヨが産んだ孫の修作ともそこで縁は切れ、テンジンの死を知らせても何の返事もなかった。ただ、修作は父から受け継いだ嫡男の勤めとして佛壇を守っているのだ。
「佛壇?それで毎朝ここで参ってるのけェ」「うむ、父のもありますよ」そう言うと修作は新しい白木に「ダイクウテンジン道者」と書いた札を見せた。
「ところでテンジン様は御出家される前は何と言うお名前だったんですか?」母は位牌を眺めながら素朴な疑問を口にした。
「父は出家することは家を捨て、身分を捨て、過去を捨てることだから昔の名は呼ぶなと申しておりました」そう言って修作は「ワシも捨てられました」と小声で呟いた。
「こちらが母です」修作は、その隣にあった「テン室慈聖大姉」の札も見せたがこちらの方が立派だった。母はテンジンとセイの札を渡されて恭しく捧げ持って眺めた。
「これは位牌と申すのじゃ」「イカイけ?」「位牌です」元禄の頃から現在のような佛壇や位牌が作られ始めたが、それでも高価なため足軽同心には手が出ず、テンジンが番頭(ばんがしら)時代に作ったセイの方が立派なのだ。
「ふーん、これに祈ればお墓に行くのと同じなのけェ」母は感心しながら位牌を眺めた後、修作に手渡した。
「本当ならもっと先祖代々のモノもあったのじゃが、祖父母が連れて帰ったのです」そう説明しながら修作は位牌を佛壇に納め、手を合わせた。
「その佛壇はお武家様しか作ってはいけねェんですかね」「いいや、ワシは足軽同心じゃが、別に寺社奉行から咎められてはおらぬ」実際、お盆に僧侶が各家々を回って参りながら佛具などを点検する棚経も宗門改めの制度として定着してきているのだが、母は知らなかった。
「だったら、ワの夫の物も作って良いんだべか?」「そりゃあ、よろしいでしょう」修作は母の方に座り直すとユックリとうなづいた。
翌日、母はトモ造の家を訪ねて佛壇と位牌の説明をし、早速余った材料で位牌を2組作らせ、自分の分は持ちかえって女中部屋にもらっている四畳半の箪笥の上に祀った。
こうして母の悩みは1つ解決したのだ。
しかし、トモ造に広三郎のような商才があれば、江戸に来ている地方出身者がこれだけ増えている以上、「墓参の代わりの安い佛壇」として売り出すことを考えただろう。
残念ながらトモ造にとってこれは単なる親孝行と愛妻の道具に過ぎなかった。ただ佛壇は漆を塗る代わりに墨で黒くする、そんな工夫はできるのだが。

キヨ助親方は最近、評判の義民地蔵へ参ってみた。
それは平賀の集落のはずれの森の中にあるとのことで、身を捨てて民衆を守った義民の墓で、ありとあらゆる御利益があると言われ、特に縁結びは抜群と若い娘の信仰を集めているようだ(ケイがトモ造と結ばれたことが広まったとは親方が知る由もない)。
親方は娘を連れて行こうと思ったが弘前から平賀までは娘の脚には少し遠く、今回は1人で行ってみることにした。
平賀の集落に入り義民地蔵への行き方を訊くと畑仕事をしている農婦たちは「庄屋さんのとこだべ」と答え教えてくれ、森の入り口にも最近建ったのであろう看板がある。
そこから人々が踏んで道になっているように森の奥へ向うとそれはあった。
「何だ!こりゃあ、トモ造の仕事じゃあねェか」親方は地蔵の祠を見て一目で言い当てた。長年、トモ造を仕込んできた親方には鋸の引き方、鉋の掛け方、釘の打ち方を見ればその癖はすぐ判るのだ。
「何でェ、アイツは脇仕事で祠も作ってたのかァ。余程、食うに困ったんだなァ」親方の理解はやや外れたが、職人が副業を持つことは「脇仕事」と言って嫌うものだが祠ならと許すことにした。しかし、流石の親方も石地蔵もトモ造の作だとは気付かなかった。それでも「これは素人の仕事だな」と見抜く眼力はさすがだろう。

母が奉公に行って4カ月が過ぎた頃、その修作がトモ造を訪ねてきた。
修作は腰の刀を外すと立ったまま土間で車の修理をしているトモ造に声をかけた。
「トモ造さんに仕事の話があるんだ」「へッ、奉行所の仕事を持ってきて下さったんで?」「いや、違います」そう答えた修作にトモ造は上り端(あがりはな)へ座るように勧めた。
ケイは突然の来客に釜戸に木屑を入れて茶を出すための湯を沸かし始めたが、修作は「母上はお元気ですよ」と声をかけた。
トモ造と修作は並んで腰を下すと用談を始める。こんなところも足軽同心だから許される気安さだった(多分に修作の性格にもよるが)。
「御老中が株仲間を解散させたのは存じておりましょう」「へい」田沼の時代、幕府は同業者で株仲間と言う組合を作らせ、市場を独占させる代わりに税を納めさせるようにした。それまでの「租税の増収」と言えば農地開拓と年貢の加算であった農本位制の経済政策を、商工業者への課税と言う経済革命とも言える政策転換であったが、田沼失脚後は「賄賂目当てであった」と歪曲され、株仲間へ解散を命じた。
「そのおかげで最近は大阪から江戸へ支店を出す商人が増えてな、そのうちの1軒が親方を知っておるのだ」「へッ?」そう言われてもトモ造は大阪に知り合いはいない。
トモ造は修作の顔を見ながらアレコレ考えたが分からないので止めた。
「奉行所に親方のことを尋ねてきたからワシが案内(あない)しようと言う訳じゃ」「へい・・・」仕事をもらうことは助かるが、どう言う経緯で自分を知っているのか分からない相手・渋屋(しぶや)との商売にトモ造は少し不安を感じた。
「では後日、案内するから親方も承知しておいて下さい」「へい、よろしう頼みやす」修作は草鞋も解かず、茶も飲まずに帰って行った。
何よりも子供ができたことを母に伝言するのを忘れていた。

しばらくたって修作がトモ造よりもやや年配の手代をつれてきた。
江戸の商人は先ず紹介を受けてから相手の顔色を見て用件を切り出すが、この大阪商人は仕事場に入ってくるなり「毎度ォ。儲かってまっかァ」と声をかけた。
「へッ?」「何ッ?」トモ造と修作は呆気にとられて顔を見合わせる。
「何を驚いてまんねん。これは挨拶でんがなァ」手代は2人の様子に呆れながら説明した。
「うむ、江戸ではもう少し遠慮がちに話すでの。ソチのようにいきなり・・・」「そうでっかァ、そんなんで商売になりまっか?」手代は修作の話の途中で言葉を挟んだ。江戸の武士であれば「無礼者」と怒るところだが、ほかならぬ修作は自分を「足軽同心」と謙遜しているくらいなので気にしていないようだ。
天領地である大阪は城代が頂点で、上に立つ役人もほとんどが一時期の在勤のため、武士の力は江戸ほど強くなく、経済動向に疎いだけに「年貢だけを納めればいい」状態なのだ。
「ところでお前さん、俺のことを知ってるって?」トモ造が声をかけると渋屋の手代は屈託のない笑顔を向ける。
「それでんがなァ。ウチの店は大阪から津軽、松前(北海道)へ北前船を出してますんや」北前船とは大阪から関門海峡を通って日本海側を北上し、港港で交易しながら津軽、松前の物産を仕入れ、また交易しながら帰る貨物船である。大阪の大店(おおだな)にはこれで財をなした者が多い(がトモ造は知らない)。
「それで津軽の港でえらい調子のエエ車を使ってる店があるから訊いたら江戸から来た職人が作ったと言いよりますねん」「ふーん、その店は・・・」「弘前の木村屋さんでっせ」手代の返事にトモ造の胸に広三郎の顔が浮かんだ。
それからしばらく木村屋との取引に関する雑談が続いたが、手代自身は船乗りでないためほとんどが伝聞情報で、トモ造の方が補足説明することが多かった。

そこへケイが茶を入れてきて修作は黙って会釈、手代は「おおきに」と挨拶した。
「おう、こちらさんは木村屋さんの引き合わせでウチを知ったんだってよ」「木村屋さんって広三郎さんのことだべ」「あそこの若旦さんに『ウチが江戸に店を出す』って言ったら、『その職人は江戸へ帰ったから贔屓にしやってくれ』って言いはったんやて」これにも手代は口をはさむ、それは江戸の下町弁とはまた違った独特の軽快な喋りであったが、この大阪商人との商談は口下手のトモ造には大変そうだった。
「そうかァ、有り難いこった」それでも情にもろいトモ造は鼻をすすった。

修作が先に帰ってからトモ造は手代と仕事の打ち合わせをした。
手代の話では大きな荷物用の大八車を3台と配達用の小さな車を数台注文するとのことだが、納期は店構えが完成して開店するまでにと言うことだった。
ここに広三郎がいれば材料をたちどころに手配して、トモ造は腕を揮うだけだろう。トモ造は店を構えることの大変さを噛み締めた。
「頼みまっせ、タイショウ」「タイショウ?」帰り際、手代はトモ造をそう呼んだが、江戸では大工なら棟梁、習いごとの師範や芸人なら師匠、火消しなら頭、商人なら主、それ以外は親方が一般的だ。そこで「タイショウ」と言うのがどんな字を書くのかを訊ねてみた。
「そりゃあ、オンタイショウ(御大将)、ソウダイショウ(総大将)のタイショウでんがなァ。そないことも判りまへんか?」手代は呆れた顔をする。
「大将かァ、そりゃいいな。ヨシッ、これから俺のことは大将と呼んでもらおう」トモ造は講談で聞く合戦物の話が好きで、大将と呼ばれると自分が戦国武将になったような気がして嬉しかった。

ある日、トモ造はマイを連れて荒川の渡し場に行くとマイが船頭に駆け寄った。
「小父ちゃん、どひゃあ」「おう、マイちゃんかァ。今日はガキどもはいねェぞ」船頭はマイのことを知っているようで優しく微笑むと頭を撫でた。そこにトモ造が到着するとマイは後ろに隠れた。
「これは娘が世話になってやす」「いえね、ウチのガキどもの遊び相手になってもらってんでさ」トモ造が船頭に挨拶すると、船頭は意外に丁寧な言葉遣いで挨拶を返した。
その時、マイがいつもの「でんでらりゅーば」を唄い始め、「おう、マイちゃんも覚えたとね」と船頭はもう一度頭を撫でた。
「ひょっとしてお前さんが・・・」トモ造はそう言いかけたが自己紹介がまだ済んでいないことに気がついた。
「アッシはマイの親父でトモ造と言いやす。車職人でござんす」「俺は船頭のケイ次ばい」船頭はそう言うと丁寧に頭を下げた。
「ケイ次さんは西国の出で?」「へい、長崎は島原たい」トモ造がもう一度、見直すとケイ次の身体はたくましく、少し異国的な顔立ちをしている。
「島原ですかい」「て言っても島原の乱で追われた切支丹じゃあなかよ」ケイ次は何も言わぬのに先に説明した。切支丹が禁教されていたこの時代、疑いをかけられる前に言っておくのも処世術なのだろう。
「去年の雲仙普賢岳の噴火の後、眉山の山津波で海もやられちしまって漁師では食っていけねえから出てきたんだが、船頭の方が間違いねェって言われたとよ」寛政四年に島原の雲仙普賢岳が噴火し、その後、眉山と言う普賢岳に連らなる山が崩落して土石流が海まで達して大きな被害が出た。このため農民だけでなく漁師も食うに困って土地を離れたらしい。その意味でも松平定信の「人返し令」は江戸の都合だけの独善的な政策と言えた。
「でんでらりゅーば 出てくるばってん 出んでられーけん 出て来んけん」「来んころれんけん 来られられんけん 来ーんこん」「それにしてもマイちゃん、頭がよか」ケイ次は隣りでまだ唄っているマイの顔を優しい目で見ながらつぶやいた。
「こん歌(この歌)は長崎のワラベ歌ばってん、江戸の子には中々覚えられんたい」ケイ次の誉め言葉を聞いてトモ造は歌詞の意味を訊いてみた。
「オイは江戸言葉がまだよく判らんけん、上手く言えんたい」と言いながらケイジがした説明では、「出て行けるなら 出て行きますが 出ようとしても出られないから 出て行きませんから」「行こうとしても行けないから 行くことができないから 行かない行かない」と言う意味らしい。
「マイは日頃、ケイの津軽弁で鍛えられているから九州弁も何とかなるのだろう」とトモ造は納得した。勿論、ケイには内緒だが。

ケイの産み月が近づいて母が帰ってきた。
ケイとマイは久しぶりに母に会うことでハシャギ気味だったが、風呂敷を抱えて入ってきた母を見て固まった。
母は1年足らず修作の家にいただけだが妙に武家の作法が身について動作にも気品が漂っている。言葉遣いも江戸山の手の武家式でケイよりも垢抜けていた。
母は品よく上がり端に腰を下すと、品よく草鞋の紐を解いている。
「おカア」「・・・」ケイが呼んでも母は返事をしなかった。
「おッカァ」「えッ?」ようやく母は気がついて返事をした
「どうしただよ」「いえね、あちらでは母上って呼ばれてるから」「母上?」「ええ、私もはじめは遠慮したんだけど、修作様がそう呼ばせてくれって言われるから・・・」ケイとトモ造は顔を見合わせて驚きながら呆れた。
おまけに母は「修作の母の形見をもらった」と言ってテンジンが妻に仕立てた武家の着物を着ている。このまま帯に懐剣を差せばどう見ても武家の妻女であろう。
「この格好じゃあ、家のことはできぬから着替えさせてもらうぞよ」母はそう言って家に上がると呆れているトモ造とケイ、マイを土間に残して自分の部屋に入っていった。
「母上かァ、オイらも言ったことがねェな」「だべ、オラもねェだよ」「祖母ちゃん、どうしたとね?」武家言葉の母、下町江戸っ子のトモ造、津軽訛りのケイ、何故か九州弁のマイ、車智の会話は不思議なことになっていた。

ある日、船頭のケイ次が車智にやってきた。トモ造は仕事中だった。
「親方」「大将って呼んでくんねェ」戸を開けて作業土間に入ってきたケイ次を見上げながらトモ造は返事をした。
「大将?」「おう、ウチではそうすることにしたんでェ」2人は顔見知りなので会話にも遠慮がない。その時、ケイは大きな腹を抱えて針仕事でオムツを縫い、母はマイを連れて畑に行っていた。
「それじゃあ大将。実はコイツを使ってもらえないかと思って・・・」そう言ってケイ次は振り返り、外から若者を呼んだ。土間に入ってきた若者は一見して真面目そうな上、男前だった。
「コイツはオイ(俺)と同じ九州の出で、マサ弥と言いますたい」ケイ次に紹介されたマサ弥は礼儀正しく頭を下げた。
「コイツも山津波でやられて江戸へ出てきたばってん、元は船大工だども江戸で車作りば学び直したいって言いよるとです」「それは丁度いい、上方(関西)の店から頼まれた仕事がたまってるんで助かりますワ」「上方?やはり大将ってのは上方の呼び方たいね」「へーッ、ケイ次さんは上方を知っとるんかい」「江戸に来るには上方を通りますばい」ケイ次はそう言うと隣りのマサ弥の顔を見てうなづき合った。
ただ、母がいてケイが出産間近となるとマサ弥の部屋がない。それを悩んでいるとマサ弥の方から「空き家を探します」と言った。どうやら広三郎並みに頭の回転が早そうだ。

母が車智に戻っている間、修作は与力から特命を受けていた。それは津軽藩からの脱藩者の捜索依頼だった。
「秋沢篤之丞。痩せ形。色白。女好き。武芸の心得なし・・・何でございますかこれは?」似顔絵と一緒に書かれている特徴に修作は呆れて訊いた。
津軽藩も小心者の秋沢が知り合いもいない国元に向かうことや公儀(幕府)に訴え出ることはないと判断して、単なる脱藩者として手配することにしたのだ。
「武家のことはその方も詳しかろう。気がつけばワシを通じて津軽藩に知らせよ」与力は武家と言っても下級であり、修作の父・テンジンの方が上位に当る。
そのため武家に関する捜査は修作に命じられることが多いのだが、そこは上司としての面子がありこのようなモノ言いになる。しかし、脱藩者の秋沢が武家屋敷に出入りしているとは思えないが、若き苦労人の修作は上司の顔を立ててそれは言わなかった。
「女好きなら吉原あたりに潜んでいるか・・・しかし、性分(性格)が悪そうだしな」修作はもう一度、手配の似顔絵を見たが、細い目に薄い唇がいかにも陰険そうだ。
そう考えながら「(ケイの)母不在の間に吉原へ行っておこう」と思いつき、修作は口元をほころばせながら手配書を懐に仕舞った。

町同心の給金は安いが取り締まり上の便宜を図るため対象者からの付け届け(賄賂と言うよりも手数料)があり、管理職の町与力よりは裕福だった。尤も「岡っ引き」と言われる手下を雇ったりするため贅沢ができるほどではない。
また、それは商家・町人を相手にする場合で武家屋敷の防犯を担当している修作は岡っ引きを雇う必要はないものの付け届けもなく、吉原へ行くのも若い頃のトモ造と大差はなかった。
かと言って町同心である修作は取り締まりの対象である夜鷹(よだか)などの私娼(非公認売春婦)を買うことはできないのだ。
修作は元服の後、父から「(吉原に)行ってこい」と金子(きんす)を手渡され筆下ろしをした。つまり公私、身心ともに「大人になれ」と言うことのようだった。
その時は大門前の店で花魁を相手にしたが、同心になってからは街外れの安女郎屋になっている。しかし、修作は野暮と言われようと見世始め(開店)の客になるのが好きだ。
吉原では「お直し」と言って客が帰ると花魁は切見世(きりみせ)と言う土間を入れても2畳ほどの狭い場所に駆け込み、そこで秘部の洗浄や化粧直し、着物の着付けなどを慌ただしく行い、張見世に出なければならない(前戯を省略するための潤滑剤もあった)。
町同心になってそれを知ってからは2番手になるのが嫌なのだ。

ケイが男の子を産んで「ショウ大」と名づけた。
それは「大将」を逆さまにして「将大」にしたのだが、ショウタイではオカシイのでショウタと呼ぶことにしたと言う訳だ。
跡取りができてトモ造の実家も大喜びで、両親は荒川を渡って車智までやってきた。
トモ造とマサ弥が大阪の店「渋屋」の車を作っていると外で「マイ」と呼び、「祖父さんだぞ」「祖母ちゃんだよ」と言いながら抱き上げた様子が伝わってくる。
さすがにトモ造もこの時期は金槌を使う仕事は控えていて、作業場の土間の隅で鋸や鉋を使っての材料作りに励んでいた。
やがて母が「車智」と書いた障子を開けてマイを抱いた父が入ってきた。
「おう、トモ、でかしたな」父はマイを抱きながら嬉しそうに声を掛ける。
「へい、おかげさんでケイもショウ大も元気でやんす」「ショウタ?それが子の名前かァ」トモ造の返事に両親は顔を見合わせた。そう言った父の横で母が壁に張った命名の紙を見つけ指差した。
「おう、トモの野郎も字が上手くなったな」「どこかの御隠居に書いてもらったんだろ」母の指摘は正解だった。これは大阪の渋屋の手代に書いてもらったのだ。
「将大・・・太の字の点が抜けてるじゃねェか」「抜けてんのはお前さんに似たんだよ」「てやんでェ、オメェに似たんだよ。このヌケカス女房」「なにさ、この抜けマラ亭主。アンタがあの日、酒さえ飲んでこなきゃ・・・」両親がいつもの調子で言い合っている時、マサ弥がトモ造に声をかけた。
「大将、これはどうしましょう」その声に父と母がマサ弥の顔を見た。
「おりゃ、若い衆を雇ったのか」「こりゃあ、好い男だねェ」母の台詞に父が「馬鹿野郎」と言ったところでトモ造とマサ弥は立ち上がった。
「コイツは今度、ウチで働くことになったマサ弥でェ。マサ弥、これは俺っちの親父とお袋だ」「お初にお目にば掛かります。よろしく頼んますたい」トモ造の紹介にマサ弥は丁寧に挨拶をしたが末尾がやはり九州弁だった。
それを聞いてマイが父の腕で「でんでらりゅーば」を唄い始めた。

そこにケイの母が襖を開けて顔を出した。
「これは御両親様、お久しゅうございます」母はその場に正座すると丁寧に両手ついた。
「へッ?」両親とも今度は呆気にとられて顔を見合わせる。
「トモ、この家はどうなってるんでェ。マイは訳の分からねェ歌を唄うわ、オッカさんはお武家の奥方みてェになってるし・・」「まったくだよ。アタシャア口もきけないよ」「きているじゃねェか」「いつもほど口が回らないんだよ」「変わってねェぜ」両親が口々に言い合っていると、奥でショウ大が泣き始めた。
「おう、赤ん坊だけはマトモだ」「よかった、よかった」「オギャーオギャー」と言う泣き声を聞きながら両親は草鞋を解き、足も洗わずに部屋に上がり、ケイの胸で乳をもらっているショウ大と対面した。父は照れたような顔で少し顔を背けたが、母は逆に覗き込んだ。
「よく飲むのかえ」「んだ、マイよりもたんと飲むんでやっぱり男の子は違うんだべか?」「そうでもないけど、元気な証拠さねェ」そう言うと母は赤子にしては黒々としている将タの髪を撫でた。その会話を聞いてようやく父もショウ大の顔を覗いた。
「赤けェなァ。顔が真っ赤だぜ」「赤いから赤ん坊って言うだろう」「違げェねェ」生れて1週間のショウ大は、まだ周囲の環境にはあまり反応せず懸命に乳を飲んでいる。
「乳の出が悪ければ乳母を探さねばなんないけど、おケイさんは好い乳をしてるから大丈夫だね」「乳母がいなけりゃ、山羊の乳でも好いたァ言うが・・・」確かに山羊の乳は母乳に近いとは言うが、それは新生児には無理な話だろう。
両親は乳を飲みながら眠り始めたショウ大に気を使い、黙って顔を覗き込んだ。

「ショウ大が落ち着くまで」と相変わらず木材の加工をしているとマサ弥が言ってきた。
「大将、どうもオイ(俺)の国と江戸では材が違うようですたい」「そうけェ?」トモ造が鉋の手を止めて振り返るとマサ弥は切った丸太の年輪を眺めている。
トモ造も津軽に行った時、同じことを感じてはいたが、材料の加工は広三郎が請け負っていたので、それほど問題ではなかった。
「津軽ではオンコって言う木があってな、こっちじゃあ神さん(神社)のご神木でェ」「オンコ」とはいわゆる「イチイ」のことで、イチイは朝廷から「一位」と言う位階を賜ったからその名があるようにご神木の定番である。
「木が違うと言うよりも、目の詰まり方が違うとです」九州と関東の低地は植生分布としては同じ常緑広葉樹林帯(ヤブツバキなど)に属するが、関東でも山地になると東北の低地と同じ夏緑広葉樹林帯(ブナなど)になる。
また現在の日本の山林は明治以降、農林省の指導で植生に関係なく全国一律に杉や檜などを植えたが、この時代は各藩ごとの施策なので入手可能な地元の苗が用いられて現在ほど一律ではなかっただろう。
「ふーん、どっちが使いやすいんでェ」「軸や枠にするにゃあ、こっちの堅い方がよかばってん、板にするのはアチラの柔らかい方が楽ですたい」マサ弥は船大工だけに木を反らして成形する技は車職人以上のモノがあり、車輪作りはトモ造の方が学ぶ点も多いのだ。
「そうけェ、それにしてもこの家も喋りだけじゃなくて色々な国のことが判るってのはいいな」トモ造も家の中に全国が入り混じっていることを楽しむようになっている。
「ばってん、オイは国が落ち着いたら帰るつもりですけん、それまでに車造りを仕込んでもらいたかです」マサ弥の意外な告白にトモ造の頭はまた混乱してしまった。

母が修作の家に帰った頃から車智ではマイの時と同じく「トントン・オギャー」「カンカン・オギャー」「トントンカンカン・ウギャー」の職人教育が始まった。
ただ、トモ造としては跡取りのショウ大だけに反応するのが嬉しく、金槌を振るうにもついついテンポを取ってしまう。
そんなことをやっているうちに渋屋(しぶや)の江戸の店が完成し、大阪からの廻船が品川に着くまでに車を納めることになった。
しかし、配達用の5台は大八車に載せるにしてもこの3台を運ぶには人手が足りない。
「困ったなァ。オメェと俺っちじゃあ二度手間でェ」品川の海沿いの通りにある渋屋まで一度行って、残りの1台を取りに戻っては半日仕事になってしまう。納品(仕事)は一度で済ませるのが江戸の職人の見栄でもあった。
「そうだ。ケイ次さんに頼めばよかばい」「て言ってもケイ次さんは船頭だぜ」「島原の漁師は獲れた魚を車に積んで温泉街に売りにでるけん、車を引くのは得意たい」トモ造はマサ弥の説明でケイ次が船頭の前は漁師だったことを思い出した。
「そうかァ。そりゃいい。早速、頼みに行くとしよう」母が帰ってからマイもまたケイ次の子供たちと遊ぶようになっている。今日も行っているのだろう。

トモ造がケイ次の所に出掛けた時、1人の怪しい男が車智に忍び込んだ。先ほど法被を羽織った主人と若い男が出ていったことは軒の影から見ていた。
男は汚れきった着物だが袴をはき、刀を差しているところを見ると侍のようだ。頭にはこれも汚れた手拭いを巻いて顔と伸びた月代(さかやき)を隠している。
「よし、亭主は出かけたな・・・」そう言うと男は障子を少し開けて中の様子を確認した。家の外から赤子の泣き声と母親のあやす声が聞えていたから作業場には出てこないだろう。男の目的は先ずは空腹を満たし、金を奪うこと。赤子を産んだばかりの女では残念だがソチラの目的は諦めるしかない。
男は土間に人気がないことを確認すると刀を抜いて左手で障子を開けた。
「誰でェ!」その時、男の背後から若い男が声をかけた。慌てて振り返ると背が高く逞しい若い男=マサ弥が片手に棒切れを持って立っている。
「お前は亭主と一緒に出掛けたんじゃ・・・」「オイは車を見に行っただけばい」男は焦りながら両手で刀を構え、マサ弥に斬りかかろうとした。
しかし、それよりも早くマサ弥は目にも止まらぬ足さばきで間合いを詰め、棒切れで小手を打ち、男は刀を落とした。
「うりゃーあ」続いてマサ弥は面を打ち、男はその場に尻餅をついた。そして、刀に伸ばす男の手を踏み、棒切れを喉元に突きつけた。
「斬りかかってきたところを見ると押し込みたいね。オイには敵わんけん観念しんしゃい」マサ弥はそう言って男の刀を取り上げると、それを喉元に突きつけて家の中に引き込んだ。

「オイの国では職人と言えども剣術をたしなむけん、そこらの侍には負けやせん」マサ弥は幼い頃から棒切れを振り回す合戦ごっこが好きで、成長してからは町道場に通って剣の腕を磨き、神社の祭礼などの懸賞試合などでは不敗だった。
さらに言えば現在のような防具は幕末の剣豪・千葉周作の北辰一刀流道場が始めで、試合稽古は竹を割って細長い袋に入れた袋竹刀が一般的だった。
「それにしても汚なか侍たい、食い詰めて押し込みとは情けなか・・・」そう言って男が被っている手拭いを取り顔を晒した。
普通、侍であればこの恥辱は耐え難く顔を背けたりするものだが、この男は黙ってうなだれた。そこに外のただならぬ様子を心配してケイが出てきていた。
「マサ弥、何事ねェ」「コイツが押し込みしよったとです」「押し込み(強盗)」と聞いてケイは一歩後ずさったが、男の顔を見て驚きの声を上げた。
「ありゃあ、秋沢様でねェけ」同時に男=秋沢も「ゲッ」と唸った。
「お上さんの知り合いとね」「昔、勤めていた江戸屋敷のお侍さんだァ」ケイは一瞬、懐かしいと思い掛けたが、落ちぶれ果てた秋沢の姿を厳しい目で睨んだ。
「ばってん、今は押し込みたい。お役人に渡すしかなか」「だなァ」結局、秋沢は紐で縛り上げられてトモ造とも再会し、そのままマサ弥の通報でやってきた修作に引き渡された。
その時、ケイから身元は全て伝えられ、修作は取り調べの手間をかけずに済んだ。

秋沢篤之丞・捕縛の報は江戸藩邸の正式の公文書と松木から河合への内密の報告の2便が送られた。猪走(いばしり)のカツは尾野のタツのように走るのが早い訳ではないので、江戸藩邸の飛脚と抜き抜かれを繰り返しながら津軽へ着いた。
その間、秋沢は脱藩者として下屋敷の牢小屋に入れられていたが、報告を受けた国元は「高野の使い走りに過ぎず津軽まで呼ぶ必要はない」と判断し斬首を命じてきた。
この時代、形式上とは言え侍が切腹を許されないことは大変な恥辱であり、それだけ藩主の怒りは深いと言うことだが、度胸のない秋沢には余計な作法がない方が幸いだったかも知れない。

ある日、修作が顔を引きつらせて帰ってきた。
「あれ、御主人様、どうされました?」「・・・」母は足を洗う水をはったタライを抱えているのだが、修作は刀を帯から外そうともしない。
後ろに立つ母からは修作の背が震えているのが分かる。しばらくそのまま時間が過ぎた。
「先ずはお上がりを・・・」「うむ・・・」母に促されて修作はようやく刀を外し、板の間に腰を下して草鞋の紐を解いた。
草鞋を脱いだ足を母が洗い始めると修作は重い口調で話し始めた。
「実は今日、父の仇(かたき)に会うたのじゃ・・・」「仇?」テンジンは食を絶っての自死と聞いている。ならば仇と言うのはおかしな話だった。
「父上が番頭(ばんがしら)だった頃、作法を弁えぬ若い旗本を叱ったところ、それを怨んで親に嘘の報告をして、その親が幕閣にアレコレと誹謗中傷したのじゃ」「誹謗中傷?」「悪口のことです」言葉遣いはマスターした母だったが、単語理解はまだ不十分だった。
「ワシの母が吉原からの足抜けだと言うことも何処からか調べ出して城中で噂を広げ、父上はそれもあって嫌気がさしたのじゃろう」母はうなづきながら足を洗っている。
「今日、佃島の人足寄せ場に行ったところアヤツがおって、相変わらず顎で人を使っているのを見た・・・」母が顔を上げると修作は唇を噛み締めていた。
「斬ろうかとも思ったが私憤に駆られての刃傷沙汰ではお咎めがある。母上にも迷惑がかかろう」その時、母の首筋に熱いモノがかかり、見上げると修作は涙をこぼしていた。
「御主人様・・・」「すまぬがしばらく下を向いていてくれ。武士(もののふ)が涙を人に見せる訳にはいかぬゆえ・・・」母はうなづいて足を洗い続けた。母の手には修作の足が震えていることが判った。
「私の夫が直訴の罪で磔になったことは申したと思います」「うむ・・・」「でもテンジン様は、『死なば佛、罪は生きている間のことじゃ』と仰って弔いをして下さいました」「父が・・・」修作が深く息を呑んだ音が聞えた。
「ですからその仇が犯した罪もテンジン様が生きておられる間のことなのではございませんか。そして何もされずに亡くなられたのなら・・・」ここで修作は「東俊助め、命冥加な」と言って刀を掴むと裸足のまま障子を開けて外へ飛び出し、すぐに外からは空気を斬る鋭い音と修作の無言の気合が聞えだした。その間、母は台所へ行って水瓶から水を汲み、タライの水をかえた。

やがて修作が肩で息をしながら土間に戻ってきて先ほどと同じように腰を下し、母はもう一度、足を洗い始める。足は先程よりも熱かった。
やがて修作は「面(おもて)を」と言い母は顔を上げた。そして修作は下に手を伸ばすとタライの中から母の手を取った。
「御主人様・・・」「うむ、亡き母上から説教を受けているような心持ちじゃった」「母上様の?」「ワシの幼い頃に亡くなった故、顔も覚えてはおらぬがの」現代なら遺影やアルバムの写真で面影を辿ることもできるが、この時代では似顔絵くらいしかそれをする術はない。テンジンは修作が幼い頃に妻のキヨを失って、しばらくは父子で城番の長屋に住んでいたが、上司の仲介(命令)で実家に帰ることになり、妻との思い出の品は全て処分させられたのだ。母がもらったキヨの着物は番頭の手荷物として城に残しておいた物だった。
その後も縁談の話は何度もあったがテンジンは拒み続け、修作が元服してすぐに隠居、出家して旅に出てしまった。その意味では修作の親との縁も濃いとは言えないだろう。
「母上がもう少し若ければワシの嫁にもらうんじゃがの。ワシも年上は5歳までじゃ」「また、おたわむれを。嫌ですよ」修作の惚けた台詞に母は愉快そうに笑い、先ほどまでの張り詰めた空気が明るく軽くほぐれたようだった。

松平定信の寛政の改革も江戸では着実に徹底されていたが、重箱の隅までほじくり返すような取り締まりや武士への偏狭な理想を押し付けなどに嫌気がさした者による落首騒動が世間を騒がしていた。
ある日、このような落首が貼りだされていた。
「孫の手が 痒い所に 届きかね 足の裏まで かきさがすなり」これは「孫の手で背中をかこうと思っているのに足の裏をかかれているようだ」と改革が的外れであることを揶揄したものだが、この時代、政治批判は御法度であり、場合によっては斬首もある重罪である。
それは大名であっても同様で、尾張藩主・徳川宗春は「暴れん坊将軍」吉宗の享保の改革の質素倹約令に反対して自領の名古屋で遊興三昧の生活を送ったことを咎められ隠居謹慎し、死後は墓石に金網を掛けられ縛られるほどの仕打ちを受けた。
またこのような落首もあった。
「白河の 清き流れに 魚すまず 濁れる田沼 今は恋しき」こちらは松平定信が白河藩主であることに掛けて、その理想主義を息苦しく感じ、ほとんど禁制は出されず自由を満喫できた田沼意次の治世を懐かしむ庶民の声であろう。
そして問題になったのが、この一首であった。
「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといひて 夜も寝られず」松平定信は「文武二道の修錬」を幕臣だけでなく各藩にも徹底するよう達していたが、問題はこの歌が、庶民ではなく武士の作だと言うことだった。
この頃には定信失脚後に花開いた化政文化の萌芽を感じさせる庶民の教養の高まりがあり、前の2作なら誰の作とも言えないが、「文武二道」への批判となれば武士以外には考えられない。つまり幕政に対する批判を直参がしたことになる。
その疑惑の目を向けられたのが御家人・大田直次郎であった。
大田直次郎は70俵5人扶持(ぶち)と言う貧乏御家人の家に生まれたが、幼い頃から秀才であったもののそれ以上にギャグの才に秀いで、田沼意次の庶民も自由を謳歌できた時代に平賀源内に出会って、序文まで書いてもらい「毛唐珍奮翰(もうとうちんぷんかん)」のペンネームで「寝惚先生文集(ねぼけせんせいぶんしゅう)」を出版するや大ベストセラーになり、たちまち狂歌師の第一人者になったのである。
この落首もあまりに出来が秀逸で素人の作とは思えず、武家の狂歌師として疑われたのも無理からぬ話ではあった。

その捜査に町方からは修作が選ばれ、上役の与力に呼び出された。
奉行所の廊下に手をついて頭を下げていると与力は立ち上がって1枚の紙片を渡した。修作が身を起こさぬようにそれを見ると落首の狂歌が3つ書いてある。
「守野、このような公儀の御政道を誹謗する落首騒ぎは許されぬ。その役目にそちを任じた」「ははッ」修作は紙を脇に置いて再び頭を下げた。
「その3首目の落首は武家の作の疑いがある。武家はお目付様、それ以外はそちが担当して探索に当たるのじゃ」「武家でございますか?」修作が下を向いたまま訊くとそれで気を緩めたのか与力は顔で笑いながら説明を始めた。
「ぶんぶとは武家に対する文武両道に励めとの仰せの皮肉であろう」「それにしても好くできておる」「当にカほどウルサキ者はござらぬ。ククク・・・」同室の世力たちが小声で言い合っているのも聞こえたが、修作は顔を上げなかった。
「お目付様に粗相のなきよう心して勤めよ」「ははッ」「下がれ」こうして修作は不可思議な仕事を担当することになった。
しかし、落首は人目を避けて板塀などに紙を貼ることが一般的で白壁に筆で黒々と書く方が度胸があると持て囃されるが今回は紙である。
そこで修作は噂になっている大田直次郎の狂歌の本を探してみたが、寛政の改革の取り締まりで書店に滑稽本の類は置くことが許されず手に入らなかった。
貸本、古本屋を回っても同様で、落首にあった「白河の 清き流れに 魚すまず」に納得してしまい慌てて首を振った。
考えてみれば修作はガチガチの堅物の祖父の教えを受け、母の出が悪いことを恥じる祖母に細かく躾されてきたのだから、この程度は当り前のことなのだ。
仕方ないので修作は、つき合いがある商家の隠居に尋ねてみた。

隠居座敷に通された修作は茶を勧める隠居に「大田直次郎の狂歌集を見せてもらいたい」と申し入れた。しかし、流石に隠居は流石に困惑している。
親しくしているとは言え相手は役人である。中には油断させて御禁制品所持で縄をかける悪どい役人もいない訳ではないのだ。
しかし、若い割に真っ正直な修作の人柄を知っている隠居は微笑んでうなづいた。
「お役人様と一緒ならお叱りを受けることもありますまい」そう言って店主は押入れの奥から狂歌集の本を取り出してきて見せてくれた。
商家の座敷で修作は隠居と向い合って狂歌集を読み、手ほどきを受けた。
大田直次郎は「安本丹親玉(あんぽんたんおやだま)」「藤偏木安傑(とうへんぼくあんけつ)」「四方赤良(よものあから)」などの筆名(ペンネーム)で狂歌や洒落本を書いていた。「世の中に 酒と女は 仇なり どうぞ仇に めぐりあいたい」や「早わらび にぎりこぶしを ふりあげて 山の横面 はる風ぞふく(はるを春と張り倒すにかけている)」などの現代でも落語のマクラに使われている狂歌も直次郎のものであった。
「どうです。面白うござんしょ」「うむ、これのナニが悪いのかのォ」修作は思わず本音を答えてしまい、隠居も我が意を得たりと微笑んでうなづいた。

その足で修作は奉行所の与力から聞いた小人目付(下級武士担当)の元を訪ねた。
目付は若年寄直轄の千石取り格の上級武士であるため江戸城内本丸、西の丸にあるが町同心が訪ねることはできず、幼い頃に住んでいた旗本屋敷の私邸を訪ねた。
修作は小人目付の家の門前で下男に要件を告げ、奉行所から受け取った任務の書状と名詞(手書き)を出して小人目付への取り次ぎを依頼する。
そうして修作は足軽として廊下に通され、そこで床に手をついて待った。
「北町の同心が・・・?」「はっ、落首の件で伺いたき儀があるとか」閉めた障子の向こうで確認をする声が聞こえ、間もなく障子が開けられ修作は額を床板につけた。
「北町の守野修作と申すはそちか?」目付では直接話すことはできないが、その配下の小人目付であれば許される。その辺りの作法は修作もよくわきまえていた。
ただ、考えてみれば小人目付は父の、そして自分が継ぐはずだった番頭とは同格である。
「ははッ、左様でございます」修作が床を見たまま答えると小人目付が偉そうに答えた。
「苦しゅうない、面を上げい」「ははッ」と言われてもすぐに上げてはならない。相手の身分によって回数は異なるが、何度か促されてようやく上げるのが作法だ。
修作は顔を上げたが、それでも相手の顔を見ながら話すことは許されない。
一瞬見た小人与力は町同心の修作が上級武家の作法に馴れていることに意外そうな顔していている。そのまま差し障りがない業務の確認を行った後、小人目付は言った。
「うむ、用件は判った。されど街角への落首は町奉行所の担当であろう」「ははッ」「当方は直参に左様な不心得者がおらぬかを確かめるだけじゃ」「ははッ」「したがって直参が関わっているとの話があれば知らせればよい」「御意ッ」修作は大田直次郎のことを訊きたかったが御家人のことは目付の役どころであり、それに立ち入ることが許されないこともよく判っていた。
要件が終ったのを見計らって部屋の中に控えていた誰かが障子を閉め、修作は屋敷を後にした。

それでも修作は大田直次郎の身の上を当たってみた。と言っても落首は人がいないのを見計らって貼り出すため目撃者はなく、さらに人通りが多い街角であるため足跡などの証拠もなく捜査の仕様がないのだ。
大田直次郎は身分的には御家人であり修作たち町同心よりはやや上だが、今風に言えば就職していない予備自衛官のようなもので、収入は仕事がある町同心にははるかに及ばない。したがって直次郎の父は「起きていれば腹が減るから」と「早寝遅起き」を家訓していたと言う。直次郎の世を茶化した風情はそんな家で養われたのかも知れない。
それでも直次郎は幼い頃から文才を発揮し、平賀源内に見いだされて世に出たのは前述の通りであった。
修作は自分の父も何事にもこだわらない人物だったのに祖父母から型にはめ込まれたのだと思い無性に残念になり、自由に才能を発揮している大田直次郎が羨ましくなった。
それから修作は奉行所で、押収品の滑稽本や洒落本、狂歌集などを「証拠調べ」と称して読みふけるようになった。
結局、この一件はウヤムヤのまま沙汰やみになったが、大田直次郎は要注意人物にされてしまい(証拠がないのであくまでも要注意)、本人は汚名をそそぐべく松平定信が中国の科挙に倣って行った登用試験に挑み、トップ合格して勘定方・100俵取りになったものの数年後には大坂へ左遷されてしまい、そこで「蜀山人」と言う号を名乗るようになる。

津軽藩には関ヶ原参陣の軍功により上野(こうずけ=現・群馬県)国の勢多郡に2千石を与えられ、それを合わせて4万7千石だった。したがって江戸藩邸はこの飛び領地を管理する任も担っている。
その年の秋、下屋敷勤めの松木直之進に検見(けんみ)の役が命じられた。この仕事は河合から津軽で仕込まれていて、それを受けての選任だった。
検見とは領国内の農村を回り、その年の収穫を推定し、年貢を決定する資料を提供する重責である。また年貢を逃れようする接待や賄賂を受け取る役人もあり、人選には生真面目さも重要な要素であった。
一方、今年の検見の役が若い松木に決まったことを聞いた勢多の代官・藤原誠太夫は庄屋たちと、その籠絡の策を相談していた。
「松木殿は随分と若いらしいが、河合様のお声がかりで江戸藩邸に遣わされたやり手らしいぞ」「しかし、お若いなら年寄りの手に掛かれば取り込むのも容易いことだっぺ」「そうそう、器量よしの娘でも夜伽(よとぎ)の相手にお付けすれば、あとは夢枕で思いのままでだべ」この庄屋の言葉に代官も好色そうに笑った。
「それで松木様のお好みは?」「それが藩邸でも浮いた噂もなくてな・・・何でも津軽に許嫁(いいなづけ)がいたのを今回の江戸勤めで破談にしてきたらしい」代官が仕入れている情報に庄屋たちは顔を見合わせた。
「それでは同じ年頃の娘なら、その許嫁を思い出して」「そうそう激しく熱く」ここでまた代官と庄屋たちは好色そうに笑い合った。
「いかに謹厳実直なお方でも男の性(さが)と言う奴は何ともし難いからのォ」「それでどこの娘を?」「年貢が納められそうもない百姓の娘で、器量よしに磨きをかけて」「作法を仕込んで綺麗な着物でも着せれば」「その前に味見を、クックック・・・」話が決まって長老の庄屋が代官に酒を注いで、宴席は好色談議になっていった。

検見のため松木直之進が従者を連れて上野国勢多郡を訪れたのは田の稲が黄金に色づき掛け、頭(こうべ)を垂れ始めた候だった。これは収穫後では米を隠すこともあり、早過ぎれば正確な判断ができないからだ。
先ず代官所に赴いた松木は代官・藤原誠太夫の接遇を受けた。
「松木殿は河合様のお声がかりとだか」「はい、国元では色々と教えを受けました」「では検見の役も?」「はい、飢饉後の収穫には先代様も心を砕いておられましたから」当りさわりのない会話の中で腹を探るのがこの時代の武士の戦である。
「しかし、貴殿はお若いから江戸での1人住まいは色々と御不自由でしょうな」「いいえ、拙者は家事は気にならぬ方なので炊事洗濯は女房いらずでござる」「しかし、ナニの方はそうはいきますまい」こう言って藤原は松木の表情を確かめるように顔を覗き込んだ。
「それはそれとして江戸には吉原と言うところもありますから大丈夫でござる」藤原はそれを聞いて今夜、夜伽をさせる娘を想い浮かべた。
恐妻家の藤原は味身をしなかったが、中々の美人であり自信があった。

松木が検見に回ると天明の飢饉の切っ掛けになった浅間山の噴火の傷からの快復が進み豊かな実りであった。江戸藩邸で消費する米はこの地での収穫であるが、今年は参勤がないので江戸で売り運営費にもされる。
松木は田の面積と稲の密度、穂の実り具合まで細かく確認する配下の仕事を見ながら隣りで地図を広げている従者につぶやいた。
「うむ、これであれば今年は本来の年貢に戻しても大丈夫そうじゃな」この言葉に軽減処置の継続を期待していた庄屋たちは顔を見合わせる。
「天明の飢饉の間、我が藩は極端に年貢を軽くしながら懸命に百姓を助けてまいった。その立て直しをせねば国は成り立たぬのじゃ」松木は庄屋たちの不満そうな顔を見逃さず理を以て説明したが、一度掴んだ利権を手放したくないのは人の常であろう。
松木は休憩に寄る庄屋の屋敷でも贅沢な接待は断り、茶をすするだけで取り入る隙がない。
さらに初日、2日目と送り込んだ娘も追い出されて籠絡に失敗している。こうなると先日の「男の性」に期待する話も再検討せざるを得なかった。
「それで今夜の娘は?」「ウチの村の食い詰め百姓の若女房で歳は18、番茶も出鼻」「ならば、亭主と覚えた夜伽の手練手管でメロメロに・・・それは楽しみだべ」若し、これで駄目なら男色趣味を疑って美少年を送り込みかねない連中である。ナントモハヤ。

「松木様、雨でございます」検見も最終日、それまでの晴天が一転、急な雨に見舞われた。
「うむ、雨宿りするところはないか」松木は自分のことよりも配下のことを心配した。
「はッ、あれに寺が」従者が指差した1町(=約109メートル)ほど前方の林に寺の屋根が見える。松木はうなづくと大声で指示を出した。
「許す、あの寺に雨宿りせよ」この言葉を聞いて配下たちは一斉に駆け出したが松木は笠を右手で押さえながら普段の足取りで寺に向かった。
山門をくぐると広くはない境内は綺麗に掃除されており、配下たちは軒下で手拭いで頭や顔などを拭っている。松木はそのまま本堂と庫裏をつなぐところにある玄関に向った。
「頼もーう」中に向かって声をかけると「どーれー」と低い返事が聞えた。
やがて高齢の僧侶が歩いてきて松木と従者の前に座った。
「拙者は津軽藩江戸屋敷に勤めおる松木直之進と申す。検見の役にて当地に参っておるが、急な雨に降られ難渋致しておる。しばし、雨宿りをお願いしたい」そう言って頭を下げると僧侶は微笑んでうなづいた。
「拙僧は当寺の住持(=住職)でございます。田植えの候には恵みの雨も今となってはお仕置き(業務)の妨げでございましょう。何のお構いも出来ませぬがどうぞごゆるりと」この返事に松木と従者は顔を見合わせてから頭を下げ、従者が配下たちの方に向かうと住持は松木に上がるようにうながした。
松木は刀を帯から抜くと玄関の前の板の間に腰を下し、草鞋の紐を解くとそこに若い娘が水を入れた桶を持って出てきた。
「足をお濯ぎ致します」娘はそう言うと松木の前にしゃがみ、素足になった足を両手で持って桶に浸し、丁寧に洗い始める。
「これはかたじけない」松木が声をかけると娘は下を向いたままうなづいた。
洗い終わって娘が胸から出した手拭いで足を拭うと冷えた足に手拭いに移った娘の体温が伝わり、松木の胸がときめいた。

庫裏の方丈(住職の私室)に通され、茶のお点前を受けながら、松木はさりげなく娘のことを訊いてみた。この時代、浄土真宗を除き僧侶の妻帯は禁じられていたが、女中扱いで女を囲う僧侶は後を絶たず、それを庶民は「お籠りさん」などと呼んでいるのだ。
「このような小寺では弟子を取ることもできず、身の回りの世話をしてもらっておりまする。拙僧のような枯れ木には煩悩はあっても身がもちませぬわ。ハッハッハッハ・・・」松木の真意を察した住職は説明し、娘の身の上も教えくれた。
「あの娘はユキエと申しまして、古くは当地を治めた武家の家柄ながら北条様に組していたため郷士になっていたのでございます。ところが浅間が吹いた後(噴火)、領民を救うため貯えていた米を全て炊き出し、歴代の家宝まで江戸で売り払って御当主夫婦は亡くなられ、それで娘を菩提寺であった当寺で引き取ったと言うことでございます」そのユキエは外で休憩している従者や配下たちに湯茶を供しているようだ。
松木が点てられた薄茶を飲むと「その所作は遠州流ですな」と住職は言い当てた。津軽藩の茶道師範は千家ではなく小堀遠州の流れをくむ遠州流であり、松木も江戸へ赴く前に手習いで身に受けていた。
「松木様、これも何かの御縁、時折訪ねて下され」住職の言葉も松木には「ユキエに会い来い」と言われているような気がした。

松木が江戸藩邸に戻ると門の前に若い男が中の様子を覗っていた。
一見して体格がよく色黒で、着ている物は垢抜けず江戸の町の若い衆には見えない。
「何をしておる」「はッ、これは御武家様」後ろから声をかけられ、若い男は驚いてその場に土下座をした。
「そこでは門前じゃ、こちらへよけよ」「ははッ」松木にうながされて若い男は門の脇に移動し、土下座をし直した。
「手前は横浜で漁師の網元をしております中村屋と申します。実は弟が津軽の国元で働いておりまして・・・」「おう、中間のゲン希じゃな」松木が言い当てて中村屋と言った若者は驚いて顔を上げてしまった。
「これッ、勝手に面を上げるな」「これは失礼しましたァ」松木の横に控えていた下士に叱られて中村屋はひれ伏した。江戸の町人であれば武士と接する機会が多く無礼討ちにならぬ程度の作法は幼い頃から身についているが、この時代の横浜は寂れた漁村に過ぎず武士との関わりは殆どないのだ。
「してゲン希に何用かあるのか?」「実は母親が病に伏せておりまして、うわ言にゲン希の名を呼んでおりまして・・・」松木は江戸から津軽へ帰る参勤で、若いが真面目に働いていたゲン希の顔を思い出した。ゲン希とは海岸の植林作業を視察した河合に同行した時にも会ったが「そろそろ弘前に戻りたい」と言っていた。

ある日、ケイがショウ大に乳をやっているとマイがおかしなことを言っていた。
「ショウ大、可愛いでしょ」「うん、可愛がってるよ」「うん、祖母ちゃんの所へ行くの?」「うん、またね」ケイは心配になって訊いてみた。
「マイ、何を独り言を喋ってんだ?」「ううん、祖父ちゃんと喋ってたんだよ」マイは何事もないように答えたが、その時、ショウ大が乳を飲みながら眠り、そちらに手がかかったためマイと話すことができなくなった。
ケイが添い寝を始めるマイはトモ造の仕事を覗くか家の外で遊んで過ごす。その日はトモ造とマサ弥が車の組み立てをやっていてマイも興味深そうに覗いていた。
「ようし、そっちの枠をはめるんでェ」「やってますたい」「やってねェじゃねェか」トモ造とマサ弥が仕事をやりながら言い合いを始めるとマイが突然、独り言を始めた。
「お父っつぁん、怒ってばかりで駄目だね」「そんなんじゃ、チェンジュ様に手を取り上げられるって?」「そんなことしたら、お父っつぁん、仕事ができなくなるよ。駄目だよ」トモ造をマサ弥は言い争いを止めて顔を見合わせた。
「マイ、誰と喋ってるんでェ」「テンジンさんって言うお坊さんだよ」マイの返事を聞いてトモ造は驚いてマサ弥の顔を見た。しかし、訳が分からないマサ弥はその顔を怪訝そうに見返した。
「マイ、テンジンさんを知ってるのけ?」「うん、だってここにいるよ。ねッ」マイはそう言うと板の間の隣りを見て誰かが返事をしたかのように笑ってうなづいた。
ようやくマサ弥も事態が飲み込めたのか怖いモノを見るような顔になる。2人とも固まったようになっているとマイがまた不思議な台詞を口にした。
「テンジンさんが仕事はいいのかって、早くしないと日が暮れてしまうぞって」トモ造は「はい」と返事をしてマサ弥を促して仕事を再開した。

その夜、夕餉を終えショウ大が眠ってからトモ造とケイはマイと話をした。そこにはマイの祖父=ケイの父が来て座っていたが当然、トモ造とケイには見えない。
「マイ、さっきおジィと喋ってるって言ってたね」「俺にはテンジンさんって言ったぞ」夫婦は自分たちが聞いた話を先に確認しようとして顔を見合わせた。
「おジィじゃないぞ、ジジ上様だって」「えッ?」そこで修作の家から帰った祖父が文句を言うとマイがそれを口にした。祖父は修作の家で妻が「母上様」と呼ばれているのを見て羨ましくなったらしい。
「そう誰かが言ってるのけ?」「だからおカァのおトォだよ」マイは当り前のように説明したが、その言葉にトモ造とケイは勿論、祖父まで驚いた。
「マイ、ワシが誰かも分かるんだな」「だってお爺ちゃんの声だもん」「うん、でもワシが死んだ歳は今のトモ造とそう変わらんぞ」「でも、おカァと同じ喋り方だよ」「そうかァ、顔も見えるのか?」「ううん、影だけ」マイと祖父の親しげな会話(ただしトモ造とケイにはマイの独り言)を聞いてケイはようやく状況を理解した。つまりマイは津軽のイタコの口寄せをする血統を受け継いでいると言うことのようだ。
「マイ、おジィがそう言ったの?」「うん、ジジ上様だって」マイの返事にケイはうなづいたが、トモ造は呆気にとられてケイとマイの顔を見比べた後、その場は「そう言うこともあるのか」で納めることにした。

次の休日、トモ造はマイを連れて修作の家に母を訪ねた。
玄関で案内(あない)を請うと義母が雑巾を持って出てきた。洗濯物が竿に干してあるところを見ると、もう朝から忙しく働いているらしい。
「やっぱりトモ造さんだったかァ」義母はその場に座って畳んだ雑巾を脇に置いた。
「何となく朝からお客が来るって気がしてたんじゃ」義母の何気ない台詞にトモ造はマイのことと結びつけて「ギクッ」とした。
「御主人様が仕事に出ておられるから留守宅に人を上げる訳にはいかぬのじゃ。ここで失礼するぞよ」その時、マイがトモ造の後ろから顔を出した。
「あれ、マイ」「ババ上様、どひゃ」「マイもババ上様何て呼ぶようになったのじゃな」義母はマイの意外な呼び方に戸惑いながらも嬉しそうに顔を見た。
「いえね、マイは祖父さんに習ったって言うんでさァ」「祖父さん?トモ造さんのお父つぁんかね」「いや、ケイのです」「ケイのって言えば、ワの主人のことだべ・・・」トモ造の返事を聞いて義母は困惑した顔で黙ってしまった。
「マイはテンジンさんとも話すみたいで、ケイはイタコだって言ってるんでやす」黙った義母にトモ造が説明するとその横でマイが奥を覗きながら声をかけた。
「お坊さん、どひゃ」「うん、ババ上様に会いに来たんだな」「へーッ、ここがお坊さんの家なんだァ」「お前のジジ上様はおカアの所だぞ」「昨日もジジ上様が帰ったらお坊さんが来たね」「うむ、入れ替わっておる」マイの楽しげな独り言に義母も納得したようにうなづいた。

「マイは津軽の生まれだからイタコの業(わざ)が備わっていても不思議でねェべ」義母の言葉でトモ造は津軽で連れて行かれたイタコのお婆さんを思い出した。
「マイ、テンジン様や祖父さんの声が聞こえるのかい?」「ううん、耳に聞こえるんじゃなくて胸に響いてくるんだ」義母の問いかけにマイは首を振って答え、トモ造は少し不安そうな顔でマイと義母を見た。親の理解を超えた能力を娘が見せ始めたことに父親として不安を隠せないようだ。
しかし、義母は自分もそれを当たり前にしていることもあり別段気にもしていない。そこでテンジンがマイに言葉を通訳させた。
「マイは津軽の血が流れておるから死んだ者と暮らすことが身についておるのじゃ」「そんなの難しいよォ」マイが唇を尖らすとテンジンは「すまぬ、すまぬ」と笑って頭を撫で易しく言い直した。
「マイはイタコと同じじゃ」「アタイはイタコと同じじゃってさ、解った?」「そうかァ、テンジンさんがそう仰るならそうなんだろう」ようやくトモ造も納得したが親としての心配をテンジンに問うた。
「それではこのままにしておけばいいんですかい?」「じゃが、童(わらべ)の間は変な霊が近づかないように気をつけぬとな」「また難しいよォ」「すまぬ、すまぬ」またマイに叱られてテンジンは苦笑いした。
「このことは隠しておいた方がいいな」「内緒なの?」「そうじゃ」「このことは内緒だって」マイの簡単すぎる通訳にトモ造は首を傾げたがこれは仕方ない。トモ造は家に帰るとケイとマサ弥にテンジンの言葉を伝えた。

それからマイは独り言で呪文を唱え始めた。
「おんかかか」「び」「ちゃんまいえい」「そわか」これはテンジンが子供を守る地蔵菩薩の真言を教えているのだった。本来は「唵訶訶訶尾娑摩曳娑婆訶(おんかかかびさんまーえいそわか)」と言うのだが、まだ練習中なのだ。
その説明をマイから聞いてトモ造が妙な横槍を入れてしまった。
「テンジンさん、千手観音様の呪文は何て言うんで?」それを聞いてマイはキョトンとした顔をしたが、すぐに途切れ途切れに真言を口にした。
「おん」「ばざら」「だるま・・・だるまさん?」「うん、だるま」「きりきりきり」「うん、きりきりだね」正しくは「をん・ばざら・だるま・きりきり」だがトモ造には聞こえないテンジンとの会話なのでよく判らなかった。
「おん・ばざら・だるまさん・きりきり・・・だってマイ、だるまさん好きだもん」もう一度言い直したがトモ造には正解が判らない。仕方ないので車智では「おん・ばざら・だるまさん・きりきり」と唱えて祈ることにした。

ある日、トモ造がマイを船頭のケイ次のところへ遊びに連れていくと若い船頭がいた。
「ありゃ、オメェは?」「ありゃ、親方」それは津軽への道中で一緒になった中間のゲン希だった。
「オメェは木村屋さんに雇われたんじゃあなかったのか?」「へい、あれから深浦で下ろした北前船の荷を弘前まで運ぶ仕事をやってたんですが・・・」ここでゲン希は1つ息をのみ込んだ。
「オッカァが病んだって便りを尾野のタツさんが届けてくれやして、仕方なくお暇をいただいたんでやんす」しかし、キヨ助親方が江戸を出てからは尾野のタツとのつながりはないはずだが、トモ造はそこまで思いが至らなかった。
「それで戻ってみたらオッカァはすっかり治っていて、それで仕事を探したんでござんす」「それじゃあ、ウチにマサ弥を紹介してくれたと思ったら、ケイ次さんも若い衆をやとったんですかい」「オイも親方に雇われているばってん、コイツも雇われたんですばい」ケイ次が説明するとゲン希が横に立って頭を下げた。
「おう、オメェがトモ造の大将を知ってるならよかばい」「大将?」「親方のこったい」横浜の出のゲン希にはやはり上方(関西)の大将は通じないようだ。
「こいつもオイと同じ漁師の出でばい。車引きもできるばってん、大将にも使ってもらえるたい」「どうぞ、お見知りおきを」ゲン希はそう言って頭を下げたが広三郎に仕込まれたのか一段と礼儀正しくなっている。それにしてもマサ弥と言いゲン希と言い、どうも若い奴らは頭の回転も速そうだった。

  1. 2014/12/18(木) 09:54:05|
  2. 「どさ?」「江戸さ」
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「どさ?」「江戸さ」上

「どさ?」「江戸さ」上

江戸の外れ、総州街道は荒川の渡しの手前にその車屋はあった。
「おう、トモ。仕事は終わったけェ?」日暮れが近づいて親方のキヨ助はいつものようにトモ造に声をかける。今は津軽藩に納める大八車の車輪を作っていた。
「へい、もう少しです」トモ造は作業の手を止め、親方の顔を見て答えた。
「そうけェ、暗くなっちゃあ手元も判るめェ。切りのいいところで片してしまいな」「へい、合点承知の助」トモ造はそう答えて車輪の枠をはめるための調整にかかった。ここを途中で切り上げれば調整がつかなくなる。トモ造は手を早めた。
その日は車輪の木枠を仕上げたところで仕事を終えた。
「それじゃあ、これで失礼しやす」「おう、御苦労さん」仕事場の片づけを終え、おカミさんが用意した夕食を食べるとトモ造は長屋に帰った。

「寒いねェ、早く帰って火を起こさなきゃ、凍え(こごえ)ちまうぜ」長屋までの道すがらトモ造は背中に「車清」と染め抜いてある法被の背を丸めながら手をこすりあわせた。いつの間にか今年も暮れが迫り、随分冷え込むようになっている。独り暮らしのトモ造には寒さがこたえる季節であった。その時、遠くで半鐘を打ち鳴らす音が聞えてきた。
「おっ、火事けェ。江戸の花だねェ」トモ造は背筋を伸ばすと半鐘の鳴る方向を見たが、冬の空は暗いだけだ。
「遠くちゃ野次馬にも行けやしねェ。はよ帰って寝よ」そう言うとトモ造は足を早め、通りでの歩みを進めた。
街道から1本外れた裏道にも所どころ屋台が店を出し、酒とオデンや夜鳴きソバの汁の匂いが漂っているが下働きの身ではそんな贅沢はできない。屋台で飲んでいるのはもう少し年配のキヨ助親方と同年代の人たちばかりだ。
「早く、こんな身代(しんだい)になりてェな」楽しげに談笑している客たちの後ろを通り過ぎながらトモ造は呟いた。
町内を区切り、夜の番をする木戸の手前から路地へ曲がればトモ造の長屋がある。長屋の角に入ると2間(360センチ)ほどの通路の中ほどに井戸があり、向こう3軒両隣りの1番奥がトモ造の家だ。土間には釜戸があり、半間の上がり端(はな)の奥は6畳の居間兼寝床だ。
トモ造は厠(かわや・トイレ)で用をたすと、建てつけの悪い障子を力任せに開けて「けえったぜ」と独り言を言った。すると薄い壁ごしに隣りに住む雇われ大工のおカミさんが「お帰り」と声をかけてくれる。
「へい、毎度どうも」トモ造は習慣になっている返事にお礼を言うと、そのまま釜戸の奥をかき回してみた。灰の中に火種が残っていれば有り難い、親方からもらってきた削り屑を足せば暖がとれる。しかし、朝飯を炊いた火は燃え尽きていた。
「しかたねェな、このまま寝よ」トモ造は諦めて、畳んであった煎餅蒲団を広げると法被を脱いで畳み、股引を脱いで帯を解き、寝る時用の木綿の着物を羽織った。その時、遠くから酉(トリ=夜八時頃)の鐘が聞えてきた。
トモ造は布団の中で明日の仕事の段取りを考えていたが、いつの間にか眠りに落ちた。

「親方、仕事が上がりやした」トモ造は津軽藩の大八車の車輪を完成させると親方のキヨ助に点検をたのんだ。職人の仕事は下働きを仕込むことを含めて親方の責任になる。今回、親方は初めてトモ造に車輪作りを任せてくれたのだ。
親方は土間でやっていた自分の仕事の手を止めると数歩手前でトモ造が仕上げた車輪を眺め、先ず立てて高さを確かめ、寝かせると軸の歪みとクルイの有無を確かめ、最後に木槌で叩いて強度を確かめた。
「おう、好い仕事だ。来年からの仕事はもう任せていいかな」親方の誉め言葉にトモ造はホッと溜息をついた。弟子入りしてすぐの頃は「何でェ、この仕事はァ!」「半端なことをするんじゃねェ!」「仕事は盗むんでェ、しっかり見てろい!」と怒鳴られ、殴られるのが日課だった。あれからもう十年近い歳月が過ぎて、今年も間もなく終ろうとしている。
後は車輪に軸をはめ、親方が作っている車体に取り付ければ江戸屋敷に納めることができ、そうすれば代金が出る。
「これで何とか年を越せるな」「へい、早く仕上げてしまいやしょう」職人は年越しの仕事は嫌がるものだ。したがって納期も年内になっていることが多い。ただし、大晦日は仕事をしないのが慣わしなのでその前なのだ。
この一両日のうちに完成させて藩邸までもって行かなければ、また高野忠兵衛とか言う役人がアレコレと細かい粗探しをしてくるに違いない。その下役の馬鹿・秋沢篤之丞は適当に誤魔化せるにしても、何にしろ色々な職人が納品をして混むこの時期に紛れ込むのが得策だろう。
「オメェも独り立ちさせてやりたいが、こう景気が悪くちゃな。すまねェ・・・」親方はトモ造を指揮して車輪に軸をはめながらポツリと呟いた。
田沼意次の積極財政による好景気が終り、世は松平定信の緊縮一本槍の硬直した経済政策のため流通が減り、急速に拡大していた市場は冷え切っている。したがって荷物を運ぶための道具である荷車の需要も激減しているのだ。
「こうして仕事をいただけるだけで有り難いこってす、今後ともよろしくお願いしやす」「てやんでェ、泣かせるねェ」トモ造の返事に親方は本当に鼻をすすり、その鼻水を手の滑り止めにした(※「てやんでェ」とは「何を言ってやんでェ」が短くなった符丁である)。

翌日、トモ造は親方と一緒に亀戸(江東区)の津軽藩江戸下屋敷へ大八車を納めに行った。
荒川の渡しからの街道はしばらく田舎道だが、やがて市街地に入った。こんな時、親方はヨソ行きの紋付を着て袴に足袋まで履いているが、トモ造はいつもの法被に股引で車を引いている。
「うん、中々調子がいいな」「へい、車輪もよく回ります」「べらぼうめェ、車清の仕事だ。半端なことはしねェよ」親方のキヨ助はそう言うとその仕事をやった弟子の顔を見てうなづいた(※「べらぼうめェ」とは「度外れている」の意味の「言うまでもなく」で返す符丁)。
「親方、歩くのが遅いですよ」「おう、1つきりの足袋を汚すなってカカァがうるさくてな」トモ造がそう言うと親方は冬のからっ風が巻き上げる砂塵を気にして紋付の袖を叩いた。
「いつも思うんですが、お武家へ車を納めるには着る物も改まるんですねェ」「あたぼうよ、裃(かみしも)を着けねェだけでもめっけものよ」トモ造の今更ながら感心した台詞に親方は自嘲気味にそう答えた(※「あたぼう」とは「当り前だ。べらぼうめェ」が詰まってできた符丁)。
年の瀬の江戸の街は賑わっていて、軒を連ねる商家でも客や使用人が慌ただしく出入りしている。その店と店の間の路地には物を納める業者が荷物を背中に結えて入って行く。この時代、表の店先は客と主人、それに対応する使用人だけが使い、家族や業者は裏口と言うのが作法だった。これはキヨ助親方、トモ造たち職人の流儀とは違っていた。勿論、商家に品を納める時には裏口へ回ることはとっくに叩きこまれているが。

津軽藩下屋敷は亀戸の街の江戸寄りにある。上屋敷は本所(墨田区)、中屋敷は向柳原(台東区鳥越)や浜町三ツ目(中央区)と千代田城を囲うように点在しているが、幕末になりお家騒動などの影響で向柳原の中屋敷は戸越(品川区)の畑地に交換させられた。
通用口から大八車を運び入れた後、キヨ助親方が中間(ちゅうげん)に案内を頼んでいる間に法被姿のトモ造は裏手へ引っ込んだ。やがて秋沢篤之丞が相変わらずの青白い顔を見せ、大八車の前で土下座して待っていたキヨ助はさらに頭を下げた。
「車清か・・・年内の品納め大儀である」秋沢は廊下より一段下がった板の間に立つとキヨ助の背中に偉そうな言葉をかけた。
「はッ、御注文の大八車、ここにお納め致しやす」キヨ助は頭を上げることなくかしこまって決まり文句の口上を述べた。
「うむ」秋沢はうなづくと廊下に上がり奥へ戻り、その間にキヨ助は服装を確かめる。やがて秋沢が先導する形で高野忠兵衛が現れ、秋沢は先ほどの板の間に正座した。
「車清のキヨ助、期限内の納品、殊勝である」「はッ、有り難とうございます」キヨ助は気分を損ねて難癖をつけられないように細心の注意を払って答える。
「これで注文通りか確かめる。図面を見せよ」「はッ?」突然の高野の言葉に秋沢は困惑した顔をした。
「納品する物を確かめるのは常のことであろう」高野は少しいらだった顔をする。その言葉に秋沢はその場に手をついて礼をすると慌てて立ち上がり奥へ向おうとした。
「図面でしたらこちらにございます」そこでキヨ助は下を向いたまま声をかけた。
「そうか、ゆるす。面を上げェ」「面を上げェ」高野の言葉を継いだ秋沢の指示にキヨ助は少し上体を起こし、懐から津軽藩から受け取った図面を差し出した。町人であるキヨ助は役付きの高野と直接話すことはできないのだ。
秋沢は草履をつっかけるとキヨ助に歩み寄り、図面を受け取って高野に差し出した。高野はそれを受け取ると広げながら板の間に下り、秋沢が揃えた草履を履いた。
「尺がないのォ」土下座したままのキヨ助の横に立ち、高野が図面を広げながら呟いた。
「尺もこちらにございます」キヨ助が声をかけ、下を向いたまま大八車の上を手で指すと秋沢が手を伸ばして、それを取り高野に差し出した。
「お前はワシに職人の仕事をやれと申すのか」「滅相もございません」高野の叱責に秋沢は慌てて土下座をし、隣りでキヨ助は笑いをこらえていた。
「車清、許す。立って答えよ」「車清、高野様のお許しが出た。立ち上がって御下問に答えよ」間に秋沢の不要な伝言を介さなければならないのがこの時代の身分制度だ。
高野は図面を指さしながら指示を与え秋沢は尺を使って確認をしているが、素人の侍に粗を指摘されるような仕事はしていないのが職人のプライドである。
寸法の確認が終り、高野が荷台を手で押しながら質問を始めた。
「どのくらいの重さまで耐えられるのか」「耐えられるのか」また秋沢が質問を介する。
「乗せる荷物によりますが、米俵の五俵や十俵くらいなら心配ございません」「殿が田沼の時代に買い求められた禁制品を国元に送られるのだ」「馬鹿者!」キヨ助の答えに秋沢が説明すると、それを聞いて高野が激怒した。
田沼意次の時代、江戸でも浮世絵、滑稽本などの庶民文化が花開き、南蛮渡来の品などが市場を賑わした。しかし、将軍・家治が死んで後ろ盾を失った田沼は失脚し、新将軍・家斉と共に老中に就任した松平定信は緊縮財政と並行して風紀の取り締まりを始めた。
大名屋敷にまでは老中も手を出せないが、用心するに越したことはないのだろう。
「今、何かおっしゃいましたか?つい仕事を見直していて聞いておりやせんでした。申し訳ございません」また土下座した秋沢の隣に一緒に座って手をつくとキヨ助は頭を下げた。つまり「聞いてはならない話は聞いていない」と言うことだ。こんな機転を利かせた受け答えがキヨ助の身上である。
「長い道のりに使われるのでしょうか?」キヨ助はさらにとぼけて秋沢に確かめた。
「うむ・・・」高野はその言葉に満足そうにうなづいた。

トモ造は建物の影からその様子を見ながら聴き耳を立てていたが、長い距離を車を引いてきたためか無性に喉が渇いて、井戸を探して裏庭を歩くと建物の向う側に見つけた。
井戸の脇では若い女中がタライにあけた水で大根を洗っている。紫と白の矢羽を組み合わせた女中の着物で、タスキで括った袖から白い腕が眩しく覗いていた。背後から歩み寄るとその女中は歌を口ずさんでいる。それは江戸で流行っている小唄の類ではなく奥州のどこかの民謡のようだ。トモ造はそれを聞きながら女中のうなじを眺めていたが思い出したように声をかけた。
「すいやせん、水を一杯ェ飲ませてやってくれやせんか」その声に女中は驚いたように振り返った。
「あらァ、驚いたァ。オメはだだぎゃ(誰)?」江戸っ子のトモ造は聞き覚えのない訛りで咄嗟に答えられなかった。
「あれェ、オラの喋ること判んねェが」そう言うと女中は立ち上がってトモ造の方を向いた。その娘はトモ造よりも5つほど年下だろうか。色が抜けるように白く、丸顔にハッキリした目鼻立ちで、黒目がちの眼差しで真っ直ぐこちらを見ている。ただし、この時代の美人は浮世絵に描かれるような面長、富士額、アーモンド形の吊り目、通った鼻、小さな唇の受け口が基準であり、残念ながらそれには当てはまらなかった。
「水を飲ませて下せい」トモ造はもう一度、繰り返した。
「水け、お安い御用だ」そう答えると娘は釣る瓶(ツルベ)の桶を井戸の中に差し入れて一杯汲み、トモ造は脇にあった柄杓でそれを汲んで飲んだ。
「美味かったけ?」「うん、美味かった。有り難さん」トモ造は桶に残った水で柄杓を洗うと手を差し出した娘に渡した。
「ナは職人さんけ?」「おう、車屋でェ」「そうけ」娘の目が尊敬の眼差しに変わった。
「ネエさんは津軽からの奉公かい」「んだ、オラの親は平賀の百姓なんだァ。津軽の飯さ作れって2年の約束で来たんだァ」そう言うと娘は故郷を思い出したのか今度は遠い目をした。トモ造は少し胸をときめかせながら、思い切って訊いてみた。
「オメェ(お前)さん、名は?」「ケイだ」「俺は車清のトモ造でェ」「おケイちゃんかァ」「トモさんけ・・・」お互いに名前を確認しながらうなづき合った。その時、建物の向こう側でトモ造を呼ぶキヨ助親方の声が聞えてきた。
「おっと、いけねェ。そんじゃあ御免なすって」「せばッ」トモ造は返事を待たずに駆け出したが、建物の角で振り返るとケイはまだこちらを見ていて、視線が合うと微笑んでお辞儀をした。

キヨ助親方は家に戻る道すがらトモ造をからかってきた。
「トモ造よ、仕事の合間に若い娘を口説くなんて、オメェも意外にやるなァ」「そんなんじゃあ、ありやせん」「好いってことよ。上手くやりな」トモ造が慌てて首を振ると親方は笑いながら肩を叩いた。
「ところでトモ造。オメェ、チョイと旅に出ちくれ」「ヘッ?」いきなりの話にトモ造は横顔を見たが、親方は前を見たまま話を続けた。
「あの車は津軽まで運ぶ荷を積むんだそうだ。津軽って言やァミチノク、道の果てでェ。そんな長げェ道を引くとは思っていなかった。だからオメェは行列について行って何かあった時の修理をやるんでェ」そこまで話して親方はトモ造の顔を見た。
「へェ、あっしが作った車ですから・・・」親方の命に逆らうことが出来ないことは判っていたがトモ造は少し不安であった。
見知らぬ土地への1人旅、何よりも大名行列の荷物を積んだ車の修理をする大仕事を1人でやることに自信がない。親方はそんなトモ造の背中を叩いた。
「でェ丈夫、オメェは俺が散々仕込んだんだァ。景気が好ければ自分の店を出せるくれェの腕はある」「へェ・・・」トモ造はそれでも考え込むようにうなづいた。

正月を過ぎた16日(太陰暦なので現在の2月中旬)には使用人の休暇「薮入り」がある。トモ造は例年、この休みは荒川の対岸にある親元へ帰るのだが、今年は思うことがあって逆方向に向った。
「津軽藩下屋敷」、江戸時代には門に看板をかける習慣はなく、知らなければ田舎者を自己申告するようなものなので江戸に出て来たばかりの地方出身者も地理の勉強に励んでいた。
門に看板を掲げるようになったのは明治になり地方出身者が大量に出て来て、幅を利かせるようになってからだ。
トモ造は下屋敷裏手の使用人の出入口の脇に立つと女性が出てくるのを待っていた。
「江戸で雇われた使用人なら休みで家に戻るのだろうが、津軽からの奉公ではそれも不可能だろう」そんなことを考えながらトモ造はケイの笑顔を思い出して寒さを感じなかった。
やがて若い娘が2人、楽しそうに話しながら出てきた。
「あのう、すんません」「きゃッ」門の脇から声をかけると娘たちは声を上げた。
「怪しいもんじゃありやせん。車職人のトモ造と言いやす。おケイさんを呼び出して欲しいんです」「ケイさん?料理番のおケイちゃんかい」「ワどナのおケイちゃんかァ」娘たちの確認に「へい」と答えると2人は顔を見合わせて意味ありげに笑い、若い方が小走りに屋敷の中へ戻っていった。
「お兄さん、おケイちゃんの何だい・・・江戸に色(恋人)がいるって話は聞いてないけどな」残った娘は値踏みするような目でトモ造を眺める。言葉や態度から見てこちらは江戸の娘のようだ。
「あっしはこの間、おケイさんにチョイとお世話になって・・・」「一目惚れしたんだァ」トモ造が全部を言う前に娘はからかい、小馬鹿にするように笑った。
「あんな田舎娘よりもアッチと遊ばない?給金もタンマリ出たんだろう」娘がそう言いながらトモ造にすり寄ろうとした時、屋敷の中から女同士で言い合う声が聞えてきた。
「だから来ねェ」「だっでオラはそんな人知らねェし」「向こうは知ってるんだよ」呼びに行った娘に手を引かれてケイが出てきた。
「あれまァ、あん時の車屋さん」「へい、トモ造でやんす」ケイは前に立ったトモ造の顔を見ると安心した顔になった後、嬉しそうに微笑んだ。2人の娘は一歩下がって2人の姿を眺めている。
「折角の薮入りなんだ。楽しんでおいで」「粋な江戸っ子のおニイさんとね」娘たちはケイに声をかけてからかい、笑いながら表通りに向って歩き出した。

その日、トモ造はケイを浅草寺へ連れて行った。
亀戸から浅草へは西に向うため、正面に雪をかぶった富士山が見える。
「あれまァ、あの山には雪が降ってるべェ」「あれは富士のお山だよ」トモ造には日本一の山だが、屋敷の中で働くケイにはあまり見ない景色のようだ。
「あれが富士のお山でも、オラホ(うちの方)には津軽富士って山さあるだよ」「津軽富士?」「うん、岩木山(いわきさん)って言うだよ」「ふーん、ドコソコ富士って言うのは話に聞くな」江戸っ子のトモ造にとっては大きな地方都市が「XX江戸」と呼ばれるように、それも地方のお国自慢に自分の周りにある名前が使われているに過ぎなかった。
「でも、お岩木山の方が綺麗だ」「えッ?」ケイは富士山を見たまま言葉を続けた。
「岩木山はこんな屋根の向うでねくて、目の前でいつも見守っているんだん」「ふーん」トモ造はケイにとって岩木山は、自分の富士山以上に身近な存在なのだと思った。歩きながらケイはこんなお囃子を口ずさんだ。
「懺悔懺悔 六根清浄 お山さ八代 金剛道者 はァ 一々礼拝 南無帰命頂礼」それは初めて会った時、井戸のそばで口ずさんでいた歌だった。
「お山さ登る時は、みんなでこの歌、唄うんだァ」ケイの言葉にうなづいてトモ造も歩きながら一緒に口ずさんだ。
「サーイギサイギ ロッコンショージョ オヤマサ ハッダイ コンゴ―ドージャ・・・」「はァ」の合の手が揃って2人は顔を見合わせて笑った。

浅草寺の本尊・観音さんの前でトモ造は柏手を打ってしまい、それにケイも合わせ周囲の参拝客から笑われてしまった。
「もう、トモ造さんったら恥ずかしいだよ」拝殿前の階段を降りながら、ケイは頬を膨ませながら文句を言った。
「すまねェ、俺っちは初詣って言やァ神さんの前でパンパンと手を打つと相場が決まってるからな」「オラホでもそォだョ。でもここはお寺だァ」ケイはそう言いながら階段下の香炉の煙を嗅いで可笑しそうに笑った。
浅草寺の境内には五重塔がある。2人はその下に行った。
「高けェ、五重の塔だァ」「こんな塔、見るの初めてだろう」「うんにゃ、弘前の城下にも最勝寺って言うお寺に五重塔があるよォ。だどもこんなには高くね」トモ造は塔を見上げているケイの白い顎を眩しそうに見つめていた。
その後は仲見世で買い物をして飯を食べたが、田沼の時代には賑やかだった門前街も再三の風紀取り締まりと倹約令で派手な商品は店頭になく、沈んだ空気が漂っている。それでもトモ造は仲見世で朱塗りの櫛をケイに買った。
あれほど流行していた源内櫛(彫刻細工)や華やかな色合いの絵付け櫛も姿を消している。櫛を受け取ろうとして伸ばした手をトモ造が掴むとケイは驚いた顔をした。
「あれッ、シビ(ひび)が割れてるじゃねェかァ」「うん、生みそを擦り込んでるだよ」
ケイが治療法を説明するとトモ造は首を振った。
「おケイちゃんは水仕事の後、よく拭かねェで火に当っちまうだろう。それがイケねェんだ」そう言ってトモ造はケイの手に息を吹きかけ、両手ではさんで擦り温めた。ケイの胸は掌以上に熱くなり頬を赤らめる。やがてトモ造も自分がケイの手を握っていることに気がつき慌てて離した。
「トモさん、挿して」そう言って頭を下げたケイの髪、この時代に江戸でも流行り始めた時代劇の定番・島田髷で束ねた髪にトモ造は今買ったばかりの櫛を挿した(ただし、時代劇ほど大きく膨らませるのは芸者や儀式などの特殊な形で、普通は前、横髪を折り返して元結で止めるだけ)。
「似合うけ」「うん」ケイは嬉しそうに笑ったが、本当に黒髪に朱色が映えて綺麗だった。ただ、それを口に出して言えない自分がトモ造は歯痒かった。

「夕餉の仕度がある」と言うケイを下屋敷まで送ると通用口で立ち止まった。
「トモさん、有り難う。楽しかっただよ」「うん、また誘いにくるよ」トモ造の返事にケイは何故か惑った顔をした。
「でも、オラは休みがねェだよ」「手の空いた間でいいから会ってくれ」ケイは浅間山の噴火による天明の飢饉で困窮した実家を助けるため、奉公に応募したと言っていた。だから年中小間使いのように忙しく働きづめなのだ。
「俺っちは四九日休みだ。休みの昼にはここで待ってるよ」「うん」ケイはトモ造の言葉に小さくうなづいた。この時代の休日は4と9がつく5日毎で、1週間が7日になったのは明治になって西洋式の生活習慣が入って来てからのことだ。それは旧約聖書の「カミが天地創造する時、7日目に休んだ」と言う物語による。
こうしてトモ造とケイは休みの日の午後、洗い上げが終わって夕餉の仕度に入るまでの束の間の時間を一緒に過ごすようになった。

ある朝、トモ造が親方の作業場に行くと見知らぬ若者がいた。
「トモ造、こいつはマサ吉だ。マサ吉、こっちはお前の兄弟子のトモ造だ」その若者は小柄で痩せているが、どこか暗い目をしているように感じた。
「マサ吉、挨拶しねェか」「へい・・・よろしくお願げェしやす」マサ吉と呼ばれる若者は親方に怒鳴られてようやく頭を下げた。
「おう、よろしく頼まァ」「先ずはトモ造から色々習うんだ」「へい」トモ造は「自分が津軽へ旅に出ている間の手伝いか」と思いながら頭を下げた。
「マサ吉は上州(群馬県)の百姓で、浅間の山が火を噴いて田畑が駄目になったんで江戸に出てきたんだ」天明3年に浅間山が噴火し、上州一帯は火砕流に呑まれた麓以外も噴石と降灰で大きな被害を受けた。食うに困り江戸に出て無宿人なっている者も多いと聞く。最近は東北から流れ込む人々も増えて米が高騰し、親方のおカミさんも機嫌が悪くなって、おかわりは遠慮しなけれならない。
「マサ吉は職人の経験はねェが、手先が器用だから仕込めばモノになるだろう。それに裏の空き地を耕して畑仕事もやってもらうぜ」そう言いながらキヨ助親方は、このマサ吉をトモ造同様に仕込むつもりのようだ。
「それじゃあ、津軽への旅の間に何処まで腕を上げるか・・・ウカウカしていられない」そう思うとトモ造は唇をかんでマサ吉を睨んでいた。

ある日、ケイと一緒に茶店に入って意外な話を聞いた。
「甘いモンと一緒に茶を飲むと美味えだなァ」「へッ?」この時代、江戸では庶民にも煎茶を飲む風習が広まってきたが、砂糖(それも黒砂糖)はまだ高級品で、柿、芋、南瓜などの甘い果実や穀類が茶菓子の代用品になっており、この茶店でも蒸かした芋が2切れ小皿にのせて出ている。
「津軽じゃあ、漬物で湯を飲むだよ」「ふーん、江戸じゃあ漬物なんて飯の種だけどなァ」「飯の時はまた刻むんだァ」あまりピンときていないトモ造にケイは一生懸命に説明するが、江戸っ子のトモ造の理解は少し極端だった。
「冬は雪が積もるから漬物しか食うものがねェんだな」「大根や蕪なんかは雪に埋めとけば春まで喰えるども」「それでも冬は塩辛いモノばかりだなァ」ケイはそんなトモ造に判らせようと隣りでアレコレ考えていたが、そのうち「干し柿が甘えェだよ」とその味を思い出したように笑って生唾を飲んだ。
トモ造はそんなケイを「可愛い」と思いながら、間もなく赴くことになる津軽の雪一面の風景を想像してみた。

ケイが「魚を見たい」と言ったので根岸の魚河岸まで足を伸ばした。これは仕事なので遠出もできる。ついでに早春の海岸を歩くのも悪くないだろう。
魚市場と言えば早朝と言うイメージがあるが冷凍設備がないこの時代、漁師が朝一番で獲ってきた魚を売るのは昼時、それを魚屋は天秤棒で市内に売って回る。つまり魚は夕餉のオカズなのだ。
2人は仲買人と魚屋の騒がしい競りを後ろから眺めていたが、慌ただしい人の波に弾かれて裏手に追いやられた。するとそこには小さ目の鮫が桶に入れてあった。
「あったァ、鮫だァ」ケイの嬉しそうな声を聞きながら、トモ造は呆気にとられ怖ろしげな鮫の顔を見たが、どう見ても料理の材料には見えない。
「おや、ネエさんは鮫をお探しかい」「うん、そうだァ」漁師と思われる逞しい男が声をかけてきたのでケイはうなづいた。
「鮫は竹輪にするくれェしか使い道がねェ。買うんなら安くしとくぜ」「何でだァ、スクメにすれば美味えのにィ」漁師の台詞にケイは不満そうな顔をしたが、安くしてもらえると判って嬉しそうにトモ造の顔を見た。しかし、トモ造も鮫を使う料理は食べたことがない。竹輪の材料が鮫だと言うのも今、初めて知ったのだ。
ケイは鮫を2匹買ったが手提げカゴに入り切らずトモ造が腋に抱えて屋敷に向った。根岸から亀戸までの道すがらケイは津軽の郷土料理・スクメを熱く語っていた。
「先ずは軽く湯通しするんだァ。そんで皮を洗って落としてしっかり茹でるだよ。あとは身をほぐして骨を取って、醤油と酢と味噌(現在は砂糖も)で味付けした大根おろしに混ぜるんだァ」ケイの説明ではスクメは鮫が入った大根おろしの酢味噌和えのようだ。
その時、トモ造はすれ違う通行人たちが鮫の尻尾に気づいて1歩後ずさり、鮫の顔を怖ろしげに見ているのに気づいた。鮫特有の生臭さもかなり強いようだ。それでもケイはトモ造と歩いていることが嬉しくて、そんなことは気にしていないようだった。トモ造はケイの髪に浅草で買った朱塗りの櫛が差してあるのに気がついた。

ケイが江戸で迎える2度目の春は、トモ造に案内されて近場の名所巡りすることができて思いがけず楽しいものになった。
「トモさん、オラは江戸さ来て好かっただよ」ある日、梅の花が咲き始めた亀戸天神の境内を歩きながらケイはトモ造の顔を見た。
「うん、俺っちもおケイちゃんが来てくれたよかっただよ」最近、トモ造にも津軽訛りが少しうつっているようだ。
「津軽じゃあ、今頃、福寿草が雪の間から顔さ出してるべなァ」「福寿草?」「黄色くて小さな花だァ」ケイの説明を聞いてトモ造は、「タンポポのような花か」と想像した、
2人並んで境内の階段に座るとケイは心配そうな顔で訊いてきた。
「トモさん、津軽までは遠いけど大丈夫けェ?」「おケイちゃんが来れたんだ、俺っちも大丈夫でェ」トモ造の返事は半分強がりだった。江戸っ子のトモ造は足腰が弱く、最近は品納めの役をマサ吉に取られている。
「オラはシンペェ(心配)でシンペェで・・・毎晩、苦になるんだよ」ケイはそう言うと大きな目でジッとトモ造の顔を見つめた。トモ造は自分の顔がケイの目に映っているように思った。そして、それを覗こうと顔を近づけるとケイは目を閉じた。

桜が咲いた候、津軽家八代藩主・信明(のぶあきら)公は参勤を終えて国元に戻った。
江戸府内では大名と言えども黙って進むしかないが、道中(=街道)に入ると「片寄れェ」と言う口上を唱えながらになり、行進速度は一気に遅くなる。しかし、藩の御用とは言え町人であるトモ造は行列に加わることは許されず、行列の後につかず離れずついていくしかない。トモ造は着替えなどの荷物に加え、職人仕事の道具も抱えて大変な旅になっていた。
夜は脇本陣の庭で荷物を下した大八車の点検、修理をした後、中間(ちゅうげん)たちが泊る旅籠(はたご)では小間使いのように洗濯その他の雑用を押しつけられる上、按摩までさせられる。身心ともに疲れ果てていたが道はまだ遠いのだ。
行列の道筋は日光道中から宇都宮宿で奥州道中に入り、白河宿からは脇街道になる。つまり公道は松平定信が治める白河までで、そこから先は正式な道ではない。とは言っても鎌倉幕府に滅ぼされるまで奥州を治めた藤原氏は奥州一帯を縦横に走る道路網(現在の東北自動車道とほぼ同じ)を整備していたので津軽までの脇街道も幕府が整備する5街道と遜色ない。
トモ造はあの日、ケイが富士山を見ながら言っていた津軽富士・お岩木山に会うが待ち遠しかった。

大名行列は藩の石高、格式によって参加人員、携行品などが事細かに定められているが、津軽藩4万7千石は小藩であり、伊達62万石に比べれば随分と少人数だった。その行列の最後尾には車清が納めた大八車に箱を積んで中間が交代で引いている。それを遠くから眺めながらトモ造はついていった。
やがて行列は日光道中唯一の関所・栗橋の関に差し掛かった。江戸開府直後には大名行列と言えども、むしろ大名行列は「入鉄砲、出女」を厳しく調べられたが、この頃になると役人は形式的に申告通りかを確認し、藩主の駕籠も扉を開けて中を見せれば通過させていた。しかし、町人であるトモ造はそうはいかない。通行手形は津軽藩に発行してもらったが、行列との関係や積み荷については口外不要を厳命されている。
トモ造は肩に担いでいた道具箱は中身まで確認されたが、その間に行列は出立してしまい、職人としての責任からトモ造は言いつけを忘れ、必死の訴えをしてしまった。
「お願いでございます。行列から遅れれば役目が果たせません」足軽の向こうで確認の様子を見ていた吟味役の役人は、トモ造の申し出に「町人ながらその忠心、殊勝なり」と言って通過を許した。

奥州道中から脇街道に入ると宿場町が小さくなり、本陣、脇本陣以外の旅籠にも下級武士が泊り、中間は玉突き式に安宿へと追いやられトモ造は真っ先に追い出された。
「仕方ねェな、どこかのお堂でも探すかァ」大八車の点検を終えた後、トモ造は自分の荷物と道具箱を抱えて歩きまわった。しかし、その頃には何処の集落でも江戸へ向う被災民が溢れて、治安維持のため村人はお堂の扉を釘で打って固く閉じ、橋の下は勿論、寺の山門や神社の軒下には夜露を避ける被災者がムシロに横たわっている。
「どこも一杯、こいつは野宿かなァ」そう呟くとトモ造は宿場町の外れに立つ大きな木の根元に座ろうとした。
「おっと、こんなところにお地蔵様かァ」「うむ、野の佛じゃ」暗い月明かりに座った人影を見つけ、トモ造が手を合わせようとするとその影が答えた。
「ヒエッ、このお地蔵様、生きてる」腰を抜かしたトモ造をその影は笑った。
「ハハハ・・・地蔵に間違えられれば拙僧の坐相(坐禅する姿勢)も本物じゃな」その影は愉快そうにもう一度笑うとトモ造に話しかけた。
「野宿ならここに横になるがいい」影は自分の横の平ら場所を示すとまた黙った。
「あのう、お坊様ですか?」「うむ、様がつくほどエラクはないが坊主じゃ」影はそう答えると坐禅を止めたのか、座ったまま体をほぐす運動を始めた。
「お坊様はどちらへ?」「様がつくような坊主じゃない、『さん』くらいにしておけ」その坊主は運動を止めるとトモ造の方を向いたのが影で判った。
「ワシは飢饉で死んだ者の弔いをしようと奥州を旅しているんじゃ。ところが泊めてもらおうにも寺は山門の扉を閉じて入れてくれん。だから野の佛になっとる。ハハハ・・・」坊主は話の区切りで笑うようだ。トモ造は気楽に聞ける話で安心した。
「暗くて顔は見えんが、お主は若いな。それに江戸の者のようだ」「へい、総州街道の荒川沿いで車職人をやっておりますトモ造と申します」坊主はわずかな会話でトモ造の年代から出身地まで言いあてたので、トモ造は自己紹介のように身元を明かした。
「そうか、千手観音様の手をお借りしとる訳じゃな」「えッ?」トモ造は突然の話に意味が判らなかった。
「お主は職人じゃろう。職人の技は千手観音の手を借りているようなものだ。その手で観世音に代わり世のため人のために働いているのじゃ」トモ造はこんな話は菩提寺の和尚からも聞いたことがなく、思わず地面に正座した。
「世の中にいくら金があっても物があっても、職人の技で形にしなければ何の役にも立たない。お主たちはその役割を果たしているんじゃ・・・観世音南無佛 与佛有因 与佛有縁・・・」坊主の影はそう言うとトモ造に向って手を合わせ観音のお経を唱え始め、トモ造は道中の安全祈願のつもりで黙って聞いた。
「お坊様のお名前は?」お経が終わったところでトモ造は訊ねた。
「だから様がつくような坊主じゃないと言ってるだろうが・・・名前は一応、テンジンと言う」「テンジン様?」「テンジン様では神社になるだろう。だから様はつけるな」テンジンと名乗った坊主は、そう言ってまた高らかに笑い、その声が夜空に響いた。

翌朝、トモ造が本陣に行くと津軽藩の一行は出立準備を終えていた。トモ造は朝飯代わりにテンジンからもらった生の大根を半分かじっただけだった。
「お立―ちィ」街道からは見えないが藩主が駕籠に乗り込んだのだろう、お付が声を上げると一番先頭の侍が「片寄れェ」と口上を唱え始めた。
本陣の亭主と番頭らしき羽織、袴姿の者が2人、その脇で土下座をして見送っている。
津軽藩4万7千石の短めの行列だが、先頭が動き始めてから最後尾が出発するまでにはしばらく時間がかかり、トモ造はその間に草鞋などの身支度を整え、そんな様子を大八車を引く中間たちが見ていた。

江戸育ちのトモ造には奥州道中から脇街道への風景は驚きの連続だった。磐梯山、安達太良山の岩肌は緑深い山しか知らないトモ造には何か怖ろしげに見えた。
磐梯山は明治になって水蒸気爆発を起こし小磐梯山と北側斜面が大きく吹っ飛んだが、その頃はなだらかにそびえる高山で、したがって五色沼もまだなかった。
街道の両側では春とは言え飢饉から立ち直るために農民たちは苗代かきに励んでいる。おそらく飢饉で食べられたのか飢え死にしたのだろう、鋤を引く牛や馬の姿はなかった。
その時、突然行列が止まり先頭から侍が1人、藩主の駕籠の脇を歩く老臣に報告をした。
「生き倒れと思われる骸(むくろ)があります。取り急ぎ片づけますのでしばらくお待ちを」その内容は忽ち最後尾まで伝わり、トモ造の耳にも入った。
老臣が駕籠の扉越しに報告すると藩主は「よい。死なば佛、世(ヨ)も手を合わせて行こう」と答え行列は出発した。

次の宿泊場所に着いてトモ造が荷車の点検をしていると若い中間が声をかけてきた。
「親方、本当にマメでやんすね」「へッ?」荷車の下で車軸を見ていたトモ造が顔を向けると、いつも登り坂になると引く役を押し付けられている若い中間だった。
出立の時にはほかの侍の目があり年上の中間たちがその役を担うが道中も何度目かの古参の連中はどこに坂道があるか判っているので、巧みにその順番を決めているらしい。
「アッシはゲン希と言いやす」「俺っちは」「トモ造親方でやんしょ」「うん」返事をしながらトモ造は軸を腕で揺すり取り付けを確認すると、「よし」と言って荷台の下から這い出してきた。するとその中間は思ったよりも小柄で随分若かった。
「オメェさんは最初の道中けェ?」「アッシは今回の行列に雇われた新入りでござんす」この時代の大名行列は全員が藩のお抱え(正社員)と言う訳ではなく、荷役を担当する中間などは臨時に雇われる者(パートタイマー)も多い。これも大名の石高に応じて行列の規模から編成まで定められている故の苦肉の策であろう。
「そいじゃあ、帰りはどうするんでェ?」「アッシは浜(横浜)の漁師のガキでやんすが、船は兄貴が使うんで仕事がねェんでござんす」と答えてゲン希は溜め息をついた。
「そのまま津軽で働く気け?」「良い仕事があればでやんすが」トモ造が道具を片づけるとゲン希は衣類を入れた道中コウリを持った。
「おッと、済まねえなァ」「好いってこってす。先に帰ってもコキ使われるだけですから」と言うことで2人並んで中間用の安旅籠に向かった。

ケイは朝餉の仕度があるため、女中部屋でも一番の早起きだった。
寝ずの番の女中におこされて目覚めると、先ず調理場の釜戸の灰の中の火種に藁やオガ屑を入れて火を起こす。続いて庭の井戸へ出て水を汲んで顔を洗い、調理場へ持っていく。あとはそれで野菜を洗い、漬物を刻みながら泊り番の侍と奉公人たちの味噌汁を作り、湯を沸かせば終わる。淡々とした一連の流れには無駄がない。これも父を失ってから母に仕込まれた熟練の技なのだ。
ケイの実家は弘前城下にほど近い平賀郷で庄屋を勤める豪農だったが、ある事情で父が死に近傍の母の実家の別宅に住んで2人で細々と暮らしてきた。そんなケイは江戸に奉公に出てからも持ち前の元気と素直さで明るく振る舞っているが、父の死の事情を知られることを懼れ、そのため人から1歩引いたところがある
江戸娘の女中たちは、それを好いことに自分たちの仕事まで押し付けることがあるが、ケイは黙ってそれを引きうけるばかりだ。だから朝、井戸端で顔を洗うのは夜なべ仕事の眠気を覚ます意味もある。
しかし、最近のケイはタライの水に映った自分の顔を見て表情を確かめるようになった。特に唇を尖らせたり、広げたりしながら、最後はあの時の形にしている。
あの時とは・・・「トモさんの唇は柔らかかったァ」「鼻息は熱かったァ」「腕は太かったァ」
そんなことを思いながら一人で赤くなる。ケイはそんな娘なのだ。そして、北に向って手を合わせトモ造の無事を祈るのが新たな日課になっている。
「トモさん、今日はどこまで行くんだべか・・・」ケイの心もトモ造と一緒に故郷へ旅をしていた。

白石、仙台と奥州の大きな城下では一行も次第に羽目を外すようになってきた。
「おう、車屋、飲め」安旅籠の中間部屋でも夕餉の後にトモ造は酒を勧められた。
「へい、すいやせん」トモ造がお猪口で受けると、すでに酔っている中間はからみ始めた。
「オメェは江戸っ子だってな。江戸から見れば伊達62万石の御城下、仙台なんて言っても小さな田舎町だろう」「いいえ、綺麗な街でござんす。何よりも酒が美味い」トモ造の答えに中間は一応満足してうなづいた。
「オメェも仕事でなけりゃ松島へも物見遊山して行けるんだろうが、帰り路にするんだな」「松島ですかい?」「おう、日本三景だべ」古手の中間の話にトモ造は興味を持ったが、最初に酒を注いだ中間が首を振った。
「それでもアッシ(私)にはただの木が生えた小島にしか見えませんぜ」「それを言っちゃあお仕舞いだべ。ほかに自慢できるもんがねェんだがら」中間同士が掛け合いを始めたところで、中間頭が話に加わってきた。
「ここから先は山を越えて出羽(でわ)に入る。山道では十分気をつけろ。行列から離れるな」「へい・・・」トモ造は中間頭の真顔を見て座り直し身を固くした。
「ゲン希も聞け」「はい」呼ばれてゲン希もトモ造の横に来て正座してかしこまった。
「南部は昔から津軽のことを領地を奪った敵と憎んでるんだ。だから行列は南部の領内は通らないことにしている」「へい・・・」元々は奥州藤原氏が滅亡した後、鎌倉幕府の命で南部の方がやってきたのだが、そんな古い話を中間が知る訳がない。あくまでも初代津軽藩主・為信が裏切って領地を奪ったと言うのが南部側の言い分だ。
「それから飢饉の時、南部では江戸で米が値上がりしているのを聞いて百姓に重い年貢を課した上、種籾まで奪って大勢を殺したから今でも領民の怒りが収まっておらんのだ」このため南部では翌春の作付けができず、異常気象が収まっても中々飢饉から立ち直れず、大きな一揆が続発していた。否、今も続発している。
飢饉から翌春までの公式の死者数は津軽が8万2千人、南部は6万5千人、伊達に至っては2十万人だが、藩の大きさと山背の気候を考えれば南部の6万5千人はやはり多過ぎる。
トモ造は江戸では知れなかった奥州の悲劇を噛み締めてケイの顔を思い浮かべた。

「おケイちゃん、あの車屋のニイさんはどこまで行ったろうねェ」台所で昼餉の仕度をしているケイに薮入りの日に呼びに走った女中が声をかけてきた。
「トモさんけ?そろそろ大館辺りにいるべ」ケイは答えながらトモ造の顔を思い浮かべて頬を赤らめ、女中はそんな様子を見て少し意地悪に笑いながらからかってきた。
「おケイちゃんは、もうあのニイさんと寝たんだろう」「えッ?」突然の質問にケイは大根を切っていた手を止めた。
「抱かれたんだろう。よかったかい?」「・・・」ケイは答えずに真っ赤になった。
「ほら赤くなった。抱かれたんだァ」女中が追い打ちをかけるとケイは激しく首を振る。
「ワらはそんなことしてねェ、口吸い(昔のキスの呼称)だげだ」ケイは答えておいてさらに真っ赤になった。丸顔が夕日のように見える。
「そうかァ、続きはニイさんが帰ってからだね」「そったな・・・」女中はケイとトモ造のつき合いを訊き出すと、目的を達したのか笑いながら仕事に戻って行った。

碇ケ関に入ると津軽藩一行は温泉の宿場街で1泊した。南部領を避けて久保田領内を通るため変則日程になり、侍たちは心身ともに疲労困憊していたのだ。
津軽領内に入り、トモ造も行列の最後尾に加わることが許されたが、その前に久保田領から山道を越えた時に車輪が傷んでいないかの点検が先だった。トモ造は大八車の下に潜り込んで確認したが、やはり車軸の摩耗が激しく、車輪にもガタがきている。
「ここから先の道は?」「うん、緩やかな下り坂だ」「そうですか、なら大丈夫でやんす」心配そうに覗きこんでいる中間頭にトモ造が答えていると、車輪の向うに侍の袴の裾が歩いてくるのが見え、中間たちが座って手をついた。
「車屋を殿がお呼びだ」「ヘッ?」中間頭は思いがけない言葉に咄嗟に答えられないようだった。
「殿のお召しだ。同道いたせ」「ははァ、車屋、殿のお召しだ。河合様に同道せい」トモ造は大八車の下から這い出るとそのまま土下座した。隣りで土下座をしたゲン希が緊張した顔でトモ造の横顔を見ている。
「ワシは行列差配・河合正衛門じゃ、くるしゅうない、同道せよ」河合の足元に土下座しながらトモ造は完全に我を失って、その足袋と草鞋を眺めていた。
トモ造は冷静になるに従って胸の中でキヨ助親方が下屋敷で高野忠兵衛に合っている場面を思い返したが、高野と藩主では格が違う。何よりもトモ造はまだ侍に会う時の作法を習ってはいないのだ。トモ造は「お手討ち」と言う嫌な言葉を思い出していた。

とも造は道具を片付けて荷を解くと車清の法被を羽織った。その横で中間頭が簡単なレクチャーをしてくれた。
「兎に角、頭を上げるな。直接、答えるな。言われたことの返事は『ハイ』しかない」しかし、その中間頭も藩主に直接会ったことはないだろう。トモ造はここから逃げ出したくなった。
「へい、お待たせいたしやした」「へいじゃない。ハイだ」トモ造が河合にかけた言葉に早速、中間頭が注意を与えた。
「よいよい、お召しと言っても労をねぎらわれるだけじゃ。気楽にせよ」河合は気さくな人物のようで、本来は直接会話することも許されないトモ造を励ますと、先に立って歩き出し、トモ造は2間(3・6メートル)ほど遅れて続いた。
途中で休んでいる侍も河合の姿を見ると深く頭を下げ、それに続くトモ造に怪訝そうな顔をする。トモ造はそんな様子に「お手打ち」の瞬間が近づくような気がして江戸の両親、何よりもケイの顔が胸に浮かんだ。

藩主・津軽信明公は代官所の庭に面した座敷で茶を飲んでいた。
信明公はまだ3十前の若さであったが、奥州切っての名君として広く知れ渡っている。トモ造は代官所の玄関で河合からお庭番に引き渡され、その庭に連れてこられた。
「殿、お召しの車屋が参りました」代官所の廊下の上で河合が障子に声をかけた。
「うむ、くるしゅうない。開けよ」障子の中で声がすると河合が開けた。
トモ造は額と掌が庭に食い込むほど頭を下げ、息を止めている。
「江戸から荷車を直すために同道して参りました車清にございます」「うむ、江戸からのォ」「荷車を作った職人でございます」河合の説明に藩主はうなづいたが土下座しているトモ造には見えない。
「しかし、直すためとは壊れることを心配いたしておったのか?」「さてそれは・・・」河合も意外な質問だったようで返事に困っている。
「車清、どうなのじゃ」河合はトモ造の隣りで土下座をしているお庭番に答えを促し、お庭番はトモ造に訊いた。危なく直接答えそうだった。
「はい、この大八車は・・・荷車は江戸の街中で使うことを考えて作りました。ですから長い道中、山道などもございますれば何があるか判りやせん。それで念を入れたのでございます」トモ造は知っている最高の丁寧語を使って答え、それがまた2人を経由して伝えられる。本来なら直接耳に入っているのだが藩主はその形式に馴れているようだ。ただし、先ほど河合が大八車を荷車と言ったことを思い出して言い直していたのは始めから荷車にしていたが。
「うむ、大儀である」藩主の誉め言葉を「大儀であると仰せじゃ」と河合とお庭番が仲介して伝え、それを受けてトモ造はさらに地面に額をめり込ませる。
こんな真面目な喜劇がしばらく繰り返された。やがて藩主と河合が目で何かを確かめ合った(これもトモ造には見えない)。
「ところで車清、我が藩では海岸線に松と柏を植林し、岩木川沿いの堤の建設などに取り組んでおる。それにはシッカリとした荷車が必要なのじゃ。お前は当藩に留まって車作りに励んではくれぬか」河合の言葉がお庭番を介して伝えられる。
トモ造は「はい」と承諾の返事を返さなければならないのは先ほどの中間頭の教えにもあった。しかし、トモ造の胸には江戸で待つケイの顔が浮かんだ。津軽はケイの故郷であり2年の年季が明ければ帰ってくるだろう。しかし、それまで会えないのは辛く、それはケイも同じだろうと思った。
「どうした車清、有り難きお言葉じゃ、礼を申さぬか」黙っているトモ造にお庭番が少し言葉を荒らげ返事を促した。
「へい、有り難うございます。しかし・・・」「しかし?」トモ造の返事にお庭番は横顔を睨みつけたが本人は地面しか見ていない。
「あっしには江戸に先を言い交わした許嫁(いいなずけ)がおります」「許嫁?」こんな時は仲介なしで座敷の2人も反応する。
「それは誰じゃ。苦しゅうない、答よ」若い藩主は興味を持ったようで直接声をかけ、それを後から河合とお庭番が「答よ」「答よ」と仲介した。
「へい、御当家江戸下屋敷で料理番をやっておりますケイでございます」「当藩の?」また座敷の2人は直接反応して顔を見合わせた。そしてトモ造がケイの身の上を説明すると、しばらくその場に不思議な空気が漂った。
「うむ、許す。その料理番を国元へ呼び戻してこちらで祝言を上げさせい」「ははァ」藩主はそう命ずると愉快そうに笑い、河合とお庭番はかしこまって頭を下げた。トモ造は思いがけない展開で庭に穴を掘って頭を埋めたい気分になっていた。

碇ヶ関に1泊し英気を養った一行は、翌日に弘前城へ入った。
トモ造は藩が手配してくれた旅籠に荷物を置いて人心地ついていると河合正衛門の屋敷からの中間の使いに呼びだされた。旅先では衣類も必要最小限しかなく、こうしてあらたまって行くのは気が引ける。「せめて洗濯を」と思ったが、その暇もなかった。
トモ造は碇ヶ関と同じく法被と股引の職人の格好で出かけた。
弘前城下の武家屋敷に河合の邸宅はあった。弘前の武家屋敷はいわゆる白壁が続く重々しい街並みではなく塀は生垣だ。これは槍や鉄砲で敵の側面を奇襲攻撃するための工夫だと言う。また、この方が雪や火災に対しても強いと言うことだった。
「うむ、来たか」屋敷の庭に敷いてあったムシロで土下座をして待っていると河合が廊下を歩いてきた。トモ造は、またムシロに額を擦りつけてかしこまった。
「急に使いをやったが迷惑ではなかったか?」「滅相もございません」トモ造は「これ以上ない」と言うほど緊張していた。
「苦るしゅうない、面(おもて)を上げェ」「へい・・・はい」トモ造は返事をしたが頭を上げなかった。
碇ヶ関代官所での藩主とのやり取りを思い出しても、お手打ち寸前だったように思われる。ましてやここは弘前城下の藩士の屋敷、斬り捨てられても咎める者もいないのだ。
「ええい、面を上げんかァ」いきなり河合が叱りつけ、トモ造がビックリして顔を上げると河合は廊下に腰を下し穏やかな顔でトモ造を見ていた。
碇ヶ関では恐れ多くてまともに顔を見られなかったが、河合正衛門はキヨ助親方よりもやや年上で江戸の父親よりも年下に見える。その穏やかな目にトモ造は何故か安心感を覚え、ホッと溜息をついた。
「昨日は急な申し渡しであったが本当に大事なかったか?」「いいえ、とんでもありやせん」トモ造は首を振った。
「親方に仕込まれて十年、そろそろ独り立ちをと言われておりやしたが江戸ではそれもかなわず、好い機会をいただきました」そう言ってもう一度、手をついて頭を下げた。
「ケイの実家は代々平賀郷の庄屋を勤めていた家だが飢饉で村人を助けるため蓄えを全て遣い果たしたのじゃ」「へい」ケイからは平賀の農家としか聞いていなかった。
「ところが南部が米を江戸で高く売った話が当藩にも伝わって、重臣の中にそれを真似ようとする声があり、それを知った父親は領内を巡視された殿に百姓の窮状を直訴したのだ」意外な話にトモ造は息を飲んだ。
「ソチも存じている通り直訴は御法度、父親は磔になり母親はケイを連れ実家に帰った」ここまで話し河合はトモ造の顔を覗き込むように見た。
「それでワシが窮状を救おうと1人娘のケイを江戸屋敷に奉公させることにした。ここにおっては義民と言えども罪人の娘、嫁入りもかなうまい。そう言う訳じゃ」話を終えると河合は庭に下り、頭を下げているトモ造の前に座り肩を叩いた。トモ造はケイとの縁の不思議さを噛み締めていた。

5日後、大手門の前に城下の車職人が集められた。そこには重い荷物を積んで江戸から弘前までの長旅に耐えた車清の大八車が置いてあり、トモ造が立ち合って職人たちの質問に答えていた。
職人たちの津軽訛りは江戸暮らしをしていたケイ以上だが、そこは参勤で戻った河合配下の若侍・松木直之進がついて通訳をしてくれている。
「うん、この車輪の組み木が良いんだべ」「車軸の太さもこれで丁度いいんだなァ」「荷台が軽く作ってあるのも工夫だァ」(松木が江戸弁に通訳した言葉)職人たちの質問へはキヨ助親方が仕事の合間に言っていた教えで答えた。
トモ造は城下の作事奉行所近くに作業場をもらい、「藩御用」の看板を掲げて松と柏の苗木を津軽半島の海岸線に運ぶ車を作ることになっている。
柏の苗は、松の防風・防砂林だけでは農民の収穫にならず、柏を植えれば葉を売って副業にできると言う意見を採用したものだ。今まで津軽藩の車職人が納めていた堅牢性重視の荷車では重過ぎて、砂地の道ではめり込んでしまい作業員たちは苗木を背負って砂丘を越えなければならなかった。その意味でトモ造の仕事への期待は大きく、津軽で所帯を持たせ定住させることができれば藩にとってもこれ幸いなのだ。
江戸へは昨日、「ケイの奉公を辞めさせ国元へ帰すように」との藩命を記した河合の書状を持って藩御用の飛脚・尾野のタツが出発している。タツは江戸まで十日で駆け抜けると言われる伝説の飛脚であるが、トモ造にはケイの驚く顔が思い浮かび、タツの足さえもどかしく思った。

津軽藩下屋敷の下士・秋沢篤之丞は女癖が悪かった。かと言って吉原や島原の遊郭へ通う金はなく、飲み屋の女給を口説く才覚もない。
下屋敷に奉公している若い女中に士分の権勢で言い寄っては手をつけているのだ。そして、ことが起ると落ち度をでっち上げ、一方的に解雇することを繰り返している。それでも江戸の町家出身の娘たちは「もらう物をもらえば」と言って収まっているが、益々懐具合は寂しくなるのだ。
そんな秋沢が「江戸の遊びなれた娘には飽きた(金も掛かる)。そろそろウブな田舎娘をモノにしよう」とケイに目をつけた。
ある夜、泊り番(宿直)にあたり、下屋敷での夕餉を終えた秋沢はケイが台所の暗い行燈の下で片づけをしているのを確かめると、足音を忍ばせて後ろへ歩み寄った。ケイはタライの水で食器を洗った後、桶の水を柄杓で汲んではすすいでいる。その音で秋沢の気配には気づいていないようだった。秋沢はあと1歩でケイに手が届く位置にきて「ゴクッ」と生唾を飲んだ。
江戸的には美人ではないが(前述)、若くはち切れんばかりのケイの肢体を妄想しながら、
「先ず後ろから抱き締めて口吸いで口をふさぐ。乳房を鷲掴みにして、そのまま土間に押し倒して・・・」と自分で考えた手順を復習した(着物の場合、脇の下から手を入れないと胸には触れられません。余談ながら)。その時、ケイが何かを洗い終えて台に手を伸ばしながら横を向いた。
「今だ!」秋沢が飛びかかろうとした時、行燈の暗い明かりが驚いて振り返ったケイの手元の出刃包丁を照らし出した。同時にケイが「だだばァ(誰だ)」と叫び、秋沢は腰を抜かした。
「あんれェ、秋沢様じゃないけェ、何事であんすか?」ケイは右手に包丁を持ったまま秋沢に訊いてきた。しかし、秋沢は何も答えられなかった。
(江戸時代、女性が純潔を守る貞操観念があったのは儒教倫理を尊重していた武家だけで、それが次第に庶民にまで広まっていったのだが、田舎では祭りの夜などに嫁探しを兼ねた乱交などがあって、「ウブな田舎娘」と言うのは江戸勤め藩士の思い込みであろう)

尾野のタツは伝説よりも3日遅れて13日で江戸まで駆け抜けた。
弘前からの書状は中屋敷に届けられ、留守居役の黒石支藩の藩主・津軽寧親(やすちか・後の9代藩主)が目を通してそれぞれの役どころに回す。河合からの書状は下屋敷に送られた。
各藩の江戸屋敷には上中下があるが、上屋敷は江戸城の周りに建ち並び、正室、嫡男などの藩主家族(=人質)と参勤中の藩主はここに住む。中屋敷はそれに準ずる隠居した前藩主や支藩の藩主などが住み、下屋敷は国元から送られた米などを保管する蔵屋敷としての機能と庭園などが作られていて郊外にあって1番広いことが多い。
下屋敷では差配役が目を通して奉公人を監督する納戸役に指示を与え、ケイは突然、使いの下士に呼び出された。
「ケイ、納戸役様がお呼びじゃ。同道いたせ」「へい・・・」ケイは調理場の手拭いで手を拭きながら土間から板の間に上り、袖を上げた襷を外した。
「うむ」下士はその様子を確認すると先に立って藩邸の薄暗い廊下へ進んでいく。そもそも奉公人に直接、役付きの上士が声をかけることはない。ケイは「昼餉のオカズに何か問題があったのか?」と、先日のトモ造と同じく「お手討ち」を心配しながらついて行った。
やがて下士は役寮(担当部署の部屋)の前で立ち止まって振り返り、座るように促した。ケイは廊下に座って手をついた。
「飯衆(はんじゅう=炊事係)のケイ、参りました」「うむ」下士が声をかけると中から納戸役が返事をして、それを受けて下士が襖を開けた。ケイは床に額を擦りつける。その様子に納戸役は満足そうにうなずいて用件を告げた。
「ケイ、藩命によりソチの奉公を終わらせ、国元へ帰すことになった」「えッ?」ケイは顔を上げて詳しい説明を求めたかったが「面を上げる」許しがないためできない。
「ソチの津軽料理が食べられなくなるのは残念だが、殿の思し召し(おぼしめし)であればいたし方ない。仕度が終わり次第、道中手形を発行するゆえ申すように」「ヘッ?」こうしてケイは訳が判らないまま津軽へ帰ることになった。しかし、津軽へ帰っても仕事のあてはない。2人分の食物を作るには母の実家から借りている畑は狭かった。だからこうして江戸に出て来たのだから。
「オラはどうしたらいいんだァ・・・」そう呟いたケイの胸に帰る道中でトモ造と行き違いになることの心配が浮び、気持ちは更にかき乱された。
「もう、トモさんに会えねェのかも・・・だったらトモさんが帰ってくるのを待ってからにするべ・・・そしたら今度はトモさんにXXX」それはケイが出した素朴な答えだった。

トモ造は城下での準備が一段落したところで平賀郷へケイの母を訪ねた。これには若侍・松木直之進が付き添ってくれたが平賀が碇ヶ関から弘前へ向う途中にあることを初めて知った(道案内の石標はあっても看板がないため)。
ケイの母が住む家は裕福な農家である実家が罪人の妻になった娘と孫を世間の目から隠すため用意した村はずれの1軒家だった。
磔刑では罪人の遺骸は朽ち果てて落ちるまで晒し物にされるものだが、夫の遺骸は直訴に感謝する農民たちが暗夜にまぎれて引き下ろし村はずれに埋葬された。そのことは同じく勇気ある義挙に感激をしていた藩の重臣たちによって黙認された。しかし、それはあくまでも黙認であって表面上は重罪人として扱われるのがこの時代である。したがって母は墓参りを隠すため薪拾いのついでに立ち寄るしかなかった。
「たのもう」若い松木は家の前で大きな声をかけたが返事はない。
「たのもう」松木がもう一度、繰り返すと2人の後ろで「どひゃァ」と言う返事があった。振り返るとケイに似た丸顔の女性が地面に座り手をついていた。
「平賀郷から江戸屋敷へ奉公しておるケイの母親か?」「はい」母親は返事をして地面に額を擦りつけた。
「そちの娘の婿を案内(あない)してきた」「えッ?」松木のいきなりの紹介に母は勿論、トモ造も呆気に取られて顔を見合った。
「ケイはまだオボコでございます。婿なんておりません」「へい、あっしはその許しを願いに参ったのです」2人しての反論に松木は自分の早トチリを知り、気まずい顔をした。
「何でもよい。家に入れよ」「はい、粗末な家でございますがどうぞ」松木の照れ隠しの言葉に母は立ち上がって玄関の板の引き戸を開けた。
家の中は釜戸のある土間と囲炉裏の1部屋で、土間の隅には打ちかけの藁が積んである。松木は腰の刀を外して上がり端(はな)に腰を下し、草鞋の紐を解くと座布団代わりのムシロが敷いてある囲炉裏の奥に刀を右に置いて胡坐をかいて座った。
トモ造が土間に座って手をついている間、母は釜戸の火に藁を入れて熾すと囲炉裏に持っていき、続いて鍋に水瓶から柄杓で水を入れて囲炉裏の火にかけトモ造の隣りに座った。
「よい、そこでは話が遠い。こちらへ来て座れ」かなり若いとは言え侍である松木の言葉にトモ造と母は顔を見合わせた。
「大声で話すのは疲れる。こちらへ来い」松木が命令口調になったところで2人は板の間に上がり、手前にトモ造、母は土間側に正座した。

「ケイの婿と申されましたのは、どう言うことでございますか」先ず母が両手を床につきながら訊ねたが、庄屋の妻らしく言葉遣いは丁寧だった。
「うむ、それは間違いである。許嫁と申すべきであった」松木の答えにトモ造も「ホッ」と溜め息をついてうなづいた。
「しかし、ケイは江戸へ奉公に上がっております。それまではオボコでございました。先を言い交わす方を作られるはずがありません」母の疑問は当然である。松木が目で合図したのを受けてトモ造が説明した。
「あっしは江戸で車職人をやっておりますトモ造と言いやす。江戸屋敷に荷車を納めた時、ケイさんと知り合いやして、それから・・・」ここでトモ造は言葉に詰まった。こうなると普通は先走った関係の告白になるものだが、トモ造とケイの場合は逆だった。そもそも許嫁と言うのもケイに会いたい一心でついた嘘なのだ。トモ造の説明を聞いて母はしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げて訊いた。
「ではケイは江戸で嫁に入ると言うことでございますか?」「いいや、トモ造は殿の命を受け城下で新しい荷車を作りながら技を伝授することとなったのだ」松木の説明でトモ造自身も自分が負っている重責を自覚し直した。
「それじゃあ、ケイは・・・」「うむ、すぐに戻ってくる」松木の返事に母はあらためてトモ造の顔を見て、トモ造はケイに似た母の面差しに何故か少し胸をときめかした。
しかし、トモ造は自分の親に何も言っていないことをすっかり忘れていた。

次に家を訪ねた時、トモ造は母に連れられて村のイタコの所へ行った。イタコと聞いてトモ造は、「板を売る店か」と思ったが霊能者のことだった。
「どひゃァ」母は村はずれの一軒家の戸の前に立つと声をかけた。
「だだばァ」中から老女の返事が返ってきて、いざるような足音がした後、つっかえ棒が外され戸が開いた。イタコは腰が曲がった小さな婆さんだった。
「あれェ、庄屋さんの奥様」「それは終ったことだァ」イタコの言葉に母は首を振る。むしろ身分を隠しての来訪なのだ。
「こちらは娘っ子の婿さんだなァ」イタコは何も言わないのにトモ造のことを言い当てた。
「んだ、それで好いのかウチの人に訊いてもらいたくてェ」「だべか・・・」そこまで話して、イタコは2人を家の中に招き入れた。
イタコの家もケイの家と同じ造りで土間の奥に釜戸があり、その脇には囲炉裏の板の間だけだ。ただ、部屋の奥には簡単な祭壇があり、そこには江戸では見たことのないお札が祀ってある。その前に向い合って座ると母はお供物として畑で採ってきた野菜を差し出した。
「あれェ、御丁寧に。有り難さんです」イタコは両手をついて受け取ると、お盆代りの板にそれをのせ祭壇に供えた。
それで準備が終り、イタコは陶器の器に囲炉裏の火から移した松明を入れ、線香代わりのヒバの葉を炊いた。
江戸なら法要ではロウソクと線香を立てるのだが津軽ではこれが代用品のようだ。
ヒバから煙が上がり線香に似た香りがきこえてくると、イタコは不思議な形(飾り玉が多い)の数珠を揉み、祈りの言葉を唱え、口寄せを始めた。ただ、罪人とされているケイの父の名はワザと聞きとれないようにしていて、それを確かめて母は溜め息をついた。
しばらくの祈りの後、突然にイタコの口調が変った。
「オラを呼んだりしてどうしたんだ?」「この人が・・・」母にはこれが父の口調なのが判っているようでトモ造の方を見ると紹介をしようとした。(ただし相手はイタコである)
「それは江戸から来たケイの婿だべ」「んだば、トッチャ(父)が連れて来ただかァ」母とイタコの口を借りた父の会話を聞きながらトモ造は驚いている。
「だばァ、ケイが帰ってきたら一緒にさせてもいいべかァ」「罪人の娘だば祝言を上げてやることはできねェが、婿さんは許してくれるべェ」父の言葉に母が顔を見たのでトモ造はうなづいた。
津軽(実際は東北の北部)ではイタコを通じて死者と会話する風習があることをトモ造は学んだ。それは風習と言うよりも死者と共存している日常であろう。

ケイがトモ造の帰りを待っている間、車清のキヨ助親方が津軽藩下屋敷を訪ねてきた。
「おケイさんってのはアンタかい?」「んだ。トモさんの親方だべか?」「そんだァ」顔見知りの中間にケイを呼び出してもらった親方は、そのまま近所の茶店に連れていった。しかし、いきなり親方も津軽弁になっている。
「あれェ、親方も津軽言葉が上手いんだなァ」「ワも津軽の生れなんだァ。これは誰にも内緒だどもよォ」意外な告白に本題が始まらない。
キヨ助親方は津軽の農家の2男で、若い頃に親と喧嘩をして家を飛び出し、流れ流れて江戸までたどり着いたのだ。そして弟子入りした車屋の親方の婿養子になったのだが、つまり元は無宿人だった訳で、そのことは家族以外には話していない秘密だった。
「それでワに何の用だァ」「それだァ、おケイちゃんは津軽へ帰るんだべ」「何でそれを知ってるだァ」親方のいきなりの話にケイは戸惑って訊き返した。
「昨日、尾野のタツって飛脚が俺っちに寄ってったんだ」親方は江戸弁に戻っている。
「タツが言うにはトモ造は弘前の城下で荷車作りの仕事をするように殿さんから申し渡されたらしいんでェ」親方は津軽出身でなければ理解できないタツの言葉にも不自由なく会話して訊き出していた。
「それでお前さんを呼び戻して夫婦=メオトにしようって言うことになったらしいんでェ。津軽の殿さんも粋だね」「・・・」タツからは、どうしてそうなったかの説明はなかった。これもある意味、直訴なのだが法度には当たらないだろう。
「どうしたんでェ、嫌なのか?」「・・・・」親方は返事をしないケイの顔を覗き込んだ。するとケイの大きな目から涙が溢れだした。
「どうしたんでェ、いきなり」「だって驚いて・・・嬉しくて・・・ウッウッウッウウウ」ケイは懐から手拭いを取り出すとそれに顔を埋めて声を上げて泣いた。
これでは若い娘に悪さをして泣かしている中年スケベ親父にしか見えず、実際、店の前を通る通行人たちもそんな顔で見て行く。親方はどうしていいのか判らず、黙って茶をすするしかなかった。

親方は日をあらためてケイを荒川の対岸のトモ造の実家へ連れて行った。トモ造の父親は江戸でも評判の羽織り職人であるが話は先日、親方からしてあるらしい。
「オメェさんがトモの嫁さんになってくれるって言うおケイさんかい?」「んだ」「アイツにこんな可愛い嫁さんがくるったァ、有り難てェこったァ」トモ造の父の江戸弁は筋金入りである。テンポの良い言葉が口から溢れ出てくるようだ。
「おう、コイツがトモ造のカカァでェ」そこへ母が湯を持ってきたので父が紹介した。母は皿にもった煎餅を真ん中に置くと湯呑みに湯を注いで配ったが、そのついでにケイの全身を値踏みするように眺め回した。
「ところでおケイちゃんは職人の仕事を知ってるのかい?」母の質問はケイの身の上確認の意味もあった。
「オラは百姓の娘なんで職人のことはよぐ判らねェんだす」ケイは全て正直に言おうとしたが、父の死は影では人々からの称賛、感謝、尊敬を受けていても表では罪人とされている。このことは江戸では黙っていることにした。
ケイが「農家の娘」であることが判り、母は言葉を続けた。
「職人は俺が一番の頑固な偏屈者が多いから、農家みたいに亭主と女房が一緒に働く仕事とは違うねェ」「んだなァ」母の言葉に農家出身の親方もうなづいている。
「まァ、トモ造は職人にしては優しいから大丈夫だろうけどね」「うん、アイツは何とかなるって鷹をくくってやがって、何が何でもと必死に頑張るところがねェ。親方の仕込み方があめェんだろ」母の励ましを父が変な方向に持っていった。
「とんでもねェ、何度もブチ殴りやしたが、あれは親からもらった性分ですワ」親方は父の言葉に答えたのだが、今度は母が「殴った」ことに怒りだした。
「なんだってェ、ワタイ(私)のトモ造ちゃんを殴ったてのかい!許せねェ」ケイは江戸弁のテンポの早い会話について行けず黙っている。それに気づいて父が話題を親方に振った。
「ところでトモ造が津軽に行っちまって親方の仕事は大丈夫けェ」「こちらはマサ吉って上州出の手先の器用な奴がきやしたんで・・・こちらは?」「俺っちはトモの弟に仕込んでるよ。トモ造は細けェ針仕事には向かねェんだ」ここで車屋と羽織屋の親方同士、安心し合って湯を飲んだ。
「おケイちゃん、そんな訳でこんな親の子だけどよろしくね」「へい、オラだばトモさんの嫁ッ子になるだァ。ウッウッウッウウウ・・・・」ケイは母の言葉にまた泣き出して、それを両親と親方は優しく見ていた。

作事奉行所のそばに津軽ダンスの作業場であった店をもらいトモ造の仕事が始まった。とは言っても必要最小限しか道具を持ってきていないので、先ずはそれを揃えることから始めなければならない。そんなある日、店に同年代の商人が訪ねてきた。
「御免なすって」その商人はいきなり不思議な挨拶をし、「うらあァ」と今日はトモ造の方が津軽弁だった。そんなことで顔を見合わせた後、商人が用件を切り出した。
「ワは板材の商いをしております木村屋の広三郎と言います」「うん」「この度は藩御用の車屋を始められるとのことで、一言ご挨拶をと思いまして」「うん」ここまで話して広三郎は抜け目のない顔でトモ造の反応を窺った。
トモ造は親方から車作りについては十分に仕込まれていたが、商売については幼い頃に寺小屋で読み書き算盤(そろばん)を習ったくらいで、ほとんど素人だった。広三郎はそんな様子を感じ取って、商人らしく自分を売り込んだ。
「板材のほかに道具なども扱っておりますから、何でもお言いつけ下さい」広三郎は作業場の中を見て必要な道具が揃っていないことを早くも察知したようだった。
「それからお使いになる板や材はどのようなものでしょう」「どうしてだい」「先に準備しておけば、御注文をいただけばすぐに納めることができます」何にしろ人並み外れて鋭い男のようで、トモ造は同年代のこの男を少し怖ろしく感じた。
広三郎はそんなトモ造の心理も見抜いて話題を変えてくる。
「ところで店の名前は何とされるんです?」「へッ?」突然の質問にトモ造は返事が出来なかったが、広三郎は助け船のように話を続けてきた。
「親方のお名前は?」「トモ造って言うんだがな」「では車トモですかい?」「いや、まだ正式に独り立ちしていねェから・・・弘前車清でェ」現代なら車清弘前支店と言うところであり、トモ造は新規参入、市場開拓の重責を担うやり手支店長になるのだろう。

ゲン希は津軽藩の海岸の植林事業や岩木川の堤防建設に雇われることができた。津軽では天明の大飢饉で多くの領民が死んだため人手不足は深刻であり、このような申し出は願ったり叶ったりなのだ。早速、ゲン希がトモ造の店を訪ねてきた。
道中では中間の装束だったが、今日は古着屋で手に入れたらしい農民の作業着を着ている。
トモ造は木村屋の広三郎が納めた道具を残っていた木片で試しているところだったが、2人並んで上り端(あがりはな)の板の間に座った。
「すまねェな。男所帯じゃあ茶も湯も出ねェんだ」「いいえ、気をつかわねェで下さい」ゲン希は漁師の息子と言う割には礼儀正しく、言葉遣いも丁寧で育ちの良さを感じる。
「親方、オイラは海岸の苗運びに雇ってもらいやした」ゲン希はホッとしたように微笑んでいる。トモ造も安心してうなづたが別のことが気になった。
「おう、この間は言い忘れたがオイラはまだ親方じゃあねェからよ」「ヘッ?」トモ造の思いがけない返事にゲン希は呆気にとられた顔をする。このことは木村屋の広三郎にも言っていなかった。
「まだ、江戸の親方からお許しをもらってねェんだ」「そんでも腕は1人前でやんしょ」「うーん、そいつは難しいところだぜ」トモ造の説明にゲン希は急に表情を引き締めて顔を見た。
「オイラは親方って呼ばせてもらいまさァ。そんな真っ正直なトモ造さんが好きなんで・・・」「親方けェ」確かに弘前城下で店を営む以上、親方でなければ通用しないのかも知れない。トモ造はキヨ助親方の顔を思い浮かべたが微笑んでうなづいてくれた。
「そいでゲン希さんよ、車の具合が悪いようだったら早めに教えてくれ」「へい、親方のお役にたつことなら何でもやりやす」ただゲン希は津軽半島でも中ほどにある十三湖から南の海岸に植える松や柏を馬車で運んだ集積場から現場へ送る仕事なので弘前へ帰ってくるのはたまになるだろうことはどちらも思いが至らなかった。この辺りが江戸っ子と浜っ子の甘いところと言えばそれまでだろう。

ケイは津軽の新緑が萌え始めた候に帰ってきた。
トモ造が弘前について4日後に尾野のタツが出発し13日間で江戸の中屋敷についた。その書状は翌日に下屋敷に届けられ、その日のうちにケイに帰参が申し渡された。しかし、ケイはトモ造の帰りを待つつもりでそのまま過ごしていたが、キヨ助親方に会い津軽に帰る意味を教えられトモ造の親にも会った。
そこからケイはトモ造逢いたさで早々に準備を終え、道中手形を受け取ると女中たちに見送られて江戸を後にした。
道中も普通の女の旅では考えられないほど足が進み、男でも20日はかかる(大名行列は別)津軽までの道を2日違いの22日で到着したのだ。
ただ、この時代はまだ関所が一応の機能を果たしており、江戸から出る女、それも1人旅となると大名の人質=正妻の逃亡を疑われて通行手形の内容の確認に数日を要したから、本当は尾野のタツに勝るとも劣らぬ日程であった。
出羽の国小坂の宿ではケイの江戸仕立ての着物を見て上客と思ったマッサミとマッサキと言う駕籠かきからしつこく声をかけられたが、これはにべもなく撃退した。

碇ヶ関から谷間の道を抜けると大鰐の辺りから風景が開け岩木山が見える。
「やっとお山に会えたァ。ただいま戻りましたァ」ケイは道の真ん中で立ち止まると手を合わせて頭を下げた。独立峰・岩木山の独りすっくとそびえ立つ姿に比べれば道中から見える磐梯山、安達太良山、蔵王山、岩手山などもケイには山並みの1番高い所に過ぎない。
「まさに独坐大雄峰じゃな」その時、眼を閉じて頭を下げていたケイの横で声がした。ケイが慌てて頭を上げると隣りに旅の僧侶が立って一緒に拝んでいる。
「あれェ、お坊様と一緒に拝んじまっただァ」「様がつくほどエライ坊主じゃない。『さん』でよい」ケイの言葉にその坊主は笑って答え、ケイも笑ってうなづいた。そこから2人は一緒に歩き始めた。
「ドクザダイユーホーって何だべ?」「独坐大雄峰と言うのは、地にどっかり腰を下し、天を支えるように独り坐っていると言う意味だ。坐禅をする姿のことじゃな」「お坊さんは津軽のお寺様だべかァ?」「住人に『さん』で棲み家に『様』は可笑しいのォ」言われてみれば寺は坊主の棲み家であって、住人である坊主をさん付けにしておいて棲み家である寺に様を付けては変である。
「だばァ、お寺さんだべかァ?」ケイが素直に言い直すと坊主はさらに愉快そうに笑った。
「ワシは旅から旅の風来坊主じゃ、今は飢饉の死人を弔うために奥羽各地を巡っておる」坊主はこの話を南部領内では何度も説明してきたが、理解してもらえなかったのだ。
「それで津軽にもお弔いに?」ケイの質問に坊主は首を振り、一緒に網代笠も回った。
「うむ、津軽は南部以上に死人が出たと聞いておるでの。だがな、飢饉の折に津軽で百姓の困窮を直訴して磔になった庄屋がいると聞いて、その弔いをしたくなったのじゃ」坊主の話を聞いてケイは「それは私の父です」と言いたかったが抑えた。
「確か平賀の郷の庄屋だったと聞いておるが、平賀は弘前へ行く通り道じゃったのォ?」「へい・・・」ケイの返事が重くなったのを感じ坊主は話題を変えた。
「南部ではエライ目に遭った。ワシを公儀の隠密ではないかと疑って行く先々で代官所に連れて行かれた。おかげで野宿をしないで済んだがの。ククク・・・」坊主はここまで話して思い出し笑いをした。ケイは坊主らしくない気さくな雰囲気に先ほどの思いを打ち明けたいと思った。
「そう言えば直訴と言えば重罪、罪人には墓を作ることも許されんだろう。参るならどこへ行けばいいのかな。娘さん、何か知らんか?」「あのう、お坊様、ワは・・・」ケイはかぶっている笠で顔を隠すようにして話し始めた。

ケイに案内されて坊主は村はずれの木立にある父の墓所に参った。
「ここかァ、ソナタの父上が眠っておられるのは・・・」「んだ、大鰐の刑場から村の衆が運んで来てそのまま埋めたんだども、月のない夜だったんでワとオッカァで穴を掘って埋め直したんだァ」、そう言うとケイは、判らないように土も盛っていない場所に大き目の石を置いただけの墓に手を合わせた。墓には花も手向けられないので母が野の花を移し植えてある。
「それでは葬儀もやっていないのだな」「菩提寺のお坊様も関わりたくねェって・・・」返事を聞いて坊主はケイの横にしゃがむと頭陀袋から線香入れの筒を取り出し、胴火(火種を携帯する道具)で細く裂いた懐紙に火を付けて線香を焚いた。そして托鉢用の持鈴(じれい)を振って延命地蔵経を唱え始めた。
ケイは大きく響き渡る鈴の音で墓所が知られることを心配したが坊主がやることなので黙って手を合わせ、固く閉じた眼から涙をこぼした。

ケイが坊主を家に連れて行くと母は家の前の小川で鍬を洗っていた。
「ケイ・・・」「オッカァ・・・」2年弱ぶりの再会に母娘は言葉が出てこない。そんな様子を坊主は黙って見ていた。
母は感激に十分浸った後、ようやくケイの後ろに立っている坊主に気がついた。
「あれまァ、お坊様だ」「さっき、おトォの墓に参ってもらっただよォ」ケイの説明に母は失礼と御礼を兼ねて深く頭を下げた。
「先ずはこちらへ」「そんだァ、こっちへきてくんろ」母娘が先に立って家に入っていくと坊主も後に続いた。
母は先日、松木直之進とトモ造が来宅した時と同じ手順を踏み、ケイがそれを手伝った。ただ、坊主は身分制度上の適用除外のため、母娘はそのまま囲炉裏の周りに座った。
ケイは母に坊主と知り合った経緯から墓参するまでの顛末を説明したが、母は坊主の顔を心配そうに見ながら訊いた。
「でも、ウチの人は罪人だからって菩提寺の和尚様もお弔いをやってくれねェのに、お坊様はそんだらことして良いんべか?」「死なば佛、罪は生きている間のことじゃ。若し、罪があるのなら尚更、弔いをせねば救われまい。それに主殿(あるじどの)は法度に背いただけで罪を犯しておらん。法度は人が作ったものじゃから佛の知るところではないのじゃ」坊主の言葉に母とケイは顔を見合わせた後、一緒に泣き始めた。
その時、戸の外で「うらァーッ」と言う叫び声が聞えた。
「トモさん?」「んだ、ケイが帰ってないかって3日を開けずに訪ねてくれてるだ」母の返事が終わる前にケイは立ち上がり、草履も履かずに土間へ降りて戸を開けた。
「トモさん・・・」「おケイちゃん・・・」先ほど母娘でやった再会シーンを今度は許嫁同士で再演している。それを母と坊主は黙って見ていた。

土間に入ってきたトモ造は囲炉裏の向うに座っている坊主に気がついて驚いた。
「ありゃ、テンジン様」その言葉を聞いて坊主は黙って柏手を打った。
「パン、パン」この音でトモ造は野宿した時の漫才を思い出して笑いながらうなづいた。
「トモさん、このお坊さんを知ってるだかァ」ケイが驚いて訊いたが、こちらの方が言われたことを守っている。
「うん、一緒に野宿したんだ」「ワシは寝とらんぞ」トモ造の説明をテンジンが否定し、ケイと母は顔を見合わせた。
「でも、どうしてテンジンさんがここに?」「うん、こちらの主殿(あるじどの)の弔いをな・・・」テンジンの言葉にケイと母は、また鼻をすすった。
「それは有り難うござんす」トモ造も手をついて礼を言った。テンジンはその態度でトモ造とケイの関係を察してうなづいた。
「ところでワシはこれから竜飛岬と深浦の知り合いの寺へ行ってこようと思う。お前はその間に石の地蔵を彫ってくれ」「ヘッ?」思いがけない話にトモ造は戸惑った。
「アッシは車屋で石工じゃありやせん」「職人に変りはあるまい。千手観音の手をもう1本お借りすればいいのじゃ」トモ造とケイ、母もテンジンの真意が判らず顔を見合わせて目で会話した。
「ならば観音様の方がいいんでは?」「観音は冠を被っておる。佛には羅髪(らほつ)がある。地蔵ならワシと同じ禿げ頭だ。素人が彫るなら地蔵に限る」この坊主の話はどこまで冗談なのか真面目なのか判らない。しかし、その後の真意は大真面目だった。
「主殿の墓所に地蔵を建てれば墓参ではなく地蔵へのお参りじゃ。誰も文句あるまい」これでトモ造とケイは納得したが、母はさらに心配を口にした。
「されど庄屋様や寺の和尚様のお許しもなく・・・」「寺の坊主には『江戸から来たダイクウテンジンが建てた』と言えばよい」と母の心配をテンジンは簡単に否定したが、結局、何者なのかは名乗らなかった。

トモ造は木村屋の広三郎が納めた板と角材を使って新たな車を作っていた。
木村屋はそれまで藩御用を請け負っていなかったのだがトモ造が必要とする材料を揃え、おまけに規格に合わせた加工までしていることで売り込み、この役を勝ち取ったのだ。まさに広三郎のおそるべき商才である。
ところがトモ造は近所の石工から鏨(たがね)を借りてきて「トントンカンカン」と石を彫り始め、その音に藩御用を管轄する作事奉行の役人が確認に来た。
「トモ造、これはどうした訳じゃ。申し開きをいたせ」役人は最優先すべき「藩御用」を中断して余技を始めたトモ造を咎めようとする口ぶりだ。
「へい、江戸から来たダイクウテンジンって言う坊さんの御注文でして・・・」坊主からの注文と聞いて一応の信仰心がある役人も答えに詰まった。
「しかし、車屋のソチに石彫りの注文をするとはおかしな坊主じゃのう」「まったくでさ、何せ十日のウチにと言うことでして、大急ぎなんでござんす」トモ造の説明を聞き役人は上役に報告するために帰って行った。

その日の夕方、作事奉行所の上級役人がトモ造の作業場にやってきた。
「車清、その石彫りを注文されたのはダイクウテンジン和尚に相違ないか?」「へい、そう名乗られましたが」仕事の手を止めて土下座しながらトモ造は答えた。
1日掛かりで石は地蔵の大きさに削られ、頭と胴の部分くらいは判るようになっている。5日もあれば何とか地蔵に見えるくらいにはできそうだ。
「ソチはダイクウテンジン和尚とはどのような関係なのじゃ」「へい、こちらへ参ります途中で一緒に野宿しやした」そう答えながら先日、テンジンが「ワシは寝とらんぞ」と言ったことを思い出した。
「それではソチはダイクウテンジン和尚が江戸の名刹・文台寺(もんだいじ)の長老であることは存じなかったのだな」「ヘッ?そんなエライ坊さんだったんですかい」トモ造の胸に、どう見ても旅の乞食坊主にしか見えないテンジンの顔が浮かんだ。
「殿が『城にお招きしたい』と申されておる。お会いしたら奉行所に案内いたせ」「へい」役人の命令に返事をしながらトモ造は「人は見かけによらねェ」ことを噛み締めていたが、「テンジンがケイの家に寄ったらどうやって奉行所に案内するのか」を訊く前に役人は帰ってしまった。

案の定、テンジンは城へ行くことを嫌がった。それでは自分が役人に叱られ、恩のある藩主に申し訳が立たないと懇願するトモ造にテンジンは懐紙に歌を記して渡した。
「雲水が 流れ流れて 津軽の地 過ぎ往く縁(えにし)とどむ術(すべ)なし」雲水とは言うまでもなく無常の世を流れるように生きる僧侶のことである。その雲水がたまたま津軽に流れ着いただけのことで、留める術はないと言う意味だ。
「こんなんで大丈夫ですかい?」とトモ造は訊いたが、テンジンは「このお札は効くぞ」と笑ってうなづいた
ケイの父の墓所にはトモ造が彫った石地蔵が建立され、テンジンの開眼供養が行われた。これで母もケイも地蔵参りとして何時でも墓参できることになった。
トモ造はテンジンが元幕臣で、愛する妻の死をきっかけに家督を息子に譲って出家し、宗派を問わず全国の寺を修行して回った末、道場破りのように文台寺に入りこんだ坊主として有名であることを奉行所の役人から聞いた。本当に「人は見かけによらねェ」のだ。

津軽の束の間の真夏、弘前のネプタがやってきた。津軽藩も飢饉の惨状から立ち直りつつある中、犠牲者の弔いを兼ねて今年は盛大だった。
江戸っ子のトモ造は街ごとに神輿を担いで争う激しい祭りには馴れているつもりだったが、「ドンドドンドドーン」と響き渡るネプタ太鼓とシノ笛に合わせて、「ラッセラァ、ラッセラァ」と掛け声を上げながら跳ねて踊るネプタの湧き上がるような熱気には圧倒された。
トモ造は作業場のある町のネプタの後ろでケイと跳ねたが町衆たちはケイを「車清の嫁ッ子」と言って歓迎してくれた。
「嫁ッ子は津軽のモンだべェ」「だども、髪さ江戸風に結ってるだァ」「めんこいなァ」2人で跳ねている後ろで町衆たちは噂しているが、ケイと手をつなぎながら跳ねまくると、そんな様子に町衆も野暮な詮索はやめて祭りを楽しむようになった。
「トモさん、大丈夫けェ」「大丈夫でェ、おーらラッセラァ、ラッセラァ・・・」ケイは汗びっしょりになっているトモ造を心配したが祭り好きな江戸っ子の血が騒いでいたトモ造は下半身の痛みを振る舞われる酒で忘れながら気合を入れ直して、さらに跳ねた。

トモ造が荷車を藩に納め代金を受け取ったところでケイと所帯を持った。
最近、ケイは江戸で結っていた島田髷をやめ津軽の女性がしているように後ろで束ねるようになっていて、祝言がないどころか飾り気もない。
住居は仕事場の奥にある囲炉裏つきの広さ8畳の板の間だが嫁入り道具もほとんどないケイには十分だ。箪笥と卓袱台もトモ造が木村屋から安く買った板と材で作った。ただ、津軽の冬を考えて布団だけは好い物を買った。そして、ついにその布団で初夜を迎えた。
ケイが平賀からやってきた夜、木村屋が頼んでくれた仕出しの夕餉を食べ、河合から届いた祝い酒で2人きりの三三九度をやって布団に入ったトモ造はワクワクしながら行燈の灯りの向うで身支度をしているケイを待っていた。
トモ造は車清に勤めるようになってからの給金を貯めて吉原で筆下ろしを済ませた後、安女郎と遊ぶことがあった。しかし、ケイと知り合ってからはそれも止め、女に触れるのは久しぶりなのだ。
トモ造がもう一度、女郎から習った手順を思い出しているとケイが行燈を消した。
「ゴクッ・・・」暗くなった部屋にトモ造が生唾を飲んだ音が響く、そしてケイが掛け布団をめくる音と気配が興奮を倍増させる。
ケイの体温を直接肌に感じながらトモ造は「寒い冬はこうして温まろう」と思った。ケイと抱き合っていれば体だけでなく心も凍えることはないのだから。

秋、トモ造とケイは父の地蔵に参りながら茸採りをしたが、茸以外にもアケビや木の実、山菜など数日分の食材はすぐに集まった。
「あッ、山葡萄だァ」ケイが木立に茂ったツルの葉を見て歓声を上げた。少し色が変わった葉の影には紫色に熟した山葡萄が実っている。
「甘ェだァ。お前さんも食べるさ」ケイはトモ造に勧めながら、もう一口味見している。
「山葡萄?」江戸っ子のトモ造は山葡萄を見たのは初めてだった。ケイに勧められるまま一粒を口に入れると酸味のある甘さが広がった。
「うん、甘いぜェ」「だべ、んめェ」トモ造は自分でもツルから葡萄の房を採り、ケイと2人で片っ端から頬張った。山葡萄の渋みで口の中が痛くなったところでケイがトモ造の顔を見た。
「お前さん、鉄漿(オハグロ)したみたいだ」山葡萄を食べ過ぎてトモ造の歯は紫色に染まっている。
「ケイこそ、唇に紅の代わりに紫を指したみてェだぜ」トモ造に言われてケイは手の甲で唇を拭った。
「とれた?」「ううん、まだ紫だ」トモ造の返事を聞いてケイがジッと顔を見た。
「だったらとって?」「へッ?」「舐めてとるだ」そう言うとケイは眼を閉じて唇を突き出した。
「何を言ってるんでェ」トモ造が照れ隠しでソッポを向くとケイが言い返した。
「だったら布団の中でも舐めさせてやんないべ」それは辛い!所帯を持って以来、ケイの体の温もりは布団以上の安らぎなのだ。
トモ造は「仕方ねェなァ」とまだ照れ隠ししながら両手でケイの肩を掴み、唇を舐めた。するとケイはトモ造の首筋に両手を回して舐め返してくる。山葡萄の味がする美味しい「口吸い」だった。
「やっただァ、キャハハハハ・・・」口吸いを終えるとケイは勝利の雄叫びのような笑い声を上げトモ造を呆れさせたが、確かに最近はケイのパワーに圧倒され放しである。

津軽の早い秋が深まってきた頃、作業場に見慣れない駕籠屋が来た。駕籠かきの若い方が採光のため戸を開けて荷車を作っているトモ造に声をかけた。
「お晩でがんす」「おう、何でェ。駕籠なんて頼んでねェぜ」トモ造のぶっきら棒な返事に駕籠かきはムッとしたが相棒に言われて話を続けた。
「それはわがってるだども、駕籠さ修理してもらいてェんだす」駕籠の修理と聞いてトモ造の職人としての好奇心が動き、立ち上がると店の前に出た。
「オメェさんは見かけねェけど、どこの駕籠屋さんだい?」「オラァ、出羽のマッサキって言うだ。こっちのアニさんが・・・」「マッサミだァ」ようやくマッサミの方が声をかけた。
トモ造は普通、よその者と仕事の話をする時は年長の方がするものなのに、この2人は逆なことを不思議に思ったが、それも出羽の風習かと思って納得した。
何せ津軽へ来て以来、仕事にしても近所の付き合いにしても江戸とは異なる風習に驚かせることばかりでケイがいなければ何もできない状態なのだ。
尤もケイとの暮らしでも戸惑うことがない訳でない。親子代々江戸っ子の職人であるトモ造には津軽の農民の娘であるケイが求める夫婦の助け合いや触れ合いが気恥ずかしかった。それでツイツイ一歩引いてしまうとケイは哀しそうな顔をする。
トモ造が「何でそんなにくっつくのか?」と訊くとケイは「離れてると寒いべ」と答えた。それが判っていても出来ないトモ造は案外、不器用な奴かも知れない。
駕籠は2人が担ぐ棒と客が座る席を繋ぐ部分の竹組みが緩みバラけてしまっていた。
「こりゃあ、かなり無理に使ったねェ」「んだ、小坂から弘前まで重い客を乗せてきたんだ」トモ造の確認にもマッサキが答え、マッサミは愛想笑いをしているだけだ。
「竹を編み直せば使えるかも知れねェが、長くはもたねェよ」「だったらあの客に割増のオアシ(料金)を言えばよかったな」金の話になってマッサミが口を出した。どうもこれが2人の役割分担のようだ。
「どっちにしろ車屋の手には負えねェよ」「それじゃあ、空駕籠で帰らねェといけねえんかい。商売あがったりだァ」マッサキが文句を言うと、その客を拾ったらしいマッサミは困った顔をしてトモ造を見たが、この時代、まだ人力車はなかった。

その年の冬は寒さとの戦いであった。ケイが作った綿入れを着込み、荷車を作る時の削り屑や切れ端を囲炉裏でドンドン燃やしても寒さには勝てない。あとは酒を飲んでケイと布団にもぐりこむだけだ。
そう言えば木村屋の広三郎は、トモ造に卸す材料を加工する時に出る削り屑や切れ端を燃料として売り、儲けているらしい。
広三郎は中里村の農家の3男だが、一生兄の小作人で終わることが我慢できず弘前に丁稚に出て、店主に見いだされて養子になり、その店主が急な病で視力を失って隠居し木村屋を継いだと言う。本当は広三(ヒロゾウ)と言う名だったが、養子になって広三郎と名乗ったとのことだ。
その先代店主・タツ次郎は店を広三郎に任せきりにして、今は按摩と鍼灸で小遣い稼ぎをしながら、津軽三味線の師匠もしている。
広三郎は冬になる前にも「材料を提供するから藩へ納める以外の荷車を売らせてくれないか」と商談を持ちかけてきた。どうやら深浦や青森の北前船の寄港地で積荷の運搬用に売り込むつもりらしい。
しかし、トモ造1人では藩に納める台数を揃えるのに手一杯でそれどころではなかった。広三郎は条件を色々並べてきたが人手不足は何ともならない。
ただ、ケイだけは他の車屋も同じ物を作りだした時のことを考え、「無下に断らないで話は聞け」と言っていた。全く有り難い、出来過ぎた女房である。

一方、ゲン希は冬の間、海岸の植林の仕事はないものの弘前城下に戻っても住む家がなく(トモ造はケイと所帯を持ったので遠慮した)、木造の村の人足寄せ場で村の娘からもらった防寒着を着こみ、馬の面倒と馬ソリの練習に励んでいた。
「ゲンさん、馬はよォ、あまりすばれる(しばれる)と動かなくなっちまうんだよォ」その日も練習に出ようとするゲン希に津軽の者が助言してくれた。
江戸や横浜では新入りは雑用まで押し付けれたが、津軽の人たちは遠方から来て懸命に働くゲン希を大切にしてくれ、だから初めての冬も何とか生きていられるのだ。
「んだかァ」ゲン希はそう返事をしたが、今朝の雪掻きで外に出た時には雪が止んで天気が良く、絶好の練習日和に見えた。ゲン希は人足たちの飯を食べた後、馬小屋に向った。
馬小屋では馬たちは当番が与えた干し草を食べている。ゲン希の姿を見て一番年寄りの馬が顔を上げ、手に握っていた塩を与えると大きな舌で舐めた。
「オメェも閉じ込められてばかりじゃあつまらないよなァ、オイラの稽古につき合ってくれよ」そう言ってゲン希は馬の顎を撫で、顎に革の紐をはめて外に連れ出しソリにつないだ。そして、ソリに乗って馬を進ませた。この時代、日本では馬の蹄に打ち込む金属製の馬蹄はなく草鞋(わらじ)をはかせている。このため現在のような「パカッパカッ」と言う高い音はしないのだ。
しばらく走って木造の集落を出た時、急に海風が吹き始め、地吹雪が起きて視界が失くなった。地吹雪とは空から降ってくる雪ではなく、地面に降った雪が低音のため固まらず粉雪状態のまま積り、風に吹き上げられて発生する。したがって空に雲がなくても風が吹けば起こり、忽ちのうちに視界を喪失して動けなくなってしまうのだ。
ゲン希はソリを下りて紐を手繰りながら馬に近づいたが、ソリから馬までの一間(180センチ)も見えないほどこの地吹雪は激しかった。履いている雪靴にも地吹雪は入り込み、綿入れの上に羽織った鹿の毛皮の中にも雪が入り、急激に体温が奪われていく。ちなみに毛皮は熊などの冬眠をする獣よりも、鹿や犬などの方が毛の密度や皮の質などの断熱性が高いと言われている
これより少し前、蝦夷地(北海道)を探検した幕府の役人も上級の者は大きな「熊の毛皮」の羽織を喜び、下級の者は犬の革をつないで作った羽織を着ていたが、厳寒の中では犬の革の方が優れていることを思い知ったと言う。
津軽の馬は下北の寒立馬(かんだちめ)同様に寒さに離れているのか地吹雪の中でじっと立っている。ゲン希は馬の影で地吹雪を避けながら寒さに耐えていた。馬の体で温もるつもりだったが、地吹雪に晒されてはそれも感じない。
「オイラ、このまま死んじまうのかなァ・・・おっかァ」ゲン希がこぼした涙も頬で凍りついた。口の周りも鼻水やよだれがツララになっている。
そんな時、「ブフフフン」と地吹雪の中で馬が大きく身震いをした。すると不思議なことに風も止み、地吹雪も収まって青空が見えた。

冬の間、トモ造は狭い仕事場で場所を取らない車輪作りに励んでいた。秋まではトモ造のところへ江戸式の大八車作りを習いに来ていた他の車屋はこの季節になるとソリ作りに移っている。ある日、トモ造は訪ねて来た広三郎に言ってみた。
「オイラもソリ作りを習おうかなァ」「ソリ?そんなのは津軽の職人に任せでおげ」しかし、トモ造の荷車もそのうちみんなが作るようになる。そうなった後は津軽の車屋として生きていかなければならない。そのためには必要な技術だと思っていた。
「親方は荷車を改良、工夫していけばいいんだよ」「オイラはその工夫ってのが苦手でね」そう答えてトモ造は自嘲気味に笑った。
確かにトモ造は言われたことをキチンとこなすのは得意だが、色々な研究工夫で試行錯誤、することに向いた気質ではない。その意味では広三郎の期待には応えられそうもなかった。
「ふーん、ワシも手先が器用ならドンドン新しい車を作って売りまくるけどなァ」そう言って広三郎は自分の両手を悔しそうに見た。
「アンタも千手観音様の手を1本借りなッせ」その時、ケイが湯と漬物を持ってきて、トモ造から聞いているテンジンの話を語った。
「それって売っとるんかァ?」しかし、広三郎の頭の中は商売だけのようだ。

雪を照らす太陽の日差しが眩しくなってきた候、ケイが裏庭から声をかけてきた。
「お前さん、福寿草が咲いてるだァ」「フクジュソー?」トモ造は聞いたことがある名前だが何のことか思い出せず悩みながら勝手口から裏庭に出ると裏庭の雪が解けたところでケイがしゃがんでいた。
「ほら、お前さん、これが福寿草だァ」ケイが伸ばした指先に雪の間から小さな黄色い花が咲いているのが見える。それでトモ造はケイと一緒に江戸の亀戸天神へ梅を見に行った時の・・・初めて口吸いをした日のことを思い出した。
「ふーん、これが福寿草かァ、タンポポよりも輝くような黄色だなァ」トモ造の珍しく詩的な表現にケイを呆気にとられた顔をしたが、もう一度、愛おしそうに福寿草を眺め2人並んでしゃがんだ。
「福寿草が咲いたら春はもうすぐそこだァ、ウッ・・・・ゲェゲーッ」その時、ケイが突然、口を押さえ庭の隅に行き少し戻した。
「寒さが障るんだよ。家に引っ込めェ」「んだァ、やっぱスバレタだァ」トモ造はケイを気遣って家の中に押し込むと、ケイが取りにきた軒の吊るし大根を持って家に入った。

福寿草が咲いた後、トモ造が平賀の母を訪ねると村にエンブリ烏帽子が来ていた。
これは北奥州に伝わる雪解けと豊作を祈る祭りで、独特のお囃子に合わせてきらびやかで大きな烏帽子をかぶった男が烏帽子で地を祓うように首を振って踊る。南部領の八戸辺りが本場らしいが、この時期には北奥羽各地を踊って巡るらしい。村人たちは真剣な顔で飢饉からの復興と今年の豊作を祈っていた。
エンブリが次の村に向うと母はトモ造を家に招き入れた。
「昔、トッチャが生きていた頃はエンブリはウチに泊ったんだよォ」それは庄屋を勤めていた頃の話だろう。関東以西では芸能を生業とする者は「非人」として人間のウチに入れられず、一般の人と一緒に泊ることは許されていないが、エンブリ烏帽子に限らず奥羽では祭事と芸能の区分が曖昧で、芸人も神に仕える者と位置づけられ、少なくとも人間として扱われていた。
「ところでケイは今日は来ねえだが?」「ケイにヤヤコが出来ました」トモ造の言葉に母は一瞬固まった後、囲炉裏の鍋から湯をすくって茶碗に注ぎ勧めた。
「でも、トッチャがあんなことになって・・・」母はまだ不安なようだった。
「大丈夫でェ、藩御重役の河合様も祝ってくれてるだよ」最近、トモ造は江戸弁と津軽訛りが混じるようになった。
先日、急に仕事場に立ち寄った河合正衛門はケイが身籠ったことを聞くと祝儀として手持ちの金子(きんす)を包んでくれたのだ。
河合としてはトモ造とケイが所帯を持った縁を取り持ったこともあり、特に目をかけてくれている。しかし、母はトモ造の返事にもまだ固い表情のままだ。
夫が村人を守るために為したことが死に値する罪であることは判っていたが、それを止めることはできなかった。だから母は罪人の妻として息をひそめて生きていくことは覚悟の上なのだ。トモ造はこの重苦しい空気に堪えられなくなって話題を変えた。
「オッカさん」「なんだァ」「トッチャの地蔵さんに小屋を建てようと思うんだがよ」「小屋?」「冬は地蔵さんの上に雪が積もって吹きっさらしだ。小屋に入れるべェ」トモ造の説明にも母は何かを考え込んでいた。
「トモさん、ナは案外と馬鹿だねェ。それを言うなら祠(ほこら)だァ」トモ造としてはケイの腹に宿った子供の無事を父に願う意味もあったが、母の指摘で話しに変なオチがついてしまった。

春が来て街道の雪が解けた頃、尾野のタツが最初の飛脚に出た。トモ造は作事奉行所に出入りするタツと知り合い、今回は江戸への便りを頼むことにした。
本来であれば飛脚は道中の宿泊費や食費に儲けを上乗せした高額の代金を請求されるのだが、これは河合の好意で藩の書状に紛れさせることにされ無料だった。
「父ちゃん、母ちゃん、元気かい。俺は元気でェ。仕事にも励んでる。そう言えばケイが身籠ったぜ。初孫だろう。トモ造」筆不精のトモ造にしては長文の手紙だった。
ケイは冬に布団で温まり合ううちに身籠ったが、その理由はよく判らない(ワケガナイ)。
この子は江戸の両親だけでなく津軽の母にも初孫になる。トモ造は江戸と津軽と言う距離を越えて結ばれた自分とケイの縁の不思議さを噛み締めながら新しい命を尚更愛おしく思っていた。
しかし、トモ造は「津軽弁では赤ん坊は何て泣くのだろうか?」などと馬鹿なことも考えていたが・・・。

次の月、タツが江戸から戻ってきた。タツは江戸からトモ造の両親とキヨ助親方の便りを預かってきた。
「トモ造、職人の仕事はお天道さんとお足(収入)は何処へでもついてくる。父」父はトモ造以上の筆不精なのだ。
「トモ造、元気かい。母ちゃんは毎日、近所の神社でトモ造の無事を祈っているよ。キヨ助親方がアンタの手紙を届けながら『飛脚が津軽へ帰る前に寄るから手紙を書け』と言ってくれました。無理をするんじゃないよ。早く帰って来て顔を見せておくれ。母ちゃん」「母ちゃん・・・グスンッ」母の手紙を読んでトモ造は思わず泣いてしまった。
それを見ながらケイは「ワは江戸にいる時、オッカァが心配だったども泣きはしなかっただヨ」と呆れて、「カッチャッ子のトモ造」とからかった。
ところでキヨ助親方からの手紙には気になることが書いてあった。それは風紀の取り締まりを強化している幕府は江戸に住みついている無宿人を探し出して強制的に国元へ戻す「人返し」を始め、最初は無職の風来坊だけだったのが次第に過去にさかのぼってになり、江戸で仕事を始めている者も対象になり始めている。
さらに飢饉で行くあてのない者などは石川島(現在の中央区佃)に作られた人足寄せ場に入れられて3年ほど仕事を教えられているらしい。
「俺は若い頃、津軽から出てきたんだ。俺がそっちへ帰るからお前が江戸で車屋をやれ」と書いてあった。考えてみればあのマサ吉も上州からの無宿人になる。
結局、母と親方の手紙はトモ造に江戸へ戻るように誘うモノになっていた。

ゲン希は木造の村で気になっている家があった。それは舘岡の集落から少し離れた森の中にある一軒家で、はじめは炭焼き小屋かと思っていたのだが、その割に屋敷がしっかりしている(浜育ちのゲン希には炭焼き小屋がよく判っていない)。雪は溶けたもののまだ植林の仕事が始まる前の休みにゲン希は思い切って訪ねてみた。
その家の玄関には「識蘆庵」と言う看板が掛けてあった。
「難しくて読めねェじゃん?」ゲン希は網元の2男の嗜みとして母親から「読み書き算盤」を習ったが、漢字はあまり得意ではなかった。ただ、寺や店でもないのに看板が掛けてあることに益々興味が湧いた。
「お晩でがんす」まだ昼間だったが地元の人たちがあらたまった時に口にしている挨拶で声をかけてみた。しかし、返事はない。
「お晩でがんす」もう一度、さらに大きな声で繰り返すと中から「はーい」と返事が返ってきて、田舎にしては品の良い中年の女性が出てきた。
「だだば(誰だ)?」「おいらは浜に松を植える仕事をやってるゲン希って言うモン(者)です」「アンタは津軽モンじゃねえべ?」その女性はゲン希の顔を見ながら訊いてきた。
「へい、武蔵の横浜の出でやんす(横浜でも瀬谷区、戸塚区、泉区、栄区、港南区の一部は相模)」「そいで何の用だべか?」女性はゲン希の返事にうなづきながら検めて顔を見た。
「浜まで松の苗を運びながら通ると時々裏で煙が上がっているんで、何の仕事をしている家かと思いやして」「ウチの人が焼き物をこさえてるんだァ」「焼き物?」「せば(失礼)」
呆気に取られているゲン希を置いて、女性=女房は忙しそうに奥へ引っ込んでしまった。
しかたないのでゲン希は「お邪魔します」と声を掛けて裏に回って見ると、そこには土を塗り固めたような小山の上に屋根を掛けた窯があり、その前で大柄な中年の男性が割った薪を片手に持ちながら座って炎を見つめている。
ゲン希はその数歩後ろまで近づいたが男性の身体が窯の炎と一緒に燃え上がっているかのように感じ声がかけられなかった。
その時、冷たい風が吹きゲン希が身を縮めると、その男性が大きなクシャミをした。
「あの・・・」おそるおそる声を掛けるとその男性が前を向いたまま「だだば?」と返事をする。ゲン希は先ほど女房にしたように自己紹介をした。
「今、手が離せねェんだ。悪いがけえッてくれ」男性は「手が離せない」と言ったが「目が離せない」の間違いではないかと思いつつゲン希は「出直してきやす」と告げて人足寄せ場に戻ることにした。

翌日、ゲン希が出直してみると識蘆庵の前で先日の女性=女房が木箱を裏に運んでいた。
「お晩でがんす」「あれェ、昨日の横浜の若い衆じゃあねェけ」女房は両手に木箱を抱えたまま立ち止まると微笑みかけた。
「手伝います」「せば、あの箱を運んでけろ」女房は視線で仕事を指示すると裏へ向かって歩き出した。
ゲン希も両手に木箱を抱えて運んで行くと裏手の窯では昨日の男性=識蘆庵が窯から焼きあがった器を出している。
それは茶椀や瓶、徳利など色々な食器だが、この辺りの庶民が使っている須恵器のような素焼きではなく、燃える炎のような模様が彫られ、赤い釉薬がかかっていた。
識蘆庵はそれを1つ1つ手に取って確認すると次々と足許の石に叩きつけて割っている。
「ああ、勿体ない」思わず声を上げたゲン希に男性は「おう、昨日は失礼しただな」とだけ声を掛け、次の器を手に取った。
「うむ・・・これならいいな」「うん、いいだね」識蘆庵と女房は器を見ながらうなづき合った。そして識蘆庵が手渡した器を女房は紙に包んで箱に入れた。

窯出しが一段落したところで女房が出した白湯を飲みながら話をした。
「庵主さんの焼き物は綺麗ですね」「庵主さん?」「ここの御主人でしょう」「ああ、それで庵の主だべか・・・」「それじゃあ、坊さんみたいだなァ」「うん、ワシはただの焼き物屋だ」識蘆庵と女房はゲン希の質問とは別の問題を話し合っている。
「それでここの名前は何て読むんで?」「ここか?シキロアンだ」「シキロアン?難しい名前でんな」「ワシが昔、世話になった美濃の禅寺でもらった名前なんだ」「美濃ですかい?」
「うん、近江の信楽、丹波に越前、備前、それに尾張の瀬戸、常滑を六古窯って言うんだ。ワシはナ(汝)ぐらいの頃、それを巡って修業してきたんだ」ゲン希は識蘆庵の焼き物がただの生活雑器ではない理由が判った。何よりも言葉に津軽訛りが薄いことも納得した。
「この模様は・・・?」「この辺りでも彫った柄(絵紋線)がある黒い壷が掘り出されることがあるんだ。それに倣ってみたんだ」「それでこれは殿様がお買い上げになるんで?」「いや、北前船に乗せてあちこちで売ってもらってるんだ」「この人が描く模様は見ていて落ちつくって人と力が湧いてくるって人がいるんだ」識蘆庵の説明に女房が補足した。そう言われて見直すと不思議に心の中で炎が立ち上ってくるような気がした。
「さて、木村屋さんが受け取りに来る前に運ぶべ」「木村屋さん?」ゲン希はその名前をトモ蔵のところで聞いたような気がした。
「木村屋さんはお城下ではやり手の大店だから名前くらいは知ってるべ」「へい」そう返事をしながらゲン希も器を詰めた木箱を持ち上げたが、すると意外なほど軽かった。
「軽いでやんすね。こんなに焼き物が詰まっている割には」「好い器は軽いんだ。腕の良い職人が作れば土が薄くても壊れない器に仕上がるベ」「なるほど・・・」ゲン希は感心と納得しながら箱を運んだが、識蘆庵夫婦は丁寧な仕事ぶりを見て何かを話し合っていた。

ある日、トモ造の作業場に知らない若者がやってきた。
その若者は「松前(北海道)から来た」と言った以外、名も名乗らず、黙ってトモ造の仕事をのぞいていたが、「これが江戸の車かァ。噂通りだな・・・」と呟いた。
その言葉で若者が松前でトモ造の江戸式の荷車の評判を聞いて訪ねてきたのが判った。
「ならば正直に言って弟子入りすればいい。こっちも人出が欲しいんでェ」とトモ造が声をかける前に、若者は「やっぱり板前の方がいい」と言って出て行ってしまった。

その年はケイの腹がおおきくなってネプタで一緒に跳ねることもできず、広三郎が納める板と材で荷車を作り、藩に納めるだけの単調な日々が続いていた。
広三郎は藩の仕事の現場へも出向き、色々な人夫たちの要望も聞いてくるが、荷台に枠をつけて苗木が滑り落ちないようにするくらいしかトモ造にできることはなかった。
そしてケイが心配した通り、地元の車屋もトモ造と同じような荷車を作り納めるようになって次第に仕事は減っている。
そんな初冬、ケイが女の子を生んだ。雪が舞い散る候だったので「マイ」と名づけた。
しかし、ケイの母は弘前城下に入ることを遠慮していて孫との対面ができない。
トモ造はそんな生真面目な母が歯痒かったが、キヨ助親方の手紙に書いてあった江戸で吹き荒れている風紀の取り締まりを思えば、それはワガママだと納得した。

ゲン希も木造の現場で新しい車がトモ造の手でないことに気がついていた。
造り(構造)は同じでも、鉋のかけ方や角を丸く削ってあることなどトモ造の仕事は細かい点まで行き届いているのだ。
先日、車の調子を尋ねてきた木村屋の広三郎と言う商人(あきんど)も「親方の車はどこかに名前を入れておかねばなァ」と言っていたが人足の多くは文字が読めず、それはトモ造の宣伝と言うよりも木村屋の品質保証のためらしい。
広三郎からトモ造の様子を聞き、ゲン希は無性に会いたくなった。
「親方はオイラを覚えてくれてっかなァ?たまには会いに行きてェぜ」
ゲン希は弘前城下の方向にそびえる雪化粧した岩木山に向かって頭を下げた。

トモ造とケイの家は作業場の奥の一間なので、冬に締め切ると金槌の音が家中に響きマイが寝なくて困ってしまった。
かと言って地吹雪の中をケイが連れだす訳にもいかず、金槌を使うのはマイがおきている間にしたいが仕事の流れでそうは問屋が卸さない。
「トントン、オギャーッ」「カンカン、オギャーッ」「トントン、カンカン、オギャーッ」これが日中に津軽車清で響き渡る大音声であったが、その分、昼飯で静かな時と夕方から朝まではよく眠り夜泣きもしない。つまり眠れる時に眠る赤ん坊なのだ。
やがてマイは金槌の音ぐらいでは動じない肝の据わった娘になってしまった。
「やっぱり職人の娘だァ。金槌の音が子守唄だよ」ケイはそう言うが、この図太さはケイに似たのかも知れないとトモ造は思っていた。

春になって梅、桃、桜の3つの春が咲き揃った候、トモ造は家族で花見に出かけた。
禅林街の寺の境内には、それぞれの花が植えられ咲き競っている。本当は1番奥の長勝寺の広い庭園なら3つの春が揃っているのだが、藩主の菩提寺なので庶民の参拝は許されていない。
「オラは梅が好きだァ」桜を目当てに出掛けたはずなのにケイは梅の花を見上げながら呟いた。3つの春の中でやはり梅が最も早く沢山の花が咲いている。
「梅が?梅は地味じゃねェか」トモ造の返事にケイは少し怒った顔をして膨れた。
「だってェ、お前さんと花見したのは梅が最初だ。それにあん時・・・・」ケイの言葉で鈍感なトモ造の胸にも「初口吸い(=ファーストキス)」の思い出が甦ってきた。
「梅かァ。そう言えばその髪じゃあ、櫛は差せないよな」島田髷を止め、首筋でまとめているだけの髪では櫛が固定できないのだ。
「うん、だからお守りにいつも持ってるだァ」ケイはそう言うと懐からあの日、トモ造が買った朱塗りの櫛を出して見せると抱いたマイの髪を梳かし、マイは嬉しそうに笑った。その笑顔はトモ造似だ。
「それじゃあ、ここで弁当を広げるか?」そう言ってトモ造が手に下げた風呂敷を見せるとケイは首を振った。
「先ずは桃と桜も見てからだァ。弁当食ったら酒も飲むんだべ」確かに風呂敷の中には2合徳利も入っている。飲んで歩きまわるのは大変そうだ。
そこで次の寺にむかうとそこは桃、その次は桜だった。
「やっぱり桜は賑やかだァ」「うりぁあ、車清の親方ァ」トモ造がケイと話していると、いきなりゴザを敷いて花見の宴を始めている一団に声を掛けられた。

「ありゃ、木村屋さん」「毎度、お世話になっています」それは木村屋で、今日は先代夫婦に奉公人も一緒に来ているようだった。
席の真ん中で三味線を弾いているのが先代のタツ次郎だろう。タツ次郎の三味線の腕は玄人裸足で、トモ造は音色を聞きながら宴席に呼ばれている芸人かと思っていたのだ。
「一緒にどうだべ」タツ次郎の妻は人懐こい笑顔でトモ造とケイを手招きした。
「でも、子供がいますから」「ワラス(童子)は乳だべ。トッチャは酒を飲めばいいだ」妻は強引に誘うと奉公人に席を開けるように指示した。
「んだば」トモ造はケイの顔を見て一緒にゴザに上がった。腰を下すと手回しよく取り皿と盃が回ってくる。隣りで番頭らしいが中年男が酒を注いだ。
「親方の車、仕事に手抜きがねェって評判ですよ。やっぱ江戸の職人の仕事だっでェ」番頭はすでに酒が入っているのか、少し呂律が回らない口調で話してくる。
「職人の仕事は千手観音さんの・・・」「手を1本借りてるんだべ」トモ造が言おうとした台詞を番頭が先に返した。どうやら広三郎が店で話したらしい。
トモ造が探すとケイは先代の妻の影に隠れてマイに乳をやり始めていた。
その横で目が見えないタツ次郎が緩やかなテンポの三味線を弾いている。それは子守唄代わりの曲調だった。
「あれはジョンガラでなくてネンネコ節だァ」番頭の説明にトモ造は納得した。

マイがハイハイを始めた夏、藩主・津軽信明公が30歳の若さで逝去された。
一部には毒殺の噂も流れるほどの急死だったが、天明の大飢饉で領民を多数失ったことの心労やその後の半農藩士策(希望する藩士に荒廃した田畑を耕作させた)などの藩政改革で苦心され身心ともに疲れておられたのだと家臣、領民は死を悼んでいた。
信明公には世継(子供)がなく末期養子(まつごようし=死の直前に養子縁組すること)で黒石支藩藩主の寧親(やすちか)公が9代藩主になった。
弘前城下では黒石支藩の側近が乗り込んできて代々藩主に仕えてきた重臣たちは隠居させられると言う噂で持ち切りだったが、職人に過ぎないトモ造には世間話に過ぎなかった。
そんなある日、木村屋の広三郎が顔を出した。
「親方も大変だねェ」ケイが出した漬物で湯を飲むと広三郎が切り出した。
「ヘッ?」横でケイも驚いた顔をする。トモ造にとってお城の中のことは自分のような庶民には関わりのないことだと思っていたのだ。
「親方は先代様のお声がかりで弘前城下で仕事を始めたんだべ。おまけに河合様のお力添えがあればこそやってこれたんだァ。だから作事奉行所の役人たちも遠慮していただ。その後ろ盾がなくなったら今までのようにはいがねェよ」広三郎の分析は流石だった。
荷車を納めるにも作事奉行所の役人たちは江戸屋敷の高野忠兵衛のような難癖をつけることもなく好意的に対応してくれている。
これも藩主とその側近・河合正衛門の存在があったればこそと言われればその通りだ。
トモ造は自分の力で全てを取り仕切っていると思っていたことが自惚れ、慢心だったと言うことを思い知らされた。
落ち込んでいるトモ造の横からケイが広三郎に訊いた。
「そんで、木村屋さんはどうするのす」「ワは取りあえず黒石とも取引があるから大丈夫だども、すばらくは様子見をせねばなんねェべ」このあたりの呼吸が広三郎の身上である。
焦って黒石支藩に売り込みに走れば弘前城下での信用を失い、長い目で見れば損する面も大きいのだろう。トモ造とケイは顔を見合わせて感心した。
トモ造は藩主の交代と言うエライ人たちの動きが職人として生きていることに意外な影響を与えることに驚きながら何をすべきか考えたが判らないので止めた。

その年、最後の飛脚で尾野のタツがキヨ助親方の手紙を持ってきた。
江戸では「鬼平」と呼ばれる関八州火盗検め(かんはっしゅうかとうあらため)の長谷川平蔵が情け容赦ない取り締まりを始めており、キヨ助とマサ吉の2人が無宿人であったことが知られそうであること。春には家族とマサ吉を連れて津軽へ戻り、江戸の車清はトモ造に譲りたいこと。トモ造の両親もそれを望んでいることなどが書かれていた。
しかし、タツは「江戸は役人ばかりが威張っていて、昔は江戸へ出るのが楽しみだったけれど、今は遊びもできない」と言ってトモ造の気分を滅入らせた。

冬、トモ造はマイの成長を楽しみながらも江戸へ戻る件をケイと話し合った。
「オラはお前さんの女房だ。お前さんのそばがオラとマイの居場所だ」ケイの返事にトモ造は自分の判断が家族三人の行く末を決めることになることを思った。
トモ造は燗をつけた酒を茶碗で飲み、ケイは行燈の明かりでマイの寝顔を見ている。外からは吹雪が戸を叩く音が聞えてくる。しばらく静かな時を過ごした後、ケイが思い切った顔でトモ造を見た。
「1つお願いがあるだ」「うん?」「今度はオッカァを一緒に連れて行きてェだよ」「オッカさんを?」これはトモ造は思ってもいないことだった。確かに今度江戸へ戻れば津軽へは帰ってこられないだろう。老いていく母を1人で残すことは1人娘のケイには出来ないことだ。
「オッカァは江戸は初めてだども、あっちは雪は降らねェし大丈夫だよ」「うん・・・わかった。オッカァには雪間を見て俺っちが話に行く」トモ造は母の素朴で生真面目な気質が江戸で通用するか考えてみたが、ケイの目がその答えを決めさせた。

雪が止み、青空が広がった日、トモ造は平賀まで出掛けた。笠をかぶり綿入れを着込んで藁靴とカンジキを履いての道中だったが流石に凍えきった。
「オッカァ、オイラだ、トモ造だァ。開けてくれェ」トモ造が雪を掻き分けて辿り着いた母の家はシッカリ戸締りがしてあり、半分雪に埋もれている。トモ造は必死になって戸を叩いて声をかけた。
「だだばァ、トモ造さんの名を語るのはァ」家の中から母の声がしたが簡単に戸は開けてもらえなかった。
「トモ造だァ、用があってきただァ」そう言いながら手で必死になって雪を掘るとやがて母が戸を開けた。
「あんれェ、トモ造さん。雪童子(わらし)かと思っただヨ」雪童子と言うのは雪の日に現れ悪戯をして人間を凍死させると言う妖怪で、それを避けるために簡単には戸を開けないのだ。
「凍えたべェ、火に当れ」雪を掻いて汗をかいたトモ造に母は囲炉裏端で火に当ることを勧める。確かに体を動かすのを止めると急に冷えてきた。
火に当り、湯を飲みながら江戸行きの話をすると「ワも江戸へ・・・足手まといになるだよ」と言って母はしばらく考え込んだ。
「あっちじゃ、住む家もねェし・・・」確かにトモ造家族はキヨ助親方の家に住むとしても、母が一緒となるとやや狭いだろう。
「江戸は弘前よりも大きな街だから家くらいすぐに見つかるよォ。でェてェ、こっちに一人で置いとくとケイもオイラも心配ェなんでェ」このトモ造の言葉で母の気持ちは決まったようだ。
「そだば、お世話になるべェ」そう言って母は床に両手をついた。

春一番の尾野のタツ便でトモ造はキヨ助親方に手紙を送った。
「弘前は殿様が急にお隠れになって大変なことになっています。作事奉行様やお役人たちも数多く交代されました。親方の家は木村屋の広三郎さんに頼んで見つけました」中里村出身の広三郎はキヨ助親方の名前と江戸へ出た経緯を聞いて金木村にそんな話があると言っていた。
また、河合正衛門も藩主側用人の職を辞して、飢饉で大きな被害を受けた十三湊(とさみなと)の代官になり、自ら半農藩士として田畑を耕していると言う。ただ、荒廃した農地の復興に大きな成果を上げた半農藩士の制度も、武士の誇りにこだわる守旧派の反発が強く、藩主・信明公が亡き後も継続されるかは不明なのだ。
タツはキヨ助親方の手紙も持ち帰った。
「トモ造、家を見つけてくれて有り難う。こっちも大変だ。でもオメェは江戸っ子だから里帰りだろう。俺たちは(津軽の)殿様が国に戻られる前に出発する」新藩主・寧親公は現在、江戸在勤中で公儀(幕府)の任命を受けてから国元に戻るらしい。その前に来て足場を固めておこうと言う親方の考えだった。
トモ造は道具をどうしようかと迷ったが、侍の刀同様に職人の命とも言える道具を江戸へ持って帰ることを決め、それを運ぶための小さ目の荷車を作った。

「津軽の桜を待っていると江戸へ着く頃には暑くなるから」とトモ造、ケイ、マイは早春に弘前を旅立ち、3年の生活で馴染んだ近所の人たちが総出で見送ってくれた。
ケイには故郷との別離のはずだが意外に落ち着いて、むしろ見送りの人と談笑している。
その横で木村屋の広三郎が平べったい箱を差し出した。
「これはつまらねェ物だども・・・」木の箱の蓋を開けると、それは津軽塗の盆だった。
「津軽者のおケイさんも江戸に行げばもう帰ってこられねェべ。これならいつまでも使えるから思い出してけれ」トモ造は盗まれないようにこの箱を荷車の道具の影に隠した。
「広三郎さん、お世話になりやした」「ヒロゾウでいいべ。同い歳の親方と一緒に仕事するのはワも楽しかっただよ」トモ造は広三郎の見事な商才には学ぶことが多かった。それが江戸で自分の車屋を切り盛りするのに必ず役に立つと思っている。
すると広三郎の後ろから見覚えのある若者が顔を出した。
「ありゃ、オメェは?」「さいです。ゲン希でやんす」それは江戸から津軽に向かう道中で知り合った中間のゲン希だった。
「どうして・・・」「アッシは木村屋さんに雇ってもらいやした」「ゲン希の車引きは乱暴じゃないんで商品を運ぶのに向いてるだ。知り合いの焼き物屋から紹介を受けて、河合様にお願いしてウチで雇うことにしたんだァ」言われてみるとゲン希も木村屋の羽織りを着ている。
3年ぶりに会ったゲン希は身体は逞しくなっているが、目はあの頃の素直なままだった。
「そいつはありがてェ、コイツはオイラの弟分みてェなもんだ。よろしく頼みます」「そうかァ、ゲン希も親方ゆずりの江戸前の仕事かァ。それなら安心だ」広三郎の言葉にゲン希も嬉しそうにうなづいた。
「それじゃあ」「せば」「せば」トモ造一家が見送りの人々が声を交わして出発しようとした時、木村屋の先代・タツ次郎が軽快な三味線を弾き始めた。
その横で妻のキョウが合の手を入れている。トモ造一家は津軽三味線に送られて弘前を後にした。

この日で引き払う平賀の家から4人で父の地蔵に参った。
トモ造が建てた祠の中でケイに似た丸顔の地蔵さんは黙って別れを告げている。
「オットゥ、連れて行ってやれなくてすまねェな・・・だどもこれでオラも罪人の女房から普通の暮らしに戻れるだァ」そう話しかけながら母は地蔵の顔を手で撫でている。
隣りのケイの胸に地蔵が「どさ?」と訊いたので、手を合わせながら「江戸さ」と答えた。
「向こうでまた同じ地蔵さんを彫るだァ」突然のケイの言葉にトモ造は戸惑った。
「テンジンさんは江戸に帰ってるはずだァ、また御精(おしょう)入れをしてもらえばオットゥの魂も来られるべ」ケイの頭の回転はトモ造よりも早いようだ。
江戸へ帰ったならば商売はケイにまかせて、自分は車作りに励むべきかとトモ造は考えた。

そこからは男1人に女3人の家族揃っての旅になる。
トモ造の道具と布団を乗せた荷車に乗せられてマイは嬉しそうに笑ったり、布団にくるまって眠ったりしている。現代なら牽引式キャンピングカーと言うところだろう。ケイと母も話が弾んで妙に楽しい気分になっていた。

碇ヶ関を抜けて南部領に入ると小坂の宿で1泊した。
「ありゃ、弘前の車屋の親方じゃあないけェ」小坂の宿の入り口で馬子に声をかけられたが、それは駕籠かきのマッサキだった。
「オメェはあの時の駕籠かき?」「んだ、今は馬子をやってるだァ」マッサキはそう答えると本来は農耕場らしい馬の顎を撫でた。
「あの時の相棒は?」「マッサミけェ。頼りになんねェんで別れただよ。今はこの馬が相棒だァ」確かに作業場に来た時も仕事のやり取りはマッサキにまかせ、年上のマッサミは横から口をはさむだけだった。
「ふーん、馬子とどっちが儲かるんだい」「このオグリキャップは働きモンだども餌を食うからなァ。儲けは駕籠と変わんねェな」「オグリキャップ?変な名前だなァ」「そうけェ?、『送り客』だべさ」この名前が秋田訛りなのか聞き間違いなのかは判らなかった。
ついでにマッサミは今も駕籠を担いでいるのか訊きたかったが深入りは止めておいた。

道中では旅籠に泊るにも荷車の道具は全部、下ろして部屋へ運ばなければならない。
気を利かして帳場(フロント)で預かってくれる旅籠もたまにはあるが、道具の値打ちは職人しか判らないので仕方ないことだろう。
母とケイとマイと老幼の女3人連れの旅では進行速度は大名行列並みだ。となると旅籠代もそれだけかかる。弘前で蓄えた金はこの道中で使い果たしそうだった。したがって往路に勧められた松島見物は諦めた。

仙台を過ぎた道でトモ造たちは旅の若侍に声をかけられた。
「おう、トモ造親方かァ」「ヘッ?これはお武家様」数歩先に出て振り返った若侍にトモ造は慌てて車を止め、マイを下し、4人で土下座しようとした。これは武士と町人の身分の関係上必ず行われる礼式なのだ。
「ハハハ・・・ワシじゃ」その若侍が笑いながら笠を取ると、それは松木直之進だった。
「ソチたちの出立は知っておったが、えらくノンビリじゃのう」「へい、見た通りの足弱(あしよわ)な女子供連れで」トモ造の説明に松木はうなづいた。
「ワシも河合様の命で江戸へ行くことになった。下屋敷務めだからまた会おうぞ」河合は将来を見込んでいる松木を国元で起るであろう藩主交代の混乱から守るため、当分は藩主不在になる江戸へ送りこんだようだ。
「へい、また車の御注文をいただければ有り難いことです」侍と町人が立ち話しているのを奇異に見て行く旅人たちを気にして、松木は笠を被り、刀と服装を確かめた後、「せばッ」と言って歩き出した。

白石の宿の手前でキヨ助親方一家、マサ吉と出会った。
キヨ助親方も車を作り道具を乗せマサ吉に引かせている。トモ造の道具を欲しがった弘前の車屋も多かったが、売らずに持ってきたことで親方やマサ吉にも面子が立った。
「おう、トモ造、この車はいいぞ、腕を上げたな」親方は道の真ん中でトモ造が引いている車を確かめ褒めてくれる。
トモ造は親方の隣りでマサ吉が欠陥を探すような目で眺め回しているのが気にはなったが、無視して親方と話した。
「へい、有り難うござんす。マサ吉は腕を上げましたかい?」「おう、器用さではオメェ以上の才がある。ただ真面目さではオメェに敵わねェな」キヨ助親方の評価にマサ吉は一瞬喜んだ後、顔を強張らせた。
親方の車に2人分の道具が積んであることを見ると、マサ吉もかなり仕事を任せられるようになっているようだ。それはトモ造自身に比べかなり早いように思った。
以前のトモ造なら仕事の腕で後れを取ることは我慢できなかっただろうが、弘前の仕事で職人は腕の良し悪しだけでなく信用も大切な商売道具なのだと学んできた。キヨ助親方はそんなトモ造の表情を見て、成長の跡を確認したようだった。
「これがオメェらの娘かァ」「へい、マイと言いやす」「ふーん、可哀そうに親父似だな」そう言って親方は悪戯っぽく笑うとマイの頭を撫でる。
「親方の娘さんたちは」「おう、挨拶しねェか」親方に言われて娘2人が出てきて頭を下げたが、こちらも親父似だった。
それから津軽と江戸の様子を情報交換して親方一行と別れた。

約1カ月の旅の末、無事に江戸へ着いた。色白だったケイ、マイもすっかり日に焼けてしまっている。
親方の家は隣りのおカミさんが掃除をしておいてくれていたが、雨戸を開けるとカビ臭いにおいがした。これからここで義母とケイとマイの4人の暮らしが始まるのだ。母とマイには江戸の流儀に馴れていくことからだ。
トモ造自身も仕事をとってくることから始めなければならない。
トモ造が道具を作業場の棚に仕舞っていると母がマイをあやしながら箒で部屋を掃き、ケイが近くの井戸で桶に水を汲んできた。こうしてトモ造一家の江戸での生活が始まった。

翌日、トモ造、ケイ、マイと義母は渡し船で荒川を渡り、実家に帰った。
「けェったぜ」トモ造が土間の戸を開けて大声をかけると家の中では、母は釜戸で昼餉の仕度をしていて、父が上がり端の居間で正座をして何故か眼をつぶっている。
「トモ造」母は駆け寄るとすがりつくようにして息子を確かめ、「おっかさん」とトモ造も言葉にならずに母の顔を見ている。
そんな2人の後ろでケイと義母は「カッチャッ子のトモ造」と笑い合っていた。
息子との感動の再会を終えたトモ造の母とケイ、マイ、義母が挨拶をしていると父が声をかけてきた。
「おい、トモ造は元気けェ?」父は相変わらず眼を固く閉じたままだ。
「元気けェって、お前さんが自分で見なよォ。目の前にいるんだから」母が呆れて返事をすると父は首を振った。
「見られねェ、目を開けられねェ・・・目を開けちまうと涙が・・・涙があふれてしまいそうなんでェ」そう言って父は鼻水をすすった。
「これだもんねェ、マイちゃん、お祖母ちゃんにおいで」母はそう言ってケイの腕からマイを抱き取った。
「マイ?マイもいるのけェ。仕方ねェ、目を開けるぞ」その言葉で気合を入れた父は目を開けた。父の正面には3年ぶりのトモ造が立っている。
「トモ造・・・こいつ動いてるじゃねェか」「当り前だよ、生きてるんだもん」トモ造の横でマイを抱いた母が呆れたように返事をする。
「オメェ、でかくなったなァ。俺よりもでけェだろう」「それは出発前からだよ」これは父が年を取ったからではなく単に照れ隠しなのをトモ造は知っている。
父と母の掛け合い漫才を聞きながらトモ造は江戸に帰ってきたことを噛み締めていた。

  1. 2014/12/17(水) 09:16:40|
  2. 「どさ?」「江戸さ」
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