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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

自称=無頼派作家・伊集院静さんの逝去を悼む。

11月24日に我々の世代には美人女優の夏目雅子さんと篠ひろ子さんと結婚したことで一身に羨望(嫉妬?)を受けていた作家の伊集院静さんが73歳で亡くなったそうです。
伊集院さんは山口県防府市出身で野僧が曹候学生の卒業課程から教育班長として勤務していた時に行きつけにしていたスナックは姉上が経営していて(2度目の時は駅の高架工事で立ち退きになってしまい閉店して移転先は判りませんでした)、野僧が週刊文春に連載していたエッセー「二日酔い主義」の愛読者であることが判るとサイン入りの単行本をくれて姉の目で見た口述伝記を語ってくれました。ただし、その本は「貸してくれ」と頼まれて貸した空曹がまた貸しを繰り返している間に所在不明になりました。第1教育群では様々な手口で野僧が著者から贈られたサイン入りの本を5冊以上奪われています。
また野僧が夏目雅子さんのファンだと判ると本人が座っている席に座らせてもらいまって尻合いになりましたが、流石に「専用のグラスで飲ませて使わせてくれ=関節キッスをさせてくれ」と頼んでも断わられました。さらに雅子さんが亡くなって「墓参りをしたい」と申し出ると野僧が本当の坊主なのを知っているママさんは菩提寺と墓碑に刻まれている本名の姓を教えてくれてファンとして菩提を弔うことができました。それにしても雅子さんの東京での葬儀は実家の小達家の日蓮宗で行われて戒名が付けられていましたが菩提寺は曹洞宗なので別の戒名が刻まれていました。
そんな姉上との交流が中隊で知られる小中学校の同級生と言う班長がいて伊集院さんのことを「忠来=ちゅらい・韓国語読みではチュンレ・日本語名はタダキ」と本名で呼びながら姉上とは違う切り口の口述伝記を語ってくれました(多くは「二日酔い主義」に書かれていた逸話が事実であることの証言になった)。その班長の話では伊集院さんは父親が日本に移住してきた在日韓国人で元々は「趙」姓だったそうです。子供の頃から野球が上手く姉=ママさんが読売巨人の投手と結婚したため(後の離婚している)プロ野球選手を目指すようになり、上京した折に長嶋茂雄選手から「立教大学へ行け」と勧められたので立教大学文学部日本文学科に進学して野球部に入部しました。ところが肘を壊したため野球は断念して文学を真剣に学び、卒業後は広告代理店のCMプロデューサーとして活躍して1度目の結婚をして2児を儲けながら離婚しています。この頃に資生堂の「Oh・クッキーフェイス」のCMに出演した夏目雅子さんと知り合って不倫関係になっていました。
その後はプロデューサーとしての幅を広げながら雑誌にエッセーを寄稿するようになり、昭和56(1981)年に文学雑誌で「皐月」を発表して作家デビューすると次々に話題作を執筆して1991年と2002年に吉川英治文学賞を2回、1992年に直木三十五賞=いわゆる直木賞、1994年に柴田錬三郎賞、2014年に司馬遼太郎賞を受賞して2016年には紫綬褒章も受章しました。
「二日酔い主義」では酒や競馬、競輪などのギャンブルと麻雀やパチンコの博打にも目がないと放蕩無頼を気取っていましたが、団塊世代の日本人よりも筋を通す東洋的な美意識を感じて敬意を抱いていました。心より冥福を祈ります。墓参できないのが残念です。
  1. 2023/11/27(月) 16:54:04|
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平成の応援歌「愛は勝つ」を唄ったkanさんの逝去を悼む。

11月12日に1990年の夏に発売したアルバムの収録曲で翌年に「やまだかつてないテレビ」のエンディング・テーマソングになったことで大ヒットした数少ない平成の応援歌「愛は勝つ」を唄った歌手のKanさんが亡くなったそうです。野僧よりも1歳下の61歳でした。それにしても昭和は応援歌ばかりでした。
「愛は勝つ」がヒットした頃、野僧は福岡県春日基地の西部航空警戒管制団司令部の訓練班で勤務していましたが、西部航空方面隊英語弁論大会に出場する選手の壮行会で「スリー・スリー・セブン・リズム・カウント(三三七拍子)」を披露して以来、一発芸を期待されるようになり、おまけに他の基地での大会に出場する選手の行進曲にしている「西部航空警戒管制団歌」はリズムが合わないため持続走なら「炎のランナー」、武道大会では美空ひばりさんの「剣ひとすじ(当時は剣道と銃剣道の2種目だった)」を流して大うけしたのですが、何かの種目の時、若い選手が「これでお願いします」と自分でカセットテープに録音して持ってきたのが「愛は勝つ」でした。
一応、関係上司に相談すると「今時の流行歌かァ」とやや難色を示したものの「選手の希望なら」と許可が下りて団朝礼の後の壮行パレードの時に流したのです。すると独特のピアノの前奏で若い隊員は気がついて手拍子を始め、若い選手たちも口ずさみながら歩いて「必ず最後に愛は勝つ」のところでは合唱が始まって異様に熱狂的な壮行パレードになりました。その効果なのか優勝して出迎えでも流すことになり壮行パレード以上に盛り上がりましたが、それまでの「西部航空警戒管制団歌」に合わせて整然と行進していたのに比べるとあまりにも野放図なので「愛は勝つ」は打ち止めになりました。
ところが「あの曲はモリノ3尉の趣味だ」と誤解した若い隊員たちがこの歌の意外な裏話を聞かせてくれたのです。唄っているのはkanと言う変な名前の歌手で地元・福岡市出身と言うことでした。そうなれば九州では小中学高校の同級生や親戚が登場しますが、今回は小学生の野球チームで一緒だったと言う空曹でした。その空曹の説明によるとkanさんは昭和37(1962)年に福岡市でRKB毎日放送の音楽プロデューサーの次男として生まれ、本名は「和」と書いて「かん」と読むそうです。5歳から福岡市内のカソリック系の幼稚園に通うようになると讃美歌を演奏するピアノに興味を持って習い始め、中学校でギターに転向するまで練習に励んだそうです。ところが中学校ではビートルズに傾倒してバンドを組み、高校に進学するとビリー・ジョエルさんに熱狂してピアノ・ロックとしてピアノを再開しました。大学は両親が願う音楽大学ではなく東京の法政大学社会学部で(1学年下に従弟が在籍していた)、在学中にラテン系ロックバンドに参加して1984年のヤマハの音楽祭で優秀賞、ヤングジャンプの音楽祭でも奨励賞を受賞したそうです。そして1990年の「愛は勝つ」の発売と翌年の大ヒットになりますが、2002年に「フランス人になりたい」とパリに移住してからは名前を聞かなくなりました。
死因は全人類の2パーセントしか持たない母胎内で小腸につながっていた痕跡のメッケル憩室の癌なので発見が遅れたようです。やはり「愛は勝つ」で追悼します。
  1. 2023/11/19(日) 15:18:00|
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「ヒッジョーニカナシー!」財津一郎さんの逝去を悼む。

10月14日に野僧の世代であれば昭和42(1967)年のアニメ「ピョンピョン丸」の主題歌の最後に「ヒッジョーニキビシー」と叫ぶ独特の声が記憶に残っている俳優でコメディアンの財津一郎さんが亡くなったそうです。89歳でした。
友人との雑談でこの話題を持ち出すと10月8日に谷村新司さんが亡くなった衝撃がまだ覚めていなかったため「アリスの次はチューリップの財津和夫かよ」と勘違いするので野僧が間違いを指摘するとお茶を淹れ直すように悲しみを噛み締めていました。
財津さんは昭和9(1934)年に日本神話の神武天皇の時代から続く阿蘇の名門の一族の農林省の官吏の3男の末っ子として東京で生まれました。昭和19(1944)年に父親が大陸戦線に出征したため熊本市内に疎開して熊本県立の名門・済々黌中学校に入学しましたが、全国の都市への空襲が始まったので財津家の領地がある阿蘇郡黒川村に再疎開して阿蘇農業高校に転校・編入しました。それでも昭和24(1949)年に熊本市内に戻ると済々黌高校に入学しています。高校では水泳部で活躍したようです。
高校在学中に演劇に目覚めて早稲田大学文学部演劇学科を受験しましたが失敗したためそのまま故郷でもある東京に残って印刷所などでアルバイトをしながら日本の喜劇王・榎本健一さんの映画演劇研究所=(いわゆる)エノケン学校に通い、同時に帝国劇場ミュージカルの研究生になりました。エノケン学校を卒業すると帝国劇場ミュージカルも解散しましたが東京を離れる気にならず撮影所などの仕事に就くこともなく無為に過ごしていたところ野球観戦に出かけて偶然に憧れの俳優に会ったことで発奮して松竹劇場を中心に活躍していた大分家出身の喜劇俳優の石井均さんの一座に加わりました。この一座には無名時代の伊東四朗さんも所属していました。また新宿の劇団にも参加しましたが間もなく解散したため心機一転、関西に飛び込んで宝塚劇場やOSミュージックホールを渡り歩いた後、昭和37(1967)年に吉本興業に入社すると財津一郎の芸名になり、昭和39(1964)年から吉本新喜劇に参加しました。
昭和40(1965)年からは藤田まことさん主演の舞台劇「てなもんや三度笠」に浪人・蛇口一角(へびぐちいっかく)役で出演すると腕を頭の後ろに回して手で反対側の耳を掴み、「ヒッジョーニキビシー」「・・・してチョーダイ」と甲高い声で叫ぶ演技で人気を博して前述の「ぴょんぴょん丸」の主題歌を吹き込みました。
その後は昭和44(1969)年に吉本興業を退社して東京に戻って喜劇俳優として活躍しますがやがて演技派俳優になり、昭和56(1981)年の映画「連合艦隊」では戦艦大和の機関科の先任兵曹長を見事に演じ、昭和63(1988)年の大河ドラマ「武田信玄」では今川家の軍師・大原雪斎(役名としては大原崇孚)、同1996年の「秀吉」では義父で弟・秀長の実父で茶人の竹阿弥、同2000年(この年からタケモト・ピアノのCMが始まった)の「葵・徳川三代」では安国寺恵瓊の役でしたが、中でも竹阿弥は義理の息子の秀吉との対立の中で肉親としての感情が芽生えていく過程を感動的に演じ切っていました。心から冥福を祈ります。「ヒッジョーニサビシー」「往生してチョーダイ」
  1. 2023/10/25(水) 14:22:14|
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国民的大歌手・谷村新司さん急逝の報に呆然自失・落涙中

野僧の世代には青春讃歌だけでなく人生の行進曲を聴かせてくれたロック・バンド(メンバーたちの見解)・アリスのリーダーで堀内孝雄さんのベーやん、ドラムの矢沢透さんのキンちゃんに対してチンペイちゃんの愛称で親しまれた谷村新司さんが10月8日に急逝したそうです。今なら若死にになる74歳でした。
野僧の高校時代は反戦歌そのものだったフォーク・ソングから政治色を脱きなから芸能的利益追求を否定してテレビには出演しないことを売り物にするニュー・ミュージックに変質していった時期で、シンガー・ソングライターを気取る生徒たちは教組である吉田拓郎さんや井上陽水さんを神のように崇拝していましたが、アリスは大阪出身のバンドらしく「売れる歌」を発表して人気に火が点き、堀内さんが「君の瞳は1万ボルト」でバラ売りを始めていました。一方、野僧は声質と声域が谷村さんに近いため高校3年の6月に谷村さんが発表した「陽はまた昇る」を愛唱していましたが、大人の雰囲気が高校生には受け入れられず口ずさんでいると「会長、暗いよ」と女子生徒から非難されました。
続いて大学に入って間もなくバラ売り第2弾として「昴」が発売されるとニッカ・ウヰスキーの「スーパー・ニッカ」のCMに採用されたこともあり、コンパなどで学生たちがカラオケで挑戦しましたが高音が出ずに声が裏返って失笑を買っていました。ところが野僧は完璧に唄い切ってギター部の女子学生の練習用専属歌手になったのです。
「昴」は谷村さんが「宇宙人とコンタクトしていて無意識に書き上げた歌だ」と真顔で語っていましたがビジネス雑誌・プレジデントなどのインタビューでも「俺が死んだら谷村さんを呼んで『昴』を唄ってもらえば葬式は終わりだ」と遺言している企業経営者や政治家かいました。ただし、大学の日本語(=講義科目の呼称)の教授の見解では「昴」はサビの歌詞が文語体の「我」に口語体の「行く」を組み合わせているのは間違いで「我は行かん」と文語体にするか「僕(口語体の一人称なら私、俺、儂、拙者、朕、ミドモ、ソレガシ、ウチ、オラ、オイドン、アッシでも可)は行く」でなければならないそうです。
またギター部の女子学生が色々なフォーク歌手の反戦歌を練習している中で野僧はアリスの「砂塵のかなた」が気に入ってしまい自衛隊に入ってからも愛唱歌にしていたのですが、スナックのカラオケでアリスのメドレーを熱唱していると訳有り風の女性客から「『忘れていいの』をデュエットしてくれ」と頼まれたことが何度かありました。この歌は谷村さんと小川知子さんのデュエット曲でエンディングのサビ「どうか貴方、どうか貴方、行かないで、行かないで」と唄いながら背後からドレスの胸元に手を差し込む仕草がありました。カラオケもカウンターでは向かい合って潤んだ目で見つめられるだけですが立って唄った時には女性が背中を持たれかけてくるので胸元に手を突っ込んだついでに乳房を掴んだものです。訳有りの女性だけにその後は色々ありました。
追悼に唄う作品は幾らでも思い浮かびますがアリスの「さらば青春の時」「遠くで汽笛を聞きながら」、そしてバラ売りの「群青」「陽はまた昇る」と「昴」で冥福を祈ります。合掌(谷村家の宗旨は曹洞宗なので檀家の地区大会で御詠歌を唄ったこともありました)。
  1. 2023/10/19(木) 15:07:32|
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ダークダックスのゾウさん・遠山一さんの逝去を悼む。

9月22日にコーラスグループ・ダークダックスの4人では一番右側に立ってバス=低音を担当していたゾウさんこと遠山一さんが亡くなったそうです。93歳でした。これでダークダックスは全員が亡くなりました。
野僧が生まれた頃はテレビが電気冷蔵庫、電気洗濯機と共に3種の神器と呼ばれて嫁入り道具として家庭に普及していたので歌謡曲のような好き嫌いがない世界の名曲や当たり障りがない持ち歌を正統派のハーモニーで聞かせるコーラスグループは歌番組の常連で、ダークダックスとデューク・エイセス、ボニージャックスは入れ代わり立ち代わりで出演していました。中でもダークダックスはメンバーを遠山さんのゾウさん、1番左のトップ・テナー(高音)の高見澤宏さんがパクさん、左から2番目でメロディーとセカンド・テナーの佐々木行(とおる)さんがマンガさん、右から2番目でバリトン(やや低音)とメロディーの喜早哲(きそうてつ)さんがゲタさんと仇名で呼ぶことが親近感を与え、代表格と見られるようになっていました。
ダークダックスのメンバーは全員が慶應義塾大学経済学部出身ですが年齢はゾウさんとゲタさんが昭和5(1930)年生まれ、マンガさんが昭和7(1932)年2月の早生まれ=1学年下、パクさんが昭和8(1933)年生まれと3歳の幅がありました。そのため学内の男性混声合唱団としてクリスマスパーティーでホワイト・クリスマスを唄って昭和26(1951)年にダークダックスを結成した時はパクさん抜きの3人でした。
翌年、入学してきたパクさんを加入させて高低音4段階のハーモニーが成立するとジャズや黒人霊歌を中心に活動し、やがてロシア民謡に幅を広げていきました。当初のレコードはロシア民謡の連作で昭和31(1956)年の「ともしび」から「カチューシャ」「トロイカ」「赤いサラファン」「鶴」「カリンカ」、途中にアメリカ民謡が原曲の「雪山讃歌」と新作童謡「スカンク・カンク・プー」「クラリネットこわしちゃった」「シーハイルの歌」「白銀はまねくよ」などを挟んで昭和36(1961)年の「すずらん」まで続きました。
同時に昭和35(1960)年、昭和37(1962)年、昭和47(1972)年、昭和49(1979)年、昭和52(1977)年にはソビエト連邦でコンサートツアーを行っているので、最初期の黒人霊歌がアメリカの公民権運動に呼応していたとすれば60年安保の世代だけにかなり左傾の思想を持っていたのかも知れません。
ダークダックスは前述のデューク・エイセスやボニージャックスとは異なり結成時から同一メンバーで活動してきて1997年にマンガさんが身心の病で倒れてからもダーク3兄弟としてメンバーを維持し、2011年にパクさん、2016年にゲタさんとマンガさんが亡くなってグループは自然消滅しましたが86歳になっていたゾウさんは「ダークダックスのゾウさん」として2010年からゲストとして共演してきたNHK「おかあさんといっしょ」の第14代うたのおねえさんと一緒に最晩年まで年1回のペースで公演を続けていたそうです。ソビエト連邦の戦没者鎮魂歌「ジェラヴリー=鶴たちへ」をロシア語で唄いながら冥福を祈ることにします。
  1. 2023/09/27(水) 13:22:01|
  2. 追悼・告別・永訣文
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