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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月23日・笠谷幸生選手の逝去を悼む。

4月23日に野僧が小学校4年の3学期だった昭和47(1972)年2月に開催された札幌冬季オリンピックの70メートル級ジャンプで優勝した笠谷幸生選手が亡くなったそうです。80歳でした。
小・中学生時代に見たオリンピックは強く心に刻まれるようで野僧は小学1年だったメキシコ市オリンピックではマラソンで2位になった君原健二選手(サッカーは野球好きの父親が見せてくれなかった)、昭和47(1972)年でも小学5年生のミュンヘン夏季オリンピックでは水泳100メートル平泳ぎの田口信教選手と100メートルバタフライの青木まゆみ選手、柔道70キロ級の野村豊和選手などがスポーツの英雄として今でもテレビの映像が目に浮かびます。ただし、モントリオール・オリンピックになると中学生で色気づいていたのでルーマニアの白い妖精・ナディア・コマネチ選手に夢中になる同級生たちの中で野僧だけは札幌オリンピックのジャネット・リン選手をオカズにしていました。
スケートリンクはあっても雪が降らない愛知県岡崎市では冬季オリンピックとは縁が薄いのですが、そんな中で初めて見るジャンプと言う競技で日本勢が表彰台を独占したことには男子児童が感激して研究成果を発表し合う(=知ったかぶりを楽しむ)校風で知識を充填すると校内の遊具場の滑り台で実技の研究を始めました。
ジャンプ競技にはスポーツでありながら飛距離とは別に審査員による採点が加わるため地元贔屓が公然化していて雑誌などによれば滑空姿勢と着地が「世界一美しい」と賞賛されているはずの笠谷選手もヨーロッパでのオリンピックや国際大会では優勝できていませんでした。そんな笠谷選手の滑空姿勢の特徴は踏み切る瞬間に頭が上がることを防ぐため意識的に顎を引いていてその結果、口を開けた状態で飛んでいました(滑空中の写真では笠谷選手だけ大口を開けていた)。また美しく着地するため兄の笠谷昌生コーチと共に着地を起点として滑空姿勢、踏み切り、滑走、発進までのフォームを組み立てて練習したそうです。そして美しい滑空姿勢を保つために意識的に脇を締めようと手首を外に曲げて掌を開いた状態で飛翔していました。これらを滑り台で練習したのです。
笠谷選手は昭和18(1943)年に北海道余市郡大江村(現在の仁木町)で生まれました。小学4年生から遊びとして兄について地元の社会人チームでジャンプを始めると大人と遜色がない飛跳を見せて「昌生に続いて2人目の神童が現れた」と地元で大評判になったそうです。昭和34(1959)年に余市高校に進学してからは早熟な天才として頭角を現しますが、昭和38(1963)年に同じ大会で日本人2人目の100メートル・ジャンパーになる実績を上げても飛跳距離だけではない競技のため昭和45(1970)年にチェコスロバキアの世界選手権で銀メダルを獲得するまで表彰台には上がれませんでした。一方、札幌オリンピックでは70メートル級では優勝しましたが90メートル級の2本目では乱気流でスキーが乱れて失速するように着地したのを鮮明に記憶しています。
選手以外では「マッサン」のニッカ・ウィスキーの営業マンとして活躍したそうですが、最高の広告塔だったのでしょう。「虹と雪のバラード」を唄って冥福を祈ります。
笠谷幸生確かに大口を開けて掌を広げている。
  1. 2024/04/28(日) 15:01:40|
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3月28日から29日・ルイス・ゴセット・ジュニアさんの逝去を悼む。

映画「アン・オフィサー・アンド・ア・ジェントルマン(邦題・愛と青春の旅立ち)」でアメリカ海軍航空士官候補生の教官のエミル・フォーリー海兵隊軍曹を演じたルイス・ゴセット・ジュニアさんがカリフォルニア州サンタモニカのリハビリ施設で3月28日に就寝してから29日の深夜に発見されるまでの間に亡くなったそうです。87歳でした。
野僧は「アン・オフィサー・アンド・ア・ジェントルマン」は大学を中退して航空自衛隊に入隊する直前に同級生の女子と最後のデートで見に行ったのですが、映画の中でリチャード・ギアさんが受けている訓練と懲罰としてのシゴキを野僧も受けると思い込んで泣きながら入隊に反対しました。ところが野僧はFー104JからFー4EJへの機種変更に伴う人員削減で航空教育隊の班長になるとゴセットさんが演じたフォーリー軍曹を理想にしました(入隊シーンの「Only two thing come out of Oklahoma, strees and queers=オクラホマには名物が2つある。 去勢された牛とゲイだ」と言う台詞を暗記しました)。
ちなみに映画の中でフォーリー軍曹がかぶっていたボーイスカウトのような帽子はキャンペーン・ハットと言って陸海空軍海兵隊(海軍は海兵隊が担当することが多い)で共通した基礎教育の教官の制帽です。一方、同じようにキャンペーン・ハットをかぶったハートマン軍曹が出てくる映画「フル・メタルジャケット」の日本での公開は防府南基地に転属した翌年の1988年3月なので実際の仕事と重ね合わせてしまって演じていたロナルド・リー・アーメイさんが本当の海兵隊軍曹でも今一つ印象に残っていません。
ゴセットさんは1936年にニューヨーク市ブルックリンの南端にあるコニー・アイランド生まれましたが子供の頃にスポーツで負傷したため193センチの長身でありながらハイスクールでは運動部ではなく演劇部を選びました。それでもハイスクール在学中に傷が回復してスポーツを再開するとニューヨーク大学ではバスケット選手として活躍して卒業後は地元のプロチームと契約しますが短期間で引退して演劇の道に進みました。
1961年にアフリカ系俳優の草分けクロード・ポワチエさんの映画に出演して以降、「ザ・デープ」「ジョーズ3」などで悪役、嫌われ役を演じた後、「アン・オフィサー・アンド・ア・ジェントルマン」で単なる嫌われ役を超えた鬼軍曹の人間性を演じ切り、それからは多くの作品に出演して役者としての幅と深みを増していきました。
そんなゴセットさんが演じた軍人としてはもう1人、「アイアン・イーグル」シリーズ4作のチャッピーことチャールズ・シンクレア空軍大佐がいますが戦闘機パイロットと言う役柄の割にコクピットで操縦してのドック・ファイト(空中戦)のシーンは殆どなくシリーズ第2作の「メタル・ブルー」ではパイロットたちによる地上戦を指揮していました。
「アイアン・イーグル」は「アン・オフィサー・アンド・ア・ジェントルマン」で海軍に人気を奪われた空軍が対抗して制作させたと言われていますが公開は「アイアン・イーグル」の方が1年早く、アメリカ空軍はF-16を使った制作に協力しなかったので映画会社はイスラエル空軍のFー16と基地で撮影したのです。モリノ3曹はフォーリー軍曹にはなれませんでしたが感謝を込めて冥福を祈ります。
ルイス・ゴセットJrゴセットさんが演じるフォーリー軍曹
  1. 2024/04/02(火) 15:29:50|
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3月14日・名優・寺田農(みのり)さんの逝去を悼む。

3月14日に幅広い役柄で数多くの映画やテレビ・ドラマに出演してその存在感が強く記憶に残っている名優・寺田農さんが亡くなったそうです。81歳でした。
寺田さんは戦時中の昭和17(1942)年11月に東京で洋画家の長男として生まれました。「農」は父が後漢の詩碑に刻まれている文字からつけた本名です。
敗戦後の小学校3年生から当時は全くマイナーな球技だったサッカーを始め、中学・高校では部活動のキャプテンを務めるまでになる一方で父が新聞で尾崎士郎さんの連載小説の挿絵を描いていたため自宅に来る新聞記者に接するうちに憧れるようになったようです。そうして新聞記者になるために早稲田大学第2政経学部を受験すると面接の試験官が早稲田大学サッカー部の監督で「君はウチでサッカーをやるために受験したのか」と質問されて「はい」と答えて合格したため強豪チームに入ることになり予定外に体育会系の大学生活を送ることになりました。ところが19歳だった昭和36(1961)年に役者を志望して文学座の第1期研究生に合格すると大学との両立が困難になって中退しています。文学座の第1期生では悠木千帆=樹木希林さん、岸田森さん(悠木さんと結婚した)、橋爪功さん、小川眞由美さんなどと同期で19歳だった寺田さんと悠木さんは最年少でした。
昭和39(1964)年に劇団雲に移ると翌年に松竹の「恐山の女」で映画デビューし、同年にラグビーの青春ドラマ「青春とはなんだ」でテレビ・デビューすると翌年の映画「これが青春だ」にも出演するなどサッカーの経験が役に立って注目を集めました(舞台は文学座の研究生時代にチンピラ役で出演している)。
そして昭和43(1968)年に左翼映画人・岡本喜八監督の戦争映画「肉弾」で特別攻撃・伏竜(潜水具を着けて海中で敵艦を待ち、近けば自爆する)を命ぜられたまま終戦を知らずに任務を遂行していたあいつ(役名)で主演すると毎日映画コンクールの主演男優賞を受賞しました。以降は数多くのテレビ・ドラマや映画に出演していますが、テレビ・ドラマでは単発出演の脇役が多く大河ドラマや「大地の子」「Gメン75」「飛び出せ青春」「大岡越前」、必殺シリーズ、土曜ワイド劇場などで会った記憶があるだけですが、映画では東宝8・15シリーズの昭和45(1970)年の「軍閥」と翌年の「沖縄決戦」、昭和53(1978)年の「野性の照明」、昭和56(1981)年の「セーラー服と機関銃」、昭和58(1983)年の「魚影の群れ」、昭和63(1988)年の「うれしはずかし物語」、1994年の「夜がまた来る」と声優として出演した「天空の城ラピュタ」などが記憶に残っています。中でも「うれしはずかし物語」では川上麻衣子さん、「夜がまた来る」では夏川結衣さんと濡れ場を演じていますが、バージンを奪った若い川上さんが快感を覚えて積極的になるのに困惑して「上になるんですか」と質問する中年親父の心理描写や浮気用に借りたアパートの2階の向かいの部屋で妻の本阿弥周子さんも浮気をしているのと対面するシーン、浴室で覚醒剤の摂取で意識を失っている夏川さんを若衆の椎名桔平さんに抱かせて風呂に漬かりながら眺めている陰鬱な表情は寺田さんでなければ演じられないでしょう。数々の作品での名演技に感謝しつつ冥福を祈ります。
  1. 2024/03/28(木) 16:13:06|
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3月4日・シンガー・ソング・ライターのTARAKOさんの逝去を悼む。

3月4日に本人は「私は声優じゃあない。シンガー・ソング・ライターだ」と公言していたアニメ「ちびまる子ちゃん」の主演声優・TARAKOさんが亡くなったそうです。63歳でした。
確かにTARAKOさんの特徴的な声と口調はアニメの主人公に個性を与え、野僧は愚息1との父子家庭だった頃に見ていたアニメ「まじかる☆タルるートくん」で声と名前を覚えましたが、当時は福岡県の春日基地で勤務していたので鱈の卵はタラコではなく明太子と呼んでいたため横文字のTARAKOと言う芸名は頭に定着しませんでした。一方、原作は劇画「BEE FREE」の作者・江川達也さんだったので魔法使いの子供のタルるートが口にする言葉にも大人に考えさせる意味があり、その台詞と一緒にTARAKOさんの声も心に残りました。
TARAKOさんは昭和35(1960)年に東京都江戸川区で生まれ、幼い頃に姉と一緒に子供劇団に入ると小学校の低学年からは音楽部にも参加しています。TARAKOと言う芸名はこの頃の口調が「サザエさん」のタラちゃんの「・・・ですゥ」に似ていて女の子なので「子」を付けた仇名でした。
小学5年生で群馬県太田市に転居すると各種スポーツに励みながらピアノを習って練習曲集・バイエルを終えたそうです(多分、赤い表紙の初級版)。そうして音楽とスポーツの両輪で高校まで進みましたが、中学校ではキャプテンを務めたバスケットを母親に帰宅時間が遅くなることを理由に辞めさせられたため空いた時間でフォークソングを始め、ギターで作詞・作曲し、ライブハウスや市の公会堂などでコンサートを開くなど1歳違いの野僧の高校時代と共通した青春を満喫したようです。高校卒業後は唐突に「アニメの声優になろう」と思い立ち、演技力を身につけようと上京して東京映像芸術学院の演技声優科に進学して中退したものの「うる星やつら」の主役=ラムちゃん役のオーディションを受けて個性的な声が気に入られて端役をもらったことで声優としてデビューして、それからは個性的な端役・脇役で毎回出演していました。そして本人が本業と言い張るシンガー・ソング・ライターとしては昭和58(1983)年にアルバム「とっておきの瞬間」を発売して以降はシングル・レコードを4枚、アルバムを10枚、ベスト・アルバムを1枚出しながら顔と声がそっくりなイルカさんと「ちびまる子ちゃん」のエンディング・テーマの1曲「針切りじいさんのロケンロール」で植木等さんのバック・コーラスを務めています。
TARAKOさんが「ちびまる子ちゃん」の主役に選ばれたのは自らの小学生時代を主人公のモデルにしていた作者のさくらももこ先生と声と口調と顔がソックリだからと言われていて2018年8月15日にさくら先生が亡くなった時の追悼式ではまる子の口調で弔辞を読んだのをテレビで見ました(同じ顔と声の3人娘では最年長のイルカさんが生き残ってしまった)。
世間一般的にはやはり「ちびまる子ちゃん」なのでしょうけど野僧としては「まじかる☆タルるートくん」ですタル。心より冥福を祈ります。
  1. 2024/03/11(月) 15:25:07|
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3月1日・漫画家・鳥山明先生の逝去を悼む。

3月1日に「Drスランプ」や「ドラゴンボール」で日本の漫画の支持者を世界中で開拓した漫画家の鳥山明先生が亡くなったそうです。68歳でした。
実は野僧の高校には明先生の従兄の鳥山先生が2人いました(2人とも科目は数学、名前は漢字1文字)。野僧が2年だった昭和53年に少年ジャンプに「ワンダー・アイランド」が掲載されて以降、散発的に作品が掲載されて名前を知られると生徒が冗談で「先生の弟でしょう」と訊くと「従弟だ」と答えたのです。その噂が広まると「鳥山明ってどんな人ですか」と訊く者が続出して鳥山先生の方も授業の余った時間に明先生の子供の頃の思い出話をするようになって非常に親近感を覚えるようになりました。
鳥山先生の話しでは明先生の父は若い頃、レーサーを目指していたものの挫折して自動車の整備工場を始めたのですが経営が苦しく貧乏な生活をしていたそうです。そのため菓子などもあまり買ってもらえず親戚の家に遊びに来ると妹と2人で出された菓子を貪るように食べてしまい従兄が食べるのをジッと見るので分けると、そのお礼として絵を描いてくれるのですが漫画の書写は「作者に描いてもらった」と言って友達に見せると信じたそうです。
一方、従兄の目から見た明先生は「兎に角、面倒臭がり屋で計画性が全くない」「勉強が好きじゃあないから成績はパッとしない」と散々な一方で「欲しい物があると手に入るまでそれの絵ばかりを何枚も描いていたが(空腹なら好きな食べ物)、それが抜群に上手かった」と抜きん出た画才は認めていました。女子生徒の間でも「ファッションや風景、小物がイラスト的で素敵」と言う評価が高かったのでこの逸話には納得しました。
そして野僧が高校3年の3学期に週刊ジャンプに「Drスランプ」の連載が始まると学校内でも大評判になり、本来は持ち込み禁止の漫画雑誌が公然と回し読みされ、メガネをかけた女子は揃って「アラレちゃん」と呼ばれるようになりました。野僧は山咲みどり先生のファンで千兵衛さんのトイレのドア越しのプロポーズの物語には感激しました。
明先生の生い立ちについては昭和30(1955)年に名古屋市で生まれましたが父が清洲町で自動車工場を始めたので転居し、そのまま住み続けました。そのため作品は名古屋空港から飛行機で送っていたそうです(名古屋駅から新幹線の方が早そうですが)。
高校は地元の起(おこし)工業高校のデザイン科に進学し、在学中はマンガ研究同好会の会長になっていますが漫画を読むだけで自分の作品は描かなかったようです。卒業後は「絵が描きたい」と名古屋市内のデザイン会社に就職しましたが文字のレタリングが主な仕事だったため2年半で退職してアルバイトでイラストを描くようになりました。そんなある日、喫茶店で読んだ少年マガジンが賞金50万円の新人賞の作品を募集していることを知り、23歳で初めて本格的に漫画を描きましたが計画性がない面倒臭がり屋なので締め切りに間に合わず、翌年の少年ジャンプの新人賞に応募したのです。そこで編集者に鍛えられて「Drスランプ」や「ドラゴンボール」が生まれました。
野僧は現役時代、頭を剃って鼻の下と顎に髭を生やしていたため「亀仙人・無天老師」と言う仇名でした。無断借用をお詫びしつつ冥福を祈ります。
山咲みどり「Drスランプ」千兵衛博士をはねた山咲みどり先生
  1. 2024/03/10(日) 15:21:32|
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