2009年の明日3月24日に我が一般曹侯補学生の最終第32期生の課程が修了しました。バブル期の募集難で入隊資格年限を引き上げたため崩壊後は一般(部外)幹部候補生に落ちた大卒者が急増して存在意義が失われたことも廃止の理由の1つのようです。
野僧は春日基地の西部航空警戒管制団司令部の人事部訓練班で勤務していた頃、頻繁に隣接する福岡駐屯地の陸上自衛隊第4師団司令部に通いましたが、すると「陸上幕僚監部で一般曹侯補学生の設立に関わった」と言う人物が色々な裏話を教えてくれました。
昭和50(1975)年に一般曹侯補学生課程が始まった当時は池田隼人政権の「所得倍増計画」による高度経済成長が第4次中東戦争を発端とする第1次オイルショックで停滞したものの自衛隊の募集難は一向に改善せず、地方連絡部(現在の地方協力本部)の広報官は街角で「兄ちゃん、良い身体しているね。自衛隊に入らない」と人買いのような声かけを繰り返していました。この慢性的募集難が今後も続くことを危惧した内局と陸海空幕僚監部は抜本的改善を図るため真剣な研究を始めたのです。
そこで問題になったのが自衛官の社会的評価が警察官や消防員、海上保安官に比べて格段に低いことで、その原因は「憲法違反」「税金泥棒」やベトナム反戦運動と言った批判的世論だけでなく「中卒で可」の入隊資格がほぼ全員が高校に進学する状態になっている中で低能な人間の集団であるかのような印象を与えていることに気づきました。陸海空曹のエリート教育のはずの自衛隊生徒にしても戦前の陸軍幼年学校を知る者が少数になっていたため中卒で就職して夜間高校に通っている勤労生徒と何も変わりませんでした。
さらに大量に募集する陸上自衛隊の新隊員の知的水準はかなり低く、3曹昇任試験の受験勉強ではそれほど向上せず、公務員として同格とされる警察の巡査長や消防副士長、2等海上保安士と比較するとかなり見劣りしていました。
そこで新隊員とは別枠に高校を卒業した者を募集・採用する課程として創設されたのが一般曹候補生学生です。そして都道府県の警察や消防と一緒に合格してもそれらを蹴って入隊するだけの魅力を与えるために2年間で3曹に昇任させることになりましたが、航空自衛隊では「仕事ができない3曹」は苛めの対象になり、「曹侯出身者を退職させれば新隊員の昇任枠が広がる」と言うデマが広まっていたため執拗な苛めが繰り広げられました。那覇基地の補給隊では曹侯学生が古参士長たちに「絶対に声を出すな」と言われて段ボール箱に押し込まれ、「入間行き」と言うラベルを貼られたため本当に輸送機に乗せられて、夕方になって「行方不明だ」と騒ぎになっているところに入間基地から「オタクの隊員がダンボールの中で泣いている」と連絡が入ったことがありました。おまけに野僧の頃は先輩たちが「曹侯の恥になるな」と苛め以上の厳しさで指導し、鍛えてくれました。
それでも野僧の同期には新機種・機材の導入でアメリカに留学した者が多く、ペトリオットの留学で史上最高の成績を取得して勲章を授与された逸材もいます。さらに救難隊のメディック=救難員、輸送機のロードマスター=空中輸送員などもかなりいて退職しなかった強兵(つわもの)の3分の1以上は部内選抜の幹部候補生で任官しました。
- 2023/03/23(木) 14:32:42|
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昭和44(1969)年の明日2月8日の午前11時59分に訓練飛行から小松基地に帰投するため金沢市内上空を高度1000メートルで通過していた第6航空団所属のF-104J栄光がレドーム付近に落雷を受けて操縦不能に陥ったためパイロットが緊急脱出して無人になった機体が金沢市内の農家に墜落して炎上する事故が発生しました。
墜落現場の金沢市泉は金沢城=兼六園や金沢市役所から南南西に約3キロの市街地で重量12トンほどの戦闘機が時速約400キロで2階建て住宅の1階を突き抜けて道路にめり込む形で墜落・爆発・炎上したためバラバラになった主翼や尾翼、エンジンが約240メートル吹き飛び、道路上を火が点いた航空燃料が走るように広がったので周囲の住宅を含む17戸が全焼して4人が死亡、22人が負傷する惨事になりました。
30歳で2尉のパイロットは飛行時間1827時間、Fー104Jに機種転換してからも554時間を経験しているベテランで落雷直後には高度を上げようとしましたが操縦不能状態に陥っていることを確認すると管制塔にエマージェンシー=非常事態を宣言して緊急脱出したのです。パイロットは落下傘で降下して保育所の近くに着地しています。
野僧が沖縄でFー104J栄光を整備していた頃にもスコール雲の中で主翼に落雷を受けた機体がありました。Fー104J栄光の主翼内には燃料タンクがないため発火には至らず(翼端のチップ・タンクは投下した)、大穴が開いて揚力が低下した上、機上レーダーと全ての計器がアウトになった機体をパイロットは神業で操縦して基地まで帰り着きました。その時はパイロットと整備員がエプロンにランウェイに向かって整列してランディングするのを見守り、タイヤが地面に着いた瞬間には拍手が起こりました。
一方、小松基地ではこの事故の2年前の1967年12月12日にもFー104J栄光が金沢港沖35キロで落雷を受けて墜落していて、地元では「鰤起し」と呼ばれる冬季の落雷は重大で深刻な問題なのです。知人の元小松気象隊長の見解では「Fー104J栄光はそれまでのFー86F旭光やFー86D月光、Tー33A若鷹とは比べ物にならない超音速と上昇力を有しているため当時の気象隊や気象学会が経験していない高速度と高高度での気象現象を発掘してしまい事故防止に関する対策が示せなかったのではないか」とのことでした。そこで小松気象隊は独自に開発した雷電探知装置を能登半島各地に設置していて地面の帯電量を測定して小松基地に送り、気象隊は上空の雷雲の観測データーと照合することで落雷が発生する場所と時間を予測しているそうです。
航空自衛隊では2年後の昭和46(1971)年7月30日の雫石での衝突事故でも自衛隊のパイロット2人が緊急脱出して生き残り、追突した全日空の乗客乗員162人が死亡したことをマスコミが問題化したため上空で火災や操縦不能に陥っても事実上緊急脱出は禁じられ、平成に入って石塚勲航空幕僚長が「パイロットよ生きて帰れ、生きて帰って教訓を語れ」と解禁するまで機体と心中する苛酷で非情な不文律がパイロットに課せられていました。しかし、現在もパイロットが緊急脱出できるのは山岳地帯か、海上で漁船などがいないことを確認できた場合に限られていて多くは脱出し遅れて殉職しています。
- 2023/02/07(火) 13:19:34|
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2011年の9月16日は青山学院大学卒と言う異色の学歴と「ヨネチュウ」の通称で記憶に残っている航空幕僚長・米川忠吉(ただよし)空将の命日です。ちなみに野僧は奈良・幹部候補生学校の卒業パーティーで入校中の課題論文を読んでいた校長が「コイツの戦術理論は並みではないです。是非、戦車連隊を率いさせてノモンハンでソ連軍と再戦さてみたいものです」と紹介してくれたため大いに話が弾んでしまいました。
米川空将は昭和7(1932)年に神奈川県で生まれ、昭和30(1955)年に青山学院大学経済学部を卒業すると前年に創設された航空自衛隊に入隊しました。入隊後はパイロット要員に指定されましたが、航空自衛隊そのものが生まれたばかりなのでアメリカ空軍から提供された練習機を使い、アメリカ空軍のパイロットを教官としての教育訓練でウィングマーク=操縦士資格を取得するとF―86F旭光に搭乗する戦闘機パイロットになり、昭和33(1958)年2月17日から始まった対領空侵犯措置に参戦して国防の第一線に立ってきました。
陸海空自衛隊では創設期の官僚出身者を除けば公職追放が解除された陸上は陸軍士官学校(一部、内務=警察官僚出身者が割り込んだ)、海上は海軍兵学校、航空は陸軍航空士官学校と海軍兵学校出身飛行士官の混成が幕僚長に就いていましたが、年齢的に陸海軍出身者が退役し、防衛大学校1期生が幕僚長になるまでの1代を一般大学出身者でつながなければならず、陸上は東北大学卒の寺島泰三陸将、海上は東京水産大学卒で対潜哨戒機パイロットの東山収一郎海将、航空は青山学院大学卒の米川空将でした。
航空自衛隊が何時の段階から米川空将を将来の幕僚長に決めていたのかは不明ですが、航空幕僚長レースは事故による殉職者が多く、生き残っていることが必須条件でした。経歴を見ると昭和51(1976)年に1佐に昇任して航空幕僚監部防衛部運用課第2班長になった頃にレールが敷かれたようで昭和53(1978)年に第1輸送航空隊司令を1年で出戻って空幕防衛部運用課長、昭和55(1980)年には第2航空団副司令になって1年で空将補に昇任して団司令に格上げと言う異例の人事を受け、空幕監察官を経て昭和59(1984)年に空将になると北部航空方面隊司令官、昭和61(1986)年6月から飛行教育集団司令官を半年、そして航空総隊司令官を1年間で必要な経歴を刻み終わり、昭和62(1987)年12月11日に航空幕僚長になったのです。
米川空将は陸海軍や防衛大学校出身ではありませんが防衛行政には長けていたようで、昭和62(1987)年12月9日に沖縄で領土侵犯したソ連軍偵察機に第83航空隊のスクランブル機が警告射撃を実施しましたが、米川空将が航空総隊の対領空侵犯措置実施細則を改定していたためアメリカ軍も納得する国際標準の対応ができたのです。その後、航空幕僚長として航空自衛隊の同規則を改定しましたが上級規則を先に改定しなければ旧規則の制約を超える新たな処置は盛り込めないはずなのに手元にある両規則・細則(今は防衛秘密指定を解除されている)を読み比べても見事に適合していて手法は謎です。何よりも1989年には航空自衛隊の組織の大改編を実行しています。
- 2022/09/16(金) 15:42:52|
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昭和33(1958)年の明日9月7日に戦前は陸軍航空士官学校、当時は在日アメリカ空軍ジョンソン基地(敗戦後、アメリカ軍が接収した直後に事故で殉職したエース・パイロットのジェラルド・R・ジョンソン大佐に由来する)でもあった航空自衛隊入間基地で基地内を通過していた西武池袋線の列車が銃撃されて、乗客の大学生が死亡したロングプリー事件が発生しました。
日本の警察当局は発生状況から「ジョンソン基地内で発射された銃弾が列車に命中した」と断定してアメリカ軍憲兵隊に捜査を依頼すると間もなく基地内で射撃訓練を実施していたピート・ロングプリー2等兵が「空射ちの練習をするのに実弾を抜くのを忘れた」と発生事実を認めたため身柄を拘束しました。しかし、この日、ロングプリー2等兵の所属部隊は射撃訓練を実施しておらず、空射ちでも列車に向かって射撃訓練することはあり得ないため、さらに追及したところ訓練とは関係なく個人的に銃を持ち出して入手していた実弾を込めて列車を射ったことを認めたのです。
当時の日米地位協定(日米と断っているが在外国アメリカ軍は当事国と地位協定を締結して所在する軍人にアメリカ東海岸と同等の処遇を保証していて現在の日米地位協定は諸外国の地位協定に比べてアメリカ軍に不利と言われている)では公務上の事件はアメリカ側に捜査・逮捕・裁判権が与えられていたため本人の家族や弁護士は勤務時間中だったことを根拠に「私的に射撃技量を向上するために実施した訓練」とするように空軍当局に圧力をかけましたが、日本では前年1月30日に群馬県の相馬原演習場でウィリアム・S・ジラード上等兵が金属ゴミとして高く売れる空薬莢を拾いに来ていた地元の主婦を呼び寄せて射殺した「ジラード事件」が発生していて、休憩中=公務外とする日本側の捜査・逮捕・裁判権の要求をアメリカ軍が拒否したため60年安保闘争の予兆のように反米世論が沸騰し、日本の前橋地方裁判所に殺人ではなく過失致死の罪状で起訴された公判の開廷直後だったので在日アメリカ軍としては慎重にならざるを得ず、上京する遺族の旅費と宿泊費から葬儀費用までを全額を支払い、基地司令自ら葬儀に出席して基地の所属隊員から集めた多額の弔意金を手渡しました。
結局、浦和地方裁判所は重過失致死罪で起訴されながら業務上過失致死罪で禁固10ヶ月の判決を出しましたが、前述のジラード上等兵の懲役3年・執行猶予4年の判決と比べるとジラード上等兵は主婦を至近距離からあきらかに狙って射殺している殺人罪に相当する極めて悪質な犯行なのに対してロングプリー2等兵は軽率な射撃遊びだったことは否定できず、ジラード上等兵の起訴事由と量刑が不当に軽く、ロングプリー2等兵は業務上過失致死罪としては日本人と同程度の量刑だったようです。
西武鉄道の車掌に聞いた話では池袋線の最終で入間基地内を通過すると線路上に若い男性が立っているので基地正門前の稲荷山駅に停車するため減速している車両を緊急停車させることがあったとのことです。基地内の踏切の脇には石地蔵が鎮座していますが、こちらは(不正外出で帰隊した)踏切事故で死亡した隊員の遺族が建立しました。
- 2022/09/06(火) 15:49:48|
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2007年の明日7月26日は海上自衛隊を定年退官後、現在は海上自衛隊横須賀基地の付属施設(建物扱い)=旧三笠艦保存所になっている記念艦・三笠の初代艦長を務めた福地誠夫(のぶお)海将の命日です。103歳でした
福地海将は日露戦争が始まる直前の明治37(1904)年2月に東京で生まれましたが本籍は佐賀県です。旧制・麻布中学校から海軍兵学校に入営しましたが、病気で1年留学したため大正14(1925)年に53期生として終了しました。53期には皇族の伏見宮博恭元帥の息子の博信大佐や同じ佐賀県人で海軍過激派の元凶・藤井斉大尉がいます。また昭和10(1935)年に海軍大学校に入校しますが、こちらの同期には操縦技量だけの飛行馬鹿の代表・源田実(敬称・肩書不要)がいて砲術畑の福地大尉とは日常的に激論を戦わしていたようです。
盧溝橋事件の勃発を受けて海軍大学校を繰り上げ卒業すると駆逐艦・夕暮の砲術長兼分隊長として杭州湾上陸作戦を支援し、5ヶ月後には山口多聞大佐が艦長だった戦艦・伊勢の分隊長に転任しています。しかし、その後は本人が太平洋方面の艦船乗務を熱望していても昭和17(1942)年6月から昭和18(1943)年10月まで主に陸軍との折衝を担当した支那艦隊司令部の参謀以外は軍令部や海軍省の東京勤務が続き、敗戦も海軍省人事局員として迎え9月5日にポツダム大佐になりました。
敗戦後は復員者の引き揚げ船の運航、機雷掃海、航路啓開などの残務処理にあたりましたが公職追放で海軍を離れると民間の船会社に就職して「海の男」を維持しました。そして昭和28(1953)年に保安庁警備隊に1等警備正(1佐に相当)として入隊すると第2幕僚監部調査部長としてアメリカ海軍の情報システムを導入し、昭和29(1954)年に警備監補(海将補に相当)に昇任して第2護衛隊群司令、海上幕僚監部総務部長、昭和33(1958)年に海将に昇任して自衛艦隊司令、横須賀地方総監を歴任して昭和36(1961)年2月に定年退官しました。
退官後は日本海海戦の連合艦隊旗艦としてトラファルガー海戦でネルソン提督が射殺されたイギリスのヴィクトリー、独立戦争で活躍したアメリカのコンスティチューションと並ぶ世界3大記念艦を標榜しながら敗戦後は見る影もなく荒廃していた戦艦・三笠の修復工事が昭和36(1961)年5月に完成するのを待って初代艦長に就任しました。
戦艦・三笠は大正12(1923)年にワシントン海軍軍縮条約で廃艦になり、関東大震災で係留されていた岸壁に衝突して破損・浸水・着底したため再稼働できない状態(甲板の下は砂で埋め、コンクリートで固められている)にすることを条件に保存されていましたが敗戦によって占領軍に接収されて「キャバレー・トーゴー」になると残っていた備品の大半は持ち去られ、甲板のチーク材やガスバーナーで切断できる鋼材も粗方盗まれるなど原形を留めない状況でした。それを耳にしたアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ元帥が著書の印税を寄付したのに倣い国内外の有志から巨額の寄付が届き、廃艦の部品を集めて外観だけは元の状態に近づけることができたのです。
- 2022/07/25(月) 14:45:28|
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