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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月16日・40日間だけの航空幕僚長・上田泰弘空将の命日

2013年の明日12月16日はマスコミの勝手な推測報道によって航空自衛隊の練習機・Fー86F旭光と全日空の最新鋭旅客機ボーイング727が岩手県の雫石上空で衝突した事故の冤罪の可能性もある責任を取って航空幕僚長に就任して40日間で辞職した上田泰弘空将の命日です。97歳でした。
上田空将の経歴は奇妙奇天烈で大正5(1916)年に熊本県で生まれ、昭和9(1934)年に陸軍士官学校第39期生として入営しました。同期には敗戦後最初の首相になった東久邇宮稔彦大将の長男・盛厚王や同日付で陸上幕僚長になった中村龍平陸将、南京百人斬りの冤罪で刑死した野田毅少佐、韓国陸軍参謀長になった李鍾賛大将などがいます。
昭和12(1937)年に士官学校を卒業すると新潟県新発田の歩兵第16連隊に配属されて「無類の戦さ上手」と謳われた宮崎繁三郎連隊長の薫陶を受け、昭和14(1939)年のノモンハン事件では帝国陸軍総崩れの中、1個連隊だけで孤塁を守り抜く経験をしています。対米英戦争中の昭和17(1942)年に陸軍大学校第58期に入校(同期には士官学校の同期の盛厚王や中村陸将の次の陸上幕僚長・曲壽郎陸将、2代後の航空幕僚長で統合幕僚会議議長になった白川元春空将がいた)して短縮課程で昭和19(1944)年に終了すると第51航空団の参謀として敗戦を迎えました。
敗戦後は昭和26(1951)年に警察予備隊に警察士長(=3佐に相当する)として入隊しましたが昭和29(1954)年に航空自衛隊が創設されると転換し、昭和33(1958)年に1等空佐に昇任してからは航空幕僚監部人事教育部が指定席になり、それ以外では西部航空方面隊防衛部長と昭和38(1963)年には何故か1等陸佐に任命されて武山駐屯地の第31普通科連隊長に就任しています。昭和39(1964)年6月に1等空佐に戻り、中部航空方面隊司令部付で7月に空将補に昇任して第3術科学校長、小牧基地に在った第3航空団司令、そして指定席の航空幕僚監部人事教育部長、昭和43(1968)年に空将に昇任して翌年に北部航空方面隊司令官、航空幕僚副長を経て昭和46(1971)年7月1日付で航空幕僚長に就任したのです。
ところが7月30日に発生した雫石事故ではマスコミが最新鋭のジェット旅客機ボーイング727と朝鮮戦争の老朽ジェット戦闘機のFー86F旭光では最高速度が時速1052キロと1105キロと大差はなく、然も松島基地の第4航空団所属のFー86F旭光が複座式がないため教官機と学生が操縦する機体が随伴しての訓練中だったことも認識せずに勝手な推測で批判記事を書き殴り、「ジェット戦闘機が旅客機を目標に攻撃訓練を実施して空中衝突した」と言う事実無根の原因が世間に広まって乗客乗員162名が全員死亡したのに対して航空自衛隊のパイロットが緊急脱出して生還したことを昭和44(1969)年2月8日に小松基地のF-104J栄光が金沢市内に墜落して女性4名が死亡しながらパイロットは生存した事故と重ね合わせて徹底的な非難を繰り広げました。
当時から航跡記録と交信音声の検証によって指導のため速度を落とした自衛隊機に全日空機が追突した可能性も指摘されましたがマスコミが許すはずがありませんでした。
  1. 2023/12/15(金) 15:13:04|
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11月26日・陸上自衛隊の木下藤吉郎・渡部敬太郎陸将の命日

1997年の11月26日は小賢しい猿知恵が回りそうな風貌と口八丁手八丁で実現させる手腕から「陸上自衛隊の木下藤吉郎」と仇名されて制服組のトップ=武家の頭領である統合幕僚会議議長にまで昇り詰めた渡部(わたなべ)敬太郎陸将の命日です。
渡部陸将は昭和2(1927)年1月(=昭和元年と最後の64年は1週間しかなかった)に生まれた陸海空で初の幕僚長でした。仙台陸軍幼年学校に入営して陸軍予科士官学校を経て昭和20(1945)年に陸軍士官学校60期に入校しましたが9月2日の敗戦で軍歴は終了しました。ところが塞翁が馬なのか任官前に軍人としての身分を失ったことが幸いして公職追放にはならず、昭和25(1950)年に創設された警察予備隊に2等警査=2等陸士=足軽として入隊することができました。
そこからは木下藤吉郎のような立身出世を重ねて昭和40(1965)年1月には2等陸佐に昇任すると昭和44(1969)年9月に在ソビエト連邦防衛駐在官としてモスクワへ赴任しました。この頃のソビエト連邦は1964年10月14日に「スターリン批判」のフルシチョフ第1書記が解任されてブレジネフ書記長を中心とする集団指導体制が「スターリン回帰」を標榜していた時期で渡部2佐はソビエト連邦と共産主義の実態を現地で確認して日本への侵略を防衛するだけでなく波及を阻止することを決意することになりました。またソビエト連邦軍の軍人から「自衛官は軍人ではない」と言われたことを侮辱と受け止めて敵愾心も抱くようになったようです。
防衛駐在官に在任中の昭和45(1970)年1月には1等陸佐に昇任して帰国後の昭和47(1972)年11月からは陸上自衛隊幹部学校の研究要員、陸上幕僚監部3部防衛班長を経て新潟県の高田駐屯地司令を兼務する第2普通科連隊長と城主になり、昭和51(1976)年に陸将補に昇任して西部方面隊幕僚副長、陸上幕僚幹部人事部長になると昭和54(1979)年7月に陸将に昇任して第10師団長に就任したのです。
第10師団長としては小賢しい猿知恵を発揮して「体育訓練は戦闘服でなければ戦闘の役に立たない」と銃剣道と持続走を乙武装=半長靴で実施させることを命じたのです。このため豊川駐屯地の外周走路では第10師団の第10特科連隊の隊員はジャージに半長靴を履いて走り、中部方面隊第4施設団の第6施設群の隊員はこれまで通りジョギングシューズだったのを見ました。この結果、第10師団の隊員、特に両競技の強化選手には膝の故障やアキレス腱断絶が続発して「緩衝材が入っていない半長靴は体育訓練には向かない」ことを多くの犠牲を払って確認したのです。それにしても実戦どころか警備にも役に立たない銃剣道(警備用具は刑法の威力均衡原則が適用されるので攻撃用の長い木銃は過剰防衛になる可能性が高い)に疑問を抱くことなく乙武装での実施を命じたのも所詮は渡部陸将の猿知恵であって後に北部方面総監や陸上幕僚長として弄した派手なパフォーマンスも太閤秀吉的な虚仮脅しだったように思えてしまいます。
野僧が航空自衛隊に入っていた昭和59(1984)年には統合幕僚会議議長になりましたが海空自衛隊には影響を与えることなく昭和61(1986)年に退役しました。
  1. 2023/11/25(土) 13:27:52|
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11月12日・林敬三初代統合幕僚会議議長の命日

1991年の11月12日は警察予備隊を創設するに当たり内務省=警察官僚から制服組のトップに抜擢され、組織の発展に合わせて常にトップに居座り続けた林敬三初代統合幕僚会議議長の命日です。84歳でした。
林統合幕僚会議議長は明治40(1907)年に乃木愚将の第3軍の兵站参謀として日露戦争に出征して、帰還してからは陸軍省軍務局で勤務していた林弥三吉大尉(最終的に中将)の長男として生まれました。ちなみに林中将は野僧の曾祖父の青山寛少将や皇道派の真崎甚三郎大将の逆恨みを吹き込まれた過激派将校が起こした2・26事件で娘(修道女の渡辺和子さん)の目の前で射殺された渡辺錠太郎大将とは陸軍士官学校8期の同期です。林少佐は明治42(1909)年からドイツ駐在武官副官として赴任していますが当時の習慣として家族を帯同したのかは微妙です。その後、父親は昭和7(1932)年に退役するまで全国各地に赴任してシベリア出兵にも派遣されていますが、家族は東京に置いていたようで林少年は旧制・東京府立第4中学校を卒業すると陸軍士官学校ではなく第1高等学校に進学して昭和4(1929)年に東京帝国大学法学部を卒業すると当時は最高の官公庁と言われていた内務省に入省し、多岐にわたる部署(国家神道の神社局から戦後の自治庁=自治省の自治局、建設省の土木局、厚生省の衛生局、労働省の労働局など)でも治安を担当する警保局に配属されました。そして敗戦後の昭和20年10月から翌年2月までは38歳の若さで官選の鳥取県知事に就任して昭和18(1943)年9月10日に発生した鳥取地震と昭和20(1945)年7月24から28日の米子空襲の被災地の復興に当たり、内務省に戻ると地方局長に就任して昭和22(1947)年12月31日の内務省の廃止と自治庁への移行を指揮し、翌年1月1日から3月7日まで内務省廃止後の治安を暫定的に担当する内事局長官を務め、さらに宮内省から格下げになった宮内府次長、宮内庁次長を歴任するなど便利屋として酷使されました。
そうして昭和25(1950)年8月10日に朝鮮戦争の激化で日本に駐留するアメリカ軍を派遣することを決定したマックアーサー司令部が続発する在日朝鮮人の暴動騒ぎや共産主義革命を標榜する労働運動を鎮圧する実力組織として警察予備隊を設置させるとその制服組のトップである警察監(=陸将)に任命され、警察予備隊中央本部長に就任しました。その後は組織の改編に伴って警察予備隊総隊総監、保安隊第1幕僚長(=陸上幕僚長)、昭和29(1954)年7月1日に陸海空自衛隊が創設されると新設された統合幕僚会議議長に就任してそのまま昭和39(1964)年に退官するまで居座り続けました。
林統合幕僚会議議長の存在は防衛庁に現在も解消できていない禍根を残しています。それは内局に巣喰った悪徳官僚の海原治(敬称・肩書不要)は元陸軍主計大尉だったため内務省の10年後輩でも軍事については素人(父親の林中将とは完璧にすれ違いで将軍の息子でありながら陸軍士官学校を受験しなかった)の林統合幕僚会議議長を好いようにあしらって本来は選挙で国民の信任を受けた「政治家が軍を指揮する」シビリアン・コントロールを「官僚が自衛官を管理・統制する」と言う意味に曲解・変質させたのです。
  1. 2023/11/12(日) 15:47:15|
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3月24日・最後の第32期一般曹侯補学生が課程修了した。

2009年の明日3月24日に我が一般曹侯補学生の最終第32期生の課程が修了しました。バブル期の募集難で入隊資格年限を引き上げたため崩壊後は一般(部外)幹部候補生に落ちた大卒者が急増して存在意義が失われたことも廃止の理由の1つのようです。
野僧は春日基地の西部航空警戒管制団司令部の人事部訓練班で勤務していた頃、頻繁に隣接する福岡駐屯地の陸上自衛隊第4師団司令部に通いましたが、すると「陸上幕僚監部で一般曹侯補学生の設立に関わった」と言う人物が色々な裏話を教えてくれました。
昭和50(1975)年に一般曹侯補学生課程が始まった当時は池田隼人政権の「所得倍増計画」による高度経済成長が第4次中東戦争を発端とする第1次オイルショックで停滞したものの自衛隊の募集難は一向に改善せず、地方連絡部(現在の地方協力本部)の広報官は街角で「兄ちゃん、良い身体しているね。自衛隊に入らない」と人買いのような声かけを繰り返していました。この慢性的募集難が今後も続くことを危惧した内局と陸海空幕僚監部は抜本的改善を図るため真剣な研究を始めたのです。
そこで問題になったのが自衛官の社会的評価が警察官や消防員、海上保安官に比べて格段に低いことで、その原因は「憲法違反」「税金泥棒」やベトナム反戦運動と言った批判的世論だけでなく「中卒で可」の入隊資格がほぼ全員が高校に進学する状態になっている中で低能な人間の集団であるかのような印象を与えていることに気づきました。陸海空曹のエリート教育のはずの自衛隊生徒にしても戦前の陸軍幼年学校を知る者が少数になっていたため中卒で就職して夜間高校に通っている勤労生徒と何も変わりませんでした。
さらに大量に募集する陸上自衛隊の新隊員の知的水準はかなり低く、3曹昇任試験の受験勉強ではそれほど向上せず、公務員として同格とされる警察の巡査長や消防副士長、2等海上保安士と比較するとかなり見劣りしていました。
そこで新隊員とは別枠に高校を卒業した者を募集・採用する課程として創設されたのが一般曹候補生学生です。そして都道府県の警察や消防と一緒に合格してもそれらを蹴って入隊するだけの魅力を与えるために2年間で3曹に昇任させることになりましたが、航空自衛隊では「仕事ができない3曹」は苛めの対象になり、「曹侯出身者を退職させれば新隊員の昇任枠が広がる」と言うデマが広まっていたため執拗な苛めが繰り広げられました。那覇基地の補給隊では曹侯学生が古参士長たちに「絶対に声を出すな」と言われて段ボール箱に押し込まれ、「入間行き」と言うラベルを貼られたため本当に輸送機に乗せられて、夕方になって「行方不明だ」と騒ぎになっているところに入間基地から「オタクの隊員がダンボールの中で泣いている」と連絡が入ったことがありました。おまけに野僧の頃は先輩たちが「曹侯の恥になるな」と苛め以上の厳しさで指導し、鍛えてくれました。
それでも野僧の同期には新機種・機材の導入でアメリカに留学した者が多く、ペトリオットの留学で史上最高の成績を取得して勲章を授与された逸材もいます。さらに救難隊のメディック=救難員、輸送機のロードマスター=空中輸送員などもかなりいて退職しなかった強兵(つわもの)の3分の1以上は部内選抜の幹部候補生で任官しました。
  1. 2023/03/23(木) 14:32:42|
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2月8日・Fー104Jが落雷によって金沢市内に墜落した。

昭和44(1969)年の明日2月8日の午前11時59分に訓練飛行から小松基地に帰投するため金沢市内上空を高度1000メートルで通過していた第6航空団所属のF-104J栄光がレドーム付近に落雷を受けて操縦不能に陥ったためパイロットが緊急脱出して無人になった機体が金沢市内の農家に墜落して炎上する事故が発生しました。
墜落現場の金沢市泉は金沢城=兼六園や金沢市役所から南南西に約3キロの市街地で重量12トンほどの戦闘機が時速約400キロで2階建て住宅の1階を突き抜けて道路にめり込む形で墜落・爆発・炎上したためバラバラになった主翼や尾翼、エンジンが約240メートル吹き飛び、道路上を火が点いた航空燃料が走るように広がったので周囲の住宅を含む17戸が全焼して4人が死亡、22人が負傷する惨事になりました。
30歳で2尉のパイロットは飛行時間1827時間、Fー104Jに機種転換してからも554時間を経験しているベテランで落雷直後には高度を上げようとしましたが操縦不能状態に陥っていることを確認すると管制塔にエマージェンシー=非常事態を宣言して緊急脱出したのです。パイロットは落下傘で降下して保育所の近くに着地しています。
野僧が沖縄でFー104J栄光を整備していた頃にもスコール雲の中で主翼に落雷を受けた機体がありました。Fー104J栄光の主翼内には燃料タンクがないため発火には至らず(翼端のチップ・タンクは投下した)、大穴が開いて揚力が低下した上、機上レーダーと全ての計器がアウトになった機体をパイロットは神業で操縦して基地まで帰り着きました。その時はパイロットと整備員がエプロンにランウェイに向かって整列してランディングするのを見守り、タイヤが地面に着いた瞬間には拍手が起こりました。
一方、小松基地ではこの事故の2年前の1967年12月12日にもFー104J栄光が金沢港沖35キロで落雷を受けて墜落していて、地元では「鰤起し」と呼ばれる冬季の落雷は重大で深刻な問題なのです。知人の元小松気象隊長の見解では「Fー104J栄光はそれまでのFー86F旭光やFー86D月光、Tー33A若鷹とは比べ物にならない超音速と上昇力を有しているため当時の気象隊や気象学会が経験していない高速度と高高度での気象現象を発掘してしまい事故防止に関する対策が示せなかったのではないか」とのことでした。そこで小松気象隊は独自に開発した雷電探知装置を能登半島各地に設置していて地面の帯電量を測定して小松基地に送り、気象隊は上空の雷雲の観測データーと照合することで落雷が発生する場所と時間を予測しているそうです。
航空自衛隊では2年後の昭和46(1971)年7月30日の雫石での衝突事故でも自衛隊のパイロット2人が緊急脱出して生き残り、追突した全日空の乗客乗員162人が死亡したことをマスコミが問題化したため上空で火災や操縦不能に陥っても事実上緊急脱出は禁じられ、平成に入って石塚勲航空幕僚長が「パイロットよ生きて帰れ、生きて帰って教訓を語れ」と解禁するまで機体と心中する苛酷で非情な不文律がパイロットに課せられていました。しかし、現在もパイロットが緊急脱出できるのは山岳地帯か、海上で漁船などがいないことを確認できた場合に限られていて多くは脱出し遅れて殉職しています。
  1. 2023/02/07(火) 13:19:34|
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