中国の明暦の嘉靖6年=日本暦の文永7(1521)年の明日12月11日に第2尚王統の3代目国王として50年間にわたって琉球王国としては最大の領地を統治し、政治制度を整え、文化を新興した尚真王が崩御しました。62歳でした。
第2尚王統は伊是名島の貧農だった金丸さんが抜群の政治的才覚を発揮して尚泰久王の側近になりますが、尚泰久王が早世して若い尚徳王に代替わりすると唐突に引退することで政務が立ち行かない状態にして、尚徳王も早逝すると幼い王太子を不安視する王室内で待望論を扇動して即位した尚円王を始祖としますが尚真王はその実子です。
尚真王は明暦の成化元年=日本暦の寛正6(1465)年に若い国王に手を焼いていた頃の尚円王が50歳の時の嫡男として生れました。母は尚円王よりも30歳年下でした。
11歳の時に父の尚円王が亡くなると尚真王が未熟なため叔父の尚宣威さんが王位に就きましたが、半年後に催された即位式でノロ(霊能者の女性)に憑依したキミテズリ神が新王ではなく王子を称える神託を下したため叔父は退位して明暦の成化13年=日本暦の文明9(1477)年に12歳になった尚真王があらためて即位したのです。これは尚円王が次の国王を選ぶ神託で指名された経緯に類似していて尚宣威さんに王統を奪われることを恐れた母=王大后の策謀ではないかと言われています。実際、即位後しばらくは母の王大后が政務を取り仕切っていたことが王家の公式記録に残っていて、家庭内では王大后と叔父の尚宣威王の娘の妃の間で確執が絶えず、妃が生んだ長男の尚維衡さんは廃嫡されて浦添城の按司=豪族にされ(ただし、島津藩の侵攻を受けた7代・尚寧王は曾孫)、妃が生んだ5男が明暦の弘治18年=日本暦の永正2(1505)年に王大后が没した後に王太子になって4代・尚清王として王位を継承しました。
それでも尚真王の治世は長期の在位でなければ成し遂げられない多大な業績を残しています。その最大の成果は沖縄本島各所や点在する島々を豪族の按司が支配する小さな独立国の集合体のような状態になっていた琉球王国を、按司を首里に集めて定住させる一方で行政の長として按司掟を送り込んで中央集権制度を確立したことです。なお、按司には領地に応じた収入を給付し、位階を与えて後の貴族階級になっていきます。また呼称は長男の尚維衡さんが浦添の按司になったことで本土の皇室の「宮家」と同じように王統の分家が名乗るようになりました。
また明暦の弘治13年=日本暦の明応9(1500)年に八重山で起きたオヤケアカハチの乱を制圧したことで北は奄美諸島の徳之島から与那国島まで支配地を拡大しました。
そして国家体制が整うと文化の発揚にも取り組み、尚泰久王が本土の南禅寺から招聘した芥隠承琥和尚に師事し、首里城内の王家の菩提寺・円覚寺を始め各地に寺院を建立して臨済禅を広めました。ちなみに沖縄の三弦=蛇味線は尚真王が貴族・士族の嗜みとして推奨して、それを離島に赴任する按司掟が島民に披露したことで琉球王国全土に広まったと言われています。また首里城外に玉御殿(たまうどゥん=玉陵)を建立して初祖・尚円王の遺骨を移葬し、尚寧王以外の歴代国王の墓所としています。
- 2022/12/10(土) 14:10:04|
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昭和59(1984)年の明日10月21日は沖縄戦で県民と運命を共にした島田叡知事とは反対に「全て泉が悪い」と言う口汚い批判しか聞かない泉守紀(しゅき)沖縄県知事の命日です。当時としては(憎まれっ子)世にはばかった86歳でした。
泉知事は明治31(1898)年に現在の山梨県大月市(三遊亭小遊左師匠の出身地)で教育者の3男として生れました。父親の赴任先だった鹿児島県の旧制第7高等学校から東京帝国大学法学部に進学し、大正12(1923)年に卒業して内務省に入省しました。内務省では青森県庁を初任地にしてその後は全国各地の警察畑を巡り歩き、入省から20年が経過して北海道庁内政部長の職にあった昭和18(1943)年7月に沖縄県知事の辞令が届き、7月26日に着任しました。
官選の沖縄県知事は江戸時代に琉球王国を支配していた元島津藩士だった初代の大迫貞清知事が従属国扱いして以降、県民を日本人=同胞とは見ないで侮蔑し、独自の伝統文化を江戸時代の日本よりも遅れた過去の遺物として否定して、中央から命じられ予算を与えられている近代化も県民の反発を口実にして手を着けずに半世紀が経過していました。
ところが泉知事は着任早々沖縄の文化や歴史の勉強を始め、離島を含む現地視察を繰り返すなどの積極姿勢で多くの県民に好感を与えたのですが、沖縄の旧家では中国式に便所で豚を飼い、人間の糞尿を餌にしているのを見て嫌悪感を抱くと一転して「沖縄は遅れている」「だから沖縄は駄目だ」と公言するようになったのです。さらに仕事に厳格な泉知事が沖縄出身の職員が酒の臭いをさせて出勤するのを許さなかったことなどへの反発から県庁内での悪評も広まって評判は地に墜ちました。このため着任して半年で転属を念願するようになり、大蔵官僚だった実兄に人事工作を依頼し、1年半の在任期間中に9回出張して3分の1の時間=半年間を県外で過ごしています(戦時中なので用件は有ったはず)。
さらに昭和19(1944)年7月にマリアナ諸島サイパン島がアメリカ軍の手に落ち、フィリピンにも迫って沖縄への脅威が高まってくると第32軍は県民の本土疎開を沖縄県に要請=命令しましたが、8月22日に那覇国民学校の児童と介添者を乗せた対馬丸が奄美諸島沖でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されて1484人が犠牲になると県民を説得することなく難色を示すようになり、県民の大半が沖縄本島に残ったまま激戦に巻き込まれ、多くが犠牲になった責任も指摘されています(疎開を拒否したのは沖縄県民)。
そして昭和19(1944)年10月10日にアメリカ機動艦隊による大空襲を受けると県庁や県警本部に登庁することなく官舎の防空壕に籠り、10日夜には地上部隊が上陸してくることを懸念して県庁機能を防空壕施設が充実している普天間の中頭地区地方事務所に移転することを決定して実際に移動したため沖縄県が空襲被害の復興を放棄したような印象を県民に与えました(実際は不便ながら事業は進めていた)。
結局、昭和20(1945)年1月12日に香川県知事への転出が発令されますが、これも敵前逃亡との事実無根の批判を浴びせられています。実際は「第32軍との対立で陸軍から内務省に交代人事の圧力が加わった」と言うのが真相のようです。
- 2022/10/20(木) 15:15:33|
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明の年号で万暦48=日本では元和6(1620)年の明日9月19日に第2尚氏王統初代尚円王が即位して以来、沖縄諸島と徳之島以南の奄美諸島を130年間・7代にわたって支配してきた琉球王国を島津氏の武力侵攻に敗北し、王統こそ存続したもののも独立国としての統治権は喪失した悲劇の国王・尚寧王が崩御しました。
尚寧王は第2尚氏王統でも嫡流ではなく琉球王国の支配地域を最大にした第3代尚真王の側室が生んだ長男(子孫には対米英戦の降伏文書調印の翌日に一家心中した親泊朝省大佐がいる)の孫で6代尚永王の娘婿でした。
尚寧王は明の年号で嘉靖43年=日本では永禄7(1564)年に後に小禄御殿(「御殿」は日本の皇室の「宮」に相当する)と称することになる分家の朝賢王子と6代尚永王の妹の間の長男として浦添城で生まれました。ところが尚永王に男子がいなかったため娘婿として迎えられて王太子となり、明の年号の万暦17年=日本では天正17(1589)年に尚永王が崩御すると25歳で7代尚寧王として即位したのです。
即位してからは明皇帝への朝貢を欠かすことなく変わらぬ庇護を受け、平穏無事に琉球王国を統治していていましたが、この頃の日本本土では天正10(1582)年に織田信長さまが討たれた後に天下の覇権を横領していた豊臣秀吉さんが慶長3(1598)年に死亡すると東照神君・徳川家康公が16年間横取りされていた天下を奪い返すべく動き始め、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で勝利すると慶長8(1603)年に江戸に幕府を開きました。ここで問題なのは九州最南端・薩摩大隅を領有する島津氏で、天下分け目の大戦(おおいくさ)に参陣すべく徳川氏の京都における拠点だった伏見城に到着したものの家康公は会津・上杉討伐に向かった後で留守居役の鳥居元忠さんは「何人も入れてはならぬ」と言いつけられていたため入城を拒否し、島津勢はやむなく大坂城に引き返して毛利輝元さんと石田三成さん側に加わることになりました。このため関ヶ原では何もしない間に決着がついてしまい前進突破で退却を開始し、多大な犠牲を払いながらも島津家久さんを薩摩に生還させて比類なき強さを天下に示したのです。
そんな島津氏が幕府の許可を得て明の年号の万暦37年=日本での慶長14(1609)年に侵攻してきたのですが、この頃の琉球王国では豊臣氏が実施した刀狩りと同様に領民から狩猟用を除く武具だけでなく鎌や包丁以外の刃物も取り上げて農具に改鋳していたため全く抵抗できないままの無血開城状態だったようです。
こうして尚寧王は島津氏に同行する形で江戸に出府して徳川秀忠公に謁見し、以降、明朝・清朝への朝貢は継続しながらも沖縄には島津氏の奉行と代官が常駐するようになり、慶長18(1913)年には与論島以北の奄美諸島が島津氏に割譲されました。
第2尚氏王統の墓所は首里の玉陵ですが、尚寧王は浦添ようどれに葬られています。近年の歴史を現代の軽薄な感覚で再評価する連中は「本人の『浦添城に帰りたい』と言う遺志であって島津への敗北を恥じた訳ではない」と伝承を否定する詭弁を弄していますが、先祖から子孫に君主の座を継承する国王の立場を考えれば伝承の方が正しいでしょう。

みなもと太郎作「風雲児たち」より
- 2022/09/18(日) 16:04:03|
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日本が敗戦した翌日の昭和20(1945)年の9月3日に琉球第2尚王統出身の親泊朝省(ちょうせい)大佐が一家心中しました。親泊大佐は琉球第2尚王統3代の尚真王の長男でありながら策謀によって廃嫡されて浦添城に隠棲した浦添朝満王の直系です。
現在の日本人は平成の天皇が在位中に旧・皇軍を冒瀆し、軍人を侮辱し続けていたため武士を血で汚れた存在として近づけなかった平安時代の感覚を継承しているのかと誤解してしまいますが、明治政府はヨーロッパの王族が軍務を果たしていることを模倣して明治6(1873)年の太政官達と明治43(1910)年の皇族身分令で皇族の身体堅固な男子に陸海軍軍人になることを義務づけていました。なお、朝鮮の李王家も皇族に加えられたため王太子以下の男子が軍人になっていて、陸軍中佐だった国王の甥は広島で被爆死=戦死しています。
一方、琉球王家は日本に吸収される前に藩並みに格下げされているため華族扱いになり、この太政官達や皇族身分令は適用されませんが、親泊大佐は旧制・沖縄県立第1中学校(現在の首里高校)から熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て大正10(1921)年に37期生として陸軍士官学校に入校して首席で修了しています。同期には隼戦闘隊長として勇名を馳せた加藤建夫中佐、山県有朋元帥の娘の3男で跡取り養子になった山県有光大佐(山口県の風習?)、毛利家の当主の毛利元道少佐(家督と公爵を相続するため退役した)、敗戦後、陸上幕僚長になる杉本一次大佐、陸上自衛隊幹部学校長になる井本熊男大佐(井本生徒を首席修了とする記録もある)、陸軍内の親ソ派でシベリア抑留中に志位和夫共産党委員長の叔父と共にスパイ=工作員教育を受けた種村佐孝大佐、2・26事件の首謀者として銃殺された村中孝次大尉などの歴史に名を残す人物が揃っています。
兵科は騎兵で昭和6(1931)年に満州事変が勃発すると朝鮮半島北部の羅南に駐屯していた騎兵第27連隊の小隊長として出征し、匪賊=馬賊討伐で連隊長が戦死する激戦を経験しました。昭和9(1934)年に大尉に昇任して豊橋の騎兵第25連隊で中隊長を務めてからは昭和11(1936)年に陸軍大学校の馬術教官、昭和12(1937)年に参謀本部副官、昭和15(1940)年に騎兵学校教官と戦時とは思えない平穏な軍歴を重ね、昭和15(1940)年に大陸の占領地の警備を担当する第38師団の参謀に転出したものの対米英戦が始まっていた昭和17(1942)年には中佐として陸軍士官学校教官、昭和19(1944)年からは大本営報道部員として勤務して大佐に昇任しました。この報道部員時代に名を残したのが、フィリピンにマックアーサー元帥が「アイ・シャル・リターン」したため大本営が戦意高揚の軍国歌謡曲「比島決戦の歌」を製作した時、歌詞に敵将のマックアーサー元帥とニミッツ元帥の名前を入れるように作詞者の西条八十さんに命じても拒否したため親泊中佐が即興で「いざ来いニミッツ、マックアーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」の歌詞を追加して完成させたと言うものです。
親泊大佐は戦艦ミズーリ甲板でマックアーサー、ニミッツ両元帥が立ち会った降伏文書への調印が終わった翌日、妻と長女、長男を拳銃で射殺した後、自決しました。
- 2022/09/03(土) 15:05:53|
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明治34(1901)年の明日8月19日に明の元号・成化4年=日本の元号・応仁2(1468)年に伊是名島の農民から王位に就いた初代・尚円王以来、410年間19代にわたって王位を維持してきた最後の琉球王・尚泰王が崩御しました。
尚泰王は清の元号・道光23年=日本の元号・天保14(1843)年に首里で尚育王の第2王子として生れましたが、兄の第1王子が翌年に8歳で早逝したため王太子になると、欧米列強の来航などの国事多難に苦しんだ父王が清の元号・道光27年=日本の元号・弘化4年に34歳の若さで崩御して4歳で即位しました。
そんな幼王の治世は父王以上の困難を極め、清の元号・咸豊3年=日本の元号・嘉永5(1853)年にはペリーの艦隊が浦賀へ向かう途中で寄航し、島津藩の支配下にありながら徳川幕府と同じ嘉永6(1854)年に琉米修好条約を締結しています。その後、嘉永7(1855)年に琉仏修好条約、安政5(1859)年には琉蘭修好条約を結んでいますからそれまでの日本と朝貢を続けていた明朝・清朝に加えて欧米の列強諸国にも独立国として認知されたことになります。
しかし、琉球王国を長年支配してきた島津と卑しさを藩風とする毛利が主導する明治政府が放っておくはずがなく、本土では明治2(1869)年6月17日に274大名の版籍奉還が行われ、暫定的措置として藩主が知藩事としながら明治4(1871)年7月14日に廃藩置県を断行して国家が任命する府道県知事(当初は東京も府だった)に地方行政を担当させて沖縄を除く日本全土に国家直轄の政治体制を確立したのです。
続いて明治政府は明治5(1872)年に尚泰王を勝手に琉球藩主に任命(独立国から属領への格下げ)するのと同時に華族に列して東京に与えた藩邸への移住を命じました。そうして明治7(1871)年に首里に年貢を納めた帰路に遭難した宮古島の船乗りたちが台湾に漂着しながら54名が虐殺された事件に出兵して懲罰を加え、琉球王国の支配者が日本であることを内外に示し、明治10(1877)年の西南戦争の終結を以って廃藩置県の混乱は沈静化したと判断すると清の元号・光緒4年=日本の元号・明治12(1879)年に廃藩置県を琉球藩にも適用して56歳になっていた尚泰王から藩主の座と首里城まで奪って島津藩士出身の大迫貞清沖縄県知事を任命したのです。
尚泰王は当初、中城の別邸に移りましたが明治政府から否応もなく東京常住を強制され、明治18(1885)年の華族令によって上から2番目の侯爵に叙せられ(尾張藩主・徳川家、紀州藩主・徳川家、福井藩主・松平家、広島藩主・浅野家、岡山藩主・池田家、福岡藩主・黒田家、秋田藩主・佐竹家、佐賀藩主・鍋島家、徳島藩主・蜂須賀家、熊本藩主・細川家、加賀藩主・前田家、土佐藩主・山内家、宇和島藩主・伊達家と同格でも併合後の朝鮮王は皇族扱いだった)、明治23(1890)年に議会が開設されると貴族院議員になりましたが、この日に急性腸カタルで崩御したのです。
墓所は首里にある第2尚王家歴代の玉陵(たまうどぅん)で、慶長14(1609)年に島津の侵攻を受けた7代・尚寧王のように祖先にはばかることはなかったようです。
- 2022/08/18(木) 16:05:43|
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