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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月10日・黒糖の日

5月10日は「5=こ」と「10=とう」の語呂合わせから2010年に沖縄県や沖縄県黒砂糖協同組合などが制定した「黒糖の日」です。ちなみに奄美地方では2007年から東京農業大学の教授の提案で5月9日と10日の2日間を「5」と「10」の間に「9=く」を加えて「こくとう」にした「奄美黒糖焼酎の日」にしています。
黒糖は本土では「黒砂糖」と呼ぶことが多いですが沖縄では白い砂糖と分けて黒糖と呼んでいました。黒糖の材料は砂糖黍(さとうきび)で茎の搾り汁に石灰を加えて中和した後、沈殿によって不純物を除去すると煮沸で濃縮してから冷却させて固めますが、植物から砂糖を抽出する時に発生する黒褐色の液体=廃糖蜜の分離などの加工は行いません。
そのため糖分は80パーセントと調味料としての糖製品の中では最も低い反面、砂糖黍のアルカロイド=有機化合物や本来は不純物であるカルシウム、鉄分、亜鉛などの各種ミネラルを豊富に含んでいるので苦味や渋みなどの雑味を感じさせる分、甘味も一層強まるようです。ただし、ポツリヌス菌の芽胞(菌の種のような細胞組織)が含まれる危険性があり、芽胞は煮沸の加熱処理でも死滅しないので蜂蜜と同様に1歳未満の乳幼児が摂取すると中毒症状を起こして最悪の場合、死亡することがあります。
また沖縄や奄美の砂糖黍に対して北海道でも甜菜(てんさい)大根から糖分を抽出しますが、高度に精製する必要があるため不純物を残して黒糖にするのはかえって難しいようです(網走市の業者が菓子などへの添加用に特別に製造している)。
沖縄の黒糖は慶長14(1609)年に島津に侵略されて退位した尚寧王の息子の尚豊王の琉球王府が明=中国からの輸入品が高値で売れていた砂糖を国産化することを命じられたため王臣の儀間真常さんが明の福州に職人を派遣して製法を習得させて元和9(1623)年に初めて製造しました。その後、侵略によって島津藩領になった奄美諸島でも製造するようになりましたが年貢を黒糖で納めるように強制されたため稲作の水田を砂糖黍畑にすることになり島民は飢えながら過酷な労働を強いられて「黒糖地獄」と嘆きました。
一方、沖縄では灌漑する水利が乏しい上、降雨は塩分を帯び、石灰質で土壌が瘦せているので水田・稲作には不向きで島津藩が黒糖を買い上げる対価として米(当時は貨幣の代用だった)を送るようになると食生活は以前よりも多少は豊かになりました。
明治以降も黒糖は沖縄の農業の主力産品であり続け、伊江島、粟国島、伊平屋島、多良間島、小浜島、与那国島、西表島、波照間島の沖縄諸島全域8つの島に製糖工場が設置されていて黒糖の国内生産量1万トン強の内、9600トン強を生産しているのに対して奄美諸島では徳之島、喜界島、奄美大島、種子島などで作業場程度の小規模な施設で700トン前後に過ぎません。
黒糖は沖縄では重いほどの塊(かたまり)からそれを一口サイズに砕いた欠片、そして粉末を板チョコ状に加工した素材を商品化していますが、伝統菓子としては琉球王家で食されていた銘菓・ちんすこうや庶民のおやつ・サータアンダギー(砂糖天麩羅)などがあります。本土の我が家でもかりんとうや黒棒、飴玉の那智黒などを食べていました。
  1. 2024/05/10(金) 10:58:25|
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12月11日・琉球王家の最盛期を造った尚真王が崩御した。

中国の明暦の嘉靖6年=日本暦の文永7(1521)年の明日12月11日に第2尚王統の3代目国王として50年間にわたって琉球王国としては最大の領地を統治し、政治制度を整え、文化を新興した尚真王が崩御しました。62歳でした。
第2尚王統は伊是名島の貧農だった金丸さんが抜群の政治的才覚を発揮して尚泰久王の側近になりますが、尚泰久王が早世して若い尚徳王に代替わりすると唐突に引退することで政務が立ち行かない状態にして、尚徳王も早逝すると幼い王太子を不安視する王室内で待望論を扇動して即位した尚円王を始祖としますが尚真王はその実子です。
尚真王は明暦の成化元年=日本暦の寛正6(1465)年に若い国王に手を焼いていた頃の尚円王が50歳の時の嫡男として生れました。母は尚円王よりも30歳年下でした。
11歳の時に父の尚円王が亡くなると尚真王が未熟なため叔父の尚宣威さんが王位に就きましたが、半年後に催された即位式でノロ(霊能者の女性)に憑依したキミテズリ神が新王ではなく王子を称える神託を下したため叔父は退位して明暦の成化13年=日本暦の文明9(1477)年に12歳になった尚真王があらためて即位したのです。これは尚円王が次の国王を選ぶ神託で指名された経緯に類似していて尚宣威さんに王統を奪われることを恐れた母=王大后の策謀ではないかと言われています。実際、即位後しばらくは母の王大后が政務を取り仕切っていたことが王家の公式記録に残っていて、家庭内では王大后と叔父の尚宣威王の娘の妃の間で確執が絶えず、妃が生んだ長男の尚維衡さんは廃嫡されて浦添城の按司=豪族にされ(ただし、島津藩の侵攻を受けた7代・尚寧王は曾孫)、妃が生んだ5男が明暦の弘治18年=日本暦の永正2(1505)年に王大后が没した後に王太子になって4代・尚清王として王位を継承しました。
それでも尚真王の治世は長期の在位でなければ成し遂げられない多大な業績を残しています。その最大の成果は沖縄本島各所や点在する島々を豪族の按司が支配する小さな独立国の集合体のような状態になっていた琉球王国を、按司を首里に集めて定住させる一方で行政の長として按司掟を送り込んで中央集権制度を確立したことです。なお、按司には領地に応じた収入を給付し、位階を与えて後の貴族階級になっていきます。また呼称は長男の尚維衡さんが浦添の按司になったことで本土の皇室の「宮家」と同じように王統の分家が名乗るようになりました。
また明暦の弘治13年=日本暦の明応9(1500)年に八重山で起きたオヤケアカハチの乱を制圧したことで北は奄美諸島の徳之島から与那国島まで支配地を拡大しました。
そして国家体制が整うと文化の発揚にも取り組み、尚泰久王が本土の南禅寺から招聘した芥隠承琥和尚に師事し、首里城内の王家の菩提寺・円覚寺を始め各地に寺院を建立して臨済禅を広めました。ちなみに沖縄の三弦=蛇味線は尚真王が貴族・士族の嗜みとして推奨して、それを離島に赴任する按司掟が島民に披露したことで琉球王国全土に広まったと言われています。また首里城外に玉御殿(たまうどゥん=玉陵)を建立して初祖・尚円王の遺骨を移葬し、尚寧王以外の歴代国王の墓所としています。
  1. 2022/12/10(土) 14:10:04|
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10月21日・沖縄では悪評しかない泉守紀知事の命日

昭和59(1984)年の明日10月21日は沖縄戦で県民と運命を共にした島田叡知事とは反対に「全て泉が悪い」と言う口汚い批判しか聞かない泉守紀(しゅき)沖縄県知事の命日です。当時としては(憎まれっ子)世にはばかった86歳でした。
泉知事は明治31(1898)年に現在の山梨県大月市(三遊亭小遊左師匠の出身地)で教育者の3男として生れました。父親の赴任先だった鹿児島県の旧制第7高等学校から東京帝国大学法学部に進学し、大正12(1923)年に卒業して内務省に入省しました。内務省では青森県庁を初任地にしてその後は全国各地の警察畑を巡り歩き、入省から20年が経過して北海道庁内政部長の職にあった昭和18(1943)年7月に沖縄県知事の辞令が届き、7月26日に着任しました。
官選の沖縄県知事は江戸時代に琉球王国を支配していた元島津藩士だった初代の大迫貞清知事が従属国扱いして以降、県民を日本人=同胞とは見ないで侮蔑し、独自の伝統文化を江戸時代の日本よりも遅れた過去の遺物として否定して、中央から命じられ予算を与えられている近代化も県民の反発を口実にして手を着けずに半世紀が経過していました。
ところが泉知事は着任早々沖縄の文化や歴史の勉強を始め、離島を含む現地視察を繰り返すなどの積極姿勢で多くの県民に好感を与えたのですが、沖縄の旧家では中国式に便所で豚を飼い、人間の糞尿を餌にしているのを見て嫌悪感を抱くと一転して「沖縄は遅れている」「だから沖縄は駄目だ」と公言するようになったのです。さらに仕事に厳格な泉知事が沖縄出身の職員が酒の臭いをさせて出勤するのを許さなかったことなどへの反発から県庁内での悪評も広まって評判は地に墜ちました。このため着任して半年で転属を念願するようになり、大蔵官僚だった実兄に人事工作を依頼し、1年半の在任期間中に9回出張して3分の1の時間=半年間を県外で過ごしています(戦時中なので用件は有ったはず)。
さらに昭和19(1944)年7月にマリアナ諸島サイパン島がアメリカ軍の手に落ち、フィリピンにも迫って沖縄への脅威が高まってくると第32軍は県民の本土疎開を沖縄県に要請=命令しましたが、8月22日に那覇国民学校の児童と介添者を乗せた対馬丸が奄美諸島沖でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されて1484人が犠牲になると県民を説得することなく難色を示すようになり、県民の大半が沖縄本島に残ったまま激戦に巻き込まれ、多くが犠牲になった責任も指摘されています(疎開を拒否したのは沖縄県民)。
そして昭和19(1944)年10月10日にアメリカ機動艦隊による大空襲を受けると県庁や県警本部に登庁することなく官舎の防空壕に籠り、10日夜には地上部隊が上陸してくることを懸念して県庁機能を防空壕施設が充実している普天間の中頭地区地方事務所に移転することを決定して実際に移動したため沖縄県が空襲被害の復興を放棄したような印象を県民に与えました(実際は不便ながら事業は進めていた)。
結局、昭和20(1945)年1月12日に香川県知事への転出が発令されますが、これも敵前逃亡との事実無根の批判を浴びせられています。実際は「第32軍との対立で陸軍から内務省に交代人事の圧力が加わった」と言うのが真相のようです。
  1. 2022/10/20(木) 15:15:33|
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9月19日・悲劇の琉球国王・尚寧王が崩御した。

明の年号で万暦48=日本では元和6(1620)年の明日9月19日に第2尚氏王統初代尚円王が即位して以来、沖縄諸島と徳之島以南の奄美諸島を130年間・7代にわたって支配してきた琉球王国を島津氏の武力侵攻に敗北し、王統こそ存続したもののも独立国としての統治権は喪失した悲劇の国王・尚寧王が崩御しました。
尚寧王は第2尚氏王統でも嫡流ではなく琉球王国の支配地域を最大にした第3代尚真王の側室が生んだ長男(子孫には対米英戦の降伏文書調印の翌日に一家心中した親泊朝省大佐がいる)の孫で6代尚永王の娘婿でした。
尚寧王は明の年号で嘉靖43年=日本では永禄7(1564)年に後に小禄御殿(「御殿」は日本の皇室の「宮」に相当する)と称することになる分家の朝賢王子と6代尚永王の妹の間の長男として浦添城で生まれました。ところが尚永王に男子がいなかったため娘婿として迎えられて王太子となり、明の年号の万暦17年=日本では天正17(1589)年に尚永王が崩御すると25歳で7代尚寧王として即位したのです。
即位してからは明皇帝への朝貢を欠かすことなく変わらぬ庇護を受け、平穏無事に琉球王国を統治していていましたが、この頃の日本本土では天正10(1582)年に織田信長さまが討たれた後に天下の覇権を横領していた豊臣秀吉さんが慶長3(1598)年に死亡すると東照神君・徳川家康公が16年間横取りされていた天下を奪い返すべく動き始め、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で勝利すると慶長8(1603)年に江戸に幕府を開きました。ここで問題なのは九州最南端・薩摩大隅を領有する島津氏で、天下分け目の大戦(おおいくさ)に参陣すべく徳川氏の京都における拠点だった伏見城に到着したものの家康公は会津・上杉討伐に向かった後で留守居役の鳥居元忠さんは「何人も入れてはならぬ」と言いつけられていたため入城を拒否し、島津勢はやむなく大坂城に引き返して毛利輝元さんと石田三成さん側に加わることになりました。このため関ヶ原では何もしない間に決着がついてしまい前進突破で退却を開始し、多大な犠牲を払いながらも島津家久さんを薩摩に生還させて比類なき強さを天下に示したのです。
そんな島津氏が幕府の許可を得て明の年号の万暦37年=日本での慶長14(1609)年に侵攻してきたのですが、この頃の琉球王国では豊臣氏が実施した刀狩りと同様に領民から狩猟用を除く武具だけでなく鎌や包丁以外の刃物も取り上げて農具に改鋳していたため全く抵抗できないままの無血開城状態だったようです。
こうして尚寧王は島津氏に同行する形で江戸に出府して徳川秀忠公に謁見し、以降、明朝・清朝への朝貢は継続しながらも沖縄には島津氏の奉行と代官が常駐するようになり、慶長18(1913)年には与論島以北の奄美諸島が島津氏に割譲されました。
第2尚氏王統の墓所は首里の玉陵ですが、尚寧王は浦添ようどれに葬られています。近年の歴史を現代の軽薄な感覚で再評価する連中は「本人の『浦添城に帰りたい』と言う遺志であって島津への敗北を恥じた訳ではない」と伝承を否定する詭弁を弄していますが、先祖から子孫に君主の座を継承する国王の立場を考えれば伝承の方が正しいでしょう。
尚寧王みなもと太郎作「風雲児たち」より
  1. 2022/09/18(日) 16:04:03|
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9月3日・琉球王統の軍人・親泊朝省大佐が一家心中した。

日本が敗戦した翌日の昭和20(1945)年の9月3日に琉球第2尚王統出身の親泊朝省(ちょうせい)大佐が一家心中しました。親泊大佐は琉球第2尚王統3代の尚真王の長男でありながら策謀によって廃嫡されて浦添城に隠棲した浦添朝満王の直系です。
現在の日本人は平成の天皇が在位中に旧・皇軍を冒瀆し、軍人を侮辱し続けていたため武士を血で汚れた存在として近づけなかった平安時代の感覚を継承しているのかと誤解してしまいますが、明治政府はヨーロッパの王族が軍務を果たしていることを模倣して明治6(1873)年の太政官達と明治43(1910)年の皇族身分令で皇族の身体堅固な男子に陸海軍軍人になることを義務づけていました。なお、朝鮮の李王家も皇族に加えられたため王太子以下の男子が軍人になっていて、陸軍中佐だった国王の甥は広島で被爆死=戦死しています。
一方、琉球王家は日本に吸収される前に藩並みに格下げされているため華族扱いになり、この太政官達や皇族身分令は適用されませんが、親泊大佐は旧制・沖縄県立第1中学校(現在の首里高校)から熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て大正10(1921)年に37期生として陸軍士官学校に入校して首席で修了しています。同期には隼戦闘隊長として勇名を馳せた加藤建夫中佐、山県有朋元帥の娘の3男で跡取り養子になった山県有光大佐(山口県の風習?)、毛利家の当主の毛利元道少佐(家督と公爵を相続するため退役した)、敗戦後、陸上幕僚長になる杉本一次大佐、陸上自衛隊幹部学校長になる井本熊男大佐(井本生徒を首席修了とする記録もある)、陸軍内の親ソ派でシベリア抑留中に志位和夫共産党委員長の叔父と共にスパイ=工作員教育を受けた種村佐孝大佐、2・26事件の首謀者として銃殺された村中孝次大尉などの歴史に名を残す人物が揃っています。
兵科は騎兵で昭和6(1931)年に満州事変が勃発すると朝鮮半島北部の羅南に駐屯していた騎兵第27連隊の小隊長として出征し、匪賊=馬賊討伐で連隊長が戦死する激戦を経験しました。昭和9(1934)年に大尉に昇任して豊橋の騎兵第25連隊で中隊長を務めてからは昭和11(1936)年に陸軍大学校の馬術教官、昭和12(1937)年に参謀本部副官、昭和15(1940)年に騎兵学校教官と戦時とは思えない平穏な軍歴を重ね、昭和15(1940)年に大陸の占領地の警備を担当する第38師団の参謀に転出したものの対米英戦が始まっていた昭和17(1942)年には中佐として陸軍士官学校教官、昭和19(1944)年からは大本営報道部員として勤務して大佐に昇任しました。この報道部員時代に名を残したのが、フィリピンにマックアーサー元帥が「アイ・シャル・リターン」したため大本営が戦意高揚の軍国歌謡曲「比島決戦の歌」を製作した時、歌詞に敵将のマックアーサー元帥とニミッツ元帥の名前を入れるように作詞者の西条八十さんに命じても拒否したため親泊中佐が即興で「いざ来いニミッツ、マックアーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」の歌詞を追加して完成させたと言うものです。
親泊大佐は戦艦ミズーリ甲板でマックアーサー、ニミッツ両元帥が立ち会った降伏文書への調印が終わった翌日、妻と長女、長男を拳銃で射殺した後、自決しました。
  1. 2022/09/03(土) 15:05:53|
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