明日5月29日は与謝野晶子さんの命日=白桜忌です。晶子さんと言えば夫・与謝野鉄幹さんが「人を恋うる歌」で「妻を娶らば才長けて 顔(みめ)麗しく情けある」と詠っているため才色兼備の理想的女性をイメージしますが、鉄幹さんは山口県徳山町で兄が経営していた徳山女学校の教師をしていた時には二人の女性に手を出して妊娠させ(一人は夭折、もう一人は男子)、教師の職を辞して東京に出てから滝野さんと言う女性と結婚しながら晶子さんと不倫同棲していますから、誰がこの妻なのか判りません。
残っている晶子さんの写真を見る限り麗しいかは判断に困りますが、才長けていたことは間違いないでしょう。鉄幹さんは晶子さんの才を見出して歌集「みだれ髪」の出版をプロでユースし、フランスへ留学した時には後から渡仏させて同行させています。しかし、作家としての才は晶子さんの方が秀いで、鉄幹さんは「晶子さんの夫の」と言う評価が一般的なのではないでしょうか。
晶子さんと言えば現代の教科書には「君死にたまふことなかれ(旅順口包圍軍の中に在る弟を嘆きて)」と言う詩ばかりが取り上げられていますが、この中には「すめらみこと(=天皇)は、戦ひにおほみづから出(い)でまさぬ」と言う一節まであります。昭和なら忽ち憲兵隊か特高警察に逮捕され、この才女も悲惨な最期を遂げたことでしょう。
晶子さんには「鎌倉や 御佛なれど 釋迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」の歌がありますが、鎌倉の大佛さんは阿弥陀佛であり、ついでに言えば夫・与謝野鉄幹は浄土真宗の僧籍も持っていましたから、単なる勘違いだけとは思えません。
晶子さんは大阪府堺市の府立泉陽高校の出身ですが沢口靖子さんは後輩にあたります。野僧は靖子さんのデビュー以来、四半世紀余にわたる熱烈なファンですからそれだけで十分です。
- 2012/05/28(月) 20:20:47|
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明日5月26日は毛利藩中興の臣・村田清風さんの命日です。毛利藩と言うと幕末の志士を育てた吉田松陰先生(今でも先生をつけないと怒られます)が有名ですが、いくら松陰先生が偉くても清風さんの業績がなければ毛利藩は歴史の舞台に華々しく登場することは出来なかったでしょう。
清風さんは天保の大一揆が起こるほどの深刻な政治、特に財政危機の中で藩政に参画し、何度も挫折を繰り返しながら銀8万貫と言う膨大な借財を返済し、後に幕府と戦うほどの経済力を作り上げました。
その政策としては特産品、特に蝋の藩専売を止めて商人による自由な取引を許し、その代わりとして運上銀を課しました。この結果、藩内の流通が活性化し増益を得ることが出来ました。また北前船など西国と北国を結ぶ交通の要所・下関に目をつけ、ここに越荷方(貿易会社)を設置して荷物の一時預かりや荷物を質にしての高利貸しなどを行いました。これで毛利藩は巨万の富を得ることになりました。
何よりも特筆すべきは藩だけでなく家臣も多額の借財を抱えていることを憂慮し、「三十七ヶ年賦皆済仕法」と言う「三十七年かけて借財は返す」=実質的踏み倒しを断行したことです。
同様のことは島津藩の調所笑左衛門さんもやっていますが、清風さんの方が産業育成に力を尽くしてと言う点で一枚上手でしょう。
その清風さんの命日ですが、この日は幕末の志士から明治の元勲になった桂小五郎=木戸孝允の命日でもあります。つまり討幕の基盤を作った方と実行した方が同じ命日の訳で、どちらの法要に参列するかは歴史観のリトマス試験紙かも知れません。
- 2012/05/25(金) 21:33:04|
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明日5月25日は戦前のスーパーヒーロー・楠木正成さんの命日です。打算功利を排して道義に殉ずる日本的美意識の象徴と言われる武士道も、当時は恩賞を目当てに強い方につくのが常識であり、そんな中、討幕計画の発覚で笠置山に逃れていた後醍醐天皇が夢のお告げで召し出し、参陣したと登場シーンからドラマチックですが、その後も赤坂・千早城での活躍などは何処まで史実か創作かが判らないほどです。江戸時代のクーデター首謀者である由比正雪も楠公流軍学を唱えていました。そして不利を主張しながらそれを戦さには出ぬ公家に退けられ、敗れることを覚悟しながら息子・正行と桜井の駅で別れて湊川で圧倒的な足利尊氏を迎え討ち、「七生報国」の言葉を遺して死んだ。戦前派ならずともハラハラドキドキ、ついホロリの生涯です。この最期の地には水戸・徳川光圀が建立した「嗚呼忠臣楠子之墓」と言われる碑があり、これが光圀がここまで旅してきた=水戸黄門漫遊記を実話とする根拠にされていましたが、これは資料集めに全国を旅していた佐々介三郎(=助さんのモデル)が光圀の命を受けて建てたのでしょう。
この碑には後に吉田松陰先生も立ち寄って感激していますから本当にすごいヒーローだったようです。
余談ながらこの南北朝の時代、皇室は二つに分かれていた訳で、このどちらを正統とするかは長く論争になっていました。江戸時代の水戸学では三種の神器があった南朝側を正統としていましたが、明治以降は現在の皇室が北朝側なので議論そのものを取り止めさせました。実際、明治期には「我こそは南朝の末裔=正統な天皇」と言う輩が現れていましたから。
- 2012/05/24(木) 21:12:19|
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明日5月24日は独眼竜・伊達政宗公の命日です。政宗公と言えば伊達62万石、仙台のイメージですが本来は出羽国米沢の出身で今風に言えば山形県人です。野僧は歴史好きで色々な人物について調べていますが、偉大な人物を育てた父親にも興味を持っています。傑出した才を持つ子は多くの場合、常識的な母親や親族、家臣に疎まれ孤立しがちですが、その才を見抜き、守り、育て上げた父親、今年の大河ドラマで中井貴一さんが演じた平忠盛、独眼竜政宗で北大路欣也さんが演じた伊達輝宗、そして織田信長の父・信秀などもまた偉大な人物なのでしょう。武将が遺した人生訓と言うと東照大権現・徳川家康公の「人の一生は重き荷を負うて・・・」が有名ですが、政宗公のモノも味わい深く少しユーモアを感じさせます。「仁に過ぐれば弱くなる、義に過ぐれば固くなる、礼に過ぐれば諂となる、智に過ぐれば嘘をつく、信に過ぐれば損をする、気長く心穏にして万事倹約を用ひて金を備ふべし、倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり此の世の客に来たと思へば何の苦もなし、朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし。元来客の身なれば好嫌は申されまじ、今日の行おくり子孫兄弟によく挨拶して娑婆の御暇申すがよし」如何でしょう。
また野僧は定年を迎えた友人にはこの詩を贈っています。「馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何」「楽しまずんばこれ如何に」です。
最後に政宗公の辞世を「雲りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞいく」
- 2012/05/23(水) 20:08:09|
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5月21日は愚禿親鸞聖人の降誕会(誕生日)です。野僧は高校時代に清川満之さんの著作を読んで以来の大ファンなんですが、坐禅をやっていた縁で出家したため浄土真宗の僧侶になりそこなってしまいました。日本最大の宗門は曹洞宗と言われていますが、浄土真宗の東西両派が曹洞宗よりもやや少ないだけで、高田派や興正派、佛光寺派、三門派、出雲路派などの門徒さん(他宗派の檀家さん)の総数は全佛教徒の3分の1になります。ちなみに浄土真宗のお坊さんは半僧半俗を体現するため髪を生やしておられることが多く、日本のお坊さんの3分の1は「坊主刈り」ではないと言うことになります。聖人も老齢になられて禿げるまでは髪を生やしておられたようで蓄髪の頂相(ちんそう=肖像画)が遺っています。
日本のお坊さんが「髪を生やすこと」「肉を食べること」「結婚すること」が公式に許されたのは明治5年4月25日の太政官第233号布告で、それまでは寺社諸法度で戒律を守ることが定められ、寺社奉行が厳しく取り締まっていたようです。そんな中で浄土真宗だけは聖人以来の妻帯で、戒律がないので酒肉も自由でしたから他宗派から妬まれ、ある意味鬱憤晴らしに馬鹿にされてもきました。
ついでに言えば肉食が禁じられているのは佛戒ではなく中国の皇帝が「殺生戒があるなら肉を食べるはおかしい」と言ったことを日本も踏襲したのです。佛戒では「自分のために殺していない」「殺すところを見ていない」「それを聞いていない」肉ならよく、例えば托鉢で肉ジャガを出されても肉をよける必要はないと言うことです。
最後に一休禅師が法友・蓮如聖人の元で親鸞聖人の頂相に讃じた歌を「襟巻きが 暖かそうな 黒坊主 こいつが法が 天下一なり」野僧も同感です。
- 2012/05/20(日) 20:37:42|
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明日5月19日は宮本二天=武蔵の命日です。二天は身を寄せていた熊本で亡くなりましたが、厚く遇した細川家への恩義に報いんと「甲冑を着せ、参勤交代の道中の傍らに立って埋葬せよ。これを警護せん」の遺言をしています。ただ二天は吉川栄治氏の小説と中村錦之介さんの映画が有名になり過ぎて、虚像と実像が判らなくなっています。特に沢庵和尚との関わりは、沢庵が紫衣事件による出羽国上山への配流を終えて江戸に戻ってから、柳生但馬守宗矩に武道の奥義を説いた「不動智神妙録」を与えたことに基づいた創作で、実際に教えを受けた可能性があるとすれば元幕臣で勇猛禅を説いていた石平道人・鈴木正三の方でしょう。二天が後年に著した奥義書で述べていることは正三の教えに通じる点が多く、また二天が尾張に滞在した時期、正三も三河の自領(現在の豊田市)に住していました。
野僧は若い頃、拳法をやっていたため両手を使って戦うことが出来るのではないかと考え、武道大会の練習で二天一流に取り組んだことがありますが、小太刀二振りなら兎も角、長い竹刀と短竹刀では両者の動きが違い上手くいきませんでした。ちなみに二天一流は熊本県ではなく大分県に伝わっているそうです。
野僧が一つ興味を持っているのは、あの時代、あの場所にいたのですから、若し二天が薩摩に立ち寄り東郷籐兵衛重位の示現流と立ち会っていたら結果はどうであっただろうと言うことです。
一刀の下に碁盤と畳、床板まで両断した示現流に二天一流は抗し得るのか。佐々木厳流のようにはいかないでしょう。
- 2012/05/18(金) 21:19:05|
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先日、野僧の両親が愛知県から来庵しましたが、当地に来て「コンビニがない」「携帯の電波が届かない」ことに怒り心頭、「タバコが買えん」「連絡がつかん」と文句タラタラ。しかし、野僧が「昭和の頃の暮らしを思い出せ」と言いながら「買い物に行く時は次に行くまでに必要な物を考え、家族に頼まれていたことを想っていただろう」と語ると懐かしさと共に愛知県の便利過ぎる生活が頭の働きまで阻害していることに気がついたようです。当地ではコンビニの出店に「子どもが不良になる」「人間が馬鹿になる」と反対運動が起きましたが、今回両親を見ていてその思いを強くしました。
- 2012/05/09(水) 21:20:26|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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これは奈良基地・幹部候補生学校で外出する野僧と同期たちです。
この格好で行くとほとんどの寺院は無料で拜観できるため(何故か禅宗の寺院は駄目でした)、奈良市内や京都へはこれで出かけていました。
ところがある日、基地内で学校長閣下に会うと、いきなり合掌した上、深々と頭を下げられ、野僧も同じく礼を返しました。奈良基地は3つの前方後円墳に囲まれていて、近所の古刹の僧侶たちの墓もあり、そこに参った僧侶と勘違いされたのでしょう。
翌週、どう言う訳か野僧が候補生(学生)であることを知った学校長閣下は不機嫌になり、副官(秘書)から区隊長に「おかしな服装で外出させるな」と注意が届きました。しかし、野僧は納得せず「法衣のどこがおかしな服装ですか?学生服務規則に違反していません」と反論すると、区隊長も同感だったのかそれを副官に伝え、副官は「特殊な服装で」と言い返し、野僧が「正式な坊主が法衣を着ることが特殊ですか?」と訊き返すの繰り返しの後、どちらも黙ってしまいました(この時点で区隊長は面白がっていましたが)。
結局、野僧が休日は寺院巡りと禅寺に宿泊しての坐禅に励んでいる真面目な修行僧だと知った校長閣下が「今期は変わった奴がいるな」と呆れられて、不問に付されることになりました。
ところがこの話には後日談が出来ました。課程半ばの60キロ行進訓練で候補生は「座らない」「水を飲まない」「荷物を重くする」などの負荷を自分に課すのですが、野僧は区隊長から「道端の石佛に安全を祈願する」と言うスペシャルメニューを命ぜられました。
しかし、奈良市内から柳生を抜けて木津川沿いを下る経路には石佛さまが多く、負荷を知っている前の小隊(区隊)から「森野、地蔵だぞ」と声が掛かる度に野僧は駆け出し、石佛さまの前で合掌してお経を上げ、礼拜している頃には自分の小隊は通り過ぎているため、また走って追いつくことの繰り返しでした。
区隊長は「線香も持たせばよかった」と言っていましたが冗談ではありません。
柳生を抜けて金剛山に差し掛かる山道の入り口で校長閣下が視察しておられましたが、そのすぐ脇にも石佛さまがおられ、走ってきた野僧が合掌、読経を始めるのを可笑しそうに見ながら、隣りにいる副官と「これで絶対に安全だな」と話し合っておられました。そして駆け出した野僧を見送りながら校長閣下はそっと合掌して下さいました。ついでに拜んで差し上げればよかったのかも・・・。

60キロ行進訓練(小休止地点に追いついたところ)
- 2012/05/06(日) 00:29:15|
- 宗教(参学録)
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当地は本州の西の端にあたるため、西方浄土へ往生される魂魄が最後に立ち寄る休憩所になっているようです。ですから東北地区太平洋沖大震災の後は連日、庵内が賑やかで野僧も49日間の昼夜を分かたぬ念佛行を勤めました(死ぬまでのつもりが49日目に意識を失って2日間熟睡してしまいました)。
また初盆の送り火の夜も賑やかだったのですが、あまりにうるさいので念佛を唱えたところ、急に静かになったものの困りました。と言うのも魂魄がおられるとエアコンなしでもゾクゾクするほど涼しいのですが、おかげで一気に暑くなり汗が吹き出しました。せめて数人ずつにしていただけないものでしょうか?

古志庵全景


本尊・スリランカ佛

観自在菩薩

意志地蔵

文殊師利菩薩

韋駄天尊

寺紋「日月二星」

托鉢グッズ(商売道具)

歓鐘

坐禅石
小庵は宗教法人ではないため特定の宗派には属しておりません。
したがって依頼のあった方、御縁のあった方の供養は宗教、宗派を問わず順次受け付けており(電話、メールで可。☎083-785-0868)、毎週日曜日の朝課では戒名、法名、法号、洗礼名を読み上げた法要を勤め、命日には御本人の宗旨での供養を厳修しております。病者の健康長命、子供の無事生育の祈願も同様に毎朝夕です。ただし、業務としての法要は行いませんのでお布施は困ります。托鉢同様に「チャリーン」の喜捨ならと言ったら500円玉を10枚持ってこられた方もいましたが、それは「ズシーン」です。佛教の戒律では本来、金銭に触れられないのです。
また旗日の晩課には水子供養、日曜日の晩課では殉職自衛官供養の法要を勤めておりますので、志のある方は手を合せて下さい。
その他に6月23日・沖縄慰霊の日、8月6日・広島原爆の日、8月9日・長崎原爆の日、9月7日・敗戦の日(=降伏文書に署名した日)、12月8日・第2次世界大戦への参戦の日(成道会と重なります)の慰霊供養、太陰歴の4月8日から15日のWESAK(ウェサック)満月の感謝法要と初日に清明(シーミー)、太陰暦の8月15日の秋夕の祖先供養も厳修しております。
歳時風景


庭前の梅

隣家の桜

津軽から連れてきた辛夷

筍を掘っている猪

鯉のぼり(岡本太郎デザイン)。干し魚ではない。

白い曼珠沙華

猪、鹿とくれば蝶ですが・・・。

裏山の柿(この直後に猿の群れが食べ尽くした)

土竜のトンネル
豊北町の観光名所・角島大橋

〒759-5101
長門国下関市豊北町粟野1529 古志庵
☎083-785-0868
- 2012/05/05(土) 09:17:47|
- 古志庵について
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「野草山岳麓(野僧参学録)」(師僧編)
○エピソード0、野僧は小学生の頃、師僧の寺の本堂の壁に、墨書した「生をあきらめ、死をあきらむるは佛家一大事の因縁なり」と言う修証義第一章「総序」冒頭が貼ってあるのを見て、無邪気に師僧に問いました。
「生を諦めたら死ねばいいけど、死を諦めるにはどうすればいいの?」すると師僧は、「それは坊さんになれば判る」と答えてニヤッと笑いました。
実は、この「あきらめ」とは「諦め」ではなく「明らめ」のことだったのですが、出来れば先に誤読を訂正してもらいたかったものです。
野僧は、高校に入り、「卒業までに図書館の世界哲学全集を読破しよう」と目標を立てて読み進み(3年の冬休みで達成した)、その寄り道として二年の夏休みに「正法眼蔵」を読んで、「生を明らめ」と書いてあるのを見て初めて誤読を知ったのですから。
○エピソード1、中学生1年の頃、師僧の寺に預けられていました。
ある日、野僧の小学校の友人が遊びに来て、元教師の師僧を交えて雑談をしていました。師僧が友人たちに訊きました。
「君たちは将来、何になるつもりかね?」すると畳屋の息子である友人は「畳屋を継ぎます」と即答しました。「建具屋になります」と建具屋の息子の友人も答えました。
「お前はどうするんだ?」師僧は、二人の答えに感心しながら野僧の顔を見ました。
「歴史の教師かな」、野僧がその頃の憧れの職業を言うと「ならもっと勉強しないとな」と厳しい顔をしたので、「だったら坊さんになろうか」と野僧がその場を誤魔化そうとすると、「だったら、頭を剃ってやる」と真顔をしました。
今思えばこの時、野僧は師僧に佛教僧としての種を蒔かれたようです。
○エピソード2、高校受験の頃、野僧には憧れていた学校がありました。
それは「自衛生徒」と言う海上自衛隊の下士官養成学校でしたが、この学校の受験は国数英理社の5科目で、その頃の高校受験よりも2科目多く、したがって野僧は他の受験生よりも余分な勉強をすることになったのですが、努力の甲斐があって何とか合格することが出来ました。しかし、合格してから父が突然、「給料をもらいながら学ぶのは中卒で働くのと同じだ」と言って猛反対しました。
「お前の父は、『自分が解らない』と言うことを理由にして怒る。理解しようともしない」志望を断念させられ(合格通知を破り捨てられた)、努力が無駄になり、無念の涙をこぼす野僧を師僧はこう慰めました。そして「お前の人生はお前のものだ、誰かに決められていてはつまらんだろうが」と励ましてくれました。
この頃から、野僧は師僧を両親よりも尊敬し、信頼するようになったのです。
○エピソード3、野僧は「大学へ行け」と言う父の命令で県立の普通科高校へ進学することになりましたが、そこはそれなりの伝統校だったので図書室には愛知の県立高校屈指の蔵書がありました(第2図書室もあった)。
入学時の校内案内で図書室へ行き、野僧はズラリと並ぶ蔵書の中で、世界哲学全集だけが新品に近い状態なのに気がつき手に取りました。
そして、「創立以来70年の先輩たちにも哲学全集を読む人はそれほどいなかったのか」と想い、「自分が卒業までに全巻読破しよう」と決意しました。
それから野僧はこれを実行し、次々と読破していきましたから(理解出来ていたかは別)、高2の時の倫理社会では試験はほぼ満点、答案用紙の裏に出題されている哲学者の思想について述べたため、先生(東大卒)はオマケで120点をくれたりしていました。また、その先生は電車でも一緒になり、通学の車内で読んでいる本の質問をして、哲学の魅力にはまっていきました。
そんなある日、マルクスの資本論を読んで疲れた野僧は、気分転換のため日本哲学全集の清沢満之を読み、深く感銘を受けました。
野僧は清沢満之を通じて親鸞聖人を知り、教行信証や和讃を読み、先生や師僧に質問を繰り返し、やがて龍谷大学や大谷大学へ進学して、もっと深く学びたいと願うようになりました。
ところが父は野僧の志望を「哲学なんかで飯が喰えるか。社会科が得意なら経済科か法学科へ行け」「寺なんかへ遊びに行くから変なモノに染まるんだ」と中学の時と同じことを繰り返しました(防衛大学校も自衛隊生徒と同じ理由で禁じられた)。
さらに高校3年の年、家を増築した上、妹が私立高校へ入ったため学費がなくなり、地元の大学へ進まざるを得なくなりました。
師僧は「駒沢大学か愛知学院大学では駄目か?宗門の大学なら何とかできるかも知れない」と言ってくれましたが、もう大学進学への熱意は萎えてしました。
○エピソード4、航空自衛官になってすぐに同期が体育訓練中に殉職し、半年後には、入校していた浜松基地でブルーインパルスの墜落事故を目の当たりにしました。
野僧は、「自衛官としての死」と言う疑念を抱き、師僧に問いました。
すると師僧は「人には死ななければならない時は確かに有る。しかし、それは度々あるものじゃない。普通は無いものだ。お前たち自衛官は死に近い、死を直視する職業なんだろう」。師僧はそう言って野僧に「坐禅をせよ」と勧めました。

○エピソード5、航空機整備員として赴任した那覇基地で、今度はT―33Aの死亡事故を目の当たりにしました。
そして、部隊葬が行われる時、遺骨を抱いた奥様が乗った車に向ってデモ隊が罵声を浴びせるのを見て、「この国のために死ぬ」ことに深刻、切実な疑問を抱きました。
「戦死すれば軍神になることが出来た旧軍人が羨ましい」、帰省してパイロットたちが口にするブラックジョークを話すと、師僧はこう教示しました。
「誰かのため、何かのために働くのではなく、職業そのものを目的にせよ。任務遂行だけを目的に精進努力せよ」。この教えが、その後の野僧の使命感に重なりました。
○エピソード6、野僧に沖縄で愛する女性が出来たことを知った両親は、父の長兄に相談し、「そんな遠くては親戚つき合いが出来ない」「歴史も文化も違う相手とは上手くいくはずがない」と無理やり引き裂き、その後も同じことを繰り返しました。
野僧が親には言えない沖縄での彼女との楽しい話をしながら悔し涙を流すと、師僧は、「本当の親孝行とは子供が幸せになることだ、それをお前の親や親戚は、自分たちの考えに従わせることだと思っている、もう、お前は沖縄から帰って来るな」と駆け落ちまで勧めてくれました(今は、そうすればよかったとシミジミ思っています)。
○エピソード7、やがて佛教書を読み漁り、帰省の度に師僧に疑問を問うようになりましたが、それが言葉、知識にとらわれる、理屈で佛教を理解することに陥っていきました(後年、小浜でも、「典(書物)は読み尽くせ」と名づけられましたが)。
ある時、師僧は野僧の顔の前で手を叩くと「今、どちらの手が鳴った?」と問いました。野僧がしたり顔で「片手では鳴らない、鳴るはずがない」と答えますと「本当に鳴らないか?」と念を押し、いきなり平手で野僧の顔を一発叩き、「どうだ、鳴っただろうが」と言いました。その瞬間、野僧の中で理屈を越えた「佛法」が鳴り響きました。
○エピソード8、ある夏季休暇、野僧が坐禅を組んでいると師僧がやって来て、「暑いじゃろう」と訊きました。そこで「心頭滅却すれば火もまた自ずから涼し」と答えると、「滅却したなら、その心頭を見せてみろ」と言って両手を差し出しました。
○エピソード9、大韓航空機撃墜事件が起こり、野僧が所属する第83航空隊も実質的な戦闘態勢に入り、約2週間、連日連夜の防空任務を遂行しました。
次の帰省時、その苦労話をすると父は、「お前らは国民に断りもなく勝手に戦争を始めるつもりか」と一方的に非難しました。
失意のうちに同じ話をすると師僧は、「今の平和そうな日本でもそんなことがあるんだな」と労をねぎらいながら、「命を懸けるに値する今の仕事こそ最高無上の修行なのだ」と励ましてくれました。
「仕事こそ修行」。この職業に何の見返りを求めないと言う美意識が、野僧の中でやがて「陽明学的使命感」に発展し、「現代の武士道」へと確立していきました。
○エピソード10、ある冬、沖縄から帰省した野僧は師僧の寺の大掃除に励みました。すると素足に冷水で本堂の雑巾がけをする野僧に師僧が心配して声をかけました。
「沖縄から帰ってきたばかりじゃあ、寒さが堪えるだろう」
「これも修行だから」野僧がそう答えると「修行と思っているうちはまだまだだな」と言って自室に帰っていきました。
○エソード11、帰省の度に師僧の寺を訪ね、道を問うていた野僧に師僧は、「趣味の座禅なら今のままで良いが、ここから先を知りたければ頭を剃れ」と言いました。
野僧も「望むところ」と快諾し、「善は急げ」とばかりに即日得度したのでした。
「江戸時代に鈴木正三(しょうさん・師僧と同じ愛知県豊田市の出身)と言う三河武士出身の禅僧がいた。正三は『坊主よりも武士の方が修行になる、なぜなら武士は常に生死のギリギリの所に生きているからだ』と言っている。お前も自衛官の仕事を修行と心得て精進せよ」これが得度に当たっての垂訓でした。

○エピソード12.はじめ師僧は野僧に「大愚」と言う道号を与えようとしました。
それを聞いて野僧が「大愚なら良寛和尚と同じだね」と言うと、師僧は「何だ知っていたのか」と愉快そうに笑い、野僧は「名前負けしないかなァ」と答えました。
その時、それを書いた紙をのぞいた野僧の母親が、「そんな愚か者、大馬鹿みたい名前は駄目だ」と反対しました(だから素人は困る)。
すると何故か母親に頭が上がらない師僧は「そうか・・・」と考え込み、そして、「お前は航空自衛官だから大空、色即是空の大空にしよう」と言いました。
「愚」ではまだ「愚なる自己」が残る、それも捨てて「空っぽ」、本当に良い名前です。
ちなみに真言宗の根本経典である理趣経の中にも「大空」の概念が出て来ますが、後日、その話を師僧にすると、「お前はワシも読んでおらんような本を読んどるなァ、ワシも勉強せんといかん」と感心してくれました。
○エピソード13.野僧は山口県防府市に転属になり、近所にあった玉林寺と言う寺へ毎週ごとに通い、作務や坐禅、色々な御話をうかがうようになりました。
御住職は杉原正信師(平成十五年四月十九日遷化)。杉原師は山口県宗務所長も務めておられたものの、その頃には脳梗塞の発作を二度起こされて半身不随、言葉も不自由にしておられました。
一方、元教員の御庫裏様(平成十六年二月十二日逝去)は方丈様の御世話と家事に、寺の作務と檀家さんへの対応まで一手に引き受けて毎日忙しくしておられました。
この話を師僧にすると、「弟子が御世話になります」と玉林寺様に手紙を出してくれて、こうして筋を通してもらったおかげで、玉林寺様も野僧を僧侶と認め、安心して作務を任せ、お勤めや坐禅も自由にさせて下さるようになったのです。
玉林寺で不自由な身体となっても威厳を失わぬ方丈様と、苦労に耐える訳でなく、逃げる訳でもなく、淡々漂々と受け入れ、通り過ごしているかのような御庫裏様の御姿に身近に接していたことは、百の法語を聞く以上の教訓を与えてくれました。
○エピソード14、野僧に子供が出来た時、師僧は一言「この子は国の子だぞ、お前なら解るだろう」と言いました。
「国の宝だね、磨き上げなければ」と野僧が答えると、師僧は満足そうにうなづいて、
「お前なら自分の価値観を押し付けるようなことはせんだろうが、磨き上げたなら、パッと解き放って自由に飛び立たせてやれ」と祝いの言葉を贈ってくれました。
しかし、これには些か野僧の両親への皮肉が込められていたような気もしています。
○エピソード15、師僧は実弟を亡くしてから、急に弱っていきました。
野僧は、釋尊の入涅槃に倣い、なるべく機会を作っては帰省をして、師僧から最期の教え、末期の一句を受けようと努めました。
そして別れ際には必ず、「私は軍人だから見事に死ぬ覚悟は常に持っている。どっちが先になるかは判らんが生前は御世話になりました」と挨拶しました。
その真意が、野僧が師僧に送る「永訣の辞」であったことは言うまでもありません。
すると師僧は、「わしは坊主としての生き方が出来なくなったなら食を細うして、やがては断って、長患いをせずに死ぬつもりだ」と覚悟を伝えました。
実際、師僧の死に際はその通りだったようです。
○エピソード16、師僧の遷化に野僧は立ち会うことは出来ませんでした。
師僧は年賀状に「今年は来るべきものが来る、何だろう」と自分の死を予告していました。そして、昭和63年3月11日に遷化したのですが、野僧は「仕事を修行と心得よ」との教えを守り、担当していた学生の教育に区切りがつくまで帰らないと伝えました。「それでいいんだ」師僧は野僧の決心を聞き、うなづいていたそうです。
○エピソード17、師僧が遷化した夜、野僧は玉林寺を訪ね、海から漁師の網で引き揚げられたと言う薬師如来にお勤めさせていただきました。
これは師僧の寺の本尊・薬師如来に通じるようにとの思いを込めてのことでした。
この時、御庫裏様は、「かけがえのない方を亡くされましたね、これからも御精進下さい」との悔みの言葉をかけて下さいました。
野僧にとっての師僧の存在を一番御存知だったのは、血もつながらない、師僧に会ったこともない、この御庫裏様とおそらくは方丈様だったのです。
そして、玉林寺が師僧の死後、野僧の居場所になりました。
○エピソード19、師僧が遷化して1ヶ月が過ぎた頃、野僧は夢を見ました。
若い頃に戻った師僧が、法衣に手甲、脚絆に草鞋をつけて、雲水行李に網代笠を持って、山門前に立っていました。並んでいる親族一同に「それじゃあ行くな」と一言、笠を被って振り返らず、スタスタと門前の道を歩み去っていきました。
○エピソード20、一周忌の時、師僧と同年輩の和尚様からこんな話を伺いました。
師僧は生前、「わしに跡取りではなく弟子が出来た。今の時代に勿体ない事だ」と喜んでいた。そして、その和尚様が「禅僧冥利に尽きるますな。本当にうらやましい」と言うと、本当に嬉しそうな満足そうな顔で笑っていたとのことでした。まさに「弟子冥利に尽きます」

「野草山岳麓(野僧参学録)」(現世往生の事)
○エピソード1、某街で托鉢をしている時、一軒の小さな阿弥陀堂の前を通りがかり
ました。そこで野僧は「阿弥陀如来根本陀羅尼」と「念佛」を唱えたのですが、すると中から「あんたの念佛はいいのォ、西方まで届きそうじゃ」と言いながらお爺さんが出てこられました。
その方は、着古した作業服、ズボンを着ておられましたが、物腰は品がよく、柔和な笑顔にも威厳があって一見して徳の高い和尚さんだと判りました。
「托鉢僧ですから、家の中まで聞こえないと仕事になりません」と野僧が答えると、和尚さんは「ハハハ・・・」と愉快そうに笑われ、「ワシは念佛の坊主だが、今時、うちの坊主でもあんたみたいな念佛を唱えられる奴はおらんゾ」と褒めてくれました。
そして「寺は息子に譲って、ここで遊んでいる。また寄りなさい」と言って下さいました。
○エピソード2、何度かお堂を訪ねお話を伺っているうち、野僧が元自衛官であった
ことが話題になりました。すると和尚さんは自分の戦争体験を話して下さいました。
それは「戦場で敵の攻撃を受け伏せている時に、敵弾が鎖骨から肺を貫通して脇腹に抜けた」と言う重傷を負い、収容された病院では「戦死見込み」と診断されて、まともな治療もしてもらえなかったと言う壮絶なものでした。
ところが数週間がたった時、見回りに来た軍医が、和尚さんがまだ生きていることを知って「助からんはずの兵隊が生きておる、流石は坊主だ」と驚いて、それからは手厚く治療、看護をしてもらえるようになったそうです。
○エピソード3、またある時、ご自分の托鉢の経験を語って下さいました。
戦争から復員して、しばらくは自房で養生をしておられたのですが、ある程度動けるようになったところで、今で言うリハビリとして、早朝から胸につけた鉦を叩きながら(チンドン屋スタイル)近所を托鉢して歩いたそうです。
ところが始めは檀家の方まで「念佛坊主が托鉢なんて?」と言って誰も相手をしてくれなかったそうです。しかし、毎朝顔を合わせるうちに1人、また1人と挨拶をし、やがてお米をくれ、小銭をくれるようになったそうです。
そんな中1人、毎朝顔を合わせても挨拶しても返事もしてくれない小父さんが居たのですが、和尚さんが教職につくことになりこれで最後の托鉢と言う朝、その方が玄関先で待っていて「ご苦労様でした」と微笑んで、その頃としては多額の喜捨をして下さったそうです。
「托鉢坊主か、本当にいいのォ、まさに佛弟子の在り様だ」そう言って野僧の顔を羨ましそうに見て笑われました。
○エピソード4、いつものように阿弥陀堂を訪ねた後、お堂の近所のタバコ屋さんで托鉢を再開すると小母さんが言いました。
「お坊さん、よく管長さんを訪ねてくるけどお弟子さんかね」「管長さん?」野僧がキョトンとしていると小母さんは呆れた顔でこう言いました。
「知らなかったの?あの方は引退したXX宗の管長さんだよ」
○エピソード5、次に阿弥陀堂を訪ねた時、野僧は長年の疑団を問いました。
「托鉢は自力か、他力か?」すると和尚さん(と言うよりも猊下)は即答されました。
「修行だ法施だ、慈善事業の募金だと『自己』を立てれば自力になり、世間に生かされることに徹すれば他力じゃよ」
○エピソード6、猊下は、境内の倒れた松の老木で観音像を作ったのをきっかけに始めた木彫りの佛像作りを趣味以上のライフワークにしておられました。
猊下御手製の観音様は、円空や木喰とは違い、生真面目な作りですが、やはり素人仕事で、猊下も「趣味は趣味、これ以上上達してはいかんのじゃ、分相応分相応」と言い訳のように繰り返されてもいました。
「市販の観音さんをモデルに作っているんじゃが、お地蔵さんの方が頭の毛がない分だけ楽じゃ」と最近では御地蔵様が増えてもいました。
「観音様は阿弥陀様の脇待ですから良いけれど、御地蔵様は浄土三部経には出てきませんよ」と野僧が不躾な事を申しますと、猊下は「エエんじゃ、阿弥陀様は呼ばなければ迎えには来てくれん、六道を守っておいでの地蔵様も信じたらエエ」と、浄土宗の宗旨に反するようなことを平気で言われました。
野僧は、黙って猊下御手製のお地蔵様に手を合わせました。
○エピソード7、いつものように阿弥陀様の前に座って話していると猊下がこう言われ
ました。「念佛とは『今』の『心』を『佛』に向けることだ」
その瞬間、野僧は背後から阿弥陀如来に抱かれ、天地一切との一体になった感覚、衝撃に至りました。それは理屈を超えた未知の世界で文章では表現出来ません。
猊下は、その様子を見て微笑みながら「わかったな」と言われ、野僧は「はい」と深く、ゆっくりとうなづきました。
こうして野僧は忝くも「宗派に関わり無く、佛教に於いて正統な念佛者」即ち「無宗正統念佛者」の印可を許されたのでした。
○エピソード8、印可の後、猊下はこう垂訓されました。
「禅宗の坊さんは、口では『どんな道でも』などと言いながら、本音では僧堂、本山でやることでしか修行を認めていない。
しかし、念佛の教えでは在家は在家のまま修行なんだ。わしは坊主になってからの修行も、軍人としての修練も優劣は無いと思っている。だからお前も、今のままで十分修行を積んできているのだ」
そして「佛と自己の間に人間を介在させるな」、「お前が今の生き方を捨てて、大寺の住職になりたがったり、お布施を有り難がる普通の坊主になった時、日本の佛教は滅びるのだと覚悟せよ」と言われ、その証に手製木彫りの観音像を賜りました。
ただ、野僧にとってこの出来事は、ひた向きに道を突き進んでいたら、いつの間にか人間の世界を通り過ぎていたと言う感じでした。ですから猊下の印可もけっして誇るようなものではなく、「人間止めました」と言う卒業証書か、「マトモじゃない」と言う診断書だと思っています。
●佛歴2554年(平成22年)4月13日 猊下遷化

- 2012/05/04(金) 17:37:21|
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「野草山岳麓(野僧参学録)」托鉢編

○エピソード1、ある秋、愛知県岡崎市矢作の農村で托鉢をしていて、玄関の前でお経を上げていると小父さんが納屋から出て来ました。
「おう、坊さん、新米を収穫したところだよ」小父さんはそう言うと野僧を納屋の方へ連れて歩き出しました。ついていきながら野僧は、「新米かァ」と感激していました。
納屋の中で、小父さんは米の空き袋をとりながら大きな木箱を開けました。
「残った古米を欲しいだけやるから持っていきな」小父さんはそう言って、大きな袋に古米を詰めると紐で口を固く縛ってくれました。
野僧が偈文を唱え始めると小父さんは、「車なら全部持ってってもらうんだがな」と言いながら、まだ残っている古米を別の袋に移し、新米を入れる準備を始めました。
その家は駅から2、3キロメートル、袋は20キログラム以上はあったでしょうか。
駅までの道中、肩には袋が食い込んで、足元はふらつき、背中には汗が噴き出ましたが、おかげで暫くは、小庵のお粥も随分濃く、箸が立つくらいになりました。
○エピソード2、愛知県岡崎市の名鉄本宿駅前の旧東海道沿いで托鉢していると、崩れかけた建物に雑然と野菜を並べた八百屋さんがありました。
店先でお経を唱えると、店番をしていたお婆さんが出て来て、「お坊さん、帰りもこの道を通るんだろう」と訊くので、「はずれまで行ったら引き返してきます」と答えますと「帰りにもう一度寄っておくれん」と言って、店の中に引っ込みました。
通りのはずれまで托鉢して休憩をした後、逆側の家々で托鉢しながら戻って来ると、先ほどの店の前でお婆さんが待っていました。
「これ重いから、帰りに渡すことにした」そう言って、お婆さんは野菜や果物から缶詰まで詰め込んだ段ボール箱を野僧に手渡しました。
「財法二施 功徳無量・・・」と偈文を唱えて頭を下げると、そのまま前に倒れそうなくらいその箱は重かったです。
○エピソード3、ある春の天気の良い日、岡崎市矢作の農村で托鉢をしていると、花嫁行列と一緒になりました。
着物を着た女の子が先導で、白無垢の花嫁衣装を着た花嫁さんと紋付き袴の仲人さん、それに礼装の親戚一同が行列を作り、隣りの集落へゆっくり歩いて行くのが、野僧が家々でお経を挙げて回るのと同じ進度になって、花嫁行列を見ようと準備していた小母さんたちからも「ほら、お祝儀だ」と喜捨が沢山いただけました。
やがて隣りの集落に入って数軒目に、その嫁ぎ先の家がありました。
すると、いきなり門前まで花嫁を迎えに出ていた花婿の親戚の小父さんから、「お目出度いお経を上げてくれ」とリクエストを受けました。
御佛の教えは、すべてお目出たいのですが、縁を切る話が多く、縁結びのお経は余りありません。そこで家の御宗旨を伺うと「一向宗」と言うことなので、「阿弥陀如来根本陀羅尼」を唱え、家の御先祖様に回向し、ついで子宝安産の功徳がある「延命地蔵菩薩経偈」に「地蔵十福」を唱えて、御経の趣旨を説明しました。
親戚の小父さんは大喜びをして、「1万円」を出そうとするので、「チャリンで結構」と遠慮をすると、「今時、珍しく欲のない坊さんだなァ、お祝儀は断られると困る」と言って、御札を折りたたんで無理やり野僧の頭鉢の中にねじ込みました。
その時、花嫁さんが到着して、仲人さんからも「坊さんが先に道を浄めて行ってくれて有り難かった」とまた過分の喜捨をいただきました。
この土地は徳川家康が殺されかけた三河一向一揆の舞台だけに、いつもは一日歩いても電車賃にもならないこともあるのですが、その日は出来過ぎでした。
○エピソード4、岡崎市の康生通り(旧東海道)で托鉢をしていると、珍しく佛具店の御主人が出て来ました(佛具店と葬儀屋は大概出て来ない)。
「托鉢の坊主なんて大抵は、偽物のオモライばかりだけど、あんたのお経は本職だな」御主人はそう言うと、笠の下を覗きこみ、野僧の顔を確認して、「うん、痩せとる、ワシは太った坊主は信用せんのだ」と言いました。
当時の野僧の家では、食べ物があれば先ず子供に食べさせ、子供たちは「僕は給食を食べているからお父さんが食べて下さい」と言う状態でしたから、実際、骨と皮に痩せ細っていました(後年、栄養失調で托鉢中に前歯が2本抜けました)。
「久しぶりに本物の坊さんに会ったよ」御主人はそう言うと、4つ折りにして半紙に包んだ喜捨を頭鉢に入れてくれました。後で確認するとそれは1万円でした。
○エピソード5、JR岡崎駅前通りで托鉢している時、ある薬局の前で医事守護の薬師瑠璃光如来のお経を上げていると中から若い白衣を着た女性が出てきました。
そしてニヤニヤと笑いながら1円玉を1つ、野僧の差し出した頭鉢に入れました。
それを受けて野僧は、「財法二施 功徳無量・・・」と作法通りに笠が地面に触れるほど頭を下げ、大声で偈文を唱えました。
すると女性は驚いた顔をして、慌てて店に戻り、店主と大声で話し始めました。
「1円であんなに丁寧にお礼をされたら・・・」「怒って帰るかと思ったのになァ」
そう言うと店主は栄養ドリンクを1本手渡し、女性はそれもくれました。
「財法二施 功徳無量・・・」もう一度頭を下げて偈文を唱え直すと、今度は女性も店の中で店主も手を合わせていました。
○エピソード6、愛知県のJR安城駅前通りで托鉢をしていると、大きな呉服店がありました(ここも親鸞聖人ゆかりの一大一向宗王国です)。
店先でお経を唱えていると和服をキチンと着こなした老齢の奥さんが1万円札を持って出てきて、野僧に差し出しました。野僧が「チャリンで結構」と遠慮をすると、奥さんは自分の財布から百円玉を取り出して頭鉢に入れてくれました。
ところがその通りを回り終えて、次の通りに移って托鉢していくと、また大きな呉服店がありました。そこでまたお経を唱えていると、今度はお腹が大きな若い奥さんが出てきて5百円玉を鉢に入れてくれましたが、その時、若い奥さんは「さっきとはお経が違いますね」と言いました。
その店は表から裏まで、2軒分の奥行きがあって、先ほどは表側で托鉢して店主さんに喜捨をしていただき、今度は裏側で若嫁さんが出てきて下さったのだそうです。
流石の野僧も恐縮し、そこで安産を祈願して地蔵菩薩のお経をお勤めし直しました。
すると先ほどの店主さんも出てきて若嫁さんと一緒に手を合わせ、「今日は2度もお参りしてもらったから好いことがあるよ」と話し合っていました。
○エピソード7、競艇場や競輪場がある駅で托鉢をしていると、よく「今日のレースで勝てるようにお経をあげてくれ」とリクエストされました。
そんな時、野僧は「佛教には欲を捨てろ言うお経はあるが、欲を叶えるお経はない(実は真言宗にはある)」と言って断りました。
すると小父さんたちは、「負けた時に怒るなってお経だな」と納得して、差し出していたお札を引っ込めて小銭を喜捨していってくれました。
○エピソード8、愚息は「高校生になったらアルバイトを始める」と言い、学校に内諾まで受けておきながら、中々、求人を探しもしませんでした。
そこで野僧は、「延命十句観音経」なら暗唱で詠める愚息に、「托鉢に来い」と法衣に手甲に脚絆をつけさせ、網代笠を持たせて、豊川市内へ連れ出しました。
始めの五軒で一緒にお経を唱え、移動の車中で教えた「財法二施・・・・」の施財偈を唱え、頭を下げる練習をさせてから、別々に托鉢して回りました。
始めは声が小さく返事もしてもらえなかった愚息でしたが、慣れるに従って若い声で必死にお経を唱えたためか、学費と小遣いには十分な喜捨を受けていました。

○エピソード9、浜松市で托鉢していると、不思議に静まり返った家がありました。
玄関前で御経をあげても御経がそのまま吸い込まれていくようでした。
すると中から泣き腫らした目をした中年の女性が出て来ました。
「今、主人の遺体を病院から連れて来たばかりなんです。葬儀屋さんが帰って入れ代わりにお坊さんに御経を詠んでいただけるなんて思いませんでした」
そこで御宗旨をうかがうと門徒さんと言うことだったので、野僧は「阿弥陀如来根本陀羅尼」と「歎異抄・悪人正機」を唱え、喜捨をいただくに偲びず、その女性が取りに家に入ったすきに、そのまま立ち去りました。
ところが帰りにその家の前を通りがかると、その女性が家の前で待っていて、香典袋に入れた喜捨を手渡され、そして、悔しそうな顔をしてこう訴えられました。
「さっき、お寺さんに枕経をお勤めしてもらったけど、御通夜と葬儀でいくら、法号(戒名)代はいくら、車代はいくら、通夜振る舞いは遠慮するから膳部料がいくらってお金の話ばかりして行ったんですよ。本当ならお坊さんに頼みたいくらいです」
私はあらためて蓮如聖人の「白骨の御文」を唱え、心から冥福を祈り帰りました。
○エピソード10、静岡県のJR鷲津駅前通りで托鉢していた時、駄菓子屋さんの前でお経を唱えていると、小父さんが「声を出すから喉が渇くだろう」と言って、袋に入った飴をくれました。その袋には「幽霊飴」と書いてあります。
三重県桑名市には死んだ妊婦が埋葬された墓の中で出産し、幽霊になって飴を買いに来て子供を養ったと言う昔話があり、テレビの「まんが日本昔ばなし」でも紹介されましたが、それとほとんど同じ話が、鷲津にもあるとのことでした。
「幽霊のおかげで商売をしているから、供養をしないとな」小父さんの言葉に野僧は、そのお墓があるお寺を訊き、やや遠回りをして供養のお経を詠んで帰りました。
○エピソード11、静岡県新居町で托鉢している時、玄関先でお経を唱え始めると、建物の横から小さな女の子が出て来ました。
「お坊さん、金魚が死んじゃったの」女の子は、哀しそうな顔でそう言いました。
「お墓は造ったの?」「うん、こっちだよ」女の子について行くと、庭の隅に小さく盛った土饅頭の上に小石を乗せたお墓がありました。
そこで野僧は女の子に手を合わせさせて、お経と供養の回向を唱えました。
すると家の中から若い母親が飛び出して来て、「あのう、御布施は?」と訊きました。
「頼んだのはお嬢さんですから、お嬢さんの気持ちだけで十分です」
そう言って野僧が頭を撫でると女の子は「ありがとう」と笑顔を見せてくれました。
その時は、それで別れたのですが、托鉢を終えて帰ろうとJR新居町駅へ行くと、先ほどの母と子が待っていました(電車のたびに駅へ来ていたそうです)。
「これ食べて下さい」と言って、いきなり母親は、手作りの弁当を差し出しました。
「托鉢は食べ物を上げるモノだと聞いたことがありましたから、お弁当にしました」と母親は何故か心配半分、得意半分の顔をしていました。
「お坊さん、有り難うごじゃいました」隣で女の子は、またお辞儀をしました。
新居町は野僧の先祖が住んでいた土地でもあり、有り難くて涙が出そうでした。
○エピソード12、静岡県磐田市内で托鉢している時、家の玄関先で急に下北半島は恐山の御詠歌「西院河原幼児和讃」が詠いたくなり、この長い御詠歌を唄ってみました(「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため・・・」のフレーズは有名)。
するといきなり中から、初老の小母さんが出てきて、「和尚さん、今のお経いいね、もう一度、やってちょうだい」とリクエストして来ました。
そこでもう一度、西院河原幼児和讃をゆっくり詠い始めると、小母さんは奥に引っ込み、「覚えたいから、録音させて」とラジカセを持ってきました。
そこで、さらにもう一度唄い直すと、「うちには子供の佛さんがいるから、これから毎朝歌ってやろう」、そう言って叔母さんは過分の喜捨をして下さいました。
後日、その街へ托鉢に行った時、あいにく留守だったその家の郵便ポストへ、歌詞カードを入れてきました。
○エピソード13、ある夏、静岡県浜北市の農村を托鉢している時、畑で農作業をしている小父さんから声をかけられました。
「オッサン、暑かろう」小父さんはそう言って、一輪車に積んであった大きなスイカを1つ取ると「味は保証せんがね」と野僧に抱かせました。
「財法二施 功徳無量・・・」野僧は偈文を唱えて作法通り頭を下げましたが、スイカが転がり落ちそうで気が気ではありませんでした。
ところがスイカを抱えて歩く野僧に気がついた他の農家の小父さん、小母さんたちが瓜や大根、冬瓜や人参をくれて、それらを携帯していた風呂敷を使って背中にくくりつけ、両手でスイカを抱えて、大変な思いで駅まで辿り着きました(途中の商店で段ボール箱をもらって助かりましたが)。おかげで随分、オカズが賑やかになりました。
○エピソード14、ある時、浜松市で托鉢している時、猫が道路を渡ろうとしていましたが、中々車が途切れません。猫は痺れを切らして、道路へ飛び出そうとしました。
そこで野僧は、猫に「危ないから横断歩道を渡れ」と声をかけ、先に立って横断歩道へ歩いて行きました。すると猫も後をついて来て、一緒に横断歩道を渡りました。
横断歩道の渡った側にあった店の小母さんが、その一部始終を見ていて、感心ながら過分の喜捨をしてくれました。
猫には冬に坐禅をしていると膝の上に寝て温めてくれたり、不思議に縁があります。
○エピソード15、野僧が浜松市内で托鉢している時、眼の前で自転車の小母さんが、停車するトレーラ―の荷台の後部にひっかけられました。
野僧はそれを見ていましたが、小母さんは上手い具合いに転倒し、頭などは打たなかったものの、一回転したまま道路脇にへたり込んで、茫然自失していました。
「大丈夫ですか」野僧が駆け寄り声をかけると、小母さんはこちらを見て、「わっ、坊さんが来たァ」と急に泣き顔になりました。
「大丈夫、頭は打ってませんよ」と状況説明をすると、小母さんはやっと落ち着いて、今度は「お坊さんのおかげで命拾いをした」と現金な事を言い出しました。
すぐに救急車が来ましたが、小母さんに付き添っている野僧を見た救急隊員まで、「随分と手回しがいいな、坊さんも呼んでらァ」と感心していました。
○エピソード16、浜松駅の裏通りを通って帰ろうとすると、たむろしていた一見して柄の悪そうな若者たちが、「坊さん、金あるか?」と声をかけて来ました。
「あったら乞食なんかやってるかい」と答えると「そりゃあそうだな」と若者たちはニヤニヤと顔を見合わせました。
「でも、坊主丸儲けって言うじゃあないか」と別の若者が言ったので、「乞食坊主だァ」と答えて飛び跳ねて見せると、乞鉢袋のなかで小銭がチャリチャリ音をたてました。
「まったくミミッチイなァ、1日歩いていくらになるんだ?」「三食分ぐらいかな」「それでよく我慢出来るねェ」「元手は掛かっておらんぞ、これぞ坊主丸儲け」野僧の答えに若者たちは顔を見合わせて笑い、逆の方向へ歩いて行きました。
これと同様の経験は何度もしていますが、名鉄の東岡崎駅では、同じように声をかけて来た若者が、野僧の答えに「これで何か食えよ」と喜捨してくれました。
○エピソード17、ある夏、山口県防府市郊外の集落で托鉢している時、玄関先でお経を唱えると、奥からお婆さんが出て来ました。
お婆さんは、笠の下から野僧の顔をのぞくと、「坊さん、暑いかね」と訊きました。
野僧が黙ってうなづいて作法通り頭鉢を差し出すと、「喉も乾いたろう」と言って、いきなり背中に隠していた缶ビールを開けて頭鉢に注ぎました。
野僧が呆気にとられていると、お婆さんはニヤリと笑っていました。
戒律で僧侶は酒は飲めない、されど布施は拒めない、「さてどうする?」野僧は、師僧から「公案」を投げ掛けられた時と同じ思いでいました。
若し、それを知ってビールを注いだとすれば、公案「婆子焼庵」に出てくる、若いお坊さんの境地を試したお婆さんみたいでもあり、ならば大したものです。
野僧がどうしたかは内緒です。
○エピソード18、ある冬、山口県の新幹線の新下関駅へ人の迎えに行った時、しばらく時間があったので、駅の外でむしろを敷いて坐禅を組んで待っていました。
すると何故か通りがかる人たちが、「寒いのに修行をして有り難い」と言いながら膝の上に、小銭を置いていってくれました。
「今日は托鉢じゃあないのになァ」と思いながら坐っていると、やがて小銭は膝に乗り切らなくなり、仕方ないので頭陀袋を組んだ膝の前に広げておくと、小銭だけではなく、「寒いじゃろう」と肉まん、餡まんやらワンカップ大関、携帯懐炉まで集まりだして、中には「お地じょうちゃん(お地蔵さん)、これあげる」とお菓子をくれて、小さな手を合わせていく子供もいました。
坐禅をしていても、野僧からは托鉢僧、乞食坊主と言うオーラが出ている、と言うよりも匂いが漂っているようです。
○エピソード19、ある春、山口県下関駅前で托鉢をしていると、高校の推薦入試を受験する女生徒たちがやって来て、その中の1人が野僧に気がついて財布の中から10円を取り出して喜捨すると、何故か柏手を打って「合格するように」と祈りました。すると別の女生徒たちもそれに倣って喜捨して祈って行きました。
1ヶ月後、同じように下関駅前で托鉢をしていると今度は一般入試の受験生たちが大勢やって来ました。
彼女らは、野僧を見つけると「よかったァ、居た居た」と言って取り囲みました。
そして「友達から、お坊さんに祈ったら合格したって聞きましたよ。私も願いします」と言って、10円を喜捨し、そろって真剣に祈って行きました。
高校の合格発表の後、駅で托鉢していると女の子たちが、「有り難うございました」と言って喜捨してくれるようになりましたから、みんな無事合格したのでしょう。
○エピソード20、山口県下関市の田舎で托鉢していると饅頭屋さんがありました。
店先でお経を始めると店内の若い店員さんは、托鉢が珍しいのかこちらを指差して笑っていました。すると奥から和服の老齢の奥さんが出て来て、半紙に包んだ喜捨を乞鉢袋(首から胸の前に下げる托鉢用の袋=やっと買えた)に入れてくれました。
そして乞鉢袋を覗き込んで、「まだ何か入りそうだね」と言いながら、「饅頭をもっておいで」と店員さんに声をかけました。
「どれですかァ?」と訊く店員さんに、「一番の大きいやつ」と答えて持って来させると、売り物の饅頭の、それも一番大きなモノを自分で乞鉢袋に突っ込んで、「これで一杯になった」と満足そうに笑いました。
おまけエピソード「佛罰編」
●エピソード1、浜松駅前で托鉢をしている時、若い人向けの衣料品店の前でお経を唱え始めると、中から若い店主が飛び出して来て、「ウルセ―」と怒鳴りました。
そこで野僧がその言葉に、(途中で止められた=無駄な仕事をしなかった)御礼の偈文を唱え始めると、「目障りだ、とっとと失せろ」と更に罵声を浴びせました。
後日、その街へ托鉢に行くと、その店主は覚せい剤所持容疑で逮捕され、店は別の経営者になっていました(とそれを覚えていた隣りの店の小母さんが言っていました)。
●エピソード2、静岡県掛川市内で托鉢している時、ある電気店で托鉢をしました。
ところがすぐに同世代の男性店主が出て来て、無表情な顔で「騒音を立てられると迷惑です」と言いました。
「騒音?」野僧が店主の言う事を理解出来ないでいると、店主は「お経なんて、意味も判らずわめきたてる騒音だろう」と御丁寧に補足説明をしてくれました。
次回の托鉢時、その店にはトラックが突っ込んだとかでシャッターが閉まっていました。
●エピソード3、浜松市内に創□学会佛具専門店がありました。
托鉢は「街は残しても家は残すな」と言う決まりがあり、行かない街はあってもいいが、行かない家を作ってはいけません(病院などは除く)。
したがってその店を飛ばす訳にはいかず、一計を案じて創□学会も日蓮聖人の宗門だからと「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」を唱えました。
するといきなり若い女性が飛び出してきて、「うちは看板の通り創□学会の専門店です、迷惑ですから帰って下さい」と喧嘩腰で言ってきました。
そこで野僧が「今のは妙法蓮華経です、それならお好みでしょう」と答えますと女性は返事に詰まり、暫く黙った後で、「いくら払えば立ち退いてくれるんですか?」と不貞腐れた顔で訊きました。
野僧は「今の言葉で結構ですよ」と言って頭を下げ、次の家に移動しました。
次回、その店は火事になったとかで、更地になっていました(よく燃えたそうです)。
●エピソード4、下関市の農村を托鉢していると此処は、愛知県の三河一向宗と並ぶ全国有数の門徒帝国であるだけに、托鉢=禅宗と言うことで、無視されるのはまだいい方で、石を投げられたり、水をかけられたりすることもありました。
そんなある日、大きな台風が二度、続けざまに山口県を通過しました。
その後、その村を通ってみると、野僧に石を投げ、水をかけ、罵声を浴びせた家々は屋根が飛び、倉庫が壊れ、逆に喜捨をしてくれた家は無事でした。
そのパーセンテージが一〇〇パーセントだったのには愕然としましたが。
●エピソード5、ある日、【JR西日本】の下関駅前で托鉢をしていると、駅員さんが歩道を箒で掃き掃除をして来ました。
すると彼はいきなり、お経を唱えている野僧に向って塵を掃きかけました。それでも野僧が動かないと、今度は上役らしき職員を連れて来ました。
「ここで商売をされては困る」と上役は言い放ちました。
「商売はしていない、強いて言えば法施ですな」と野僧が答えると上役は「お金を取ってるじゃあないか」と反論しました。
「これは捨てていって下さっているお金で、こちらからは強制も要求もしていない」
しかし、彼らは野僧の「喜捨」の説明にも納得せず、「ここでは演説や勧誘、募金も禁止されている、どれにも抵触するから立ち退きを勧告する」と言い捨てると二人で駅の構内に戻って行きました。
その数日後、【JR西日本】の福知山線で列車衝突事故が発生し、死者、重軽傷者が多数出る大惨事になりました。
●エピソード6、冬のある日、下関市内へ托鉢に出た帰り、強風で電車が遅れていました。そこで野僧は、駅前の歩道で坐禅を組んで待つことにしました。
ところが坐っていても通りがかりの人が喜捨をしてくれるのは相変わらずでした。
すると、また駅員が歩道の履き掃除をしながら近づいてきました。
流石に駅員も坐っている野僧に塵は履きかけませんでしたが、すぐに上役を連れて来ました。二人は坐っている野僧の前に立つと見下ろしながら「また、あんたか」と言うので、「列車の時間待ちに坐っているだけだ」と今度は野僧の方から先に言いました。
すると上役は「切符は買ってあるのか」と疑った口ぶりで訊いてきたので、野僧は頭陀袋の財布から切符を出して見せました。
上役と駅員は、「お金を取らないように、通行人の邪魔をしないように」と高圧的に注意をして戻ろうとしたので、今度は野僧が反撃に出ました。
「それが客に対する態度か?前回、ワシを追い払った直後に福知山線の事故があったじゃろう。そんな無礼な態度を改めないようではまた悪いことが起こるぞ」
すると上役は嘲笑するような顔で、「それは失礼しました」とだけ言って、返って行きました。
その二日後に下関駅は、駅舎に放火されて、シンボルだった三角屋根をはじめとする主要部分が消失しました。
このほかにも語るも恐ろしい実話が沢山ありますが、野僧は別に呪いのお経は上げていませんので暮々も誤解のないように。
- 2012/05/04(金) 17:28:24|
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「野草山岳麓(野僧参学録)」(笑える話のみ。深い話、難しい話は内緒です)
○エピソード1.
奈良・三松寺の皆川英真老師(平成7年5月29日遷化)。
野僧が奈良のお寺巡りをしている時、薬師寺へ行く道を尋ねたお婆さんから「禅宗なら近くに三松寺さんがあるよ」と教えられて訪ねると、いつもはご多忙な老師が偶然おられて相見することが出来、「うちの坐禅会へ来なさい」と誘われて参禅するようになりました。
老師の口癖は「坐禅はエエもんやでェ」で、戦争から戻って奈良市内で唯一の曹洞宗寺院として「坐禅堂が欲しい」と発心され、その資金を作ろうと奈良、大阪、京都を托鉢して歩かれたそうです。
しかし、戦後すぐの誰しもまだ生活に余裕のない時代であり、アメリカのモダンな文化が流入して古臭い「佛教」などは見向きもされず、なかなか思うように資金は貯まらなかったそうです。
ところが吉野で托鉢している時、たまたま新聞記者に出会って取材を受け、そこで「奈良市内の自分の寺に坐禅堂を作りたい」と語ったことが記事になったのだそうです。
すると次に托鉢に出ると「新聞、読んだでェ」と托鉢してくれる人が増え、喜捨の額も上がって何とか資金が出来た。そして、建設会社に工事を発注しようすると、今度は建設会社の社長さんが「新聞、読みましたァ」とほとんど慈善事業扱い、ほぼ実費で工事を請け負ってくれて、予定外の鉄筋コンクリート三階建ての立派な坐禅堂が出来たのだそうです。
そんな三松寺・老師の下での坐禅ですから、小難しい理屈や建前、美意識のようなものは一切抜き。坐りに来られる方も年齢、職業、性別、住所、目的も色々、「本当に座禅はエエもんや」と心の底から愉しめる様な坐禅でした。
○エピソード2.
三松寺に泊まりこんで参禅し、作務などもするようになったある日、斎座(昼食)にカレーライスが出ました。
三松寺では基本的には精進料理だったので「お寺でカレーライスですか?」と訊いたところ、老師は「お釈迦さんは、どこの国の人かね」と答えて、ニヤーッと笑われました。確かにお釈迦様はインドの方、インドと言えばカレーですわ。
○エピソード3.
三松寺の坐禅堂の正面、老師の席の真向かいの壁には大きな達摩大師の画があるのですが、その顔立ちが皆川老師にそっくりなんです。
そこである日、「いつも達摩様と向き合って坐っておられると顔まで似てくるんですね」と申しましたところ、老師は「あれは参禅している画家さんがワシをモデルに描いたんじゃ、達摩さんの方がワシに似ているんだ」と言ってハッハッハと大きな口をあけて笑われました。
言われてみれば、丸くて大きな顔に太い眉毛と大きな目、立派な鼻に口、老師の顔は達摩さん顔、達摩大師と一緒に坐っているような安心感がありました。
○エピソード4.
三松寺の名物納所さんだったB師。世間を少し斜めから見たような話題を、とぼけた口調で語り、坐禅後の茶話会も楽しいものでした。
ある日、B師が財布を公衆電話に置き忘れ、すぐに気がついて戻ったがもうなかったとぼやいていました。
「泥棒に布施したみたいですね」とベテランの参禅者がからかうとB師は、「それを言うなら、施餓鬼じゃな」と決めてくれました。
○エピソード5.
比叡山へ一週間の研修へ行きました。
その時、指導に当たられていた居士林の所長老師が余りに口汚く各宗派の御祖師様方を「挫折者」「恩知らず」呼ばわりするので腹にすえかねて、ミーティング後の質疑応答の時、わざと「人間には本来佛性があるのになぜ修行をするのですか?(道元禅師はこの疑念への解答が得られず比叡山を下りた)」と訊いてみました。
すると所長老師は「君は道元と同じ事を訊くなァ」と言いながら「人間は鏡のようなものだ。常に塵や埃を払い、磨かなければいけないのだ」と答えられたのです。
そこで野僧が「元より明鏡無くば、何が塵や埃をひくのか」と再挙を求めたところ、いきなり「お前は生意気だ」と逆切れされました。
後から、野僧が得度を受けた僧侶だと告白して意気投合し、色々ご教示をいただきましたが、中でも「禅僧はやたらに彼岸の世界を語りたがる。しかし、人間は究極(=悟り)のことを知らなくても、右左、進む止まるを間違わなければ生きていけるものだ」との言葉は、野僧が済度衆生を考える上での指針になりました。
○エピソード6.奈良・薬師寺は野僧が参禅していた三松寺に近く、よく遊びに行きました(作務衣に絡子をかけて行くと入場無料で済む)。
ある日、薬師寺で高田好胤管長猊下の法話の会があり、法話終了後に参加者を案内して境内を歩かれる管長猊下に会いました。
直立不動で合掌している野僧に気がついた猊下も合掌を返して下さいました。猊下からは温和で誠実のオーラが出ていました。
参加者を山門まで送られた後、猊下はスタスタと野僧に歩み寄られ、にこやかに微笑みながら「三松寺様からですか?方丈様には佛教会でお世話になっています」と声をかけてこられました(野僧如きに、極めて丁寧な言葉遣いでした)。
野僧は丁度その頃、猊下の著書を読んでいたので、いつもの調子で「管長様は、以前は般若心経、観音経の本を書かれて、最近では父母恩重経の御本を書かれておられますが・・・」と質問をしました。
すると「皆さんに解り易いお経は何かなと思って書いているんですが、心経も観音経もまだ難しいようで父母恩重経(「ぶもおんちょうけい」と発音された)に行き着きましたのや」と答えて下さいました。
そこでさらに「管長様が信仰されている御薬師様とは、ご本尊様(=佛像)ですか、それとも存在としての佛様ですか?」と不躾な質問をすると、猊下は嫌な顔もせず穏やかな笑顔で、「難しいことを訊きなはるな。わしには生れた時から御薬師様は御本尊様のことやったし、うちの御本尊様は千年もここに居られるんやからナ」野僧はその時、「歴史」「伝統」の持つ力、重みと言うものを覚りました。
若い学僧は、「猊下の住まいは箪笥一棹に卓袱台一つぐらいしか家具はなく、余りにも質素な清貧生活に耐えられなくて奥さんが出て行ってしまい、娘さんが身の回りの世話をしておられる」と心からの尊敬を込めて言っていました。(高田好胤猊下 平成十年六月二十二日遷化)

○エピソード7.薬師寺の境内での役寮さんとの立ち話。
「薬師寺・法相宗が説かれる唯識論とはどんなものですか」と初老のお坊さんに問うたところ、お坊さんは「禅僧さん、地球が太陽を回っているのか、太陽が地球を回っているのか、どっちだね」と逆に訊いてこられました。
野僧が「天文学的には地動説、地球が太陽を回っていると言っていますね」と答えると、「わしゃ、地面が動いてお天道さんを回っているところを見たことがないよ」と一句。佛教の天動説、これ如何に。
○エピソード8.奈良の尼寺・興福院での尼僧様との立ち話。
尼僧様が山内を案内して下さいました。山内は清掃がよく行き届いているだけでなく、処々に生花が飾られていて尼寺らしい気配りもされていました。
2人で庭に下りると草も綺麗に摘まれていましたが、花や蕾がついた草だけが残してあることに気がつきました。そんな野僧の視線、表情に気がつかれた尼僧様は「いらぬ分別、恥ずかしゅうございます」とはにかんで微笑まれました。
草を摘むのも行であれば、花の有無で区別することは花を愛でる「我」を持ち込むことになる。尼僧様は、その不徹底を「恥ずかしい」と言われたのでしょう。
野僧は、柄にもなく胸をときめかせました。
○エピソード9.奈良の東大寺では滅多にお坊さんのお姿は見かけませんでしたが、ある日、法衣に網代笠姿で拝観に行くと偶然、大佛殿へ続く回廊で、年配のお坊様に会えました。野僧はここぞとばかりに幾つかの質問をしました。
野僧「華厳経とはどんな御経なんですか?」
御坊「貴方とワシは別々の人間で、今の今まで全く違う道を歩んで来た。そして、今ここで出会って話をして、影響し合った。これから別れてまた違う道を歩んで行くんだが、それは出会う前の貴方とワシではない。こんな話じゃな」
野僧は後年、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」と言う解説を知り、この例え話が実に言い得て妙なのが、よく判りました。さらに質問は続きました。
野僧「東大寺の戒壇院と比叡山の戒壇院ではどう違うのですか?」
御坊「うち(東大寺)のは釋尊から脈々と継承された正統な佛戒だが、比叡山のは『大乗菩薩戒』と言う日本独自のもので、法脈としては佛戒とは言えない」
野僧「私らは正式な佛弟子ではないと言うことになりますね」
御坊「うちか大宰府(の戒壇院)で受戒をすれば大丈夫だがな」
このことは後年、スリランカを旅した時に、現地のお坊さんから、「日本人のお坊さんは佛弟子ではないから合掌で礼拝はしない(野僧は個人的に合掌で挨拶してもらっていましたが)」と言われ、この問題を再認識、実感しました。
○エピソード10.覚王山日泰寺の前川睦生老師。曹洞宗における聲明の第一人者で、初対面から何故か馬が合い、色々な雑談の中で多くを学び、深めさせていただきました。それもその筈で師僧と前川老師の父上は大親友だったのだそうです。
ある時、前川老師がいつものように前置きなしでこう言いました。
「貴僧、聖徳太子をどう思う?」「はあ、日本の佛教には大恩人でしょうね」こんな時、前川老師は「本当にそうかい?」と野僧の顔を覗き込みます。
「彼は、あの頃、日本の皇太子だったんだ、今の皇太子が海外ではキリスト教の方がトレンドだからって言って洗礼を受けちまったらどう思うね?」「それは許せませんな」言われてみればそうだと、納得しながら相槌を打つ野僧。
「昔、お札が聖徳太子だった時、よく神道が反対しなかったなァと不思議だったよ」「神道の人には皇室のことに文句は言えないでしょう、あちらには皇室が御本尊ですから」「佛教は悟らにゃ佛じゃあないが、あちらは皇室に生まれれば神様なんだな」「そりゃ、そうですね」万事この調子でした。
○エピソード11.「阪神大震災」が起きて前川老師も宗教ボランティアとして現地へ行き炊き出しをされてきました。しかし、その感想は意外なものでした。
「私はツクヅク嫌になったよ、宗教者も一般の人もやっていることに何の変りも無く、材料を刻み、煮炊きして、配膳をする。食べる人も美味しい不味い、これが好き嫌いと言う反応しかないんだ」野僧は、何が問題なのかが判らず、それを問いました。
「やはり禅僧が作る料理なら清らかに作り、美しく配膳をし、有り難く食べてもらいたいじゃあないか。肉や魚を調理するにしても命への感謝を込めて、調理前に材料に手を合わせるぐらいのことがあっても好いじゃあないか」野僧は納得しました。
「単なる人数合わせであんなことをやりに行くくらいなら、私は僧堂で坐禅を組んでいるよ。雑用を任せられるほど暇じゃあないんだ」最後は前川老師らしくオチをつけて下さいました。
○エピソード12.「オウム事件」が起きた後、野僧は前川老師と雑談をしました。
野僧「オウムヘ行った連中も道を求めてあのような集団へ迷い込んでしまったのだから、伝統宗教側も彼らのような人たちを引き寄せる方法を考えるべきではないですか?」
前川老師「門は開けておくが、こちらからオイデオイデと出ていって招き入れるようなことはしたくないね。修行は菩提心がなければやり遂げられないだろう」
野僧「でも、彼等は世の中にこれほどお寺があっても伝統宗教ではなく、オウムなんて怪しげなモノを選んだ。伝統宗教側にも何かが足りないんじゃあないですか?」
前川老師「それはあくまでも縁の問題だよ」
野僧「情報過多の現代には、悪質な情報に負けないくらい強く良質な情報を投げ与えないと、混迷は深まるばかりですよ」
前川老師「(暫く黙って考えられ)確かに時代が違う、良い研究テーマをもらった」
後年、野僧は元オウム信者と知り合ったのですが、「何故、伝統宗教の門を叩かなかったのか?」と問いました。すると彼は「お寺もお坊さんも、僕には風景に過ぎませんでした」と答えました。それにしても一緒に坐った彼の坐禅は見事でした。
○エピソード13.「最近の若い者」談義から、前川老師がいきなり「日本にも徴兵制を復活させて、身心を鍛えないといけない」と危ない発言をされました。
それに野僧が「タイでは徴兵か、出家修行のどちらかを選択するそうですよ。自分の宗派の本山で修行させるように義務付けたらどうですか?」と反論すると、前川老師は「うーん、悪くはないけどなァ・・・」と珍しく答えを濁していました。
○エピソード14.ある冬、前川老師が当時、青森県は津軽半島の日本海側の寒村に住んでいた野僧の家に訪ねて来られました。
当時(現在も)、我が家では暖房器具は使用しておらず、家の中で佛前の水が凍り、坐禅を組んでいると鼻息で襟や胸に霜が降りるような状態でしたが、野僧は、いつも僧堂に居られる老師だけに「寒さは平気だろう」と勝手に思い込んで何の暖房の準備もしていませんでした。
ところが空港へ迎えに行った車の中で前川老師は「流石に青森は寒いね、僕は寒さには弱いんだ」と一言。しかし、すでに手遅れで、結局、我が家に滞在された三日間、家の中でダウンジャケットに手袋、毛糸の帽子を着用されて、唯一使えた暖房器具である炬燵に入りっぱなしでした。
この時、前川老師は大本山総持寺の維那に本山安居未経験者としては異例の就任をされることが決まっていました。以前から野僧に「僕は、本山には近づかない」と言っていた事を取り消しに、筋を通しに来られたのでした。これ以上は内緒です。

○エピソード15.野僧が、發心寺へ安居している時、前川老師が本山から聲明の講師として来山されました。朝、野僧が一人で山門前を掃除していると前川老師が朝の空気を吸いに出てこられて、久しぶりに言葉を交わしました。
「貴方には一番似合わない所に居たんでビックリしましたよ」。これは、まさに野僧が悩んでいたことを見抜いた言葉でした。
○エピソード16.博多の明光寺僧堂の水島博道堂長老師(平成七年四月十七日遷化)。旧陸軍の戦闘機・隼のパイロットにして特攻隊の生き残り。
ある日、私を相手に駒澤大学在学中に学徒動員で陸軍航空隊へ入り、大陸で活躍し
た思い出話を写真なども見せながら一刻されました。
そこで野僧が「人生の最も美しい時に、国のために命を捧げられた特攻隊員は幸せで
すね」と申したところ、堂長老師は野僧の顔をジッと見つめ、「お前にもそれがわかる
か・・・」とうなづかれました。
「老師は戦場で死生観を見極められたのですか?」との野僧の問いに、「飛行機なんてものは一度飛んだら後は降りるか落ちるかだ。飛行機任せ風任せ、死生観なんて大それたものなんかはない」と答えてニヤリと笑われました。あとは内緒です。
○エピソード17.明光寺僧堂は、福岡空港、博多港、JR博多駅、福岡都市高速、国道3号線に囲まれていて、夜に坐禅堂で坐禅を組んでいても、飛行機に船、新幹線にトラックから暴走族の音まで響いてきます。
そこで堂長老師に「道元禅師は(普勧坐禅儀で)坐禅には静室がよいと仰っておられますが」と申した所、「うちの僧堂ではな、世間に背を向けて黙って坐っているような坊主は造っておらんのだ」との答えをいただきました。
実際、明光寺僧堂では、通常の作務のほかに、進退作法、読経、鳴らしモノの教育と練習から檀務、戒名のつけ方、お寺の経理、茶道や華道まで住職になるのに必要なことが身につくようにカリキュラム化されていました(まさに住職養成学校)。

○エピソード18.東郁雄老師。発心寺の原田雪渓老師とともに見性(悟り)を得た方とされています。野僧が大本山総持寺へ参禅して相見しました。
ある日、総持寺の参禅者寮で東老師と一緒にいたところ、若い女性の参禅者から「どの色の御袈裟(絡子)の人が偉いのですか?」と訊かれました。
すると東老師は「修行に励んでいる黒い袈裟の坊さんが偉い」と答えられました。
それからは一緒にいても参禅者は、東老師を飛び越して野僧に合掌してくるようになってしまったのです。
それでも東老師は何も言わないで、野僧に挨拶に応えさせていましたが。
○エピソード19.総持寺でウイーンの大学で「禅」を教えているという臨済宗系の先生の講話がありました。
先生は公案の理屈での解釈を散々並べ立てた後、「本当に禅は難しい。皆さんも探求を」と話を締め括ったのですが、そこで野僧が「禅なんて、腹が空いたら飯を食い、飯を食ったら器を洗うだけのこと。この何が難しいのですか?」と質問すると、先生は絶句、隣りで東老師は「我が意を得たり」と満面の笑みでうなづいていました。
それから東老師に独参をさせていただくようになりました。
○エピソード20、東老師の坐禅をしている姿は、坐っているのか眠っているのか(それも熟睡)判らないほど、気持ちよさそうでした。
野僧は遠目にその寝顔(?)を眺めながら、東老師の「悟りの恍惚」とは「夢見心地のことなのかなァ」と思っていましたが、巡行(点検係)の古参雲水が参禅者に警策を入れると、チャンと目を開けて確認をしていましたから眠ってはいませんでした。
この東老師のどこか惚けた風情には、いつもホッとさせられました。

東老師をモデルにした「ファンシィダンス」の南択然老師
○エピソード21.ある冬、広島の少林窟坐禅道場に参禅した時、井上希道老師にここぞとばかりに色々質問攻めにしたところ、「お前のような大理屈を弄する奴は、黙って坐っておけ」と言われました。
粥座(朝食)、朝課(お経)の後、隙間風の冷たい坐禅堂に坐ったのですが、希道老師はどこかに出かけてしまって、野僧は独りほったらかしにされてずっと坐っていました。
夕方、戻って来られた希道老師が「飯は食べたか?」と問われたので、野僧が「いいえ」と答えたところいきなりポカっと頭に拳骨。そしてニヤッと笑って「お前のような古典的な坐禅をやる奴は・・・」と呆れた後、「まったく畑で、思いがけず掘り当てた骨董品みたいな奴だな」と評して下さいました。ここから先は内緒ですな。
○エピソード22.洞門では山口県きっての名刹にして守護大名・大内氏の菩提寺でもある禅昌寺の町田宗夫老師(平成二十一年十一月十五日遷化)。
町田老師は、宗務総長を務められておられた時に出席した世界宗教者会議での「日本にはもう差別は存在しない」発言が、部落問題を宗門に持ち込むきっかけになってしまい、功罪半ばする評価を受けておられました。当然、詳しいことは内緒です。
ある時、老師の御子息=後嗣さんが急な病で亡くなりました。遺されたのはまだ中学生だったお孫さん一人。法類、末寺のお坊さんたちは、「我こそは」と陰で騒ぎ出したそうです。野僧は、部外者なので素直に、心からのお悔やみを申し上げたところ、もう齢八十を過ぎておられた老師は、「また死ねなくなったワイ、まさに憎まれっ子世に憚るじゃノウ」と言って遠くを見るような目をされました。
○エピソード23.青森県きっての古刹である深浦町の真言宗醍醐寺派の圓覚寺。
野僧は「理趣経」と「陀羅尼」について学びに行ったのですが、詳しいことは内緒です。
ある時、方丈様から「醍醐寺派の修行が一番厳しく、高野山がその次、東寺は楽だ」と話されたので野僧が「私も山形出身の坊主らしく、死んだら即身佛(ミイラ)になりたいから、真言宗でも修行してみたいですな」と冗談を申し上げたところ、方丈様は真顔で「時々、永平寺から来たと言う者も居るが山中での修行について来られない様だ。何より今では真言宗の寺の出の者しか受け入れておらんよ」と言われました。
その理由を問うと「最近では、チョッと高野山などに来ては、『真言宗で修行をした』と語る新興宗教が多くてな、真言宗は偽者を作るくらいなら滅びた方がいいと決めたんだよ」と答えられました。
○エピソード24.福井県小浜の發心寺僧堂の原田雪渓堂長老師。禅、坐禅に関する著書多数。東郁雄老師と同じく見性(悟り)の人として、信奉者からは当に「生き佛」のように崇拝されているようです。
ある摂心(一週間の坐禅修行)の時、野僧が独参して、「山の中や海岸で坐禅を組んでいると佛様の御姿を現して下さいます」と申したところ、堂長老師は「そんなのは幻だ、有り得ない」と即座に否定されました。
それに対して野僧が「坐禅を組んで、『そんなものはない』と言う常識みたいなものを削り取ると精神が剥き出しになって、霊的なものを感知出来るようになるのでは」と申したところ、「必然性がない」とさらに否定され、「それを信じるのなら發心寺の坐禅とは違う、ご祈祷をやる寺へでも行った方が良い」と言われました。
単純かつ馬鹿正直な野僧は、これを適性判断、進路指導だと思い、「曹洞宗で祈祷をやる大雄山最乗寺僧堂(箱根)か可睡斎僧堂(袋井)へ行った方がいいのですか?」と訊いた所、堂長老師は「そんな中途半端なところではなく比叡山か高野山へ行け」と言って呆れ顔をされました。
しかし、野僧はやはり、自分の中の「(修験、即身佛の本場である)山形人」の血が、御佛の姿を見せてくれていると、確信しております。
○エピソード25.ある摂心の時、野僧の隣の単(席)の雲水が居眠りをしていました。それも前に倒れこみ、頭を畳につけて、鼾までかいていました。すると、たまたま点検に周って来られた堂長老師は、彼の背中に警策を入れ、起きたところで肩にも二つ入れました。
彼の坐相(姿勢)を直されると堂長老師は、「一人だけに警策を入れたのでは可哀想だ」と思ったのか、いきなり野僧にも一つ。アリガタイコトデシタ。
○エピソード26.野僧は、長年茶道をやっていて、發心寺の雲水の中では唯一正式なお点前が出来たおかげで、作務の空き時間などにお茶が好きな堂長老師に呼ばれて、「茶飲み友達」をすることもありました。
堂長老師は「うちの雲水さんには、お茶がわかる人が居らんからなァ」と言いながら、嬉しそうにお茶を点て、野僧も独参や提唱などでは聞けない雑談を楽しむことが出来ました。
ところが新到(新人)の野僧が、一人で堂長老師に呼ばれることに焼き餅を焼いた古参たちは「茶人が禅僧に憧れるのは解るが、禅僧が茶人に憧れるものではありません」と皮肉な言葉を投げかけてきました(そうかなァ?)。
○エピソード27.野僧が、方丈でいつものようにお茶をいただいていると、その日は戦争中の思い出話になりました。
堂長老師は戦争中に海軍軍属としてトラック島におられたそうです。ある時、米軍の攻撃に同僚とともに壕の中に伏せている時、機銃掃射を受けられたそうです。
機銃弾が通り過ぎた後、両隣の同僚に声をかけたが返事はなく、老師だけを飛び越して戦死していた。
「なぜ、自分だけが生き残ったのか」その自問自答の中で、「菩提心」と言う生涯の命題を心に抱えたのだと仰っておられました。
○エピソード28.「道元未悟」。これは当時の堂長・原田祖岳老師が、永平寺で提唱された公案で、これを文字面通りに受け止めた宗門で「高祖様を否定、冒涜している」と非難が沸き起こり、發心寺が「異端」扱いされるきっかけになりました。
「自分が悟っていないから悟りを受けられない」「生涯未完のことだ」などの理屈から「道元には佛の三十二相(佛の身体的特徴)が備わっていない」との神懸りな答えまで。野僧も上山してすぐに古参からこの公案をかけられました。
野僧の答えは内緒ですが古参は、「公案慣れしてるな、臨済くずれか?」と要注意人物にされてしまいました。

左から野僧、ドイツ人、中国人修行僧
○エピソード29.浜松市・臨済宗方広寺派本山での某老師との茶飲み話。
「箱根の大雄山、袋井の可睡斎、豊川稲荷に方広寺(奥山半僧坊)様と、東海道沿いには天狗さんを祀ってご祈祷をもっぱらにする禅寺が多いですね」と野僧が訊くと、「本当ですな。この辺は天狗が多いのかね」と笑って同意されました。
「方広寺様では、禅宗の修行とご祈祷をどう結び付けておられるのですか?」野僧の問いに一言、「佛が佛に祈るって言うことじゃな。佛になる修行をしている者は、それだけ身近って言うことだよ」と明快な答えに發心寺以来の疑念に得心が出来ました。
○エピソード30.茶飲み話の続き。
「臨済宗には、沢山の派が有りますが、どんな違いがあるんですか?」
「確かにうち(臨済宗)は、おたく(曹洞宗)と違って二十一派なんて言われるほどバラバラに分かれているけど、結局は白隠禅師の宗派なんだよ」
「白隠禅師は、妙心寺派でしたよね」
「白隠禅師は修行者には公案、衆生には和讃を残されて、臨済宗を再生と言うより完成して下さったんだね」。昔は兎も角、今では完成度はうち(臨済宗)の方が上といいたそうでしたが、ここから先は内緒です。
○エピソード31.ある3月。野僧は当時中学生だった愚息を連れて京都へ日帰り旅行へ行きました。
妙心寺から北野天満宮、金閣寺、大徳寺、下賀茂神社、知恩院、清水寺、三十三間堂、東・西意本願寺、東寺までを徒歩で回った超ハードスケジュールだったのですが、大徳寺の某塔頭でのこと。たまたま方丈様が受付に居られました。
「あんたのお寺はどこやねん」「寺には住んでいません、借家に御本尊さんを祀って修行道場にしています」。「ほなら、どうやって食ってるのや?」「托鉢ですわ」。
すると方丈様は「エエナ、そんなやり方もあったんか」と本当に羨ましいそうな声で「エエナ、エエナ」を連発されました。
「あんた、わしと代わらんか」と今度は真顔で訊いてこられたので、「こんなややっこしいもん要りません」と答えると、「そんなら、あんたのボウをくれ」といきなり、愚息の手をつかみました。
すると愚息は一言、「僕は(岐阜県美濃加茂市)伊深の正眼寺へ行きたいです」。
それを聞いて方丈様は感心しながら「あそこ、うち(臨済宗)では一番厳しいんやで、うちの小僧になって(臨済宗立の)花園高校へ行きなさい」。
後に、この話は実現しかかったのですが・・・。
○エピソード32.そのまま方丈様自らの案内で塔頭内を回りましたが、方丈様の描かれた書画を展示した部屋で「わしの作品はエエやろ、買えば高いんやで」と自慢そうに言われたので「この画、エエですな讃を入れさせてもらいましょうか」と答えましたら、「あんた、解ってるな」と言われ、顔を見合わせて二人で大笑いしました。
方丈様には、自分の(拙い?)書画を高い金を出して買う「世間」が滑稽なのであり、それに野僧が讃を入れて「完成品」にすれば台無しになる。
結局、世間が買うのは書画の良し悪しではなく、大徳寺でも有数の(沢庵禅師ゆかりの)塔頭の住職である自分の名前であると言う虚構を突いた野僧に「我が意を得たり」と快哉に笑われたのです。

○エピソード33.三重県名張市徳連院の井村正信老師(平成十九年二月二日遷化)
野僧は一時期、縁あってこの寺の春秋彼岸とお盆の檀経を手伝いました。
若い納所さんたちは、この明治生まれの老師の厳しさ、口やかましさを嫌って、逃げ回ってばかりいました。しかし、明治生まれの老師に仕えてきた野僧には、老師の御指導はシミジミ懐かしく、お会いするのが嬉しくて彼岸やお盆を心待ちにしていました。
お盆の寺法要の後、納所さんが導師(住職)が撒いた御洗米を箒で掃き集めて、塵取りで取ろうした時、老師が「そのまま外に掃き出せ」と言われました。
日頃、何事にもキチンとすることを躾けられる老師からの意外な言葉に唖然としている皆に向って老師は「掃き出せば餓鬼が喰う」とつけ加えられました。
○エピソード34.ある年の春彼岸の帰り、野僧は津市一身田にある浄土真宗高田派の本山・専修寺を訪ねました。
目的は、高田派だけに伝わっている訓読の正信念佛偈を聴いてみたかったことと、高田派の傑僧・村田静照和上について伺いたかったことでした。
専修寺は、京都の東西本願寺と比べても遜色がないほど境内は広大、伽藍も豪壮でしたが、どこか気どってスマシタ雰囲気がある東西本願寺に比べると、参拝者や掃除している奉仕の信者さんたちはワイワイと賑やかで活気がありました。
訓読の正信偈について、老齢の役寮老師に伺ってみましたが、「三重県の山奥で口伝されているだけで、本山でも聞いたことがない」と言うことでした。
役寮老師はそう言いながら、「最近は、高田派の僧侶も京都の本願寺の学校へ入るから、宗派としての特色はなくなった」と嘆いていました。
また村田静照和上については、御自房を教えていただき訪ねてみましたが(徒歩では遠かった)、想像していたよりも小さなお寺で、残念ながら住職はお留守でした。
○エピソード35.托鉢で弁当を食べるのに寄った岡崎市内の浄土宗のお寺で、本尊様をお参りさせていただいての住職老師との話。
野僧「お釈迦様は法界定印を結ばれますが、阿弥陀様は阿弥陀定印なんですよね」
住職「これはねェ、救う相手で親指と人差し指の組み合わせが違うんだよ」
野僧「どう違うんですか?」
住職「清く正しく生きてきた人は親指と人差し指、並みなら親指と中指、修行が足
りん者には親指と薬指かな」
野僧「その指でつまんで極楽へ引き上げて下さるんですね」
住職「いや、西方浄土は遠いから、その指でピンッと弾き飛ばすんだよ、ハハハ・・・」
野僧「極楽浄土まで、三途の川も、閻魔大王も飛び越えてヒューですね」
住職「そう言うことだね。阿弥陀様にとっては人間を救うなんて簡単なことなんだよ。そうでなくては戦争や災害で大勢が死んだら間に合わん」
野僧は素人と言うことで一応は納得しておきましたが、しかし、浄土三部経の観無量寿経では、人間を生き方によって九段階に分けて、死後の迎え方について詳細、具体的に説かれていますので、住職さんの話は何処まで本当、本気なのか判りません。
(一般信者向けの法話のネタだったのかも知れません)
○エピソード36.時宗の教化部長老師。時宗の「念佛」について問うたのですが、独特の節回しがあり、とても難しいです(未だにマスター出来ない).
「聖(一遍上人)には如一と言う永平寺から来られた御弟子さんが居られましてね、後継者と言われていたのですけど、残念なことに先に亡くなられてしまって。あそこ(道元禅師)までいくと、相通じる境地があるんですかね」。野僧は同感しました。
○エピソード37.静岡県内の某日蓮宗大寺院の住職老師との茶飲み話。
「御聖人様は、はじめは『比叡山の天台宗を守る』と頑張っておられて、山内で批判されると今度は『比叡山はなってない』と激しく批判される。
『南無阿弥陀佛の念佛などは佛教ではない』と批判しておきながら、『南無妙法蓮華経』とお題目を始められる。
密教のご祈祷を否定しておきながら、今では法華修験なんてことをやっておられる、日蓮宗さんは私の理解を越えていますワ」
こんな野僧の失礼な言葉に老師は、ガッハッハッハと豪快に笑いながら、「はじめに『衆生を救う』と言う願があるんだよ。衆生が救われるのなら何でもありじゃ。
今風に言えばお客さんのニーズ第一だな。細かいことは気にしない」そう言うとまたガッハッハッハと大口を空けて笑われました。
○エピソード38.野僧は、もう20年以上、福岡県春日市のバプテスト教会のペック牧師について聖書を学んでいます。
ある時、ペック夫妻が山口県の野僧の家に遊びに来ました。家に入り、お祀りしてある御本尊様を見て第一声。「何故、佛像を飾りますか?貴方は佛に会うと言う。本物に会えるのなら偶像を飾る必要はないでしょう」ペック師は、常にカミに会い、対話していると言っているだけに鋭い指摘です。
「それはメモリアル(紀念)ですワ。御釈迦様が悟りを得られた姿を紀念しているんですよ」「そんな『物』が必要なのか?」「恋人がいても彼女との思い出の写真を飾るようなものですよ」「フ―ン」ペック師は、不満そうな顔をしながら黙りました。
ちなみにペック師の教会には、十字架も祭壇もなく、信者の集会や聖書勉強会などは、ピアノを置いた広めのリビングでやっています。
翌朝、朝課(朝のお経)を了えた私に一言。「何故、祈りますか?佛に会えるなら普通に話せば良い」これも朝から厳しい追及でした。
「カソリックも儀式(だけ)の宗教だが、それと同じですか?」「挨拶にもマナーがあるでしょう、そんなものですワ」「フ―ン」とペック師はまた不満そうな顔をしていました。
○エピソード39.ペック師を友人の神職に合わせましたが、野僧はキリスト教界が佛教以上に神道を敵視していることをまだ知りませんでした。
ペック師は初対面の友人にいきなり法論を吹っかけました。
ペック「貴方も神に仕えるなら、正しい神を信じた方がいい」
友人「確かに八百万の神々の中には色々な神がおられますが、私たちは神を善悪、好悪で区別はしません」
友人にはキリスト教の神も八百万の神々の御一人と言うことでした。
ペック「人間が正しい神を信じなければ罰が与えられます」
友人「本当に荒振る神の仕業は、怖ろしいですなァ」
最後まで話は噛み合わなかったですが、それでよかったようです。

○エピソード40. ペック師は突然野僧に「牧師になりなさい」と言って来ました。
「貴方の話を聞いていると、貴方が出会っているのはカミです。貴方は勇気を持ってそれをカミだと認め、イエスキリストだけを信じると告白するべきです」。
ペック師は日頃から、日本人の牧師は聖書の勉強はしているが、霊的な体験がなく、信仰心が浅いと嘆いていました。ならば「異教徒でも信仰心に迷いのない野僧の方が」と言う所でしょうか。
しかし、これは「悟り無き禅僧」「御佛の実在を確信していない御祈祷坊主」「来世を信じ切っていない念佛僧」など、他人事ではないですな。
○エピソード41.スペイン人神父の「国際常識」と言うテーマの講話に参加しました。
在日数十年、日本文化の研究をライフワークにしていると言うだけに、話は宗教から風俗、芸術まで多岐にわたり、その博識と分析の鋭さに聴講者は彼の過激な「キリスト教絶対主義」「西高東低文化論」にも誰一人、質問も反論も出来ませんでした。
やがて彼はこう言い放ちました。「ヨーロッパの芸術は宇宙を描いているが、日本では自然しか描いてはいない。それは日本人の理解が目に見える世界に限られているからだ」。それには野僧も聞き捨てならず、思わず手を挙げました。
「私が、宇宙を描いて上げましょう」「貴方が?。ここで?」彼は呆気にとられた顔で訊き返してきました。
私は、壇上に上がるとチョークで黒板に大きく「○(円相)」を描きました。
それを見て彼は即座に一言、「確かに、これは宇宙だ」。しかし、それを見た日本人の方が意味が解らず、「あれは何なんだ?」と後で訊いて来ました(説明しても駄目でした)。
○エピソード42.青森は津軽地方の五所川原神明宮の宮司さんとの茶飲み話。
野僧が「津軽には神明宮が多いですが、これは縄文人の(アラハバキ神などの)土着の神々をアマテラス(伊勢・神宮)が支配するためですか」と申しますと、宮司さんは急に真顔になられて、「その話は、皇室がわが国を統治され賜うことへの否定にもつながるから危険です」と答えられました。
その後は、戦後の日本人の社会観、家族観、労働観にキリスト教が与えている影響について、キリスト教と日本人の伝統的な考え方を比較しながら、熱っぽく語り合いました(キリスト教では自然は人間が神から与えられたもの、日本では人間も自然界の一部。キリスト教では労働は失楽園の結果の苦役、日本では神につながる神事など)。
「キリスト教の神様も、八百万の神様のお一人になって、十一月(神無月)には出雲へお来しいただけるようになればいいんですがね」との野僧のジョークに「(室町時代に)宣教師にそう言った神主が居たそうだが、実際そうなってますよ」と答えました。
確かに、クリスマスも初詣も葬式も結婚式もお宮参りも日本の宗教行事であります。
○エピソード42、話しは古事記へ。
「始まりの国生みから木花之佐久夜毘売や日本武尊の話しにしても、日本の神様ってエッチですよね」と野僧が申しますと、宮司さんも困ったような顔で「生命賛美、自然体と言って欲しですな」と答えられました。
野僧が「巫女さんの舞を見ていると、あれは神様に追われて逃げ惑う乙女の姿のようで、巫女さんも捧げ物ですかね?」と申しましたら、「あれは神憑りのなごりといわれていますが、それは新説ですな」と愉快そうに笑われました。
○エピソード43.浜松市でお寺の管理人をしていた頃、隣に黒住教の教会があり、宮司さんと茶飲み友達になって、よく行き来していました。
宮司さんの日課は、朝日を浴びながら二時間のウォ―キング、戻ると境内で日光浴をしながら、既に七十歳は過ぎていたにも関わらず縄跳びを三十分間+日向ぼっこ。
「あと倍(百五十歳まで)は生きる」が口癖でしたが、黒住教とは本来そんな(=太陽崇拝の)宗教なんだそうです。
○エピソード44.三重県名張市のお寺の盆、彼岸をを手伝っていた時、なぜか大峯山の修験者の先達さんのお宅へもお勤めに伺っていました。
「あんたのお経は、本当にあの世へ通じそうやナ」お勤めを了えた野僧に、お茶をすすめながら、先達さんは感心したような顔で褒めてくれました。
「佛が佛に祈ってますからな」私の答えに、大きくうなづかれながら一言。
「わしは山で死んでくるんや。それであの世と通じるようになる。座ってるだけでそれが出来るなんて流石やな」。「山で、神さんや佛さんに会いますか?」野僧の問いに、先達さんは「ウン、会う」と大きくうなづかれました。
○エピソード45、青森県津軽に住んだ時に、出会ったイタコさん。
イタコは七月の恐山の大祭以外は普段、東北の町々、村々に住んでいて、村人の「これを知っているのは死んだ祖母さんだけだ」、「息子が悪くて困る、祖父さんに叱ってもらうべェ」などと言う相談に乗りながら口寄せをして、当たれば「流石は祖父さんだァ」、外れても「やっぱり祖母さんも知らないのか」と言うことになるのだそうです。
これは沖縄のユタ、奄美のノロと同様、霊魂と共存する土着信仰であって、決してオカルトや迷信の類ではありません。
- 2012/05/01(火) 10:27:05|
- 宗教(参学録)
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