明日7月1日、それも1961(昭和36)年は元プリンせス・オブ・ウェールズ=ダイアナ元皇太子妃と野僧の誕生日です。したがってあの美貌のダイアナさんも御存命ならば51歳、熟女になっています。
ところでダイアナと言う名前は月の女神を意味していますが、南沙織さんのシンシアも同じような意味です(ただし、ダイアナはローマ神話、シンシアはギリシャ神話)。これが歌になると「ダイアナ」はポール・アンカさんの世界的大ヒット曲である一方、「シンシア」は吉田拓郎さんが一ファンとして贈った沙織さん讃歌です。
野僧は以前から疑問に思っているのですが、イギリスのエリザベス2世は女王であって女帝ではないはずです。ならばダイアナさんの元夫のプリンス・オブ・ウェールズ=チャールズさんは皇太子ではなく王子なのではないでしょうか?最近、マスコミはイギリス王室を報ずる時、王孫であるはずのダイアナさんの息子たちを王子と呼んでいますが、これは童話などの「若くハンサムな王子様」と言うイメージを守っているのだと邪推しています。
ただ野僧はチャールズ王子を「さすがは王子様」と尊敬していることがあります。それは若く美しくイギリス国民どころか世界的に絶大な人気があったダイアナさんを捨てて、カミラさんへの初恋を貫いて結婚したことです。
これが若い頃なら「王冠を捨てた恋」と呼ばれたエドワード8世の再現になったのでしょうけど、ダイアナさんの死が悲劇的だった上、二人を比較すると「何で?」と首を傾げるのが庶民の正直な気持ちでしょうからそうはならなかったようです。ただ東の島国に「あんたはエライ」と祝福している坊主がいます。
ダイアナさんの話ばかりでは何ですから余談を一つ。自衛隊で普通に階級が上がるのは1月1日と7月1日ですが、野僧は階級が上がらなくても7月は誕生日、1月は新年で「オメデトウ」でした。
- 2012/06/30(土) 11:38:02|
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明日6月24日は美空ひばりさんの命日です。
祖母は大の歌謡曲ファンで、当然のことながら女王・美空ひばりさんの歌もよく聴いていたため、野僧も年齢の割(イギリスの故ダイアナさんと生年月日が同じ)には詳しいです。
特に武道をやっていた関係で「柔」や「剣ひとすじ」を愛唱し、そのノリで「人生一路」を応援歌にしていましたので、就職して職場の先輩や出家してからの檀家さんの前で歌うと可愛がってもらう切っ掛けにもなりました。美空ひばりさんはその後、「愛燦燦」や「川の流れのように」などの少し系統が違う曲も歌われましたが、若い頃にも「真赤な太陽」と言うグループサウンズ風の曲も歌っていましたから、意外に固定観念を破る挑戦者だったのかも知れません。
野僧は「君が代」を国歌とする国旗国歌法には、歌詞の意味が「大君ではなく君では天皇のことを意味しないこと」や本来雅楽である曲が洋楽の楽譜で規定されると曲調が変わってしまうことなどから反対していて、このことを主張する時の対案として「美空ひばりさんの『川の流れのように』が好い」と言っていました。するとガチガチの保守派も「ひばりの歌かァ」と大人しくなったことを思い出します。
しかし、美空ひばりさんが亡くなった平成元年には、陛下が昭和を彩った人々をお供させたかのように時代を作った偉才が数多く逝かれました。
2月9日に漫画界の巨匠・手塚治虫先生、4月7日に経済界から松下幸之助会長、6月24に美空ひばりさん、8月18日には同じく音楽界から作曲家の古関裕而先生、11月6日には地元贔屓で俳優の松田優作さん、そして12月12日には同じく漫画界から「のらくろ」の作者・田川水泡先生、まるで昭和と言う時代の幕が引かれる時のステージ挨拶のようでした。
- 2012/06/23(土) 21:41:31|
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本日6月23日は「沖縄慰霊の日」です。
小庵でも戦没者慰霊法要を厳修したしました(自分自身の慰霊をするのも不思議な気分ですが)。ただ、この時、摩文仁にある平和祈念塔の観世音菩薩に祈るべきか、沖縄の浄土・ニライカナイの弥勒世果報を念ずるべきか迷いますが、本土からの戦没者(島田知事を含む)のことを観世音菩薩、そして地元の遭難者の皆さんのために弥勒世果報を頼むことにしています。
法要に先立って小庵では御詠歌に代えて沖縄民謡「軍人節」と謡っていますが、本日はその歌詞を紹介いたします。
軍人節
詞曲・普久原 朝喜 (内地言葉訳)
天(てい)ぬん知(し)りみそち 天よ知って下さい
月(ちち)ん知(し)りみそち 月よ知って下さい
里(さとう)が行(い)く先(さち)や 照(てい)らちたぼ 夫の行く先を 照らして下さい。
男・無蔵(んず)とゥ縁(ゐん)むしでィ 月(ちち)ゆみばわじか お前と縁を結んで月日もわずかだが
別(わか)りらね(に)なゆみ 国(くに)ぬ為(たみ)でむぬ 別れなければならない 国の為だ
思(うみ)切(ち)りよ 思(うみ)無蔵(ぬず)よ 思いを断ち切れ 我が思い人よ
女・里(さとゥ)や軍人(ぐんじん)ぬ ぬんでィ泣(な)ちみせ(し)が 貴方は軍人でしょう何故泣くのです
笑(わら)てィ戻(むどゥ)みせ(し)る 御願(うに)げ(ぎ)さびら 笑って戻って見せて お願いです
国(くに)ぬ為(たみ) しちいも(む)り 国の為でしょう せめて祈ります
男・軍人(ぐんじん)ぬ勤(つとゥ)み 我(わ)ね嬉(うり)りさあしが 軍人の勤めが 私は嬉しいが
銭(じん)金(かに)ぬ故(ゆい)に 哀(あわ)れ(り)みせ(し)る 銭金の故に 哀れなことになる
母親(ふぁふぁうや)や いちゃがすら 母親のことを どうしよう
女・たとゥい困難(くんなん)に ちながりてィ居(う)てィん たとえ困難に 直面しても
御心配(ぐしんぱい)みそ(す)な 母(ふぁふぁ)ぬ事(くとゥ)や 御心配しないで下さい 母の事は
思(うみ)切(ち)みそ(す)り 思(う)み里(さとゥ)前(みィ) 思いを断ち切って下さい 愛しい夫よ
男・涙(なみだ)ゆい他(ふか)に 云(い)言葉(くとゥば)やね(に)さみ 涙ゆえ 他に云う言葉もない
さらば明日(あちゃ)ぬ日(ひ)ぬ 別(わか)りとゥみば さらば明日の日の 別れとなれば
くぬ二人(たい)や いちゃがすら この二人よ どうなってしまうのか
- 2012/06/23(土) 09:52:06|
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自衛隊の帽章、階級章、徽章などの由来
現在の陸海空自衛隊の正帽(略帽に対する正帽です)の帽章についてです。
陸は桜の花を桜の葉で囲む形ですが、これは帝国陸軍の近衛師団の帽章のデザインを踏襲しています。ただし、近衛師団は桜の花ではなく星ですが。
海は帝国海軍の完全コピーかと思いきや意外にも手直しされていて、先ず錨の形が商船と共通の形状から軍艦用に変更され、囲む葉もオリーブから桜になっています。
空は武者がかぶる兜の鍬形を意味する翼に鷲(鷹と言う説もある)、星、月を配して大空をイメージしていますが、最初はこの鍬形の部分に小さな雲が入っていたのを洗練させるためなくしました。そして、以前は幹部と曹士では大きさが違いましたが今は大量量産してコストを下げるため共通になりました。
陸・空の幹部の階級章の星は「桜星(おうせい)」と言って、よく見ると花びらの端に切れ込みを入れて桜らしくしてあります。、
ちなみに税関職員の階級章もほぼ同じデザインですが、採用したのはアチラが先で、しかも一番下の者が3尉の階級章をつけています(戦時国際法上、戦闘中に軍人として射殺されても文句は言えません)。
ところで海外では昔の軍服の襟に金色の生地が多かったため、目立つ銀色が上位の場
合が多く、米軍でも少尉は金、中尉が銀のバー、少佐、中佐は同様の葉です。
ついでに米軍の話をすれば、士官の階級章は少尉・中尉が木の幹、大尉が枝、少佐・中佐は葉と上に登り、大佐は鷲で空を飛び、将官は星になっていまうのだそうです。
そう言えば昔は陸・空幕僚長の階級章は陸・空将と同じ星3個だったのですが、源田実航空幕僚長が海外出張した時、3個では中将扱いされるため勝手に4個付けたの
が報道されて問題になり、「何とかならんか」と言われた空幕の担当者がアレコレ調べ
た結果、海上保安庁長官の階級章が違うことを見つけ、何とか変更にこぎつけたの
だそうです。
海はほぼ世界共通ですが、階級章を付け替えると袖に縫い跡が残るため、昇任する
と制服を新調しなければならないそうです(付け替えを頼むとミシン屋に呆れられ
るらしい)。
それから意外に知られていませんが、帝国海軍の紺の詰襟の軍服にも襟の階級章のか袖にも同様の階級章が黒で縫いつけてありました。
陸・空の「曹」の階級章は、昔の武者が戦場に立てていた板の盾を意味していて、盾1枚
に武者が10名程度控えていた歴史的経緯に基づいています。
昭和56年に曹長が出来た時、1曹の階級章の桜の花の下に無理やり線を入れたためデザインがアンバランスになっていまい、「曹長は おハナの下に 髭がつき」と言う川柳が作られました。
陸・海・空の「士」の階級章は、戦後しばらく警察官の巡査、巡査長、巡査部長の階級章が三角を袖に縫い付けるもので(尖った方が上)、これを逆にして桜の花をつけたのが自衛隊の階級章になったのだそうです。ただ、私は2士の階級章が初心者マークに見え、1本線が増えればようやく1人前と思っていました。
ちなみにアメリカ陸軍、空軍、海兵隊の兵から下士官の階級章は同じデザインで線が減らないのが年輪のような成長の過程を表していると言っていました。
最近、陸、空は職種徽章などが増えて制服が賑わっていますが、ほとんどが米軍の徽章に少し手直ししただけのコピーで、陸の施設科などは米軍の工兵科の石積みの城砦を日本の城の天守閣にした珍品です。
一方、アメリカ海兵隊は「海兵隊員であることが特殊技能(スペシャリスト)である」と
言う誇りと美学の下に、陸軍のような空挺やレンジャー、射撃などの徽章はなく、さらに部隊章も多国籍軍などで必要とされた場合を除き、迷彩服の右胸のポケットに「USMC(合衆国海兵隊)」と染めてあるだけです。
どうですシンプルも格好いいでしょう。
歩哨犬の話
航空自衛隊では警備用の犬のことを「歩哨犬」と呼んでいます。
犬種としてはシェパードかどーベルマンになっていますが、入間基地で購入し、基本的な訓練を施した後、各基地には配置されます。
ただ、一部には各基地に寄付と言う形で入隊してくる犬もあり、浜松基地でもOBが飼っていたシェパードを「大きくなり過ぎて(体重54キロ)を持て余したから」と引き取ったことがありました。この犬は訓練中に死んでしまい、それをOBに伝えに行く時は戦死通知を届けに行く従軍牧師の気分を味わいました。
さらに市内のシェパードの種付け業者から寄付を申し込まれたことがあったのですが、その犬は1頭2千万円。ドイツの旧貴族の家で飼われていた犬の血統で、1回の種付け料は百万円になり、それを2十数回繰り返せば儲けも出るのですが、あまり血統が増え過ぎると価値が下がるので、適当なところで去勢して売りに出すか、それもせずに殺すのだそうです(こちらの方が一般的)。
私もその犬と面接をしたのですが体形は美しく、立ち姿、動作にも品があり、流石は貴族の「お犬様」と言う感じでしたが、犬としての躾は全くされておらず、年齢から考えて歩哨犬にするのは無理と考えて断りました。するとその電話の直後に業者が自分で毒を与えて殺したそうです。合掌
またある時、新聞に米軍の警備犬の記事が載っていたのですが、その犬種は「ベルジャンマラノイ」と言って、ペット百科にもないモノでした。
そこで私は横田基地へ研修に出かけたのですが、米軍と航空自衛隊では歩哨犬・警備犬の運用が全く違うことを学びました。
自衛隊では重要施設にランニングチェーンでつなぎますが、米軍は犬単独での使用は禁じられており、むしろ武器が使用できない時の威嚇、攻撃などに威力を発揮していると言っていました。
ちなみに犬は殺傷目的に作られた道具ではないので、例え相手を殺し、負傷させても武器使用にはならないそうです(日本の警察に確認)。
米軍が採用したベルジャンマラノイはこの目的に適合した犬で、顎の力はシェパードの3倍あって標識も噛み折ることができ、闘争心はドーベルマン以上のものがあるそうです。
何よりもシェパードは改良のための交配を重ね過ぎて身体が弱く、心臓病などシェパードだけの病気が多く、特にヘルニアはある年齢になると100パーセント患います。
さらにヨーロッパで作られた犬種であるため高温多湿の気候に弱く、ベトナム戦争でも多くが病死し、これを受けて犬種の研究が始まり、ベルギー王室で飼われていたベルジャンマラノイ(現在、日本ではベルギー・シェパードと呼ばれている)を選んだのだそうです。
この研修には入間基地の歩哨犬訓練所の教官もドライバーとして同行しましたが、米軍の警備犬訓練や運用方法に大いに関心を示し、侵入者に唸る犬を見せながら「この犬は貴方を噛み殺し、重傷を負わせる可能性がある」と警告することなどは自衛隊でも取り入れたいと言っていました(浜松基地でも航空祭などで採用した)。
その後、歩哨犬の話は脱線し、フランス外人部隊が砂漠の戦場では草を食べて自活し、高い声で鳴く山羊を配置すると知り、元フランス防衛駐在官の群司令に資料をお願いしたのですが、「日本国内でその必要はないだろう、まったく何でもありだな」と笑われてしまいました。
さらによく訓練されてシェパードは命令がないと吠えないため自衛隊の運用に合う犬種の研究も始めまし
た。友人の動物学者の「番犬なら縄張り意識が強い日本犬が適している」との意見を受けて、秋田犬、紀州犬の採用を要望したのですが、根拠不明確として却下されました。
これは怪僧・モリノ2尉が作した歩哨犬顕彰碑の碑文です。
「軍用警備犬、通称歩哨犬、其祖出独逸国、生於日本国之各所、徴用皇国空軍了訓練武蔵野、配属当基地、以来任基地重要施設警備、極寒酷暑中遂行任務也、彼等濫不吐弱音責任放棄尤悪、好跳走興一至追獲物、古人曰猫亦佛性有、然生軍務倒軍務死軍務、軍用警備犬是軍神如何(軍用警備犬は歩哨犬と通称されている。その祖は独逸(ドイツ)国に出る。日本国の各所に於いて生まれ、皇国空軍(航空自衛隊)に徴用され、武蔵野(入間)に於いて訓練され、当基地に配属され、以来基地重要施設の警備を任として、極寒酷暑の中を任務遂行する也。彼等は濫りに弱音を吐かず、責任の放棄を尤も悪(にく)む、好んで跳び走り、興一至れば獲物を追う。古人曰く『猫にも亦佛性がある』、然らば軍務に生き、軍務に倒れ、軍務に死す、軍用警備犬の是を軍神とすることや如何に)」
※旧軍では軍用犬は伍長だと言われていますが(真偽不明)、自衛隊では「高価格品」つまり物品です。
※横田基地の犬舎でウチの隊員が犬に「ジョン、ジョン」と呼び掛けたところ、案内の米兵が「イエス サー」と返事をしました。

横田憲兵隊・左端がジョン上等兵です。

ベルジャン・マラノイ(ただし海兵隊員です)
航空自衛隊武道大会での銃剣道再発について
最近、航空自衛隊の現役幹部の友人から耳を疑うような愚かしくも情けない話を聞いて、呆れ果て嘆いています。それは防府南基地で行われる航空自衛隊武道大会で、すでに徒手格闘の採用で廃止になっていた銃剣道が復活したと言うのです。
銃剣道は大日本帝国陸軍のお家芸ですが、そもそも長い30式歩兵銃(日露戦争当時の制式銃)に、これも長い長ーい30年式銃剣(40センチもあった)をつけて槍のようにした銃を持って刺突するだけの極めて限定された格闘技術です(槍でも振り回す技がありますが銃剣道では反則です)。
現在、銃剣道と称して武道に名を連ねていますが、元来はフランスから輸入された格闘術でフェンシングの兄弟に当ります。明治の創軍期、銃剣術の導入に当り士族が多かった陸軍首脳には「外来の格闘術よりも日本古来の槍術を演練すべし」と主張する者が多く、体育訓練を研究していた陸軍戸山学校の担当者が元久留米藩士であっため、若い頃に藩で学んだ宝蔵院流を取り入れて槍のような銃剣術ができ上がりました。全日本銃剣道連盟はこの史実を以って銃剣道が日本古来の槍術の系譜にある=武道であると主張しています。
しかし、銃剣を閃かしての万歳突撃は日露戦争の旅順要塞攻撃でも機関銃による掃射で犠牲ばかりが大きく時代遅れであることが指摘され、第1次世界大戦の青島攻撃でも同様であったにも関わらず、これを改めることなく太平洋戦争でも繰り返され、さらに現在の陸上自衛隊でも未だ銃剣道に励んでいる。
冷静に考えれば30式歩兵銃の長さの木銃を使っての銃剣道が89式小銃で役立つ否かは自明の理で、ましてや航空自衛隊員が銃と銃剣を持つことがどれほどあるのか?
だからこそ素手で戦う徒手格闘の有用性を認めてこれを採用する英断を下したのにも関わらず役にも立たぬ敗軍の遺物をワザワザ復活させるとは・・・また教育幹部が得意とする裏工作があったのです(あえて断定します)。
全日本銃剣道連盟は退官した陸上幕僚長を理事長に就任させたことがあり、各都道府県支部も地元部隊OBが固める典型的な天下り団体であり、航空教育隊もその恩恵を預かっているのです。
航空教育隊にとって銃剣道は、新隊員などの教育課程で形式的な審査を受けて手数料を払えば漏れなく「初段」をくれ、「昇段」させてくれる有り難い武道で、公式戦への出場経験がない野僧でさえ5段の元公式審判員です(形は体育学校仕込みで模範的ながら)。
銃剣道連盟にとっても年間、数千人の多額の審査料は貴重な定期収入であり、さらに有段者は愛好者の実績とできるのですから、これを維持することは死活問題なのでしょう。
しかし、ほかの武道(柔道、拳法)では血と汗に塗れた精進努力の結果、黒帯になったことを思うと銃剣道5段はあまりにも軽く、単に個人訓練の練成基準を達成するために買わせる銃剣道初段に何の意味があるのかと、あまりの御都合主義に怒り心頭です
戦闘員に必要なのが段位認定ではなく格闘技術であることも弁えぬ輩が教育に当たっているようでは航空自衛隊には武装組織としての未来はないのかも知れません。
尤も、第1次イラク派遣の主力部隊になった名寄の陸上自衛隊第3普通科連隊も番匠連隊長の頃に廃止した銃剣道を再開したそうですから、こうなると最早、自衛隊を蝕む遺伝性の病気でしょうか。
ちなみに航空自衛隊に銃剣道が入り込んだのは、創設メンバーに大日本陸軍航空士官学校出身者が多く(海軍出身者はスタンドプレイヤー・源田実を嫌って海上自衛隊に走ったと言われています)、警察予備隊、保安隊の流れを受ける陸上自衛隊以上に陸軍の気風を持ち込んだためと言われています。その点、海上自衛隊は武道がもたらす弊害に着目して、江田島の幹部候補生学校では訓練課目から外したそうですから流石です。
航空自衛官に相応しい格闘技の問題について野僧は現役時代から研究を重ね、そのため色々な種目に手を出し、段位はしめて17段です(ただし中身のない銃剣道5段を含む)。
今回、航空自衛隊に再発した悪性腫瘍=銃剣道は刺突だけの極めて限定された格闘技と言うよりもビリヤードに近いものですが、アメリカ軍のバイオネット・ファイティング(銃剣格闘)では刺突だけでなく主に頭部への打撃も重視しており、試合はフットボールのヘルメットをかぶり両端に大きなクッションがついた棒での叩き合いです。
また刺突も、銃剣道では昔の槍術そのままに剣を立てて足の踏み切りと合せて真っ直ぐに突き出しますが、バイオネット・ファイティングでは銃剣を寝かせて腕で振るように突き出します。
アメリカ海兵隊員にその理由を訊いたところ「肋骨の形を考えれば剣は寝かせた方が刺さりやすい」「この方が銃床での打撃に続けやすい」とのことでした。
アメリカ人と日本人では腕力が違いますからアメリカ式をそのまま導入しろとは言いませんが、銃剣道は長い銃と銃剣があって成立する格闘術であることは間違いなく、自動小銃の時代では有効性がとうに失われているのです。
では徒手格闘はどうかと言えば、これは本来、柔術の流れをくむ日本拳法に対武器などの技を加えて発展させたもので、試合は防具、グローブをつけての殴る蹴る、掴む投げる、締める関節を極めると何でも有りですが、これも戦闘技術であれば当然です。
また柔術の流れだけに、殴る蹴るの当身技と組みついての投げ技、関節技が両立しており、むしろ相手を転ばして当身技でとどめを刺すことを基本としています。
実際、当身技で相手を倒すには上手く急所に当てるか、それだけの破壊力をつけなけらばならず、かなりの修練が必要であり、投げ技で抵抗を封じて急所を突くことは理に適っています。
一方、野僧は自衛隊体育学校格闘課程に入校している時、改善意見を求められたので「現在の金属の面や硬いプラスチック製の胴を強化プラスチックの面、クッション入りの柔らかい胴に替えるべきだ」と回答しました。そうすれば手にはめる大きなグローブを拳サポーターにすることができ、投げ技も容易になって少林寺拳法の演武のように関節技さえ試合で使えるようになるからです。しかし、体育学校も所詮は「先例大事」「上意下達」の陸上自衛隊であって下からの新たな発想は採用してもらえませんでした。
野僧は警備小隊長時代には格闘技として相撲を奨励していました(ただし土俵なしで転ばすまでのモンゴル相撲ルールでしたが)。
相撲の頭から当たる破壊力は拳や足での当身技以上の衝撃があり、柔道で言う自護体から身体で押しながら態勢を崩す投げ技は実戦性が極めて高いのです(ただし、足技は掛けて押す相撲よりも刈る柔道の方が正しい)。しかも組み合う態勢は機動隊の盾の動作に通じ、警備小隊員には極めて有用でした。
しかし、先ず為すべきは何の種目にしろ武道の一本勝ちを止めて、ボクシングやレスリングのように時間内戦い続け、ポイントの累積で勝敗を決するようにルールを改めことです。
現代の航空作戦は戦闘機や攻撃機による戦闘だけでなく、打ち漏らした敵をミサイルで迎え撃ち、救難機で人員を救助し、輸送機で物資を運ぶ総合戦であり、1本勝ちの発想はそれを損なう惧れが大なのです。それで海上自衛隊は課目から外したのですから。
- 2012/06/17(日) 11:23:45|
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防衛裏話(現場から聞いた話ばかりです。防衛秘密の漏洩にはならないと思いますが)
1、竹島問題
日本国民は、日本と韓国が竹島の領有を巡って争っていると思っていますが、日本の外務省は航空自衛隊が竹島を日本の領土として対処することを許していません。
日本海で行動する国籍不明機に対して航空自衛隊が緊急発進しても、その機が竹島の方向に移動すると航空自衛隊機は追尾することは出来ませんでした。
それは海上自衛隊の対潜哨戒機の監視行動でも同様だそうです。
若し、日本政府が竹島を日本の領土だと主張するのならば、竹島に接近する韓国機に対しても警告や緊急発進などの領空侵犯処置を執るべきでしょうけど、それは「イザコザには関わらない」と言う外務官僚の「事勿れ主義」には通じません。
それどころか航空自衛隊は、探知、記録していた竹島周辺空域での韓国機の行動データも政府指示という形で消去させられていました(当時、防衛庁は総理府外局に過ぎず、外務省と対等ではありませんでした)。
したがって竹島は日本の外務省の認識ではすでに韓国領であり、外務官僚の言うままだった当時の自民党政権の本音だったのかも知れません。
せめて我々は、三河湾に浮かぶ蒲郡の「竹島」の写真を使って、「これが我らの竹島だ」と愛国政治団体に逆説、自虐の宣伝でもしてもらいましょう。
2、台湾海峡問題
台湾空軍は中国軍用機の性能向上や活動の活発化に対応するため、防空識別圏(ADIZ)の空域を広げ、それまで日本の領空との中間に設定していた防空識別圏の境界線も沖縄の宮古島と八重山の間に移動させました。
このため救難や急患空輸のため自衛隊機が八重山方面に飛行すると、台湾空軍の戦闘機が緊急発進して日本の領空に向かって飛来し、それに対して航空自衛隊が緊急発進すると言う馬鹿げた状況が生起していました。
ところが台湾海峡を飛行する中国機に台湾空軍機が緊急発進し、それが北上して日本の尖閣諸島周辺の領空に接近しても、それに航空自衛隊が緊急発進することは日本の政府(=外務省)が許さず、航空自衛隊の現場は黙って監視し、領空に接近すれば通告、警告を与えデータを記録することしか出来ませんでした。
また、台湾の総統選挙で独立派が優勢なのに危機感を持った中国が大規模演習を行い台湾海峡にミサイルを多数撃ち込んだ時も、政府(=外務省)は、「自衛隊が何らかの対処をすれば中台紛争に関与することになる」とこれを許さず、丁度、年末年始休暇に入って、隊員が通常通りに本土へ帰省すれば、不測事態があっても対応することが出来ないと自衛隊のエライさんはかなり悩んだそうです。
3、北方領土偵察写真
まだ偵察衛星がこれほど普及していなかった頃、航空自衛隊では偵察機を根室への飛行訓練を名目にして、北方領土ギリギリのところまで接近させ(本当はもっと危ないことをしていた)、高性能カメラでソ連軍基地の偵察写真を撮影していました。
ところが百里基地の偵察航空隊が根室経由で太平洋側へ旋回して戻るフライトプラン(飛行計画)を運輸省(当時)の航空局に提出すると、飛行予定日のその時間に、何故かソ連機は格納庫に引っ込んでしまい、車両はおろか兵員さえも歩いておらず、偵察機は基地施設の写真しか撮れないことが多かったそうです。
そこで航空自衛隊は、偵察機をあらかじめ千歳や三沢基地に移動させ、そこから根室へ飛行させて写真を撮ると、しっかり軍用機が写りましたが、それもすぐに先方に伝わり、その手も通じなくなったそうです。
その後も連日、根室に飛行し、そのうちの1回接近するなどの手段(戦術)を講じましたが、やがては同様の結果になりました。
「秘密保全はソ連の前に先ず運輸省」と言うのが、偵察航空隊の隊員が宴席で口にするボヤキでした。
4、運輸省の労組職員
私が勤務していた沖縄の運輸省にも公務員労組があって、御多聞に漏れず過激な反自衛隊活動を展開していました。
航空管制官が労組だと、緊急発進(ホットスクランブル)がかかって3分以内で発進準備を終え、滑走路に向かったスクランブル機が、「着陸機がある、待て」と発信許可が下りず、はるか遠くで姿も見えない旅客機を、滑走路の手前で何分も待つことがあり、緊急発進機格納庫(アラートハンガー)の前で見送っている整備員たちも、「何のための『緊急』発進なのか」と怒っていました。
また、急患空輸の陸上自衛隊のヘリコプターが、「県の要請が入っていない」と離島の空港から着陸を拒否され那覇に引き返したことがありましたが、そのため患者が亡くなると、「自衛隊に要請しているのが原因だ。県独自に急患空輸の体制を整備しろ」と地元マスコミは問題をすり替えていました。
空港を管理するCAB職員が労組では、滑走路の点検中に緊急発進がかかるといつもよりも念入りに点検を始め、スクランブル機は滑走路の手前で、CABのライトバンが退くのをジッと待つことになりました。
さらに自衛隊機が不具合で緊急着陸すると、運輸省にしか知らせていない情報がたちまち地元マスコミに流れ、「危険な軍民共用をやめろ。県民の安全のため自衛隊は那覇空港から出ていけ」と言う基地反対運動につながっていきました。
実はこれは沖縄だけの話ではなく、福岡航空局が管理する福岡空港の周囲には、航空自衛隊の築城基地、芦屋基地、防府北基地、海上自衛隊の小月基地、アメリカ海兵隊と海上自衛隊が共用する岩国基地があり、航空局はこれを監視していて、何か特異な動きがあると情報はすぐにマスコミや反対派政党に流れるので、自衛隊機や米軍機が防衛行動のため飛行する時には、秘密保全のため運輸省の管制レーダーに映らないように、識別装置を消して飛行させたりもしていました。
これは当時、全国的な問題だったそうです。
とどめがアメリカ大統領が搭乗する専用機・エアフォース1(海兵隊機ならマリン1)は実は2機編隊で飛行するのですが、1は羽田、2は横田基地に着陸しました。
そして大統領が次の訪問国に向かう時、運輸省の航空局が大問題を起こしました。
大統領の行動日程は国家機密に属し(山本五十六を撃墜した国だけに)、エアフォース2もギリギリまで飛行計画を提出しませんでした。
ところが運輸省の職員は、それを通常の軍用機の飛行計画として処理したため許可が間に合わず、エアフォース1と2が同時に発進できないことになりました。
アメリカ政府は「エアフォース1が標的にされたらどうする」と激怒し、震え上がった総理の一声で、許可が下りてことなきを得ましたが、非常識は国内だけにしてくれと言う話です。
日本の航空自衛隊の政府専用機も2機編隊で運航していますが、同様のことが起きた時、外務省にここまで強硬な要求が出来るでしょうか?
5、航空自衛隊VSアメリカ海軍航空隊の空中戦
アメリカ海軍の空母艦隊が北海道沖の太平洋において海上自衛隊との協同演習を実施し、その一環として襟裳岬のレーダーサイトを目標にして攻撃訓練を行いました。
ところが空母艦載機の行動は軍事秘密に属し、当然フライトプランを提出せず、攻撃態勢に入ると通信機、識別装置もOFFにするため、航空自衛隊としてはわが国領空に接近する事前データのない国籍不明機と識別するしかなく、警告にも応えないため、千歳から緊急発進をかけました。この時、自衛隊側としてはスクランブル機のパイロットが米軍機と確認すれば良しと言う程度の認識でした。
しかし、米海軍の規定では、作戦行動中の空母艦載機が外国機から攻撃を受けた場合、これを撃墜しても良いことになっていて(映画「TOP GUN」の通り)、米海軍の艦載機はマジに空中戦を挑んできました。
これには航空自衛隊の元ブルーインパルスのパイロットも歯が立たず、必死になって日本の領空に逃げ込み、航空自衛隊としては三沢の米空軍を通じて空母艦隊に連絡を試みましたが、相手は無線封鎖をしていて交信不能、仕方ないので後続機を発進させ、向こうも続々と艦載戦闘機を上げてきて日米開戦の一歩手前まで行き、航空自衛隊の司令官以下のエライさんたちは、腹を切る覚悟を決めたそうです。
結局、海上自衛隊を通じて連絡がとれて事なきを得ましたが、米軍は本当に味方なのか?私はあまり信じていません。
6、南沙諸島問題
小牧のC―130輸送機は中東、アフリカに派遣されているPKOなどの部隊、要員に対する輸送業務を担い、小牧から那覇、フィリピン軍の基地、タイ軍の基地、インド洋ディエゴガルシア島の米軍基地を経由して、中東、アフリカ方面に飛行しますが、フィリピンからタイまでは非常に遠回りをしています。
南沙諸島上空を通過すれば、距離はかなり縮まるのですが、南沙諸島は現在、フィリピン、ベトナム、中国が領有権を主張していて、このうちのどの国に南沙諸島上空を通過する飛行許可を求めるかは日本政府の公式見解を表明することにもなり、外務省がそれを許さず、結局、どの国にも関わらぬように遠回りしています。
ちなみに最近は、アジア、アフリカ諸国への災害援助物資などの輸送にも、C―130輸送機を使いますが、貨物を搭載して飛行すると飛行性能、航続距離が悪くなるため、小牧からタイまでは貨物なしで飛び、タイまで民間の輸送機で空輸しておいた貨物を現地で積み込んでいるそうです。
これも南沙諸島を遠回りするための窮余の対策かも知れません。
7、テポドン発射騒動
北朝鮮がテポドンを発射し、日本列島を飛び越して太平洋に達しさせた時、その航跡をとらえていたのは日本海で監視行動をとっていた海上自衛隊のイージス艦だけだったと言われていますが、その裏には航空自衛隊の失態がありました。
航空自衛隊のレーダー部隊も当然、この航跡をとらえ、記録、解析しようと、航空総隊、各航空方面隊、各警戒管制団の防衛部サイドは、警戒管制団防空指令所や各レーダサイトに監視を強化させていたのですが、それ以前から新型レーダーに更新、改修工事が完了したレーダーに対して、装備部サイドが出していた探知に関する制限を解除することを担当者が忘れていて、このため肝心の日本海側のレーダーの探知能力が十分に発揮出来ず、その結果、航跡も捉えられなかったと言います。
尤も、私は当時、テポドンが飛び越した東北地方のペトリオットミサイル部隊にいましたが、テレビのニュースで報じられるまで誰も知らなかったのですから話になりません。
8、下甑島不法侵入者捜索事件
平成9年2月、下甑島の民宿に突然、言葉の通じないアジア人男性が4人現れました。たまたま御主人は留守で奥さんは慌てて宿泊客をおこし、警察に通報して大騒ぎになり、その日のうちに島内で20名の不法侵入者が逮捕されました。
前年の秋、朝鮮半島では韓国の海岸に北朝鮮の潜水艇が座礁しているのが発見され、不法侵入した乗組員を完全武装した韓国軍が捜索して発見、交戦する事件が発生し、その場面がニュースでも報じられていて、下甑島にも乗組員が不法侵入したのではないかと言う噂が島内に広まり、役場に対応を迫る声が一気に高まりました。
しかし、下甑島内には2ヶ所の駐在所に警察官が1名ずつしかおらず、九州からのフェリーは天候の回復待ちをしていて鹿児島県警からの応援は不可能、そこで消防団を中心にした島民の捜索隊が編成され、島内の山狩りが行われることになりました。
当然、町役場からは下甑島にある航空自衛隊のレーダーサイトにも隊員の差し出し、捜索への参加が要請されましたが、防衛出動、治安出動が発令されていない状況では、自衛隊には、捜索のため私有地に立ち入る捜査権や不法侵入者に対する逮捕権はなく、ましてや武器の使用は絶対に許されていません。
そこで春日基地の西部航空警戒管制団司令部は、ピクニック、ハイキング同様の位置づけの野外訓練の命令を発令し、隊員を山狩りに参加させることとしました。
結局、他の不法侵入者は見つかりませんでしたが、問題は意外なところで大きくなりました。
そのことを伝聞情報で知った九州のマスコミ支社が東京の本社へ伝えたため、やがて全国ニュースで「独断で自衛隊が不法侵入者の捜索に出動した」と報じ始め、そのイメージ場面には韓国軍の捜索と戦闘の様子が流用されていました。
一方、下甑島民は、自衛隊が出るのなら韓国軍のように完全武装して先頭に立って捜索すると思っていたところ、作業服に水筒をつけただけの丸腰で来て、自分たちと一緒に歩き回るだけで、マスコミとは逆の不満を訴え始めました。
その後、天候が回復して運航を再開したフェリーで下甑島にやって来たマスコミ各社の記者たちが、島の実情と自衛隊の参加形態を知り、これでは問題に出来ないと判断して、たちまち話はしぼんで消えましたが、平時には自衛隊は何の役にも立たないことを思い知らされた一件でした。
- 2012/06/16(土) 21:27:42|
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大阪が生んだ2人の総理大臣
太平洋戦争の終結と敗戦後第一歩を踏み出した時の総理大臣が、ともに大阪の出身だったことは御存知ですか?
太平洋戦争を終結させたのは鈴木貫太郎首相です。
この方は現在の堺市中区伏尾の幕臣家庭に生れた海軍大将で、日本海海戦では水雷戦隊司令として勇名を馳せ「鬼貫」と呼ばれ、2・26事件では安藤輝三大尉の襲撃を受けて危うく命を落としかけています。ちなみに江戸時代に生まれた最後の総理大臣であり、77歳2カ月での就任は現在も破られていない最高齢記録です。
鈴木貫太郎首相の功績は言うまでもなく「本土決戦」「一億玉砕已むなし」の陸軍を抑えてポツダム宣言を受託し、無条件降伏を実現させたことです。
東條英機など陸軍の強硬派の前ではかつての英雄の顔で本土決戦に同調しながら、裏では和平に向けて着々と手を打ち、最後には天皇の聖断を仰ぐ形でこれを封じ込みました。
また、太平洋戦争末期、アメリカのルーズベルト大統領の逝去に際し、鈴木貫太郎首相は短波ラジオで「今日、アメリカが優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によってアメリカの日本への戦争継続の努力が変るとは考えておりません。我々もまた貴方たちの覇権主義に対して今まで以上に強く戦います」と言う談話を発信し、それをアメリカで聴いた亡命ユダヤ人作家・トーマス・マンは感銘を受け、「ドイツ国民の皆さん、東洋の国・日本にはなお騎士道精神、人間の死に対する深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな言葉の精神に比べて貴方たちドイツ人は恥しくないのですか」と大統領を口汚く罵ったヒトラーを批判しています。
一方、敗戦直後には東久邇宮稔彦と言う皇族が54日間だけ総理大臣を務めましたが、実際に動き始めたのはその次の幣原喜重郎内閣です。
幣原喜重郎首相は門真市の豪農の生まれで、戦前から外交官として戦争回避に努力しましたが力及ばず、終戦まで世捨て人のように過ごしましたが、東久邇内閣崩壊後に再登場して独自のパイプを駆使して連合国との交渉を行いました。
幣原喜重郎首相は、占領政策の1つとしてGHQから示された草案を受け容れる形で日本国憲法を成立させましたが、その引き換えに日本は民主化された国家として認められたのです。ただ、幣原内閣の閣僚たちはこの時、政治家としての無念さと国民への慙愧の想いから揃って号泣したと言われています。
この2人の政治家を見ると大阪人の現実主義と優れたバランス感覚を強く感じます。大阪商人の先物買い=先行投資の逸話はシバシバ語られますが、果たして現代の大阪の政治家にこれほどの人物がいますか?
内閣総理大臣を特産品にする長州の地から眺めていますが、あまり大阪らしさは感じていません。小泉内閣の塩川正十郎財務大臣くらいでしょうか。
余談ながら歴史的に見れば大阪に「維新」と言う句は相応しくありません。
どうせなら大阪から幕政に一石を投じ、封建社会そのものを大きく揺さぶった大塩平八郎に因み、その私塾「洗心堂」から採ってもらいたかったものです。
愛知が生んだ2人の総理大臣
愛知県は大阪同様に多くの選挙民を抱える国会議員の量産地域ですが、総理大臣はやはり2人しか出ていません。
しかし、歴史に大きな足跡を遺し日本を救った大阪の2人の宰相に比べ、愛知の2人は歴史に汚点を残したとしか思えないような人物です。
一人は加藤高明ですが、コイツは大隈内閣の外務大臣時代、対華二十一カ条要求を行い、それまでは日本を近代化の手本と見てくれていた中国の恨みを買い、欧米には大陸への野心を明らかにして不信を招いてしまいました。
そして護憲三派の後押しで総理大臣になった大正末期には、大正デモクラシーの高まりによる国民世論の圧力に抗しきれず普通選挙法を制定し、25歳以上の男子に選挙権を与えたものの、これは女性の参政権を認めず生活困窮者は除外するなど、決して時代の流れに対応したとは言えない不十分な代物でした。
さらにこの法律に抱き合わせる形で治安維持法を成立させ、当時、胎動し始めていた無産政党(労働者政党)を政治どころか社会からも封殺しました。
後に日本が戦時色を深めるにつれこの悪法は曲解を重ね、やがては最高刑が死刑になるに至り、自由を求める言論人へ弾圧や平和を願う市民の声すら抑制する道具に使われ、あの無謀な戦争に突き進ませたことは議論の余地もなく、戦前の日本史をナチス治世下のドイツに比肩するほど暗く陰惨なモノにしたのは紛れもない事実です。
二人目は海部俊樹ですが、コイツは竹下内閣のリクルート疑惑による国民の金権政治への批判の目を反らすために自民党が登場させた中和剤に過ぎません。
この手はロッキード事件による田中角栄への批判に対し、非主流派の三木武夫を担ぎ出して前首相の逮捕と言う派手な演出で鎮静化させたことの二番煎じでしたが、海部には三木ほどの見識、覚悟もなく、ただ財界からも相手にされないようなクリーンなイメージと他に取り柄のない巧みな弁舌で一時的に人気を博しただけでした。
ところが歴史はこの愚かな総理大臣の登場を許しませんでした。
海部が総理大臣になって357日後の1990年8月2日、サダム・フセイン大統領のイラクが突如、クエートに侵攻して湾岸戦争が生起したのです。
海部には始めからこの事態に対処する見識、覚悟はなく、ただアメリカに言われるままに多国籍軍への財政支援を表明し、それは次第に膨張して日本の戦費で欧米諸国が戦争をするような状況になりました。
しかし、海外からは「日本は金を出すだけで血を流さない」との批判の声が上がり、海部内閣はこれに反論することが出来ず、かと言って自衛隊の海外派遣を危惧する国民に説明して理解を得る努力もせず、ただ追い詰められていくばかりでした。
結局、海部が出した結論は、航空自衛隊の輸送機を丸腰で派遣して難民輸送に当らせると言う無責任なものでしたが、その準備をさせただけで出動を命ずることもなく、3月3日に停戦が成立して湾岸戦争は終結しました(航空自衛隊怪僧記参照)。
ところがこの手を韓国がそのまま実行したため、あちらは国際社会での評価を高め、日本の威信は地に落ち、それで焦った海部内閣が打ち出したのが海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣し、機雷を除去させると言う戦後処理でした。
実はここでも海部は、作業対象海域は公海に限り、公海であれば通常業務の範囲であるから特別な立法はしないと言う小手先の業を弄しました。
結局、本質的な議論もなく、なし崩し的に自衛隊の海外派遣への道を開いたことは、その後のPKO法、さらにイラク特別措置法などにも踏襲され、自衛隊は日本国内の非常識によって手足を縛られたまま戦闘地域ではない戦場に赴き、戦闘行動ではない軍事的任務につくことになったのです。
鳩山由紀夫が登場するまでは、間違いなく海部俊樹こそ戦後最低・最悪の総理大臣でしたが、あれ以下がいたことには驚きを禁じ得ませんでした。
岩手が生んだ5人の総理大臣
岩手県は5人の総理大臣を輩出したと言われますが、これには些か疑問があります。内閣府が示している総理大臣の出身地の定義は、戦前はそのまま出身地、戦後は選挙区と言うことになっており、だから東京で生まれ育った2世、3世議員を地方の人々も「郷土出身の大臣先生」と言うことにできるのですが、5人の中で問題になるのはやはり東條英機です。
東條家は江戸時代、加賀から盛岡藩に召し抱えられた能楽者(早い話が芸人)の家柄ですが、父の英教は陸軍軍人として陸軍士官学校、陸軍大学校の教官として勤務しており、英機も東京で生まれ育ち、地方陸軍幼年学校も仙台ではなく東京でした。
ただ、本籍地は岩手県に残しており、つながりがあったことは間違いありません。
東條英機が人気のある総理大臣であれば「何が何でも岩手県出身」と言われるのでしょうけど、我が国を滅ぼした元凶=A級戦犯でありますから、現在、山口県宇部市出身の菅直人を「選挙区が東京だから山口県出身ではない」と地元が拒否しているのと同様なのでしょう。ただ岩手県の場合、東條を入れれば5人ですが、除くと群馬県と同数の4人になってしまいます。
岩手県の総理大臣と言えば先ずは平民宰相の原敬ですが、政治家になる前は外務省、農林省などの高級官吏で叙勲の話も何度かあったのを本人が拒否したのですから、庶民派と言う意味での平民とはやや趣(おもむき)が異なります。
原首相は大隈内閣の対華21カ条要求や寺内内閣のシベリア出兵で行き詰っていた外交を英米協調路線に転換することで打開しようとし、内政でも山積する各種難題に積極財政処置を行って取り組んでいました。しかし、欧米諸国の中国での権益を認めたことで、その独占を狙っていた軍部、財閥につながる右翼に敵視され、東京駅構内で大塚駅の駅員であった右翼青年に刺殺されました。
次に斉藤実首相ですが、こちらは岩手県出身と言っても盛岡の南部藩ではなく、水沢(=小沢一郎の選挙区)にあった伊達支藩の藩医家庭の出身の海軍大将でした。
日露戦争当時は海軍次官として山本権兵衛海軍大臣に仕え、その後、寺内内閣から山本権兵衛内閣まで8年間、海軍大臣を務めています。
斉藤首相が就任したのには5・15事件の犬養毅首相の暗殺により政党政治が揺らぐ中、昭和天皇は右翼的な人物を嫌い、逆に政界は政党政治家の擁立に躊躇し、その結果、アメリカ駐在武官も経験している穏健派軍人の斉藤大将に白羽の矢が立ったと言う訳です。
斉藤首相は内政としては世界恐慌の処理に努力し、外交ではそのバランス感覚と豊富な人脈で欧米との協調路線をとっていたのですが、そのリベラル色を嫌った軍部や右派政党から粗探しのような政治スキャンダルを演出され、中でも帝人事件では150名近くの逮捕者が出たのに裁判では全員無罪と言う珍騒動になりました。
結局、現在の政界にも通じるこの愚かしい政局によって退陣に追い込まれたのですが、その後も昭和天皇の信任は厚く内大臣を務めたものの、世界恐慌で庶民が味わっていた苦しみの責任を押し付けられる形で2・26事件の犠牲になりました。
東条英機と米内光政閣下については「戦士の戦史」で述べましたので省略します。
最後に鈴木善幸首相ですが、野僧は海部俊樹が登場するまでは、この人が戦後最も愚かな首相だと思っていました。
鈴木内閣当時、中学校の歴史教科書で「大陸への侵略」とされていた記述が「進出」に変更されていると言う問題が新聞各紙でセンセーショナルに報じられ、それを受けて中国、韓国が猛烈な抗議をしてきたのですが、それに対して「今後は近隣諸国に配慮する」と言う談話を宮沢喜一官房長官に発表させ、歴史認識を人質に差し出したのです。ところがこの記述変更は完全な誤報で始めから「進出」とされていたのですが、それでも鈴木首相は宮沢談話を撤回せず、その後の政府が謝罪外交を繰り広げる切っ掛けを作ったのです。
また、膨大な赤字を抱えた国鉄職員の年金が滞った時には、それを自衛隊員と電電公社の職員に肩代わりさせると言う意味不明の対策を取りました。
この結果、自衛隊員たちは自分たちを否定する過激な政治闘争を繰り広げていた国労の年金まで支払うことになり、電電公社の職員は民営化されNTTの社員になってからもJRの経営が軌道に乗るまで払い続けることになったのです。
群馬が生んだ4人の総理大臣
群馬県のすごいところは4人とも戦後の総理大臣であることです。
総理大臣の量産を誇る山口県でも戦後は岸信介、佐藤栄作、安倍晋三の3人だけ(あくまでも菅直人は除く)ですから群馬県は突出しています。
その中でも福田赳夫と福田康夫は初の親子の首相で、岸信介と佐藤栄作の兄弟、吉田茂と麻生太郎、鳩山一郎と鳩山由紀夫、岸信介と安倍晋三などの祖父と孫とは世襲としても一線を画しています。
また福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三は中選挙区時代、同じ選挙区で福田赳夫と中曽根康弘が首位を争い、小渕恵三は指定席の3位当選だったそうです。
それにしても同じ選挙区選出の国会議員の全員が総理大臣まで上り詰めるとは凄いことで、「総理大臣になりたかったら群馬から出馬しろ」何て伝説ができそうです。
ただ、福田赳夫首相についてはダッカ事件の時、連合赤軍の要求に屈して、「人命は地球よりも重い」と言う妄言を発し、活動家でもない囚人たちまでを特別処置として釈放し、身代金をつけて引き渡したことがどうしても許せず、その他の経済政策などに業績があったとしても評価はできません。
中曽根康弘首相は長期政権であり、長身で見栄えのする容貌、低音の魅力の巧みな弁舌、さらにドナルド・レーガン合衆国大統領との「ロン・ヤス」の親密さなど国際社会で日本の地位を著しく向上させた=大国としての地位を確立したことと国鉄と電電公社の民営化などの土光臨調と併せて功績は大でしょう。
小渕恵三首相は自ら「人柄の小渕」と言っていたように、独特のほのぼのとした親しみやすいキャラクターは不況に沈みゆく日本にとっては、癒し、救いになっていましたが惜しむらくは在任中に逝去されてしまいました。
また小渕内閣に於いて北朝鮮の不審船に対して海上自衛隊に初の海上警備行動が発令されました。ただ、小渕内閣が成立させた国旗国歌法の国歌に反対である野僧としては、そこだけが引掛かります。
福田康夫首相は最近過ぎてコメントは避けますが、この方のキャラクターは一見して元優等生・エリート官僚であった父の赳夫首相とは違ったとぼけた味があり、テレビなどで批判され、民主党の小沢辺りが攻撃をすると同情してしまったものです。
「本当に可哀そうなくらい苦労しているんです」と言う答弁には、思わず「頑張れ」と応援していました。
山口が生んだ8人の総理大臣とおまけ1人
こちらは多過ぎますので、とりあえず名前を列挙すると、初代総理大臣・伊藤博文から始まって山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、そして戦後が岸信介、佐藤栄作、安倍晋三の各首相ですが、戦前の5人のうち4人が陸軍大将だったことを見ても、山県有朋が身内を引きたてた長州人脈が確認できます。
山県は高杉晋作の奇兵隊で活躍し、戊辰戦争を経て明治新政府が創設した陸軍内で揺るぎない地位を得たのですが、長州独特の「はぐくみ」と言う前途有望な若者を養子のような形で引き取り、育成しながら子分にして、やがて後継者にする制度をそのまま持ち込み、長州出身者を重用したことが「長州閥」と呼ばれる排他的て独善的な帝国陸軍の風土を作った面は否めません。何よりも現在も問題になっている日本の官僚気質は間違いなく長州人のものです。
ただ、伊藤博文首相は周防国の農民・足軽の出身ですから長州人ではありません。
桂太郎首相は日露戦争当時の首相で国難を切り抜ける力となりましたが、同郷の乃木希典の指揮する第3軍が旅順攻撃で甚大な損害を出したのにかなり参ったようです。また、記録が残っている日本人の中では最も重い大脳の持ち主だったそうですが、だから頭が良かったのかは不明です。
その後の寺内正毅首相は政治に陸軍の主張を持ち込むことしかせず、ロシア革命に驚いてシベリア出兵を強行しましたが、どんな情報、見通しがあってのことだったのかは判りません。少なくともその後、財政、外交上の負担になっていきました。
田中義一首相は自分のことを「オラ」と言うので「オラが総理」と呼ばれ親しまれていたと言いますが、野僧は山口県に住んで久しいものの、こちらで「オラ」と自称する人に会ったことがなく真偽、経緯について首を傾げています。
張作霖爆殺事件の支離滅裂な上奏で昭和天皇の不信をかい、「オラは陛下の信任を失った」と言って退陣したとも伝わりますが、これもどうでしょう。
戦後は岸信介、佐藤栄作兄弟と岸首相の孫の安倍晋三首相ですから、こうなると長州閥と言うよりも一族と言うことになります。
今でも地元の人は「信介さん(岸首相)は優秀だったが、栄作(佐藤首相)は馬鹿じゃった」「信介さんは帝大を出て東京で役人になったが、栄作は所詮、国鉄じゃからのう」「だけど男前は栄作の方が上じゃった。政界の玉三郎じゃけん」などと親しみを込めて評価しています。
ちなみに岸信介首相は元A級戦犯ですがこの辺りが東條英機とは違うのです。
復活を果たした晋三さん(地元での呼び方)はどうしても「晋太郎さんの息子」「信介さんの孫」と言う評価から脱することができず、期待よりも心配が先に立っていましたが、今回は民主党政権で混乱した国政の再建を待望する歓声になりました。
民主党の菅直人首相が就任した時、出身地の宇部市を中心に「山口県出身の9人目の総理大臣」と歓びかけたのを当時の二井知事が、「総理府が示している総理の出身地の基準に適合しないので、山口県出身ではなく縁(ゆかり)のある総理大臣だ」と水をかけました。しかし、現在では「二井さんは見る目があった」とその達見が評価されています。
各都道府県が生んだ総理大臣
岩手県のところで紹介したように総理府が示している出身地の基準は、戦前が生まれ育った故郷、戦後は選挙区と言うことのようです。
北海道 鳩山由紀夫
岩手県 原敬 斉藤実 東條英機(東京都?)米内光政 鈴木善幸
栃木県 小磯国昭
群馬県 福田赳夫 中曽根康弘 小渕恵三 福田康夫
千葉県 野田佳彦
東京都 高橋是清 近衛文麿 鳩山一郎 菅直人(山口県?)
神奈川県 片山哲 小泉純一郎
新潟県 田中角栄
石川県 林銑十郎 阿部信行 森喜郎
福井県 岡田啓介
長野県 羽田孜
静岡県 石橋湛山
愛知県 加藤高明 海部俊樹
滋賀県 宇野宗佑
京都府 西園寺公望 東久邇稔彦 芦田均
大阪府 鈴木貫太郎 幣原喜重郎
岡山県 犬養毅 平沼騏一郎 橋本龍太郎
広島県 加藤友三郎 池田隼人 宮沢喜一
島根県 若槻礼次郎 竹下登
山口県 伊藤博文 山県有朋 桂太郎 寺内正毅 田中義一 岸信介 佐藤栄作 安倍晋三
香川県 大平正芳
徳島県 三木武夫
高知県 浜口雄幸 吉田茂
福岡県 廣田弘毅 麻生太郎
佐賀県 大隈重信
熊本県 清浦奎悟 細川護煕
大分県 村山富市
鹿児島県 黒田清隆 松方正義 山本権兵衛
しかし、この基準で考えると、例えば元々は兵庫県芦屋の令嬢でそこが選挙区だった小池百合子氏は小泉郵政選挙の折、東京へ国替えしており、若し女性宰相になったなら東京出身になるのでしょうか?(だからと言って菅直人はいらないですが)
一方、未だ総理大臣が出ていない県は青森県、秋田県、宮城県、山形県、福島県、茨城県、埼玉県、山梨県、富山県、岐阜県、三重県、奈良県、和歌山県、兵庫県、鳥取県、愛媛県、長崎県、宮崎県、沖縄県ですが、山形県は加藤紘一、山梨県は金丸信、兵庫県は小池百合子(土井たか子?)で期待を裏切られ、岐阜県は野田聖子、奈良県は馬淵澄夫、鳥取県は石破茂の今後に期待ですかね。
- 2012/06/15(金) 20:00:09|
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戦士の先史
野僧は、西部航空警戒管制団防空管制隊に勤務している時、西日本から朝鮮半島までカバーした画像を見ながら、思い浮かべていた歴史書がありました。それは「古事記」です。
また、後年、北部航空方面隊第6高射群に赴任して学んだ歴史書があります。それは「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」です。
つまり大陸から我が国に向かってくるunkown(アンノン)の航跡を見ながら天孫降臨を想い、津軽の地で部隊の機動計画を策定しながら迫り来る大和朝廷軍を迎え撃つ戦術を考えていたのです。
これはそんな古代戦史ですが、あくまでも素人の勝手な空想の産物であることをあらかじめお断りしておきます。
古事記は昨年は編纂1300年にあたり注目を集めていましたが、東日流外三郡誌の方はあまり知られていないので簡単に内容を説明いたします。
古代日本には北から移入したアソベ族が先住していて、そこに大陸からツボケ族が渡来して、津軽を中心とする第一古代王朝を建国しました。
そこには古代文字があり、奥羽山脈に「石の塔」と呼ばれる巨石建築物を建設し、遮光式土偶を神像として祀っていたとされています。
その後、神武東征により関東地方から追われた耶馬台(やまたい)族が移入、融合してアラハバキ王国を樹立したと言う、ある意味、皇室による日本統治を否定する史観であり、それゆえに異端の史書として否定されてきたのです。
しかし、野僧は三内丸山遺跡の縄文文化が注目を受けている時期に津軽へ赴任して、地元の人たちと親密につき合うことで、そこにかつて馴れ親しんでいた沖縄の人々との深い共通性を見い出し、この歴史観が事実であると確信するようになりました。
例えば弔いや吉凶占い、祓いなどの神事を行う女性を東北ではイタコ、沖縄ならユタ、奄美はノロと言い、男性は東北なら毛坊主(毛がある坊主)、沖縄ではニンプチャア(念佛者)と呼称こそ異なるものの果たしている役割や祭礼の儀式は殆ど同じです。そもそも中央では非人として蔑まれていた芸能を生業とした人々も、東北と沖縄では神事との区別がなく尊重されていたことも共通しています。
さらに江戸時代、佛教の庶民への浸透によって避けられるようになった肉食も津軽と鹿児島、沖縄では明治まで残って郷土料理になっています。
ただし東北でも津軽以外、九州なら鹿児島以北の地域は鎌倉時代以降は中央からの派遣領主、進駐軍によって支配されていたため、固有の文化は民間信仰としてのみ痕跡を留めるだけになってしまいました。
つまり津軽と九州南部、沖縄の文化が共通であると言う仮定に立って眺めると、古代の日本には縄文人が先住していて、後から割り込む形で稲作文化を持った弥生人が移入してきたと言う先史が浮かび上がってくるのです。
古事記では、上つ巻の冒頭から伊邪那岐命と伊邪那美命の夫婦神が最初に産んだ子は奇形児だったので「蛭子(ひるこ)」と名づけて海に流したと言うショッキングな話がありますが、この「蛭子」が日本の先住民族・戎(えびす。恵比寿は後世の当て字)を表しているとも言われ、「蛭子神社」と書いて「エビス神社」と呼ぶところもあります。
野僧も玄界灘沿いで幾つかの「蛭子神社」を見ましたが、これは先住民族と言うよりも、この国に先兵として送られた王族が先住民と同化するなどしたことを意味しているのではないかと愚考しています。
続いて天孫降臨ですが、この舞台が九州だとすれば朝鮮半島からの移入にも無理はありません。
高千穂の峰、天の岩戸、木花の佐久夜毘売が海幸彦、山幸彦を生んだ鵜戸神宮の洞窟などを現地に見ると神々の吐息、鼓動が聞こえてくるようでした。
余談ながら野僧は、「邪馬台国は九州にあった」と考えております。
その論拠は、当時は陸路の整備は殆どなされおらず、近畿と九州の交通手段は水運だったはずで、当時の造船・航海技術から見れば、近畿地方から瀬戸内海を通って関門海峡を経て玄界灘、東シナ海を渡って中国へ行くことには無理があり、九州で覇権を確立した国家と考える方が自然だろうと言うことです。
野僧は北部九州、奈良の両方に暮らしたことがありますが、古事記でも九州は上つ巻、大和(奈良)は中つ巻以降の舞台だと感じていました。
古事記の出雲神話は、朝鮮半島から山陰地方に上陸した別の族があり、そこに九州を中心に支配権を確立していた王族が侵攻し、奪った過程を説話的に表現したのではないでしょうか。
古事記にも出てくる因幡の白兎の昔話も、隠岐を経て出雲に上陸した族が先住民によって被害を受け、それを侵攻してきた王族が救済した史実が変質したものではないかと推理しています。
中つ巻に入ると神武東征により中央地域に拠点を移したの王族は、地歩を固めるとともにやがて倭建命(やまとたけるのみこと)を派遣し、九州の熊曽建(くまそたける)を討ち、さらに東伐で関東地方へ進出しますが、
ここで東日流外三郡誌とつながります(北畠親房の「神皇正統記」では「転じて陸奥国にいる」とあります)。
ただ、この中央の王族、すなわち皇室の日本支配のための戦いは、その後も奈良時代には征夷大将軍・坂上田村麻呂の東北侵攻、さらに平安時代に入っても坂東独立を目指し乱を起こした平将門が「新皇」を名乗り、その鎮定に大軍が派遣されたこと(鎮定軍が到着する前に坂東武者によって滅ぼされた)、さらに源頼義、義家父子と安倍一族との前九年、後三年の役に続き、鎌倉幕府によって奥州藤原氏が滅ぼされるまで、ヒョッとすれば戊辰戦争における薩長土肥による奥羽越列藩同盟攻撃もその延長線上にあるのかも知れません。
前回、因幡の白兎の話を書きましたが、実は桃太郎伝説にも同様の背景があると言われています。
桃太郎伝説は吉備(岡山県)が有名ですが、愛知県など全国各地に伝承されています。これらの地域に共通しているのが大和王朝に臣従しない古代勢力が存在したことで、つまり桃太郎は大和王朝から派遣された征討軍、鬼が臣従しない古代勢力と言うことになります。
こうして弥生人の農耕文化を持った皇室が、東北と南九州へ鬼を追いやる形で日本国中を支配していったのですが、そんな中で各地に取り残された人々がいました。
彼らは血の穢れを忌み嫌う農耕文化の中で、死人の埋葬や家畜の交配、屠殺、皮の加工などを生業としていて徹底的な差別を受けてきました。
現代の日本に生きる我々は、この問題の背景には「民族の文化」「抗争の過去」があることを認識しておくべきであり、この過去の遺物である差別意識は即刻捨てなければなりません。
皇室の御先祖さんの物語「古事記」が血みどろの戦闘シーンばかりだと誤解されても困りますので、(ホッと一息つくため)その中のエッチなシーンばかりを集めてみました。これも「いざ一戦」ではありましょうけど。
この国土が出来た場面から始まるのは旧約聖書の天地創造に通じますが、古事記ではいきなり男神・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と女神・伊邪那美命(いざなみのみこと)が登場し、自分の身体を確かめた後、男神が「お前の身体はどうなっている」と問い、すると女神が「私の身体は出来上がっているが一カ所足りないところがある」と答えたので、男神が「私は一カ所余っているところがあるので、それで足りないところをふさいで国を生もう」と言います。
つまり、いきなりエッチなシーンから始まるのがこの国の神話なのです。
こうして国を生むことにした二柱(神さんは柱と数えます)は、天の御柱の周りを回りながら出会い、女神が先に「あら、好い男」、続いて男神が「おッ、好い女」と言い合ったのですが、男神が「女からナンパするのはよくない」と言って、案の定、骨のない子供・蛭子(ひるこ)が生まれたので海に流して捨てたことは先に述べました。
次に、この二柱の末裔である邇邇藝能命(ににぎのみこと)がある時、郷に降りて来て、美しい娘・木花の佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)に会いました。
そこで邇邇藝能命はナンパしたのですが、その時、「お前には姉か妹はいないのか?」と訊き、すると娘が「姉がいます」と答えたので、「今夜、姉と一緒に訪ねて来い」と命じたのです。
その夜、姉妹が訪ねてくると姉は非常にゴツくて不細工だったので、邇邇藝能命は「お前は帰れ」と追い返し、妹の木花の佐久夜毘売とちぎりました。
この話を聞いた郷の神である姉妹の父は、「姉の石長毘売(いわながひめ)は岩の化身、妹は木の花の化身なので、これから神の寿命は木の花のようにはかなくなるだろう」と言い、これ以降、神の寿命は次第に人間のように短くなりました。
やがて木花の佐久夜毘売が妊娠したのですが、そのことを邇邇藝能命に言うと、「お前とは一晩しかちぎっていない。それは郷の神の子だろう」と責任を認めませんでした。それに怒った木花の佐久夜毘売は「火の中で無事生まれてくればそれは貴方の子だ」と宣言し、洞窟に籠って火を放ち無事二人の子供を生みました。
この場所が現在の宮崎県の鵜戸神宮で、生まれた子供が海幸彦、山幸彦だと言われています。ちなみに海幸彦の子供が初代・神武天皇です。
続いて日本神話最大の英雄、倭建命(やまとたけるのみこと。日本書紀では日本武尊)の話ですが、こちらにもリアルなエッチシーンが出てきます。
倭建命は、父である景行天皇の命令で九州や関東を征討したのですが、現在の名古屋の熱田神宮がある場所に妻・美夜受比売(みやずひめ)がいて、関東から信州を攻めて戻り、妻と「イザ一戦」と迫ると妻に生理がきて、倭建命は「久しぶりに枕を共にして我れはイザしようと思ったのに汝の着物の裾が月のモノで汚れた」と言う歌を送って嘆きました。すると妻は「何カ月もほかっておくから待ちかねて月のモノがきたのよ」と答えたのです。
古事記には倭建命は関東を攻めた時、足柄山に登り妻を思い出して三度嘆いた後、「吾妻(あづま)はや」と呟いたので、その地を「阿豆麻(あづま)」と言うようになったと記されていますが、これほど恋焦がれていた妻だったのですから、さぞやガッカリしたのでしょう。
その後、倭建命は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ。後の草薙剣・くさなぎのつる
ぎ)を妻の元に残して伊勢方面を攻めたのですが、その時「脚が三つに重なる
ほど疲れた」と言って亡くなりました。
これが三重の地名の由来とされており、現在も天皇さんの皇位を示す三種の神器の一つ草薙の剣は熱田神宮の御神体になっています。
ちなみに「神宮」と言う呼称は本来、伊勢のことを表しますから「伊勢神宮」と言う呼び方は間違いです。これは「大社」の「出雲大社」も同様です。
最後は雄略天皇で、ある時、奈良の三輪山の辺りまで遊びに行くと、そこで非常に美しい童女に会いました。
そこで天皇さんが名を訊くと「赤猪子(あかいこ)」と答えたので、「すぐに迎えに行かせるから、嫁にいってはならぬ」と命じて御所に帰りました。
ところが天皇さんはそのことをスッカリ忘れてしまい、月日はドンドン流れて赤猪子は80歳になり、思い余って御所に天皇さんを訪ねました。
すると天皇さんが「婆さん、お前は誰だ?何しに来た」と尋ねましたので、赤猪子は「私は貴方に昔、ナンパされた女です。その命令を守っているうちに八十歳を過ぎてしまいました。身寄りもありません。ただこの気持ちをお伝えしたくて訪ねてきました」と答えました。
それを聞いて天皇さんは大いに驚き、本当は「抱いてやりたい」と思ったものの余りにも年老いていたので、「ワシはすっかり忘れておった。お前はワシの命令を守っておったのか。しかし、もう年で駄目だ、何とも残念だァ」と言って、赤猪子に多くの褒美を与えて帰したと言うことです。
さて、日本の天皇さんを海外では「最もスイトイックに一夫一妻制を守っている皇帝」と呼ばれ、日本人も「理想の夫婦像を体現されている」存在と思っていますが、御先祖様はこんな自由に気持ち(欲望?)の赴くまま振舞っていたのです。
その意味では愛妻だけが取り柄のような今上さんの現代皇室よりも、源氏物語に描かれている光源氏の女性遍歴の方が日本の皇室の本来の姿かも知れません。
日本人の国防観
日本人は、切腹による自栽(=自分を裁くこと)や特攻、玉砕などの戦いぶりなどから、「死を恐れない勇敢な民族だ」と思われていますが、実は「信仰」とも言えるほど死を懼れ、忌み嫌う一面も併わせ持っていました。
日本には「言霊(ことだま)」と言う信仰があります。これは言葉には現実を引き寄せる力があり、悪いことを口にすると悪いことが現実に起こるというもので、音が「死」に通じる「四」を嫌って建物の4階を呼び飛ばす習慣などにも表れています。
「し」の音なら「幸せ」にも通じると思うのですが、そうならないところが日本人の根暗な性格、後ろ向きな性分なのかも知れません。
日本人は古来、「死」を恐れるあまり、「死」につながる原因である「病い」や「戦い」「災い」なども懼れ怯え、それを治す、それに勝つ、それを防ごうと立ち向かうより、それに関わらないことでやり過ごそうと努めてきました。
それが最も顕著になったのが平安時代の公家による政治です。
現代の保守派の人々は、日本国憲法、中でも第9条の「戦争の放棄」を占領軍・GHQが占領政策を円滑にするために押し付けたもの、日本人が再びアメリカに抗することがないように弱体化させるためのものと批判しますが、公家政権の憲法と言える大宝律令でも、戦争に関する規定は意図的に有名無実、空文化されていました。
古代、近代を問わず国防、治安維持、大規模災害対処などの国家を維持、運営するため必要不可欠なこれらの業務は、大宝律令の制定に際して参考にした中国の律令にも当然、明文化されていますが、これを平安朝廷の公家たちは懼れ、忌み嫌い、その担当部署を空席にして(=公家はその役職に就くことすら嫌っていた)、公には関わらないようにしました。しかし、それでは国家が維持出来ないので、苦し紛れに創ったのが律令に規定しない「令外の官(りょうげのかん)」である検非違使でした。
検非違使の担当業務は、国防(と言っても京都の防衛)、治安維持、犯罪捜査と共に非人を使って死者を埋葬すること、災害復旧、掃除など死、穢れにまつわる忌まわしいこと全般でしたが、検非違使が令外の官である以上、朝廷は口は出しても手は出さず、公には不関与、無関係と言うことになっていました。
これは日本国憲法の令外の官である自衛隊の任務が、防衛出動、治安出動、災害派遣と言う非常事態であることにも符合します。
逆説的に言えば、日本国憲法が、「戦争の放棄」を高らかに謳っているのは、日本人にとっては先祖伝来の信仰の発露と言え、国防のみならず、本来なら国政を担う政府の主要業務、存在理由たる治安維持や大規模災害対処などの規定がないことも、些か皮肉な見方ではありますが、(この憲法の制定が占領軍の命令によるとしても)その内容が極めて日本的であることの証左ではないでしょうか。
確かに、世界的常識から見れば、日本国政府が憲法上、政治の存在理由とも言える国家非常時に対処する根拠さえ有さないことが理解出来ないかも知れません。
しかし、建前と本音の使い分けに慣れた日本人には、理想=建前を掲げる憲法と、それでは対処出来ない現実=本音に対処するために自衛隊、警察、海上保安庁、消防を設け、維持していることに矛盾は感じないでしょう。
日本においては、「戦争に備えろ」と声を大にして叫ぶような者は、言霊により戦争を引き寄せる危険人物として嫌われるしかなく、政府も国民も、そのような忌み嫌うべき災厄からは目をそらし、無関心を決め込むのが本来の生活態度なのです。
その陰で令外の官だけが人知れず、黙々と災厄を防ぎ、これに対処するのですが、京都の公家たちは鎌倉時代になって元寇が生起した時も、元軍を打ち破ったのは皇室や公家が寺社に行った「怨敵退散」の加持祈祷の結果、現地で巻き起こった「神風」であり、難敵・元軍と戦い、血を流し、傷ついた鎌倉武士の功績、活躍は認めようとしませんでした。
「近代化しなれば欧米列強の植民地になる」と言う危機感にとらわれ、欧米の制度を導入することに躍起になっていた明治新政府が制定した大日本帝国憲法においては、天皇に関する規定でさえ、王権成立の経緯が全く違う欧州の立憲君主制を無理やり当てはめて変質させていますが、明治よりも前の天皇の在り様が、権威はあれども権力は持たぬ存在であったことを考えれば、むしろ日本国憲法が宣している「国の象徴」であったと言うべきでしょう。
軍もまた然り、戦争によって国家を成立させ、戦争とは国家意志を他国に強制する手段、即ち正義であると定義する欧米では、軍、軍人は国家意志を実現するため、自己の危険を顧みず奉仕する職業として尊敬の対象になりますが、ここ日本においては戦争とは死をもたらす忌み嫌うべき災厄であり、軍は人を殺傷するための危うき存在、戦さを生業とする忌まわしき集団であり、「無いに越したことはないが無いと困るから飼っておく」謂わば必要悪に過ぎないのです。
古来、武士たちは「悪源太」「悪太郎」など、名に「悪」を冠することを喜びました。ここでいう悪とは、死を懼れ、それから眼をそらすばかりの公家が治める社会、公家が持つ常識に対するアンチテーゼであって、死を懼れぬ勇気の表現でもありました。
しかし、それは武を持って生業とする禍々しき存在だけの話で、正業にある人々は、死を懼れ、危うきものから目をそらしながら暮らすのが、この国の作法なのです。
- 2012/06/14(木) 20:37:14|
- 戦史
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明日6月14日は毛利元就公の命日です。12日に毛利両川の一人で三男の小早川隆景公の命日と申しましたが、父・元就公はそれより28年前の1571年に亡くなっています。毛利家と言うと江戸時代の260余年を周防、長門両国(現・山口県)に押し込められていたので山口県出身と思われがちですが、元々は大江氏の系譜の安芸国(現・広島県)の山間部の豪族で、中国地方から九州北部までを治め、足利幕府の実権を握っていた大内氏が陶氏に討たれ、それを討って領国を引き継いだので現在も中国地方の中心地である広島を拠点としていました。現在の広島城も孫の輝元公が築いたものです。元就公は苦労人だけに人情味あふれる逸話が多く「其の人を侮るものは その土(くに)に君たらず」と言い、例えば築城工事で何度も石垣が崩れ家臣が「人柱を」と進言したのに対して、石に「一日一力一心(縦書きで百万一心と読む)」と書いて埋め無事工事を終えたことなどは、過日の三本の矢同様に深い知性と人間への慈しみを感じます。
元就公は「自分は暗君である。後世まで恥を遺したくない」と伝記、言行録などを書くことを許さなかったので、逸話も伝承がほとんどないのが残念です。
- 2012/06/13(水) 20:41:19|
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朝鮮戦争
朝鮮戦争の開戦は「どちらが先に手を出したのか?」この問題は日本国内でも左右両陣営によって長年、論議されてきました。
日本社会党(朝鮮労働党日本支部)を中心とする左派政党は「北朝鮮が韓国軍の北への侵攻意図を察して、その脅威を排除するため先制攻撃を行った防衛戦争だ」と主張し、自民党(米共和党日本代理店)は、「北側が半島統一の意図を持って侵攻した侵略戦争だ」と主張しています。
まあ、結果を見ればどちらに説得力があるかは明白ですが、ただ、知人の元韓国軍将校は、北朝鮮を批判する前に、「北の侵攻を防げなかった我が(韓国)軍の油断と怠慢が許せない」と怒っていて、野僧も「これこそが軍人たる者のあるべき態度だ」と感服しました。
実際、戦争の初期、北朝鮮の軍事侵攻により韓国政府が釜山付近に追い詰められた時には、マッカーサー(アメリカ的な発音ではマックアーサー)司令部は、山口県豊浦郡(現・下関市)豊浦町付近に人口6万人程度の都市を建設し、韓国亡命政府を受け入れる計画があったそうで、それほど事態は切迫していました。
この敗戦寸前の不利な戦況を一気に逆転させたのは、マッカーサー司令官の指揮による米軍を中心とした国連軍の仁川上陸作戦でした。
これにより釜山にまで韓国軍を追い詰めていた反面、補給線も延び切っていた北朝鮮軍は、側面を突かれて寸断され、敗走しました。
ただ、米軍は、この作戦を上陸には不向きな遠浅の仁川の地形を殊更に強調して、「奇跡の作戦」であったかのように宣伝していますが、日清、日露戦争の時にも日本陸軍はここから上陸しており、マッカーサー得意の誇大広告と言えなくもありません。
この結果、国連軍は逆に一気に平壌付近にまで北朝鮮軍を追い詰めたのですが、これに呼応したのが、当時はまだ建国して間もなく、国際連合に未加入だった中華人民共和国でした。
中国人民解放軍は、得意の人海戦術を駆使して、国際連合軍を朝鮮半島の中央付近まで押し返しました。
人民解放軍は、国連軍の機銃掃射にも怯まず、山の稜線から雪崩をうったように一気に押し寄せて陣地に殺到して兵士の海に呑み込んだ。
記録映像を見ても、陣地を目指して横一線に押し寄せる人民解放軍兵士の波の後には機銃弾に斃れた兵士の遺体だけが残されていました。
また、夜間に音もなく陣地、宿営地に潜入すると、寝袋で寝ている米兵を銃剣で刺し殺して回ったようです。このため、国連軍は極寒の朝鮮半島北部で、暖かい寝袋に包まれて安眠することも出来なくなりました。
マッカーサー司令官は、これに対して積極的に空爆を行いましたが、対日戦争では猛威をふるった無敵の空の要塞・B―29爆撃機も、この戦争ではソ連製のジェット戦闘機に多くが撃墜されました。
初期の空中戦ではアメリカ軍のF―80シュ―ティングスター(T―33A練習機と同型)はソ連製のミグ17に歯が立たず、アメリカ軍は急遽、新型機Fー86Fセイバ―を投入して漸く形勢挽回しました。
マッカーサーは成立まもない共産主義・中国そのものを倒せると判断し、北京を始めとする中国各都市への空爆、原爆の使用までも主張しましたが、国連軍の枠内での対処と朝鮮半島に地域限定することを決定していたトルーマン合衆国政府と対立し、解任されました。
これは後年の湾岸戦争でも、イラク本国への逆侵攻を主張する現地・多国籍軍司令部とブッシュ政権の対立と言う形で繰り返されました。
結局、両者は現在の38度線付近の国境線(正しくは休戦ライン)で停戦しましたが、開戦以前の国境線は、北緯38度の緯度線の通りの一直線だったそうですが、現在は地形に沿った線になっています。
しかし、朝鮮戦争は未だ休戦状態であって、終結はしていないのです。
インドシナ戦争
ベトナムで行われた戦争と言うと日本では、北爆や泥沼の地上戦と住民の被害などの報道映像に反戦運動が燃え上がったアメリカとベトコン・ゲリラのベトナム戦争のイメージになっていますが、それ以前、同じ地域で行われたインドシナ戦争を呼ばれるフランス軍と北ベトナム(現政権)の戦いも激戦だったとも言われています。
インドシナ戦争に於いては、フランス軍には始めから、支配する南ベトナム地域でさえも国民の支援、支持はありませんでした。
海軍陸戦隊を中心とする日本軍の攻撃により、植民地の宗主国としての地位を奪われたフランスは、日本の降伏後、再占領をしたものの、すでにベトナム人民は、日本が占領の正当化の宣伝文句に唱えた「大東亜共栄圏」の夢に目覚め、独立の気運が高まっていて、旧宗主国フランスも、所詮は倒すべき旧敵、南ベトナム政権はその傀儡に過ぎませんでした。
北ベトナム軍とフランス軍の戦闘が開始されると南ベトナムの首都・サイゴン市(現・ホー・チミン市)では、佛教の僧侶による抗議の焼身自死が起こり、その一部始終は世界中にニュース映像として配信され、大きな衝撃を与えました(野僧も先年のチベット僧侶への弾圧事件に際して、博多の中国領事館前でやろうと思ったが、身体が耐えられず、何よりも旅費がなくて実行できませんでした)。
精鋭・外人部隊を中心とするフランス軍が立て篭もるビエン・バン・フー陣地を巡る戦いでは、陣地を取り囲んだ北ベトナム軍は、陣地のはるか遠くから、塹壕を掘りながら前進し、モグラのように陣地近くまで辿り着き、突入、制圧、占領したと言われています。
この過酷な長期戦を支えたのも、ホー・チミンの指導の下、北ベトナム政権が南ベトナム地区の農村部で行ってきた毛沢東式の浸透戦略による住民の物心両面での全面的支援でした。
北ベトナム軍兵士は戦い、その横で銃弾雨飛の中、農夫が塹壕を掘り進め、農婦がその土を捨てる。給食、休養も負傷者の手当ても農家で行われる。この軍民が一体化した強固な敵に十重二十重に包囲されては、陣地への補給はヘリコプターによる空輸に頼るしかなく、精鋭フランス外人部隊も降伏せざるを得ませんでした。
もう1つ、ベトナム軍の勝利には、中国の全面的バックアップがあって、中越国境を越えて前線までの道には、中国からの支援物資が列を作り、車が走れるところは車で、車が走れない山道、田舎道は馬や牛で、それも通れない悪路は人が担いで、「一歩でも前へ」を合言葉に軍民を問わぬ人々の手で、軍民を分けぬありとあらゆる支援物資が運び続けられました。
これは、フランスが撤退した後、共産主義拡散防止の大義名分で介入したアメリカ軍との戦いにおいても継続され、この輸送の列はアメリカ軍機に爆撃されて道路が寸断され、機銃掃射を受けても、絶え間なく、ありとあらゆる物資を運び続けたようです。
ヨーロッパのベルリン封鎖に於いてはマーシャル・プランと言う大空輸作戦で共産主義に勝ったアメリカが、アジアのベトナム戦争ではこの人海輸送作戦に敗れたのも戦史上の皮肉でしょうか。
後に中越戦争でベトナム領に侵攻した中国人民解放軍は、この時の輸送作戦に参加した兵士を道案内に先導させたとも言われています。
ベトナム戦争
アメリカ軍がベトナムに介入した時には、北ベトナムの南ベトナム地域、人民への懐柔策=侵攻準備はほぼ完成しており、アメリカは完全アウェー、敵地に乗り込んだも同然で始めから勝てる戦いではありませんでした。
戦争が激しさを増していた頃、韓国軍がベトナムに派遣され、アメリカ軍、南ベトナム軍と共に戦い、その非情なまでの戦いぶりによって勇名を馳せましたが、北ベトナム側にも中国人民解放軍が派遣されていて、知人の元解放軍軍人の話では、暗夜の戦闘では、人影に近づくといきなり顔を手で掴み、鼻が高ければ「アメリカ兵」だと判断して、刺し殺したのだそうです。
毛沢東式の人海戦術は、戦時国際法に規定されている戦闘員と文民の区分を無視した、寧ろその混乱を利用した違法戦術であって、アメリカ軍は相手とするべき敵が明確でない(戦時国際法には、服装、組織、行動などの戦闘員が守るべき各種規定がある)ことで追い詰められていき、疑心暗鬼に陥り、次第に「ゲリラ狩り」と称する村落の襲撃、住民の虐殺事件を続発させていきます。つまり日中戦争時の日本軍と何も違わないことになりました。
この事態を受けてアメリカ国内でも反戦運動が激化し、多くの歌手による反戦歌や有名俳優による反戦映画が作られヒットしましたが、本質的にアメリカ人は、アメリカ軍を「十字軍」、自分たちの戦争を「聖戦」だと考えていて、アメリカ国内の反戦運動も日本人のように戦争そのものを否定する「反戦平和」と言うよりも、「この戦争に神の正義があるのか」と言う戦争の正当性を問うものだと国民には理解されていたようです。
しかし、実際に現地司令部を悩ませたのは、反転攻勢の切っ掛けがつかめない北ベトナム軍との戦闘もさることながら、国内世論の動向に右顧左眄、朝令暮改する本国政府の態度でした。
仮に攻勢に出て空地からの激しい攻撃を加えれば、戦果の多少よりも、傷つき死んだベトナム人民の姿が世界中に配信、報道され、アメリカ国内でも反戦運動が沸騰し、本国政府は批判の嵐に晒される。
その結果、作戦には「政治的判断」と言う数限りない制限が加えられ、そのため戦況が不利になれば、今度は保守系政治団体や、軍事費を投資と同一視していた財界、資産家層から突き上げを受ける。
戦争末期には、現地司令部はありとあらゆる判断をワシントンに求めなければ何も決められない状態だったと言われています。
余談ながらアメリカの女優・ジェーン・フォンダが北ベトナム軍を訪問して高射砲を操作して御満悦のニュース映像がありましたが、彼女は米軍機=同胞のパイロットがその砲に撃墜されることには心が痛まなかったんですかね?ここに「反戦」を「反米」に置き換え、正義のべトコンVS悪のアメリカ軍と言うイメージを作り上げた反戦運動の欺瞞を感じます。
勿論、都市を無差別に爆撃し、村落を襲って文民を多数殺傷し、枯葉剤やナパーム弾で森林への環境破壊を行い、捕虜を虐待、殺害したアメリカ軍の戦時国際法違反行為=戦争犯罪を許すことは出来ませんが。
フォークランド紛争1「開戦」
日本から一番遠いところで起こった戦いですが、ある意味、日本人には妙に共感する面がありました。それは、この戦争はアルゼンチンが長年にわたるイギリスとの領土問題を解決しようとしたことが名目だったと言うことです。つまり日本が北方領土奪還作戦を強行したようなものです。
実際、日本でも保守系評論家の極一部に「我が国も北方領土を奪還せよ」と言う発言がありましたが、北方領土を占領する相手が、女王を戴き、当時、女性が首相を務ていた紳士の国・イギリスではなく、凶暴なソ連であっては「非現実的で危険な意見だ」と忽ちの内に打ち消されました。
しかし、ガルチエリ大統領のアルゼンチン軍事政権の読み間違いは、そのイギリスの首相・マーガレット・サッチャーが「鉄の女」だったことでしょう。
アルゼンチン軍による侵攻の第一報を受けて、取り囲むマスコミから、「開戦の可能性」を問われたサッチャー首相は、「I want to Justice(私は正義を欲する)」とだけ答えました(これはシェークスピアの「ベニスの商人」の中の台詞です)。
日本では春休み、花見の真っ最中の昭和57年4月2日早朝、アルゼンチン軍四千名が大挙上陸し、フォークランド島のハント総督と守備隊のイギリス海兵隊員60名が捕虜になったところから紛争は始まりました。
この紛争は、戦時国際法の研究者の間では、日露戦争と並んで「戦時国際法上の模範的戦争」とされていて、ほぼ無血状態での占領だったようです。
一方、イギリスの対応は早く、4月3日には空軍の輸送機を大西洋上の中継地点にあるアセンション島に派遣し、5日には空母「ハーミーズ」「インヴィシブル」の2隻を中核とする30隻余りの海軍の艦隊をポーツマス軍港から出撃させ、哨戒機をアセンション島に派遣しています。
さらに6日にはイギリス海兵隊員が揚陸艦で出撃しましたが、この対応の速さは、日頃、我が国の自衛隊さんが御題目のように唱える「有事即応」の何たるかを示してくれているようです。
出撃したイギリス艦隊は、訓練を繰り返しながら大西洋上を南下しましたが、この訓練で艦載ヘリ3機を失っています。
フォークランド紛争2「007=ジェームズ・ボンドの国」
「流石に007の国だ」と感心したのは、イギリス政府がこの前年に既にアルゼンチンのフォークランド諸島への侵攻の可能性を察知していて、密かに潜水艦を派遣してアルゼンチン艦艇の動向を監視させていたことです。
しかし、私の海上自衛隊の友人の話では、我が国の潜水艦も北朝鮮や中国などの軍港の沖に潜行しながら監視活動を行っているそうですから、それが潜水艦の平時の使い方、任務なのでしょう(これは内緒ですよ)。
開戦後の5月2日には、イギリス海軍の潜水艦「コンカラー」は、アルゼンチン海軍の巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」を撃沈しています。
もう1つ映画的なのは、SBS海軍特殊部隊(有名なSASは陸軍特殊部隊)は、4月22日には早くもサウス・ジョージア島に上陸して、偵察活動と共にイギリス人住民への連絡工作などを行っていたことです。
アメリカ陸軍のグリーンベレーなども同様の任務を負っていますが、実はグリーンベレーの方がベトナム戦争当時にイギリス軍の特殊部隊を参考にして作られたとも言われています。
フォークランド紛争3「海戦」
4月7日、イギリス政府はフォークランド諸島周辺200浬の海上封鎖及びアルゼンチン沖の200浬の作戦海域指定を宣言しましたが、アルゼンチン海軍は「へネラル・ベルグラノ」の撃沈に以降は、怖れをなして軍港から出ず、陸軍司令官を兼ねるガルチエリ大統領の再三の出撃要請にも応じませんでした(フォークランド諸島周辺海域で補給船などが撃沈された)。
アルゼンチンがオランダから一九六九年に中古購入した空母「ペインシンコ・デ・マヨ」も、艦載機をフォークランド諸島の基地に陸揚げしてからは母港に引き揚げて動きませんでしたが、この空母は、元はイギリス海軍の「コロッサス」級空母「ベネラブル」でしたから、若し、戦っていたならばイギリス建造の新旧空母対決になっていました。
フォークランド紛争4「航空戦」
イギリスの空母搭載型VTOL(垂直離着艦)機のシーハリアー(後に空軍のハリアーも加わった)VSアルゼンチンのフランス製ミラージュ(発展途上国ではアメリカ製の戦闘機よりも売れている)の空中戦での、圧倒的なシーハリアー優位の戦績に、「航空自衛隊でも導入しろ」と言った日本の軍事評論家がいました。
確かにVTOL機のシーハリアーは、空中戦で空中に停止すると言う離れ技を使えますが、航続距離、速度、レーダー探知能力、武装などの全てが垂直離着陸するために制約を受けており、日本のように海上で迎撃する防空任務には不向きなのは、少し考えれば判ることです。
アメリカ軍でも海兵隊が支援戦闘機(攻撃機)として保有していますが、空軍は防空戦闘機としては導入の検討もしていません。
また、イギリス海軍では垂直の離着艦では燃料消費が激しいため、「インヴィシブル」でも飛行甲板に「スキージャンプ」と呼ばれる斜面をつけて、短距離離陸(STOL)する発艦方式を取っています。
一方、アルゼンチン側が健闘したのは対艦攻撃で、前年の12月に買ったばかりのフランス製の空対艦ミサイル・エグゾゼが威力を発揮して、5月4日にはイギリス海軍の駆逐艦「シェフィールド」に命中、弾薬庫に引火して炎上、六日後に沈没していますし、同25五日にはヘリ母艦として行動していた輸送艦「アトランティック・コンベアー」にも命中し、3日後に沈没させています。結局、爆撃などによるものを含めるとイギリス側は駆逐艦×2、フリゲート艦×2、補給揚陸艦×1、輸送艦×1が撃沈され、駆逐艦×3、フリゲート艦×6、補給揚陸艦×1が損害を受けています。
この時も、日本の軍事評論家たちは、「日本もエグゾゼを導入しろ」などとしたり顔で強弁しましたが、この頃、航空自衛隊ではFー1支援戦闘機用に国産開発したASMー1の配備が始まっていて、彼らも吐いた唾は飲めないので、慌てて両者の性能と価格の比較に話題を変えていました。
フォークランド紛争5「宣伝戦」
アルゼンチンの折角の赫々たる戦果も、イギリスの空母「インヴィシブル」を炎上させたと言う下手な合成写真(手書きの煙を書き加えた)を発表したため、マスコミの信頼を喪失してしまいました。
一方、イギリスは流石に情報巧者でした。イギリスのBBC放送は、時々、イギリス政府の発表を疑い、否定するような内容を報道し、それをイギリス政府が痛烈に批判する。そうすると「BBCが公平中立だ」と信頼が高まり、アルゼンチン国内でも視聴者が増える。そこでイギリス軍の戦果を報道すると言う見事な情報戦略を行いました。
フォークランド紛争6「地上戦」
地上戦では、制空制海権はイギリス側が握っていて、フォークランド諸島のアルゼンチン軍に補給手段はなく、住民の支援もイギリス側に在り、アルゼンチン軍は島を占領はしているモノの実態は孤立無援でした。
アルゼンチン軍の現地司令官・メネンデス将軍は、ゲリラ掃討戦などの歴戦の勇士でしたが、周囲をイギリス艦隊に包囲され、上空にはイギリス軍機が飛び交い、地上部隊は何時でも好きな所から攻めてくる。これでは為す術もありませんでした。
イギリス軍は、戦時徴用された「クイーンエリザベス2世」や「キャンベラ」などの豪華客船での移動で「クルーズ気分か」と言われていましたが、実際は簡易ベッドの寿司詰め状態で、決して優雅な船旅ではありませんでした。
地上戦は四月二十五日に先ず海兵隊が隣りのサウス・ジョージア島に上陸し、その日のうちにこれを占領するところから始まりました。
それから約一カ月間、イギリス軍はフォークランド諸島のアルゼンチン軍陣地や基地へ航空機による爆撃、艦艇による艦砲射撃を加え、5月21日、陸軍部隊が上陸し、島内各地のアルゼンチン軍陣地を制圧しながらケント山を越えて島都・スタンリーに迫りましたが、流血の決戦を迎えることなく6月14日にアルゼンチン軍が降伏して終結しました。
この辺りも「戦時国際法の模範的戦争」と言われる所以でしょう。
イギリス軍には「指揮官先頭」の伝統があります。これはイギリス軍の将校士官には貴族階級出身者が多く、彼らには王への忠誠、国家への奉仕の義務があって、それは位が高い者ほど強く求められるからです。
「ノブレス・オブリージェ」と言う貴族の精神を語った言葉がありますが、この例え話として「あるイギリス貴族の息子たちが学校の休みに友人同士で国内旅行に出ていて、そこで第1次世界大戦の開戦を知った。彼らはそのまま最寄りの陸軍部隊に行き、志願兵として入隊した」と言うものがあります。この紛争でもエリザベス2世女王の王子も、艦載ヘリコプターのパイロットとして参戦していて、アルゼンチン軍の兵士は対艦爆弾などに「王子様宛」などと落書きして茶化していました。
五月二十八日までのポート・ダーウィン、グース・グリーンへのイギリス陸軍第2空挺大隊の攻撃では、大隊長が先頭で突撃して戦死、階級の上位者から中隊長クラスまで戦死すると言う事態が起きましたが、これもイギリス軍の伝統として称賛されるだけで、指揮官の戦死による指揮の混乱などへの検討や改善の必要性も問われませんでした。
もう一つ地上戦で有名になったのが、北部インドの少数民族の傭兵であるグルカ兵で、粗食に耐え、体力、耐力に優れ、勇敢で忠誠心が強い彼らは、第2次世界大戦のインパール作戦でも、ジャングルの樹上で何日でも待ち伏せをしていて、イギリス軍コマンド以上に日本軍に怖れられていましたが、これもその伝統が守られていることを証明しました。
フォークランド紛争7「戦後」
アルゼンチンのガルチエリ大統領兼陸軍司令官は降伏3日後の6月17日に辞任しました。一方、イギリスはそれまでの軍事費削減の政策の方針転換を余儀なくされ、多大の軍事予算に苦しむことになりました。
「フォークランド諸島にこれだけの予算をかける必要があるのか?」BBCがそんなレポートをしたのもイギリス人が好きなジョークなのでしょうか。
スリランカ内戦
スリランカ内戦について日本では(殆んど報道されないものの)評論家、文化人と称する人たちが、「多数派シンハラ人の政府の弾圧に少数民族(全国民の23%)タミル人が抵抗し、それを政府が武力で弾圧、人権侵害が行われている」としたり顔で解説していましたが、現地で見聞してきた実態は、そのようなものではありませんでした。
タミル人とは元来、インド南部に住む民族で、インドのカースト制では最下級とされ、シンハラ人同様に古代からスリランカに移り住んで来た者と、植民地時代に肉体労働者として連れて来られた者の2つがあります。
このうち古代から定住していたタミル人は当然、シンハラ人と共存して、社会的地位も築いていましたが、後から連れて来られたタミル人は、社会的地位や経済的基盤もなく、独立後は貧困に苦しみ、やがて反政府組織を作り、間接侵略を狙うインド政府、続いて拡張路線を取り始めたイスラム過激派の支援を受けてゲリラ活動を行うようになりました。
タミル人ゲリラはスリランカの宗教、文化、歴史には一切敬意を払わず、
国宝寺院や空港、ダムなどの重要施設さらに王権の象徴(日本で言えば「三種の神器」にあたる)であった「佛歯(釈迦の歯)」へも爆破攻撃を行い、政府要人の暗殺などのテロ活動を行ってきました。
特にスリランカ政府が民族間のバランスを取るため入閣させているタミル人の閣僚を「裏切り者」として殊更に狙い、暗殺を繰り返してきました。
スリランカは世界最古の佛教国であり、スペインの植民地になるまでの二千年以上、日本の皇室よりも古い一系の王朝を保ち、二千年以上前に世界最古の動物愛護法(徳川綱吉の「生類憐みの令」とは時代も次元も違う)や自然保護法を制定したくらい佛教の慈悲の精神を実践してきた歴史をもち、貧富の差はあっても相互扶助の精神が社会に根差した国家であって、民族問題についても穏健な融和政策を基本姿勢としていました。
しかし、タミル人ゲリラは北部タミル人地域(インドに近い側)で、市町村単位で住民を人質にして、無理やりゲリラに参加させ、逃亡すれば家族を虐殺するなどの行動を取ってきたため、住民の支持を得ることはなく、むしろポルポト政権末期のような恐怖政治を強いていました。
近年、政府軍により追い詰められていたタミル人ゲリラは、インドネシア、スマトラの大地震による津波でスリランカも深刻な被害に受け、政府軍が災害救助に兵員を割かれたことに乗じて、反転攻勢を試み、自爆テロや要人暗殺、空軍基地への爆弾投下などを繰り返していましたが、住民の支持無きゲリラ活動には限界があり、二〇〇九年、追い詰められて逃亡を図った主要メンバーが政府軍の攻撃で死亡し、内戦は終結しました。
スリランカ内戦では政府軍こそ解放軍であり、政府=強者=悪、反政府=弱者=正と言う固定観念に捉われてこれを批判してきた欧米や日本の人権団体や文化人たちのタミル人ゲリラ擁護の主張は、実態を無視し、政府軍の活動を妨害したものとして強く批判されるべきでしょう。
内戦が終結した時の、ゲリラに支配されていた地域のタミル人の住民たちの歓喜と安堵の表情が雄弁に全てを物語っています。
それにしても義勇軍軍人として「佛敵」との戦いに参加出来なくて残念でした。見事に戦死を遂げ、「元自衛隊幹部、スリランカ内戦で戦死」と国際的に報道されることを切に願っていました。
あの時、語り合ったスリランカ政府軍の将校、兵士たちが無事、今日を迎えられたことを信じ、祈ります。
湾岸戦争
日本が平成に入って2年目の年に起こったのが、この戦争でした。
まだ記憶に新しいので、私が何かを語る必要もないでしょうが、私が非常にショックを受けた(日本ではあまり報道されていない)、アメリカ軍から直接、見聞した戦争の場面を1つだけを語らせていただきます。
暗夜のアメリカ軍とイラク軍の戦闘は、「屠殺」と言う作業でした。
最新式の暗視装置を装備するアメリカ軍は、暗夜の砂漠に油断して動き回るイラク軍兵士を発見すると、これに機銃弾を浴びせます。
それは逃げ惑うイラク兵の姿が消えるまで続けられます。
やがて画面からイラク兵の姿が消えると、アメリカ軍は、赤外線での探知に切り替えて、潜んでいる兵士の体温を探します。
すると砂漠の窪地や砂山の影にボーとイラク兵の体温が浮かび上がり、アメリカ軍は躊躇うことなくそこに銃弾を浴びせ、体温が消えるまでその作業を続けます。やがて砂漠から生物の反応が消えます。
その時、砂の中に伏せて恐怖に顔をひきつらせ、息を殺しているイラク兵のことなどを考えていては、この「作業」はコナセナイと言うことでしょうか。
「この戦争で敗れたのはイラクと同時にソ連だった」とこの映像を見せてくれたアメリカ軍の軍人は言っていました。
イラク軍は、イラン・イラク戦争以降、ソ連の最新鋭の兵器を買い揃え、軍事顧問団の指導で訓練を受けてきた、東側ではワルシャワ条約機構加盟諸国の軍などは及びもつかないエリートの軍隊でした。
それが西側、特にアメリカの軍隊と兵器に苦もなく敗れ去った。この衝撃はソ連軍全軍の戦意を喪失させるに十分だったのです。
- 2012/06/13(水) 20:09:03|
- 戦史
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本編は私が航空自衛隊時代、隊員の戦史教育として行っていたものです。
乃木希典は名将か、愚将か?(「坂の上の雲」を読む前に執筆しました)
山口県人の幕末、明治の県出身者への身贔屓振りは、過去にしか誇るべきものがない故に異常なぐらいですが、野僧は乃木希典が名将だと言う意見には反論を送りつけて公然と論破することにしています。
乃木を名将と主張する者の多くは、やれ「2人の我が子を戦死させた」「漢詩の名手であり、戦場で優れた作品を遺した」「明治天皇の前で戦争の報告を行った際、感極まって泣き崩れた」などと軍人、将軍としての資質や能力、実績とは次元の違うことに心酔し賛美するばかりで、乃木及び乃木が率いた第3軍の稚拙な作戦指揮の結果、無意味に払わされた多くの犠牲については何の反省もなく目を瞑っています。
では乃木の作戦指揮、即ち将軍としての能力には如何なる問題があるのか?元自衛隊幹部、戦史研究家としての見解を申し上げましょう。
先ず、運用、作戦指揮の点に於いては、すでに欧州では砲兵、歩兵の共同運用が常識になっていた時代に、歩兵単独による突撃攻撃のみを反復継続し、犠牲を増大させたことです。さらに白襷隊による斬り込みなどと言う時代錯誤な精神主義に活路を求める愚策にも出ています。
後に児玉源太郎(こちらも山口県出身)の作戦指導で砲歩兵共同運用を採用し、ようやく二百三高地陣地、鶏冠山要塞を陥落出来ました。
また旅順作戦の目的は、旅順港のロシア艦隊への攻撃、壊滅であって、砲撃の観測地点の確保には二百三高地の奪取で十分だったにも関わらず、鶏冠山要塞への攻撃に執着し、作戦そのものを遅滞させました。
次に作戦立案、情報収集、分析に於いても、ロシア軍が構築した鶏冠山要塞の規模を日清戦争当時の清国陣地と同程度と見誤り、兵力、火力とも不十分なまま攻撃し、さらに想定外の損害が発生しても必要な状況分析の見直し、作戦の修正を行わず、結局、多大の犠牲を蒙りました。
ロシア軍の装備についても、欧州においてはすでに実用化され、各国軍で装備されていた機関銃の存在・威力を認識せず、歩兵部隊の露出した状態での一斉躍進、突撃と言う運用を改めることなく兵員を標的に供しました。
最大の問題は、これらの司令部の作戦の不備、参謀の能力不足が露呈しながら、一貫して伊地知参謀長に一任の態度を変えず、これらに対して何の指導、人事的処置も行わず、自分は精神的に追い詰められて、自ら前線に立ち、死のうとしたことは、人間的な魅力云々は兎も角として、軍人、将軍としては話にもならない愚挙でありましょう。
山口県人が誇るなら乃木希典ではなく、児玉源太郎です。
余談・奥保鞏第2軍司令官
日露戦争では愚将・乃木希典ばかりが脚光を浴びていますが、乃木の第3軍が旅順要塞攻略に手間取っている間、他の方面で戦果を上げていた第2軍の司令官は奥保鞏(やすかた)大将です。
奥大将は小倉の出身で、戊辰戦争では小笠原藩兵として高杉晋作の長州軍と戦った朝敵ですが、西南の役では熊本城を守備して軍功を上げ、抜群の指揮能力が高く評価されました。
このためその後、軍内で繰り返された権力争いでも「奥だけは何があっても外せん」と温存され、薩長以外では初の陸軍大将、元帥になっています。
特に作戦立案能力がずば抜けており、「第2軍に作戦参謀は不要」と言われ、実際に難聴のため作戦会議では報告は文書、質疑応答は筆談でしていたそうですが、指揮には全く支障がなかったとのことです。
第2次大戦スターリン陰謀説
「第2次世界大戦はスターリンの陰謀だった」。これはあくまでも私が勝手に言っている私見ですが、その根拠は、第2次世界大戦の結果、最大の利益を得たのはスターリンのソビエト連邦だったことです。
欧州に於いてはドイツ、イタリアとイギリス、アメリカ、フランスが正面から総力で戦ったため、政治的にも、軍事的にも、経済的にも深刻な打撃を受け、その間隙を突くように大戦後、東欧諸国は社会主義体制に組み込まれ、実質的にはソビエト連邦の植民地となりました。
合法的な選挙により政権を獲得していたヒトラーのナチス政権が、一党独裁の国家社会主義体制を完成させる口実にしたのは、ドイツ共産党員による国会議事堂放火事件であり、ナチスはこれを最大限に利用して国民の危機感を煽り、共産党をはじめとする他の政党を非合法化することに成功しました。
これは言い換えれば、スターリンが口実を投げ与え、ヒトラーがそれを拾って、ドイツ人に食べさせたのではないでしょうか。
後にスターリンはヒトラーのポ-ランド侵攻に呼応してポーランドの領土を分轄、獲得しており、その野心的意図に気づいたヒトラーがそれを挫くために(予想外に)行ったのが独ソ戦だったのかも知れません。
一方、日本では近衛内閣の外交顧問だった朝日新聞主筆の尾崎秀実は、ソビエト連邦のスパイであったドイツ人・リヒャールト・ゾルゲの指令を受けて政治工作を行っていて、当時、関東軍の暴走による中国紛争の終結に腐心していた近衛内閣の方針に反して、「蒋介石政権は交渉相手とせず」などの主戦論を朝日新聞紙上に展開し、それまで対ソ防共=シベリアへの圧力を目的に配置されていた中国駐留日本軍に「南進」と言う新たな戦略目標を与え、さらに「蒋介石討つべし」などのキャンペーンを展開し世論を扇動しましたが、それでソ連は軍の欧州方面への転用が可能になり、やがて日本が欧米の東アジアでの権益と衝突して全面戦争に至り、さらに長期の国内戦で蒋介石軍が衰退し、その間に毛沢東の農村部への浸透工作が完成することまで計算していたとしたら怖ろしい限りです。
イタリア、ドイツが連合国の軍門に下って孤立無援、いよいよ追い詰められてからも日本が降伏出来なかったのは、天皇の地位を維持されることの確証が得られなかったからです。その頃のアメリカから放送されていた日本語放送では、「日本の皆さん、天皇を裁判にかけて処断しましょう」と言う呼びかけがされていたそうです。
これを主導していたのはルーズベルト大統領が行ったニューディール政策で政府内に食い込んだ社会主義者たちで、日米の戦闘が本土決戦にまでのめり込み多大の犠牲者が出れば、相互に憎しみが深まり、社会主義革命への気運を植えることが出来る。アメリカが苦戦すれば支援を名目に軍事介入して領土を手に入れることも可能になる。
若し、軍部が主張していた本土決戦が本当に行われ、ソ連軍が千島、樺太から北海道に侵攻し、本州では日本軍と米軍の間で住民を巻き込んだ壮絶な戦闘が繰り広げられていたら果たしてどうなっていたのか?
結局、欧州列強諸国の弱体化で、アジアの植民地が独立し、その多くがソビエト連邦の影響下に置かれ、中国、北朝鮮やベトナム、カンボジアなどの東南アジア諸国は、社会主義国になっています。
B、C級戦犯
第2次世界大戦後、日本でもA級戦犯を裁いた東京裁判のほかに、B、C級戦犯として各級軍人が数多く裁かれ、服役、処刑されていますが、その多くは非常に杜撰な取り調べと先入観に基づく冤罪や、欧州優越を否定されたことへの復仇目的の見せしめでした。
例えば米軍は、空中戦で被弾して脱出したパイロットがあると、戦後、その脱出地域を捜索して、安否消息が判明しなければ、当時その地域にあった部隊の指揮官を「捕虜殺害」の容疑で逮捕し、裁判で「戦闘による戦死」「行方不明」などと主張しても受けつけず、多くが処刑されています。
捕虜虐待についても、例えば食糧不足のため牛蒡や海苔などの日本食を食べさせたところ、牛蒡は「泥がついた草の根っこ」、海苔は「紙」を食べさせた捕虜への非人道的処遇として責任者が逮捕されていますし、肉体労働の後の疲労回復や健康維持のため捕虜に「お灸」をすえた監督の兵が、捕虜への「拷問」を行った重罪人として処罰されています。
しかし、開戦当初、南方戦線で英蘭軍を収容した日本軍の捕虜収容所はジュネーブ委員会の査察を受けて、ドイツ軍などの捕虜収容所に比べ、捕虜の待遇が良好であるとして表彰を受けていますし、当時の戦時国際法では、捕虜の食事は自軍の兵士と同じであれば、量・質の不足は容認されていましたので、戦争末期の日本軍の兵士が餓死するような状況下では、捕虜が同様の状況に陥るのも本来は処罰の対象にはなりません。
また、欧米人の生活習慣はカロリー摂取量が日本人よりも高いため、同じ糧食を食べていても、日本兵よりも早く弱ったと言う報告もあります。
ただ、日本軍では、捕虜の処遇を定める戦時国際法の教育が殆んど行われておらず、そのため無知から来る悲劇も少なくありませんでした。
しかし、米軍の方こそ戦時国際法違反の戦争犯罪の常習犯なんです。
特に原爆に代表される軍事施設、軍需工場がない、軍隊が所在しない「民間地域への無差別爆撃」や、民間人であることが明らかな者に対して、艦載機による機銃掃射を行ったことは「民間人への意図的な攻撃」と言う最も重大な戦争犯罪であり、それを行った米軍機のパイロットを捕獲した日本軍の現場指揮官が処刑したのも手続き上の問題はあるとしても、感情的には理解出来ます。
しかも、米軍の戦争犯罪は朝鮮、ベトナム、湾岸戦争、イラク攻撃や現在、行われているアフガニスタンでの戦闘でも繰り返されており、その現場はどこもアジア、非キリスト教国であることも見落としてはなりません。
C級戦犯裁判
日本軍の下士官兵を裁いたC級戦犯の裁判で大きな問題となったのは、日本軍、日本人の特異性=精神風土の違い、異文化でした。
日本軍の極端な「命令への絶対服従」即ち「上官の命令は天皇陛下の御命令である」の言葉に表される命令の実現、遂行に身を捧げる自己犠牲、滅私奉公の美学は日本人の特異な精神風土に根差すものです。
軍人として同じように命令に服従することを求められても、欧米のキリスト教徒は、神と自己と言う対立した自我意識を土台にして、それはあくまでも国家と自己の契約に基づく義務であって、同時に個人は違法、不当な命令を拒否する権利と責任も有していると考えます。
したがって映画「私は貝になりたい」に描かれたような捕虜虐殺などの明白な違法行為は、欧米の軍人なら、たとえ上官の命令、強要があったとしても、個人の良心に於いて拒否しなければならない責任があって、それを実行すれば本人が罪に問われ、罰に服するのは当然のことなのです。
逆に2,26事件の軍事裁判では、首謀者、主体的実行犯とされた将校士官には銃殺などの過酷な刑罰が下されましたが、実際に重臣殺傷に手を下した下士官兵、下級士官は、命令に服従する義務に基づく正当行為として罪は問われず、むしろ彼らを処罰すると軍の服務規律、命令系統が維持出来なくなると擁護する意見が軍首脳からも出されました(実際には彼らの多くは大陸の前線に送られて戦死させられましたが)。
もう一点、日本軍の特異性には、捕虜そのものに対する絶対的な否定があります。欧米軍でも、兵員の服務義務などには任務放棄、職務離脱による投降などは禁止規定として盛り込まれていますが、日本軍の「戦陣訓」にあるような「生きて虜囚の辱めを受けまじ」の言葉に代表される捕虜となること自体を恥辱として忌み嫌い、自決してまでそれを拒否するような行動は常軌を逸した狂気の沙汰に見えたことでしょう。
さらに日本軍は捕虜を否定したために、下士官、兵はおろか士官へも戦時国際法の教育を行わず、また、自軍の捕虜否定の意識のままに敵軍の投降者も取り扱い、公然と「侮蔑」「虐待」「殺害」し、然も、それが重大な戦争犯罪であることを知らなかったのです。
シベリアへ抑留された日独軍捕虜では、ドイツ軍捕虜は食事、居住環境、労働時間などの待遇の改善を求めて、戦時国際法の規定を盾に抗議を繰り返しましたが、日本軍捕虜は言われるまま、違法な待遇にひたすら耐え、多くの捕虜が祖国の土を踏むことなく異国の丘に葬られました。
パール判事
ラダ・ビノード・パール判事は、(独立前の)インド人法学者で、東京裁判に判事として参加しましたが、そこで日本側のA級戦犯に対して無罪を主張したため、多くの日本人からは「新日派」「温情主義者」であったかのように思い込まれていますが、判事の真意は別のところにありました。
判事はこう言っています。
「勝者によって今日あたえられた定義(チャーター)に従って裁判を行うことは、敗者を即時に殺戮した昔と、我々の時代との間に横たわるところの数世紀の文明を抹殺するものである」「復讐の欲望を満たすために、たんに法律的な手続きを踏んだに過ぎないと言うようなやり方は、国際正義の観念とおよそ縁遠い。
こんな儀式化された復讐は、瞬時の満足感を得るだけのものであって、究極的には後悔をともなうことは必然である」
つまり判事は、「日本側のA級戦犯に罪がない」と言っているのではなく、「東京裁判の虚構性」と「連合国側に日本側被告を裁く資格があるのか」と言う本質を問うていたのです。
東京裁判の訴因はナチス・ドイツを裁いたベルリン裁判を踏襲し、第1類「平和に対する罪(訴因1~36)」、第2類「殺人の罪(訴因37~52)」、第3類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪(訴因53~55)」で行われましたが、ヨーロッパの平和を国家意思で打ち破ったナチス・ドイツと、ABCD包囲網などの経済封鎖で戦争に追い込まれた日本を同じ「平和に対する罪」で裁くことが出来るのか、あえて裁くほど特殊な戦争なのか。
また日本軍の中国・重慶への無差別爆撃を戦争犯罪として訴追しておきながら、その何十倍の被害を与えた米軍による日本の各都市への爆撃や原爆投下は、罪はおろか過失性さえも問われず、それを反証の材料にしようとした弁護側に対して、ウェッブ裁判長はこう言っています。
「本裁判は、日本の戦争犯罪者を裁く裁判であって連合国を裁く裁判ではない。連合国にとって明らかに不利とするような証拠は、本裁判の援けにならない」
パール判事は、後年、独立を果たした日本に招かれ、「感謝する集い」に出席した時、「感謝される理由が判らない」と言って困惑し、「東京裁判で温情に溢れる判決を書いてくれたこと」が理由と聞かされ、「それは法学者としての自己の見解を述べただけで、感謝されるべきことではない」と感謝の辞も記念品の贈呈も辞退されたと言います。
戦史の誤り1「開戦」
太平洋戦争開戦は、真珠湾攻撃よりもマレー半島コタバルへの山下奉文部隊の上陸作戦の方が一時間早く、したがって海軍の「ニイタカヤマノボレ」ではなく陸軍の「ヒノデハヤマガタ」の電文で始まったと言うのが真実です。
つまり「帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋上に於いて、イギリス、アメリカ軍と戦闘状態に入れり」と言う開戦の大本営発表は片手落ちです。
つけ加えれば真珠湾でも「トラトラトラ」の航空部隊の奇襲攻撃以前に、すでに特殊潜航艇が米海軍に発見、攻撃されています。
つまり映画などでは、真珠湾の米艦隊がいきなり日本の海軍航空隊に不意討ちの奇襲攻撃を受けたかのように描かれていますが、実はその時点で未確認とは言え、すでに米海軍は日本海軍と交戦をしていたのです。
戦史の誤り2「玉砕」
大本営は昭和18年5月30日に山崎保代陸軍大佐指揮のアッツ島の守備隊の全滅を初めて「玉砕(反対語は「瓦全」)」の美辞麗句をもって発表し、国民に大きな衝撃と感動を与えましたが、それ以前に安田義達海軍大佐指揮のニューギニア島ブナの海陸軍守備隊(実質的には設営隊)が同年1月2日(訣別電は前年12月28日発)に全滅しています。
大本営は本来、アッツ島守備隊の全滅に「玉砕」の語を用いると決めた時点で、「ブナの守備隊が先に玉砕している」と訂正発表するべきでしたが、それはされず今も「アッツ島が初の玉砕」となっています。
私の幹部学校入校中、元大本営参謀の瀬島龍三先生が講演に来られたので、「ブナの守備隊が先に全滅しているのに、後でアッツ島が全滅したことを『玉砕』として発表しながら、ブナのことを黙殺したのは、大本営内の陸軍、海軍の勢力争いなのか、ガナルカナル島の戦況などの作戦上の理由で事実を秘匿する必要があったのか?」と言う質問をしたのですが、横で聞いていた幹部学校の戦史の教官が「俺たちが間違ったことを教えていると言いたいのか」と変にいきり立って「後で確認して説明しておきます」などと話を引き取ってしまったため、直接の回答はいただけませんでした。
瀬島先生が亡くなられたので、戦史の謎が遺ってしまいました。
戦史の誤り3「飛行場建設」
ニューギニア戦線では、飛行場建設が日本軍の機械力不足のため思うように工事が進まず、上陸した米軍は優れた機械力を発揮して迅速に飛行場を建設して制空権を奪ったとされていますが、実はこの方面には日本海軍唯一、虎の子の機械化設営(工兵)隊が投入されていたのです。
しかし、「地盤のいい台地の上に飛行場を建設するべき」と言う設営士官と、「少しでも海の近くに」と主張する飛行士官で意見が対立し、結局、「作戦優先」の原則(建前)により、飛行士官の主張通り海岸近くに建設を始めたものの、湿地帯では折角の機械力が発揮出来ず、建設が間に合わなかったのです(台地の上から海岸までは飛行機なら数分から十数分の距離だったようです)。
逆に米軍は工兵士官の意見を「プロの意見」として採用し、地盤のよい台地の上に機械力を集中的に投入して整地し、短期間で飛行場を完成させて、その結果、制空権を奪取し確保しました。
ブナの守備隊もニューギニア方面で制空権を奪われていなければ、マッカーサーの太平洋の島を飛び石にして直接日本に迫る戦略方針とイギリス、オランダ軍の実力を考えると、ラバウル(海軍では「ラボール」と発音していた)のように終戦まで生き残れたのかも知れません。
戦史の誤り4「海軍陸戦隊」
海軍陸戦隊は、水兵さんの寄せ集め、軍艦乗りが余技でやっていて、陸軍のお古の貧弱な武器を使っていた日蔭者のように思われがちですが(実際、米海兵隊を始め外国の海兵隊にはそう言うところが多い)、日本の海軍陸戦隊は少数精鋭であったため、陸軍には終戦まで明治38年制式の38式歩兵銃が残っていたのに、海軍陸戦隊では昭和14年制式の99式歩兵銃が行き渡っていて、機関銃その他の武器も充実しており、猛訓練と共に陸軍に勝るとも劣らぬ実力だったようです(「空の神兵」の空挺作戦も堀内豊秋中佐指揮の海軍部隊の方が先に実施しています)。
さらに海軍陸戦隊は上海防衛作戦で蒋介石軍に苦戦したため、弱かったように誤解されていますが、当時の蒋介石軍はドイツから最新式、世界最高水準の武器を輸入していて(ヘルメットまで有名なドイツ式のモノを被っていたようです)、さらに軍事顧問団から第一次大戦の欧州戦線で発達させた塹壕戦の指導、指揮も受けていて(「敵の頼りのクリークも 江南の春 未だしです」軍歌「上海だより」より)、むしろ海軍陸戦隊の方が兵力が劣り、時代遅れな国産武器で、よく戦ったと誉めるべきでしょう。
後に上陸した陸軍部隊もかなり被害甚大で、爆弾三勇士(昭和7年2月22日)なんて無茶なこともやっていましたから。
※上海作戦の大河内伝七中将、ブナ守備隊の安田義達中将(戦死後)、沖縄根拠地隊の太田実中将(戦死後)、空挺部隊指揮官の堀内豊秋大佐(戦犯刑死)などが海軍陸戦隊の名指揮官と言われる人たちです。
戦史の誤り5「蒋介石軍」
蒋介石軍は、日独伊三国同盟締結後はドイツからの軍事支援が途絶えたため急速に弱体化して、日支事変以降の中国国内戦では、日本軍に負けっぱなしになり、大東亜戦争後に勃発した国共内戦でも農民の寄せ集めだった毛沢東の八路軍の人海戦術に敗れただけで、始めから「弱かった」と決めつけると開戦初頭に戦死した英霊が怒ります。
ちなみに中国人民解放軍のお家芸「人海戦術」を日本人は、大勢で取り囲むことだと誤解していますが、毛沢東の戦術理論によれば、「人海戦術」とは、長期間に亘って浸透工作を行って、支援基盤を構築し、情報収集、補給糧食、潜伏休養などに、それを活用しながら敵の行動を妨害、制限し、自分は支援を受けて自由に行動して叩くと言うモノのようです。
尤も中国人民解放軍は、朝鮮戦争では機関銃の弾数よりも大勢で一斉攻撃して、弾を撃ち尽くした敵陣地に傾れ込むと言う戦闘を実行しましたし、中越紛争では地雷原に突撃路を開くのに、敵が機銃掃射して来る中、兵士を横に並べて歩かせ、地雷を踏ませて爆破させたりしていましたから、日本人の「人海戦術」への認識もあながち間違いとは言えません。
戦史の誤り6「日支紛争」
日支紛争は戦争だったのか?現在の戦争に対する認識では、「正規軍同士で組織的戦闘が行われていた」と言う事実だけで、あえて議論する必要さえ認められないのでしょうが、当時の戦時国際法の規定、法解釈から言えば、この問題には少なからず考察検討議論の余地があります。
一番大きな問題は、この紛争が当時の「開戦に関する1907年ハーグ条約」に定められていた政府による「最後通牒」「宣戦布告」などの戦争に関する政治的手続きを踏まず、現地軍(関東軍)が独断専行で引き起こし、政府の意向を無視して暴走的に拡大したものだったと言うことです。
この中国軍との戦闘を、「戦争ではなく地域紛争に過ぎない」とする現地軍の独善的な認識が、当時の戦時国際法の正式な戦争状態になって始めて適用される法慣習を拡大解釈、曲解させ、戦闘行為に「戦時国際法は適用されない」「順守義務はない」ものとして、毒ガスの使用、捕虜の虐待、文民(民間人)の殺傷などの戦時国際法違反、戦争犯罪行為を多発、恒常化させる原因になりました。
しかし、当時の戦時国際法も「当事者を保護する方に解釈する」ように定め、求められていたのは言わずもがなです。
戦史の誤り7「神風」
昭和19年10月25日、関行男大尉(海軍では「だいい」と言った)指揮の神風(正しくは「しんぷう」と読む)特攻隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊で編成)がレイテ湾の米艦隊に突入して戦果を上げたとされていますが、その4日前の10月21日に出撃した山桜隊の久納好孚中尉が帰還しておらず、本来はこちらを特攻第1号としなければなりません。(※10月23日に大和隊隊長・佐藤馨上飛曹も未帰還になっています)
これは久納中尉が海軍兵学校ではなく予備学生出身であり、戦果がなかったためあえて避けたとも言われていますが真相は判りません。
特攻隊と言うと「神風」と思われがちですが、これは英語の「KAMIKAZE」が特攻を意味しているだけで、ほかにも人間ロケット・桜花(連合国はこの機体を「BAKA」と呼んでいた)の「神雷」特攻隊、人間魚雷の「回天」特攻隊などがありました。さらに木製モーターボートの「震洋」、潜っていて敵艦が通ったら爆雷のスイッチを押す「伏竜」と言う代物もありましたが、これらの多くが上層部の指示ではなく、実際にこれを使う若手士官たちの発案で開発されていたことは、最早、死ぬことが目的化していた=集団自殺用の道具としか言いようがありません。
欧州と日本の第2次世界大戦
「パットン大戦車軍団」と「麦と兵隊」。この2つの映画が同じ第2次世界大戦を描いた作品だと信じられるでしょうか?
方や猛将・ジョージ・S・パットンが戦車部隊を率い、自分はジープに乗って、北アフリカ、ヨーロッパ大陸を縦横無尽に走り抜け、戦う。方や「徐州徐州と人馬は進む」と38式歩兵銃を肩に、重い背嚢を背負った兵隊たちが、広大な中国大陸を歩いて進む。
戦闘シーンでも、パットンは「航空部隊の援護の有無が作戦の成否に関わる」と文句を言い、戦車部隊の進撃に追いつかぬ燃料を心配する。一方、麦と兵隊では、突撃ラッパを合図に軍刀を抜いた指揮官を先頭に兵たちが「ワー」と喊声を上げて銃剣突撃して、敵の陣地を占領して万歳三唱。日露戦争を描いた映画「二百三高地」とまるで変わりがない。
しかし、これは史実で、日本陸軍は香港、マレーシア、シンガポール、インドネシアなどのアジア戦線では欧米諸国の植民地軍には連戦連勝だったものの、反攻に転じてきた正規軍には勝った例しがないのです。
そもそも日本陸軍は第1次世界大戦の青島攻撃でもドイツ軍に手痛い目に遭わされ、ノモンハン事件ではソ連軍に壊滅的惨敗を喫している。
日本陸軍は日露戦争の奇跡的勝利を信仰して思考停止してしまった。そんな時代遅れで馬鹿な軍隊に入れられた国民こそいい面の皮でしょう。
戦争末期の日本軍
浜松で不発弾が出ると多くの場合、それは爆弾ではなく砲弾です。
豊橋から浜松以東の遠州地区には多くの陸、海軍航空隊基地がありましたが、戦争末期には完全に防空能力は喪失していて、米艦隊は堂々と射程距離にまで接近して遠州灘から艦砲射撃を加えていたのです。
これは九州の八幡工業地帯など全国各地の海沿いの重要地域でも行われていて、当時、海軍の連合艦隊及び陸海軍航空部隊が、それを阻止する戦力すら喪失していたことを物語っています。
一方、特攻隊は6月23日の沖縄の第32軍壊滅後も出撃を継続しており、目的を喪失したその惰性的な作戦からは、軍がすでに戦略レベルで部隊を指揮統制する機能すら失っていたことがうかがえます。
この戦略的思考の欠落と言う意味では太平洋の島々で繰り返されていた玉砕戦の指揮官たちも同罪です。
自分が守備する島での戦闘が終われば、それだけ敵が日本本土に近づくことも理解せず、殊更に自己陶酔的な美意識にとらわれて決戦を急ぎ、万歳突撃で貴重な戦力を消耗していった。
若し、各島を守備していた日本軍が硫黄島や沖縄本島のような戦略自給作戦を実施していれば、マッカーサーもあれほど容易く飛び石伝いに太平洋を進撃できなかったでしょう。
原爆の話
2発目の原爆は本当なら小倉に投下する予定だったのを小倉上空が曇りだったために長崎に変更になったのです。
原爆は広い平野の上空で爆発させた方が効果が大きく、長崎では市内に山があって効果が限定されてしまい、広島に投下したモノよりも爆弾自体の威力が大きかったのに比して被害は限定的でした。
また、長崎では投下地点が予定から外れて、大浦天主堂上空で爆発させてしまい、有名なカトリック教会を破壊すると言う失態も犯しました。
因みに、3発目はもう一度、小倉ではなく新潟が目標だったようで、これを日本の降伏で使い残したため、太平洋での実験で使用され米軍の老朽艦艇と共に戦艦・長門が実験艦として被爆することになりました。
若し、計画通り小倉に投下されていれば、皿倉山で遮られた地域を除けば、小倉市内のみならず八幡、黒崎、門司、遠賀川流域から下関まで広範囲に被害が及び、広島以上の被害が発生したと思われます。
猫爆弾
アメリカ海軍では、対艦爆撃用の爆弾を開発するのに、猫が「水を嫌がる習性」に着目して、爆弾の先に猫を入れて、その動きで爆弾の方向が変わるようにすれば、爆弾は海ではなく艦艇に向かって落ちるだろうと考えて、真面目に研究、実験したそうです。
結局、猫は投下時の衝撃で気絶してしまい駄目だったようですが、この常識にとらわれない間口の広さ、懐の深さがアメリカ軍の研究開発の強みになっています(日本軍なら「フザケルナ」と一喝されて終わりでしょう)。
このほかにも米海軍では、本来、爆弾と言うのは上空から敵艦を狙って投下するものですが、子供が水面に石を投げて跳ねさせるように、爆弾を低空飛行の水平状態で投下して、海面を跳ねさせながら敵艦の側面に命中させると言う使用方法も考案しました。
これだと艦艇と爆撃機の速度差で投下のタイミングが上空を通過する一瞬しかなかったのが、側面に向かっている間、投下可能で、目標も側面にすることで大きくなり、命中率が向上する(だろう)と言うモノでした。
銃剣術
日本陸軍歩兵のお家芸と言えば、長い99式歩兵銃か38式歩兵銃に、これも長ーい30年式銃剣(刀身は40センチもあった)をつけて槍のようにした銃を持っての肉弾攻撃=万歳突撃でしょう。
この銃剣術は現在、銃剣道と称して武道に名を連ねていますが、元来はフランスから輸入された格闘術でフェンシングの兄弟に当ります。
明治の創軍期、銃剣術の導入に当り士族が多かった陸軍首脳には「外来の格闘術よりも日本古来の槍術を演練すべし」と主張する者が多かったそうですが、自身が槍の名手であった山県有朋がこれを退けたと言われています。
結局、体育訓練を研究していた陸軍戸山学校の担当者が元久留米藩士であっため、若い頃に藩で学んだ宝蔵院流を取り入れて槍のような銃剣術ができ上がりました。日本銃剣道連盟はこの史実を以って銃剣道が日本古来の槍術の系譜にある=武道であると主張しています。
しかし、万歳突撃は日露戦争の旅順要塞攻撃でも機関銃による掃射で犠牲ばかりが大きく時代遅れであることが指摘され、第1次世界大戦の青島攻撃でも同様であったにも関わらず、これを改めることなく太平洋戦争でも繰り返され、さらに現在の陸上自衛隊でも未だ銃剣道に励んでいる。
冷静に考えれば38式歩兵銃の長さの木銃を使っての銃剣道が89式小銃で役立つかは自明の理で、こうなると最早、遺伝性の病気でしょうか。
ちなみに米軍では両端にクッションがついた棒での殴り合いで、刺突する時は、銃を寝かせて振るように突き出します。これは剣を横にした方が肋骨の間に刺さり易いからと言うことです。
武道家の作戦指導
南雲第1航空艦隊の参謀長であった草鹿龍之介大佐(後に中将)は一刀正伝無刀流の宗家でした(ラボールの草鹿仁一中将とは別人)。
南雲忠一艦隊司令官は生粋の航空屋である山口多聞中将や大西滝二郎中将から「水雷屋」と揶揄されていたように航空作戦はズブの素人で、航空畑を歩いてきた草鹿参謀長の果たすべき役割は大なるモノがあったのですが、武道家としての発想にとらわれて作戦指導を誤った点が多かったことは否定できません。
武道とフェンシング、ボクシング、レスリングなどの欧米の格闘技との一番の違いは「一本」と言う勝敗の決定法でしょう。
この「一本」は剣道を例にとると、気剣体の一致が重要な決定要素で、竹刀が相手に当っていても、竹刀の軌道が切れる太刀筋でなければならず、さらに気合が発せられていなければ無効、おまけに打撃の後、残心(油断なく次に備える姿勢)がなければ無効とされます。これはフェンシングなどの時間内のポイントの累積やボクシングの決定的なダメージを与えることで勝敗を決するルールとは大きく違います。草鹿参謀長の作戦指導には、この武道的なこだわりが多く見られます。
例えばハワイ真珠湾作戦では第2航空艦隊司令官・山口多聞中将や攻撃部隊指揮官の淵田中佐が「第2次攻撃の要あり」と意見具申したのに対して、「ただ一太刀と思い定め、いつまでもここに心を残さず」とこれを退けていますし、ミッドウェー作戦では地上基地への攻撃準備を完了した時に「敵艦隊の発見」の報を受け、対地用爆弾を対艦用に転換させたため奇襲部隊の発進時機を逃したのみならず、米軍の攻撃により艦内でこれが誘爆して損害を甚大にしました。
これらも気剣体の一致の発想で、「攻撃はこうでなければならない」と言う形にこだわった結果に思われてなりません。
これがボクシングなどであれば、不十分な体勢からでも「取りあえずパンチ」と手数でポイント稼ぎ=ダメージを与える攻撃をすることができたでしょう。実際、ミッドウェーでも山口中将は「対地用爆弾でも飛行甲板に穴を開けることはできる。そうすれば着艦不能になる」とそのままの出撃を主張しましたが南雲艦隊司令部はこれを退けています。
あんたが大将
「負け戦 大将だけは やはり出来」これは終戦直前に海軍大将に昇任した井上成美提督の自嘲気味な川柳ですが、さて第2次大戦当時の日本軍に、「あんたが大将」と呼べるような将軍、提督がおられたのか?
この問題を論じると、どの方にもファンがついていて、うっかり批判をすると、唾きを飛ばして、擁護、反論して来る人がいるから始末が悪いのですが。
先ずA級戦犯、内閣総理大臣、陸軍大将・東條英機閣下。
この方は、連隊長の頃、入営して来る新兵を全員、顔から家庭、経歴まで覚えていて、営門で出迎えても必ず氏名で呼び、家族の心配までした。
大陸へ行った時、兵員の防寒用具が不足していることを知り、私費で毛布を大量に購入して配布したなど、感動的な逸話が数多く残っています。
が、そこから先はイケません。そのレベルから人間的な成長がなく、連隊長としては美徳だった生真面目さ、キメ細かな気配りが、大将としては小心狭量で猜疑心が強い、大局が見られない欠点とされてしまいました。
東條大将の父・英教は「戦術の神様」と謳われた士官学校の大佐教官(後に少将)で、3男の敏夫も戦後、航空自衛隊の幹部で1佐で千歳の第3高射群司令でしたから(最終的に空将補)、東條自身も本当は大佐の連隊長ぐらいでいた方が能力を発揮出来た人物だったのかも知れません。
次に連合艦隊司令長官、戦死後海軍元帥・山本五十六閣下。
この方は、外国軍の将校士官が「ヤマモト・フィフティーシックス」と呼んで研究するくらい、おそらくロンメル、パットンなどと同じく世界的有名人ですが、非常に矛盾した、ある意味、二重人格のような人物で、冷静合理的なリアリストの面と浪花節的な義理人情の面が共存していたようです。
山本元帥の最大の功績は、空母機動部隊の運用を確立したことに尽きますが、個々の作戦指揮については、明らかな判断ミスも目立ちます。
ミッドウェー攻撃を決意した動機が、米軍による東京空襲をゆるし、御宸襟(天皇)を悩ませたことへの謝罪であったなどと言うのは、作戦そのものの戦略的必要性、情勢判断、費用対効果などの点で疑問が残ります。
東郷平八郎元帥と山本元帥の人物比較で、東郷元帥は「天佑神助」の座右の言葉の通り神を信じていたが、山本元帥は無神論者だったと言う話があります(と言いながらどちらも神社に祀られてしまった)。
この「神」即ち「理解を超えた大いなる力の存在」に対する認識の違いが、自己の能力に対する謙虚と過信、戦いに臨んでの惧れ、迷った後の決断と博打、場当たり的独断などの差になって現れたと言われています。
あんたが大将(大日本帝国陸軍編)
米陸軍のドワイト・アイゼンハワ―やジョージ・マーシャル、ダグラス・マックアーサー、ジョージ・S・パットン、英陸軍ならバーナード・モントゴメリー、敵役の独陸軍でもエドウィン・ロンメルなど綺羅星の如き米欧の元帥、大将たちと比べられると我が日本陸軍の大将方は些か見劣りします。
その中で私が選ぶ日本陸軍の「あんたが大将」は今村均将軍です。
今村大将は開戦初頭、ジャワ島のオランダ軍と戦い勝利し(この上陸作戦の時、大将が乗った輸送船に日本海軍が放った魚雷が敵艦の下を潜り命中して沈没、大将も海で泳いだ)、終戦時にはニューブリテン島(ラボール=海軍の正式なラバウルの呼び名)に在って、自給自足、陣地構築を確立、推進しながらこれを守り抜きましたが、相手のオランダ軍は所詮は植民地軍であり、ニューブリテン島は大平洋諸島を飛び石伝いで日本に迫るマッカーサーの戦略から取り残された形になっていましたから、若し正面切って戦っていれば、「マレーの虎」の山下奉文大将と同じ憂き目にあっていた可能性は大いにあります。
今村大将の素晴らしさは、何よりもオランダ軍に勝利した後のインドネシアでの軍政と戦後の身の処し方です。
今村大将は戦後、オランダ軍から戦犯として死刑判決を受けていますが、インドネシア住民から助命嘆願運動が起き、すでに活発になり始めていた独立運動から内乱に発展することを怖れたオランダ軍が減刑したと言う事実が、その軍政がどのようなものであったかを物語っています。
ニューブリテン島では自給自足体制の確立=食糧増産を最優先として、毒性があるタロイモの解毒方法を研究、開発したり、食べられる野草を実験=試食したり、軍医には薬草の発見、各種自製薬品の開発(タロイモを発酵させたアルコールなどついでに酒も作った)を命じています。
火山洞窟を利用した陣地構築では、温泉を掘り当てて兵員に入浴させ、硫黄を使った火薬の生産も可能にしていたそうです。
何よりもニューブリテン島には現地人女性と日本兵との混血児が全くなく(どこの軍が占領した土地でも必ずある)軍規が如何なるものかが判ります。
そして今村大将は、戦後、日本本土の巣鴨プリズンに収容されながら、「部下と同じ罪に問われているのなら、同じ場所で服役しなければおかしい」と自ら進んで赤道直下のヌマス島の戦犯収容所へ移り、刑に服しています。この時、日本の野菜の種を大量に持っていき現地で栽培したので、現地では今でも、紫色の茄子など日本と同じ野菜が出来るそうです。
また、インドネシアでは、オランダへの投降を拒否してスカルノなどと共に独立運動に参戦した元日本軍軍人も多く、オランダからの独立運動、戦闘のため、独立活動家が武装解除された日本軍の武器・弾薬を奪おうと武器庫を襲った際、警備にあたっていた日本軍捕虜を殺害したのですが、その日本軍捕虜が壁に「インドネシア独立万歳」と血書を遺していたと言う話が伝えられています。
この単なる軍人、将軍の枠を超えた人徳が、今村均閣下を「あんたが大将」に選ぶ理由です。
あんたが大将(大日本帝国海軍編)
陸軍に比べれば、日本海軍にはまだ人材がいますか?
太平洋方面海軍司令官・チェスター・二ミッツ大将に対して、連合艦隊司令長官・山本五十六大将とくれば宿命のライバルのようです(と言いながら永野修身軍令部総長など人材不足の観もありますが)。
その中で私が選ぶ日本海軍の「あんたが大将」は、米内光政提督です。
米内閣下は海軍大臣、総理大臣などを歴任し、海軍大臣として臨席した終戦の御前会議での阿南陸軍大臣との駆け引きなど軍政家としての顔ばかりが有名ですが、本当は連合艦隊司令長官も勤めた根っからの軍艦乗りでした。ただ、時代が人材を求めたと言うことなのでしょう。
米内大将は東條英機大将と同じく岩手県出身総理大臣の1人ですが(東條大将は東京出身とする場合も多い)、人間性は正反対。若し、開戦時の総理大臣が東条大将ではなく米内閣下だったなら、日米交渉が難航し、アメリカ側が「ハルノート」を提示してきても「戦えば必ず負ける」と言う確信があれば、それを受理しながら棚上げにして、アメリカが抗議して来ても「国内問題を調整中」などと惚け通して、なし崩しにする離れ業ぐらいは使ったでしょう。
後に東京裁判で自分の内閣を倒した畑俊六陸軍大臣を弁護して、本人が不利になる点を誤魔化して証言し、それを検事に誤りだと証拠を突きつけられても、「私の記憶違いか、この証拠が間違っているのか判らん」と惚け通し、検事から「こんな馬鹿な総理大臣は見たことがない」と言われながらも、最後までそれで押し切った実話がありますから。
あれが小心者で生真面目な東条大将だったから、アメリカの無理無体な言い分を全て馬鹿正直に受け止めて追い詰められ、「戦争も已む無し」と逆ギレして、国民を道連れに破滅への道に踏み込んでしまった。
私は盛岡市の外れにある米内閣下の墓所を訪ね参ったことがあります。
一方、愛知県蒲郡市三ヶ根山にある東条大将などA級戦犯の遺骨埋葬地には、長年、地縁はありますが近づいたこともありません。

あんたが中将(大日本帝国陸軍編)
若手のエリート中将ではなく、むしろポツダム中将と呼ばれる終戦時に中将になられた方、戦死されて2階級特進された少将、大佐クラスの歴戦の方たちには非常に個性的で、勇猛、有能な人材が多いです。
その意味では日本陸海軍は実戦経験、現場教育でしか、人材育成は出来なかったと言えるのかも知れません。
その中でも、日本陸軍では宮崎繁三郎中将。この方は、旧陸軍を研究、勉強している者の中では非常にファンが多い、隠れたスーパースターです。
宮崎閣下は日本陸軍がソ連軍に惨敗を喫したノモンハン事件に連隊長として参戦され、ただ1人、陣地を守り抜き、しかも停戦時、その陣地に石工の経験がある兵士に「日本軍陣地」と戦闘経過を刻ませて残し、後の支配地設定時の証拠にしたと言うオマケも付けています。
また南方戦線の惨劇、牟田口軍司令官の暴挙と言われるインパール作戦にも旅団長として参戦され、白骨街道と呼ばれた撤退作戦(「ビルマの竪琴」にも描かれた)からも、多くの部下を連れ帰っておられます。
日本陸軍の部隊の多くが往路に村々で食糧を奪い、横暴な態度をとり恨みを買って、その帰路で村人にイギリス軍に内通される原因を作ったのに対して、宮崎部隊では食糧には代金を払い、軍規の厳正に努め、宮崎旅団長自身も「チビ」と名付けた子猿を肩にのせて子供たちとも親しく交わるなどして、信頼と友好を得ていたため、日本軍と見て始めは逃げ出した村人たちも、それが宮崎部隊だと判ると帰って来て、よろこんで食料を提供し、村で休息させるなど、すすんで協力したと言われています。
白骨街道で日本陸軍は、足手まといになる負傷者や病者に自決用の手榴弾を渡して置き去りにする、戦闘末期には自決を待って肉をとるような悲惨な状況も生起していたのに対して、宮崎部隊では旅団長自身が病者、負傷者を背負い、亡くなると可能な限りの慰霊の儀礼を行い、渡河する際にも、岸に残って部下が全員渡り終えるのを確認してから自分も渡ったと言うお話を実際に宮崎旅団の下士官兵としてあの悲惨な戦闘から生還された方たち(檀家さん)から伺っています。
では宮崎中将が温情だけの甘い部隊長であったのかと言えば、そうではなく、部隊長としての真情を語ったこんな歌や言葉も伝えられています。
「撃たるれば 撃たれる程に 強くなる つはものたちの 精神なりけり」
「猛訓練は 真に兵を愛する所以である」「不断の努力 要点の把握」
「圧へれば 圧へる程に 強くなれ 漸(ま)てば芽の出る 雪の下草」
「必敗の観念を植え附ける様な教練は千万辺やっても糞にもならぬ。却って夜襲部隊に必敗の観念を抱かしむ大害あるのみである。何故もっと研究を積んで部下将兵が『成る程こうやれば夜襲は成功するな』と言う訓練をやらぬのだ。訓練は必勝の信念を堅持せしむるのが根本目的であるあるぞ」「人の真価は平常時にはわかない、非常時に発揮される」
「人の値打ちは上の者にはよくわからない、下の者の方がよく知っている」
終戦後、宮崎閣下は岐阜駅前の商店街で小さな瀬戸物屋を営んでおられたそうですが、小柄な閣下はいつもニコニコしておられて、普通の商店の親父にしか見えず、元陸軍中将であることは隠しておられたそうです。
何故なら、それが知られるとワザと商品の瀬戸物を割っていく不心得者がいて、そんなことがあっても閣下は何も言わず、ただ哀しそうな顔で,その者が気が済むまで好きにさせていたそうです。
私も閣下の店の址を岐阜駅前の商店街まで訪ねたことがありましたが、すでに戦後40年以上が経過していて、店の場所も、閣下を知る者もなく、なにも判りませんでした(追記・「陶器小売店岐阜屋」は小田急線の下北沢駅前の商店街だったそうです)。
あんたが中将(大日本帝国海軍編)
日本海軍ではキスカ島撤退作戦の木村昌福中将です。
私は山口県防府市に住んだ時、木村中将が太平洋戦争末期、防府市に在った海軍通信学校(現・航空自衛隊防府南基地)の学校長として終戦を迎えられたことを知り、その事績を訪ねるうちに神奈川県鎌倉市の墓所に参り、逗子市の御子息の御自宅を訪ねる有り難き御縁を得ることが出来ました。
以前、知り合ったあるアメリカ海軍の士官は、木村閣下のキスカ島撤退作戦を研究していて、「どう考えてもこのパーフェクトゲームはミラクル(奇跡)かマジック(奇術)としか思えない」と言っていました。
またあるアメリカ海兵隊の士官は、私が「硫黄島では日本軍守備隊よりも米軍の方が戦死者が多かった。これは米軍の敗北だろう」と訊いたことに対して、「硫黄島で日本軍守備隊よりも多くの戦死者を出したことよりも、1人の日本軍もいないキスカ島で(恐怖心から友軍相撃の)犠牲者を出したことの方が、手痛い敗戦だ」と答えました。
木村閣下の数多い逸話に、海軍兵学校の卒業時の成績が後ろから片手に入っていて、とても提督になれるものではなかったのに、実力と強運で、(ポツダムではなく)正規に中将になったと言うモノがあります。
これなどは、しばしば海軍兵学校の卒業序列が昇進、予備役編入まで付き纏う日本海軍の硬直した人事制度への批判の論拠として用いられますが、たまたま木村閣下に実力があっただけと言う気もします。
また、海戦で撃破した敵艦から退避する敵兵を救助した話などは、木村閣下の人道主義者として面を強調した美談として紹介されますが、これは戦時国際法の規定を順守したのであって、寧ろ木村閣下が正統派、正常な軍人だったと言うことの証左ではないでしょうか。
私はむしろ閣下は海戦の時、艦橋の屋根に首を出していて、波や飛沫に濡れたトレードマークのカイゼル髭が鯰のように垂れ下がっていたのが妙に格好良かったと言う話が好きです(お宅に伺った時の遺影とその隣に飾ってあった三船敏郎主演の映画「キスカ」のポスターの閣下に、どちらも髭がなかったことの影響かもしれませんが)。
私が御家族から伺った木村閣下の人柄は、あくまでも小事に拘らぬ生真面目な大人物であって、決して近寄りがたい、威圧的な軍神ではない。
確かにキスカ島から生還した方たち(檀家さん)から話を伺うと、木村閣下を神か佛かのように崇拝していますが、これは北の果ての島で絶望的な戦況に生を諦め、死を覚悟していた者が、奇跡のような作戦で生還出来たことへの尊敬と感謝の念であって、個人崇拝の対象にされることは閣下の本意ではないように思います。
キスカ島へ突入した日は閣下の兄上様の御命日で、「必ず兄が護ってくれる」と言う成功への確信があったと言われます。
映画やドラマで描かれ、閣下にも評論家たちが分析するような超人的な判断力、ましてや神のお告げがあった訳ではないのです。
私が最も木村閣下の木村閣下らしい逸話と考えるのは、戦後、防府の地で塩田会社を開業した時の話です。
閣下はあくまでも正規の手続きにこだわり、ほかの業者たちが闇でドンドン塩の生産を始め、物不足の時代だっただけに粗悪品でもそれが売れて、大儲けをする中で認可を受けるまで操業を始めなかったそうです。
事業に参加、協力する元部下や地元の人たちが、商売の出遅れを心配し、手続きと並行して闇での操業を始めることを勧めても、閣下は耳を貸さず、寧ろ手続きと操業準備に力を注いだそうです。
やがて正式に認可が下り、準備万端、操業を開始した頃には世情も落ち着きを取り戻し、闇業者への取り締まりも強化されて、閣下の製塩工場だけが公認であり、品質も保証されていることで、今までの分も取り戻して利益を上げたのだそうです。
沖縄戦1「持久戦略」
バックナー中将指揮のアメリカ軍が、沖縄本島の読谷付近に上陸したのは4月1日、エイプリルフールでした。
日本軍は一部の銃座から機関銃が発射された以外は抵抗らしい抵抗もせず、アメリカ軍は「これはエイプリルフールの冗談ではないか」「日本軍は艦砲射撃と爆撃で全滅したのでは」と呆気にとられていたそうです。
しかし、日本軍は八原高級参謀の「持久戦略」作戦方針に基づき浦添付近の断崖絶壁上に陣地を構築中で、ここに引きこんでの長期持久戦を考えていました。
但し、この持久戦略の作戦方針については、第32軍司令部内でも長勇参謀長は攻勢による主導権の奪取を主張していて、牛島満軍司令官はどちらとも態度を明確にせず、指導方針は必ずしも一貫しておらず、ただ、アメリカへの留学経験がある八原高級参謀の経験と論理を尊重した形でした(因みに硫黄島の栗林忠道大将もアメリカ勤務の経験があった)。
牛島軍司令官は鹿児島県出身の温和で寛容な人物で、郷土の英雄・大山巌元帥を尊敬し、大山元帥の渾名「ウドサー(鹿児島方言で巨木のこと)」と呼ばれる(=大物に見られる?)ことを喜んだと言われています。
また、大陸での勇猛な戦いぶりで名を売っていた直情径行で荒武者気取りの長参謀長を「参謀長は戦さ上手じゃから」と高く評価しており、内心では冷徹で論理的な合理主義者である八原高級参謀よりも信頼し、「いざとなれば長参謀長の意見を」と考えていた節もあります。
実際、32軍は上陸初日に、ほぼ無血開城で米軍に明け渡した嘉手納飛行場を、菊水2号作戦の特攻攻撃で、ここから発進する迎撃機に苦しんだ大本営からの強い要請により、4月12日に一転、総攻撃に出て奪還を試みますが、かえって多大の損害を被り、貴重な戦力を消耗しました。
ところがこの愚挙は、長参謀長が八原高級参謀を説得する形で繰り返され、米軍上陸からほぼ1ヶ月後の5月3日にも、米軍の占領地区への逆上陸作戦として実行されますが、八原高級参謀は戦後出版した回顧録の中で、この反攻の失敗を見越して戦力を温存するため、敢えて不十分な編成でこの作戦を立案したと言っています。しかし、現実には、この作戦後には沖縄守備隊の戦力は、当初の3分の1にまで激減していました。
作戦の失敗後、牛島軍司令官は八原高級参謀に「貴官の進言を聞かず、判断を誤り申し訳なかった」と謝罪し、「以後は全て貴官に任せる」と言ったとされ、八原高級参謀は、この言葉を「軍司令官たる者の態度ではない」と批判しながらも、「人間的には尊敬に値する」と評価しています。
一方、これ以降、長参謀長は自暴自棄に陥り、「持久戦は疲れる」「まだ腹は切れんのか」と八原高級参謀に溢すようになったと言います。
沖縄戦2「嘉数高地の激闘」
沖縄本島への上陸後、嘉手納飛行場の整備などと並行しながら南進していたアメリカ軍は、浦添の嘉数高地で本格的に日本軍と衝突しました。
ただ、この戦闘を、硫黄島における堅牢な地下陣地戦を駆使した戦闘のように日本軍が陣地に立て篭もって戦ったと思われがちですが、生存者からの話では、米軍がこの地区に進出した4月8日の時点では陣地はまだ完成しておらず、戦闘と陣地構築が同時進行で行われていたそうです。
しかし、嘉数高地は、本島を横断する横長の防波堤のような地形で、米軍が迫る北側は、ほぼ断崖絶壁の石灰岩の台地で、珊瑚礁の痕の窪地が多く存在し、すでに天然の要害になっていました。
ここで戦った生存者の話では、絶壁をよじ登って来る米兵を上から狙い撃ちすると命中して転げ落ちていく、その顔が判る、時には目が合うほどの至近距離で戦っていたと言います。
ある時、どちらからともなく大声で罵り合いが始まって、誰も銃を撃たず、上から日本兵、下からアメリカ兵が声を限りに怒鳴ったそうです。
4月24四日に陣地が陥落し、突破されるまでの間、激闘が繰り広げられ、アメリカ軍側にも多大の損害を与えました。
沖縄戦3「32軍司令部の移動」
沖縄戦の最大の謎は、何故、軍司令部を首里城の地下陣地から、南部の摩文仁へ移したのかです。
食糧、武器、弾薬は殆んど首里地域に備蓄されており、地下陣地も堅牢であり(実際、壕の構造が複雑で、米軍に1か所が占領されても日本軍は別の出口から反撃し奪還出来た)、敵に包囲されても持ち堪えることは十分に可能であったと考えられ、
軍事評論家、戦史研究家の間では、若し首里に留まっていれば、8月15日の日本の降伏まで戦闘が継続出来たであろうと言うのが定説です。
この移動によって日本軍はすでに劣勢に陥っていた戦力の大半を失い、さらに南部地区を戦場にしたため開戦前、軍令でこの地区へ避難させていた住民を巻き込み、沖縄戦の悲劇を生むことになりました。
私は32軍司令部が移動した5月27日に首里から摩武仁まで歩いてみたことがありますが、本土の真夏並みの日差しと気温で、用意した水筒の水はすぐに飲み干して、自動販売機を見つけてはジュースを買って飲みながら歩き、汗でぬれた白いTシャツの図柄が日焼けで背中に焼き付いて、刺青のように映ってしまうような、かなり苦しいものでした。
さらに日本軍には陸海空からの米軍の容赦ない攻撃もあったのですから、その敗走行の絶望と恐怖、苦痛は想像に難くありません。
沖縄戦4「海軍沖縄根拠地隊」
この司令部の異動で思いがけない悲劇を味わったのは那覇市小禄地区(現在の那覇空港一帯)を守備していた太田実司令指揮の海軍陸戦隊の沖縄根拠地隊でした。
海軍沖縄根拠地隊は指揮通信系統の混乱のため、32軍の南部地区への移動準備命令を自分の部隊に対する命令と誤解して、小禄地区の陣地を破壊した上で5月20日に首里の32軍司令部へ移動しました。
ところが32軍司令部は、この命令が陸軍部隊へのモノであり、海軍部隊は小禄地区に在って南部地区への移動を援護せよと命じました。
このため太田司令以下は再度、小禄地区へ戻り、撤退に当たり敵に使用させないように自ら破壊した陣地を修理して立て篭もって戦い、6月13日に太田司令以下の幕僚は、海軍司令部壕内で自決しました。
太田司令は、これに先立つ6月6日に打電した訣別文の最後の一節「沖縄県民かく戦えり、後世、格段の御高配を賜らんことを」をもって、沖縄県民の海軍人気を不動のものにしました。
沖縄戦5「鉄の暴風」
南部地区では、先に住民が避難していたところへ日本軍が乗り込んで来たため、沖縄に多い鍾乳洞や洞穴、急ごしらえの壕、沖縄独特の大きな墓などに軍人と住民が一緒に隠れることが少なくありませんでした。
日本軍の軍人の多くは本土の人間であり、沖縄の人々の方言が全く理解出来ず、このコミュニケーションの欠如が次第に疑心暗鬼に陥らせ、住民を壕から追い出す、泣き止まない子供を母親に殺させるなどの軍人にあるまじき行動をとらせました。ただ、自決の強要などの住民虐殺が行われたかは直接、生存者からは聞けませんでした。
しかし、無力な老人、女子供が、絶対的存在である軍から自決用に手榴弾を配られ、米軍に捕まることの恐怖、足手まといの負い目を繰り返し聞かされれば、最早、「自決」以外の選択はなかったのでしょう。
一方、敵の接近に際して住民を守るため自分たちが囮になって飛び出して死んだ軍人、「自分たちはもうすぐ死ぬのだから」と食料を全て住民に渡した軍人、本来は軍機に当たる軍の配置を住民に教え、安全な地域や避難させた軍人などの話も生き残った方たちから数多く聞かれました。
攻撃するアメリカ軍側も、軍人と住民が一緒に隠れていることは承知していましたが、戦時国際法の規定では、軍人(戦闘員)と住民(文民)の分離は、当事国側の責任であり、文民の避難の拒否や故意に文民を攻撃しなければ違反にはならず、米軍は洞窟や壕への手榴弾、火炎放射機などの使用で無差別に殺傷して行きました。
有名な「ひめゆり」部隊の悲劇も、一時期は手榴弾による集団自決と語られていましたが、実際はアメリカ軍による洞窟内への毒ガスの使用によるモノだったとされています。
しかし、アメリカ軍は6月18日に10軍司令官のバックナー中将が糸満市の小高い丘の上で日本兵の擲弾を受けて戦死して以降、逆上したかのように残酷な手段で日本兵、住民までも殺傷していったとも言われます。
沖縄戦6「最期」
自らが戦死する1週間前の6月11日、バックナー中将から牛島軍司令官宛に「歩兵戦術の大家である貴官に・・・」で始まる降伏勧告文が送られました。これは32軍司令部にも届き、それを読んで牛島軍司令官は「俺もいつの間に大家にされてしまった」と苦笑し、「歴史上、日本軍に方面軍単位で降伏した例があるか」を幕僚に尋ねたと言われています。
6月18日にそのバックナー中将が戦死したと言う報告が入ると、長参謀長は「一矢報いた。祝杯をあげよう」と幕僚たちと大喜びしたが、その隣で牛島司令官は黙って敵将の冥福を祈っていたと言います。
それから1週間もたたぬ6月23日、牛島司令官と長参謀長は、摩武仁の岩山の上で、武士の作法に則り、割腹して果てました。
現在、この日を持って「沖縄慰霊の日」としています(沖縄県内は休日)。
ある日、牛島中将は新しい副官を選んだ理由を問う八原高級参謀に、「剣道の高段者だから」と答えたそうです。その時、八原高級参謀は、「護衛をさせるのに今時、剣道なんて時代錯誤である」と思ったそうですが、この最終局面に至り、その真意を覚ったと回顧録に述べています。
牛島軍司令官の最期の命令も、降伏や停戦ではなく「戦闘の継続」、あくまでも将兵に日本軍の美意識に殉ずることを強いたものでした。
摩武仁の平和祈念公園を靖国に代わる戦没者慰霊施設のモデルとする意見がありますが、この地には大きな観世音菩薩が祀られており、「非宗教(宗教活動を目的にしない)」であっても「無宗教」ではありません。
沖縄戦(余談)
私は幼い頃から同じ夢を繰り返し見ていました。
あの日、上衣を脱した海軍第3種軍装(鉄帽は被っておらず、脚は兵隊用の軍靴に脚絆でした)の私と汚れたブラウスにモンペ姿の若い母親、膝までの着物の5歳と3歳くらいの男の子の4人で民家の崩れた石垣の影に隠れていました。
集落は艦砲射撃と爆撃で破壊されて家屋はほとんど残っておらず、ただ集落の向うには藪がありました。
その時、車両のエンジン音と英語の話し声が聞え、のぞくと数名のアメリカ兵が坂を登ってくるのが見えました。
私は母親に「私が囮になるから藪に逃げ込んで、アメリカ兵が通り過ぎるの待て」と指示し、怯えた母親の横でこちらを見ている子供の頭を撫で、藪の反対側の坂道を登るように駆け出しました。
走りながら「軍刀が邪魔だなァ」と思ったところで米兵の甲高い叫び声と機関銃の乾いた銃声が聞こえ、同時に背中に焼けた石を投げ付けられたような衝撃を感じ、突き倒されたように転がって仰向けになりました。
そして見上げた青い空と白い雲、冷たく感じる背中、ハシャイだようなアメリカ兵の歓声、遠くなっていく意識・・・後年、漫湖の東側の豊見城村の街から城址公園へ行く途中でその場所を見つけたのです。

日系2世部隊・442戦闘団
私は442戦闘団として戦った兵士の子息である日系3世のアメリカ軍人(空軍大佐の2人)と長年親交がありました。
ある日、私は「何故、2世はアメリカ軍人になったのか」と言う疑問を問いました。太平洋戦争開戦後、アメリカ本土に住む日系人(ハワイでは危険人物のみ拘束された)は何の罪もないまま財産、職業、地位を奪われ、アリゾナ州ボストンの強制収容所に収容されました。この収容所は、砂漠の中の気候の厳しい環境にあり、収容の期限も解放の条件も明確ではなく、生活も必要最小限の食料と日用品が支給されているだけでした。
この時、アメリカ在住のドイツ人、イタリア人にはこのような処置は行われず、日系人のみが、全てを奪われて強制収容されたのです。
この理不尽な仕打ちをしたアメリカ合衆国に、2世たちは何故、忠誠を誓って軍に志願し、「Go for broke(当たって砕けろ)=肉弾攻撃」を合言葉に勇敢に戦い、第2次世界大戦に於けるアメリカ軍の中で最多の勲章5525、部隊感状十度を得るほどの活躍をしたのか。
若し、アウシュヴィッツの収容所に収監されたユダヤ人が、「ナチス・ドイツのために戦えば忠誠心を認める」と言われたら、そこまで言われなくても「軍に入ればガス室には行かせない」と約束されれば銃を執って戦ったか?
それはあり得ないことでしょうし、この日系2世たちの行動は本国の日本人だけでなく欧米人にも「祖国への裏切り」と映ったかも知れません。
442戦闘団の前身は、ハワイ州軍の第100大隊でしたが、真珠湾攻撃の直後、駐屯地で日系人だけが居住していた兵舎を、士官によって指揮された白人の兵士が銃を持って包囲すると言う事件がありました。
しかし、それに憤慨しながらも合衆国への忠誠心を失わず、黙々と任務を果たす彼らの姿勢に、アメリカはこれを大幅に増員、編成替えをして442戦闘団を新編しました。
442戦闘団は、442歩兵連隊、552野砲大隊、232戦闘工兵中隊で編成されていて、442歩兵連隊には1,2,3大隊があり、このうち1大隊には第100大隊の別称がありました。
442戦闘団への志願者には興味深い傾向があったそうです。
それは英語が堪能な者、学歴が高い者、経済的に豊かな者よりも、社会的に恵まれない者の方に志願者が多かったと言うことです。
前者は、アメリカへの移民に関して「出稼ぎ」的な感覚があり、財産を蓄え、語学、学問、技術を身に付けたなら日本へ「錦を飾る」と言う希望を持っていて、「アメリカと日本を天秤にかけよう」とする意識が強かったと言います。彼らは従軍するにも、ヨーロッパ戦線の前線で戦う442戦闘団ではなく、太平洋の対日戦争での捕虜尋問、通信傍受などの情報任務を志願する者が多かったようです。
一方、後者の低い階層の者は、日本でも極貧で行き場がなく、アメリカへ新天地を求めて移民した親の子供が多く、少なくとも食べることが出来る生活を与えてくれるアメリカに対して忠誠を尽くすことにも迷いはなく、寧ろ、それが「アメリカ人として認められる好機であるなら」、さらに「家族を収容所から救い出すためなら」と言う意識が強かったようです。
442戦闘団の戦闘は、丁度、映画「パットン大戦車軍団」でパットン将軍がイギリス軍のモントゴメリー将軍とイタリアのシシリア島でメッシナへの先陣争いを演じた場面の続きからです。
モントゴメリー将軍のイギリス第8軍と別動で、シシリア島からイタリア半島のサレルノ湾に上陸したクラーク将軍のアメリカ第5軍は、ここを上陸地点と予測して待ち受けていたドイツ軍(その前日にイタリアは降伏したため、ドイツ軍は好き放題に作戦を行った)の激しい抵抗を受けました。イタリア半島上陸後も、ローマへの至る要衝・カッシーノではケッセルリンク将軍指揮のドイツ軍と激戦を繰り広げました。
カッシーノの戦況を伝えるAP通信の記者は、このような文を綴っています。「もし涙で電報を送り、それを活字で印刷することが出来るものならば、この記事はおそらく一面に涙で濡れていることであろう。記者はこの目で任務を超えた勇気と言うものが、どんなものであるかを初めて見ることが出来た。ハワイの日本人2世部隊の一隊が、ラピト川を渡っていくのを見た。彼らは川の対岸まで突進し、その地点を40分以上も確保していた。しかしドイツ軍の全力をあげての砲撃にあって打ちのめされ、ついに退却してきた。世界中のいかなる軍隊といえども、勝利の戦いに於いてすら、これ以上の輝かしい栄光を勝ち得たものはないであろう。今日以後、もし日系アメリカ人の忠誠心を疑うアメリカ人があれば、記者はその人間と議論をするまい。ただ、その男の顔を足で蹴飛ばしてやろう」
442戦闘団は、その後もヨーロッパ各地を転戦しましたが、ついに剣折れ、力尽きて、1944年11月17日、ルクセンブルクの南、ボージュ山地でのテキサス36師団141連隊1大隊の救出の戦闘を最後に師団からの配置を解かれ、実質的に任務を終えました。その時点で所属する兵士の97パーセントが死傷していました。
艦艇の名前、武器の年式
海軍の軍艦の名前は、戦艦は旧国名、重巡洋艦は山の名前、軽巡洋艦は河川の名前、空母は鳥や空に関するモノ、駆逐艦は気象、海洋に関する古語などとされていました。
したがって「大和」「武蔵」は勿論「長門」「陸奥」は旧国名なんですが、この知識があれば、もう1つ意外な事実に気がつくことが出来ます。
それは航空母艦「信濃」。これは空母に設計変更、改装されていますが、始めは大和級戦艦の三番艦として計画されたものなのです。
逆に分からなくなるのが、「榛名」「比叡」「金剛」「霧島」の高速戦艦シリーズ4兄弟の山の名前ですが、これは当初、重巡洋艦だったモノを改装に次ぐ改装を重ねて、主砲は36サンチのままですが、外観はまるで別の艦のようになって、巡洋戦艦とされました。
これには余談があって、海上自衛隊のヘリコプター護衛艦「はるな」「ひえい」(4700トン)に続くヘリコプター護衛艦(5200トン)2隻にもやはり海自内の旧海軍出身の人たちが「こんごう」「きりしま」と言う命名しようとしたところ、当時の金丸信防衛庁長官が、地元・山梨県の山の名前「しらね」にしろと横車を押し、その次は京都選出の長官が「くらま」にさせたと言う裏話があります。結局、「こんごう」「きりしま」はイージス護衛艦につけられて、兄弟艦に一並びと言う伝統は崩れてしまいました。
駆逐艦の名前は「雪風」「天津風」などの風シリーズや、「霧雨」「村雨」などの雨シリーズなど、同型艦で揃えることが多かったようですが、日本海軍の駆逐艦、潜水艦はバリエーションが多く、「必ずそうだ」とは言切れません(米海軍はフレッチャー級駆逐艦、ガトー級潜水艦の一本槍でしたが)。
次に年式の話ですが、明治時代は明治の元号の年を、大正時代は同じく元号ですが、式の前に「年」をつけて、昭和に入ると昭和15年の皇紀2600年を基準にして下2桁をとりました。
したがって、38式歩兵銃は日露戦争が終わった年の明治38年の制式、南部14年式拳銃は大正も終わりに近い大正14年の制式、零式艦上戦闘機は「紀元は二千六百年」の昭和15年の制式ということが判ります。参考までに自衛隊では西暦の下2桁ですから、89式小銃は1989年の制式です。
ただし、これには例外もあって、日清戦争後に制式化された30式歩兵銃から99式歩兵銃まで使われた「牛蒡剣」と呼ばれた銃剣は30年式銃剣と言う名称ですが、何故そうなったのか経緯は不明です。
しかし、38式歩兵銃は明治、大正から昭和の終戦まで約41年間使われましたが、自衛隊の64式小銃も制式されてから既に半世紀、これを超えています。これもやはり日本軍の伝統なのかなァ
戦闘機
日本陸軍の戦闘機と言えば1式戦闘機「隼」、2式戦闘機「鍾馗」、3式戦闘機「飛燕(=ドイツのメッサーシュミットのライセンス生産)」、4式戦闘機「疾風」、そして部品が多く、構造が複雑で、生産も整備も難しい「飛燕」の水冷式エンジンを空冷式に替えた5式戦闘機などがあります。
これがわずか五年弱の戦争期間中に制式化されたものとは思えないほどですが、このほかにも双発の防空戦闘機「屠竜」などがあるのです。
このうち加藤隼戦闘隊で有名な1式戦「隼」は、同時期の海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)と比べると武装、速度、航続距離などで劣り、「あちら(ゼロ戦)には艦上戦闘機と言うハンディーがあるのに何で?」と陸軍のパイロットたちも嘆いていたそうです(と元「隼」のパイロットの方から伺いました)。
特に武装の貧弱さは、敵機に当たっても中々火を吹かず、コクピットを狙わないと撃墜出来なかったそうです。
尤も、陸軍のパイロットが羨んだゼロ戦の20ミリ機関砲は、弾薬数が少なく、ここ一番のために温存し、パイロットたちは「豆鉄砲」と呼んでいた機銃で戦ったそうです(と元「ゼロ戦」のパイロットの方から伺いました)。
海軍と言えば傑作機「ゼロ戦」ですが、開戦初期の「21型」と最も完成度が高いとされる「52型」では、外観も性能も別物のように違い、海軍の戦闘機の研究開発と言えばゼロ戦の改良、特に生産性が悪かったので、如何にして部品を減らし、作業の手間を省くかが主要課題だったそうです。
海軍も後に紫電改(これが戦闘機メーカーの三菱や中島ではなく、2式大型飛行艇を作った川西飛行機だったことも皮肉ですが)と言う戦闘機を制式化しますが時すでに遅く、その頃には国内の飛行機の工場は爆撃でやられ、量産体制は崩壊していました。
但し、名古屋や岐阜の主力飛行機工場は、米軍による爆撃ではなく昭和19年12月7日の東南海地震でやられたとも言われています。こうなると「神風」はアメリカで吹かず、寧ろ日本に「神罰」が下ったようですが。
それにしても海軍が航空母艦をあらかた失くしたところで、艦上戦闘機にこだわらず、陸軍機と同じものを制式化して(防空戦闘機「月光=屠竜」の例はある)、開発や生産ラインを各メーカーで一本化出来ていれば、もう少し防空戦力も違ったかも知れません。
しかし海軍は空母が1隻もなくなってからも「3点着陸」と言う難しい着艦要領にこだわり、かえってパイロット教育の効率を下げて足を引っ張っていたぐらいですから無理な話でしょう。
戦車
日本陸軍の97式中戦車の装甲(重量14トン)は米軍の重機関銃弾が貫通したそうですから、現在の装甲車よりも頼りない代物だったようです。また57ミリ戦車砲はアメリカ軍のMー4シャーマン戦車の装甲(重量31トン)に歯が立たず、後に90式野砲に換装して攻撃力を強化し3式戦車にしましたが、如何せん車体は97式のままですから、170馬力、時速37キロでは何ともなりませんでした。
ちなみに米軍のMー4シャーマンは400馬力、76ミリ砲でした。
日本軍との戦車戦では無敵のMー4シャーマンですが、これが対ドイツ軍となると立場は逆転。ロンメルがアフリカ戦線で使ったドイツ軍の戦車でも38トンありましたから、名高いキング・タイガ―戦車などとまともに撃ち合えば日本軍の戦車と同じような目に遭ったことでしょう。
しかし、そのドイツ軍戦車部隊と互角に渡り合ったソ連軍戦車部隊と戦ったノモンハンでは日本軍はどんな目に遭ったのか、考えるだけでも恐ろしい。当時の日本軍の戦車は、さらに旧式の89式中戦車でしたから。
それにしてもドイツから潜水艦で戦闘機の設計図を持ち帰って「飛燕」を作るくらいなら、最新式の戦車や火砲を教えてもらうべきだったのでは。尤も、持ち帰るのが海軍ですから、陸軍のモノは対象外?でも飛燕は陸軍機、これも海軍は艦載機にしか興味がなかったと言うだけのことか?
拳銃・軍刀
戦前は「銃刀法」と言う法律はなく、一般人でも比較的自由に拳銃が持てたそうです(大陸で働く邦人の護身用のためと言われている)。
このため日本軍でも将校士官の拳銃は私物品が認められていて、国産の南部14年式は大きく重く、部品が多くて故障も多いため、べレッタやブローニングなどのヨーロッパ系の小型拳銃を持つ者も多かったそうです。
後に中国大陸での戦線が奥地に広がると、拳銃弾の補給の問題が生じて、拳銃も国産の南部14年式に統一されたのです。
軍刀は現役当時から右翼の親玉のようだった荒木貞夫陸軍大臣が、「皇軍の精神に相応しくない」さらに「剣道の使用法に合わない」と言う理由をつけてサーベル式を日本刀式に改め、後に海軍もこれに倣いました。
しかし、銃弾飛び交う近代戦で剣道をやろうと言う発想自体が、どうなのでしょう。これに倣った海軍の見識も自ずから窺えると言うものです。
ちなみに飛行機乗りの軍刀は「鋼製ではコンパスを狂わせるから」とジュラルミン製が愛用されたようです。「軽い」のが本音だったようですが。
余談・自衛隊の飛行機の名、戦車、拳銃
昔は航空自衛隊の飛行機にも漢字の名前がついていました。
戦闘機ではFー86Fセイバーは「旭光」、大型レーダーを装備したFー86Dは「月光」、超音速戦闘機Fー104Jスターファイターは「栄光」でしたが、Fー4EJファントムⅡから英語名になって、Fー15Jイーグルもそのままです。
その癖、国産機のFー1は無名で、Fー16ファイティングファルコンと同じで違うことになっているFー2も名無しの権兵衛です。
練習機でもTー33A(戦闘機仕様はFー80シューティングスター)は「若鷹」、戦後初の国産ジェット機であるTー1は「初鷹」でした。
ところでプロペラ練習機であるTー34メンターの後継機のTー3のことを、整備員は「メンターの子供」と言うことで「メンタイコ=明太子」と仇名していました。どうせなら旧軍の同様の機体の名に倣って「赤とんぼ」で好いと思いますが、そう言う洒落のセンスはないようです。
次に自衛隊の戦車ですが、国産ではFー104Jと同じく私と同じ歳の61式戦車は、日本の鉄道の狭軌の線路を考慮して、非常にコンパクトに設計されていました。
続く74式戦車は色々な機能がついていて「世界最高峰の傑作」と自画自賛していましたが、地形に合わせて高さを変えられると自慢の油圧サスペンションは走行中にキャタビラが外れる不具合が多発し、夜間戦闘用の特殊前照灯は割高なため指揮官の車両のみに装備されているだけです。
何よりも当時、ソ連のTー72やドイツのレオパルスⅡは120ミリ戦車砲を装備しており、74式の105ミリ砲は見劣りしましたし、50キロ代の最高速度も既に時代遅れでした。
現在の90式戦車は鉄道での輸送は不可能なだけでなく、トレーラーでも日本の狭い道路では曲がることができる交差点を探さないといけません。
最後に拳銃ですが、現在、自衛隊が使用しているスイス製のザビエルPー220拳銃は海外では軍用拳銃として採用されておらず、一部の国で警察用として使用されているだけです。
この拳銃には安全装置がなく、構造上異物による作動不良を起こしやすく、細かい外れやすい部品が多く紛失による発射不能になる危険性が大きい、何よりも装弾数が7発と戦闘用としては致命的に不足しているなど、非常に多くの問題点があり、唯一の利点は価格が安いことです。
尤も我々は「所詮、日本軍の拳銃は自決用だ」と笑っていましたが。
陸軍分列行進曲「抜刀隊」
この曲は現在も陸上自衛隊の分列行進曲として使用されていますが、作曲は1884年から5年間、日本陸軍の軍楽隊の指導にあたっていたフランス軍人のルルー楽長で、「扶桑歌」を主部に、「抜刀隊」をトリオに取り入れています。ですから軍歌「抜刀隊」を知っている人が、そう思って聴くと、「扶桑歌」の部分が、やたらに長いイントロに感じてしまいます。
軍歌「抜刀隊」の歌詞は次のようなものです。
「われは官軍 わが敵は 天地容(い)れざる 朝敵ぞ 敵の大将たる者は 古今無双の 英雄で それに従う つわものは ともに剽悍(ひょうかん) 決死の士 鬼神に恥じぬ 勇あるも 天の許さぬ 反逆を 起こせし者は 昔より 栄しためし 有らざるぞ 敵の滅ぶる それまでは 進めや進め 諸共に 玉散る剣 抜きつれて 死する覚悟で 進むべし」
この歌詞を一読するとエラク敵を褒めていて違和感を覚えるかも知れませんが、これは西南戦争で旧会津藩兵を中心に編成された「抜刀隊」のための歌で、「古今無双の英雄」とは言うまでもなく西郷南洲隆永(隆盛は父の名前の誤用)であり、「それに従う つわもの」は陸軍少将・桐野利秋、同・篠原国幹や西郷私学校の徒弟、不平士族ら薩摩隼人のこと。
つけ加えれば、戊辰戦争の折、西郷に心酔した藩侯の命により、私学校で学んでいた山形県庄内藩士の子弟たちも参戦しました。
この曲をあえて陸軍の行進曲に決めたのは、それまでトップであった西郷が野に下って以降、陸軍内で急速に勢力を強め、足場を固めつつあった山県有朋ら長州閥が、薩摩が勢力の盛り返すことを阻止するため、「賊軍」に留めておく必要があったからだとも言われています。
海軍公式行進曲「軍艦」
この曲も海上自衛隊公式行進曲として使用されていますが、戦後はそれ以上にパチンコと大売り出しのBGM化しています。
作曲は後に東京海軍軍楽隊楽長になった瀬戸口藤吉が横須賀海兵団に勤務中の1894年に行いました。薩摩出身の瀬戸口は曲の着想を故郷の民謡「オハラ節(花は霧島 煙草は国分・・・)」から得たと言われています。間奏部分にそんな感じがありませんか?
「守るも攻むる黒鉄(くろがね)の 浮かべる城ぞ頼みなる 浮かべるその城日の本の 皇国に四方(よも)を守るべし 真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に 仇なす国をせめよかし」と言う歌詞で唄えば、この曲も軍歌「軍艦」になります。
陸軍各兵科の歌と軍歌「日本陸軍」
各兵科の歌が制定されたのは陸軍が、フランス式の軍服(後に襟に階級章がついたのはドイツ式)を使用していた時期で、肩に階級章、詰襟の前には各兵科がそれぞれの色で表されていました。
歌詞でも判るように歩兵は赤、砲兵は黄、騎兵は緑、工兵は赤紫、輜重兵は藍で、これらは現在の陸上自衛隊でも概ね踏襲されてします。
「歩兵の本領」
※唄うと自然に歩き出してしまう。流石は歩兵の歌です!
1「万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男の子と生まれなば 散兵戦の花と散れ」※赤色を吉野の桜に例えたのは詩的です。
5「敵地に一歩我れ踏めば 軍の主兵はここにあり 最後の決は我が任務 騎兵砲兵協同せよ」
※「軍の主兵」の言葉にプライドが見て取れます。
「日本陸軍」歩兵(五番)
「一斉射撃の銃(つつ)先に 敵の気力をひるませて 鉄条網もものかわと 躍り越えたる塁上に 立てし誉れの日章旗 みなわが歩兵の働きぞ」
☆ちなみに池貝鉄工所の大場勇が作詞し、1922年の第3回メーデーで発表されたメーデー歌「聞け万国の労働者 とどきわたるメーデーの 示威者(しいしゃ)に起こる足どりと 未来をつくる鬨の声」は「歩兵の本領」の替え歌だと言われています。
「砲兵の歌」
※黄色を「山吹色」としたのは「歩兵の本領」に通じます。
1「襟には栄ゆる 山吹色に 軍の骨幹 誇りも高き われらは砲兵 皇国の護り」
2「疾風電撃 天地を揺りて 赫々(かくかく)戦勝 基(もと)いを拓く われらは砲兵 御国の護り」
「日本陸軍」砲兵(4番)※工兵が歩兵よりも先に来るのが意外です。
「鍬取る工兵助けつつ 銃(つつ)取る歩兵援けつつ 敵を沈黙せしめたる わが軍隊の砲弾は 放つに当たらぬ方もなく その声天地にと轟けり」
「騎兵の歌」
※5番ではモンゴルやコザック騎馬軍をライバルにしています。
1「来たれ我が友 血に燃ゆる 胸の響きに 言(こと)づてん 緑に映ゆる 襟の色 ああ憧れの グルメット」※「グルメット」は轡のこと
5「興安嶺の 日の御旗 長駆進めん モスコー府 コザックいかに 驕るとも 我が鎧袖(がいしゅう)の 一触ぞ」
「日本陸軍」騎兵(六番)
「撃たれて逃げゆく八方の 敵は追い伏せ 追い散らし 全軍残らずうち破る 騎兵の任の重ければ わが乗る馬を子のごとく いたわる人もあるぞかし」
※「駿馬は騎兵、駄馬は輜重兵に徴用される」と言われていた。
「工兵の歌」
※4番で自分たちを「鳶職」と称しているところは意外です。
1「聖戦進む 大陸に 膺懲(ようちょう)の師 征くところ 峻嶮はばむ 大別も 怒涛さか巻く ヴァイアスも 正義の戈に 抗(むか)うなし 我が襟の色 自信(ちから)あり」
4「ああ大陸の 雄叫びは 遠く異境に 谺(こだま)する 八紘一宇の 聖業に 剛き伝統 身に帯びて 努め励まん 我が任務 「とび」の名 永久に光あれ」
「日本陸軍」工兵(3番)
「道なき方に道をつけ 敵の鉄道うち毀(こぼ)ち 雨と散りくる弾丸を 身に浴びながら橋かけて わが軍渡す工兵の 功労何にか譬うべき」
「輜重兵の歌」
※3番、輜重兵はあの時代に運転免許を取れたんです。
1「ああ神州の 空高く 聳ゆる芙蓉の 揺るぎなき 国の干城(まもり)と 集いたる われに股肱の 栄誉(ほまれ)あり」
2「建軍遠き 昔より 正義に刃向かう 敵もなく 意気軒昂(けんこう)の 益荒男が 襟に輝く 藍の色」
3「進めや馬の 口を取り 走れや転把(ハンドル) 握り締め 期せよ正義の 皇軍(みいくさ)の 運命(さだめ)にかかる 我が任務」
「日本陸軍」輜重兵(七番)
「砲工歩騎の兵強く 連戦連勝せしことは 百難おかして輸送する 兵糧輜重のたまものぞ 忘るな1日おくれなば 1日たゆとう兵力を」
「航空兵の歌」
※歌詞の構成、曲調は、どこか「騎兵の歌」に通じます。
1「ロッキー山か アルプスの 雪の嶺々 見下ろして 操縦桿を 操れば エンジンの音 懐かしく 心も躍る 雲の上 ああ壮なるや 航空兵」
4「翼つらねて 勇ましく 大和男児の離れ事 横転逆転 宙返り 光る姿の サルムソン しばし雲間に 隠れ見す ああ快なるや 航空兵」
※サルムソンはフランス製の航空機用エンジン(91式戦闘機にも使用)
☆航空兵と戦車兵は遅れて創設されたのだが、だからと言って軍歌「日本陸軍」に歌詞を補作、追加しなかったのは手抜きではないか?
この2つの兵科には騎兵出身が多く、ロサンゼルスオリンピックの馬術競技のゴールドメダリスト・バロン西中佐も戦車部隊を率いて硫黄島で戦死。
これは各国陸軍も同じで、「大戦車軍団」のパットン将軍も乗馬ズボンとブーツ、鞭をトレードマークにしていたぐらいで、やはり騎兵出身でした。
- 2012/06/12(火) 20:09:16|
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明日6月12日は毛利両川の一人、小早川隆景の命日です。毛利隆元、吉川元春の三兄弟としては「三本の矢」で有名ですが、長男・隆元は若くして父に先立ち、歴代当主にも数えられていなかったこともあり、現代では「両川」の呼び方が一般的なようです。ただ、三本の矢は父の顔色をうかがうばかりの兄・隆元に比して、隆景は才気煥発で家臣の信望も厚く、「将来は・・・」と言う声が公然と囁かれるようになっていたことで父・元就が「和を乱せばこのように圧し折られるぞ」と中国の故事を引いて警告を与えたとも言われています。隆景は秀吉の天下になり「出来の悪い甥・秀秋を毛利家の養子に」と言う近習の動きを察知して、先に「小早川家の跡取りに」と願い出てこれを防ぎ、毛利家を守っています。
天下分け目の関ヶ原では、その小早川秀秋と吉川広家の裏切りで毛利輝元が総大将だった西軍が敗れていますから、元就の教えも一代限りだったのでしょうか。
- 2012/06/11(月) 19:46:26|
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明日6月5日に名古屋の熱田神宮では祭礼「熱田祭」が行われます。
熱田神宮の御神体は三種の神器の一つ「草薙(くさなぎ)の剣」ですが、古事記には剣の持ち主で日本神話最大の英雄・倭建命(やまとたけるのみこと。日本武尊は後世の当て字)のリアルなエッチシーンが出てきます。
倭建命は父である景行天皇の命令で九州や関東を征討したのですが、現在の名古屋の熱田神宮がある場所に妻・美夜受比売(みやずひめ)がいて、関東から信州を攻めて戻り妻と「イザ一戦」と迫ると妻に生理がきて、倭建命は「久しぶりに枕を共にして我れはイザしようと思ったのに汝の着物の裾が月のモノで汚れた」と言う歌を送って嘆きました。すると妻は「何カ月もほかっておくから待ちかねて月のモノがきたのよ」と答えたのです。
古事記には倭建命は関東を攻めた時、足柄山に登り妻を思い出して三度嘆いた後、「吾妻(あづま)はや」と呟いたので、その地を「阿豆麻(あづま)」と言うようになったと記されていますが、これほど恋焦がれていた妻だったのですから、さぞやガッカリしたのでしょう。
その後、倭建命は草薙の剣を妻の元に残して伊勢方面を攻めたのですが、その時「脚が三つに重なるほど疲れた」と言って亡くなりました。これが三重の地名の由来とされています。
- 2012/06/04(月) 20:37:45|
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明日6月2日は「本能寺の変」です。織田信長は宿泊していた京都・本能寺を明智光秀によって奇襲され、49年の生涯を閉じました。この情景はNHKの大河ドラマをはじめ数多く描かれていますが、野僧は「秀吉」で渡哲也さんが割腹ではなく頸動脈を切って血が吹き出た演出が好きです。
このほかにも攻め手が光秀と聞いた信長が「是非及ばず」とつぶやく場面も印象的ですが、本人以下、近習まで討ち死にしている中、誰がこれを証言したのか・・・信長公記の著者に訊いてみたいものです。
ただ、武将の辞世は本来、正月に作って菩提寺などに預けておくものであり、そのため合戦の最中に討ち取られたり、焼け落ちる城内で自刃しても遺っているのです。
最近、石井あゆみさんの「信長協奏曲(のぶながコンチェルト)」と言う漫画を読んでいるのですが、問題児の高校生がタイムスリップして信長と入れ替わると言うストーリーは、あの時代の常識にとらわれず、むしろ破壊者として振る舞った信長を考えれば「なるほど」と納得してしまいます。
余談ながら「名古屋祭りの目玉『郷土三英傑』に信長、秀吉は好いが家康は幼い頃に人質として名古屋にいただけなのでおかしい、むしろ名古屋出身の源頼朝にするべきだ」と市役所の担当者に申し入れたことがあります。今年の大河ドラマ「平清盛」ではこのことを取り上げていますが、果してどうするのでしょう。
- 2012/06/01(金) 19:37:51|
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