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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

航空自衛隊怪僧記・序章

 航空自衛隊怪僧記・序章
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私が航空自衛隊に入った頃は、まだ神様のような人が一杯いた神話の時代でした。
沖縄の部隊は、Fー104Jと言う戦闘機を運用していましたが、この戦闘機の航空自衛隊への導入は1961年(昭和36年=同じ歳)で、すでに20年近くが経過した老朽化した機体だったのです。
そのころ嘉手納の米空軍は二世代新しい当時世界最新鋭のF‐15だったのですが、日米共同訓練で空中戦をやっても自衛隊のパイロットはこれに勝ってしまうのです。なぜならFー104Jのパイロットたちは、旧日本軍の生き残りパイロットに鍛えられた世代で気合いも鍛え方も違いました。
当時の飛行隊長は訓練で勝った後の交信で米軍に「ユアー Fー15 イズ キャット ハズ ゴールドマネー」なんて言っていましたが、ようするに「お前のFー15は猫に小判だ」と言いたかったのでしょう。
一方、Fー104Jはすでに老朽化していて、上空でエンジンが止まったり、溶接部分が割けたりする予想できない故障が多発していましたが、あの頃のパイロットはそれでも脱出したりしないで、急降下して風圧でエンジンを再始動したり、ほとんど錐揉みのグライダー状態で帰ってきたりしていましたが、「どうして脱出しなかったんですか」と尋ねると、「冬物着てこなかったんで、海で漂流すると寒い」なんて台詞をきめてくれるんです。自分の生命なんても全く考えていなかったみたいでした。
あの頃は「パイロットが年に十人死ぬのは航空自衛隊のノルマだ」とか、「死んだ特攻隊員の数になるだけ、航空自衛隊のパイロットが死ぬのは止まらない」とか言われていました。今は、飛行訓練も安全管理が徹底していてパイロットも安全運転に慣れてしまい、「操縦は上手いけど、戦闘には弱い」と言うのが実情ですが。
ちなみに「パイロットよ、生きて帰れ。生きて帰って教訓を語れ」と脱出することを認める訓示を制服トップの航空幕僚長がしたのは平成に入ってからです。それまでは「脱出など命が惜しい臆病者のすること」と言うのが航空自衛隊のパイロットの美学で、危ないと思えばすぐに脱出する米軍のパイロットを馬鹿にもしていました。
私が幹部になった時にも航空自衛隊の幹部の身の処し方(=美学)として、「国民が死んで自衛官が生き残ってはならない」「部下が死んで上官が生き残ってはならない」と教えられましたが、今でも飛行中に飛行機が操縦不能(火を噴いても)になると、パイロットは海か住宅がないところまで機体をもっていき、二人乗っている時は若いパイロットが先に脱出します。
ですから航空自衛隊機は小松での一回を除き、市民を巻き添えの犠牲(負傷はある)にして墜落したことはなく、市街地でも駐車場とか河川敷に墜ちています。
先に脱出してパラシュートで降りながら、隊長の飛行機が墜ちていくのを見ているしかなかったと言う生き残ったパイロットの話を聞くのはやはり辛かったです。
それでも事故を起こせば遺族がデモ隊から「馬鹿野郎」と呼ばれるのが、自衛隊です。
「死ねば名誉の戦死」「軍神になれる」旧軍人が羨ましいと言う台詞は、けっしてブラックジョークばかりではありません。

当時の整備員の愛唱歌「ノズル・ワイドオープンの歌」詞・曲 エンジン小隊 M城松栄2曹

ノズルノズルノズルノズル ノズル・ワイドワイド オープン 
パイロットはエマージェンシー 整備員はアギジャー=アキサミヨー
(ノズルワイドオープンとはエンジンの噴射口が窄まらず推力を失う故障で、当然エマージェンシー=緊急着陸でした)

整備面でもFー104Jは、マニュアルや検査装置をあまり重視しない職人が整備した最後の戦闘機で、ある時、定期整備終了後に機体をジャッキで持ち上げて脚を上げるリトラクションチェックをしていて、油圧班のベテランが「なんか弱いな」と言い出して、「ばらせ」と若い整備員に指示したことがありました。
若い整備幹部は「検査装置で異常がないのだから整備を終了しろ」と言いましたが聞かないで、結局、バラしてみたら油圧系統のパッキングが磨耗して薄くなって裂ける寸前だった。検査装置よりも正確な整備員の勘が通用すると言う時代だったのです。
整備員も航空自衛隊のパイロットは上空で故障しても脱出しないことを自覚していましたから、逆に「パイロットの命を預かっているのは自分たちだ」と言う責任と誇りを持っていて、同じ機種の故障でも米軍より航空自衛隊の方が修復が早く、再発率も断然低くて、世界最高の整備能力と言われていたし、自分たちもそう信じていました。
航空自衛隊で整備不良が原因で航空機が墜落した事故は千歳でFー104Jの左右の翼をつなぐシャフトの欠陥品の交換する際、ミラーで確認したためナンバーを見誤った事故が最後とされ、パイロットが死に、そのミスを犯した若い整備員も自殺してしまいました。こちらも今ではパイロットが生きて帰るようになった分、昔ほどの緊張感がなくなってきたように見えましたが。
ただ、航空自衛隊では「死の美学」についてパイロットではない隊員にも日常に教えられていて、若い隊員に身辺整理を指導する時には、「殉職したパイロットの遺族が遺品を取りに来た時、ロッカーを開けたら散らかっていて気丈な母親が泣いた」「いつでも遺品を送られるように不用品は持たず、身辺は綺麗にしておけ」などと語っていました。
本山などでは修行僧に「命がけで掃除をしろ」などと言いますが、航空自衛隊では「整備する現場の床が汚れていて油漏れに気づかなかったらどうする」「欠落した部品を見落としたらどうする」「ホコリが電子装置に入って故障したらどうする」と本当に命をかけて掃除をし、数千メートルある滑走路も異物をジェットエンジンが吸引することによる爆発事故(FOD)やタイヤ破損を防ぐため隅々まで掃除をしているのです。
そして、これは整備だけに限りません。ある飛行機事故では殉職したパイロットが急旋回中に意識を失った可能性が指摘され、その原因として「飛行前の食事を十分に食べていたか」とメニューまで調べられました。
また新田原基地の気象隊は雷雨(サンダーストーミング)を予報し、このため飛行中の戦闘機は福岡県の築城基地に下りることになったのですが、途中で燃料切れになり田圃に墜落しました。この時、新田原基地では雷雨が発生しなかったため誤報が原因とされ予報官は処罰されました。練習機が離陸中に横風を受けて墜落した時も同様で、天気予報にまで命がかかるのなら気象庁はどうなるのでしょう。
私が幹部になって最初に仕えた春日時代の上司は、世界最高の兵器管制官といわれた人で、レーダーから戦闘機が消えても「ここにいる」と位置が見えている「神の目」を持っていました。
また、御巣鷹山の日航機墜落事故の時、あの空域を監視していて、日航機の動きがおかしいのに気がついて重点監視を指示し、レーダーから航跡が消えた瞬間に戦闘機に緊急発進を命じて確認に行かせた人ですが、当時の法令規則としてはそれが出来るギリギリの処置だったのに「なぜ日航機が通常の航空路から外れた時点で(処罰覚悟で)緊急発進させられなかったのか」「俺は(規則を守るだけの)公務員だ、軍人ではない」と酔うと自嘲気味に語っていました。
この神様みたいな人を最初の直属上司に出来て、幹部の基本をマンツーマンで習えたから私は自衛隊の中の公務員としての常識みたいなものは全部取っ払って、持っている能力を最大限に引き出してもらえたのです。
そして、航空自衛隊総合演習で航空総隊(旧海軍の連合艦隊みたいなもの)司令部に派遣され、ほかの幹部たち(その中では一番下っ端だった)と申告に行った時、司令官から「この中に航空自衛隊の三奇人のモリノっているだろう。どこだ?」と言われるような幹部自衛官になれたのです。
こんな神様みたいな人たちに共通していたのが徹底した「仕事馬鹿」だと言うことです。
ある往年の名パイロットは上空と地上が判らなくなることがあり、フライトを終えて車で帰宅する時、前に邪魔な車がいると対向車線にはみ出して抜こうとするので注意すると、「そうかァ、車じゃあハンドルを引いても上には行けないわな」と真顔で答えました。兎に角、仕事以外では非常識、変人、どこか抜けた人が多かったです。スポーツ選手もそうですけど、プロに徹すると世間の常識から外れてしまうようです。
残念なことに今は、意外にみんなが「常識」でガンジガラメになっていて、「命懸け」「仕事馬鹿」の本当のプロには居場所がないようです。
その意味で私が幹部自衛官として不運だったのは、那覇や春日ではそれぞれの仕事の達人、浜松では後の航空幕僚長たちの下で勤務してきたことです。そこでの最高レベルの人物との仕事を当たり前にしてしまったことが、その後、普通の部隊に行って普通の上司、同僚との関係において自分を納めきれない結果になってしまったのだと思います。一人の人間としては、この上もなく幸運なことでしたが。
  1. 2012/07/31(火) 11:41:45|
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8月1日・弘安の役の暴風

1281(弘安4)年の明日8月1日(7月30日から4日間など諸説がある)に暴風が吹いて、元軍は壊滅しました。

 元寇(永井建子 詞・曲)4番

天は怒りて海は 逆巻く大浪に 国に仇をなす 十万余の蒙古勢は
底の藻屑と消えて 残るは唯三人(ただみたり) いつしか雲はれて 玄界灘月清し

日本人は文永、弘安の二度も暴風で元軍が壊滅したため、これを「神風」と呼び、信じるようになりましたが、鎌倉武士が勇敢に戦って上陸をさせなかった上、小舟での夜襲を繰り返していたため、元船が密集隊形をとっていたことで被害が大きくなったとも言われています。
つまり、この国を守ったのは紛いもなく命をかけて戦った武士たちだったのですが、朝廷はその武功を認めず、自分たちの祈願によって神風が吹いたかのように振舞いました。
これは「戦後の日本が平和だったのは憲法第9条のおかげだ」とうそぶく一部の政治家と言論人、(非)国民の姿に重なります。
ついでに言えば、博多の東公園には「法力で元軍を撃退したから」と巨大な日蓮聖人像がありますが、地元では「神風」は「南無妙法蓮華経」のおかげだと思われているのでしょうか?
  1. 2012/07/31(火) 11:18:18|
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航空自衛隊怪僧記(予告編)

航空自衛隊怪僧記・幹候校の外出服装
これは奈良・幹部候補生学校で外出する野僧と同期たちです。
ある日、この格好で外出しようとすると基地内で校長閣下に出会いました。
野僧が合掌して頭を下げると閣下も合掌して深々と頭を下げられました。奈良基地内には古い僧侶の墓所があり、参詣に来た坊主と勘違いされたのでしょう。
ところが翌週、食堂へ向かう経路で野僧を見た閣下は学生と判って、担当者を通じ「おかしな格好で外出するな」と指導をしてこられました。しかし、野僧は納得せず「私は坊主です。坊主が法衣を着ておかしいですか?」と訊き返しました。その後は「特殊な服装をするな」「坊主が法衣を着ることが特殊ですか?」「お前は自衛官か坊主か?」「私は信玄、謙信、早雲と同類です」と言うやり取りがあり、野僧が毎週、参禅を欠かさない本物の坊主であることを知って閣下は「今期は変な奴がいる」と納得されて終りました。
この話には後日談があって、卒業前に行われる60キロ行進で学生たちは「絶対に座らない」「水は飲まない」「鉄ヘルメットを脱がない」などの自分に負荷をかけることを誓わさせられるのですが、野僧は区隊長(教官)から「お地蔵さんにお参りする」と言うスペシャル・メニューを命じられました。
始めは「大したことないだろう」と思ってしましたが、イザ訓練が始まると奈良から柳生の郷を抜けて笠置山、木津川沿いに下るコースには古い石佛が数多くおられ、野僧はその度に立ち止まって「延命地蔵菩薩経偈」や「延命十句観音経」「舎利礼文」などのお経をあげることになり、その間に先に行っている仲間にダッシュで追いつかなければなりませんでした。
途中、笠置山の登り口で校長閣下が視察しておられたのですが、それが石地蔵さんの傍だったので私が合掌して頭を下げ、「延命地蔵菩薩経偈」を唱え始めると閣下も一緒に手を合わせて下さいました。その後、少し話しかけられたため猛ダッシュで駆け出すことになりましたが、担当者の話ではその姿を可笑しそうに見送りながら「アイツは本当に坊主だな」と言っておられたそうです。
卒業パーティーの会場で閣下は野僧を見つけると「これはお坊様」と合掌して頭を下げた後、酒を注いで下さいましたが、ここまでくるとジョークでしょう。
  1. 2012/07/30(月) 09:26:54|
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7月27日・弘安の役(元寇)

1281年の明日7月27日が、この歌の「弘安四年夏の頃」です。

 元寇(永井建子 詞・曲)

四百余洲を挙る 十万余騎の敵 国難ここに見る 弘安四年夏の頃
なんぞ怖れん我れに 鎌倉男子あり 正義武断の名 一喝して世に示す

多々良浜辺の戎夷(えみし) そは何蒙古勢 傲慢無礼者 俱(とも)に天を戴かず
いでや進みて忠義に 鍛えし我が腕(かいな) ここぞ国のため 日本刀(にっぽんとう)を試しみん

こころ筑紫(※1)の海に 浪おし分けて往く ますら猛夫の身 仇(※2)を討ち還らずば
死して護国の鬼と 誓いし筥崎の 神ぞ知ろしめす 大和魂いさぎよし
 ※1、この「こころ筑紫」は「心尽くし」と「此処ぞ筑紫」をかけています。
 ※2、この元寇は文永の役に続く第2ラウンドでしたから「仇」もあったのでしょう。

4番も歌詞の当日に掲載します。
  1. 2012/07/26(木) 11:29:04|
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7月20日・海の記念日

明日7月20日は「海の記念日」です。
現在はハッピーマンデーとか言う愚策により、第3月曜日を「海の日」と称する休日にしていますが、本来は明治9年の東北巡幸の帰路、船(現在は東京商船大学に展示されている「明治丸」)で横浜港に御安着された日なのです。
それにしても1996年の橋本内閣当時に実施されたハッピーマンデー制度は、どうなっているのでしょう。
明治天皇が航海されたことを記念するから「海の記念日」であって、これでは単なる「海水浴によいシーズンだ」と言う観光キャンペーンくらいの意味しか持ちません。
これは10月の「体育の日」も同様で、1961年の東京オリンピックの開会を記念するから「体育の日」であって、第2月曜日と言うだけでは「スポーツの秋を楽しみましょう」と言うことにしかならないでしょう。
どうせ「庶民が国内旅行に出掛けて金を遣う好い手はないか」程度の下問、陳情に対して官僚が捻りだした浅知恵でしょうけれど、民族の足跡を記念する歴史的意義を踏み躙る罪を思えば決して看過はできません。
  1. 2012/07/19(木) 09:08:28|
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7月19日・山岡鉄舟居士の命日

明治21(1888)年の明日7月19日は山岡鉄舟居士の命日です。
鉄舟居士と言えば戊辰戦争の折、勝海舟の命を受けて薩長土肥の西軍の西郷南洲(吉之助)と面談し、無血開城に道を開いたことで名を残しています。
この時、勝海舟は「人間不信なところがある西郷に誠意一辺倒の山岡が当れば道が開けるかも知れない」と選任した理由を語りましたが、その通りになったようです。
後に勝が薩摩藩邸での会見で無血開城を決めたように語っていることを聞いて憤慨する門人にも、鉄舟居士は意に介さぬ態度であり、最期まで親交があったようです。
鉄舟居士は一刀流の達人であり、滴水禅師に参禅してついに大徹して印可を得ましたが、この「無刀」の悟境を「全生」と語っており、谷中にある全生庵はその旧宅です。
全生庵の鉄舟居士の墓の隣りには近代落語の祖・三遊亭円朝の墓も並んであります。
円朝は鉄舟居士から「無舌(舌無しで噺を語れ)」の公案を与えられ、七転八倒の末、印可を得ています。
鉄舟居士は円朝に一席語らせ笑いながら死んだと言う伝説がありますが、実際は家族に看取られながらの静かな最期だったようです。
全生庵には怪談噺を数多く創作した円朝が収集し、その後も集められてきた幽霊画のコレクションがあり、この時期、展覧会が行われています。
野僧も拝観したことがありますが、展示スペースが狭いため見る距離が近く、画と画の間が狭い上、人気があるイベントのようで静かな雰囲気ではないのが残念でした。あれが香のきこえる行燈か蝋燭の灯りだけの暗い和室で一人ずつ一幅の幽霊画と対面すれば背中が寒くなることでしょう。
ちなみに幽霊画は魔除けとして旧家には残っていることが多く、最近になって「気味が悪い」と寺に奉納されることも多いのです。野僧も以前は心霊写真を沢山持っていましたが、子供会の夏休みキャンプの肝試しに貸したまま返ってきません(祟っても知らないぞ)。
  1. 2012/07/18(水) 09:46:49|
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一般空曹候補学生の愛唱歌その3

一般空曹候補学生たちは△村先任作業隊に入隊するにも厳格な審査を経なければなりませんでした。
朝、班長を通じて区隊長の了解を得て衛生隊への受診希望者の集合がかかると、学生は事務室に集められるのですが、そこで△村先任は一人一人の受診理由を事細かに訊き取りました。
「熱発(=発熱)」と言えばその場で体温を計り、「膝痛(走行生の持病)」と言えば何キロ走ったかを訊き、「咳き」「吐き気」などはその症状が出るまで待って自分で確認する念の入れようでした。
△村先任としては「ズル休み」を絶対に許さないと言う使命感だったのでしょうけれど、そんな受診希望者が陰で唄ったのがこの歌です。

 △村先任受診の歌(曲・秘密のアッ子ちゃん)

先任の前では 男の子
みんな元気 それは何故
それは嫌み嫌みのせいなの ピンピンピン
熱が三度も下がったの それは何故
それは甘え 病気に負けちょる
神様 先任

△村先任は作業隊の作業を作るための下準備にも責任を持ち、「草刈りはさせられないので草集めをさせよう(本音は涼しいから)」と早朝、起床前から草刈りをすることがありました。

 △村先任草刈りのテーマ(曲・ガッチャマン)

誰だ 誰だ 誰だ 
朝の眠りを破る音
草刈り始めた 先任
エンジンかけて 刈りだせば
延びた草など残らない
刈れ刈れ刈れ 先任
ゆけゆけゆけ 先任
仕事は一つ これだけ一つ
オー先任 先任

そんな△村先任のテーマの一番のヒット曲がこれでした。

 △村先任の歌(曲・仮面ライダー)

迫る先任 事務室の長(おさ)
我らを狙う 作業鬼(おに)
中隊業務のためだけに
ゴーゴー レッツ ゴー
とどろく叫び 
先任 草刈り
先任 薪割り
△村先任 △村先任 先任先任

まさに一般空曹候補学生にとって「昭和の親父」でした。
  1. 2012/07/15(日) 10:55:51|
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7月15日・新盆

東京でお盆は7月15日(新盆)ですが、地方では8月15日(旧盆)に勤めます。
お盆の棚経は元来、太陰暦の7月15日に家々の佛具、法具を確認する宗門改めの一つとして行われていたのですが、明治になって太陽暦に替わった時、政府がある関東ではそのまま7月15日、地方は季節感を守るために一カ月遅らせたのです。
ちなみ小庵では8月は戦没者慰霊が続くため、盆の施餓鬼法要は新盆で行っています。
ところで曹洞宗では「餓鬼」は差別用語に当るということで、「施食」と呼んでいますが、これではホームレスへの炊き出しと変わらず、「餓鬼に施す」から供養なのであって「食を施す」のならお盆でなくてもいいでしょう。
当地は本州の西の端、西方浄土に一番近いのですが、昨年の八月は大震災で亡くなった方たちには初盆だったため小庵には新亡さんたちが立ち寄って、とても賑やかでした。
霊魂がいるとヒンヤリと言うよりもゾクゾクするほど冷えて快適なんですが、あまり騒がしいので念佛を唱えましたら急に静かになってしまい、その分、暑くなってかえって眠られませんでした。
新亡さんたちが揃って八月に家に帰ったと言うことは、こちらの方が正しいと言うことなんでしょうか?
確かに真夏の猛暑の方が地獄の蓋が開くのを実感できます。
  1. 2012/07/14(土) 10:47:00|
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一般空曹候補学生の愛唱歌その2

防府出身の一般空曹候補学生OB(ただし13期まで)が集まって飲むと必ず話題に出るのが事務室の長(おさ)・△村先任です(本人が階級ではなく「ワシは先任と呼べ」と指導していました)。
△村先任は怪我や病気で激しい訓練ができない「激務休」と診断された学生を集めて、雑用作業をさせるのですが、これが身体を痛めなくても厳しい絶妙の内容で決して楽はできないのです。
ですから学生たちは心から「早く治して訓練がしたい」と願っていました。
これはそんな△村先任の下で作業に励んだ哀しき学生たちが作った愛唱歌(労働歌?)です。

 △村先任作業隊歌(曲・加藤隼戦闘隊歌)

先任の声 轟々と 
若者は征く 作業員
背中に重たい 十字架は
訓練出来ない 激務休(げきむきゅう)
我らはその名も 先任S(せんにんず)

寒風酷暑 身がもたず
艱難辛苦 耐えきれず
作業に当る 弱者(よわもの)が
シッカリやってきてくれと
同期に祈る 虚しさよ

担架交ゆる 衛生隊
七度(ななたび)重なる 診断の
休務の影に 焦りあり
ああ今は無き 訓練の
内容どこで 取り戻す

毎日続く 作業員
中隊業務 身につけて
いつかは事務所の長(おさ)になり
先任と呼ばれる 時が来る
我らは曹候 先任S
三村先任



  1. 2012/07/14(土) 10:40:28|
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一般空曹候補学生の愛唱歌その1

「航空自衛隊一般空曹候補学生とは何か?」野僧が入隊した頃には、まだ我々の教育に当る中隊長、区隊長、班長も確固たる答えを持っていないようでした。
「兎に角、厳しく」「一般の新隊員たちが同情するほど厳しく」と体育や訓練でも一切の妥協を許さぬ厳しさを課し、我々も「それが曹候生の証」と耐え忍び、喜びとしてきました。
ある夜、眠られぬ者が消灯後に話しているの見つけた若い手の班長(曹候5期の先輩)たちが、全員を起こし廊下に正座をさせました。そして「反省した者から寝てよい」と指示を与えたのですが、全員が12時を過ぎても正座をしたままで、班長が「もういいだろう、寝ろ」と言っても「まだ反省が足りません」と止めませんでした。
最後には「頼むから寝て下さい」と頼んできましたが、野僧を含め数名の者が朝まで正座で明かしました(午前の座学は爆睡者が続出で班長の方が注意されたようです)。
曹候生と言えば掛け足がお家芸で、我々は「走って行くから曹候生(走行生)と言っていましたが、そんな伝統を受け継いだ後輩が作った愛唱歌を紹介します。

 走行学生の歌(曲・新エースをねらえ)

泣きたい時は 走路で泣けと
班長(あの人)は 班長は 鍛えてくれた
つまづいても ベソをかいても 
私には見える 一筋の光が
七分三〇 この一周に賭けた
七分ジャスト 私の青春
六分三〇 誰にも負けはしない
ああ 強い強い 体力だけは
強い強い 体力だけは     ※ちなみに航空教育隊がある防府南基地は一周2・3キロです。

もう一つ、自衛隊体操と言うのは陸空自衛隊が行う徒手体操(海は海軍体操そのままの海上自衛隊体操)ですが、曹候学生は教官動作と言って前で展示するための逆動作も覚え、仕上げには番号をかけながら次の動作を示す「合いの手」までマスターします。つまりNHKのラジオ体操のモデルさんとアナウンサーさんの役を一人でできるようになるのです(全員が)。

 自衛隊体操の歌(曲・ラジオ体操の歌)

荒々しい朝が来た 死亡の朝だ
悦びに夢が砕け アホ面仰げ
班長の声に 健やかな腕を
この弾む風に 鍛えよ
それ1,2,3
  1. 2012/07/13(金) 15:43:14|
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曹候イジメの思い出

 イジメの体験談を「懐かしき思い出」として語らせていただきます。
野僧が卒業した「一般空曹候補学生」と言うのは2年間の短期間で3等空曹(下士官)に昇任させる教育課程で、残念ながら32期を以ってその幕を閉じました。
空曹=下士官とは本来、熟練者を当てる軍の階級、職務であって、ある程度の素養を持った若者を速成するこの制度は、外国軍にあまり類型はありません。
入隊してくる若者は、ある程度の進学校で部活動などに励み過ぎて受験に失敗した運動馬鹿や防衛大学校、航空学生を2次試験で失敗した防大・航学外れなどの一癖も二癖もある奴が揃っていたように思います。
また早く、間違いなく3等空曹に昇任したいと現職から受験した者も多く、最初の教育隊で彼らが語る部隊での「曹候イジメ」の実態が、我々のような一般入隊者に覚悟と危機感を与えました。
その反作用として職種を選ぶ時、航空自衛隊では航空管制と並んで人気があるはずの航空機整備が「熟練するのが難しい」と敬遠されて定員割れをし、「馬鹿な空士になら勝てる」と後方職種に優秀な隊員が集中すると言う珍事が起りました。
野僧が入隊した7期の頃は、試行錯誤だった1期以降の先輩がそれなりの実績を築き上げる一方で、曹候学生出身者が初任空曹(空士=兵からの叩き上げ)の昇任枠を奪っているとの現実に気がついた古手の空士たちが、「曹候を辞めさせれば自分たちの枠が広がる」と言う根拠のない風聞を鵜呑みにして鬱憤晴らしの曹候イジメに励み、先輩たちも「自分たちの立場を傷つけるな」とイジメにも似た指導を行ったため最も悲惨激烈な時期でありました。
そのイジメのパターンとしては「やはり曹候は」と能力不足を指摘しつつ「曹候の癖に」と羽目を外すこと、気を緩めることを一切許さぬ粗探しの包囲網でした。
野僧などは「曹候の癖に」で気を引き締め、「やはり曹候は」で勉学修練に励みましたが、こう言う反応をした者は部内選抜の幹部になり、統計上では各期の3分の1が幹部になっています。
また新機種導入にともなうアメリカ留学でも主軸であり、海外からの留学生の中で過去に無い抜群の成績を修め、米軍から勲章を受彰した同期もあります。
このほかも航空救難員(メディック)や機上輸送員(ロードマスター)などでも華々しく活躍しています。
逆に「俺は黙っていても空曹になれる」と開き直る奴もいて、かえってそう言うフテブテシイ者の方が古手の空士やベテラン空曹にも愛され、仕事もジックリ取り組んで熟練し人望を得ていますから不思議です。
しかし、このイジメがなければ一般空曹候補学生の自己の職責に対する過酷なまでの精進努力はなく、「nobless oblige=高貴なる者の義務」の精神は醸成されなかったでしょう。
そんな中で笑い話のようなイジメの実話を一つ。
某基地補給隊の同期は、梱包作業の仕事で古手の空士たちに「絶対に声を出すな」と空き箱に入れられたのですが、空士たちがフザケて入間の補給処に送る荷札をつけたので、そのまま輸送機に乗せられ、夕方補給隊で「××がいない」と探していていると入間から「こちらで荷物を開封したら、オタクの××が中で泣いていました」と連絡が入ったそうです。本人には笑い話ではすまなかったでしょうが、暗い箱の中で膝を抱えて入間まで空の旅をしてしまった同期を思うと、「若し、その輸送機に何かあったら」と言う心配と同時に思わず笑ってしまいます。
我々、第7期一般空曹候補学生では入隊して最初の体力検定の1500メートル走で殉職者が出たのですが、空士長だったその同期は「入隊1カ月で三等空曹になった『超』曹候学生」と言われ、その事故の説明をしながら区隊長(教官)は「鍛え方が足らなかった。お前らは簡単に死なぬように鍛えてやるから安心しろ」と宣言し、その言葉通りさらに訓練は厳しくなりました。
  1. 2012/07/12(木) 11:26:21|
  2. 回想・一般空曹候補学生
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7月9日・森鷗外の命日

明日7月9日は森鷗外先生・林太郎閣下の命日です。
野僧は中学生の頃、自衛官を志した関係で元陸軍軍医総監だったと言う鴎外先生の作品を手にするようになりました(その辺りが普通の読書好きの生徒とは異なります)。
始めは「山椒大夫」や「高瀬舟」「大塩平八郎」など時代作品の現代語版でしたが、たちまち武士の風格、葛藤のリアルな描写に引き込まれました。ただ、「ぢいさんばあさん」の美濃部るんに惚れてしまい、同級生を見回しましたが、似たような娘は皆無でガッカリしたのも覚えています(後年、「美濃部るんになりたい」と言う元文学少女の女性自衛官に会いましたが)。
そんな野僧も、やがて「舞姫」に辿り着きましたが、後に自分も似たような経験をするとは思いもよりませんでした(先生が留学から帰国した後、ドイツ人女性が来日したそうです)。
鷗外先生は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言されたように、石見国津和野の御出身ですが、幼い頃、浜田へ向う大村益次郎の長州軍を見たと言われています。
津和野は小藩ながら鴎外先生や西周(にしあまね)などの逸材が輩出している一方、福羽美静(ふくばびせい)と言う許し難き佛敵も出ていますから、人材育成の地としては評価に迷います。何よりも藩主家の御姫様が現役の国会議員ですし・・・。
鴎外先生の最期の言葉は「馬鹿馬鹿しい」だったそうですが、これは勝海舟・麟太郎(こちらも「リンタロウ」です)の「これでおしまい」とならぶ秀逸な絶句でしょう。
  1. 2012/07/08(日) 13:09:52|
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