明日9月1日(ただし太陰暦)は中国地方の太守・大内義隆公の命日です。
中国地方の殿様と言えば毛利氏ばかり有名ですが、中国地方に北部九州まで加えた毛利氏の所領は大内氏の勢力圏を継承したものでした(義隆公の頃に叛旗を翻した尼子氏も毛利氏が討った)。
さらに言えば大内氏は毛利氏とは違い幕府にも積極的に関与して将軍の後ろ盾となり、実質的に天下を指図していましたが、将軍家を追って天下を奪取することはありませんでした。
大内氏はこの時代の武将が源氏、平氏の血脈を標榜して武門の正当性を誇る中(毛利氏は学者の大江家)、611年に渡来した百済の聖明王の子・琳聖太子の末裔を名乗っており、実際、地の利を生かした日明貿易や日朝貿易で巨万の富を得てそれを背景に強大な国造りを行っていたのです。
大内義隆公は父の義興公とは違い文弱を疎まれ、尼子氏の裏切りにも有効な手を打てずにおり、このため家臣の陶晴賢の裏切りに遭い、天文20(1551)年、長門市の湯田温泉の大寧寺で自刃しました。
辞世は「さかならぬ きみのうき名を 留めをき 世にうらめしき 春のうら波」そしてもう一首「討人も 討るゝ人も 諸共に 如露亦如電応 作如是観」これはやはり文弱と言われても仕方ないような教養の高さです。戒名は「龍福寺殿瑞雲珠天大居士」これも武将とは思えない優美さですな。
- 2012/08/31(金) 11:58:13|
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本日8月28日(ただし太陰暦)は希玄道元の命日です。
道元は病んで衰えゆく中、「読経をする暇があれば坐禅をせよ=坐禅していれば自己が佛である」と否定していた経典の妙法蓮華経にすがるようになり、治療のため永平寺から移り住んだ信者の家で与えられた部屋を「妙法蓮華経庵」と名づけたほどの入れ込みようで、最期も「妙法蓮華経如来神力品」を唱えながらであったと言われます。
曹洞宗門では道元が永平寺(当時は大佛寺)から都へ行ったのは「病を癒して再起するためだ」と説明していますが、鎌倉時代切っての悪徳公家(源頼朝からの征夷大将軍宣下のための政治献金を横領・着服した)と源義仲の愛人だった薄幸の美女(最近NHk「平清盛」に憎まれ役で登場した藤原基房の娘)の間に生まれた屈折したお坊ちゃまでも、最期は弱気になって都へ帰りたくなったと理解する方が自然ではないでしょうか。「最期は凡夫(普通の人間)に還った」それで好いのです。
ただ、あれほど大衆の育成に心血を注ぎながら道元の教えを受け継いだ者がほとんどいないことも史実です(「孤危嶮峻」と言われた宝慶寺開山の寂円禅師くらいでしょうか?)。
道元の没後、百年を経ずして永平寺はほぼ無人と化し、梵鐘を売りに出さなければ維持も出来ない状況になりました。そして太祖・瑩山禅師が道元の否定していた加持祈祷を真言宗などの他宗派から形だけ盗み、庶民受けするように変造したことによってようやく宗勢は盛り返し、全国各地の真言宗寺院を取り込みながら現在の浄土真宗に次ぐ大教団が形成されたのです。つまり弟子たちも道元の教えは守らず、教団そのものが看板は道元でも中身は別物になっていると言うことです。
現在、曹洞宗が檀信徒向けに勤めている「修証義」も文字面は正法眼蔵や発願文を摘み喰いしていますが、例えば第二章「懺悔滅罪」は発願文の内容を踏襲しているようでも、道元は真摯に懺悔して佛道に身を投じれば救われると言っているのであって、修証義のように「反省すればOK」などとお気軽なことは説いていません。
正法眼蔵が甕の中で熟成した古酒の泡盛だとすれば、修証義はそれに糖分と炭酸を加え、柑橘をトッピングした酎ハイのようなモノで、道元自らが仕込んだ古酒の深い味わいでは庶民の支持を得られないことを曹洞宗自身が判っているのです。
道元の教えそのままに「永平大清規」を全て揺るがせなく守っていると胸を張れる方のみ反論をどうぞ。
坐禅オタク、正法眼蔵マニアの相手は疲れますからお断りします。病躯にてアシカラズ。
- 2012/08/28(火) 11:16:37|
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明日8月23日(ただし太陰暦)は一遍智真上人の御命日です。
この季節(太陽暦でも9月)に遷化されたと言うことで、死の間際に弟子たちが「紫雲がたなびいている」と歓喜したと言う伝承も夕立の入道雲だったのではないかなどと想ってしまいます。
野僧は一遍智真上人を大変崇敬していて、昨年は上人が遷化されたのと同じ50歳(満年齢)だったので、「何としても死にたい」と努力したのですが、またまた死に損なってしまいました。
特に東日本大震災以降、西方に往かれる犠牲者を御案内しようと「命が尽きること」を目標に徹夜で読経を続けていたのですが、49日目に意識を失って倒れ、そのまま2日間(糞尿垂れ流しで)眠ってしまいました。
門徒さんは愚禿親鸞聖人を「妻を正式に娶り、子を儲けて我々凡夫と同じ立場で救われることを証明してくれた」と言いますが、一遍上人は遊行の旅に出る際、妾と子供を同行しましたから一枚上手です。尤も親鸞聖人はお公家さん、一遍上人は河野水軍=海賊の御出身ですから、お育ちも違うのでしょう。
野僧が一遍上人を崇敬するのは、親鸞聖人の著書「教行信証」や和讃、弟子・唯円が記した言行録「歎異抄」を拜読しても阿弥陀への帰依は論証的であり、迷い、不安を打ち消すため学び続けた御生涯のように見受けられるのに対して、一遍上人は強固な確信に至っておられ、おそらく同行のお弟子たちも同様だったように推察できるからです。
親鸞聖人が唯円と「極楽往生を待ち遠しいとは思えない」と語り合われれたことは「歎異抄」の重要な一節ですが、一遍上人のお弟子たちには「早く往生したい」と入水自死を遂げた者も少なくありません。
一遍上人は由良・宝満寺の法燈国師に参禅し、無門関「念起即覚」の提唱を受けて「となふれば 佛もわれも なかりけり 南無阿弥陀佛の 声ばかりして」と詠み、それを国師が「未徹底(=佛と自己に隔たりがある)」と拒絶したため、上人はさらに「となふれば 佛もわれも なかりけり なむあみだぶつ なむあみだぶつ」と詠んで許されています。
野僧の時も似たようなシュチュエーションでしたが、一遍上人には如一と言われる永平寺から参じ、後継者と目されながら先立ったお弟子があったようです。
上人御自身は北は奥州の江刺から南は九州の鹿児島まで全国津々浦々を旅され、現在も行われている盆踊りは上人の踊り念佛が発祥と言われているように、絶大な信仰を集めていたのですが、やはり確信は御本人だけのモノであり、然も「迷いの原因になるから」と遷化にあたって御著書、書簡などを一切焼却させたため、御教えも正確に伝わらず宗勢は次第に衰退し、さらに全国を行脚する遊行僧を鎌倉幕府が隠密として使ったため大衆の信用すら失ってしまったようです。
しかし、自らの教えを一切焼き捨てさせた真意はこの辞世に示されています。
「一代の聖教みな尽きて 南無阿弥陀佛になりはてぬ」野僧もかく死にたい。
- 2012/08/22(水) 09:23:51|
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アメリカ空軍に学ぶ
私はアメリカ空軍から軍人のイロハを学びました。
その頃、つきあっていた彼女の両親は共にアメリカ空軍の軍人で、官舎に行くと男の子供がいないこともあって少佐の母は軍の存在意義や戦争の目的、国際軍事情勢などを、1等軍曹の父が下士官のあるべき姿などを熱く語り、英語力の向上と同時進行で多くを学ぶことができました。

※父が語ってくれたアメリカ空軍の新兵教育隊の校則=資料もくれた
1、合衆国の任務遂行(24時間)
2、行動の優先順位
(1)国家、(2)任務、(3)部隊、(4)同僚、(5)家族、(6)自分
3、任務は国家、国民、自由社会を守ること
4、カミの前に公正であれ、国家の前に公正であれ、同僚の前に公正であれ・・・(中略)・・・他人に迷惑をかけるな。誇りを持って敬礼せよ。
※父が語ってくれた敬礼教育(私の人種問題に関する質問への答え)
白人の兵士が黒人の士官にワザと欠礼をした。
すると士官は「私が誰であるかは問題ではない。合衆国が与えてこの階級に君は敬礼する義務がある」と言って敬礼をさせた。
※ついでに語ってくれた敬礼に関する標語
You must salute all moving and fixed objects
=君は動いている全ての物と据えつけてある物に敬礼しなければならない。
When in doubt salute =上官か疑わしい場合は敬礼せよ。
※父が語ってくれた下士官の資質(NCO Leadership)=資料もくれた
Integrity(高潔)、 Knowkedge(知識)、 Courage(度胸)、 Decisiveness(決断)、 Dependability(信頼)、 Intiative(率先)、Tact(機転)、 Justice(公正)、 Enthusiasm(熱意)、 Bearing(威厳)、 Endurance(忍耐)、 Unselfishness(無私)、
Loyalty(忠誠)、 Judgment(判断)
※父が語ってくれた「空軍とは」
空軍にはOfficer AirForce(士官の空軍)とSoldier AirForce(兵士の空軍)がある。
士官の空軍は業務の企画と管理を任務とし、兵士の空軍は実務を行う。
Diamond Sargent=特務曹長は兵士の空軍のトップである。
※母が語ってくれた「USAF 3SHARP」
LOOK SHARP (身嗜み良く)
BE SHARP (ぼんやりするな)
ACT SHARP(機敏に行動せよ)
※母が語ってくれた「空軍とは」
Army, Navy, MarineCorps are thinking almost, everytinme kill, kill, kill.
But AirForce is ・・・・
=陸軍、海軍、海兵隊は常に、いつも敵を殺すことしか考えていない。しかし、空軍は
技術者としての仕事を遂行するだけだ。パイロットもTarget(目標)に向かってTrigger(引金)を引くだけで、敵を殺すと言う意識はない。
※両親が語ってくれたMilitary slang (ミリタリー スラング)
「死」の隠語
第1次世界大戦当時
He has gone West =彼は(天国がある)西へ逝った。
第2次世界大戦当時
He has it. =彼はそれ(死)を持った。
朝鮮戦争当時
He bought the Farm =彼はついに(埋葬する)農場を買ったよ。
ベトナム戦争当時
He got greased. =彼も(腐敗防止用の)グリスを塗られたよ。
陰口の呼び名
陸軍(Army) Doggy =犬ころ・犬が土を掘る動作で兵士が壕を掘ることを表す。
海軍(Navy) Squid =烏賊・聖書では悪魔の手先のような扱いをされている。
空軍(AirForce) Zoomies =「バーン」と言うジェットの衝撃音
海兵隊(MarineCorps) JarHead =壺の頭部・海兵隊刈りの頭を上から見た形
沿岸警備隊(CoastGuard) BathTab =浴槽・外洋に出られないため
※これを使ったモリノ2尉作の馬鹿受けジョーク(ただし英語で)
三沢基地の犬舎で「空軍の犬はZoomiesと鳴くのかと思ってたが・・・」
横田基地の犬舎で「陸軍に犬はいないだろう、奴らがDoggyなんだから・・・」
岩国基地の犬舎で「海兵隊なのに犬の頭はJarHeeadじゃあないなァ・・・」
※両親が語ってくれたミリタリー小噺
小隊長「トムとジャックよ。お前たちは何故、軍隊に入隊したんだ?」
トム 「はい、小隊長殿。私には妻はいないし、戦争が好きだから入隊しました」
ジャック「はい、小隊長殿。私には愛する妻がいますし、平和を愛するから入隊しまし
た」
※イキナリ英語教育
初めて嘉手納基地の米軍官舎へ遊びに行った時、「アイ アム ジャパン エアホース(日本空軍)」と自己紹介すると父はいきなり両手で筒を作り、息を吹き込みました。
私が呆気にとられて彼女と顔を見合わせると、父は「これがエア・ホース(空気の管)だ」と言ってニヤリと笑いました。「エアフォース」いきなり父親から発音の教育を受ける羽目になったのでした。
「サージェント」「イエス・サー」二人でリビングルームの掃除をしている時、父が呼んだので私は軍隊式に返事をしました。「それを取ってくれ」父は拭き掃除をする手を止めて、箒を指差しました。
「ラジャー(了解)」私が空軍式に返事をして箒を取ると、父が「チッチッチッ・・・」と口を鳴らして首を振り、私は「何の事か」と思って父の顔を見返しました。
「ロージャ」父はいきなり私の発音を言い直しました。「ロージャ」「ノ―、ロージャ」航空自衛隊員が手軽に「ラジャー」と使いなれている「了解」の返事も、正しくは「ロージャ」に近い発音とアクセントのようでした。
そのまま個人レッスンが始まりましたが、中々上達出来ません。「ロージャ」「ロージャ」「ロージャ」それが十数回の繰り返されたところで、ようやくで父の合格がもらえましたが、その時、二人とも用事を忘れていて、顔を見合わせて笑い合いました。
※アメリカ人の味覚、食習慣1
彼女と初めてデートした時、私は行きつけのスパゲティー店に誘いました。
すると彼女は「私はイタリア人ではない」と拒否しました。
そのイタリア人と言う言葉には少し蔑視のニュアンスがあるようでした(後日、父から「モリノ」はイタリア人の名前だからパスタが好きなのかとからかわれました)。
そして本人がリクエストしたのがハンバーガーでしたが、そこでも「何でハンバーガーに野菜を挟むの?肉が水っぽくなるよ」と言って指で摘まんで抜き、それを私が食べました(ピクルスは良いらしい)。
日本人は「今日のオカズは何かな?」と違う物を食べるのも楽しみですが、アメリカン人は好きな物を毎回食べることは普通のようでした。
それからアメリカン人には米は野菜に入るようで、カレーライス(インド人ではないと拒否はしなかった)をパンに挟んでサンドイッチにしたがったり、牛乳やケチャップをかけて味をつけて食べ、白米でオカズを味わうと言う発想はないようでした。
※日米共通?父と母の違い
ある日、妹が私に「シンシアのLover(恋人)は若いのにサージェントなの?」と訊いてきました。
すると父が「Boyfriend(ボーイフレンド)だろう」と横から変な返事をし、それに「Loverだよ」父の台詞にシンシアと母、妹まで口を尖らせて反論しました。
父は黙って私の顔をマジマジト見直してきて、私はこの父と母の反応の違いは、世界共通だと知り愉快な気分になりました。
※空軍と海軍はライバル?
ある日、父が「An officer and a gentleman(愛と青春旅立ち)」のビデオを借りて来て見せてくれました。家族揃って鑑賞するのもアメリカでは普通のことのようでした。
「やっぱりNavy(海軍)は格好良いね」ビデオのラストで海軍の白い詰襟の軍服姿のリチャード・ギアが恋人を迎えに行くシーンを見ながら彼女が何気なく呟き、私も内心では同感でしたが、突然、父が「何を言ってるんだ、空軍が一番だよ」と大声を出し、彼女は驚いたような顔をして父を見ました。
「Uniform(軍服)だけだよ」と彼女は言い訳をしましたが、今度は母が横から「Uniformも、AirForce・Blue(エアフォース・ブルー=空軍の青)が一番美しい」と口を挟みました。私はそんな両親を「意外に大人げないなあ」と呆れながら黙っていると、話はいきなり私に飛び火してきました。
「君は自分の恋人が、エアフォースよりもネービーの方が好いと言っても平気なのか?」彼女は驚いて妹と顔を見合わせ、私が返事をしないと母まで説教を始めました。
「貴方はサージェントなんでしょ、もっとしっかりとしたプロ意識を持たないと駄目」彼女は自分の一言で私まで叱られて困り果てていましたが、それも空曹として有り難い教訓になったのです。
後年、海軍を描いた映画「トップ ガン」の大ヒットにライバル心を刺激された空軍が全面協力して空軍が活躍する映画「アイアン イーグル」が製作され、それに「愛と青春の旅立ち」の軍曹役だったルイス・ゴセット・ジュニアが準主役で出演していたのを見て、この時の両親の態度を思い出して笑ってしまいました。
※日米の戦争観
あの頃は嘉数高地にあった「愛国知祖の塔=愛知県の慰霊碑」に参った時、私は日本軍の「玉砕」について説明しました。
「そんなのクレイジーだよ。間違ってる」日本軍の「生きて虜囚の辱めを受けず」と言う「戦陣訓」の説明に、彼女は怒りを隠そうとしませんでした。
「軍人が危険を顧みずに任務を遂行することは責任だけど、死ぬ義務はないはずよ」
軍人の娘の見解は至極尤もでした。
「でも、ここでも沢山の日本の軍人たちがそうやって死んだんだよ」しかし、私はそう答えて丘の上から見える普天間基地を眺めました。
「貴方は、私のために生きて帰って来て」彼女はそんな私の横顔を見詰めながら両手で片手を握ってきました、
※アメリカ人の家庭
日本人は放任主義をアメリカ式だと思い込んでいるようですが、ある程度の社会的地位(母が空軍士官)にある家庭では、子供に対する躾は厳格で、生活そのものにキリスト教的な戒律が色濃く投影されていて、昔の日本のように父を軸にして「ピン」と筋が通ったところがありました。
初めてデートに誘った時も女子大生でありながら母親に電話をして許可をもらい、親しくなってからは家族に会わそうとすることなどは、日本ではとっくに忘れられていた昔の家庭のような雰囲気で、戦後、よくテレビで放送されていたアメリカのホームドラマの場面がそのまま目の前で実演されているような気がしたものです。
また家族をとても大切にし、お互いの人格を尊重しながら信頼し合い、夫婦は家事を分担し、子供は親の手伝いをして、それを楽しんでいるようでした。
実際、米軍官舎でも休日には夫は草刈りや日曜大工に励み、子供たちが車を洗っているのをよく見ましたし、隣家のガーデンパーティーにも何度か呼ばれました。
また、ダンスミュージックが流れると両親がリビングで踊り出し、娘たちが後をせがむのは将来の社交デビューの練習のようで、その後の両親のキスも真似したかったのですが、そこは日本人の感覚でためらうと彼女からしてくれたのも練習でした(何の?)。
テレビのニュースや映画を見ながら夫婦で互いの見解を討論し合い、それに子供たちが質問をして家族で考えると言うのは「日本人も学ぶべきだ」と思いましたが、ウチの実家では私が父親よりも難しいことを口にすると「プライドを傷つけた」と激怒されましたから、自分の家庭を持つまでは駄目でした。
※激励に悩む
3曹に昇任してから私の仕事へのプレッシャーは厳しくなりました。
曹候学生の士長の頃には許された仕事のミス、出来ない仕事も周囲は認めてくれません。戦闘機の故障が手に負えず助けを求める私に、先輩たちは「3曹になっても駄目か」と厳しい言葉を投げかける。そんな毎日が続いていました。
「責任を果せ」「努力に不可能はない」、私が子供の頃から父に叩き込まれてきた言葉は、不甲斐ない現状を自分自身への失望へと追い込んでいました。
しかし、彼女の父は空軍の上級軍曹=先輩として「出来ないものは出来ないと正直に言うのも責任なんだよ」と慰めとも違う言葉で私を激励してくれ、母は士官として「出来るように頑張ってるだけで今はいいんじゃないの。人材育成も空軍の勤めだよ」と言って落ち込んでいる私の顔を優しく見詰めてくれました。
彼女の激励は決まっていました。「Do your best !」です。
しかし、私は「日本軍の下士官が米軍人に慰められていて良いのか」を悩んでいました。
(下士官の父は一般空曹補学生と言う個人の技量に関係なく2年で一律に昇任させる人事制度についてどう説明しても納得せず、士官の母は優秀な隊員の確保と人材育成の施策として理解してくれました)
※アメリカ人の倫理観
彼女の日本語が私の英語以上に上達した頃、映画「人生劇場」を見に行きました。
人生劇場の原作は尾崎志郎が故郷の幡豆郡吉良町を舞台に書いた小説だったので、「愛知県が舞台の文芸作品だ」と説明して行ったのですが、評価は激烈でした。
「これはポルノなの?」「いや、何で?」「Sex scene(性描写)ばかりだったじゃない」
確かに娼婦役の中井貴恵さんが愛人の松方弘樹や客の風間守夫と絡む激しい性描写が何度もありました。
「あの、女性は売春婦なの?」「うん、そうだけど、ヤクザのお妾さん(=愛人)だね」
私は中井貴恵さんが松方弘樹さんと風間守夫さんに抱かれていた経緯を補足説明しました。
「貴方の故郷には売春宿があったの?」「昔はあったかも知れないな」
私のそれを認める返事に、彼女は黙り込んでしまいました。
「そんなの不道徳よ」しばらくの沈黙の後、彼女は吐き出すように言いました。
「善きアメリカ人」として育てられてきた彼女にとっては、買春婦も愛人も倫理に背く許せざる存在で、日本的に「男の性(さが)」などと寛容な目では見てはくれず、スポーツ選手や芸能人の不倫騒動に社会的制裁が加えられるのも当然なのでしょう。ましてや浮気などすればどんな目に遭うか、私は背筋がゾッとしました。
「ゴッド ファーザーだって愛人を抱くシーンなんて描かないワ、日本映画は不潔よ」
確かにあの頃の日本映画は人気女優の性描写を売り物する傾向があり、その点、性モラルへの認識が低かったのかも知れません。
※日本の英語教育のレベル?
彼女と南部の新原ビーチでキャンプをしながらサイクリングに行きました(公認になれば結構自由で、アチラコチラのビーチにテントと毛布を持って出掛けていました)。
すっかり日が落ちて暗くなった夜空を見上げるとその夜は満月でした。
「シンシアって月の女神の名前なんだよ」彼女は月を見上げながら話し始めました。
「英語ではダイアナ(Diana)とも言うんだ」「フーン、Princess of Wellesと同じなんだ」私はその頃、結婚したイギリス皇太子の若い妻の顔を想い浮かべて答えました。
「月が明る過ぎてSoutherncloth(南十字星)は見えないね」「沖縄から見えるの?」「水平線すれすれで上の一つだけだよ」「北半球なのにね」これは本で読んだ話ですが、「南部のビーチからなら見えるかも」と期待していましたが無理でした。そこで彼女が逆のことを言い出しました。
「アラスカの州旗は、ノースポール(北極星)と北斗七星なんだよ」これは中学校の英語の教科書にあった物語で、私がその話をすると「それは小学校の教科書にあった話だよ」と言って呆れ顔をしました。
「そうか日本の中学校の英語は小学校のレベルかァ」とぼやくと「貴方はレベルアップしているよ」と優しく笑ってくれました。
後年、私は大学(中国研究では日本最高峰を自賛している)で使っていた中国語の教科書を中国人の友人に見せると同じことを言われ、さらに落胆しましたが・・・。

※本場のハロウィン&クリスマス
今でこそ日本でもハロウィンを楽しむことが普通になってきましたが、あの頃(昭和60年前後)はまだ街中で楽しむ仮装大会のように思われていました。
ところが米軍の官舎は法的にもアメリカ合衆国であり、この変な行事も本格的に行われていて、私も体験することができました。
女子大生の彼女は「子供の行事」と白けた顔をしていましたが(その辺りは日本と同じ)、中学生の妹は大はしゃぎで父の黒の古コートとつばの広い帽子に箒を持って魔女に仮装し、母も日頃の威厳ある空軍少佐の顔を忘れてそれにつき合っていました。
夕暮れ時なると官舎には映画「ET」のように色々なお化けが現れ、それぞれ家々を回るのですが、玄関には籠に盛ったキャンディーなどの菓子を置いておき、お化けにそれを渡して除けてもらうのです。
これがキリスト教が伝来する前に北欧で行われていた精霊信仰に由来する宗教行事であると聞いて、私は秋田県男鹿半島のナマハゲを思い出しました(この行事を知らなくてカメラを持って行かなかったのが悔やまれます)。
逆にクリスマスは非常に厳粛で、家族で教会に出掛けて祈りを捧げ、その後、教会で讃美歌のコンサートを聞いて家に戻るとホームパーティーが始まります。
リビングにテーブルを運び、その中央に「トムとジェリー」と言うフルーツを浮かべたカクテルの鉢を置き、七面鳥の丸焼は無理だったので鶏にして、あとはケーキやクッキーを並べ、クリスマスキャロルをBGMにしながら談笑し、ダンスを踊って楽しむのですが、父と私はカクテルを飲んで酔っ払い、「佛教徒がクリスマスを祝っていいのか?」などとタブーに近い宗教談議を始め、私も何故か日本語で熱弁をふるい、それでも会話は成立していました(お互いに言いたいことを言っていただけ?)。
本来は日本の年始の挨拶のように、友人を招いてホームパーティーにすることもよくあるそうですが、その年は来客はありませんでした(断ってくれたのかは不明)。
大晦日は警備勤務だったので行けませんでしたが、0時の10秒前からカウントダウンをするだけで特別なことはしないそうです。どちらかと言えばクリスマスに全力投球して、経済的にも体力・気力も残っていないのでしょう。
イースター(復活祭)も大切な行事だそうですが、一緒に色つきの卵を作った以外は記憶にありません。
※基本教練の話
アメリカ軍の「回れ右」は2動作です。自衛隊では第1動作でそのままの角度(60度)で真っ直ぐ足を引き、第2動作は両かかとで回転し、第3動作で足を引いて揃えますが、アメリカ軍では第1動作は後ろに引いた足をつま先立ちにして、第2動作で回るのと同時に揃えるのです。父に教えましたが中々のマスターできず、発音指導の「恩」をこんなところで返しました。
※初詣に行って
沖縄に帰った私を空港まで迎えに来た彼女と一緒に、奥武山公園にある沖縄県護国神社に初詣に行きました。彼女は神社に参るのは初めてでした。
二人で鳥居をくぐり参道を歩きながら神社、神道のレクチャ―が始まりました。
「日本には大勢の神がいるんでしょ?」いきなり文化人類学専攻の質問です。
「Eighty million Gods(八百万の神々)って言うね」「ふーん、英語ではGodを複数形にはしないよ」確かにそうだろう。アチラは唯一絶対のカミ様ですから。
「でも、初めてキリスト教が日本に来た時、神道の神職が日本に来ればキリスト教の神も八百万の神々の一人になるって言ったそうだよ」「ふーん」私の話を彼女はメモでもとり出しそうな真面目な顔で聞いていました。
「実際、そうなってるよ。日本ではクリスマスを祝って、一週間もしないうちに大晦日には除夜の鐘を聞いて、夜が明けたら正月で初詣に神社へ行くんだから」「ふーん、だからBuddhist(佛教徒)のサージェントも初詣に来るんだね」この理解力は流石でした。
そこまで話したところで拝殿につき、私は二礼、二拍手、一拜の神社の拜礼の作法をゼシュチャ―で教えましたが、その意味を尋ねる彼女の質問に答えるには知識も英語力も不足していました。
ただ、「神社はユダヤ教の神殿に似ている」と言う感想には坊主として関心を持ちました。米軍基地には従軍牧師(Chaplain)の教会と同じようにユダヤ教の神殿もあるそうです(佛教の寺院があれば就職したかった)。
※アメリカ人の味覚・食習慣2
ある日、彼女と母と妹が天ぷらにチャレンジしました。
「レシピを見ながら作ったから・・」と自慢半分、心配半分の顔をしている彼女の横で母は「まあ、基本的にはフライと同じかな」と言って腕組みをしています。
「でも、ご飯がないね」「そうかァ、日本食だった」私の指摘に母は「シマッタ」と言う顔をし、彼女と妹は顔を見合わせました。
「まぁ、オカズになれば十分です」私の助け船に母はホッとしたように笑いましたが、続いて「ところでソイ ソース(醤油)は?」と今度は彼女が鋭い指摘をしました。
「それもないよ、材料を探すだけで手一杯だったからね」母はそう答えるとため息をつき、彼女と妹はまた顔を見合わせました。
「なければSalt(塩)でも美味しいですよ」今日は妙にフォローに忙しい。
私の返事に困った顔をしていた彼女はパッと笑顔をほころばせ、妹も微笑んで「早く食べたい」と言って皿に手を伸ばし、「行儀が悪い」母に叱られました。
「ところで私、日本食はどこで習えばいいの?」「彼の母親が教えてくれるよ」彼女の質問に母は微笑みましたが、私は自分の親の頑な性格を想い急に食欲がなくなってしまいました(当時、沖縄での結婚は許さないと厳命されていて、ましてやアメリカ人では・・・)。
※アメリカ人の味覚・食習慣3
キャンプでの夕食は父親提供の米軍のCレーション(携帯食)でした。
それは日本軍の乾パンにあたる厚くて大きなビスケットにたっぷりマーマレードをつけて食べ、携帯燃料で沸かした湯でインスタントコ―ヒ―を作って飲むのです。
「こんな時は軍人の娘は得なんだよ」コーヒーを飲みながら彼女は自慢しましたが、私は「携帯食は日本軍(自衛隊)の方が美味しいな」と答え、その話に興味津々と言う顔をしました。
「日本軍のは色々な味のライスとオカズの缶詰の組み合わせなんだ」 「フーン、美味しそうだけど重くない?」「確かに重いな」これは軍人の娘と言うよりも登山家としての意見でしょう(現在はパックライスになって軽量化された)。
「今度、演習で出たら食べさせてあげるよ」「うん、楽しみ」
後年、自衛隊の携行食はPKOなどで食べ比べた各国軍に高く評価され、そのコンテストで最優秀に選ばれたそうですが、ここでも大好評で父はかなり羨ましがりました。
※アメリカ人の味覚・食習慣4
奥武山公園で開催された那覇市の夏祭りに行きました。
広い会場は夜になって灯りがともり、露店が並び、迷子になりそうなくらいの人ゴミと相まって、本土と同じ夏祭りの雰囲気が出ていました。
ズラリと並んだ露店を覗きながら、彼女はいつもの質問を始めました。
「これは?」「Octopus(タコ)シュークリーム」私はタコ焼きをそう説明しましたが、これが名訳なのか、迷訳なのかは判りません。
ただ、クリスチャンは聖書で鱗がない魚を食べることを禁じられていてタコ、イカも食べないらしく、彼女は肩をすくめて、気味が悪そうな顔をしました。
次は、お好み焼きでした。
「これはピッッァ(ピザ)?」「Yes(うん)、But Japanese taste(だけど日本の味)」
最初のデートの時、「ピザはイタリアのスナックだから食べない」と言っていましたが、日本のお好み焼きは良いらしく、「Let‘s try(試してしてみよう)」と言うと「うん」と答えました。
ところがピザかクレープを想像していたのか、「あれ?ホット(辛い)」とお好み焼きに入っている紅生姜を一口食べて彼女は戸惑っていました。
「キャベツと肉が入っていて、ハンバーガーと同じくらいヘルシーな食べ物だよ」私の説明に「ソースは日本の味なの?」と相変わらず鋭い質問が返ってきました。
「多分、『お多福のお好み焼きソース』って言うスペシャルなソースだよ」と結論にしましたが、 「Special crepe sauce of Otafuku‘s」で意味が通じたかは判りません。
※これも英語の練習?
「アメリカは18歳(州ごと違う)でも日本の国内法では20歳だから」と言う母の許可がようやく出て、彼女を行きつけの喫茶スナックへ連れて行きました。
マスターには「アメリカ人の彼女を連れて来る」と予告していましたが、それが現実になると「英語は苦手」と言って、カウンターの向こうで内職のようなことを始めました。
「ねェ、Elvis(エルビス)って好き?」カラオケでCarpentersやBeatlesの英語の歌を何曲か歌ったところで彼女が私の顔を覗き込んで訊いてきました。
「Presley(プレスリー)ねェ?」どうもロックと彼女のイメージが結び付かないでいると、
「父が好きなの」と彼女は少し得意そうな顔をしました。
言われてみれば父は、オールディ―ズのテープを聴いている時があります。
彼女が聞き覚えのある歌を口ずさみ始めるとマスターが話に加わってきました。
「Love Me Tenderねェ?ラブ ミー テンダ― ル―ルルー・・・」このくらいの英語は判るらしくマスターは判るところだけ口ずさみ、私はそれを聴いて、この歌は唄えることを確認しました。
「よし、唄ってみよう」そう言いながらマスターと男同士で額を寄せてカラオケのメニューを覗き込んで選曲し、やがて「ラブ ミ― テンダ―」のイントロが流れ始めました。
「love me tender, love me sweet・・・」英語の歌を唄うには画面の歌詞を読んで、頭の中で発音を確認しなければならない。私は汗をかきながら一生懸命に歌い、彼女は
そんな横顔を嬉しそうに見ています。
「サージェント、Thank you」彼女はそう言いながら私の顔を見て微笑み、「うん、一応、英語の歌には聞こえたね」とマスターは相変わらず、ズケズケとモノを言いました。
確かに初めての歌では、発音も棒読みに近かったはずです。
「でも、『love』の発音がおかしかったよ」「そうかなァ?」彼女はそう言ってゆっくり「I love you」と手本を聞かせてくれました。
「I love you」私もそれに倣いましたが、日本人が苦手な「L」と「V」が入っていて、こうしてあらたまると中々上手く発音が出来ません。
「I love you」「I love you」「I love you」・・・・彼女は何度も練習させながら、何故か嬉しそうに笑いだしました。
「あんたらねェ、何回告白すればいいんだい?」マスターの呆れた声で、私も彼女がさっきから嬉しそうな顔をしていた訳が判りました。
「サージェント、I love you」「Me too(僕もだよ)、I love you」「はいはい、ごちそうさま」見つめ合って微笑む私たちに、マスターは私のボトルのバーボンで勝手に水割りを作り、一人で「カンパーイ」と言って飲み干した。
※私の語学力
私の英語は中学生の頃、女学校時代から得意だったと言う祖母から習い、この時にマスターしたのですが、両親はアラスカ出身、彼女もアラスカ生まれでかなり訛りがあったらしく、後年、米軍人と話すと必ず「君はかなりアラスカ訛りがあるが、若しかしてイヌイット(=エスキモー)か?」とからかわれました。
前回の大統領選挙でサラ・ペイリン・アラスカ州知事が注目された時、その演説やインタビューを聞いて妙に懐かしかったのも、「ふるさとの 訛りなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく(石川啄木)」のような気持ちだったのでしょう。
また、ソ連軍のベトナムへの輸送機と交信した際、ソ連軍はアラスカの空軍と話し慣れているので私の英語に「Oh, your English is excellent(=君の英語は素晴らしい)」と返事をしてきて雑談が始まりそうになりました。通常は無視するそうですが。
さらに日本人のパイロットと交信すると「おっと米軍につながったかと思ったよ」と言われるくらい訛った英語のようで、航空自衛隊英語弁論大会の予選では「勉強不足なら鍛えれば何とかなるが、あの訛りの修正は難しい」と山形出身の審査委員長に評価されましたから、私のアラスカ英語は東北弁と同じと言うことのようです。ちなみに航空自衛隊の英語は、太平洋空軍の司令部がハワイにあるためハワイ訛りです。
ただ、普通の日本人は英語を読むことから始めるため、読解は得意でも会話は苦手と言いますが、私は逆に彼女から口伝え(口移し?)で習ったため、電話はできても手紙は読むにも書くにも辞書が手放せません。何より私の場合、英語を日本語に訳さずにそのまま理解するので、文章は音読が欠かせません。
次に私は中学2年から自衛隊に入るまで、勉強の合間にモスクワ放送を聞いていたためロシア語もある程度話せ、領空に接近するソ連機にロシア語で通告すると向こうが妙に反応することもありました。
ところが方面隊指揮所から「国際問題になるから余計な話をするな」と指導が入り、日ソ友好は促進できませんでしたが、退職後にボリショイサーカスを見に行った時も、係員とロシア語で会話できましたから雑談してみたかったものです。
中国語は愛知大学で習っただけでしたが、あの頃、沖縄に働きに来ていた台湾人女性たちと仲良くなるのに役立ちました。
中華街のように飾り付けたアパートの部屋で、広東語のテレサ・テンを聴きながら食べた手作り餃子や春巻は美味かったです。
※理解すると嬉しい英語の用法
彼女は私のことをいつも「サージェント」と呼んで名前を呼ぶことはあまりありませんでした。しかし、私は他人行儀な気がしてある時、「何故、名前を呼ばないのか?」と訊いたのですが、すると彼女は「だって貴方が軍曹であることは私の自慢だもん」と答え、かえって不思議そうな顔で首を傾げました。
軍人が名誉ある職業とされているアメリカでは、階級は単なる役職ではなく、その人が国家に果たしている貢献を意味する表現のようでした。
後年、映画「トップガン」でトム・クルーズが演じる主人公をケリー・マクギリスの恋人の美人教官・チャーリーが、コールサイン兼ニックネームのMaverickや本名のピートではなく、「ルテナン(大尉)」と呼んでいるのを見てこのことを思い出しました。
ケリー・マクギリスがトム・クルーズを「ピート」と呼んだのは、二人きりで甘える時だけで、そこも同じでした。一度、「ルテナン」と呼ばせてみたかった。
※軍事英語のワンポイントレッスン(字幕や同時通訳でよく間違っている単語)
まず階級で「キャプテン」は陸空軍・海兵隊では大尉ですが、海軍では大佐です。
「ルテナン」は陸空軍・海兵隊では中尉・少尉でも海軍は大尉・中尉です。
次に部隊単位の「スコードロン」は空軍では「編制単位部隊」ですが、陸軍・海兵隊では「分隊」です。したがってスコードロンの指揮官は、空軍では「コマンダー」ですが、陸軍・海兵隊は「リーダー」になります。
また戦争映画の題名にもなった「プラトーン」は陸軍・海兵隊の小隊で、空軍では小隊は「ユニット」とするのが一般的なようです。
※中国語のワンポイントレッスン(と言っても熟語の話です)
日本人は漢字が並ぶと中国語と同じだと思いがちですが、実は意味と言うよりもニュアンスが違うことがよくあります。
例えば政治家が正式に謝罪することはできないが詫びておく時などに用いる「遺憾」と言う言葉は、中国語では文字通り「残念でした」程度の意味で、使い方を誤ると向こうは「軽く見ている」とかえって激怒させかねません。
逆に先日も尖閣問題について習近平氏が発言し、日本人が激怒した「茶番」と言う言葉は、まさに「軽い出し物」のことで、日本人のように「馬鹿にしている」と言うニュアンスはなく、むしろ「日中関係においてそれほど重大な問題ではない」と解決を求めたと好意的に解するべきでしょう。
※発音を間違うととんでもないことになる英単語
オレンジなどのブランド「SUNKIST」をどう発音されるでしょうか?
米兵と飲んでいる時、テーブルに刻んだオレンジが出て、私がそれを食べながら「美味しい。 I like Sunkist」と言うと、突然、隣の席の米兵の顔が変りました。
「Are you Sunkist ?」と訊くので「文章としておかしい」とは思いながらも私が「イエス」と答えると、彼の眼が妖しく光りました。
彼はいきなり私を抱き締めて口づけをしてきたのです(唇を奪われてしまった)。
驚いて跳ねのけるとその様子を見ていた別の米兵が説明してくれました。
「Sunkistは英語では『スンキスト』と発音しなければならず、『サンキスト』では息子にキスをする人と言う意味になる。この場合の息子は男性自身で『ホモ』を意味する」と言うことでした。
つまり私はホモを相手に「自分はホモが好きだ」と告白してしまった訳で、「悪いことをした」と深く謝りましたが、彼は本当にガッカリした顔をしていました。
その後も「君は肌が綺麗で魅力的だ」「男性との愛に目覚めればきっと夢中になるよ」などと口説いてきましたが、そちらの趣味はありませんので逃げました。
しかし、男に接吻をされて舌まで入れられてしまった・・・これも経験(?)。
※使い方を間違うととんでもないことになる英単語
日本の学校では「pretty(プリティー)」と言う単語を「可愛い」の意味で教えますが、これには「幼い者」「小さい物」を愛でる上から目線のニュアンスがあり、女性が男性に用いると侮辱的な意味を持つことがあります。
ある時、米兵と飲んでいて、酔った黒人軍曹が潤んだ目で有線放送に合わせて口ずさんでいるのを店の女の子が「He is pretty」と笑ったのです。
すると彼の眼が突然鋭く光り怒り始めました。
私は興奮した彼の怒鳴り声を通訳しながら怯える女の子に説明しましたが、要するに「俺を幼稚な奴、小物と言った=馬鹿にした」と言うことでした。
私は彼に「日本人はprettyにそんな意味があることを知らないのだ。彼女はfunny(微笑ましい)と言いたかったのだ」と説明してようやく納得してもらいましたが、そのあたりも学校で教えないとどんなトラブルに巻き込まれるかも知れません。
※日米対戦?
ある日、彼女と本島中部のタイガー・ビーチでキャンプしました。このビーチはベース(基地)やキャンプ(駐屯地)に近いこともありアメリカ人が多く、アバンチュールを狙った本土からの女の子たちも集まっていて、余り雰囲気は良くありません。
ところで彼女の水着姿はアメリカ人女性=グラマーと言うイメージとは正反対ですが、ロッククライミングが趣味なだけに筋肉質で腕と下半身はしっかりしていました。
「ビキニは着ないのか?」「駄目、自信がないよ」スポーツ水着の彼女は首を振り、「まあ、俺もマッチョじゃあないからな」と言いながら私も自分の細身の体をビーチで本土の女の子と戯れている米兵たちの筋肉質な体と見比べてうつむきました。
「ハーイ、シンシア」その時、同年代の男女の集団が声をかけてきました。それは彼女のインターナショナル・カレッジの同級生たちでした。
「ハーイ」彼女が座ったまま微笑んで手を振ると彼等は私たちを取り囲みました。
「貴方がサージェントね」同級生の女の子たちは興味津々と言う顔で私を見て、その横で男たちは対抗意識丸出しの顔をしていました。それから暫くは彼らと一緒に海に入ったり、ビーチボールで遊んだりして楽しみました。
「サージェント、君はもっと食べた方がいいよ」昼食にビーチの売店で買ったコーラとハンバーガーやホットドッグを分けて食べ始めると同級生の男がからかってきました。
「可哀想に、Japanese AirForce(日本の空軍)では飯も出ないのかい?」別の男も私の貧弱な体を眺めながらボディ―ビルのポーズで隆々とした筋肉を見せびらかし、「これも食べたら」女の子の一人が私にホットドッグを差し出したのを見て、彼女はムッとした顔で言い返しました。
「彼は、KENPO(拳法)のBlack Belt(黒帯)よ」しかし、彼等はそれを信じません。
「沖縄大会でBronze Medalist(銅メダル受賞者)なんだから」「だったら、KENPOの技を見せてみろ」彼女がムキになって繰り返すと、中でも一番身長も体格も大きな男がコーラを飲み干して私の前に立ちました。
彼の顔は明らかに挑戦的でした。イザとなれば力でねじ倒してやると書いてあります。ほかの同級生たちも半信半疑、むしろ冷かしの顔で私と彼を取り囲みました。
私は米軍関係者とトラブルになることを恐れてためらっていましたが、横で真顔でうなづいている彼女の目を見て覚悟を決めました。
「痛くても絶対に怒るなよ」「OK」私の言葉に彼は嘲笑うように了解する。私は拳法よりは安全な柔道の技を使うことにしました。
先ず、彼の右手首を掴み、左わきに手を差し込むと、その場に払い腰で投げ飛ばし、彼は一瞬で砂地に投げ倒されて「何が起こったのか」と言う顔で私を見上げている。
「オ―」同級生たちも呆気にとられた後、驚きの声を上げました。
「今度は俺だ」別の男が掴みかかってきた。彼も私より身長が高い。今度は大内刈りで仰向けに倒しましたが、受身の心得がない彼は少し後頭部を打ちました。
彼のそばで様子を確かめる私に、今度は別の男がボクシングのポーズで殴りかかってきてので、私は拳法の技でそれを受けると、そのまま連続した蹴りを繰りだしました。
「痛い!痛い!Give up(参った)」「当て止め」とは言え、胸への前蹴り、両脇への回し蹴り、最後に腹に足刀を受けて彼は後ずさりしながらひっくり返りました。
私は、構えを解くと少林寺拳法式に姿勢を正して彼らに合掌しました。
彼等は戸惑いながら顔を見合わせている。アメリカならば勝者は勝ち誇るのが常識なのです。
「だから彼はBlack Beltだって言ったでしょ」彼女の自慢げな言葉に女の子たちは黙ってうなづいていました。
※終幕
8月上旬のある日、私は彼女の両親に呼ばれました。
私は8月下旬からF―4EJ戦闘機への転換OJTのため、福岡の築城基地へ約2ヶ月間臨時勤務するため、夏期休暇は早目に取る予定でした。
「サージェント・モリノ、私たちは9月にアラスカに転属することになったんだ」食事の後、全員が揃った席で父が私に向って話を切り出しました。
「リアリィ(本当ですか)?」私は、それだけを答えるとシンシアの顔を見ました。
「私たちは故郷へ帰ることになるけれど、シンシアをどうするかを決めなければならないのです」言葉が出ないでいる私の横で母が話を続けました。
「シンシアは、インターナショナル・カレッジだから転校は問題ないけれど、ここに残って寮に入ることも出来るのです」母の説明に彼女は黙ってうなづいていました。
私は先日、映画「南極物語」のオーロラを見て彼女が涙を流していた訳が分りました。
「貴方がシンシアをどう考えているかを聞かせて下さい」母はそう言うと私の顔を見詰め、父と妹も同じように私の顔を見ましたが、彼女だけはうつむいていました。
彼女とのことをあの家で許してもらうことは、どう考えても不可能なことでした。
「将来に対する責任」、父が幼い頃から繰り返していた教えが胸に重く圧し掛かってくる。私の胸に言いつけに背いて激怒する父と、それに怯える母の顔が浮かびました。
「あの家の子は親に従うしかない」私は哀しい決断をしました。
私は頭の中で慎重に英訳して、両親の顔を見返しながら答え始めました。
「私はまだ若いですから、何の約束も出来ません。私にはシンシアとの将来に責任が持てません」そこまでの答えを聞いて彼女は顔を上げて驚いた目で私を見ました。
彼女は「自分をここに残してくれ」と言う答えを待っていた、信じていたのでしょう。
「それはこれでお別れと言うこと?」彼女は唇を震わせながら、絞り出すような声で訊き、「イエス・・・」と私は深くうなづきました。
私の答えを聞いて両親は顔を見合わせ、彼女の目からは涙がこぼれ落ちました。
「責任とか約束とか言う問題ではなく、それは君とシンシアが決めることだよ」父は私に解るように易しい英語で訊き返しました。しかし、それはモリノ家の教えにはない考え方でした。
「私はまだ下士官として技術を磨かなければなりません。プライベートなことを考える余裕はありません」私の答えは確かに綺麗事でした。私の胸には勝ち誇った父と安堵した母の顔が浮かんでいました。
父は意を決した表情で彼女に訊きました。
「シンシア、これがサージェント・モリノの答えだ。わかったな」「ノ―、私は沖縄に残る・・・」父の言葉にも彼女は首を振りました。
「シンシア、仕方ないんだよ。サージェントは今、仕事しか考えられないのだから」「お前がいるとサージェントの迷惑になるんだ」両親の説得にも彼女はまだ泣きながら首を振っていました。
彼女の胸に妹がすがりつき抱き合って泣く姿に、私も両親もかける言葉がなく、ただ、軍人である両親は私の立場を理解して励ますようにうなづいてくれていました。
結局、私の人生には親の意向以外の選択肢はなく、この苦しみ、哀しみは、その後も何度も繰り返されることになりました。
私は夏期休暇明けの8月下旬、築城基地に臨時勤務しました。
築城基地からは少し落ち着いた彼女に毎晩のように電話をしました。
私はその日あった仕事の話をし、彼女は「母の本と父の趣味の物が多くて片付かない」と引っ越し準備の話をする。そして「Do your Best」と言って話を終わる時、急に泣き始めることの繰り返しでした。
彼女のこの言葉に、どれだけ救われ、励まされ、力をもらっていたか、それは私が一番知っていました。
彼女がアラスカに旅立って三週間後、私はOJTを終え、沖縄に帰りました。
そして、しばらくしてアラスカから小さな荷物が届きました。
中には「アラスカを忘れないで」と言う手紙と、紺色地に北極星と北斗七星を描いた大きなアラスカの州旗が入っていました。
それから父の「君は考え過ぎるから下士官よりも士官が向いている」と言うメッセージとアメリカ空軍の徽章のキーホルダー、母からは「しっかり勉強して、良い士官になりなさい」と言う激励とアメリカ空軍大尉の階級章。そして、あの日、彼女が涙を拭いたハンカチも入っていて、確かに愛した人の匂いがしました。
この時、届いた物は全て私のかけがえのない宝物として大切に保管しています。
- 2012/08/19(日) 11:06:56|
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7月下旬、私が担当していた一般空曹候補学生基礎課程は、山口県北部にある陸上自衛隊むつみ訓練場で、2泊3日の野外訓練に入りました。
当日、現地は快晴、無風で湿度も高く、体感温度は40度を超え、不快指数は非常に高く、幹部の間では訓練の一時中止も検討されていましたが、結局、2日目の訓練場を縦横に使っての接敵行動及び地上戦闘訓練が開始されたのでした。
キャンプ地から各班長によって指揮される分隊ごとに10分間隔で出発、訓練場の一番奥にある仮想陣地に向かいました。
「第23分隊(2区隊3班)、突撃に」私は分隊の真ん中で分隊員(学生)が突撃準備の姿勢をとるのを確認し、「進め」と言う号令と共に分隊員は一斉に躍り上がり、一気に陣地へ突撃して行きます。
「×番到着、異常なし」分隊員たちは順番に異状の有無を報告してきます。ところが11番が報告せず、「11番」「11番」「穴見」何度か穴見曹候生を呼んだが返事がなく、「班長、穴見がいません」12番の金藤曹候生が困ったように言ってきました。
「よし、状況終了。装具点検」私は隊員に次にやることを指示して、1人で穴見曹候生を探しに行きました。すると穴見は突撃発起位置で突撃準備の姿勢をとったまま気絶していました。「穴見!」私は駆け寄り声をかけたが返事はありません。
「大丈夫か?」抱え起すと、かすかに息はしているが反応はなく、汗をかいていませんでした。「熱射病だ」私は穴見の頬を打ち、声をかけました。すると穴見が微かに返事をしたので、「水を飲め」と私は自分の水筒を穴見の口に当てました。
穴見は弱弱しく水を口に含みましだが、飲むことが出来ない。その時、先任学生の千崎曹候生が「班長、人員装具異状ありません」と報告に駆け寄って来ました。
「すぐに、全員集合」私は千崎に指示し、穴見の作業服のチャックをおろし、残った水筒の水を頭、背中と胸にかけました。
すぐに班員たちが集まってきて、「穴見、大丈夫か」全員が私の腕の中の穴見の顔を覗き込むが、穴見は意識を取り戻さない。
無線機は、区隊長にしか渡されておらず、車両は1キロ程下った待機位置にしかいない、私は穴見をそこまで背負って下ろすことを決心しました。
「この中で体調の悪い者は?」班員たちに確認すると数名が目眩がすると申し出た。
そこで私は、まだ日頃から体力のある元気のありそうな隊員に穴見の小銃、背納、鉄帽、水筒などの装具を手分けして持たせて、穴見を背負いました。
戦闘訓練場の草むらを横切り砂利の道路に出ましたが、穴見は、背中でぐったりしている。ただ、鼻息が私の汗に濡れた首筋にかかり、息をしていることが判りました。
私は荷物を持っていない小柄な金藤に横で穴見に声をかけ、様子を見ているように指示して、分隊員たちと坂道を下り始めました。
途中で何組か後発の分隊が怪訝そうな顔ですれ違った。
約1キロと言う距離は、駆け足ではほんのすぐそこに思っていましたが、炎天下、隊員を背負ってのそれは遠く、何より私の水筒の水は全て穴見にかけてしまい、私自身も喉がカラカラに渇いていました。「穴見」「穴見」と横から金藤が声をかけるたびに、穴見の顔がわずかに動くのを感じながら、私は歩き続けました。
私の脳裏には体育訓練中に殉職した曹候学生の同期のことが浮かんで離れませんでした。
結局、穴見は待機位置からジープでそのまま村の診療所に搬送されて、1日冷房の効いた病室に寝て、訓練が終了した夜には元気になって戻って来ました。
「快適だったぜ」「いいなァ」こんな無邪気な会話で笑い合う穴見と他の連中の姿を眺めて私はやっと胸をなでおろしました。
- 2012/08/18(土) 09:48:00|
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明日8月18日は豊臣秀吉の命日です。
愛知県では織田信長公と東照大権現・征夷大将軍・徳川家康公と共に郷土三英傑と呼ばれていますが、元々が成り上がりを認めず、地元に利益をもたらした者しか敬わない土地柄なので、尾張の領主だった信長公や岡崎城主の徳川家康公に比べ人気は今一歩です。
どちらかと言えば大阪での方が「太閤はん」と呼ばれて親しまれているようでした。
これは加藤清正公や前田利家公も同様で、地元でも清正公は熊本、利家公は金沢の人だと思われています。
兎に角、愛知と言う土地では地元の利益だけが大切にされ、地元以外には視界が届かず、野僧の同級生でも東京の大学の医学部を出て大学病院で活躍している医師よりも、愛知医大を出て町医者をしている者の方が同級会の席次でも上座につきます。これは野僧も同様で遠方の航空自衛隊の幹部(士官)よりも地元の陸上自衛隊の陸曹(下士官)の方が「エライさん」と言われていました。
意外に知られていませんがダットサン(現・日産)の創業者・橋本増治郎さんは愛知県岡崎市出身で、逆にトヨタグループの豊田佐吉さんは静岡県湖西市の出身です。
それでも地元に利益をもたらしているのはトヨタなので、「郷土の偉人」として豊田佐吉さんは教えていますが、橋本さんは岡崎市内だけでしょう。
そんな訳で、成り上がり者で他所に利益をもたらして地元には何もしなかった猿・豊臣秀吉の辞世は、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」です。
哀れよのう。(野僧は地元を捨てていますが、茶坊主として利休居士を殺したことを許していません)
- 2012/08/17(金) 09:00:20|
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私が航空教育隊に転属し、一般空曹候補学生課程の教育班長になって中隊当直空曹についた時、学生たちを入浴させる前にこう指導しました。
「浴場の脱衣カゴをキチンと片づけておけ、後で点検して片づけてなかったら1個X10回腕立て伏せをさせるぞ」「わかりましたァ」学生たちは明るく返事をして、その日の疲れを癒しに浴場に向かいました。
ところが我が中隊の入浴時間が終り、次の中隊が来る前に臨時勤務の若い班長たちと確認に行くと、片づけていないカゴが棚に幾つも残っており3人で愕然としました。
私たちがそれを片づけ始めると外で煙草を吸っていた学生が慌てて覗きに来たのですが、「班長、幾つありましたか?」と訊く彼らの顔は引きつっていました。
その夜の点呼の後、私は学生たちに向かって「入浴前、片づけてなかったカゴX10回腕立て伏せをさせると指導したな」と念を押し、学生たちも「はい」と返事をしました。
「あれから◇◇班長と△△班長で点検したが・・・」グランドに思い空気が漂った。
「16個片づけてなかった」「エーッ」私の宣告に悲鳴に近い声が上がりました。
自衛隊では罰を与える時には、指導責任を負って指導者が真っ先に受けると言う美学があり、私も曹候学生の先輩として学生にそれを示すため、「腕立て伏せ用意」と号令して、コの字型に並んだ学生たちの中央で腕立て伏せの姿勢を取りました。
「1!」「1!」「2!」「2!」腕立て伏せが始まると若い班長たちは手抜きする者がいないかを見て回り、私は号令をかけながら動作を繰り返しました。
「80!半分」私の声に、途中で許してもらうことを期待していた学生は崩れ落ち、若い班長から「みんなやっているんだァ。頑張れ」と励まされ、泣きながら体を起こしました。
「100!」ここからはカウント式に数を減らしていきました。
「59!」「59!」・・・「30!」「30!」「10!」「10!」
その間も若い班長たちは「他人のミスにも気を配って処置しなければ事故は起きるんだ」「ミスの責任から逃れられないことを体に刻め」などと自分たちの部隊での経験を込めた指導を加えて励ましています。
「5!」「5!」「4!」「4!」「3!」「3!」「2!」「2!」
ラスト5回になると点呼を終えて部屋に戻っていた隣りの中隊の学生まで窓から顔を出して声をかけ、「1!」「1!」「ヨーシ、その場に立てェ!」と言う私の号令に拍手が起りました。
百六十回の腕立て伏せを終えた学生たちは力尽きて立てない者も半数いましたが、互いに助け合って立ち上がりました。
消灯後は「シーン」と寝しずまりましたが、翌朝の起床では「班長、身体が起こせません」と言う者が続出してしまいました。
そして出勤してこられた中隊長が報告に行った私に不思議そうな顔で訊いてきました。「今朝、ウチの学生は挨拶はするが敬礼をしないんだよなァ」つまり学生たちは筋肉痛で腕が上がらず、腰も曲がらず敬礼が出来なかったのです。
その頃の私は他流試合で打ち負けたことを教訓として筋力トレーニングに励んでおり、100キロのダンベルを上げていましたから、腕立て伏せの160回くらいは朝飯前でした。
- 2012/08/17(金) 08:56:36|
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ある日、私は伊藤2曹(後に三沢の援護担当者)と一緒に定期検査の最後に油圧班が行うFー104J戦闘機のリトラクションチェックに立ち会っていた。
リトラクションチェックとは、脚まわり系統の整備を終えた機体をジャッキで持ち上げて実際に脚を作動させるテストのことだ。
「UP(アップ)」「UP」油圧班のベテランの指揮で、コクピットの若手が復唱と共にレバーを操作はする。「バン」「グァン」と大きな音を立てて脚のドアが開いたが、「ウィーン」と呻るものの脚は出ない。
「何だ」「どうした」周囲で見守っていた油圧班や検査隊の整備員たちが顔を見合わせた。油圧班のベテランも頭を捻っている。
「UP」「UP」コクピットの整備員は不安そうな顔で復唱し、レバーを操作する。
「バン」と音を立ててドアだけが開いた。
「POWER OFF(パワーオフ)」「POWER OFF」電源者と油圧装置に取り付いていた若手が復唱して、それぞれの機械を停止した。格納庫内が急に静かになった。
整備員たちは、この原因不明の状況に顔を見合わせながら、原因探求のミーティングのため油圧班のショップに入っていく。
私には思い当たることがあった。脚系統の点検を終えた後、その信号を送る電気ケーブルのコネクターを接続した際の手ごたえがいつもと違ったのだ。私は1人残り、コネクター部を取り外してみた。
「やっぱり」コネクター内で接続部のコネクターのピンが2本、折れ曲がっている。点検の際に生じたわずかな歪みが、接続作業時に押し曲げられていたのだ。
「これが他のピンに触れて間違った信号が流れていたら・・・」機体は重大な損傷を起していただろう。私の背中に冷や汗が流れた。
「整備員に最も必要なのは正直さだ」浜松の整備員課程の主任教官の教えが胸によみがえってきた。私は覚悟を決めて油圧班のドアを開けた。油圧班の待機室でのミーティングは、それぞれの意見がぶつかって白熱していた。しかし、ベテランの誰も経験がない状況だけに自信がなく議論は平行線のようだ。
「すいません、私の整備ミスです」私の言葉に、みんなが一斉に顔を向けた。目が血走っている人もいる。電気班のベテラン伊藤2曹の顔がこわばった。
「何をやったんだ?」「まったく、いつまでたっても駄目な奴だな」「向いてないんじゃないの」皆はボヤキとも非難ともつかない言葉を口々に吐きながら立ち上がり、私について機体の確認に来てコネクターのある機体下部の整備ドアを囲むように丸くなった。「なんじゃこりゃ、基本的な整備ミスじゃないか」検査隊のベテランがコネクターの中を覗き込みながら吐き捨てるように言った。皆が顔を見合わせた後、冷ややかに私の方を見た。同年輩だが階級が下の整備員たちの目は一段と厳しく、嘲笑している。
「伊藤ちゃん、もうこいつに仕事をやらせないでよ」伊藤2曹は黙って下を向いた。
私自身も能力の限界を覚り、まもなく事務室勤務になった。

戦闘に向かう
- 2012/08/16(木) 10:11:01|
- 自衛隊戦記
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地方の「お盆」ですが、小庵では今年も魂魄の皆様の休憩所になっているようです。
深夜、「こんばんは」と声をかけて土間を歩く足音がするので覗いてみても誰もいない。「おーい、来たぞ」と枕元で呼ぶ方もあり、佛間で鐘や木魚を叩いて走り回る子供のハシャギ声まで響きます。
魂魄さんがおられると涼しくていいのですがうるさくて安眠は出来ず、したがってこの時期は本当に寝不足で、朝の読経もボンヤリしてしまい、どこまで詠んだか分からなくなったり、回向を忘れたりしてしまいます。すると後ろで「クスッ」と笑う声が・・・。
ただお盆は魂魄さんが帰省されるため、お寺は静かになるもので(逆にお盆明けは「ワイワイ」「ガヤガヤ」と賑やかですが)、小庵には檀家、門徒さんがありませんから気軽な休憩所なんでしょう。
最近では祖先供養も忘れられがちで魂魄さんも居心地が悪いのかと心配してしまいます。
- 2012/08/15(水) 11:05:23|
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ある土曜日、私は少林寺拳法部の練習の後、いつものように1人残って壁の大鏡の前で、突き蹴りの形の確認をしていた。私は下半身の関節が固く、前蹴りが内側に流れる癖があって、形の確認と修正は欠かせなかった。
「押忍(オス)、サンドバックを使わせてもらえますか」極真会館の空手着に黒帯をしめた初めての男が声をかけてきた。身長は私と変わらないぐらいだったが、鍛えられた胸板と腕、足腰は分厚く、太かった。
「押忍、今度、通信隊に転属してきた山本3曹です。少林寺拳法ですか?」彼は人懐こしそうな笑顔で話しかけてきた。
「そうです、どうぞ」私も微笑み返すと彼はまた「押忍」と会釈し、サンドバッグの前に立った。しばらく、手足の関節をほぐし、前後屈、カラ突き、カラ蹴りを繰り返した後、サンドバッグを打ち始めた。始めはゆっくり、徐々にスピードと力を込めて、圧倒的なパワーだった。私たちが蹴っても「パーン」と乾いた音がするだけの重いサンドバッグが、彼が蹴り、突くたびに「ドン」と言う重い音を立てて大きく揺れ、サンドバッグを吊っている支柱までミシミシとなった。
当てて引く少林寺拳法の蹴りと違い、極真会館のそれは蹴り込むと言う感じだ。
私は山本3曹の=極真空手のパワーを目の当たりにしてゾッと冷や汗をかくと同時に、同じ武道をやる者として強く興味を持ち、自分の練習を忘れて彼に見入っていた。
「どうです、興味がありますか」突き蹴りをやめて額の汗を袖で拭いながら山本3曹はまた微笑みかけてきた。サンドバッグを叩いている時の恐ろしい顔とは別人である。
「はい」「黒帯ですけど何段ですか?」「初段です」「じゃあ一緒だ」
「どうです、組み手をやってみませんか。当てませんから」山本3曹の申し出に私も応じた。彼の「当てませんから」と言う言葉に少しプライドも傷つき、「少林寺拳法の突きは急所に当てるから軽くても相手を倒せる」と言う謳い文句も確かめてみたかったのだ。
道場の真ん中で向かい合って立った。お互いに極真会館と少林寺の流儀で礼を交わした。
山本3曹は肘を張り両拳を顔の前に立てる極真空手独特の構えだ。彼はじりじりと間合いをつめてくる。息が苦しくなるほどの圧迫感だが、退がるわけにはいかない。一瞬彼の目つきが変わった。「来る!」
彼の右回し蹴りがきた。私が身を沈めてかわすと、そのまま独楽のように回転しながら左後ろ回し蹴り、そして逆回転で左後ろ回し蹴りだ。
それを両手で受けるがパワーで態勢を崩された。すると左足にローキックが入り、私は転がされた。「大丈夫ですか」彼にはこちらを気遣う余裕があるが、こちらは必死だ。私は立ち上がると前蹴りから突きを繰り出す。彼はそれを腕で受けた。受けられた脚が痛く痺れる。
「さすがのスピードですね」彼は余裕の表情でこちらを観察し、褒めてくれた。
私は、間合いをとりなおした。しばらく睨み合いが続きお互いの呼吸をはかっていた。
私は、一気に間合いをつめて、左右の突きを繰り返した。するとその一発が彼の腹に当たり、その瞬間、「ウリャーッ」と言う彼の気合いと共に私は後頭部に衝撃を受けた。それはまるで頭が首から捥げて転がり落ちたような感じだった。
私は、そのまま気を失って床に崩れ落ちた。
「ドン」「ドン」と言う音が遠くに聞こえ、気がつくと私は道場の床に寝かされていた。
「あッ、すいませんでした、大丈夫ですか?」山本3曹は、サンドバッグを叩くのやめ、私の方を心配そうに見ながら、優しく微笑んだ。私は、少し頭痛がしたが大したことはない。座って首を振ってみたが異状はない。「大丈夫です」と答えた。
「止めるつもりだったんですが、モリノさんの突きが入ったのでとっさに・・・」彼は申し訳なさそうに何度もお辞儀をした。
次の練習の終了後、部長が有段者を集めた。茶帯や白帯、少年部の子供たちは怪訝そうな顔をして帰っていく。部長は、いつもの丸い目で並んだ有段者の顔を見渡した。
「お前たちの中に空手と乱取り(組み手)をして、負けた奴がいるだろう」
「やるに事欠いて負けるとは何事だ」「俺たちは、地元の空手に対抗していかなければいかんのだ」私は「あれは試合ではなくて練習です」と訴えようと思ったが、部長の顔を見て無駄と覚った。
部長は基地の食堂でこんな話を耳にしたと言うのだ。
「この間、武道場で空手と少林寺の黒帯が試合をしていて、空手が回し蹴り一発で勝ったぞ」と。
「私です」私は1歩前に出て、部長は唇を「へ」の字に曲げて顔を見た。
「大体お前は運動神経がないところを練習だけでやっと初段になった奴だ。他流試合なんて百年早い。クビだ」私には返す言葉もなかった。
- 2012/08/15(水) 10:45:49|
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明日8月15日は終戦の日(若しくは終戦記念日)ですが、野僧は正直に「敗戦の日」と呼んでいます。 「敗戦を 終戦などと 誤魔化すな 国を滅ぼし 民を殺して」古志山人
日本人には自分の力で何ともならないことは黙って従い、諦める民族性があり、それが災害などで悪あがきをせず規律正しい行動を取る美徳にもなっていますが、勝ち目のない戦争にも無批判に盲従し、国を滅ぼされ、肉親を殺されたことまで「戦争が終ったんだから忘れよう」と許してしまうことは、むしろ欠点と言うべきでしょう。
あの戦争を省みれば、何の展望もないまま開戦を選択した東条英機政権の判断は無責任、愚かであり、開戦後の軍部の戦争指導は稚拙の極みとの批判は免られません。
8月15日と言えば政治家の靖国参拝がニュースになりますが、あそこは神道を統括する神社本庁に属さず、神社とすることを否定する宗教関係者も少なくありません。
靖国は元来、戊辰戦争に於ける薩長土肥の犠牲者を弔うため大村益次郎の提唱で創建された「招魂社」でした。このため戊辰戦争に於ける幕軍側戦没者を未だ「賊徒」として差別し、長州征討で戦死した幕軍各藩兵、鳥羽伏見の戦いでの会津・桑名藩と新撰組など、上野の彰義隊、さらに長岡の河井継之助、会津の白虎隊、五稜郭で死んだ土方歳三などは祀られていません。
しかし、日本国内で行われた戦いの戦没者を敵味方として差別し続けているような施設に果たして国家の慰霊を担う資格があるのか?東北人の野僧としては疑問以前に深い憤りを禁じ得ません(奥羽越列藩同盟で賊徒にされている南部藩主の末裔が数年前まで靖国の宮司を勤めていましたが旧藩士の復権には何の努力もしていません)。
靖国が批判される理由としてはA級戦犯の合祀の問題がありますが、これは戦前の内務省が戦没者名簿を靖国に通知していたことが戦後の厚生省にも踏襲され、A級戦犯も捕虜虐待などの罪で刑死したB・C級戦犯と同じく戦没者に加えられたことを事務的に処理した結果であって、徴兵によって戦争に駆り出され殺された殉国の士と戦争を引き起こして多くの国民を殺した亡国の徒を同列に拜礼の対象とすることの可否について真剣な考察があったとは決して言えません。
また、最近は本人の信仰や遺族の遺志を無視して合祀された問題での裁判も相次いでいますが、これも同様のお役所仕事であり、裁判所は法的手続きの正当性しか判断しませんから、本来は精神=情の問題であるべき宗教問題の判断を仰ぐには不適切でしょう。
野僧は多くの戦没者の御遺族や元軍人の方からお話を伺ってきましたが、「夫は戦死して靖国神社で軍神なる」ともてはやされるからそう信じていたが本当は「自分の傍で見守っていて欲しいと願っていた」と言うのが遺族たちの真情、「戦死してまで軍人だけで集められてたまるか。俺は家の墓で先祖と一緒に家族を守る」と言うのが死線を潜ってきた元軍人たちの本心だったようです。
「死んでまで 靖国などへ 逝くものか 家のお墓の ご先祖になる」古志山人
野僧は戦没者の追悼と記録の場としてだけの慰霊施設を作るべきであり、その場所としては神奈川県横須賀市の戦艦・三笠記念公園に沖縄県摩文仁の平和の礎のような各県の戦没者慰霊碑(死没者名簿の碑は人数が多すぎて無理でしょう)を併設することが相応しいと考えています。
戦艦・三笠であれば大東亜戦争の戦没者だけではなく明治以降の戦役の魂魄を慰霊すると言う位置づけも明確になり、非宗教の慰霊施設であっても戦艦・三笠と言う歴史的記念物により来場者は維持できるでしょう(問題は米軍基地に隣接していることです)。
横須賀が地元の小泉純一郎元総理は、もう靖国なんぞに行くのを止めてこちらの実現に力を尽くしていただけないものでしょうか。
- 2012/08/14(火) 11:49:43|
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「ご苦労様。どうですか?」オレンジ色のつなぎを着た2尉のパイロットが、Fー104J戦闘機の下にもぐりこんで整備作業をしている私たちに心配そうに声をかけてきた。
戦闘機パイロットには珍しい優しそうな目と柔らかい人当たりが印象的な人で、胸には「MOTOI」と言う名札が縫い付けてあった。
「接触不良ですかね、なかなか再現しませんね」格納庫のコンクリートの床に腰をおろして、電気系統の配線図を見ながら私に指示し、故障探求をしている本田2曹が答えた。「最後の有人戦闘機」と言われた傑作戦闘機Fー104Jも導入から20年を過ぎ、老朽化が目立てきている。
我々が担当する電気系統ではコネクター(接続部)の接触不良による故障が多発している。しかし、飛行中に電気系統の不具合で装置が作動不良を起こしても、地上では正常に電気信号が流れてしまい、故障が再現しないことが殆どだったが、米軍では、わざとコネクター内部を汚して接触不良を起こさせて誤魔化すようなこともやるらしい。
夜勤シフトで午後出勤だった本田2曹と私は今回、本井2尉が飛行中に発見、指摘した不具合の故障探求に当たり、関係する全装置の機能チェックを終え、今は関係系統のワイヤー(電線)の導通テストをしていた。時間は21時になっていた。
「少し休憩でも」そう言うと本井2尉は、飛行服のポケットから栄養ドリンクを2本取り出し、「こりゃどうも」本田2曹は笑顔で受け取った。
「どうもお願いします」本井2尉は、まるで「自分が不具合を指摘ために整備員=私たちに苦労をかけている、申し訳ない」、そんな顔をして帰っていった。
「ああ言うパイロットは長生き出来んよ」ショップ(各職場)の待機室のソファーに座り、本井2尉にもらった栄養ドリンクを飲みながら本田2曹は平然と言った。
「飛行機の不具合を見つけるのはパイロットが自分の命を守ることさ。それを遠慮するようでは生きようとする精神力が弱い、これはジンクスだ」「フーン、なるほど」と私も別段「縁起でもない」とも「不謹慎な」とも思わずうなづいた。航空自衛官は、航空機事故と言う「死の近く」に住み慣れているせいか、自分自身の死を含めて、死に対してどこか醒めてしまっているところがある。
今回は結局、接触不良を起こしているコネクターを発見し、それを修理して作業は終わった。
1週間後の6月21日(1984年)、私がエプロン(駐機場)のF‐104Jのバッテリー交換のため、右手にツールボックス(工具箱)、左手に交換用のバッテリーを抱えて整備格納庫を出ようとした時だった。1機のTー33A練習機が滑走路を北に向かって離陸していった。
「おかしい」本来ならすでに引き起こし機体が浮上していなけばならない位置なのに、まだ地上を走っている。Tー33Aが通り過ぎて視界から消えるとすぐにドーンと言う爆発音が響いた。私は早足で外へ出て北の方を見るとドーン、ドーンと爆発音が続き、滑走路のエンド(端)の方向に黒煙が勢いよく吹き上がっているのが見えた。
「エマージェンシー、T‐33、ランウェイ(滑走路)エンド、クラッシュ(衝突)。場内救難隊出動」意外に冷静なアナウンスが響いた。
深夜1時から私は事故現場の警備に当たった。
ポスト(配置位置)は事故機の1番近く、相棒は偶然にも曹候学生の同期の滝上3曹だった。このポストは空港ターミナルの灯りで明るく、かえって事故機がはっきり浮かび上がって不気味だ。辺りにはまだ燃料や消化剤、機体のこげた臭い、何より血と人間=肉の焼けた臭いが漂っている。
「ここで1人死んだんだ」滝上が主翼に上がり、救助の際叩き割られたキャノピーから前の操縦席を覗き込み、「ワッ、血が臭い」滝上は顔をそらしてのけぞった。
「やめろよ。不謹慎だぞ」私がたしなめると滝上は「相変わらず真面目だなァ」と言って機体から下り、警防を振り回しながらポストに戻ってきた。
私や滝上の期は整備員課程で入校していた浜松でブルーインパルスの事故を目の前で見ていて、航空機事故に対してどこか麻痺したところがあるのかも知れない。(その後、私たちは基地内で発生した陸上自衛隊のヘリコプターの墜落、炎上事故も目の当たりにすることになった)
しばらく2人並んで立っていると突然滝上が「女の人の泣き声が聞こえません?」と怯えたような声を出した。
「お前にも聞こえたか?」私もさっきからTー33Aが突っ込んだテトラポットにぶつかる波の「ドーン」と言う音の中に「ウッウウウ・・・」と言う押し殺したような女の人の泣き声を聞いていた。「これが事故の後に聞こえるというパイロットの奥さんの生霊の声か・・・」と思い、奥さんの悲しみにつき合い慰めるつもりで黙って聞いていたのだが、滝上は先ほどの大胆さはどこへやらで完全に怯えていた。
「モリノさん、お寺の孫でしょう。お経を挙げて下さいよォ」滝上の必死のリクエストを断るわけにはいかない。
「摩訶ァ般若ァ波羅ァ」私が低い声で唱え始めると、「そんな低い声でやられたら余計に怖いじゃないですか。もっと元気にやって下さいよ」と今度は怒ったように言った。
「摩訶―般若―波羅―」この元気のよいお経は他のポストの警備要員の耳にまで届いて、その夜の警備要員は「お経の声が聞こえる」と全員ビビリぱなしだった(そうだ)。
翌々日の午後、本井1尉(1階級特進)の部隊葬が行われた。
この日も私は警備要員。今回は基地正門付近で、デモ隊の監視に当たっていた。
フェンス越しに見ると基地の前の道路の向こう側の歩道には、事故に抗議する多くのデモ隊が、「XX労」と書かれた赤い旗を何本も掲げて、視界の外にまで長細く並び、「我々は沖縄県民を危険に陥れた今回の事故を許さない!」「那覇空港を軍民共用の危険な空港にするな。自衛隊は出て行けェ!」などとリーダーの音頭でシュピレコールを繰り返している。しかし、その顔はナイチャア(本土の人)ばかりに見えた。
私たちは、デモ隊を刺激しないため、また新聞やテレビに映されないために、フェンス沿いに木陰や建物のカゲに隠れて彼等を監視していた。手にはトランシーバー、腰には警棒、米軍ではないので銃は持っていない。彼等がフェンスに手をかけた時が出番だ。
その時、手にしているトランシーバーから「遺骨、Aポスト通過しました」と連絡が入った。自宅での葬儀の後、那覇市郊外の火葬場で荼毘に付された本井1尉の遺骨が官用車で、多分、奥さんに抱かれて基地に帰ってくる。その車が今、正門の北方向、つまり左から接近して来ているのだ。
すると左手から怒鳴るようなシュピレコールが聞こえてきた。始めはその怒声が何を言っているのかわからなかったが、どうやら車の移動に合わせて声も近づいてくるようだった。「遺骨、Bポスト通過」「Cポスト通過」トランシ―バーから聞こえる報告は遺骨を乗せた車が、こちらに接近していることを伝えている。それと共にデモ隊が発する声も近づき、はっきりしてきた。
「馬鹿野郎!」デモ隊は、黒塗りの官用車の後部座席で夫を亡くしたばかりの奥さんの胸に抱かれた遺骨に向かってこう叫んでいたのだ。
「何てことを・・・」私は、銃があればデモ隊に乱射したいほどの怒りをおぼえた。しかし、フェンス越しに見えた後部座席に遺骨を抱いて座っている奥さんは罵声を浴びせるデモ隊に顔を向け、詫びるかのようにお辞儀を繰り返していた。
それが事故のたびに繰り返される航空自衛隊のパイロットの遺族の作法なのだ。
私は初めて日本人を憎んだ。
この日の部隊葬では本井1尉の3人の遺児の、奥さんの母親の腕に抱かれていた一番下の男の子が儀仗隊員が射った弔銃に驚いて泣きだして隊員たちの涙を誘った(と聞いた)。
- 2012/08/14(火) 11:40:35|
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昭和58年9月1日、早朝に「オール ジャパン」で非常呼集がかかった。ただ、その呼集のアナウンスには、いつもの「訓練」の言葉がなかった。
「なんだよ、月の始めに気合いを入れろってか」「休暇気分の一掃だろう」非常呼集には馴れっこの隊員たちはアナウンスに「訓練」がなかったことなどは気にも留めず、いつものように素早く着替えて、それぞれの仕事に向かう。私は弾薬運搬支援に当たっていて内務班の駐車場に停めてあるトラックの荷台に乗り込んだ。
間もなくドライバーが荷台を覗き込み乗車した人数を確認して、基地の外れにある弾薬作業所に向かった。到着すると直ちに下車、弾薬保管室に入り、かなりの重量があるFー104J戦闘機用の20ミリバルカン砲弾が詰められた木箱を運搬用トレーラーに積む作業にかかった。
「全機フル弾装だそうです」指揮に当たっている装備隊武器小隊員が話している声が聞こえ、「全機フル?」弾薬作業所内の隊員の顔にも、緊張感が走った。
弾薬の積み出しを終えて、あとは訓練が終了して戦闘機からおろした弾薬が戻ってくるまではしばらく待機になる。
小休止をかねて弾薬作業所の外に出ると、エプロンの方から、戦闘機をランナップ(始動点検)するジェットエンジンの轟音が、早朝の空気を震わせて聞こえてきた。
その時、武器小隊員が我々支援要員に声をかけた。「弾おろしはないからショップに戻れ」「エッ、弾をおろさないの?」支援要員たちは顔を見合わせた。
「やっぱり、いつもの訓練じゃあないな」我々は、ショップに向かうトラックの荷台の中でお互いに勝手な想像を話し合った。
「スクランブル機が撃墜された」と言う物騒な説から「朝鮮半島で軍事衝突が起きた」「いや、台湾海峡だ」挙句には「米ソが戦争を始めた」まで諸説が飛び交い盛り上がったところで、トラックは整備格納庫に着いた。
エプロンには、飛行可能な全戦闘機が二発のサイドワインダーミサイルまで装着されて並べられ、飛行隊の整備員がランナップの後確認で機体の周りを動き回っていた。
「モリノ、弾作から戻りました」「ご苦労さん」ショップに着くとベテランたちはテレビのニュースを見ていた。
「大韓航空機がサハリン沖で消息を断った」これがトップニュースだった。
しかし、「民間旅客機の遭難」と今朝の非常呼集はイメージとして結びつかない。
それはベテランたちも同じようで、ショップでも私たちがトラックの荷台でして来たのと大差のない想像の話が飛び交っていた。
「大韓航空機はソ連が撃墜したようだぞ」交代で喫食に行ってきた先輩がショップに帰ってきて第一報を伝えた。
隊員食堂で一緒になった南西航空警戒管制隊の隊員からの情報らしい。
日本の防空識別圏を絶え間なく監視している警戒管制部隊は全国レベルの情報網を持っており、我々戦闘航空部隊以上に情報は早い。
私は、後に兵器管制課程に入校した際、稚内のレーダーサイトでこの事件をレーダーですべてを見ていた隊員と一緒になった。
彼は、大韓航空機が本来の航空路を外れたところから、ソ連の戦闘機が迎撃に上がり、やがて戦闘機が撃墜態勢に入り、大韓航空機の航跡が消えたところまでを目撃していたと生々しく語ってくれた。
領空外を飛行する民間航空機には何の権限もない自衛隊は、この事件も黙って見ているしかなく、「コースを外れていると呼びかけたかった」「スクランブル機を上げて守ってやりたかった」と言う彼の話しにはみな沈黙し、「まさか旅客機を撃墜するとは思わなかった」との沈痛な言葉に仮想的国・ソ連への敵愾心を奮い立たせたものだった。
米空軍の動きは早かった。翌日には嘉手納基地のFー15戦闘機部隊が青森の三沢基地へ展開した。
航空自衛隊南西航空混成団では米軍のF―15戦闘機が多数抜けた沖縄周辺空域の防空能力の低下を補完するため、通常のスクランブル待機の戦闘機に、追加で戦闘機を待機させる緊急発進増強態勢をとると共に、急速整備を実施して定期点検検査中の戦闘機を全機可動状態にした。
それと同時に基地の警備態勢を強化し、特に弾薬、ミサイルを搭載した戦闘機を並べたエプロン地区では弾薬の取り扱い、非常時の対処要領の教育を受けた空曹(下士官)の隊員が小銃と実弾を持って勤務についた。
その夜、私はランウェイ(滑走路)側のポストに配置された。海から上陸してランウェイを越えての侵入者を警戒、阻止するのが任務だ。
数日来、急速整備で夜遅くまでの整備作業が続いているところでの徹夜の警備勤務は、はっきり言って辛い。私は、まだ消灯前の時間だったが睡魔に襲われ、眠気覚ましにポスト周辺のエプロンをうろうろ歩き回った。
飛行隊の隊員たちはショップに泊まりこんでソファーや組み立て式のベッドで仮眠しながらいつ発令されるかわからない緊急発進に備えているはずだ。しかし、今はエプロンに人影はなく、ミサイルを搭載して並べられたFー104J戦闘機のシルエットが不気味に、静かに見える。整備格納庫は灯りがついているが空っぽだった。
その時、夜間飛行のボーイング747が一機着陸し、目の前をタクシングして来た。
窓からは明りが漏れていて、搭乗している旅客のシルエットが見える。どうやら満席のようだ。
「あの人たちは今、日本の周辺空域で何が起こっているかも知らないで、旅行を楽しんでいるのだろうな」「ここにミサイルまで積んだ戦闘機が並んでいることも、実弾を持った隊員が立っているのも知らないんだな」とそんなことを考えながら見送った。
「そう言えば撃墜された大韓航空機もボーイング747だったな」そう思うと、戦闘態勢にある自分たちが目の前の風景が別の世界の住人のように思えた。
ソ連は大韓航空機撃墜の事実を認めなかった。それに対して日本政府は自衛隊が持っている情報を証拠として提出する用意があるとの声明を発表した。
それを受けたソ連軍は脅迫とも言うべき示威行動に出て、連日のように爆撃機の大編隊を日本海から東シナ海を通過させてベトナムまで飛ばし、また、日本海側の航空自衛隊のレーダーサイトへ向かって急接近してミサイル発射態勢をとる訓練を繰り返した。
それは「証拠を出せば引き金を引くぞ」と脅しているかのようだった。
全国の航空自衛隊の戦闘機部隊は緊急発進を繰り返してこれに対処していたが、パイロットたちは「ソ連機が射ったら即座に射つ」「可能ならばミサイルを自分の機体に当てる」と言う緊張と覚悟に、「これは実戦だ」と身体が震えたと言っていた。
また、レーダーサイトの隊員たちも、接近するソ連機をレーダーで監視しながら「もし射ってきたら」と言う緊張と、「そんなことが起きるわけがない」と言うそれを打ち消す常識と、「でも奴らは民間機を撃墜した」と言う一抹の不安で、まさに「さァ、殺るなら殺れ」と言う気分だったそうだ。
沖縄の我々は東シナ海を通過するソ連機に対処するために緊急発進増強態勢を維持していた。
Fー104J戦闘機は航続距離が短いため、九州南部の空域から台湾付近の空域までソ連機を監視しながら飛行するには再度の緊急発進が必要な場合もあり、大編隊であればさらに多くの緊急発進機を必要とする。
このため1週間以上も深夜に及ぶ急速整備を継続していて、警備勤務もあって我々整備員にも流石に疲労の色が濃くなってきた。
ある武器小隊の整備員は、整備中に貧血を起こして点検整備中のバルカン砲のチェーン部に手を突っ込んで指を切断すると言う作業事故を起こした。
また整備作業中に頭を打つ、切り傷を負うなどの軽い負傷も頻発していた。このため、部隊は、安全管理を徹底すると共に整備作業の精度を維持すため品質検査を強化して、整備作業にはさらに時間を要するようになったが、事実上の実戦と言う緊張感に弱音、不平を吐く者はなかった。
やがて日本政府から、迎撃したソ連軍戦闘機と地上指揮所との機体の確認から撃墜を命じ、撃墜を報告するまでの交信記録が公表され、ソ連もようやくこれを認めた。
私たちは、証拠を提示するために記者会見する後藤田正晴官房長官の姿を、特別な感慨を持って見ていた。
こうして、私たちの大韓航空機事件は終わった。
数週間後の航空自衛隊総合演習は、「航空燃料が足らなくなったので中止」と言う希望的な噂もあったが結局予定通りに行われ、私たちはまた2週間の寝不足になった。
- 2012/08/13(月) 11:32:41|
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8月中旬の土曜日の夜、航空自衛隊那覇基地、海上自衛隊沖縄航空基地、陸上自衛隊那覇駐屯地合同の盆踊り大会がありました。
あの頃はまだ沖縄には盆踊りの風習がなく、本土風の珍しい行事を楽しみに開放された基地のグランドには地元の人も大勢集まっていました。
こう言う行事では、新婚や彼女のいる隊員は新妻や彼女に浴衣などを着せて先輩や同僚たちに披露し、彼女のいない仲間や後輩に見せびらかす場でもあります。
しかし、時には彼女が昔別の隊員とも付き合っていたことが発覚することもあり、同じ女性と寝た者同士を自衛隊では「穴兄弟」と呼んで、特別な友情で結ばれることもありました(どちらもその女性と別れていることが前提)。
また、自衛隊のこのような行事では必ずと言っていいほど爆破予告、妨害予告の電話が入り、楽しい行事の裏では(彼女がいない独身者=来る人がいない)選ばれた隊員による厳戒の警備態勢がひかれていました。
私はと言うと彼女の家が遠かったため「来る人なし」で警備勤務のはずだったのですが、ある特技によって行事の方に参加することになりました。
わが修理隊は盆踊り会場でラーメン屋を開きました。と言っても安く大量に仕入れたカップラーメンにお湯を注いで2百円と言う、他の隊の焼きソバ屋や綿菓子屋、ヨーヨーすくいなどに比べると手抜きな商売でしたが、私はそこで客引きを命じられたのです。
それは以前、私が修理隊の忘年会で、愛知大学(北京外語学院と姉妹校)の学生時代に中国人留学生からもらった人民服と人民帽に赤い星と階級章をつけて中国人民解放軍の軍服に仕立て上げ、それを着て、これも愛大で中国人教授から習った中国語の「残留孤児の歌」を歌ったことによります。
哀切な残留孤児の歌は「沖縄残留孤児」を自称する単身赴任者たちを大いに感動させ、その後もたびたびリクエストを受けるようになったのですが、今回はラーメン屋のテントの前で、中国人に扮してラーメン(と言ってもカップラーメンですが)を売り込めという難しい任務でした。
「来々(ライライ)、おいしいラーメンあるよ。本場中国の味あるよ」と私は人民解放軍の兵士に扮して片言の日本語で客に声をかけました。
客の中には「中国のカップラーメンか?」と皮肉を言っていく人や「ニンハオ」と声をかけていく人、「本物かと思ったらなんだモリノか」とからかう先輩などがいて、それなりに客が集まってきました。
「モリノ、歌え!」テントの中で汗をかきかき、カップラーメンにお湯を注いでいる宮城3曹が声をかけてきました。しかし、ラーメン屋で哀切な残留孤児の歌は合わないので仕方なく、これも教授から習った景気の良い中華人民共和国国歌を歌いました。
ただ今思うと中国の国歌は大東亜戦争中の「日本軍と戦え、倒せ」と言う軍歌のはずでした。
すると「あのう、日本語わかりますか?」二人の若い陸上自衛官が声をかけてきました。
「日本語少し、英語少し、中国語沢山わかります」と片言の日本語で答えると「一緒に写真を取らせて下さい」と彼らはカメラを見せたので、「好々(ハオハオ)」と私は軽い悪戯心で了解しました。
テントの前で彼らと写真を撮っていると、数人が「私も」と声をかけてきて、商才に長けた宮城3曹がすかさず「ラーメン一杯、中国軍と写真つき!」と言いました。
「エクスキューズ ミー」とうとう米軍兵士にまで声をかけられるようになって、さすがに私は「国際問題になるとまずいな」と心配になってきました。
軍人が他国の軍服を着ることは、厳密に言えば戦時国際法上の「スパイ行為」に当たる可能性がある。それでも宮城3曹は強気に「フォト サービス ウイズ ヌードル」と訳のわからない英語で声をかけていましたが。
私は、カップラーメンが殆んど売り切れたところで、宮城3曹に「グッド ラック」と親指を立てて「終わり」の合図をし、テントの裏手でトレパンとTシャツに着替え、先ほどから我慢していたトイレに行きました。
すると最初に写真を撮った若い陸上自衛官が、「航空ってすげえなァ、中国軍まで呼んでらァ」と感心した口調で言っていました。やっぱり本当に信じてた。
おまけ「みんなで歌おう(?)中華人民共和国国歌」(冒頭のファンファーレ風の前奏には歌詞がありません)
「ちぇらい ぶーゆぁん ぬぅりぃとぉ りゃんまん
起来! 不応 做奴隷的 人們!
ばうぉまんと しぇろぅ ちゅちゃんうぉまん しんどちゃんちゃん
把我們的 血肉, 筑成我們 新的長城!
ちゃんふぉ みんつー だぉら ちゅいうぃしぇんだ しゃ ほ
中華 民族 到了 最 危 険 的 時 候
めいぐー りゃんぺい ぽしょうふぁ ちゅ ちゅい ほうど ほう しょう
毎 個 人 被 迫着 発 出 最 后的 吼 声
ちぇらい ちぇらい ちぇらい
起来! 起来! 起来!
うぉまんまんつょんいーしん まおちぇ でい りゃんだ ぱぉ
我們 万 衆一 心, 冒着 ◆ 人的 炮
ほう ちぇじん ちぇじん ちぇじん じん
火 前進! 前進! 前進! 進!」

大学時代(改造前)
- 2012/08/12(日) 10:53:32|
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「航空自衛隊怪僧記」(完結編)
航空自衛隊の幹部には1年に1回幹部申告と言う将来のプランを書いて提出する制度があります。私はこれで悩みました。
自分にもう昇任する見込みがないことは判っていましたが、次の転属もまた「小隊長で」と書くのもどうか・・・かと言って「隊長に」と書くのは気が引ける。
通常、私のような昇任時期にある輸送幹部は、警戒管制団や輸送航空団司令部、高射群本部の輸送幕僚か、芦屋の輸送課程の教官をして隊長のポストが空くの待っているものですが、それらにはすでに幹部候補生の後の期の連中がつき始めていました。
私は前者を選び「身体にいい、暖かい所でのんびりします」と沖縄、九州の高射部隊の管理小隊長と書いて隊長・T3佐に提出しました。
するとT3佐は「君は昇任する意欲がないのかね。高射部隊を気に入ってくれたのは嬉しいが」と意外な反応を示しました(本当はその翌年の7月に私の期は在庫一掃の一斉昇任で1尉になることが決まっていたそうですが、その説明は一切ありませんでした)。
その頃の私は訓練に参加して(させられて)は体調を崩して入院することの繰り返しで、「健康に不安があるなら自衛官を続けるのは無理じゃないか」とこの時、初めて「退職」と言う言葉が公式に出ました。
これには伏線がありました。
高射幹部が「本番」と呼ぶアメリカでの年次射撃の訓練中あるベテランの空曹が体調不良を訴え、病院での検査の結果、血圧その他の循環器系統の数値が悪く、訓練への参加は無理と言う診断がおりました。
彼は当然その診断結果をもって年次射撃訓練から外してくれるように隊長に申し出たのですが、T3佐は「年次射撃は高射部隊の本番だ、死んでも参加しろ」と命じました。
すると彼は「モリノ2尉は体調不良で入院を繰り返しているじゃないですか」と反論し、どうやらその時から隊長の頭には私のことを、任務に耐えられない不良品の許しがたい幹部と言う見方が芽生えたようです。
さらに、その彼が訓練中に心臓の不調で倒れ、救急車で病院に搬送、緊急入院することになったのですが、当然、医師や隊員からも、隊長への批判の声が起こりました。しかし、残念ながらT3佐には、この批判を受け止めるだけの度量はなかった。
隊長は幹部を集めた会議の席で「今後も、隊員の甘えは許さん」と強弁を繰り返すのみでした。つまり「隊員が許されないなら幹部ならば当然」だった訳です。
やはり退職への引き金はT3佐が引きました。
私が着任した時、管理小隊にはY1曹と言う隊員が病気休職中でした。彼の病気は、夜寝て朝起きたら目が見えなくなっていたというもので、「視神経炎」と言う診断は下ってはいても、原因も治療法も判りませんでした。
それでも、Y1曹一家は元気に立ち直ろうと、以前からの趣味、と言うよりも副業に近いプロ級の腕前の津軽三味線や、元々得意であったスポーツに積極的に取り組むようになりました。
私も、これを応援し、各種イベントに出演して津軽三味線を演奏する姿や、身体障害者のスポーツ競技会に参加した成績を、隊の幹部会議でも自慢げに報告し、6高群の新聞等でも紹介していました。
しかし、隊長は本音としては「病気休職中の者がイベントやスポーツ競技会に参加するのはよくない(不謹慎だ)」と考えていたようでした。
私としては、積極的に社会に出ることで本人だけでなく、家族まで明るく、元気になっていく姿を見ていて、自衛隊での常識よりも本人と家族の幸せをと「スキーのパラリンピックを目指したら」などとさらに応援のトーンを上げていきました。
そうこうしているうちにY1曹は自分の病気を受け容れ、身体障害者の認定を申請し、その認定を受けて、さらに退職後の生活確保のために盲学校への入校を考えるようになりました。
私は、相談を受けて隊長に報告し、その指示により群本部の人事班長に確認しました。
その結果、「盲学校への入校が『治療上有益である』と言う診断書があれば問題はない」と言う回答を得て、隊長に報告し、本人に「頑張るように」とOKの激励をしました。
Y1曹は慣れない視覚障害者用の教材と道具を使って受験勉強に励み、見事合格しました。ところが、その合格の報告をして数日後のこと、群の人事班長から突然、「Y1曹が、盲学校に入るということは、治癒の見込みを自ら放棄したことになり認められない」と言う電話が入りました。
私が直ちにこの件を報告、相談すると、隊長は「Y1曹に入校を諦めるように説得するか、退職させるかだ」と感情も見せずに答えました。
私はその時、この件が隊長と人事班長の共謀によるものであることに気がつきました。
3月に転属を予定していた隊長は「転属までに問題のある隊員を『整理』する」が口癖になっていて、服務事故を起こした隊員や昇任試験に受からない空士を退職させるように度々各小隊長に指示するようになっていました。
しかし、「まさか病気休職で、あと数年で退職することになるのはわかっている、長年自衛隊の為に貢献してきたベテランの隊員まで在庫一掃のように退職させるとは」、私は絶句し、防府で受けた心の傷もあって航空自衛隊と言う組織が、このたかが3等空佐、隊長と言う不完全な人間の判断によって善良な人間の人生を好き勝手出来るのだと言う事実に絶望しました。
そして、おそらく隊長の中では、私も在庫一掃の対象だったのだと思います。
私は、Y1曹に謝罪と説明に向かいました。そして、この理不尽な話に、取り乱すこともなく「仕方ないですね、退職します」と答えたY1曹に私は、「貴方だけを辞めさせませんから」と言いました。Y1曹は、むしろ私のこの言葉に動揺しましたが。
私がその冬、続いて二度目の入院をした後、どちらから言うともなしに隊長との間で退職について相談するようになり、それからは、「待っていました」とばかりに話は進み始めました。
その間に国旗・国歌騒動と言う珍事件もありました。
それは当時、国会で論議されていた国旗国歌法について私が「君が代が国歌として相応しいかをもっと論議すべきだ」と言う意見を朝日新聞に投稿したのですが、その記事を三沢の北部警戒管制団司令部人事部に転属して来ていた元1教群人事科長のA1尉が見つけ、私の所属から経歴までを記した文書を服務指導の資料として隷下部隊に配布したことから始まりました。
それを車力の移動警戒隊長から手渡されたT3佐は6高群本部に報告し、秘密保全違反として処罰しようとしたのですが(ひょっとして懲戒免職を狙っていたのか?)、私は春日、浜松、防府で保全責任者をやっていて保全関係規則は熟知していましたから、「何が違反なのか」と反論すると、T3佐は「反政府の朝日新聞に投稿したことだ」と答えたので、「自衛官が投稿の制限を受けているのは自衛隊に関する投稿であり、国歌の検討を求める私的意見がこれに該当はしない」と抗弁しました。
結局、T3佐や6高群人事班長も振り上げた拳の下ろし所に困りながらもウヤムヤに終わらせるしかなく、ただ退職することだけが既定の方針に決定しました。
そして、私がそのことを「輸送幹部サイドにも相談したい」と言うとT3佐は、「人事権は6高群にあるだから外部に漏らしてはいかん」と命じました。
幕末の志士たちの多くが、30歳前後で為すべきことを為し了えて燃え尽きたように人生そのものから退場していったように、私もこの頃が去り際だったように思います。
少なくとも私は、長生きするような「瓦全」な生き方はしてきませんでしたから。
- 2012/08/11(土) 11:58:50|
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ある冬、府中の航空支援集団司令部空輸統制班にいる同期から電話が入った。
「モリノ、今度、PAC2(=改良型ペトリオット)を×発送るから三沢からヨロシク」彼は相変わらずの軽い口調で地対空ミサイル実弾の輸送計画をペラペラ話し始めた。
「おいおい、それって防衛秘密にならないのか?」「そんなの知らないよ。単なる業務連絡だ」と話しっぷりは軽いが内容は滅茶苦茶に重かった。
定期便のCー130輸送機で小牧から三沢に運び、それをトラックに積み替えて車力まで運ぶのだが、その定期便の三沢着の予定時間は午後3時、我が第22高射隊のトラックへの積み替えは、発射小隊が掛け声ばかり忙しく機材と人員を使って行うため、×発ではそれで一時間以上はかかる。
さらにそれは明治に起きた「八甲田山死の彷徨」事件の当日で、つまり厳寒の八甲田山を一発数億円の改良型ペトリオットミサイルの実弾を積んだトラックで、しかも夜間に越えて帰らなければならないと言うことだった。
「到着時間が早い輸送機がある日に変更できないのか?」と私が壁に貼ってある輸送機のスケジュール表を見ながら訊くと彼は「車力への配備は空幕の計画だから、こちらの都合で変更はできない」と答え、「そこんとこヨロシク」と軽くつけ加えて電話を切った。私は受話器を置きながら「コイツは大本営参謀か」と舌打ちした。
その次は本来なら先ず隊長への報告であるが、T3佐の場合、先に耳に入れると運用の都合と面子が先行し、輸送サイドのことは無視した命令を下しかねない。したがって早急にプランを練ってから報告する必要があった。
私は早速、第6高射群本部の輸送幕僚に電話した。
「夕方着の輸送機では積み替えて出発すれば八甲田に入る頃には暗夜になってしまう。凍結した道路をペトリを積んで越えるのは危険だ」と言うと彼も電話口で同意した。
しかし、「その日は三沢泊にできないか?」と言う私の要望は「ペトリの完成弾を三沢基地内に保管するには米軍に申請しなけらばならず、今からでは間に合わない」とにべもなく却下した。つまり私の第1プランは入り口で頓挫したのだ。
そこで私は輸送の空曹を小隊本部に呼んで状況を説明した。すると輸送班長のA2曹は顔を強張らせるだけだったが、若いI2曹はこう言い放った。
「そんなの簡単すっよ。トラックへの積み替えを早くすればいいんです」これは盲点であり、彼に説明を促すとそれは意外な方法だった。
「千歳や春日じゃあ、積み替えをウチみたいにチンタラとクレーンでやったりせずにフォークリフトでサッサとやるんです。そうすれば×発くらい30分です」私は即座に納得したが、隊長には報告できないと思った。
なぜなら高射を絶対とするT3佐が射撃小隊の仕事を否定するようなプランを認めるはずがなく、私は独断でこれを実行することを決意し、I2曹には当日までフォークリフトでの積み替え訓練をするように命じ、私は浜松時代の第2術科学校高射課程教官だった友人に技術指令書上の根拠を確認した(あえて22高隊内は避けた)。
当日の朝、三沢に向かった我々は積み替え作業のあたる射撃小隊の隊員や機材を乗せた車両も伴い異様に大編成だった。
私は車窓から八甲田の完全に凍結した路面と人家や街路灯、ガードレールも全くない沿道を見ながら、帰路は崖側になり「ここで事故を起こせばおそらく転落して爆発、そうならなくても救援が到着する前に凍死するな」と思いながら、その前に積み替え作業で事故があれば腰に吊った拳銃の実弾で自決しなければならないことを想った。
我々は昼過ぎに三沢基地へ到着して積み替え作業の予定場所で輸送機を待った。
すると幸いなこと輸送機の到着が遅れた上、滑走路を横断して作業場所まで移動するのにも手間取り、作業開始時間が大幅に遅れた。つまりフォークリフトで積み替え作業を行う格好の口実ができたのだ。
私はバスで待っている射撃小隊員に「予定変更、積み替え作業は管理小隊でやる。君たちはここで待機していてくれ」と告げると反論をする暇を与えず、作業現場に向かった。
しかし、作業そのものは極めて順調で、いつもの半分以下の時間で完了し、私はまたまた自決する機会を失ってしまった。
その後、予定時間よりも1時間早く「三沢基地を出発する」との報告を隊長ではなく総括班長(指揮所長)にすると、「へーッ、もうですか」と不思議がっただけで特に何も訊いてこなかった。
しかし、八甲田に差し掛かったのはやはり日没後で、暗夜の路面をヘッドライトだけが照らし、おまけに風で地吹雪も発生し、視界は極めて悪かった。
私は指揮官として先頭車両の助手席に乗っていたが、時折、車体が横滑りし、往路の確認では谷底まではかなりの高さがあり、転落すれば爆発、即死は免れないだろう。
ドライバーの腕前ナンバーワンのベテランO士長がリクエストしてきた。
「小隊長、事故防止にお経をお願いしますよ」「おう、いいぞ」
そこで私は事故防止の功徳がある「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈(観音経)」を唱え始めたが途中で分からなくなり、延命十句観音経を壊れたレコードのように繰り返した。
すると突然、ドラーバーが叫んだ。
「小隊長、飛び降りて下さい」前方を見ると大きな雪の塊がヘッドライトに浮かび上がり、ブレーキを掛けられない車両はユックリと乗り上げて行く。
しかし、雪の塊はトラックなどの荷台から落ちた物のようで柔らかく、車輪で踏みつぶされて通り過ぎた。私はドライバーに声を掛けた。
「俺を助けようとしてくれたのは有り難いが、死なば諸共だぞ」「はい、お命お預かりします」O士長はそう言ってうなづくと顔を引き締めて前を見た。
翌朝、隊長は先に射撃小隊長から三沢でのことの報告を受けていたらしく不機嫌だったが、八甲田山の道路状況を加えた私の事情説明に叱責などはしなかった。
私は翌年の同様の輸送に際しては。三沢基地近傍の東北町分屯基地への宿泊(命令上の位置づけとしては休止)と言う方法を考え出し実行した。
- 2012/08/10(金) 09:22:39|
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「航空自衛隊怪僧記」(車力編)

私が赴任した第6高射群では北部航空方面隊の訓練検閲が直前に控えており、着任早々、まだ11名の小隊員の名前も覚えきる前から演習の連続でした。
ただ、それがまた面白く、浜松でやっていた警備は「実戦」でしたが、車力のは訓練であり、それまで全国の在日米軍の警備部隊を研修して回り、「国内留学生」と呼ばれながら身につけた警備のノウハウを一つ一つ検証出来ました。
また、基本教練の指揮官を命じられて「防府でやるはずだった区隊長を車力でやるとわな」と大いに楽しみ、「何だか、楽しそうですね」とウキウキしている私に新しい仲間たちは呆れていました。
検閲の本番では補佐官が北部航空警戒管制団から多く出ていたこともあり、春日時代の知り合いばかりで、「どこをどう回ってここ(車力)にたどり着いたんだ」「相変わらず訓練が好きだなァ」と警備隊本部の天幕では昔話に花が咲き、「俺はお前を知っているからいいけど、知らない奴がそんなに楽しそうにしているのを見たら真剣味が足りないと思われるぞ」などと注意をしてくれる始末でした。
特に検閲の最後を飾った基本教練では、補佐官の所見に「指揮官が楽しそうだった」と言うモノが多くあったそうです。もちろん公式には書けなかったようですが。
検閲が終わったら今度は第6高射群の武道大会の指揮官を命じられました。
「またまた車力で区隊長をやることになるとは」と思いながらも、頭も気も使わないですむ訓練生活を楽しんでいました。
私は銃剣道5段、自衛隊体育学校格闘課程卒、全航空自衛隊武道大会を連覇していた西警団の合宿にも参加したことがあって、こちらの訓練にも参加したかったのですが、「楽しそう」ではなかったので、もう一つの種目、剣道の方(小学校の剣道教室以来、それでも剣道初段)に参加しました。
三沢基地で行われた群武道大会の前夜、参加する各隊は飲み屋で団結会がありますが、我が22高隊以外はみな早めに切り上げ明日の本番に備えていました。
ところが我が22高隊選手団は、いつまでたっても帰って来ない。
持病の関係で宿舎に先に帰っていた私は「二日酔いで試合じゃあ困るなァ」と心配していましたが、案の定、翌日の試合直前でもアルコールがプンプンと臭い、「試合中に吐くなよ」が指揮官の訓示になりました。
ところが試合では全員なぜかリラックス、それまで勝ったことがなく、万年最下位だった22高隊が「初勝利」をおさめ、さらに翌日の剣道の個人戦では我が管理小隊のY曹候生が優勝するという快挙を成し遂げました。
初日の団体戦が終った夜、22高隊は当然祝(初)勝会でしたが、私はいつもの通り先に宿舎に戻っていました。すると私の耳に隊員の怒鳴り合う声が届きました。
「あの練習で絶対勝てると言ったじゃないか」それは負けたチームの指揮官を選手が吊し上げていたのです。
私は西警団司令部の訓練班に勤務している時、副司令と人事部長から「西警団銃剣道を潰してくれ」と言う内命を受けたことがありました。
それまで西警団の銃剣道は航空自衛隊の大会で連覇を続けていましたが、その分、新入隊員を集めて合宿を行い、才能がある者はほとんど実務につくことなく銃剣道ばかりやらせて、隊員の方も離島のレーダーサイトに配属されながらも銃剣道をやっていれば春日での合宿で一年の大半を過ごすことが出来る。さらに大会で活躍すれば昇任も早いからと銃剣道に打ち込んでいました。
しかし、長年この無理なやり方を続けてきたため、西警団には実務が出来ないくせに昇任だけが早い空曹が増え、航空自衛隊全体の人員削減の流れもあり、長期間の合宿に選手を出す離島サイトの人員不足が深刻化していて、西警団の部隊長会議でも、この件が問題になり、部隊長の要望として内々に決議されたのです。
「本来のお前の仕事とは逆のことをやらせることになるが、組織として限界なんだ」と副司令は申し訳なさそうに言われました。
やることは簡単でした。それまで慣例になっていた秋の新入隊員の集合訓練を止め、銃剣道の合宿訓練を圧縮しました。
当然、銃剣道の選手たちからは不満の声が上がりましたが、そこは部隊長たちの意向でもあり、大きな問題にはなりませんでした(そこが防府とは違う)。結局、翌年の西部航空方面隊の大会で西警団は予選敗退しました。
「得意淡然、失意泰然。たかが武道じゃないか」自衛隊の本来の任務を思えば武道如きにそこまで必死になっている隊員に「高射群って、この程度のものか」と思いました。
「次はノルディックの指揮官」と言う隊長・T3佐の命令を「面白そうだな」とは思いつつも持病持ちの私は流石に断りました。
着任以来の検閲、武道の合宿と肉体を酷使してきて、病院での月一回の定期検査でも入院を勧められるほど体調は悪化しており、「小隊長」ならぬ「傷体調」だとワザと自分の役職を誤字にして遊んでいました。
第22高射隊長のT3佐は一般(部外)出身で「真面目」「一生懸命」と言う表現が似合ういい人でしたが、春日や浜松で見てきた3佐の人たちに比べると少し小粒、軽量な感じは否めませんでした。
会議などで反対意見、疑問が出ると、それを論破、説得するよりも、「命令だ」か「頼むよ」と押し切る、違う意見を受け止めるだけの余裕がない感じでした。
あとは極端な理数(技術)系で、あまり言語に対する理解力がなく、比喩や例え話をするとそれを真に受けてしまい単純に喜んだり怒ったりして、その発言の奥にある考えには思いが至らないで、言った方としては驚いたり、困ったりしたことがよくありました。
総括班長のO1尉は、神社の跡継ぎで国学院大學の出身の神主さん。坊主の私と二人揃って、22高隊は「神も佛もある部隊」と呼ばれていました。
ある元巫女の女性は「同じ遊ぶでも坊さんよりは神主さんの方が品がいい」と言っていましたが、このO1尉と付き合っていると「やんごとなき」雰囲気があって、「なるほどな」と納得出来ました。
しかし、誰にしろ高射部隊の幹部は同じ運用職でも、パイロットや兵器管制幹部に比べると所詮は待機と年次射撃を「本番」にしているだけの職種で、「気合い」「真剣味」が違うと言う印象を受けました(春日で仕えたN司令や浜松のG司令も高射幹部でしたが)。
何よりも高射幹部の発想は「訓練」の域を出ることがなく、「命令に書けば何でもできる」と言う非常識がまかり通り、同じ運用職でもパイロットや兵器管制幹部が航空関係法令や外交関係への影響までを熟慮して判断していたのとは雲泥の差がありました。
私は彼らの自覚なき非常識をチェックすることも管理小隊長の務めと考えるようになり、「アンタらの実戦は待機だが、管理小隊は現実の交通戦争を戦っている」と言うのが隊長を含む高射幹部に吐く切り口上になっていきました。
運用職と言えば高射幹部にとって私は、扱いにくい管理小隊長でした。
それまで高射部隊の中で管理小隊長は輸送幹部=ただ一人の後方職種で、部隊の方針についても「これは運用上必要だ」と言われれば、「はい」と答えるしかなかったのですが、私は運用の第一線である兵器管制幹部出身で、しかも若い時には戦闘航空部隊で勤務していて、高射幹部よりもはるかに運用に精通している。おまけに教育隊での勤務経験が長く野戦の専門家だったのです。
私の「何で?」と言う質問に始めは「素人に教えてやるか」と言う態度でいた隊長以下の高射幹部も、次第にそれが判っていて訊いている。つまり「遠まわしに不具合を指摘している」ことに気づき、私の発言に戦々恐々とするようになりました。
尤も私の方は、やる気は防府に置いて来ていたので、どちらかといえば彼等を「カラかって遊んでいた」と言う感じでしたが。
その一番の例が演習における基地警備訓練でした。
ある演習では弘前の陸上自衛隊員がゲリラになって攻めてきたのですが、高射幹部が取り仕切る22高隊の指揮所は「ここが重要防護地点だから」と隊員を多数配備して待ち構えていました。
しかし、それではゲリラは自由に動けて好きなタイミング、好きなルートで攻撃が出来る。その時、私の頭の中には浜松以来の「小隊長のお告げ」が響きまくっていて、「今ゲリラがあそこにいる」と手に取るように判っていました。
それを指揮所に言うと隊長は「根拠は何か?」の一言で片付け、私が独断で自分の小隊員を確認に向かわせると、「勝手に動くな」と怒り出す始末でした。
結局、我が22高隊は陸上自衛隊の普通科後期課程の新兵さんのゲリラに、やりたい放題やられて、指揮所まで破壊されてしまいました。
訓練後の反省会で私は一言、「皆さんはほとんど素人ですな」とコメントしました。
するとそれでなくても不機嫌だった隊長は、「わかった、そこまで言うのだったら、本番の総合演習では、お前が一人でやって見せろ」と命じました。
その年の航空自衛隊総合演習で第6高射群は、全部隊の警備訓練を実施することになっていて、各隊とも「隊の名誉がかかっている」と担当者は頭を抱えていました。
総合演習が近づくと「モリノ2尉、何か好い手はある?」と担当になった各隊の小隊長たちは深刻な声で電話をしてきましたが、「毎朝、毘沙門天に祈ってますワ」と言う私の答えに呆れていました。
私はその時、内心では「管理小隊の十人だけでやってやろう」と決めていました。
総合演習は三沢、車力にある第6高射群の所属部隊が、陸上自衛隊の八戸駐屯地訓練場に機動展開して始まりました。
演習での管理小隊の仕事は後方支援、早い話しが飯の支度に後片付け、あとは訓練場での展開地と駐屯地を結ぶ定期便の運行ぐらいでした。
そんな中で面白かったのは大雨で水浸しになった後発してくる八雲の部隊の展開予定地の水溜りを各隊で何とかしろと言う群司令指示でした。
他の隊は土を運んで水たまりに投げ入れましたが、かえってゆるい泥地になってしまいました。一方、私は教育隊で雨天後に訓練場の水を引かせるやり方を採用しました。
ようは簡単で展開地の隅に穴を掘り、溜まった水を流し込むのです。
これは効果覿面、あっと言う間に水は引き、他の隊もあわてて真似しましたが、後の祭りでした。「よくやった」と隊長は褒めてくれ、「流石ですね」と高射幹部たちは大袈裟に感心してくれましたが私は「この程度、餅は餅屋だ」と一人でしらけていました。
警備訓練は演習の最終段階でした。各隊交代で防御エリアに展開し、そこで群の若い隊員で編成したゲリラを迎え撃つ、このゲリラたちは総合演習までに何度も集められて戦闘訓練をさせられ、やる気満々。一方、守る側は防御エリアに数十人の歩哨を隙間なく配置して守ると言うのがパターンでした。
私は、事前に防御エリアを確認し、その周辺は林、藪になっていて陸上自衛隊員なら兎も角、野外での行動に不慣れな航空自衛隊員では夜間に接近出来る経路は三方向のみと確信しました。
警備訓練では22高隊の隊員には紺色の航空ジャンバーを着用させて、「迷彩服の者は誰何なしで敵と判断せよ」と指示した上で、十人の管理小隊員をこの3方向のみに配置してゲリラを迎え討ち、「動いた奴は構わず撃て」と空砲数千発を撃ちまくり、朝まで守りきりました。
この勝利は「小隊長のお告げ」もあり、ゲリラの動きの先手先手を打ったこともありますが、何より、米軍への研修や戦史の研究で身につけたノウハウを駆使し、長年研究してきた戦時国際法の規定ギリギリの戦術を取ったことによりました。
このような戦術は航空自衛隊では前例がなく、もちろん教範にもないのですが、「ハーグ条約(陸戦規則)の規定に基づきこうします」と言う私の説明に誰も反論は出来ませんでした。
もっとも私自身は、自衛隊の訓練がクラウゼヴィッツの予言通り、平時に慣れた軍隊(自衛隊)では、実戦性よりも「基準通り」であることが重要視される体質に変わっていることは十分判っていて、このやり方が邪道として決して評価されないことも知っていました。要するに、たかが演習を「本番」などと言う高射幹部たちに、「警備のプロの仕事」を見せてやりたかっただけのことです。
私は、入校中のO1尉に代わって指揮所長として演習に参加したこともありました。
通常、指揮所長は運用職の幹部が代行するもので、これは異例のことだと「輸送幹部で大丈夫か」と言う群本部や射撃小隊員の心配をよそに私は例のごとくウキウキしながら演習に参加しました。
その演習で問題発生、22高隊と部隊を統制指揮する指揮所運用隊との通信回線が構成できないのです。これは警戒管制部隊では時々あるトラブルで、私は、即座にその対処要領に習い、他の隊との交信チェックを行い原因が22高隊にあるのか、それとも指揮所運用隊にあるのかを確認させ、迂回する通信ルートを確保させようとしました。
ところがそこで隊長は「そんなやり方は高射部隊のマ二ュアルにはない、勝手なことをするな」と一言。結局、両隊が通信機材の点検を始め、虚しく通じない指揮所運用隊との交信テストを何時間も繰り返すことになりました。
弾道ミサイルからわが国を守るというミサイル防衛構想を担うのはこの高射部隊なのですが、私は経験上、その実効性に懐疑的にならざるを得ません。
高射隊管理小隊は輸送、車両整備、補給や施設、警備などの後方支援業務全般を担当していますが、幹部は輸送幹部である管理小隊長だけでした。
このため最初に高射隊管理小隊へ配属された隊員は、輸送員を除けば各専門職の幹部の下で働いたことがなく、このため幹部の視点からの指導を受けたことがないため、現場の論理だけで動くようになっているようでした。
その点、私は元航空機整備員であり、前任地の防府では補給や施設の担当幕僚として勤務し、輸送、警備は本職だったので管理小隊長には最適任者でした。
小隊事務室で私と机を並べる補給職の若い空曹たちは非常に優秀だったものの、要望のあった物品を手続きを踏んで取得すると言う業務処理にだけ習熟し、部隊の動きを読んで先行的に必要性を予測することや一つの手続きで取得できなかった物品を他の方法を使って獲得することまでは考えないようでした。
私は防府で学んだ「業計要望は3年前、調達要望は1年前、物品取得要望は半年前に行う」と言う補給幕僚の原則を指導し、大阪出身の曹候学生の後輩には「大阪商法と東京商法の比較」と言う業界誌の資料を読ませ、総括班や各小隊に「モウカリマッカァ」と御用訊き回りすることを指示し、また津軽出身のもう一人の空曹には地元人脈を活かして分屯基地の補給小隊や隊本部で今後の動向を探ることを命じました。
また入荷した物品の検査について、新型機導入にあたり数万個単位で入荷するボルトなどの部品を補給処では徹夜で全て検査することを話し、「これが航空自衛隊のお役所仕事だ(=費用対効果を無視した完全主義)」「同じ補給員がやって、君たちがやらないでどうする」と妥協を許さないことを徹底しました。
こうして幹部の視点からの補給業務を一通り教えたところで、彼らを航空団の補給隊に触れさせようと千歳基地へ研修に出したのですが、膨大な業務をコンピューターで迅速に処理し、補給処や各基地ともオンラインで情報交換するネットワーク化が進んでおり、カルチャーショックを受けて帰り、「将来のためには武者修行をしなければ」と思わせることができました。これも幹部の視点からの隊員育成です。
一方、車両整備については、整備ミスで墜落すれば人命を失う航空機整備と故障すれば停車すればいい車両整備では考え方が全く違い、車両数が少ない高射部隊ではむしろ迅速性を優先することが判り、整備班長のベテラン空曹に任せることとしました。
ただ幸いなことに根っから江戸っ子職人気質の若い空曹や上州人気質丸出しの一種の天才型の空士(後に空曹)がいて、彼らとは雑談的な職人談議を交し、結果的には遺言を残すことができました。
最後に輸送ですが(第22高射隊に施設と警備の配置はなかった)、こちらは車力と三沢往復の恒常業務だけをもって存在理由としていることを打ち破ろうと「打倒トラック野郎」を掲げ、民間でも「長距離」と呼べる距離を走ることを目標としました。
ただし、運用優先の考えが極端に強かった第22高射隊では訓練予算を確保することが難しいため、そこでいつもの悪知恵を絞りました。
要するに宿泊先を他所の基地にすれば移動の高速料金は輸送サイドで手を打てると言うことで、最初は新潟分屯基地、翌年は愛知県の小牧基地までの車両操縦訓練を実施しました。
この理由として「高射部隊のペトリオットミサイルを生産する工場が名古屋にある以上、自力での移動を経験させる必要がある」と高射幹部が泣いて喜びそうな謳い文句を考えましたが、本当はプロのドライバーとして閑散としている仙台以北の東北自動車道ばかりでなく、日本の大動脈・名神高速道路の交通量を経験させたかったのです。しかし、これが私自身の退職準備になるとは計画段階では思ってもいませんでした。
その頃、航空自衛隊では幹部だけにある人事指導が達せられていました。
それは「不況の状況下、良質の隊員の確保が可能になった。隊員の質を向上させることは急務であり、このためバブル期入隊の空士は原則として昇任をさせず、任期満了時に退職させる方向で指導せよ」と言うものでした。
このため3等空曹への昇任試験の学科の問題は並みの幹部でも頭を捻るほど難解になり、古手の空士たちは深刻な不況下、何とか3等空曹になって自衛隊に留まろうと頑張っていましたが、それを励ますことも出来ず私自身悩んでいました。
むしろ私は航空自衛隊の人事担当者の体質に強い不信感を抱き、空士たちには好い就職を見つけ転職することを勧め、三沢の援護担当者(偶然にも沖縄時代の職場の先輩でした)を通じて、打てる手どころか裏技まで駆使しました。
さらに6高群の人事班長に対し「同程度の試験問題で隊員の素養を評価して昇任を判断するべきだ。それをバブル入隊は切れと難問で点を落としてまで退職に追い込むのは卑怯・姑息だ」と人事の「非」を批判し続けました。
この強硬な態度は幹部候補生学校の同期であり、春日でも同僚であった人事班長の心象を著しく害したようで、時には「(精神状態は)大丈夫ですか?」「ヒョッとして坊さんに専念する気ですか?」などと皮肉な言葉を投げかけるようになりましたが、それも私には「自決」のウチでした。
- 2012/08/09(木) 08:58:46|
- 自衛隊戦記
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昭和20年の明日8月9日の未明、満州と南樺太(千島は少し遅れた)ではソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦を開始しました。
日ソ中立条約は「相互不可侵」「第3国の軍事行動を受けた時も中立を守る」「満洲国とモンゴル人民共和国の領土保全と相互不可侵」を約して昭和16年に締結され、有効期間は5年間、満了の1年前にいずれかが破棄を通告しなければ更に5年間の自動延長が定められていました。
このため日本はドイツ、イタリアと三国軍事同盟を結んでいても、独ソ戦には加担せず中立を守ったのですが、ソ連はヤルタ会談で一方的に対日参戦を約束し、条約を無視して侵攻を開始したのです。
しかも、それは8月15日に日本がポツダム宣言を受諾し、ソ連を含む連合国に対して無条件降伏してからも継続され、文民(民間人)を含む多くの犠牲者を出しました。
しかし、昔から日本ではこれに抗議する活動は行われず、この手の「平和」行事が誰を主体に行われていたかを考えざるを得ませんでした。
- 2012/08/08(水) 10:02:16|
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明日8月9日は長崎の原爆の日です。
小庵での慰霊法要では、御詠歌(讃美歌?)に代えてこの歌を唄っています。
長崎の鐘
詞・サトウハチロー 曲・古関裕而
こよなく晴れた青空を 哀しと思う切なさよ
うねりの波の人の世に はかなく生きる野の花よ
なぐさめ 励まし長崎の ああ長崎の鐘が鳴る
召されて妻は天国へ 別れて一人旅立ちぬ
形見に遺るロザリオの 鎖に白き我が涙
なぐさめ 励まし長崎の ああ長崎の鐘が鳴る
つぶやく雨のミサの声 讃える風の神の歌
輝く胸の十字架に 微笑む海の雲の色
なぐさめ 励まし長崎の ああ長崎の鐘が鳴る
心の罪をうち明けて 更けゆく夜の月明けぬ
貧しき家の柱にも 気高く白きマリア様
なぐさめ励まし長崎の ああ長崎の鐘が鳴る
ああ長崎の鐘が鳴る
永井隆博士の「長崎の鐘」「この子を残して」の哀しくも甘い文章にもまして藤山一郎さんが美声で謡い上げる切ない調べですが、この歌の大ヒット以降、長崎=カトリックと言うイメージが定着してしまい、年末の「ゆく年くる年」でも他所は除夜の鐘なのに、長崎からはカトリック教会のミサの風景が中継されています。
野僧も隠れキリシタンの末裔と言う友人がいますが、彼らは自分たちのカミを「上」にかけて佛教徒を「下」と呼び、佛教徒とつき合うことを「下にくだる」と見下していました。
雲仙、島原のキリシタン弾圧、殉教の歴史も重なって長崎のカトリックには悲劇的で純粋なイメージをありますが、イメージばかりが先行するのも考えものです。
あの日、永井博士の上に落とされた原爆もキリスト教者により「カミの名の下に」投下されたモノであることを忘れるべきではありません。
「怒りのヒロシマ」「祈りのナガサキ」ああ長崎の鐘は鳴る「ゴーン」合掌。
- 2012/08/08(水) 10:00:25|
- 日記(暦)
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私が空き隊舎の管理人をやっていた平成7年1月17日の早朝、阪神・淡路大震災が起りました。
この頃、航空教育隊は2月に基地で開催される航空自衛隊武道大会に備えて、その準備に励んでいましたが、山口駐屯地の陸上自衛隊、岩国の海上自衛隊だけでなく防府北基地からも災害派遣部隊の出動する様子が地元のニュースでも連日報じられているのを見て、ジリジリするような焦りを感じていました。
航空自衛隊でも救難隊や輸送隊は現地での患者や物資の輸送に活躍し、陸海空自衛隊にとって総力戦の様相を呈しているのは防府南基地でも分かりました。
大会準備にあたっている隊員たちの間では「大会は中止になって災害派遣に出動する」と言う噂が流れ、状況から言えば「それが当然だ」と誰しもが思っていました。
しかし、そんな中、航空教育隊司令が発した「他の部隊の選手が災害派遣に行っているのなら我が航空教育隊は全種目制覇できるはずだ。よし、もらった」との言葉が伝わり、我々は愕然としました。
実際、航空教育隊は炊き出し要員と称して基地業務群の隊員とワザワザ呼び出した埼玉県の熊谷基地の第2教育群の隊員を派遣してお茶を濁したものの、武道強化訓練には一層の拍車がかかり、我々も準備を継続することになりました。
しかし、私は作業にあたっている若い空士たちから「モリノ2尉、俺たちこんなことをやっていても良いんでしょうか?」と問われたのに答える言葉がありませんでした。
私は以前から福岡県の博多にあるM僧堂に修行に通っていて、そこの修行僧たちから「宗教ボランティアの炊き出しで現地に行くから一緒に来てくれ」と誘われ休暇申請したのですが、直属上司の大隊長から「こんなことをすれば若い者たちまで真似しかねない。軽率な言動は控えろ」と厳しく指導を受けていたのです。
結局、航空自衛隊武道大会は開催され、隊司令の目論見通り航空教育隊は全種目で完全優勝しましたが、敗れたチームの選手たちは「災害派遣がある」と閉会式を辞退=拒否して早々に部隊へ戻ってしまい、「拍手をする者がいないから」と課程教育中の学生を閉会式に出席させる異常事態になりました。
春日や浜松から来ている選手たちは私を見つけると、「モリノ2尉、こんな所で遊んでいる場合じゃあないですよ。一緒に帰りましょう」と声をかけ、「どうせ航空教育隊が優勝するんでしょう。でもこんなに恥ずかしい優勝ならしない方が好い」と皮肉に笑って行き、私はその背中を唇を噛み締めて見送るしかありませんでした。
- 2012/08/08(水) 09:57:30|
- 自衛隊戦記
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「航空自衛隊怪僧記」(防府南編)
防府南基地は、私には忌門でありました。
防府南基地には航空教育隊、すなわち航空自衛隊に新しく入ってきた幹部以外の隊員に基本的な教育を行う部隊がありますが、この一番航空自衛隊的でなければならないはずの部隊が「航空自衛隊にあらず」と言う状態なのです。
それは私が浜松で転属の申告に行った時も団司令は敬礼の後、「チョッと」と顔を近づかせ、「大きな声では言えんが、俺は航空教育隊のあり方には疑問を持っている。お前が頑張ってくれることを期待してるぞ」と言われたくらいでした。
ところが受け入れた航空教育隊側では浜松での私の噂を聞いていたため、始めから「改革をもくろむ」要注意人物と見ていて、私が転属の直前に病気で入院し、転属が1ヶ月間延期になったことを理由に「健康面に不安がある」と、本来は区隊長か中隊長要員として転属したにも関わらず教育には一切ノータッチ、使っていない隊舎の管理責任者を任され、1人で隊舎を隅から隅まで掃除する毎日を送ることになりました。
もっとも病み上がりで掃除好きの私には、自分のペースで掃除して、ライフワークの戦時国際法の勉強と戦史の研究と称して戦争映画のビデオを見て、あとは駆け足に水泳と言う勤務は極楽でしたが。
その話を民間の友人にしたところ、「そう言うのを民間では『窓際族』と呼ぶんだ。お前何かしたんか」と心配してくれました。そんな生活は幹部学校に入校するまで半年以上続きましたが、身体には本当によかったです。
航空教育隊は航空自衛隊の創設以来、やってきた教育内容はほぼ同じ、「教育の一貫性」を隠れ蓑に変化を一切拒否してきました。
所属する隊員も「教育職」と言う教育部隊以外には配置が殆どない職種のため転属がなく、入隊以来同じ内容の教育をずっと繰り返していればいいのだから、最も嫌うのが、教育内容が変更されて新しいことを勉強しなければならなくなることだったのです。
また彼らは教育職と言う人を扱うのに長けた連中ですから、エライさんに取り入ることは朝飯前、「改革」を目指して乗り込んできた幹部や他の部隊から来た隊員まで「アッ」と言う間に取り込まれて、彼等一流の演出に引っかかって自分が何か素晴らしいことをやっているような気になって、そのうち感動を胸に転属と言うのがパターンでした。
逆に、どうしても取り込めない者はエライさんなら祭り上げて蚊帳の外、それ以外は徹底的に排除する。私は、現在の官公庁、国家公務員の体たらくと同じ構図を、すでに防府南基地・航空教育隊に見ていました。
しかし、幹部学校を卒業してから私の勤務は一変しました。
曹候学生、幹部候補生の時、区隊長としてお世話になったN3佐が、群本部の長・教育主任になったのを期に私を第1教育群本部の幕僚に呼んだのです。
そのポストは本来、部隊運用、部隊訓練、秘密保全から補給、施設、輸送に品質管理(後に安全まで追加された)にまでわたるヤヤッコシくて大変なもので、ずっとなり手がなく定年直前の人が時間合わせでつないでいたような状態でした。
おまけに当時の群司令・I1佐は、プログラム幹部出身で、「正しい答えしか絶対認めない」と厳しいことで評判の方でした。
「もう決まりましたから、断れませんよ」と目黒の幹部学校への配置換えを伝える電話で同情した所属大隊の本部班長に私は、「誰が断ると言いました、楽しみだァ」と答え、春日以来の幕僚魂に火が点きました。
とは言ったものの着任して驚いたのがその仕事の杜撰さでした。
それまでの担当者は計画、命令から各種要望まで、すべてが前回のコピーに日付と名簿を変えただけで対応しており、資料や文書を整理し始めると同じ物が山ほど出てきて、よく見ると年度だけが違うのに驚き、何がなんだか判りませんでした。
整理を終えてみると無駄な資料がバインダーに百以上、ロッカーが1個半も空になり、若い隊員に焼却させると丸2日かかりました。
また、予算業務も滅茶苦茶で、特に本来は厚生活動である基地の硬式野球部に教育訓練の予算を恒常的に流用している実態が明らかになってきました。
さらに年度末の余剰予算でスポーツ用品や家庭用品を学生教育用の名目で大量に調達し、それを隊員たちに分配して私的に使用させているなどの違法行為が当たり前のように行われていて、私がそれを指摘すると「被服を綺麗に洗濯するのは躾指導の一環だ」「体力増進を家でやっているだけだ」と幹部が平然と答える始末でした。
私は群司令にそのことを報告しつつ指導を仰いだところ、群司令も驚かれ(調達は隊長等の専決事項で群司令はノータッチ)、すぐに調査と報告を命ぜられました。
が、驚いたの私の方で、それを知った群本部のほかの幹部たちは、「それ(予算の流用)は航空教育隊が長年やってきたことで公然の秘密だ」「基地の野球部は基地司令のお気に入りだから下手に触るとまずい」と親切に助言してくれたのです。
私は、入隊以来信じてきた航空自衛隊の倫理が通用しない世界があることを知り愕然としました。
それでも私は実態を調査し群司令に報告し、すると群司令は「野球部の練習場を整備しろ」と基地司令が言えば、それまでは多額の教育関係の予算を持つ第1教育群に話しが回ってきていたのを黙殺されるようになり、「それでは厚生関係予算で」と基地業務群司令が助け舟を出す気まずい関係になってしまい、以前以上に関係が悪くなってしまったそうです。その意味では、私は不忠の臣なのかも知れません。
ただ、その時、私の頭にあったのは、春日での「幕僚は司令の頭脳の一部であるべきだ」と言う教示で、「自分は群司令の頭脳としてこの件に気づいたのであり、それをどうするかは司令の決めること」と言う幕僚としてのあり方の再確認でした。
この件以降、私以上に清廉潔白で純真剛毅な群司令は、歴史好きと言う共通の趣味もあり非常に可愛がって下さいました。
次に私が取り組んだのは業務の正常化です。この表現でも航空教育隊がどれほど異常な実態だったかがわかると思います。
航空教育隊では以前、命令の決済をもらうのにも「前回どおりです」と言えば「教育の一貫性上間違いがない」とされてきました。
ところがI群指令は、「前回どおりです」と言って決済をもらいに行くと、「前回は問題点はなかったのか」と前回の訓練の報告書を持ってこさせて、指摘してある問題点を「なぜ改善しないのか」と問われるのです。
こう言う対応に免疫のない教育隊育ちの連中は群司令を怖れ、避けていましたが、私にとっては唯一航空自衛隊の常識が通じる相手として信頼、尊敬していました。
航空教育隊は飛行機を飛ばす訳ではなく、領空を監視管制をするのでもなく、教育とは言っても、術科(技術)教育のように学生の能力が落ちれば部隊の戦力低下に直結する訳でもないため、ある意味全く責任がなく、それに慣れている隊員の無責任な体質は、口にするのもはばかられるような状態でした。
とにかく「やったことにする」のが当たり前で、施設の管理にしても物品の管理にしても武器の管理までも、検査に入ると何もやっていない。
それを指摘すると「あッ、記録漏れですね」。実際に現場で管理の不備を指摘すれば、「あッ、抜けていました、すぐに直します」と巧みに言い訳し、あまり細かく指摘すると「あんた、痛い目に合うよ」と耳元でささやく。
私は、地方公務員の「お役所仕事」を「緊張感がないから組織が堕落するのだ」と馬鹿にし、嫌っていましたが、まさか航空自衛隊の中でそれに直面することになるとは思いませんでした。
私は、あくまでも自分の意志とは関係なく群司令の幕僚として、その清廉潔白、純真剛毅な理想を実現すべく全力を傾注しました。
そして、このI群司令の下にあった1年間で私は徹底的に嫌われ、「群司令の威を借る狐」「群司令のスパイ」と呼ばれるようになっていました。
やがてI群司令は去られ、後任にS群司令が着任されました。この方は、航空自衛隊生徒の出身でパイロット崩れのナビゲータ―でした。
生徒出身と言うことは15歳から航空自衛隊にいたわけで、全身に自衛隊の毒が回っていると言うか、自衛隊の常識だけで生きているような方でした。
この群司令は着任早々の幹部挨拶でいきなり私の剃髪している頭を問題にしました。
「何だその頭は」「はァ、坊主です」。すると群司令の隣で当時の総務班長が助け舟のつもりで「モリノ2尉は僧侶の資格を持っています」と説明しました。
それを群司令は副業で坊主をやっている不届き者だと誤解したようで、「すぐに髪をのばせ」「もう禿げているので多分のびません」「お前は自衛官か坊主か」「制服を脱げば坊主です」と言う禅問答もどきが始まり、初対面からいきなり嫌われてしまいました。
おまけにI群司令の後ろ盾を失った私に1教群の隊員たちは「今までどおりにはいかないぞ」と凄み、また施設や物品の管理に手を抜くようになって、その不備の原因は私の指導力不足とS群司令には思われたようでした。
そんな折、航空幕僚監部から予算縮小に伴う施設(予算の)要望の再検討を通達してきました。その頃の航空教育隊の施設整備計画は、バブル期のピーク時2千人弱の学生数を基に作成されていて、その頃の年間千人強程度の学生数では、すでに改修が終わっている隊舎でも十分でした。
そこで、私は人口動態統計まで用意して、今後の少子化傾向の中で学生数の大幅な増加の可能性は低く、学生用隊舎の転用と予算要望の縮小を航空教育隊本部の施設幕僚と独自に検討していました。
群本部の幕僚の会議の席でこの件を報告すると、群司令は「予算は取れる時に取るもんだ。お前は仕事をするのが嫌なんだろう、職務怠慢だ」と切って捨てられ、私が「航空自衛隊全体を考えれば優先されるべきは第一線の部隊」と抗弁すると、「たかが2等空尉が何を言うか」と鼻で笑われました。
私はI前群司令に、「モリノ2尉の要望理由は説得力がある。多分、予算がつくだろう。だからこそ要望内容はよく精査しないと国に予算の無駄遣いをさせることになる」と指導されたことを思い出しながら言葉を失いました。
会議の後、同じ群本部にいた同期・M2尉が「そんなこと(群司令への反抗)をしていると折角、頑張っているのに潰されてしまうぞ」と心配してくれましたが、後にその通りになりました。
そしてトドメが、あの硬式野球部でした。
基地司令が交代し、新しい基地司令は大の野球ファンで、当然のように基地野球部の強化を言い出し、それには厚生関係の予算では足らないことが話題になりました。
群司令は基地司令の意図を体して教育関係の予算の流用を指示されましたが、私はやはり「それは法令規則上出来ません」と断り、すると群司令は「これは命令だ」と強く言われました。しかし、私は敢えて返事をしませんでした。
会議の後、新たに教育主任になっていたK3佐は「群司令も違法と知っていて命令されてはるのやから、その立場を汲んで実行するのも幕僚のあり方やでェ」と極めて日本的な幕僚学を優しく語ってくれましたが、私は「違法な命令には従えません」とこれも拒否しました。
するとK3佐は、「アンタは、いつも本質を考えてるけど疲れるやろ。軍隊ってもっと単純なもんやで」とある面、自衛隊の本質を捉えた言葉を付け加え、補給・調達請求権限を有する者として私を飛び越えて直接補給係の隊員に、野球部がここぞとばかりに要求してきた物品の調達申請を指示しました。
それでもK3佐はいつも「ワテはアンタの生き方が好きやで、尊敬もしとる」と言っては十歳も若く階級も下の私と対等に付き合ってくれました。
このK3佐が航空自衛隊三奇人のもう1人と言う説もありました。
硬式野球部への予算流用の件は意外に長く尾を引き、数ヵ月後に行われた会計検査の準備会議の席上、群司令は「モリノ、内部告発などしても得るものはないぞ」と言い、「お前は、検査官の前に出るな」と命じました。
その後も群司令は現場から直訴された無理難題とも言える要望を私に与え続け、K3佐は「それは、群司令が忠誠心を見せるチャンスをくれているのだ」と言ってくれましたが、私はどうしても首を縦にふれませんでした。
私は「司令の頭脳」と言う幕僚の本質について悩み、「俺は群司令の中の良心の呵責か」と自嘲していました。
そんな折、私は浜松市内の臨済宗と曹洞宗の坐禅の師に助言を求めました。
臨済宗の師は「お主の美意識を殺すか、将来を殺すか、竿頭一歩(「竿の先端から一歩を踏み出せ」と言う公案)じゃな」と示されました。
一方、曹洞宗の師は「自我を捨てて立場になり切れ」と諭しました。
しかし、私の行動は自我=個人の見解ではなく、上司の違法な命令に従順であることが道であるか、拒否することが法であるかを問うているのですからこれでは回答になっていません。
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」この吉田松陰先生の歌が、巻頭一歩を踏み切ろうとする私の心境でした。
その頃の私は、もう1つのライフワークである武士道研究に逃避していました。
私は三人の幕臣水野忠邦の天保の改革のブレーンになった矢部定謙、遠山金四郎そして鳥居耀蔵の生き様に自分の置かれている状況を重ねていました。
老中・水野忠邦の非現実的な命令指示に対して、矢部定謙は真正面から受け止め、その矛盾点を論破していった。一方、遠山金四郎は、表面上は承諾しながら実際には故意に棚上げ、お蔵入りにしていった。最後の鳥居要蔵は、逆に水野忠邦に取り入り、権謀術を駆使してライバルを葬り、目障りなものを抹殺していき、水野が失脚する直前に寝返った。
矢部定謙もこの鳥居の策略によって、謂れのない罪を着せられ、桑名藩にお預けの身となり死んでいますが(鳥居は、渡辺崋山、高野長英を蛮社の獄で葬った首謀者でもある)、私はタイプ的にどうも矢部定謙に近い。鳥居耀蔵にはなりたくもないが遠山金四郎にはある種の憧憬を感じました。
私にとって不運だったのは、2つのギャップでした。1つは、前群司令と現群司令の考え方のギャップ、そして、群司令と私の人間性のギャップ。これを上手に切り替えられるほど私は器用でも賢くもなかった。
何よりももっと器用で賢こければ、所詮は前のコピーで通用していた程度の仕事だったのなら、私もそうして予算が取れなくても「要望、申請はしたんですがね」と言って放っておく技も使えたでしょう。
基地の実務を担当する基地業務群では、以前から第1教育群、教育職隊員の「なんでも電話一本で済ませて正規の手続きを踏まない」「無責任、滅茶苦茶な施設、物品の管理」などの横暴、非常識、無責任さに長年にわたって悩み、困り、腹を立てていて、その中で基地業務群の仲間である輸送幹部の私が孤軍奮闘している様子には好意的、同情的でした。
当時の基地業務群司令はW寛人1佐と言い、名前の寛人は「ひろんど」と読みました。
このW1佐は私が本来、基地業務群に属するべき輸送幹部であることを知り、また私の名前が「典人(俗名)」と言うことを知って「のりんど」と呼んでは可愛がってくれました。
「のりんどよォ、早く1尉になれよ。そうしたらウチで管理隊長にしてやるからよォ」とW1佐は励ましてくれました。実際、防府に転属する時には輸送幹部サイドではそう言う話もあったのですが、状況はその逆の方向に動いていました。
ある時、航空教育隊本部で人事幕僚をしていた同期が、そっと耳打ちしました。
「お前の勤務評定がA2尉とひっくり返えされているぞ」、理由は「上官への不服従」と説明されたそうです。
A2尉と言うのは1教群の総務人事課長で、私よりも幹部候補生は2期後輩でしたが、群司令と同じく自衛隊生徒出身でした。
この人間こそ、まさに航空自衛隊の鳥居耀蔵、いや鳥居の生まれ変わりと言うべき輩で(顔まで似ていた)、権謀術の権化、特に人から他人の批判を聞きだして双方に中傷し、敵対させて自分の味方に取り込む技は、生徒以来の長い自衛隊生活で身につけた処世術だったのでしょう。
A2尉は私が群司令と意見が対立するたびに私のところへ来ては、慰め励ますような顔をして「前司令の時はどうでした」「基地業務群的にはどうですか」と尋ねていきましたが、恐らくはそれが「前群司令を懐かしがっている」「基地業務群司令になびいている」と言う中傷として群司令の耳に届いていたのでしょう。
私は春日・西警団司令部の時に仕えた人事部長から「昇任には幹部になってからの勤務評定が大事だ」と言われたことを思い出し、私の期の1尉への昇任が始まったこの時期に勤務評定を後の期の者とひっくり返されたことで「自分の幹部としての将来が終わった」ことを覚りました。
そして後に、私は航空自衛隊幹部名簿の2尉のトップ、つまり航空自衛隊で最も昇任の遅い2尉と言う称号を得たのです。また浜松から描いていた在外公館警備官への夢も、このために潰えました。
案の定、A2尉は幹部候補生学校の序列からは異例のタイミングで1尉に昇任しました。
A1尉は昇任した後、私のことを「大恩人」と呼んで笑っていたそうですが、そうでしょうとも。
私は調整もないままに突然、車力への、しかも1尉への昇任資格を得た後と言うタイミングとしては異例の小隊長への転属が内示されました。
内示を伝えた群司令は、わざわざ日本地図を用意していて、「車力はなァ、ここだぞ」と津軽半島の先端を指差しました。
そこで私が「御出身地(群司令は青森の野辺地の出身)へ行かせていただき有難うございます」と言うと「津軽と南部は違う」とムッとして答えました。
青森の野辺地は江戸時代の偉大な探検家・最上徳内が、松前藩からの入国拒否にあって、蝦夷地の情報を得るために滞在したところで、妻もこの地で娶りました。
私は歓迎の宴席で歴史好きだったI群司令にしたようにS群司令にその話をしたところ、「俺の知らないことを知っていた=恥をかかせた」と機嫌を損ねたことがありましたが相性が合わないということは何をやっても駄目、恐ろしいものです。
この転属の件も民間の友人は「そう言うのを民間では『左遷』と言うんだぞ。お前何かしたのか」と言いましたが、確かに何かしました。
実は車力の第6高射群第22高射隊へは浜松からの転出時にも調整があったのですが、その頃、幼児だった二男に重病が続いていて、近傍に大きな病院がない車力への転属を断り、防府へ来ることになったのでした。
私は、車力では肩の力を抜いて小隊員と本音で付き合い、楽しむ(遊ぶ)ことを目標にしました。
- 2012/08/07(火) 11:02:23|
- 自衛隊戦記
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「モリノ、来てくれ」平成六年の夏、いつものように防衛部に顔を出した私を、防衛班長が無人のWOC(団指揮所)に連れ出した。
「これは極一部の者しか知らない話だが、米軍が六年七月十四日に北朝鮮の各施設を攻撃する計画がある」防衛班長の顔は少し青ざめて強張っている様に見える。
その頃、浜松ではAWACS(早期警戒管制機)の配備計画が噂されており、以来「練習機、教育部隊が戦闘部隊に変質する」との過剰な、先走った反対運動が始まっていた。基地へも小規模ながらデモや抗議運動、爆破予告などが散発しており、私が防衛部に顔を出したのも、その件の報告と打ち合わせのためだ。
当時、北朝鮮の核開発計画が米国政府により暴露され、米軍は空母艦隊を日本海に派遣するなど、わが国周辺も緊張が高まっていたが、相変わらず日本人にはどこか他人事のようだった。
「米軍と北朝鮮の戦力差を考えると、これが即全面戦争の引き金になるとは考えられないが・・・」「警備的には朝○総連の動向ですね」私が言葉を引き取ると防衛班長はうなづいた。防衛班長・K2佐は元ブルーインパルスのパイロット。奈良・幹部候補生学校での教官と学生の関係だったが、講義、休憩を問わずに質問攻めにする「教官泣かせ」の学生だった私は、特に印象に残っていたらしく、K2佐が防衛班長として着任した直後からツーと言えばカーと言う関係になっている。
「防衛出動命令も治安出動命令も待機命令も出ませんよね」「アア」私の質問に防衛班長は首を振った。
「すると武器使用の権限は今のまんま、相手はマジで攻撃してくるかも知れないのかァ」「モリノ、死んでくれ」防衛班長は、マジとも冗談ともつかぬ口調でこう言った。
「いいッすネ、一丁やりますか!」「相変わらずだな」私のお気楽な台詞に、防衛班長は呆れた様に笑った。
出動命令が発令されぬ平時の自衛隊の武器使用は警護を命ぜられた者が、然も正当防衛か緊急避難の場合に限られている。そして、世論は必ずしも自衛隊に味方していない以上、合法であっても過剰な対応をとればマスコミからの激しい批判は免れない。
それから連夜、私たちは他の隊員が引き上げた夜、防衛部やWOCで「何が出来るか」「何をするのか」の検討を重ねた。
防衛班長からは警察などからの基地周辺の治安情報が示されたが、結論的には「銃器や爆発物を使用した破壊活動の危険性は低い」「(その頃、成田で発生した)官舎への攻撃の可能性はある」、何より「秘密保持のため命令などの処置は一切出来ず、上司を含め隊員への口外は無用」と言うことだった。
「根拠命令なしで警備の強化ですか?」「ウン」私の確認に防衛班長は困惑した顔でうなづき、しばらく二人とも黙っていた。
「それじゃ、得意の訓練と言うことで、いきますか」私の中で次第にイメージは出来てきた。私は警備小隊長になった時から在日米空軍、海兵隊の警備部隊や警察の機動隊への研修を重ねて警備戦術を研究し、その成果を訓練として実行している。
警備小隊はいつも、私が個人的に調達した迷彩服(六〇着)を着て格闘や機動隊、侵入者捜索などの訓練に励んでいて、基地中から「モリノズアーミー(モリノ軍)との仇名を貰っていた(職権乱用との非難も受けていたが)。
「外から目立つ所で訓練をやって警備力をアピールする」私の提案に防衛班長は大きくうなづいた。
「丁度、AWACSで揉めていて警備の訓練を強化しても不思議はないし、変な訓練、激しい訓練はモリノズアーミーではいつものことだナ」防衛班長の台詞に私は顔を見返して笑った。「失敗したら切腹だな」笑いながらも私は、いつもの「自決」の覚悟を決めていた。多分、防衛班長も同じ心境だったであろう。
「AWACS導入決定に備えて警備訓練を強化する」私は警備小隊員をはじめ関係上司にさえもそう説明した。
それ以降、警備小隊員たちは警衛勤務でも常に迷彩服を着用し、基地の外柵付近やゲート近くのグランドで侵入者捜索訓練や警備犬訓練を繰り返した。
効果はてき面、「自衛隊は特別な訓練を始めたようだが、何かあるのか」と言う問い合わせが基地に届くようになって、「周辺住民を刺激するようなことは控えろ」との監理部総務班長、関係上司の指導を私は敢えて無視した、否、無視するしかなかった。
そんな折、外柵の警報線が毎深夜に切断される事件が起こり、警備小隊員たちは、通常の警備勤務に加えてこの事件に対処することになった。
ある者は茶畑に、ある者は建物の屋上に、ある者は生垣の影に配置され、市街地では目立つため交代なしで六時間の監視活動を行った(=警察の機動隊方式)。
(この頃、ジミー・カーター元大統領がクリントン大統領の特使として北朝鮮を訪問し、金日成主席と会談して北朝鮮の核開発疑惑は一応の解決を見た)。
しかし、監視活動は約二カ月間続き、隊員の疲労を心配して声をかけた隊長に若い隊員は、「警衛は片手間の仕事、こっちはウチラの仕事ですから」と笑って答えた。
また、監視要員のやりくりに悩む先任空曹に、夏に配置になったばかりの新兵が「僕たちも先輩たちと一緒に訓練に参加しているじゃないですか。監視にも参加させて下さい」と言い出して「小隊長、今の若い者もいいですね」と先任空曹は涙ぐんでいた。
私は約二ヶ月、これを陣頭指揮するため連日徹夜、午前中仮眠、午後から勤務と言う生活を送りついに病に倒れた。指揮官としてはあるまじき事である。
しかし、「小隊長の仇をとる」これを合言葉にした隊員たちの不眠不休、粘り強い努力により、ついに切断現場をビデオで撮影することに成功し事件は解決した。
その報告を私は入院中のベッドで武人として無念の涙を流しながら受けた。
- 2012/08/06(月) 10:18:56|
- 自衛隊戦記
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明日8月6日は広島の原爆の日です。
小庵でも戦没者慰霊法要を厳修しておりますが、最初に御詠歌に代えてこの歌を唄っています。
死んだ少女
詞・ナジム・ヒクメット 訳詞・本田路津子
扉を叩くのは私 貴方の胸に響くでしょう
小さな祈りが聞えるでしょう 私の姿は見えないの
八月六日の夏の朝 私は広島で死んだ
そのまま七つの女の子 いつまでたっても七つなの
私の髪に火がついて 目と手が焼けてしまったの
私は冷たい灰になり 風で遠くへ飛び散った
私は何にもいらないの 誰にも抱いてもらえないの
紙切れのように燃えた子は 美味しいお菓子も食べられぬ
扉を叩くのは私 みんなが笑ってくらせるよう
美味しいお菓子が食べられるよう それが私の祈りです。
野僧は昭和63年8月7日に呉基地で行われた海上自衛隊の一般幹部候補生(大卒者対象)の二次試験を
受験するため、この6日に航空自衛隊の制服を着て広島駅を通過しました。
ところが平和式典が終了してデモ行進を終えた団体が呉線にも乗り込んできて、野僧以外は全員「原水禁」か「原水協」のゼッケンをつけた人たちで、たちまちのうちに取り囲まれ、呉駅に着くまで平和教育の受講と防衛問題の討論をする羽目になりました。
彼ら「原爆を投下して無抵抗の市民を大量に殺したアメリカの罪をどう思う?」
野僧「ではアメリカの原爆は許さないとしてもソ連(当時)の原爆は許すのか?」
彼ら「アメリカはすでに使ったがソ連はまだ使っていないから罪を犯していない」
野僧「日本が原爆を投下されたのは原爆と輸送手段がなかったからだ。三たび原爆を落とされないためには 報復手段としての核兵器を持つことだ」
彼ら「それは自衛隊で受けている教育か?」
野僧「これが日本では通じない世界の常識だ」
その時は潜水艦「なだしお」衝突事故の直後でしたがそれどころではありませんでした。
ただ、翌日の身体検査と面接試験を失敗したのはこの電車内で全精力を使い果たしたためではないかと恨めしい気分も少しあります。
その年、航空自衛隊の部内選抜の幹部候補生に合格しましたからどうせなら・・・。
- 2012/08/05(日) 11:51:51|
- 日記(暦)
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H司令は、私を警備小隊長にした張本人、当時の団司令・基地司令でした。
長野オリンピックの頃に航空幕僚長となられたのですが、我々がイメージする薩摩隼人そのままの豪放磊落で、情に厚く、頭の切れる素晴らしい方でした。
若い頃、ドイツに留学されていたことがあり、その時、ベレー帽を愛用していたとのことで浜松の警備がベレー帽にすると、そのかぶり方を直々に教育して下さり、隊員たちもすぐにマスターをして、ベレー帽を定着にさせるのに非常に助かりました。
ただ、私にはベレー帽の常時着用を命じられ、通勤からかなり公的な場でもベレー帽をかぶることになり、基地朝礼でかぶっていないと台の上から確認しておられ「ベレー帽をかぶっていなかった」と副官を通じて注意が届きました。
後に航空幕僚副長になられた時も六本木の航空幕僚監部で会って、正帽を持っているのを見つけられ、「何でベレー帽じゃないんだ」と言われてしまいました。
私が退職する時の決済はこの方がされたのですが、1ヵ月以上、決済を保留されて「モリノはまだ説得出来んのか」と言われていたそうですが、直属上司の高射隊長が辞めさせたがっていたので、その話は私の耳には届かず、後で空幕にいた友人から聞きました。
G司令は防大が主流の自衛隊には珍しく九州大学出身で、私が春日にいた時には西部航空方面隊の幕僚長でした。
ある時、退官者の見送りで司令官以下が並んでいるところへ私が遅れて駆けつけ、退官者のすぐ後ろを駆け抜けるというドジを踏んだのですが、あとで司令官以下に「ご無礼をいたしました」と謝りにまわったところ「無礼者」と怒鳴ったのがこの方でした。
しかし、浜松での再会後は本当に可愛がっていただきました。
ジョークが好きで年頭の訓示で「今年も残すところあと12ヶ月になった、年末に向けて業務に抜かりなく」とか、夏には「熱くて誰も聞いてくれそうもないので終わり」とか、隊員たちも司令の訓示を楽しみにするくらいでした。
この方の名言は一杯ありますが、忘れられないのが隊員の事故が続いた隊の隊長が指導状況の報告の最後を「(服務指導の)努力に限界はありません」と締めたところ、「違う、努力に限界はある、しかし、ネバーギブアップだ」と言われた台詞です。
後に西部航空方面隊司令官になられて、防府南基地を訪問された時、偶然、トイレの前の廊下に立っていた私に気がつかれて、「おお、ここに居ったか」と言われてコースを外れて歩み寄り握手して下さり、呆気に取られている航空教育隊司令に「おたくは、すごいモノを持ってますなァ」といつものジョークを飛ばして下さいました。
Y基地業務群司令は、北大阪市出身でアメリカ空軍士官学校の教官、フランス駐在官を勤められた国際通で、航空自衛隊のスーパーエリートと言われていました。
普段は京都弁、電話の相手により英語やフランス語を使い分けておられました。
私が警備小隊長を勤めた3年弱の真ん中の1年間、お仕えしたのですが「アンタ、おもろいなァ」と言って可愛がって下さり、私が始める変な訓練も「うん、それはフランス軍でもやってるわァ」などと許可し、資料まで取り寄せて下さいました。
この方が私を「海外に出してみたい」と言われたので、「PKOですか?」と訊くと、「アンタは戦争の防止任務には向かん」と在外公館警備官を勧めて下さいました。
空幕防衛部長や2空団司令の時も、吹けば飛ぶような2等空尉に直接電話を下さったり、退職後、航空幕僚長へ就任された時(田母神氏の前)も「もう民間人なんだから気楽に遊びに来い」と書いた挨拶状や年賀状を下さりました。
退職時には空幕防衛部長でしたが、「やっぱり、自衛隊に納まり切れなくなったんか?」と心配と励ましのお電話をいただきました。
- 2012/08/05(日) 11:47:47|
- 自衛隊戦記
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「航空自衛隊怪僧記」(浜松編)

私が、浜松基地の警備小隊長になった頃はバブルの狂乱好景気の末期で、給料が安く、制限が多い公務員はなり手がなく、自衛隊でも警察でも若い者の質は酷いものでした。
「自分の名前が漢字で書けない」「給料をもらっても集金が自分では払えない」知能レベルの子や保護観察処分逃れで自衛隊に入ったなどと言う犯罪歴(前科)持ちが新入隊員の半分以上と言うこともありました。
今、40歳代後半の警察官がやたらに不祥事を起こすのも、おそらくこの頃入った連中なんでしょう。
自衛隊は、任期制と言う短期契約なのでバブルが弾けて景気が悪くなり、質のいい隊員が入ってくるようになった時に、「バブル期に入隊した隊員は辞めさせる」と言う苦渋の決断をして首を切りましたから警察ほどの後遺症はないですが。
それから航空自衛隊は技術屋の集団ですから入隊した隊員は、知能と適性で職種を分けてしまい、別枠で採用するパイロットを除くと上は管制官、次に電子系統の整備員、航空機整備員、通信、気象観測と続き、下の方に事務系、肉体労働系ときて、特別な技術を必要としない警備は、ほかの仕事が出来ない者を集めるゴミ箱のようなところでした。
つまりあの頃の浜松の警備小隊は隊員の質が最悪の時に最悪な質の隊員が、それも所帯が大きいだけ(小隊と言いながら約60名)に大勢集まっていた訳です。
浜松基地は街中にありますから警備も仕事は多い、ところが働いている隊員の質は最悪だったので仕事のミスは多く、服務規律違反が続発していました。
ところが前任者の警備小隊長は、年配で温厚、苦労人だった分、隊員を大切にする人で、問題を起こした隊員もかばうばかりで有効な解決の手を打てませんでした。
そこで「警備小隊を何とかしろ」と言う団司令の命令があり私が起用されたのです。
私はその時、兵器管制幹部から輸送幹部へ(適性がないので?)職種転換したばかりで、警備小隊員の間では「エリートのポストを作るために自分たちを大事にしてくれていた小隊長が辞めさせられた」と言う噂が流れていて着任しても総スカン状態でした。
そんな時、警備犬を配置するために停車していた警備小隊のトラックにスピード違反の車が突っ込んで、同乗者が死ぬという事故が起きました。
すぐに関係者が集まり、隊員から事情を聴取したりしましたが、そこで問題になったのが、死んだ若者の葬儀へ弔問に行くとしてもそこで謝罪するかどうかと言うことでした。
若し、自衛隊側に責任があれば謝罪は早いほうがよく、逆ならば謝罪は無用の責任を認めることになる。会議では「どうせ警備の隊員の過失だろうから謝るべき」と言う意見が大勢で、私一人が強硬に「反対」して議論は平行線でした。
その時、私の頭にあったのは数年前に起きた海上自衛隊の潜水艦と遊漁船が衝突した「なだしお事件」でした。その事故では、まだ事故の実態が判らず海上自衛隊の制服トップ・海上幕僚長が「まだ自衛隊が悪いと決まったわけではない」と謝罪を拒否していた時に、当時の防衛庁長官が、マスコミの批判を怖れて一方的に謝罪し、このトップを無理やり入院している負傷者への見舞いに連れ回すと言う暴挙を行いました。
これをマスコミは、「自衛隊が責任を認めた」として「自衛隊が悪い」と一斉にキャンペーンを張り、それを前提に調査されて、原因は一方的に潜水艦側にあるように決着してしまいました。しかし、後で遊魚船の方が、お客に潜水艦を見せるために接近したと言う証言も出てきましたが、もう遅かったのです。
私は、その事故の直後に海上自衛隊一般幹部候補生の2次試験を受験していて、呉基地で会った海上自衛隊の幹部の方に、その無念の胸の内を聞いていて、心に刻み付けていたのです。航空自衛隊でも昔、雫石事件と言う航空機事故で似たようなことがあり、古手の幹部(パイロット)もそのことを言い出して、結局、「謝罪はしない」と言う私の意見に決定しました。
ところが代表の幹部が弔問に行くと、すでに新聞記者が「自衛隊の責任をどう考えますか?」と遺族に吹き込んでいて、遺族と自衛隊で「謝れ」「まだ状況は不明だ」と押し問答になったのです。
結局、警察の現場検証で「スピードの出し過ぎで避けられなかったのが原因」と結論付けられて、自衛隊には責任なし、警備の隊員にも処分なしと言うことになりました。
この「絶対に自分の部下を信じて守った」と言う私の態度が評判になって、すぐに警備小隊に広まり、小隊員たちも心を開き、信頼し合えるようになったのです。
私が、何故そこまで確信を持って「謝罪しない」と主張出来たかと言うと、先ずは春日の師匠が常に言っていた「軍人と言うのは世間の常識を超えた非常の世界で生きている」と言う教えです。
当時の常識では「まず謝罪」ですが、「小隊長すみません、でも自分に過失があるとは思えません」と涙ながらに訴える部下の怯えたような顔を見て、「信じる」「こいつを守る」と決めれば迷いはなく、もし自衛隊側に責任があると言うのが真実だったなら、自分が軍人として責任をとって「自決」すれば済む話だと思っていました。
これも師匠が「パイロットは死ねるからまだいい。生きて責任を問われる隊員の辛さはまた別物だ」と言う教えによるものでした。
そしてなにより私は、航空自衛隊に入ってから何度も航空機事故で市街地に被害を及ばさないために命を捨てたパイロットの姿を目の前で見ていて、自分も任務のために命を捨てるのは当然だと言う覚悟と、「パイロットが(見事に)死ねて、俺が死ねない訳がない」と言う自信をずっと持っていましたし、今でも死ぬのは全然怖くないです。
内山興正老師と言う友人の師僧に「死ぬのが怖い人も大丈夫、その怖いと思う心も一緒に死んでゆくのだから」の言葉がありますが、その通りです。
ちなみに、この友人は坊さんでも、若い頃は日本有数のロッククライマーで「穂高の主」と呼ばれたような人ですけど、「死ぬ」と言うテーマで語り合っている時、「典尽さん、自衛官と登山家では死ぬ確率はどっちが高いのかねェ?」と訊かれて答えに困ったことがありました。
トラックの事故の処理が済んだ後、私はやっと小隊長としての指導方針を示すことが出来ました。それは「俺たちは兵隊でなければ、ただの守衛だ」と言うもので、単に門の出入りや外柵をチェックしているだけでは会社の守衛と同じで、定年後のジィさんにも出来る仕事だ。自分たちは若く、自衛官なんだから、もっと可能性を追求しようと若手を中心に訴えたのです。
それまででも厳しい小隊長のいるところでは実際の警備の勤務に必要なラッパや「気をつけ」「休め」「敬礼」などと言う教練、あとは武道としての銃剣道などをシッカリやっていましたが、私は「俺たちは玩具の兵隊じゃない」とこれらには見向きもせず、先ずは格闘、次に射撃、機動隊用の盾の操作と戦闘技術ばかりを訓練しました。
特に浜松基地の周辺では市街戦の技術習得が不可欠と言うことで、陸上自衛隊だけでなく米軍などの教範を入手し(翻訳は私の仕事だった)、隊舎を使って建物への接近要領や屋内での捜索、突入などを訓練したのですが、ドアに足跡がついて後で余計な作業ができたり、夜勤明けで寝ていた隊員が捕虜になって引き出され、廊下にうつ伏せにされて身体検査をされたりしました。
どれも「怪我人、倒れる奴が出るまでヤレ」と言う猛訓練で、「これじゃあ、死んじゃいますよ」と言う隊員には「死んだら後を追ってあの世へ案内してやる」と言ってハッパをかけていました。
その隊員は、「この小隊長なら本当にやりかねない」とまた頑張っていましたが、訓練について来られない奴や楽がしたい輩はどんどん辞めてしまって、その結果、小隊が精鋭化して訓練には益々拍車がかかりました。
やがて今までは警備を馬鹿にしていたほかの隊の連中が「可哀想になァ」と警備小隊員を同情するようになり、「小隊長がキ×ガイだと部下が大変だ」「ここの警備は普通じゃないから」と怖いものを見るような目で接するようになってきました。
すると、警備小隊員の方も自信を持ち、「俺たちは頭じゃなくて、腕と度胸で勝負だ」などと言い出して、「小隊長こんな訓練もやりましょう」と、陸上自衛隊や警察の機動隊、外国軍の訓練を取り入れるようになり、勤務や服務にも気合いが入って、問題は全くとまではいかないが殆ど起きなくなりました。
本当なら基準にない訓練で怪我人続出なんてことは自衛隊と言う組織では有り得ないことですが、「警備小隊を建て直せ」と言って私を起用した手前、上は何も言えず、仕舞いには面白がって基地司令自ら警備の訓練を見に来られるようになり、いつの間にか警備小隊は「モリノズ アーミー(モリノ軍)」と呼ばれるようになりました。

浜松基地には上級司令部や学校があり、よその基地からの出入りが多いので、いつの間にか「あそこの警備はいつも変な訓練をしている」と言う評判が航空自衛隊中に広まってしまい、そのうち仕事時間中に迷彩服を着て基地内でサバイバルゲームをやっているのを見た市民から、「自衛隊が変な訓練を始めたけど戦争でもあるんですか」と問い合わせがくるようになって警察にまで名前が知れてしまい、航空祭の警備支援で基地に来た浜松市警の偉いさんが管理隊長に挨拶に来た時、隣にいた私に「あッ、警備小隊長よろしくお願いします」と先に挨拶をされて気まずい雰囲気になったこともありました。(紳士、温厚な隊長で助かりましたが)
また、やってはみるもので浜松市は外国人が住民に占める割合が全国一のため、外国人が基地のそばへ飛行機を見に来ることも多く、警備としては彼等に注意したり確認したりしなければならず、「せめて英語会話が出来ないと」と若い隊員に英語での誰何(すいか)要領を勉強させてみました。
すると学校でもろくに勉強もしたことのない連中が意外にもすぐにマスターして、基地の外柵にいる外国人に「エクスキュウズミー」などとやりだして、中には全航空自衛隊の英語弁論大会に出場する者まで出ました。
私としては彼を在日米軍の警備部隊に国内留学させたいと思っていたのですが、英語の指導を受けたカナダ人女性とつき合うようになり、残念ながら帰国した彼女を追いかけて退職してしまいました。
また「小隊長を見ていると幹部になるって面白そうですね」と言って、勉強に励み、それまでなかった幹部候補生の合格者が毎年出るようになりました。
身体を鍛えて気合いを入れたら頭でも勝負するようになってしまったという話です。
私には「小隊長のお告げ」と言うものがありました。
それは突然「こうしなきゃ」と言うインスピレーションが働くことがあって、機動隊用の盾の操作が気になって、その訓練を始めて終わる頃になぜか航空機事故の続発やPKОへの参加、新型機導入などでデモ隊が来るようになったり、逮捕術の訓練をやらせたら不法侵入者があったりとかが続き、外柵を回っていても「ここが危ない」と言うと、その夜に車が突っ込むこともよくありました。
ですから、始めは私が前例のない訓練を思いついて命令を作らさせられた担当者が、上に印鑑をもらいに行って「根拠は何か」と訊かれ答えに困っていたのが、仕舞いには「小隊長のお告げです」で通るようになってしまい、警備業務の方でも「今日はここを重点監視します」「また、お告げか?」「はい」と言う調子でした。
鳳来町東泉寺の前川睦生老師にこの話しをしましたら、「常識や前提を削り落として精神を研ぎ澄ませば、人間にはそんな能力があるのかもしれない」と言っていました。
「お前は坊主だし、上杉謙信みたいな奴だな」と笑ったエライさんもおられましたが、武田信玄、北条早雲、斉藤道三と言う線もあり、個人的には「甲陽軍鑑」を愛読していましたから信玄公が好かったです。
そんな私も大失敗したことがあって、ある時、日蓮宗のお坊さんが平和祈願のデモに来て基地の正門前でドンドンと団扇太鼓を叩きながら法華経を挙げ、その後「平和祈願文」と言うアピールの文書を受け取ることになったのですが、お経の段階から妙に波長が合ってしまい、最後に文書を受け取る時、本当は姿勢も表情も変えずにいなければいけないのを、ついつい相手の合掌とお辞儀に合わせてやってしまいました。
「それは一種の職業病か」と後で上から嫌味を言われましたが。
逆の話もあって、ある過激派のデモ隊が来た時も私が一人でデモ隊の中に入っていって抗議文を受け取ったのですが、その時、警備小隊員は機動隊の装具をつけ盾を持って、門の中に立っている訳で、それを見たデモ隊が「自衛隊は我々を敵視している」と騒ぎ出して、私が警備小隊長だと判ると、取り囲んで抗議、非難の罵声を浴びせ始めました。
後日、警察の人から「警備小隊長の写真が奴等の機関紙に載っていましたよ。身辺の安全には気をつけて下さい」と聞かされました。
ちなみに他所の基地では相手を刺激しないようにデモ隊には事務官の担当者が応対し、それも安全のため抗議文などは柵越しに受け取るのだそうです。
ところが当時の浜松基地の担当者は女性の事務官で、「私、怖い」と言ったとかで「アイツなら大丈夫だろう」との基地司令の一言で、私にお鉢が回ってきたと言う訳でした。
ただ、お鉢はほかにもよく回ってきて、例えばサラ金の取り立てに来たヤ○ザ屋さん(現在なら反社会的勢力?)への対応を、全く違う隊の本人やその上司から頼まれることもよくありました。
面会所で会ったヤ○ザ屋さんは始め、私が本人だと思って脅しをかけたのですが、こちらはそれが可笑しいのでニコヤカに受け答えしていると、イキナリ怒って「お前、舐めとるんかァ」と怒鳴りました(夏なら半袖から刺青を見せる)。
それでも平然としていると「お前、本当にサラ金で借りんたか?」と訊きますので、「否、ワシも仕事だよ」と答えてようやく相手も理解しました。
そこで「アンタの仕事は何だ?」と訊くのに「警備小隊長、縄張りを守って揉め事を仲裁する仕事だ」と答えると、「何だ、同業かァ」と妙に意気投合してしまいました。
ところが「お前は金バッチか、銀バッチか?まだ若いから銀バッチやろう」と言う質問に「一応幹部、ここの責任者だよ」と答えると、「金バッチですか」と態度が一変、「道理で度胸が座っておられる訳です」と言葉遣いまで丁寧になりました。その癖、「チャカ(拳銃)を売ってくれませんか」「ヤッパ(刃物)を見せて欲しい」とか、「若い衆を回して下さい」などとも言っていましたが。
何にしても顔見知りになったヤ○ザ屋さんに街で会うと、外車を横に止めて「乗って行け」と声を掛けられるのには困りました。
このほかにも若い隊員に捨てられた女性が会いに来たのを本人が面会拒否したので、面会室で「彼はもう転勤しました」と嘘をつくと、いきなり号泣して玩ばれた痴話を聞かされた後、外で暴れだしたのでなだめたのですが、それを通りがかった女性自衛官が見て「警備小隊長が女を泣かせていた」と誤解したのはナントモハヤ。不徳の致すところです。
警備小隊は、警衛勤務と言う3交代制を取っているため情報の共有=命令・指導の徹底が難しいのが問題でした。
仕事上のミスがあっても全ての分隊の全隊員に徹底するためには、何度も繰り返して指導しなければならず、中々隅々にまで行き亘らなくて、同じミスを繰り返すこともよくありました。
これは本人には初めてのミスでも警備小隊としては数度目のミスになるため、上の怒りは激しくなり、コチラの叱責もツイツイ厳しくなってしまいます。
そこで私は壁新聞を作ることを思いつきました(何よりも「俺は見ているぞ」と言う意識を与えるため)。
警衛所の掲示板に「警備小タイムス」と言う題名の走り書きを貼り出すのですが、それはミスの記事であっても指導すべきポイントの上に笑えるような軽い例え話をまぶして、隊員たちが興味を持って読めるような紙面づくりに努めました。
特にお手柄についてはスポーツ新聞よろしく大々的に持ち上げ、本人は感激を新たにし、他の読んだ者が「ヨシ、俺も!」と奮い立つように工夫しました。
そのうち警備小隊員たちは出勤すると掲示板の前で「警備小タイムス」を立ち読みするのが日課になり、そこで失敗談を笑いながら「お前は気をつけろ」「俺は大丈夫っすよ」などと言い合い、やがて警備小隊員だけでなく増加警衛と言う他の隊からの支援要員まで楽しみにするようになって、増加警衛の隊員の手柄を記事にすると同じ隊の隊員がそれを見て本人に話し、外出しながら見に来るようになりました。
ただ噂を聞いたエライさん(閣下と呼ばれる方を含む)まで「おう、ウチの隊員が載っとる」「何だ、ウチのがないなァ」と覗き来られたのには困りましたが。
しかし、某基地の救難機が遠州灘で墜落する事故が起きた時、浜松基地で記者会見が行われたのですが、その集合場所に警衛所の面会室が使われ、記者たちがトイレを使うため中をウロウロ歩き回ることになりました。
すると彼らは「おっと、トイレじゃなかった」と言いながら事務室や仮眠室にまで入り込み、掲示板を立ち読みし、防犯ポスターや記事の写真まで撮り始めました。
私が注意をすると「ここは税金で建てた公共施設だろう」「何か知られたくない秘密でもあるのか?」と開き直り、記事の内容について質問する始末でした。
それも私が「軍人として云々」「戦闘に於いては」などと精神論を述べていることに対する「自衛隊は軍なのか?」「ここで戦闘をするつもりか?」と言ったマスコミ的論法でしたが、気分を害させると粗探しに拍車がかかるからとグッと我慢しました。
私は新聞、雑誌、テレビ局などマスコミ関係の友人も多いのですが、「取材と粗探しは違う。先入観を持って取材をするな」と言っても、「真実を裏側まで探るのがマスコミの責務だ」「自分たちが社会の正義を守っているのだ」と信じ込んでいますから聴く耳がありません。
その癖、自分の信念、取材で知った真実と会社の方針(政治的方向性)や上司の指導の狭間で悩み苦しみ、吐き出すように愚痴をこぼしてくるのも彼らですが。
私が厳しく指導するようになって、隊員にも気合いが入った結果、浜松基地の入出門チェックが非常に厳格になり入出門する隊員とのトラブルが多くなりました。
ある日、浜松に自宅があった当時の航空幕僚長が私服で基地に来られて、「幕僚長の××だけど」と入門されようとしたのですが、その時歩哨に立っていたのが「やれ」と言われたことは絶対やるが応用は全く利かない奴で、「身分証明証がなければ面会手続きをお願いします」と答え、「幕僚長の××なんだよ」と言われても聞かなかったと言うことがありました。
後で幕僚長が自宅から基地司令に「君の基地の警備は厳格な勤務をしているね」と直接電話があって判ったのですが、私は司令部の総務の幕僚からは「馬鹿者」と怒られ、防衛(警備担当)の幕僚からは「よくやった」と褒められ、基地司令からは「その隊員は褒めてやれ、だけどお前は反省しろ」と言われました。
最後に直属上司の管理隊長は、「それはすごいね、ハハハハッ」と呆れられてしまったのですが、隊長が温厚な方で本当によかったです。
そんな訳で歩哨と入出門者のトラブルを防ぐため、課業(勤務)終了から一時間、私も門の脇に立つようになりました(そう言うことを一回始めると途中で止められなくなり、結局は転属の前日まで立ちました)。
これを同期やほかの幹部仲間からは「上の人に目立つためのスタンドプレーか」と随分嫌身を言われましたが、それがいつまでも続き、雨の日も風の日も立っているのを見て、やがて「御苦労さん、無理するなよ」と声をかけてくれるようになりました。その同期と後に車力で机を並べ、最後に見送って貰ったのですから縁とは不思議なものです。
また、入校中の学生たちも外出しようとすると門の所で、キ×ガイのような幹部に気合いを入れられて、仕舞いには「無駄な外出者が減って助かるよ」などと、術科学校の区隊長から嫌味を言われました。
学生からは「敬礼せんか2尉」と言う仇名がつけられて顔を覚えられ、どこの基地へ出張しても、私の顔を見てあわてて敬礼する隊員に会いました。
「ここの基地の門には仁王様が立っとる」と基地司令からは冷やかされもしました。
また、あるエライさんが毎朝、基地の規則に違反した服装で出勤して来るのを歩哨が「それは服装違反です」とその度に注意したところ、「小隊長を呼べ」と言う話になって、(空手七段のそのエライさんと)一戦覚悟で会いに行ったところ、そのエライさんは「俺は、どこの基地でもこの服装で出勤しているが、俺に面と向かって注意したのはお前のところが初めてだ」と笑い飛ばしてくれました。
その方は、私が防府から車力に転属したのと入れ替わりに防府の群司令に着任されて、着任の第一声は「モリノはどこだ」だったと後で聞きました(広瀬中佐は「杉野はいずこ」ですが)。
私が、群司令の逆鱗に触れ、車力に飛ばされたと聞いて、「アイツは俺様に逆らった唯一の奴だ、そのぐらいのことはするだろな」と残念がってくれたそうです。
最後に私は浜松での勤務中、本当に自決しようとしたことがありました。
ある時、オーストラリア空軍の参謀長つまりトップが浜松基地に来訪されました。
そのような時は、警護と交通誘導を兼ねて警備小隊員が数十メーターごとに「交通統制」として立つのですが、雨のため基地内視察コースが急に変更になりました。
ところが上級司令部の担当者が警備小隊と同じ管理隊の輸送小隊に、直接連絡してしまい、輸送の隊員は、そのトップを乗せる車のドライバーにだけにそのことを教え、警備小隊には伝えませんでした。
午後の視察時間には、警備小隊員は初めの予定コースに配置されていましたから、途中から交通統制がいなくなると言う事態になってしまったのです。
参謀長に同行していた司令官は「航空自衛隊の恥だ」と怒り、それを聞いた担当者は「警備小隊に厳しく言っておきます」と責任を管理隊に押し付けました。
状況を確認すると一番の間違いは担当者が、管理隊の窓口ではなく輸送小隊に直接連絡したことでした。
ただ輸送小隊が念のため警備小隊に連絡しなかったことも失敗とは言えました。
私は、司令官の言われた「航空自衛隊の恥」と、冷たい雨の中、来ない偉いさんの車を待って長時間立っていた警備小隊員の気持ちを思い、しかし、言い訳をすれば管理隊長に迷惑がかかることを考えて、「死んでお詫びすればオーストラリア空軍の参謀長とは言え日本の武人の筋の通し方に免じて許してくれるだろう」と自決を決意しました。
そして「点検する」と言って警備小隊に備えてある拳銃と実弾を用意して、参謀長と上司、そして妻に宛てた短い遺書を書きました。
「さて、(倉庫へ行って)死のう」と思って立ち上がったところで小隊ナンバー2の警備班長(曹長)が、「小隊長、あんた死ぬ気だろう」と言って拳銃を取り上げました。
そのまま隊長のところへ私を連れて行き、涙ながらに状況を説明し、すると隊長は基地司令のところまで私を伴って行きました。
その時、基地司令は「お前が死んでお詫びするなら、俺が先にしてやる」と言われて、自分も若い頃、事故で部下を失った時、自決しようとして上司に止められたことがあると語り聞かせて下さいました。
その後、自ら司令官のところへ出向かれて状況を説明して下さったそうです。
でも私はやはりこの時のことを想い自分を「死に損ない」だと思うことがあります。
あの時死んでいれば、今のように病み衰えることもなく、立派な自衛官だったと言う思い出だけを残せたのにと。

その後、浜松の警備小隊は新型機導入反対や朝鮮半島有事などで緊張が高まる中、続発する警備事案に立派に対処して、基地への爆破予告があった時などは、すでに基地周辺の確認が終わっていたのを見て「噂どおり流石に素早い対応ですね」と出動してきた警察から賞賛されるような活躍をしてくれました。
その頃には、数年前、「警備小隊を何とかしろ」と小隊長が交代させられたなんてことは、みんな忘れていました。
- 2012/08/04(土) 09:46:34|
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明日8月4日は毛利元就公の嫡男・隆元公の命日です(輝元公の父)。
隆元公は永禄6(1563)年、父に先立って亡くなったため、毛利家では家督に入れられていなかったのですが、天文15(1546)年に家督を相続していたことが判り、享保年間になってから正統に加えられたのです。
ただ、隆元公が偉大な父の影で委縮していた面は否定できず、成人してからも「酒などはかりそめにも嗜むな」と説教する手紙をもらい、「兄として寛大な心で弟を赦せ」と言う教訓に背いて弟の元春と喧嘩した時には、思慮の足りなさを詫びた手紙を父に送っています。
さらに正親町天皇の即位式の費用を用立てた功績により、足利幕府から錦の直垂を贈られた時も自分よりも先に父に与えてくれと遠慮しており、父・元就公の坐禅の師である立雪恵心に「名将の子には必ず不運な者が生まれる」と語ったとも言われます。
しかし、名将の子に生まれて不運になるのならまだ納得せざるを得ないのでしょうが、自分を超えることを許さない愚人の子に生まれた不運はどうすればいいのでしょう?救われようがありませんワ・・・。
ちなみにこの日が吉田松陰先生の誕生日なのは何かの因果でしょうか?(ただの偶然です)
- 2012/08/03(金) 10:56:55|
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春日では、個性的な人に大勢会い、多くのことを学びましたが、ここでは2人の群司令の話をします。一人は、「ステルス1佐」ことT1佐です。
この方は、私が見習い兵器管制幹部として西部防空管制群に勤務している時の群司令で、とにかく背が低く、色が黒く、現場が好きな人でした。
防空管制群は地下25五メートルの体育館並みに広くて暗い管制室にレーダーがいくつも並んだところですが、そこへいつの間にか、どこからともなく群司令が現れるので、若手幹部は当時ベールを脱いだばかりだった米軍の見えない戦闘機=ステルス戦闘機になぞらえてステルス1佐と呼んだのです。
ある夜勤終了直前の朝、私が(レーダーの)監視係幹部についていると、いつの間にか前のレーダー員の席に白髪の隊員が座っていました。
そこで私が「そこにいるのは誰だ」と声をかけると、振り返ったのは群司令で「悪戯成功」と言う感じでニヤーと笑いながら、「お前は、レーダーの前にチャンと隊員を監視しろ」と叱られました。
群司令は夜勤明けの若い隊員が眠そうにしていると、「代わってやる」と言っては若い隊員と一緒に監視業務につくことがあって、監視係幹部は気が抜けませんでした。
この群司令は沖縄の第5高射群司令の時、ハングライダーをやっていて、突風にあおられた人を止めようとして一緒に飛び上がってしまい、力尽きて落ちて亡くなられましたが、若い隊員たちは「やっぱり兵器管制幹部は地下にもぐってないと駄目なんだ、飛んではイケナイんだよ」と言って泣いていました。
もう一人は、「背振山の主」こと背振山・第43警戒群司令のS1佐。
この方は、私と同じ部内選抜なんですが、初対面の時に「お前は、俺が幹部になったのと同じ歳だな、だったら同じくらい(1佐)にはなれるぞ」と励げまして下さいました。
群司令になられてからは「部内上がりでここまで来たら出来すぎ、後はやりたいことをやる」と宣言して、本当に自分の部隊を自分の思うように動かしていました。
最もこの方らしかったのは、「定年1年前になったら階級に関係なく作業員に出ろ」と言う指示でした。
これは意識改革と体力向上を目的にしたもので、実際に草刈、立ち木の伐採、ペンキ塗りから清掃まで、定年前の隊長や先任空曹が作業員になって雑用に励み、群司令自身も定年1年前からは自ら作業員になっておられ、業務調整で海抜1千2百メートル以上の背振山に登っていくと群司令は不在、「司令は今、ゲートの横の草刈に行っています」と総務班長が平気で言うくらい浸透、定着していました。
そのため背振山で定年を迎えた隊員は皆健康で、再就職先でも文句なくよく働き、就職援護の担当者も「助かる」と喜んでいました。
群司令と言えば1佐、陸上自衛隊で言えば連隊長、海上自衛隊で言えば大型艦の艦長なんですが。
- 2012/08/03(金) 09:39:28|
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「航空自衛隊怪僧記」(春日編)

私が春日基地で勤務していた頃は、いわゆる航空自衛隊第2世代、旧軍出身者から直接教えを受けた世代が定年退官していく直前でした。
九州出身者が多い自衛隊の特性もあり、福岡の春日基地には定年前の「神のような人」が揃っていて、「九州男児の集団」の一種独特の雰囲気がありました。
「戦争論」の中でクラウゼビッツは「戦争の体験は3代までにしか伝わらない」と言っていますが、その意味では、私は本来第4世代に属する年代だったのを駆け込みで実戦の教訓を、それも達人ぞろいの春日で学ぶことが出来た訳です。
春日へは兵器管制幹部として赴任したものの色々な事情で西部航空警戒管制団司令部の人事部訓練班に勤務していましたが、命令の書き方も知らない新米幹部だったのが、航空幕僚監部の総務課で航空自衛隊の文書の体系化に取り組み、「文書の教範」を完成させてきた人から直接指導を受け、人事システムも知らないのを「人事の神様」と言われた直属上司の人事部長にイロハから裏技まで習い、航空幕僚監部で防衛計画、業計要望をやっていた人から計画、要望の作成を教わると言った感じで充実した教官陣の下で幕僚学を学びました。
ある時、指揮幕僚課程帰りの幹部の方と話していて「モリノ、世界最強の軍隊は『アメリカ人の司令官、ドイツ人の参謀、日本人の兵』と言うのは知ってるな」「ハイ」「ならば、最弱の軍隊は『中国人の司令官、日本人の参謀、イタリア人の兵』と言うのは知っているか」と言いながら、「なぜ日本人の参謀=幕僚は駄目なのか」の持論を語ってくれました。
「参謀は本来、司令官の頭脳で、各部署は司令官の『発想』の一部であるべきである。だから時には突拍子にないことも考え、変なことを妄想することもあっていいはずだ。ところが日本人の参謀は『常識』が常に先行して、発想を自制してしまう傾向がある。これは日本人の国民性だろう。幕僚の発想が硬直化、常識化してしまうと組織としては間違いはないが柔軟性のない決まりきった動きしか取れなくなる。例えば『敵からの攻撃時期を敵の作戦準備完了の時だ』とするのは極めて常識的な発想で、もし敵が奇襲を狙って、あるだけの戦力で攻撃してきたらどうする。その可能性を考えられないようでは参謀は務まらない」。
また、別の日には「自衛隊の指揮官は幕僚が決めた方針のGOとSTOPしか判断していない。しかし、それでは担当者の限られた情報に基づく検討結果で組織全体が動くことになってしまう。本来なら全ての部署からの情報、意見が集まっている指揮官が、右へ行くか左にするかの判断を下すべきなんだ。それが本当の意味のトップダウンだ」こんな調子である意味の英才教育を受けていました。
それは1つには私が防衛大学出身者とあまり代わらない年齢で幹部になったため、「お前、XX教授を覚えているか」などと、よく防大出身者に間違われて、違うと判るとかえって可愛がってもらっていたこともあり(今でも、防大の校歌が歌えます)、一方ではエリート部隊の司令部には珍しい部内選抜出身の若手幹部と言うことで、定年前の熟達の部内選抜出身の幹部の方たちから「遺言代わりにお前にノウハウを伝授しよう」と厳しく指導されたこともあります。
こうして型にはまらず自由奔放な発想で天衣無縫に行動をする奇妙奇天烈な幹部が出
来たのです。
ある時、昇任した空曹の集合教育の命令で、彼等への研究論文の課題として「のらくろ軍曹」がブル連隊長から「部下を鍛えろ」と言われ無茶な訓練をやり部下を全員怪我させてしまい、かえって「部下は大切にしなければ駄目だ」と叱られる漫画を使おうとしたところ、「公文書である命令に漫画を使うやつがあるか」と怒られました。
それでもあの手この手で決済まで持っていき、司令に見せたところ「ホーッ」と一言だけ言って決済して下さいました。
この漫画入りの命令は、隷下部隊長や訓練参加者にやたらに受けましたが、実際の教育で教官(私)が無茶な訓練をやらせ、隊員に怪我をさせ、課題が実話になってしまったと言うオチがついてしまいました。
この時の西警団司令・N将補はベルギーのNATO軍司令部の防衛駐在官から戻られたばかりの方で、頭に毛が有りませんでした。
ある時、決済をもらいながら数えてみると閣下の頭に毛が13本しかないのに気づきました。すると、突然司令が顔を上げ「何だ?」と訊かれたので、思わず「閣下は、何歳からお禿げになられましたか?」と言ってしまったのです。
すると司令は真面目な顔をして「俺か、俺は30代半ばからだが、何故だ?」「はッ、私も最近頭が薄くなってまいりまして」「俺は、お前の歳にはふさふさだったぞ、人事記録の写真を見てみろ」と言いながら決済して下さいました。
司令室を出ると副官室で次の決済待ちをしていた幹部は大爆笑、副官は大激怒でした。
そのうち「決済はモリノの後に行け、そうすればスムーズに印鑑がもらえる」と言う評判が立って、難しい命令の決済がある人は、ワザワザ訓練班に「モリノ3尉、決済文書はないか」と聞きに来る始末でした。
しかし、新米の3尉(少尉)が空将補(少将)の団司令に向かって「西警団のマークに鷲を使っていますけど、司令の間は『鶴』にしましょう」「馬鹿、ハゲワシって言うのもあるんだぞ」なんて言う会話は畏れ多いことでした(反省!)。
こんな調子で西警団司令部のみならず、上級部隊の西部航空方面隊司令部や隣にあった陸上自衛隊第四師団司令部、在日米空軍、果ては春日市役所から福岡県庁まで業務調整で付き合っていたため、相手がスグにしかもシッカリと覚えてくれて、私が転属した後も「色んな所から『森野さんは?』と言う問い合わせがあって困ったぞ、お前はどんな仕事をしていたんだ?」と訓練班長が呆れていたし、私も行く先々で「おッ、モリノじゃないか」「オー、ルテナン モリノ」ととてつもなく偉い方から声をかけられて、六本木(当時の空幕)では幕僚長からいきなり握手をしていただき恐縮したことがありました。私よりも周りにいた2佐、3佐の人たちが驚いていましたが。
特にこの時の西部航空方面隊幕僚長が、後に浜松の第1航空団司令に着任され、幹部挨拶の際、私の顔を見るなり「あッ、お前は」と言われてしまいました。
春日で一度「無礼者」とお叱りを受けたことがあったのです。しかし、後にこの方に命を救われましたのですが。
- 2012/08/02(木) 09:06:45|
- 自衛隊戦記
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平成2年、湾岸戦争が勃発しました。私はその時、小牧の第5術科学校の兵器管制幹部・英語課程に入校していました。
当時の海部内閣の対応は、当初は財政支援で、米国の世論の非難を受けてさらに巨額の追加支援に、そして二転三転、右往左往、優柔不断、右顧左眄の末、結局は「輸送機による難民輸送」と言う妥協案を示し、この国の政治の限界を内外に曝していました。
私たちの英語課程では課長の判断でカリキュラムを変更して、この生きた事例を教材に、派遣教官として教務に当たっていた米空軍少佐(ハワイの日系3世、父は442部隊に参加して戦死)を教官として、LLの機材を使ってテレビ朝日の「朝まで生テレビ」やFEN=米軍のニュースなどの報道番組を見たり、各新聞、雑誌の関連記事のコピーを読みながら、「わが国の対応は如何にあるべきか」を日々激論を重ねていました。
学生(新任3尉=少尉)の意見は、概ね2つに分かれました.
1つは、自衛隊は憲法の平和主義の前提の上で「自衛権は放棄していない」と言う解釈を根拠に存在している武装組織であり、他の国の軍隊とは異なり、行動には自ずから限界がある。したがって他国の戦争紛争には関与出来ないし、するべきではない。
もう1つは、日本はすでに国際社会の、特に西側の一員として存在している。同じような歴史的経緯を持つドイツが参加を決めている以上、陸海空自衛隊を全面的に派遣し、可能な限り(当然、戦闘行為にも)の参加をするべきだ。
教官(米軍少佐)の意見も「日本政府はこの2つのどちらかを選択すべきだ。中途半端な形の参加では国際社会の理解は得られないだろう」と言うものでした。
そんな中で、私だけは、個人的信念に基づき政府の対応を支持しました。
「日本国民の多くは戦争への参加に反対しており、国際社会は『日本人も血を流せ』と言っている。ならば丸腰の輸送機で戦地に赴き撃墜されれば良い。これぞ武門の本懐である」。しかし、この意見は「観念論」であるとほぼ全員の批判を受け、ただ、日系3世の教官だけは「これは大和魂、武士道だ」と理解を示してくれました。
そして、ついに政府から、小牧・第1輸送航空隊に対して輸送機派遣の準備命令が発令しれました。その日、小牧基地は異様な静寂に包まれました。
「全て派遣要員を優先させろ」この暗黙の申し合わせにより、食堂も入浴も売店も派遣要員に順番を譲り、隊員クラブも喫茶店もゲームコーナーまでも開店休業状態になり、特に公衆電話は家族への連絡のため、その日は皆が遠慮し、何度もうなづきながら長電話をしている派遣要員の姿を我々は複雑な想いで遠くから眺めていました。
この派遣要員の選定では色々な裏話が伝わってきました。
幹部たちは当初「恐らくベテランは了解してくれるだろうが、嫌がる若手をどう説得するか」を心配していましたが、実際の選任作業を始めると、若手は皆「外国軍がやっていることを日本軍(自衛隊)もやるのは当然です」と志願し、中には任期満了退職する予定で就職先まで決まっていた若手の隊員までが「同期が派遣されるなら俺も」と退職を取り消して志願することも少なくなかったそうです。一方、ベテランの方はかえって「定年まであと数年なのに今更戦死出来るか」と断るものが多く、「今の若者は素晴らしい」との第1輸送航空隊司令の感動のコメントが伝えられました。
また、家族についても、元民間人の奥さんたちが「それが仕事なら仕方ない」と納得してくれたのに対して、元・現女性自衛官の奥さんが「貴方が行かなくても代わりはいるでしょう」と反対することが多かったそうです。
さらに同じ小牧基地でも派遣には直接関係のない、第5術科学校の学生の父兄から「息子は派遣されるのか」との問い合わせが殺到し、中には早合点して泣きながら「退職させる」と申し入れる母親もあったそうです。
この話には、オマケもあって後にバグダッドで拘束され、開放された日本人を迎えに行く民間機の選定に当たり、当初打診された日本航空は乗務員労組の反対が強く拒否し、一方、全日空は自衛隊OBのパイロットたちが志願し、名乗りを上げたのですが、結局、政治的判断で外国機をチャーターすると言う醜態を晒す事になったものの、「流石は自衛隊」と全日空社長のコメントも伝えられました。
この政府決定以降、小牧基地には報道陣が殺到し、ゲート前でインタビューされて足止めを喰い遅刻しそうになる者も出て、それを職場のテレビで同僚が見ているという珍現象も起きました。
基地ゲートでのインタビューでは隊員の口が意外に堅いと判ると報道陣は官舎や近所のスーパーにまで入り込み、奥さんの心情を尋ねるようになりましたが、「心配だが仕事なので」とここでも自衛隊員の妻としては模範解答ばかり、しまいには守山や春日井の陸上自衛隊の官舎にまで行って、「同じ自衛官の家族として」と言う反対のニュアンスのコメントを無理やり作ろうとする始末でした。
デモ隊、抗議行動は連日、それまで名古屋方面での反戦平和運動のターゲットは、陸上自衛隊第10師団司令部がある守山駐屯地と相場は決まっていて、小牧基地は隠れた存在だったのですが、これ以降、小牧基地は「海外派遣」のシンボル的存在になってしまい、デモ対処が大変になったと警備関係者はこぼしていました。
ただ基地の中から見ていると、「派遣反対ハンガーストライキ」をやっているはずの人たちがそれを大書した横断幕の裏で弁当を頬張っていました。
政府は準備命令以降、政治的に混乱していて実施命令は中々発令されず、隊員たちはジリジリするような思いで日々を過ごしていました。
そうこうしているうちに、何故か韓国が、「輸送機部隊を派遣して難民輸送に当たる」と発表し、アッと言う間に準備、派遣を実行しました。まさに「お株を奪われる」「鳶に油揚げをさらわれる」「後出しジャンケン」、続いて日本が輸送機部隊を派遣しても「二番煎じ」「猿真似」と言うことになり、日本は時期を逸していました。
結局、年明けに多国籍軍がクエートに突入し、湾岸戦争は終結しました。
私は春日の防空指令所で、東シナ海を北上して帰還する韓国の輸送機部隊の航跡を監視していました。この時、識別係が本来「K(韓国)」としなければならない航跡表示を「F(友軍)」にするミスがありましたが皮肉としても出来過ぎでした。
- 2012/08/01(水) 11:32:06|
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