1555(弘治元)年の明日10月1日(ただし太陰暦)は厳島の戦い、つまり陶晴賢殿の命日です。
陶晴賢殿は9月1日の大内義隆公の命日で謀反人として紹介していますが、謀反から4年と1カ月後のこの日に毛利元就公によって討たれています。
この時、元就公は作戦会議で「厳島に上陸されると不利だ」と発言し、それを会議に参加していた陶側の間者(かんじゃ=スパイ)が晴賢殿に伝えたため、真に受けて誘き寄せられたと言われています。つまり元就公はそれ程の重大な会議への出席者まで疑っていた訳で「毛利と言えば謀略」と評される代表例でしょう。
それにしても元就公の酷い所は、厳島は島全体が御神域の結界(けっかい)なので死者の魂魄は出入りすることができず、この戦いで斃れた双方の戦死者は成佛、往生は不可能なことです。
実際、神社の御神域で自殺する人がいますが、どんな葬儀をやっても魂魄は結界から出ることができず、亡霊としてさまよい続けることになっているそうです。
ただ、厳島では昔、住民が島で亡くなると、早急に遺骸を対岸の廿日市まで船で運び、そこで亡くなったモノとして葬儀その他の慰霊行事を行っていたそうですから、大量の戦死者をそのように処置していれば別ですが記録にはありません。
- 2012/09/30(日) 09:46:46|
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1996(平成8)年の明日9月29日は雲谷斉(うんこくさい)狐狸庵・遠藤周作先生の命日です。
野僧は愚息にその名前をいただいたほど孤狸庵先生を敬愛していて、中学時代からその著書を常に傍に置いてきました。特に「沈黙」や「深い河」はボロボロになってしまい現在の文庫本は4冊目です。
さらに英語版を友人のアメリカ人牧師やスペイン人神父に送ったりもしています。
「沈黙」で先生が問いかけた日本人の信仰を否定する形で宣教されたキリスト教の問題は、野僧が日本で活動している外国人の宗教者と必ず話し合う命題であり、来庵するキリスト教系の新興宗教の人に直面させる難題でもあります。
「イエスの生涯」「キリストの誕生」「聖書のなかの女性たち」は新約聖書を物語として読むことができ、理解を大いに助けてくれました。
「深い河」では最終章で佛説阿弥陀経が唱えられ一つの答えになっています。
これはアメリカの神学者が主張している「日本の念佛信仰は佛教よりもキリスト教に共通する点が多い」と言う学説を踏まえたものなのか、それとも長年にわたり「日本人のキリスト教」を探求され続けた遠藤先生自身が至られた見識なのかを確かめたいのですが、どなたかお教えいただければシアワセマス。
余談ながら、この物語で繰り広げられる複雑な人間模様の中でも、映画で奥田映二さんと秋吉久美子さんが演じていた過ぎるほど不器用でひたむきな修道士・大津と「人を愛せない女」成瀬美津子の人間性は野僧と(親が命じた)同居人に非常に似ています。
ただ、原作と少しストーリーが違う映画では、成瀬美津子が最後に大津の死に立ち会い、本当の自分の気持ちを確かめて号泣しますが、ウチではそれはないでしょう。
- 2012/09/28(金) 10:05:47|
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豊臣の時代になっていた永禄11(1568)年、秀吉への無条件降伏を選んだ主家に反発した九戸政実を南部信直(のぶまさ)は自分ではなく秀吉への謀反として届け、奥羽仕置きに来た豊臣秀次、蒲生氏郷、浅野長政、井伊直政らの中央派遣軍の力を借りて制圧しようとしました。
しかし、九戸城の守りは固く容易に落ちなかったため、あろうことか家臣の助命を条件に降伏を勧め、それに応じた政実をだまし討ちにした上、城内にいた家臣、城兵、領民を婦女子に至るまで皆殺しにしました。
いまでも政実が斬首された9月下旬(20日の説あり)になると、九戸城への街道には武者行列の亡霊が現れ、女子供の泣き声が響き渡ると言われています。
そもそも南部家は鎌倉時代、奥州藤原氏が滅ぼされた後、送りこまれた甲斐武田家と同族の源氏の家柄で最初からの進駐軍でした。したがって家臣・領民をいたわる気持ちに欠け、家臣の反発に対しても策略や中央の力を借りての弾圧を繰り返し、領民には重税を課す暴君でした。
また、天明の大飢饉の折、南部藩では江戸で米が高騰していることを聞いて、領民を救済するどころか徹底的な搾取を行い、農民の種もみまで取り上げたため天候が回復しても耕作が出来ず、被害を拡大、深刻、長期化させました。
さらに江戸時代も後半の藩主・南部利敬は、津軽公が幕府の要職である侍従に推挙されたと言う噂を聞いて下位に立たされることを悔しがり、文政3年、実際に就任すると怒り狂った挙句、憤死したのですがその時、「津軽が許せん」と言い遺したため、それが遺言となって家臣に伝わり、下苫米秀之進は「主君の無念を晴らそう」と江戸参勤から戻る津軽公の暗殺計画を企てました。
ただ、この計画は銃撃用の密造銃を請け負った職人によって津軽藩に漏れ、津軽公は帰国のコースを変えて難を逃れましたが、下苫米は江戸に逃れ相馬大作と名乗っていましたが、すぐに捕縛されて斬首されました。当時でも街道通行の安全を脅かすことは公共の重罪であり、忠臣を死に追いやった南部の馬鹿殿振りを象徴する事件です。
トドメに戊辰戦争の時、南部は奥羽越列藩同盟軍の先兵として薩長側についた秋田・佐竹藩を攻撃したのですが、後に東京・九段に造られた靖国には薩長軍側の戦死者は軍神として祀られている一方、幕府側は賊軍として現在も差別されています。
ところが2009年1月に亡くなった南部家42代当主・南部利祥氏は、長く靖国の宮司を勤めながらこのことには何も手を着けず、ただ日露戦争で戦死した当主の慰霊だけを行っていたようです。
浅田次郎先生の名作「壬生義士伝」では主人公・吉村貫一郎が最期まで南部武士の忠誠と誇りを失わなかった姿を感動的に描かれていますが、逆に言えばこれ程の武士を脱藩せざるを得ない窮状にまで追い詰めた南部藩の愚かさの物語と読むことも出来ます。
- 2012/09/25(火) 11:25:07|
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1877(明治10)年の明日9月24日は西郷南洲先生の命日です。
始めに断っておきますが西郷隆盛と言う誤名が定着している吉之助さん・南洲先生の諱(いみな)は「隆永」で、普段は「吉之助」の名を用いていたのです。
ところが明治新政府から官位を贈られことになり、諱を記する必要が生じて確認しようとしてたのですが、本人は函館戦争を指揮した帰路であったため友人の吉井友実に確認したところ、間違えて南州先生の父親の諱である「隆盛」と答えてしまったのです。そして南洲先生は「誤りを指摘すれば朝廷に恥をかかせることになるから」とそのままにしたと言われています。
征韓論で敗れた南洲先生は薩摩に戻ったのですが、何故、征韓論を主張したのかを問われたのに対して「戊辰の役で多くの者が生き残り過ぎた」と答えたそうです。
つまり南洲先生は新政権が成立した時、敗れた士族が反乱を起こすことを怖れ、そんな不平分子たちを戦争で殺すことが目的だったと言うのです。この高所に立ち大局を見渡した冷徹な達見には畏敬の念を覚えます。
また薩摩に下野した南洲先生の下には戊辰の役に於いて降伏した際、その高潔な人格に触れ心酔いていた庄内藩の酒井公が若い藩士たちを派遣しており、西南の役でも従軍しています。
ちなみに庄内には薩摩よりも早く南洲神社が創建され、生き残って帰郷した藩士たちが「西郷南洲先生遺訓」を発刊し、その思想を知る貴重な資料になっています。野僧もその研究会に入っていた山形の親族から多くを学びましたが、全国的に嫌われている長州とは正反対の印象を抱いているようでした。
ただ、西南の役では田原坂での敗戦以降、西郷軍は宮崎県を通って薩摩に向け敗走したため、その通り道になった地域では住民が巻き込まれて死傷し、集落や住居などが破壊され、多大の損害を被っています。現在では南州先生が英雄になっているため日向人も表だった批判はしませんが、陰では声をひそめて恨み節を囁いています。
城山で南洲先生は足を負傷して籠に乗って付き従っていた別府晋介さんに「晋どん、もうここらでよか」と切腹の覚悟を伝え、晋介さんは「御免なってたもんし(お許し下さい)」と言って涙ながらに介錯したそうです。
しかし、西南の役に代表される不平士族の反乱は、旧幕軍側ではなく薩摩、佐賀、萩など謀反軍側で相次いだのは南洲先生の読み間違いでしょうか。
- 2012/09/23(日) 09:35:49|
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「愛知県人原日本人説」と言うモノがあります。
これは他県人が愛知県人に接して抱く違和感は、外国人が日本人に会って感じる違和感と共通すると言うことです。
かつてトヨタが福岡県に大規模な工場を建設した時、当時の奥田社長は「愛知には人材がいない。九州の優秀でやる気溢れる人材に期待している」と挨拶しました。また、渥美半島に田原工場を作った時も当時の社長は、雇用確保を申し入れた地元自治体の長たちを前に「東三河で正社員を雇うつもりはない」と言い放ち、実際、東三河ではパートと子会社の社員は募集しても正社員は採用しなかったそうです。
さらに野僧が幹部自衛官として浜松基地で勤務している頃に知り合った地元企業の経営者たちから出身地を訊かれ、「豊川だ」と答えると「東三河の人にしてはよく働くな」と妙な誉められ方をしました。
野僧が防府南基地で一般空曹候補学生の教育に当っていた時、全国各地からほぼ同程度の選抜試験に合格してくる学生たちの中で、東三河(それなりの進学校卒)の出身者だけが極端に社会性が劣っていることを痛感しました。
彼らはリーダーとして自己判断を求められること、責任を負うことを避け、その癖、他の学生の失敗や怠慢を目敏く見つけて報告することには長けていました。このため他の地域の出身者からは「責任逃れの卑怯者」「粗探しの嫌味な奴」と言われて孤立していましたが、自分の問題点を反省することはありませんでした。
これが数名の話であれば個人の問題でしょうけど、毎期に共通していることとなれば東三河の地域性の問題と判ぜざるを得ません。結局、「愛知には人材はいない」との評価の最たる地は東三河であり、野僧が防府で痛感していた東三河の若者の「自分から何かをしようとはしない」「自分たちの常識から脱することをしない」社会性の欠落を企業人たちも認めているのでしょう。
東三河は江戸時代、豊橋の吉田藩は枝胤(徳川一門)の松平家、豊川、新城は幕府天領であり、政治的に幕府の手厚い庇護を受け、島津家、毛利家や伊達家に代表される外様藩のような役務を科せられることも、幕府の監察による不始末発覚で取り潰されるなどの緊張感もなく、平穏無事に太平の世を謳歌してきました。
また、気候温暖で肥沃な平野の中央を豊川が流れて水利に恵まれ、眼前には波静かな三河湾が広がり、背後には木々が生い茂ったなだらかな山々が続き、さらに東海道や飯田街道、水運などの交通網が整備され、農業、漁業、林業から商業、運送業まで産業が発達し、領主や為政者も、とり立てて殖産興業の努力を必要としませんでした。
つまり東三河では、今までと同じことをやっていれば万事安泰、殊更に頑張らなくても何とかなる訳で、逆に「何が正しいのか」と言う探究心や「これも正しい」と新たな価値観を持ち込むことは、護り受け継いできた伝統や現在の調和を否定することであり、直ちに否定、排除されなければならないと言う鉄則が培われたのでしょう。
その点、東三河でも田原と蒲郡の両地域は異質です。
田原藩は譜代とは言え、天領や枝胤に比べれば立場が弱く、さらに渥美半島は豊川用水が通じるまでは水利がなく、常に潮風に晒される米が出来ない土地でした。
その貧窮耐乏の中で学問に取り組む人材育成の気風が生まれ、渡辺崋山先生、小崋父子や椿椿山(つばきちんざん)、菅江真澄(異説あり)などの偉大な人物が数多く輩出されたのでしょう。
ただ、崋山先生は藩政改革を面白く思っていなかった守旧派からの指弾を受け、「藩君に迷惑がかかる」と言う極めて東三河的な理由で自刃しました。
それにしても東三河の人たちにとって田原はあくまでも番外地に過ぎず、時代の先覚者であり、偉大な芸術家、鎖国の日本に於いて世界を知悉していた大学者の渡辺崋山先生ですら郷土の偉人に数えていませんでした。
一方、蒲郡は他の東三河の地域とは異なり、昔から農業だけでなく漁業も盛んで、さらに温泉と言う行楽地も有していて多様な価値観が共存していました。
蒲郡の友人曰く、「百姓は隣りが種を蒔いたらウチも蒔くが、漁師は隣りが行った漁場では魚が獲れない」。さらに「蒲郡の女は亭主の稼ぎが悪ければ温泉芸者になって家族を養う」。こうして個性を認め合い、自己主張が強い気風が出来たようです。
もう1つの切り口から考察致します。
西三河は矢作川をはさんで城側は浄土宗、矢作平野は浄土真宗の本場で、矢作川の上流に曹洞宗が入り込む宗教分布になっています。
徳川家康が若い頃に生起した三河一向一揆では、忠誠無比を謳われた三河武士が信仰ゆえに主君・家康に反抗し、川をはさんで家臣、領民まで相争いました。
一方、東三河は曹洞宗の豊川稲荷を頂点とする大寺院と、それにつながる末寺が乱立して、曹洞宗が一大勢力を形成しています。
この末寺の中には、「寺院を建立する土地の年貢が免除される」と言う当時の宗教施策を当て込んで次々に建てられた民家と大差がないような小寺も多いです。
曹洞宗の教義は「只管打坐」「威儀即佛法」「作法是宗旨」とされていますが、これも道元禅師の時代には「坐禅をすること自体が安心安楽の道であるから只管打坐」「悟った世界観に則った威儀こそが佛法」「作法を正すことが宗旨」であると言う意味だったのですが、禅師が遷化されて百年を経ずして永平寺はほぼ無人になり、宗勢は衰退の一途をたどり、残った者たちは禅師が否定していた葬儀、法要、祈祷などに励むように宗旨を変質させて、ようやく宗門を守り、宗勢を盛り返したのです。
その代表が商売繁盛の祈祷を生業とする豊川稲荷です。
したがって東三河では曹洞宗の教義も在家向けに「現状肯定」「形式重視」「大勢従順」とお手軽に理解されることになりました。
つまり東三河では信仰に於いても、求道者的に一歩踏み出して殊更に頑張るよりも、今までと同じこと、周囲と同じことを守るのを唯一絶対の美徳として、自学研鑽、改善工夫の気風は悪業と排除されるようになったのでしょう。
野僧のように求道心を持つ者は「我を張る異端者」と否定され、ただ教えられたことに盲従することが東三河の佛教界で生きていく必須条件でした。
何にしても家康公が秀吉によって転封された時、有能な家臣と美女は江戸へ連れていかれ、さらに幕府を開府した際には譜代大名としてそれを全国にバラ撒きましたので、優秀なDNAが三河に残っていないのは間違いないでしょう。
幕末の戊辰戦争の折、豊橋の吉田藩は新居の関所を守る任を負いながら、薩長軍を通過させたばかりか荷役人夫まで提供してこれに協力した。
一方、第2次長州征討では山陰地方を進撃する大村益次郎の軍に対して、扇原関門を守っていた浜田藩士・岸静江国治は足軽や農民兵を逃がした後、1人立ちはだかり射殺された。結局、豊橋・吉田藩にはこの岸静江の気概を持つ武士は一人もいなかったと言うことです。
東三河で人材が育たない理由として、野僧は学校教育の問題も指摘したいと思います。
野僧の愚息1(長男)は東三河、愚息2(二男)は長州で高校に進学したのですが、それぞれの進路指導を見比べると東三河に人材が育たない理由がハッキリしてきました。
愚息1が豊川市の中学校で受けた進路指導は「この成績ならこの高校」と生徒を成績で輪切りにしてそれぞれを当てはめるだけで、本人の希望、適性などはあまり考慮されず、高校に合格させることだけが教師の仕事であり、父兄の方も高校への進学は、高卒という学歴を得ることだけが目的と言うと考え方のようでした。その点、野僧親子は愚息1の夢の実現と言う視点から進路について意見を求め、静岡県出身の担任教師は「こちらの学校で初めてそんな質問を受けました。それが教育ですよね」と困惑しながらも懐かしがっていました。
野僧自身も東三河で高校へ進学したのですが、猛勉強の末に合格した海上自衛隊生徒の合格通知を父親に破り捨てられ、公立の普通科高校へ進学するしかなくなり、せめて豊川(とよがわ)の流域から離れたいと蒲郡市の高校へ進んだのです。
ちなみ蒲郡市では、東三河に属していながら相手にせず、優秀な生徒は勿論、私立高校も西三河へ進学させていました。西三河トップのO崎高校は公立高校の東大合格者数の全国1位ですが、東三河のJ習館高校は県内トップ10に入っていませんから当然でしょう。
一方、愚息2は小学校6年の1学期に下関市豊北町に転校してきたのですが、夏休みの宿題でイキナリ「将来の夢」と言う作文が出され、これは中学校に入っても続きました。そして中学校で進学が具体的な課題になると、将来の夢を実現するためにはどんな資格が必要であり、それを取得するにはどの高校が好いと言う話し合いが行われ、同時に親に対して「大学へ進学させられる経済力はあるか?」「後を継がせなければならない家業はあるか?」などの確認がありました。つまり長州では、先ず「志」を立てさせ、その実現のために必要な勉強をすることが高校進学の目的なのです。
実際、愚息2は「親に進学させる経済力がない」と言うことで、下関市内の工業高校へ進学したのですが、その倍率は2倍を超えていて、しかも中学校でもクラスでトップの成績の生徒も愚息2と同様の理由で受験しているため、合否結果の予測は全く立たない状況でした。東三河の親にはそんな不安は耐えられないでしょう。
また工業高校に入学してからも、優秀な生徒に引っ張られる形で専門科目への真剣な取り組みが行われ、愚息2は毎晩、野僧の高校時代以上の猛勉強に励んでいました。
山口県の専門科高校は難関と言われる国家試験の合格者や専門科目の研究成果や技能競技会での優勝者が毎年のように出ています。このため山口県知事が「我が県の特産品は人材です」と豪語した通り、県外企業からの募集が引きも切らず、それが県の高齢化率を引き上げる原因にもなっています。さらに相撲協会の前理事長・放駒親方や芥川賞作家の田中慎弥さんは愚息2の工業高校のOBであり、菅内閣の高木義明文部大臣は隣りの工業高校のOBです。
考えてみれば東三河式の進路指導では、普通科の進学校には優秀な生徒が集まるものの、普商工農水と言われる成績序列で振り分けられる専門科高校では、成績下位=勉強嫌いの生徒ばかりが集まる訳で、お互いに楽な方に流れて淀んだ水のような状態になり、リーダーとなってクラスを引っ張る者もなく、教師も大過なく3年間を過ごし、地元の企業に就職させることがけを教育目標にするしかないのでしょう。
しかし、それはあくまでも穏当に進んだ者の話で、各高校へ振り分ける基準はあくまでも中学校のテストの結果であって、手先が不器用でも工業高校、人づきあいが下手な者が商業高校、さらに言えば農家や漁師の息子でないのに農業や水産高校などと言う愚かな進路指導が現実に行われているのです。
トヨタの社長の言葉の原因はここにもあるのでしょう。
私は沖縄で勤務していた頃、よく嘉手納基地のアメリカ空軍の整備兵たちと飲みました。向こうが3人、こちらが2人(ある程度、英語ができる者)くらいのメンバーでしたが、酔って那覇の街を歩いていると、観光客の女の子たちから声を掛けられることがありました。
向こうも少し酔っているようでしたが、イキナリ私に向かって「ねェ、こちらの外人さんを紹介してよ」と言うので、「私は日系アメリカ人だ。日本語はあまり分からない」と英語で答えると、彼女らは大声で「この人もアメリカ人だってさ」「日本語が分からないんだってよ」などと言い合って、やがて誰がどの外国人と寝るかを決めるジャンケンを始めました。
そして勝った者から順番にアメリカ兵を選んで腕にすがりつき、中にはその場でキスを始める者もありました。
一番負けた女の子が日系人の私になるのですが、白人に当った者たちは「日系人だってアメリカ人だらァ」「優しそうでいいじゃん」などと慰めるので私は英語訛りの日本語で「ヨロシク」と言って手を握りました。
そこで解散になりアメリカ兵たちはそれぞれの女の子を連れて次の店に行ったり、飲酒運転でドライブに行ったりするのですが、私は勤めて優しく扱い(ただし会話は英語と片言の日本語のみ)、やがては彼女のホテルへ、いよいよベッドインになるのですが、そこまでくると女の子は急に緊張して泣きだしました。
彼女が片言の英語で言うには「友達がそうしたいと言うから合わせていただけで本当はそんなことはしたくない」「地元に好きな人がいる」とのことでした。
そうなると国民を守る自衛隊の使命に則って私は退却するのですが、その地元とは愛知県豊橋市、職業は保母で、つまり真面目でウブな女の子も、周囲の目が届かなくなり、一緒にいる友人が調子に乗れば、それに無批判に同調してしまうのが東三河人なのです。
あれが私だったから退却しましたが、若しジャンケンで勝って別の相手を選んでいたなら、ホテルの部屋に入ってベッドに座るところまで行けば彼女は間違いなく好きな人を裏切ることになったでしょう。
実はこの話は1回だけでなく何度もあったのですが、そのうち1回は豊川市の地方公務員でした。この時も私はホテルまで送って撤退しましたが(地元で会うとまずいと言う判断です)、都会の遊びなれた女性なら兎も角、真面目そうで堅い職業の女の子がここまで乱れるのを目の当たりにすると、つくづく東三河の女性不信になりました。
と親に言いましたら東三河を批判したことに激怒しましたが。
- 2012/09/22(土) 09:35:00|
- 東三河の文化人類学的考察
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1868(明治元)年の明日9月22日は会津城が3カ月の攻城の末に落城した日です。
会津の方が未だに長州を許さず、山口県人と判るとタクシーが乗車拒否したりすることを山口県人は「執念深い」などと言いますが、山口県在住の東北人の野僧は「お前らがよくその台詞を吐く」と嗜めることにしています。
会津人が長州を許さないのは戊辰の役の敗戦が理由ではなく、そこで長州が行った武士道は元より人道にも悖る卑劣な振る舞いが故であります。
長州は禁門の変に於いて会津、薩摩軍に完膚なきまでに叩きのめされ、それまで京都での尊王攘夷運動で演じていた主役を失いましたが、それは長州藩内の過激派の暴走を止められなかった自業自得であり、会津藩は京都守護職として職務を遂行したに過ぎず、実際、長州敗走後には孝明天皇から功績を称賛されています。
ところが長州藩は旧敵・薩摩とは手を結ぶながら会津への恨みを忘れず、鳥羽伏見の敗戦後、奥羽越列藩同盟は結びながらも非戦の態度を取っていた会津に無理難題を押し付け、さらに屈辱的な挑発により戦いに追い込んだのは長州の私怨と言っても良いでしょう。
そして近代兵器を持つ長州軍は優位に戦いを進めたのですが、身分の上下、年齢の老若、男女の別まで問わず忠義に命をかけることを怖れぬ会津藩士は勇猛に戦い続け、3か月の攻囲の末、砲撃により会津城の天守閣は破壊されようやく降伏したのです。
ところが長州はここでも武士道・人道に反する暴挙を繰り返したのです。
降伏の席で藩主・松平容保公に対し正座をさせながら長州軍は床几に腰をかけて見下ろし、下級武士まで立ったままそれを眺める屈辱を与えました。
さらに会津若松の街中に斃れた藩士の遺骸を埋葬することを禁じ、夜の闇に紛れてそれをすれば、たちまち長州軍に咎められたため、遺族たちは父や夫、兄の遺骸が野犬に食い千切られ、朽ち果てて行くのを黙って見ているしかなかったそうです。
そして最大の暴挙は戊辰の役は終結した後、会津藩を青森県下北半島の不毛の地・斗南へ転封させたことです。会津藩は若い働き手の殆どが戦死するか戦傷を負っており、しかも資金も戦費として藩に上納していたため、未開の原野を耕作して収穫を得るまでの食料もなく、労働力が老人か女子供ばかりでは開拓も十分には進まず、多くが餓死、凍死、病死しました(来年の大河ドラマで描かれるかも?)。
「この過ちを深く反省しろ」と言っても絶対に自分たちの非を認めない県民性につける薬はないですな。この戦いを起こした元凶・世良脩蔵やこいつを育てた師の殺生僧・月性を未だに顕彰しようとしているくらいですから。
- 2012/09/21(金) 10:46:12|
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1933(昭和8)年の明日9月21日は宮沢賢治くん(宮本顕治さんではない)の命日です。
賢治くんと言うと童話作家、詩人としての顔ばかり有名ですが、実際は農業技術者として農業の近代化に身命を傾注し尽くして果てた人生だったようです。
賢治くんの生きた大正から昭和の初期は現在のように関東大震災以降、冷害や干ばつが打ち続き、東北地方の農村では賢治が「雨ニモマケズ」で「ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」と詠っているような悲惨な状況で、やがてそれが5・15、2・26事件の引き金になっていったのです。
賢治くんが熱心な法華経信者であったことは有名ですが、それが伝統的な日蓮宗だったため、日蓮正宗系の新興宗教の指導者たちは「日蓮宗と言う誤った教えを信じ、広めようとしたから佛罰として若死にした」と断じています。
まあ、宗祖の日蓮聖人御自身が始めは天台宗を守ろうととして他宗派を口撃し、その過激さ故に天台宗から排斥されると一転、比叡山を批判し始めましたからそれは宗風なのかも知れません。
しかし、野僧が思うに賢治くんが「宇宙は絶えず我らによって変化する。誰が誰よりどうかとか。誰の仕事がどうしたとか、そんなことを言っている暇があるか」と述べている世界観=存在が影響し合う社会を説いているのは妙法蓮華経よりもむしろ華厳経であり、賢治くんがそれに触れることなく排他的、独善的な宗風に染まってしまったことが残念です。
確かに内続く天象気候の不順に悩み苦しんでいた賢治くんが、その童話作家的な感性で妙法蓮華経に描かれている壮大な虚仮威し的メルヘンに共鳴しても不思議はありませんが、信仰が活躍の場を狭めてしまったようで返す返す残念です。
賢治くんの詩としては「雨ニモマケズ」が有名ですが、野僧は「永訣の朝」「春と修羅」なども愛唱しています。
「いかりのにがさ また青さ 4月の気層のいかりの底を唾し はぎしりする。おれは一人の修羅なのだ」如何ですか?これも賢治くんの顔なんです。
- 2012/09/20(木) 09:53:47|
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1902(明治35)年の明日9月18日は俳人・正岡子規くんの命日です。
子規くんもNHKの「坂の上の雲」で取り上げられていましたが、昨年末の第3部には回想シーン以外は登場しませんでした。
野僧は高校時代、国語の教師から「子規の横顔に似ている」と言われたことがあってその気になり(素直と言うか単純と言うか)、句集を買って読み耽ったことがあり、芭蕉さんの無駄を削ぎ落し研ぎ澄ましたような世界観、蕪村さんのそこに日溜まりを感じさせる温もり、一茶さんの一緒に遊ぶ戯れの味とは違う独特の感性を見て感動しました。
奈良の幹部候補生学校から法隆寺に参るのもワザワザ秋になるのを待って出掛け、途中で買った柿を三門の前でかじっていると、観光客たちが「坊さん(法衣を着ていた)、『柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺』だね。風流だな」と声をかけて行ってくれましたので、子規くんの句の風景になれたようです。
「虫の音や 踏み分け行くや 野の小道」「卯の花を めがけてきたか 時鳥(ほととぎす)」「名月や どちらを見ても 松ばかり」「紫陽花や きのふの誠 けふの嘘」どの句も単に風景を眺めているのでなく動的かつ主体的で不思議な躍動感があります。
その中で野僧が最も好きなのは、祖先の地・山形県最上の地を詠んだ「ずんずんと 夏を流すや 最上川」です。芭蕉さんの「五月雨を あつめて早し」の句も太陰暦なので夏なのですが、梅雨時の最上川の流れはズンズンの方が合うような気がします。
辞世代わりの糸瓜の句「糸瓜(へちま)さいて 痰のつまりし 佛かな」「痰一斗 糸瓜の水も まにあわず」「おとといも 糸瓜の水を とらざりき」
そして子規が逝った夜、弟子の虚子くんが詠んだ句「子規逝くや 十七日の 月明に」いいですねェ。
- 2012/09/17(月) 09:27:07|
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明日9月15日は天下分け目の関ヶ原の合戦の当日です。関ヶ原の合戦は1600(慶長5)年と非常に年号が覚えやすくて好いのですが、山口県では屈辱の日のようで、あまり語られることはありません。
明治政府に招かれて陸軍大学で教鞭を取っていたドイツ軍参謀のK・W・J・メッケルは現地を視察し、東西両軍の配置などの説明を受けた上で西軍が敗れたことを聞き、「何故だ。あり得ない」と言い、誰が裏切ったかの補足説明で「この合戦は戦闘力ではなく政治力が勝敗を決した」とようやく納得したそうです。
現在の歴史の授業が未だに明治以降の薩長史観の影響下にあると感じるのは、西軍の大将が石田三成公と言われ、常識化していることです。
しかし、近江19万石の大名に過ぎなかった三成公が自分よりも大身の諸大名を指揮下に置くことなどはあり得ず、あの時代では尚更のことでしょう。
実際の総大将は中国地方の太守・毛利輝元公であって、本人は秀頼や淀殿を守るためと称して大坂城に入り、養子の秀元公を宰相に、さらに毛利両川の吉川広家公、小早川秀秋公を派遣するなど毛利家の総力戦で臨んでいました。
その結果は今更言うまでもなく小早川の裏切り、吉川の内通があって西軍は大敗、輝元公も大坂城を立ち退くことになりました。
ですから毛利家が敗戦処理で取り潰されなかっただけでも恩の字で、さらに敗因は一門の背信だったのですから、徳川家を恨むのは筋違いと言うモノでしょう。
その逆恨みを徳川幕府260余年の天下太平の間、持ち続けていた執念深さは現在の山口県にも色濃く残っています。
まだ山陽新幹線や高速道路も通っていなかった50年以上前に持ち出した岩国基地への民間空港併設の構想を、実現への執念だけが独り歩きして半世紀以上、県内の宇部空港や隣県の西広島、北九州空港が赤字で苦しんでいる中、米軍の再編に絡めて実現させた愚かしさは最早DNAとしか思えません。
ただ、同じ倒幕の謀反人でも薩摩・島津家には同情の余地があります。
島津家は当初、家康公側につこうとしたのですが、伏見城への入城を留守居役の鳥居元忠殿に拒まれ、已むなく西軍に参加したのであって、合戦に於いても三成公の指揮を受けることを拒否して動かず、勝敗が決してから中央突破で離脱しました。
1600名の島津武士は決死の座りこみ戦法などで主君・義弘公を逃がし、薩摩に帰りついたのはわずか60名でしたが、敗れてなお「鬼石曼子(おにしまづ)」の名を轟かせました。
- 2012/09/14(金) 09:30:16|
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明日9月13日は乃木希典大将の命日です。
乃木と言えば明治天皇の大葬の令の当日に夫婦でともに殉死したことで有名ですが、遺書に「後のことは妻に」とあることなどから奥さんの方は倒れている乃木を見つけ跡を追ったと言うのが真相のようです。
東京赤坂の乃木神社にはこの自決の部屋が残っていて、畳に広がる血痕も見ることができます。
野僧は現役時代から軍人としての乃木は全く認めていないのですが、最近は司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」が放映されたことで、独自の研究成果が請け売りのようになってしまい残念です。少し自惚れれば野僧の自衛官としての研究レベルは司馬先生並みと言うことにもなりますが。
軍人としての乃木は西南の役で大失態を演じたように少佐もまともに務まっていなかったのですから、そこで退役して教育者か文学者にでもなっていた方が「世にも」本人にも幸いだったのでしょうけれど、上を目指して突き進む山口県の土地柄と陸軍閥の形成に躍起になっていた山県一派の事情が許さなかったのでしょう。
日露戦争の時、乃木が第3軍司令官になっていなければ奥保鞏第2軍司令官ほどの名将とまではいかなくても将たる器を持った人材が登用され、伊地知以下の参謀たちもあそこまで手前味噌な作戦指導をせず、あらん限りの知恵を絞って犠牲を少なく出来たのではないかと思われてなりません。
さらに言えば乃木が軍神になったおかげであの愚かな銃剣突撃が日本陸軍の美学になってしまい、第2次大戦どころか陸上自衛隊にまでその遺物が受け継がれています。
その意味では乃木は死に方まで誤りました。
辞世「うつし世を 神さりましし 大君の みあとしたひて 我はゆくなり」ああそうですか、お好きなように。
- 2012/09/12(水) 12:32:07|
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1976(昭和51)年の9月6日、ソ連軍のヴィクトル・ベレンコ中尉がミグ25で函館空港へ亡命しました。
この時、野僧は中学3年でしたが、社会科の授業で日本の産業が海外からの輸入によって成り立っていることを学び船乗りになりたいと思っていたところ、この事件を通じて日本の周辺に軍事的脅威が存在することを知り海上輸送路(シーレーン)の防衛を担う海上自衛隊を目指すようになりました。
後年、航空自衛隊に入り百里基地でミグ25を解体する作業にあたった航空実験団の人から詳しく話を聞きましたが、ミグ25は商品でもある米国の戦闘機とは全く異なる設計思想で作られており、極端に目的に特化されていたようです。
ミグ25は超音速で飛来する米軍の新型爆撃機・XBー70ヴァルキリーを迎撃する目的で開発されたため、高速度と上昇力のみを追求し、空中戦をするための運動性は度外視され、機関砲すら積まれていませんでした。
結局、XBー70の開発計画は試作機の墜落事故もあって頓挫したため存在理由がなくなったのですが、超音速偵察機SRー71に目標を変更することで生き残りました。
ただし、SRー71では速度が違い過ぎて役には立たなかったらしいですが。
あの頃の軍事評論家たちはミグ25の斜めに切った空気吸入口や二枚の垂直尾翼の外観が米国の開発したFー15に似ていることから同程度の性能があるのではないかと言っていましたが、機体の材質にしてもチタニウム合金を多用するFー15とは異なってかなり重く、エンジンもタービンブレード(圧縮機の羽)が8枚程度しかなく、ターボジェットではなくラムジェット(吸入する空気の圧力で圧縮する)ではないかと言われたそうです。
ちなみにFー15のエンジンはターボジェットよりもさらに進んだターボファンエンジン(吸入する空気をファンで安定供給し圧縮効率を上げる)です。
自衛隊員たちは散々にバラしてテストを繰り返した後、ソ連に送り返す時、梱包に「時代遅れ」「粗悪品注意」「次はもっと良い機体で来な」などと書きなぐったそうですが、ロシア女を寄ってたかって散々に姦りまくった気分だったそうです(下品でスミマセン)。この時、米軍から支援に来ていたミグ屋はテスト飛行までしたいと言ったらしいですが、日本政府が許しませんでした。こんな所は今も変わりません。
ところでこの事件を切っ掛けに自衛官になった野僧が、この事件を切っ掛けとして津軽海峡防衛を目的に作られた第6高射群で自衛官の幕を引くことになったのも不思議な因縁です。
しかし、ミグ25が低高度で飛んでレーダーから逃れたことの対策に高々度用の地対空ミサイル・ナイキを配備してどうするつもりだったのか訳が分かりません。
- 2012/09/05(水) 10:08:39|
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明日9月5日は福者・テレサ(本名 アグネス・ゴンジャ・ボヤジェ)の命日です。
野僧はキリスト教そのものには違和感を抱いていますが、実践者としてのマザー・テレサには率直に敬意を払っています。その点、プロテスタントの牧師たちは「彼女の慈善活動はカトリックの誤った教える手段に過ぎないから認めない」そうですが。
小庵の壁には福者・テレサの言葉を墨書して貼ってあります。
「愛の反対語は憎しみ? それは違う 愛の反対語は無関心なんです」
「愛したいと願うなら ゆるしあわねばならない」
「カミを愛する喜びをいつも心に保っていなさい。そしてこの喜びを貴方が出会う全ての人々、なかんずく家族の方と分かち合いなさい」
「Keep the joy of loving God in your heart and share this joY with all you meet especially your family.」心に染みますな。
マザー・テレサはノーベル平和賞を受賞した時、演説にこの言葉を引用しました。
「あなたの平和をもたらす道具として、私をお使い下さい。憎しみのあるところには愛を。不当な扱いのあるところにはゆるしを。分裂のあるところには一致を。(聖フランチェスコの「平和の祈り」)」この言葉の対象がキリスト教者だけでなかったところが福者・テレサの偉いところですが、他のキリスト教者の場合、本音では非キリスト教徒を人間と認めていないようなので眉に唾をつけて訊く必要があるかも知れません(ローマ・カトリックが非キリスト教徒を人間と公式に認めたのはそれほど古い話ではありません)。
「私は決して助けた人を数えたりしません。ただ一人 ひとり そしてまた一人」これも福者・テレサなら良いですが、信者を増やす目標のカウントでは困ります。
それにしても日本人は身体障害者の救済に生涯をかけた「無手の法悦」大石順教尼を忘れて(知らないで?)、どうして福者・テレサばかりを敬うのでしょう。と苦言を申し添えておきます。
- 2012/09/04(火) 10:45:18|
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明日9月3日は江戸前期の傑僧・盤珪永琢和尚の命日です。ただし1693=元禄6年の太陰暦ですが。
ところでイキナリ余談ですが、臨済宗の方は「禅師」と言う単語を尊称として手軽に使わることがよくありますが、禅師号は古来、皇室によって許されたものなので乱用することに問題はありませんか?
先日も臨済宗の老師たちの対談で、大愚良寛和尚を「良寛禅師」と呼んでいましたが、良寛和尚は住職にすらなっていません。盤珪和尚も「盤珪禅師」と書いてある本をよく見ますが、禅師号の宣下を受けられた記録は存じません(不勉強なだけかも知れませんが)。
盤珪和尚と言えば「不生禅」ですが、常識を抱えた人たちには「不生=生きず」が解決になることが理解出来ないようで「難解だ」「不可能だ」と口を揃えますが、死ぬことばかり仕習ってきた野僧は「苦しみの根本原因は生きていることだ(生命だけでなく存在を主張することも含む)」と実感していますので「不生」を得心できます。
このことは佐賀藩の「葉隠」に大きな影響を与えた鈴木正三道人も著書「反故集」で「総じて死して死に損なく、生きて生き損多きものなり」と明確に説いています。
盤珪和尚曰く「修羅にしかえず、餓鬼にしかえず、畜生にしかえず、おのずから佛心で居ようよりは外に、しよう事がござらぬわいの」「おこる念に少しも貪着せずして、起こるまま止むままに被成候わば、自然に本心に叶い申候」三河武士として幾多の合戦を戦い抜いてきた正三道人よりも少し優しいですか。
盤珪和尚は坐禅に励み過ぎて身体を壊し死線を彷徨ったことがあるそうですが、どこぞの高祖さんの言う「安楽の法門」とは次元が違います。
盤珪和尚はこれからの季節に好く合う言葉を遺しておられます。
「夏の頃しも恋しき風も 秋の果てぬに早にくむ」ただ、盤珪和尚の崇敬者や禅を学問的に学んでいる人は「これは単なる季節感を述べているのではなく、もっと広く奥深い世界観を語っておられる」と主張しますが、意外に本人は感じたままを素直に詠っているだけで、それを周りが勝手な解釈をしていることも珍しくありません。
盤珪和尚は遷化に当り弟子たちから「何か仰せおかれることは」と問われ「身ども一生、云置く事のない事ばかり、人々に云い聞かせた」と答えられたそうですが、野僧のブログもそんなものでしょう。
- 2012/09/02(日) 12:52:05|
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