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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月31日・ハロウィン

明日はハロウィンですが、野僧はとても日本に向いた行事だと思っています。
ハロウィンは元来、ヨーロッパの精霊信仰の名残の行事ですが、森に棲む精霊がお化けになって街にあふれる光景が面白く、日本ではこれも仮装のところだけを真似ているようです。
ただ、折角このタイミングなら神無月で出雲へ行っておられた神々がお帰りになられたことを歓迎する神道の行事にしてしまえばどうでしょう。
お化けが家にやってくる祭礼なら、秋田県男鹿半島のナマハゲやそれに類似したものが全国各地にありますし、子供のお化けなら岩手県遠野の座敷童子が有名でしょう。
神様がお化けになってお供物を受け取りにくるから玄関でお菓子を渡すと言うことで出来上がりです。
我が家では子供が小さい頃、「クリスマスは笠地蔵がプレゼントを持ってくる」ことになっていて、野僧が坊主の恰好で網代笠を被り、プレゼント枕元に置く証拠写真も撮っていました。
そもそも日本の宗教行事は神道を含めて殆んどが外来文化の受容で成立してますから、これもよろしいのでは。
  1. 2012/10/30(火) 18:56:49|
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10月27日・吉田松陰先生の命日

1859(安政6)年の明日10月27日は吉田松陰先生が斬首された日です。数えの30歳でした。
先生の号の松陰は、九州遊学の旅で寛政の三奇人である高山彦九郎の破天荒な生涯に感銘を受け、久留米にある墓に参って墓石に刻んである戒名「松陰以白居士」に因んだものと言われています。
野僧は以前から山口県人の「何でもかんでも郷土の人がやったことは絶対に正しい」と言う独善性に疑問を持っていて、是は是として誇るにしても、非は非として真摯に省みなければならないと考え、そのシンボルである松陰先生のことを「完全無欠の聖者」のように強弁する人に会うとこの質問をすることにしています。
「ウサマ・ヴィン・ラディンと松陰先生はどう違うのか?」先年、アメリカ軍特殊部隊によって殺されたウサマ・ヴィン・ラディンは、アメリカを通じてしか世界を見ていない日本では「9・11事件を引き起こしたアルカイーダの首領の凶悪なテロリスト」ですが、イスラムの人々にとってはキリスト教の正義で世界を制覇しようとするアメリカに対抗し、痛撃を加えた英雄であります。
また、ウサマ・ヴィン・ラディンはイスラムの戒律を厳格に守り、最期まで清廉な生活を守っていたようです(富豪の生まれで質素とは言えませんが)。これは松陰先生の信奉者が口を揃える人間性の魅力に通じるでしょう。
さらに松陰先生が目的達成の手段として扇動したのは、山口県人が維新の志士と持て囃している過激派藩士たちを使っての幕府要人の暗殺、外国人の殺傷や公館焼き討ちなどであり、これは弟子を使ってのテロに他ならないのではないでしょうか。
結局、戊辰戦争で勝利を収めた長州が明治以降の学校教育を取り仕切ったから、過激派志士たちは英雄とされ、その教祖(狂祖)である松陰先生も神格化されているのであって、やられたことはウサマ・ヴィン・ラディンと何も変わらないのです。
松陰先生は伝馬獄で長く留め置かれたため辞世を多く詠まれたそうで、少なくとも次の四首が遺っています。
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂(遺著・留魂録の冒頭)」
「心なる ことの種々(くさぐさ)かい置きぬ 思い残せる ことなかりけり」
「親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん」
「此の程に 思ひ定めし 出立(いでたち)は けふきくこそ 嬉しかりける」
このうち最後の一首は斬首の呼び出しを待たせての作で、添削する時間がなく「けふきくこそ」の「き」のところに印を入れた状態の未完成だったようです。
松陰先生は特別なこともなく従容と死を受け容れて旅立たれ、首斬り役人の七代・山田浅右衛門は「最も見事な死に際であった」と評しています。
松陰先生の遺骸は小塚原刑場(隠語で骨ケ原と呼ばれた)の因習により、衣服を遺体処理の非人が奪い全裸だったそうで、引き取りに行った桂小五郎、尾寺新之丞、飯田正伯、伊藤俊輔(博臣)らがそれぞれ衣服を脱いで着せたと言われています。
また斬首された罪人の首を継ぐことは刑の否定になるため許されず、遺骸の膝に抱かせる形で、小塚原の敷地内にある回向院に橋本左内と並んで埋葬されたそうです。
吉田松陰先生
  1. 2012/10/26(金) 09:16:04|
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10月26日・伊藤博文の命日

1909(明治42)年の明日10月26日は初代内閣総理大臣・伊藤博文公の命日です。
現在では山口県人まで伊藤公のことを「長州の志士」と呼んでいますが、実際は周防国・現在の光市の農民兼足軽の出身なので、徳山支藩の藩士の子であった児玉源太郎閣下や鋳銭司の田舎医者の大村益次郎(村田蔵六)と共に防州人です。
明治のジャーナリスト・池辺三山は「農民出身から出世して位人臣を極めたと言う意味では豊臣秀吉と双璧」と評価していますが、似たような人間性だったのかも知れません。
実際、太閤伝説があちらこちらに伝わっているように、下関のふぐを解禁した話など伊藤公の逸話は数多く残り、武士上がりの身分と戦歴をひけらかして軍閥を率いた山県有朋や鹿鳴館の派手な社交を演出した井上馨とは地元でも人気に大きな差があります。
伊藤公は農民・足軽の子でありながら、桂小五郎にその才を認められ「はぐくみ(「山口県が生んだ8人の総理大臣」を参照のこと)」となって士分扱いになり、他の4人の藩士の子たちと共にイギリスへ密航留学したのですが、馬関海峡での異国船砲撃と四カ国艦隊による攻撃のニュースをイギリスで知り、井上聞多(馨)と急遽帰国し、高杉晋作を全権とする停戦交渉に通訳として参加しています。
また、先年放映された大河ドラマ「龍馬伝」では坂本龍馬が言ったことになっていた「薩摩が仲介して長州に西洋式の大砲や銃、弾薬を売却させれば薩長のわだかまりは解ける」の献策を提案し、薩長同盟を実現しました。
明治新政府では木戸孝允(桂小五郎)と薩摩の実権を握っていた大久保利通の仲介役を務めていましたが、西郷隆永(1877年)、木戸(1877年)、大久保(1878年)が相次いで亡くなると次第に頭角を現し、1883年に岩倉具視が亡くなる時には「後のことは全て伊藤にお任せを」と明治天皇に遺言したほどでした。
ここで余談ながら、現在の文化人シリーズになる前の紙幣の肖像は1万円、5千円の厩戸皇子(聖徳太子)を除くと1千円は伊藤公(山口県)、5百円は岩倉公(京都府)、1百円は板垣退助(高知県)で、薩摩が抜けていたのは当時の政界の権力構造を反映していたのでしょうか?
ただ、伊藤公は意外にも山県有朋が牛耳る長州閥や軍閥とはあまりつながりがなく、天皇の絶大な信頼の下、元老や外国とのバランスの中で実力を貯えて行ったのです。
と言ってもチョンボもしばしば犯していて、日露開戦間近にロシアと同盟を締結しようと訪露したり、韓国併合を推進して初代朝鮮総監に就任しましたが、これが命取りでした。
伊藤公は天皇の前では自らを「臣・伊藤」と呼んで心から臣従し、伊藤公がハルビンで暗殺されたことを聞いた天皇は絶句し、しばらく食事も喉を通らないほど悲嘆にくれたと言われています。
最近の首相在任期間の短命が問題になっていますが、最長は山口県出身の佐藤栄作の通算7年8カ月、次が同じく伊藤公の7年3カ月、3位は高知県の吉田茂の7年1カ月です。
安倍晋三さんは前回1年で退陣し短命内閣の切っ掛けを作ってしまいましたが、伊藤公のように退陣しても復権を繰り返し、通算で祖父の弟が持つ最長記録の更新して山口県で1、2、3位独占するのは如何でしょう。
  1. 2012/10/25(木) 09:20:56|
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10月23日・どくとるマンボウの命日

明日10月23日でどくとるマンボウ・北杜夫先生が亡くなって1年がたちます。
野僧は中学時代から遠藤周作先生の狐狸庵シリーズと並んで北先生のどくとるマンボウシリーズが好きで、ヒョッとして船乗り→海上自衛官を目指すようになったのは「どくとるマンボウ航海記」が伏線だったのかも知れません。
また「どくとるマンボウ青春記」を読んで信州・松本に憧れ、高校の修学旅行で松本駅から表紙の写真の風景を見た時には一人で異常に感激していました。
ならば信州大学に進学すれば好かったのですが、残念ながら哲学科がなく(国公立大学は受験科目に苦手な数学があり無理でした)、「信州の山に登りたい」と言う夢を語っていただけでした。しかし、後輩の中にはそう信じていた娘もいましたが。
後年、航空自衛隊の幹部になり東北に赴任する時に立ち寄った仙台では、青春記に「あまりパッとしない街」と紹介されていたためそんな先入観がありましたが、北先生が過ごされた戦後すぐとは違い現在は美しく整備され、さとう宗幸さんの「青葉城恋歌」の世界でした。
愚息1を狐狸庵先生からいただいて「周作」と名づけたことは遠藤先生の命日の時に書きましたが、苗字の関係で愚息2(二男)を「杜夫」にできなかったのは残念です。
  1. 2012/10/22(月) 09:03:31|
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10月20日・二宮金次郎・尊徳の命日

1856(安政3)年の明日10月20日は二宮金次郎・尊徳の命日です。70歳でした。
昔の小学校には必ず薪を背負って本を読む二宮金次郎さんの像があって、児童は「勉学に励むこと」をヴィジュアル的に学んだものですが、現在は「歩きながら本を読むのは交通事故の原因になって危険」と言う訳が分からない理由で撤去され、出身地の小田原市の小学校には薪を下して座って本を読む像が作られているそうです。
野僧が子供の頃に読んだ偉人伝にも必ず二宮金次郎さんの物語があり、貧しくて書の勉強をするのに紙が買えず、お盆に砂を敷いて棒で練習をした話や親が亡くなって親族に預けられた後、あぜ道に捨ててある植え残しの苗を集めて自分の田で米を作った話、さらに勉学をする灯明の油がもったいないと禁じられて自分の畑で菜種を育てて灯油にした話などを読んで、勉強だけに励むことができる我が身の幸せを噛み締め教訓にしたものです。
二宮尊徳さまの仕法(農村改革策)は勤労、分度、推譲の3要素を柱とするもので、勤労は単純に働くのではなく、「天の理と人の理」或は「天道と人道」の合致と言って天候気象の法則を学び、それを役立てるように上手く工夫することを説いています。「夏に茄子を食べたら秋茄子の味がするからと飢饉への備えを指導した」と言う有名な逸話がありますが、天地の恩恵を享受する農民には、その意思を洞察する感性が必要だと言うことなんでしょう。
分度とは分に応じた生活設計を立ててそれを守ることで、巨額の財政赤字を生み出して愧じない現在の政府に聞かせたい教えです。推譲とは分度を立てて勤労した結果、余裕が生まれればそれを譲り合って社会全体の生活を向上させると言うことで、これによって報徳が生まれるとしています。
しかし、出身地である小田原藩の大久保家では幕府から日光再興の御普請役として幕臣に採り立てられていた尊徳さまを疎み、66歳の時に墓参のため帰郷した際も「農民と接触してはならない。墓参がすんだら早々に立ち去れ」と命じました。したがって没した場所は下野国今市(現・栃木県今市市)でした。
尊徳さまは仕事の経過を日記に書き留め、亡くなる当日まで弟子に口述筆記させていますが、それは「・・・あせってはならぬ、あせると全て大事が乱れる。みんな、勤めるように。飽きてはならぬ」と言うものだったそうです。また、尊徳さまは没前年の大晦日の日記には「私の足を開いてくれ。私の手を開いてくれ。私の手紙を読んでくれ。私の日記を読んでくれ。戦々恐々としてまるで深い淵に臨むようだ。薄い氷を踏むようだ」と記しています。幾多の困難に堪え固い信念を貫いて偉業を為した人にもこんな悲痛な言葉を吐く時があるのです。今なら「ブログを読んでくれ」も入るのですかね?
尊徳さまの遺言は「葬る時は分をこえてはならぬ。墓石をたててはならない。土を盛り上げて松か杉を一本植えてくれ。必ずこの言いつけを守ってもらいたい」でしたが、それは守られず墓は建てられました。
しかし、身長180センチだった尊徳さまを埋葬するのは大変だったでしょう。
  1. 2012/10/19(金) 08:57:49|
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10月14日・人類がマッハの領域に突入した。

1947年の明日10月14日にアメリカのエドワード空軍基地の上空で、チャック・イエーガー操縦のベルXSー1がマッハ1・015を記録、音速を突破しました。
このことは映画「ライト・スタッフ」に詳細、かつ感動的に描かられていますが、あの映画を見るとパイロット気質に日米の隔たりがないことが解り、殉職した同僚のことを思い出して何度見ても涙ぐんでしまいます。
特に後半で宇宙飛行士(=ライト・スタッフ)に選ばれなかったイエーガーが最新鋭機・Fー104を操縦して大空を駆け昇るシーンではJ79エンジンの独特の美声が館内に響き、人目をはばからず号泣してしまいました。
ちなみにこの時の上昇速度の記録は、ソ連が「ミグ25で破った」と主張しアメリカが否定するなど論議を呼び、長く世界最高記録の座に君臨しました。
友人のパイロットたちの話では、音速を突破するとエンジン音さえも置き去りにするため自分一人が静寂の中に包まれ、聞こえるのは無線の音だけ、前方の雲も一瞬のうちに後方へ飛び去り、キャノピーに映る風景さえも神の領域に踏み込んだかのようだと言います。
ところで日本では、ドイツのメッサ―シュミットのコピーである水冷式戦闘機・飛燕が急降下した時に音速を突破したとか、18試作戦闘機・震電は超音速機を目指していたなどの嘘が実しやかに語られていましたが、音速を突破するには衝撃波と言う強固な壁を突き破らなければならずプロペラ機の構造では不可能です。若し、それがあったとすれば神雷特攻隊のロケット機・桜花ですが、主翼に後退角がないことやロケットの推進力と爆弾を積んだ機体重量を考えると、これも無理だと思われます。
何よりも桜花は殆どが運搬途中でアメリカ軍機の迎撃を受け、1式陸攻と共に撃墜されていますからアメリカ側の記録などでも確認の術がありません。
後年、チャック・イエーガーが来日した時には映画「ライト・スタッフ」を見ていたパイロットほかの航空自衛官たちは神様に会ったかのように感激し、搭乗した機体の座席を撫でまわしたそうです。
そう言えば野僧の幹部候補生学校の入校式では中部航空音楽隊が「ライト・スタッフ」の主題曲を演奏しました。
  1. 2012/10/13(土) 09:53:02|
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10月12日・松尾芭蕉の命日(時雨忌)

1694(元禄7)年の明日10月12日は俳聖・松尾芭蕉さんの命日です。野僧と同年代の50歳でした。
芭蕉さんは伊賀の国の生れで、そのため本当は忍者で「奥の細道」などの紀行も幕府の密命を受けた隠密道中だったのではないかと言う珍説もあり、その論拠として旅の速度が非常に早いことや立ち寄った場所が外様大名でも幕府にとって脅威となる大藩であることなどが上げられています。
最近では「伊賀と言えば忍者」のイメージを地元の伊賀市まで観光キャンペーンに利用していますが、個人としてのつき合いで「あの人は伊賀の出身」と言うのは「信用ならない」「油断がならぬ」の意味もあり、芭蕉さんもその被害者と言えるのかも知れません。
奥の細道には「雲の峰 幾つ崩れて 月の山(月山)」「五月雨を あつめて早し 最上川」「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡(平泉)」「五月雨の 降りのこしてや 光堂(平泉)」などの東北を詠んだ句が多く嬉しいのですが、傑作と言われているのは「古池や 蛙(かわず)飛びこむ 水の音」で、この静寂の空間を破るのが蛙が跳び込んだ水の音であると言う描写の妙は、俳人が忍者のカモフラージュだったとは思えません。
その中でも野僧は美濃の地の病床で詠んだ辞世の句「旅に病みて 夢は枯れ野を かけめぐる」が好きです。病んでなお夢で枯れ野をかけめぐりたいものです。
しかし、枯れ野をかけめぐりにはやはり太陰暦でないと季節感が合いませんね。
  1. 2012/10/11(木) 10:01:07|
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10月11日・渡辺崋山の命日

1841(天保3)年の明日10月11日は渡辺崋山先生の命日です。
崋山先生と言うと「何でも鑑定団」の影響もあるのか画家としての顔ばかりが有名ですが、実は田原藩の江戸家老であり、何よりも高野長英、小関三英たちと「尚歯会」を主催し、海外事情を探り、西洋の先端科学や近代政治学、さらに西洋史などを普及させ、有為な人材に活躍の場を与えた大学者であります(長崎へ行った経験すらないのにアメリカ、ロシア、欧州各国の詳細な国情を正確に紹介する書物も執筆しています)。
と言いながら田原市の郷土資料館(博物館)の学芸員でさえ「絵画作品しか明確な業績がありませんから画家です」と言っているくらいですから仕方ないのかも知れません。
しかし、天保の改革に盲進する水野忠邦に取り入った鳥居燿蔵が、西洋事情に精通した尚歯会の存在が重みを増すことを嫌い、得意の謀略によって引き起こした蛮社の獄によって、無実の罪に陥り、国元である渥美半島の田原へ蟄居することになりました。
渥美半島は現在でこそ用水路が整備され一大農業地帯になっていますが、当時は太平洋、三河湾からの海風に吹き晒され、山がないため水利に乏しく、高潮などの被害もあって稲作に不向きな痩せた土地であり、田原藩・三宅家は大名と名のること自体に無理があるような小藩でした。
そこに崋山先生は尚歯会を通じ入手したジャガイモを植えるなどの農業指導をして農民の苦境を救うなどしたのですが、やはり貧乏藩の罪人では生活は困窮を極めていました。
それを見かねた弟子たちが江戸で作品を売って送金したのですが、崋山先生が推進した藩政改革を快く思っていなかった国元の守旧派重臣が、ここぞとばかりに「主君に迷惑がかかる」「罪人の立場が判っていない」と責め、「不忠不孝渡辺登」の七大文字遺書を記しての自刃に追い込まれたのです。
結局、田原も事の善し悪しではなく、常識に合うか否かだけを問題にする東三河なのでしょう。
野僧は崋山先生の死亡診断書を読んだことがありますが、腹部は深さ約10センチ、長さ約36センチ、頚部にも深さ約3センチ、長さ10センチの傷とあり、見事な切腹だったことが判ります(野僧にも誰か切れ味のよい日本刀、それも脇差を貸していただけませんか?大刀では柄の部分が支点になって真横に引けず切りにくいそうですから)。
蛮社の獄の直後にアヘン戦争が起り、幕府は西洋諸国の怖ろしさを思い知ったのですが、西洋事情に熟知した第一人者たちを弾圧しただけに水野忠邦も対応に困り、尚歯会のメンバーだった伊豆代官・江川太郎左衛門を重用するようになったのですから、若し、鳥居燿蔵の暴挙がなければペリー来航から戊辰戦争に至る幕末の混乱もなかったかも知れません。
このアヘン戦争を来たる尖閣有事、幕府を航空自衛隊、鳥居燿蔵を東俊輔に置き換えれば「航空自衛隊怪僧記」です。
  1. 2012/10/10(水) 09:38:44|
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10月10日・旧体育の日

明日10月10日が旧体育の日ですが、この日は東京オリンピックが開幕したから体育の日であって、第2月曜日では単なる「スポーツの秋を楽しみましょうの日」になってしまいます。
このことは海の日でも述べましたから繰り返しませんが、そもそも10月10日が開会式に選定されたのは、この日が気象統計上、晴天の特異日(晴れることが極めて多い日)であるからで、その意味でもスポーツの秋を楽しむのに最も適した日であります。
逆に変更しても問題のないのが敬老の日と成人の日で、敬老の日は厩戸皇子(聖徳太子)が大阪の四天王寺に老人ホームを作った日とか元正天皇が「養老」に改元した日と言われるくらいで確かな由緒がないのです。
どちらかと言えば9月に2度も休日を重ねるくらいなら敬老の日を8月15日にして、もうすぐ一員になる先祖への挨拶と入るお墓の下見、さらに敗戦の日に因んで戦死した夫の追悼に手を合わせる方が好さそうです。
一方、成人の日も古来の元服は15歳であり、その年齢にちなんで15日に行っていたようで、現在は20歳で成人になりますから1月15日にはあまり意味がありません。
若し第2回東京オリンピックが実現したなら、真夏の酷暑の中、選手が脱水対策しながら競技しなければならないような愚は犯さず、もう一度、10月10日に開催して日本のスポーツの秋、食欲の秋を満喫してもらいましょう。そう言えばオリンピックには芸術祭もありました。秋開催で大変なのはヨットやカヌーなどの選手たちですが。
おそらく欧州のサマーバケーション期間の方が、中継放送の視聴率が上がるため現在のような時期になっているのでしょうけど。
  1. 2012/10/09(火) 10:28:44|
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10月9日・チェ・ゲバラの命日

1967年の明日10月9日にキューバ革命の英雄・チェ・ゲバラがボリビアで射殺されました。
学生運動が華やかだった頃、チェ・ゲバラと言えばカストロと並ぶ英雄でしたが、今の学生で知っている人はどれ程いるでしょう。
野僧が愛知の大学に通っていたのはそんな気分は一掃されていた昭和50年代半ばですが、北京外語学院の姉妹校だけに未だ毛沢東主義が蔓延していて学生運動が色濃く残り、革○派と民主△年同盟系の学生で学内闘争が行われていました。
そんな各○派の同級生から「読め」と勧められたのが、チェ・ゲバラの著書「ゲリラ戦争(ゲバラ教範)」で、その後、自衛隊に入ると毛沢東の「運動戦術理論」と共に逆の意味での参考図書になりました。
ゲバラの戦術は斥候に当る前衛と本隊、そして後方の警戒と支援に任ずる後衛に別れ、それらが連携し合いながら奇襲攻撃を繰り返すもので、「ゲリラの補給源は敵である」と言っている通り、倒した敵から武器弾薬は勿論、食糧まで奪っていたようです。
ゲバラは1959年、キューバ革命政府を樹立させた後、政治的にアメリカとの妥協も選択肢とするカストロと相容れなくなり、革命家としての美意識の命ずるままにアフリカ、南米での反政府勢力の育成と戦闘指揮に当り、アメリカのCIAはその命を奪おうと追い回していた点は、最近のウサマ・ヴィン・ラディンに通じるものがあります。
ゲバラはアンデス山脈チェーロ渓谷での戦闘中、ボリビア政府軍の山岳部隊の襲撃を受けて捕獲され小学校に監禁されていたのですが、CIAからの殺害命令を受けて政府軍によって銃殺されたのです。この時も全身に数発の弾を撃ち込まれても存命していて、至近距離から心臓を撃ち抜かれてようやく死亡したそうです。
と言う英雄伝を熱く語っていた同級生は現在、どんな中年親父になっているのか・・・。
チェ・ゲバラ(60年3月5日31歳)
  1. 2012/10/08(月) 08:32:59|
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10月8日・伊達輝宗の命日

1585(天正13)年の明日10月8日(ただし太陰暦)は伊達輝宗公の命日です。
輝宗公は奥州の覇者・伊達政宗公の父親ですが、大河ドラマ「独眼竜政宗」では北大路欣也さんが演じていました。
その最期は二本松城主・畠山義継から和睦の仲介を依頼されたものの不調に終わり、逆上した義継によって人質になっているところを政宗公自身の命によって射殺されたのです。
輝宗公は幼い頃に疱瘡にかかり片眼を失い、内向的で屈折した我が子・政宗を庇護し、よき近習をつけ、名僧・虎哉宗乙を師に迎え、次男を溺愛する妻を抑えて早くに家督を譲り立派に育て上げました。
おそらくこの父なくして伊達政宗公は在り得なかったでしょう。
野僧は伊達輝宗公を平清盛の父・忠盛(今年の大河ドラマでは中井貴一さんが演じていました)、織田信長公の父・信秀と並ぶ傑出した我が子を育て上げた父親の鑑と思っていますが、忠盛、信秀は共に自身も傑出した人物でしたが、輝宗公は家臣からの人望はあったものの目立った戦歴、業績はありません。
残念ながら我が父はむしろ自分を超える才を示す息子に嫉妬し、脅かす存在として排除しようとした武田信玄の父・信虎に近い存在でした。
小浜の僧堂に参禅した高名なドイツ人の心理学者を接遇した時、片言の英語の会話だったにも関わらず「貴方はかなり酷い精神的虐待を受けていますね」と喝破されたくらいです。
しがって野僧は「親孝行」など言う儒教の倫理などは全く認めていませんし、愚息たちにも求めていません。
野僧自身は息子に対して、黒田如水の如き父でありたいと思っています。
関ケ原に際して福岡の地に在った如水は、天下分け目の合戦が長期戦となることを見越し、その間に九州を制覇して東上し、長期戦で多大な損害を受け弱体化した勝者を打ち破って天下を奪取する壮大な戦略を立てていましたが、その合戦が我が子・長政の活躍によってわずか一日で終わったことを知り、戦勝の報告で「大御所(家康公)が私の右手を握って感謝してくれました」と自慢する息子に「その時、お前の左手は何をしておったのだ=何故、左手で刺し殺さなかった」と言い放ったそうです。どうです格好いいでしょう。
  1. 2012/10/07(日) 09:04:00|
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