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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月25日・憂国忌

大阪万博があった1970(昭和45)年の明日11月25日は平岡公威(きみたけ)=三島由紀夫先生の命日・憂国忌です。ここで長文になりますが野僧が秘蔵する肉声テープから採録した最期の演説を紹介します。
「・・・この日本でただ一つ、日本の魂を持っているのは自衛隊であるべきだ。我々は自衛隊に対して、日本人の根底に・・・されたんだ。しかるにだ、我々は自衛隊と言うものに・・・静聴しろ、静聴、静聴せい!自衛隊には国軍たるべき裏に、日本の大本を正すと言うことはないぞ、と言うことを我々が感じたからだ・・・しかるにだ、去年の10月21日には何が起ったか・・・去年の10月21日には新宿で反戦デーのデモが行われて、これは完全に警察力で制圧されたんだ・・・俺はあれを見た日に、これはいかんぞ、これで憲法は改正されない!と慨嘆したんだ・・・何故か、それを言おう・・・それはだ、自民党と言うものがだ、警察力でもって、いかなるデモも鎮圧できると言う自信をもったからだ・・・自衛隊はいらなくなったんだ・・・諸君は去年の10・21から後の、去年の10・21から後だ、もはや憲法を護る軍隊になってしまったんだよ・・・自衛隊が20年間、血の涙で待った憲法改正と言うものの機会がないんだ・・・去年の10・21から1年間、俺は自衛隊が起こるのを待っていた・・・もうこれで憲法改正のチャンスはない!・・・自衛隊にとって建軍の本義とは何だ!日本を守ること・・・日本を守るとは何だ!日本を守るとは天皇を中心とする歴史と文化と伝統を守るんだ!・・・よく聞け!聞け・・静聴せい!・・・男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ!・・・いいか、いいか!・・・俺がだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらなければ、自衛隊が立ち上がらなければ、憲法改正と言うものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ!・・・諸君は武士だろう、武士ならばだ、自分を否定する憲法をどうして守るんだ・・・自分らを否定する憲法と言うものにペコペコするんだ・・・諸君の中には一人でも俺と一緒に起つ奴はいないのか・・・一人もいないんだな・・・よし、俺は死ぬんだ、憲法改正のために起ち上がらないと言う見極めがついた、自衛隊に対する夢はなくなったんだ!それではここで天皇陛下万歳と叫ぶ(皇居に向かって)、天皇陛下万歳!万歳!万歳!」
この時、盾の会との訓練に参加していたシンパの隊員たちは一室に集められて監禁されていたそうで、バルコニーの下で平岡先生の叫びを嘲笑し、罵声を浴びせた隊員たちは烏合の衆だったと言うことです。
野僧は市ヶ谷の補給本部へ出張した際、現場になった東部方面総監部のバルコニーの下で「平岡公威先生、万歳!」と叫んだことがありますが、周囲にいた隊員たちは驚いて数歩引いたものの幹部の制服を着ていたので捕まりはしませんでした。
平岡先生は総監室で割腹したのですが、得物は銘刀・関の孫六であったにも関わらず1度で首が落せず3度かかったようです。一方、続いた森田必勝(かつまさ)の首は1度で落ちています。これは検証写真で見ました。
平岡先生の辞世は「益荒雄が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾歳たえて 今日の初霜」「散るをいとう 世にも人にも 先がけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」の2首です。
平岡光威先生合掌
  1. 2012/11/24(土) 09:14:14|
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11月24日・B-29による空爆が始まった日

1944(昭和19)年の明日11月24日にBー29が東京を初爆撃しました。
ここでBー29と機種を限定しているのは東京への初爆撃は、昭和17年4月19日に空母「ホーネット」から発進した双発のB―25攻撃機16機によって京浜地区(13機)と名古屋(2機)、神戸(1機)が攻撃されたからですが、これは戦果よりも敗戦が続いていたアメリカ軍の国内向けの宣伝が目的だったと言われています。ただ、これを受けて山本五十六連合艦隊司令長官が「御宸襟(天皇)を悩ませた」としてミッドウェイ作戦を決意し、結果戦勢が逆転したのですから、思いがけない結果を招きました。
この爆撃には前章があって6月15日にアメリカ軍がサイパン島へ上陸し、7月7日には日本軍が全滅したため東京が最新鋭機・Bー29の航続距離に入り、滑走路などの整備が完了するのを待っていたのです。
「戦士の戦史」でも述べましたが、日本軍首脳は離島守備の戦略的な意味を理解せず、「散り際の美学」と言うマスターべションで万歳突撃を命じ、戦闘を早々に集結させてきた結果がイヨイヨ本土に及んだのです。
また、野僧の高校の先輩である大場栄大尉はサイパン島で住民を保護しながら敗戦後までゲリラ戦を続け、「太平洋の奇跡・フォックスと呼ばれた男」と言う映画にもなりましたが、野僧(モリノ中尉)が同様の部隊を率いていれば、大型の爆撃機が多数飛び立つことを見れば、その目的が日本本土への爆撃であることを洞察し、滑走路付近に狙撃兵を潜伏させ、飛び立つ爆撃機のタイヤを射って妨害したでしょう。
その後、硫黄島が陥落し、護衛戦闘機も本土へ届くようになりますが、何にしろ都市部への無差別爆撃は戦時国際法違反であり、その後もアメリカ軍が繰り返している戦争犯罪として決して許されるものではありません。
  1. 2012/11/23(金) 09:34:26|
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11月21日・一休宗純禅師の入涅槃の日

1481(文明13)年の明日11月21日に一休宗純禅師が遷化(死去)されました。
アニメでは可愛い一休さんが主人公になっていますが、安国寺の小坊主だった頃は「周建」と言う名前だったので、史実では子供の一休さんは存在しません。
一休は近江国堅田の禅興庵に参じていた25歳の頃、公案・洞山三頓の答えに「有漏路より 無漏路へ帰る 一休(ひとやすみ) 雨ふらばふれ 風吹かば吹け」の歌を添えたことで師の華叟から与えられた道号です。
また、アニメに限らず一休さんと言えば頓知を効かせて大人をやっつける痛快なイメージがありますが、安国寺の像外和尚の下を出て参じた師・謙翁宗為を亡くした時には思い悩んだ末、琵琶湖に身を投じて入水自死を図ったほど直向きな若者だったようです。
一休さんの悟りは、琵琶湖に浮かべた小舟の上でコモを被って坐禅をしている時、闇の中を鴉(からず)が鳴きながら飛んでいった。これを「悟りを求める自分を鴉が笑って行った」と了知したと言うのですが、これでは鴉と自己が対立して存在し、未だ不徹底です。鴉が鳴けば自分も鳴く、鴉が飛べば自分も飛ぶ、やがて鴉を追うことも忘れ、無心に「カァ」と鳴いて座っている。こういかなければ野僧の法は譲れません。
一休さんには秀逸な道歌が沢山あって、いくつか紹介します。
先ずは有名な正月を詠んだ「門松は 冥土の旅の 一里塚 馬駕籠もなく 泊り家もなし」ですが、一里塚が作られ始めたのは戦国時代の末期からで、本格的に整備されたのは江戸時代と言うのが定説ですから本人の作なのか真偽のほどはどうでしょう。
もう一つ有名なのが「女をば 法(のり)の御蔵(みくら)と 言うぞげに 釋迦も達磨も ひょいひょいと産む」で、実際、一休さんは多くの女性を愛し、晩年には森(しん)侍者と言う盲目の美女と暮らし、臨終の時には森の手を握り「死にとうない、死ぬのが勿体ない」と言ったそうです。この森侍者が「さよちゃん」だったのかは判りません。
「世の中は くうてかせいで ねておきて さてそのあとは 死ぬるばかりぞ」は確かにその通りなんですが、超高齢化社会の最近では流動食、点滴になって寝たまま死ぬ人も多いですから「さてそのあと」が長過ぎると言うことでしょうか。
「生まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釋迦も達摩も 猫も杓子も」と言う作もありますが、「死」とは老若男女、貴賎貧富に関わりなく平等に訪れる事実であり、差がつくのは苦楽、美醜、早遅くらいなので、これはどうしようもありません。
一休さんは浄土真宗の中興である蓮如聖人と仲が良く、ある時、蓮如聖人を訪ねると留守だったので阿弥陀如来像を枕にして昼寝を始め、そこに帰ってきた聖人が「ワシの米櫃をひっくり返したな」と言って笑い合ったと言う逸話があります。また、親鸞聖人の頂相(肖像画)に賛を頼まれて「襟巻きが 暖かそうな 黒坊主 こいつが法が 天下一なり」と書きました。実に肝胆相照らす関係だったようです。
一休さんは「死んだら念佛で葬儀をやって欲しい」と頼んでいたそうですが、大徳寺が貫主の葬儀を他宗にさせる訳がありませんから、それは果たせなかったのでしょう。  合掌
  1. 2012/11/20(火) 00:11:36|
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11月19日・小林一茶の命日

1827(文政10)年の明日11月19日は俳人・小林一茶の命日です。
いきなり余談ですが、自衛隊では大佐にあたる階級が1等○佐で通常は「1佐(いっさ)」と呼びます。このため「俳句は詠みませんが小林1佐です」と言うジョークが自己紹介の定番でした。
一茶さんの句は、俳聖・芭蕉の徹底的に洗練した世界観や蕪村の日溜まりのような温もりとは違う、読んで思わず微笑んでしまうような意外性があります。
一茶さんは信濃でも越後国境の柏原(現・上水内郡信濃町柏原)に住んでいたため雪や寒さを沢山詠んでいますが、それが深刻でないところが一茶さんの味わいでしょう
その冬の句としては「めでたさも 中位なり おらが春(この春は正月のこと)」「うまそうな 雪がふうはり ふはりかな」「うす壁に づんづんと寒が 入りにけり」「雪ちるや しかも信濃の 奥信濃」「これがまあ ついの棲みか 雪五尺」「春めくや やぶありて雪 ありて雪」「大根(だいこ)引き 大根で道を 教えけり」「うつくしや 年暮れきりし 夜の空」。春なら「雪とけて 村いっぱいの 子どもかな」「ざぶざぶと 白壁洗ふ 若葉かな」「行く春の うしろを見せる 藤の花」夏は「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」「われと来て 遊べや親の ない雀」「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」「やれ打つな 蠅が手をする 足をする」秋となると「麦秋や 土台の石も 汗をかく」どうですか、どれも情景を思い浮かべると微笑んでしまいませんか。
もう一つ、一茶さんは52歳で初婚だったものの精力絶倫で、日記にその回数を「交」と記録していますが、一日5回とか3回づつ3日連続とあり、このため最初の24歳年下の妻は10年で過労死(何の?)、次の妻は3カ月で堪え切れず離婚、64歳で結婚した3番目の32歳年下の妻とも励みながら1年半で本人が死去、死因は脳溢血とも腹上死とも言われていますが、その時、妻は妊娠5カ月だったそうですから現役のまま逝ったようです。
  1. 2012/11/18(日) 09:23:38|
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11月15日・坂本龍馬の誕生日と命日

1867(慶応3)年の明日11月15日(ただし太陰暦)は坂本龍馬さんの誕生日で命日です。
龍馬さんについては2009年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」やその前年・翌年のTBS「Jin・仁」の記憶が鮮明に残っておりますが、NHKの福山雅治さんとTBSの内藤聖陽さんではやはり歌手の副業と俳優専業の仕事の違いを感じました。
昔の大河ドラマでは「龍馬がいく」で北大路欣也さん、「勝海舟」で藤岡弘さん、「翔ぶが如く」で佐藤浩市さんなども龍馬さんを演じていますが、本人が好きで演じるらしい金八先生だけはいただけません。
「龍馬伝」の勝海舟でも粋な江戸っ子の海舟が垢抜けぬ九州人になっていて、こちらも「Jin・仁」の小日向文世さんの方が適役でした。
もう一人、「龍馬伝」には出てこなかったものの、大河ドラマ「徳川慶喜」では堺正章さんが演じた新門辰五郎親分も「Jin・仁」の中村敦夫さんでは勝負になりませんでした。
どうもNHKは過去の出演者を繰り返し転用するのが好きなようで、岩下志麻さんは「草燃える」の北条政子、「独眼流政宗」のお東の方、「葵・徳川三代」の江の方と、亭主に負けていない女丈夫で、我が子は兄よりも弟を溺愛する母役に固定化しています。
西田敏行さんに至っては「新平家物語」の北条義時から始まって「翔ぶが如く」の西郷隆永、「八代将軍吉宗」の徳川吉宗、「葵・徳川三代」の徳川秀忠と主役を演じ、来年の「八重の桜」でも西郷頼母役で出演するようです(12回目だそうですが全部は言えません)。若い頃の北条義時などは痩せていて別人のようでしたが、それは「花神」の山県有朋くらいまでで、太って丸顔になってから「女太閤記」で豊臣秀吉をやらせたのはどう見ても失敗でした(どう見ても猿や禿げネズミと仇名された貧相な小男には見えません)。
龍馬さんは日本人の平均身長が160センチ以下だった時代に180センチあったそうですから図抜けた長身が役者を選ぶ第1条件でしょうけど、顔立ちについては有名な写真は細目で写っていますが「目が大きかった」と言う資料もあり、実際、睨むように大きな目で写った写真もありますから、あれは近眼の癖だったのかも知れません。したがって北大路欣也さんや藤岡弘さんなどの大きな目の役者さんでも好いのでしょう。
「龍馬さんを殺したのは誰か?」は未だに新説が登場するほどの人気歴史ミステリーですが、野僧は千葉佐那嫉妬説がジョークとして好きです。
龍馬さんと剣術の師匠である千葉定吉の次女(姉・里幾、妹・幾久の3人姉妹)の佐那さんと婚約までしながら帰国命令が出たため結ばれず、その後も江戸に顔は出すものの省みられないまま絶世の美女と謳われながら独身を貫き(一度結婚したとの説はある)、死後は墓石に「坂本龍馬室(=妻)」と刻まれるような人生を送ったのですから、京都でお竜と言う妻をもらったことを耳にすれば父直伝の北辰一刀流で討ち果たしても不思議はありません。ただ、本当にそうすれば後を追うでしょうから、あくまでもジョークです。
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小庵では「韋駄尊天」として祀っています。アシカラズ。
  1. 2012/11/14(水) 09:33:14|
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11月14日・浜松基地航空祭でのブルーインパルス墜落事故

1982(昭和57)年の明日11月14日に浜松基地航空祭でブルーインパルス墜落事故が起こりました。

先頭が編隊長・塚原公悦3佐機、その後ろが墜落した高島潔1尉(特進で3佐)の174号機です。
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この降下のタイミングの狂いが事故の原因と言われています。 
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そのことを如実に物語っているのがこの写真ですが、この瞬間も高嶋1尉は必死に機体を操縦していました。
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この時、基地中がどよめきのような悲鳴に包まれました(観衆の誘導のため持ち場に向かうモリノ曹候生)。
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墜落現場は市街地にある自動車会社の駐車場で、そこを外せば住宅地、東名高速道路に大きな被害が及んだことでしょう。つまり高嶋1尉はそこを選んで墜落させたとしか考えられないのですが、運輸省(当時)の事故調査委員会は「引き起こす努力を放棄し、自ら墜落した」とまるで自殺であるかのような評価を下しました。
  1. 2012/11/13(火) 08:18:59|
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11月12日・「礼服には洋装を採用する」太政官布告が出された日

1872(明治5)年の明日11月12日に「大礼服通常礼服の制を定む(礼服には洋服を採用する)」の太政官布告がだされ、我が国に於いては洋服が正装になりました。
このため宮中の祭祀などは公的行事とは分けられて古式の束帯で行われますが、神殿で行われた大葬の礼での天皇・皇后は洋装でした。この太政官布告が効力をもっていた間、坊主が法衣、神職が束帯を着ていては礼を失することになっていた訳で、どうしていたのか知りたいものです。
日本人の場合、同年に出された太陽暦の採用や昭和26年の計量法による尺貫法の禁止を見ても、お上のお達しが出されると一切例外を認めない偏狭さがあり、紋付き袴で冠婚葬祭に出ようとすると入場を拒否されたりしたのではないかとしたのではないでしょうか。
これは野僧の地元の成人式が女子の和服を禁止していて、それを知らずに晴着で出席しようした転入者が会場で入場を拒否されたことがあったので思うのです。
確かに武家諸法度では「法を以て理を破るも理を以て法を破るを許さず」と謳っていますが、やがては粗探しに陥るのが日本人の病癖です。
ところで野僧は現役時代、航空幕僚長閣下と飲んでいて、「将来は在外公館警備官になれ」と言われたことに「自衛隊の礼装は大相撲の行司のような和装にするべきだ」と申し上げたことがあります。すると閣下には「相変わらずの冗談だなァ」と笑われてしまいましたが、横で聞いていた人事総務幕僚が真顔で「あれは高いんだろう」と言うので神主の装束の価格を調べたところ坊主の法衣よりもはるかに安いので驚きました。ちなみに坊主の法衣は「ベンツ」「クラウン」「マークⅡ」などと車で価格を表すくらいです。尤も野僧の場合は「ママチャリ(安物の自転車)」「三輪車」で、法衣屋からも「今時、こんな安物を買う坊さんがいるんだ」と呆れられますけど。
現在なら「日本の伝統文化を守るため成人式と結婚式、葬儀は男女とも和装とせよ」と逆の指導を発令していただきたいものです。そして中学校の授業で簡単な着付けくらいは教えてもらいたいものです=山口県下では夏に浴衣の着付けをやっている学校があります
  1. 2012/11/11(日) 00:06:45|
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11月7日・からくり儀右衛門=田中久重の命日

1881(明治14)年の明日11月7日は田中儀右衛門・久重さんの命日です。
野僧が子供の頃、NHKが夕方に「からくりぎえもん」と言う番組を放映していて、影絵の映像に「からくりからくり作っては ころりしくじりぎえもんどん」と言う主題歌が流れるとワクワクしたものでした。その後、平賀源内さんが主人公の「天下御免」もあって全国屈指の理科教育校だった岡崎市立矢作南小学校(文部省から優秀教育校の表彰を何度も受けていた)では男子児童の間で「からくり」ブームが起り、4年生からの部活動では科学部が大人気だったのですが、実験・観察中心の理科は文科系の素養しかない野僧にも面白かったです(これも中学校になって嫌いになりましたが)。
からくり儀衛門さんに再会したのは平成10年にTBS系で放映された「Jin・仁」の後篇で、見ている本人そのままに幼い儀衛門さんから味のある老齢の田中久重さんに変わっていました。
あのドラマは前年の「龍馬伝」を完全に喰っていて「民放もやるな」と感心しましたが、その中で南方仁先生を支える橘咲役を好演した綾瀬はるかさんが来年の大河ドラマ「八重の桜」の主人公になるのは妙な気分です。多分、見ないですけれど。
「からくりぎえもん」では久留米絣を織るお姉さん(お母さん?)を助けるためハタ織り機を改良する話がありましたが、トヨタ・グループの創始者・豊田佐吉さんもハタ織り機を改良することから自動織機に発展し、その機械開発の技術が自動車メーカーに飛躍したのですから、幕末から明治期ではハタ織り機が身近にある尤も高度で精密な機械だったのでしょう。ちなみに儀衛門さんは東芝の創始者です。
それにしても歴史番組などで未だに儀衛門さんのことを「東洋のエジソン」と呼ぶことがありますが、それを敬称だと思うのは「西洋が最高峰であって東洋レベルでは」と言う劣等感が根底にあるからで、すでに西洋を凌駕している現在では適切ではありません。
  1. 2012/11/06(火) 00:58:50|
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11月6日・松田優作の命日

1989(平成1)年の明日11月6日は下関が生んだ俳優・松田優作さんの命日です。
ただ松田優作さんは生前「下関の話はしたくない」と言っておられたそうで、俳優になるために上京し、有名になってからも帰省せず、これほど地元贔屓する土地柄の割にはあまり脚光を浴びせていません。
アメション女優※の田中絹代は市立の分不相応に立派な記念館を作っていながらです。
その理由としては優作さんが生まれ育った街が下関でも遊郭があった場所であり(昨年の芥川賞を受賞した田中慎弥さんの小説「共喰い」の舞台にもなった)、貧窮を極め、差別を受ける立場であったことが影響しているのかも知れません。
野僧の年代で優作さんと言えば、やはり「太陽にほえろ」のGパン刑事ですが、その殉職シーンで腹を撃たれて上下白のGパン、Gジャンを真っ赤に染め、流れ出る血を両手で受けて「何だこりゃあ」と叫ぶリアルな演技に息を飲んだことを覚えています。そして仰向けに倒れ死ぬ前に「シンコ」と婚約者(関根恵子さん)の名を呼びながら煙草をくわえ、、その煙草が倒れて死を暗示する演技は中学生ながらも涙しました。
その後の探偵物語などは映画館では見ませんでしたが、本格的なファンになったのが夏目漱石原作の「それから」で、アクションなしの淡々とした人間模様が続く中、主人公の心理の変化を見事に演じていて感激し、当時は高価だったビデオを買ってしまいました。
したがって遺作となった「ブラックレイン」も公開を待って鑑賞し、その鬼気迫る演技は完全に他の役者を圧倒していて、感激するよりも「優作さんは大丈夫か=尋常じゃない」と心配になりました(田宮二郎さんがドラマ「白い巨塔」で尋常ではない演技を見せた後、自死したことを思い出して)。
没後の追悼番組で癌に侵されながらも治療を拒んで撮影に臨んでいたと言うことを知り納得しましたが、自らの仕事に殉じた生き様=死に様は、死に損なって生き恥をさらしている野僧には惜しいと言うよりも羨ましい気持ちが強いです。
この島(本州)の西の果て下関は高杉晋作や松田優作の如く燃え尽きるように生きる男の土地なのかも知れません。だからそうしたいのですが・・・。

※アメション女優=田中絹代がアメリカから帰国した時、飛行機のタラップから下りながら投げキスを繰り返し、記者会見も下手な英語で受け答えしたことから「アメリカで小便をしてきた程度でハリウッド女優になったつもりか」と揶揄された。
  1. 2012/11/05(月) 08:43:35|
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11月5日・大村益次郎=村田蔵六の命日

1869(明治2)年の明日11月5日は大村益次郎=村田蔵六さんの命日です。
野僧は山口県人が誇る幕末の志士の中では村田蔵六さんが一番好きで、小庵には出身地の鋳銭司から贈られた蔵六人形を「文殊師利菩薩」として祀っていますが、愚息や友人・知人の子弟の合格祈願では一名を除いて成就していますから御利益はあるようです。
村田蔵六さんは山口市の長沢池の畔の鋳銭司大村の村医者(町ではない)・村田孝益の子に生まれたのですが、三田尻(現・山口県防府市)の蘭方医・梅田幽斉さんの門弟になり、そこから漢文を学びに豊後国日田(現・大分県日田市)の広瀬淡窓先生の咸宜園に入門し、そこで「均是人也(均しくこれ人なり)」の教えを受けたことから、人生の方向が微妙に変り始めました。淡窓先生の思想は「身分ではなく戦う能力がある者こそが武士なのである」と言う後に松陰先生が提唱された「草莽掘起」に先駆けるモノだったのです。
その後、三田尻に戻り、さらに蘭学を極めるため大阪の緒方洪庵先生の適塾に入門し、そこで塾頭となっていたことで、西洋式海防策を進めていた伊予国宇和島藩主・伊宗城公の命を受けた蘭方医・二宮敬作先生(シーボルトの高弟)にスカウトされて(鋳銭司に帰っていた)赴き、士分に取り立てられ、砲台を建設、蒸気船も完成させたのです(宇和島では「蔵六さんが高名な二宮敬作を訪ねてきた」としていると敬作先生の子孫から聞きました)。それからは宇和島藩の命で江戸へ出て蘭方医としての道を探りながらも、幕府の西洋書翻訳事業に参加し、最新の西洋軍事知識を極めていくことになりました。
さらに小塚原の刑場で女囚の腑分けをしているところを松陰先生の斬首された遺骸を引き取りに行った桂小五郎に偶然、見いだされて長州でも士分となってここで大村益次郎と名乗りました。
後は持ち前の冷徹な合理主義と西洋式軍事知識を発揮して第2次長州征伐の防衛戦や戊辰戦争の作戦指導を行って勝利に導いたのですが、明治新政府で薩摩・長州・土佐藩兵を中心に新国軍を創設しようとする大久保利通を抑えて徴兵制を実現したことで武士階級の怒りを買い、明治2年9月4日に京都の旅館で長州藩士・団伸二郎、神代直人ら8名の襲撃を受けて重傷を負い、移送された大阪病院で二宮敬作先生の弟子であったシーボルトの娘・イネの看護を受けながらも敗血症で亡くなりました(野僧も敗血症で死にかけたことがありますが、とても苦しいです)。
この襲撃時の手口が坂本龍馬暗殺の時に酷似しているため、大河ドラマ「龍馬伝」が放映されている頃、龍馬暗殺犯・長州藩士説が流れたことがありました。
大河ドラマと言えばかつて蔵六さんを主人公とする「花神」が放映されたことがあり、その原作者は司馬遼太郎先生であるにも関わらず、山口県では「坂の上の雲」で乃木希典を無能な愚将に描いているからと司馬先生を批判しています。しかし、好嫌、善悪などの前提を持たず高所から俯瞰的に史実を描く司馬史観に立てば、乃木が愚将であることは明白な事実であり、その一事を受け容れられないため全否定する態度は蔵六さんを襲った長州藩士の病理が未だ残っている証左でしょう。
東京・九段の靖国の鳥居の横には蔵六さんの巨大な銅像が立っていますが、これは靖国の前身の招魂社が蔵六さんの発願で創建されたことに依ります。
古志庵・文殊師利菩薩

  1. 2012/11/04(日) 09:04:15|
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歌のお姉さんの話

昨日の「キューピーちゃん・石川進さん」の話に思わぬ反応があり余談をさせていただきます。
「ピンポンパンの石毛恭子お姉さんは可愛かった」と言うのは野僧だけでなく高校の同級生にも結構いて、髪をリーゼントにきめ、袴のようなボンタンズボンを履いていたロックンロールな連中も、石毛さんの話になると嬉しそうに持ち歌を口ずさんでしました。
あの頃、東海地方では日曜日の朝から「歌え!ちびっ子」と言うローカルな子供の歌合戦番組をやっていて、石毛さんはその司会者だったのですが、月曜日に顔を合わせると第一声は「昨日の恭子さんは」でした。また夕方に「幼な妻」と言う番組が再放送されると、その主人公のレイ子を演じているのが石毛さんだと言う噂が流れ、部活がない日にはかじりついて見たものです。ただ、出演者のレイ子は「麻田ルミ」になっていて、しばらく「別人?」「芸名?」で論議になりましたが、野僧がNHKの広報誌の「明智探偵事務所」と言う番組に出ている麻田さんの紹介記事を見つけて解決したものの、みんな「幼な妻」から目が離せなくなり、レイ子が濡れ場を演じると翌日はその話で持ち切りでした。
しかし、自分が子持ちになってみると子供番組に出演している歌のお姉さんは可愛い子ちゃん揃いで、親父たちには隠れファンも多かったです。中でも人気を集めていたのはNHKの「お母さんと一緒」の神崎ゆう子さんと「ひらけ!ポンキッキ」の橘いずみ(現・周栄良美)さんで、橘いずみさんがヌード写真集を出した時、若い隊員に頼んで買ってもらい秘蔵していた奴が数人(完全なヌードでなくて安心したり落胆したり)、野僧が奈良市内で収録で来ていた神崎ゆう子さんに会い基地に帰ってその話をすると「何処でだ?」「何時だ?」と訊いてあわてて外出した輩が数人、どいつもこいつもかなり熱烈なファンのようでした。
考えてみれば大学の同級生でもアニメ主題歌のヒットメーカー・堀江美津子さんの大ファンがいて、「キャンディキャンディ」のエンディング・テーマをギターで弾きながら歌い、女学生の人気を博していた者もいましたから、現代の若者がアニメ・オタクになっていることや「何でも鑑定団」で昔のキャれクター玩具に信じられない高価がつくことも悪くは言えないかも知れません。
  1. 2012/11/03(土) 12:26:02|
  2. 追悼・告別・永訣文
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キューピーちゃん・石川進さんの逝去について

歌手の石川進さんが29日に逝去されたとのニュースがありました。
石川さんと言えば野僧の世代なら「おはよう!こどもショー」でキューピーちゃんの愛称で司会を勤めておられたことや「キュー キュー キュー オバケのキュー ぼくはオバケのQ太郎 頭のてっぺんに毛が三本・・・」と歌うテレビアニメ「オバケのQ太郎」の主題歌が記憶に残っていることでしょう。
あの頃、朝の子供番組と言えば「おはよう!こどもショー」か「ママと遊ぼう!ピンポンパン」が定番で、石川さんのキューピーちゃんやピンポンパンのシンペイちゃんが小父さんアイドルでした。
体操はこどもショーの「むっくりむっくろズンズンズン×2 草の芽伸びて葉が伸びて 綺麗な花が咲くんだよ」が保育所でも教えられ、数年後に「ズンズンズンズンズン、ピンポンパポーン」のピンポンパン体操が大ヒットするまでは続いていたようです(ピンポンパンの石毛恭子お姉さんは可愛かった!)。
オバケのQ太郎の主題歌は「あのねQ太郎はねェ、頭に毛が三本しかないんだよ」と言う新バージョンに替わってしまいましたが、そこはどっこい「ピョコーン ピターン ピッタンコ×2 トノサマガエル、アマガエル カエルに色々あるけれど」の「ド根性ガエル」で記憶に留まっておられました。
石川さんの歌声には独特の味があり、特に「キュー」や「ピョコーン」と音を伸ばす時の余韻は耳に残りました。数年前の懐かしのアニメ主題歌の番組ではお元気で歌っておられましたが残念です。
昨日の晩課では「オバケのQ太郎」と「ド根性ガエル」を歌い供養を勤めましたが、幼い頃の思い出をどうも有り難うございました。     合掌
  1. 2012/11/02(金) 14:46:14|
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11月3日・明治節だった文化の日

明日11月3日は「文化の日」ですが、戦前は「明治節」つまり明治天皇の誕生日でした。
平成になってからも4月29日の昭和天皇の誕生日(天長節)が62年間も祝日であったため国民に定着しているからと「緑の日」と命名して祝日として残したのと同じパターンで、まだ明治生まれが大勢残っていた戦後すぐの苦肉の策だったのでしょう。
現在ではこの日に文化勲章が授与されますが、野僧の小学校の大先輩である本多光太郎博士が第1回文化勲章を受章されたのは昭和12年4月28日(天長節の前日)ですから、これも戦後になって文化の日にしたことの演出のようです。
それにしても明治と言えば文明開化、文明だから文化の日と言うのは安易と言えば安易で、官僚の発想力があまり発展していないことがよく判ります。
ちなみに第1回文化勲章は作家の幸田露伴、国文学者の佐佐木信綱、日本画家の横山大観、竹内栖鳳、洋画家の岡田三郎助、藤島武二、科学者の長岡半太郎博士(本多博士の師)、木村栄博士に本多光太郎博士の9名で、野僧のような教養のない者でも名前くらいは知っている方ばかり、そこに肩を並べられた本多先輩には頭が下がります。
この日が本来、明治天皇の誕生日ならば4月29日が「昭和の日」になったように「明治の日」にすれば好いかと言えば、それでなくても影が薄い大正さんが可哀そうです。
少なくともこのお陰で毎月一度の祝日になりかけていますから(6月と8月がない)、残していただいた方が良さそうです。
  1. 2012/11/02(金) 10:10:28|
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