第3回月刊「宗教」講座・新年特大号です。
年頭に相応しい話題ではありませんが1月と言えば寒さが厳しい時期ですから今ほど暖房や防寒衣がなかった時代、多くの高僧・名僧が遷化(せんげ=逝去)しています。
6日には大愚良寛和尚、16日には愚禿親鸞聖人、25日には法然房源空上人など佛教界の人気スターから偉大なる宗祖たちまで小庵でも追善供養が続きます。
この中でも大愚良寛和尚には晩年、貞心尼と言う美しい尼僧の想い人がありました(以前、良寛のドラマで樋口可南子さんが演じました)。貞心は長岡藩士の娘で、若くして夫に先立たれ落髪(=出家)したのですが、良寛の和歌に心酔し、書状を送って添削を求めるうちに交流が始まりました。
貞心は良寛を訪ねて会った感激を「君にかく あひ見ることの うれしさよ まださめやらぬ ゆめかとぞおもふ」と詠みました。一方、良寛は中々訪れぬ貞心に、「君や忘る 道やかくるる このごろは 待てどくらせど 音づれなきに」の歌を送っています。70歳を過ぎていた良寛と40歳も年下の貞心の熱烈なラブポエムです。
良寛は遷化に際して訣れを惜しむ貞心に、「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」「散るもみじ 残るもみじも 散るもみじ」の句を贈っています。そして「おく山の 菅の根しのぎ ふる雪の ふる雪の 降るとはなしに ふる雪の・・・」と詠いながら自然に溶け込むように逝きました。
ちなみに良寛は「禅師」などと呼ばれていますが、実際は住職にすらなっていない無役の田舎坊主で、逆に実家が名主であり有力な信奉者がいたため伝説で語られるほど困窮した生活は送っておらず、お洒落なカラー法衣を着たりしていました。

越後・五合庵の良寛像

良寛が若き日に修行した倉敷玉島の圓通寺

良寛が凧にするため子供与えた書

樋口可南子さんの貞心尼
一昨年は法然房源空上人の800回大遠忌と愚禿親鸞聖人の750回大遠忌が重なり浄土宗、浄土真宗の双方が競うようにキャンペーンを繰り広げましたが、2人とも南都(奈良)や比叡山との宗教対立に巻き込まれ、弟子のスキャンダルを罪に問われて流刑に遭うなど過酷な人生を送りながらも長命で、上人は80歳、聖人は90歳の天寿を全うしておられます(当時の平均寿命は50歳を下回っていました)。
親鸞聖人の命日である御正忌は、浄土真宗本願寺派のみ1月16日に行われ、それ以外の真宗大谷派や浄土真宗高田派、北陸四派(出雲路派、誠照寺派、山元派、三門徒派)などでは11月28日に行われていることは第1回で申しました。
この違いは、本来の命日が太陰暦の11月28日であり、本願寺派は明治の改暦に際して太陽暦のその日に当る1月16日に置き換えたのに対して、他の派はそのまま太陽暦の11月28日に行うようになったため生じました。この辺りの経緯は盂蘭盆会の関東の新盆と地方の旧盆にも通じます。
ただ、地方では本願寺派でも11月に行っている寺院が多く、京都の東西本願寺ほどハッキリ分かれていないかも知れません。
娘の覚信尼は聖人の死に際して、紫雲や芳香、光明などの奇瑞(有り難い奇跡)が起ることを期待したようですが、ごく普通の最期であったと言われています。
ちなみに聖人の遺言は「某(それがし)閉眼せば 賀茂川に入れて 魚に与うべし」でしたが遺族の意志で荼毘にふされ京都に埋葬されました。
遺骨と言えば法然上人の墓は、念佛の流行、隆盛を憎む既成の佛教各宗派の過激分子によって度々破壊され、それに危機を感じた弟子たちは遺骨を南都佛教や比叡山も手が出せない真言宗の本山・高野山金剛峯寺に預け改葬しました。
このため現在でも法然上人の墓は高野山にあり、その縁で真言宗も法然上人の教えを説く和讃を唱えるようになりました。
黒谷和讃(浄土宗)
帰命頂禮黒谷の圓光大師の教えには、人間僅か五十年、花に譬へば朝顔の、露より脆き身を持ちて、何故に後生を願はぬぞ、假令(たとえ)浮世に長らへて、楽しむ心に暮すとも、老いも若きも妻も子も遅れ先立つ世の慣(なら)い、花も紅葉も一盛り、思へば我等も一盛り、十や十五の蕾花、十九や二十(はたち)の花盛り、所帯盛りの人々も、今宵枕を傾けて、直(すぐ)に頓死をするも有り、朝なに笑ひし稚児(おさなご)も、暮には煙となるも有り、憐れ儚き我等かな、娑婆は日に日に遠ざかり、死するは年々近づきて、今日は他人の葬禮し、明日は我身も図(はか)られず、是を思へば皆人(もろびと)よ、親兄弟も夫婦とも、先立つ人の追善に、念佛唱へて信ずべし、あら有難たや阿弥陀佛、南無阿弥陀佛。
無常和讃(真言宗)
帰命頂禮黒谷の圓光大師の教えには、人間僅か五十年、花に譬えば朝顔の、露より脆き身を持ちて、何故に後生を願わんぞ、假令(たとい)浮世に長らえて、楽しみ心に暮すとも、老いも若きも妻も子も後れ先立つ世の習い、花も紅葉も一盛り、二十(はたち)三十(みそじ)の人々も、今夜枕を傾けて直(ただち)に頓死をするもあり、朝だに笑いし稚児(おさなご)も、暮に煙と成るも有り、今日は他人の葬禮を送りし我身も明日は又、仇野(あだしの)鳥辺(とりべ)の客となる、之を思えば自(おのずか)ら念佛唱えて願うべし。
圓光大師と言うのは法然房源空上人が東山天皇から贈られた大師号ですが、この他にも東漸大師(中御門天皇)、慧成大師(桃園天皇)、弘覚大師(光格天皇)、慈教大師(孝明天皇)、明照大師(明治天皇)が贈られており、最多数を有しています。
ところでアメリカのある宗教学者は、「日本の念佛信仰は佛教よりもキリスト教に通じる点が多い」と言う学説を唱えています。
その論拠は、「他の佛教が人間である釋迦が悟って佛陀になったことを崇敬してそれに習おうとする宗教であるのに対して、日本の念佛信仰では架空の存在である阿弥陀如来を唯一絶対の信仰対象としている点」、また「自己の完成を求める修行(自力)を否定し、信仰による救済(他力)のみを求めている点」、さらに「佛教は本来、自己の完成により現世の苦悩から解放されることを教義としているのに対して、念佛信仰では死後の救済の絶対を信じることを宗旨としている点」と言うものです。
そしてこの宗教学者は、「日本人の三分の一が未だに深く信仰する念佛の祈りの対象をカミに置き換えることが出来れば、日本は世界でも有数の熱心で真摯な理想的キリスト教国になり得るであろう」と結論付けています。
ただ、この宗教学者の日本の念佛に関する理解で誤っているのは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの旧約聖書に描かれているカミが唯一絶対の創造主であり、他を認めないのに対して、法然上人に「選択本願念佛集」の著作があるように、念佛は遍く存在する十方三世一切諸佛の中から阿弥陀如来を選ぶとしていることです。
また、同じ念佛信仰でも親鸞聖人の教えとなると、キリスト教よりもイスラムの教えに通じる点も見られるようになりました。
イスラム教はムハンマド(昔のマホメット)が「砂漠の民が生きるためにモーセの十戒(左記参照)を破ることは赦す」と言うアッラーの啓示を預かったと言う宗教で、その寛大な慈愛に感謝して絶対的な忠誠を誓い、断食やメッカへの礼拝など守ることが容易な戒律は厳守すると言うモノです。
例えば食料がなくて飢え死にしそうな者が他人の食糧を奪うことや砂漠で井戸の持ち主が水を分けることを拒めば殺して飲んでも良いとされています。
また妻を四人持つことを許しているのは未亡人の救済処置で、コーランには「妻は全て同等に待遇し、平等に愛さなければならない」と書いてあります(大変そうですが)。
さらにイスラム教の断食は日中のみなので、日没後はかえって食べまくり、食品の消費量は断食月の方が多くなると言う研究もあります。
一方、イスラム教の戒律は砂漠での生活を前提にしているため、女性が肌を隠すのも男の欲情を封じることと同時に紫外線や砂塵から肌を守る意味もありますが、それを東南アジアでも守るため、蒸し暑い中でも肌を見せないようにスカーフを巻く女性たちはエライ目に遭っているようです。
一部の門徒さんの中には親鸞聖人の「悪人正機」の教えや、あえて戒律を認めない宗旨を、ムハンマドが説く「寛大な慈愛に感謝するカミへの忠誠」と同様に理解している方も見受けられます。
これを他宗派の者は「門徒物知らず」と言って馬鹿にしますが、野僧はむしろ弥陀に「まかせ切る」潔さ、美しさを感じています。
日本の僧侶は江戸時代には寺社諸法度で「自宗派の戒律を守ること」を義務付けられ、寺社奉行によって厳しく取り締まられましたが、浄土真宗には戒律そのものがないので他宗派の僧侶たちから羨ましさから妬まれ、腹いせに蔑まれもしました。
他宗派の僧侶が寺に女を囲い、酒を飲み、肉魚を喰えば「破戒僧」として処罰されますが、浄土真宗はオールフリーなんですからそれは羨ましいでしょう。
親鸞聖人は、戒律が守れない故に罪、作法に従えないから愚などと自己を卑下することを否定されていますが、イスラムとは立ち位置が異なっているように思います。
南無文殊師利菩薩
旧約聖書・モーセの十戒
一、 ヤハウェ(=アッラー)以外のものを神としてはならない
二、 神の像を作って拝んではいけない
三、神、主の名をみだりに唱えてはならない
四、安息日を心に留めこれを聖別せよ
五、父母を敬いなさい
六、殺してはならない
七、姦淫してはならない
八、盗んではならない
九、嘘を言ってはならない
十、隣人のものを欲しがってはいけない
- 2012/12/31(月) 13:14:04|
- 月刊「宗教」講座
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悟られし 佛祖を最初に 守ったは 3条の蛇 アンタはエライ!
中国古典で蛇は「条」と数えます。
旧約聖書で蛇はアダムとエバを騙して知恵の実を食べさせた悪者ですが、南方佛教では悟りられた釋尊を3条のコブラが守ったとの逸話が伝えられています。古事記でも蛇は神の化身で娘と交ぐわって妊娠させたりしていますから悪者ではないのでしょう(「強姦だ」と言われると困りますが)。
そもそも日本では古来、蛇が脱皮する姿を生命の再生として尊び、不老長寿、五穀豊穣の神として祀ってきました。いつから嫌われ者になったのか?と言う訳で今年は蛇年です。

この写真はスリランカのアルヴィハーラ石窟寺院の佛像です。
- 2012/12/31(月) 12:56:50|
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1191(建久2)年の明日12月29日に赤間関・阿弥陀寺が建立されました。
平家物語によれば壇ノ浦の合戦で平家が滅びる時、清盛の妻・二位の尼は孫である安徳天皇を抱き、「夕日が沈む西方には極楽浄土がございとやら。尼がご案内いたします」と言って海中に身を投じたとされ、その菩提を弔うために建立されたのがこの阿弥陀寺です。
ところが阿弥陀寺は明治初期に吹き荒れた廃佛棄釈の暴風で神道に乗っ取られ、現在は赤間神宮になっています。しかし、神道の単に祓い清めるだけの宗教儀礼では西方浄土への往生を願って無念の死を遂げた幼帝や平家一門の追悼は出来ないでしょう。
何よりも寺院として祀っていた本尊をはじめとする佛像の行方は観世音菩薩像が一体、下関市内の真言宗寺院におられることが判っている以外、神社の宝物館、下関市教育員会も把握しておらず、赤間神宮の初代宮司は戊辰戦争で倒幕過激派を支援した豪商・白石正一郎ですが、所詮は商人の卑しい感覚で売り払ったのではないかとの疑念を払拭できません。
野僧は明治新政府の宗教政策の失敗例として戊辰戦争の薩長側戦没者の慰霊施設であった招魂社を幕軍戦没者を賊軍と差別しまま国家の戦没慰霊施設の靖国神社としたことと共に佛神分離とその延長で生じた廃佛棄釈を挙げています(この他にも僧侶の妻帯・蓄髪を許可し、佛教の戒律を有名無実化したことなどがある)。
そもそも厩戸皇子により佛教が受容されて以降、我が国では神佛習合によりその両者が融合し、共存してきたのであり、それを江戸幕府が寺院を切支丹の監視や檀家制度により住民の管理の業務を担わせてきたことで幕府側の一員であるかのようにとらえられ、戊辰戦争では皇室を信仰対象とする神職が薩長側に立った恩賞として佛教が被っていた権益にとって代わろうとしたのが廃佛棄釈であります。
神道界と津和野藩の福羽美静の口車に乗って廃佛棄釈を推進した山口県は、あの暴挙が日本の貴重な文化遺産を深刻な危機に晒し、多くを海外に流出させた罪科を真摯に猛省し、そのシンボル的に奪い取った赤間神宮を真言宗に返し阿弥陀寺に戻すべきです(もう一つ、出羽三山神社も寺・修験の行所に戻しなさい!明治以降に続発している東北地方の天災はその佛罰だぞ!)。
- 2012/12/28(金) 09:38:49|
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2010(平成22)年の明日12月28日は女優・高峰秀子さんの命日です。
野僧は映画「二十四の瞳」の大石久子先生を見て以来のファンでしたが、中学校の国語の授業で「二十四の瞳の大石久子先生が好き」と言った「久子」のところだけが取り上げられて同級生の「久子さんが好き」と言う噂を流されたのには閉口しました。
その後、「銀座カンカン娘」や「カルメン故郷に帰る」を見て大石先生の清楚で知的なイメージとのギャップに悩み、「名もなく貧しく美しく」では違う魅力に涙を流していました。
ただ、「名もなく貧しく美しく」は高峰さん演じる主人公の秋子が幼い頃に育てたアキラが訪ねてきたと聞き、息子の卒業式を抜けて帰宅しようとして事故に遭って亡くなると言う終り方が今一つ納得できませんでしたが、御主人の松山善三さんの初監督作品ですから、高峰さんは納得しておられたのでしょう。
中でも「喜びも悲しみも幾歳月」では灯台守夫婦の姿に感動し、主題歌は最後まで覚え、中学、高校でも遠足などの機会がある度に歌っていました(残念なことに軍歌と誤解する同級生が殆どでしたが)。
ところが親はそんな息子の志にここでも理解を示しめさず、むしろ海上保安官志望を断念させようと「灯台守などになると転勤が多く、全国各地を飛び回らなければならなくなる」「子供が転校ばかりで友達もできない」「親の死に目にも会えない」などと知りもしない苦労話を繰り返していました。
その後、航空自衛隊に入って実際に2、3年ごとの転属で全国各地を飛び回るようになりましたが、野僧は中学時代にそのような仕事に共感を覚えてましたから全く苦にならず、むしろ「離れ小島に南の風が・・」と離島や岬の先端のレーダー部隊へ転属希望を出したくらいでした。
青森県の車力に転属した時も吹雪の中、徒歩通勤しながら「冬が来たぞと海鳥鳴けば 北は雪国・・・」を口ずさみましたが、気分は完全に映画の有沢四郎でした。
あれで嫁が夫の職務を一緒に支える高峰さんが演じた有沢きよ子であれば最高でしたが・・・自分で選んでいないだけに残念。
- 2012/12/27(木) 09:31:25|
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1784(天明3)年の明日12月25日(太陽暦では1月17日)は俳人・与謝蕪村さんの命日です。このブログ「日記(暦)」では俳聖・芭蕉(10月12日)、小林一茶(11月19日)、正岡子規(9月18日)と俳界の巨匠たちの命日を紹介してきましたが、不思議に毎月一人づつになっています。
蕪村さんと言えば「菜の花や 月は東に 日は西に」「春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな」などののどかな風情の句が有名ですが、「桃源の 路次の細さよ 冬ごもり」と言った住んでいた京の冬の侘しいたたずまいを想わせる作や「西吹けば 東にたまる 落葉哉」と言う人を喰った作、さらに「やはらかに 人分けゆくや 勝相撲」の相撲会場を描いた当時の相撲興行を知らないと季語不明の作もあります。
中でも野僧が好きなのは「閻王の 口や牡丹を 吐かんとす」で閻魔大王の赤い口を牡丹の花に例えるとは思いもよらぬことでした。死んで閻魔大王に対面し、大声で叱られている時、この句を思い出して「あッ、牡丹だ」なんて思ったりしたら、そのまま地獄に逝くことになるやも知れません。
蕪村さんの辞世の句は「しら梅に 明(めぐ)る夜ばかりと なりにけり」でしたが、太陽暦でも季節が合わないところを見ると、武将などの辞世と同じく前もって作ってあった作かも知れません。
- 2012/12/24(月) 09:55:56|
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明日はカトリックとプロいてスタントのクリスマス・イブです。信者の皆様、前夜祭おめでとうございます。

これはオーストラリアから届いたカードですが、ヨーロッパの冬至と一緒になったクリスマスも南半球では夏至なのです。ついでにいえばオーストラリアやニュージランドは日付は日本とほぼ同じなので同時進行でクリスマス・イブですが、イギリスのグリニッジ時間では9時間遅れになります。地球は丸いことを噛み締めて楽しんで下さい。
詳しくは月刊「宗教」講座・年末特大号・後にてどうぞ。
- 2012/12/23(日) 10:03:05|
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昭和23(1948)年の明日12月23日にA級戦犯7名の死刑が執行されました。
この7名とは陸軍の板垣征四郎、下村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、武藤章、松井石根そして文民から広田弘毅元首相でした。、東京裁判のA級戦犯の起訴は昭和21(1946)年4月29日の天長節、死刑の執行が当時の皇太子の誕生日と言うことでGHQの意図が何処に在ったのかは歴史上の推理問題になっています(判決は昭和23年11月12日ですけど)。
7名の遺骸はただちに火葬にふされ、遺骨は占領軍によって東京湾に投棄されましたが、骨片の混じった遺灰は小磯国昭元首相(公判中病死)の弁護人だった三文字正平によって密かに持ち出され近くの興禅寺に預けられた後、伊豆山中に建立された興亜観音に納められ、昭和35(1960)年8月16日には愛知県の三ヶ根山頂近くの殉国七士廟に移されています。
一方、イタリアのムッソリーニは敗戦後の1945年4月27日、愛人・クラレッタ(クララ・ベタッチ)と共に市民によって銃殺され、遺骸は並べて逆さ吊りで晒されました。そして愛人のスカートが捲り上がって白い脚と赤い下着が露出すると興奮した市民が夜陰に紛れて遺骸を引き下ろし、裸にして弄んだ後、市内を引きずり回してバラバラにしたと言われています(あくまでも猟奇伝説の一種ですが愛人の正確な埋葬記録は不明です)。
またヒトラーはベルリンの地下壕の中で愛人を自らの手で殺した後、拳銃で自死し、遺骸は庭に掘った穴の中で焼かれています(遺骨をソ連軍が回収したと言われていますが真偽は不明です)。ゲシュタポ長官のハインリッヒ・ヒムラーなどのナチス・ドイツの主要な者は自殺しましたが、ヒトラーの後継者に指名されていたヘルマン・ゲーリング以下の生き残った戦犯たちはニュールンデルク裁判で裁かれ、ゲーリングは死刑執行の前日に服毒自殺したもののハンス・フランク、ウィルヘルム・クリック、アルフレート・ヨードル、エルンスト・カルデンブルンナー、ヨアヒム・フォン・リッペントロップ、フリッツ・サウクル、アルトゥル・ザイスンイングヴァルト、ユリウス・シャトライヒャの8名は死刑になりました。
つまりイタリアは市民自身の手で独裁者を殺し、ドイツは副総統のルドルフ・ヘスは終身刑で1987年になってから獄中で自殺しましたから未だ許しておらず、それと比べると日本のA級戦犯に対する考え方は甘いと思います。戦争の勝敗ではなく、何の見込みもない戦争に国民を引き込み、近隣諸国まで惨禍を及ぼした罪科を負うべき者たちを殉国の士に祀り上げる愚かさ、奴らによって戦死させられた英霊たちと一緒に軍神として祀った靖国の軽率さは呆れ果ててしまいます。
明日はクリスマス・イブの前日ではなく、そんな日なのです。
- 2012/12/22(土) 09:37:34|
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年末増刊号として第2回月刊「宗教」講座を開催させていただきます。
12月23日は天長節、今の天皇誕生日ですが、これは神道の行事でもあります。
日本の天皇さんは神道のトップであり、その存在は国家元首と言う政治的な地位よりもカトリックの宗教的権威のシンボルであるローマ教皇に近いのかも知れません。一方、皇室の御先祖さんの物語は「日本神話」と呼ばれますが、これは旧約聖書などとは違いあまり倫理的ではありません。
この国土が出来た場面から始まるのは旧約聖書の天地創造に通じますが、古事記ではいきなり男神・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と女神・伊邪那美命(いざなみのみこと)が登場し、自分の身体を確かめた後、男神が「お前の身体はどうなっている」と問い、すると女神が「私の身体は出来上がっているが一カ所足りないところがある」と答えたので、男神が「私は一カ所余っているところがあるので、それで足りないところをふさいで国を生もう」と言います。つまり、いきなりエッチなシーンから始まるのがこの国の神話なのです(詳しくは「戦士の先史」で述べましたので繰り返しは避けます)。
その後も郷に降りて来ては美しい娘をはらませることの繰り返しで、こんな神話を読むと「神道が説く宗教倫理って何?」と言う疑問が残りますが、実は日本の神道は教義がないのが最大の特色で、国学者・本居宣長も神道が理想とする人間像を「善くも悪しくも生まれたるままに=素直さ」と述べています。
現在の神道が説いている自然尊重や愛国心、家族愛などは江戸時代も後半になってから平田篤胤などの国学者が当時の武士階級が尊重していた儒教や道教などを取り入れた盗作で、神道本来の理想とは別物です(天理教や黒住教などの教義を持つ神道系新興宗教は「教義神道」と呼ばれます)。
つけ加えれば、本居宣長は「良くも悪しくも人を超えたる者を神と為す」とも言っていて、ようするに常人に出来ないことをやった者はそれが良いことであろうと悪いことであろうと「神」として祀られるのが日本の神さんなのです。ですからヤ○ザの大親分・清水の次郎長や大泥棒・ネズミ小僧次郎吉も庶民レベルでは神様扱いされているでしょう。
この時期、神社と言えば初詣ですから少しその話をしますが、神道では人間の生活を「ハレ」と「ケ」に分けて考えます。
日常の生活は「ケ」で「気」に通じるとされますが、これを過ごすことで人は次第に疲れてきます。これを「気枯れ=穢れ」と言うのですが、これを特別な時間「ハレ=晴れ」を過ごすことでリフレッシュするのが神道の考え方です。つまり初詣や祭礼はこの「ハレ」の時間ですから、思い切り「晴れ着」で着飾って、いつもは出来ないように楽しく過ごして日常を忘れるのが本来のあり方なのです。
ついでに言えば神道では「死」を気が枯れ切った結果ととらえ、リフレッシュではなくリセットするために黄泉の国へ往くとされています。そこでパワーを充電して、また家族の元へ戻って来ると言うのが神道の死生観です。ちなみに神道が葬儀を行うようになったのも江戸時代後半からです。
神道の話が長くなりましたが、25五日はクリスマス(降誕祭)です。
ところが12月25日をクリスマスにしているのはローマ・カトリックとプロテスタントで、それ以前のギリシャ正教(オーソドクス)やエジプトのコプト、エチオピアの原始キリスト教では1月7日(別説もある)をイエスの誕生日としています。
これはローマ・カトリックがヨーロッパの冬至の祭りと重ねたためで、ヨーロッパで成立したプロテスタントもこれを踏襲しました。
オーソドクスの一派であるロシア正教も本国では1月7日にクリスマスを行いますが、日本のロシア正教会では「12月25五日のクリスマスが定着している上、1月上旬では正月に重なって盛り上がらないから」と12月が多数派になっています。
と言うことで新年早々に生まれたはずのイエスさんは、信者の都合と思い込みで年末生まれにされてしまったのです。
ちなみにイエスさんはコーランにも「イーサー」と言う呼び名で登場していて、預言者としては認めていますが、キリスト(救世主)、神の子としては認めていません。コーランでは「天地を創造されたカミ(日本の神と区分するためカミと書きます)が、人間の女の身体を借りて子を作る必要はない」とマリアの処女懐妊を否定しています。さらに言えば、古代遺跡から出土する人骨の解析などから、イエスさん時代の中東の人々は現在のユダヤ人、アラブ人よりもアフリカ系の特色が強く、奥目で頬骨が貼っていて顎が大きく、唇が厚かったと言われます。
したがってマリアさんはカトリックの聖画に描かれているような金髪の優美な女性ではなく、もっとゴツゴツとして縮れ毛で、例えば映画「天使にラブソングを」のウーピー・ゴールドバーグさんのようなイメージかも知れません。
イエスさんも面長でひ弱そうな優男ではなく筋骨隆々のマッチョだったのでしょう。
そもそもイエスさんは父のヨセフさん同様に元は大工で、当時の中東の家屋は石積みだったので石を運び慣れており、いくら拷問を受けたとしても木製の十字架くらいは軽いモノだったはずです。
大体、当時の磔刑は十字架でなく、立ち木に横板をだけを打ちつけて行ったと言うのが最近の学説です。
ついでに言えば当時の中東の家では人間と馬は同居しており、馬小屋と言う独立した建物は存在しておらず、マリアさんが馬小屋で生んだ伝説にも疑問があります。
日本の聖徳太子も馬小屋で生まれたため厩皇子(うまやどのみこ)と呼ばれたとされていますが、これは当時、すでに中国には「大秦教」と言うキリスト教が伝来していて、この伝説を太子の神格化に取り入れたのではないかと言われています。
ただ、友人のアメリカ人の牧師は「日本ではイエスよりも、サンタクロースとバレンタインが信仰されている」と嘆いていますが、確かにクリスマスもイエスさんの誕生日を祝うよりも、サンタクロースのプレゼントを心待ちにする御祭りのようです。
サンタクロースはセント・ニコラウスのオランダ語読みで、古代ギリシャの人ですから、あのようなフカフカの厚着ではありません。参考までに。
結局のところ日本人の宗教観は、この神道を基盤にしているように思います。
宗祖の教えは兎も角、念佛や坐禅も「ハレ」と同様に、非日常の行為を通じて自分をリフレッシュする手段としてしか理解できず、そのこと自体を道とする理解には至れないようです。
それはキリスト教も同様で、日本人のクリスチャンにとってはカミの教えを実践することよりも、教会での宗教儀式に参加して、祈ることが信仰なのでしょうから。
冬至の日には、庚申(こうしん)が天に告げ口に行くので徹夜で飲み明かして見張る習慣があります。「乾パーイ!」
南無十方三世一切諸佛八百万神々+ヤハウェイ=アッラー


セント・ニコラウス
ウーピー・ゴールドバーグ(マリアのイマージ)

ミケランジェロのピエタ
- 2012/12/20(木) 09:55:05|
- 月刊「宗教」講座
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1702(元禄15)年の明日12月14日と言えば忠臣蔵ですが、野僧はあえて名君・吉良上野介義央(よしひさ)公の命日とさせていただきます。吉良公は愛知県吉良の領主で、石高は1万石に足らず大名ではないものの格式は高く、幕府の礼式を司る重職を担っておられました。
吉良公が名君と呼ばれる所以は、領地が毎年のように矢作川の氾濫で被害を受け、そのため堤防の修築を実行したのですが、その間の租税を免除し、城(屋敷)の雨漏りなども放置して家臣・領民を築堤工事に専念させました。また吉良公御自身も農耕用の赤い馬に乗って毎日のように現場を見て回り領民を励まされ、工事が完了すると誰言うともなしにこの堤防を「黄金堤」と呼ぶようになり、吉良公が赤い馬に乗った姿の人形が作られるようになりました。
ここまでならよくある名君の美談ですが、吉良公は自領の築堤が完了して水害が下流域に移ることを心配し、そこの領主に資金を貸し、技術者を出向かせて河口まで築堤を進めたのです。
この日、吉良公を討った赤穂浪士の主君・浅野内匠頭長矩は、自分の軽率な行為が藩を取り潰す結果を招き、家臣を塗炭の苦しみ陥らすことに想いが至らぬ短慮・軽率な暗君であり、藩を潰してまで果たすほどの遺恨とは何だったのか?その愚かさは江戸時代も後半になってつまらぬ嫉妬から相馬大作事件を引き起こした南部利敬と双璧でしょう。
吉良では今でも赤穂浪士が返り討ちに遭う劇が上演されていますが、この名君中の名君を未だに仇役にしている日本の放送業界に政治家の資質を語る資格があるのか!
ついでに言えば浅野は皇室からの使者を接遇する職務をなげうって刃傷沙汰に及び、それに激怒した将軍・綱吉によって即座に死罪の決を受けたのであって、赤穂浪士の墓がある泉岳寺の門前で、討ち入りを賛美する歌を詠んだ松陰先生も御自身の尊王攘夷思想と矛盾していませんか?
- 2012/12/14(金) 08:58:32|
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1989(平成1)年の明日12月12日は漫画家・田川水泡先生の命日です。
田川先生と言えば「のらくろ」ですが、野僧は小学校に入る前から復刻版を絵本代わりに愛読していて、1970(昭和45)年の戌年の年賀状には「のらくろ軍曹」の絵を描きました。その後、テレビでアニメが放送されましたが漫画とは顔が違い、落書きに描いても友達から「下手糞」と言われ悔しい思いをしました(「赤胴鈴之助」でも同じ経験があります)。
また、この漫画は戦前の復刻版だったため台詞が文語体で、幼い頃から古文の勉強をすることになり、「蝶々」の書き取りを「てふてふ」と書いて間違ったものの、戦前派の先生から「口で言ってみろ」と言われ、「ちょうちょう」と答えて感心されたことがあります。
「のらくろ」は新兵・2等兵から中隊長・大尉まで昇任したところで退役し、大陸の開拓に身を投じるのですが、田川先生も大陸の風物はあまり詳しくないようでした。
かと言って島田啓三先生の「冒険ダン吉」が南洋の風物を正確に描いていたかと言えば、かなり先入観、偏見もありますから、それが当時の日本の文化人の知識レベルだったのでしょう(現在でも詳しいのはアメリカ、ヨーロッパと中国の都市部だけですが)。
また、「のらくろ」には大陸に渡る船の船長が「タコのハちゃん」だったり、「凸凹黒兵衛」の黒兵衛が白ちゃんと見送っていたりと他の田川作品の主人公もチラッと出ていることがあり、油断ができませんでした。
それにしても軍隊の階級章や役職、編制が判る小学校1年生と言うのは今なら「軍事オタク少年」と呼ばれるのでしょうか?野僧の場合、遠足のバスの中で「軍艦」や「抜刀隊」「戦友」を歌って若い女の教師に酷く怒られましたが。
- 2012/12/11(火) 08:25:02|
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1768(明和5)年の明日12月11日に禅の巨人・白隠慧鶴禅師が遷化されました。
白隠禅師は駿河の原の宿の生まれのため「駿河の国に過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と謳われました。
松蔭寺には擂鉢松と言う名所がありますが、これは岡山の池田公が参じた折「何か欲しい物があれば」と問われて「擂鉢が欲しい」と答え、備前焼の擂鉢を贈られたのですが、暴風で松が折れた時、そこにそれを被せ、そのまま松が成長して今では上の方にかかっていると言う物です。
野僧が参じた小浜の僧堂には白隠禅師の禅画に感動して25年前にドイツから来日し、松蔭寺で得度を受けた元画家志望の超古参雲水がいて、他の雲水では通じない白隠禅師の法語を野僧が知っていたので雑談ついでに色々な知識を授けてくれました。特に公案を出せば即答するので面白がり、白隠禅師伝来のアレコレを出題されて随分詳しくなりましたが、残念ながら解答の可否は不明のままです。
何よりも松蔭寺仕込みの白隠禅師が禅病の治癒に指導された「夜船看話(内観法)」を手取り足取りで伝授してくれたので、その後、坐禅が健康法にもなりました。
野僧が参学した臨済宗の老師たちは「曹洞宗は開祖が立派なだけでそれを超えるような後嗣がいない先細りだ。その点、我が宗門には応燈関の後に一休、沢庵、盤珪と続き白隠禅師が出られた。明治になっても南天棒、洞宗令聡がいる」=「昔は兎も角、今は臨済宗の方が上だ」と言われましたが、確かに野僧も道元の教えを守りもしないで有り難がっているだけの曹洞宗よりは、臨済宗のダイナミックな「臨機不譲師(機に臨んでは師にも譲らず)」の気風を上位と見ています。
特に白隠禅師が遺された数多くの和讃は親鸞聖人の作とは違った味わいがあり、臨済宗の坐禅会で勤めた「坐禅和讃」には曹洞宗が常用する道元の「普勧座禅儀」と比べて人間に対する深い洞察と坐禅の意義に対する達見があり心酔しました。
ちなみに「普勧座禅儀」は道元の独創ではなく、中国の禅宗にある「座禅儀」から足を逆に組む方法を削除した請け売りだそうです(と中国人の禅僧が言っていました)。
和讃は長いので引用しませんが道歌でも「若い衆や 死ぬがいやなら 今死にや 一たび死ねば もう死なぬぞや」と言う秀逸な作があります。
白隠禅師の普段の姿は「虎視牛行」と言われていましたが、「自画賛」では「千佛場中千佛に嫌われ 群魔隊裡群魔に憎まる 今時黙照の邪党を挫じき 近代断無の瞎僧をみなごろしにす この醜悪の破瞎秀 醜上に醜を添うまた一層」と自己を評しています。
ただ、惜しむらくはこの一代の禅匠も現代社会では「何でも鑑定団」に高額鑑定を受ける画僧として紹介されるばかりで、それは博多の僊厓義梵禅師も同様でしょう。
白隠禅師曰く「一つには大信根、二つには大疑情、三つには大憤志。もしこの中の一つを欠いても鼎の足の折れたるが如く、到底弁道はおぼつかない。また末期の一句に「『勇猛』の二字を忘るるべからず」これが求道心、菩提心と言うものです、「やるぞォ」と大信根を立て、「何故だァ」と大疑情を掲げ、「どりャア」と大憤志で突き進む、こうでなくては・・・喝!
- 2012/12/10(月) 08:09:59|
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明日12月8日は色々あって困ります。
先ず佛教では釋尊がお悟りに至られた「成道会」で、これに因んで禅寺では臘八接心と言う8日間の坐禅行が行われます(月刊「宗教」講座を参照のこと)。ただし、岐阜県美濃加茂の臨済宗・正眼寺僧堂ではさらに寒さが厳しい太陰暦のようですが。
一方、1941(昭和16)年のこの日、「ヒノデハヤマガタ」の電文でマレー半島に陸軍の山下奉文部隊が上陸し、続いて「ニイタカヤマノボレ1208」で海軍機動部隊が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が開戦しました(「戦士の戦史」戦史の誤りを参照のこと)。
福井県小浜の僧堂では、世間に背を向けて臘八接心に励んでいたので修行僧に召集令状(赤紙)が届くまで戦争が始まったことを知らなかったと言う伝説があります。実際、野僧が上山した時も、地元の地村さん夫妻が北朝鮮に拉致され帰国したことを知りませんでした。若し、敦賀の原発銀座で事故を起こっても避難指示が出て、強制退去になるまで知らないでしょう。テレビや新聞、カレンダーすらない生活ですから仕方ないのです。
最後に1980年のこの日、ビートルズのジョン・レノンがニューヨークで射殺されました。したがって小庵で勤めている太平洋戦争の戦没者慰霊法要では御詠歌に代えてジョン・レノンの「ヒマジン」を歌っています。「暇人 仕事がない 暇人 やる気がない・・・」オソマツ。
- 2012/12/07(金) 09:12:10|
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第1回月刊「宗教」講座を開始します。
佛教では12月8日は「成道会(じょうどうえ)」と言って、釋尊(釋迦牟尼佛)が悟りに至られた日と言われています。
釋尊はインド北部(ネパール説もあります)の王族の出身ですが、物欲、権勢のみを求め、快楽に溺れる上流階層と、貧苦に沈み、嘆き暮らす庶民の姿に世の虚しさを感じ、王子としての位を捨てて出家し、インド各地の宗教指導者を尋ね巡り、やがて身体を痛めつけることで精神の苦悩を忘れると言う当時盛んだった苦行に入りました。現在、インドで行われているヨーガは苦行が発展したモノとする説もあります。
しかし、釋尊は苦行では苦悩から眼を反らすことはできても、本当の解決にならないことに気づきこれを捨てました。そして、郷に下りて村娘・スジャータから乳粥の供養を受けて体力を回復し、ネランジャラ河の畔(現在のブッダガヤ)の菩提樹の下に坐って瞑想に入り、8日目の明け方、悟りに至られました。
野僧自身の体験から推察すれば、釋尊はその刹那、眼前に輝く暁の明星、身を包む大気と一体になったことを全身全霊で自覚をされたのでしょう。
余談ながらコーヒーミルクの「スジャータ」はこの娘の名前を採ったのだそうです。
また、この菩提樹は一度枯れてしまったのですが、分け木がスリランカに移し植え替えられていて、それからの分け木が現在の菩提樹です。
ところがこの佛教の一大聖地を日本のオウム真理教が踏み躙りました。以前は佛教徒であればあえて柵などを設けなくても踏み入ることはしないだろうと誰でも直接菩提樹に触れられるようになっていたのですが、麻原彰晃は案内の僧侶の制止を無視して菩提樹の下に座って写真を撮り、さらに上佑史浩ら同行の弟子たちにまで同様のことをさせたのです。麻原が逮捕されたと言うニュースを聞いて、南方佛教の僧侶や信者たちが快哉したのは当然ですが、その割に日本の佛教界は無反応で、むしろ関わりたくないと無視を決め込んでいたのは納得できません。オウムの信者たちの家にも菩提寺や佛壇があり、僧侶に接する機会はあったのですから、彼等の菩提心を曳き寄せられなかった力不足を反省するべきです。
野僧も〇ンカ持ち(前科ではない)ですから「悟りは欲望を捨てることだから、もう睡眠欲や食欲はないでしょう」などとカラカイの質問を受けることがあります。しかし、これは「煩悩」と「本能」の読み違いであり、煩悩と言うのは欲望にとらわれて悩み煩うことで、その執着を捨てても光合成する能力が身につく訳ではありませんから飯を食えば眠りもします(腹も立てば恋もする?)。
補足すれば釋尊の悟りは天地一切によって証せられましたが、それ以降は師が弟子の境地を認めて証明する「印可」を与えることで継承されてきました。
また、「悟りを開く」と言う方が多いですが野僧の実感では「至る」でした。ひた向きに道を突き進んでいたら、いつの間にか人間の世界を通り過ぎていたと言う感じです。ですから印可も「人間を止めました」と言う卒業証書か、「マトモじゃない」と言う診断書だと思っています。
ただ、世からはみ出した厄介者を肯定=存在を認めていただけたことは新たな生を授けられた思いでした。
佛教は本来、無神論の宗教だとされ、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」と「因果応報」の世界観を基盤としています。
日本では「因果応報」と言えば「悪いことをすれば罰が当たる」などと「神佛の目を懼れよ」と言う神懸かった脅し文句として理解されていますが、本来は「悪い結果には悪い原因がある。好い結果を得たければ好い原因を作れ」と言う極めて現実的な、ある意味では無味乾燥した教示なのです。
この南方佛教における「因果応報」の原因と結果は、両者のある一瞬を切り取るのではなく、「諸行無常」と言う時間軸の中で影響を受ける全てを原因とし、変化し続けている事実を結果とします。
ですから現代人が失敗の原因を追及する時にありがちな「あの時が間違いだった」「アイツのせいだ」式の単純な理解とは異なります。
ただ、この「好い・悪い」も「諸法無我」として「自我、世法の尺度にとらわれての評価を離れ、事実は事実として受け容れよ」と言う教えも忘れてはなりません。
さらにつけ加えますと、念佛門(浄土宗、浄土真宗、時宗)では、釋尊の悟りは阿弥陀如来の導きによるものとされており、釋尊は阿弥陀如来を衆生(人間)に紹介し、保証する存在として位置づけられています。
ですから宗門としては成道会を祝うことになっていますが、浄土真宗大谷派などでは11月28八日(本願寺派の本山では1月16日)に宗祖・愚禿親鸞上人の命日である御正忌があって、連日法要が続くためパスしている寺院も多いです。
また、禅宗寺院では釋尊に倣い12月1日から8日まで坐り続ける臘八接心(ろうはつせっしん)を行いますが、最近はこちらもパスしているところが多いです。
ちなみに臘八接心の最終日の夜中には、スジャータの乳粥にちなんで米粒が入った甘酒が修行僧に振る舞われます。小庵では缶かワンカップの甘酒ですが。
以上、第1回通信「宗教」講座でした。 勉学守護・南無文殊師利菩薩
- 2012/12/01(土) 09:02:27|
- 月刊「宗教」講座
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