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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月27日・水戸光圀が「大日本史」の編纂を始めた。

1657(明暦3)年の明日2月27日に水戸光圀が「大日本史」の編纂を始めました。
水戸光圀と言えば水戸黄門ですが、あの物語はこの「大日本史」編纂のため家臣の佐々介三郎が資料を探して全国を旅したことを元に作られました。したがって湊川の古戦場跡にの在る「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を建立したのも光圀の命を受けた佐々で、本人が大阪まで出向いた訳ではありません。
佐々が持ち帰った資料を整理、検証したのが学者の安積覚で、この二人が助さん、格さんのモデルです。
もう一人、モデルが実在するとされているのが風車の弥七です。盗賊出身で光圀に仕え、隠密の役を担ったとされる松之草村の八兵衛だと言われていますが、墓所を観光名所にするため当時の那珂郡緒川村(現在の常陸大宮市)が創作したと言う説の方が有力です。八兵衛と言えばウッカリしそうですが、弥七ですからお間違いのないように。ついでに言えば実在の八兵衛の妻もお新ですが、これもモデルなのかは不明です。
大日本史の水戸史学は、尊皇思想で一貫しており、天皇の批判どころか評価することも厳禁、天皇の味方は正義、朝廷に仇した者は許し難き悪と言う型にはめ込められて雁字搦め、その残滓は現在も日本史を学ぶ人々の意識の底流に溜まっているようです。
おまけに光圀は祖父の家康が朝廷の勢力を削ぐ施策に腐心していたことも考えず、徳川将軍家を含む鎌倉、足利将軍でさえ天皇に仕える家臣であると断じており、御三家でなければ許されない甘えた歴女ならぬ歴殿と言えるかも知れません(この事業を始めた時、光圀は18歳でした)。
「大日本史」が完成したのは1906(明治39)年のことで252年かかっており、397巻、目録だけでも5巻の気が遠くなるような大著ですが、資料の発掘や整理に功績はあったものの史実の検証には教条主義、先入観が強過ぎて信頼性は低く、戊辰戦争につながる尊皇攘夷運動を巻き起こした罪の方が大きいと考えます。
ところでドラマの水戸黄門と言えば東野英治郎さんですが、野僧は月形龍之介さんも記憶に残っています。その後は西村晃さん、佐野浅夫さん、石坂浩二さん、里見浩太郎さんと続きましたが、テレビの古い映画で見た徳川夢声さんも忘れ難い魅力がありました。
ついでに言えば杉良太郎さんのファンだった祖母は、助さんが里見浩太郎さんに代わった時、孫の野僧に番組を見せながら「前の方が好かっただろう」と返事を強要していました。
最後に題名の「黄門」ですが、これは関白の太閤、将軍の大御所などと同じく引退した中納言の尊称なので生前は権中納言だった光圀は名乗れません(没後に権大納言を贈られていますが)。更に「副将軍」と言うのも水戸藩が勝手に称していただけですから他藩では通用しません。
月形龍之介東野英治郎
左・月形龍之介さん、右・御存じ・東野英治郎さん
徳川光圀御本人には髭がありません。


  1. 2013/02/26(火) 08:09:22|
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2月25日・菅原道真の命日

903(延喜3)年の明日2月25日(太陰暦)は菅原道真公の命日です。菅原道真公にはこんな和歌があります。

心だに 誠の道に 叶ひなば 祈らずとても 神や護らん

天神様は本来、天候気象の神様で、菅公(道真)が太宰府で亡くなった時、京都で激しい落雷があり、菅公を陥れた者たちにそれが当って死んだので、「雷神になった道真公の祟りだ」と畏れ慄き、天神(雷神もメンバー)として一緒に祀られたのです。ですから本当は天災除けが本業で、学問は後から付けた副業・余技なんです。
ちなみに福岡の太宰府天満宮は菅公の墓所、京都の北野天満宮は屋敷跡ですが、「三天神」と一際高く声を上げている山口県の防府天満宮は、旅の途中に立ち寄って(当時は船旅でした)、山から眺めた風景が気に入って「死んだら魂はここに還ってくる」と言い遺したところだそうです。三天神の中では防府が1番古いのですが、太宰府と北野に比べるとマイナーなので、東京では「湯島」天神が三天神だと思っているし、大阪では「テンテン天満(てんま)」にある天神さんが三天神だと思っているようです。ところで菅公が祀られる前には天災除けを祈る神社はなかったのでしょうか?
さらに言うと菅公は大宰府に流され、困窮の中で亡くなったとされていますが、実際は大宰府の長官に就任して奥さんを京都に残し(同行を拒否したとも言われています)、息子2人を連れて赴任したのです。太宰府の長官と言うのは、対中国、対朝鮮外交、貿易の窓口であり(正式な外交関係を断ったのは菅公でしたけど、それは遣宋使になりたくなかっためと言われています)、不平分子が多かった西日本防衛の責任者であり、大穀倉地帯の年貢を徴収する財政の責任者でもあったので、京都の大臣から太宰府の長官になったのは決して左遷ではなく、それほど困窮していたとも考えられません。単に京都が恋しく、田舎が嫌でホームシックになっただけかも知れません。

東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

菅公が太宰府でこの歌を詠んだら、京都の屋敷の庭の梅が飛んでいって咲いたと言う「飛び梅」の伝説がありますが、記録ではそれ以前に奥さんから「梅は欲しがる人に売って生活費の足しにしました」と言う手紙が送られていて、また京都よりも太宰府の方が梅の開花時期はかなり早いので、どこまで信じていいのやら。しかし、太宰府天満宮では「飛び梅」にあやかってパイロットや旅行者向けの「飛行安全」のお守りが売られています。安易だなァ。
  1. 2013/02/24(日) 09:23:05|
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2月24日・切支丹禁教の高札を撤廃した。

1873(明治6)年の明日2月24日に切支丹禁教の高札が撤廃されました。
それが幕末1853(嘉永6)年のペリー来航による開国と1858(安政5)年の米露英仏との修好通商条約締結による外国人居留地の建設を経た戊辰戦争の末、明治新政府が成立して6年後のことですから、日本の切支丹禁教が単なる幕府の宗教政策だけでなく、如何に根深い問題であったかが判ります。
1862年には横浜の山下にカトリック教会(フランス寺)、長崎では1864年に大浦天主堂(本来は秀吉によって殉教させられた26信徒の記念聖堂)が完成して式典が催されましたが、長崎奉行は出席せず、かえって隠れ切支丹が名乗り出るのを警戒しており、実際に名乗り出たイザベリナ杉本百合などの地元民14名を捕縛しています。
そして、明治になるとかえって切支丹弾圧は過酷さを増し(主導者は木戸孝允)、長崎だけでも3384名(実際には浦上村民の全員)が捕縛されて20藩の預かりとなり、粗食を有料で与えられるだけの家畜以下の扱いに多くが死んでいきました。
特に有名なのは津和野藩で、廃佛毀釈の言い出しっ屁でもある津和野藩は神道の教えで改宗できると高を括っていたものの隠れ切支丹の信仰は揺るがず、残酷な拷問で殉教者が続出しました(5名は耐えきれず改宗した)。観光名所の一つである乙女峠の教会はその慰霊のために建立されました。観光客は乙女峠と言う地名と小さな教会でロマンチックな気分を味わいますが、本当は津和野が犯した残虐行為を示す史跡なのです。
これを諸外国が見逃すはずがなく、新政府に厳重抗議し、岩倉具視ら遣欧米使節にも「条約改定の大前提」と高圧的に言い渡してようやく1597年に秀吉が宣教師を追放、宣教師と信徒を迫害して以来、約280年間続いた切支丹禁教が日本人の上に解かれました。
日本人は自分たちのいい加減な信仰と比べ、この迫害に耐えて密かに信仰を守った切支丹に畏敬の念を抱きますが、彼らが迫害されたのにはカトリックが侵略の精神的工作手段になっていたことなどそれなりの理由があり、個人レベルでも長崎の隠れ切支丹の末裔たちは自分たちのカミを「上(かみ)」として佛教徒とつき合うことを「下る(くだる)」と言うなど社会的な異端者であったことは間違いないでしょう。
何よりも日本の切支丹=キリスト教徒は明治期から増加することなく推移していますから、中庸=適度を旨とする日本人に唯一絶対のカミと言う偏狭で頑なな信仰は合わないのかも知れません。
  1. 2013/02/23(土) 09:06:28|
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2月22日・吉野ヶ里遺跡が発見された。

1989(平成1)年の明日2月22日に佐賀県の吉野ヶ里遺跡が発見されました。
野僧は平成2年3月に福岡県の春日基地に赴任しましたが、春日基地も吉野ヶ里フィーバーの真っ最中でした。おまけに春日基地が春日市に分割譲渡した市庁舎建設予定地からも遺跡が発見され、吉野ヶ里フィーバーと言うよりも考古学ブームが巻き起こっていました。
官舎でも奥さんたちは発掘作業のパートに参加するのが流行し、朝の出勤時間には日焼け対策を万全にした奥さんたちが集まり始めていて、「貴女は何所の遺跡?」「あそこは☓☓だったんでしょう」「昨日、OOを見つけちゃった」「ところで仕出し弁当は美味しい?」などとハシャイデいました。
春日市教育員長の幹部講話によれば福岡県内では昔からどこを掘っても遺物が出土し、農家が水瓶にしているのも畑から出た瓶棺であることが多いとのことでした。
この教育長は邪馬台国九州説を力説し、「吉野ヶ里の発見で、もう異論をはさむ者はいないだろう」と断言した後、「春日市の春日神社が大和へ移って春日大社になった」などと珍説にも熱弁を奮っていました。
ただ、野僧は奈良の幹部候補生学校を卒業したばかりで、奈良でも「昔からどこを掘っても遺物が出土し、木片に文字が書かれていれば直ぐに届ける」と聞いていたので、どちらにも感心しながらうなづいていました。
その後、吉野ヶ里遺跡へは愚息を連れて毎月のように遊びに出掛けましたが、静岡の登呂遺跡とは比べ物にならない広々とした遺跡内を喜んで走りまわり、復元された物見台や高床式倉庫の階段を上ったり、竪穴式住居の中をのぞいたりして殆どテーマパークでした。
後年、青森県の車力分屯基地へ赴任した時は、同じくその直前の1994年からの発掘調査で三内丸山遺跡が発見され、こちらも考古学ブームが沸騰していました。
そう言えば現在住んでいる山口県下関市豊北町にも弥生人の骨が多数発掘された遺跡があります。ヒョッとして古代人の魂に招き寄せられているのか?
周作・吉野ヶ里2周作・吉野ヶ里邪馬台テーマパーク「吉野ヶ里}

  1. 2013/02/21(木) 09:49:53|
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2月20日・小林多喜二の命日

1933(昭和8)年の明日2月20日はプロネタリア作家・小林多喜二の命日です。
数年前、多喜二の代表作「蟹工船」がブームになり、共産党への入党者が増加したと言われていましたが、選挙で勝てないのは全国の各小選挙区を制するほどの勢力ではないと言うことでしょう。
愛知県の教職員組合は共産党系だったので、高校の国語の授業では「蟹工船」は推薦図書でした。特に野僧の出身校は民主青年同盟に登録している生徒が多く、読んでいないと生徒会で話が合わず、好むと好まざるに関わりなく本を手にすることになりました(野僧は「共産党宣言」と「資本論」全巻を読破していたので別格でしたが)。
しかし、暗い陰鬱な風景描写が続く中、人権など全く眼中になく工員を酷使する浅川と貧しい東北の農村や東京の斡旋業者に騙されて博光丸に乗せられ、命絶えるまで搾取される労働者たちの姿は、あの時代とは言えどこまでリアリティがあったのか。さらに私企業の要請で海軍が出動するようなことがあり得たのかなどの疑問が残ります。
小林多喜二は共産党への弾圧が強まる中、地下活動に入っていましたが、特高警察が共産党青年同盟に送り込んでいたスパイ・三船留吉によって誘い出され、築地警察署内で拷問を受け、死亡しました。29歳でした。
野僧も高校で教師から小林多喜二の遺体の写真を見せられましたが、全身に殴打や火傷の跡が残り、特に大腿部は変色して(白黒なので色は不明)大きく腫れ上がっていました。教師の説明では指も折られ、睾丸を潰されていたそうです。
ただ今思えばこの教師は憲兵と特高警察の違いについて誤った説明をしていました。
特高警察はあくまでも内務省、警察の下部組織として警察署内にあり、軍内の違法行為を取り締まることを主任務とする憲兵とは全くの別物です。
教師に限らず左翼系の人たちは弾圧=憲兵、拷問=憲兵、憲兵=日本のゲシュタポと言う図式を頭に刷り込んでいるようですが、憲兵が民間人にまで統制を加えるようになったのは日米開戦後で、この時点ではまだ軍内のみで恐れられ、民間ではむしろ頼りにされる存在だったようです。
  1. 2013/02/19(火) 10:02:15|
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2月19日・屋島の合戦

1185(文治1)年の明日2月19日(太陰暦)に屋島の合戦が行われました。
平清盛を主人公にしたドラマなどでは、主人公の清盛没後、平家滅亡までをかなり端折って描くので、2月7日に一ノ谷で敗れ海に逃れた平家を追って源氏が瀬戸内海を渡り、讃岐の屋島で追い討ちをかけたように思われがちですが(昨年の大河ドラマ「平清盛」ではどちらもパスしていました)、実際には1年後の話です。
実は都落ちした平家は九州へ上陸し、太宰府に入って勢力の回復を図ろうとしたのですが、頼朝の挙兵と同時期に蜂起し、平貞能によって制圧されていた地元武士の抵抗を受けて果たせず四国に逃れ屋島に本拠地を得ていたのです。そして範頼・義経の鎌倉軍が木曽義仲と戦っている間にかつての都・福原まで戻り、一ノ谷合戦になりました。
その後、範頼軍が山陽道から九州へ進攻するのに平家は海路から攻撃を加えたので、義経がそれを掃討するため奇襲したのです。
平家物語ではこの時、梶原景時が前後左右に自由に動けるよう舟に逆櫓(さかろ)をつけることを主張したのに対し義経は「引く準備などは臆病者がやることだ」と退けて感情的なシコリを残し、平家滅亡後、先に鎌倉へ戻った景時が頼朝に行状を批判的に報告したことが義経の命運を定めました。
屋島へは多度津の少林寺拳法の本山へ行った折に訪れたことがありますが、細長く瀬戸内海に突き出した不思議な場所でした。それにしてもあの時代の小舟でどうやって軍勢の馬を運んだのか?当時の馬が小型であったとしてもそれだけで数隻が必要になり、むしろ平家の方が戦力は優勢だったのでしょう。
屋島の合戦のハイライトは平家が小舟の舳先に掲げた扇を那須の与一が射落としたことですが、この時、平家は海に逃れており陸戦では敗北していたことになります。
何故、ここまで弱かったのか?頭領の宗盛は戦さ下手だったとしても叔父の教盛、弟の知盛、従弟の教経(教盛の次男)などの勇将もいたはずなのにと首を傾げます。ただし、「吾妻鏡」によれば教経は一ノ谷の合戦で討ち取られ京で首を晒されています。
ただ、「平家物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」ではこのように記述の食い違いが多く、「前の2つは所詮は物語、吾妻鏡は公式記録だ」と言う研究者と「吾妻鏡は伝聞を鎌倉の主観で記録したもの過ぎない」と言う歴史家で意見が分かれています。
  1. 2013/02/18(月) 10:01:42|
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福之上里美さん

野僧は自衛隊体育学校格闘課程に入校中、試合運営の参考にするため日本武道館で開催された全日本剣道選手権を見に行きました。ほぼ満員の場内で2つ空いた席を見つけて座っていると若い女性が「よろしいですか?」と声を掛けてきました。
その女性は凛とした美人(垢抜けしてないが)で、165センチほどの長身をピンッと背筋を伸ばして姿勢が極めてよく、膝下までのスカートから見える筋肉質なふくらはぎと細く引き締まった足首が印象的でした。
やがて試合が始めると彼女は真剣に見入っていましたが、試合の動きと呼吸がピタリと一致しており、野僧は「かなり剣道をやっているな」と感心しながら見ていました。
数試合後の休憩時間に声を掛けてみると九州訛りがあり、そこで野僧も博多弁で話すととても喜んで剣道に関する質問にも快く答えてくれました。その内容も非常に専門的な上、体験に基づく見解もあり、「まだ若いのに・・・」と驚きました。
試合が再開すると今度は試合の切れ目ごとに解説してくれ、少年剣道の経験しかない野僧も高度な部分まで理解し、何よりも試合を堪能できました。
ところが昼休みになると数人の女子高生が彼女の前に並び、ノートとボールペンを差し出して「サインをお願いします」と声を掛けてきたのです。野僧は何事かと思い覗いてみると彼女は楷書で「福之上里美」と書くではありませんか。
福之上里美選手と言えば高校生・17歳で全日本女子剣道選手権を制覇し、天才女子高生と呼ばれた剣士で、その年の春に鹿児島から警視庁に入り、1年ぶりに2度目のタイトルを取ったはずでした。
つまり野僧は、そんな有名選手の解説を1人で独占していた訳で、おかげで水泳と陸上の走り高跳びが得意で鹿児島の記録を持っていると言う個人情報も聞けました(「水着や短パン姿を見たかァ」と言ったら真っ赤になったのも可愛かった)。
それにしてもウッカリ不心得なことをしなくてよかったです。相手は婦警さんですから忽ち現行犯逮捕され、翌日の新聞に「自衛官が婦警に痴漢・体育学校の学生が剣道の女王に」などと載るところでした。
一方、あの頃の流行語にもなっていた週刊写真誌にフォーカス、フライデーされたかった気もします。今なら女子高生が携帯で撮って写メールするのでしょうけど。
・福之上里美・福之上里美5

  1. 2013/02/16(土) 10:39:59|
  2. 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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2月17日・藤田まことの命日

2010(平成21)年の明日2月10日に俳優・藤田まことさんが亡くなりました。
藤田まことさんと言えば幼い頃、会社から帰った父が見ていた「てなもんや三度笠」のあんかけの時次郎で、珍念の白木みのるさんとの掛け合いは「クダラン」「ツマラン」「トロイ」と言いながら父も笑っていました(同じ情景はその後、コント55号、ドリフターズでも繰り返された)。
「当り前だのクラッカー」で前田製菓のクラッカーを食べたのは勿論ですが、中でも記憶に残っているのが「気をつけ」と言われた時次郎が木を手で突き、「木を突いてます」とかますギャグで、自衛隊に入ってからやってみましたが「真面目にやれ」と怒られて終わりました(本当にやるなよ!)。
父はお銀の京唄子さんが嫌いで「口が大きな女」とけなしながら「こいつは鳳啓助の女房だ。よくもらったなァ」と千太役だった画面の鳳さんに嫌味を言っていました。
鼠小僧次郎吉役だった南利明さんは名古屋のローカルメーカー・オリエンタルのスナックカレーのCMに出て「滅茶苦茶、美味ェでかんわ・・・ハヤシもあるでよ」の名古屋弁で一世を風靡しましたが、スナックカレーは全国区のボンカレーやククレカレーよりも美味かったです(全国区のメーカーさんすみません)。
その後は平家物語で赤鼻の伴卜役で見かけた以外はしばらく会いませんでしたが、衝撃の再会を果たしたのが「必殺仕置人」の中村主水でした。このドラマは自宅では見られず母の実家に帰省した時のみでしたが、鉄(山崎努さん)の首を折るレントゲン映像は家で親が見ている時代劇と全く違い驚きました。また父に絶対服従だった我が家では婿養子の中村主水が姑のせん(菅井きんさん)と妻のりつ(白木万里さん)母子に苛められている姿が痛快で、幼心に「ウチも養子ならよかったのに」と思っていました(別のシリーズではりつが主水の世話を焼き、せんが嫉妬するシーンもあります)。
その後も帰省の度に寝床のテレビで見ていましたが、「暗闇の仕留人」では村雨の大吉が胡桃3個を素手で握りつぶした後、相手の心臓を鷲掴みするシーンが鉄と同じくレントゲンで紹介されていました。しかし、数カ月に1回の視聴では次々に「仕業人」「仕事人」などと題名、出演者が変わってしまい今でもよく判りません。
このシリーズの集大成はやはり野僧が大学生になってからの「新・必殺仕業人」で、父が単身赴任していたこともありジックリ見られました。
秀(三田村邦彦さん)のかんざし、英次(中条きよしさん)の三味線の糸、りく(山田五十鈴さん)の撥の殺陣も好かったですが、加代(鮎川いずみさん)が絡む人間ドラマも番組に深みを加えていました。何よりも筆頭同心・田中熊五郎(山内としおさん)のカマ言葉が最高で、その後、自衛隊に入って幹部になってからボンヤリしている隊員に「XXさん、しっかりしなさい。私が困るんですからネ」とカマ言葉を使ってしまったこともありました。
野僧は息子と父子家庭の経験があるので主人公が男手で娘2人を育てている「はぐれ刑事純情派」も好きでしたが、藤田さんの実年齢は後半のシリーズでは警察官の定年を過ぎており、最終回で安浦刑事がママ・真野あずささんにプロポーズしてその後、どうなったのか?娘を独り立ちさせ警察を退職してママに食べさせてもらう=ヒモ生活か?それもハッピーエンドですなァ。
  1. 2013/02/16(土) 09:48:38|
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2月12日・本多光太郎博士の命日

1954(昭和29)年の明日2月12日は第1回文化勲章受章者・本多光太郎理学博士の命日です。
文化の日にこのカテゴリーでも述べましたが、本多博士は野僧が卒業した愛知県岡崎市立矢作南小学校の先輩で、小学校の校門の横に本多光太郎先生の胸像があり、児童は登下校時には帽子を取って挨拶をし、教室には本多博士の写真と博士から贈られた「つとめてやむな=不断の努力」の校訓が飾られていました。
児童は交代で近所の寺にある墓の掃除に行き、毎年の学芸会では幾つかのクラスが本多光太郎先生物語を上演されていました。その中で必ず描かれるのが幼い頃の博士は「うどん」と言えず「うろん」と言っていたことや、ナマズ捕りで泥がついた手で鼻水を拭い、顔が汚れた、少し足りない子供だったエピソードでした。
兎に角、6年間で「つとめてやむな」精神を徹底的に学び刻まれます(小庵にも卒業記念の校訓の色紙額が飾られています)。
そして、「本多先生に続け」と理科教育には力を入れていて、校内には北海道から沖縄、世界各国の樹木を植えた植物園やとても本格的な気象観測所があり、剥製、解剖標本が並ぶ理科実験室の充実ぶりはその後通った中学、高校などとは比較になりませんでした。
本多光太郎先生は東北帝国大学総長も務められたため仙台でも有名だったそうで、現在でも広大な旧邸宅が残っているそうです。
また野僧は入校した航空自衛隊幹部学校がある目黒基地の隣りには先生が創設された「金属研究所」があり、深夜まで課題論文に取り組んでいて宿舎の窓から金属研究所の灯りが見えると「つとめてやむな」と気持ちを奮い立たせたものです。
本多博士は兵三郎さんの三男で、長兄は寛三郎さん、次兄は浅次郎さんで三男の博士が光太郎と言うのは計画出産にしても出来過ぎです。ちなみに「光太郎」と言う名前は本当は「孝太郎」だったのですが、役所に届けた時、あまりに達筆過ぎて係が読めず「光太郎」と登録したのだそうです。
ついでに言えば東北大学がある仙台では「本田幸太郎」だと思っている方が多いようです。

  本多光太郎博士の歌(詞・野々村道雄 曲・山本松寿)
サラサラサラ サラサラサラ 矢作の流れ耳に聞き 小さな胸の光太郎さん
父の心をかたすみに 固く包んで朝の道 努力努力努力 ああ僕らの博士

キラキラキラ キラキラキラ 輝く夜空の星ながめ 若い希望の光太郎さん
願いは遠く空の果て はるばるかなう旅の道 努力努力努力 ああ僕らの博士

カチカチカチ カチカチカチ 時計の響き小刻みに 何故か何故かの光太郎さん
いつでもヨクヨク考えて 一人極める理科実験 努力努力努力 ああ僕らの博士

コツコツコツ コツコツコツ 鋼とともに80年 固い心の光太郎さん
互いに引き合うマグネット 世界を結んで一筋に 努力努力努力 ああ僕らの博士
本多光太郎先生矢南小校訓

  1. 2013/02/11(月) 09:31:59|
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2月9日・手塚治虫先生の命日

1989(平成1)年の明日2月9日は手塚治虫先生の命日です。
平成元年には「昭和」と言う時代を作った偉大な方たちが揃って亡くなりましたが、手塚先生もそのお一人になってしまいました。
野僧などの世代が手塚先生の作品に触れたのは、やはり「鉄腕アトム」(実写版は記憶にありません)から「ビッグX」「リボンの騎士」などのテレビ・アニメからでしょう。
中でも「鉄腕アトム」の最終回、アトムが地球を救うためにロケットを抱いて太陽へ突っ込んでいくシーンに涙した子供は多いと思います。太陽に向かって「アトム!」と叫んだりして。
そう言えば実写とアニメを融合させた「バンパイア」もありましたが、これには水谷豊さんが子役で出演していました。後年、虫プロは映画「火の鳥」でもこの技法に再挑戦してますが、やはりコンピュータ・グラフィックの発展を待たなければならなかったようです。
ただ一つ、疑問に思うのは「ビッグX」はナチスが開発した筋肉と鋼鉄にする注射を打ってロボットのように変身し、バンパイアは月や丸い物を見ることで犬に変身する種族の物語ですが、医者でもあった手塚先生はどこまでリアリティを以って描いておられたのでしょうか。
その後、テレビ・アニメを卒業すると週刊誌などの漫画ですが、あの頃は「ブラックジャック」が人気で、あれを読んで「医者になりたい」と身の程知らずの夢を抱いた奴を少なからず知っています。野僧が坊主になったのは「ブッダ」を読んだためかと言えば違います。
「ブッダ」を読んだのは出家後でしたが、佛典を知って読むとエピソードの出どころが判ります。
例えばブッダの友人のビンビサーラ王が息子のアジャセに城の塔へ幽閉され、妃のイダイケが身体に蜜を塗って舐めさせて命を永らえさせる物語は、浄土三部経の「観無量寿経」の有名な説話です。したがって観無量寿経を勤めていると漫画の場面が頭の中に浮かんで困ります。特に身体を舐めさせるシーンなどは「一歩間違えば」です。
「ブッダ」の中で最も感銘を受けたのは最終話の涅槃の場面で、野僧は拡大コピーして張り合わせ、小庵の法要で飾る涅槃図にしています(檀家、門徒がありませんから商業利用ではありません)。
ついでに申せば手塚先生の御子息の奥方の岡野玲子さんは漫画家で、「ファンシィダンス」と言う坊主が主人公の作品があります(本木雅弘さん主演で映画にもなりました)。
その後は「アドルフに告ぐ」を読んで興味を持ったことで、先日の樋口季一郎中将の業績を研究することになりました。
ヤクルト球団は国鉄時代の特急の名前「つばめ」から取ったスワローズは止めて、昔のアトムズに戻してはどうでしょう。ジャイアンツと言う巨大な悪役ロボットに敢然と立ち向かうアトムなんて画になりませんか?ただ原発事故騒動による反対運動の激化の上、北朝鮮の原爆実験と続いては無理でしょうけど、あのアトムは正義の味方です。
ただし、先生はアトムのようなヒューマン型ロボットの発展を考えておられたようですが、実際はそれぞれの機能に特化した工業ロボットの方に開発は向いているようです。
涅槃図(手塚治虫作「ブッダ」より)「ブッダ」の涅槃の場面=小庵の涅槃画
  1. 2013/02/08(金) 09:48:51|
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2月7日・一ノ谷の合戦

1184(元暦1)年の明日2月7日(太陰暦)に一ノ谷の合戦が行われました。
一ノ谷の合戦と言えば「平家物語」では義経のひよどり越えの逆落とし、忠度・敦盛の最期などのドラマチックな場面が伝えられています(物語ではありますが)。
一ノ谷の合戦は義経の鵯越ばかりが有名でそれで勝敗が決したように思われいますが、源氏軍の主力は蒲冠者・源範頼(義朝の6男)が率いた平地からの攻撃側で、義経はあくまでも少数で裏を突く攪乱が役割だったようです。ちなみに「蒲冠者」と言うのは範頼が現在の浜松市神明町にあたる蒲御厨で育ったことによります。
またこの時代の馬は鹿児島県の都井岬や各地にいる原生種を見ても判るようにポニーかロバ並みの小型でした。東北で産する馬は比較的大型でしたが、下北半島の寒立馬や北海道の道産子を見てもアラブ種などよりは小型(短足)ですから大したことはありません。
また当時は西洋のような金属製の馬蹄がなく草鞋を履かしていたそうで、「傾斜が急な山からの逆落としでは馬が脚を痛めるから」と畠山重忠と言う坂東武者は愛馬・三日月を背負って下りたと「源平盛衰記」には書かれています。ただし、「吾妻鏡」では重忠は範頼軍と記されており、「平家物語」には出てきませんから真偽の程はわかりません。
忠度・敦盛の最期は忠盛の命日で間違って記した文部省唱歌「青葉の笛」で劇的に謳われていますが、敦盛は笛の名手であった経盛(清盛の弟)の末子で、父譲りの笛の名手だったようです。また敦盛を討った熊谷次郎直実は世のはかなさを噛み締め、出家して法然上人の高弟になりました。
一方、忠度は都落ちの折、歌の師・藤原俊成(定家の父)を訪ね、「将来、勅撰和歌集が編纂されることがあればこの歌を」と形見として一首を託したのです。
それが「さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山桜かな」で、千載集には「詠み人知らず(=作者不明)」とされていますが平家物語で皆知っています。

 青葉の笛(再度紹介)
            詞・大和田建樹 曲・岡村虎蔵

一の谷の軍(いくさ)破れ 討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛

更くる夜半に門を敲き わが師に託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙(えびら)に 残れるは花や 今宵の歌

(これは日露戦争翌年の明治39年の歌ですから国民の厭戦気分が投影されているのでしょう)
  1. 2013/02/06(水) 08:49:01|
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2月4日 スリランカ 独立記念日

明日2月4日は実在する佛国土・スリランカ共和国の独立記念日です。1948年のことでした。
野僧は日本とスリランカの間で紛争が起これば佛教者として迷わずスリランカ側に立つでしょう。
以前にはインドやイスラム過激派による間接侵略を担い、妻子を人質にして住民を戦闘に参加させていたタミル・イーラムの虎との内戦を遂行していたスリランカ政府軍に義勇軍人として参加しようとしていたのですから、例え相手が日本国でも現世の佛国土を犯すなら躊躇することはありません。
日本の保守系の人たちは皇室を世界で唯一の「万世一系の皇統」と誇りますが神話ではなく史実として実証できているのは意外と最近で、釋尊の頃から1815年にイギリスによって廃位させられるまで続いていたスリランカのシンハラ王朝と比べれば歴史は短いのかも知れません。
何よりもシンハラ王朝は日本のように権威(天皇)と権力(為政者)の二重構造ではなく王自らが佛教の慈悲に根差した善政をしき続けていたのですから素晴らしいです。
スリランカの話は月刊「宗教」講座の第7回(5月)と連続ブログ小説「続・亜麻色の髪のドール」スリランカ編で詳しく述べています。
余談ながら先の大戦でインド方面に攻撃を加えた海軍機がスリランカに不時着し、地元民に保護されています。そうなるとあの大戦が日本にとって大東亜戦争、太平洋戦争なのか首を傾げてしまいます。

みんなで歌おうスリランカ共和国国歌「スリランカ マータ(1番)」

スリランカ マーター(母なるスリランカ)
アバ スリーランカ ナモー ナモー ナモー マーター
(私たちのスリランカ 偉大なる 偉大なる 偉大なる 偉大なる母よ)
スンダラ スィリ バリニー スレンディ アティ ソーバマナ ランカー
(美しくとても綺麗なスリランカ=輝ける島) 
ダーニャ ダナヤ ネカ マル ハラトゥル ピリ ジャヤ フーミヤ ランミャー
(米や宝、花や果実に満ちあふれ 勝利の地は美しく輝いています)
アパハタ サパ スィリ セタ サダナー ジイワナイェ マーター
(私たちに楽しいことや美しいもの 素晴らしいものを与え 生かしてくれる母)
ピリガヌ メナ アッパ バクティ プージャ ナモー ナモー マーター
(私たちは敬意を捧げます 偉大なる 偉大なる母よ)
アパ スリー ランカ ナモー ナモー ナモー ナモー マータ
(私たちのスリランカ 偉大なる 偉大なる 偉大なる 偉大なる母よ)
アパ スリー ランカ ナモー ナモー ナモー ナモー マーター

シンハラ語の歌を聴いて書き留めましたから正確ではありませんがこれで通じるでしょう(曲は残念ながら「童謡のようで楽しくなる歌」としか伝えられません)。
スリランカ王の祖先は獅子であったと言う伝説があり、国旗はそれを表しています。
れ・スリランカ国旗
  1. 2013/02/03(日) 00:05:36|
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2月3日 札幌オリンピック開幕

1972年(昭和47)年の明日2月3日に札幌冬季オリンピックが開幕しました。
数年前、中国が北京オリンピックと上海万博を続けて開催したことを「やり過ぎじゃないか」「調子に乗ってるな」などと危惧する声がありましたが、札幌オリンピックも大阪万博の2年後でした。余談ながら長野オリンピックから愛知万博は7年後です。
この年、野僧は小学校5年でしたが雪のない愛知県でもウィンタースポーツに熱中し、滑り台を前屈姿勢で滑り下り「笠谷ジャンプ」と絶叫しながら幅跳びしたり、ノルディックのポーズで足を引き摺りながら駈けっこしたり、さらに新築だった校舎の廊下で上履きを脱いでスケートごっこなどを楽しみましたが、これは靴下が汚れるので母親からの苦情が殺到し、やがて校内は裸足になってしまいました(この対応が野僧の矢作南小学校です=2月12日に関連記事を掲載予定)。
札幌オリンピックの最大の功績は、東京オリンピックが野球と武道、駆け足と水泳くらいしか嗜まなかった日本人に色々なスポーツを教えたように、雪合戦以外のウィンタースポーツを広めたことでしょう。
笠谷、金野、青地の日の丸飛行隊に憧れてジャンプを始めるのは無理にしても、スキーに行くことを親にねだったり(親が滑れなくて実現しない者が大半でしたが)、小学生だけで市内のスケート場へ出かけることが許される雰囲気が醸成されました。さらにジャネット・リンに憧れてスケートを始めた女の子と一緒にデートなんてマセ餓鬼もありました。
ただ野僧はスケートならフュギアのジャネット・リンや山下一美さん(日本代表・10位)よりも開会式で純白のコズチュームに鈴蘭の冠を被って入場した聖火スケーターの辻村いずみさん(まだ名前を覚えています)に幼心をときめかせていました。

 虹と雪のバラード
虹の地平を歩み出て 影たちが近づく手をとり合って
街ができる美しい街が あふれる旗 叫び そして唄
僕らは呼ぶ あふれる夢に あの星たちのあいだに
眠っている北の空に 君の名を呼ぶ オリンピックと

雪の炎に揺らめいて 影たちが飛び去るナイフのように
空がのこるまっ青な空が あれは夢? 力? それとも恋
僕らは書く 命の限り いま太陽の真下に
生まれかわる サッポロの地に 君の名を書く オリンピックと
  1. 2013/02/02(土) 08:42:53|
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第4回月刊「宗教」講座

 2月中旬はクリスマス・天長節の年末以上に宗教の祭日が重なります。
先ずは11日の紀元節=現在の建国記念の日、14日がセントバレンタインデー、15日は涅槃会の3連発です。
釋尊の死は「般涅槃(はつねはん)」と言い、悟りの完成を意味します。これは「悟り」によって精神的苦悩から解放され、「死」によって肉体的苦痛からも離脱することが出来たと言うことです。
その最期の情景は平家物語の冒頭で「沙羅双樹の花の色、生者必衰のことわりをあらわす」と詠われているように、2本の沙羅(夏椿)の樹の下で北を枕にして、右脇を下に亡くなったようです(これが死者を北枕に安置し、日常は避ける風習の起源です)。
日本の坊主は「真冬の2月に夏椿が満開になったのは釋尊の神通力による」などと言いますが、インドの沙羅は年中咲いている花なので別に不思議はありません。
死因は下痢と嘔吐で、南方佛教では豚肉を食べてあたったとされていますが、僧侶の肉食が禁じられている中国以東では茸と言うことにしています(肉食を禁じたのは中国の皇帝とそれを踏襲した日本の天皇で佛戒にはありません)。
南方佛教の涅槃経は、釋尊が最後の旅に出られたところから亡くなって埋葬されるまでを劇的に描いていますが、日本では「佛垂槃涅槃略説教誡経」と言う最後に説かれた教えだけを尊んでいます。
その中心を為すのは「知足(足ることを知る)」です。
最近、アチラコチラの寺には「口」の字を中心にして「吾、唯、足、知」を囲うように配して彫った石が置いてあるのを見ますが、その由来もこの教えです。また、神奈川県横浜市鶴見の曹洞宗大本山・總持寺(永平寺と二大本山)にある石原裕次郎さんの墓所にもこれが置いてありました。
この教えは簡単な話で、満足することを知らなければ欲望に限りがなく、常に飢えているような苦しみを味わい続ける。しかし、満足することが出来れば、僅かに得た物でも満ち足りて、幸福になれると言うことです。
ところが最近の文化人や経済人の中には、この教えを「向上心を認めない佛教の消極性の表れ」と否定する人があります。そして彼らは「だから日本以外の佛教国に経済的発展を遂げている国はない」と揶揄します。
しかし、チベット佛教のダライ・ラマ14世猊下はこのことを問われ、「東南アジアなどの佛教国は気候が温暖で農作物なども豊富だったため、殊更に科学の発展を必要としなかった。このため厳しい自然環境を克服するため科学を発展させた欧州に立ち遅れることになった」と否定的見解を示しています。
もう1つ、最後を締め括るように説かれているのが「自灯明、法灯明」の教えです。
自灯明と言うのは暗闇の中で足元を照らす明かり、法灯明は行き先を示す灯りです。人生は、一歩先も見えない暗闇の中を手探りで歩んでゆくようなモノですが、行き先が判り、足元が確かめられればやがては目的地に辿り着けるでしょう。
これが儒教やカトリックのように「こうでなくてはいけない」とレールをひかれ、その上だけを脇目も寄り道も許されずに進む人生では窮屈で味気なくありませんか。
時には迷い、時にはつまづくことも人生の醍醐味、教訓なんですから。
そんな人生の終幕を、釋尊は巨木が倒れるように閉じられました。
釋尊は弟子たちに「何か訊きたいことはないか?」と何度も繰り返し、弟子たちが「もう十分です」と答えると、「私は今、涅槃に入る」と言って眼を閉じ、すると沙羅の花が一斉に咲いて散り、白い鶴のような枯れ木になりました。
しかし、日本の夏椿は白いですがインドの沙羅はオレンジ色(写真参照)で、「こんな鮮やかな花びらに埋もれて亡くなった釋尊はお洒落だなァ」と感心したものです。
師僧はいつも涅槃図を飾りながら、まだ子供だった野僧=小坊主に、「キリスト教は十字架にかけられて苦悶の表情で死んでいるイエスを拝んでいるが、佛教は微笑んで亡くなったお釋迦様を拝む。つまり佛教は笑うための宗教だ」と言っていました。
確かにあらゆる苦しみから解放される方法を説いているのが佛教ですから、その教えを体得すれば微笑んで死んで逝けるのかも知れません。
寺の涅槃図では、弟子たちのほかに動物たちも集まっていて、その先着順に干支が決まったと言う伝説があります。また天女が落とした薬袋が枝に引っ掛かっていて、届かなかったことを嘆き悲しむ天女の姿も描かれています。また足に教えを受けようと駆け付けたのに間に合わなかった老婆がすがっています。それを指差して師僧は「学ぶ気持ちを先延ばしにすると、このように嘆き悲しむことになるのだ。知りたい欲は大いに燃え立たせ、極め尽くせ」と教えました。
涅槃佛と僧
スリランカの涅槃像
き・紗羅
スリランカ・キャンディ植物園の沙羅
紀元節は初代・神武天皇さんが即位された日で、今年は2668年に当りますが、神武さんは邇邇藝能命(ににぎのみこと)と木花の佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)の孫、海幸彦の子供です。
これが古事記にある二柱の馴れ初めのリアルな物語=神話です。
ある日、邇邇藝能命が郷に降りてきて、美しい娘・木花の佐久夜毘売に会いました。
そこで邇邇藝能命はナンパしたのですが、その時、「お前には姉か妹はいないのか?」と訊き、すると娘が「姉がいます」と答えたので、「今夜、姉と一緒に訪ねて来い」と命じたのです。
その夜、姉妹が訪ねてくると姉は非常にゴツくて不細工だったので、邇邇藝能命は「お前は帰れ」と追い返し、妹の木花の佐久夜毘売とちぎりました。
この話を聞いた郷の神である姉妹の父は、「姉の石長毘売(いわながひめ)は岩の化身、妹は木の花の化身なので、これから神の寿命は木の花のようにはかなくなるだろう」と言い、これ以降、神の寿命は次第に人間のように短くなりました。
やがて木花の佐久夜毘売が妊娠したのですが、そのことを邇邇藝能命に言うと、「お前とは一晩しかちぎっていない。それは郷の神の子だろう」と責任を認めませんでした。それに怒った木花の佐久夜毘売は「火の中で無事生まれてくればそれは貴方の子だ」と宣言し、洞窟に籠って火を放ち無事2人の子供を生みました。
この場所が現在の宮崎県の鵜戸神宮で、生まれた子供が海幸彦、山幸子だと言われています。ちなみに海幸彦の子供が初代・神武天皇です。神道の「ハレ」と「ケ」の考え方についても天長節の時に少し触れましたが、この「ケ」からリフレッシュする手段としては、非日常の「ハレ」の時を過ごすほかに「禊(みそぎ)」があります。
これは「身削ぎ」と書くこともあるように、今のような殊更に寒い時期に裸になって池や海で冷水を浴びたり、逆に大きな松明の火の粉を振りまいてそれを被ったり、まさに身を削ぐような肉体的苦痛を自分に課して、魂についた「穢れ(この場合の「ケガレ」は「汚れ」になります)」を落とすのです。
昔、神社の神職は毎朝、仕事の前に冷水浴をやったそうですが、最近は朝シャワーで済ませているようです。確かに清潔ではありますが禊になるのかは判りません。
また、このことは神道が新しい物を尊ぶと言うことにも通じます。
つまり古い物はそれだけ穢れている訳で、伊勢の神宮が20年に1回行う遷宮のように、神社は木の香りがする新しい社殿の方が有り難いのです。
これは生命の再生を願うことにも通じ、だから神社の巫女は処女であり(ウチにOGがいますが実際は全く違う)、使う道具も白木の物が多いのです。
もう1つ、神道で特徴的なものに「言霊(ことだま)」と言う考え方があります。
これは「言葉には実際を引きよせる力がある」と言うことで、数字の「四」は「死」、「九」は「苦」に通じるからと嫌うことなどはこの例です。
(野僧などは「幸せが来る」と「四十九」を目出度い数字と喜んでしまいますが)
神道に於いては「死」こそ最も忌み怖れる出来事で、それにつながる「血」を流すことは避けなければならない凶事なのです。
だから日本では血を流すことそのものを遠ざけ避けようとする風習があり、女性の出産や生理は「血の穢れ」とされて、母屋から離れた産家(うぶや)で人目を避けて出産し、神社では生理中の巫女は拝殿に入れません(大きな神社では休ませる)。
さらに「戦い」は死を呼ぶ最たるもので、平安時代までの武士はその穢れた行為を生業とする忌むべき職業だったのです。
現代でも「防衛論議をすること自体が戦争を招く」と言う不可解な論理を主張する一部の日本人がいますが、これはある意味、極めて日本的な考え方なのです。
さらに日本国憲法の第九条「戦争の放棄」は現実的でないという批判をする保守派の人たちがいますが、日本国憲法では戦争だけでなく、大規模災害や騒乱などの国家非常時に関する規定も盛り込まれておらず、それも日本的です。
わが国最初の律令である養老律令や大宝律令では、参考にした中国の律令にある戦争などの非常事態に関する規定は削除するか空文化していて、朝廷は「死」「穢れ」に関する業務にはノータッチ、責任を放棄しましたが、騒乱、盗賊や死人の処理などをしない訳にはいかず、それで設けられたのが人間に入らない「非人」を使ってこれらを行う「検非違使(けびいし)」と言う役職で主に武士が就きました。
検非違使の担当業務は武力を用いた国の守り、犯罪防止と罪人の処罰、非人を使っての死体処理を含む清掃で、これらは自衛隊の「防衛」「治安維持」「災害派遣」と言う任務に通じるのも偶然の一致ばかりではないでしょう。
自衛隊が防衛任務よりも災害派遣で感謝されるのも日本人なら自然なことです。
石井林響・木華開耶姫石井林響「木華開耶姫」
最後にセントバレンタインデーですが、これは本来、セント・ヴァレンティヌスの祝日で、2月13日と言うところもあります。
セント・ヴァレンティヌスは古代ローマ帝国時代の実在の人物で、西暦270年に亡くなったと言う記録も残っています。
ヴァレンティヌスは「兵士が弱くなるから」と兵士の恋愛、結婚を禁じていた皇帝に背き、愛し合う兵士と恋人の結婚を祝福したことで罪に問われ処刑されました。
捕えられた時、取り調べる執政官の娘の不自由な眼を祈りで治し、これが評判になりましたが、結局、皇帝の命令に反することは出来ず、処刑されました。
この恋人同士の想いを命をかけて遂げさせたことで、ヨーロッパでは中世から友情、恋愛の守護者として崇敬を受けていました。
ただし、聖人信仰と言うのは、オーソドクス(ギリシャ、ロシア正教)やカトリックまでのもので、プロテスタントには見られません。
プロテスタントでは、カミの前で人間は平等であると言う思想が強く、カトリックの聖人は、カミの下に精霊がいて、その下にローマ法王を頂点とする聖職者を配して衆生の上に君臨する身分制度の一部であるとして、時にはその聖人が行った殉教や自己犠牲までも否定することがあります。
友人のプロテスタントの牧師は、マザー・テレサが聖人の前の段階である福者に列せられた時、テレサのインドでの活動を称賛する野僧に「テレサはカトリックなのが間違っている」と否定しました。
これはセント・ヴァレンティヌス、セント・ニコラウスも同様でしょう。
ちなみにオーソドクスやカトリックの普通の教会にいるのは神父ですが、プロテスタントでは牧師=羊飼い、つまり衆生は迷える子羊なんです。
どちらにしろ日本のセントバレンタインデーはチョコレートの売り上げを伸ばすためにお菓子メーカーが始めた風習であり、3月14日のホワイトデーに至っては全く根拠がありません(浄土宗の善導忌ではありますが)。
                                        南無文殊師利菩薩
セント・ヴァレンティヌスセント・ヴァレンティヌス

  1. 2013/02/01(金) 09:55:16|
  2. 月刊「宗教」講座
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