「巨人の星」「サインはV」「アタックNo・1」と「スポ根」漫画を語ってしまったら止められなくなってしまいました。
野球のスポ根漫画は「巨人の星」が元祖と思われがちですがその5年ほど前にも「ちばてつや先生(平仮名の名前は文中に紛れ込んで困ります)」の「ちかいの魔球」と言う作品があります。ただ、野球漫画としては実弟の「ちばあきお先生(同兄)」の「キャプテン」「プレーボール」の方が大河ドラマ的な広がり、深さ、味わいがあります。それにしても中学野球の試合が9回までだったのは何故?
野僧個人は寺田ヒロオ先生の「スポーツマン金太郎」が好きなんですが、あれはスポ根と言うよりもスポーツ童話=スポ童と呼ぶべきかも知れません。
その後もテレビでは「ガッツジュン」と言う実写物や「侍ジャイアンツ」などが続きますが、漫画でも貝塚ひろし先生の「父の魂」、水島新司先生の「エースの条件」などのアニメ化されなかった傑作がありました。
野僧は従兄が揃えていた「父の魂」の単行本を読んでバットに詳しくなり、スポーツ店へ草野球用のバットを買いに行った時、「タモ材ではなくトネリコ材のバットをお願いします」と店員さんに注文したら「それは硬球用だよ」と呆れられました。
野球漫画はその後も続きますが、「タッチ」がスポ根に入るかは判りません。
一方、サッカーは「赤き血のイレブン」以降、「キャプテン翼」まで目に触れませんでしたが、野僧と同世代のサッカー愛好家には「赤き血のイレブン」を見て少年サッカーを始めた人と「飛び出せ青春」を見て中学・高校サッカーを始めたと言う人がいます。ちなみにJリーグの浦和レッドダイアモンズのレッドは浦和が舞台だった「赤き血のイレブン」に由来しているそうです。
野僧がスポ根漫画の最高傑作だと思っているのは山本鈴美香先生の少女漫画「エースをねらえ」です(ちばてつや先生の「明日のジョー」も捨て難いですが)。
これはアニメ放送もされていますが、原作はさらに深く、特にコーチの宗方仁が亡くなる前後の人間ドラマと新たなコーチである桂大悟の下で主人公の岡ひろみが立ち直るまでのストーリーは単なるスポーツ根性を越えた人間再生のドラマです(ただし、桂大悟が親友の宗方が不治の病と知り「永平寺」へ修行に行ったと言うところだけは納得できませんが)。
意外と知られていませんが、岡ひろみは「打点を変える=ボールが地面に当たって上がってくるところを打つか、上がり切って下がる時に打つか」と言う技を編み出して、体格的に劣りながら世界で通用する選手になったのですが、若い頃の伊達公子選手(現在のクルム伊達)もこの技を使って世界ランキング上位に食い込んでいったのです。
つまり野球で言えば魔球が実際に試合で使われ、通用していたのですが、伊達選手がこの漫画を読んで練習したのかは不明です。しかし、最近はバレーボールでもジャンプして空中でサーブする選手がいますから、そのうち大リーグボールが・・・出る訳がありません。
必殺技で言えば柔道の「山嵐」は実際にあった技ですが、「二段投げ」や「地獄車」はありません。そもそも2回投げるくらいなら1度で「一本」を取った方が楽ですし、動いていては「抑え込み」が始まりませんから、作者は果たして柔道を知っていたのか。
ところで日本のスポ根漫画の超人技路線はやはり赤胴鈴之助の「真空切り」が走りでしょうか?赤胴鈴之助のアニメは昭和47年ですが、原作は昭和29年に「少年画報」で連載されたのです(ラジオの朗読劇や実写のテレビ・ドラマもあった)。
- 2013/03/30(土) 00:07:11|
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1968(昭和43)年の明日3月30日からスポーツ根性アニメの金字塔「巨人の星」の放映が開始されました。ちなみに少年マガジンへの連載は1966年5月からです。
翌1969年10月から「サインはV」、同年12月からは「アタックNo.1」が放映され、男女ともにスポーツ根性モノが大流行し、小中高校生は揃って体育会系の道を突き進むことになり、運動音痴は「ウンチ」と蔑まれ、体育の授業中、辛い思いで過ごすことになりました。「思い込んだら試練の道を、苦しくたって悲しくたって・・・」ですか。
野僧は叔父が少年マガジン、叔母がマーガレットを定期購読していたので「巨人の星」と「アタックNo.1」はどちらも原作から読んでいましたが、漫画とアニメでは違う点に気付きました。
例えば「巨人の星」の大リーグボール1号は、漫画では打者のバットを飛雄馬の超人的コントロールで真っ直ぐ当てているのに、アニメではバットに向かってボールが曲がっていくように描かれていました。これでは折角、原作者の梶原一騎先生が理論的に魔球を説明しても非現実的になってしまいます。
ただし、2号、3号はアニメの方がリアリティーはありましたが、エポック社の野球盤でも消える魔球が使えるようになるとは思いませんでした。
何にしろ以降の野球漫画で描かれた魔球に比べ「巨人の星」は論理性が際立っていました(「侍ジャイアンツ」の分身魔球はどう説明しても無理でしょう。ハイジャンプ魔球は練習した馬鹿がいそうですが)。
一方、「サインはV」と「アタックNo.1」では技が似ていて、ボールがネットを越えて落下する変化球サーブは、「サインはV」なら「稲妻サーブ」、「アタックNo.1」では「木の葉落し」、ネット際で二人がスパイクを打つのは「X攻撃」と「ダブルアタック」でどちらも発想は同じでしょう。ただしX攻撃はどちらが打つかを迷わすだけですが、ダブルアタックは打点を変え、タイミングをずらすのでこちらの方が有効です。
「巨人の星」は原作者の梶原先生が、主人公の「飛雄馬」はヒューマニズムから採ったと言われているように人間ドラマも秀逸でした。特に飛雄馬と父・一徹父子の緊張感は野僧と愚息の親子関係に似ています。
漫画では明子・姉ちゃんも要所要所で名言を吐いていましたが、アニメでは目立ちませんでした。ところでアニメの明子姉ちゃんの服装が年中同じなのはよく言われることですが、原作では色がないので読者が頭の中で色を変えることはできました。
さらに「巨人の星」は登場する女性も魅力的でした。飛雄馬が普通の若者の喜びを求めてつき合った女性タレント・橘ルミでさえ芸能人してのプロ意識を飛雄馬に教え、宮崎キャンプで本当の恋を知った見習い看護師の日高美奈が黒色肉腫で死んだ時には小学生ながら涙したものです。左門豊作と結婚するお京さんも中々でしたが、ところで左門は熊本弁なのに美奈さんが宮崎弁を話していなかったのは何故でしょう。
その点、「アタックNo.1」はアニメでは健康的なスポーツドラマに終始し、悲劇は高校時代に恋人の一ノ瀬努くんが事故死したくらいでしたが、原作では17歳で鮎原こずえが卵巣と子宮を失い、その後、不良の大学生に二股をかけられて弄ばれ、相手の女に対抗するためバレーを止めようとしたりと小学生には難しい問題も描かれていました。
でもやはり終戦の日が近づくと挿入された戦死した沢村栄治投手や吉原正喜捕手などの戦死したプロ野球選手の物語が忘れられません。
実は傑作戦史ドラマ「決断」は土曜日7時からだった「巨人の星」のすぐ後、同じ読売系での放送だったのですが、あの頃は子供のテレビ視聴時間は30分までだった家庭も多かったのでしょう。短期間で終わってしまいました。
余談ながら、我が家では「サインはV」は「選手がジャンプした時、ヘソが映るのが教育上好ましくない」と言う新聞記事を父親が読んで禁じたため途中で見られなくなりました。

- 2013/03/29(金) 09:30:23|
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1871(明治4)年の明日3月28日に幕末の防長2カ国の藩主・毛利敬親公が死去しました。毛利藩のことを山口県民まで「長州藩」と呼びますが、防州=周防国も治めていましたから呼称として正しいのでしょうか?
前田百万石は加賀、能登、越中の3カ国で「加賀藩」、鹿児島県民も島津藩は大隅を領しながら「薩摩藩」と呼ばれていますから、やはり殿様がいた土地の方が一段上と言うことなのでしょうか。ただ、大内氏の時代には周防の大内弘世公が長門の厚東義武を討って防長二国の守護職になっていますから風下に立つ必要はありません。
余談ながら江戸時代には生国を「△△国」と言いますが、藩は「☓☓家来」と主君の公式家格名で答えるのが普通でした(薩摩なら島津ではなく「松平修理大夫家来」です)。
毛利敬親公は「そうせい公」と言う仇名が有名です。家臣が何を言っても「そうせい」としか返事をせず、攘夷断行派が「異国船を撃ち払う」と言えば「そうせい」、尊皇過激派が「孝明天皇に長州へお移りいただく」と言えば「そうせい」、8月の政変の後、「帝に直接、毛利の義を訴える」と言えば「そうせい」、その結果、長州征伐を招いて老臣が「幕府に恭順する」と言えば「そうせい」、一転、倒幕派が実権を握れば「そうせい」でした。
ただ、毛利家中では「そうせい」としか言わない藩主を悪用して私腹を肥やすことなく、むしろ十分な検討の上、根回しを終えて藩内の意見をまとめてから藩主の裁可を仰ぐ気風が生まれたそうです。だからこそ「そうせい公」が名君足り得たのでしょう。
一方、「そうせい公」はただの担ぎやすい軽い神輿ではなく、優れた人材発掘の眼があり、50石の馬廻り役であった村田清風さんを抜擢して藩政改革を成し遂げさせ、まだ満10歳で藩校の兵学師範だった吉田寅次郎くんに山鹿流兵学を講義させて比類なき学才を認め、その後は子弟の礼をとったと言われています。
日本では黙って話を聞き、メ○ラ印を押す上司を「度量が広い」などと持て囃す傾向がありますが、それは多くの場合、野放しにされれば仕事がやり易いと言う部下の怠慢であり、上司が己れの無能さを隠す方便でしょう。毛利藩出身の乃木希典が参謀たちの稚拙な作戦を黙認していたのが好例です。
- 2013/03/27(水) 09:26:08|
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1978(昭和53)年の明日3月26日に4月1日の開港を間近に控えていた成田空港の管制塔を過激派学生が襲撃し、破壊しました。
野僧は高校2年の春休みだったので朝のニュースから中継を見ていたのでが、最終チェックをしていたエンジニアや管制官が手すりもない屋上に逃れ、ガラス張りの管制塔内で過激派が棒で機械を破壊する映像に憤慨し、「千葉県警に入って過激派と戦おう」と思ったのですが、これも父親から「トロイ」と一蹴されました。
後年、浜松で警備小隊長になって警察の資料映像を見ましたが、佐世保での米海軍空母や原子力潜水艦入港反対デモでは、機動隊とデモ隊が橋の上で衝突を繰り広げ、欄干を乗り越えて次々と湾に落ちる者があり、下では双方のボートが走り回って救助していましたが、特に機動隊員は重い装具をつけているため危ない状態でした。
成田闘争ではほぼ戦闘状態で、デモ隊側は角材に釘を打ち抜いて凶器化し、何の躊躇もなくそれで機動隊員の身体を殴り、頚部を打たれて血を噴いて倒れ、後方で手当てを受けるため装具を外した隊員は生気がありませんでした。
さらに塔の上から火炎瓶を大量に落として火の海にして機動隊員を焼き、鎮圧用の放水車は隊員の身体についた火を消すことが役割になっていました。
そして管制塔の破壊は、地下の下水道から侵入したとのことで、その経路も撮影していましたが、空港外の道路脇の排水溝から潜り込み、途中にある金属製の柵を何か所も切っており、長時間にわたる行動であったことが判りました。
野僧としては、このデモに対処するだけの訓練で警備小隊員を鍛えなければならないと思う一方で、野僧自身も沖縄で突入してきた軽4トラックを止めようと立ちはだかり、はねられたことがありましたが、デモ隊にとってその程度は朝飯前だったようで、轢き殺されなかっただけ良かったとするべきことを知りました。
- 2013/03/25(月) 09:11:51|
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1185(文治1)年の明日3月24日(太陰暦)に壇ノ浦の合戦が行われました。
屋島の戦いに敗れた平家は瀬戸内海を逃げたものの、その間に源範頼が九州の平家勢力を討ったため後方も遮断され、現在の下関市の彦島を拠点としました。それに先立って現在の山口県柳井市付近で合戦を行ったことが吾妻鏡に梶原景時からの書簡として載っていますが、詳しいことは判りません。
壇ノ浦での義経の勝因は、その頃の海戦では漁師を強制参加させることが多かったため、漕ぎ手には手を出さないと言う作法があったにも関わらず最初に漕ぎ手を射(い)殺させ、平家の舟を操縦不能にさせたことがあります。要するに武道家が街で喧嘩をするのにも武道の作法から踏み出さずにいて、相手のナラズ者がルール無用に暴れるようなもので、日本人は判官贔屓で義経を悲劇のヒーローにしていますが、屋島の戦いでも那須の与一が扇を射落としたことを愛でて舟の上で舞う武士を射殺すよう称えられた与一自身に命じていますし、壇ノ浦で救われた高倉帝の妻で清盛の娘である徳子を「母が慰め者にされた」とレイプしたと伝えられていますから、武士の作法も弁えない素行不良の暴れ者だったようです。
また奥州の津軽・十三湊から安東氏の船団が増援に向かっていましたが途中で嵐に遭うなどして、間に合わなかったようです。これが史実であるならば奥州藤原氏は義経を送り出していながら平家にも加勢しようとしていた訳で、その政治的判断が謎になります。
一方、四国の祖谷渓など西日本には平家の落ち武者部落がありますが、山口県にも秋芳町の景清洞には伊藤忠清の息子・景清が隠れ住んだと言う伝説がありますが、当地もその一つと伝えられています。
安徳天皇の墓所は本来、阿弥陀寺と言う真言宗の寺院でしたが、明治初期に長州藩が引き起こした廃佛毀釈のドサクサに紛れて神道に乗っ盗られ、現在は赤間神宮になっています。
しかし、神道の祓い清め慰めるだけの宗教儀礼では、無念の恨みを抱いて散った魂魄に世の無常を悟らせ、阿弥陀如来の救済を説いて安んじさせることは出来ません。
七盛塚の亡霊が再び現われて憑りつかれた耳なし芳一がような者が出る前に、寺に返すべきでしょう。
- 2013/03/23(土) 09:28:36|
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1238(嘉禎4・暦仁1)年の明日3月23日に僧・淨光が鎌倉の大佛の建立を始めました。と吾妻鏡に記述があります。
当時の執権は北条泰時で淨光の勧進に賛同しましたが、開眼は5年後の1243(寛元1)年6月11日なので逝去の半年後でした。
建立当時は木造の大佛で大佛殿もあったのですが暴風で倒壊したため、1252(建長4)年に高さ12・38メートルの金属製になりました(奈良の大佛は台座を含め高さ18メートルです)。
この時、大佛殿も建て直されたのですが、1335(建武2)年、1369(志安2)年にも暴風で倒壊し、1495(明応4)年の大津波で倒壊してからは再建されず露天の大佛になってしまい、このため屋内の奈良の大佛に比べ実寸よりも小柄に見えます。
奈良の大佛は盧舎那佛(=大日如来)、東大寺は華厳宗ですが、鎌倉は阿弥陀佛で高徳院は浄土宗です。
歌人・与謝野晶子は「鎌倉や 御佛なれど 釋迦牟尼は 美男におはず 夏木立かな」と詠んでいますが、うがった読み方をすれば「鎌倉の阿弥陀は御佛と言ってもブ男だなァ、釋迦牟尼の方が美男だよ」になりませんか?それでもお参りする時は「南無阿弥陀佛」です、念のため。
ここからは完全な余談です。
野僧はWAVE(海上自衛隊の女性自衛官)さんと一緒に鎌倉の大佛さんへ拜観に行ったのですが、帰りに海岸を歩いていると夕陽が海に落ちて、イキナリ「パーパーパンパンパー」とラッパを口ずさみながら敬礼をしました。海上自衛隊の国旗降下は日没時なのでその習慣だったのでしょう。街ではパチンコ屋の前で「守るも攻むるも黒金の」と唄い出すし、黒猫を飼えば「ヤマト(大和)」と名付けるし、本当に面白い(可愛い)娘でした。イカスミ・スバゲティを食べてお歯黒になった顔が忘れられません。

無断使用スミマセン
- 2013/03/22(金) 09:03:08|
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承和2(835)年の明日3月21日(太陰暦)に高野山で日本佛教界のスーパースター(歌謡界なら美空ひばり、漫画界なら手塚治虫、相撲界なら大鵬でしょうか?)・弘法大師・空海さまが遷化されました。
ただし、高野山では即身佛として洞穴の中で佛道を行じておられているとされ、食事を供えていますので「姿を隠された」とするべきかも知れません、
野僧は弘法大師の生誕地である香川県(讃岐)の善通寺市に滞在したことがありますが、東に讃岐富士、西に五岳山がそびえる(と言っても海抜は低い)静かで美しい土地でした。
ここで面白かったのは地元の人が弘法大師や空海ではなく「真魚(まお)」と言う俗名で呼ぶことで、五岳山の崖を指差しながら「あそこから真魚さんが飛び降りたら天女に救われて、自分が世に必要な人だと自覚したんや」と説明してくれました。
日本の佛教史で理解しておくべきことは、伝来の順番が中国と入れ替わっていることです。
平安佛教として弘法大師の真言密教と伝教大師の天台宗が伝来し、鎌倉佛教として禅や念佛が移入され流行しましたが、中国では禅が先で日本でも有名な弘忍や慧能、百丈、臨済などは奈良佛教の鑑真和上と同年代です。
そして、その厳しい修行や悟りに至る困難さへの対案として念佛が提唱され、次に現世利益への要望に応えるため妙法蓮華経の天台宗が広まったのです。
さらに密教は当時、最新の天文、自然科学、土木工学や医学、薬学を網羅した実用に即した教義としてインドから伝来しました。
だから弘法大師は故郷の讃岐に満濃池などの建設工事を成し遂げ、鉱山や温泉を掘り当て、日本各地で病者を治療して回ったのですが、まだ佛教そのものに対する理解が成熟しておらず、全て弘法大師の神通力による奇跡の伝説にされてしまいました。
今でも真言密教と言うと加持祈祷のイメージがあり、深山幽谷での厳しい修行についても宗教学的には古神道である山岳信仰の山伏と区分ができず、大自然の中での過酷な修行によって超常的な霊力を身につけられると信じられているのですが、本来はもっと科学的な宗教だったのです。
実際、真言宗の根本経典「大楽金剛不空真実三摩耶経(いわゆる理趣経)」で説かれている教えは、欲望を肯定し、むしろ善なる方向へ燃え立たせることで社会を浄化し、理想を実現すると言う現代人にもそのまま納得できる内容です。これを教えとするか、単なる祈祷の道具とするかで意味は変わってしまいます。
最後に弘法大師のとても人間的な伝承を紹介します。
高野山の麓には「九度山」と言う真田昌幸、幸村父子が流されたことでも有名な土地があるのですが、この地名は弘法大師の母親が夫を亡くした後、息子を頼って身を寄せたものの高野山は女人禁制であったためここに住み、大師は年に九度、山を下りて母に会い、孝養を尽くしたことが由来だそうです。
「道のために老いた家族を捨てろ」「死の床にある師僧を置き去りにせよ」などと強要する道元あたりに聞かせたい美談です。やっぱりスーパースターですな。「南無大師遍照金剛」

小庵の隣りのお大師様
- 2013/03/20(水) 09:20:43|
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1664(慶長9)年の明日3月20日(太陰暦)は黒田如水公の命日です。
菩提寺は僊厓義梵老師が住職を務めたことでも有名な博多の聖福寺と京都の大徳寺で、戒名は「龍光院殿如水圓清大居士」ですが、元来は切支丹ですから、洗礼名「ドン・シメオン」に戻して差し上げた方が宜しいのではないでしょうか。
野僧は戦国武将の中では黒田官兵衛孝高(よしたか)=如水公が1番好きなので、大河ドラマで関心が集まり資料の発掘が進むのは良いもののミーハーなファンと思われるのは困ります。
如水公の面白い逸話は幾らでも思い出せますが、嫡男・長政公とのやり取りは野僧も御膝元の福岡で愚息を育てるのに大いに参考にしましたが、例えば関ヶ原の合戦の時、東軍勝利の立役者になって帰った長政公が「家康が右手を取って称賛してくれた」ことを自慢すると如水公は「その時、お前の左手は何をしていたのじゃ」とだけ言いました。
つまり「何故、左手で刺し殺さなかったのか」と言っている訳で、実際に如水公は天下分け目の大戦さとなれば長期戦になり、その間に九州を制圧し、長期戦に疲弊した勝者を討って天下を取るために動いていたようで、つまり天下を奪うことを目指す父親と新たな覇者に忠誠を尽くすことで立場を高めようとする息子の器の違いを示しているのです。
ただし、これはあくまでも大正時代に著された「黒田如水伝」以降の歴史小説などに描かれる名場面であって、史実として公式な記録はありません。
また死期が近づくと家臣を冷淡に扱うようになったそうですが、それは自分を思慕することなく長政公に心を移させるためで、あの時代には常識であった殉死も禁じています。
さらに身の回りの品を家臣に売ったのですが、家臣が「どうせなら下賜されれば宜しいでしょうに」といぶかると、「くれてやりたいが、全員に行き渡るだけの物がない。そうするともらえなかった者が不満に思うから売るんだ」と答えたそうです。
そして、いよいよ死が迫った時、形見として長政公に草履と木履(下駄)を片方ずつ渡します。その意味については後世の人が色々な解釈をしていますが、長政公も考え込みました。すると如水公は「そうやって一事にとらわれてしまうところがお前の悪いところだ」と言ったそうです。
辞世は「おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて」です。どこまでも格好いいでしょう。
- 2013/03/19(火) 09:59:34|
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1945(昭和20)年の明日3月16日は硫黄島(いおうじま)で第109師団長、小笠原兵団長の栗林忠道中将が訣別電報を打った日です。
この翌日の17日付で大将に昇進していますが戦死した日は不明なので所謂「特進=靖国大将」ではありません。
栗林中将は最近大ヒットした映画「硫黄島からの手紙」で渡辺謙さんが演じたイメージがありますが、写真を見てもかなりの男前で、アメリカ駐在武官も務めたハイカラな人だったと言われています。ジョン・ウェイン主演の「硫黄島の砂」もありますが栗林中将が出ていたか記憶にありません。
また「愛馬進軍歌」を作詞したと言う伝説がありますが、実際は陸軍の馬政課長として歌詞の募集を担当したのであり、作詞者は四国の電力会社の社員だった久保田信夫さんです。
栗林中将が指揮した硫黄島の戦いは制空権、制海権もない中、アメリカ軍は守備隊の3倍以上の戦力で攻撃しながら1カ月半以上も抵抗が続き、擂鉢山に星条旗を立てる兵達の姿は激闘を戦い抜くアメリカ海兵隊の象徴にもなっています(兵達のその後が映画のテーマでした)。
野僧の曽祖父の弟は近衛騎兵で栗林中将とも面識があったようですが、「天保銭(陸軍大学校出身)でない者は士官・将校と認めないエリート意識丸出しな人だった」と、あまり好感は持っていなかったようでした。
ところで小笠原諸島だけでなく奄美諸島にも「硫黄島」と言う島があり、どちらにも自衛隊の基地(奄美の方は内緒)があるのですが、防衛省・自衛隊では奄美の方を「いおうとう」、小笠原の方は「いおうじま」と呼び分けています。
映画でも「イオウジマからの手紙」と呼んで国際的に有名になったのですから、それで定着させたらどうでしょう。特に気象庁の天気予報です。ラジオで「台風はイオウトウ付近に・・・」と言われてもどちらなのか判りませんから。
- 2013/03/15(金) 10:22:00|
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江戸で無血開城が決定した翌日の1868(慶応4)年の明日3月14日に間もなく明治天皇(当時は今上さん)になる睦仁さんが京都御所紫宸殿で五箇条の御誓文を誓いました。
1、広く会議を興し万機公論に決すべし
1、上下心を一にして盛に経綸を行うべし
1、官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まさらしめん事を要す
1、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし
1、智識を世界に求め大に皇基を振起すべし
と言う内容ですが、第2次世界大戦後に行われた昭和天皇の人間宣言でも全文が踏襲されています。
一方、左翼勢力はこのことを「明治時代から日本が民主主義国家であったと言う欺瞞である」と批判し、野僧も高校の国語と日本史の授業でそう習いました。
しかし、まだ江戸と京都の間に電信も通じていなかったのに、このタイミングであることは歴史上の奇跡に近く出来過ぎです。
- 2013/03/13(水) 09:18:07|
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1868(慶応4)年の明日3月13日に江戸・高輪の薩摩藩邸で勝海舟と西郷南洲が会見しました。
この会見では9日に駿河で山岡鉄舟との会見で取り決められていた将軍・慶喜さんの処遇問題が議題になり、親元である水戸へ預けられることが決まりました。と言っても水戸は尊皇攘夷の発信源であり、前藩主・斉昭の息子とは言え朝敵となっていた慶喜さんにとって安心できる場所ではなかったかも知れません。
また交渉が決裂した時には、イギリスへ亡命させることも考えていた節もあります。
実はこの1か月前、西郷さんはイギリス公使・パークスから「降伏している相手を攻撃するのは国際法に反する。若し、薩長が江戸を攻撃するのならイギリスはフランスと共に旧幕府側に付く」と申し渡されており、勝さんもそれを知っていて、降服条件の交渉である割に勝さんの要求が素直に通り、かえって江戸の治安の維持を旧幕府側が担い、そのための武器を持つことも許されています。、
一方、勝さんは交渉が決裂して江戸が攻撃されることになった時、ロシアがナポレオンを敗退させた焦土作戦を行うため、新門の辰五郎などの町火消しに放火の準備をさせていましたから話が決まってホッと胸を撫で下ろしたことでしょう。
旧幕府側に勝さん、討幕軍側に西郷さんがいたから平和裏に政権移譲が実現し、明治の新政府もスタートダッシュができたのでしょう。長州が妙な逆恨みを東北の奥羽越列藩同盟で晴らそうとさえしなければもっと穏やかになりましたが。
- 2013/03/12(火) 08:28:52|
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宮城県の友人からの「天罰とは?」と言う質問への回答
「天罰」と言うのは主に旧約聖書に描かれている説話で、有名なところでもノアの箱舟の大洪水やソドムとゴモラを焼き尽くした業火など数多くありますが、いずれも「ここまでやるか」と言うくらいの有無を言わさぬ大災害です。
カミが「罰する」と決めれば「箱舟を作れ」と声をかけたノアとその家族や、「今夜、遠くへ逃れよ」と教えソドムの街から脱出させたロトとその家族などを除けば、老若男女、長者に貧者、幼児赤子まで皆殺しですから、「日本人全体の罪を東北で罰した」と言う論理も成り立ちます。ただし、カミはノアに「もう洪水で地を滅ぼすことはない」と宣言していますから、今回の大災害が天罰と言うのは当りません。
友人の外国人キリスト教聖職者たちは以前から「日本人は正しい信仰をもっていないからカミの加護はない」と言っています。ようするに何か悪事をはたらいていなくても、唯一絶対のキリスト教を信仰していないことが大罪だと言うのです。確かに、ソドムが燃え上がった時、逃れる途中で「振り返ってはならぬ」と言うカミの戒めを破って振り返ったロトの妻は、その罰として塩の柱にされてしまいました。自分が住んだ街が焼けて、人々の叫び声が聞こえてくれば気になって振り返るは人の情だと思いますが、カミに背くことを何よりもの大罪とするユダヤ、キリスト、イスラム教では通用しないのです。
日本では昔から西日本の台風、大雨、北日本の豪雪、冷害、全国各地の火山の噴火、さらに干ばつや地震などの災害が年中行事化し過ぎていて、災害を「天罰だ」と言われても、その原因にする「大罪」のネタが切れてしまいます。ですから「荒ぶる神々の仕業」と言って、ひたすら畏れ慄き、身を慎みながら成り行きに任せて通り過ぎるのを待つしかなかったのでしょう。
そもそも神道が倫理(当時の武家社会の服務規則だった儒教の請け売りですが)を唱え始めたのは江戸時代になって宗教として自己主張を始めてからです。それまでは神佛習合の役割分担として、佛教が衆生を教え導くことの担当、神道は神々を祀り、穢れを祓い清める儀式の担当と決まっていましたから、神道には天罰を与えるにも罪を認定する基準そのものがなかったのです。
大体、日本の神々(皇室の祖先も)は、娘に夜這いをかけて孕ませるは、大酒を飲んで酔っ払ってランチキ騒ぎをするは、喧嘩をして相手を殴り殺すはと酒池肉林、乱暴狼藉の限りを尽くしていますから人間を罰する資格があるとは思えません。したがって日本の神話、民話や古典、お伽噺を読みますと、カミの怒りにふれて天罰を受けるのとは逆に、善行や信心によって天災から救われた話が多くみられます。
その最たるものが元寇の時に吹き荒れた神風で、そのおかげで元寇から日本を守った手柄は九州で元軍と戦って血を流した武士たちではなく、勅願を出して神に祈った朝廷のおかげにされてしまいました。
尤も、法華宗ではあの神風を日蓮聖人の法力で起きたことにしていて、それを信じてか、元寇の舞台である博多の東公園には日蓮聖人の巨大な像があります。
ところで本来、佛罰と言うものはありませんでした。
釋尊が説かれていた原始佛教は、非常に現実的かつ合理的な然も無神論で、「因果応報」と言うのも「原因があるから結果がある、良い結果が欲しければ良い原因を作れ」と言う単純明解な教えですから、救われる方法を示すにしても「津波に遭わないためには津波に襲われない高台に住め」と言うことになります。それでも災害に巻き込まれれば「『諸行無常』『諸法無我(この世の法則は人の理解の限りではない)』『生者必滅』と教えてあるだろう」と言われて終わりです。
ただ日本では佛教を、神道よりもパワーがある国家鎮護の法として受け容れられた経緯もあり、奈良以降の佛教は天災を抑える加持祈祷を専らにしていましたから、災害が起こると法力不足とは言えず、「佛罰が下った」とする言い訳することが流行るようなったのかも知れません。
日本人が「罰が当たる」と言うのは、何か大いなるモノが必ず人の所業を見張っていると言う畏れが根底にありますが、これは佛教と言うよりも神道の世界です。
さらに地獄が考えられたのは、悪事を働いた人間が罪を償わずに死んだら因果応報が成り立たない、悪事のやり逃げになると言う論理の展開ですが、地蔵菩薩のお経には地獄の解説が事細かに延々と描かれていますから凄い想像力です。
しかし、今回の千年に一度の大地震の震源地は、かつて北朝鮮のテポドンが落下した辺りで、何かよからぬ兵器でも仕込んでいなかったかと疑ってしまいます。
ところで、天皇さんは毎朝、宮中の賢所で国土鎮護、天象平穏、国家安泰を祈念し、災厄は我身に受けると祖霊に申し上げる祈念を行われているはずですが、今上さんはわずか二十四年の御世に阪神・淡路、奥尻、中越大震災、そして今回、さらに全国の各地の火山が噴火するなどの天変地異が毎年のように生起していて、国土を鎮め切れないのなら譲位されるべきではないでしょうか。
かと言って愛妻以外にとりえのなさそうな日嗣の皇子では尚更不安ですが・・・これこそ天も畏れぬ暴言ですな。
- 2013/03/11(月) 19:30:22|
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明日3月11日で東北地方太平洋沖(東日本)大震災から2年になります。
野僧は震災発生以降、西方に向かう多数の魂魄を案内しようと命が尽きるまでと発願して昼夜を通して不眠不休の読経を続けていたのですが、49日目に意識を失って2日間熟睡してしまい(糞尿垂れ流し)死に損なってしまいました。ただ、体調はかなり悪化しましたから、やはり死ぬべき時には死ななければいけません。
また、本州の西の端にある小庵では魂魄が出発前の休憩をされるのか、四十九日までの間、常に佛前からの話し声や足音、物が動いたりする人の気配がしていて、初盆の送り火の日には団体が滞在してとても賑やかでした。おまけに霊気がいると涼しくなるので身震いするほど快適でしたが、あまりにも騒がしいので念佛を唱えたところ、静かになったものの暑さも一気にやってきてかえって眠られませんでしたが。
しかし、東北は念佛信仰が篤い土地なので、西方へ向かった方が多かったのでしょう。1人1人バラバラで逝くよりも知った者同士の団体で往生する方が楽しそうです。
浄土の池の蓮が重さで沈んでしまわないか心配しましたが、その前に阿弥陀如来、観世音菩薩、大勢至菩薩はフル稼働だったはずで本当にお疲れ様でした。
余談ながら、あの年も北海道、東北から北陸、山陰地方にかけては豪雪で、野僧は災害除けの祈願札を友人たちに送っていたのですが、それを持っていた友人は松島で地震に遭い、揺れが収まったところで仙台に戻ろうとしてところ「建物の屋上に上がれ」と呼びかけられ、間もなく下に津波が押し寄せたそうです。
- 2013/03/10(日) 09:46:45|
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1868(慶応4)年の明日3月9日に駿府伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷南洲さんと山岡鉄太郎(後の鉄舟)さんが会見し、実質的に江戸の無血開城が決まりました。
ただ、山岡さんは勝海舟に派遣された使者であって交渉の全権は与えられておらず、この4日後に江戸・品川の薩摩藩邸で行われた西郷さんと勝海舟さんの会見で最終決定したと言う評価もあります。
小説などでは出発する山岡さんに海舟さんが「西郷は人間不信なところがある男だ。真実一路の貴公なら心を開かせることができるかも知れない」と言う場面が描かれていますが、実際の会見もそのようになったようです。
薩長の本営では銃を持った先鋒隊がズラリと並ぶ中を山岡さんは「朝敵徳川慶喜が家来・山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」と大声で宣告して、圧倒されて身動きできないでいる兵たちの前をスタスタと通り抜ける情景も小説やドラマの定番です。
そして西郷さんとの会見では将軍・慶喜が恭順の意を示して上野・寛永寺に謹慎していることを伝え、西郷さんが討幕軍側からの降服の5条件「江戸城の明け渡し」「城中の人間(大奥を含む)を向島へ移す」「武器を引き渡す」「軍艦を引き渡す」「慶喜を備前(岡山)へ預ける」が示されました。
山岡さんは本来、交渉する権限を委任されていなかったのですが、そこは西郷さんと意が通じていることを感じ取り、「最後の一条だけは承服できない」と答えました。
すると西郷さんは「恭順とはいかなる命にも従うことではないのか」と声を荒げましたが、山岡さんは「若し、立場が逆で島津公が恭順・謹慎しているのに、追討軍が主君の身柄を他所へ預けよと命じたなら先生はそれに従いますか?」「武士には武士の礼節があり、それを忘れたならただの人斬りに過ぎません」と訴え、西郷さんも納得し「きっと御取り計らい致します」と応じたようです。そして手形(通行許可証)を与えて送り出しました。
その頃、勝海舟さんは江戸城内でいきり立つ幕臣をなだめ、ヒステリーを起こす大奥をしずめ、逃亡しようとする軍艦を引き留めるのに大変だったようです。
何せ長州征伐で惨敗したのは西国諸藩であり、続く鳥羽伏見で敗れたのは会津、桑名藩であって江戸にいた幕臣は未だ戦っておらず、圧倒的な薩長土肥の戦力、特に近代兵器の威力は体験していないのですから仕方ありません。一方、大奥では老女(役付き)や女中たちに暇を与えた途端、金品を持ち出す者が後を絶たなかったようです。
榎本武揚の軍艦は慶喜が水戸へ到着したのを確認してから北海道へ逃亡しましたが、もう少し早く日本海側へ入っていれば河井継之助が指揮する越後・長岡の戦いも違った結果になっていたかも知れません。
- 2013/03/08(金) 09:16:43|
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1891(明治24)年の明日3月8日、東京の神田駿河台にビザンティン様式のギリシャ正教・日本ハリストス正教会東京復活大聖堂(ニコライ聖堂)が開堂しました。
野僧は中学生以来、藤山一郎さんのファンで代表曲「東京ラプソディ」の2番には「現(うつつ)に夢見る君の 神田は思い出の街 今もこの胸にこの胸に ニコライの鐘も鳴る」と唄われているため、山手線の秋葉原で下りて鐘の音を聞きに行ったことがあります。
この聖堂はロシア皇帝と同じ名前であることからロシア正教の教会だと思われがちですが、実際には日本正教会の首座主教座大聖堂(佛教で言えば本山か?)で日本にオーソドクスの教義を伝えたニコライ修道司祭から採られたのです。したがってオーソドクスやギリシャ正教と言うのは間違いではないもののロシア正教ではありません。
山の手線の秋葉原の駅で下りて少し歩くとオーソドクスの特徴である丸いドーム型の屋根が見えてきますが、周囲のビルが建て込んできて屋根や鐘の音が遠くなったのは残念です。
野僧は寺や神社よりも不思議にキリスト教会やイスラムのモスクが好きで、よく讃美歌やコーランの詠唱、バロックやイスラム音楽をBGMに坐禅を組ませてもらいました。
カトリックやオーソドクス、イスラムには坐禅に似た瞑想があるため(神道にも鎮魂行はある)、法衣姿は別にして違和感はありません。
確かにバロックや重低音の歌唱に脳波を鎮める効果があることは医学的にも証明されていますから、坐禅を組む趣味がある方は一度お試しあれ。
- 2013/03/07(木) 17:13:48|
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ここでさらに血生臭い話になりますが、歴史裏話と言うことでお付き合い下さい。
切腹は自死による死罪と言う日本以外には見られない処罰で、武士にとっては「自らを裁く」と言う美意識に叶う名誉で、足軽以下には許されませんでした。逆に斬首は武士であることを否定する大変な恥辱で、これに処することは命じた方の私怨や罪に対する憎悪などの報復的な意味がありました。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎、橋本左内、松陰先生は斬首ですが、これも大老・井伊直弼の怒りが如何に深く激しかったかを表しています。
また、自死としての切腹は別にして、上意(主命)で武士が本当に腹を切っていたのは江戸時代でも元禄の赤穂浪士くらいまでで、それ以降は自刃する者が刀を構え、「イザ」などと声を掛けるのを受けて介錯人が首を落とし、衝立を回して服装を整えながら腹を切り、検屍役に見せたようです。
それが再び腹を切るようになったのは幕末になって武士に猛々しい気風が甦ってからで、自国民の殺害などで実行犯の切腹に立ち会った欧米の外交官たちは、淡々とした作法で行われ、白の死装束を赤い血で染める光景に「野蛮で残酷な場面のはずなのに非常に美しかった」と言う感想を述べています。
自死の切腹では腹の大動脈を切ることによる失血が死因ですが、それまで我慢できない場合、頸動脈を切って死期を早めます。
渡辺崋山先生は蛮社の獄により国元・田原での蟄居を命ぜられている中、生活苦を見かねた門弟が作品を江戸で売ったことを「藩主に迷惑がかかる」と問責され自刃しましたが、野僧はその死亡診断書(実物)を見たことがありますが、腹部の傷は深さ3寸、幅1尺3寸、頸部は深さ1寸、幅3寸とありました。
切腹の作法としては、左肋骨の下に刺し、臍の下を横に引いて切る一文字、その後にミゾオチから下へ切る十文字、また土佐の武市半平太が行った三段切りなどがありますが、切れ味のよい日本刀、それも長い大刀では柄の方が下がり支点になってしまうため真横に引けず、脇差でないと上手く切れないようです。
終戦時、阿南惟幾陸軍大臣や特攻隊の生みの親・大西滝治郎海軍中将が軍刀で腹を切っていますが、どちらも死ぬまで数時間を要しました。
ちなみに大西中将の墓も前回述べました石原裕次郎さんと同じく横浜・鶴見の總持寺にありますが、大きさは比べ物になりません。
野僧の同期、友人が3人も家庭用包丁で切腹をしていますが、刺しただけで横に引いても切れず、部屋をのたうち回った挙句に4階から飛び降りて死んでいます。
ちなみに市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面隊総監室で切腹された平岡公威(三島由紀夫)先生の首を落としたのは関の孫六の名刀でしたが1度では斬れず3度かかりました。続いた森田必勝は一度だったのは介錯人が要領を知ったのでしょう。
「葉隠」には「膝まで切り落とすつもりでないと頸部の骨が断ち斬れず、切り損なって苦しめることになる」と書いてありますが、その通りだったようです。
- 2013/03/04(月) 09:22:44|
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1860(安政7)年の明日3月3日(太陰暦)に桜田門外の変が起き、大老+彦根藩主・井伊直弼さんが殺されました。
航空自衛隊幹部学校では皇居一周競走が伝統行事になっていて野僧も参加しましたが、出走前にアップしながら見て回ると彦根藩邸跡から事件現場、さらに桜田門までがあまりに近く(400メートルトラック一周くらいか?)、「何で異変に気づいた井伊の家臣や城門を守る幕臣が駆けつけなかったのか?」が不思議でした。
井伊直弼さんは「花の生涯」と言う大河ドラマでは主人公ですが、それ以外の幕末ものでは、安政の大獄で勤皇の志士を弾圧した悪役になっています(「徳川慶喜」の杉良太郎さんは迫力があったけれど見劣りする共演者が可哀そうでした)。
あの時代を考えると、アヘン戦争で清が敗北したことをオランダからの情報で知っていた幕府が黒船を目の当たりにして開国に踏み切らざるを得なかったのは常識であり、それを全く知らない京都の朝廷がヒステリックに攘夷を叫ぶのを説得し、勅許を得ている暇がないのも現実であって、大老・井伊直弼さんの政治判断は正しかったのでしょう。さらに攘夷を叫ぶ不逞の輩を焚きつけていたのは徳川御三家の水戸斉昭であり、これを放置すれば徳川家の屋台骨が揺るぎかねないと言う危機感を抱いたのも当然です。
井伊さんを襲ったのは斉昭への処分を恨む水戸の脱藩浪士と個人参加の薩摩藩士・有村次左衛門の18名でしたが、襲撃の噂は井伊さんの耳にも伝えられていたにも関わらず全く危機感はなく、季節外れ(太陽暦なら3月下旬)の大雪で大小刀には柄袋を被せて咄嗟には抜けなくしており、門前に番を立てることもありませんでした。
現場は杵築(きづき)藩邸前ですが、藩士たちは目の前で大老の籠が襲われているのをただ見ていただけで、そのため詳細な記録は残しています。
それによると行列の家臣たちの多くは腰を抜かして手向かいも出来ず、籠を担いでいた中間(ちゅうげん)たちはいち早く逃走して置き去りにし、浪士が放った短筒のよって腰を撃たれた井伊さんは籠に座ったまま串刺しにされ、首を討たれたようです。
異変を知って彦根藩邸から藩士たちが駆けつけたのは首を奪った浪士たちが現場から立ち去ってからだそうですから、こうなると最早、武士の用を為していません。
その首を持っていた有村次左衛門は彦根に近い小藩・三上藩邸の門前で割腹したため、三上藩に持ち込まれましたが、藩主が首を討たれては藩が取り潰されると言う判断から井伊家は同年代で似た風貌だった家臣・加田九郎太の物と主張し、幕府としても大老が襲われたとなると権威が失墜するためその方向で処置し、井伊家から病欠届けが出ていたので、翌日に死んだことにしました。
ここで長州が絡んでくるのですが、長府毛利藩邸に逃げ込んだ水戸の浪士たちは異例の厚遇を受けました。それは吉良邸討ち入りの後、各藩預かりになった赤穂浪士を長府毛利家だけは罪人として冷遇し、後年、赤穂浪士が「忠臣」「武士の鑑」と称えられるようになると「武士道を弁えぬ薄情な藩」と陰口を叩かれるようになったのです。と無理に地元ネタをくっつけて終わります。
井伊直弼さんが死の前日に詠んだ歌
咲きかけし たけき心の 花ふさは 散りてぞいとど 香の匂ひぬる
- 2013/03/02(土) 08:23:44|
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今まで佛教、神道、キリスト教の話が続きましたので、第5回月刊「宗教」講座はイスラム教から始めます。
第3回でも少し触れましたがイスラム教とキリスト教の宗教的な構造の違いには日本の浄土宗と浄土真宗に通じるところがあります。
キリスト教には父なる主とカミの子なるカミ=イエス・キリスト、そして聖霊の3者を崇敬する「三位一体」と言う教義がありますが、イスラム教ではアッラーのみが唯一絶対のカミであり、ムハンマド(マホメット)でさえ人間である預言者の域を出でずシン格化はされていません。
一方、浄土宗では阿弥陀如来を主としているものの三尊とされる観世音菩薩と勢至菩薩、さらに地蔵菩薩なども併せて崇敬していますが、浄土真宗では阿弥陀如来のみを唯一絶対の救済者として釋迦牟尼佛への帰依でさえ否定する宗教家もあります。
また、キリスト教ではカミが正義の絶対的規範であって、その意思を実現することが人間の負った義務としていますが、イスラム教ではアッラーは悪を含む万物を創造し、森羅万象、天地一切を支配する存在としています。
ですからキリスト教では、カミの正義を人間がどのように実現するか自己判断する対立した関係が成立しますが、イスラム教に於いては例え悪事であってもアッラーの意思として甘受するのです。「慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において・・・」
これも浄土宗では「救っていただけ易いように」と身を正し、念佛に励むのに対して、浄土真宗では「良いも悪いも弥陀の本願のままに」「精進、持戒などは自力の要らぬ分別」と「自然法爾」の救いを説いていることに通じるかも知れません。
結局、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同一のカミを信じていながら、モーセを守るか、イエスを信じるか、ムハンマドに従うかでこれほど解釈が変ってしまったのですが、コーランにはこんな一節があります。
「あれ(=聖母マリア)とあれの息子(=イエス・キリスト)とを全人類の神潮と為した。『まこと汝らのこの宗団こそは統一ある一つの宗団であり、我れが汝らの主、さあ、みな我れを崇めよ』と。だが彼らは互いに仲間割れしてバラバラになってしまった。しかし、いずれは誰も彼もみな我が許へ戻ってくる身、信者になって義(ただ)しい行いに精出す者は、努力しただけの分は決して付落しされる心配はない。我は一々記録しておる。(21章「預言者」91節~94節)」
ところで三月と言えば春彼岸ですが、彼岸の中日である春分・秋分の日は日中と日没の時間が同じなので日中を生、日没を死ととらえて、これが重なることで生死の距離が近づく候としているようです。
ただ、彼岸会は日本独特の行事のようで、中国の先祖供養は四月上旬の清明祭に行われています。これは佛教とは関係なく二十四節気の春分と穀雨の間にある節の一つです(ただし太陰暦)。
清明祭は沖縄でもシーミー祭と呼んで先祖供養を行い、モンチュウ(親族)一同で墓参りをし、モンチュウの繁栄と団結を示すため墓前で大宴会を繰り広げます。
この日に宴会をしている墓の前を通りがかると「繁栄を見せるため」「功徳を積むため」と言って酒を振る舞われ、上手くすれば御馳走にもありつけます。
沖縄の亀甲墓は中国の長江辺りの墓が原型ですが、亀の甲のような丸い部分は妊婦の腹部、塀が両脚を表して「母体から生まれ母体へ還ること」を意味するそうです。
本土の佛教も葬式佛教と言われ祖先供養の法要を専らにしているものの、祖先の霊の向うには佛祖と言う絶対的な存在があり、読経は佛祖が説いた教えを尊び学ぶことでありますから、その点が沖縄の祖先供養とは異なります。
沖縄の信仰ではあくまでも祖先への崇敬の念だけであり、沖縄民謡「てんさぐの花」に唄われているように長老、家長(=親)の垂れる言葉を素直に守り、実践することが子孫の義務、美徳とされているようです。
しかし、迷い多き人間に過ぎない長老の言葉には誤りや偏りもあり、それに盲従することはある種の危険があることも否めず、釋尊の悟りを二千五百年余の歳月をかけて磨き上げられてきた佛教への信仰とは自ずから異なります。
また、沖縄の人(シマンチュウ)は昔からモンチュウの相互扶助に馴れてしまっているため、依頼心が強く、金がある者が困っている者を助けることを当り前にして、遠慮や相手の事情を考えずにたかるようなことが日常的に行われているようです。
野僧のシマンチュウの友人は、同じくシマンチュウの奥さんとの間に五人の子供を抱えていましたが、友人が自衛隊に入隊してからは親が息子の収入を当てにして事業を起こしては失敗することを繰り返し、本土へ帰って以来、ボーナス時には官舎まで金をせびりに来ていました。
堪りかねた友人は本土の部隊への転属を熱望したのですが、直属上司が「子沢山なのだから地元にいた方がいいだろう」との温情から転属を握りつぶし、そのことを聞いて自死してしまいました。自死する直前に会った時、「やっと転属できそうだ」と嬉しそうに言っていた顔が忘れられません。
かつて安室奈美恵と言う人気歌手の母親が、金をせびりに来たモンチュウの男に殺された事件もありましたが、これなどはモンチュウの間違った面の具体例でしょう。
結局、沖縄の人々の閉鎖的でその場凌ぎに終始し、受け身で努力をしない安易で消極的な気性は、信仰と言う高い理想とそれを実現するために精進努力することを学ぶ機会がないまま現状を肯定し、万事を素直に受け容れるようになってしまった歴史的経緯、精神風土があるのでしょう。
同じように長老を中心として一族が固く集う山形県の三世代家族では、長老はより高い視点と広い視野を得るべく、一族で最も多く学び働くことを責任としております。
野僧の一族の長老も、長男として生まれたことで幼い頃から家業に熟練するよう手伝うと共に寺小屋などで学ぶことを義務付けられていたそうです。
沖縄民謡「てんさぐの花」
てぃんさぐぬ花や 爪先に染みてぃ てんさぐの花は 爪先を染めて遊ぶ
親ぬゆし言や 肝に染みり 親の言う言葉は 肝に染めなさい
宝玉やてぃん 磨かにば錆す 宝玉は 磨かなければ錆びてしまう
朝夕肝磨き 浮世わたら 朝夕に肝を磨き 浮世をわたろう
夜走らす船や 子ぬ方星見当てぃ 夜に船を走らせると 子の方を星が見ている
我ん生ちぇる親や 我んどぅ見当てぃ 私を生んでくれた親は 私を見ている
誠する故どぅ あとぅやいちまいでぃん 誠を尽くすならば 最後までやりなさい
思事んかなてぃ 千代ぬ栄い 思う事がかなって 千代の栄になるのだから
なしば何事ん ないる事やしが なせば何事も ならぬ事があるものか
なさぬ故からどぅ ならぬさらみ なさぬ故に ならぬのだ
これは宗教の話題ではありませんが、野僧は茶坊主ですので、お茶の行事から・・・2月28日は千宗易(利休居士)の命日、茶道で言う利休忌です。
利休と言う名は秀吉の命で宮中茶会を行った時、町人である宗易では宮中・内裏に立ち入ることが許されないので出家者と言うことにするため受けた名です。
宗易は秀吉の怒りをかい自刃を命ぜられたのですが、その理由としては石田三成などの側近との権力争い、博多と堺商人の勢力交代などを背景として、「不当な茶器の価値判定により暴利を貪った」「秀吉の好みを否定して侮辱した」、何よりも「天皇や秀吉もくぐる大徳寺山門に自分の像を置き足下にした」ことなどを罪とされました。
ただし、この像は宗易が大徳寺の伽藍復興に多額の寄進をしたことに感謝して、寺が製作して祀った物ですから冤罪としてもかなり無理があります。
当然、この像も撤去されましたが宗易の首を踏みつける形で晒されたそうです。
宗易の最期は、形見の茶杓を削り、「ひっさぐる 我が得具足の 一つ太刀 今此の時ぞ 天に抛つ」の辞世を読み、茶室で検死役に一席もてなした後、そのままそこで腹を切ったのですが、戦国武士が見てもたじろぐほどの死に様だったようです。
ただ、茶室は天井が低いために刀を振り上げることができす、首は打てなかったとも言われています。当に辞世の通りに武士の最期を演じ切ったのでしょう。
この形見の茶杓は古田織部が譲り受け、自ら筒を作り「泪」の銘をつけましたが、現在は尾張・徳川家の宝物を展示している名古屋の徳川美術館に所蔵されています。宗教の話がオドロオドロシイ話になってしまいました。アシカラズ。
実は3月は意外に宗教行事や宗教者の命日がなく話題に困ってしまうのです。
以前やっていた法話の会でも「道元は梅が好きだった。何故なら梅は咲いた花が必ず実を結ぶからだ」などと言うネタくらいしか見当たりませんでした。
南無文殊師利菩薩
豊臣秀吉作(どの面さげて詠んだのやら?)
そこひなき 心のおくを 汲みてこそ お茶の湯なりとは 知られたりけれ

利休遺作「泪」の茶杓
- 2013/03/01(金) 09:43:27|
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