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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

TBS「空飛ぶ広報室」について2

今回は航空自衛官の恋愛事情でしたが、野僧の見解はドラマと異なります。
若い女性は航空自衛官に対して好意でなくても興味は持ちますから、自分に向いている顔を如何にして引き寄せ、抱くかが腕の見せ所なのです。飛行機に関わる仕事をしている爽やかなスポーツマンを演じて住所、電話番号を聞き出し、次のデートの約束を取り付ければテイクオフ、あとはスロットル全開、スティック(操縦桿)を引いて音速突破です。
野僧が第5術科学校・兵器管制幹部英語課程(ドラマの片山1尉と同じ)に入校中、アメリカ人の女子大生が講師になったのですが、最初の授業の時、同期と2人でLL教室のマイクを使い「TOP GUN」でトム・クルーズが相棒のグースと唄ったThe Rihteous Brothersの「You‘ve lost that lovin feeling」を熱唱し、ハートをゲットしました。これでもてない訳がないでしょう。
ちなみに幹部自衛官には術科学校時代に彼女を見つけ、遠距離恋愛の末、結婚した人が多く、官舎には浜松、名古屋、熊谷、北九州出身の奥さんが揃っていました。
ただ、ドラマの中で言っていた結婚への障害は確かにあり、安定志向の女性には転勤の連続は不安を与えるでしょう。それに対しては婚前旅行に連れ回し、観光の楽しさを教え、「俺と結婚すれば全国各地を官費で観光して回れるぞ」と口説けば好いのです。実際、赴任先の周辺観光地を正月、夏期、ゴールデンウィークで旅行し、回り尽くしたところで3年が経って転勤、新たな観光ポイントへ移動です。
子供も転校の連続になりますが、官舎の子供たちは同様の境遇ですから、基本的に友達付き合いは上手なので、それほど心配はありません。
結婚式で鷺坂1佐が「自衛官は炊事洗濯裁縫アイロンがけは仕込まれている」とスピーチしていましたが、航空自衛官は基本的にアメリカナイズされているためマイホームパパが多く、家事も楽しそうにこなす人が多いようでした。
しかし、愛妻家で人並み外れた体力を持つパイロットには子沢山が多いのですが、事故で殉職し、部隊葬の遺族席に幼い子供が並んで座っている姿は哀し過ぎました。
中身はオッサンの柚木典子3佐はWAFの幹部によくあるキャラですが、そのオッサンの幹部自衛官も服を脱がせば女になり、火が点けばとんでもないことになりました。
野僧はTBSの報道部の女性記者さんにも知り合いがいるのですが、稲葉リカさんほどの美人ではないものの似たタイプです(K島さん、借りた雑誌は返しましょう)。
あれは航空自衛官と同様に職業的な気質なのでしょうか?
気質と言えば兵器管制幹部の片山1尉と元パイロットの空井2尉の関係は、よく猿回しと猿に例えられます。航空自衛隊は米軍と異なり、空中戦もロックオンまでは兵器指令官(ORになった兵器管制幹部)の直接管制で行いますから「右行け」「左行け」「上がれ」「下がれ」状態なのです。
番組の中でパイロットのタックネーム(コールサイン)のことが出てきましたが、あれはOR(技量検定合格者)になったパイロットと兵器指令官に与えられ、各航空方面隊・混成団で登録されます。基本的に4音以内の単語ですが映画「TOP GUN」のトム・クルーズの「マーベリック」もOKです。さらに絶対に英語と言う訳でなく、初の女性兵器指令官になった同期は、元スケ番のこだわりで「バン」でした。
最後に番組に関する苦情ですが、通常エプロン(駐機場)にはFOD(フォーリング・オブジェクト・ダメージ=異物吸引損傷)を防止するため、金属製の落下物がついた制服では立ち入ることが出来ません。
もう一つ、番組の中の編隊飛行を見る限り、航空自衛隊のパイロットの腕はかなり落ちています。かつてのF-104Jの時代なら、あのように機体がぶれ、位置がずれることはありませんでした。ガッカリです。
礼装
ドラマの中で新郎が着ていた航空自衛隊の礼装です。旧軍の大礼服に当たります。
これは私物です(モデルが悪くてスミマセン)。
  1. 2013/04/29(月) 11:34:10|
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4月30日・衣川の戦い

1189(文治5)年の明日閏4月30日(太陰暦)に衣川の戦いが起きました。
ドラマでの衣川の戦いは鎌倉との確執に続く場面なので、頼朝の軍によって攻められたと思われがちですが、実際は藤原秀衡亡き後、跡を継いだ泰衡が、鎌倉の圧力に屈して「義経を総大将として鎌倉に対抗せよ」との父の遺言に背いて討ったのです。
またドラマでは弁慶が守りながら立ち往生し、その背後で炎に包まれるお堂の中で死ぬのが定番ですが、実際は正妻の郷御前と4歳になった娘を殺してからでした。
義経の首は酒に漬けられて43日間かけて鎌倉に送られ、和田義盛と梶原景時の首実験を受けましたが、衣川の戦いは太陽暦なら6月13日なので、鎌倉へ到着したのは7月下旬と言うことになり、アルコール度数が高い焼酎でもない限り腐敗はかなり進んでいたはずで、本人であるかは判らなかったのではないでしょうか。
だから義経伝説が生まれるのですが、青森の津軽半島から北海道には義経が立ち寄ったと言う伝説が数多く遺っています。さらに水戸光圀の「大日本史」ではアイヌの神・オキクルミを義経としていますが、流石に義経がチンギス・ハーンになったと言う伝説は記述していません。
ドラマでの牛若丸は美少年、義経は美男子と言うのが定番ですが、奥州へ逃れる時に出回っていた手配書には「色白く向い歯(出っ歯)」とあり、そのような顔の者は全て捕まったとされています。また平家物語には「色白う背小さきが向歯の殊更に出て」とあり、源義仲や平家で選んだ屑よりも落ちる。さらに源平盛衰記となると「面長うして背低く、色白うして歯出たり」と身も蓋もない記述も見られます。しかし、実際はどうなのでしょう。
父の義朝は平治合戦絵巻くらいしか肖像は見当たりませんが、母の常盤は京の都で一番の美女だったそうですから、それほど醜男だったとは思えません。
ただし、かつて兄の頼朝像とされていた神護寺のハンサムな肖像は、足利尊氏の弟・直義とする説が強まり、伝源頼朝像と言われるようになっています。それ以上に足利尊氏とされていた騎馬武者像の方が明確に否定されていますが。
  1. 2013/04/29(月) 00:46:03|
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4月29日・昭和の日

明日は昭和の日ですが、我々のような昭和生まれには「天皇誕生日」の記憶が鮮明でしょう。この日が天長節・天皇誕生日だったのは62回あり(昭和元年と62年は1週間だけだったため)、かつて明治生まれに馴染みがあるからと11月3日を明治節にしたのと同じ理屈です。こちらは何故か文化の日になっていますが。
野僧は日本人の前に佛教者であり、神話の時代から朝廷により侵略、搾取を受け続けてきたきた東北人の血脈ですから、現在の皇室には神道のトップと言う認識しか持っていません。
ただし、昭和の陛下は高校時代、愛知県で行われた全国植樹祭に市の代表として臨席し、尊顔を拜する機会を得て、御稜威(みいつ)を感じて以来、崇敬しています。一方、今上さんもと列で眼の前を通って行きましたが何も感じませんでした。
さらに大震災の後、今上さん夫婦の慰問を受けて感激したと言う声がありますが、野僧には天皇は宮中の賢所で毎朝、この国に降りかかる災厄は我が身に受けると祈っているのですから、大災害を我が身の不徳の致すところと詫びているようにしか見えません。
最近、北朝鮮の金王朝のトップが28歳の若さで大将になったと呆れさせていますが、昭和の陛下は25歳で即位され、大元帥になられました。それから20年で敗戦し国は滅び、国体は大きく変わりましたが、崩御までの間、昭和の陛下をいただけたことが日本人を日本人たらしめたことは間違いないでしょう
マッカーサー駐日大使は「どんなことがあっても(昭和の)陛下のお姿を拜することができる間は、日本人は日本人の心を見失わないであろう。危機が訪れるとすれば陛下がおられなくなって十年後かも知れない」と言っていましたが、まさにその通りでした。
え
あ
  1. 2013/04/28(日) 10:01:49|
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TBS「空飛ぶ広報室」について

現在、TBS系列で「空飛ぶ広報室」と言う航空自衛隊を描いたドラマが放映されていますが、あのドラマは原作を読んだ元小隊員たちから「是非、感想を聞かせて下さい」とのメールが殺到して、野僧も見始めました。すると非常にリアルな職場の情景、人物の描写の連続で懐かしさに涙が込み上げて止められません(普通は笑うのでしょうけど)。特に柴田恭平さんが演じている鷺坂1佐は、キャラクターだけでなく顔まで浜松時代の上司にそっくりです。
一般の視聴者の皆さんはドラマだから面白く演出していると思われるかも知れませんが、実際の航空自衛隊はあれ以上にギャグの宝庫です。
一例として野僧の幹部学校の卒業の寄せ書きを添付しますが、この期の学生長は8家百合1尉(当時)と言うテレビに出演したこともある美女で、野僧と同じ班であったためこのようなことになりました。このギャグのセンスは如何でしょう?。具体例は「航空自衛隊怪僧記」の春日編や浜松編(番外編・浜松のエライさんたち)に詳しく紹介してありますのでどうぞ。
国民各位は陸上で自衛隊をイメージしますが、実際の陸海空は別組織・異業種と言っていいほど違います。ドラマの中でかつて防衛庁記者クラブの記者が作った陸海空自衛隊の気質を表す四字熟語、陸は「用意周到」「動脈硬化」、海が「伝統墨守」「唯我独尊」、空は「勇猛果敢」「支離滅裂」が紹介されていましたが(内局は「優柔不断」「本末転倒」です)、これには色々なバリエーションがあって、例えば宴会でエライさんが下手なカラオケを歌っている時、陸は全員正座で拝聴し、終わったら盛大な拍手をする。海は小声で私語をするが、最後は儀礼的に拍手する。そして空は始めから無視して勝手に騒ぎ、歌い終わったら若い者が「終わったすか?」とマイクを奪うです。
航空自衛隊には階級のほかに実力と言う厳格な上下関係があり、パイロットや兵器管制官は階級や出身学歴(ソースと言います)に関係なく空中戦で強い者が上。整備員も腕で勝負です。
また、パイロットの航空幕僚長閣下も上空では3曹(下士官)の航空管制官の命令に従わなければならず、飛行機を壊せば整備員の世話にならなければならないのです。ですから階級章だけで絶対服従とはならず、歌も上手くなければ聞いてもらえません。
一方、野僧は自衛隊体育学校で教官の明らかに間違った説明を質問で指摘したところ、陸の学生から「この課程では教官が言われたことが絶対に正しいんだ」と叱責され、それに「教官としての責任はどうなるのか?」と反論すると「空中分解自衛隊」と非難されました。
航空自衛隊にとっては陸よりも米空軍の方が理解し合える同業者であり、多分、海上自衛隊も同様でしょう。ただ、最近の海上自衛隊は「脱帝国海軍」「米海軍と同一化」を志向し、教場に掲げられていた東郷元帥、広瀬中佐、佐久間艇長の写真を外し、操艦用語を英語化していて「伝統墨守」ではなくなっています。
尤も、戦前から帝国海軍もマハンの教えを受けた艦隊決戦主義者ですから、兄弟弟子ではあります(あちらは内弟子、こちらは通信教育ですが)。
それからドラマで企画書の「国防の意義」を否定する場面がありましたが、航空自衛隊は実際に365日24時間、領空や周辺空域を警戒監視し、緊急発進を行っていると言う自信がありますから殊更に国防なんて言葉を振りかざす必要を認めていないのです。
安倍内閣が主張する「自衛隊を軍に」と言う古臭い希望も、おそらく陸上OBの声であって、世界に目を向けている海上と航空は「Navy」と「AirForce」の方が好みでしょう。
百合ちゃんを探せ
2佐の教官もつきってくれました。
木村卓馬恭平さんに似てませんか?(勝手に写真を使ってスミマセン)

  1. 2013/04/27(土) 09:44:07|
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4月26日・大山倍達館長の命日

1994(平成6)年の明日4月26日に極真会館館長・大山倍達(韓国名・崔永宜)十段が死去しました。大山館長と言えば「空手バカ一代」ですが、あの漫画で描かれている物語がどこまで真実なのかを論じ始めれば極真会館の門下生、信奉者と他流派の者で真っ向から対立するでしょう。
野僧にも極真会館2段の知人がいますが、ジャージを持っておらずマラソンや球技でも常に極真会館の空手着に黒帯を締めて参加し、ソフトボールの試合中、木製バットをコンクリートブロックの穴に立てて蹴り折ってしまい、訓練用具を管理する担当者を困らせたものの、ついでにそのブロックも素手で割ったため担当者はビビッて文句を言えませんでした。
さらに金属バットで素振りしていた隊員に「腹を殴ってみろ」と言い、数発殴った後、角度が変わって胃に先が当たってしまい、血を吐いて入院するドジも踏みましたが。
極真会館の筋力トレーニングや柔軟体操などの身体の鍛錬は凄まじく、野僧も少林寺拳法を首になった後(「航空自衛隊怪僧記・空曹時代」参照)、つき合いましたが鍛錬と言うよりも肉体の改造でした。
ただ、極真会館の強さは野僧も体験的に知ってはいるものの、漫画の方は些か誇張が過ぎるではないかと思う点もあります。特に空中で繰り出す技は人間の跳躍力と滞空時間から考えて無理があり、あそこまでジャンプできるのならば、余技としてオリンピックや世界陸上の高跳び、三段跳び、幅跳びに出場すれば別の活躍をされたはずです。
やはり「空手バカ一代」の原作者は梶原一騎氏ですから、人並み外れた技も「巨人の星」と同様に超人技にしてしまったのでしょうか。
尤も梶原一騎氏は大山館長と絶交してからも「カラテ地獄変」に大東徹源、「人間凶器」で大元烈山と言う名前の明らかにモデルにした人物を登場させ、超人技は仮面ライダー並みにしています。こうなるとイヤハヤ何ともです。
ところで日本はオリンピック種目に空手を加えることを目指しているそうですが、それは極真会館の顔面への手での攻撃はないルールや大道塾の面をはめて殴打自由、柔道の投げ技までありのルールか、それとも国体で行われている寸止めルールなのか。寸止めルールではシャドウボクシング、バットの素振りの試合のようなもので判定は審判の主観に負うところが大きく、見る方にはテコンドー以上の魅力はないでしょう。
最後に付け加えれば、この4月26日は名古屋空港で台湾航空機が墜落し、264人が死亡する事故が発生したため、大山館長逝去のニュースは隅に追いやられ、翌日の新聞もこれに紙面を割かれて知名度、崇拝者数の割に知られずに終わってしまいました。
「押忍(オス)」(5月12日に続きます)。
大山倍達横顔が似ている。
  1. 2013/04/25(木) 09:27:31|
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4月24日・「ベトナムに平和を!市民連合」が設立された。 

1965年の明日4月24日に小田実を発起人として「ベトナムに平和を!市民連合」、いわゆるベ平連が設立されました。
野僧の友人、知人には小田実と吉田正と言う人が多くて、高校の同級生から自衛隊の先輩まで小田実さんが片手はいます(ただし、「みのる」「まこと」と読み方は異なります)。一方、吉田正さんは航空幕僚長閣下から電気屋さんまで色々ですが、山口県の周防大島出身の作詞家にもおられます。
そんな自衛隊の小田実さんたちが嫌がっていた言葉が「ベ平連の小田実と同姓同名か?」です。こちらの小田実は「ベトナムに平和を!」と実際にやっていた活動は反米親ソ(ベトナムの場合、親中)であり、反戦女優と言われていたジェイン・フォンダが北ベトナム軍の陣地を訪問して、高射機関砲を操作してハシャイデいるニュース映像を見ましたが、その機関砲で撃墜されるアメリカの同胞のパイロットのことは考えず、むしろ悪の手先として殺されるべきだと言わんばかりの態度でした。
小田実のベ平連も同様で、ソ連軍の軍事行動には一切反対せず、在日アメリカ軍を常に監視し、何か動きがあれば自分たちの独断と偏見で解釈し、反対をアピールしました。
このため自衛隊では反戦平和運動を全て小田実たちと同じ、反米親ソと決めつけて敵視する傾向がありますが、平和を求めること自体は市民の願いとして当然のことであり、何よりも自衛隊の使命そのものが「我が国の平和と独立を守る」ことなんですから、本来は現実的な反戦平和運動公共団体であるべきなのでしょう。
ただ、野僧は現役時代、この使命に論理的矛盾を感じていました。敵が攻めてきた時、抵抗するから平和が破られるのだから降服すればいい。実質的に属国、植民地になっても法手続き上の独立が保たれていれば防衛力は必要ないと言う非武装中立論のつけ入る余地が、そこにあるのです。
スイスの国防方針では防衛するものの第1として「国民によって選挙された政治体制」を上げていますが、それは戦争の目的を「他国への国家意思の強制行為」とする欧米の軍事常識に基づいているのでしょう。
ちなみにスターリンが策定した世界共産革命・第3インターナショナルナでは教育者、マスコミ、医療・福祉関係者などの社会的影響力が強い者を平和運動を通じて取り込むことを重要な戦略としていますから、小田実の活動がその一翼を担っていたと考えても無理はないでしょう。
  1. 2013/04/23(火) 08:23:36|
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4月23日 シェークスピアの命日(と誕生日?)

1616年の明日4月23日は4月23日イギリスの劇作家・ウィリアム・シェークスピアの命日ですが、一説によれば1564年の4月23日に生まれとも言われています。ただし、26日に洗礼を受けたことしか公式な記録はなく、あくまでも風説の類です。
日本で誕生日と命日が同じと言えば坂本竜馬が有名ですが、こちらは太陰暦の11月15日です。
シェークスピアの4大悲劇は「ハムレット」「マクベス」「オセロ」「リア王」ですが、この問題が試験に出ると「ロミオとジュリエット」を入れて間違えた人も多いでしょう。
野僧の世代に「ロミオとジュリエット」のジュリエットと言えばオリビア・ハッセイさんで、同級生にもかなりファンがいましたが、野僧は1954年公開のスーザン・シェントールの方が品があり、正統派美人なので好きです。ただし、舞台がイタリアなのを考えれば南米出身のラテン系で黒髪のオリビアさんの方が本来のイメージに近いのかも知れません。
オリビアさんは公開当時、17歳ですが初夜を過ごした翌朝、一瞬見せたヌードの巨乳写真を悪友たちで回し見して同級生の女子との違いを熱く語り合いましたが、数年後、外国人でも貧乳がいることを現物で知ることになるとは思いませんでした。ちなみに原作のジュリエットは13歳か14歳の少女ですが。
シェークスピアと言えば劇中の台詞が英語の表現法の教材にされますが、英語の原文と日本語訳を読み比べると、訳者の表現が過ぎる場合もあります。
有名なハムレットの「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」も原文では「To be or tobe, that is the question」であり、直訳すれば「やるかやらないか、それに疑問がある」になります(野僧の訳なのを御了承下さい)。
ただ、この後に続く台詞は死に対する考察なので、これで良いのでしょう。「To die to sleep No more, and by a sleep to say we end・・・」訳は御自分でどうぞ。
そう言えば中学校の英語の教科書に「ベニスの商人」が載っていて、それがシェークスピアとの出会いでした。
SusanShentall.jpgスーザン・シェントールさんOliviaHusseyオリビア・ハッセーさん
OliviaHussey
野僧のブログではここまでで限界です。



  1. 2013/04/22(月) 09:22:26|
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4月22日 第1次世界大戦でドイツ軍が毒ガスを使用した

第1次世界大戦中の1915年の明日4月22日、ベルギーのイーゼルでドイツ軍が初めて塩素系毒ガスを使用しました。
野僧は現役時代、戦時国際法(武力紛争関係法)の研究をしており、指導を受けていた教授からガイドブックの執筆を勧められ、出版社も紹介されたのですが、防府南基地・第1教育群の保全担当者に審査を依頼したところ内容が理解できずに放置され、その後、野僧自身が群本部の担当者になったため航空教育隊本部の担当者に再度、審査を依頼したものの同様の状態のまま転属になってしまいました(原稿は戻ってこなかった)。そして赴任した第6高射群第22高射隊で同様の依頼をしたところ、担当者が野僧のワープロのフロッピーを自分のワープロで使えるようにパソコンを扱える者にコピーを頼んだことでフロッピー内のデータが全て破壊されてしまいました。その後、海外で日本人が戦闘に巻き込まれて死亡する事件が頻発しましたから出版すれば売れたかも知れません。
戦時国際法と言うと1864年発効のジュネーブ条約が代名詞になっていますが、これは主に捕虜の待遇、文民の保護、傷病者・戦死者の処置などの人道に関する条約で、戦闘の禁止規定などは1899年の第1回万国平和会議で採決された「陸戦ノ法規慣習ニ関スル条約」=ハーグ条約です。この条約は1907年の第2回会議で捕虜、傷病者の扱い、宣戦布告、戦闘員と非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱いなどが加えられ、日本も1911年11月6日に批准しています。
1914年から1918年の第1次世界大戦は多くの意味で戦争の様相を変革させました。
戦車、戦闘機などの新兵器の登場もそうですが、毒ガスの使用もそれまでの砲、銃、剣での殺傷以外は火攻めくらいだった戦闘をより悲惨なモノにしました。
毒ガスの使用はたちまち双方の応酬になりましたが、初期の防毒マスクは口と鼻を覆うだけで、目を保護することが出来ず、失明する兵士が多数出ました。このため戦後、毒ガスの使用禁止の規定が加えられ、その後も戦時国際法の抜け穴を突いた兵器、戦術が登場するたびに禁止規定を加えるイタチごっこを繰り返し、現在では個別の禁止条約を制定するようになっています。
毒ガスは日本軍が大東亜戦争の大陸戦線で使用し、現在も残留容器の処理が問題になっており、米軍も沖縄のひめゆり部隊の病院壕などで使用しています。
では何故、第1次世界大戦後に禁止された毒ガスが現在も製造・保管され続けているのかと言うと、それは戦時国際法の復仇(ふっきゅう)と言う処罰原則によります。
戦時国際法では敵に違反する行為があった場合、それを受けた側には同程度の違法行為をやり返す権利が生じるのです。つまり相手が毒ガスを使用した時、使用し返して罰するために製造・保管されているのです。
ところで日本が世界屈指の化学兵器を製造する能力を有する国だと言うことを御存知でょうか?それは殺虫剤や農薬のことで、現在、製造している虫や雑草にしか効かないように薄めている薬剤を、人を殺傷し得る濃度に調整すればいつでも転用できるのです。
地下鉄サリン事件の時、自衛官は「毒ガス?」と察知して屋外へ逃げたそうですが、民間人は苦しんでいる人を助けようとして多くが巻き込まれました。人道上の可否とは別に危機に対する知識としての問題が残ります。
また、戦時国際法には国家に対して軍人に限らず広く国民に普及する義務があるのですが、自衛隊でも審査に手間取って放置するレベルですから、「捕虜を捕まえたから軍法会議をやれ」と言われても判事、検事、弁護人が見つからないかも知れません。
  1. 2013/04/21(日) 09:40:54|
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4月21日・大石順教尼の命日

1968年(昭和43)の明日4月21日は身体障害者の母と言われた大石順教尼・よねさんの命日です。
大石順教尼は11歳で京舞・山村流の名取りになるほどの天才で、明治36年・16歳の時には大阪で行われた内国勧業博覧会で三番叟を披露していました。ところがその才能に惚れ込んで養女にしていた遊郭・山梅楼の主・中川万次郎の錯乱により明治38年6月20日の深夜・同居人5人と共に斬られ両腕を失いました(5人は斬殺)。
その後は見世物小屋に売られ、手の無い芸妓として全国を巡業していた仙台で、籠の鳥がくちばしで雛を育てている姿を見て、口で字を書くことを思い立ち、練習して筆を咥えることが出来るようになったのですが、その時、字を知らないことに気が付きました。
そこで滞在地の小学校で読み書きを習い、やがて旅芸人生活をやめ、料亭を開きました。
始めは物珍しさで繁盛していた店も、やがて飽きられて経営に行き詰まり、そこで世を捨てるつもりで出家を願うのですが、持明院住職の藤村叡雲師は「尼になって逃れようとは何事か。妻となり母となり人としての悦びを知ってからだ」と突き放します。ところがこの言葉が現実になり、やがて売れない日本画家の山口草平と駆け落ちの末、結婚しました。
間もなく男女の子を授かりましたが、同時に日展に入選して作品が売れるようになった夫は愛人を作り、家に住ませるようになります。そして離婚、東京へ出て夫の仕事を手伝うことで覚えた絵を口で描くようになりました。それで生活が成り立つようになった頃、今度は関東大震災に遭遇します。そこで自分の無力さを覚り、出家を決意して昭和8年10月に真言宗で得度を受けます。
それからは戦地での傷病兵慰問や戦災孤児の育成に努め、戦後は復興の中で置き去りにされがちの障害者を守り、励ます活動に尽力しました。
似たような障害者と言えば手足のない中村久子さん、最近では乙武洋匡さんがいますが、順教尼は身体的障害だけでなく関東大震災や戦争、そして貧窮と家庭不和などの幾多の苦難に遭遇しながらも、立ち向かうのでも耐えるのでもなく、全てを受け容れ、昇華し切っていったのです。
順教尼は障害者たちにいつもこう言っていたそうです。「体の障害は仕方ない。しかし、心の障害者になってはいけない」と。
野僧も現在、重度身体障害者ですが、かつて順教尼の著書「無手の法悦(春秋社)」を熟読していたことが本当に救いになっています。
大石順教尼
口で書をものする大内順教尼(背景の書も同様)。
  1. 2013/04/20(土) 09:48:51|
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4月17日 徳川家康の命日

元和2(1616)年の明日4月17日(太陰暦)は東照大権現・徳川家康公の命日です。
野僧は愛知県岡崎市の出身なので家康公は郷土の英雄であり、子供の頃は家康公が織田、今川の人質だったことを思って辛抱することを習い、小学校6年の時には東照大権現・徳川家康公遺訓「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝つることばかりを知りて、負くることを知らざれば害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり」と旗印「厭離穢土 欣求浄土」を暗唱ではなく、文字で書けました。
この教育が最も徹底しているのが岡崎市内の大樹寺小学校で、徳川家康公を目標に掲げているそうです。
野僧が卒業した岡崎市内の矢作南小学校では先輩である第1回文化勲章受章者の本多光太郎博士や数学者の飛田武幸博士を目標にせよと示され、弛まぬ努力を教えられましたが、征夷大将軍・東照権現・神君である徳川家康公では、些か目標が手強過ぎましょう。
岡崎では「東京などは家康公が作った植民地だ」と教えられましたが、実際、全国各地に三河武士の殿様がいて、山形県なら庄内の酒井公、新潟の長岡の牧野公、千葉なら本多公、九州でも大分・中津には奥平公、それに松平と言う殿様は到る所にいました。
しかし、家康公ほど好き嫌いが激しい方も珍しいでしょう。関西に多い秀吉ファンには憎むべき仇役ですが、辞世を比べれば勝負は明らかでしょう。
家康公「嬉しやと 二度さめて 一眠り うき世の夢は 暁の空」
豊臣秀吉「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」
どうですか?
東照権現

  1. 2013/04/16(火) 08:13:03|
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4月15日・アメリカで原子爆弾研究所が設立された。

1943年の明日4月15日にアメリカ合衆国ニューメキシコ州に原子爆弾研究所が設立されました。所長は亡命ユダヤ人の物理学者・ジョン・オッペンハイマーで、このプロジェクトはマンハッタン計画と呼ばれました。
よくアインシュタイン博士もこの計画に関与したと言われますが、博士はルーズベルト大統領に宛てた意見書に署名しただけで、むしろ反戦的な言動を警戒され、計画からは遠ざけられていたそうです。
当時の核開発の最先端だったのはドイツでしたが、ナチスによる迫害で多くの優秀な科学者が亡命したため、アメリカに対抗するほど技術力が根づいたと言えます。これは後年、ソ連とのロケット開発競争でも繰り返されました。
したがって当初、原爆は「ナチスが原爆を開発する前に先制使用するべきだ」とドイツを目標にしたものだったのですが、完成は45年6月にずれ込んだため既にナチス・ドイツは5月8日に降服しており、残ったのは孤立無援となった日本だけでした。
つまり軍事的には広島、長崎に原爆を使用する必然性は全くなく、約19億ドル(現在の換算で約145億ドル、日本円ならその約100倍)の巨費を投じて開発した4個の原爆を無駄にすることができなかった政治的判断であったのではないかと考えています。
アメリカでは戦後、作戦の可否から戦費の用途に至るまで議会で厳しい審査が行われますから、使わなかった兵器の開発に通常兵器の購入費と同程度の予算を使っては説明ができないのです。実際、現代のアメリカには見かけばかりで効果がない無駄を意味する「マンハッタン・プロジェクト(計画)」と言う政治的隠語があります。
核開発の最大の課題は濃縮ウランの製造で、日本でも仁科芳雄博士が開発に手を染めたもののこれがクリアできず頓挫しました。所詮は陸軍航空本部内の小規模な事業では成功するはずがありません。
現在、北朝鮮も核開発に血道を上げていますが、マンハッタン計画でアメリカが費やした巨額の予算を賭けなくても、これまでに得たノウハウを模倣すれば殊のほか安価で核開発が可能になっている恐ろしい実状を物語っています。
貧乏な国が予算をつぎ込んで開発した核爆弾とミサイルを無駄にできない。意外に動機はアメリカと同じかも知れません。「もう、どうにも止まらない?」
  1. 2013/04/14(日) 09:23:20|
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4月14日 高杉晋作の命日

1867(慶応3)年の明日4月14日(太陰暦)は長州の志士では人気ナンバー1であろう東行・高杉晋作くんの命日です。東行と言うのは出家した時から用いていた雅号で、だから髷を結っていないのです。時代の先取りをしていた訳ではありません。
伊藤俊輔=博文さんは晋作くんを「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し 人々は驚き敢えて正視する者なし それが我らが東行高杉君である」と評していますが、文武両道に優れ、秀逸な詩や歌、さらに小唄まで作り、自ら三味線を弾いて歌った粋な逸話が老若男女を問わず今も愛される所以でしょう。
ここで晋作くんの漢詩を二つ「祖神開闢幾千年 億万の人魂散じて煙となる 愚者英雄倶に白骨 直にこの浮世値三銭」「詩歌愛す可し 美人憐れむ可し 時に喫煙して去る ひと息天を過ぐ」晋作くんは「人は愚を学ばねばならぬ」と言っていますが、愚を学ぶための余技にしては中々の才智です。
晋作くんが末期(まつご)を過ごした下関の東行庵は、妾であるウノが菩提を弔うため髪を下ろして尼僧となり寺院になっています。その点では坂本竜馬の妾(正妻は千葉佐那とします)・お龍よりは立派ですが、しかし、晋作くんには萩の自宅に雅さんと言う正妻があり、とても熱愛していて、家を空ける時には「魅力的なお前が心配だから、着飾って人が集まるところへ行ってはならぬ」と言う手紙を送っています。雅さんも国事に奔走し、家を空けがちの夫を支え、舅姑に仕え、子供を養育していました。
だから先頃、敗訴が確定した東行庵の住職が管理不良のため高杉家が引き揚げた晋作の遺品の返還を求めた裁判は、形見の品は本妻の物か、妾の物かと言う話であって、宝物館の経営のための所有権とは別次元の問題であると主張してきたのです。
それにしても呆れるのが、晋作さんが小倉を攻めた時、略奪してきた鐘や太鼓などを本来の所有者が返還を求めたのに対して、下関の所有者は「晋作の許しがないと駄目だ」と拒否したことで、東行庵の住職同様、盗人猛々しいのは下関の土地柄なんでしょうか?(そこに住んでいますが)
晋作さんの辞世は「おもしろき こともなき世を おもしろく」で、このままの方が受け取る人が自由に味わえて未完の美だと思うのですが、野村望東尼なる小母さんが「すみなすものは 心なりけり」などと小理屈をこね回した下の句をつけています。「余計な事をするな」と山口県防府市と博多の明光寺にある小母さんの墓に叱っておきました。
  1. 2013/04/13(土) 08:06:36|
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4月13日 石川啄木の命日

1912年(明治45)の明日4月13日は歌人・石川啄木の命日です。
同時代の歌人・若山牧水はこの日、「午前九時 やや晴れそむる 初夏の 曇れる朝に 眼を瞑ぢにけり」の一首を詠んでいます。
石川啄木は岩手県の出身ですが、故郷を逃れて北海道の函館に住み、この地で歌も数多く遺し、墓もここにありますから、最近では函館の人だと思われているかも知れません。
4月6日に紹介した太田蜀山人は古人の和歌のパロディを数多く作って人気を得ました。例えば「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほしてふ 天の香久山」と言う持統天皇の御製を「いかほどの 洗濯なれば かぐ山で 衣ほすてふ 持統天皇」と改作して女帝をからかっています。
それに倣って野僧も啄木の作を老人版のパロディにしてみました。
先ずは盛岡城に歌碑がある「不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸われし 十五の心」ですが「病室の 狭いベッドに 寝ころびて 管に吸われし 吐けぬ我が痰」と言うのはどうでしょう。内科病棟に入院するとこれは日常の情景です。
続いて有名な「たわむれに母を背負いて そのあまり 軽ろきに泣きて 三歩歩めず」は「たわむれに 孫を背負いて その拍子 腰を痛めて 三歩歩めず」です。皆さんも気をつけましょう。
これも有名な「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」を「東海の 小島の磯の 白砂で わが暇つぶし 蟹とたはむる」としました。この歌は「東海の」で始まるため静岡や愛知、三重辺りの海岸の歌だと思われがちですが、啄木が彼の地を訪れたことはなく、函館の海岸で詠んだものだそうです。
野僧も好きな「はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢっと手を見る」も病人には「掛かるけど 掛かるけど猶 わが病 楽にならざり ぢっと番待つ」になります。当地では高齢者が多いため問診に時間がかかり困ります。「血圧が高いよ「えッ、何だって?」と言う大声が待ち合いの廊下まで聞こえてきます。
そして「ふるさとの 訛りなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」は「ふるさとの 訛りなつかし 年寄りの 人ごみの中に そを聴きにゆく」としましたが、故郷を捨てて当地にやってきた野僧にとって故郷の訛りなんぞは全く懐かしくはなく、むしろ朝のニュースで耳すれば一日中嫌な気分になります。
ここまで茶化すとファンは怒るかも知れませんが、啄木の歌にはそれ程の深い思索の跡は見当たらず、隣町出身の詩人・金子みすゞと同じくネクラな文学青年の言葉遊びにしか思えません。
「そんなに生きるのが苦しければ早く死ねて好かったね」と祝ってやりたいものです。
少年石川啄木盛岡城の歌碑
盛岡市内の「少年石川啄木の像」と盛岡城址の「不来方の お城の草に」の歌碑
  1. 2013/04/12(金) 08:24:58|
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4月7日・戦艦・大和が撃沈された。

1945(昭和20)年の明日4月7日、戦艦・大和が撃沈され、実質的に大日本帝国海軍連合艦隊は壊滅しました。
その模様は大和に乗艦していた吉田満氏が著した「戦艦大和ノ最期」に詳しく、野僧は矢作(やはぎ)南小学校6年の時に読み、一緒に軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」も撃沈されたこと知りショックを受けました。その後、「この記述内容には噂レベルの伝聞情報もかなりあり、全てを信じることはできない」と海軍軍人だった方から注意を受けました。
映画「男たちの大和」ではそれがリアルに描かれていましたが、日本の戦争映画は「反戦」「旧軍断罪」が制作目的なので、こちらの方が更に信ずるに足らないでしょう。
大和の出撃は昭和天皇から「海軍にはもう艦はないのか」と下問を受けた大本営海軍部、連合艦隊が「大和に死に花を咲かせよう」としたと言われていますが、そのような面子、感傷で殺されたのでは将兵は堪ったものではありません。
また一説では大和を沖縄本島に座礁させて浮き砲台にして、艦砲射撃で米軍を殲滅しようとしたとも言われていますが、それは「不沈」であれば出来ることで、すでに同型艦の「武蔵」、空母に改装した「信濃」は撃沈されていたのですから不沈戦艦伝説は消滅しており、やはり沈めることが目的だったと思わざるを得ません。
一方、迎え撃ったアメリカ側も第5艦隊司令官・スプールアンス提督は、世界最大、最強と言われていた大和を艦隊決戦の砲撃戦で撃沈しようとしたそうで、実際、ミズーリなどの戦艦、巡洋艦に待機を命じていました(スプールアンス提督は大和に乗艦していた司令官・伊藤整一中将とは旧知の仲でした)。
ただ、大和の艦隊が目的地を佐世保や日本海側であるかのように偽装して西に進路を変えたため、艦艇では追い付けないと判断され、ミッチャー提督の空母艦載機部隊によって撃沈されました。
宇宙戦艦ヤマトでは戦艦・大和はそのままの姿で海底に鎮座していますが、実際には弾薬が爆発してキール(艦舷)が折れ、3つ以上に分かれ、ひっくり返って沈んだようです。
また宇宙戦艦ヤマトの主人公・古代進の兄・守は「雪風」の艦長ですが、実際の駆逐艦・雪風はこの作戦に加わり、撃沈後には乗員の救助を行い、戦後は台湾海軍に譲渡されて旗艦になっています。
若し、大和が敗戦まで生き残っていれば徹底的に研究された後、戦艦・長門のようにビキニ環礁での原爆の実験に使用されたかも知れません。ただ、戦艦・長門は米・独の標的艦が昭和21年7月1日の空中投下された原爆の爆風と高熱で大破・沈没したのに対して独り浮き続け、25日の水中爆発でも沈まず、30日の朝になって浮いていないのが発見されました。まさに日本海軍の技術力を世界に示した最期でした。
ところで出撃前、三田尻沖(現在の山口県防府市)に停泊していたのを見た人はおらんかいのう(いませんかね)?
  1. 2013/04/06(土) 08:53:32|
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4月6日・大田南畝の命日

1825(文政6)年の明日4月6日(太陰暦)は江戸時代の狂歌師・狂詩師・洒落本作家である大田南畝・蜀山人先生の命日です(この他にも「安本丹親玉(あんぽんたんおやだま)」「藤偏木安傑(とうへんぼくあんけつ)」「四方赤良(よものあから)」などの筆名=ペンネームもありました)。
南畝先生は日本のギャグの元祖のような人で、実際、「世の中に 酒と女は 仇なり どうぞ仇に 巡り合いたい」や「早わらび にぎりこぶしを ふりあげて 山の横面 はる風ぞふく(はるを春と張り倒すにかけている)」などの現代でも落語のマクラ(出だし)に使われている狂歌も先生の作です。
大田南畝、本名・直次郎さんは七十俵五人扶持(ぶち)と言う貧乏御家人の家に生まれましたが、父親は「起きていれば腹が減るから」と「早寝遅起き」を家訓していたと言いますから、世の中を茶化した風情はそんな家で養われたのかも知れません。
直次郎さんは幼い頃から秀才であったもののそれ以上にギャグの才に秀いで、田沼意次の庶民も自由を謳歌できた時代に平賀源内と出会って、序文まで書いてもらい「毛唐珍奮翰(もうとうちんぷんかん)」のペンネームで「寝惚先生文集(ねぼけせんせいぶんしゅう)」を出版するや大ベストセラーになり、たちまち狂歌師の第一人者になりました。ところが田沼意次が失脚し、松平定信が寛政の改革を始めると、重箱の隅までほじくり返すような取り締まりや武士への偏狭な理想を押し付けなどに嫌気がさした者による落首が世間を騒がせました。
「孫の手が 痒い所に 届きかね 足の裏まで かきさがすなり」これは「孫の手で背中をかこうと思っているのに足の裏をかかれているようだ」と改革が的外れであることを揶揄したものですが、この時代、政治批判は御法度であり、場合によっては斬首もある重罪でした。それは大名であっても同様で、尾張藩主・徳川宗春は「暴れん坊将軍」吉宗の享保の改革の質素倹約令に反対して自領の名古屋で遊興三昧の生活を送ったことを咎められ隠居謹慎し、死後は墓石に金網を掛けられ縛られるほどの仕打ちを受けました。
またこのような落首もありました。
「白河の 清き流れに 魚すまず 濁れる田沼 今は恋しき」こちらは松平定信が白河藩主であることに掛けて、その理想主義を息苦しく感じ、ほとんど禁制は出されず自由を満喫できた田沼意次の治世を懐かしむ庶民の声でしょう。
そして問題になったのが、この一首でした。
「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといひて 夜も寝られず」松平定信は「文武二道の修錬」を幕臣だけでなく各藩にも徹底するよう達していたのですが、問題はこの歌が、庶民ではなく武士の作だと言うことでした。
この頃には定信失脚後に花開いた化政文化の萌芽を感じさせる庶民の教養の高まりがあり、前の2作なら誰の作とも言えませんが、「文武二道」への批判となれば武士以外には考えられない。つまり幕政に対する批判を直参がしたことになります。この落首もあまりに出来が秀逸で素人の作とは思えず、武家の狂歌師として直次郎さんが疑われたのも無理からぬ話ではありました。
そんな訳で直次郎さんは狂歌師を止めたのですが、それでも世間の目はますます厳しくなり、起死回生の一手として人材登用の試験である学問吟味を受験し、御目見得(おめみえ)以下の部で首席を獲りました。しかし、2年後に与えられた仕事は勘定方(百俵に加増)で江戸城内の竹橋の書庫で古い帳簿を整理する仕事でした。そこで「五月雨の 日も竹橋の 反古しらべ 今日もふるちょう 明日もふるちょう(「ふるちょう」は「降るちょう=降っている」と「古帳」の洒落)と言う狂歌を作ったのがバレて、当時からお笑いの本場であった大阪へ左遷され、ここで蜀山人と名乗り、大活躍することになったのです。
蜀山人の辞世はこんなものでした。
「今までは 他人のことかと 思うたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」流石!
  1. 2013/04/05(金) 09:17:17|
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4月4日・キング牧師が暗殺された。

1968年の明日4月4日にアメリカ黒人解放運動の指導者であるマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がテネシー州メンフィスで暗殺されました。
野僧の高校は県立の普通科高校ですが、県下の日教組過激派の教師が集められていて、朝、校門前で共産党の機関紙を配り、校内では民主青年同盟系の生徒が昼休みにフォークダンス集会を開く一方で、校長は元軍人、武道系の生粋の保守、その配下の体育会系などの保守派教師が生徒指導にあたる静かな校内闘争が繰り広げられていました。
進路指導室が進学のための講習などを計画すると日教組の教員から「受験戦争を煽るのか」と反対運動が起こり、生徒も「進学したい奴は予備校へ行け」と白けている妙な校風でしたから、間に挟まった生徒会には微妙なバランス感覚が必要でした。
したがって授業も一種独特の内容で、保守系の国語教師は教育勅語を暗記させ、3年生の学年末試験ではそれの記述が問題、逆に英語の教師は2学期はジョン・F・ケネディの大統領就任演説、3学期はキング牧師の「I have a dream」の演説を暗唱させ、全文を覚えれば満点、言えた長さで点数を決め、記述は名前のみでOKでした(授業はテープを聞かせるだけ)。
したがって野僧は今でもこの3つは断片的に覚えていて、アメリカ軍とのパーティーでケネディの演説を出し物として披露すると拍手喝さいを受けました。ただし、キング牧師の方はアフリカ系のみが感動し、白人は非常に冷めた顔になりますから要注意です。
キング牧師は宿泊するモーテル「ロレアンヌ」のバルコニーで夜の集会の打ち合わせ中に頚部を撃たれて死亡しましたが、黒人解放運動に対する白人社会からの反発だけでなく、ベトナム戦争での黒人兵の差別的処遇を批判する言動が激化するベトナム反戦運動に苛立っていた保守派を刺激して、犯罪・逮捕を繰り返していた犯人のジェームズ・アール・レイを容易に接近させ、暗殺後は海外逃亡できるような社会的状況を作っていたようです。
数年前、さらに過激な黒人解放運動の指導者・マルコムXの映画が上映され、アメリカの街には「X」を刺しゅうした帽子をかぶった若者があふれましたが、あれは単なるファッションであって黒人解放運動が再燃した訳ではないでしょう。数年後に実現したバラク・オバマ大統領の当選と直接結び付いているとは思えません。
日本の若者の場合は「アメリカで流行っているから」と言う物真似か、「シンプルで格好いい」と言う軽薄な理由でしたが。
  1. 2013/04/03(水) 09:20:55|
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第6回月刊「宗教」講座・前

4月と言えば8日の灌佛会、花祭り、釋尊の降誕会でしょう。
何かが駄目になった時、「オシャカになった」と言う俗語がありますが、これは火が強くて焦がしてしまったことを、シとヒが使い分けられない江戸弁で「シが強かった」と言い、これが「4月8日だった」に変化したことに由来します。
「灌佛会」と言う呼び名は、釋尊が「甘露の雨」が降る中お生まれになったと言う伝承により、それに因んで小さな誕生佛の尊像に甘茶をかける風習がありますが、甘い味や香りがする雨が降った訳でなく、大地を潤す甘美な雨と言う意味です。
甘茶は飲むとスッとした口当たりで美味しいのですが、下剤の効果もあるそうなので飲み過ぎると大変なことになりますから気をつけて下さい。しかし、折角の伝統的な風習も最近は漢方薬で割高な甘茶をワザワザ煎じる手間を省いて紅茶で代用する寺も多いようです。それもペットボトルときますから坊主どもの手抜きの舞台裏は際限を知りません、(小庵ではその行事自体を勤めていないので「観佛会」と呼んでいます)
また「花祭り」とも言いますが、これは母のマーヤ夫人は実家で出産するための旅の途中、休憩場所で多羅葉(たらよう)の花を愛でて採ろうと手を伸ばした時にお生まれになったと言う説話によります。このため誕生佛を祀る厨子の屋根には色々な花々を飾りますが、多羅葉は餅の木科ですから花は粒状なので少しイメージが違います。
誕生佛は右手を天、左手は地を指していますが、これは釋尊が生まれた時、東西南北に七歩ずつ歩んだ後、「天上天下唯我独尊」と告げられた場面を表しています。しかし、生まれたばかりの新生児が7歩ずつ4回歩いて言葉を話すとは些か演出が過ぎるようで、佛教の非科学性=迷信を批判する例にされることもあります。
この「天上天下唯我独尊」と言う言葉を釋尊の絶対的独善性を表す言葉と曲解する向きもありますが、野僧はむしろ「天上天下に於いて、この我が命は何と尊いのだろう」と言う感慨の発露であると理解しています。
父母恩重経に「大地の土の多きが如く、この世に生を受くるもの多けれど、中にも人間と生まるるは、爪の上の土の如く稀なり。人のこの世に生まるるは、宿業を因とし、父母を縁とせり」とある通り、生命とは大勢の人々の中で一組の男女が出会い結ばれることで生じますが、それが永続的に遡られなければ継承されません。よく「由緒正しい家柄」「高貴な血統」などと言いますが、それは記録が残っているだけのことで先祖がいない人間などは存在しないのです。
つまり我々は出会った数多くの人々の中で、その気になって選んだ魅力的な男女の末裔と言うことになります。そして人がこの世に生を享け、育っていく中で受ける社会からの恩恵は、食物一つとっても、それが食卓に並ぶまでに携わる多くの人々の労力や天地の恵みを思えば、この命の持つ重みは果てしないことが理解できましょう。さらに教えを受ける師や共に学び鍛え合う友との出会いなど、生命の継承を無限の縦軸とすれば、成長していく過程の関わりは無辺の広がりなのです。
レイプや不倫の末などの望まれない命もあるでしょうが、命そのものには罪はありません。確かに奇形や先天性の病気などの生むことが躊躇われる命もありますが「それもカミの計らいとして生め」と言うのがキリスト教の教えです(最近、論議されている出生前検査もアメリカでは宗教倫理の問題になっているようです)。ちなみにカトリックではコンドームなどの避妊具の使用さえ禁じています。
かつて日本のオギノ式避妊法が「カミの意思に背かない避妊法」としてローマ法王庁の推奨を受けたこともあり、ピルの是非についての論争は結論が出ていません。
佛教はここまで教条的ではありませんが、やはり「無数の人々の中で人と人が出会い結ばれて生じたこの命、何て尊いのだろう」と生命尊重を謳っているのです。
多羅葉誕生佛
左・多羅葉の花。右・小庵の誕生佛さん。
野僧は幼い長男を2年間、1人で育てたことがありますが、アメリカ人の恩師は「子育ては人生最大、最高の喜びだ。それを独占できる君はハッピーだ」「父子家庭は今や国際的トレンドだ。君は時代の最先端を行っている」と励ましてくれました。
確かに父親ではなく両親と言う役割を果たしていた2年間は、充実した日常を過ごし、多くを学び教えられて父子共に本当に幸せでした。
しかし、それも苦労にしか見えないのが世間の常識なのでしょう。
前述の「父母恩重経」は中国で成立した経典と言われており、その内容には儒教の忠孝の教えが色濃く投影されています。
一方、釋尊は南方佛教の経典・スタニパータの中でこのように説いておられます。
「心がほだされると己が利を失う。親しみにはこの恐れがあることを観察して犀の角のようにただ独り歩め」「仲間の中におれば休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも常に人に呼び掛けられる。他人に従属しない独立自由を目指して際の角のようにただ独り歩め」実際、釋尊は出家して求道することを願っている頃に生まれた我が子に、「ラーフラ(羅喉羅)=妨げる者」と名づけ、後に王位継承者としての地位と共に家族を捨てて出家しました。
儒教の倫理に於いては、自己の立場・責任を放棄し、家族を捨てて出家することは許されざる悪業ですが、釋尊が苦悩に満ちたこの世の実相=真理を覚り、苦しみから救う道を悟り、それを証するためには全ての束縛を断絶する必要があったのです。
つまり釋尊の出家は、人が定めた倫理や道徳を超えた至高の動機によるものなのです。
儒教的な倫理、常識の中で生きる我々は、そこまで徹底できないまでも、何かを捨てることで心の平安を得られることを学ぶことはできます。
ところで最近の日本では、イエスさんの誕生日であるクリスマスばかり盛大に祝われていますが、何よりも忘れてならないのは釋尊が人として生まれ賜ったことです。
イエスさんは、母・マリアが処女懐妊して誕生したカミの子を自称しておられますが、釋尊はあくまでも人として生まれ、悩み苦しみ悶えた末に出家し、外道(異なる教え)や苦行などに迷った後、ようやく心の平安を得られたのです。
つまり佛教は、神の託宣、カミからの預言の類などではなく、ゴータマ・シッタルダ君自身の肉声なのです。
余談ながら実子のラーフラは、後に釋尊の弟子になりましたが、教えや戒律を守るばかりで中々悟りに至れずにいましたが、やがて言われることを守るのではなく戒を守っている生活こそが安心であることを覚り、「密行第一」として十大弟子に加えられました(「密行」とは陰日向なく行を保つことです)。
                                        南無文殊師利菩薩

  1. 2013/04/01(月) 09:36:57|
  2. 月刊「宗教」講座
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4月2日・アンデルセンの誕生日

1805年の明日4月2日にデンマークの貧しい靴職人の子としてアンデルセンが生まれました。1805年と言えばナポレオン・ボナパルトがフランス第1帝政の皇帝に即位した翌年で、日本では19793年に松平定信が老中を辞して寛政の改革が頓挫して12年、あまりに子作りに励んだため(記録に残っているだけでも55人)「オットセイ将軍」と呼ばれた11代・家斉による直接統治が行われており、寛政の改革の抑圧から解放された庶民により化成文化が花開いていました。
ところで日本ではアンデルセンと言う名前が定着し、会社の名称にまでなっていますが、出身国のデンマークで「Andersen」は非常に多い名前のため「H.C.Andersen」とフルネームの略名で呼び、さらにこれは「ホー・セー・アナスン」と読みます。
アナスン(アンデルセン)は貧しい靴屋の息子なので、童話「小人と靴屋(夜中に裸の2人の小人が作りかけの材料で靴を作って貧しい靴屋を助け、夫婦がお礼に服と靴をプレゼントする)」はアンデルセン童話と思いそうですが、こちらはドイツのグリム兄弟の作品です。ただアナスンとグリム兄弟は同時代の人で、生前にも交流があったようです。
アンデルセン童話とグリム童話ではどちらがどちらと言われても困りますが、有名なところでは「裸の王様」「みにくいアヒルの子」「人魚姫」「親指姫」「マッチ売りの少女」「雪の女王」「しっかり者の錫の兵隊(鉛の兵隊)」はアンデルセン童話、前述の「小人と靴屋」や「かえるの王様」「狼と七匹の子山羊」「ヘンゼルとグレーテル」「灰かぶり(シンデレラ)」「赤ずきん」「ブレーメンの音楽隊」「白雪姫」「いばら姫」はグリム童話です。
どちらもデイズニーのアニメ映画にはなっていて混乱に拍車がかかりますが、こちらの名作、「ピノキオ」はイタリアの童話作家・カルロ・コッロティの作品で、イタリア語では「ピノッキオ(キはチに近い発音)」です。
さらに昔、テレビでムーミンとムーミン第2部の間にやっていたカルピス提供の「まんがアンデルセン物語」ではナイチンゲール物語が入ったりしてこちらもハッキリしません。
余談ながら野僧はアナスンには悪いですが「人魚姫」よりも小林未明の「赤い蝋燭と人魚(人魚が神社に産み落とした娘が蝋燭屋に拾われ、絵を描いた蝋燭を売るようになるが、見世物屋に売られてしまう悲劇)」の方が好きです。
  1. 2013/04/01(月) 09:26:26|
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