1972(昭和47)年の明日5月30日に日本赤軍の3人がイスラエルのテルアビブ空港で自動小銃(チェコ製)を乱射して26人が死亡、73人が負傷し、その後、駐機していたエル・アル航空の旅客機に手榴弾を2発投げました。
犯人は日本赤軍幹部の奥平剛士(27歳)、京都大学生の安田安之(25歳)、鹿児島大学生の岡本公三(25歳)の3人で、このうち奥平と安田は現場で射殺(連合赤軍の発表では安田は自決)、岡本は拘束されてイスラエルで無期懲役の判決を受けて服役していましたが、現在は出獄しレバノンで生存していると言われています。
野僧は小学校5年生でしたが、この頃はよど号事件、リンチ殺人事件、あさま山荘事件など赤軍派のテロがニュースを賑わしていて、同級生たちと怒り、警察に入って戦おうと誓い合っていました。それを航空自衛隊で実行したのは野僧だけでした。
野僧は警備小隊長時代に連合赤軍を研究しましたが、これは1970年前後に激化した学生運動の鎮静化に危機感を抱いた共産主義者同盟赤軍派の中央軍と革命左派である人民革命軍が一緒になって統一赤軍が成立したのですが、獄中にあった赤軍派幹部で革命左派の頭目・川島豪の意見で連合赤軍と改称されたのです。
しかし、軍と名乗っていても日本国内ではゲバ棒と火炎瓶くらいしか武器がなく、そこで1971年2月12日に栃木県真岡市内の銃砲店を襲って猟銃10丁、空気銃1丁、弾丸2300発を奪って武装し、この武器が大菩薩峠事件、あさま山荘事件で使われたのです。
今、考えてみるとこの時代、一流大学のエリート学生たちが日本で共産革命が実行できると真剣に信じ、(彼らにとっての)敵だけでなく同士までを殺していたことは恐ろしく哀れであり、滑稽でもあります。
しかし、現在でも70年安保の頃、大学生であった団塊の世代のエリートには、この愚かさを引きずっている人が少なからずいますから、そのすぐ下の我々と生育環境の何が違うのか解明する必要があるかも知れません。
野僧の大学は80年代になってからも革マル派と共産党系の民主青年同盟が学内闘争を繰り返していた時代遅れな左翼大学でしたから、その空気は少し感じていましたが、大学をやめて航空自衛隊に入ると知った民青の女闘士の同級生がギターを弾いて森山良子の「愛する人に歌わせないで」を歌いながら涙を流していた、そんなセンチメンタルな革命ゴッコだったのかも知れません。
それにしてもリンチ殺人事件の主犯・永田洋子と長く中東で暗躍していた重信房子では容貌に大きな差がありますが、どちらも男どもを操って革命に命を捧げさせられるのですから不思議です。
ダッカ事件で釈放された美人妻・大道寺あや子は何所へ行ったのやら。
- 2013/05/29(水) 08:56:12|
- 日記(暦)
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今回は航空救難団でしたが、救難員、通称メディックは番組の中で「陸海空自衛隊の中で最も過酷」と言われていた通り、陸の空挺(パラシュート)とレンジャー(山岳戦闘)、海のフィロッグマン(蛙男=潜水)と言うそれぞれが誇る3つの資格の上、衛生員の技能(多くは救急救命士)も有している精鋭中の精鋭です。
航空救難隊の本来の任務は撃墜されて脱出したパイロットを敵地から救出することですから、山中でも海上でも捜索して駆けつける必要があり、負傷したパイロットに応急手当てをして、時には捕獲、殺害にくる敵を制圧しながら救出しなければならないのです(野僧は北朝鮮の拉致被害者の救出作戦も実施できるのではと考えています)。
これには並外れた体力だけでなく特別な適性も必要で、熊本工業高校から2度甲子園に出場した野球部員が救難員を希望して課程に入ったものの、空挺とレンジャーはクリアしながらフロッグマンの水中でマスクを外されるテストでパニックになって卒業できずに断念しました。
メディックの教官をやっていた同期と数年ぶりに再会さたのですが、元々人間離れしていた顔や体格が完全に妖怪・モビルスーツ化していました。
またレスキュー(救難)パイロットも空井2尉のようなファイター(戦闘機)とは別の高度な技量を有しています。
友人のレスキュー・パイロットは、ファイターからの転換者の教育をやっている時、海上で「できるだけ低空で飛んでみろ」と言いました。するとファイター・パイロットは自分の腕をひけらかそうと波の上を掠めるように飛んで見せたのですが、友人は「救難で低空と言うのはな・・・」と言うと「こうだ、こうだ、こうだ」と叫びながら波だけでなく海面に沿ってギリギリを上下しながら飛んだのです。航空機は海面に突っ込めば墜落しますからファイター・パイロットは「ウワーッ、ギャーッ、デェーッ」と悲鳴を上げるばかりだったそうです。続いて山の稜線でも同じことをやったそうですが。
それほどの実力を持つ航空救難隊ですから山岳救助隊、消防、警察、海上保安庁(=海猿)では対応できない場所、気象状態での出動が多く、パイロット、メディックともに2次災害ギリギリの任務になります。
友人のメディックは「救助する人の順番をつけなければならない時が一番辛い」と言っていました。波と船体、風と山肌の状態を見れば全員を救助し切れないことは判っていますから、後の順番をつけることは死を宣告するのと同じ意味を持ちます。全員を助けられればいいが「もう一度」と降下した時、船体が波で横転することや強風で吹き飛ばされ断崖へ転落していくこともある。海上保安庁や警察、消防の救難ヘリではそこまで切羽詰まった状況はないでしょう。
それでも映像を撮影しているのは同行している海上保安庁、警察、消防のヘリなので、ニュースでは「画像提供・海上保安庁(警察、消防)」と言うことになり、国民の皆様には「海猿」の手柄と思われるのです。
さらに野僧が沖縄に勤務していた時、救助されたサーファーの本土からの大学生は航空救難隊と知って、「何で海上保安庁じゃないんだ。誰が自衛隊に助けてくれって頼んだ」と機内で手当てを受けながら散々に文句を言い、その後、挨拶もなかったそうです。それが航空救難隊です。

ところでドラマで紹介されていた京都市八幡の飛行神社のお守り、お札ですが、確かにワザワザもらいに行く方もいますが、奈良基地の幹部候補生学校の知り合いに頼むことが多いようです。
幹部候補生学校の隊員も航空自衛官なので同僚や部隊の無事を真剣に祈りますから大丈夫なのです。ちなみに西部航空方面隊では太宰府天満宮の飛び梅の故事に由来する「飛行安全」のお守りが一般的です。
もう一つ、対領空侵犯処置のスクランブル(緊急発進)ですが、最近は300回前後を推移しているものの、野僧が空曹をやっていた昭和の時代には800回を超えていました。
当時は戦闘機の航続距離が短く、一度の日本領空への接近に対して複数回、戦闘機を上げることも珍しくなかったのです。ついでに言えば、その800回はソ連機に対するのみの緊急発進数です。尤も、あの頃の中国空軍には日本まで飛んでこられる飛行機はありませんでしたから。
最後に「家族がいながら危険に飛び込むのは」「妻の死に立ち会えなかったこと」を問う場面がありましたが、それで迷うようではパイロットが地上の安全の確認もせずに脱出してしまいます。
航空自衛官は雫石上空で高速の最新鋭旅客機に追突された旧式の練習機のパイロットが生き残ったことで受けた受けた「国民を殺してのうのうと生きている」などと言う不条理な批判と運輸省から受けた存在そのものを全否定するような訓練空域、方法への制限を加えられたことを忘れていないのです。
野僧も課程教育の最終段階を果たすため、唯一絶対の理解者だった師僧(祖父)の死に立ち会いませんでした。しかし、常に「一期一会(生涯一度の出会い)」の覚悟を以て接していましたから、師僧は「それでいい」とうなづいていたそうです。
ところで鷺坂1佐の亡くなった奥様の人間性は、野僧が愛していた沖縄の彼女にそっくりでした。
「貴方の仕事が知りたい」と航空雑誌を読んで野僧よりも詳しくなっていたり、「顔を見ていれば好物はわかる」と居酒屋で本土の料理を研究していた彼女。あの女性と結婚できていれば、健康を奪われることも仕事を失うこともなかったでしょう。親は選べませんから仕方ないですけど。
- 2013/05/28(火) 08:08:35|
- 「空飛ぶ広報室」解説
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本日は日本海海戦の当日です。そこで海軍つながりで海上自衛隊の話を一つ
実は創立50周年を期に「海上自衛隊歌・海をゆく」の歌詞が変わったのです。
海上自衛隊歌「海をゆく」
旧・男と生まれ海をゆく 若い命の血は燃える
かおれ桜よ黒潮に 備え揺るがぬ旗印
おお選ばれた海上自衛隊(じえいたい) 海を守る我等
怒涛よ騒げ 雲よ鳴れ 力黒金たじろがず
常に鍛えて逞しく 越える苦難の雨嵐
おお灼熱の海上自衛隊 海を守る我等
紅の意気 昼も夜も 重い使命にたぎり立つ
緑清しいあの山河 永久の栄えをただ祈る
おお国担う海上自衛隊 海を守る我等
新・明け空告げる海をゆく 歓喜湧き立つ朝ぼらけ
備え堅めて高らかに 今ぞ新たな陽が昇る
おお堂々の海上自衛隊 海を守る我等
黒潮薫る旗風に 映える使命の若桜
熱い力の意気燃えて 凌ぐ波濤は虹と咲く
おお精鋭の海上自衛隊 海を守る我等
伴(きずな)に結ぶ伝統の 誇り支えるこの山河
永久の平和を祈りつつ 祖国の明日を担う
おお栄光の海上自衛隊 海を守る我等
海上自衛隊は時代に合わせた変更と説明していますが、男女雇用均等法の施行で高まった女性の地位向上の世論に答えた=WAVEに配慮した結果と言うのが一般的な評価のようです。
しかし、唄ってみるとやはり旧歌詞の方が数段上で、新歌詞は所詮、替え歌です。
野僧なら「男」を平仮名にしますね。「おとこ」には性別以外にも強者、勇者と言う意味もありますから。
- 2013/05/27(月) 09:50:33|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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1905年(明治38)の明日5月27日に日本海海戦が行われました。
この海戦については最近、NHKで「坂の上の雲」が放映されましたが、我々の世代では1969年公開の映画「日本海大海戦」の記憶も鮮明でしょう。
NHKの方は原作が歴史小説の大家・司馬遼太郎先生のベストセラー長編小説と言うこともあり、分析評価も詳細、かつ適切ですが、映画の方は風聞に近い内容も含まれていて、それが真実と思われていることも多いようです。
例えば日本海軍は下瀬火薬を用いていたため、砲撃後も黒煙が上がらず連射が可能だったがロシア艦隊は黒煙で視界が遮られて不可能だったと言う話がありましたが、ピクリン酸を使う下瀬火薬は反応が過敏なため薬きょう内の装薬には向かず(暴発の危険性が高い)、同じく敏感な伊集院信管を装着した砲弾の炸薬として威力を発揮し、敵の艦橋や砲台を削り取るように破壊するため「鉋(かんな)」と呼ばれていました。
野僧は日本海軍のみが連続砲撃が可能だったのは、ロシアの艦艇は舷側が高いため、風通しが悪く、一方、イギリス式の日本の艦艇は空間が広く取ってある上、上部が解放されていたため排煙が早かったのではないかと推察しています。
実際、秋山真之作戦参謀が付け加えた「本日、天気晴朗ナレドモ浪高シ」の「浪高シ」を司馬先生は「波が高いと艦体は動揺し、射撃訓練が十分な日本側の有利を表している」と解釈していますが、旧海軍士官だった友人は「波が高いと舷側が低い日本の艦艇は見え難くなるが、図体がでかいロ助の艦艇は丸見えだ」と言う意味だと言っていました。
またバルチック艦隊が対馬海峡に来るか否かについて、映画では三船敏郎さんの東郷長官、テレビでは秋山作戦参謀が迷い悩んでいましたが、伝えられている両者の人間性から見て、これも司馬先生の見解の方が正しいと思います。
映画ではロシア艦隊の接近を沖縄の宮古島の漁民が発見し、無線設備がある石垣島まで手漕ぎの小船・サバニで知らせに渡った物語が感動的に描かれていましたが、テレビでは哨戒艇・信濃丸が発見して無線で通報したとされていました。
これも連合艦隊に届いたのは信濃丸からの方が早かったので史実として正しいのですが、ドラマとしては惜しい気もします。
野僧は宮古島出身の彼女の家を訪ねた時、わざわざ一緒に平良港近くにある顕彰碑を見に行きましたが、優等生だった彼女が「何でサバニが飾ってあるのか分らなかったさァ」と言っていたくらい忘れ去られつつあるのですから、沖縄県民の愛国的行動として、もう一度、描いて欲しかったです(彼女も野僧の説明で感激していました)。

最後に「連合艦隊」についてですが、太平洋戦争の間、日本海軍の作戦は一貫して連合艦隊が行っていたため、現代の日本人は日本海軍=連合艦隊だと思っていますが、本来は常備艦隊(現在なら自衛艦隊)に各鎮守府(同地方隊)の艦艇を加えて臨時に編制するものです。だから終戦後にこのような名分が生まれたのです。
連合艦隊解散の辞
二十閲月ノ征戦スデニ往時ト過ギ、我ガ連合艦隊ハ、今ヤ、ソノ隊務ヲ結了シ、茲ニ、解散スルコトトナレリ、然レドモ、我等海軍々人ノ責務ハ、決シテ之ガ為ニ、軽減セルモノニアラズ、此ノ戦役ノ収果ヲ永遠ニ全クシ、尚益々、国運ノ隆昌ヲ扶持センニハ時ノ平戦ヲ問ハズ、先ズ外衝ニ立ツベキ海軍ガ、常ニ、其ノ武力ヲ海洋ニ保全シ、一朝緩急ニ応ズルノ覚悟アルヲ要ス、而シテ、武力ナルモノハ艦船兵器等ノミナラズシテ之ヲ活用スル無形ノ実力ニ在リ、百発百中ノ一砲、能ク百発一中ノ敵砲百門ニ対抗シ得ルヲ覚ラバ、我等
軍人ハ主トシテ武力ヲ形而上ニ求メザル可ラズ、近ク我ガ海軍ノ勝利得タル所以モ、至尊ノ鑾徳ニ頼ル所多シト雖モ、抑亦平素ノ練磨其ノ因ヲ成シ果ヲ戦役ニ結ビタルモノニシテ、若シ、既往ヲ以ッテ推ストキハ征戦息ムト雖モ、安ジテ休憩ス可ラザルモノアルヲ覚ユ、惟フニ、武人ノ一生ハ連続不断ノ戦争ニシテ、時ノ平戦ニ由リ、其ノ責務ニ軽減アルノ理無シ、事有レバ武力ヲ発揮シ、事無ケレバ之ヲ修養シ、終始一貫其ノ本文ヲ尽サンノミ、過去一年有半、彼ノ風濤ト戦ヒ、寒暑ニ抗シ、屡頑敵ト対シテ死生ノ間ニ出入センコト固ヨリ容易ノ業ナラザシモ、観ズレバ、是レ亦、長期ノ一大演習ニシテ、之ニ参加シ、幾多啓発スルヲ得タル武人ノ幸福比スルニ物無ク、豈之ヲ征戦ノ労苦トスルニ足ランヤ。苟モ武人ニシテ治平ニ偸安センカ、兵備ノ外観巍然タルモ、砂上ノ楼閣ノ如ク暴風一過忽チ崩倒スルニ至ラン、洵ニ戒ムベキナリ。昔者神功皇后三韓ヲ征服シ給ヒシ以来韓国ハ四百余年我ガ統理ノ下ニ在リシモ一タビ海軍ノ廃頽スルヤ忽チ之ヲ失ヒ又近世ニ入リ徳川幕府治平ニ狃レテ兵備ヲ懈レバ挙国米艦数隻ノ応対ニ苦ミ、露艦亦千島樺太ヲ覬覦スルモ之ニ抗争スル能ハザルニ至レリ、飜テ之ヲ西史ニ見ルニ十九世紀ノ初ニ当リナイル及ビトラファルガー等ニ勝チタル英国海軍ハ祖国ヲ泰山ノ安キニ置キタルノミナラズ、爾来後進相襲テ能ク其武力ヲ保有シ世運ノ進歩ニ後レザリシカバ今ニ至ルマデ永ク其国利ヲ擁護国権ヲ伸張スルヲ得タリ、蓋シ、此ノ如キ古今東西ノ殷鑑ハ為政ノ然ラシムルモノアリシト雖モ、主トシテ武人ガ治ニ居テ乱ヲ忘レザルト否トニ基ケル自然ノ結果タラザルハ無シ、我等戦役ノ軍人ハ、深ク此等ノ実例ニ鑑ミ、既有ノ練磨ニ加フルニ戦役ノ実験ヲ以テシ、更ニ将来ノ進歩ヲ図リテ時勢ノ発展ニ後レザルヲ期セザル可ラズ、若シ夫レ常ニ聖論ヲ奉体シテ、孜々奮励シ、実力ノ満ヲ持シテ放ツベキ時ヲ待タバ庶幾クハ以テ永遠ニ護国ノ大任ヲ全ウスルコトヲ得ン、神明ハ唯平素ノ鍛錬ニ力メ、戦ハズシテ既ニ勝テル者ニ勝利ノ栄冠ヲ授クルト同時ニ、一勝ニ満足シテ治平ニ安ズル者ヨリ直ニ之ヲ褫フ、古人曰ク勝テ兜ノ緒ヲ締メヨト。
明治三十八年十二月二十一日 連合艦隊司令長官 東郷平八郎
- 2013/05/26(日) 08:11:53|
- 日記(暦)
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これは法話の会で話すと爆笑が起こる得意ネタだったのですが、本山批判と体罰容認、さらに内情告発の三重の罪で即刻却下でした。野僧としては現役の教員たちに「殴るくらいなら」と言う提案のつもりもあったのですが残念です。
最後の一言はマスコミが指摘しない事実を代弁したつもりでしたが、余計なお世話だったようです。
航空自衛隊の体罰
以前、京都にある禅宗の本山で修学旅行の体験坐禅で生徒に警策(けいさく)を入れたところ「体罰だ」と騒ぎ出し、本山が謝罪したと言う馬鹿げた話がありました。ところで自衛隊は世界で唯一の体罰を行わないミリタリーと呼ばれています。ただ、それは殴打しないと言う意味で、言って判らないことを身体で解らせる指導は当然やっており、野僧の時代は腕立て伏せでした。しかも指導力不足・監督不行き届きの責任を取って教官、指揮官も一緒にやるのです。ある日、当直について学生を入浴に行かせる前、「脱衣籠を片づけろ。後で点検して残っていた数かける十回、腕立て伏せをやらせるぞ」と宣言しました。そして点検すると十六個も片づけてありません。夜の点呼の後、残っていた数を発表すると学生からは悲鳴が上がりましたが、仕事に妥協しないのが航空自衛隊です。野僧は「腕立て伏せ用意」の号令をかけるとコの字型に並んだ学生たちの中央で腕立て伏せを始め、百六十回の腕立て伏せを終えた時、窓から見ていた他の中隊の学生たちから拍手が起こりました。翌朝、出勤してきた中隊長は「ウチの学生は挨拶だけで敬礼をしないんだよな」と不思議がっていましたが、それはそうでしょう、筋肉痛で腕が上がらないのです。(それにしても今の子供は殴られ方が下手すぎます。経験がないのですか?)
(下関市・托鉢僧)5月29日・5回予定
- 2013/05/25(土) 09:31:02|
- 「東流西流」却下原稿
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これはいじめを肯定しているから却下と言うことでした。しかし、野僧にいじめを語らせれば親や親戚から受けてきた精神的虐待や中学校での地獄のような日々などこんなものではすみません。
当たり障りのない記事にするためには刺激的な内容を切る。NHKのニュースがつまらないのと同じことが山口新聞にもあるようです。
負けじ魂
我々、一般空曹候補学生はわずか二年で一律に昇任するため仕事ができない空曹(下士官)になることは必然で、先に入隊した古参空士(兵)だけでなく、新隊員出身の空曹たちからも「駄目な奴」「不用品」と馬鹿にされていました。さらに野僧は七期であったため、ある程度経験を積んだ曹候学生の先輩たちからは「足を引っ張るな」「恥を晒すな」と突き放されるばかりで孤立無援、基地内生活だけに常時監視状態だったのです。ある補給隊の同期は古参空士たちから段ボール箱に梱包されました。そして夕方、その同期がいないと大騒ぎになったところへ入間基地から「お宅の隊員が箱の中で泣いている」と電話が入りました。彼は「絶対に声を出すな」と言われたので黙ったままトラック、輸送機に乗せられ、伝票通りに入間基地まで送られてしまったのです。当時、部隊では「曹候を辞めさせれば空士の昇任枠が広がる」と言う根拠のない風聞が広まっていて、いじめは決して悪戯などではありませんでした。そんな曹候学生には「早く実力をつけるしかない」と気負う者と、「はい、はい」といじめなど蛙の面に水と受け流す者がありましたが、現在も各分野で異彩を放っている同期たちを見ると、いじめによって鍛えられることも確かにあるようです。一般空曹候補学生課程の精神徳目は「負けじ魂」でした。
(下関市・托鉢僧)5月22日・4回予定
- 2013/05/22(水) 09:31:39|
- 「東流西流」却下原稿
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今回のテーマは幹部と空曹の役割のようでした。
野僧が昔、愛した彼女のアメリカ空軍軍人の両親は母が少佐、父は軍曹でしたが、家庭では父が決定権を持っていました。当時、空曹になったばかりだった野僧に父は「アメリカ空軍にはオフィサー(士官)の空軍とエアマン(兵士)の空軍がある」と教示しました。つまりやっている仕事、果たしている役割が違うと言うことです。また母は「オフィサーはロマンチスト、エアマンはリアリストがなる役職だ。貴方はロマンチストだからオフィサー向きだね」と笑っていました。
陸海空自衛隊では階級に対する意識は全く違います。友人の陸の幹部は航空自衛隊の空曹、時には空士までが幹部に対してもハッキリ意見を言うことに不快感を示し、「陸曹は家畜、陸士は道具、家畜は鳴くことぐらいは許すが、道具は使い捨てだ」と言っていました。
また別の陸の幹部は航空自衛隊の航空団を研修した後、空士の整備員が戦闘機の英語を交えて説明することに驚きながらも、空士に説明させたことを怒っていました。
その点、海は帝国海軍がイギリス海軍に学んだこともあり、幹部は貴族、海曹・海士は庶民と言う一線があるようで、幹部は幹部の、海曹士は海曹士の論理で動いているようでした。
一方、空は少し複雑で、幹部が第1線に立つパイロットや兵器指令官(コントローラー)を除けば、現場で航空機を整備するのは熟練した空曹と働き者の空士であり、整備幹部はあくまでも現場監督です。つまり汗して働く空曹・空士とその仕事を管理する幹部と言う民間企業の労使に通じる関係なのです。
ドラマの中で比嘉1曹が昇任試験を受けないことを「七不思議」と言っていましたが、これは実際にあることで、野僧の時代は強制受験でしたが、昇任してから転属などの待遇に不満を持って退職する幹部が続出したため、その後は希望者だけになりました。
車力に勤務している時、野僧の小隊にドラマの比嘉1曹によく似た極めて優秀な若い空曹がいたのですが、彼の「幹部候補生の受験したくない」と言う申し出に同意しました。
野僧は「所詮、部内出身の幹部は隊長止まり。彼の能力は航空方面隊などの先任曹長(民間企業で言う労組の組合長のような仕事)になった方が航空自衛隊のためだ」と考えたのですが、実際に狙い通り30代半ばで空曹長になって幹部学校で勤務しているようです。
ただ、空曹はリアリストですから、鷺坂1佐が言っていたようなノウハウを維持すると言うような高い次元の理由よりも、居心地の好い職場や居住環境、子供の教育などが本音でしょう。
野僧は単なる管理職に過ぎない航空自衛隊の幹部にはなりたくないと、当時、大卒者と同等の学力があれば=学科試験が通ればOKと開放された海上自衛隊の一般幹部候補生を受験し、学科は通ったものの2次試験で落ち、強制受験させられていた航空自衛隊の部内幹部候補生になる羽目になったのです(幹部候補生学校から江田島研修に行って一緒に1次試験を受けた女性に会い、「航空の枠で合格したんですね」と誤解されてしまいましたが)。
任官した野僧は嵐の海を乗員と共に乗り越える海軍士官の気持ちで現場に立ち、陣頭指揮を執る幹部足らんと努めていましたが、管理職で満足している暇な部隊の人たちの中では浮いてしまっただけでした。
ドラマの中で、空井2尉が浜松の飛行隊長と百里の隊長の全裸でトイレットペーパーの褌で踊る宴会ネタで盛り上がる場面がありましたが、航空自衛隊の宴会芸には定評があります。
中でも浜松には「蝶々」と言う伝統芸があり、これはパイロット学生がウィングマーク(飛行資格)となり卒業する時の宴会が終わる前、両手足を同期が掴み、「ちょうちょ、ちょうちょ、菜のはにとまれ・・・」と唄いながら上下に振るのです。
かなり酔っていますから振っている方は足がふらつき手元が狂って顔面から床に叩きつけ、振られている方も酔いが回って吐いてしまいます。
翌朝の朝礼で見送る時、唇を切り、鼻血を出しているパイロット学生がいると一段と大きな拍車が起こったものです。これは全員がやりますから苛めではありません。
そして前回、百里の編隊飛行を見てパイロットの技量の低下を痛感しましたが、浜松は流石に教官パイロットだけに中々でした。
逆に言えばあの頃の第1線部隊には現在の教官並みの技量を持ったパイロットが揃っていたと言うことでしょう。
今回、注目を浴びていたT-4は川崎重工製ですが、酸素を今までのようにタンクで積むのではなく外気を圧縮して供給すること、脱出する時にキャノピーを吹き飛ばすのではなくガラスの中の爆薬で破砕すること、さらに機体重量を越えた推力を持った強力なエンジン、軽快な運動性能などの画期的な新技術満載の傑作機です。
惜しむらくはヨーロッパのアルファジェットのようにポットを装着することで攻撃機として使用できれば良いのですが、各企業にオーダーした開発プランが「練習機」だったため余技の性能を加えることができませんでした。ただ、野僧が現役の頃は「肥満イルカ」とは呼んでいましたが、ドルフィン(=イルカ)とは言っていませんでした。
日本の航空機メーカーと言えばどうしてもゼロ戦の三菱重工のイメージがありますが、T-2練習機とF-1戦闘機は色々な既製品の寄せ集めだったのに対して、川崎重工のC-1輸送機も傑作と言える画期的な性能を持っていますから技術力は数枚上です。
ちなみに川崎機重工の前身は1式戦・隼の中島航空機です。
富士重工も航空機メーカーですが、こちらはT-1練習機以外はプロペラ機専門です。
もう一つ、空井2尉が熱弁を振るっていたスピットファイアーのロールスロイス社のエンジンですが、三菱重工のT-2・F-1もロールスロイス社製でした。
ちなみに東風の時、太平洋上の訓練空域から浜松基地へ戻るには豊橋上空で右折し、浜名湖を越えて徐々に高度を下げてランディング(着陸)するのです。一方、西風では天竜川に沿って北上し、東名高速道路で左折して降りてきます。
それにしても今回は浜松が舞台だったので、「何故、あそこで死ねなかったのか」との想いがこみ上げてきて号泣してしまいました。

浜松・第1航空団
- 2013/05/21(火) 09:54:38|
- 「空飛ぶ広報室」解説
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1575(天正3)年の明日5月21日(太陰暦)に織田・徳川連合軍(と言っても織田は3万、徳川は6千でした)VS武田最強軍団が雌雄を決した設楽が原の合戦が行われました。ただ、この合戦は、それ以前の長篠城攻囲戦からの最終幕でもあり、長篠の合戦に一括りにされることもあります。
設楽が原の合戦は織田の足軽鉄砲隊が最強を誇った武田騎馬軍を打ち破った時代の変革を告げた戦さとして有名ですが(本格的な銃撃戦は紀州・雑賀孫一との戦いで既に行われていた)、1つ疑問なのは現在の設楽が原で鉄砲の弾がほとんど見つからないことです。
関ヶ原や長岡、会津、田原坂などの激戦地では今でも田畑などを耕作していると鉄砲の弾が出てきて困るそうですが、設楽が原では高校や道路を建設した工事の時もこのような話は聞きませんでした。
織田鉄砲隊3千丁が言い伝えのとおり3段交代で射ち続ければ、3回射ったとしても9千発は弾が発射されたことになり、意外に狭い設楽が原にはかなり埋まっているはずです。
これが金になる物であれば、せこい東三河の呑百姓どもが拾ったとも考えられますが、鉛の弾では金具にもなりませんから、それもないでしょう。
また武田流の軍学書「甲陽軍鑑」にも織田鉄砲隊に関する具体的な記述は見当たりません。
そこで野僧の推察ですが、実際に鉄砲で射ったのは馬で、討ち漏らした騎馬は馬防柵で封じておいて槍隊で武者を突き殺したのではないでしょうか。
馬は火縄銃で射たれたくらいでは致命傷にはならず、後で屠殺したとすれば弾丸が土中に残らないので、それほど見つからないのも理解できます。
長篠の合戦は奥平貞昌(後に信長から1字もらって信昌と改名)が籠城する長篠城を武田軍が攻囲したことから始まります。
その前半のハイライトは援軍を要請するため暗夜に城を抜け出し、川を泳ぎ下って岡崎に走った鳥居強右衛門勝商(かつあき)の忠節譚でしょう。
勝商は岡崎まで到着していた織田信長にも会い、一緒に長篠へ向かうように勧められますが、この吉報を城兵に伝えたいと先に長篠へ戻り、武田軍に捕縛されてしまいます。
そこで武田勝頼の前に引き出され、「援軍は来ない。降伏せよ」と言えば命を助け、家臣に取り立てると言われて応諾したのですが、実際には「2、3日のうちに織田、徳川の連合軍、3万5千が来援する。あとひと頑張りだ」と城兵を励ましたため磔になりました。
作手の領主だった奥平氏は後に豊後国中津の藩主となりますが(前野良沢や福沢諭吉を輩出した開明の英君です)、この合戦を「開運の戦」と呼んで家臣一同が子子孫孫まで語り継いだそうで、野僧も東三河よりも中津出身の友人から色々な話を聞きました。
長篠の合戦の後半のハイライトは敗走する武田軍の最後を飾った武田四天王の1人・馬場信春でしょう。馬場は他の老臣たちと設楽が原で雌雄を決しようと気にはやる勝頼を諌めましたが受け容れられず(攻囲では騎馬軍団の機動力が発揮できないため理解はできる)、合戦後は味方の敗北を見極めて徹底を進言して勝頼の退路を守るため反転し、追撃してくる織田・徳川軍の前に立ちはだかりました。そして40数年間、武田3代に仕え、70回以上の合戦に参加しながらかすり傷一つ負わなかった不死身の鬼美濃・馬場信春は寒狭川沿いの山間の道で果てました。
1つ、告白しておかなければならないのは、この合戦や野田城攻囲戦など、この地域で行われた戦いの後、野僧の先祖が地主をしていた土地で多くの武将が死んでいます。
つまりウチの先祖が落ち武者狩りに精を出していたのでしょう。野僧の出家はその業を埋めるためなのかも知れません。

奥平家の出身地、新城市作手の古城祭りの鉄砲隊(八重の桜のような女性射手です)
- 2013/05/20(月) 09:01:37|
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1935年の明日5月19日に「アラビアのロレンス」と呼ばれたトーマス・エドワード・ロレンスがバイク事故で死去しました。46歳でした。
あの映画の冒頭は事故と葬儀のシーンでしたので、かなりリアルに記憶していますが、没年は1935年、昭和10年です。その頃の日本で遊びにバイクを乗り回すことが出来た人がどれ程いたのでしょうか。
もう1つ、ロレンスがアラビアの独立運動に関わって母国・イギリスを裏切ったと批判されるストーリーを見て、マハトマ・ガンジーの指導によりインド独立が達成された戦後の話かと思っていましたが、両者とも活動を本格化させたのは1910年代ですから、第2次世界大戦で中断していたと言うことのようです。映画を見たのは中学生の頃で、あの中学校では教師が知らないような質問は許されませんでしたから理解はそんなものでしょう。
ところで野僧は最近、年表を眺めながらの歴史教育が必要でないかと考えています。
西洋史と東洋史、アジアでも中国とインドをバラバラに学んでいると同時期に起こっていた他の地域の史実と比較することや関連を推察することが出来ません。世界地図と年表を眺めながら歴史を学べば思考は地球規模に広がります。
野僧がアラビアを理解したのは高校時代に世界哲学全集のコーランを読んでからです。
その後、コーランを愛読書にしていましたが、ムハンマドが啓示を受けたアッラーの言葉を綴った散文集なので一気に読むよりも、気分で拾い読みした方が好いかも知れません。
イスラム教徒に聞かれると「このような読み方はコーランの冒瀆だ」と怒られるかも知れませんが、異教徒、それも宗教者が愛読していたことを認め、お許しいただきたい。
その前にコーランはアラビア語以外に翻訳することを禁じられていますが、アラビア語は読めませんので何卒お許しを・・・。
それにしてコーランを読む時のBGMにはこの映画のテーマが最高でした。
読みながら「なぜ砂漠が好きなのか?」「清潔だから」と言う名台詞が浮かび、目の前に砂漠が広がる気分が味わえましたから。
- 2013/05/18(土) 09:24:50|
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この原稿は航空自衛隊の内情を暴露し、本山を皮肉っているから却下とのことでした。
しかし、野僧は航空自衛隊の粗探しに躍起になっていた記者たちの姿を見ていましたから納得できず、再度、理由の説明を求めました。
すると記者が第3者的な目で見つけるのと、内部にいた者が告発するのでは重みが違うと言うことですが、航空自衛隊を賛美するような内容が気に入らないのでしょう。
命がけの掃除とは
本山などでは新到(新人)に掃除をさせる時、「命がけでやれ」などと言いますが、本当に命のかかった掃除をしたことがあるのでしょうか?航空自衛隊では全ての業務が日本を守るため、その任務を遂行するパイロットの命を守るために行われ、例えば整備員が格納庫の床を掃除する時には脱落した部品がないかを細心の注意で探し、最終点検として機体を磨き上げます。これは整備員だけでなく、ある事故では殉職したパイロットが十分な食事をとっていたかが問題になって、メニューや調理を調べられました。さらにある基地に雷雨の予報が出ていたため別の基地へ着陸しようとした戦闘機が墜落してパイロットが殉職し、その予報が外れたことで気象隊の予報官は処罰されました。天気予報が外れて処罰されるならテレビの予報士さんはどうなるのでしょう。また、新型機の部品が納入された時、受け入れた補給処では数万個に及ぶ部品を全て徹夜で検査しました。それは一個でも不具合があって航空機が墜落すればパイロットが命を失い、受け入れが遅れれば国防に穴が開くと言う責任の遂行でありました。この費用対効果を無視した仕事を「航空自衛隊的お役所仕事」と呼んでいました。ただ、野僧は掛塔(かとう・かた)した僧堂で古参和尚に「本当に命をかけましょうか?」と訊いて怒らせてしまいましたが。
(下関市・托鉢僧)5月15日・3回予定=却下になったのは前回です。
- 2013/05/15(水) 09:07:13|
- 「東流西流」却下原稿
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今回は「航空自衛隊のなりそこない」高射隊の馬鹿丸出しぶりに腹が立ってしまいました。
野僧は高射部隊に勤務したことがあり、機動展開訓練に何度も参加しましたが、要は車列を組んで移動するだけのことで、大きな運送会社なら日常の業務としてやっているでしょう。それを大名行列よろしく「下に」「下に」と安全速度と称する制限速度以下の低速で、追い抜きも出ない大型車両を連ねて一般道を塞ぎ、大渋滞を起こすのですから後続の民間車両の皆さんに申し訳ない気分でした。野僧は輸送幹部として車両の間隔を500メートル以上あけるように意見具申しましたが、「それでは指揮が出来ない」と隊長から否定されました。
それに交通事故を一大事にして大騒ぎするのも高射部隊です。航空部隊や警戒管制部隊では航空機事故こそが一大事であり、地上での交通事故は自衛隊車両が民間人に被害を与えるか、死亡・重傷事故でなければ業務として淡々と処理し、あのように仰々しく口頭報告することはありません。尤も「陸上自衛隊の腐った奴」航空教育隊では、隊員の私有者の接触事故まであの調子で、大騒ぎした後、平然と揉み消すための相談を始めますから、さらに性質が悪いです。
一方、高射部隊の訓練は全く大したことがありません。野僧は元兵器管制幹部なので高射のORチェックの学科は簡単にパス、あとは実技だと見学したのですが、重々しい指揮所トレーラーの中でやっていることはファミコンよりも幼稚なゲームで、攻撃の優先順位の選定や残弾の確認などの戦術判断もなく「射て」「射て」とやみくもに発射しているだけなのを見て(あくまでもゲーム上)、やる気は霧散しました。
野僧が春日の防空指揮所に勤務している時、夜勤に上番すると芝生のグランドに木立が現れていたことがありました。それは陸上自衛隊の高射特科群の指揮所が機動展開してきたのですが、レーダーから通信機、車両まで偽装網で覆い、木の枝を差し込んで偽装した上、迷彩服に偽装をした歩哨が展開期間中立っていたのです(陸の指揮官は「陣地は掘れないので偽装だけです」と残念がっていました)。
おまけに地下25メートルの静かなレーダールームに迷彩服、完全武装の隊員たちが乗り込み、コンソールの前で「気をつけ」「右へならえ」と整列し、「敬礼」「報告します。XX2尉以下2名、射撃指揮に上番します」と大声で申告しました。野僧が「静かに願います」と注意すると止めましたが、無線を使って号令を掛けているのには驚きました。
しかし、陸上自衛隊の高射特科のホーク部隊はやるべきことを馬鹿正直にこなしていましたが、航空自衛隊の高射部隊は万事が真似をしているだけで、幹部は機動展開をするための交通法規や車両部隊の指揮要領を学ぶことはなく、陣地構築や警備すら無知・無関心です。さらに空曹士も操縦技術を磨く気がなく、ミサイルを積んだトレーラーで左折が出来ず、交差点の真ん中で輸送のドラーバーと交代してもらう始末でした。
ところで番組の中で「高射ミサイルは最後の盾」と言う台詞がありましたが、これも軍事常識の理解不足です。
航空基地を前線に建設すれば簡単に攻撃を受けてしまうため、ある程度の間合いをとる必要がありますが、そのため敵の航空攻撃を迎撃するのにある程度の時間が必要になり、最前線の地域は敵の脅威に晒されるため、そこで高射部隊を配置するのです。
野僧は幹部学校の防空作戦のシュミレーションで根室、稚内地域に全高射部隊を集中配置した上、味方航空機の立ち入り禁止空域に指定して、自由射撃で迎撃させることとしました。
すると他の学生グループがどのように計算しても千歳、三沢から発進した戦闘機では国後、樺太からの攻撃機を迎撃できないのに、野僧のグループの案では完全に防空の任を果たせました。
ところが高射幹部の2佐の教官は「これでは敵の侵攻が早まった時、隊員が逃げ切れない」と否定したので、野僧は「だったら地上でも戦うように武器を持たせましょう」と答えました。
それにしても戦争でも任務の遂行より逃げることを優先するのが高射幹部なのです(この教官は後に高射群副司令として野僧の直属上官になりました)。
最後に「所詮は役者さんだ」と感じたのは、向きを変える時に基本教練の「回れ右」「右向け右」などの動作をせずに流していたことで、野僧は坊主になってからもそれが抜けずに困ったくらい身に染みつくものなんです。
ところで空井2尉が稲葉さんからのプラィベートな誘いをためらう場面がありましたが、元パイロットらしくないです。野性的体力で勝負のパイロットは好みのメスがいれば攻撃あるのみ、他人の彼女でも奪うくらいの根性と生命力がなければ生き残れません。
- 2013/05/14(火) 09:45:31|
- 「空飛ぶ広報室」解説
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1932(昭和7)年の明日5月15日に官邸で犬養毅首相が暗殺された5・15事件が起きました。
この事件は1929年の世界恐慌で困窮した国民を救済することなく汚職と権力争いに明け暮れる政治家に失望した海軍の若手将校が起こしたと言われていますが、1930年のロンドン海軍軍縮条約に反発していた海軍中尉・藤井斉(事件前に大陸で戦死)らの若槻禮次郎首相を襲撃する計画が伏線にあります。
ところが若槻内閣は1932年2月20日の総選挙で立憲政友会に大敗して退陣、犬養毅内閣に政権交代したのです。
犬養首相は1931年に陸軍が起こした満州事変を黙認し、陸軍との関係は良好でしたが、ロンドン条約に関する動きはなく政権交代も事件を思い止ませることにはなりませんでした(この手の過激な連中は条約を破棄しなければ納得しないでしょう)。
事件では表門5名、裏門4名で首相官邸を襲い、食堂にいた犬養首相を表門組の三木卓海軍中尉が発見して拳銃で撃ったものの弾が入っておらず未遂、首相自身に案内され応接間へ移動、そこで「話せばわかる」「問答無用」と言い合っているところへ裏門組が到着して発砲、弾丸は腹部に命中し、三木中尉が頭部を撃って致命傷を与えました。しかし、即死はせず、首相は意識を失うまで「先ほどの将校を呼べ、話して聞かせることがある」と言っていたそうです。
それでも三木中尉は事件後の軍法会議で懲役15年の判決を受け、6年後の昭和13年に仮出所しています(2・26とは違い、個人参加だったので罪は軽かった)。
もう1つ、この事件は首相を暗殺したテロだけではなく、古賀清志海軍中尉や中村義雄海軍中尉などの別動隊が日本銀行、三菱銀行、与党・立憲政友会、変電所6カ所を襲撃して手榴弾を投げるなどしましたが破壊は出来ず、さらに牧野伸祥顕内大臣邸にも拳銃を発砲しました。それにしても牧野伯爵は2・26事件でも襲われましたから憂国の士(不満過激分子と言うべきでは?)にとって余程許せない人物だったのでしょう。
この歌の作詞・作曲は三木卓中尉ですが、同姓同名の作家さんとは別人です。
昭和維新の歌
1、泪羅(べきら)の淵に 波騒ぎ 巫山(ふざん)の雲は 乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に 我れ起てば 義憤に燃えて 血汐沸く
2、権門(けんもん)上(かみ)に 驕れど 国を憂うる 誠なし
財閥富を 誇れども 社稷(しゃしょく)を思う 心なし
3、ああ人栄え 国滅ぶ 盲(めし)いたる民 世に躍る
治乱興亡 夢に似て 世は一局の 碁なりけり
4、昭和維新の 春の空 正義に結ぶ 益良雄(ますらお)が
胸裡百万(きょうりひゃくまん) 兵足りて 散るや万朶(ばんだ)の 桜花
5、ああうらぶれし 天地(あめつち)の 迷いの道を 人は行く
栄華を誇る 塵の世に 誰が高楼(こうろう)の 眺めぞや
6、功名何ぞ 夢の跡 消えざるものは ただ誠
人生意気に 感じては 成否を誰か あげつらう
航空自衛隊幹部候補生学校の学生用隊歌集には歌の題名だけが記されていて、野僧は歌詞カードを自作して中隊朝礼で練習させました。ところがその年の夏に公開された映画「2・26」で歌われたのですが、野僧が陸軍将校だった大叔父から習った曲と微妙に違い困りました。
- 2013/05/14(火) 09:43:16|
- 日記(暦)
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第2次世界大戦が終わって間もない1948年の明日5月14日にイスラエルが建国しました。
昔、この物語を描いた「Exodus」と言う映画があり日本では「栄光への脱出」と訳されていましたが、本来は旧約聖書の「出エジプト記(モーセに率いられたユダヤ人が割れた紅海を渡ってパレスチナへ逃れた物語)」のことです。しかし、「何千年前、ここは俺たちの先祖の土地だったのだから明け渡せ」と言われても、「はい、分かりました」とは中々いくものではないでしょう。
この背景には連合国はナチスのユダヤ人差別、虐待を黙認し、協力した経緯があり、ナチス・ドイツの敗戦によって経済的資本を取り戻し、政治的発言力を強めたユダヤ人をなだめるための窮余の策だったのです。
ただ、ユダヤ人が入植を始めた当初、心優しいパレスチナの民は新たな隣人に食料を分け与え、耕作を手伝ったりしていたそうですが、ユダヤ人はその恩を仇で返し、アメリカを中心とするユダヤ人財閥からの送金で都市を建設し、武器を買い揃え、力を強めるとパレスチナの民を荒野に追い払い、それに対抗して攻撃してきた周辺のイスラム諸国を返り討ちにして、幾度も戦争を繰り返してきました。
現在でもユダヤ人財閥はアメリカ政界に絶大な力を持ち、誰が見てもイスラエルに非がある暴挙にもアメリカ政府は一貫して擁護し続け、有効な手を打てないでいることが、中東情勢の混迷を深めているのでしょう。それは東アジアの北朝鮮問題における中国の立場に通じるモノがあります。
ところで野僧が住む山口県西部の旧豊浦郡(現・下関市)には朝鮮戦争当時、北朝鮮の奇襲により釜山付近にまで追い詰められていた韓国の亡命政府を受け入れるための6万人程度の都市を作る計画がありました。
若し、それが実現していれば豊浦町、豊北町には韓国人があふれ、占領を受けている敗戦国に遠慮などすることなく好き勝手に振る舞い、地元住民の間に不満は怨讐となって鬱積していったことでしょう。
また鎌倉時代から戦国時代まで山口を治めていた守護大名・大内氏は百済の琳聖太子の末裔を名乗っておりましたから、亡命韓国人たちはパレスチナに入植したユダヤ人と同様に「山口は元々、韓国の領土だった」と言い出しかねません。こうして考えてみると山口県はイスラエルの問題を考えるには絶好のロケーションを持つ土地のようです。
ただ、イスラエルではナチスの迫害から逃れるユダヤ人を助けた樋口季一郎中将や杉原千畝公使は今でも尊敬を集めており、一方、小泉純一郎政権がブッシュ大統領との個人的友情を守るためイラクへ自衛隊を派遣するまではイスラム教国に民主主義と言うキリスト教の倫理を押し付けない先進経済大国として親しみを持たれていました。
ここでどちらが好きかを論じても意味はありませんが、アメリカを通してのみの海外情報では事態の本質は見えてこないことは確かです。
1つ雑学をオマケすれば、ヘブライ音楽であるイスラエルの国歌は「君が代」と同じく世界でも珍しい暗い曲の歌だと言うことです。君が代は本来の雅楽で演奏すると軽くて明るい恋歌なのですが、西洋音楽にすると根暗で気が沈む歌になってしまいます。
野僧はやっぱりスリランカの童謡のような国歌が好きです。
- 2013/05/13(月) 09:35:26|
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1401年(応永8)年の明日5月13日に足利義満が遣明使を派遣し、勘合貿易が始まりました。
足利義満と言えば一休さんに一本取られる「将軍様」ですが、年齢差から言うと一休さんが小坊主だった時には隠居・出家していたので頭は剃っていたはずです。ついでに言えば一休宗純禅師の小坊主の頃の名前は「周建」でした。

中国と日本の国交は宋の時代には盛んでしたが、モンゴルの圧迫に追い詰められた宋からの亡命者の一方的な情報を鵜呑みにした執権・北条時宗の判断ミスで起こった元寇で断絶し、その後、足利尊氏が南北朝の戦没者供養のため天龍寺の創建を発願し(一説によれば後醍醐天皇の幽霊に悩まされたため)、その資金獲得のための造天龍寺宋船(この時代も中国と往復する船は唐船や宋船と呼ばれていました)で貿易を再開したものの倭寇によって途絶、明によって漢民族の国家が再興してからも倭寇の被害が続き外交は進展できませんでした。
そこで義満は明から招いた外交使節を最大限に款待したばかりでなく、日本の朝廷よりも明国皇帝に忠節を尽すとまで表明したそうです。
ですから義満は明の皇帝から「日本国王」の称号を与えられ、印も授けられたのですが、日本の天皇は中国や朝鮮では皇帝と認められておらず、あくまでも国王扱いですから義満はこれと同格になってしまったのです。この頃の足利将軍家は南北朝の混乱を終息させた実力者として立場はかなり強まっていましたが、取って代わろうとした訳ではないでしょう。
このことは秀吉の朝鮮侵攻で断絶していた韓国との国交を江戸幕府が回復する時にも、将軍の称号をどうするかで政治問題になりました。外国で将軍は軍の高級幹部に過ぎず、政治的権限は有していないため通用せず、間に立っていた対馬の宗家は無断で「国王」の称号に改ざんしたのです。結局、紆余曲折の末「大君(たいくん)」と言う称号が作られました。
勘合貿易と言うのは、倭寇の海賊船と公式な貿易船を見分けるために日明双方で切り分けた勘合札を持たせたことによります。
その程度の審査票が偽造されなかったと言うのは少し信じがたいですが、それが有効に機能したから江戸時代に明が滅びても清に引き継がれても交易は続いたのでしょう。
これは中国には媚を売れば仲良くなれると言う好例でしょうか?ヒョッとして外務省はいまだにそれを踏襲しているのかも知れませんな。
- 2013/05/12(日) 00:08:43|
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1980(昭和55)年の明日5月12日に金剛禅・日本伝少林寺拳法の開祖・宗道臣(本名・中野理男)師が死去しました。
開祖が亡くなって数カ月後に野僧は高松、善通寺、金毘羅、祖谷渓、高知などの四国を長期旅行したことがありますが、多度津の少林寺には開祖の遺骨が納められている大雁塔がわずか半年の突貫工事で建立されていました。後年、野僧は航空自衛隊に入り、日本拳法から少林寺拳法に移ることになりますが、この時はただの観光客でした。
少林寺拳法は当時の国鉄職員と善通寺の陸上自衛官が多数門弟になったため、国鉄職員の異動で四国の国鉄沿線沿いから西日本に流れ、陸上自衛官の転属でいきなり北海道に伝わって、そこから全国に広まったようです。
ただ、当時の国鉄職員には左翼過激派である国労組合員もいたため、税金泥棒、憲法違反と批判されていた自衛官とあまり仲がよくなくて、開祖も門弟の思想教育には気を使っていたそうです。
また、開祖の技は非常に軽い円運動で、例えば相手の攻撃を受けるにも、腕で払うだけでなく、体重を移して身体を逃し、受けた後、自然に反撃をするようなものだったそうです。
その点、他の武道出身者、特に陸上自衛官の銃剣道は直線的な動きなので、手足の動きだけしか身につかず、それが北海道に伝わり、そこを起点に全国の自衛隊へ広まったため現在では空手などとあまり変わらない日本的な形になってしまったようです。
このため少林寺拳法は中国武術であるとすることを否定しようとする他の武道流派は少林寺拳法の技は開祖が日本の柔術から模倣したモノであると主張していますが、剛法でも突きに対する防御は、掌で相手の拳を受け流す日本拳法と比べて、少林寺拳法は前述のように身体を逃がしながら腕を使って跳ね上げますから、本質的な点で相違があります。
柔法でも関節を押し曲げることが中心の合気道に比べ、支点を固定した捻りであり、経絡秘孔(ツボ)を圧迫する効果も狙っていて、やはり構造が違うようです。
ちなみに経絡秘孔は強く力を加えれば攻撃ですが、適度に刺激すれば整法(整体マッサージ)になります。ただ、少林寺拳法の整法は一般的なスポーツマッサージと逆の動きをすることもあり、両方習った野僧としては施術に迷うところです。
少林寺拳法は占領下、武道が禁止されていた時期に宗教法人として発足したこともあり、聖句、道訓などの教典を稽古の前に唱和ますが、この聖句は法句経(ダンニパタ)の第160句と165句であり、道訓は佛教よりも中国の道教に通じるように思っています。
聖句
己こそ 己のよりベ 己をおきて 誰によるべぞ よく整いし己こそ まこと得難きよるべなり
自ら悪を為さば自ら汚れ、自ら悪を為さざれば自らが浄し、浄きも浄かざるも自らのことなり、他のものによりて浄むることを得ず
道訓
道は天より生じ、人と共に由る所とするものなり。その道を得れば、以て進むべく、以て守るべく、その道を失すれば、即ち迷離す。故に道は、須臾も離るべからずと、いう所以なり。人生まれて世にある時、人道を尽すを貴ぶ、まさに人道に於て、はずる処なくば、天地の間に立つべし。若し人あり、仁、義、忠、孝、礼の事を尽さざれば、身世に在りと雖も、心は既に死せるなり、生を偸むものとゆうべし、凡そ人心は、即ち神なり佛なり、神佛即ち霊なり、心にはずる処なくば、神佛にもはずる処なし、故に一動一静、総て神佛
の監察する処、報鶯応昭々として、毫厘も赦さざるなり、故に天地を敬い、神佛に礼し、祖先を奉じ、双親に孝に、国法を守り、師を重んじ、兄弟を愛し、朋友を信じ、宗族相睦み、郷党相結び、夫婦相和し、人の難を救い、急を援け、訓を垂れて人を導き、心を至して道に向い、過を改めて自ら新にし、悪念を断ちて、一切の善事を、信心に奉行すれば、人見ずと雖も、神佛既に早く知りて、福を加え、寿を増し、子孫を益し、病減り、禍患侵さず、ダーマの加護を得られるべし。
- 2013/05/11(土) 09:46:06|
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今回、採用されたTBS「空飛ぶ広報室」に関する記事に続けるため書いた原稿2作ですが、これらも却下されました。
航空自衛隊と米空軍
日本国民は航空自衛隊を米空軍の下請けのように思っているかも知れませんが、野僧が入った頃はむしろ航空自衛隊の方が上をいっていました。当時の那覇基地にはFー104Jと言う旧式戦闘機、米空軍の嘉手納基地には最新鋭機・Fー15が配備されていましたが、空中戦の訓練をやると航空自衛隊が圧勝してしまい、飛行隊長は訓練後の交信で「ユアー Fー15 イズ キャット ハズ ゴールド マネー」と言っていました。要するに「猫に小判」と言いたかったのでしょうけど、その頃の航空自衛隊のパイロットは旧日本軍の生き残りに鍛えられた命知らずが揃っていて、仇討ちのつもりで戦っていましたから負けるはずがないのです。それは整備技術も同様で、同じ機種の故障でも修復までに要する時間は航空自衛隊の方が圧倒的に短く、再発率も格段に低かったのです。あの頃の航空自衛隊では「最強になるには自分たちでは解決できない困難があるから、我々は世界最高でなければならない」が合言葉で、自衛隊が米軍よりも弱ければ日本はアメリカの属国になってしまうと教えられ、影では在日米軍のことを「人質」と呼んでいました。この気概と実力が、かなり落ちてきていることを先日のテレビ番組の編隊飛行の場面で感じました。本当に残念です。(詳しくはブログ「航空自衛隊怪僧記」でどうぞ)
女だからこそ
先日の「空飛ぶ広報室」はWAF(航空自衛隊の女性自衛官)の幹部の話でしたが、これには些か異論があります。彼女は最初に赴任した高射部隊でお嬢様扱いされて女を捨てたと言っていますが、任官直後の幹部が部隊で半人前扱いされるのは普通のことで、別にWAFだからではないでしょう。高射部隊は演習、訓練が仕事ですが、航空部隊では半人前の幹部の誤った指示に従って飛行機が落ちればパイロットが命を失うことになり、現場ではアカラサマに無視します。それが新米幹部の修行なのですから、彼女は古参の隊員が何
故そうしたのかを訊き、質疑応答を重ねて熟練した隊員の知識を吸収するべきだったのです。野僧は若き日に愛した彼女の米空軍少佐だった母親の「肝っ玉母さん」的な人間性をWAFの理想像として、「目指せ、カカア天下」「部隊のお袋さんになれ」と指導していました。また、航空教育隊の課程評価点検では化粧をしていないWAFに「口紅は男が鬚を剃るのと同じだろう」と指摘し、小声で「日に焼けると肌の手入れが大変だぞ」と耳打ちすると「はい」と素直にうなづいていました。バトル・オブ・ブリテンで英空軍は女性の声の方が雑音の中でもよく通り、パイロットを安心させると兵器管制に多用しました。女人の方が優れた仕事を見つける「男女区別」も悪くないのでは?
友人の大学教授たちに「死に損ない」と今回の掲載記事を読んでもらいましたが、全員、「前者が良い」との意見でした。本なら読者層を限定できますが新聞では無理ですね。
現在、某出版社(大手です)が「航空自衛隊怪僧記」の発刊を検討していますが、商業ベースに乗るかの問題でしょう。愚息と言う人質が解放されましたので書きたいことが書けます。「何が飛び出すか俺は知らないぞ!」
- 2013/05/10(金) 09:30:31|
- 「東流西流」却下原稿
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現在、山口新聞の連載コラム「東流西流」の水曜日担当で記事を書いているのですが、エライ目に遭っていてブログが書けませんでした。
野僧を取材した若い担当記者は話していて坊主の線香臭い説法よりも血沸き肉躍る航空自衛隊の武勇伝に興味を持ったのか「航空自衛隊ネタを好きなように」と勧めたのですが、編集部は中学生から高齢者までの読者には刺激的過ぎると原稿の差し替えを命じてきたのです。それも前夜の夜9時過ぎでした。
そこで書き貯めてあった原稿に逐次差し替えたのですが、「死」「戦い」「困難」などの刺激的な単語が入っていれば却下、結局はブログ用のテレビドラマ「空飛ぶ広報室」の解説記事を転用することになってしまいました。それも誤字の修正を依頼しても未処置のまま掲載されてしまいましたから余程ギリギリのタイミングだったのでしょう。
テレ朝バンコク特派員をやっている友人は「自衛隊を取材して真実を書いても、デスクが社是や読者うけで記事を修正させて、真実とは違う報道になってしまう」と嘆いていましたが、当にそのことが野僧にも降りかかってきたようです。
長年、交流がある右翼・左翼を自称する大学の先生方や自衛官たちは野僧が予定していた原稿「死に損ない」の方が読み応えがあると言ってくれますが、本なら特定の読者層を狙えるものの新聞では無理でしょう。
しかし、野僧は即応対処に熟練した元航空自衛隊ですから何でもOKですが、普通の執筆者はどうしているのでしょう。
本日は前回の掲載記事と今回、却下になった記事を添付します。「日記(暦)」がない日に連載することとしませう。
任務即佛道
航空自衛官になって最初の体力測定で同期が殉職し、半年後には入校していた浜松基地でブルーインパルスの墜落事故を目の当たりにしました。赴任した沖縄では離陸しようとしたTー33Aが滑走路端のテトラポットに突っ込んで炎上し、さらに基地内に陸上自衛隊のヘリコプターが墜落する事故も目撃しました。このことで「自衛官としての死」と言う疑念を抱き、帰省した折、師僧(祖父)に問いました。すると「人には死ななければならない時は確かにある。しかし、普通は無いものだ。お前たち自衛官は死を直視するべき職業なんだろう」と言って「武道に励め、坐禅をせよ」と勧めました。それからは言葉通りに少林寺拳法と坐禅に励み、帰省の度に師僧を訪ね、道を問うようになりました。やがて師僧は「趣味の坐禅なら今のままで良いが、ここから先を知りたければ頭を剃れ」と言いました。得度に当たり師僧は「江戸時代に鈴木正三(しょうさん)と言う三河武士出身の禅僧がいた。正三は『坊主よりも武士の方が修行になる、なぜなら武士は常に生死のギリギリの所に身を置いているからだ』と言っている。お前も自衛官の仕事を修行と心得て精進せよ」と垂訓しました。つまり自衛隊の任務が野僧の佛道となり、ブログ「野草山岳録」でも申している全国各地での参学行脚が始まったのです。(下関市・托鉢僧)5月1日・1回掲載記事
死に損ない
野僧はパイロットではないので真剣に死生観を考える必要はなさそうですが、やはり死は近くにありました。基地の正門前に暴走族が多数集結して猛り狂っているのを単独で乗り込んで解散させた時、ある作戦計画により二カ月間、基地警備の指揮をとった時、ペトリオット・ミサイルの実弾を運ぶ車両隊の指揮官として深夜の八甲田山の凍結した路面で、ガードレールがない道を谷に向けて横滑りした時、どれもあと数歩でした。しかし、最も死に近づいたのは警備小隊長として勤務していた基地をニュージーランド空軍の参謀長が来訪された時でしょう。こう言う場合、警備小隊は警護と誘導のため交通統制の隊員を配置するのですが、雨天のため午後からの日程が変更になりました。ところが上級司令部の担当者はそれを同じ隊の輸送小隊に直接連絡したため、午後からの視察では途中から交通統制がおらず、同行していた司令官は「航空自衛隊の恥だ」と激怒しました。それに担当者が「警備小隊によく指導しておきます」と答えたため、警備小隊の落ち度と言うことになり、野僧は武人の作法に則り、死を以て詫びようと決めました。参謀長(英文)と上司、家族に宛てた遺書をしたため、備えている拳銃と実弾を「点検する」と言って持ってこさせ、「さて倉庫で」と立ち上がったところを拘束されたのです。(下関市・托鉢僧)5月8日・2回予定→却下
- 2013/05/09(木) 10:19:42|
- 「東流西流」却下原稿
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今回はWAF(航空自衛隊の女性自衛官)の幹部の話でしたが、これにも異論があります。
柚木3佐は最初に赴任した高射部隊でお嬢様扱いされて女を捨てたと言っていますが、任官直後の幹部が部隊で半人前扱いされるのは普通のことで、別にWAFだからではないでしょう。
高射部隊は「射って、当たった」の訓練だけが仕事ですが、航空部隊では半人前の幹部の誤った指示に従って飛行機が落ちればパイロットが死ぬことになり、現場ではアカラサマに無視します。
それが新米幹部の修行なのですから、柚木3尉は古賀曹長が何故そうしたのかを訊き、質疑応答を重ねて熟練した隊員の知識を吸収するべきだったのです。
確かに防衛大学校では「自分たちが自衛隊の中核にならなければならない」「部下を思うままに指揮しなければならない」と教え込まれますから、指示通りになっていなければ我慢できないかも知れませんが、それは思い上がりです。
野僧の幹部候補生には九州大学出身のWAFの同期がいましたが、学力がずば抜けていたため自分が一番すぐれていると舞い上がり、上司や空曹から指導に一切耳を貸さず、「この私に見習いの仕事をさせるとは許せない」と言って1年で退職しました。出した結論の方向性が違うだけで柚木3佐も考え方は同じでしょう。
ただ、自衛隊が女を捨てさせようとする面があることは否定できません。
航空教育隊の初任空曹課程などではWAFに命令口調として「XXしろ!」「△△だろう!」などと男言葉を使わせていました。また、課程中は化粧をさせず、男と一緒であるように振る舞わせることを厳正な指揮の形、対等な男女の姿と指導していました。
しかし、野僧は警備小隊長時代、警衛隊員に「男は靴を、女は顔をピカピカに光らせろ」と指導していた経験から、課程教育の評価点検では化粧をしていないWAFに「何故、化粧をしない?口紅は男が鬚を剃るのと同じだろう」と指摘し、小声で「日に焼けると肌の手入れが大変だぞ」と耳打ちすると「はい」と素直にうなづいていました。
野僧は米空軍少佐だった彼女の母親の「肝っ玉母さん」的な人間性をWAFの理想像として、「女を捨てた女は男の腐った物」「目指せ、カカア天下」「部隊のお袋さんになれ」と指導していました。おかげで防府では「坊さんに性別はない」とWAFである婦人自衛官教育大隊長から「立ち入り自由」のお墨付きを戴きましたが、そこで目の当たりにしたのは男性の視線がない場所での女性の実態でした。夏に施設点検でWAF隊舎の廊下を歩いていると、短パンに乳当て(ブラジャー)だけで立ち話していたり、素肌に白の薄いTシャツ=シースルー状態で話しかけてきて、視線のやりどころに困りました。
野僧が浜松に赴任して最初の仕事は、妊娠した19歳の輸送小隊のWAFをどうするかでした。
隊長以下、「退職させる」で周囲の意見は一致していましたが、野僧は本人の意思を確認した上で自衛官として出産させ、育児と仕事を両立させることを決めました。
すると輸送小隊の先任空曹は「育児をしながらでは職場の負担になる」と退職させるように強く言ってきましたが、当時は野僧自身も愚息を育てているクレイマー幹部でしたから、「それは私にも辞めろと言いたいのか?」と答えると黙ってしまいました。
野僧は「今後、WAFは確実に増えていくのだから、その戦力化の方策を確立しておかなければならない。これは格好のテストケースだ」と宣言し、そのWAFを輸送小隊から自分の総括班に配置換えして、「今後の子持ちWAFの道を作るつもりで頑張れ」と激励しました。
ただ、出産後に「育児休暇を夫婦交代で取らせろ」と申し入れて、輸送小隊長と大喧嘩になりましたが(20年前の話です)。
WAFは良い女であるべきです。それも男の基準に合わせるのではなく、女にしかできない仕事のやり方を見つけていくことです。「燃えろいい女、燃えろWAF」(つづく)
- 2013/05/07(火) 09:47:05|
- 「空飛ぶ広報室」解説
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第2次世界大戦は1943年9月にイタリアが、そして1945年の明日5月8日にナチス・ドイツが降伏し、いよいよ日本は孤立無援になったのです。
最早、日本に勝ち目はなく一緒に、若しくは早急に降伏すればよさそうなものですが、それでも8月15日まで戦争を継続せざるを得なかったのは、一つにはナチスと戦い、ベルリンを陥落させたソ連との間に日ソ不可侵条約が締結されており、むしろ講和の周旋を期待していたこと、2つには陸軍は本土決戦で連合国軍に痛撃を加えた後、有利な条件で講話に持ち込む幻想を抱いていて、降服を進めれば内乱に発展すると脅していたこと。何よりも当時のアメリカから日本国民に発信されていたラジオの日本語放送が「天皇を裁判に
かける」と主張しており、天皇1人と国家を同じ天秤にかける陸軍の狂信的な1億玉砕の叫び声に平和への願いはかき消されていたのです。
4月に就任した鈴木貫太郎首相は海軍大将で、日本海海戦の英雄でもあり、陸軍の前では本土決戦に同調しながら影では講和への道を模索していましたが、遅々として進まず、その間に沖縄は陥落し、全国各地の都市は空襲のみならず艦砲射撃まで受けて炎上・破壊され特攻隊員たちは出撃していました。
敗戦によりイタリアの国王・ウィットリォ・エマヌエーレ3世は退位させられ、ムッソリーニは市民によって銃殺され、遺体を晒されました。ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーは愛人・エヴァ・ブラウンと共に自殺しましたから、権力者がどうせ命がないのなら死に花を咲かせようなどと追い詰められた考えにとらわれていても不思議はありません。
日本の反戦平和主義者はドイツは全面的に謝罪し、今も自分の罪を忘れていないのに比べ、日本は反省が足りないと批判しますが、ドイツもこの日を8月15日の敗戦の日と同様に休日などにはしておらず、日本だけが反省が足りないとは言い切れません。イタリアは全く懲りていないように見えませんか?
- 2013/05/06(月) 08:58:36|
- 日記(暦)
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鯉のぼりの歌と言えば童謡の「屋根より高い 鯉のぼり 大きな真鯉はお父さん、小さな緋鯉は子供たち、面白そうに泳いでる(作詞・近藤宮子 作曲・不明)」と唱歌の「甍(いらか)の波と 雲の波 重なる波の 中空を(なかぞら。ちゅうくう=中部航空方面隊ではない) 橘薫る 朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり(作詞・不明 作曲・弘田龍太郎)」ですが、どちらも屋根よりも高いことを強調しているのが、平屋ばかりで竿を立てられる庭があった時代の風景を思わせます。マンション住まいのベランダ用ではこうはいかないでしょう。そう言えば津軽地方の壁に吊って横に這わす鯉のぼりは面白かったです。
かつて童謡の方は「大きな真鯉がお父さんならば小さい緋鯉はお母さんではないか」と言う意見が男女同権主義者から出て、そのように唄っていた時期がありましたが、「面白そうに泳いでる」に合わないのか元に戻っているようです。育メンブームの今なら「子育てするお父さん」と言うことで、称賛されるのかも知れません。
唱歌の方の三番は「百瀬(ももせ)の滝を昇りなば 忽ち竜になりぬべき わが身に似よや男子(おのここ)と 空に踊るや鯉のぼり」で昇竜の故事を教えてくれていますが、小学校の音楽の授業で教師が歌詞を板書したのに、「ももせの滝が高い滝ならば、百瀬ではなく百背ではないか」と言う意見が出ました。小学生の癖に鋭い突っ込みです。
結局、音楽担当の女教師は回答を避けましたが、子供たちは図書館で調べて確認しましたから、そこが岡崎市立矢作南小学校です。
ついでに言えば「男子と」を「おのここと」と読むのは難しいと、現在は「男の子(おとこのこ)」に変えて「我が身に似よや 男の子」と唄っているようです。こうして日本人の国語のレベルは下がっていくのでしょう。その前に文語体の唱歌などは教えていないかも知れませんが。

小庵の鯉のぼり(岡本太郎画伯のデザイン)。干し魚ではない。
- 2013/05/04(土) 00:56:19|
- 日記(暦)
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この日を記念日にするネタはないかなと調べてみましたが、右翼の大物・日本船舶振興会理事長の笹川良一さんの誕生日(1899年生)、田中角栄元首相の誕生日(1918年生)、逆にお悔やみでは講道館柔道の創始者・嘉納治五郎先生の命日(1938年没)くらいで、強いて言えば競艇の日だそうです。
祝日にするには今一歩でした。
- 2013/05/03(金) 09:28:03|
- 日記(暦)
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明日は憲法記念日ですが、「日本国憲法」は一文字も改定されていない世界最古の憲法になっていますから、文化遺産として祝う価値もあるのかも知れません。
現在、憲法96条の改正規定の「衆参両院で3分の2以上」と言う発議要件を過半数に緩和しようと言う動きがありますが、本当に大丈夫なんでしょうか?
過半数では政権交代の大ブームで民主党が圧倒的多数を取ったようなことが衆参議員選挙で起これば、舞い上がった勢いでまともな議論もなく発議されてしまい、最終審査である国民投票もロクに機能せず、次の選挙で与党が交代するまでその憲法下で政治が行われることになります。
鳩山や菅を総理にしてしまい、小沢に政治を牛耳させていた悪夢を忘れるには早くないですか?
野僧は日本国憲法が連合国が占領統治し易くするために押し付けた物であったとしても、その条文は平穏無事を求め、言霊信仰をもつ日本人が本来の精神性に合致した傑作であり、帝政にあった欧州(主にプロシア)の憲法を無理やり日本に持ち込んだ大日本帝国憲法よりも似合っていると思っています。
問題は法の運用であり、大陸法的に行動規範として枠の中に押し込めるのではなく、海洋法的に禁止規定として注意を払う程度に柔軟な運用とすれば問題はないでしょう。
西ドイツは東西統合を果たすまで憲法を制定しないと国家基本法で代用していましたが、日本はかつての十七条憲法もそうであったように、日本国憲法は国家の理想、国民の願いを掲げる不磨の大典として尊重しつつ、現実的な国家像を定める国家基本法を別に制定するべきだと考えています。建て前と本音の使い分けは日本人の優れた知恵なのですから。
余談ながら最近、自衛官からも日本国憲法を批判する声を聞くことがありますが、自衛官は入隊時に「日本国憲法並びに各種法令を順守し」と言う「服務の宣誓」に署名捺印していますから、これは誓約違反ではないでしょうか。
- 2013/05/02(木) 09:03:11|
- 日記(暦)
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「自分のペースで読むから、途中で勝手に切るな」と言う意見が寄せられていますので、今回から全文を一括掲載することとします。
日本の太陽暦のカレンダーでは5月ですが、アジア各国では公的行事は太陽暦でも、民間の風習は太陰暦で行っている場合が多く、4月8日の釋尊降誕会(灌佛会)もタイやスリランカではこの時期に行われています。
佛教国・スリランカでは、この4月8日から15日までの1週間をウェサック満月と言って釋尊の降誕と成道(悟りに至られたこと)、初法転輪(教えが伝えられたこと)、そして涅槃(逝去)を祝う盛大な祭りが行われます。
日本では初法転輪を除く3つは寺院内で別々に法要を行うだけですが、スリランカでは釋尊の生涯に感謝する国の祝日として、盆、正月、クリスマスに村祭りが一緒に来たような賑わいで、街中にイルミネーションや佛旗を飾り、あちらこちらに青森のネブタのようなそれぞれの場面を表した像を祀ります。
余談ながら初法転輪は、釋尊が弟子たちの前に優曇華(うどんげ)の花を示した時、ほかの弟子たちがその意味を考えた中、摩訶迦葉(マハ―カッサパ)だけが微笑み、釋尊はその花と一体になった境地を愛でて後継者に定めたのです。
この盛大な祭りでは布施の功徳を積むため、互いに無理のない範囲で食べ物を供養し合うので、お金がなくても果物や菓子、飲み物を十分に味わうことができます。
勿論、お金があれば過分の代金を払うのも布施の功徳で、日本人はどこに行っても「金がない」と言うのは通用しないようです。
野僧はスリランカ佛教協会会長の招待で訪問していたため、この祭りに合わせて60年ぶりに公開された釋尊の真身の舎利(本当の遺骨)に直接拜することができましたが、まさに舎利の名の通りの米粒のような遺骨でした。
スリランカは今から2千年以上前からの佛教国で、日本の皇室の三種の神器にあたる王権の象徴は釋尊の歯です。
この釋尊の歯はシンハラ王家の王女がインドで手に入れ、長い髪に編み入れて隠し母国に持ち帰ったとされています。
この時、スリランカには釋尊が悟りを開かれた時に坐っておられた菩提樹の分け木も移し植えられており、インド・ブッダガヤのネランジャラ河の畔の木は枯れてしまったため、こちらの菩提樹から苗を育てて持ち帰ったそうです。
このブッダガヤの菩提樹の根元は立ち入り禁じになっているのですが、麻原彰晃たちオウム真理教の幹部たちがインド巡礼の旅の折、現地僧侶の制止を無視して立ち入り、瞑想のポーズをとって写真を撮影したそうで、スリランカでも傍若無人な振る舞いが問題になっていて日本人の僧侶と言えばその話を持ち出され閉口しました。
スリランカのシンハラ王朝は1815年にイギリスによって王位を廃されるまでの2千年以上一系の血筋であったと言う意味では日本の皇室と遜色ありません。
この王朝は佛教の教えを基本として統治しており、2千年以上前に世界最古の動物愛護令や環境保護令を発布しています。
動物愛護令と言うと我々日本人は江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の「生類憐みの令」を思い浮かべますが、それよりもはるかに古くからスペイン、イギリスによって侵略されるまで脈々と受け継がれてきました。
そのためスリランカでは動物は人間に苛められた経験がなく、犬や牛などの家畜は放し飼いで吠えることも暴れることもせず穏やかに暮らしていますし、大リスや猿は人の背中に上って甘えてきます。
牛が道路をふさいでいてもスリランカ人の運転手さんは「人間だったら腹が立つが、言っても判らない牛では仕方ない」とクラクションも鳴らさず待っていました。
毒蛇のコブラでさえ踏んだりしなければ餌にならない人間に噛みつくことはなく、実際、野僧の足元を這って通り過ぎて行きました。
一方で環境保護令のため材木を伐採するのに非常に煩雑な手続きが必要な上、スリランカの役所の仕事は非常にユックリなので、建築工事は木材がきた時に板や角材への加工からやると言うのが常識になっていました。
ですから野僧が入る予定だった寺の建築工事でも「ここに板を張る」と言えば、その材料を
探し、板を作ることから始めていました。
スリランカやタイの南方佛教には日本のような宗派や僧侶の位はないそうです。
現在の日本では僧侶の上下関係は「位階、役職」「どこ(場所)でどのくらい(期間)修行をしたか」と「誰の弟子か」、そして何よりも「どこの寺の息子か」が重要な要素ですが、南方佛教では戒律を幾つ保っているか(佛教の戒律は守るのではない)で決まるようです。ただし、これも「俺は保ってるぞ」と言う自己申告では駄目で、それを保っているという高僧の証明を受けなければなりません。
しかし、この戒律には「金銭に触れない」「労働をしない」「地面の虫を踏みつぶさない」「熟睡しない」など現代社会では保ち得ないようなモノも多く、その証明を受けようと僧侶がタイとスリランカを探しまわるようなことも行われているようです。
ただ佛教の戒律は列車の線路のように「ここから外れてはいけない」と言う強制的なものではなく、むしろ道路のガードレールのように「保っていた方が安心」と言う穏やかで健康な日常を送る上で有益な内容が多いようです。
スリランカには釋尊が3度、布教に訪れたと言う伝承があります。
日本だけでなく中国、韓国でも佛教は佛像と経典がシルクロードや海路で伝えられた始めから儀式と学問の宗教でしたが、スリランカでは実際の釋尊の肉声が伝えられてきた教えであり、佛像も先ほどまでそこにおられた釋尊の姿を忘れないために作られた記念物で、触れれば体温を感じそうなくらいのリアリティーがあります。
ちなみに日本の佛像は元から人形であり、死人の顔をモデルにしているため無表情ですが、スリランカの佛像は満面の笑顔で、お会いすると声をかけてもらえそうで嬉しくなります(小庵の本尊さんもスリランカ佛教協会から拜領の尊像です)。
ですからスリランカの人々は日本人が弘法大師や親鸞聖人、ヒョッとすると一休さんや良寛さんを思うくらいの近さで釋尊を感じているのかも知れません。
その点、タイでは佛教が王権と結びついているため社会的影響力が強く、保守的で独善的だと言う批判が最近は公然とされるようになっているようです。
スリランカは佛教国と言っても佛教徒は国民の70パーセントで、あとはヒンズー教徒、キリスト教徒とイスラム教徒が10%ずつだそうです(日本の佛教各宗派の信者数を合計すると人口をはるかに超えてしまいますが)。
このうちキリスト教徒はスペイン、オランダ、イギリスの植民地時代に改宗した人以外ではヨーロッパ系の企業に就職するのに有利だからと言う者も多いそうです。
またイスラム教徒はアラブからの移民が多く、中には佛教よりも戒律が緩く、特に「一夫多妻を認めてくれるから(国内法でも)」と改宗する者もいるそうです。
スリランカはイギリスの植民地であったため国民は非常に紳士的で、マナーや服装は今の日本人など比較にならないほどキチンとしており、あの熱い国でかなりの田舎に行っても皆、髪は七三分け、上は襟付きの服、下は長ズボンかサロンと言う腰巻です。ただし足は佛教の戒律で素足かサンダルが殆どです。
野僧はスリランカで幾つかのイスラム教徒の街を通過しましたが、店構えなどの街の風景から人々の顔つき、服装や行動、交通マナーまでほかのスリランカの街と異なり、一瞬「アラブに迷い込んだのか」と錯覚をするほどでした。
一方、ヒンズーの街は雑然としていて、原色に彩られた建物や行き交う人々の衣服は、まさにインドのイメージでした。
そんなイスラムの街で野僧はサロンを買ったのですが、「安いサロンを」と言ったのに、先ず「これは好い品だ」と一番高い品物を見せるので値段を確認すると案の定の最高級品。それで「もっと安い品を」と言うと今度は「いかにも安物」と言う品物を見せ、次にセンスの好い物を見せました。「これは好いな」と思って値段を確認するとまた高い品で、結局、自分で選びましたが、それでも縫い合わせの手数料が割高、それも後払いなので断ることも出来ず値切るだけで精一杯でした。
しかし、野僧は沖縄の市場や米軍基地で鍛えられているため、かなりアカラサマに値切りますが、普通の日本人では一番高い品物を言い値で買う羽目になったでしょう。
その頃はアフガニスタンでタリバーンがバーミヤンの石佛を爆破し、スリランカ国内でも怒った佛教徒がイスラム教のモスクを破壊する事件があったばかりだったので、野僧がイスラム教徒を相手に宗教戦争を始めても困りますから払いましたが。
ほとんどのスリランカの人々(=佛教徒)は、午前中の涼しい時間に畑仕事をし、暑くなると道沿いで収穫した野菜を売っていましたが、そのトマトや玉ネギは味も生産量も、多く売って儲けようと言う努力はあまりしていないようでした。
街には食品、飲み物の店が軒を連ね、日本の自動販売機とスーパー、コンビニの棚の数だけ店があると言う感じでした。
従業員も日本の倍はいて、ここでも人件費を少しでも削って利益を上げようと言う努力はなく、逆に働く方は安い給料でももらえれば有り難いと言う感じで誠実に働いていました。つまり「人間は3食食べられればあとはあれば有り難い、なければ仕方ない収入だ」と言う佛教的な無欲の生活を国中で実践しているようでした。
お金持ちの御屋敷は別にして、普通の家は屋根と壁と流しと便所と寝床があるだけです。しかし、考えてみれば人間が生きていくのにこれ以上何が必要なのでしょう。
日本人は色々な電化製品や家財道具に囲まれた快適で便利な生活を守るため目を引きつらせて必死に働いていますが、スリランカの人々は何もなくても、むしろ何もないからこそどこまでも優しく、穏やかでいられるのでしょう。
日本人は「物質と精神の豊かさでは、どちらが幸せなのか」をブータンに学んだばかりですが、野僧はスリランカで確認しました。
スリランカは実在する西方佛国土なのです。
西方浄土・帰命尽十方無碍光如来
スリランカの佛様

スリランカのお坊さん

優曇華の花

大リス
- 2013/05/01(水) 09:53:54|
- 月刊「宗教」講座
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