昨日、今日と梅雨の一時休止で雨が上がっています。雨上がりの歌ならダ・カーポのこれですが、昭和49年6月1日発売ですから野僧は中学2年で、深夜放送のラジオで聞きました。
結婚するって本当ですか(詞・久保田広子 曲・榊原政敏)
雨上がりの朝 届いた短い手紙 ポストのそばには 赤いコスモス揺れていた
結婚するって本当ですか 机の写真も笑ってるだけ
ほんの小さな出来事で 別れて半年たったけれど 優しい便りを待っていた 待っていた
雨上がりの街 青い風が過ぎる 花屋の店先の 赤い電話に立ち止まる
結婚するって本当ですか 貴方に寄り添うその人は
白いエプロン 似合うでしょうか もうすぐ貴方は遠い人 できたら貴方の胸の中 戻りたい
この歌の作詞は妻、作曲が夫ですが、歌詞の情景描写に無理な点が多く、おそらく曲が先に出来たのでしょう。6月発売なのに「ポスト(郵便受けか?)のそばには赤いコスモス揺れていた」と秋の花が出てきたり、ほんの小さな出来事で別れて半年で結婚するような相手(多分、二股を掛けていた)に女性が想いを残すかなど色々あります。それにしても花屋の店先の赤い公衆電話なんて時代を感じませんか?
現在のダ・カーポと言えばこの歌でしょう(芦屋雁之助さんが亡くなってからは・・・)。
野に咲く花のように(詞・杉山政美 曲・小林亜星)
野に咲く花のように 風に吹かれて 野に咲く花のように 人を爽やかにして
そんな風に僕たちも 生きていけたら素晴らしい 時には暗い人生も トンネル抜ければ夏の海
そんな時こそ野の花の けなげな心を知るのです
野に咲く花のように 雨にうたれて 野に咲く花のように 人を和やかにして
そんな風に僕たちも 生きていけたら素晴らしい 時には辛い人生も 雨のち曇りでまた晴れる
そんな時こそ野の花の けなげな心を知るのです
- 2013/06/28(金) 09:17:42|
- 雨の歌
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前回、フォークソングの両巨頭として井上陽水、吉田拓郎さんの歌を紹介しましたが、その前に大切な作品を忘れていました。
雨が空から降れば(詞・別役実 曲・小室等)
雨が空から降れば 思い出は地面に染み込む
雨がシトシト降れば 思い出はシトシトにじむ
黒いコウモリ傘を差して 街を歩けば
あの街は雨の中 この街も雨の中
電信柱もポストも故郷も 雨の中
しょうがない 雨の日はしょうがない
公園のベンチで一人
お魚を釣れば お魚もまた 雨の中
小室等さんのこの歌はバンドをやる連中が最初に練習する曲のようで、自由な校風の野僧の母校では生徒がギターを持って登校してきても問題なく、放課後の1年生の教室からはギター部のクラシックとは別のフォークギターを習う音と声が聞こえてきたものです。
ただバンドを始めれば次はシンガーソングライターを目指すのが自然な流れで、手始めは「雨が空から降れば」を土台に作詞の研究をしていましたが、単純な風景描写のようで一つ一つの言葉が選び抜かれていて、替え歌方式に置き換えることは難しかったようです。
同じバンドでもロック派はシャネルやクールスでしたが、市民会館の大ホールを貸し切りにして行っていた卒業生を送る会は、全校生徒1500人を前に唄う一大コンサートになり、個人参加の希望者が殺到し、クラスの演芸やブラスバンド部、合唱部の間に当てはめるのに生徒会としては本当に苦労しました。
抽選にするとロックとフォークが対立し、ジャンルで枠を決めると愛好者の多い少ないで揉め、署名運動まで始まりましたから。
そう言えば若い先生が広いステージの真ん中に座り、一人でギターを弾きながらこの歌を含む初期のフォークを披露しましたが、応募は担任していたクラスの枠でした。(裏技だね)
- 2013/06/27(木) 11:27:25|
- 雨の歌
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よく降るようになりました。大日如来さんは本当に気まぐれです。まあ、不足よりは過剰の方がいいかも知れませんが。
野僧はフォークソング世代ではありますが、やや出遅れなので同級生にはアリスやかぐや姫のファンが多く、拓郎、陽水の両巨頭からは一歩引いた状態でした(野僧はフォークの神様・岡林信康さんの隠れファンでしたが)。そんな両巨頭の雨のフォークソングと言えばこの2曲になるでしょう。
傘がない(詞・曲 井上陽水)
都会では自殺する 若者が増えている
今朝きた新聞の 片すみに書いている
だけども問題は 今日の雨 傘がない
行かなくちゃ 君に会いに行かなくちゃ
君の街に行かなくちゃ 雨に濡れ
冷たい雨が 今日は心にしみる
君のこと以外は 何も見えなくなる
それはいいことだろう
歌の冒頭から「若者の自殺」ときますから、マスコミの言論封殺が徹底している現在では「自殺が流行している=自殺を煽っている」と言う過剰な配慮から発売禁止になるでしょう。それでも陽水さんはNHKの歌番組でも歌っていますから根強い支持者があると言うことです。
ある雨の情景(詞・伊庭啓子 曲・吉田拓郎)
バスが 停まって(並木道に) 外は雨が降っている
ガラス 窓に(窓に) いっぱい並んだ雨だれの(いっぱい並んだ雨だれの)
むこうで 誰かが(肩をすぼめて) タバコに火を点けた
それから人は みんな傘を差して(傘を差して)
まるで心を 傘で隠せるみたいに
そして黙って(黙って雨の)雨の中を歩いてる
それから雨は(雨はどこか)どこかの風と一緒に(どこかの風と)
茶色の葉っぱを一枚 落していった(一枚落していった)
それからみんな雨に濡れて 歩いている
雨の中を(中をバスは)バスは動き出した
この歌は( )内の変則的な合いの手が難しく、同級生がコンサートで歌おうと相棒と合わせるのに苦労していました。カラオケでは始めから入っていたようですが面白味は半減です。
- 2013/06/26(水) 09:17:30|
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最終話は東北地区太平洋沖大震災の時の松島基地の対応についての話でしたが、何故、F-2(複座式=練習機として使用)戦闘機をはじめとする航空機を発進・非難させなかったのかと言う疑問は、震災報道のネタが一巡した頃から取り上げられていました。
確かに大震災直後の現地ではテレビが受信できず、電話は不通になっていたため情報が届かず、震源地が判らなければ津波の危険性も推測の域を出ませんでした。
さらに2700メートルある滑走路に亀裂などがあれば、高速度で滑走する航空機が離陸に失敗する可能性があり、飛行前点検なしでの発進では尚更でしょう。その意味では航空機よりも人命保護を優先した松島基地司令の判断は極めて常識的な責任あるものでした。
ただし、それはあくまでも通常の判断であって、非常事態に於いてそれが正しいかは別の問題です。野僧が仕えた旧軍出身・空自第1世代の司令であれば、救難隊のヘリから状況を確認しつつ、滑走路を飛行管理隊のジープで点検させると同時にエンジン始動と可能な限りの点検をした航空機を発進させたでしょう。
あの世代の幹部たちは航空自衛隊の戦闘機は国を守る掛け替えのない力であり、人命の重さとは別の価値を認めておられ、多くの戦闘機を失うことは国の安全を脅かすことであり、任務のために隊員を殺す覚悟もない平和ボケした現在の幹部自衛官とは危機意識が違うのです。
大規模災害の混乱に乗じて侵略することは戦術の常道であって、「失った航空機は後で買えばよい」など言うのは単なる役人の発想です。
野僧が司令部の幕僚であれば強く意見具申するのですが、被害確認や災害派遣準備の報告が錯綜する混乱の中では司令に耳を貸してもらうこと自体が無理かも知れません(防府で阪神大震災を経験した時、「忙しい時に余計な事を言うな」と滅茶苦茶に怒られましたから)。
現場の頑張りを否定するつもりは毛頭ありませんが、トモダチ作戦に参加した米軍の友人たちの話でも陸自を中心とした大震災時の上級指揮所の能力不足は再三指摘されていました。
ところで矢本町民がブルーインパルスを大歓迎していましたが、浜松での墜落の事故の後、矢本町ではブルーインパルスの移転、飛行停止を求める激しい反対運動が巻き起こりました。
しかし、空軍(ブルーエンジェルスは米海軍)のアクロバットチームは本来、航空機の操縦技術の研究と限界を追求することを目的としており、その醍醐味は「あんなことができるのか」と言う驚きと共に「危ない」「落ちる」「ぶつかる」と言うスリルです。
ですから安全優先の美しさだけを目指した演技では単なる芸能に過ぎず、命を掛けて限界を追求する男の美学に酔っている戦闘機パイロットたちは、全国の航空団を空中戦で行脚する飛行教導隊(アグレッサー)に憧れるようになったのです。
ところで槙典子(旧姓・柚木)さんが生んだ女の子に旦那は「航子」女房は「空子」と言う名前を考えるシーンがありましたが、実際、息子に「航(わたる)」「空(たかし)」と名づけていた友人がありました。
別のパイロットの友人の男の子は「鷲(しゅう)」「鷹(じゅん)」、女の子が「文(ふみ)」で、「娘さんには鳥の名前をやめたんですね」と言うと「猛禽類は止めたが、文鳥の文だ」そうです。
「空はつながっている」と言うのは野僧の保健婦の彼女が八重山の離島に赴任した時の台詞で、「スクランブル機のジェット音が聞こえると貴方だと思って空を見上げてしまう」と言われたことを思い出して号泣してしまいました。
空井くんと稲葉さんは「誰と一緒に生きたいか」に気づき、駆け出しましたが、野僧がそれに気づいたのは彼女が勤める離島からの一日一便の定期船が出港し、波止場で手を振っていた彼女が顔を拭ったのを見た瞬間で、飛び込んで泳ぐと言う選択もありましたが、野外訓練で八重山へ行っていたのでそれは無理でした。
それにしても空井くんはあそこまで全力疾走して膝は大丈夫なんでしょうか?おまけにリカさんを抱き上げたりして、同じく膝が悪い野僧としては本当に心配してしまいます。
鷺坂さんは「お前たちに諦めて欲しくない」と空に向かって呼びかけましたが、野僧の上司は酒をすすめながら「本当に諦められるのか?」でした。野僧は酔って泣きながら「あの家の子ですから仕方ないです」と答えましたが、その上司は親が命じた相手との結婚式に「那覇空港で沖縄の女性に刺されないように気をつけろ」と祝電を打ってきました。それは野僧の親に対する抗議の代弁だったのでしょう。
このドラマは忘れかけていた航空自衛隊を思い出させ、緩くなりつつある涙腺を全開にされましたが、「見ろ」と連絡をくれた友人たち、特に元小隊員の元希くんに感謝します。
最後にブルーのメンバーの前で空井くんが説明していた「空自を題材にしたドラマ」って「空飛ぶ広報室」のことですよね。
おまけですが、比嘉さんは1年前に曹長になっていました。若いのにすごいです。
- 2013/06/25(火) 10:16:05|
- 「空飛ぶ広報室」解説
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1968(昭和43)年の明日6月26日に小笠原諸島が返還されました。
沖縄では「本土で唯一、地上戦が行われた」=「日本の犠牲にされた」と主張し、安倍自民党政権が主宰したサンフランシスコ条約締結の「主権回復の日」を、米軍統治下に残された沖縄の県民感情を踏み躙るものだと反対しましたが、小笠原の硫黄島(いおうじま)でも地上戦が行われ、戦後もこの日までアメリカの占領下に置かれたのです。
1953年4月28日のサンフランシスコ条約の発効後も奄美諸島は同年12月25日まで、そして小笠原諸島はこの日までアメリカの占領下におかれました。
さらに占領下の小笠原の父島にもアメリカ海軍の基地がおかれ、核貯蔵施設もあってベトナム戦争中は数発の弾頭が保管されていたと言われています。
島への物資補給は月に一度のアメリカ海軍の輸送船でしか許されず、子供たちの教育は父島にあったアメリカ軍人家族のためのラドフォード提督初等学校で行われ、高等教育はグアム島へ行っていたそうです。
ところで小笠原がアメリカ領になったのはこれで2回目だったのです。
幕末にペリーが2度目に来航した時の日米和親条約締結に向けた話し合いの中で、ペリーは「アメリカと日本は隣接している」と言い出したそうです。
いぶかる幕府の代表に対してペリーは「伊豆諸島の先にはアメリカ領であるBONIN諸島があり、1830年にはハワイ人と共にアメリカ人移民が入植し、開拓を始めている」と説明しました。これは事実で現在も小笠原にはアメリカ人の末裔が暮らしています。
これを覆すには日本領であることを示した海外の文書、書類が必要だったのですが、鎖国下の日本にはあり得ない話で、諦めかけた幕府の代表もサイン(署名)しかかったのです。
そこに1冊の本が届けられます。それは蛮書取調所に保管されていたフランス語版の「三国通覧図説」でした。この本は寛政の三奇人・林子平が著した本で、序文を書いた蘭学者・桂川甫周に依頼されたオランダ人によってヨーロッパへ渡り、日本研究の手引書になり、それを言語学者・ハインリッヒ・ユリウス・クラプロートがイルクーツクで日本語学校の教師になっていた漂流民・伊勢の新蔵(大黒屋光大夫の配下)と協力してロシア語に翻訳したもののフランス語版だったのです。
ただし林子平は老中・松平定信によって罰せられ、この本や「海国兵談」などの著書は発禁・回収、版木も没収の上、焚書(焼却)されていましたから、公式には残っている本はありませんでした。兎に角、あと一歩で小笠原はアメリカ領になりかけて、90年後になってしまったのです。
ちなみにペリーは2度目の来航時、江戸湾に来る前に沖縄へ立ち寄っていて、那覇には「ペリー」と言う地名が残っています。どうも妙な歴史の重なり合いです。
- 2013/06/25(火) 10:10:49|
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元隊歌係だった野僧は軍歌のレパートリーは100曲をゆうに超えていますが、意外に雨の軍歌は思い出せません。
軍歌「雪の進軍」は有名ですが、題名に「雨」がついた歌は思い当たらず、強いて言えばこれくらいですか。
重い泥靴(詞・坂口淳 曲・三界稔)
雨に打たれてアカシアの 花がほころぶ泥濘(ぬかるみ)を
重い泥靴踏み締めて 進む緑の戦線よ
今日で10日も雨ばかり いつになったら晴れるやら
馬も砲車も濡れネズミ 青い大空恋しいぞ
湿気(しけ)た乾パンかじりつつ むせぶ水筒ラッパ飲み
君も吸えよと戦友が くれた煙草もカビ臭い
肩に食い込む背負嚢(せおいのう) 揺すり上げてはまた進む
雨の広野の鉄兜 泥にまみれて黙々と
この歌は自衛隊でも歌詞を一部手直しして「緑の戦線」と言う題名で唄われていました(特に行進訓練が雨の時の景気づけに)。
討匪行(詞・八木沼丈夫 曲・藤原義江)
どこまで続く泥濘ぞ 3日2夜の食もなく 雨降りしぶく鉄兜
いななく声もたえ果てて たおれし馬のたてがみを 形見と今は別れきぬ
ひづめの跡に乱れ咲く 秋草の花雫して 虫が音(ね)ほそき日暮れ空
すでに煙草はなくなりぬ たのむマッチも濡れ果てぬ 飢え迫る夜の寒さかな
これは軍歌としてはマイナーですが、我らがテナー・藤原義江さんの作曲のため出身地の下関市では今でも唄われています。ただ、1974年に「逃避行」と言う歌で麻生よう子さんが日本レコード大賞最優秀新人賞をもらったことで、「トウヒコウ」と言う曲名は残っているようです。
- 2013/06/24(月) 09:33:49|
- 雨の歌
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1611(慶長16)年の明日6月24日(太陰暦)に肥後藩主・加藤清正公が亡くなりました。数えの50歳、満49歳でした。
清正公は秀吉と同じく現在の名古屋市中村区で刀鍛冶・加藤清忠の息子として生まれましたが(肥後の名刀・正国、通称・同田貫=時代劇画「子連れ狼」では胴太貫との関連にも興味を覚えます)、母が秀吉の母・大政所の従妹であった縁で長浜城主になった頃から小姓として仕えるようになりました。
その後は秀吉に従って各地を転戦し、柴田勝家と信長の後継者の座を争った賤が岳の合戦では七本槍と呼ばれる武功を挙げ、九州出征後には佐々成政の改易を受けて、小西行長と共に肥後半国の領主になっています。ちなみに「熊本」と言う地名は、それまで「隈本(隅本)」と書いたのですが、清正公の好みで強そうな熊に替えたのだそうです。
領主としては築城に合わせて領内の河川の大規模な治水工事を行い、特に阿蘇山麓から火山灰混じりの水が流れる白川と異なる流路の坪井川を河口まで分離させる設計は、噴火による火山灰・瓦礫の流入を防ぎ、氾濫を起こさぬようにする革新的な発想でした。
そして治水工事の進展に合わせて田園開拓を進め、米麦の生産量を増大させ、この善政と加藤家の改易後に領主となった細川家が清正公の遺徳を継承する態度をとったこともあり、領民の人気は衰えず、今でも熊本の旧家には「清正公(せいしょうこ)さま」と呼ばれる像が守り神として祀られています。
また、清正公は秀吉の命に従い朝鮮に出兵し、鍋島直茂・相良頼房を指揮下とする第2軍を率いて、満州の兀良哈(オランカイ)まで進撃しましたが、この時、朝鮮からセロリを持ち帰ったので和名を「清正人参」と言うそうです。
朝鮮の役での清正公と言えば虎退治ですが、虎と言えばインド=熱帯の猛獣と言うイメージがあるので単なる伝説と思われがちですが、現在もシベリアにはアムール虎がおり、名古屋の徳川美術館には虎の頭骨が2つ遺っているそうです。
余談ながら清正公の十字槍の片方の刃はこの時、虎に喰い折られたと言われていますが、二女の八十姫が紀州・徳川家に輿入れした際の嫁入り道具として現存している物は、始めからトの字の形に作られているそうです。
これほどの活躍をしながら清正公は石田光成の讒言で謹慎させられました。ところが謹慎中に大地震が起こり、清正公はいち早く手勢を率いて伏見城に駆けつけ、秀吉の身辺警護を当たって感動させ、怒りは解けました。
関ヶ原の合戦は肥後に帰国している間に起こったため、清正公は西軍に加わった小西行長の宇土城や立花宗茂の介護を攻めて落城、開城させ、黒田如水公と共に九州の制圧に貢献し、旧小西領の半分を加えた肥後52万石の大大名になりました。
関ヶ原後は豊臣家の存続を願い、徳川将軍家との共存の道を模索、努力していましたが、二条城での家康公と秀頼の会見を見届けた帰路の船中で逝去しました。
突然の病死と会見直後と言うタイミングから二条城で秀頼に盛られた毒を代わりに食べたためなどの伝説が生まれましたが真偽のほどは判りません。
法号は熱心な法華宗徒らしく「浄池院殿永運日乗居士」です。
肥後・加藤家は三男・忠広が継ぎましたが、間もなく改易されて庄内藩の預かりとなり、子孫は現在も酒田市内で暮らしておられると山形の親戚から聞きました。石田光成の子孫は津軽藩で、こちらも生き残っていますが。
- 2013/06/23(日) 09:40:09|
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野僧の高校時代に流行った歌ですが、崩して跡形もなく流してしまうまで降り続くなんてすごい豪雨です。
水色の雨(詞・三浦徳子 曲・八神純子)
ああ水色の雨 私の肩を抱いて 包んで 降り続くの
崩れてしまえ あとかたもなく 流されてゆく 愛の形
優しい人ね 貴方って人は
見ない振りしてたの 私の過ち
ひと時の気まぐれ 通り過ぎるまで
忘れてよ 忘れてよ 愛したことなど
ああ水色の雨 私を抱いて 包んで 降り続くの
崩れてしまえ あとかたもなく 流されてゆく 愛の形
八神純子さんはこの歌で全国区になるまでは名古屋のローカル歌手で、歌唱力には定評があったものの「あの顔じゃあ、スターになるのは無理だろう」と言われていました。
ただ、バンドをやる連中の間では「高音をひからかす歌だ」と敬遠されていました。
尤も、この歌の前に出していたアルバムは「思い出は美し過ぎて」で、この歌のようなアップテンポな曲はなく、歌唱力はあまり発揮できていませんでした。
その一方で、噂好きでは全国屈指の愛知県だけに、八神さんが名古屋のローカル・メジャーメーカー「八神医療機器」の社長令嬢だとか、大学に入ってからも同じ年の弟が愛知学院大学に在学しており、「あそこなら偏差値では勝った」などと馬鹿な噂が飛び交っていました。
野僧は特にファンではなかったのですが、サンバホイッスルに興味を持ち楽器店で購入し、航空自衛隊に入って教育隊に転属してからは、体育や基本教練などで愛用していました。
普通ならカウント的に「ピッピッピー」と吹くところを「ピッパッポー」と音が変わるので、他の班の学生まで喜んでしまいました。
ところで「水色の雨」と言っても水は無色透明で、むしろ雨は白いイメージがあります。また水深が浅ければ底の色が透けて見え、深くなれば色は変わり、水色と言われている色はむしろ「空(そら)」の色ではないでしょうか。英語にスカイブルーと言う色はありますがライトブルーの方が一般的なようです。
そう言えば以前、肌色を「アジア人だけに当てはまり、人種に対する差別用語だ」と言う批判があって「薄橙(うすだいだい)」に変更した騒動がありましたが、早い話が英語のペイル・オレンジの直訳です。
- 2013/06/21(金) 09:05:32|
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ようやく本降りになったので(なり過ぎの上、台風まで来ていますが)、今度は雨の演歌です。
雨(詞・千家和也 曲・浜圭介)
雨にぬれながら たたずむ人がいる
傘の花が咲く 土曜の昼下がり
約束した時間だけが 体をすり抜ける
道行く人は誰一人も 見向きもしない
恋はいつの日も 捧げるものだから
じっと耐えるのが つとめと信じてる
歌っている三善英史さんは1972(昭和47)年のデビューで日本レコード大賞の新人賞を獲りましたが、最優秀は「芽生え」の麻丘めぐみさんでした。
雨の御堂筋(詞・林春生 曲・ザ・ベンチャーズ)
小ぬか雨降る 御堂筋 心がわりな 夜の雨
貴方 貴方は何処よ 貴方を尋ねて 南へ歩く
本町あたりに 貴方はいると 風の知らせを 背中で聞いて
こんな こんな女が一人 探していてことを 誰か伝えて
この歌がヒットした71年、小学4年生だった野僧は「小ぬか雨」が判らず親に訊くと「糠味噌のようにまとわりつくような雨だ」と答えたのですが、あまり自信がなさそうだったので(不機嫌な顔になる)自分で調べたところ、逆に細かい濡れないような霧雨と言うことでした。
欧陽菲菲さんがデビューした71年は新人の当たり年で、南沙織さんや天地真理さんなどもいましたが、日本レコード大賞最優秀新人賞は小柳ルミ子さんが「私の城下町」で獲得しました。
これはロックバンドのザ・ベンチャーズの曲ですから果たして演歌に分類してもいいものなのか?ただし、始めから日本向けに提供された曲で替え歌ではないそうです。
- 2013/06/20(木) 09:27:50|
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1751(宝暦1)年の明日6月20日(太陰暦)、暴れん坊将軍・徳川吉宗さんが死去しました。66歳でした。
吉宗さんと言えば松平健さんの「暴れん坊将軍」ですが、野僧は小学校3年の年に放送されたNHKの「男は度胸」の記憶も残っていて(西田敏行さんの大河ドラマ「八代将軍吉宗」は見ていません)、イメージとしては浜畑賢吉さんです。
暴れん坊将軍や大岡越前にしろアニメの一休さんにしろ、番組が長くなるとネタ切れになり、他人のエピソードを摘まみ食いするようになるので史実として信用は出来ません。尤も、水戸黄門は始めから創作ですから納得づくで楽しめますが。
吉宗さんは紀州藩2代藩主・徳川光貞の4男ですが、母親は召使、下女で、湯殿でお手つきになったとも言われています(日活「大奥十八景」にそんなシーンがありましたっけ)。
一方、吉宗さん自身も紀州藩主時代に女中に手をつけて長男・家重くんを生ませていますから紀州藩の御屋敷に問題があるのか、召使、女中に美女が多いのか理由はよく判りません(和歌山県に美人が多いのは確かです)。
7代将軍・家継くんが8歳で早世すると、2代・秀忠さん以来の血統は老齢で跡取りのいない館林藩主・松平清武さんのみとなり、尾張、紀州の両家から選ぶことになりました。
家格から言えば尾張の方が上なのですが、吉宗さんは家康の曾孫、尾張藩主の継友さんは玄孫にあたるため、これが決定要因なったと言われています。ただ吉宗には大奥の支持もあったようで、前々将軍の未亡人や前将軍の生母などの権力者と愛人関係になったと言われていますが真偽のほどは判りません。
暴れん坊将軍では絶対に出てこないでしょう。
8代将軍となった吉宗さんは手始めに大奥で美女を選ばせました。大奥では将軍のお気に入りなって世継ぎを生めば権力を手中にできるので各局(つぼね)は選りすぐり美女を差し出したのですが、吉宗さんが命じたことはその逆で、その美女たちに暇を与えた(解雇)のです。その理由として「美女であれば世間でも引く手あまただろう」と言う吉宗さんの世情に通じた配慮だと言われていますが、実際は美女ほど化粧や衣装に金を浪費するものなので予算削減の見せしめを狙ったのではないかと言うのが野僧の推察です。
吉宗さんの享保の改革は、一汁三菜の質素倹約と新田開発による幕府財政の立て直し、公事方御定書による判決基準の明文化、目安箱による小石川養生所の開設、街火消しの設置など民意を反映した諸施策、大岡忠相の江戸町奉行抜擢による江戸の行政・司法の活性化、さらに5代将軍・綱吉の文治政治により弱体化していた旗本、御家人を鷹狩りなどで鍛えて文武政治に転換しました。
このため幕府の引き締めに成果を上げ、中興の祖と呼ばれています。これは足利将軍家の8代目は義政で、恐妻の日野富子にしたい放題させ、応仁の乱を招いて幕府の命運を尽きさせたのとは対照的です。
ただ、嫡子・家重に将軍の座を譲って大御所になった頃からは思考に陰りが出て、我が子
を江戸城内に住まわせて御三家に代わる御三卿を設けるなど、権力と血縁への執着を見せています。
- 2013/06/19(水) 09:26:25|
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今回は自慢話から始まることをお許し下さい。
いきなり警備小隊が歩哨犬と使って侵入者を捜索、捕獲する場面から始まりましたが、これを航空自衛隊に持ち込んだのは野僧なのです。
警備小隊長だった時、米軍がベルジャン・マラノイ(最近はベルジアン・シェパード・ドッグ・マリノアと呼んでいるそうです)と言う犬種を使っていることを知り、横田基地の米空軍憲兵隊まで研修に行ったのですが、それにドラィバーとして同行した入間基地の歩哨犬訓練所の教官は、犬種だけでなく自衛隊と全く違う運用法にカルチャーショックを受けていました。
自衛隊では歩哨犬を重要警備地点のランニングチェーンにつなぎますが、米軍はそのような番犬式ではなく、常に隊員が同伴し命令で不審者を捜索、威嚇、攻撃、捕獲させるのです。
米軍はその実施方法まで実演して見せてくれましたが、野僧の通訳で具体的な質問もできたので、教官は満足し、空自でも導入に向けて研究すると言っていました。
その後、野僧は警察で米軍式の使用法が日本国内でも違法ではないことを確認し、自分の基地でも研究を始め、航空祭で実施しましたが、犬は本来、人の殺傷を目的とした武器ではないため、その使用により相手が怪我をしても武器使用にはならないのです。これが結実していることを知り非常に感激しました。
ちなみ「歩哨犬が2等空曹」と言うのは「旧陸軍の軍用犬が兵隊よりも上の伍長だった」との風説を踏襲したものですが、実際は高価格品、つまり物品扱いです(詳しくはブログ「航空自衛隊怪僧記」、小説「続・亜麻色の髪のドール」にてどうぞ)。

次にブルーインパルスが登場しましたが、野僧は東京オリンピックの開会式で空に五輪を描いたF-86F、通称「86(ハチロク)ブルー」からT―2ブルー、そして現在のT―4ブルーを見たことがあります(86ブルーは渥美半島沖の太平洋上空で訓練していました)。
T-2ブルーは、スマートな機体で見栄えはよかったものの急旋回、低速度、低空での飛行性能が劣り、曲技飛行には向かない機体で、演技をしてもそのまま視界から消えてしまう欠点がありました。このため8機編成にして6機の編隊飛行の合間に2機の演技でつなぐ変則的な構成にしていました。ところが浜松基地での下方開花(編隊で垂直に急降下しながら地上寸前で引き起こして開花する)中に墜落事故を起こし、さらに松島での訓練中にも墜落事故を繰り返したため、安全対策として演技の項目の大半が削除され、ただ編隊を組んで上空を通過するだけになっていました。
続いて登場したT-4ブルーですが、上昇力、旋回性能には定評があり、まさにアクロバット用に設計したような機体であるものの、運輸省・国土交通省に提出した安全対策を取り下げることは許されず、可能な範囲で演技を作る試行錯誤が続けられていました。
ですから大画面のビデオとは言えブルーエンジェルス(米海軍&海兵隊)、サンダーバーズ(米空軍)、スノーバーズ(加空軍)、レッドアローズ(英空軍)、バトルイユ・ド・フランス(仏空軍)、フレッチュ・トリ・コロール(伊空軍)などの映像を見馴れていた野僧にとってT-4ブルーの演技は、やはり安全管理の縛りがあって演技の難度が落ちるように思います。
一例をあげれば編隊を組んだ時の機体の間隔が広く(86ブルーや他のアクロチームは翼が重なって当たっている)、また急降下しながらの演技も殆どなく、横向きにアレコレやっていますが、機体がミルミル迫ってくる迫力には敵いません。
米空軍のサンダーバーズも編隊が全機滑走路に突っ込む事故を起こして演技に制限が加わりましたが、あちらは軍内の自己規制ですから公務員労組が反自衛隊の立場で足を引っ張る日本の運輸省、国土交通省の意図的な妨害とは違います。
ですからパイロットの憧れと尊敬はブルーインパルスよりも本当に極限まで飛ぶことができるアグレッサー(飛行教導隊)に移っているようです。

T-2ブルー

下方開花

墜落
ちなみにブルーインパルスはパイロットスーツだけでなく、整備員の作業服も特注です。
ところでチャンバー(飛行資格)の検査・訓練を入間基地で受けると言っていましたが、チャンバーの航空医学実験隊は立川分屯基地あると思います(4ケ所にあるとのことなので、新たに出来たのかも知れませんが)。
気圧を急激に下げて鼻をつまみ耳に空気を吹き込んで鼓膜を押し出したり、低酸素状態の中、酸素マスクを外して簡単な作業をしたり、遠心力で圧を加えて高いG状態を体験したりと1日でクタクタになりますが、これがパスできないと上空で空気圧が下がり鼓膜が破れ、低酸素で失神することもあります。
最後に鷺坂室長が「定年退官後はしばらく亡き妻が行きたかったであろう場所を旅する」と言っていましたが、退官後に引き続き就職しないと防衛省、自衛隊の就職支援を受けられなくなり、保証人もなく自力で探すことになります。
同じ自衛隊員でも自衛官は階級ごとに定められた年齢の誕生日の前日、事務官、技官は60歳に達した3月31日付で退官になります。これは自衛官の雇用基準を定める法令が年齢しか規定していないことによります。
その点、米軍は身体検査と体力測定の基準さえクリアできれば何歳までも勤務できます。
おまけに米軍の士官・将校は立候補した者だけで競わせて昇任させますから(ただし、3回立候補して昇任できないと予備役編入です)、今の階級、役職で満足しているのなら健康と体力を維持できれば何歳までも勤務すればいいのです。
空井くんが「美しいから飛べるんです。飛行機は」と言っていましたが、航空機は無駄を徹底的に排除して設計されていますから、究極に洗練された機械なのです。
ある機体は後から加えた電子機器を収めるための約10センチの出っ張りがあるため空気抵抗が増大し、大幅に燃費が落ちました。そこで出っ張り部分を滑らかな傾斜にすると燃費は改善したそうです。航空機の美しさはこうして作られるのです。
現在、空自内では登場人物のモデルは誰かと言う推理が流行っているそうですが、モト冬樹さんが演じている浅野空幕長は野僧の親分・平岡裕治閣下で間違いないでしょう。
顔、口調がそのままであることも勿論ですが、浅野空幕長の胸にはウィングマーク(パイロットの徽章)がなく、パイロットでなかった空幕長は最近では平岡閣下くらいしか思い当たりません。
今回気になった場面ですが、いつもは「先輩」「柚木3佐」と呼んでいる槙3佐が柚木3佐に「お前が泣いてどうする」と言っていました。2人の仲はかなり進展しているようです。
次回の最終回は2年後の話ですが、果たしてゴールインしているのか?

平岡裕治閣下です。どうですモト冬樹さんよりも男前でしょう。
野僧の退職の決裁を1ヶ月間保留され、「まだ説得できないのか?」と繰り返しておられたそうですが、間に挟まっていた第6高射群第22高射隊長と第6高射群総務人事班長が辞めさせたがっていましたから、「将来、部内出身初の将官になれ」と言う閣下の期待を裏切ることになってしまいました(それは車力で机を並べた曹候学生の後輩に託しています)。
- 2013/06/18(火) 11:24:41|
- 「空飛ぶ広報室」解説
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1815年の明日6月18日、ナポレオンVS英蘭・プロシャ軍のワーテルローの戦いが終わりました。
ナポレオンはロシア遠征の失敗で退位し、地中海のエルバ島に流されていましたが(名目上は島の領主として赴任した)、その後に列強諸国の後押しで即位したルイ18世は国民の人気がなく、それに乗じてエルベ島を脱出、パリに戻って皇帝に返り咲きましたが、これを抑えようとする列強諸国が第7次対フランス大同盟を成立させる前に打破しようと、12万の軍を率いフランス北部に侵攻していた英蘭連合軍とプロシア軍に攻撃を加え、プロシア軍には勝ったものの3日間の戦闘の末、英蘭軍に敗北しました。
この結果、今度は大西洋上の孤島・セントヘレナ島に流され1821年に生涯を閉じました。これを光秀の三日天下(実際は11日)と同様に「ナポレオンの百日天下」と言いますから、ワーテルローの戦いは山崎の合戦に当たるのかも知れません。
ナポレオンの戦術はイギリス生まれの球技であるはずのラグビーに例えられます。
ナポレオン自身が「最良の兵隊とは戦う兵隊よりも歩く兵隊である」と言っているように、正面で対峙している敵の裏をかいて部隊を機動して攻撃を加えて大軍を撃破してきました。
それがスクラムを組んでいる中、味方が出したボールを素早く回し、持って走る、蹴って追うなどの戦術を駆使して敵の弱点を突いてトライするラグビーに通じるのでしょう。
そして、ナポレオンにはその弱点を見つけ、機動を命ずるタイミングを計ることに天才的な直観力があったと言われています。
その1人の天才に常人が対抗するため考え出されたのがプロシアの参謀本部制度で、各参謀は司令官の頭脳の各部分を担当することで巨大な思考力を生むのです。
その意味でナポレオンは光秀よりも信長タイプですが、末路は光秀みたいです。元祖・島流しなら関ヶ原の後の宇喜田秀家ですが(鎮西八郎為朝はあくまでも伝承です)。
- 2013/06/17(月) 09:14:59|
- 日記(暦)
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これは夢物語だが事実と思わせるような書き方をしていることが問題だそうです。野僧は事実だと信じていますから当然でしょう。
本当は「漫湖」に業界禁止用語の「まんこ」と振り仮名をつけたかったのですが、記事が却下になってはそれも無理でした。
もしかすると日本軍の士官が住民を守ろうとして犠牲になったことが問題なのかも知れません。
本当は最後の一行が一番、言いたかったのですが。
沖縄戦の記憶
野僧は幼い頃から同じ夢を繰り返し見ていました。あの日、上衣を脱した中尉の海軍第3種軍装(脚は兵隊用の軍靴に脚絆でした)の野僧と汚れたブラウスにモンペ姿の若い母親、膝までの着物の五歳と三歳くらいの男の子の四人で民家の崩れた石垣の影に隠れていました。集落は艦砲射撃と爆撃で破壊されて家屋はほとんど残っておらず、ただ集落の向うには藪がありました。その時、車両のエンジン音と英語の話し声が聞え、のぞくと数名のアメリカ兵が坂を登ってくるのが見えます。野僧は母親に「私が囮になるから藪に逃げ込んでアメリカ兵が通り過ぎるの待て」と指示し、怯えた母親の横でこちらを見ている子供の頭を撫で、藪の反対側の坂道を登るように駆け出しました。走りながら「軍刀が邪魔だなァ」と思ったところで米兵の甲高い叫び声と機関銃の乾いた銃声が聞こえ、同時に背中に焼けた石を投げつけられたような衝撃を感じ、突き倒されたように転がって仰向けになりました。そして見上げた青い空と白い雲、冷たく感じる背中、ハシャイだようなアメリカ兵の歓声、遠くなっていく意識・・・後年、デートで漫湖の東側の豊見城村の街から城址公園へ行く途中でその場所を見つけたのです(詳しくはブログ「戦士の戦史」をどうぞ)。六月二十三日の沖縄慰霊の日に小庵では慰霊法要を厳修します。
(下関市・托鉢僧)6月19日・8回予定
- 2013/06/16(日) 00:21:38|
- 「東流西流」却下原稿
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雨の歌は色々ありますが、野僧にはアラスカ人の彼女と雨の中で唄って踊ったこの曲です。乗りはピチピチチャプチャプランランランですが。
ところで自衛官、警察官、消防士、海上保安官は制服を着ている時は傘をさせません。これは欧州の軍人が傘で片手がふさがっていると戦闘力が低下すると言って使わなかった作法の踏襲ですが、逆に日本では傘は下駄と同様に武士階級以上だけに許されていた藩がある一種の特権で、特に朱色の傘は権力・権威の象徴でした。
ところでアメリカ軍では空軍だけが傘をさすことを許されていて、嘉手納基地のBX(売店)に行くと買い物に来ている海軍飛行隊の軍人がレインコートで濡れながら歩いている横を空軍の軍人は女性兵士と相合傘で楽しげに歩いていました。
この歌はポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、キャサリン・ロス出演の西部劇の名作、「明日に向かって撃て」の挿入歌で、キャサリン・ロスが自転車の前輪をまたぐ形で二人乗りするシーンで流れていました。
ただ、野僧はジーン・ケリーのミュージカル映画「雨に唄えば」の主題歌と混同していました。雨の中で踊るならこちらの方が定番ですが。
Raindrop Keep Fallin‘ on My Head(唄・B.J.Thomas)
Raindrop keep fallin‘ on my head
And just like the guy whose feet are too big for his bed
Nothin‘ seems to fit
Those raindrops are fallin‘ on my head, they keep fallin‘
So I just did me some talkin‘ to the sun
And I said I didn‘t like the way he got things done
Sleepin‘ on the job
Those raindrops are fallin‘ on my head they keep fallin‘
But there‘s one thing I know
The Blues they send to meet me won‘t dofeat me
It won‘t be long till happiness
Stops up to great me
かなり字余りなので歌詞を全部読んでしまう日本人には唄いにくいです。適当に省略することです。
Singing In The Rain(雨に唄えば)
Doo-dloo-doo-doo×4
I‘m singing in The Rain
Just singing in the rain
What a glorious feel‘
I‘m happy again
I‘m laughing at clouds
So dark up above
And I‘m ready for love
Let the stormy clouds chase
Everyone from the rain
I‘ve a smile on may face
I walk down the lane
With a happy refrain
Just singin‘
Dancin‘ in the rain
Dee-ah×6
I‘m happy again!
I‘m singin’ and dancin‘ in the rain!
ミュージカルなので「Doo-doo-doo」「Dee-ah」など相の手が入ります。
- 2013/06/15(土) 09:20:03|
- 雨の歌
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野僧の世代で雨の童謡と言えばこの2曲ですが、今の子供たちは習っているのでしょうか?歌詞が古いので無理ですね。
雨(作詞・北原白秋 作曲・弘田龍太郎)
雨がふります 雨がふる 遊びにいきたし 傘はなし
紅緒(あかお)の木履(かっこ)も 緒が切れた
雨がふります 雨がふる いやでもお家(うち)で 遊びましょう
千代紙おりましょ たたみましょう
昔、木履=下駄は雨の日に履くもので、藩によっては武士にしか許されず、庶民は裸足でした。一方、野僧が通っていて保育園のお婆ちゃんの先生は折り紙を千代紙と呼んでいました。
しかし、折り紙を「たたむ」と言うのですね。
雨ふり(作詞・北原白秋 作曲・中山晋平)
雨雨ふれふれ かあさんが 蛇の目でお迎え うれしいな
ピチピチチャプチャプ ランランラン
あらあら あの子は ずぶ濡れで 柳の根かえで 泣いている
ピチピチチャプチャプ ランランラン
かあさん 僕のを かしましょか 君君 この傘 さしたまえ
ピチピチチャプチャプ ランランラン
僕なら いいんだ かあさんの 大きな蛇の目に 入ってく
ピチピチチャプチャプ ランランラン
蛇の目と防水処理をした傘のことです。ミシンメーカーのジャノメは糸巻きの形が蛇の目に似たジャノメ型だったことに由来し、傘を作っていた訳ではありません。
それにしても同じ雨を詠った北原白秋さんの詞でも、弘田さんの「雨」は憂鬱な気分に満ちていますが、中山さんの「雨ふり」は逆にハシャイデいるようです。
「砂山」と言う佐渡の御当地ソングになっている童謡では、北原白秋さんの詞に山田耕作さんと中山晋平さんが作曲していて人気を争っています。
野僧が新潟港のフェリー乗り場で聞いたのは中山さんのテンポが好い方でしたが。
- 2013/06/14(金) 09:16:20|
- 雨の歌
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1777年の明日6月14日にアメリカ合衆国が星条旗を制定しました。
御存知のように星条旗は赤と白のストライプの左上の隅に青のデザインで、青の部分に州の数の星が入っています。ちなみに赤は勇気、白は真実、青は正義を意味していると教えられました。
当初はストライプも州の数と一緒に増やしていたのですが、20州になると間隔が狭くなり、遠目ではボヤケテしまうようになったため、最初の13本に戻したとのことです。
また星も13個だった時には配置が定まっておらず、それでは国旗として問題があると言うことで、丸く配置したBetsy・Ross・Flagが制定されました。
星条旗は州が増える度にデザインが変わるため27回も変更されており、現在の50州のデザインは1960年7月4日にハワイ州が加わって以来、継続されている最長記録だそうです。これでグアムが州になれば星を51でデザインし直さなければなりませんが、世界各国に出回っているだけに迷惑を被る人も多いでしょう。
国旗を間違うのは外交儀礼上、大変に失礼なことになり、アメリカから来ているマスコミ関係者などが掲げられている星条旗の星の数を確認するくらいのことはやりそうです。
また壁などにストライプを縦にして掲げる時も左上に青がくるように裏返さないとならないそうです。
それからアメリカの国歌「The Star-Spangled Banner」を直訳すれば「星条旗」です。
歌詞は独立戦争の時、銃弾が飛び交う中、はためき続けた星条旗を称える軍歌なのですが、日本の国歌を「白地に赤く 日の丸染めて ああ美しい 日本の旗だ」の「日の丸」にしろと言われても困るでしょう。
参考までに赤と白のストライプに左上の青のデザインの国旗は、マレーシアとリベリアがあり、青の部分にはマレーシアはイスラム教国だけに月と太陽、リベリアは大きな星1つです。
- 2013/06/13(木) 09:22:22|
- 日記(暦)
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1582(天正10)年の明日6月13日に山崎の合戦が行われました。
惟任日向守・明智光秀が6月2日に本能寺で信長、二条新御所で信忠の父子を討った時、織田勢は北陸、中国、四国(大阪で出陣待機)へ分散していましたが、その中で備中・高松城を水攻めにしていた秀吉は翌3日に光秀から毛利に宛てた密書を持った使者を捕獲して事態を知り、4日には毛利と和睦して城主・清水宗治を自刃させ、5日に撤兵開始、6日に岡山、7日に姫路、11日に尼崎まで進撃する「中国大返し」を行い、12日には大阪で四国への出陣を前に待機していた丹羽長秀、織田信孝と軍議を持ち(軍兵は「信長死す」の報を聞いて大半が逃亡していた)、織田信孝を名目上の総大将、山崎を主戦場と決めました。
山崎は現在の大阪府三島郡島本町山崎と京都府乙訓郡大山崎町に当たる府境で、名神高速道路では淀川沿いの山が両側から迫る狭い地形です。
この中の天王山と呼ばれる海抜270メートルの山を巡って両軍が争い、それを奪取した羽柴軍が勝利したとされていたため、以前は「天王山の戦い」と呼ばれていましたが、実際は天王山の帰趨は合戦の勝敗にそれほど大きな意味はなかったと言う説が大勢になり、現在では戦場となった地域の名を以て合戦の名称としています。
合戦の後、明智光秀は近江・坂本城へ戻ろうとしましたが、小栗栖(京都市伏見区)で落ち武者狩りの土民の竹槍で殺されたとも、重傷を負い、家臣の介錯で自刃したとも伝えられています。
ただ首級は秀吉のもとに3つ届けられたものの どれも顔が判らないように皮を剥ぐなど傷つけられていて、それが後に「天海僧正は比叡山に逃れた光秀であった」と言う風説を生みました。
しかし、光秀の命日もこの6月13日としている歴史書は多いですが、敗走後に一度、近くの砦に入り、そこから逃亡していますので日付は替わっていたと思われます。
光秀の遺偈(辞世にあたる漢詩)は「順逆無ニ門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元(順逆に二門なし 大道は心源に徹す 五十五年の夢 覚め来って一元に帰す)」です。
これを見ると本当にかなりの教養人だったようです。
- 2013/06/12(水) 09:49:13|
- 日記(暦)
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今回は航空自衛隊にとっては日常茶飯事の話です。
陸は演習場、海は洋上で活動しますから一般の国民の目に触れることは滅多にありませんが、空は訓練にとどまらず、緊急発進(スクランブル)や救難隊の災害派遣で時間を問わず基地を発進するため騒音と言う批判の口実を与えざるを得ないのです。
このため航空自衛隊は陸海以上に国民の理解を得ようと広報活動に力を入れているのですが、それをマスコミは「宣伝に協力してやっている」と恩に着せており、少しくらいの行き過ぎた批判は帳消しにできると思っているようです。
番組の中で空井くんが警察や消防と自衛隊を比較して鷺坂室長から「意味がない」とたしなめられましたが、野僧のマスコミ関係の友人たちは「自衛隊ほど叩きやすい組織はない」と放言していました。何故なら警察、消防はニュースのネタを提供してもらう「商品の生産者」であるのに対して、自衛隊は報道してやる「サラ金の借り手」に過ぎないのです。
さらに誤った報道をして自衛隊が反論してくれば、旧軍の言論弾圧を引き合いに出して批判すれば済み、選挙にマイナスになると思えば自民党の政治家はいつでも寝返ると踏んでいました。
実際、御巣鷹山への日航機墜落事故で夜間の山岳地帯にヘリコプターを飛ばす危険性から夜明けを待って出動した慎重な対応を「初動対処の遅れ」とマスコミ各社が一斉に批判したことに、当時の佐藤守空幕広報室長(野僧の師匠の一人です)が文芸春秋誌で「いわれなき批判に反論する」と言う論文を掲載したことに対して、田岡俊次朝日新聞編集委員が「お前を飛ばすことなど簡単だ」と恫喝した件では、加藤紘一防衛庁長官は「宮沢政権に好意的な朝日新聞との関係悪化は避けたい」と火消しに奔走しました(この件については後述します)。
また潜水艦・なだしおと遊漁船・第1富士丸との衝突事故では「まだ海上自衛隊に落ち度があったとは確定していない」と謝罪を拒否していた東山収一郎海上幕僚長を瓦力長官は制服を着せて負傷者の見舞いに連れ回し、世論を決定づけてしまいました。
確かに自民党の防衛族の政治屋や制服の飼い主を標榜する防衛官僚の間にはマスコミを敵に回して事態を長引かせるよりも、制服に責任を押し付けて国庫から賠償した方が後腐れがないと言う認識が共有されていて、「自衛隊の活動は人殺しの練習」と言う稲葉さんの台詞は自衛隊反対派だけの常套句ではなく、防衛族や防衛官僚から投げつけられているものなのです。
尤も野僧にとって最大の批判者は本当の身内にありました。父親は「自衛隊は憲法違反の存在悪」と明言し、野僧が大韓航空機撃墜事件で実戦とも言うべき対処をして帰った時には、ねぎらうどころか「お前らは勝手に戦争を始める気か」と激怒し、自衛隊体育学校に入校して過酷な訓練の末、格闘指導官の資格を取得した時は「自衛隊は体育で遊んでいても給料がもらえるのか」と嘲笑しました。
さらに親が押し付けた同居人(嫁?)は、結婚直後に「自衛隊なんて馬鹿か不良の集まり」と言い放ち、健康を害して職務の継続に悩む野僧に「貴方の仕事なんてあってもなくても一緒なんだから辞めればいい」と頭から否定しましたから、赤の他人が何を言っても「仕方ない」と諦めることは簡単でした。おかげで反対派の人たちともすぐに友達になれましたが。
ドラマの中で阿久津チーフを鷺坂室長が訪ねるシーンがありましたが、その理由が「稲葉さんが困った立場に追い込まれていないか心配して」と聞き、阿久津が唖然としていたのは民間企業と自衛隊の人間関係を象徴していて面白かったです。
自衛隊の上司と部下は単なる職務上の関係にとどまらず生活面、精神面にまで及びます。何故なら出動となった時、生活の乱れは能力の低下を招き、後顧の憂いが任務に集中する妨げになりかねないからです。何よりもその隊員のミスにより部隊が損害を被ることがあれば、その損害とは多くの場合、死を意味しますから、心情把握と生活指導は部隊を指揮する上での基礎なのです。
一方、民間企業では収益を追求するため社員は給与に見合う仕事をすることだけを求められ、生活上の理由で会社に損益を与えれば給与などから賠償することになります。
社員が乱れた生活をしていて飲酒運転などの不祥事を起こしても、それで免許を取り消されて仕事に支障をきたしたり、会社のイメージを損なうことがなければあくまでも個人の責任であり、兎に角、定時に出勤して給与に見合った仕事をこなしていれば好いのでしょう。
今回のドラマの最後に稲葉さんが泣くシーンがありましたが、野僧には親に無理やり引き裂かれた沖縄の彼女(昨日のブログに記載)が別れ際に泣いていた姿に重なってとても辛かったです。
今時、嫌いでもないのに別れさせられる辛さを味わう人はそうはいないでしょう。
やはり新垣結衣さんは沖縄の人ですから共通する雰囲気があるのです。
余談・航空自衛隊VS朝日新聞
佐藤守空幕広報室長と田岡俊次編集委員の対立を伝え聞いた(中には文芸春秋の記事をコピーして配る幹部もいました)航空自衛隊は朝日新聞との全面対決を覚悟していたのですが、加藤長官は航空幕僚長を呼んでなだめ、それでも部隊が収まらないと内局を通じて長官通達と言う指導を加えて収束させようとしましたが、日頃の朝日新聞、テレビ朝日の報道姿勢に怒り心頭に達していた部隊はそれでも納得せず、最後には「予算配分を削減する」と恫喝してこれを抑えました。
しかし、部隊の怒りは水面下で沸き続け、その欝憤を晴らすべく基地内の隊員クラブではアサヒビールの売り上げが激減し、自動販売機コーナーでは若い隊員がアサヒのジュースを買おうとすると「これアサヒだぜ」と言い合って、さらにアサヒ生命の小母ちゃんたちは勧誘しても「アサヒは嫌だ」と断られるようになったそうです。
ジュースも生命保険も朝日新聞とは全く別の会社ですが、そのくらい怒っていました。
後年、アサヒスーパードライが大ヒットした時でさえ宴会の幹事は店に「アサヒビールは出すな」と釘を刺していました。
- 2013/06/11(火) 10:19:55|
- 「空飛ぶ広報室」解説
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1965(昭和40=蛇年)年の明日6月11日は野僧が想い続けて30年の女優・沢口靖子さんの誕生日です。
靖子さんは昭和59年に東宝シンデレラ・グランプリに選ばれ(この時、斎藤由貴さんが落選したそうです)、その年の映画「刑事物語3・潮騒の詩」でデビューしたのですが、この映画に看護学生の彼女と行って「見覚えがあるなァ」と隣を見たら同じ顔があった=そっくりだったのです。
その年、彼女は石垣島の八重山病院へ赴任して遠距離恋愛になったのですが、テレビの靖子さんを見ては胸をときめかせ、数年後、離島の診療所に転勤してからはポスターを眺めて泣いていました。
結局、彼女とも親の反対で引き裂かれたのですが、靖子さんを見ては「今頃はあんな顔になっているんだろうな」と想いを重ねてきました。
と言いながらそっくりなのはデビューした当時の丸顔の頃なので、不思議に面長になった現在はどこまで似ているか判りませんが、力のある大きな眼は変わりませんからイメージはそのままでしょう。
もう1つ、靖子さんは歌人・与謝野晶子の出身校でもある大阪府立泉陽高校で奈良女子大、大阪大学を目指していた優等生で、彼女も全国屈指の国立沖縄病院の看護学校でしたから頭の良さも共通していました。
靖子さんは「科捜研の女」の天才的な科学捜査官・マリコを演じていますが、おそらく女優になっていなければ、そのくらいインテリジェンスの高い仕事についていたのでしょうから演じていても無理はありません。
バブルでヘアヌード写真集が流行っていた頃、ある雑誌が行った「最もヌードが見たい芸能人」と言うアンケートで靖子さんがトップになりましたが、水着さえデビュー時と目立たないようにチラリと見せたくらいですから48歳になると流石にないでしょう。
第一、靖子さんは胸が極めて控え目ですから、ヌード写真として鑑賞に堪えるかは不明です。
別れて25年、今では彼女と靖子さんの区別がつかなくなってしまいました。したがって靖子さんもファンのレベルを超えて愛しています。
「タンスにゴン」の関西弁のCMがまた見たいものです。多分、あれが地でしょう。

この入浴シーンは動画もありますが、掲載方法が判りません。
- 2013/06/10(月) 08:40:18|
- 日記(暦)
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これは内情暴露だそうですが、「東流西流」では色々な職業の方がかなりきわどい体験談を語っているにも関わらず航空自衛隊は許されないようです。
丁度、今夜の「空飛ぶ広報室」はそんな話みたいですが。
大韓航空機撃墜事件
昭和五十八年九月一日、早朝に非常呼集がかかりました。ただ、そのアナウンスには、いつもの「訓練」の符合がなく、テレビでは「大韓航空機がサハリン沖で消息を断った」と言うニュースが流れていましたが、「民間旅客機の遭難」と今朝の非常呼集は結びつきませんでした。その後、ソ連軍は全国の航空自衛隊の基地にミサイルを発射する態勢で接近を繰り返す威示行為を繰り返し、南西航空混成団では米空軍の主力が三沢に展開した後の沖縄周辺空域の防空能力の低下を補完するため、可動の戦闘機を武装した上、待機させる緊急発進増強態勢をとり、急速整備を実施して全機を可動状態にしました。それと同時に基地の警備態勢を強化し、弾薬、ミサイルを搭載した戦闘機を並べたエプロン地区では空曹(下士官)が小銃と実弾を持って勤務につきました。ある夜、野僧は滑走路側のポストに配置されましたが、夜間飛行のボーイング747が着陸し、目の前をタクシングして行きました。窓からは明りが漏れていて旅客のシルエットが見えます。
「あの人たちは今、日本で何が起きているのか知らないんだな・・・撃墜されたのも747だった」そう思うと、戦闘態勢にある自分たちが目の前の平和な風景とは別世界の住人のようでした。
(下関市・托鉢僧)6月12日・7回予定
本来はこれに続けるつもりだったのですが、同様の理由で却下でした。
若い世代へのエールにもなると思ったのですが。と言ってもあの頃の若い連中はもう40代ですね。
湾岸戦争
平成二年、湾岸戦争が勃発した時、小牧の第5術科学校の要撃管制幹部課程に入校していました。当時の海部内閣は財政支援で対応し、米国の非難を受けて巨額の追加支援に、そして二転三転、右往左往、優柔不断、右顧左眄の末、結局は「輸送機による難民輸送」と言う妥協案を決定しました。政府から小牧・第1輸送航空隊に対して輸送機派遣の準備命令が発令された日、基地は異様な静寂に包まれました。派遣要員の選定で幹部たちは当初、「ベテランは了解してくれるだろうが、嫌がる若手をどう説得するか」を心配していましたが、実際の選任作業を始めると若手は「外国軍がやっていることを自衛隊もやるのは当然です」と志願し、中には任期満了退職する予定で就職先が決まっていた空士までが「同期が派遣されるなら俺も」と退職を取り消して志願することも少なくなかったそうです。一方、ベテランの方はかえって「定年まであと数年なのに今更戦死できるか」と断る者が多く、さらに同じ小牧基地でも派遣には直接関係のない第5術科学
校へは学生の親から「息子は派遣されるのか」との問い合わせが殺到し、中には泣きながら「退職させる」と申し入れる母親もあったそうです。「今の若者は素晴らしい」との第1輸送航空隊司令の感動のコメントに野僧も同感です。
- 2013/06/09(日) 00:29:05|
- 「東流西流」却下原稿
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1992年(平成4)年の明日6月8日は先年、大ヒットした映画「太平洋の奇跡・フォックスと呼ばれた男」の主人公になった大場栄大尉の命日です。
大場栄大尉は野僧の高校の先輩ですが、サイパン戦の研究をしていてその名前と出身地(その時はOBとは知らなかった)、業績を知り、生徒会長の職権乱用で校内の大場姓の生徒と言う生徒に「お祖父さんは栄さんって言わないか?」訊いて回りましたが該当者はいませんでした。若し、OBと判っていれば同窓会名簿で御自宅の住所を調べ、訪ねてお話を伺えたのですが、その名簿は十年に一度の発行なので入手したのは航空自衛隊に入って遠方に赴任してからでした。
大場先輩は蒲郡農学校から愛知県実業教員養成所を卒業して愛知県御津町立実業術習学校の教師になったのですが、翌年の昭和9年に徴兵で豊橋の第18歩兵連隊に入営し、甲種幹部候補生となりました。2年後予備役になって豊橋市立吉田方尋常小学校の教師に復帰しました。その頃、官舎で蒲郡の良家の令嬢だった2つ年上の奥様が通い婚生活を始めるのですが、正式の結婚は長男(こちらもOBです)が生まれてからだそうです。
やがて昭和12年に日華事変が起こり再度、出征して少尉に任官、大陸戦線へ送られ14年には中尉に昇任しました。その頃、大場家の入っていた奥様も蒲郡市の三谷尋常小学校の教師に就職しています。
大陸で戦う大場大尉と奥様との往復書簡を拝読したことがありますが、やはり世間知らずなお嬢様だけに、戦地で生命を危険に晒して戦っている夫への気遣いよりも、舅姑への不満や愚痴をぶちまけたり、地元から出征した兵士が帰還していても将校である夫が戻らないことへの苛立ちを訴えるような手紙が多く、先輩もたまりかねて叱っています。
一時期、先輩は奥様と御子息を大陸に呼び寄せますが、昭和19年、サイパン島へ赴任するのに際して実家へ帰し、7月にサイパン島守備隊は全滅し、翌年8月の敗戦前に戦死公報が届きました。
サイパン戦での物語は映画で詳しく紹介されていますが、先輩はやはり情が捨てられず、戦略と言う発想に欠け、失礼ながら武人としての素養は野僧の方が数段上です。
野僧が母校に記念行事や書籍の出版の計画を問い合わせたところ、対応した教師は「所詮は軍人ですから」と全く関心がないと明言しました。愛知県はそんな土地柄なのです。
大場先輩は78歳で肝炎を患い蒲郡市民病院に入院していたのですが、奥様は見舞客を蒲郡駅へ見送った帰りに交通事故に遭って危篤状態に陥り、同じ病棟の1つ下の階に入院していたそうです。
急に奥様が見舞に来なくなったことで家族を問い詰め、点滴を打ちながら車椅子で奥様を見舞い、病床に長い間、寄り添っていたそうです。
それから3日後のこの日に先輩が亡くなり、奥様はそれから17日後の25日に後を追うように亡くなりました。

大場栄先輩と峯子夫人

「太平洋の奇跡」竹野内豊さんは似てますか?
- 2013/06/07(金) 09:30:36|
- 日記(暦)
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毎回、正確な番組作りに感心していましたが、今回はやや下調べ不足だったようです。
先ず、芳川秋恵士長は26歳と言うことなので入隊して8年間、3等空曹に昇任できておらず、バブルが弾けた直後なら兎も角、現在ではあまり優秀とは言えません。
次は浜松で出会ったと言うのは、浜松基地はかつて南北別の基地に分かれていたのを滑走路の西をトンネルでつないだだけで、パイロット教育の北地区と航空機整備員、電子整備員、高射の教育の南地区では殆ど交流がなく、パイロットと整備員の雛鳥が出会うことはまずありません。
さらに浜松市内(防府市でも)では自衛官だと判ると女の子の方から「北基地、南基地?」と訊いて逆軟派してくるくらい北基地のパイロットの学生はもてますから、ワザワザWAF(女性自衛官)を軟派することはないでしょう。北地区勤務の可愛いWAFは別ですが。
そもそも航空学生(パイロットの卵)は防府北基地に入隊し、半分はそのまま防府、半分は静浜基地でプロペラ練習機、続いて芦屋基地、そして浜松基地に来る訳ですから22歳のおそらく2等空曹が18歳の2等空士を相手にすることは・・・空井君がそう言う趣味なら別ですけど。
航空機整備員の特技レベルの話が出てきましたが、3レベルの間は整備作業の後、必ず7レベルのベテランのチェックを受けなければならず、実務訓練(OJT=on the job training)を終え、さらにAPTと呼ばれる特技検定試験に合格して5レベルになってようやく独り立ちと言うことです。さらに7レベルになるには先ず空曹に昇任し、浜松の上級整備員課程(アドバンス)を修了した上、OJTを終えてAPTに合格しなければなりません。
またこの特技レベルは航空機整備員だけでなく全ての職種に適用されており、5レベルでは2等空曹までしか昇任できないことになっていました。
WAFの航空機整備員は確かに狭いところへ入る作業には重宝しますが、手が小さく握力が弱いため、部品の交換をするのに始めから工具を使わなければビスを緩めることができません。
航空自衛隊では整備時間を短縮するため、米軍のように機体をバラバラにしませんから、頭が入らないような狭い空間に付けられている装置の交換作業も多く、時には手の感覚だけでセフティーワイヤー(ビスの緩み止めの針金)を切り、ビスを外し、装置を下ろすこともあります(切ったワイヤーで腕がズタズタになり血が流れ落ちてきました)。装着する時には片手でセフティーワイヤーを締めますが、工具を使うことが限定されますからWAFには無理でした。
ただ航空機整備の作業は多種多様ですから、活躍できる場面も多いはずです。
今回は無理やりのように気象隊が出てきましたが、航空自衛隊の気象隊は基地周辺と訓練空域の高度別の気象観測と予報を行っていて、横風や雷雨を予報すれば飛行場が閉鎖され、それで他の基地に向かった戦闘機が燃料切れで墜落した事故では予報を外した予報官が処罰されています。
野僧も兵器管制幹部の頃、気象隊のウェザーレポートを毎朝、各レーダーサイトに流していましたが、高度ごとに現れる雲の種類、風の向きと強さ、さらに雲の成分(氷粒の大きさなど)まで詳細で特殊な内容でした。それでも雷雲が発生すると緊急レポートが入ります。
気象隊には気象予報士の資格を取得する隊員が多いのですが、航空自衛隊で予報官を勤める気象幹部は知識が高度な上、専門的過ぎてかえって合格できず、番組にも登場していたベテランの空曹の方が合格率は高いそうです。医師が救急救命士を受けるようなものかも知れません。
そう言えば全国の気象隊では地元の漁師や農家に伝承されている「あの山に雲がかかったら雨」などの天気予報の説話を収集して実証に励んでいましたが、大学で学んできたインテリな予報官が揃っている気象庁では「伝説の類」と馬鹿にしているそうです。
最後に川崎重工が開発した傑作機であるC-1輸送機についてですが、STOL(短距離での離着陸能力)や低高度での運動性、貨物の搭載、卸下、投下の優れた機能などは当時のC-130輸送機にはない画期的な点が多く、米軍も導入に向けて検討したそうですが、欠点とされたのがペイロード(搭載量)の少なさで、普通の人員なら60名(空挺隊員なら45名)ですから、現在のCH-47ヘリコプターと変わりがありません。
これも大量輸送を可能にすると周辺国に脅威を与えると言う政治的な配慮があったためと言われていますが、こんな話ばかりです。
おまけの豆知識を一つ。番組でよく「ロックオン」と言う単語が出てきますが、これはレーダーで敵機を確実に捉え、ミサイルにもデータを送り、何時でも発射できる状態になったことです。ただし、パイロット用語としては「ジュディ」と言い、これは女性の名前ですが米軍のパイロットが敵機を恋人に例え、「ジュディ、お前を落としてみせる」と叫んだのが発祥と伝えられています。
ちなみに敵機を肉眼で確認したことは「タリホー(狩猟用語)」、射撃することは「ブロー」、命中させたことは「ビンゴ」で、これはゲームと同じです。
用法としては、相棒(エレメント)と飲み屋に行って可愛い女の子を見つけたら「タリホー・ターゲット(目標発見)」。隣に座って声を掛ける時には「ジュディ」。そして軟派に成功したら「ビンゴ」と祝杯を上げるのです。この場合、先にタリホー・コールをした方に優先権があります。
- 2013/06/04(火) 08:46:40|
- 「空飛ぶ広報室」解説
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これは完全な銃剣道批判です。特に銃剣道大会を大々的にニュースにしている山口の連隊と金で買える段位を重宝がって県連盟と癒着を続ける防府の航空教育隊への痛撃のつもりでした。
自衛隊の武術
野僧は坐禅と共に武道に励みましたが、その後、自衛隊体育学校格闘課程に入校し、実戦で役立つ格闘技と言う視点で探求するようになりました。野僧は自衛隊が銃剣道にとらわれている間は駄目だと思っています(野僧は五段ですが)。銃剣道は元来、フランスの格闘術でフェンシングとは兄弟にあたります。導入にあたり武士出身者から日本古来の槍術の採用を求める声が上がりましたが、自身が槍の名手だった山県有朋はこれに反対したそうです。結局、久留米藩士だった担当者が藩御用の宝蔵院流を参考にしたと言われています。しかし、銃剣道は長い30式歩兵銃にこれも長い30年式銃剣(=牛蒡剣)を着けた長さの木銃での格闘術であり、丸腰では役に立ちません。また、AKー74小銃の5・45ミリ弾の射程距離を銃剣を閃かせて突撃しても敵陣地まで辿りつける者がいないことは乃木希典が旅順要塞で証明しています。野僧は警備小隊長として実戦的護身術を急速練成する必要に迫られていましたが、結論的には土俵のない相撲(初段です)を選びました。何故なら頭からの打ちかましの破壊力は拳や足での打撃の比ではなく、押しながら投げ、倒す技は柔道(こちらは2段)ほどの練度を必要としないからです。自衛官にとって武術とは単なる趣味や体育ではなく身を守り、敵を制する戦技なのです。
(下関市・托鉢僧)6月5日・6回予定
- 2013/06/03(月) 09:07:27|
- 「東流西流」却下原稿
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1991(平成3)年の明日6月3日夕方に長崎県島原半島の雲仙普賢岳で大火砕流が発生し、死者43人、焼失家屋千戸の被害が出ました。
この時、野僧は福岡県の春日基地で勤務していましたが、西風に乗って火山灰が降るため晴れても洗濯物を外に干せず、雨の水溜りも黒くなっていました。
仕事で出入りしていた第4師団司令部(災害派遣の指揮を執っていた)で色々な裏話を聞きましたが、この大火砕流ではマスコミの身勝手な行動により、多くの地元の人たちが巻き込まれて犠牲になったようです。
それ以前から噴火、火砕流の危険性が高まっているとの情報は地元自治体を通じて広報され、住民は避難を完了していたのですが、スクープ争いに躍起になっていたマスコミ関係者は避難勧告を無視して危険地域から退避せず、それに同行する形で警察官、消防団員も留まっていたのです。そこに大火砕流が発生したのですが、マスコミは自分たちが原因であることを隠すため、死亡した記者の撮影した画像を映しながら報道に命を捧げた美談に仕立て上げていました。
また地元では避難した留守宅の電話代が異常な高額になっていて、帰宅した住民に請求されたことで問題が発覚したのですが、支払いを拒否されたNTTが通話先を確認すると東京のマスコミ各社への長時間の通話で、留守宅に勝手に上がり込んで報告などをしていたと判明しました。それはどこの災害でも繰り返されていますからマスコミと言う連中はそんなものなのでしょう。
ところで雲仙普賢岳の火砕流はこれが最大ではありません。江戸時代の中頃、1792(寛政4)年5月21日(太陰暦4月1日)にも「島原大変肥後迷惑」と呼ばれる大々火砕流が発生していたのです。
前年末から島原半島では火山性地震が群発するようになっていたのですが、5月になって雲仙普賢岳が爆発し、その噴石で隣りの眉山が山体崩壊を起こして火砕流になりました。これが「島原大変」です。
その土砂は島原の海岸を870メートルも押し出すほどの量で、このため有明海では島原や対岸の天草、肥後の海岸に10メートルを超える大津波が襲いました。こちらが「肥後迷惑」です。
この時の死者は記録に残っているだけでも島原で10139名、天草は343名、肥後では4653名ですが、流石に避難勧告に応じなかった瓦版屋に同行するため巻き込まれた役人はいなかったでしょう。
- 2013/06/02(日) 12:58:39|
- 日記(暦)
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6月は水無月とも言いますが梅雨入りするこの時期には合いません。
結局、これも太陰暦の言葉のようで現代のカレンダーなら1カ月後ですから梅雨が明けた雨(水)の無い月なのでしょう。
この1日に京都の北野社(天満宮)では雷避けのお祭りがありますが、大宰府や防府天満宮では行われていません。これは同じ菅原道真公を祭神としていても、北野は「荒魂(あらたま)」、大宰府や防府は「和魂(にぎたま)」を祀っているからです。
「荒魂」とは嵐や地震、噴火などの自然災害や飢饉、戦乱と言った人力では対処し得ない災厄を荒振る神の仕業として受け容れ、その鎮め(「通り過ぎるのを」と言うべきか)を祈願した日本人的な信仰です。一方、「和魂」は同じ神でも五穀豊穣や商売繁盛、福寿長久などの利益(りやく)をもたらす有り難い面です。
ところで日本の場合、必ずしも成功者をその利益の神として祀るのではなく、むしろそれを願いながら果たせなかった挫折者の無念や非業の死を遂げた者の恨みが持つ力に期待する不可思議な信仰があります。
例えば平家の武将・斉藤実盛は、木曽義仲との倶梨伽羅峠の戦で稲の切り株につまづいて転び討たれたので、稲を怨み害虫になって稲を食い荒らすようになったとされています。このため「サネモリ様」と言うワラ人形を農家が担いで村の田のあぜ道を練り歩き、最後に焼く風習があります。
つまり親分である実盛の姿を見せて害虫を大人しくさせ、これを焼いて供養することで(逆に焼殺することで?)害虫を防ぐと言う逆転の発想なのです。
このほかにも京での権力争いに敗れた菅原道真公や蛮社の獄で死に追いやられた渡辺崋山先生、安政の大獄で斬首された吉田松陰先生など誰が見ても不運と言いようがない人物を祀る神社では「開運厄除」が御利益に入っています。
ところで「三天神」と呼ばれているのは、遺骸を埋葬した地に建つ大宰府と京の屋敷跡に建てた北野、そして大宰府に赴く途中で立ち寄って風景を愛で、「死なば魂は此の地に還る」と言い遺したとされる防府の三カ所ですが、全国的に見ると防府については些か根拠が弱く規模も小さいため、大阪では「テンテン天満(てんま)の天神さん」の天満社、東北では猪苗代湖畔に在る小平潟天満宮、東京では受験生で賑わう湯島天神が「三天神だ」と言う声を聞きます。
防府天満宮は三天神の中で最も古いことをもって正当と主張していますが、天神とは本来、天候気象の神であり、菅公の死後、京都の宮中で失脚に関与した公家が落雷で死亡したことを祟りと恐れた結果、荒魂の神として一緒に合祀されることになったのです。つまり学問の神と言うのは副業であって本業は天候気象の鎮めなのです。
数年前、防府で豪雨災害が発生した時、犠牲者に配慮して天満宮の祭礼の打ち上げ花火を自粛すると言うので、友人の神職(権禰宜)に「神を鎮めるための祭礼を控えてどうするのか。天を賑わすためにも例年以上の花火を盛大に打ち上げろ」と言ったのですが、友人は「あれは商工会議所がやっているから」と逃げました。翌年も豪雨災害が発生しましたが、それは天の荒魂が鎮まっていないからだと思っています。
それにしても日本の神社は「三大」が好きなようで、この他にも三八幡、三稲荷、三東照宮などがあります。
三八幡は大分県の宇佐八幡宮、京都の石清水八幡宮、そして福岡県の筥崎宮です。
東京辺りでは鎌倉の鶴岡八幡宮と思われているかも知れませんが、こちらは源氏が石清水八幡宮から分霊したもので社殿は立派でも格としては一段下がるのです。
三東照宮は徳川家康公の遺骸が埋葬されている日光東照宮と最初に埋葬された静岡の久能山東照宮、そして家康公の出身地である愛知県岡崎市の滝山(たきさん)東照宮です。東照宮は御三家、親藩の権威づけと徳川将軍家への忠誠心を示すために分霊創建されていて、意外と全国各地にあります。
日光は世界遺産になり久能山は富士山・駿河湾の眺望を楽しめる日本平とセットの観光地としてそれなりに有名ですが、滝山東照宮は岡崎市出身の野僧も久能山東照宮で聞いて初めて知りました(隣りにある滝山寺と言う古刹は有名ですが)。
三稲荷は非常にややこしくて、一般的には京都の伏見稲荷、岡山県の最上稲荷、そして愛知県の豊川稲荷だとされていますが、このうち豊川稲荷は妙厳寺と言う曹洞宗の寺が管理、経営しているので神道関係者は認めておらず、替わりに佐賀県の祐徳稲荷を入れたり、山口県では津和野にある太鼓谷稲成(いなり)と言う話も聞きます。
さらに青森県の津軽地方では地元の高山稲荷の宮司が神社本庁のトップになったことで地元の人は「これで三稲荷になれた」と言っていましたが関係ないでしょう。
豊川稲荷は東京の赤坂に分社があるためマスコミで取り上げられることが多く全国的に有名ですが、何故、曹洞宗の寺に稲荷社があるのかと言うと(長門市湯田の大寧寺にもあります)、道元禅師が宋に留学した時、海で暴風にあい稲荷神に助けられたとか、帰国期限が迫っている折、経典を書写するのを稲荷神の化身と言う老人が手伝ったなどの伝承があって境内に祠を祀るようになったのです。
そして豊川では「詣でた人に御利益があった」と言う話が広まって寄進で祠がドンドン大きくなり、今では寺の伽藍よりもはるかに大きな御堂になっています。
しかし、道元禅師は「お経を挙げる暇があれば坐禅をせよ」と言っていたように加持祈祷は全面的に否定しており、ましてや煩悩を捨てることを説く佛教寺院が商売繁盛を専らにする祈祷で欲を煽ってどうするのでしょう。おまけに豊川稲荷の祈祷は、曹洞宗に本来そのような作法がないため真言宗や日蓮宗のモノマネで、独特のダミ声の読経と太鼓の音を聴いていると何宗の寺なのか判らなくなりました。
それでも商売繁盛の功徳は身内からのようで、稲荷に勤める坊さん専用の駐車場にはヤ○ザ屋さんが乗るような高級外車が並び、稲荷が経営する私立高校に通いながら修行している雲水は脂ぎった肥満体ばかりです。
稲荷に勤める坊さんが「最近、参拝者が減って給料が一割カットになった」と嘆いていたので、他の坊さんが「幾らカットされたのか」と訊くと「十万円もだぜ」と答えたところを見ると月給は百万円だったようです。
実は坊さんの給料がカットされたのには、その頃、豊川稲荷の住職が大本山・永平寺の副貫主になろうとは立候補して、その運動資金に数億円を遣ったそうですから大願成就の裏付けは絶大な資金力にあるようです。
ここで佛教の話をすれば「三尊」と言うセットもあります。
このうち釋迦三尊は釋迦牟尼佛に文殊師利菩薩と普賢菩薩、阿弥陀三尊は阿弥陀佛に観世音菩薩と勢至菩薩、そして薬師三尊は薬師瑠璃光如来に日光菩薩、月光(がっこう)菩薩です。このうち薬師瑠璃光如来は奈良の西にある薬師寺では三尊ですが、東の新薬師寺では十二神将(干支の神)とセットになっています。
このほかに「三世佛」と言う方々もあり、過去佛は阿弥陀佛、現在佛が釋迦牟尼佛、そして未来佛の弥勒佛です。永平寺では一時期「曹洞宗の大本山に阿弥陀佛を祀るのはおかしい」と言う声に押され「迦葉佛」と呼んでいましたが、阿弥陀佛は「阿弥陀定印(じょういん)」と言う指を結ぶ手の形をしていて、「形はそのままに別の方とするのは参拝者に間違いを教えることになる」との批判を受けて戻しました。
「日本三XX」と言うのは神社だけでなく日本三景の「安芸の宮島」「天橋立」「松島」や日本三名園の金沢「兼六園」水戸「偕楽園」岡山「後楽園」などでも言われますが、鍾乳洞には「日本三大洞」と「日本三名洞」があるようです。
このうち山口県の秋芳洞と地底湖が素晴らしい岩手県の竜泉洞には異論がないようですが、もう1つを高知県の龍河洞にすれば三大洞、沖縄県の玉泉洞にすると三名洞なるのだそうです(玉泉洞のガイドさんの話)。要するに「長さでは龍河洞に勝てないが鍾乳石の美しさと観光客の数では負けない」と言う自負が言わせた尊称のようで、四つとも行った野僧としては「日本四洞」と言うことにしてもらいたいです。
人物では「三筆」が弘法大師・空海、橘逸勢(はやなり)、嵯峨天皇。「三英傑」の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。毛利と言えば「三本の矢」で毛利隆元、小早川隆景、吉川元春。さらに「寛政の三奇人」の林子平、高山彦九郎、蒲生君平などもありますが、和歌は何故か六歌仙で僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主です。芸能界でも「御三家」の橋幸夫さん、舟木一夫さん、西郷輝彦さん。「三人娘」の美空ひばりさん、江利チエミさん、雪村いづみさんから「新御三家」は野口五郎さん、西城秀樹さん、郷ひろみさん、さらに「花の中三トリオ」で森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さんとくると、もはや民族性でしょうか。
しかし、御三家に三田明さんを加えて「四天王」と言う呼び方もあったそうですが、同じ歳の石川さゆりさんを入れて「花の中三カルテット」にならなかったのは不思議です。歌手生命は一番長いのですが。
ここまで話が反れましたのでこのまま三ヅクシで終わります。
「日本三大ブスの産地」と言うものもあります。これは名古屋(愛知)、水戸、仙台ですが、その歴史的な経緯を検証しますと、愛知は徳川家康が豊臣秀吉によって関東へ転封された際、美女を根こそぎ連れていったためブスのDNAしか残らなかった。
これは有能な家臣も同様で、さらに天下を取って全国に譜代大名としてバラ撒いたため、愛知にはブスな女と無能で小心な男しか生れなくなったと言うことです。
水戸は藩主が江戸に常勤していたため、藩主の側室や位の高い家臣が娶るような美女も江戸へ送られ、残ったのは農民や庶民の垢抜けぬ田舎娘か、下級武士がもらった在庫処分のようなブスだけになったと言うことです。
仙台は伊達政宗が「美女は特産品として江戸へ献上せよ」と命じて以来、将軍家、幕閣へ媚びる道具としていたため、領民までそれに倣って美女を江戸へ売るようなことが横行していたそうです(藩主が吉原の遊女に入れ上げた伊達騒動はそのバチか?)「なんのこっちゃ・・・」
南無十方三世一切諸佛八百万神々
三天神

太宰府天満宮

北野天神社

防府天満宮
三東照宮

日光東照宮

久能山東照宮

滝山東照宮
日本三景

安芸の宮島

天橋立

松島
日本三名洞

秋芳洞

龍泉洞

玉泉洞

宇佐八幡宮
- 2013/06/01(土) 09:38:02|
- 月刊「宗教」講座
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