「銅(あかがね)の海」
「エピローグ」
今は東京で文学者になっている高見和成は故郷の丘に文学碑を建立した。
碑の裏にはあの戦争で死んでいった友人たち、この丘で海を眺めながら語り合い、ふざけ合い過ごした友人たちの名が刻まれている。それは彼らの鎮魂の碑でもあった。
「高見君、オメデトウ」除幕式が終わり来賓である市長たちが帰った後、残った友人たちと旧交を温めていた高見は同年輩の女性から声を掛けられた。
「市川さん?」「うん、覚えていてくれたんだ」それは鎌氷の尋常小学校の同級生で高見たちの中学校に隣接する女学校に入った市川和子だった。
「市川さん、今は?」「相変わらず蒲鉾屋だよ。主人は鎌氷高校で教師をしてるんだ」和子はそう言うと高見の顔を見つめた。高見の胸に幼い頃、ほのかな憧れを抱き、初恋を覚えた女の子たちの顔が甦った。
「あの時の友達、殆ど残っていないな」「小桜先生も、毬子に孝子も亡くなったしね」小桜先生と言うのは中学校の若い女教師だが、生徒たちにつき合ってこの丘に登り、そこで女学校の生徒たちとの交流を見守ってくれていた姉のような存在だった。
その「小桜先生と毬子を死なせたのは自分だ」との苦しみを高見は抱いている。
「伊藤君、鈴木君、旗野君、小野田君、みんな死んじゃったなんてまだ信じられないよ」「俺一人置いてけぼりだな」「私もだよ」高見の自嘲気味な答えに和子もうなづくと日が傾き銅色に染まり始めた海を眺めた。
「平和の残照」
昭和14年の春、美河湾を一望できる丘の上に座り、春の海を眺めている一群の若者たちがいた。彼らは麓の鎌氷中学校と隣りの女学校の生徒たちで今日が卒業式だった。
海は春の陽ざしを受けて金色に輝き、漁船の姿が影のように散りばんで見える。大陸で泥沼の戦いが行われていることが信じられないような平和な営みがそこにはあった。
「やっぱりここかァ」麓から着物に袴の女学生姿の女性が登ってきた。
「先生」「小桜先生」男子生徒、女生徒たちは立ち上がると揃ってその女性に頭を下げた。「みんなオメデトウ」その女性、男子生徒の担任・小桜順子は笑顔で祝福を返した。
「学校から揃っていなくなったから、またここで待ち合わせているのかなって思ったのよ」小桜先生は予想が当ったことを自慢そうに、もう一度笑った。
「先生、本当にお世話になりました」「オメデトウございました」級長だった伊藤の音頭で男女生徒たちがあらたまって頭を下げると小桜先生も袴の前に手を組んで頭を下げ、全員揃って頭を上げると一緒に笑った。
「先生のおかげでみんな希望通りの進路に進めました」伊藤はどこまでもリーダーだ。
「伊藤君は陸士(陸軍士官学校)だったね」「うん、そうだよ」女生徒の島孝子が眩しそうに横顔を見ながら声をかけると伊藤はうなづいた。
「俺は予科練だ」旗野はそう言うと空を見上げた。彼の心はもう空を飛んでいるようだ。
「俺は師範学校、鈴木は地元の役場だよ」高見の説明に鈴木は「俺に言わせろ」と後ろから背中を叩き、ほかの仲間は顔を見合わせて笑った。
この生徒たちは幼馴染で尋常小学校でも仲良く育ってきたが、中学校、女学校に別れると男女の友情を「時局」が許さず、こうして街の背後の丘に集まるようになったのだ。小桜先生はそれに付き添うことで見守ってきてくれてきた。
「みんな希望通りに決まって良かったね」女生徒の遠山毬子は高見の顔を見ながら言った。毬子はただ1人、女学校になってからの転入で、ほかの女生徒に誘われてこの丘に来るようになり、いつしか高見に憧れの気持ちを抱くようになっている。
「女の子たちはどうなの?」小桜先生の質問に女生徒たちは恥ずかしそうに顔を見合せる。
「私は興亜工業に就職します」「私は東洋繊維です」「私は蒲鉾屋です」3人の女生徒たちはそれぞれ地元の企業に就職するようだが、その中で市川和子だけは親が経営している老舗の蒲鉾店を手伝うようだ。和子は養子娘でもある。
「そうかァ、どこも人手不足だから遊んではいられないわね」小桜先生の言葉に生徒たちはうなづいた。時局柄、若者は兵士として大陸に送られ、軍需物資の増産を支える人手は慢性的に不足しているのだ。世相の話になって、折角の華やいだ空気が急に重くなった。
そこで伊藤が一歩離れると皆を見渡しながら意外なことを口にした。
「俺も旗野も腹一杯食うために軍隊に入るんですよ」この告白にほかの生徒たちが呆気にとられた顔で2人を見ると、伊藤は大声で唄い始めた。
「嫌じゃありませんか軍隊は カネのお椀に竹の箸、佛様でもあるまいに 一膳飯とは情けなや」みんなが手拍子を始めると旗野は慌てて首を振った。
「何を言っているんだ。俺は海鷲になって、この国のために命を捧げるんだ」「本気か?」旗野の勇ましい台詞に伊藤はからかうように質問を返した。
「お前が将校様になっても、エッチラオッチラ歩いている上を飛んで行ってやるよ」予科練は卒業しても飛行兵曹=下士官であり、士官学校の伊藤よりも下位になる。しかし、若者たちにとって飛行機乗りと言う仕事への憧れは別物なのだ。
2人はそれぞれの将来の姿を思い浮かべながら、ふざけて睨み合った。
「伊藤君、旗野君」「はい」「はい」小桜先生は声を揃えて返事した2人の顔を哀しげな表情で見つめた。
「私、本当は貴方たちを軍人なんかにしたくないのよ」その言葉に伊藤は冷静に、旗野は驚いた顔をした。
「だって軍人になったら人を殺さなければいけないし、貴方たちも殺されるかも知れない・・・・だから」その時、彼らの後ろで乱暴に草を踏む音がした。
「貴様らァ、ここで何をしている。非国民め!」その声に振り替えると1人の中年の男が立っていた。男の顔はみんな知っている。愛国士魂会と称する地元の右翼団体の幹部で、中学校や女学校にも度々、愛国講話と言う退屈な話をしに来ていた。
「貴様、もう一度言ってみろ!」男は生徒の輪の中にズカズカと踏み入ると小桜先生の顔を睨みつけた。
「軍人になって欲しくないだとォ、死んで欲しくないだとォ。そんな考えで戦地で戦っている兵隊たちに顔向けが出来るかァ!」そう怒鳴ると小桜先生を殴りつけ、足元に倒れた先生にさらに罵声を浴びせた。
「貴様は教員だろう。教員なら何故、教え子に忠君愛国の精神を教えない・・・」その言葉が終わる前に旗野が体当たりをし、男は呆気なく尻もちをついた。
「貴様、俺に逆らってどんな目に遭うか判っているのか」男は尻もちをついたまま立っている旗野を威嚇した。
さらに掴みかかろうとする旗野を伊藤が止め、高見、鈴木と女生徒たちが息を飲んだ時、「おーい、順子ォ」と呼ぶ声がした。そこにいる全員が声のした方を見ると一人の海軍士官が丘を登って来るのが見えた。
「尾田君?」小桜先生は腰を下ろしたまま戸惑った顔で呟いた。
「順子、久しぶりだな」その海軍中尉は立ち止まると帽子を取って汗を拭いた。
「尾田君、どうして」「下宿に寄ったら学校だって言うし、学校へ行ったらここだろうって言うし困ったぞ」先生が尾田と呼ぶ中尉は、そう答えて朗らかに笑った。
「ひょっとして海軍航空隊にいかれた尾田先輩ですか?」旗野の質問に尾田は微笑んでうなづいた。鎌氷中学校から海軍兵学校へ入り、海軍航空隊で活躍している尾田の名前は、後輩でなくとも知られていた。旗野も憧れていたが兵学校には受からなかったのだ。
「もっとも今日は小桜順子先生の恋人の尾田義英だがな」尾田の説明に生徒たちは先ほどまでの争いを忘れ尾田と小桜先生を見比べて歓声を上げた。
そこを先ほどの男はこっそり逃げるように立ち去ろうとしていた。
「おい、お前は俺の恋人を殴ってくれたな」尾田中尉に呼びとめられて男は立ち止まると顔を強張らせて言い訳を始めた。
「その女は、いえ、その方は貴方たち軍人を人殺しだと言いました」「俺たちは人殺しだろう。殺される敵は人間じゃあないのか?」尾田の意外な言葉に一同は呆気にとられて顔を見合い、男は反論の言葉を探していた。
「皇軍の敵は天もゆるさぬ朝敵です。必ず滅ぼさなけれなりません」男は尾田中尉にまで自分の意見を押し付けようとしてくる。
「って敵さんも言ってるよ」「それは・・・」尾田中尉はそう言いながら男に「もう行け」と顎で合図し、男は丘を下っていった。
「尾田君、相変わらずね」「うん、恋人を守るのは男の務めだよ」小桜先生が感心したように声をかけると尾田中尉はふざけて答えた。
「いつから私たち恋人になったの?」「早くなりたいね。嫁さんならもっといいけどな」尾田中尉の返事に小桜先生は真っ赤になって反対を向き、生徒たちは冷やかすように笑いかけた。しかし、これがプロポーズであることに生徒たちは気がつかなかった。
「旅立ちの刻」
3月も終わりに近づいたある日、旗野は霞ケ浦の海軍予科飛行練習生へ出発した。
出征兵士ならば町内総出で見送られるが、学校に入るのに特別な儀式はなく同級生たちも仕事が始まっており、両親と兄、そして小桜先生だけがホームに見送りきていた。
旗野は東京までの長い道中を思い、トイレがついた車両に乗り込んだ。網棚に荷物を置いて旗野が車窓から顔を出すと両親と兄が順番に声をかけた。
「利広、しっかりな」「体に気をつけて」「無理をするなよ」旗野も「はい」と言う返事を繰り返している。そんな様子を小桜先生は一歩下がって見ていた。その時、駅員が発車が近いことを知らせ、列車から離れるように注意した。後ろに下がった家族の間から小桜先生が車窓に歩み寄った。
「旗野君、これを」「先生」小桜先生は小さな布袋を手渡すとまた両親の後ろに下がり、同時にベルが響き、汽笛が鳴って列車はガタンと言う音と共にユックリ走り出し、旗野は車内で姿勢を正して学生帽で敬礼をした。
「利広、ガンバレ」父と兄が大きく手を振り声の限り叫んでいる。その横で母は涙を拭いている。小桜先生は胸元で小さく手を振っていた。
やがて列車が加速を終え順調に走り始めた時、旗野は左手に握り締めていた先ほどの布袋
を開いてみた。中には1本の短くなった鉛筆と1枚の紙切れがあり、紙切れには「あの日の優しさを大切に」とだけあった。
「あの日・・・」旗野は車窓に広がる故郷の風景を眺めながら思い返してみたが何も浮かばない。そのまま鉛筆を見て1つの情景が鮮やかに甦ってきた。
それは中学校に入学して小桜先生と出会ったあの日であった。その日が新任の初めての授業だった小桜先生は緊張のあまり筆記用具を忘れて来て、生徒たちに借りることも出来ず、むしろ生徒たちは冷やかして先生は途方に暮れていた。その時、旗野は教壇に歩み寄ると短い鉛筆を手渡した。
「それやるよ」旗野は照れ隠しにそれだけを言うと黙って自分の席に戻った。旗野の家は貧しく、兄の支援で中学校へ入学したものの、新しい学用品を揃えることが出来ず、尋常小学校の時の物をそのまま使っていた。先日、伊藤が言った「腹一杯食うために軍に入る」と言うのもあながち冗談ではないのだ。
数日後、旗野の家庭の事情を確認した小桜先生は、真新しい鉛筆1ダースをそっと手渡し
てくれた。
鉛筆を眺めながら旗野の心は中学校へ入学した時点まで遡っていく、しかし、現実は新た
なる道、予科練につながっていた。
「戦いの予感・鈴木の場合」
役場に勤めていた鈴木にも召集令状が届いた。しかし、それは自宅ではなく職場で係から手渡された。
「鈴木君、おめでとうございます。どうかお国のために働いて下さい」係は先に上司である課長に耳打ちをしてから鈴木の席の横に立ってその紙を渡した。
同室の職員たちは顔を強張らせて二人の様子を見ていたが、鈴木は係の顔を見た時から覚悟をしていたのか冷静に受け取った。
米国との戦争が始まって一年、「勝った」「勝った」と言う戦勝のニュースの中、召集される対象者は広がり、同級生でも誕生日が早い者はすでに何人か応集している。役場の職員である鈴木はそれをよく知っていた。
「お勤め御苦労様です」鈴木は係を労うとそのまま立ち上がって課長の席に向った。
「課長、そう言うことで御迷惑をかけますが・・・」「何が迷惑なもんか、公務員たる者、国民に模範を示さなければならない。頑張ってきてくれ」鈴木が机越しに挨拶すると課長も立ち上がって励ました。
それからの鈴木は毎日が多忙だった。
昼は役場の仕事の整理と引き継ぎ、夜は出征兵士の激励会や来客の接待、ものを考える暇もないまま明日は出征となり、役場で簡単な激励会をやってもらった。
久しぶりの酒に少し酔った鈴木の足は母校・鎌氷中学校へ向っていた。
「先生・・・」校門の脇で待つ鈴木を下校する生徒たちが怪訝そうに見ていく。鈴木は役場の職員として顔を知られている学校に入ることはためらっていた。
同級生の中には出征に備えて20歳の若さで婚約し、祝言を上げる者もいる。しかし、鈴木は相変わらず小桜先生一筋なのだ。
「そこにいるのは鈴木君じゃあないか」その時、鈴木は背後から声をかけられた。
おそるおそる振り向くとそこには校長が立っている。手には何かの包みがあり、私用で外出していたようだった。
「君も出征するんだってな」「はい、明日入営します」「そうか、ならば校長室で話そう」「いえ、酒が少し入っていますから」鈴木の遠慮に校長は「気にするな」と言って強引に引っ張りこんだ。生徒の下校時刻になれば校長は暇なのだろう。
それからしばらく校長の軍歴や郷土出身の軍人の話につき合わせられたが、鈴木はその間に小桜先生が帰ってしまうのではないかと気が気でなく外ばかり見ていた。
その時、事務長がドアを開け「退庁時間です」と声を掛けてきた。
「そうか、鈴木君、国のため立派に働いてくれ」そう言うと校長はようやく鈴木を解放してくれた。
玄関で事務長と校長を見送り、鈴木が靴を履いていると今度は女性に声を掛けられた。
「鈴木君?」その声が小桜先生であることはすぐに判った。鈴木は顔を上げるとホッと溜息をついてから「はい」と返事をした。
鈴木は夕暮れ時の街を小桜先生の下宿に向って並んで歩いていた。
「出征のことは聞いています。今夜お宅を訪ねようと思って・・・」鈴木の顔を見た小桜先生の固い表情を夕暮れ時の空が赤く染めていた。
「その前に先生に会っておきたくて・・・」鈴木は長年の夢であった先生との逢引きが実現したようで胸がときめいていたから顔は違う意味で赤く染まっていたのかも知れない。
「皆のことは何か聞いてる?」先生はあの同級生たちのことを訊いてきた。
「伊藤は陸士の本科に入って、旗野はもう練習機に乗っているようです」「高見君は師範学校で頑張っているけど軍事教練で勉強に集中できないって怒ってたわ」戦争も次第に社会全体を引き込んでいる。鈴木は公務員としての日々では思いもしなかった現実を噛み締めた。
その時、町はずれの農家である先生の下宿についた。ここのハナレを借りているのだ。
「鈴木君、ご両親も待っておられるでしょう。早く帰らないと・・・」門の前で立ち止まると先生は、鈴木の顔を見ながら声を掛けた。
辺りはすっかり陽が落ちて暗くなっている。家の中からは夕食の匂いが漂っていた。
「それじゃあ、先生、失礼します」そう言って立ち去ろうとする鈴木を先生は呼びとめた。
「鈴木君、指切りしましょう」「指切り?」鈴木は突然の言葉に戸惑った。指切りなどもう何年もやっていない。尋常小学校で仲間たちと約束した時以来だろう。
黙っている鈴木の顔の前に先生は小指を立てた右手を差し出した。鈴木も黙ったまま指をからめた。指先に僅かな先生の体温を感じた。
「必ず生きて還って来なさい。臆病者、卑怯者と言われても命を捨てては駄目」それは誰もが心の中では願いながら口に出来ない言葉だった。鈴木はかすれた声で「はい」と答えうなづいた。
「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲―ます。指切った」唄いながら先生は鈴木の手と一緒に上下させ、最後に指を切った。
「家でお父さん、お母さんが待ってるわ、早く帰りなさい」手を話すと先生は出征前夜に家で待つ家族を気遣い、早く帰るように促した。そして、先生は胸の前で小さく手を振った。
翌日、鈴木は村の人たちが日の丸の小旗を振る中、護国神社に参拝し駅に向った。
何か挨拶があるごとに「鈴木浩一君、万歳」とやられ、鈴木と両親はその度に深く頭を下げなければならない。
この日にはほかにも陸軍に入営する出征兵士もあるようで、鎌氷駅に近づくにつれて市内のあちこちから、「わが大君に召されたる命栄えある朝ぼらけ・・・」と「出征兵士を送る歌」が聞えてくる。鈴木を送る人々はそれに負けないように「いざ征け強者 日本男児」と声を張り上げた。
駅に入り口には小桜先生が待っていた。しかし、鈴木は挨拶を交わすことも出来ずホームへ押しやられた。鈴木は昨日先生に触れた右手の小指をそっと口に含んだ。
駅の広いホームは見送りの多くの人々で雑然としている。個人が感傷に浸ることを赦さぬかのように儀式は押し進められていく。
同じ座席に座った出征兵士たちが代わる代わる車窓越しに両親に挨拶するだけで、やがてベルが響き、汽笛が聞え、列車は東に向って走り出した。
「戦い前夜・伊藤と鈴木」
隊付教育から朝霞・振武台の陸軍士官学校へ入校し原隊に戻って半年、伊藤は晴れて陸軍少尉に任官した。しかし、その時期に連隊は南方戦線に送られることが決まり佐世保に移動していた。
九州出身者が多い連隊の中で愛知県出身の伊藤は2日間余分の休暇を許され今日、佐世保に帰ってきた。しかし、軍隊生活が長くなると「帰る」のは実家ではなく部隊と言う意識が植えつけられ、伊藤も連隊が駐屯する小学校に着いて何故かホッと溜息をついた。
「入ります」伊藤は連隊長室になっている校長室のドアをノックした。
「おう、その声は伊藤少尉だな」中から聞きなれた安藤大佐の声が聞えてくる。
伊藤はドアを開けて、中に入ると姿勢を正した。しかし、安藤大佐は形式的な挨拶は省いて声をかけてきた。
「伊藤少尉、故郷はよかったか?」「はい・・・」安藤大佐は読みかけていた雑誌を机に伏せると笑顔でうなづいた。その言葉に伊藤の胸に故郷で会ってきた島孝子の顔がよぎった。
今回、孝子は間もなく大陸から還り除隊する予定の同じ職場の工員との「見合いを断る理
由が欲しい」と言った。しかし、伊藤は南方戦線へ行く自分の立場を思い、何も答えられなかった。黙って返事をしない伊藤の顔を見ながら孝子は涙を零した。
そんなことを引きずっている軟弱な自分に気づき、伊藤は孝子への想いを振り払おうと大きく息を吸った。伊藤はもう一度姿勢を正すと礼の言葉を述べた。
「自分の休暇に対して特別な御配慮をいただき有り難うございました」「うん、これが故郷との別れになるかも知れないからな。君には2日は移動期間だろう」「はい」確かに佐世保から鎌氷までは車中泊で一日半、往復で3日になる。九州各地へ帰省した者と実家で過ごす時間はあまり変わらなかった。
「遠距離移動で疲れただろう。今夜はもう休め」そう言うと安藤大佐は伏せておいた雑誌を取り机の上に広げた。
「失礼します」伊藤は敬礼をして退室すると将校室に割り当てられている教室に向った。
暗い廊下に伊藤のブーツの足音と腰に吊った軍刀の鳴る音が響いた。
鈴木たち大橋の連隊は日本に向って大陸を出港した。
鈴木も軍隊生活2年で上等兵になっている。本来なら満期除隊で鎌氷に帰り役場へ復職する頃だった。しかし、初秋の佐世保で軍服を取り上げられ夏服に着替えて、もう一度輸送船に乗せられるのだ。この頃には太平洋には米海軍の潜水艦が行動し度々輸送船が撃沈されている。大陸で何とか守ったこの命も海の藻屑と消えない保証はない。
鈴木たちは乗船待ちの港内で鬱屈した気分を噛み締めていた。
「まったくよォ、こんな涼しくなってから夏服なんて、今度はどこへ行くんだァ」「そりゃ、私のラバさん酋長の娘だろう」兵士たちは断片的な情報で自分たちの運命を想像して語り合っていた。
「今度も腹一杯食えるかなァ」「タロイモにパイナップル」「マンゴにパパイヤ」入営以来大陸で戦ってきた兵士たちが持っている南方戦線の情報はこの程度だった。
「鈴木上等兵」その時、鈴木の耳に聞き覚えがある声が届いた。気がつくと周囲の同僚たちは姿勢を正して敬礼をしている。
鈴木が振り返るとそこには見覚えがある陸軍少尉が立っていた。鈴木はそれが誰であるかを確認する前に軍隊の習慣として敬礼をした。
その少尉は答礼した後、笑顔になって声をかけた。
「俺だよ」「伊藤・・・少尉殿?」3年ぶりの再会だろうか、伊藤は旧友の顔を懐かしそうに見ている。鈴木は開襟の夏軍装にブーツを履き、軍刀を下げた伊藤の全身を見まわした。
「元気だったか」「はい、お元気そうで何よりです」伊藤の質問に鈴木は敬語で答えた。
それにうなづいてから伊藤は周囲の兵士たちに「休め」と指示し、鈴木以外は一斉に肩の力を抜いた。
「貴様も南方へ行くんだってな」「はい、行き先は知りませんが」伊藤は将校として兵士が知らない情報も知っているようだったが訊くことは出来ないのが軍隊の流儀だ。ただ伊藤が「も」と言ったことが引っ掛かった。
「それは貴様の隊で教えてもらうしかないな」「はい、判っております」知り合いとは言え他部隊の士官と兵士が親し気に話していることを軍隊では喜ばない。
「それじゃあ、武運長久を祈るぞ」「はい、少尉殿も」伊藤もそれをわきまえていて鈴木の肩を叩くと足早に去っていった。
鈴木たちは翌日の輸送船に乗せられて南方戦線の離島へ送られた。伊藤たちの連隊は前夜、3隻の輸送船に乗り込んで出発して行ったと噂で聞いた。
佐世保から九州近海を航行していた輸送船は鹿児島沖から航路を奄美、琉球諸島へ向けると同時に多くの兵員が詰め込まれている船内は蒸し風呂のようになってきた。
その沖縄もとうに通り過ぎ、日中に甲板で浴びる日差しもかなり強くなっている。船は赤道あたりにいるのかも知れなかった。
日中は中隊ごと甲板に出て銃の手入れや軽い運動が許されたが、夜はコッソリ抜け出て海風を吸うことしか出来ない。その夜、鈴木もそうしていた。
「おっと誰かと思ったら鈴木上等兵か」甲板の物かげに潜んでいると同じ中隊の酒井上等兵が声を掛けてきた。
「酒井上等兵殿も夕涼みでありますか」「そうだよ、あんな蒸し風呂じゃあ眠れやしない」酒井上等兵も同じ鎌氷出身だが、中学校へは行かず尋常小学校の高等科から島孝子と同じ東洋繊維に就職し工員として働いていた。
酒井上等兵は鈴木の横に座ると夜の海を眺めながら話し始めた。
「俺は満期除隊したら鎌氷に帰って見合いをして結婚する予定だったんだ」「そうですか。相手には会われたのでありますか」鈴木は故郷の名前が出て少し嬉しかったが、酒井は寂しそうに笑った。
「うん、同じ会社の事務員でな。確か貴様と同じ年だぞ」酒井の意外な言葉に鈴木は戸惑った。ただ尋常小学校の同級生が何人も酒井と同じ会社に就職しているのは確かだった。
「それじゃあ、自分と尋常小学校の同級生でありますか」「いや女学校出の才女だ」酒井は少し自慢そうな顔で鈴木を見た。
鈴木の胸には島孝子の顔が浮かんだが、孝子の伊藤への憧れは以前から知っている。その後、2人がどうなったのかは先日、伊藤に会った時も訊けなかった。
もし酒井の見合い相手が孝子なら、結婚を考えた相手2人を南方戦線に送ったことになる。鈴木は出征する前、役場に来ていて会った孝子の大人びた顔を思い出した。
「あの才女を夜な夜な責めまくるのを楽しみにしてたのになァ」酒井は唇を歪めて猥雑な独り言を呟いた。鈴木はその言葉で孝子が責められる痴態を思い浮かべてしまった。
鈴木も大陸では慰安所に通い女の味を覚えた。しかし、古参兵たちのように現地の女性に食料などを与え、引き換えに肉体を奪うようなことはしなかった。
酒井は黙って妄想を楽しんでいる様子で表情はだらしなく乱れている。鈴木は灯火管制で真っ暗な船体からはよく見える明るい南洋の星を見上げながら中学時代の思い出に浸っていた。
「しかし、長い航海だなァ」妄想を止めたのか酒井が独り言のように呟いた。
「はい、もう2週間になります」鈴木は役場の職員上がりらしく、日付には正確だった。
「貴様も鎌氷の出身だから海も船も嫌いじゃあないだろう」「はい、しかし、山の中出身の連中はかなり参っているであります」「うん」同じ連隊でも山の中から徴兵された兵員の中には、狭い船内生活に参っている者も少なくない。最近はわずかなことでイラついて階級が下の者を殴る古参兵が目立っている。
「そう言えばこの船もそろそろ南方の島に近づいているのでありますか」鈴木の質問に酒井が顔を歪めたのが暗夜の中で見えた。
「そんなことは俺も聞いていないよ。ただ北に向っていないのだけは確かだな」そう言うと酒井は片ひじを立てて甲板に横になった。
鈴木は古参である酒井といることに気疲れして、蒸し風呂に帰ることにした。
「それでは酒井上等兵殿、自分はそろそろ帰ります」「おう、早く寝ろよ」酒井はそう答えて、空いている片手で尻をかいた。
その時、すぐそばの煙突で汽笛が鳴り、同時に船は急転舵して、船体が大きく傾き、鈴木はその場に転倒した。
「上等兵殿」「鈴木」酒井と鈴木は互いを呼び合った。すると甲板のあちらこちらから人々の叫び声が起り、立ち上がる人の影が見えた。
鈴木は酒井のところまで這っていくと並んで座り甲板の工作物につかまった。今度は反対側に舵を切ったのか船は逆に傾き、2人は船体に押し付けられた。
「何事でありますか?」「攻撃を受けているんだ」酒井がそう答えた時、船の後方で爆発音が上がり船体が大きく揺れた。
「魚雷か?」「当りました」2人は爆発音がした方を見ながら、理解出来る状況を言い合った。続いてもう一度、爆発音が響くと船は急激に速度を落としながら小刻みに振動した。
甲板を手にランタンを下げた船員が「総員、退船準備―ッ!」と叫びながら走っていった。
「上等兵殿、どうしましょう」「ここで待つしかないだろう」確かにこの混乱の中、船内に戻ることは不可能に等しい。退船準備で甲板に上がって来る兵員に紛れ込むしかないようだ。
「鈴木、俺から離れるな」「はい」その時、船内で大きな爆発音がして、甲板を破って火柱が上がった。
「燃料に引火したな。沈没まで時間がないぞ」鈴木よりも二歳年上で伍長昇任も近いと言われていた酒井は、大陸でも多くの修羅場をくぐって来たのだろう。こんな場面でも冷静だった。
「鈴木、お前は泳ぎが得意か?」「はい、大丈夫であります」「よし、船からなるべく遠くへ離れろ。沈没する時巻き込まれないようにな」その時、船はもう一度爆発を起こし、煙突から炎が噴き上がった。
その頃には甲板に多くの兵員たちが上がって来たが、混乱していて指揮を執る者がいないようだ。炎の中、酒井と鈴木は同じ中隊の兵員の顔を探して甲板を歩き回った。
兵員たちは最上位者を中心にようやく点呼を始め、鈴木と酒井も自分の中隊に合流できた。
「残念ながら沈没します。どうか救命ボートに移って下さい」「魚雷攻撃か?潜水艦だな」点呼を終えて先任将校に報告を始めた部隊の横で船長と連隊長が話しているのが聞えてくる。鈴木の周りの兵士の中でも泳ぎに自信がない者同士が不安げにささやき合っていた。
「総員、退船。以後はXX丸乗組員の指揮を受けよ」人員報告を終えた先任将校に連隊長は指示し、自分は連隊司令部の参謀たちを連れて、船長の案内で救命ボートに向って歩き出した。
それを見送って振り返ると、船員たちが縄梯子を甲板から海に向けて投げ入れている。
船のエンジンはいつの間にか停止し、惰性で進んでいるだけだった。
「負傷者を残し、1小隊から退船!」中隊長の指示で鈴木たち1小隊の兵員たちは甲板の手すりの位置に前進した。
連隊長は負傷者は救命ボートで降ろすと言ったがそれが実行されるかは判らない。ただ、鈴木たちにそれを考える余裕はなかった。

海に降りた鈴木は酒井の指示通り、XX丸からなるべき遠ざかろうと暗い海の中を懸命に泳いだ。周りでも山間部の出身で泳ぎが苦手な兵員たちが次々と溺れ沈んでいった。
やがて鈴木は駆逐艦に救出された。
それから3日の航海の後、鈴木は南洋の離れ島に上陸させられ、そこで酒井と再会した。この島も陸軍が守備しているようだが、そこが鈴木たちの目指していた島なのかは判らなかった。ただ、連隊長と高級将校たちが守備隊の将校に案内されて出掛けていったので、「目的地ではなかった」と推測し合っていた。
翌日から鈴木たちは自分たちの宿舎の建設工事に励むことになった。兵員の間では「間もなくここの守備隊に編入される」と言う噂で持ち切りだった。そんなある日、鈴木は思いがけない人と再会した。
作業の途中で車座になって休憩していると1人の少尉が歩み寄って来て、全員立ち上がって敬礼をした。
「鈴木上等兵はおらんか?」鈴木が顔を向けると、それは伊藤だった。
「はい、ここであります」鈴木が手を上げると伊藤は笑顔を見せて手招きし、ほかの兵員たちに「休め」と指示した。
「無事でよかった」伊藤は鈴木の肩を掴むともう一度笑顔を見せた。
「はい、お世話になっております」鈴木は上官である伊藤に何と答えていいのか分からず、そんな返事をした。
「貴様たちはウチで引き取ることになりそうだが、俺の小隊に来たいか?」突然の伊藤の話だった。伊藤とは幼馴染の同級生だが、今は少尉と上等兵である。上官と部下になっても上手くやれるとは限らなかった。
「その顔は迷ってるな。まあ、悪いようにはせんから安心しろ」伊藤はそう言うともう一度鈴木の肩を叩いて帰っていった。
数日後、鈴木の連隊は生き残った約半数の兵員をタイタン島守備隊に編入し、連隊長以下の数名の高級将校は日本へ海軍の駆逐艦で戻っていった。
鈴木は伊藤の2中隊1小隊に配置され、酒井は3中隊だった。
ある夜、鈴木は海岸線の歩哨に立っていた。
小銃は守備隊の予備品を振り分けられたが、予備だけに旧式の38式歩兵銃だった。
伊藤は弾薬が違う99式歩兵銃と38式歩兵銃を混用するよりも中隊ごとに分けることを主張したが、兵員に自分の銃を手放させることを嫌った参謀の意見で却下されたと言う。
この話を噂で聞いた鈴木は「伊藤には昔から物事の本質を見る才能があった」と思った。
その時、海岸の向こうで「嫌―ッ」「待てェ」と言う叫び声が聞こえ、月明かりの中、注視すると1人の若い女性が数人の男に追い回されているのが見えた。鈴木は、ためらわず駆け出した。
「貴様らァ、そこで何をしている」鈴木は少女を押し倒して馬乗りになり、手足を押さえている男たちの手前で銃を構え、誰何した。
男たちは驚いて鈴木の顔を見上げた後、好色そうに顔を歪めながら少女から離れた。
「兵隊さん、お先にどうぞ」「私らは後でいいですから」「とびっきりの上玉ですよ」月明かりに照らされた少女の顔は恐怖に引きつっている。
「助けて・・・」少女の助けを求める言葉に鈴木は銃に装弾した。銃口を向けると男たちは後ずさった。
「貴様らァ、軍人を舐めるなよ。殺されたくなかったら、とっととうせろ」そう言って引き金に指を掛けた鈴木に男たちは一斉に駆け出した。
彼らの背中に銃を向けながら見送ると鈴木は足下の少女に手を差し伸べた。少女はまだ事態が理解出来ないのか、戸惑った顔をしながら手を握った。
「ありがとうございます」鈴木に助け起こされた少女は礼を言って深々と頭を下げた。
「怪我はありませんか」「はい」うなづいた少女は、まだ女学生のようだった。月明かりに照らされた少女の顔は、見慣れた日本女性よりも、目鼻立ちがハッキリしていて、この島の現地人の女性に近いような気がした。
「親戚の家に用事で来て、帰るのが遅くなってしまって・・・」「親戚?」「はい、皆さんも利用されている雑貨店です。私は日本の離島からの開拓民なんです。大賀久子と言います」そう言って少女はようやく恥ずかしそうな笑顔を見せた。
「可愛い・・・」鈴木は小桜先生の愛くるしい笑顔とは違った久子の華麗な顔立ちに胸がトキメクのを感じた。こんな感覚は、あれ程憧れていた小桜先生の前でも感じたことがない。久子はそんな鈴木に気づかずに安心と信頼の目で見つめていた。
鈴木の胸に国語の授業で小桜先生が朗読した島崎藤村の詩の一節が浮かんだ。
「・・・優しき白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは 薄紅(くれない)の秋の実に
人こひ染めしはじめなり・・・」
その時、鈴木は自分が持ち場から離れていることに気がついた。
歩哨には動哨と言う警戒方法もある。取りあえず異常を発見したため確認に行ったことにした。
「しかし、あいつらが待ち伏せていると危ないな、家までは遠いんですか?」「歩いて三十分ほどです」「そうですか、後で上官に相談してみます」鈴木は久子を連れて立哨位置に戻ると、交代を終えて小隊長の伊藤の元を訪ねた。
交代の歩哨は久子について色々訊いたが、それは適当に誤魔化しておいた。
「そうか、ならば貴様が家まで送ってやればいい」伊藤はランプの明りの下で鈴木から状況を聞き、久子の顔を見ながら笑ってうなづいた。
「ただし、これは特命だから遅くなるなよ」「はい」鈴木は伊藤の小隊に配置されたことを有り難いと思いながら敬礼した。
「ここです」久子の家は、移住者の集落の手前にあり、トタン屋根の質素なものだった。
この集落は同じ島からの移住者が殆どで、集落の周囲は開墾されて畑になっている。暗い集落からは人々の談笑の声が聞こえてきた。この辺りにはまだ電気はなく、ランプも普及していないようだ。
「それでは自分はこれで」「せめてお茶でも」鈴木が家の前で立ち止まると、久子は怪訝そうな顔で引き留めようとした。鈴木も気持ちではそうしたかったが、それは出来ないことだった。
「久子かね、遅いじゃないか」その時、家の中から声がして、立て付けが悪い戸を開けて中から両親が出てきた。両親は久子と立っている兵隊に驚いてロウソクの火をかざした。
「こちら鈴木上等兵さん。危ないところを助けてくれたの」家に戻って久子は急に娘言葉になった。
久子から話を聞き、両親は家に上がるように勧めたが、鈴木は「軍規」を口にして断った。
「軍人さんは厳しいんだ」兵役の経験があるらしい父の説明に母と久子はうなづいた。
「鈴木さん、また会えるように指切りして下さい」見送る前に久子はそう言って指を立てた右手を差し出した。
「指切り・・・」鈴木の胸に出征前に小桜先生とした指切りが甦った。鈴木が指をからめると久子はそれを振りながら唄い始めた。
「指切りげんまーん嘘ついたら針千本のーます」久子との指切りは小桜先生とは違った響きがあり、より強く胸に響いた。指が火照ったように痺れた。
「ありがとうございました」「おう、チャンと帰ったか」営舎に戻り報告に行くと伊藤は笑って迎えた。
「もっともこの島で脱走しても隠れる所はないがな」そう言葉を続けて伊藤は自分でもう一度笑った。
「鈴木、今回の外出は他言無用だぞ」「はい、ありがとうございました」鈴木は伊藤が自分のために特例的な処置してくれたことを知り、もう一度頭を下げた。
そう言えば戻った時、伊藤が指示してくれたのだろう歩哨は事情が判っているようだった。
「鈴木上等兵、帰ります」「うん、早く休めよ」鈴木を見送って伊藤は椅子に座って独り言を呟いた。
「鈴木、あの子はいいな。思い出を作れよ。俺たちには時間がないんだ」呟き終えて伊藤は小箱から島孝子の写真を取り出しランプの明りにかざして眺めた。
「旗野と尾田」
予科練を終え念願の海鷲になった旗野だったが、その頃、日本海軍には作戦使用に堪える航空母艦はあまりなく、中国大陸の基地に配属されて、あれ程叩き込まれた着艦用の三点着陸も無駄になっていた。
旗野はナボール島の航空基地に配属され、本土で愛機・零式艦上戦闘機21型を最新の52型に乗り換えて島から島へとつたいながら赴いた。
「暑いなァ」操縦席の風防を開けた旗野は照りつける日差しに思わず顔をしかめた。エンジンを停めてプロペラの風もなく、しかも防寒仕様になっている飛行服では南洋の島の暑さは拷問であった。
「旗野2飛曹は南は初めてですか」「うん、支那の基地ばかり回っていたからな」操縦席にとりついた整備兵の問いに旗野は笑って答えた。
「これでようやく陸鷲が海鷲になれるよ」そう言って旗野は整備員と入れ替わりに翼に下り、そのまま滑走路=ナボール島への第一歩を標した。

「貴様には会ったことがあるな」飛行隊長の尾田大尉に申告すると旗野の顔を見てそう言った。尾田大尉とは卒業式の日に、あの丘で会っただけだが覚えていてくれたのだ。
「はい、鎌氷中学の裏山で・・・」「おう、順子の生徒か」旗野の履歴書は今手渡した封筒に入っているから大尉は詳しくは知らないのだろう。しかし、偶然とは言え、旗野はこのはるか遠い地で憧れの先輩の部下になれたのだ。
それから旗野は空中戦を基本から徹底的に叩き込まれた。
大陸で相手にしてきた蒋介石の国民党軍や義勇軍として参戦している米国人パイロットとアメリカ海軍の戦闘機乗りでは腕が格段に違うようだ。旗野は大陸でも撃墜マークを集めていたが、それもここでは通用しないようだった。
「旗野2飛曹、米軍のコルセアはエンジン出力が大きいから、逃げられると追いつけん。機先を制して墜とさないといかん」尾田大尉は戦闘機から降りても待機所で熱心に教育してくれる。
「こんなところが小桜先生と馬が合うんだろうな」旗野は教育を受けながら、あの時の尾田大尉と小桜先生のやり取りを思い出していた。
その時、指揮所からラッパが響いた。
「敵襲!」同時に伝令が走りながら大声で叫ぶのが聞こえ、整備員たちは一斉に戦闘機に向って駆け出したが、搭乗員たちは伝令からの伝達を聞き、尾田の命令を受けてからだ。
「旗野、貴様はまだいい」尾田大尉は駆け出しながらそう言ったが旗野も後に続いた。
大尉の愛機は、まだ燃料補充の途中であったが大尉は整備員に声をかけた。
「どのくらい入ってる」「はい、半分です」「ならば飛ぶ」そう言うと大尉は、整備員を押しのけて操縦席に座った。
整備員たちは燃料タンクの蓋を締め、プロペラを回し、配置につき、飛行前点検を始めた。
旗野も隣りに駐機してある愛機にとりついた。
「燃料は?」「まだ空っぽです」「糞ッ!」整備員たちが大尉の機を優先しているのは明らかだった。それが旗野に対する現在の評価なのだ。
「チョーク取れェ」尾田大尉が操縦席から前で赤白の旗を持っている整備員に合図すると両側から整備員が主脚の車輪から輪止を引いた。
尾田大尉は機体を発進させる前、操縦席から動かない旗野に向って軽く手を振った。
結局、その日の米軍艦載機の奇襲とその迎撃を旗野は地上で観戦しているしかなかった。そこで旗野は実力の違いを思い知らされ、打ちのめされた。

「旗野2飛曹も、そろそろいいかな」「はい、燃料もあまり余裕がありませんから」ある時、待機所で尾田大尉が編隊長の上飛曹と話しているのが聞えてきた。
「しかし、幾ら後輩だからって、今回は隊長も随分念入りでしたね」「おう、あれは中学の後輩で、想い人の教え子だからな」普通、海軍では士官と下士官兵の間には深い溝が掘られており、気楽な雑談をするようなことは考えられない。しかし、この隊では尾田大尉の気さくな人柄がそうさせるのか意思疎通は円滑だった。
「あいつは無事に帰してやらないと彼女に叱られちまうよ」「そうですか、だったら一人前にせずに待機要員のままの方が間違いないでしょう」「それが許されればだがな」上飛曹の言葉に尾田は笑って答えた。
「ところでその想い人は撃沈出来そうですか?」「ここ数年、トトトト・・・(ト連符=突撃)だが戦果なしだ」「尾田大尉の攻撃をはねのけるとは不沈戦艦ですね」「不沈戦艦・順子かァ。ハハハ・・・」旗野は温情に感謝して愉快そうに笑っている尾田の後ろから黙って頭を下げた。
旗野が迎撃要員に加えられて、しばらくした頃、また敵襲があった。
「敵襲!」ラッパの後、伝令が大声で叫びながら待機所に向って走って来る。
指揮所には沿岸の監視所から連絡が入り、直ちに警報が発せられるのだ。
「おう、定期便のお出ましか」「はい、今回は大編隊のようです」伝令の説明にうなづくと尾田大尉は予備の待機要員にも出撃を命じた。
「旗野、無理はするな。俺についてこい」尾田大尉は旗野に声をかけて愛機に向った。
戦闘機には整備員が取りつき、飛行前点検が始まっている。尾田大尉に続いて旗野2飛曹も愛機の操縦席に乗り込んだ。
幾つからの最終点検を終えて、旗野は前に立つ整備員に向って手を開くように振りながら、「チョーク取れェ」と指示した。それを受けて整備員は両手の赤白旗を開くように振り、主脚のチョークが外されたのを確認してそれを動作で知らせた。
その時、隣りの尾田大尉の戦闘機が走り出したのが目に入った。尾田大尉は旗野の出発準備を確認していてくれたのだろう。
「いくぞ」旗野は操縦桿を握ると気合を入れて後に続いた。
日本海軍には東郷平八郎元帥以来の指揮官先頭の鉄則があり、それは戦闘機も同じだった。この場合、指揮官・尾田大尉機を待って各戦闘機は発進位置に移動する。ただ、この時代の滑走路は単なる草むらでもあり、移動は比較的雑であった。
十分な滑走距離が取れる位置に移動した尾田大尉は機首を風上に向けて停まった。
指揮所の横の櫓の上で、発進の旗が降られた。
同時に各戦闘機はエンジンを全開にして数機ごとに風上に向けて滑走を始めた。旗野も自分の順番を見つけると前の機に続いた。
速度が上がると前から座席に押し付けられる感覚になる。やがて翼の揚力で機体が浮き、車輪からの振動がなくなり、エンジン音だけが響きだした。この辺りは大陸もナボールも変わらない。旗野は編隊を乱さぬように自分の位置を確かめながら操縦して南洋の大空に舞い上がった。
その日奇襲してきた敵機は、迎撃機が十分な高度を得る前に到達していた。
空中戦には敵よりも高い位置から落下速度を利用して攻撃する方が有利であるが、今回はそれが出来ない。尾田大尉は各編隊長に左右に別れ、挟み撃ちにするように指示した。
旗野は「ついてこい」と言う先ほどの指示を守って、尾田大尉機に続行して右の編隊に加わった。尾田大尉は編隊の先頭にあり、旗野がその後方に位置していた。
敵の編隊は迎撃に上がった日本軍機とほぼ同数だったが、日本軍機が左右に別れたのを察知して、左右に分かれて空中戦を臨んできた。
尾田大尉機が翼を振り、攻撃態勢に入ると旗野も今までの訓練通りに続行する。点のように見えた敵機が、上空では見る見るうちに機影がハッキリし、やがて敵から初弾を発射してきた。旗野の風防の横を機銃弾が過ぎていくのが分かる。
尾田大尉は振り返って旗野と編隊の状態を確認した後、戦闘態勢に入った。尾田大尉機に2機のコルセアが挑みかかって来た。
アメリカ軍も日本海軍の指揮官先頭の鉄則を熟知しており、これを撃墜して指揮不在になることを狙っているのだ。
旗野は尾田大尉機の後方から二機のうち一機を引き受けるように割り込ませ、そのまま1対1の空中戦になった。
大空ではすでに激しい空中戦が繰り広げられている。敵味方の戦闘機が火を吹き、煙を引いて墜ちていく。米軍機からは操縦士が機外に脱出してパラシュートが開くが、日本軍機からはそれがない。操縦士は煙を引いた先で起こる爆発で死んでいくのだ。
混戦の中、旗野は尾田大尉機を見失ってしまった。先ほどしつこく食い下がる敵機に追われ編隊から離れた時のことだった。
その時、米軍機が編隊を組んで撤退を始め、旗野は彼等が向かってくる方に位置している。
「よし、すれ違いざまに一撃だ」旗野は覚悟を決めると、敵の編隊の真ん中に向って愛機を操縦した。

地上に降りて旗野は尾田大尉からいきなり修正(ビンタ)を受け、厳しく叱責された。
「旗野、俺から離れるなと言ったはずだ」確かに旗野は編隊から離れ単独行動をとった。
しかし、それは敵機に追われ止むを得ずしたことであり、代わりに撤退する敵機を迎え撃って撃墜する手柄も立てたはずだ。
「貴様、大陸では少数の敵機と一対一の空中戦しかしてこなかったようだな」尾田大尉の言葉にほかの搭乗員たちは唇を歪めて笑った。旗野はそれが嘲笑されているように感じ、憮然とした顔で周囲を見渡した。
「あのような追尾を受けた場合、自分独りで始末しようとするのではなく、味方機の方向へ誘い込んで攻撃してもらうんだ」尾田大尉の説明は明確だった。旗野は返事が出来ず黙ってうなだれた。この日、旗野の初陣は大編隊同士の空中戦の原則を学ぶ教育になった。
「高見・戦いへの道」
昭和18年の秋、それまで徴兵猶予されていた学生の特例が解除され、兵士として戦場に赴くことになった。東京の学生たち神宮外苑で東條首相臨席のもと盛大な走行式が行われたが、愛知県丘崎市の師範学校の学生たちは簡単な祝賀式で終わった。
祝賀式から鎌氷へ戻った高見は遠山毬子と一緒に小桜先生を訪ねた。
「高見君まで軍人になってしまうのね」先生は農家のハナレの下宿に座った2人に茶を注ぎながら呟いた。高見は海軍軍人として舞鶴の海兵団に入隊することが決まっている。それは高見自身の志願だった。
「でも、どうして海軍なの?」先生の質問に毬子も隣りから顔をのぞき見た。
「折角、英語を学んできましたから、海軍なら役に立つこともあるだろうと思いまして」高見は中学の頃から英語が得意で、英語教師になろうと師範学校でもそれを選んだのだ。
「こんな時代じゃあなかったら英語を学びたい子供たちも一杯いるんだろうけど・・・」そう言って先生は毬子と顔を見合わせて溜め息をついた。
高見の胸に師範学校で「敵性語を学ぶ非国民」とさげすまれ肩身が狭い思いをして来たことが思い出された。最近では人前で英語の本を読むことも控えなければならないのだ。ただ、師範学校の教師も「海軍兵学校では今でも英語教育が行われている」と言っており、高見はそこに望みを抱いていた。
「海軍と言えば旗野君だけど・・・」「旗野も海鷲になって太平洋の上を飛び回っているでしょう」先生も高見も軍人の人事については詳しくは知らなかった。
それを知らせてくれていた鈴木も大陸から南方戦線に送られたことしか聞いていない。軍規と言う高く厚い壁が、戦場と家族の間に立ちはだかっているのだ。
「毬子さんも不安でしょうけど信じて待っているしかないわね」そう言って先生は毬子の顔を見たが、毬子は黙って高見の横顔ばかり見ていた。

「鈴木・愛と死」
鈴木がタイタン島に来て半年が過ぎた。
守備隊は島の中央にそびえる火山の洞窟を利用した地下壕の建設に汗を流し、それに参加出来ない者は畑の耕作に励み、自給自足体制を整えていた。
鈴木は外出が許されると久子の家を訪れ、下宿のように過ごすようになっていた。始めは兄を慕う妹のようだった久子も、次第に鈴木の顔を眩しそうに見つめるようになり、鈴木自身も同様の感情を抱き始めていた。
そんなある日、士官が守備隊司令部に集められた。
士官全員の集合を確認すると副長が「敬礼」の号令をかけ、一斉に守備隊長の安藤大佐に敬礼をした。いつも温和な表情の安藤大佐も流石に厳しい顔をしている。
「休め」、敬礼、報告が終わったところで安藤大佐は静かに号令をかけ、士官たちは休めの姿勢を取ると顔を大佐に向けた。
「大本営からの情報によるとハワイを出港した敵艦隊が、この方面に向けて航行中とのことだ」ここまで言うと大佐は情報幕僚に話を引き継いだ。
太平洋を行動中の海軍の潜水艦がハワイから出撃した敵の艦隊を発見し、それを追跡したところ、すでに攻撃目標はタイタン島以外にない位置にまで来ていると言うのだ。
山がちで滑走路もないタイタン島だが、港湾には優れ中継地点、集積基地としては攻略目標になり得ると言うのが大本営の判断だった。
「先ずは、民間人の避難。次に山ごもり、食糧弾薬の集積だな」「畑は収穫できる物以外は民間人に渡せ」安藤大佐は既定の方針を確認すると無理に笑顔を作った。
鈴木は民間人の避難を指導することを命じられ、久子の集落へ来ていた。これも伊藤の配慮であることは容易に想像できた。
「久子さん、忘れ物はないか?」「はい、そんなに物はありませんから」集落の中央広場に集まって来た人々の中に大賀一家を見つけ、鈴木は声をかけた。
言われてみると大賀家の両親は背中に大きな風呂敷を括りつけいるものの他所の家のような荷車は引いていない。久子は大きなカバンを両手で抱えていた。
これから軍は山にこもり、民間人は岬に移動してそこで集落を再建する。技術将校として海外出張を繰り返し、民間社会も知っている安藤大佐は、他の島の守備隊長のように「米軍は残虐非道であり、捕まれば酷い目に遭う」などと住民の恐怖を煽ることは固く禁じ、むしろ投降することさえ勧めようとしていた。
ただし、それは民間人に対してであり、軍人にはあくまでも軍人としての責務を全うすることを命じている。
「集合終わりました」「よし、出発」避難民が集合を終えたことを集落の責任者が指揮官の曹長に報告すると、曹長は業務的に出発を命じた。
鈴木が少し離れた場所から動き出した人々を見守っていると、久子が歩み寄り、「鈴木さん、戦争が終ったら迎えに来て下さいね」と声を掛け、頭を下げた。
数日後、タイタン島は米海軍の艦艇に包囲された。
山の中腹に構築した地下壕から見渡しても、海上には大小の米艦艇がギッシリと溢れている。艦載機は連日、低空で偵察飛行を繰り返しているが、守備隊は発砲して陣地の位置を暴露する愚は犯さず静観している。
「上陸阻止は無意味、引き込んで1日でも長くこの島に米軍を釘づける」安藤大佐は日本陸軍の常識である上陸時に敵を迎え撃つ戦術は放棄していた。
山がちのこの島では、敵は展開しての包囲、攻撃は不可能であり、縦に長くなった部隊を側面から攻撃して混乱させる作戦だった。

やがて島に向けて艦砲射撃が始まった。
絶え間なく海の上からは砲声が聞こえ、空気を引き裂く音と共に山肌を揺るがして破裂音が響く、しかし、かつて火山だったタイタン島の岩盤は強固であり、洞窟の奥に入っていればそれほどの恐怖は感じず、寧ろ空気が冷たく快適でさえあった。
数日後、伊藤は守備隊司令部の命を受け、足腰が強靭な下士官2名を選び斥候に出た。
鈴木は日没になるのを待って山を下っていく伊藤たちを地下壕の入り口まで出て見送った。
伊藤たちは地下壕構築作業で慣れた山道を下っていったが、砲弾が落ちた山肌は大きく抉られ、道も所々寸断されており、あたりには煙と火災で焦げた臭いが漂っている。
「まったく好き勝手にやりやがって」道がなくなった断崖の山肌を月明かりを便りに這うようにして進みながら、先を行く加藤軍曹が忌々し気に呟いた。
「これじゃあ、折角の迷路も駄目ですね」もう一人の広田軍曹が後ろから声をかけてきた。守備隊は地下壕への経路上に敵を誘い込む幾つかの迷路を作っていたが、この艦砲射撃で破壊されたことは容易に想像できた。
「斥候長殿、これだけ道をやられると我が方の行動にも制約になるんではないですか?」「そうだな、撤退する時もここで足止めになる」広田軍曹の意見に伊藤も同意した。
そんな場所が何カ所かあったが伊藤たちは麓まで見渡せる高台に出た。双眼鏡であたりを見ても夜の視界では何も判らない。
「もう少し下りて、海岸線に出たいな」伊藤は敵の接近経路の現状を確認したかった。
軍曹たちもそれを察してうなづく、やはり伊藤自身が選んだ強兵たちだった。
2人は年上だったが伊藤の持つ独特の存在感を信頼してくれていた。
海岸線に向う経路に出たのは、すでに深夜だったが、月明かりで見る路面には米軍の偵察であろう小部隊が通った形跡があった。
「でけェ、靴だなァ」加藤軍曹は路上に残っている足跡と自分の足を比べ肩をすくめた。
「まだ、新しいな・・・」伊藤の呟きで二人は銃に弾を込め腕に抱えた。
米軍の斥候はおそらく通信機を持っている。もし遭遇すればたちまち援軍が駆け付け、こちらが逃げることは難しくなるだろう。伊藤たちは捕虜第1号になることは避けたかったのだ。
伊藤たちがようやく海岸線に近くと、灯火管制をした海上の米艦艇は月明かりの中、影絵のように見えた。砲は全て島の方向を向いている。と言うことは今日も艦砲射撃だろう。
海岸までの経路は破壊されておらず、照準を地下壕がある山に向けているようだ。
「よし、帰ろう」伊藤は別の経路を通って地下壕に戻ることにした。
伊藤たちが地下壕への山道に差し掛かった頃には、夜も明け周囲の状況も見渡せるようになっていた。伊藤は高台から双眼鏡で周囲の状況を確認した。
「敵さん、岬は民間人の居留地だと判っていますかね?」「判っておってもらわないと攻撃目標になるな」居留民には軍事施設でないことをハッキリさせるため、隠れたりせず整然と行動するように指導はしてあるが、米軍が戦時国際法をどこまで守るかは判らなかった。
伊藤は双眼鏡を岬の方に向けてみた。まだ避難をして2週間足らずで建物などはなく、人々は岬にもある洞窟に身を潜めているようで、広場や道路にも人影はなかった。
可能であれば米軍に対してここが「非防守地域」であることを通知すべきだが、日本軍にはそのような経験がない。安藤大佐も「戦闘に巻き込まない」と言うところまでだろう。
その時、海上の米艦隊で砲火が光り、砲声が響き、数秒で空気を引き裂く音とともに初弾が山腹に命中した。
「どうもこの山が目標だな」「ここも危ないでありますか」「それは敵さん次第だ」伊藤と軍曹たちは身を隠す場所がないかを探したが適当な窪地は見当たらなかった。
ただ着弾位置は次第に遠ざかっていった。
「下山する経路が破壊されている」「登山口まで敵の接近経路は確保されている」「敵はすでに偵察部隊を上陸させている」伊藤の報告を受けて守備隊首脳は「敵の上陸が近い」と判断した。
守備隊は小隊単位に分かれ、行動地域を決めてその中で侵攻してくる米軍部隊に遊撃行動をとる。これが既定の作戦方針だった。食料と弾薬は各個に分散備蓄してあり補給は現地で行う予定だ。
伊藤の小隊は岬に向う経路を担当する。敵が居留地を攻撃した時はそれを阻止するのも任務だった。
「小隊長殿、敵が上陸を始めたであります」洞窟に設けた指揮所の高台に立たせている歩哨の外哨長が報告してきた。
「そうか、位置は?」「岬の付け根です」敵はこの位置と居留地の間に割り込む形で上陸してきたようだ。その時、遠くから銃声が聞こえてきた。それは日本軍のものだった。
「馬鹿な・・・」伊藤は先任曹長と顔を見合わせた。上陸阻止は守備隊長から固く禁じられている。しかし、敵の姿を見て発砲する兵員がいても不思議はなかった。
直ぐに応戦する米軍の火砲の音が響き、次第にそれが激しくなってきた。
「交戦しているのはどこだ?」「はい、以前の宿営地付近と思われます」伊藤の確認を外を見に出た外哨長が答えた。
伊藤は先任曹長と共に地図でそこを担当している部隊を確認した。
「糞―ッ、先を越されたかァ」かたわらで若い外哨長が悔しそうに呟いたのを伊藤は睨みつけた。
「曹長、兵員に血気の勇に走らないように、もう一度徹底しろ」「はい」伊藤の厳命に先任曹長は兵員の待機所になっている洞窟に向って走り出した。
「これで敵はアチラ方面に攻撃を集中させるな・・・」伊藤はもう一度地図を見て、岬の付け根に上陸した敵が移動する可能性を考えた。
「小隊長殿が心配された通りウチの連中もいきり立っておりました」曹長は戻ってきて報告すると岩に腰かけ軍刀を杖にして寄りかかった。
その様子を見ながら伊藤は自分の軍刀を見た。これは少尉に任官した時、鎌氷の親族が市内の刀鍛冶に注文してくれたものだが伊藤には邪魔で仕方なかった。米軍のようにMー1カービンとは言わないが軽い銃が欲しい。
機会があれば米軍から弾薬共々奪って持ちたいと思ったが、この自由な発想は安藤大佐には理解されても、コチコチの精神主義者である上官たちには不評だった。
考え事をしている間、先任曹長が返事を待っていたので伊藤は作戦方針を答えた。
「気持ちは判るが上陸地点で手を出せば、たちまち数倍の砲弾を撃ち込まれて全滅だ」伊藤の言葉に先任曹長もうなづいた。
外では艦砲射撃を受けているのであろう爆発音が続いている。
「あそこには壕もないですからもう全滅でありますね」先任曹長の声が暗く沈んだ。
米軍の海上封鎖を知った居留民の住民の間では動揺が広がっていた。
兵役の経験がある者は、そこで受けた戦陣訓の「生きて虜囚の辱めをうけず」の教えを唱え、一方、守備隊司令部と関わって来た者は「民間人を避難させたのは戦闘に巻き込ませないためだ」と主張した。
その日のうちに集落の入り口でも手製の武器を持った男が警戒に立つようになった。しかし、久子は大人たちのそんな論争とは別に鈴木が迎えにくる日を待っていた。
その日も久子は母と一緒に岬の森に食べられる果実やイモ類を探しに行った。
「鈴木さんも一緒に降参すればいいのに」「何にしろ命あっての物ダネだよ」ある日、久子が母と一緒に山で見つけてきた食料を抱えながらそんな会話をしてると手製の武器を持って立っていた男が声をかけてきた。
「お前たちは米軍の捕虜になるつもりか?」驚いて振り返ると数人の男たちが二人を取り囲み睨んでいる。この男たちが徹底抗戦を叫ぶ強硬派であることを久子たちが知る由もなかった。
「私は命が大切だと言っただけです」母は久子を隠すように立ちはだかって抗弁した。
「そんなことを言ってるから、ここの居留民は軍と一緒に戦うことを許されないんだ」「貴様ら敵に内通しているんじゃないだろうな」男は母を押しのけようとし、それを阻もうとする母ともみ合いになった。
「久子、逃げなさい」「うるさい!」久子は母をかばおうとすがりついたが、それを別の男が引き剥がした。
「何するの・・・」叫ぶのと同時に鈍い音がして母は崩れ落ちた。母は頭から血を流し痙攣を始めている。男の手製の槍の柄が折れていた。
「お母さん!」身をよじって抵抗する久子を2人の男が背後から抱きかかえた。
「敵が移動してくる気配はないな」「はい、先ほどの戦闘も終わったようあります」伊藤は先任曹長の前に地図を広げ、上陸地点を示しながら話し合った。
「ならば敵は居留地へ向かいますね」「しかし、そうなると保護してもらった方がこちらも助かる」伊藤は戦時国際法に詳しい訳ではなかったが、安藤大佐から住民を戦闘に巻きむことは禁じられており、それは米軍の保護下に入れることも選択肢の1つと考えていた。
「取りあえず送り狼になって、ついて行ってみよう」米軍は橋頭堡を確保して準備を整えれば速やかに侵攻を始めるだろう、その背後を追跡して襲うのも一手だ。
「加藤に指揮をとらせて1個分隊だ」伊藤は前回の斥候で同行させた加藤軍曹を選任した。
「加藤軍曹、まいりました」すぐに加藤がやって来た。
伊藤は地図を広げると、加藤に行動範囲と攻撃予定地点を示した。次に先任曹長が同行させる兵員の名前を読み上げ、その中に鈴木浩一上等兵の名前があり、その瞬間、先任曹長は顔を伺ったが、伊藤は無表情を装った。ただ、その後で「鈴木の銃を99式に替えろ」と指示した。
「よし、敵が動き出したらこちらも行け」伊藤の指示に加藤はうなづいて待機壕に向った。
久子は男たちの洞窟に連れ込まれ凌辱を受けていた。
純潔を奪われた後は男たちの性玩具として朝夕を分かたず責められ続けている。
「お前の母親は米兵に殺されたことにしておいたよ」「お前も米兵にさらわれて玩具にされていると思ってるだろう」「もう、これで敵に降伏しようなんて考える奴はいないぞ」久子を交代で抱きながら、男たちはそんな話を聞かせていた。
その時、洞窟の外で聞き慣れないエンジン音が聞こえてきた。男の1人が外を覗くと慌てて振り返った。
「米軍の車が通っていくぞ」男の言葉に順番待ちをしていた男も入口に這っていった。久子を抱いている男はそれには無関心に、その体を味わっていた。
「イザとなればこの娘を差し出せば米軍も喜ぶなァ」「それはいいな」「使うなら今のうちだ」男たちの先ほどまでの主張を忘れたかのような相談にも久子は反応しなかった。
久子はただ、あの時と同じように鈴木が救いに来てくれることを信じて待っていた。
米軍は道路の行き止まりまで車で入り、そこで下車して周辺を捜索し始めた。
「日本人の皆さん、我々は民間人を殺しません。安心して出てきなさい」日系人と思われる米兵がマイクを使って呼びかけるが住民たちは出てこない。男たちの策謀が住民たちに米軍へ恐怖と不信を植えつけているのだ。
その時、1人の男が出刃包丁を持って米兵たちの前に現れた。
「女房、娘の仇ィ」それは久子の父・大賀だった。大賀は日頃の温和な表情とは別人のように血走った眼で米兵たちを睨みつけ、腰の前に出刃包丁を構えた。
「駄目です、そんな物は捨てなさい」日系兵が警告を与えたが大賀は構わず走り出した。
「止まりなさい、さもないと発砲します」出刃包丁が相手では米軍側にも余裕があり、マイクでの警告に続き、空に向けての警告射撃、足元への威嚇射撃と続いたが、それでも大賀は止まらない。
仕方なく指揮官は射殺を命じ、兵士は20メートルの距離でライフルを撃ち、射殺した。その様子を洞窟から見ていた居留民たちは覚悟を決めた。

加藤軍曹は上陸部隊の本隊が動き始めるのを待って攻撃するように準備をしていたが、銃声を聞き腰を上げた。
「銃声は3発だったな」「はい、しかも連射ではなく単発が3回です」加藤はこの状況をどう考えるべきか迷っていた。
敵が攻撃を受けたのなら、集中的に弾を浴びせるから連射になる。しかし、今回はおそらく1丁の銃から単発で3回だった。
「考えられるのは威嚇射撃か銃殺か?」加藤は兵士たちの顔を見渡した。
「住民が抵抗するにしても竹槍か包丁、鎌くらいでしょう。いきなり発砲するとは考えられません」「しかし、沖縄人は昔、薩摩に空手で抵抗しました」鹿児島出身の伍長の訳知りな意見に加藤は溜め息をついた。
「西部劇のインディアンのようになぶり殺しにされたのか・・・」加藤は昔、博多の街で見た西部劇の映画のガンマンが逃げるインディアンを遊びで撃ち殺す場面を思い出した。
「住民が殺されたようなら我々も報復しなければならん」加藤の言葉に分隊員たちはうなづいたが、鈴木だけは違った意味で受け止めていた。
米軍が住民たちの潜む洞窟を発見するのに時間はかからなかった。
米兵たちは2名ごとにそれぞれの洞窟の入口に立ち、その間も日系兵がマイクで「怖がらなくてもいい。大人しく出てくれば大丈夫」と声をかけ続けた。
「ヘイ、ゲラウト(出て来い)」米兵が声をかけると中からは苦しげな呻き声が聞えてきた。兵士が中に踏み込むと、夫が包丁や鎌で家族を刺し、自分も胸を刺して倒れている。
「ホワイ?(何故)」兵士たちは顔を見合わせて立ちすくんだ。
米軍の指揮官は、まだ息のある住民を運ぶためにトラックを要請した。
加藤たちが集の見渡せる高台に到着した時、道路には米軍のジープ2台とトラックが3台停まっていた。米兵たちは洞窟から路上に住民を運び出して並べ、生死の確認と応急処置をしている。
「あれは米軍の仕業ですかね」「ここからでは判らん」「しかし、殺したのなら救護はしないでしょう」「だったら自決か?」加藤軍曹と伍長が話し合っているのを鈴木たちは黙って聞いていた。
その時、米兵が毛布をかけた担架を運んできたのが見えた。
「また死人かァ」伍長の呟きに兵士たちが身を乗り出してそちらをのぞき見た時、トラックの手前でその担架の毛布が外された。
「久子・・・」そこには全裸の女性、間違いなく大賀久子が横たわっている。
「あの子は生きてるぞ」「なぜ、裸なんだ?」「もう米兵に姦られたのか?」そんなささやきが兵士の間にザワメキのように広がった。
「軍曹殿・・・」鈴木の声に加藤は振り返った。
「あの娘は自分の・・・」「知っている。貴様の想い人だろう」加藤の返事に鈴木以外の全員がうなづいた。
「あのままではこれからどんな目に遭うか判らん。ここは1つ、貴様を男にしてやろう」加藤は戦場とは思えない男気溢れる決断を口にした。
「俺たちがこちらで囮になるから、その混乱に乗じて貴様はあの娘を奪いかえせ」加藤の言葉に全員がうなづいた。その顔には不思議な高揚感があった。
「よし、貴様が丁度いい場所に移動したら発砲する。いいな」「はい、有り難うございます」「逃げるのは岬の方向にしろ」加藤の指示にうなづいた鈴木の肩を戦友たちは激励するように叩いた。

鈴木が米軍のトラックの手前の草むらに移動した時、先ほど潜んだ高台から銃声が響いた。
「オー、マイ ゴット」米兵は銃声の方向を見ると一斉にその場に伏せた。
彼等は銃を持たずに担架を運び、処置作業をしていたのだ。
弾は住民に当たらぬように正確に照準されている。米兵の中にはヘルメットさえ脱いでいる者がいて、たちまち数人が倒れた。
その時、指揮官が大声で何かを指示し、それを聞いて久子のそばの兵士たちがトラックに向って走り出した。どうやら銃は荷台に積んであるようだった。
鈴木はその機をとらえ、担架の久子に駆け寄り、背負うと草むらに走り込んだ。
鈴木が背負った瞬間、久子は「鈴木上等兵さん・・・」と呟いた。鈴木の姿を見とがめて叫んだ米兵がいたが、味方の攻撃を受けていては何も出来なかった。
鈴木は何とか丘を越え、海が見える下り坂まで逃げることが出来た。
鈴木が下り坂の途中で久子を背負い直した時、丘の向こうからの銃声も止み、岬は静かになっていた。鈴木は加藤と戦友たちに頭を下げた。
「鈴木上等兵さん・・・」背中で自分の名を呟き続ける久子に鈴木の胸は切なさで張り裂けそうになった。鈴木の手はワンピースのような米兵の服からむき出しになった久子の腿を抱えている。
「あの時、久子は全裸だった・・・」今は米兵の服が着せてあるが、その前に何が行われたのか、久子がどんな目に遭ったのかを考えると肩が震えてきた。
やがて2人は海岸の岩場に出て、鈴木は平らな岩の上に久子をおろした。
久子は黙って鈴木の顔を見つめていたが、やがて顔を歪ませて立ち上がり、岩の上で服を脱ぐと水の中に入り、全身を激しく洗い始めた。鈴木はその姿に全てを察し、黙って久子のすることを見ていた。
久子が水の中に座りこんだ時、鈴木は靴を脱ぎ、弾帯を外し、軍服を脱いで全裸になって傍に歩み寄り、久子を抱き締めた。
久子は体を固くしたが、鈴木の胸に顔を埋め声を上げて泣き出した。
鈴木は久子を背負う時、伊藤の配慮で交換した99式歩兵銃を草むらに捨ててきた。
それは帝国軍人としてはあってはならないことだった。銃の主部には菊の紋章が刻まれており、軍人にとって銃は天皇から下賜された命よりも大切なものなのだ。今、米軍と遭遇しても戦う道具は腰の銃剣だけだ。
「俺はどうやって久子を守るのか」岩場に久子と並んで腰を下ろしながら鈴木はそんなことを考えていた。
その時、鈴木は背後に人の気配を感じた。鈴木は久子をかばいながら岩影に伏せたが、そこには3人の男が立っている。それは久子を凌辱したあの男たちだった。
男たちは意味ありげに笑いながら2人を眺め、「自分たちは敵に降伏することを拒否して隠れていたのだ」と言った。
その時、久子が鈴木の腕にすがりつくと黙って男たちを指差した。その凍りついた目を見て鈴木は銃剣を抜き、一番手前の男に駆け寄るとその胸を刺した。それは最初に久子を凌辱した、純潔を奪った男だった。
咄嗟のことで身構える間もなく刺された男の背中には銃剣の先が突き出ている。ほかの2人は、腰を抜かして手を突きだすと口の中で何かを言っているが、鈴木は倒れた男から銃剣を引き抜くと手前に座っている男の首筋に斬り付けた。
男は手で払おうとしたが剣の方が早かった。頸動脈と気管を切られた男は、空気が漏れる高い音とともに血飛沫を上げて倒れた。
残った男は這って逃げようとしたが、その背中を鈴木はためらわず貫いた。倒れた男は呻き声を洩らしながらのた打ち回ったが、やがて痙攣して動かなくなった。
鈴木の全身は男たちの返り血で真っ赤に染まっている。銃剣からも血が滴り落ちていた。
鈴木が銃剣を海水で洗っている間、久子は顔に冷たい笑みを浮かべて黙って最初に斃れた男の手を素足で踏んでいた。
鈴木は素足の久子の手を引いて海岸の岩場を歩いて行った。
「海は俺の故郷の鎌氷にも続いているな」「私が育った島にも・・・」夕方が近づき、日が陰って来た岩場を2人はそんな話をしながら歩いていた。
戦場での逃避行でありながら、何だか逢引をしているかのような楽しい気分になっている。久子は足場が悪い場所では素直に甘えて鈴木の胸にすがりつき、鈴木も背中に手を回して優しく抱きとめた。
やがて2人は岬の突端にたどりついた。そこから先は海だけだ。海は夕陽に赤く染まり、西方浄土からの光りのように輝いている。
「私の島では、海の向こうに浄土があるって信じているんです」2人並んで腰を下ろしていると久子はそんな話をした。
「海の向こうに?」「はい、昔は死んだ人を浄土に往けって舟に乗せて流したんです」
久子は鈴木の肩に頭をもたげ掛けてきた。
「でも、俺は人を殺してしまったから浄土へは行けないな」鈴木の言葉は先ほどの出来事のことだった。中国戦線でも鈴木は兵士として多くの敵兵を撃ち、銃剣で刺して殺してきた。しかし、それは軍人として為すべき戦いであり、敵との命のやり取りだった。先ほどの3人は愛する者を凌辱した憎むべき相手とは言え完全な私闘だ。大義名分のない殺人は天も赦すまい。鈴木は自嘲気味に笑った。
久子はそんな横顔を見ながら呟きのように言葉を続けた。
「鈴木さんがいく所なら私も一緒にいきます」久子はそう言うと目を閉じ、鈴木は肩を抱くと顔を近づけ唇を重ねた。それが2人にとって初めての口づけだった。
海に夕日が沈む時に合わせて、鈴木は銃剣を抜くと久子の手を握り、切っ先を左胸の乳房の下に当てた。久子は目を閉じたが、その口元に微笑みが浮かんでいる。
鈴木はそれを見てためらったが久子が強く手を握って引き寄せようとした。
その瞬間、一発の銃声が響き鈴木はのけ反って斃れた。久子が驚いて振り返ると2人の米兵が岩場を伝って来るのが見えた。彼等は大袈裟なゼスチャーで何かを叫びながらこちらに向ってくる。彼らの表情には鈴木を嘲るような色があった。
久子は目を開けて斃れている鈴木の顔に手を当て瞼を閉じさせると手から銃剣を取り、それを胸に当てた。
米兵たちの「ノーッ」と叫ぶ声が聞えたが、久子はためらわずそれを深く突き刺した。久子は鈴木の上に重なって倒れ、その涙が鈴木の頬を濡らしていた。
「旗野・戦いと死」
旗野2飛曹が実戦経験を積みナボール航空隊で勇名をはせるようになった頃、連合艦隊司令長官・松本平七郎大将が視察に訪れた。
旗野はその到着時にも護衛機として選ばれ、尾田少佐(昇任した)とともに長官が搭乗した1式陸攻を出迎える栄誉を得た。
2週間の滞在の半ば、長官はさらに前線のキャリー島へまで足を延ばすと言い出した。
「護衛機を増やす」と言う飛行隊長・尾田少佐の意見は「物々しい護衛は怯えているようだ。制空権は我が方にある」と言う長官の意見で退けられた。
急遽、護衛戦闘機の搭乗員が集められ、その打ち合わせが行われた。壁にはナボール島からキャリー島までの飛行経路が記された地図が貼ってある。
尾田少佐が、図上を棒で示しながら飛行計画を説明した。尾田隊ではこのような会議では自由討論が原則だった。
「最も近い敵基地はXX島だ」「敵空母が接近している情報は?」「今のところない」「すると攻撃可能な敵機は?」「航続距離から言ってPー38ぐらいだな」「Pー38ならゼロ戦の敵ではないでしょう」旗野の言った台詞に何故か席は沸いた。
旗野はまだPー38と戦ったことはなかったが、速度では敵わないものの旋回性能などの戦闘能力では格段の差があるように聞いている。
「では、旗野2飛曹」「はい」尾田は真顔になって訊いてきた。
「もし、Pー38が一撃離脱の攻撃を仕掛けてきたらどうする?」「機先を制して遠距離で迎え撃ちます。そのためには索敵が肝要かと・・・」旗野の答えは尾田学校の生徒としては模範回答だ。しかし、今日の尾田少佐は首を振った。旗野は尾田の予想外の反応に戸惑いながらも次の言葉を待った。
「護衛ではお客の機から離れては絶対にいかん。敵の方が機数が多いことはあり得ることだ」尾田は横に建ててある黒板に図を書きながら説明を続けた。旗野はそんな姿を小桜先生に重ねている自分に首を振った。
「敵が来たらハエを払うように遠ざける、深追いはするな」尾田の言葉に搭乗員たちは深くうなづいている。そこで旗野は感じた疑問を質問してみた。
「もし、追い払ったハエがまだ餌にくらいついてきたら?」尾田は黙って旗野の顔を見つめ、旗野も生唾を飲んだ。
「その時は気づいた者が盾として、敵とお客の間に機体を割り込ませろ」尾田の言葉は「無駄死にするな」と搭乗員の生還を恥とせぬ日頃の考えとは違っていた。
旗野は護衛を名誉と受け止め浮かれた気分でいた自分を恥じ、覚悟を新たにした。
「旗野2飛曹、入ります」旗野は打ち合わせが終った後、隊長室に尾田少佐を訪ねた。
「おう何だ、質問か?」尾田は座っていた椅子から立ち上がると、入口に立っている旗野の顔を見た。通常、よその隊では下士官が指揮官を直接訪ねることは出来ない。それは大陸の部隊でも厳しく躾けられていたが、旗野も尾田流に慣れてきていた。
「明日の飛行の間、預かっていただきたい物がありまして」旗野は飛行服のポケットから小さな布袋を取り出して尾田の机に置いた。
「何だこれは?こいつは順子の手作りだな」尾田は布袋を指で摘まんで顔の前に持ってくるとその場で言い当てた。
「はい、しかし何で?」「あいつは昔から不器用で、勉強は出来るが裁縫は駄目なんだ」尾田は、そう言うと笑いながら旗野の顔を見た。旗野は小桜先生の意外な一面を知り一緒に笑った。
「しかし、何で今更」「私は明日、長官の盾になる覚悟であります」旗野の言葉に尾田は深くうなづいた。
「これはお守りだろう。いいのか?」尾田の言葉に旗野は姿勢を正した。
「先生は優しさを忘れるなと教えられました。しかし、明日は優しさを捨てて長官をお守りします」これはあらためて言うまでもない軍人として責務だが、旗野には自分の浮かれていた気分を捨てる意味もあった。
ここで尾田は旗野の無事帰還を祈る言葉をかけた。
「そうか、帰ったら返すんだな」「はい、お願いします」旗野は姿勢を正し敬礼をした。
「大尉までの階級章はあいつの手縫いだったが、少佐は本土に帰れず頼めなかった」尾田はそう言うともう一度布袋を眺め、「不器用者め」と独り言を呟いて受け取った。

尾田少佐以下、6機の護衛隊は松本長官が搭乗する1番機と井垣参謀長の2番機と共に離陸した。今日の天候は快晴ではないが荒天になる予報ではない。
上空で編隊を組んだ八機は尾田少佐を先頭に六角形を作り、旗野は右後方だった。
「あと30分、そろそろキャリーからのお迎えが来るな」索敵をしながら鈴木は前方を注視したが、その方向には雲が湧き視界は良くなかった。
その時、突然尾田少佐の機が敵襲を知らせるように翼を振った。
「エッ?」旗野は周辺を確認したが、雲に阻まれ敵は発見できない。
2機の1式陸攻は重いエンジンを立てながら急降下を始め旗野も一緒に降下した。
その時、左横の雲に切れ間にゴマ粒のような黒い点が見えた。下には海面と島が見える。敵は島伝いに接近して来たようだ。
「20機はいるな・・・」旗野が呟いた時、尾田少佐が前方の2機を従えて3機編隊で高度を上げていった。旗野は最後尾の編隊長、左後方の僚機と一緒に1式陸攻の上を固めた。
尾田少佐の編隊が遠ざかるのと同時に上空でゴマ粒が散らばったように広がり、空中戦が始まった。
名パイロット・尾田少佐と言えども多数に無勢、敵を混乱するだけで手一杯のようで、討ち漏らした敵機が1式陸攻を目指して突っ込んでくる。それを旗野たちの編隊が迎え討って落とそうとするが1機に掛かりきりになることは出来ず、当にハエを追い払うようなあり様だった。
「キャリーの連中は何をやっているんだ」旗野が舌打ちをした時、1機のPー38が二番機に迫り、1式陸攻が機銃弾を打ち上げた。
旗野は急旋回の連続で遠くなりかけていた意識を奮い立たせてPー38に追いすがった。Pー38のパイロットは旗野には目をくれず1式陸攻を執拗に追っている。1式陸攻からは必死の銃撃を浴びせていた。
すぐに旗野は照準眼鏡にPー38を捉え20ミリ機関砲の引き金を引いた。弾が命中し火を噴いた直前、振り返ったPー38のパイロットと目があった。
旗野機が攻撃を終えて通り過ぎた時、別のPー38が1番機に向って飛び込んできた。1番機は高度を下げて性能一杯の旋回を繰り返している。
旗野は周囲を見渡したが、護衛機はそれぞれ敵機にかかっていて、これに対処できる機はない。旗野はもう一度、敵機に向って急旋回をするが、その時、P―38の機銃弾が火を噴いた。1式陸攻の回避行動も限界だった。旗野は操縦桿をそのままP―38の胴体に向けた。
何の迷いもないが旗野の目に、ただ映像のようにPー38の胴体が迫り、機体のビスや注記まで映った。そして、二機は衝突すると火を吹き一緒になって海に落ちていった。
旗野利広上等飛行兵曹(二階級特進)の戦死は、連合艦隊司令長官を守った英雄的行為として故郷の鎌氷に伝えられた。遺骨は回収出来ず、遺品だけが尾田少佐によって届けられた、
遺族に遺品を届けた帰り、尾田少佐は小桜順子先生を下宿に訪ねた。
「すまん」尾田は先生の前に両手をついて頭を下げた。
「俺はアイツをお前に無事返すつもりだった。しかし、それが出来なかったのは俺の力不足だ」尾田は畳に額がつくほど深く頭を下げ、先生は黙ってその背中を見つめていた。
「旗野君は憧れの貴方の下で働けて、きっと満足してたんでしょう」その言葉にようやく尾田が頭を上げると、先生は目を潤ませながらもジッと見つめていた。
「アイツは俺がお前の話をすると喜んでな・・・俺も教え子を通じてお前に会っているようで嬉しかったよ」尾田の言葉に先生の目から一筋涙がこぼれ落ち、尾田はその顔を黙って見つめていた。
「そうだ、アイツから預かっている物がある」尾田はそう言うと3種軍装の胸ポケットからあの布袋を取り出して手渡した。
「これは・・・」「お前の手作りのお守りだって言ってたぞ」先生は尾田の言葉にうなづきながら布袋を手のひらにのせて眺めていた。
「アイツは護衛で飛ぶ前夜、俺にそれを預けて無事戻ったら返してくれって言ったんだ・・・優しさを捨てて任務を遂行しなければならないからってな」尾田の言葉に先生はうつむくと肩を震わせて泣きだした。
尾田は黙ってその顔を見つめながら、この女性が生徒たちにとって教師である以前に憧れであり、姉であり恋人であった理由を噛み締めていた。
「私の言ったことは旗野君にとって重荷だったのかな・・・」先生は顔を上げると尾田に問うてきた。軍人と言う世界の厳しい現実の中で「優しさ」が迷い、ためらい、足かせになっていたとすれば、それはゆるされないことだ。しかし、尾田は黙って首を振った。
「軍人の優しさは先ずは愛する者を守るために命をかけること、それに戦友愛だろう。けっして相容れないことじゃあない」尾田の目は深い優しさに満ちている。先生はそれを感じ取って言葉を続けた。
「私は貴方のそんな優しさが好きです。無事のお帰りをお待ちしています」今度は先生が両手を畳についた。尾田は肩に手を掛け、その温もりと吐息を感じていた。
「伊藤・戦いと死」
鈴木の死は、米軍が男女5人の遺体を運んできたことが加藤によって確認され、伊藤に報告された。しかし、それを聞いても伊藤は黙ってうなづいただけだった。
「鈴木も久子さんと一緒に往ければ幸せだったんだろう」伊藤は戦場ではあり得ない死に方をした同級生を思い、少し胸が熱くなるのを感じた。
「加藤軍曹、よくやってくれた」「いいえ、申し訳ありません」伊藤の労いに加藤は鈴木を死なせたことを思い首を振った。
加藤からの「米軍が居留民を保護しようとしていた」と言う報告を聞いて伊藤は少しためらったが、「敵が作った橋頭堡を今夜破壊する」ことを軍の任務として決断した。
「夜襲ですね」先任曹長の答えに伊藤は士気を鼓舞するように言葉を続けた。
「敵兵ではなく資材を破壊する。一撃離脱、長居は無用」今日だけでも島内で散発的な戦闘が起っており、明日には米軍が本格的な侵攻を開始する可能性は十分考えられる。
今日の戦闘に参加しなかった兵士たちも力を込めて雄叫びを上げた。
先任曹長と2名の兵に留守をまかせ、伊藤は残る全小隊員を引き連れて米軍が海岸線に設置した橋頭堡へ向った。
「小隊長、敵の歩哨です」先に行っていた広田軍曹が戻ってきて報告した。
「そうか、意外に警戒範囲は広いな」臆病な米軍は鉄条網で囲った陣地内に引きこもると言う日本軍の先入観は外れていた。
伊藤は陣地ギリギリまで迫り、手榴弾を投げ込むと言う作戦の変更を余儀なくされた。
「よし、広田軍曹は2個分隊を指揮して敵陣の向こう側から攻撃しろ。こちらは銃撃を加え敵の警戒を引きつけるからギリギリまで迫って手榴弾を投げ込んで破壊しろ。必ず燃料タンクを炎上させろ」伊藤の指示に広田はうなづいた。
「加藤軍曹、貴様の分隊は30分後に敵の歩哨を射殺して陣地に銃撃しろ。敵が出てきたらそれも迎え撃て」加藤もうなづいた。
「俺はこちらで撤退時期を指示する」伊藤はそう言うと腰の軍刀を忍者のように背中に括った。
その夜、米軍が岬の付け根に設営した米軍の橋頭堡は破壊された。
広田の分隊が加えた銃撃で燃料のドラム缶が爆発炎上し、それに照らしだされた敵兵も多数射殺した。伊藤は燃料タンクが誘爆し始めたのを確認して撤退を指示した。
翌朝、海からの連続した砲声で仮眠していた伊藤たちは目を覚ました。
数秒後、空気を引き裂く音ともに砲弾が炸裂し、岬の付け根付近には無数の火柱が上がった。伊藤たちが壕にしている洞窟の中でも砕けた石が上から降ってきた。
米軍は昨夜のうちに兵員を撤退、犠牲者を回収し、日の出と同時に砲撃を開始したのだ。
「俺たちの位置が判らんからって辺りかまわず撃つこともあるまいに・・・」伊藤の不敵な呟きに、先任曹長と二人の軍曹は顔を見合わせた。確かに砲撃は岬の先端から広範囲に亘っており、特定の目標は設けていないようだった。
「しかし、あの攻撃の返礼がこれでは先が思いやられます」「敵に無駄弾を使わせるのも戦術のうちだ」広田のボヤキに伊藤がまた言い返した。

それから3カ月、タイタン島での死闘は続いていた。
山がちのこの島では戦車も行動範囲が限定され、攻撃機による銃爆撃も効果がなかった。しかし、弾薬、食料の補給のない日本軍が次第に追い詰められていくことは必然であり、守備隊も小隊単位での全滅が相次ぎ、日本軍の抵抗力は次第に弱まっていた。
伊藤の小隊は生き残っている兵員の大半は米軍のMー1ライフルに持ち替え、伊藤自身も希望通りMー1カービンを手に入れていた。
「小隊長殿、今日の敵さんの缶詰は中々の物であります」生き残っている加藤軍曹が今日の分捕り品を差し出した。加藤の腰には米軍の弾帯がまかれ水筒も米軍の物だ。
敵を倒した後、遺体から弾薬や食料を奪うことにも慣れてきたが、これでは盗賊、追い剥ぎと変わらないようにも思われ、伊藤たちは「山賊」と自称していた。
伊藤は食料が全員に行きわたったことを確認すると缶切りを使って蓋を開けた。その缶切りとスプーンもセットとして付いているのだ。
「しかし、こんな好い物を食っている敵とアジの干物の俺たちが戦うのも無理な話だな」缶詰を食べながら伊藤が言うと、「日本兵は粗食に耐えますから」と加藤が答えた。
その時、外から散発的な銃声が聞こえてきて伊藤と加藤は顔を見合わせた。
「しかし、銃声で敵味方の区別がつかなくなったのは困るな」「確かに、あれもこちらが射ったのか射たれたのか判りません」「まあ、派手に射つのが敵さん、チビチビ射つのが我が軍でしょう」加藤の向こうに座った坂下伍長の答えに全員が肩をすくめて笑った。
数日後、山腹の地下壕から伝令に司令部の曹長がやってきた。
曹長は敵の警戒をかい潜ってたどり着いたようで、伊藤の前に来ても軍刀を杖にしてなんとか立っているような状態だった。
「伊藤少尉。この小隊に守備隊司令部壕警備の任務が下りました」曹長は口頭で命令を伝えると腰のカバンから命令書を手渡した。しかし、伊藤の小隊も戦力は半減し2個分隊程度になっている。
先任曹長、広田軍曹も戦死して下士官は加藤軍曹と坂下伍長の二名のみ、兵士の大半は負傷している。さらに言えば前線では武器、弾薬や食料、医薬品を敵から奪っているが、山奥に引っ込んではそれもどうなるか判らない。
「貴様、俺に会えなかったことに出来ないか・・・」「エッ?」思いがけない伊藤の言葉に、曹長は呆気にとられた顔をした。
「ここにいればこそ俺たちは敵を苦しめている。山奥に引っ込んでは戦力の無駄になりかねん」伊藤の言葉に曹長は困惑したまま黙っている。伊藤は疲労の色の濃い曹長の顔を見て壕にいる兵に声をかけた。
「おい、曹長に何か食い物を差し上げろ」その声に足を負傷している1等兵が、びっこを引きながら米軍の缶詰を持ってきた。
「これはどうも」曹長は思いがけない食料に今度は驚いた顔をして頭を下げた。
「缶切りとスプーンはこれに付いているのであります」1等兵はそれだけ説明すると元の場所に戻った。曹長は「失礼します」と言って腰を下ろすと、戸惑いながら缶詰を開けた。
「俺たちの銃はMー1ガーランド小銃、食料は米軍の缶詰、補給源は敵兵。山の中はどうだ?」伊藤は自分の前に座って缶詰を食べ始めた曹長に問うた。
「食料は備蓄分が残っていますが腐敗も始まっています。武器弾薬は予備分が十分あります」「しかし、米軍の銃を使いなれてしまうと、もう時代遅れな日本製は使えないな」思いがけない伊藤の言葉に曹長はサジを止めた。
それは真実だった。明治38年に制式化された38式歩兵銃の口径を大きくしたに過ぎない99式歩兵銃に比べ、米軍のM―1ガーランド小銃はボルトアクションではなく連射が可能であり、堅牢で手入れも容易だった。
「まあ、命令は曹長殿が苦労してここまで来てくれたんだ、つつしんで受け賜わったから、準備が出来次第移動しよう」伊藤はそう言って、そこにいた小隊員の顔を見渡した。
伊藤は足を負傷した兵たちに投降することを許し、司令部壕がある山に向った。
「敵は民間人を保護しようとしていた。捕虜も虐待はしないだろう。お前たちは怪我の治療を受けたら脱走して合流すればいい」「今度は看護婦も敵から奪うのでありますか?」伊藤の言葉に兵士たちは今まで武器弾薬食料を奪ってきたことを思い出し、納得したようにうなづいた。彼らの中に山賊的な不敵さが備わって来たようだった。
「話を訊かれたら嘘八百を答えて混乱させてやれ」「はい」伊藤の指示に皆うなづいた。
そんな様子を伝令の曹長は困惑した表情
で見ていた。

夜になって壕を出発した。
兵たちは持てるだけの食料と弾薬を背負ったが米軍の武器が役に立つかは判らない。
伊藤が仕舞い込んでいた軍刀を引っ張り出したのも、司令部に行く時の便宜上の配慮だったが、いつもの通り忍者のように背中に括った。
道案内は曹長がしたが、経路は伊藤たちが配置についた時とは一変していて、大地は抉られ、森林は焼け、日本軍が壕にしていたのであろう洞窟は破壊してあった。その荒れた土地に米軍が作った新しい道路が作られている。
伊藤は米軍の荒っぽい戦術に呆れながら曹長に訊いてみた。
「山道は大丈夫なのか?」「いいえ、かなり遠回りしていただかないといけません」曹長の口ぶりでは連日の砲撃で海側の山肌は破壊し尽くされているようだった。
「それでこの島で戦闘を行っている部隊はどのくらいあるんだ」「すでに各指揮所とは連絡不能で、唯一残存が確認できたのが伊藤小隊でした」曹長は組織的戦闘の銃声が続いていることで、部隊がいると確信したのだと言った。
「そろそろ米軍も最終決戦で山を登って来るでしょう。それを迎え討って最後の決戦をと言うのが守備隊長殿の御意向です」しかし、前線との連絡が途絶していて司令部は何をしていたのかと言う素朴な疑問が湧いてきた。自分たちは何も出来なった司令部が最後に一花咲かすための彩りなんだろと思うと腹が立ってきたが、それは口にしなかった。
「伊藤少尉、遠路ご苦労さん」「待ちかねたぞ」「真打ち登場だな」司令部壕に到着した伊藤が挨拶に行くと、ロウソクだけで暗い司令部作戦室で幕僚たちがはしゃいだ顔で声を掛けてきた。
「登って来る敵兵を返り討ちにして逆さ落としにしよう」伊藤は先任参謀の声にあたりを見渡したが守備隊長・安藤大佐の姿はない。
「隊長殿は?」伊藤の問いに幕僚の一人が声を落とした。
「視察中に至近弾があってな・・・負傷された」ロウソクの灯りの中、幕僚たちが一斉にうなだれたのが判った。
安藤大佐は、医務室になっている壕の一室の寝台に寝かされていた。掛けてある毛布の上からも片足を失い、重傷であることは判った。
「隊長殿」伊藤の呼び掛けに大佐はすぐに目を開けた。
「おう、伊藤少尉か・・・どうした」「司令部壕の警備を仰せつかりまして参じました」
伊藤の答えに大佐は怪訝そうな顔した。
「ここの警備?」「はい、最後に一花咲かそうと言うことでした」「馬鹿な・・・」伊藤の皮肉な物言いに大佐は率直に顔を曇らせた。
「司令部の都合で前線に迷惑をかけては戦争にならんだろうに」「しかし、自分は隊長殿のお側で死ねれば本望であります」伊藤の言葉に大佐は「そうか」と寂しそうに笑った。
それから伊藤たちは、司令部壕に続く山道の確認と配置場所の選定に時間を費やした、
山道の確認は上から見下ろすのではなく、下から登って敵の視点で確認をするので、特に時間を要した。
「20名でここを守るのは・・・」「10名だ。交代なしでは配備が維持できない」加藤軍曹の言葉に伊藤はさらに戦力を落としたが、本当の理由は交代ではなく攻撃前に敵が加えてくるであろう猛攻によって失う犠牲者だった。
加藤はその真意が理解出来ず、敵の侵攻はまだ先と理解したようだ。
数日後、激烈な砲撃が司令部壕周辺に加えられた。
伊藤は指揮所壕の中で、現在配置についている歩哨を退避させることが出来ず全員戦死したものと覚悟した。その中には外哨長である坂下伍長も入っている。
夕方まで続いた砲撃が終ると麓から拡声機の声が聞えてきた。
「守備隊長・安藤大佐。我々は貴方の人道に配慮した戦闘指揮に感銘を受けています。どうかこれ以上無駄な犠牲を出すことなくこちらへ来て下さい」同時に上空を通過した飛行機から投降を呼びかけるビラもまかれたが、大半は谷の下に落ちていった。
「伊藤少尉、貴方の見事な戦いは驚嘆に値します。貴方の部下のXX上等兵、酒井上等兵、△△上等兵、□□1等兵は無事保護しました。貴方も出て来て下さい」この呼びかけに司令部の幕僚たちは、これが「戦陣訓」を無視した軍人としての恥辱であると激昂したが、その時、伊藤少尉は安藤大佐の元にいた。
「隊長殿、敵は隊長の戦闘指揮を人道に配慮したものと言っています」「そうかァ、ワシは戦闘の足手まといになる民間人を敵に押し付けただけだがな」「自分も同様であります。負傷者には十分役立ってもらいました」大佐の自嘲気味な言葉に伊藤も答えると2人は顔を見合せて笑った。
「しかし、酒井上等兵って言うのはウチにはいませんが」「それは3中隊の・・・・例の大橋の連隊から助けられてきた奴だ」大佐の返事に伊藤の脳裏に鈴木のことが思い出された。鈴木を投降させると言う選択を自分に出来なかったことが少し悔やまれた。
「伊藤少尉」「はい」大佐は伊藤の目を見ながら声を掛けた。
「その拳銃は米軍の物か?」「はい、コルトM1911A1であります」「使い勝手はどうだ」「はい、一度米軍の銃を使ってしまうと、もう日本製は使えません」「そうだろう」大佐は技術将校らしく納得してうなづいた。
司令部では伊藤の兵が米軍の小銃を使っているだけでなく、伊藤自身まで軍刀を持たず、米軍のMー1カービンや拳銃を使っていることを問題にしていた。
「その拳銃をワシにくれ」「はッ?」伊藤は意外な言葉に戸惑った。
「この身体ではもう腹は切れん。せめて米軍の拳銃で最期を飾ればワシらしいだろう」そう言うと大佐は自嘲気味に笑いながら手を差し出した。
伊藤は腰のホルスターから拳銃をとりだし、安全装置の解除の仕方を教え手渡した。
「伊藤少尉、拳銃で自決する時はなァ、こめかみを射っても駄目だ」大佐は右手の米軍の拳銃を見ながら話を続けた。
「はァ?」「口にくわえて小脳を吹き飛ばすんだ」「はい」「参考にしろ」大佐の話は2・26事件の時、そうした野中大尉は死に、こめかみを撃った安藤大尉は半身不随で生き残って後で銃殺されたことのようだ。伊藤はうなづきながら言葉を返した。
「自分は自決よりも敵の弾に当たって死ぬことを選びます」「そうか、それも貴様らしいな」大佐はいつもの頬笑みを浮かべてうなづいた。

米軍は少数精鋭の部隊に山を登らせてきた。
伊藤たちの小隊は既に10名になっており、待ち伏せして銃撃する以外に出来ることはなかった。そうして1人ずつ兵が死に、1つずつ陣地が落ちていった、
「小隊長殿は自決されないのですか?」「俺がかァ」司令部壕内には先ほど安藤大佐が自決したという報告があり、その後も参謀たちの自決が相次いでいる。今や残っているのは伊藤と加藤軍曹だけと言ってもよかった。
「俺は最後まで戦って死にたい」「自分もであります」加藤は力強くうなづいた。
「それじゃあ、そろそろ最後の仕事に行くか」「はい、お伴します」伊藤と加藤がそう言い合った時、通信兵の伍長が部屋に入って来た。
「おう、まだ生きとったか」「はい、この訣別文を打つまでは死ねません」伍長は板に挟んだ起案文を伊藤に差し出した。それには安藤大佐が口述筆記させた電文が書いてあった。
「通信班長以下皆さん姿が見えなくなって、確認をいただく方がいませんのでよろしくお願いします」伊藤は思いがけず安藤大佐の訣別文を読む機会を得た幸運を噛み締めた。
「タイタン攻防三月、今終結せんとす。敵を島内に引き込み叩くも決は求めず。一日も長く引き留むることを以って作戦目的とせり。これ帝国軍人の姿にあらぬも勇なきに非ず」伊藤は安藤大佐らしい文面に笑いながらうなづいた。
「そうかここに署名すればいいんだな。血判でもいいか?」「どちらでもどうぞ、どうせ焼却しますから」伊藤の起案用紙を指しながらの質問に通信兵らしい冷静さで答えた。
それを聞いて伊藤は可笑しそうに笑いながら加藤のMー1ライフルの銃剣で指先を切り、血判を押し、通信兵に手渡した。
「それじゃあ、お先に」伊藤の言葉に通信兵は姿勢を正して敬礼した。
「高見・戦いの日々」
高見は舞鶴で予備学生に指定され、通信士官となるべく教育を受けた後、少尉に任官した。
駆逐艦「幻」に通信長として乗り組んだ高見は、太平洋上でタイタン島からの電文を受信した。通信兵の2等兵曹はモールス信号を片仮名にして記入した電文を差し出した。
「通信長、これはタイタンからの訣別文であります」2等兵曹が片仮名の電文を漢字が入った文章にする前に見せたのは、この電文が暗号を使わない生文であり、真偽の判断を仰ぐ必要があったからだ。
「そうか、とうとうタイタンも・・・」高見は電文を一読したが、この古典調の言葉づかいは英語圏の人間には出来ないと判断した。
「米軍の電文も入るかも知れん。周波数を合わせられないか?」「予備機を使えば出来ないことはありませんがどうして?」「詳細な報告が入れば私が翻訳する」「はい」高見の言葉に2等兵曹は、この学徒出身の通信長が英語教師だったことを思い出した。
「やってみます」2等兵曹は上等水兵に代わり予備機の準備を始め、その間に高見は艦橋へ電文の報告に行き、米軍通信の傍受の許しを得た。
「入りました。生文です」2等兵曹は慣れない英文のモールスに手間取りながら記入した紙を手渡した。
「タイタンノテキ、ゼンメツ、サイゴノテキハ・・・」高見はアルファーベッドの組み合わせを考えながら日本語に訳した。
「タイタンの敵は全滅。最後の敵は射殺した。この指揮官は△△岬の伊藤少尉と思われる。司令部壕内で安藤大佐の自決した遺体を確認した」高見はこの射殺された伊藤少尉という名前に引っ掛かった。同級生の伊藤の顔が浮かんだが、現在の配置先を知るはずもない。伊藤はよくある姓だとして納得することにした。
高見は訳文を通信兵たちに読み聞かせた後、これも艦橋へ報告に行った。
幻は南方諸島への輸送船団の護衛についていた。
「兵隊さんを送っていく航海で全滅の電文を読むのも複雑な気分だな」艦長の藤岡中佐は高見から電文を見せられた時、こうつぶやいた。
大本営が玉砕と言う美名を使う全滅が、太平洋諸島で繰り返されていることは最早、軍では周知の事実だった。今、自分たちが護衛している船団に乗り組んでいる兵士たちを無事に目的地まで送り届けたとしても、そこが米軍に攻撃されればかえって死地に送ったことになる。中佐は一つ溜息をついた。
「艦長、白妙から信号旗が揚がっています」艦橋横の台から見張り員が報告してきた。駆逐艦・白妙はこの護衛隊の指揮官乗艦である。無線封鎖をしている艦隊の通信は、日中は信号旗か手旗、夜間は信号灯になる。
「センダンノモクテキチハ XXシマニヘンコウス」「何だって?」「『船団の目的地はXX島に変更す』であります」見張り員が再度読みあげた通信文に艦橋はざわめいた。
「タイタン全滅で戦力の配置を変更したと言う訳か」「陸軍にしては対応が早いですね」副長の皮肉な言葉にうなづきながら中佐は航海長を呼んだ。
「XX島は当初の目的地に近かったと思うが、正確な位置を教えてくれ」「はい」航海長の大尉は艦橋の隅の机の上で海図を確認すると、「猿の腰掛」と呼ばれる自席から降りた艦長に「ここです」と位置を示した。
「ようするに小島に分散配置するのは止めて大きなところへ集中させようと言うことだな」「はい、そう思われます」航海長は答えてからそれが僭越だったことに気づき顔を強張らせた。
「航海長がそこまで大所高所からの視点を持ってくれていればこの艦の航海は安心だな」艦長はそう言うと肩を叩いて猿の腰掛に戻った。
「対潜戦闘!」夜間、警報が艦内に響いた。
「方位1100、距離1400 潜望鏡らし 見えました」見張り員の報告に艦長は艦橋の窓に歩み寄ると自分の双眼鏡で月明かりの海面を確認した。
「主砲、射撃用意」「えッ、主砲でありますか」艦長の命令に砲雷長が戸惑った顔で訊き返した。通常、対潜戦闘では機雷投下である。
「11時方向 射距離1380 連続射撃」「11時方向 射距離1380 連続射撃」艦長の再度の命令を復唱して砲雷長は、その意図を理解した。
潜望鏡を上げているとすれば潜水艦は海面近くにある。これを追い機雷を投下するよりも砲撃した方が早い。射距離1380は海面下への弾道を考えた設定だろう。
「射撃準備よーし」「射てーッ」艦長の命令で主砲から砲撃が始まった。測距員はその弾着点を確認しながら射距離を修正していく。
「弾着1380ヨーソロ」測距員が報告したその時、海面で水柱ではない爆発が起こった。
「そこよ、そこいけーッ」測距員の叫び声に砲手たちは射撃を続けた。
「命中!」「うん、やはり居ったな」砲雷長の興奮した声を聞いて艦長もうなづいた。
海面には炎が上がり、あきらかに潜水艦がいたことが判った。艦橋で拍手が起こったが、艦長は淡々と「射撃止め」と命じた。
船団を無事、XX島に送り届けた駆逐艦隊は母港・呉に向った。
日本が近づき無線封鎖が解除されて時、高見は艦長・藤岡中佐から電文を依頼された。
「当艦通信長・海軍少尉・高見和成を呉基地通信隊へ配属替えされたい」高見は内容を確認して艦長に訊き返した。
「これは、私の転属依頼でありますか?」「そうだ」艦長はうなづいた。
「どうして・・・?」海軍士官は人事についての質疑反論は許されない。特に予備学生出身者は日頃から娑婆ッ気を見せないことを心がけており尚更だった。
「そうだろう、貴様の気持ちを考えれば当然だ」しかし、艦長は穏やかに答えた。
「先日の米軍の英文通信文を受信して翻訳した貴様の仕事を見て、これは基地通信隊の方が役に立つと思っただけのことだ」高見は艦長の言葉を嬉しく思ったが、まだ納得は出来なかった。しかし、海軍士官の美学に反することは出来ないと「はい」と返事をした。
呉に入港すると高見に基地通信隊への転属が発令されていた。半年足らず、実質的に1回の航海で海上勤務は終わった。
上陸許可が下りると呉が母港だけに営門まで家族が迎えに来ている者、行きつけの店に急ぐ者、など戦時下とは思えない華やいだ気分が艦内を包んでいた。
そんな中、高見は艦長。藤岡中佐に転出、退艦の申告をした。
「高見少尉、海軍はな士官から水兵までみな志願者なんだ」「はい」申告の後、中佐は淡々と話し始めた。徴兵で兵隊を集める陸軍と違い海軍は水兵まで志願者だ。ましてや海軍士官は兵学校、機関学校、通信学校など出身は違っても高い倍率を選び抜かれたエリートばかりである。しかし、「予備学生出身者を差別することが許される戦況ではないはずだ」と高見は胸の中で思っていた。しかし、中佐の話は違っていた。
「海で死ぬ者は自ら望んだ者だけでいい。貴様は戦後に生き残って活躍できる人材だ」「えッ?」高見は思いがけない言葉に返事ができなかった。
「この戦争もそれほど長くは続くまい。貴様はそれまで生き残ってくれ、その時には貴様の英語が役に立つだろう。日本を頼むぞ」中佐は何も言えないでいる高見の顔を微笑みながら見た。
「宿舎が決まるまで俺の家に下宿するか?狭い不便なところだが」中佐の言葉に高見は戸惑いながらうなづいた。
中佐の自宅は呉市街から少し離れた古びた借家だった。高見は基地に置いてこられない私物品を詰めたカバンを下げている。
「貴方、お帰りなさい。お迎えにも出ず申し訳ありません」高見は中佐の向こうで玄関に手をついている妻を見て驚いた。髪と瞳は黒く、白いブラウスにモンペを履いて、日本語を話してはいるが明らかに外国人だった。
「エレナ、こちらは高見少尉だ。今度、基地に転属したばかりだ。宿舎が決まるまで面倒をみてくれ」中佐は靴を脱ぎながら妻に声をかけた。
「高見少尉、驚いたか?妻のエレナだ」「はい、お世話になります」高見はあらためて頭を下げ、妻は日本式に両手をついて頭を下げた。

高見が風呂からあがると、居間の食卓には夕食の支度がされていた。
「ビールがあればいいが、このご時世だ。飯も日本酒も配給分だけだ」中佐は一合徳利で酒を注ぎながら話し始めた。
「妻は俺がこの間の大戦で地中海へ行った時、イタリアで見つけたんだ」「そうですか」第1次世界大戦の時、日本海軍が地中海に艦隊を派遣して商船の護衛をしていたことは知っていたが、中佐がそれに参加したのは初めて聞いた。
イタリアは既に昭和18年6月、連合国側に降伏していたが、その後をナチス・ドイツが占領し、イタリアの国土を舞台に代理戦争が行われている。
「欧州戦線も大分旗色が悪くなってきたが、イタリアは同盟国だったから大丈夫だろう」心配そうな顔をした高見に中佐が言った時、徳利が空になった。
「すみません」それを見て中佐の妻が申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいえ、ご時世ですから」高見が首を振ると妻は顔を強張らせたままうなづいた。高見は外国人のこの妻が日本の妻のような態度を取っていることに違和感を感じていた。中佐も同じようで妻の顔を見ながら話を替えた。
「またイタリアの甘いワインが飲みたいなァ。エレナ」「はい」中佐の言葉に妻は少し微笑んでうなづいた。
「ウドンやソバよりもパスタが食べたいな」「はい」妻は表情を変えず、返事だけを繰り返している。
「どうした。そんな沈んだ顔をしていると日本の女みたいだぞ」「でもお客さんが・・・」中佐の言葉に妻は高見の顔を見ながら答えた。
「高見少尉かァ?大丈夫、彼は英語の先生の卵だから国際性を養ういい機会だ」「英語の先生ですか・・・」妻はようやく表情を緩めた。
妻は外国人であるがゆえに人前では殊更に日本女性のようにふるまっていたようだった。
「と言う訳で高見少尉、この家ではイタリア式に夫婦が愛し合うことを恥としないからな」「・・・はい」高見が返事をする前に中佐は妻の頬に手を当てて口づけをし、高見は慌てて目をそらした。それから急に中佐と妻の会話は弾みだし高見は戸惑っていた。
「エレナ、お前は英語も話せたよな」「はい、貴方と話していたくらいは」「そうだったな。日本海軍の軍人は英語を習ってもイタリア語は知らんかったからな」中佐の言葉に妻は懐かしそうに微笑んだ。
「それじゃあ、高見少尉と英語で話して見るか」中佐の提案に妻は首を振った。
「いいえ、最近は話すことがないので、もうほとんど忘れました」高見は先ほどの中佐の言葉ではないが、久しぶりに英語を話してみたいと思っていた。
「しかし、艦長、イタリアは元の同盟国とは言え、降伏して敵側になりましたから、奥様は日本では色々困られることもあるでしょう」高見は師範学校で受けていた差別、批判を思い出しながら話した。
「大丈夫、我が海軍にはロシア海軍少将令嬢の婚約者だった広瀬武夫中佐と言う大先輩がおられる」それは事実だが、明治と昭和の日本では何かが違っていると高見は思った。
「まあ、俺が次の航海に出発する前に宿舎を探してくれ。留守宅に貴様を置いておくわけにはいかないからな」「はい」高見は中佐の言葉にうなづいたが、妻が「出発」と言う言葉に顔を強張らしたのに気がついた。
この妻にも夫の出発が永遠の別れになるかも知れないことが判っているのだろう。
翌々日には高見は宿舎を紹介された。
海軍軍人は陸軍よりも物資の融通が効くと言う計算が働き、戦時下でも借家も比較的容易に借りられる。何よりも呉は軍港の街としての長い歴史と伝統があった。
「高見少尉、俺の大家さんもわずかだったな」「はい、お世話になりました」夕方、荷物を取りに行くと中佐は拍子抜けな顔で声をかけた。
その時、中佐の妻が奥から顔を出した。
「サンキュウ ベリー マッチ、マーム(女性への敬称)」「ナット アット オール(どう致しまして)、エンサイン(海軍少尉)」高見の英語のお礼に妻も英語で答えた。ただ高見は外国人の英語を直接聞くのは初めてで、そちらに感激していた。高見はしばらく英語で雑談したが、それを中佐もうなづいて聞いていた。
高見が荷作りを終えると妻が紙袋を差し出した。
「これを宿舎で使って下さい」受け取ると中には幾つかの食器が入っている。
「悪いが鍋釜には予備がないんでな」隣りで中佐が補足した。
日本国内の物資不足は深刻で、市内でも必要な物が揃わず高見も困っていたのだ。
「サンキュウ、ベリー マッチ」高見はもう一度繰り返して頭を下げた。
宿舎に荷物を運びこむと大家が訪ねてきた。大家は高見が最近、艦を下りて陸上勤務になったことは知らなかった。
「高見少尉さん、これまでどちらに下宿をされていたんですか?」「藤岡中佐のお宅です」高見の返事に大家は一瞬顔を強張らせた。
「藤岡中佐って、あの毛唐の嫁がいる家ですか?」大家の顔には明らかな嫌悪と侮蔑の表情があった。
「そう言っても奥さんはイタリアの方だから元は同盟国だよ」「それも今では敵でしょう。帝国軍人が敵の女を妻にしていていいのですか」大家の意見は地元住民の感情なのだろう。いち早く連合国に降伏したイタリアに対して日本人は裏切り者、臆病者、卑怯者として鬱憤を向けているのだ。
「奥さんは帝国軍人の家庭を守っておられるんだ。それを非難することは軍に対する批判と同じだぞ」高見の厳しい言葉に大家は黙って帰っていった。
「銃後・孝子の場合」
伊藤と鈴木の戦死公報は、タイタン島守備隊の玉砕を大本営が発表してから届いた。しかし、陸軍大尉(二階級特進)の伊藤と陸軍軍曹(同上)の鈴木では扱いが全く違った。伊藤のために菩提寺は特別な墓地を用意し、市民の寄付で場違いに立派な墓碑が建立されたが、鈴木はほかの戦死者の墓石に並んで付け加えられただけだった。
葬儀も伊藤は町長以下鎌氷町の歴々が出席して菩提寺で盛大に行われたが、鈴木は町の公会堂での合同慰霊祭以外は自宅でひっそりと弔われた。
島孝子は伊藤の葬儀の後、1人海岸でたたずんでいた。
「あの時、伊藤さんが私のワガママに答えなかったのは、このことが判っていたからね」
孝子は足下に寄せる波に手を浸してみた。晩秋の海の水は指先が凍えるように冷たかった。「タイタン島って暖かいの・・・」孝子は冷えた指先を見ながら呟いた。南方戦線、タイタン島と言う地名を聞かされても、それが地図上のどこを指すのかは判らない。椰子の木の繁る海岸の風景が、この鎌氷とどう違うのかも想像出来なかった。
「鈴木君と一緒なら楽しいわね。私も行きたいな」昨日行われた町の合同慰霊式で、孝子は伊藤と鈴木が同じ島で戦死したことを知ったのだ。
しかし、孝子は世間から見合い相手に過ぎない酒井の婚約者として扱われていた。伊藤の葬儀にも尋常小学校の同級生として参列したものの、遺族と話すことすら許されなかったのだ。逆に酒井の葬儀では喪服を着ることを求められ、遺族席に並ぶことを命じられた。
それが孝子には哀しく、悔し涙が溢れて止められなくなり、それをもって悲劇に主人公になっていた。孝子は夕陽が銅色に染め始めた海に向ってつぶやいた。
「伊藤さん、私は貴方が好きで、貴方と結ばれることを願っていたのに、愛してもいない人の悲劇の婚約者を演じている。私は偽善者ですか・・・?」海は何も答えなかったが、ただ冷たい風が孝子の髪を乱した。
それから孝子は抜け殻のようになっていた。
伊藤への追慕とは別に酒井の婚約者であるかのよう演じさせられることが辛く、次第に孝子の心は病んでいった。職場でもボンヤリと過ごして仕事にならなかったが、周囲はそれをこの会社の工員だった婚約者・酒井を失った悲しみと理解し、同情からゆるしていた。
昭和19年12月7日、日米開戦3周年の前日、突然の揺れが鎌氷を襲った。
東南海地震、和歌山から静岡西部までの広範囲にわたり被害を及ぼした大地震だった。ほかの従業員は咄嗟に机の下にもぐり自分を護る処置を取ったが、孝子は黙って席に座ったままだった。そこに天井が崩れ落ちた。
「高見・戦いの日々その後」
呉に帰った駆逐艦・幻は、深刻化する燃料不足もあって出撃もままならず、近海の哨戒の航海に当たっていた。帝国海軍に最早、艦隊決戦を行う余力はないのだ。
そんな折、ついにサイパン島が陥落し、アメリカ軍による都市への無差別爆撃が始まった。
中佐はそれに先立つレイテ沖海戦に出撃していたが安否は確認できない。
高見もアメリカ軍の生文の通信を傍受し、日本海軍が壊滅的損害を受けたことは察知していた。一方、大戦果の大本営発表に関わらず、帰還した艦艇の数は少なく、その悲惨な損害を見て、軍港近くの住民たちの中でそれを信じる者はいなかった。
「毛唐、出ていけェ」ある日、中佐の留守宅が住民に襲われた。
広島市、呉市はまだ無事であったが、日本各地の都市が爆撃を受け、その悲惨な状況が伝わるにつれ住民の不満は鬱積し、それが帰還してくる廃船に近い艦艇の姿を目の当たりにして火がついたのだ。
「お前の国が裏切ったから日本も大変な目に遭うんだァ」「夫が戦死したんだ。お前も後を追え」「軍人の妻なら手本を見せてみろ」住民の騒ぎに憲兵隊や警察も何もせず傍観していた。
中佐の妻は1人家の中で震えていた。

翌日、藤岡中佐の妻・エレナの水死体が呉の漁民によって引き上げられた。暴徒から投げかけられた「夫が戦死」の言葉に絶望しての自殺だった。
「よし、この外人女の検屍しようぜ」その美しい死に顔を見て、漁民の一人が唇を歪めて笑うと、周りの男たちも笑ってうなづいた。
男たちは妻の衣服をはがし、全裸にしてその体を眺めた。それはイタリアのムッソリーニが住民によって処刑された時、一緒に逆さ吊りにされたその愛人の遺体を市民が弄んだ姿と同じだった。
高見は警察から妻のイタリア語で書かれた遺書の翻訳を依頼されて、「夫のいる海へ往く」とあることを知った。
駆逐艦・幻は1週間後、帰還した。米軍機の攻撃で、通信アンテナが破損し操舵不能に陥り、艦隊から離脱することを余儀なくされ、苦労した末の帰還だった。
高見は「幻が帰還した」との連絡を受け桟橋に駆け付けたが、幻は浮いているのが不思議なくらいの損害を受けていた。
「艦長、奥さんが・・・」甲板に立ち、接岸を指揮している藤岡中佐に向って高見は大声で叫んだが、周囲のザワメキと騒音で声は届かないようだ。やがて中佐は、桟橋の高見に気がついた。
「艦長、奥さんが・・・」「妻が?」中佐は耳に手を当てて聞こうとしている。
その時、艦底から担架に乗せられた負傷者が運び出されてきた。
「よろしく頼む」中佐は負傷者搬送の指揮官である兵曹に歩み寄り声をかけた。
高見は負傷者と共に桟橋に下りてきた中佐にようやく声をかけられた。
「艦長、奥様が亡くなられました」「そうか・・・」中佐はそれだけ言ってうなづいたが、そのまま艦隊司令部へ向かって歩きだした。
「1週間前のことです」高見は中佐に追いすがり一方的に報告を始めた。
「そうか・・・」「御遺体はすでに火葬されました」妻の遺体は警察が引き取ったが中佐の消息が不明であり、そのまま火葬され遺骨も警察が管理していた。
「ありがとう・・・」中佐はそれだけを言うと艦隊司令部の建物に入っていった。
幻の修理は資材不足で遅々と進まず、中佐も陸戦隊を指揮して陣地作りに励んでいたが、
その間にも硫黄島が陥落し、沖縄へ米軍が上陸していた。
修理が完成した時、幻に沖縄への戦艦・大和の海上特攻艦隊への編入が発令された。
出航を見送った高見に藤岡中佐は、「妻が待っているよ」と静かにささやいた。
徳之島沖での大和撃沈の模様は、高見も米軍機から艦隊への生文電報で傍受していた。
「ヤマトに魚雷命中」「軽巡洋艦一隻に爆弾命中」「駆逐艦一隻爆発炎上」続々と入る情報を高見は翻訳し、通信所に待機している伝令に手渡して艦隊に届けられる。
米軍も戦艦・大和の名は知っているが、軽巡洋艦・矢矧以下20隻の日本海軍最後の艦隊の艦名は判らないようだった。
「ヤマト、大爆発。船体が折れた」「沈没」戦艦・大和の最期を報告する米軍機の電文に高見の鉛筆を持つ手は震えた。
この攻撃で駆逐艦・幻も撃沈された。中佐は妻と再会を果たしたのだろうか。

それから高見は通信の傍受でアメリカ艦隊が九州や東海地方近海まで接近し、艦砲射撃を行っていることを知った。連合艦隊にはそれを阻止する力すら残っていないのだ。
それでいて未だ特別攻撃隊の出撃を続けていることに、高見は言い知れようのない怒りを感じていた。
「最終章」
「毬子さん、呉に来てくれ」高見は故郷の遠山毬子に手紙を書いた。通信の電文を見ていても本土決戦が遠くないことは容易に想像できる。
「ならば最期は愛する人をそばに置きたい」それは藤岡中佐夫妻の姿に自分を重ね合わせて出した結論だった。
鎌氷で毬子は小桜先生に相談していた。
「先生、私はどうしたらいいんでしょう」先生は黙って高見からの手紙を読んでいた。先生の胸に、生真面目で温厚だが芯の強かった中学時代の高見の顔が浮かんだ。
その高見が毬子を呼び寄せたいと言ってきた。毬子の家庭や周囲の目に想いの至らぬ高見ではない。これには重大な決意があることを先生は感じ取った。
「あの高見君がこんなことを言ってくるんだから余程のことでしょう」「でも両親が許す訳がありません」毬子は先生の言葉にうなづきながら顔を強張らせた。
毬子の家でも兄2人が戦死し、毬子がただ1人残った子供である。さらに昭和19年の東南海地震と翌年1月の三河地震で被害を受け、生活はかなり苦しいと聞いている。その震災で、孝子は倒壊した工場の下敷きになって死んだ。
「旅費は私が結婚資金に蓄えてきた貯金がありますけど両親の目を盗んでは・・・」先生は、この言葉に毬子の中で気持ちが固まっていることを察した。
島孝子は伊藤の戦死の通知を聞いて以降、生きる力を失った未亡人のような生活をしていた。それを思えば2人の想いをかなえてやりたいと先生は決心した。
「この手紙のこと御両親は?」「いいえ、偶然私が受け取りましたから・・・」毬子の返事に先生はうなづきながら思案した。
「それじゃあ、私が尾田君に会いに行くから、貴女は私につきあうと言うことにしよう」その頃、尾田中佐は四国・松山にある紫電改の部隊で防空任務に当たっていた。広島なら松山へ渡る経路として不自然ではない。
この時代、女1人の長旅が許される空気ではなく、同行者を作ることにも無理はなかった。
「御両親には、これから行って私がお願いしましょう」「はい、ありがとうございます」先生の言葉に毬子は少し緊張した顔でうなづいた。
先生が夏休みに入った8月、毬子と2人、夜行列車に乗った。しかし、東海道線、山陽本線は途中で爆撃を受けて交互進行の連続で、平和な時代なら車中泊ですんだ道中が数日かかっても到着しなかった。
高見と尾田には電報で到着予定を知らせていたが、これでは予定の変更を伝える電報を打ち直さなければならないと2人で相談していた。
そして8月6日の朝、ようやく列車は広島駅に到着した。
「ここから呉線だよ」「はい」列車での長旅に疲れていた2人だが、間もなく目的地に着き、高見に会えること思うと乗り換えの足どりも軽くなった。
広島の街は大都市の割に爆撃を受けておらず、ホームから見える街並みも整然としている。列車から降りた人々も、それを眺めながら、「流石は海軍さんの街だ」「日清、日露の時は大本営がおかれたからなァ」などと話し合っていた。
その時、よく晴れた空に飛行機のエンジン音が響いているのが聞えた。
最近は日本軍の飛行機が飛ぶ姿を見ることはなく、この音は名古屋、豊橋、岡崎が爆撃された時、聞いたアメリカ軍の爆撃機のモノに似ている。
2人が空を見上げると、1機の銀色の大型機が飛行機雲を引いて飛んでいるのが見えた。
しかし、空襲警報は発令されておらず、乗客たちは慌ただしく移動している。
かえって立ち止まった2人が邪魔になっているくらいの普通の営みがそこにはあった。
機体がキラリと光ったのが目に入った時、強烈な閃光が2人を焼き尽くした。

「余話」
高見の文学碑には1編の詩が刻まれていた。
最期を遂げるは白い雲、銅の海、
それとも緑の大地
我が戦う者を憎まず
我が護る者のみを愛す
戦うは名誉のためでも
群集の賛美に応えてでもない
ほかに選びようのない一筋の道の
いきつく先に戦いが待っていた
すべてを思い起こせば
無意味な未来 無意味な過去
この生と死の果ての情景に比べれば
それは大空で散った旗野、南の島に果てた伊藤と鈴木、そして海に逝った藤岡中佐夫妻や多くの戦友たち、そのほか数えきれいないほど多くの魂魄に捧げた詩だった。
高見は文学碑の横に1本の桜の木を植えた。
「小桜の丘」この丘がそう呼ばれることを願って。
高校時代の拙い文章を長期間わたり連載し、申し訳ありませんでした。
なお名前を借用した同級生たちは皆、50過ぎのオッサン、オバサンになっていますのでご安心下さい。
- 2013/07/20(土) 10:57:23|
- 銅(あかがね)の海
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