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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月1日・サハリン大韓航空機撃墜事件

1983(昭和58)年の明日9月1日にサハリン上空での大韓航空機撃墜事件が生起しました。これは1年前に掲載した「航空自衛隊怪僧記」の記事ですが、この事実を知っていただくため3回にわたって再掲載します。

昭和58年9月1日、早朝に「オール ジャパン」で非常呼集がかかりました。ただ、その呼集のアナウンスには、いつもの「訓練」の言葉がありませんでした。
「なんだよ、月の始めに気合いを入れろってか」「休暇気分の一掃だろう」非常呼集には馴れっこの隊員たちはアナウンスに「訓練」がなかったことなどは気にも留めず、いつものように素早く着替えて、それぞれの仕事に向かう。私は弾薬運搬支援に当たっていて内務班の駐車場に停めてあるトラックの荷台に乗り込みましだ。
間もなくドライバーが荷台を覗き込み乗車した人数を確認して、基地の外れにある弾薬作業所に向かいました。到着すると直ちに下車して弾薬保管室に入り、かなりの重量があるFー104J戦闘機用の20ミリバルカン砲弾が詰められた木箱を運搬用トレーラーに積む作業にかかりました。
「全機フル弾装だそうです」指揮に当たっている装備隊武器小隊員が話している声が聞こえ、「全機フル?」弾薬作業所内の隊員の顔にも緊張感が走りました。
弾薬の積み出しを終えて、あとは訓練が終了して戦闘機からおろした弾薬が戻ってくるまではしばらく待機になる。
小休止をかねて弾薬作業所の外に出ると、エプロンの方から戦闘機をランナップ(始動点検)するジェットエンジンの轟音が、早朝の空気を震わせて聞こえてきました。
その時、武器小隊員が我々支援要員に声をかけました。「弾おろしはないからショップに戻れ」「えッ、弾をおろさないの?」支援要員たちは顔を見合わせる。
「やっぱり、いつもの訓練じゃあないな」我々はショップに向かうトラックの荷台の中でお互いに勝手な想像を話し合いました。
「スクランブル機が撃墜された」と言う物騒な説から「朝鮮半島で軍事衝突が起きた」「いや、台湾海峡だ」挙句には「米ソが戦争を始めた」まで諸説が飛び交い盛り上がったところでトラックは整備格納庫に着いたのですが、エプロンには飛行可能な全戦闘機が2発のサイドワインダーミサイルまで装着されて並べられ、飛行隊の整備員がランナップの後確認で機体の周りを動き回っていました。
「モリノ、弾作から戻りました」「ご苦労さん」ショップに着くとベテランたちはテレビのニュースを見ていました。
「大韓航空機がサハリン沖で消息を断った」これがトップニュースでした。
しかし、「民間旅客機の遭難」と今朝の非常呼集はイメージとして結びつきません。それはベテランたちも同じようで、ショップでも私たちがトラックの荷台でして来たのと大差のない想像の話が飛び交っていました。
  1. 2013/08/31(土) 09:14:07|
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9月1日・竹久夢二の命日

1934(昭和9)年の明日9月1日は画家・竹久夢二さんの命日です。
夢二さんは現代でも大変人気がある画家で、その美術展には年齢を問わず多くの人が集まっています。
その一番の理由は、「現代の美人の基準は夢二さんが作ったからだ」と言われています。
それまで日本では一重瞼で細くやや釣り気味の「切れ長の目」が美人の条件とされていたのですが、夢二さんが描く女性のはかなくおぼろげな風情が人気を博すと、うるんだ二重瞼の大きな垂れ目が好まれるようになったようです。
夢二さんは明治17(1984)年9月16日に岡山県瀬戸内市邑久町の造り酒屋の二男・ただし兄が亡くなっているので実質的な長男として生まれましたが、本名は茂次郎(もじろう)と言います。
その生涯は女性遍歴の繰り返しで、23歳の時、戸籍上は唯一の妻・たまきと結婚して長男・虹之介を儲けたものの25歳で離婚、ところが26歳の時、たまきとよりを戻して同棲を始め、27歳で二男・不二彦を得ますが30歳で最も愛した女性・彦乃と出会い、31歳でたまきとは離別したはずが32歳で三男・草二が生まれます。そして36歳で彦乃が結核で病没すると37歳でお葉(本名・佐々木カ子ヨ)と同棲を始めたものの、41歳の時、作家・山田順子と関係を持ち、43歳でお葉とも別れます。
そして50歳になる15日前のこの日に亡くなったのですが、戒名は「竹久帝夢生楽園居士」でした。最期を看取ったのはたまきだったと言われています。
夢二さんと言えば「宵待草」と言う歌の作詞者としても有名ですが、はあまりに短い歌なので、夢二さんは詩の才能もあったと誉めるのはどんなものでしょう。
「待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ 今宵は月も 出ぬそうな」以上です。
余談ながらドラマ「夢二慕情」で彦乃を演じていた萩尾みどりさんは素敵でした。
萩尾みどり
  1. 2013/08/31(土) 09:10:05|
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少し新し目の雨の歌

西日本の渇水を心配して雨乞いにと雨の歌の連載を再開しましたが、やっぱり危ないみたいです。それにしても「秋の長雨」と言ったり「女心と秋の空」と言ったり、秋の雨は続くものなのか、変わり易いものなのか?
このシリーズは懐しの昭和のメロディー化しているので20年たっていない平成の歌にします。

Alone(詞・曲 岡本真夜)
「君は強いから大丈夫だよ」と そんなこと言われたら 弱さ見せられない
「カードが もうないから」 嘘ついて電話を切った 
降り出した雨に急ぐ人たち あふれてしまう涙 傘で隠した
ぎゅっと誰か抱きしめて 温かい胸で泣かせて
ほんとは寂しがり屋で 1人で泣いてばかりで
貴方の胸で泣きたい 貴方の胸で眠りたい
寄り添えば包んでくれる でも欲しいのは同情じゃない

1人ベンチに座り 幾つも電車見送る
街の灯がにじんでしまう あの日によく似ているわ
反対側のホーム 貴方と彼女 見つけたの 
楽しそうに腕を組んでいた 彼女は私の大切な友達
もっと素直になれたら もっと勇気が持てたら
何も受け止められない 今も貴方がこんなに愛しい

ぎゅっと誰か抱きしめて 温かい胸で泣かせて
ほんとは寂しがり屋で 一人で泣いてばかりで
貴方の胸で泣きたい 貴方の胸で眠りたい
寄り添えば包んでくれる でも欲しいのは同情じゃない
貴方の愛が欲しい

1996年11月の発売(TOMMORROWは1995年5月10日)ですが、それでも「カードがもうないから」とテレフォンカードが出てきます。今なら携帯の充電切れと言うところでしょうか。
  1. 2013/08/30(金) 09:18:31|
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8月27日・ヘーシンクの命日

2010(平成22)年の明日8月7日に柔道家・アントン・ヘーシンクさんが亡くなりました。74歳でした。
ヘーシンクさんは1934年4月6日にオランダのコトレイヒで生まれ、家が貧しかったため12歳から建設現場で働いていましたが、14歳で柔道と出会い、中等学校卒業後、ヨーロッパでの普及に取り組んでいた道上伯先生に見出されて才能が開花しました。
道上先生はその頃のヘーシンクさんを「指導には何でも従う素晴らしく素直な選手」「感心するところは枚挙に暇がない」と絶賛する一方で「弱気な劣等感の塊」とも評しています。
それが日本に留学して講道館や天理大学の松本安市先生に鍛えられ、その後も毎年、2か月ほど留学を繰り返すうちに、みるみる貫録がついて武道家としての風格を漂わすようになったそうです。
1956年に行われた第1回世界柔道選手権大会では準決勝で吉松義彦さんに内股で敗れ3位に終わり、1958年の第2回大会では準々決勝で山輔公義さんにこれも内股で敗れ、ベスト8で終わりました。それにしても足が長い外国人を内股で投げるとは大したものです。ところがヘーシンクさんはその時代の柔道家はあまりやらなかった筋力トレーニングを取り入れ、強力なパワーを身に付けたことで1961年の第3回大会では外国人としては初の優勝に輝きました。
この時、帰国したヘーシンクさんを30万人が出迎え、一躍国家的英雄になったそうです。
一方、日本では3年後に行われる東京オリンピックでの「打倒ヘーシンク」が合言葉になりましたが、当時、爆発的な人気のあったプロレスの悪役外国人レスラーよろしく、「相手は神永でも猪熊でもよい(負けない)」などの日本人を見下した発言ばかりが紹介されて、憎悪を掻き立てられた国民は無差別級に出場した神永昭夫さんに期待してテレビにかじりつきましたが、無理な体勢からの体落しを封じられ、袈裟固めで抑え込まれて終わりました。
ところが試合終了後、歓びに興奮したオランダの役員が土足で駆け寄ろうとするのをヘーシンクさんが厳しく制止し、茫然自失している神永さんを助け起こして、健闘を称えるように並んで歓声に応えた姿に、この外国人にも嘉納治五郎先生の「精力善用」「自他共栄」の教えと「礼に始まり礼に終わる」の武道の精神が継承されていることが認識されました。
若しこの時、無差別級でヘーシンクさんが優勝せず、全階級を日本人が制覇していれば柔道は日本のローカルでマイナーなスポーツで終わり、今日のような世界各国で第3位の競技人口を誇り、レスリングを脅かすほどの隆盛はなかったでしょう。
その意味ではヘーシンクさんは嘉納治五郎先生の「日本選手が歯が立たなくなるほど柔道が世界に広まり、根付いてほしい」と言う願いも体現しているのです。
後年、ヘーシンクさんはジャイアント馬場さんにスカウトされて全日本プロレスでリングに上がりましたが、6歳年下でミュンヘン・オリンピックの重量級、無差別両級の覇者・ウィリアム・ルスカさんに比べてもかなり見劣りしました。
同じく柔道出身でヘーシンクさんとタッグを組んでいたジャンボ鶴田さんは「プロレスに全く興味を示さなかった」「柔道着を着ればこれ以上強い者はなく、裸ではこれ以下に弱い者がない」と評していました。
  1. 2013/08/26(月) 09:04:52|
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沖縄の反米・反日運動の真実

沖縄の反米、反日運動の真実
果たしてマスコミは沖縄をどうしたいのでしょうか?マスコミが沖縄県民を在日米軍の基地の大半を押し付けられた被害者だと言うのなら、普天間に代わる飛行場を海兵隊の部隊と共に本土へ移転させるように世論を喚起しなければならないはずですが、やっていることは沖縄の反対運動を無批判に報じ、あわよくば本土でも反米運動が激化することを狙っているようです。
また沖縄は琉球王家を明治政府に廃位され、日本に併合された上、戦争末期には本土の捨て石として鉄の暴風と呼ぶ悲惨な戦闘が吹き荒れて多くの県民が犠牲になり、しかも日本兵によって殺される県民も少なくなかった。さらに戦後も米軍の占領下に置かれ、苦労を強いられたと言うのですが、明治以降、沖縄を近代化させるため政府は本土の他の地域以上の投資を行い、江戸時代に緩やかながら発展していた本土並みの生活水準に追いつけるよう諸施策を取っていました(確かに沖縄の風習、文化への無理解、後進性への侮蔑はありましたが、それは東北も同様です)。
沖縄戦も意図的に本土の捨て石にされたのではなく、地理的な位置関係でそうなっただけのことで、次は本土決戦で、それ以上の惨劇が繰り拡げられるはずでした。
さらに戦後のアメリカによる占領政策(そもそも軍政ではなく文民による行政統治だった)は日本政府が為し得なかったほどの巨額の投資を行い、さらに占領国の強権を行使し、日本政府が地元の慣習を尊重するため強制できなかった社会改革を断行して、衛生環境、学校教育、公共施設、社会制度を改善し、近代的民主主義をしっかりと根付かせました。
ところが本土では大江健三郎などの左翼文化人が、沖縄を被害者とする論陣を張り、それに洗脳された学者と教え子の学生たちは反米運動の舞台として沖縄を狙いを定め、本土復帰を待ち構えていたのです。
そして本土復帰と同時に各中央官庁からは監督、指導する職員を沖縄へ派遣することになり、左翼的活動で持て余していた職員が希望すれば、その目的を審査することなく送り込み、彼らは沖縄県庁や各官公庁の在沖縄事務所で職員を左翼化する施策を実施していったのです。その影響で運輸省の那覇空港は公務員労組過激派の巣窟となり、航空自衛隊の緊急発進や災害派遣を公然と妨害し、さらに本土からの左翼系職員によって沖縄県地方自治体労働組合と沖縄県教職員組合は、本土とは比べ物にならないほど過激な活動家の集団と化し、当時の左翼がかぶれていた毛沢東主義に毒され、反米が反日に転換し、最近では親中を公然と主張して、公務員の身分保障に胡坐をかき、公休を取って基地反対運動に参加し、学校教育の場では米軍人や自衛官の子弟を迫害していました。
さらに本土復帰に際しては沖縄の各企業に対して本土の企業から指導・調整の職員が派遣され、琉球新報には朝日新聞、沖縄タイムスには毎日新聞、NHKを始めとする放送局へも、本土の左翼系職員が希望通りに派遣されてきました。
しばらく、そんな実話を紹介していきたいと思います。

沖縄の反米、反日運動の真実2
野僧が沖縄に赴任して住民票の移動手続き行った時、部隊では「何があっても怒るな」と釘を刺されました。そして那覇市役所小禄支所へ行って書類に必要事項を記入して提出し、待ち合い席で待っていると職員は提出した書類をカウンターの上に置きっ放しにして仕事を続けていました。
後から同様の手続きをした地元の人には次々と処理しているのですが、野僧の書類はカウンターに置かれたままで、それを一般市民は面白そうに読み、職員と何かをささやき合って野僧を指差して笑っていました。
結局、3時間近く待たされた揚句、昼食前に手続きは終わったのですが、「お待たせしました」の一言もなく、一緒に請求した住民票の複写を無表情に差し出し、料金を受け取りました。
それでも部隊に帰ると「早かったな。午前中にすんだか」と感心され、先輩たちからは「職員が昼飯に行ってしまったので外食した」「夕方までかかって持っていった本を完読できた」「ソファーで熟睡した」などと苦労談を聞かされました。
後年、少林寺拳法を通じて那覇市役所の職員と友人になりましたが、彼の話によれば採用されて住民課に配属されると上司、先輩から「自衛官を長時間、拘束すれば戦争の準備を阻止することになる=平和を守る活動だ」と指導され、来た人が本土の顔なら警戒警報発令、基地の住所なら書類を放置して、苦情を言ってくれば上司が対応した上、基地に「隊員が暴言を吐いた」「市の職員を批判した」「沖縄を誹謗した」などと抗議する。つまり苦情を言ってくるのを待ち構えているのです。
本土の地方自治体の役所では、職員は自治労であっても管理職は上向け上の体制側なので(そう言う者が管理職になる)、職員の対応に問題があれば叱責し、処分などの処置もありますが、沖縄では復帰当時に本土からやってきた左翼系官僚により、「これが本土の常識」と教え込まれた世代が管理職になっているため、組織ぐるみ「反米」「反日」「親中」で固まっているのです。
何せ災害派遣でさえも「自衛隊の宣撫工作(住民を手馴けるための宣伝)」と反対し、県や那覇市の防災訓練に参加することができないくらいでした。
昭和62年の沖縄・海邦国体を自衛隊の協力により成功させたことで随分、軟化したとは言われていますが、「親中」が根底にあるため、やはり相互信頼のレベルにはなれないようです。
野僧は大学で毛沢東主義の知識を叩き込まれていましたから、聞きかじりレベルの自治労・沖教組などは論破していましたが。

沖縄の反米、反日運動の真実3
沖縄に家族同伴で赴任した隊員が心配するのは、レベルが低い沖縄の学校教育を受けさせると本土に帰ってからついていけなくなるのではないかと言うことでした。実際、沖縄の教育レベルは他の46都道府県に比べ格段に落ちるのですが、その理由を野僧は復帰前から高校教師として勤めていた友人から詳しく聞きました。
復帰後の沖縄の学校教育での最重要教育科目は「反戦平和」であり、小学校の社会・道徳の授業は勿論、国語の授業でも反戦の本を読ませ、本来の教育内容はそっちのけで、「反戦平和」、それも反米軍、反自衛隊だけを徹底的に叩き込むのです。
このことを本土の文部省(当時)が問題にしても、教育委員会は「復帰当時に派遣されてきた官僚からの指導の踏襲」と反論し、「沖縄の特殊事情」の殺し文句で封殺していました。
本土の教育委員会には日教組職員への監視も任務とされていますが、沖縄では自衛官の親が教の問題発言を教育委員会に抗議しても「嫌なら本土へ帰れ」と答えるそうです。
ですから沖縄の教員は生徒の学業習得、成績向上や躾指導には全く無関心で、テストの点がどうであれ、作文で「戦争反対」「米軍は悪」「自衛隊は米軍の手先」と書けば成績アップ、反戦平和集会に参加して教師に会えば更に加点、つまりマスコミが好んで取り上げる中学・高校生の反戦平和アピールは受験対策の一つなのです。
さらに沖教組は反米、反日だけでなく親中(最近は親北朝鮮も)を公然と主張していて、自分が人民解放軍の先兵として戦っているような気分で反戦平和教育を行うため、自衛官の子供やアメリカ軍人と日本人の間の子供たちを迫害することに良心の呵責は感じておらず、むしろ「親の罪を償わせる」と言う姿勢で苛め抜きます。
例えば歴史の授業で「沖縄戦では日本兵が住民を殺した」と教えた後に「自衛官は日本兵」と強調した揚句、自衛官の子供に「貴方のお父さんは?」と質問するのです。子供が答えられずに立っていると、教師は地元の生徒を指名し、「××君のお父さんは?」の質問に「人殺しです」と答えさせます。そして自ら音頭をとり、「日本兵は人殺し、自衛官は人殺し」の大合唱を始めるのです。
さらにアメリカ軍人と日本人の子供には、「アメリカ軍は世界中で戦争を起こしている悪の権化」と反米教育した後、黒板に列挙したアメリカ軍人の犯罪を読ませ、「貴方のお父さんはやってない?」と質問し、否定すれば「貴方が証拠じゃない」と追い打ちを掛けるのです。そして「ヤンキー・ゴー・ホーム」と大合唱を始め、「アメリカ兵の子供に生まれるからこうなるのさァ」と結論づけたそうです。
ただ、これは沖縄本島の都市部の話で、自衛隊による救急患者の空輸や尖閣諸島などへの中国の脅威を感じている離島では自衛隊への信頼は強く、この手の教師も離島勤務を希望しないため(沖教組がバックに控えているため無理な人事ができない)、比較的まともな教育が行われているようです。

沖縄の反米、反日運動の真実4
野僧は不思議にマスコミ関係の友人が多く、沖縄でも琉球新報、沖縄タイムスの記者の飲み友達がいました。おそらく向こうは情報収集を目的につき合っていたのでしょう。
彼らは沖縄ではトップの国立大学を出ているのですが、色々な問題を話し合っていても野僧が中退したローカル私立大学よりもかなりレベルが落ち、高校でもらった進路指導の資料の国公立大学の欄で格段に偏差値が低かったのを実感しました。
沖縄のマスコミは復帰前から報道規制の目を盗んで反米運動を扇動していたのですが、その続きは「本土復帰の早期実現」で、県民に日の丸を掲げる運動も推進していたそうです。
結局、ここでも本土復帰と同時に琉球新報には朝日新聞、沖縄タイムスには毎日新聞から送り込まれた左翼活動家の影響で、米軍をそのまま残す形で復帰を合意した自民党政府への抗議を理由として反米・反日に舵を切り、徐々に親中の本音を露わにしてきました。
これはNHKも同様で、視聴率を気にしないですむ分、常識を超えた親中偏向番組を放送し(特にローカル・ニュースは酷い)、中国国営放送の県内版になっていました。
沖縄のマスコミは現在、「江戸時代は薩摩に侵略されて搾取を受け、明治政府によって琉球王・尚家は廃位、県民の意志に関係なく日本に併合され、沖縄を蔑視する官僚により伝統的な文化を破壊され、戦争中には軍が横暴に振舞い、多くの県民を虐殺した。そして敗戦時、日本政府は沖縄を米軍に引き渡し、米国の植民地として屈辱と忍従の苦難を過ごした」
と沖縄は本来、独立国であり、中国と日本とバランスを取って対等につき合い、むしろ中国を敬慕していた。さらに日本と一緒にいることで不幸になっていたと言う歴史観を繰り返し流し続け、県民に親中意識が定着するよう画策しています。
現在でも米兵の犯罪は大々的に報じ、本土を巻き込んで批判の論陣を張り、東北地区太平洋沖地震で行ったトモダチ作戦は在沖縄米軍の必要性を植え付けるための工作活動と切って捨てますが、中国が尖閣で行っている違法行為は一切の批判をせず、むしろ海上保安庁と海上自衛隊が協力していることを「文民警察が軍に吸収される危険な兆候」などと揶揄しています。
沖縄の最大の不幸はテレビ、新聞ともに左翼系のマスコミしか存在せず、本土では常識になっている毛沢東の狂気に駆られた暴政、文化大革命の惨劇や現代中国のチベットなどでの民族迫害、周辺諸国への侵略的意図、国内で経済格差の深刻化などは全く報道されず、経済発展を遂げた中国の華やかな表の顔だけを見せられていることです。
このため明治以降、本土からの支援・投資によってのみ社会を営むことに馴れ切っている沖縄の政財界や県民は、日本が経済的に行き詰っているのなら、早めに中国に乗り換えた方が得策と言う近視眼的な世論が醸成されているのです。
さらに朝日新聞、毎日新聞やNHK、テレビ朝日、TBSなど本土の左翼マスコミは、自分たちが購読者の批判や視聴率を気にして控えている反米反日親中を公然と主張できる口実として沖縄を利用しており、本土や中国、北朝鮮人が演じている反対運動の実態を知りながら殊更に宣伝しています。

沖縄の反米・反日運動の真実5
沖縄の運輸省(現在の国土交通省)には強烈な公務員労組があって、御多聞に漏れず過激な反自衛隊活動を展開していました。
航空管制官が労組の時に緊急発進(ホットスクランブル)がかかると、3分以内で発進準備を終え、滑走路に向かったスクランブル機が、「着陸機がある、待て」と発信許可が下りず、はるか遠くで姿も見えない旅客機を滑走路の手前で何分も待つことがあり、アラート
ハンガー(緊急発進機格納庫)の前で見送っている整備員たちも、「何のための『緊急』発進なのか」と怒っていました。
空港を管理するCAB職員が労組の時には、滑走路の点検中に緊急発進がかかっても、いつもよりも念入りに点検を始め、スクランブル機は滑走路の手前で、CABのライトバンが退くのをジッと待つことになりました。
また、急患空輸の陸上自衛隊のヘリコプターが、「県の要請が入っていない」と離島の空港から着陸を拒否され那覇に引き返したことがありましたが、そのため患者が亡くなると、「自衛隊に要請しているのが原因だ。県独自に急患空輸の体制を整備しろ」と地元マスコミは問題をすり替えていました。
さらに自衛隊機が不具合で緊急着陸すると、運輸省にしか知らせていない情報がたちまち地元マスコミに流れ、「危険な軍民共用をやめろ。県民の安全のため自衛隊は那覇空港から出ていけ」と言う基地反対運動につながっていきました。
そんな那覇空港は運輸省の管制官が航空自衛隊の戦闘機を管制する唯一の基地であるため(小牧空港は主に輸送機)、管制官は戦闘機の速度に不慣れで、右左の指示のタイミングがずれ、誘導通りに着陸すると基地の前の道路、海の上に下ろされそうになるから、自分の判断で下りる格好の訓練になるとベテラン・パイロットたちは言っていました。
その素人管制官によって引き起こされた悲劇を野僧は目の当たりにしました。
昭和59年6月21日、ECM(対電子戦)訓練のためチャフポット(細かく裁断したアルミ箔を詰めたタンク)を装着したTー33Aが離陸しようとした時、漏れていたチャフを煙と誤解したタワー(管制塔)の管制官が離陸中止を命じ、Tー33Aは飛び立てず、滑走路の北端のテトラポットに突っ込んで炎上、前席の本井昭雄2尉が死亡、後席の宮代久成2尉が重傷を負いました。
野僧もその一部始終を目撃していましたが、確かに離陸するTー33Aは白い筋を引いていたものの火災を疑うような状態ではなく、チャフの知識があればポットから漏れていると判断できたでしょう。さらにTー33Aはすでに滑走路の半分近くに達していて、離陸を中止できる位置ではありませんでした。
野僧は事故調査委員会の依頼で事故機のスイッチ類の検証を行いましたが、前席のスイッチはテイクオフ(離陸)に操作されていて、パイロットは離陸と停止に迷った挙句、市街地に損害を与えず停止させるため突っ込んだことがうかがえました。
つまり管制官の判断ミスが原因なのは明らかなのですが、沖縄のマスコミは運輸省の主張のみを代弁し、航空自衛隊側の説明は言い訳として否定するだけでした。しかし、誰が見ても落ち度は運輸省側にあり、最後には「チャフポットの不具合=整備不良が原因」と言い出して整備員としては大変な迷惑でした。
その殉職した本井1尉(殉職後に特別昇任)の部隊葬の時、遺骨を抱いた奥さんが乗った官用車に向かって「馬鹿野郎」と罵声を浴びせ、「謝罪しろ」との蛮声で頭を下げさせたのも「那覇空港公務員労組」「沖縄県自治労」「沖教組」の赤旗を掲げたデモ隊でした。

沖縄の反米・反日運動の真実6
ある日曜日、豊見城村の公会堂で南西航空音楽隊のコンサートが行われ、野僧は駐車場の交通整理と来場者の誘導案内の名目の会場警備につきました。案の定、会場にはコンサートの数時間前から多くのデモ隊が押し掛け、公会堂に通じる道路を閉鎖したため駐車場は空っぽ、来場者はそれ以前に自衛隊のバスでピストン輸送して会場内で待っていましたから仕事は完全に警備でした。それにしても一般道をデモ隊が閉鎖しても良いものなのでしょうか?
と言うことで警備の目でデモ隊を見ると、立ち並ぶ赤い旗には毎度お馴染みの「沖縄県自治労」「沖教組」「那覇空港公務員労組」などの他にも本土の各県の同様の労組の名前があり、公務員は休日なら沖縄までデモに駆けつけることを知りました。
デモ隊はコンサートが始まる前から妨害のため大音響で抗議の演説を始めましたが(豊見城村公会堂は最新式の防音設備だった)、その内容は相変わらずのワンパターンでした。
先ずは沖教組の歴史の教師を名乗る男が「沖縄戦で日本軍は多くの住民を虐殺した。ここ豊見城村は日本陸軍の司令部があった殺害の舞台だ(豊見城村にあったのは海軍の司令部であり、住民の殺害が確認されているのは南部地区なので間違い)」。続いて那覇空港公務員労組の代表が「自衛隊は米軍と一緒に沖縄空域を占有している。我々の空の主権と平和を取り返そう(日本の空の平和を守っているのは航空自衛隊でありこれも間違い)」。そして沖縄県自治労の代表が「航空音楽隊の目的は自衛隊の宣伝活動を通じて住民を取り込む宣撫工作である。その証拠に音楽隊長は3等空佐の少佐であり、単なるマーチングバンドの隊長としては異例の高級幹部である(確かに音楽隊の活動目的には広報活動も含まれていますが、3佐が高級幹部であるかは疑問です)」。これらの演説の終わりには短文のアピールを読み上げ、デモ隊はシュピレコールで応じるのですが、いきなり石垣島の環境保護団体の代表が登壇して「世界有数のサンゴ礁を破壊する新石垣空港建設に断固反対しよう」と意味不明な主張をしたため、流石のデモ隊も「サンゴを守れ」と小声で応じていました。
中でも傑作だったのは本土の音楽教師と言う女性が「自衛隊の音楽は兵士を戦場に送り込むための行進曲だけで芸術性は全くない」と芸術論の熱弁を振るい始めたのですが、喋っている本人が自分の高説に酔ったのか小難しい音楽論が長々と続き、デモ隊は雑談を始めていました。ちなみにそのコンサートの演奏曲はマーチではなくグレン・ミラーのヒットナンバーだったので、これを否定すれば怒るジャズ・ファンもいたはずです。
ところで順調にコンサートが進行し始めると、デモ隊の中には会場に乱入しようとする者が出て、我々の外側で警備に当たっている警察官たちと押し問答になりました。すると警察官の間隙を狙って1台の軽4輪トラックが突入して、立ちはだかった野僧を正面で撥ね飛ばしました。幸い柔道2段の野僧は後方に1回転して怪我はなかったのですが、驚いたのはそれを見ていたはずの沖縄県警の警察官の対応でした。
一部始終を見ていた警察官は撥ねたトラックの運転手ではなく、野僧に向かって「危険なことをするな」と注意を始め、その隙にトラックは「自衛隊死ね」と捨て台詞を残して逃走したにも関わらず、これを放置していました(運転手は顔や捨て台詞の口調から明らかに本土の人間だった)。
トッラクのナンバーを憶えていたので、それを言っても警察官はメモしただけで通報はせず、流石に野僧も怒り心頭で、「これは交通事故ではないのか、逃走した運転手を逮捕しろ」と抗議したのですが、「進路侵入による危険行為だ。第一、お前は怪我をしていない」と詭弁を弄しました。
それでも「相手が死ねと言った以上、殺意があった殺人未遂だ」と喰い下がると現場責任者らしい警察官が出てきて、「自衛隊がこんな行事をやらなければ警察官も暑い中、大変な勤務に就かなくてすむんだ。迷惑を掛けている立場を理解しろ」と説諭しました。
以前から私有車を購入した隊員への安全指導で、「沖縄の人間との事故を起こして警察官を呼んでも、こちらが自衛隊だと判ると全面的にこちらの過失にされるから身分は可能な限り隠せ」と説明しているのは知っていましたが、車を持っていなくても我が身に降りかかったようでした。
以前、国際通りより一本外れた裏通りの公園のトイレでレイプされた女性を見つけ、派出所まで連れて行ったことがあるのですが、その時も対応した若い警察官は野僧が自衛官だと判ると、「お前がやったのか」と決めつけ、「違う」と否定しても受けつけず、女性が「この人は助けてくれたのさァ」と言ってくれて収まりましたが(謝罪はなかった)、最近の痴漢冤罪のように「この人が姦ったのさァ」などと同調されていたら、野僧は逮捕されるところでした。警察官の口からは「米兵はレイプの常習犯だ。お前も一緒だ」と言う迷台詞
まで飛び出しましたが。
その頃、宮古島で隊員が腹を刺されて死ぬ事件があったのですが、沖縄県警は「自衛官だから腹を切って死んだ=自殺」と断定し、部隊や遺族が「遺書などは見つからず、自殺する理由はない」と訴えても受け付けず、対応した警察官は「昔の軍人は大勢腹を切ったのさァ」と嘲笑っていたそうです。最近、本土では報道される中国人警察官の不正の話題を先取りして見ていたようではありませんか?
後年、野僧は本土の警察と交流を持ち、個人的につき合いましたが、彼ら(幹部警察官)は自衛官以上にガチガチの国家主義者で、国民を規律の枠に収めることが治安維持の基本などと言う台詞を聞いていると大日本帝国陸軍の将校・士官と話しているような錯覚を覚えました。沖縄県警も所詮は沖縄県の地方公務員のようですが、幹部は埼玉県朝霞(駐屯地の隣り)の警察大学校に入校するはずで、そこでカルチャーショックを受けないのでしょうか。おそらく本土の常識に近い思想信条の持ち主が幹部として採用され、幹部に昇任するのでしょうから、逆に「ホッ」と安心するのかも知れませんけど。

沖縄の反米・反日運動の真実7
内務班にある過酷な事情を抱えた空曹が入ってきました。その2曹は半年前の3月、九州の部隊から奥さんと小学生の息子さんを連れて転属してきて家族と沖縄の夏を楽しんでいた時でした。8月15日の終戦の日を名目にした反戦平和運動のビラを配る男たちがアパートにやってきたのです。
チャイムが鳴って奥さんが鍵を外すと1人の男が九州の官舎の感覚でチェーンをしていなかった部屋のドアを引き開けました。
「こんにちは。沖縄を平和な島にする運動をしている者です。沖縄から米軍と自衛隊を追い出して再び戦争に巻き込まれることがない恒久平和の島にするための署名をお願います」男は丸暗記してきたらしい台詞を並べた後、「沖縄でアメリカ兵が起こした犯罪」と印刷されたビラを差し出したのです。
沖縄に来るまでは基地に隣接する官舎に住んでいた奥さんはこのような活動家に接したことがなく、何と言って断ったらいいのか困って(本土では)常識的な言葉を選びました。
「ウチの主人は自衛官ですから困ります・・・」この言葉に男の目が暗く光ったそうです。
「アンタの旦那は自衛隊か!」語気も荒くそう言い放った男は手に持っていた署名用のバインダーをドアに挟んで閉めると、恐怖に言葉を発することもできないまま後退りする奥さんを追うように土足のまま玄関を上がってきました。居間にまで追い詰められた奥さん
が悲鳴を上げようとした時、ドアが開いて複数の男たちが入ってきたのです。
「何だ」「どうした」男たちはすがるような眼で見ている奥さんではなく押し入った男に声を掛ける。
「ここの夫は自衛隊なんだ」押し入った男が吐き出すように言うと男たちも顔色を変え、土足のまま押し入ってきた。同時に最初の男は奥さんの口を押さえながら馬乗りになり、続いた男たちは手分けして手足を押さえました。そして馬乗りになった男は奥さんのTシャツを引き上げ、強引に下着を外した・・・。

2曹が帰宅すると子供が1人でテレビを見ていて、いつもは夕食の支度をしている奥さんは寝室でした。引き戸を開けて入ると奥さんは背中を向けて肩を震わせているのです。
「どうした・・・?」2曹が歩み寄ると奥さんはその場に泣き崩れました。

奥さんからの告白を聞いて2曹は小隊長に連絡した上で警察に通報しました。ところが警察は「犯人たちが口にしていたのが標準語であることから考えて本土からの活動家であり、すでに逃亡している可能性が高く捜査は難しい」と言っていると警務隊を通じて情報が入りました。
さらに警察署に待機していた地元新聞の記者たちがアパートへ取材に押し掛け、近所の住民たちに「××さんの奥さんが強姦された件で」とインタビューを始めたため忽ち周囲に知れ渡ってしまいました。そして地元新聞2紙は「告訴するなら記事にしたい」と了解を求めてきましたが、これは「告訴すれば県内中に知れ渡るぞ」と言う反戦活動家を守るための圧力であることは明らかでした。また被害者に了解を求めたことで反戦活動家が起こした事件として本土の新聞が取り上げることへの牽制にもなるはずです。
子供の小学校でも教師が「お母さん、大変だったね。だけどお父さんが自衛隊だから悪いんだよ」と教室で慰めたため同級生とその親たちにまで母の悲劇が知れ渡り、子供が2曹に「お父さんのせいでお母さんが酷い目に遭ったの?」と抗議の質問をするようなったそうです。こうして2曹は奥さんと子供を実家に帰し、単身赴任者として内務班に入ることになりました。

2曹は内務班でも酒浸りになり、入浴のついでに隊員クラブへ直行して酒をあおり、酔うと泣き叫びながら暴れる困った存在でしたが、私たちは哀しい思いで聞いていました。
「『アイツ等はお前の夫が自衛隊だから悪い』って言いながら女房を犯したんだ」「『日本軍は朝鮮人の女を慰安婦にしていたのだからお前が慰安婦になるのは当たり前だ』と言いながら代わる代わる犯したんだ」「『米軍は沖縄の女性を犯しまくっているから、その手下の自衛隊が償うのは当然だ』って言うが俺や女房に何の関係があるんだ」こう叫びながら頭を壁に打ちつける2曹の額からは血が吹き出ていました。酔いが醒めれば「これじゃあ(劇画「愛と誠」の)大賀誠みたいだな」「早乙女なら主水之介の方か(=旗本退屈男)」などと照れたように誤魔化しますが夜になれば同じことの繰り返しでした。那覇病院の医師からも「傷口が治癒する前に繰り返すと縫合が困難になる」と注意を受けていました。
2曹は警察での事情聴取で奥さんの供述内容を聞かされたと言います。事実関係の整合を図ると言う名目はあるとしても、これは本土の警察では考えられない無神経さであり、むしろ自衛官を傷つける意図であえて説明したとしか思えませんでした。

結局、2曹は奥さんの実家から「離婚するか」「自衛隊を辞めるか」の選択を求められ、単身赴任ではない営内者になったのです。

沖縄の反米・反日運動の真実8
その頃、那覇市議会では本土のマスコミが報じ始めた市職員労組や県教組などによる自衛官や家族への迫害が問題になり、少数派の保守系議員が市長を追求しました。
「公務により沖縄へ赴任してきた隊員の転入手続きを妨害したり、その子弟の転校を拒否するのは那覇市の良識の欠落を本土に宣伝しているようなもので恥ではないのか?」この常識以前の質問に那覇市長はこう答えたのです。
「自衛官は沖縄を本土決戦の時間稼ぎのため戦場にした日本軍と同じ目的で赴任して来ている。だからそれを阻止するのは沖縄の人間として当然の自衛処置だ」この暴言に議場では議員だけでなく傍聴者からも拍手が湧きました。
「しかし、自衛官にも日本国憲法が保障する基本的人権はあるはずだ。それを那覇市職員が侵害していいのか?」議場の空気が自分に不利であることを察した議員は起死回生の質問を投げ掛けましたが、市長は平然とこう言い放ったのです。
「日本国憲法に違反している自衛官に憲法が保障する人権はない」この暴言と断じてよいはずの市長の答弁を地元新聞2紙とNHKを含む地元テレビ各局は「画期的答弁」と絶賛しましたが、本土のマスコミは無視したようです(取材していなかった?)。

沖縄の反米・反日運動の真実9
現在も沖縄の友人たちとは交流が続いていますが、最近の反米・反日運動は危険水域に入りつつあると口を揃えます。かつては本土から乗り込んできた左翼活動家の扇動で一部の県民が踊らされていただけでしたが、復帰後に成長した世代が社会の中核を担うようなり、彼らは沖教組の反米・反日の反戦平和教育を小中高校9年間で徹底的に叩き込まれて、耳にするニュースはこれも左翼マスコミの反米・反日・親中のものばかり、本土に働きに出れば常識を学習するのですが、それは少数派で、大多数は狭い島で井戸の中の蛙として大人になっているのです。
おまけに戦前、戦中の真実を知る世代は高齢化し、長命の沖縄県でも多くが亡くなってしまいましたから、声高に歴史を語る者も左翼マスコミや文化人、教育者が作った歪曲・偏向の資料を請け売りするばかりで、復帰前の本土以上に豊かだった庶民の生活、自由で大らかなアメリカナイズされていた社会も、占領政策としての「報道統制」「行動規制」、さらに「今も続く米兵の犯罪」などのマイナス面ばかりが強調されていれば、その捏造、歪曲されたフィクション(創作)がノンフィクション(事実)になっていくのも当然です。
さらに大きな問題は、かつては大学などで吹き荒れた毛沢東旋風に染まった日本人活動家による扇動でしたが、現在は在日中国人、在日朝鮮人などの工作員が直接、乗り込んで反米・反日・親中の活動を指導していることで、沖教組は北朝鮮の故金正日の誕生日の祝賀会を開催し、さらに沖縄県は中国の資本家を対象に離島や土地の購入を勧めるセミナーを開催しているのです。
結局、沖縄県の政財界の指導的立場にある人も日本の経済にこれ以上の発展はないと見切りをつけ、日本を越えた経済力を持つようになった中国に乗り換えようと真剣に考えているのでしょう。
かつての中国皇帝は琉球王家が朝貢すれば、御褒美としてそれ以上の土産を持たせてくれた。しかも沖縄のことには一切口出しせず、尚家の統治を温かく認めてくれた。
一方、日本は江戸時代初期に島津が侵略して以降、島津藩士が常駐し、王家のやることに細かく口を挟み、歴代国王に参勤交代のような江戸出府を強要した。
と言う反日・親中の歴史観を信じていれば、狂人・毛沢東も理想の皇帝・世界の盟主に映り、その属国になることに憧れるのかも知れません。
では本土の人間は沖縄を見限り、財政支援を止めれば良いかと言えばその逆で、国民としての帰属意識を喪失した沖縄県民が日本に属しているのは利益があるからに過ぎず、得る物がなければ早々に中国へ寝返るでしょう。
かつての韓国大統領だった盧武鉉は、北朝鮮の金正日との首脳会談の席で「私は海上の警備を弛めて貴方の国の工作員の入国を容易にし、朝鮮半島での戦闘指揮権をアメリカから奪い、在韓米軍を南に下げました」と自分の手柄を売り込んだそうですが、訪中した沖縄県の政財界の人間は「尖閣諸島の海上警備を邪魔して貴方の国の船を受け入れました。与那国島への陸上自衛隊の配備を阻止します。在沖縄米軍は縮小し、活動も妨害します。いつでもお越し下さい」と媚を売るのでしょうか。
このような状況に陥れた元凶は、沖縄県で唯一正常な報道を流すべき立場と責任を放棄して、偏向した番組を流し続けてきたNHKだと思います(本局の管理責任を含めて)。最近では在沖縄の左翼系民報よりも偏向・捏造が酷いそうです。

沖縄の反米・反日運動の真実・余談
豊見城村の公会堂でデモ対処をしている時、デモ隊と我々の周りを、どう見ても怪しい浮浪者がうろついていました。
それは本土の公園や駅などにいる、ボロボロの厚着をしてボサボサ頭で顔を真っ黒に汚した浮浪者でしたが、周囲から完全に浮いていました。
沖縄の浮浪者は厚着をしなくても凍えることがないため小ざっぱりとした軽装で、夜には公園のトイレで水浴びをしてからベンチで横になって過ごすので意外に身綺麗なのです。
その浮浪者は夏服を着ている我々を羨ましそうに見ているものの、立ち止まっては写真を撮っているようなので影で声をかけると那覇地方調査隊の隊員(空曹)でした。
そこで野僧が沖縄の浮浪者の服装を説明すると、「那覇に来たばかりなので知らなかった。だったら暑い思いをしたのは無駄だったのかァ」とガックリきていました。
確かに薄着ではカメラを隠し持つことはできませんが、目立つように変装しても意味がないのですが、デモ隊も大半は本土から来た活動家だったので違和感なく浮浪者だと思ってくれたのかも知れません。若し、疑われていたら拘束されて、それで身分が判れば大問題になったことでしょう。
後日、基地で会いましたが、カツラを取って制服を着ていれば普通の隊員でした。

  1. 2013/08/25(日) 10:02:49|
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8月22日・島崎藤村の命日

1943年(昭和18)の明日8月22日は島崎藤村さんの命日です。
藤村さんは1872(明治5)年3月25日、小説「破戒」で舞台にしている中山道馬籠宿(岐阜県中津川市)の庄屋を勤めていた旧家の四男として生まれましたが、自身が小説で述べているように「親譲りの憂鬱」な人生だったようです。
先ず国学者であった父親と長姉が狂死し、次に3番目の兄は母が浮気をしてできた子であり、さらに藤村さん自身も次兄の娘である島崎こま子さんと不倫関係になり、とどめに父親と妹に肉体関係があったことも発覚しています。この裏話を読んだ時、没落した旧家の狂った人間関係が、あまりに父方の実家そっくりなので愕然としました。
一方、藤村さんはあの戦争の悲劇を生んだ「戦陣訓」の制定にも関わっており、敗戦前の昭和18年に亡くなったことは幸運だったのかも知れません。若し、敗戦まで生き伸びていれば「戦陣訓」が玉砕、自決などをもたらしたことの怨みを買い、罪を問われ、無事では済まなかったはずです。
藤村さんは渥美半島を舞台にした唱歌「椰子の実」の作詞者であるため、愛知県でも知名度が高く、人気もあるのですが、野僧は小・中学生の頃に流れていた龍角散トローチのCMの「今日、ミチ子さん(村地弘美さん)が真っ赤な林檎をくれた・・・『優しく白き手をのべて、林檎を我に与えしは、薄紅の秋の実に 人恋初めし始めなり』・・・島崎藤村ってエライなァ・・・と日記には書いておこう」の印象が強いです。
この詩の全文を暗唱してしまいましたが、高校生になって初デートした時、店先の林檎を見ながら呟いてみたものの、「やっぱり会長って古いですね」と笑われて終わりました。

初恋
まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは 薄紅(うすくれない)の秋の実に 人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき たのしき恋の盃(さかずき)を 君が情に酌みしかな

林檎畠(はたけ)の樹の下に おのづからなる細道に 誰(た)がふみそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ 

こんな素敵な詩を書きながら姪と不倫してしまうなんて、島崎藤村って・・・・。
村地弘美ミチ子(村地弘美)さん
  1. 2013/08/17(土) 15:00:47|
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航空自衛隊怪談集14・車力分屯基地

車力分屯基地は津軽半島の中央、十三湖の畔で屏風山と言う砂丘の上にあります。
昭和55年の設立ですが、それは昭和52年のビクトル・ベレンコ中尉が操縦するミグ25戦闘機による亡命事件が理由でした。
この時、千歳からFー4EJファントムがスクランブルに上がったのですが、マッハ3以上とも言われるミグ25に追いつくことができず、函館空港への着陸を許してしまい、その対策として航空自衛隊は新たな地対空ミサイル・ナイキJの部隊を津軽海峡の両側、北海道の八雲と車力に創設することを要求し、予算手続き通り3年後に執行されたのです。
しかし、ミグ25は高速ではなく、地上レーダーが捉えにくい低空を飛行してきた上、ルックダウン能力に劣るFー4EJは発見できず、探しているうちに領空を侵犯されたのであり、高高度の目標に対処するためのナイキJでは何ともならないことが判りました。
そこで航空自衛隊はナイキ部隊にアメリカで実施させている年次射撃(ASP)をここで実施することを検討したのですが、「アメリカに官費旅行できなくなるとナイキの希望者がいなくなる」と言う情けない理由で高射幹部が反対し、沙汰やみになりました。
現在は米軍のXバンドレーダー(AN/TPYレーダー)部隊が配置されて防衛上の重要拠点になっていますが、それ以前は存在理由も不明確な(防衛計画でも全く違う地域へ移動することになっていた)、僻地と寒冷地手当てをもらうだけの部隊でした。
そんな新しい基地ですから怪談などはなさそうですが、不思議に死者が続いていて、ある幹部は出来島(地名は何と「できしま」)の海水浴場で溺死し、別の若い隊員は基地の外の藪の中で首を吊り、さらに野僧の同期も官舎で自死しました。
野僧が赴任した夜、夢枕にその同期が立ったのですが、何故か腹部と両手、下半身が血塗れで、「どうしたんだ?」と訊くと「包丁で腹を切ったが死に切れず、ベランダから飛び降りた」と答えました。事故報告では飛び降り自殺と書いてあったので不思議に思い、翌朝、古手の隊員にその件を訊くと「何で知っているんですか?それは秘密のはずですが」と驚き、「御本人が教えたのなら」と顛末を説明してくれました。
ところで十三湖には昔、十三湊(とさみなと)と呼ばれる都があり、源頼義、義家父子に滅ぼされた安倍一族と同族の安東氏が水軍を作り、蝦夷地や朝鮮半島などとも直接、交易をして大いに栄えていたのです。
ところが奥州藤原氏を滅ぼした後に入った源氏一派の南部氏はこれを執拗に攻め、南北朝の頃には地震による津波で水没し、10万人の死者を出して滅びてしまいました。
このため屏風山には十三湊から逃れて討たれた落人の亡霊が出て、徒歩通勤していた野僧は残業で遅くなると首のない幼子や強姦されたらしい乱れた着物姿の女性に会いました。
しかし、何よりも野僧は厳寒の夜道で雪女に出会ったのです。
それは月明かりの夜道のことで、突然、つむじ風が起こり、そこに白く長い髪を振り乱した白い着物の美しい女性が立ち、ゆっくり手招きをしていました。真っ白い顔に唇だけが赤く、鉄漿(おはぐろ)をした口許で妖しく笑っていましたが、抱きつこうと手を伸ばしてきた瞬間、念佛を唱えると「アッ・・・」と大きなため息をついて消えてしまいました。
すごい美人でしたから(稲森いずみさんタイプ)是非とも抱いてみたかった。せめて口づけだけでも・・・今夜も氷の唇が僕を奪い(甲斐バンド)。
                                             
野僧は若い女性の幽霊なら抱いたことがありますが、冷たくて手応えのない不思議な感じです。乳に触れても(=揉んでも)弾力も何もありません。一度試してみて下さい。

お後がよろしいようで。おしまい。
  1. 2013/08/16(金) 10:21:47|
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航空自衛隊怪談集12・入間基地&13・府中基地

入間基地
入間基地は陸軍航空士官学校がおかれていた所沢飛行場でした。
ですから米軍に接収されてからも広大な敷地が残され、それが航空自衛隊に移管されたのですが、所沢が東京のベッドタウンとして注目されると国有地を自分の財産と思っている大蔵省(現・財務省)は分割を繰り返したため、出張で行く度に狭くなり、ゲートが移動し、その度に住所が変更されました。
そんな基地ですから、練習機の墜落が日常的だった上、開戦後には何度も爆撃された旧軍時代、朝鮮戦争などに出撃した米軍時代、そして事故を繰り返してきた自衛隊まで心霊スポットは数多く存在し、どれが何の幽霊なのか判らない状態でした。おまけに特攻兵器「桜花」もありますが、こちらは未使用なので残っているのです。
補給処の広い倉庫の中に赤子を連れた女性の幽霊が出るとか、西武鉄道の踏み切りに子供が立っているとか、軍人ではない幽霊の噂は出所不明です。
入間基地は航空自衛隊になってからも事故が絶えませんが、周囲が市街地化したため事実上、脱出不能になっていて、数年前には操縦不能になったTー33Aをパイロットは脱出せずに河川敷にもって行こうとして高圧電線に引っ掛かり墜落した事故がありました。
中でも記憶に残っているのは、千歳基地でFー15のシェルター=耐爆格納庫の自動扉に頭部を挟まれて殉職した隊員(曹候学生の教え子)の部隊葬に出席するため遺族が乗ったCー1輸送機が大雪のため離陸に失敗した事故です。この時は死亡者こそいなかったものの両親が軽傷を負い、そのまま羽田空港まで車で急行して部隊葬に間に合いましたが。

府中基地
府中基地は昭和15年5月に陸軍燃料廠として設立された石油プラントでした。戦後は昭和20年から32年8月まで米軍基地になりましたが、現在も当時の建物が多数残っています。昭和57年に3分割され、北側を大蔵省、西側は地方自治体に移管され、高級司令部が所在する割に狭い基地になってしまいました(警備上は大変問題ですが、管理は楽になりました)。
米軍の隊舎は広くて立派ですが不気味な雰囲気も漂っていて、廊下の大鏡の前に立っていると後ろを米兵が通り過ぎたので振り返ると誰もいない。支援集団の運航統制では墜落したパイロットの声が混信するなど色々聞きましたが、野僧は総合演習中の総隊司令部への臨時勤務だったので確認する暇がありませんでした。
  1. 2013/08/15(木) 14:04:26|
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8月15日・敗戦の日

明日8月15日は68度目の敗戦の日です。ここに玉音放送として流された大元帥陛下の終戦の詔(みことのり)を全文掲載します。

   終戦詔書
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ、非情ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ、茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク、朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ、其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ。抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ、皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々惜カサル所曩ニ、米英二國ニ宣戦セル所以モ尚實ニ帝國ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ、他國ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス。然ルニ交戦巳ニ四歳ヲ閲シ、朕カ陸海将兵ノ勇戦、朕カ百僚有司ノ精励、朕カ一億衆庶ノ奉公、各々ニ最善ヲ盡セルニ拘ラス、戦局必スシモ好転セス、世界ノ大勢亦我ニ利アラス。加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ、頻ニ無辜ヲ殺傷シ、惨害ニ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル。而モ尚交戦ヲ継続セムカ、終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス、延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ。斯ノ如クムハ、朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ、皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ、是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ。朕ハ帝国ト共ニ、終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、遺憾ノ意ヲ表セサスヲ得ス、帝國臣民ニシテ戦陣ニ死シ、職域ニ殉シ、非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ、五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ、災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至タリテハ、朕ニ深ク軫念スル所ナリ。惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ、固ヨリ尋常ニアラス、爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル、然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所、堪エ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス。朕ハ茲ニ国體ヲ護持シ得テ、忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ、常ニ爾臣民ト共ニ在リ、若シ夫レ情ノ激スル所、濫ニ事端ヲ滋クシ、或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ、為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ、朕最モ之ヲ戒ムル。宜シク挙國一家子孫相傳ヘ、確ク神州ノ不滅ヲ信シ、任重クシテ道遠キヲ念ヒ、總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ、道義ヲ篤クシ、志操ヲ鞏クシ、誓テ国體ノ精華ヲ発揚シ、世界ノ進運ニ遅レサラムコトヲ期スヘシ。爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
裕仁
昭和二十年八月十四日  
内閣総理大臣 鈴木貫太郎
以下十五大臣連名

野僧は人生の苦難に直面した時、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の一節を唱えていました。
昭和の陛下は翌年には「ふりつもる み雪にたへて いろかえぬ 松ぞををしき 人もかくあれ」の御製を詠んでおられますが、やはり唯一崇敬する天皇さんです。
  1. 2013/08/14(水) 00:08:04|
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航空自衛隊怪談集11・浜松基地後編

浜松基地は陸軍航空隊の基地でした。このため滑走路の西端の延長線にある谷間には爆撃機・呑竜が墜落・炎上・爆発して全滅した集落跡がありました。
この場所は浜松基地の飛び地になっていて、現在は基地から出た廃材などを投棄していますが、木立の中には石垣や井戸がそのまま残り、井戸は食器などで埋めてありました。
やはり多くの家族が死んだ土地ですから草木も眠る丑三つ時にパトロールするとヘッドライトに走っていく子供の背中が照らしだされたり、木立の中にないはずの家の灯りが見えたりして、確認のため車を降りると家族の話し声が聞こえたりすることがあるのです。
また南地区の滑走路の付け根にあたる場所には、くぼ地に涌水と小さな祠が祀られています。三方ヶ原の合戦の時、このくぼ地に隠れていた徳川方の武士が討たれ、湧水で首を洗ったと言う伝承がありました。
夜には首がない鎧武者の幽霊が現れ、「水・・・水をくれ」と懇願されるから入ってはいけないと言うのですが、基地に侵入しようとする者にとっては管制レーダーが間近にある潜伏適地ですから警戒していました。
どんな怪談があっても基地を守る警備小隊はパトロール(巡察)しますが、教育隊から配置になって警衛に初上番した新兵さんたちはここで恐怖体験することになるのです。
そんなコワイ話を巡察に行くまで散々に聞かされた後、くぼ地に差し掛かると空曹のドライバーが車を止め、「首なしの武士がいないか見てこい(不審者と言わないところがポイント)」と命じ、新兵さんは何故か小隊長(野僧)が「暗記しろ」と教えてくれた不動明王の真言を唱えながら下りて行きます。するとその間に車はヘッドライトを消して50メートルほど進んでいて、戻ってきた新兵さんは半分べそを掻きながら走ってきました。
次に谷間地区に到着するとドライバーが突然、「今、人がいたな」と言います。そして「見てこい」と命ぜられて新兵さんはコワゴワ車を下り、懐中電灯を片手に歩きだすと、突然、ヘッドライトが消え、無灯火のまま車はバックして行くのです。これで気の弱い奴は泣きます。
これで済めばいいのですが、態度が悪い新兵には念を入れて、くぼ地に銃剣道の胴をつけて頭から黒い袋をかぶった隊員が待っていたり(懐中電灯で照らすと首のない武者に見える)、谷間地区に数名で隠れていて新兵が下車した途端に大声を上げるなどで脅かすのですが、警備の隊員たる者は幽霊など物ともせぬ胆力がなければ務まりませんから、小隊長公認の肝試しでした。心霊スポットで待ち伏せしている先輩たちの方が怖い?それをやらせる小隊長はもっと恐い?
一度、巡察車両の後席に隠れていてイキナリ首を締めたらパニックになったため、これは禁止しましたが。
  1. 2013/08/13(火) 00:42:59|
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航空自衛隊怪談集10・浜松基地前編

浜松基地は航空自衛隊発祥の地で、航空機の尾翼にはチェッカーの模様が描かれていますが、これは試行錯誤(チェック)してきた開拓者の誇りを表しています。
現在のパイロット教育は複座式の練習機で、学生と教官が一緒に搭乗して行われていますが、当時のFー86Fには複座式の機体はなく、地上で滑走訓練を終えると後は単独で飛び立ち、隣りで飛ぶ教官が無線で交信しながら操縦技量を習得していったのです。
都会の自動車教習所では教官が無線で指導しながらコースを単独走行する経験をさせるようですが、航空機は「判らない」「迷った」「しくじった」からと言って停止することができず、墜落事故は日常茶飯事でした。この命を掛けたブッツケ本番で航空自衛隊のパイロットの「死を恐れぬ」気風が培われたのです。
一方、作業の安全管理も十分に確立されていなかった時代、初体験のジェット機を取り扱う整備員も毎日が危険と隣り合わせでした。Fー86Fの飛行前点検中に空気吸入口に頭から吸い込まれ肩が引っ掛かったものの、窒息の上、毛穴から体液を吸い出されて死亡したり、輪止めを外そうとして転倒し、轢かれて死亡したりと、現在、航空機整備員に教育される事故事例の多くは浜松で起こっています。
そんな基地ですから怪談、心霊スポットには事欠かず、おまけに基地周辺の道路は住宅地から中心部に向かう周回路になっているため交通量が多く、死亡事故が多発しており、新たなスポットが増え続けています。
野僧が警備小隊長だった時には、直線で見通しの良い場所で死亡事故が繰り返されるため、基地司令から「供養をしろ」と電話が掛かったので読経しましたが、後日、その場所にある立ち木で米兵に集団レイプされた女性が首を吊ったと言う話を聞き、もう一度、ロウソクと線香を用意した上、法衣を着て勤め直しました。
このような祟りを及ぼしている怨霊の除霊を本気でやると「僧侶の徳を擦り減らす」「寿命を縮める」と言われますから、浜松から転出する直前に病に倒れ、移動先で自衛官として抹殺されたのも、このためかも知れません。、
そん中で北地区にある殉職隊員の慰霊碑にまつわる伝承を語らせていただきます。
この黒い御影石で作られた慰霊碑は旧第1航空団司令部の前に在りますが、この慰霊碑が夜になって青白く光る(耀くのではなくボーッと)と航空機が落ちると言われていました。
昭和57年の基地航空祭でブルーインパルスが墜落しましたが、その時にも目撃され、北基地司令の第1航空団司令は登庁して話を聞き、そのまま参拝に行きましたが事故は起こりました(航空祭は南基地が主催・会場でした)。
航空自衛隊怪僧記・ブルーインパルス4
  1. 2013/08/12(月) 09:25:06|
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航空自衛隊怪談集9・那覇基地後編

野僧が赴任した頃の那覇基地は米軍時代そのままで、建物は2階建てまで、その建物と建物の間隔はだだ広く、その空いた土地は一面に芝生が敷き詰められ、植木や電柱はなく、風景は完全にアメリカの街でした。
格納庫も米軍が建設したもので250キロ爆弾に耐え得る構造になっていました。
ただ米軍の基地であったと言うことはベトナム戦争でも使用されたことになり、先輩と基地内を歩いていると「あれが戦死者を本国に送る前に空輸してきて防腐処理をした建物だ」などと教えられました。
航空自衛隊に移管されからも緊急発進したFー104Jが着陸時、脚が折れた事故がありました。この時は胴体を地面に擦りつけたため、半分まで削り取られ、パイロットも下半身がなくなって死亡しました。
閉鎖された滑走路へ部品の回収に行くとバラバラになった機体の破片と一緒にパイロットの肉片がこびりついていて、生前そのままの姿で操縦桿を握っていた上半身とは対照的だったそうです。
またECM(対電子戦)訓練のためチャフポット(細かく裁断したアルミ箔を射出する装置)を装着したTー33Aが離陸しようとした時、漏れていたチャフを煙と誤解した運輸省の管制官が発進中止を命じたためテトラポットに突っ込んで炎上した事故がありました。
この時は野僧も深夜に事故機の警備につきましたが、テトラポットに打ちつける波の音の中に女性の押し殺した泣き声を聞きました。それは事故の後、聞こえる夫(息子)の死を受け留めた妻(母)の生霊の声だと言われています。
さらに野僧が赴任する2年前に基地内の弾薬作業所でサイドワインダーが爆発し(テスターに市販の電池を使用したため過電圧になったことが原因)、整備員2名が殉職しました。
この時は室内が瞬時に高熱の火で一杯になったため遺骸は炭化し、壁には人の形に影が焼き付いていたそうです。
こうした殉職した隊員たちの英霊は基地内にとどまっているらしく、格納庫内に保管している事故機の傍にパイロットが立っているのを深夜にトイレへ行った格納庫当直が目撃しましたし、野僧が弾薬作業所当直についた時も2名の話し声を聞きました。
そしてトドメが隊員の自死で、野僧が勤務していた5年間に5人が自死しました。
原因は沖縄の女性との結婚に親が反対(すでに同棲していた)、単身赴任者の留守宅を守るはずの妻の不倫、親の借財の立て替えによる生活困窮など様々でしたが、このうち一度は野僧が首を吊った遺骸を下ろすのを手伝いました。
この単身赴任者の妻の不倫相手は娘にまで手を出し、それを聞いていた我々は葬儀に来ていた妻を冷ややかに見ていましたが、夜勤を終えて暗い廊下を歩いていくと首を吊ったシャワー室から出てきた本人にすれ違い、「やっぱり帰れませんよね」と声を掛けました。
一方、首を吊った倉庫に親を恨む声が響いたと言う噂が実しやかに広まりましたが、真偽のほどは判りません。
  1. 2013/08/11(日) 10:23:38|
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8月12日・堀江謙一が太平洋横断

1962(昭和37)年の明日8月12日に堀江謙一さんがマーメイド号で太平洋単独横断しました。24歳でした。
マーメイド号は全長19フィート(1フィートは30・48メートル)の外洋用ヨットとしては小型で、現在のような衛星航法装置、高性能通信機器はなく、天測で位置を判定し、短波ラジオからの情報で天気図を作成しながらの航海でした。
野僧は小学校の図書室で堀江さんの著書「太平洋一人ぼっち」を借りて読みましたが、水を20リットル、米は40キロ、缶詰は2000個持って出港したものの水はすぐになくなり、雨水を貯めて飲んだと言うエピソードやマーメイド号と言う名前は、紡績会社が「シンボルマークの人魚を使ってくれれば帆を一式提供する」と言ってくれたため名付けたと言う裏話、そして灯台の回転する秒数でサンフランシスコへの到着したことを確認したラストシーンなどが強く印象に残りました。
当時、、まだ日本ではヨットでの海外渡航は許されていなかったため、これはパスポートを持たない密出国であり、日本国内ではニュースが流れても犯罪者扱いでしたが、到着先のサンフランシスコ市長が「コロンブスもパスポートは省略した」と受け入れ、勇気ある快挙を行った名誉市民として厚遇したため(現在もマーメイド号はサンフランシスコに展示されています)、日本でも一転、称賛の嵐が巻き起こり、帰国時は英雄の凱旋になっていました。
国内では常識に当てはめて、そこに合わなければ異端者として非難するが、一旦、外国で称賛されれば「国の威信を発揚した英雄」として掌を返す態度は昔から変わりがありません。
  1. 2013/08/11(日) 10:20:29|
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8月11日・圓朝忌

1900(明治33)年の明日8月11日は大名人・三遊亭圓朝師匠の命日=圓朝忌です。
今でこそ落語は上方、江戸の2つの流儀に分かれていますが、元来は上方の滑稽噺が江戸に伝わったもので、例えば「今、何時だい」と言うフレーズで有名な「時そば」は上方の「時うどん」が江戸の屋台ではそばの方が一般的なため変更されたのです。
江戸ではそばの食べ比べをする「そばの羽織」と言う噺も上方では「蛇含草(じゃがんそう)」と言う餅の食べ比べになっています。
ただ、猟師を丸呑みにした大蛇が薬草を口にして消化したのを見ていた小父さんが、それを持ち帰り、そばの食べ比べで負けそうになって、薬草を舐めると消化剤ではなくは人間を溶かす薬だったので小父さんも溶けてしまうのですが、江戸ではそばが羽織を着ていたと言う落ちですが、上方では甚平なので着物が消えた欠落はなく完成度が高いのです。
一方、江戸、特に三遊一門はそれまでの滑稽噺、バレ噺(エロ)だけでなく落語よりも講談に近い人情噺、怪談噺を得意としていますが、これは圓朝のあまりの上手さに嫉妬した師匠の2代目・圓生が、圓朝の得意ネタを他の弟子たちに先に演じさせる嫌がらせをしたため、新作ネタを作らざるを得なくなり、それで「芝浜」「文七元結(ぶんしちもっとい)」などの人情噺、「牡丹灯篭」「真景累ケ淵」などの怪談噺の名作が生まれたのですから、嫌がらせも時には良いことがあるようです。
圓朝の墓は谷中の全生庵の山岡鉄舟居士の隣にありますが、それは禅に関心をもった圓朝が在家の禅者だった鉄舟居士に参じ、「無舌(舌を使わず語れ)」と言う公案を与えられ、苦難の末に印可に至ったことによります。このため全生庵では圓朝忌の法要に合わせ、怪談噺の創作の参考に収集した幽霊画の展覧会も開かれています。
ちなみに圓朝の父も橘屋圓太郎と言う噺家で、本名は出淵(いでぶち)次郎吉と言います。
名作「芝浜」は魚河岸の勝五郎が宿酔いの酒が残ったまま仕入れに出掛けた芝浜で50両が入った財布を拾い、それで近所を集めて大宴会をするのですが、翌朝、目を覚ますと女房のおたつが「財布など拾っていない。宴会の代金はどうするのか?」と尋ねるのです。そして「夢を拾って有頂天になるような男には愛想が尽きた」と出て行こうとする姿を見て心を入れ替え、酒を止めて商売に励み、3年後には小さい店を持つようになりました。
そんな大晦日、勝五郎におたつが財布を差し出しました。そして3年前、拾得物横領になることを心配して勝五郎が酔い潰れている間に大家と相談し、奉行所に届け、勝五郎には夢だったことにしたのだと説明し、「その財布が今日、届いたのだ」と言いました。
除夜の鐘が鳴る中、3年ぶりに酒を注がれた勝五郎は湯呑を口元にまで持っていってコトリと置きます。そこで名台詞「よそう。また夢になるといけねェ」です。
この噺は人情味あふれるストーリーも好いのですが、明け方の芝浜の情景、除夜の鐘の響きなどの描写も噺家の芸の見せどころのやはり名作です。
と言いながら野僧は、「文七元結」の娘のお久が吉原に身売りして作ってくれた金を長兵衛が、「集金した大金を落としたため死んでお詫びをする」と言う若い手代・文七に渡す時の「やりたかねェよ、やりたかねェけど、やらなきゃおめェが・・・」の名啖呵も好きです。
  1. 2013/08/10(土) 00:30:39|
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航空自衛隊怪談集8・那覇基地前編

那覇基地は所在地そのものが沖縄戦の激戦地です。苛烈な砲爆撃の末、小禄飛行場から上陸した米軍は頑強に抵抗する海軍陸戦隊と激戦を繰り広げ、多くの犠牲者を出しながら豊見城村にある海軍司令部壕へ追い込んで行きました。
したがって現在の基地内には日米双方の犠牲者が多数、横たわり、地面を血で染めたため、立ち木を切ると根や幹は赤くなっていると言われ、実際、伐採作業に当たっていると切った枝の切り口が赤いのに驚き、作業員は「樹液が血のようだ」と赤く染まった軍手を見ながらささやき合っていました。
そんな基地ですから心霊スポットには事欠かず、どこでも幽霊に会えましたが、その一方で感じない者は全く感じないことも解りました。
数人で幽霊を見て騒いでいるのに1人だけポカンとしながら「どこに?」と訊き、「あそこだ」と口々に言いながら指差しても「おらん」「見えん」と言い張るのです。
那覇基地で増加警衛の勤務につくと、夜中に各隊の当直空曹が巡察に回ってきます(寝ている警衛隊員をおこすため?)。ところが暗い道を歩いてくるヘルメットをかぶった隊員の姿が見えるので「巡察だ」と思って待ち構えていると何時までたってもやってきません。
そこで相棒と顔を見合せて「何だァ、幽霊か」と納得し合うのです。
逆に巡察コースではない道からやって来る隊員が見えたので、「また幽霊だな」と無視していると「おい、おきてるか?」と声を掛けてきました。「今夜の幽霊はリアルだなァ」と感心していると巡察が自販機でジュースを買ってきたそうでした。
中には英語で話しながらやってくる影があるので、「今夜は米兵の幽霊か」と思っていると、南西航空警戒管制隊の巡察が英会話の練習をしながら回っていたのでした。
そんなある夜、赴任してきたばかりの警務隊長が基地のビーチへ夜釣りに行ってビーチに備えてある電話を掛けてきたそうです。
「鉄砲を担いだ兵隊が1個分隊いる・・・ワッ、取り囲まれた・・・助けてくれェ!」警務隊長にそう言われては基地当直幹部も対応しない訳にはいかず警衛隊を向かわせましたが、ヘッドライトが照らすと幽霊たちは消え、ビーチの管理棟の中で警務隊長は怯え切っていて、車内でもガタガタ震えていたそうです。
それにしても警務隊長と言えば外国軍や旧軍なら泣く子も黙る憲兵隊長であり、遺体の検屍にも立ち合うのでしょうけど、1個分隊の幽霊には勝てなかったようです。
旧軍の幽霊と言えば硫黄島も有名ですが、野僧は「硫黄島基地隊に1室与えてくれて、3食と風呂の面倒を見てくれれば、移り住んで慰霊のための法要を勤めたい」と航空幕僚長閣下に申し入れたことがあります。しかし、「君が現職なら転属で行かせられるが、民間の坊さんでは宗教活動への関与になるから難しい。残念だ」との回答でした。
  1. 2013/08/09(金) 09:36:06|
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8月9日・長崎原爆とソ連が対日参戦した日

明日は長崎に原爆を投下され、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、満洲への侵攻を開始した日で(宣戦布告は8日)、小庵でも犠牲者の慰霊法要を厳修いたします。
この日の法要ではこの歌を御詠歌に代えて謡っています。

 長崎の鐘
      詞・サトウハチロー 曲・古関裕而
こよなく晴れた青空を 哀しと思う切なさよ 
うねりの波の人の世に はかなく生きる野の花よ
なぐさめ 励まし長崎の ああ長崎の鐘が鳴る

ただこの歌は切支丹であった永井隆博士の「長崎の鐘」「この子を残して」を元に作詞されているため、2番以降はロザリオやミサ、十字架、マリア樣などの業界用語が並びますが、東京のマスコミが勝手に作り上げたイメージ(NHKの「ゆく年くる年」でも何故かミサのシーンです)とは別に長崎のクリスチャンはあくまでも少数派ですから、小庵では1番のみを謡っています。したがって終わりはこちらです。

 原爆を許すまじ
         詞・浅田石二 曲・木下航二

ふるさとの街焼かれ
身よりの骨埋めし 焼土(やけつち)に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
三度(みたび)許すまじ原爆を
われらの街に

長崎は本来、第2目標で当初は小倉を狙っていたのですが、天候が悪く目標が視認できないため機長の判断で長崎に向かったのです。
長崎は街の中心に山があるため閃光、爆風が遮られ、被害が限定されましたが、若し平地の小倉に投下されていれば、広島で使用されたウラン爆弾以上に威力があるプルトニウム爆弾でしたから、小倉から八幡、門司、対岸の下関まで広範囲に被害が及んだのは間違いありません。
長崎でBー29は投下目標を外し、浦上天主堂の上空で爆発させてしまったため、被爆したマリア像の頭部など由緒ある教会の悲惨な写真が戦勝国で報じられ、威力を誇示するはずがキリスト教者から反発を買う結果になりました。
  1. 2013/08/08(木) 09:29:40|
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8月8日・柳田国男忌

1962(昭和37)年の明日8月8日は日本民俗学の創始者・柳田国男先生の命日です。
今でこそ民芸品は市民権を得て、「何でも鑑定団」なる番組が呆れるような評価額=市場価格をつけてくれますが、明治以降の文明開化=西洋化の流れの中では日本的な物は全て時代遅れで劣った遺物と言うレッテルを張られ、多くの文化財が欧米に流出し、民芸品は捨て去られていました。
それを発掘し、再評価したのが柳田国男先生で、その信奉者が生き残っていたから戦後の何でもアメリカ式の風潮の中でも、明治期のような愚挙を繰り返すことはなく文化財として守ることができたのでしょう。
野僧は明治生まれの祖父の薫陶を受けて育ったため、幼い頃から民芸品、骨董品、郷土玩具などに関心を持ってきましたが、航空自衛隊に入って全国各地を旅するようになり、品物に留まらず地域文化、地方史、民話、古謡などにも関心が広がりました。
柳田国男先生は明治8(1875)年7月31日に兵庫県神崎郡神崎町で生まれ、東京帝国大学で農政学を学び、農商務省に入省して全国各地へ公演して回るうちに民俗文化に関心を持ち、当時の流行だったスピリチュアリズムの影響を受けて怪談の研究に手を染めました。この成果が岩手県遠野の座敷童子や河童などの伝承をまとめた「遠野物語」です。
明治以降の東北は、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟として新政府と戦った賊軍のレッテルが払拭できておらず、営々と築き上げてきた独自の文化まで貧しく劣った排除すべき低級なものと卑下させられていました。それを再評価したのが先生の最大の功績でしょう。
柳田先生がおられなければ「ワダばゴッホになる」の棟方志巧さんや津軽三味線の高橋竹山さんも世に出ることはなかったのです。
古志庵・棟方志巧・胡須母寿花頌
柳田先生の民俗学の特徴は、御自身が儒家の出身であり、大学では農政学を学んでいるため、農耕の土着文化を中心に据え、漂泊民や非稲作民、被差別民などの非日常的な芸能や風習、さらに夜這い、同性愛などの社会規範に背く性風俗はあえて無視していることです。
祭礼、土着信仰、民具、郷土玩具などには深い畏敬と温かい愛情をもって評価、紹介していますが、祭りの夜の乱交や郭での娼婦、囲われ者の妾などの性風俗に対しては触れることも避けているようです。
それらの倫理的には暗部・恥部とも言うべき民俗学の別の切り口については宮本常一先生が研究によって明らかにされていますが、どちらも学んだ野僧としては互いが表と裏、光と影であって、優劣なく認め合わなければならない事実だと思っています。
惜しむらくは宮本常一先生の民俗学流れは、非差別民の解放運動に利用され、やがて左翼の反皇室、反日本の革命的社会運動に組み込まれてしまったことです。
余談ながら野僧は柳田国男先生の「南無阿弥陀佛」を日本の念佛信仰を学ぶ上での手引き書として勧めています。
  1. 2013/08/07(水) 09:48:25|
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航空自衛隊怪談集・特別編・陸上自衛隊豊川駐屯地

明日8月7日は豊川海軍工廠に空襲が加えられた日ですから、特別編として跡地に所在する豊川駐屯地について語らせていただきます。
豊川海軍工廠は当時、従業員6000人を擁する東洋最大の軍需工場で、主に海軍の艦艇、航空機に搭載する銃器や光学機器を製造していました。
この日(広島への原爆投下の翌日)、サイパン島を飛び立った124機のBー29と硫黄島から合流した護衛のPー51戦闘機の大編隊が飛来し、30分にわたって250キロ爆弾3256発を投下して、勤労動員されていた中学生、女学生、国民学校生徒など452名を含む2500名以上が犠牲になりました。
これに対して御津町などの高角砲と海軍工廠内から銃撃でBー29の1機に軽微な損傷を与えたものの迎撃した戦闘機はなく、低高度からであったにも関わらず(近傍の豊川稲荷には被害がなかった)、したい放題の攻撃だったようです。
生存者の話では爆撃が終わった後、戦闘機が低空から執拗に機銃掃射をしていたため、炎が迫る中、瓦礫の下から逃げることができなかったようです。
野僧は地元の人たちに「犠牲者は何所に埋葬したのか?」を何度も問いましたが、みな口が重く、「試射場があった千両(ちぎり)に大きな穴を掘って埋めたらしい」と言うことしか判りませんでした。
しかし、爆撃から1週間後に日本は降服し、軍の力は失われたはずなのに、それが世間に知られることなく未だに口をつぐむのは、何か知られたくないような埋葬方法が取られたのではないかとの疑念を抱かざるを得ません。
そんな豊川駐屯地は野僧の親の居住地に近いのですが、当時はまだ海軍工廠時代の建物が数多く残っていて(現在は不明)、弾痕がそのままの倉庫も外柵から見えました。
陸上自衛隊には不審番と言う勤務があったようですが、旧海軍工廠の建物に住んでいた特科連隊の連中は、夜中に隊舎の廊下を歩いていると懐中電灯に人の影が照らし出されたり、足音がついてきたりすると真顔で怯えていました。
また巡察に回ると倉庫の辺りで不審者を見つけ、誰何(すいか)しても誰もいないと言うことがあると怪談の割に熱弁を振るうベテラン陸曹もいました。
ところで海軍工廠の犠牲者の慰霊碑は豊川稲荷の駐車場の片隅にありますが、陸上自衛隊は独自に何か慰霊の儀式は行っているのでしょうか?
「犠牲者が埋葬された」と言う千両の試射場は現在、演習場になっていますが、訓練とは言え墳墓の地を踏み荒らして良いものなのか?
海上自衛隊は帝国海軍を同列に敬い、航空自衛隊は殉職パイロットの慰霊を恒常的に行っているため戦没者にも弔意を表す習慣がありますが、陸上自衛隊は旧軍戦没者の慰霊行事にあまり熱心ではない印象を持っています。
ましてや相手が海軍では、駐屯地としてもあまりやる気にならないのかも知れません。
  1. 2013/08/06(火) 09:58:25|
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8月6日・広島原爆の日

明日8月6日は広島原爆の日ですから、小庵でも慰霊法要を厳修します。
本当なら他の寺院のように平和の鐘を撞きたいのですが、鐘も金もありませんので仕方ありません。ただ法要には御詠歌の代わりにこの歌を謡っています。

死んだ少女
       原詞・ナジム・ヒクメット
扉を叩くのは私 貴方の胸に響くでしょう
小さな祈りが聞えるでしょう 私の姿は見えないの

8月6日の夏の朝 私は広島で死んだ
そのまま7つの女の子 いつまでたっても七つなの

私の髪に火がついて 目と手が焼けてしまったの
私は冷たい灰になり 風で遠くへ飛び散った

私は何にもいらないの 誰にも抱いてもらえないの
紙切れのように燃えた子は 美味しいお菓子も食べられぬ

扉を叩くのは私 みんなが笑ってくらせるよう
美味しいお菓子が食べられるよう それが私の祈りです。

野僧はかつて海上自衛隊の一般幹部候補生を受験し、2次試験が8月7日に呉基地であったため6日に制服姿で広島駅から呉線に乗りました。
すると車内は胸に「原水禁」「原水協」と言うゼッケンをつけた人たちだけで満員になり、たちまち周囲を取り囲まれ、終点の呉駅まで面接試験の前哨戦を受けることになりました。
批判的な立場の相手には発言の一つ一つが攻撃材料にされかねないので細心の注意を払いましたが、野僧が投げ掛けた「ソ連の原爆は許すのか?」と言う質問には相手が返事に詰まりました。そして「ソ連はまだ原爆を使っていない」「ソ連の原爆はアメリカにまた使わせないためのものだ」との回答に反核運動の欺瞞を見てとりました。
しかし、肝心の2次試験で失敗したのはこれで精根尽き果てたからかも知れません。
許せん!残念・・・。
銅(あかがね)の海・エノラゲイ
広島に原爆を投下したエノラゲイと搭乗員
  1. 2013/08/05(月) 10:21:13|
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8月5日・マリリン・モンローの遺体発見

1962年の明日8月5日にハリウッドの自宅でマリリン・モンローの全裸遺体が発見されました(死亡日時は不明)。
野僧よりも少し上の世代の小父さんたちにはマリリン・モンローとオードリー・ヘップバーンは別格のようで、色気のない単身赴任者の部屋にも酒屋や保険屋さんにもらった2人のポスターが貼られていました。
またウルトラマン、ウルトラセブンの両方に出演した毒蝮三太夫さんは、フジ隊員の桜井浩子さんとアンヌ隊員の菱見百合子さんについて、「クロワッサンの後に肉まん、オードリー・ヘップバーンの後にマリリン・モンローが出てきたようなものだ」と表現していますから、やはりプロの俳優さんの中でも別格なのでしょう。
マリリン・モンロー、本名・ノーマ・ジーン・モーテンセン(死亡時の姓はベイカー)の生年月日は1926年6月1日ですから日本で言えば大正15年生まれです。
髪はブロンドと思われていますが、実際にはブルネット(栗毛色)でした。またハリウッド俳優は長身なので小柄に見えますが、身長は166・4センチあり、体重は53・5キロと軽いものの、それでいて3サイズはバスト94センチ、ウェスト61センチ、ヒップ86センチのグラマーで、この比率はミロのビーナスと同じだと大ファンだった単身赴任の小父さんが強弁していました。だからと言ってサイズを憶えさせるな!
ただ、野僧の世代ですと「スクリーン」「ロードショー」などの映画雑誌でハリウッドだけでなくヨーロッパの外国女優も知ることができましたが、小父さんたちはグレース・ケリー(1929年生)やエリザベス・テーラー(32年生)、ブリジット・バルドー(34年生)、ソフィア・ローレン(34年生)などには目がいかなかったのでしょうか?ちなみにオードリー・ヘップバーンは1929年・昭和4年生まれです。
マリリン・モンローは読売新聞、巨人軍の招きで大打者・ジョー・ディマジオとの新婚旅行で来日しましたが、日本では主役のはずの夫よりも妻の方が注目を集め、しかも1人で占領軍の依頼で朝鮮戦争の前線慰問に出かけたため、早くも夫婦仲に亀裂が入ったと言われています。その後、ケネディ兄弟をはじめ、マフィアの大物などと浮名を流し(大統領の誕生日パーティーで「ハッピーバースデー」を唄う映像は有名です)、精神状態が不安定になって入退院を繰り返し、やがて死を迎えますが、当初は自殺と発表されたものの、それに合致しない状況が次々に暴露され、口封じのための暗殺と言う風聞は死の直後から流れていました。
マリリン・モンローの葬儀を指図したのは別れた夫のジョー・ディマジオで、ロサンゼルスのウェストウッド・メモリアルパークに埋葬された後も墓前には毎週欠かさず赤いバラが1本届けられ、ディマジオの死後も引き継がれているそうです。
また日本では東京世田谷区にある大吉寺の住職が「鞠利院不滅美色悶浪大姉(まりりいんふめつみしょくもんろうだいし)」と言う戒名をつけたそうです。 
  1. 2013/08/04(日) 00:24:09|
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航空自衛隊怪談集7・下甑分屯基地

下甑分屯基地は東シナ海に浮かぶ絶海の孤島です。
野僧が銃剣道の「虎の穴」合宿で行った時、幹部候補生の同期が赴任するのと一緒になったのですが、川内の港を出て海しか見えなくなると子供たちが怯えて母親について離れなくなり、それから4時間の船旅に疲れた奥さんが夫のクジ運の悪さをなじり始めた頃、島の断崖絶壁が見えてきました。
高速艇ならこの半分ですが、同期は引っ越しの荷物や車があったのでこうなったようです。
この分屯基地の住所は鹿児島県ですから鹿児島や熊本出身の若者が希望するのですが、いざ赴任してみると高速艇は1日1往復、帰りの便に乗り遅れることはできないため高校時代から続く彼女とのデートを早めに切り上げ、後は虚しく川内の街で時間をつぶすことになります。したがって希望で地元配置になったはずの連中が退職することが多かったです。
下甑島分屯基地は昭和28年に米軍のレーダーサイトとして開設され、昭和33年に空自へ移管されました。
レーダーサイトに勤務する米兵は知的レベルが高く、離島で住民の反発を買えば占領軍とは言え生活に支障が生じることは判っていますから厳正な規律を保持していたようで、他の基地のような地元女性へのレイプ事件などは聞いていません。
それでは心霊スポットなどなさそうですがこの島の、しかも海抜600メートルの分屯基地のすぐ傍に不気味な場所があったのです。
明治まで島津藩ではキリシタンと同様に門徒(浄土真宗)を禁教にしており、厳しい宗門改めが行われていました。それはこの島も例外ではなく、むしろ奄美諸島など離島の方が過酷を極め、島民は疑いをかけられれば生死の境まで拷問を加えられたそうです。
そんな隠れ門徒の礼拜場と言われる洞窟が分屯基地前の道路を脇にあり、夜中に数台の車が道路に駐車し、懐中電灯を持った人が洞窟への山道を下りて行くことがありました。
翌日、洞窟の中を覗いてみると奥の壁の前にロウソクを灯した痕があり、今でも隠れ門徒の信仰が根づいていることが後退りするほどの力で迫ってきました。
また下甑島のある村には口外禁止の祭りがあり、祭りの日には前夜から村へ続く全ての道に番人が立ち、新聞や郵便、宅配便もそこで受け取り、警察官の巡回も拒否し、まだ来たばかりだった宅配業者が「規則ですから困ります」と無理に入ろうとすると、たちまち棒や鎌を持った村人にトラックを取り囲まれ、そのドライバーは恐怖を感じて本土へ帰ってしまったそうです。
野僧は宗教者としてこの祭礼に興味を持ち、その村出身の隊員に訊いてみたのですが絶対に口を割らず、酔わせて訊き出そうとしても「殺されます」と首を振るので、「誰に?」と問うと「神様の祟りです」とだけ答えました。
断片情報から推測すると生贄を捧げる儀式もあるようですから、奄美・先島諸島で行われている明らかに南洋と共通する様式の祭礼(写真を見ればポリネシアの祭りかと思います)のようなものかも知れません。
  1. 2013/08/03(土) 08:57:25|
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航空自衛隊怪談集6・高尾山分屯基地

高尾山分屯基地は島根県八束郡美保関町の山の上にあるレーダーサイトです。ところが橋で渡れる海峡を隔てた対岸の美保基地は鳥取境港市で、ここにも西部航空警戒管制団隷下の部隊があり、書簡を送るのにどちらが島根県、どちらが鳥取県かで迷ったものです。大体、美保基地と言う名称が間違いの元です。
高尾山のレーダーサイトには心霊現象と言うよりも切実な怪奇事実がありました。
それは当時の第7警戒群基地業務隊(現在は第7警戒隊基地業務小隊)の各小隊長が順番に死んで逝くと言うものでした。
基地業務隊には施設小隊、補給小隊、管理小隊、業務小隊、会計小隊、衛生小隊があるのですが、年齢、出身地、学歴その他はバラバラの小隊長が一人、また一人と病気に倒れ、思いがけない交通事故や水難で死んで逝き、亡くなった小隊長の後任者は安心し、まだ亡くなっていない小隊に着任する小隊長は戦々恐々とする事態になりました。
やがて全小隊長が亡くなると「次は隊長の番だ」と公然と噂され、群司令からも毎日のように健康状態を訊かれるようになったそうです。
そこで基地業務隊長は「俺が止めてやる」と一念発起、八方手を尽して亡くなった小隊長たちの経歴や死因を分析しましたが関連性はなく、とうとう地元の有力者に霊験あらたかと言う山伏(修験者)を紹介されました。
隊長は藁をもすがる思いで分屯基地に招待し、ポケットマネーをはたいて祈祷してもらったのですが、すると山伏は「佛神が怒っておられる」と言って、厄払いではなく怒りを鎮める祈祷をして帰ったそうです。
その言葉を受けて隊長は隊舎内外の大捜索を開始し、分屯基地内の草刈まで率先して実施しましたが、佛神の怒りに触れるようなものは見つかりませんでした。
ところが施設隊の隊員が工事で床下に潜ったところ、とんでもない物を発見したのです。
それは多数の古い石佛たちで、誰かが床下に投げ入れ、忘れ去られていたのでしょう。
早速、隊長は石佛たちを床下から運び出し、水で綺麗に洗って、町の教育委員会に相談したそうです。
すると米軍がいた頃、帰国する時の土産に路傍や山中の石佛を盗む者が後を絶たず、米軍が撤収した後、分屯基地内を探して見たものの発見は出来なかったとのことでした。
こうして石佛たちは地元の寺に奉納され、盛大な法要を営んだことで「死の連鎖」は止まったそうです。ただし、諸経費は全て隊長の自腹だったとボヤいていました。
ところで隣りの美保基地は水木しげるさんの出身地ですが、妖怪は出ないのでしょうか?
イメージは夜の滑走路に妖怪勢揃いですが。
  1. 2013/08/02(金) 00:02:11|
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第10回月刊「宗教」講座・お盆について

真夏の猛暑のこの季節のことを、昔から「地獄の蓋が開く」と言っています。
こんな地獄の蓋も開くような季節だからこそ生きている者たちは祖先や無縁佛の供養を勤め、堕ちてしまった亡者を救おうとしてきたのかも知れません。
お盆は元来、太陰暦の7月15日にお盆を勤めていたのですが、明治になって太陽暦に改まった時、政府のお膝元の関東ではそのまま7月15日(新盆)、地方では季節感を大切にして1カ月遅れの8月15日(旧盆)に行うようになったのです。
しかし、改暦を推進した明治新政府に数多くの人間を送り込んでいた山口県でも8月15日になっているのは不思議です。
実は「廃佛棄釈」も山口県が言い出しっ屁なんですが(津和野藩の国学者・福羽美静が元凶)鹿児島の方が滅茶苦茶に吹き荒れました。
この新盆と旧盆の西の境界線は静岡県の浜松市で、市内でも地域ごとに別れ、佛具店のお盆セールも2週間ずつ2回やったり、2カ月のロングランになったりでした。
お盆には菩提寺のお坊さんが門徒、檀家の家々を回ってお勤めをしますが、これには宗門改めの目的もありました。
お坊さんは家に上り佛壇や家の中に切支丹(と言うよりも佛教・神道以外)の法具などがないかを確かめたのですが、やがて草鞋の紐を解いて家に上がり、お勤めをしてまた紐を結んで行くのは手間がかかるので、佛壇の中身を縁側に作った棚に並べるようになって、これが「棚経」の始まりです。
つまり宗門改めもかなりいい加減になっていたと言うことですが、現在は「年に一度、佛壇の中の風通し」と理由づけしています。
小庵では8月は6日の広島、9日の長崎の原爆、15日の敗戦と戦没者慰霊法要が続くため、東北地区太平洋沖大震災の年までは関東式の7月15日にお盆の法要を勤めていました。
ところが大震災の後、本州の西の端で49日間にわたって昼夜を分かたぬ読経と念佛を勤めていた小庵は西方浄土へ向かう魂魄の道標=集合場所、休憩所になったらしく、犠牲者には初盆だった佛歴2555年の8月には朝から晩までとても賑やかだったのです。
魂魄がいるとヒンヤリと言うよりもゾクゾクするように涼しくて助かるのですが、あれだけの魂数になると流石に騒がしく、仕方ないので念佛を唱えたところ急に静かになったものの暑くもなってかえって眠られませんでした。
つまりお盆は8月に勤めている地方の選択が正解のようです。
現在は夏の法要を「お盆」と一言で称していますが、本来は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と「施餓鬼法会(せがきほうえ)」の2つがあります。
このうち「盂蘭盆会」は釋尊の弟子で神通第1と言われた目連(モッガラーナ)尊者が持ち前の神通力で餓鬼道を見たところ、母親がそこに堕ちて苦しんでいることを知り、これを救おうと大勢の僧侶に供養して、その力で救い上げた説話に由来します。
このため現在では、盂蘭盆会を祖先供養の法要としています。
では何故、目連尊者の母親が餓鬼道に堕ちたのかと言うと、生前、母親は優秀な息子が自慢で、何でも「自分の息子を」と他者を押し退けていて、ついには「自分の息子に」と他人の物まで貪るようになっていたことが理由でした。
一方、「施餓鬼法会」は同じく釋尊の弟子で多聞第一と言われた阿難(アーナンダ)尊者がある日、焔口餓鬼から「お前の命はあと3日だ」と告げられ、「死んでからは俺のような姿になる」と言われたのです。
焔口餓鬼は口の中で火焔が燃え、喉は針のように細くのびた物凄い形相をしており、阿難尊者は怖れ慄き、釋尊から陀羅尼(だらに・一種の呪文)を習い、それを唱えながら無数の餓鬼に食物を施して、死をまぬがれたと言う物語に由来し、無縁佛への供養として勤められています。
余談ながら曹洞宗では「餓鬼」は差別用語にあたると、「施食(せじき)」と呼んでいますが、「餓鬼に施す」ことに意味があるのであって、「食を施す」だけなら法要ではなく炊き出しの方が良いでしょう。
では何故、阿難尊者は餓鬼にならなければならなかったのか?
阿難尊者は約25年もの長きにわたって釋尊の身の回りの世話をしてきて、教えを聞く機会が一番多かったため「多聞第1」とされたのですが、いつしか釋尊の教えを「わが物」とするようになり、そのことが餓鬼道に堕するべき悪業とされたのです。
「倶舎論(ぐしゃろん)」と言う佛典によれば、餓鬼には「無財餓鬼」「少財餓鬼」「多財餓鬼」の三種があるそうです。
無財餓鬼は何の財産も持たず真っ裸、何も食べられずいつも飢えていて、喉が渇いて吐く息が炎になっている。
少財餓鬼はボロを着て少しだけ食べられるが、いつも満たされないでいる。
多財餓鬼は素晴らしい屋敷に住み、上等の衣服を着て、御馳走を腹一杯食べる贅沢三昧の生活をしていて丸々肥えている。
では多財餓鬼が何故、餓鬼なのかと言うと、餓鬼とは自分が有しているモノで満足できない者のことで、どれ程の贅沢をして体が肥えていても、心に渇望の気持ちが湧いていればそれで餓鬼なのです。
野僧はかつて愛知県のある街中のコンビニエンス・ストアでアルバイトをしたことがありますが、そこはまさに餓鬼が集う場所でした。
かつての日本人はその日に食べる物がなく、何かを口にするため目をギラギラさせた無財餓鬼でした。それがボロを着て、何かを口にできるようなると「腹一杯食べたい」「心地よい物を着たい」と願う少財餓鬼になりました。
そして、腹一杯食べられるようになると今度は好きな物を食べたくなり、それが毎日になり、やがては「今すぐ」になって、年中無休24時間営業のコンビニエンス・ストアが繁盛することになったのです。
コンビニの深夜の仕事では弁当を買いにきている小父さんたちの隣りで子供を抱いてアイスクリームやケーキを買いにきた若い母親や、その日発売の雑誌の入荷を待って、缶コーヒー1本を買って座り読みする若者が集っていました。
子供だけでなく自分の菓子も買った若い母親に野僧はレジをしながら「少しは我慢をさせろ」と呟いてしまいましたが、現在では欲望をその場で叶えるサービスも商品であり、むしろそれを煽って需要を作るのが商法なのです。
山口県下ではコンビニエンス・ストアの出店を「子供が馬鹿になる」「不良が集まる」と言って反対した地域がありますが、近くにコンビニエンス・ストアがなければ、買い物に出る時は次回までに必要な物を考え、家族に依頼された物を思い出し、頭と気を遣わなければ生活が成り立たず、ある物で我慢することも忘れないでしょう。
それが多財餓鬼になるか人間に踏みとどまるかの境界線かも知れません。
                                        南無文殊師利菩薩
月刊「宗教」講座・餓鬼無財餓鬼くん
  1. 2013/08/01(木) 09:04:39|
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