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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月30日・王陽明が生まれた。

1472(成化8・中国の年号)年の明日9月30日(太陰暦)に陽明学の祖・王陽明が生まれました。
千四百年代後半の生まれと言うと日本では戦国大名の斎藤道三(1492年)や毛利元就(1497年)と同世代にあたります。なお、陽明は号で諱(いみな=生前は秘す正式な名)は守仁です。
王陽明の父は科挙に首席で合格した秀才で、陽明も幼い頃から儒学(特に朱子学)、佛教、書道、詩作などの学芸に励み、28歳の時に3度目の試験で合格して中央官僚となりました。ところが35歳の時、宦官・劉謹の独裁・専横を皇帝・武宗に告発したため、それに怒った劉謹によって貴州龍場駅の地方役人に左遷されてしまいます。
それでも陽明はめげずに地方で仕事が減った分、益々の学究生活を送り、ついには「龍場の大悟」と呼ばれる見解に至りました。
陽明は江戸時代の日本のように官学=御用学問だった朱子学を「読書のみによって理に到達することはできない」と批判し、「心即理=知行合一」を主張しました。
やがて劉謹が武宗によって失脚させられると中央に呼び戻され、続いて地方の高級官吏として赴任し、その頃、相次いでいた暴動の鎮圧にあたりました。
しかし、戦果を上げていることでかえって西や東と使い回され、帰還の命令を待ち切れずに独断で都へ戻る船の中で亡くなりました。1529(嘉靖7・中国の年号)年11月29日(太陰暦)のことです。
陽明学は「事物の理は自分の心に於いてなく、それ以外に事物の理を求めても事物の理はない」と説いているように実践の儒学と呼ばれ、「満街の人、すべて聖人」の言葉通り生れ育ちの血統によって固定された身分ではなく各人の行動の是非によって優劣を決める思想を伴うため、江戸時代には身分制度を否定する危険思想として排除されていました。
そんな禁令の中でも信奉者は多く、江戸時代前期に著された佐賀の「葉隠」の思想の根底にあるのは陽明学の行動原理であり、渡辺崋山先生、佐久間象山さん(松陰先生の師)、横井小楠さんを育てた佐藤一斉さんも、林述斉(鳥居耀蔵の父)から昌平坂学問所の塾頭に招へいされた時、「自分は陽明学を信奉している」と断りましたが、「それでも」と請われて就任するとテキストは朱子学でも講義の内容は陽明学だったそうです。
そして、その実践原理に突き進んだ双璧は大阪の洗心堂で教えを説いていた大塩平八郎さん、そして萩の松下村塾の吉田松陰先生でしょう。
ただ、思想を純化、深化させることしか能のない日本人の常で、陽明学も動機の純粋性ばかりが強調されるようになり、ある陽明学者は赤穂浪士が吉良邸への討ち入りに1年以上機会を待ったことを「打算的で不純である」と批判しています。つまり主君の仇を討つと決めたら即、実行であり、機会を待っている間に老人である吉良上野介さまが死ねば、目的が達せられなくなると言うのです。
この論理で太平洋戦争に於ける玉砕戦や特別攻撃隊が実行されたのですから、あまり賛同はできません。
  1. 2013/09/29(日) 12:03:57|
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9月26日・周布政之助が自刃

井上聞多が死線をさまよっていた1864(元治1)年の明日9月26日、幕末の毛利藩を主導した周布政之助さんが自刃しました。42歳でした。
政之介さんは219石取りの周布吉左衛門の5男として生まれましたが、父と長兄が相次いで死んだため兄の末期養子となり、生後6ケ月で周布家の当主となりました。ただし、禄高は3分の1以下の68石に減俸されています。
その後は順調に実力を養い次第に頭角を現していきますが、藩財政の立て直しに辣腕を振るっていた村田清風さんの下で働いたことで、理よりも実を取る現実主義を身につけ、防長2カ国や京・大阪の有力商人との交流で世情にも通じ、藩主・毛利敬親さんからも認められて藩内での地位を固めます。
政之介さんは人材の発掘、若手の育成にも力を尽し、特に吉田松陰先生を見出し、その門下生たちを抜擢して自由に活動させ、危機に際しては先手を打って保護したことで(過激な高杉晋作を野山獄に入れたりもした)現在でも不動の人気を獲得しています。おまけに酒癖の悪さ=酔っての暴言も魅力の一つにされているのは「どうかいのう(山口弁)」。
ただ当時の毛利藩内では過激な尊皇攘夷論や常識派である長井雅楽さんの航海遠略策、さらに幕府に盲従しようとする佐幕派などが入り乱れ、藩主・敬親さんは「そうせい公」の仇名の通りでしたから、政之介さんも微妙なバランス感覚を働かしていました。
このため第1次長州征討と言う未曾有の危機でパニック状態になっていた藩内では若手過激派からの人望を集めていたことで危険人物のレッテルを張られ、藩主・毛利敬親さんが武備恭順の方針を決めたことに全面謝罪・絶対服従を主張する佐幕派からは藩を危機に陥れる元凶とされたのです。
そうなると殺されるか、逃亡するしかないのが毛利藩ですが、政之介さんは自刃を選びました。昔の年末ドラマ「奇兵隊」で津川雅彦さんが演じた政之介さんは、俗論党の捕り方に囲まれる中、卒塔婆で首を突く壮絶な最期でしたが、実際には「もう、やーめた」と背負っていた重荷を放り投げるような気分だったのかも知れません。
明治以降、中央政府を牛耳った毛利藩士たちは「国事に邁進していた勤皇の志士たちが会津藩を後ろ盾にする新撰組が殺された」と討幕と会津藩を攻めた正当性を主張してきましたが、実際には藩内で同士討ちを繰り返した揚句、過激派が暴走して蛤御門の変で自爆し、その後も高杉晋作が功山寺決起で俗論党を壊滅させたりと身内で人材を抹殺してきたのです。
余談ながら山口県出身の岸信介首相に向かって同じく山口県出身の宮本顕治共産党委員長が「アメリカに媚びる自民党は維新の志士ではなく俗論党だ」と言ったことがあるそうです。
ところで戊辰戦争で新政府軍からの危機が迫った時に会津藩が下した判断も武備恭順ですから、本質的に戦闘集団である大名としてはこちらが常識的な判断だったのでしょう。
逆に言えば、江戸に向かう薩長土肥を何の抵抗もせずに領内を通過させた東海道・中山道沿いの親藩・枝胤・譜代の諸藩は最早、武士ではなかったのです。特に新居の関所を守る任を放棄して荷駄・人夫まで差し出した枝胤・吉田藩の松平氏は話になりません。
  1. 2013/09/25(水) 09:49:46|
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9月24日・袖解橋の変

1864(元治1)年の明日9月24日(太陰暦)、毛利藩士・井上聞多(もんた)が山口の袖解橋付近で攘夷過激派に襲われ、瀕死の重傷を負いました。
井上聞多は天保6年に毛利藩大組100石取りの井上五郎三郎光亨の二男として生まれましたが、井上家は志道家(大組250石取り)と同じく毛利元就以前から仕えている譜代の家臣ですから成り上がり者が多い幕末の志士たちの中では由緒正しい家柄の出身なのです。そもそもこの聞多と言う名前は藩主・毛利敬親から与えられた愛称です。
また聞多は藩校・明倫館の出身で、高杉晋作や久坂玄瑞たちとは異なり松下村塾では学んではいません。実は桂小五郎も同様なのですが、明倫館で松陰先生に師事しているため松陰神社では弟子に加えています。むしろ聞多は幕政に最先端、最高峰の西洋式科学技術、兵学をを取り入れていた江川太郎左衛門英龍の下で学んでいます。そのレベルは江川が開発した爆裂弾(それまでの砲弾は単なる鉄の玉だった)を見せられた出島のオランダ人は自国以上に進んだ構造に驚嘆し、「日本の植民地化は無理」と本国に報告したほどでした。
井上聞多は幕末に毛利藩が若手藩士をイギリスに密航・留学させた「長州ファイブ」の1人ですが、馬関海峡での西洋船砲撃のニュースを知り、伊藤俊輔(後の博文)と一緒に急遽帰国し、高杉晋作を全権とする講和交渉の通訳を勤めています。
イギリスで日本とは比較にならない科学技術の進歩や工業生産力の発展を実地に見聞してきた聞多は、藩内を吹き荒れていた尊皇攘夷の嵐を収めようと開国を前提とした武備恭順を説きますが、かえって佐幕恭順派である俗論党の椋梨藤太一派に狙われるようになり、前日から山口の政庁で行われた会議で敬親が武備恭順の方針を示したことを受けて、山口・湯田の屋敷への帰り道に撰鋒隊の児玉七十郎ほか数名に襲われたのです。
この時、聞多は京の芸妓・中尾君尾(桂小五郎の愛人としても有名)からもらった鏡を胸に入れていたため致命傷を免れましたものの、余りの苦痛に兄の井上五郎三郎に介錯を頼みましたが、母が聞多を抱き締めて兄を止め、その後も必死の看護で一命を取り留めました。この逸話は明治になって「母の力」と言う題名で教科書に載ったそうです。
それにしても理解できないのは第1次長州征討を受けて「幕府に対して武備を整えながら恭順しよう」と唱える井上聞多が、同じく恭順を主張する俗論党に暗殺されなければならなかったのかです。確かに俗論党の主張は全面謝罪、絶対恭順ですから武備を整えるのは幕府に反抗の意を示す背信行為=藩を危険に晒す暴論と映るかも知れませんが、徹底抗戦を叫んでいる訳でなく方向性は同じなのですから、藩の存亡危機に際して大同団結することはできないものでしょうか?尤も、似て非なる者を殊更に排除するのが山口県人であり、「白でなければならない」と言えば薄い灰色や水玉模様も「汚れている」と指弾され、気がつけば「真っ黒」にされているのが山口県の論法です。それは岸信介と宮本顕治、安倍晋三と菅直人が同時代に出た県であることでも判るでしょう。
ところで井上聞多が後の外務大臣で鹿鳴館を作った井上馨であることは御存知ですよね。
(9月26日の「日記(暦)」=前日掲載に続きます)
  1. 2013/09/23(月) 10:00:18|
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9月23日・お彼岸

明日23日は秋彼岸のお中日ですからワンポイントレッスンをさせていただきます。
お彼岸と言うのは日本独自の佛教行事で、正式の法要は806(大同1)年に崇道天皇(早良皇子)が全国の国分寺に布告して厳修したのが始まりです。
由来としては色々な説がありますが、太陽信仰が強い日本では、春と秋の真東から日が昇り真西に沈むこの日に特別なものを感じていて、それが西方浄土への信仰の浸透によって先祖供養と結びついたと言うのが一般的です。
では「彼岸」と言う呼称ですが、本来はお中日に先祖供養をする以外は前後3日間で六波羅蜜を1日ずつ修行する期間だっため、波羅蜜の意訳である「至彼岸(しひがん)」から取ったとされています。
六波羅蜜と言うのは般若経(摩訶般若波羅蜜多心経はその抽出エキス)で述べられている6つの行で「布施(坊主に払う法要の代金ではない)」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智恵」を言います。なお華厳経ではこれに「方便」「願」「力」「智」の4つを加え十波羅蜜です。
ちなみに大乗佛教の祖とされる龍樹菩薩は、六波羅蜜のうち「布施」と「持戒」は利他、「忍辱」と「精進」が自利、「禅定」と「智恵」を解脱の行としていますが、人間社会から度外れてしまい、彼岸に渡ってしまった野僧としてはやや異論があります。
何故なら利他、自利、解脱などと言う分類は、まだ此岸(この世)に足がついている者の見方に過ぎず、彼岸に至れば無意識、無分別に為すことが全て佛行になるのですから。
ただ野僧は彼岸の先祖供養にはあまり必然性を感じていません。本州に西の端にある小庵では、8月中旬のお盆の時期には西方浄土から故郷へ帰る魂魄たちで非常に賑やかになり、たまたま来庵した人が絶えず足音や話し声が聞こえるため、「誰かおられるのですか?」と訊ねるほどですが、お彼岸にはそんなことはありません。
強いて言えば春・秋彼岸の時期は、冬の寒さ、夏の暑さに耐えていた人が力尽きて(気が抜けて)亡くなることが多く、命日が集中していることでしょう。
ところで春と秋のお彼岸に食べる餡ころ餅ですが、春は「ぼた餅」、秋は「おはぎ」と言います。これはその季節に咲く花の名前で春は牡丹、秋は萩に由来します。ですからスーパなどで秋に「ぼた餅」と表示して売っているのは間違いです。
また「ぼた餅」は漉し餡、「おはぎ」は粒餡と分けている地方もあります。理由を訊ねたところ春の小豆は古くなっているので濾さないと美味しくないと言うことでした。
「ぼた餅」はご飯の中に餡を入れて黄な粉をかけ、「おはぎ」は餡子で包む地方もありますが、これは牡丹の華やかさ、萩の落ち着いた色をイメージしているそうです。さらに「ぼた餅」は粒を残し、「おはぎ」は餅状にすると言う地方。「ぼた餅」は大きく、「おはぎ」は小さくする地方など、全国各地のお彼岸に出掛けましたが中々面白いものがありました。
  1. 2013/09/22(日) 00:27:39|
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9月22日・ヒジュラ

ユリウス暦(西暦)622年の明日9月22日にムハンマド(マホメット)がメディナへ移住しました(7月16日と言う説もある)。これをもってイスラム暦の起源=ヒジュラされています。ヒジュラはヘジラとも発音しますが、アラビア語で移住と言う意味です。
アッラーの啓示を預かったムハンマドがメッカで伝え広め始めたイスラム教は、土着の宗教を信ずるクライシュ族の酷い迫害を受けました。このためムハンマドはメッカでの布教を断念し、キリスト教徒の国であったアクスムへの移住を決意したのです。
こうして信者たちを引き連れ砂漠を渡ってアビシニアやヤスリブへ移動したのですが、アクスムはこの異教徒を温かく受け入れ、後にクライシュ族からの引き渡し要求を拒否しています。このためかコーランにはイエス(イーサーと呼んでいる)を「創造主であるカミが人間の女に生ませる必要はない」とカミの子であることは否定しているものの預言者として認める啓示があります。
この時期には現代のキリスト教とイスラム教の血塗られた対立からは信じられないほど両者は協調していたのですが、コーランを愛読している野僧は対立の根本原因はキリスト教側にあると考えています。何故ならイスラム教は砂漠に生きる民が止むを得ずモーセの十戒を破ることを許して下さったアッラーを否定し、冒瀆されなければ他の宗教に対して寛容であり、逆にキリスト教側は十字軍の時代から聖地・エルサレムの奪還のため侵攻を繰り返し、帝国主義の時代には植民地支配の大義名分をキリスト教の流布としたため、必然的にイスラム教を否定することになり、このことでムスリムたちがアッラーと約束している戦いに駆り立てられたのです。そして両者は「目に目を、歯に歯を」で相互の処罰を繰り返し、拡大しながら現代に続いています。
日本人がイスラム教を好戦的で野蛮な宗教だと信じ込んでいるのはキリスト教国(戦後はアメリカ)を通じての海外の情報しか届かないからで、彼らと直接つき合うと日本の熱心な念佛者のような印象を受けます。
これは全く関係のない余談ですが、インド、パキスタン、バングラデシュには「ヒジュラー」と呼ばれる人たちが存在します。これは女装をし、女性として立ち振る舞ったまま一生を送るのですが、肉体的には男性(両性具有の場合もある)なのです。
最近では性転換手術を受ける人も多くなったそうですが、それが可能なのは一部の富裕層だけです。中国では「ヒジュラー」を清朝まで存在した宮廷の后や姫に手を出さないように男性器を切った(睾丸は摘出していない)「宦官(かんがん)」と同一視しているようですが、どうもそれとは違うようです。
幸いにして(残念ながら?)スリランカには存在しないため野僧は会ったことがありませんが、日本なら性同一性障害と診断されるのでしょうか。
  1. 2013/09/21(土) 10:25:26|
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9月19日・今東光の命日

1977年(昭和52)の明日9月19日に作家・今東光先生が亡くなり、天台座主・今春聴猊下が遷化されました(同一人物です。念のため)。
東光さんは1898(明治31)年3月26日に津軽藩士の家系で日本郵船の船長だった今武平さんと綾さんの長男として神戸で生まれました。 
父は国際航路の船長であったため不在がちで母に育てられたのですが、これが只者でなく、幼い頃から英語・漢文に親しみ、原書のシェークスピアを愛読し、平家物語を丸暗記するほどの才女でした。旧制中学に入った東光さんの文学志望を知ると洋書を手渡して読ませた上、訳させて間違いを指摘し、「この程度の洋書も読めない癖に文学志望なんて」と嘲笑ったと言います。後年、春聴さんは「ババアは実に夜叉、鬼神のごとき女子だった。コンチクショウのことはいまだに腹が立っている」と語っています。そんな訳で東光さんは芸者遊びなどの放蕩を始め、素行不良で関西学院中学部を諭旨退学処分になり、潜り込んだ県立豊岡中学も男女交際や教師への暴力で放校にされています。このため勘当扱いで東京の伯父宅へ転がり込んだのですが、ここで知り合った川端康成の一高(現在の東京大学)の寮に居候し、講義にも出るようになったのですが、このことを東光さんは「盗講」と呼んでいました。そんな東光さんは本当の一高生よりも成績優秀で、論文の代筆を叱責した教授に「天婦羅学生だ(制服だけ着ている偽学生)」と言っても信じてもらえなかったそうです。
この頃から感覚派文学の若き旗手として活躍を始めるのですが、人妻だった女優・草間文子を略奪して結婚した(当時は姦通罪があった)あたりから満帆の風が荒れてきました。
この妻は異常に独占欲が強く、東光さんが1人になることを許さず家では窒息状態、仕事でも若手作家の素行を扱った娯楽記事を巡って文壇の重鎮・菊地寛と揉め、作品を発表する場がなくなりました。そして友人であった芥川龍之介の自死(1927年)を受けて佛教へと傾倒していき、1930(昭和5)年10月1日に金龍山浅草寺伝法院の大森亮順大僧正の下で出家得度を受け、比叡山延暦寺へ修行に上がりました。
ところが4年間の修行を終えても天台宗からは寺院を紹介されず、日中戦争の激化もあって寺の手伝いをしながら暮らすことになりましたが、昭和26年になって大阪・河内の天台院と言う檀家十数件の小寺に入ることになりました。
問題の母は晩年になって春聴和尚の寺へやって来たのですが、檀家さんを集めての説法が終わると「できの悪いセガレの話をよくぞ聞いてくれました。門を出たら忘れてもらって結構です」と挨拶したそうで、この母が死んだ時、「糞ババアが死んだぞ、花火を上げろ」と叫んだそうです。
東光さんはここで作家として復活を果たすのですが、それは千利休さんの娘の悲恋を描いた「お吟さま」と言う作品だったので茶道をやっている頃に読みました。
その後は「悪名」などの河内の荒くれ者を主人公にした物語が多く、「喧嘩坊主」「エロ坊主」「生臭坊主」の名を冠せられました。
そんな折、週刊プレイボーイで「極道辻説法」と言う人生相談を始め、若者の心を掴んだのですが、野僧がこの雑誌を読み始めた頃には終わっていました。
その後は平泉・中尊寺の貫主や参議院議員を勤めますが、癌によってこの日に遷化されたのです。墓所は東京・上野の東叡山寛永寺です。
  1. 2013/09/18(水) 10:20:32|
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9月18日 アメリカで国防省が発足

1947年の明日9月18日にアメリカで国防省が発足しました。この色々な意味で巨大な役所を日本では「国防総省」と呼ぶことが多いのですが、これは省内に陸軍省、海軍省、空軍省と言う3軍の省が存在するためで(海兵隊は海軍省の管轄下)、英語では「United Ststes Department of Defense=DoD・合衆国国防省」ですから、ここでは直訳の名称を使用させていただきます。
この英語名は発足当初、国家軍政省(National Military Establishment)と言ったのですが、この略称・NMEの読み「エヌエムイー」が敵を意味する「enemy・エネミー」に聞こえるため、1949年8月10日に変更されたそうです。したがってこの日に発足したのは「NME」です。ところで書籍ではDepartmentとEstablishmentをどちらも「省」と訳していますが、複数の英和辞典を索いても明確な違いは説明されていません。
ちなみにアメリカには軍人(武官)が管轄している公的組織としては陸海空軍及び海兵隊の他にも沿岸警備隊、防疫や麻薬の取り締まりを担当する公衆衛生局オフィサー部隊、日本の気象庁と環境省の仕事を合わせたような合衆国海洋大気局オフィサー部隊などがあります。日本の感覚では理解できないかも知れませんが、防疫や麻薬、大気汚染は生物化学兵器に関連し、気象情報は軍の行動に直接影響するので、どちらも国家安全保障上の重大事なのです。かつての旧ソ連や中国などでは天気予報が軍事秘密になっていました。
アメリカの国防省と言えば「ペンタゴン」の別称の方が聞きなれていますが(アメリカ空軍軍人だった彼女の両親もこちらで呼んでいました)、これは建物の形が五角形であるためニックネームです。
ペンタゴンの所在地は意外にもワシントンDCではなく、ポトマック川対岸のバージニア州アーリントンです。ここにあった旧陸軍省の敷地に1941年9月11日から1943年1月15日まで1年半かけて陸軍工兵隊が建設したのですが、地上5階、地下2階、面積としては2・359平方キロの建物の規模から見れば、かなりの突貫工事であったようで、改修工事などでダンプカーなどが埋設されているのが見つかることがあるようです。おまけに戦時中の資材不足で鉄筋が思うように調達できず外壁は石積みで、コンクリートに混ぜる砂利はポトマック川の川底を浚渫して集めたため、日本式の耐震検査では使用禁止かも知れません。
ペンタゴンの一辺は282メートルもあるので迷子になる人も珍しくなく、ドワイト・アイゼンハワーさんも陸軍参謀長に就任した直後、ペンタゴン内の会食から戻るのに迷子になったそうです。副官も付いているはずですから2人して迷ったのでしょうか?
ところが「ペンタゴン内は端から端まで10分で行ける」と彼女の母親(空軍少佐)は言っていましたが、どのような構造になっているのかは教えてくれませんでした。
おまけに言いますと中央情報局(CIA=Central Inteligence Agency)もこの日に発足しました。しかし、Agencyは「庁」と訳すのが通例ですが、こちらは何故か「局」になっています。
その中央情報局の所在地もワシントンDCではなくバージニア州のマクレーンです。
中央情報局長官も軍人が多いのですが、大統領の直轄組織のため軍人(武官)が管轄する公的組織には入っていません。   
ところでアメリカ軍の士官は予備役と現役を行ったり来たりますから「元」と付いていても退役したとは限りません(昇任に3回失敗すると予備役編入になる)。日本のマスコミや著述者は軍事に関する知識・意識・認識・常識が乏しいので気をつけましょう。
  1. 2013/09/17(火) 11:15:15|
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9月17日・若山牧水の命日

1928(昭和3)年の明日9月17日は歌人・若山牧水さんの命日です。
牧水さんは1885(明治18)年8月24日に現在の宮崎県日向市の医者の長男として生まれましたが、旧制中学から短歌や俳句に親しみ、18歳の時に牧水と言う号を名乗るようになりました。
余談ながら野僧は高校生の時、文学・芸術を理解しない父親に見つかると怒られるため、「藍植生(あいうえお)」と言う筆名(ペンネーム)で小説を書き、「田地勤人(たちつてと)」で詩や短歌を雑誌に投稿していました。
牧水さんは早稲田大学文学部に進みますが、ここで歌人として頭角を表して、明治44年に雑誌「創作」を創刊しますが、翌1912(明治45)年には友人であった石川啄木くんの死に立ち合い、「午前九時 やや晴れそむる 初夏の 曇れる朝に 眼を瞑ぢにけり」と言う歌を詠んでいます。
牧水さんと言えば旅と酒ですが、啄木を看取ったその年(明治45年は7月30日までしかない)に女流歌人の喜志子さんと結婚して翌年に長男が生まれますが、「旅人(たびと)」と名づけています。
野僧は小学生の頃から牧水さんの「幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終(は)てなむ国ぞ 今日もたびゆく」と言う歌が好きで、「実家からなるべく遠く」と片道1時間強の高校に入学すると、山から海辺へ出ていく遠距離通学で小旅行の気分を満喫していました。
牧水さんは全国を旅したので各地に歌碑が残っていますが、山口県では県庁のそばの瑠璃光寺に「はつ夏の 山のなかなる ふる寺の 古塔のもとに 立てる旅人」があります。
もう一つの酒ですが、「白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけれ」と言う歌は、酒好きなら一度は口にしながら盃を傾けたことがあるのではないでしょうか。ただ酒を飲めない未成年者には「歯にしみとおる」の意味が理解できず、「虫歯に染みる」と誤解するかも知れません。
これは告白ですが野僧は高校時代、この歌の本当の意味を味わいたくて深夜に受験勉強を終えて布団に入る前、台所から親が正月に飲み残した酒を持ち出して、こっそり飲むようになっていました(宇宙戦艦ヤマトの佐渡酒造先生の真似も少々)。
牧水さんは毎晩1升くらい飲んでいたそうで、そのため朝鮮へ2カ月の長期旅行に行った途中で体調を崩して帰国し、そのまま肝硬変で亡くなったのです(療養中も飲んでいたそうです)。しかし、真夏だったにも関わらず時間が経過しても腐敗臭が発生することがなく、医師は「生きたままアルコール漬けになったのでは」と呆れたそうです。
なお雑誌「創作」は牧水さんの死後も妻・喜志子さん、そして同じく歌人になった長男・旅人さんに引き継がれました。
牧水さんは静岡県沼津市の風景、特に千本松原が気に入り、1920(大正9)年に家族揃って移住しますが、1926(大正15)年には県が画策した伐採計画に反対し、頓挫させています。このことに因んだのか戒名は「古松院仙誉牧水居士」です。
  1. 2013/09/16(月) 09:02:52|
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9月15日・第1次世界大戦に戦車が初登場

1916年の明日9月15日に第1次世界大戦の雌雄を決したと言われるソンムの戦いでイギリス軍が初めて戦車を投入しました。ソンムはフランス北部の地名で、この付近で1916年7月1日から11月19日までドイツ軍とフランス軍、続いてイギリス・オランダ連合軍との間で熾烈な戦闘が繰り広げられたのです。
第1次世界大戦は1914年から1918年までの4年間行われ、終戦後には「これを最後の世界規模の戦争にする」と言う願いもあって「世界大戦争(WorldWar)」などと呼ばれていました。日本の学校で習う近代史は太平洋戦争に偏っているため第1次世界大戦は通過するだけですが、この大戦はヨーロッパの列強が世界各地に有していた植民地でも争われたため、まさに世界大戦争だったのです。
日本も陸軍はドイツが中国の青島(チンタオ)に有していた租借地を攻撃しましたが、相変わらずの突撃戦法で戦果に比して多大の犠牲者を出しました。また海軍は海上交通路の安全確保のため艦隊を地中海に派遣しています。
この戦争で初めて飛行機や毒ガス、そして戦車が使用されたのですが、この戦車は攻撃用の武器と言うよりも当時のドイツが多用した塹壕戦に対処するために開発された道具で、溝状に掘られた塹壕の上に乗り上げて、側面に付けられた機銃によって壕内の歩兵を射撃し、友軍の歩兵が橋のように上を通って陣地に突入するのが主な使用方法でした。
その後、第2次世界大戦に向けて戦車は飛躍的に発達し、ドイツ軍では「砂漠の狐」のエロウィン・ロンメル元帥、アメリカ軍なら「大戦車軍団」のジョージ・S・パットン大将、そしてイギリス軍でもバーナード・モントゴメリー元帥などの将帥も輩出しましたが、日本の戦車は殆んど進歩せず、機銃弾も貫通する薄っぺらの装甲、命中しても跳ね返される貧弱な主砲、馬力不足で低速度の上、悪路は進めないような情けない代物で第2次世界大戦を迎えてしまいました。その前にソ連軍の戦車部隊とノモンハンで戦火を交えていたのですが、敗戦をひた隠しにするばかりで何の教訓も学ばなかったようです。
戦車戦術について言えばドイツ軍と旧ソ連軍が双璧ですが、それは「縦深突破(じゅうしんとっぱ)戦術」と呼ばれています。
敵の前線を突破した戦車部隊は脇目を振らずに進撃し、敵の支配地域の奥深くまで楔を打ち込み、後から歩兵が残敵を掃討しながら占領していくのですが、この戦術の前提になっているのは戦場が広大な平地であることです。
これが日本のような山がちの国土では戦車部隊は縦列にならざるを得ず、細い山道を長く並んでいては側面からの攻撃に晒されることになります。また日本の場合、河川の堤防が整備されているため、平地に出ても横一線の隊形を維持できず、広野を耕すように侵攻することはできません。これは陸上自衛隊の戦車部隊にも言えることで、こちらは戦車と言うよりも自走対戦車砲と位置付けるべきかも知れません。
一方、現代戦における戦車の地位は、対戦車ヘリコプターや携帯式対戦車ミサイルの発達により大幅に低下したと言われています。「対戦車ヘリコプター1機と戦車1両の価格や攻撃可能な戦車の数を比較すれば、戦車を購入する予算で対戦車ヘリコプターを揃えた方が安価だ」などと言う机上の計算もありますが果たしてそうでしょうか。
  1. 2013/09/14(土) 09:24:44|
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9月13日・棟方志功の命日=沢潟(おもだか)忌

1975(昭和50)年の明日9月13日は版画家(絵画も描いています)・棟方志功さんの命日です。志功さんは一般的には「版画家」と呼ばれていますが、御本人は自分の作品を「板画」と言っていました。
青森県の刀鍛冶・棟方幸吉さんとさださんの3男として生まれましたが、常に大量の煤が充満している薄暗い家で育ったため、幼い頃から目を患って強度の近視になり、板に顔を擦りつけるようにして彫刻刀を進める創作風景は志功さんの代名詞になりました。
ちなみに志功さんは創作時、軍艦マーチを口ずさむのが癖だったそうですが、写真は当然のことながら映像でも歌声は入っていません。
それを重ね合わせるとあの壮絶な創作風景も違った味わいが出てきませんか?
もう一つ、志功さんの代名詞と言えば小学生の頃、ヴァン・ゴッホの画集を見て感銘を受けて「わだばゴッホになる」と言った名セリフです。津軽弁で「わ」は「私」のことなので、小学生が「私はゴッホになる」と宣言したのです。それを貫き通し、ある意味それ以上の芸術家になったのですからもの凄いことです。
志功さんも御他聞に洩れず作品が売れない時期が続きましたが、柳田国夫先生による民俗復興運動の高まりに東北の魂そのもののような作風が合致して注目されるようになり、1956年にヴェネチア・ビエンナーレで「湧然する女者達々」が国際版画大賞を受賞して評価を不動のものにしました。そして1970年には文化勲章を受けました。
野僧は志功さんの作品を見ると浄土信仰の美を感じます。力強く、粗削りながら、木目の形状まで取り入れた黒と白のコントラストが、これ以上も以下もないギリギリの緊張感に満ちていて、念佛の一筋の光に導かれている歓喜の叫びのような究極の美を放っています。
ただ野僧が勤務した頃の浜松の部隊には、志功さんが描く美人画に瓜二つの女性自衛官がいて、実物となると少し遠慮したくなりました。
青森県職員の友人によると、棟方志功さんと津軽三味線の高橋竹山さん、そしてブルースの女王・淡谷のり子さんが3傑だそうで、太宰治さんや寺山修司さんは入っていません(理由は不明)。
古志庵・棟方志巧・胡須母寿花頌
貴方の好みですか?
  1. 2013/09/12(木) 09:50:10|
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9月1日・サハリン大韓航空機撃墜事件3

ソ連は大韓航空機撃墜の事実を認めませんでした。それに対して日本政府は自衛隊が持っている情報を証拠として提出する用意があるとの声明を発表しました。
それを受けたソ連軍は脅迫とも言うべき示威行動に出て、連日のように爆撃機の大編隊を日本海から東シナ海を通過させてベトナムまで飛ばし、また、日本海側の航空自衛隊のレーダーサイトへ向かって急接近してミサイル発射態勢をとる訓練を繰り返しましたが、それは「証拠を出せば引き金を引くぞ」と脅しているかのようでした。
全国の航空自衛隊の戦闘機部隊は緊急発進を繰り返してこれに対処していたのですが、パイロットたちは「ソ連機が射ったら即座に射つ」「可能ならばミサイルを自分の機体に当てる」と言う緊張と覚悟に「これは実戦だ」と身体が震えたと言っていました。
また、レーダーサイトの隊員たちも、接近するソ連機をレーダーで監視しながら「もし射ってきたら」と言う緊張と、「そんなことが起きるわけがない」とそれを打ち消す常識と、「でも奴らは民間機を撃墜した」との一抹の不安で、まさに「さァ、殺るなら殺れ」と言う気分だったそうです。
沖縄の我々は東シナ海を通過するソ連機に対処するために緊急発進増強態勢を維持していました。
Fー104J戦闘機は航続距離が短いため、九州南部の空域から台湾付近の空域までソ連機を監視しながら飛行するには再度の緊急発進が必要な場合もあり、大編隊であればさらに多くの緊急発進機を必要とします。このため1週間以上も深夜に及ぶ急速整備を継続しながら警備勤務もあって我々整備員にも流石に疲労の色が濃くなってきました。
ある武器小隊の整備員は整備中に貧血を起こして点検整備中のバルカン砲のチェーン部に手を突っ込んで指を切断すると言う作業事故を起こしました。
また整備作業中に頭を打つ、切り傷を負うなどの軽い負傷も頻発して、このため部隊は安全管理を徹底すると共に整備作業の精度を維持すため品質検査を強化して整備作業にはさらに時間を要するようになりましたが、事実上の実戦と言う緊張感に弱音、不平を吐く者はありませんでした。
やがて日本政府から迎撃したソ連軍戦闘機と地上指揮所との機体の確認から撃墜を命じ、撃墜を報告するまでの交信記録が公表され、ソ連もようやくこれを認めました。
私たちは証拠を提示するために記者会見する後藤田正晴官房長官の姿を特別な感慨を持って見ていました。こうして私たちの大韓航空機事件は終わりました。
数週間後の航空自衛隊総合演習は「航空燃料が足らなくなったので中止」と言う希望的な噂もありましたが結局予定通りに行われ、私たちはまた2週間の寝不足になりました。
  1. 2013/09/02(月) 08:46:17|
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第11回月刊「宗教」講座・9月のアレコレ

太陰暦の9月3日は盤珪永琢和尚の命日です。
盤珪和尚は江戸初期の傑僧で「不生禅(ふしょうぜん)」を提唱しました。
常識に縛られた方たちには「不生=生きないこと」が全ての根本解決になると言うことが理解できないようで、「難解だ」「不可能だ」などと否定しますが、死ぬことばかりを仕習ってきた野僧には生命活動に留まらず、自己の存在を主張することを含む「生きること」が苦悩の原因であり、それを止めれば苦悩を生じないことは当り前に得心できます。
「修羅にしかえず、餓鬼にしかえず、畜生にしかえず、おのずから佛心で居ようよりは外に、しよう事がござらぬわいの(修羅になる訳にいかず、餓鬼になる訳にいかず、畜生になる訳にいかず、自ずから佛心で居るより外に、どうしようもないですな)」
「おこる念に少しも貪着せずして、起こるまま、止むままに被成候わば、自然に本心に叶い申候(沸き起こる念へ執着を捨てて、動くまま止まるままにしていれば、自然に本当の心に叶います)」つまり欲望による生命活動を「生きる」こととするならば、それを止めれば佛心でいるしかないのです。
盤珪和尚はこれからの季節にピッタリくるこんな言葉も遺しています。
「夏の頃しも恋しき風も 秋の果てぬに早にくむ」
禅を学問として勉強している人は、この手の法語を紹介すると「言葉の奥にある深い意味を味わえ」などと言いますが、意外に本人は感じたそのままを口にしたに過ぎず、しみじみとした「同じ風なのになァ」くらいの感慨だったのかも知れません。
盤珪和尚は元禄6(1693)年に遷化されましたが、弟子たちから「何か仰せおかれることは」と問われ、「身ども一生、云置く事のない事ばかり、人々に云い聞かせた」と答えたそうです。野僧のこの講座もそんなものでしょう。
さらに1997年の9月5日は福者・テレサ(本名 アグネス・ゴンジャ・ボヤジェ。生前はマザー)の命日です。
小庵の壁には福者・テレサの言葉が墨書して貼ってあります。
「愛の反対語は憎しみ? それは違う 愛の反対語は無関心なんです」 
「愛したいと願うなら ゆるしあわねばならない」
「私は決して助けた人を数えたりしません。ただ一人 ひとり そしてまた一人」
「カミを愛する喜びをいつも心に保っていなさい。そしてこの喜びを貴方が出会う全
ての人々、なかんずく家族の方と分かち合いなさい」
「Keep the joy of loving God in your heart and share this joy with all you meet especially your family.」
野僧でも心に染みますが、プロテスタントの牧師たちは「マザー・テレサの慈善活動はカトリックの教えを広めるための手段に過ぎない」と言っています。
エエことをやっても素直にそれが認められないとは本当に難しい宗教です。
以前、オリビア・ハッセイさんがマザー・テレサを演じていた映画がありましたが、若い頃には「ロミオとジュリエット」のジュリエット役で多くの若者を虜にした彼女のマザーは非常に可愛いらしく、「御本人もあのような魅力的な方だったのだろう」と思ってしまいました。
マザーはノーベル平和賞受賞式の挨拶でこの言葉を引用して祈りを捧げています。
「あなたの平和をもたらす道具として、私をお使い下さい。憎しみのあるところには愛を。不当な扱いのあるところにはゆるしを。分裂のあるところには一致を。(聖フランチェスコの「平和の祈り」)」アーメン
おわりに9月22日はイスラム教の祝日=ムハンマドがメディナへ移住したヒジュラで、この622年がイスラム暦の紀元になります。
最近、思うのですが平成も25年になると昭和の出来事が何年前だったのかを計算するのが面倒臭くなり、政府の指導で頑なに元号を用いている役所も昭和生まれ人の年齢を確認するのに不便ではないでしょうか。
佛教者の野僧としては、西暦はイエスの生まれた年を紀元とするキリスト教暦なので、基本的に佛暦を用いていますが(西暦+544年)、日本と南方佛教では違いがあり海外へ出す手紙では先方の方式を確認して計算しなければなりません。
一方、神道では「皇紀」と言う神武天皇の即位を紀元とする暦があります。
昭和15年が紀元2600年でしたが、惜しむらくはその頃の日本が大陸での泥沼の戦争にのめり込みつつあり、神道の宗教儀式と言うよりも愛国心を発揚する軍国主義の行事になってしまい、その反動で戦後は日本神話の否定と共に皇紀は顧みられなくなってしまいました。
昭和15年は西暦1940年です。果たして今年は皇紀何年でしょう?
 
紀元二千六百年

1、金鵄(きんし)輝く 日本の 栄えある光 身に受けて 今こそ祝うこの朝(あした) 
  紀元は二千六百年 ああ一億の胸は鳴る  

2、歓喜あふるる この土を しっかと我ら 踏みしめて 遥かに仰ぐ 大御言(おおみこと) 
  紀元は二千六百年 ああ肇国(ちょうこく)の雲青し    

3、荒ぶ世界に ただ一つ 揺るがぬ御代に 生い立ちし 感謝は清き 火と燃えて 
  紀元は二千六百年 ああ報国の血は勇む

4、潮ゆたけに 海原に 桜と富士の 影織りて 世紀の文化 また新た 
  紀元は二千六百年 ああ燦爛(さんらん)のこの国威

5、正義りんたる 旗の下(もと) 明朗アジア うち立てん 力と意気を 示せ今 
  紀元は二千六百年 ああ弥栄(いやさか)の日は上る

かつての日本人は大ハシャギでこんな歌を合唱していましたが、2500年続いていたスリランカのシンハラ王朝もイギリスによって廃位させられたのですから、日本の皇室も「荒ぶ世界」に呑まれてしまわないとは言い切れないでしょう。
佛教者の野僧にはどうでも良いことですが。
                                       南無文殊師利菩薩
OliviaHussey (4)
可愛らしいオリビア・ハッセイさんのマザー・テレサ
  1. 2013/09/01(日) 10:26:17|
  2. 月刊「宗教」講座
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9月1日・サハリン大韓航空機撃墜事件2

「大韓航空機はソ連が撃墜したようだぞ」交代で喫食に行ってきた先輩がショップに帰ってきて第一報を伝えました。これは隊員食堂で一緒になった南西航空警戒管制隊の隊員からの情報らしい。
日本の防空識別圏を絶え間なく監視している警戒管制部隊は全国レベルの情報網を持っており、我々戦闘航空部隊以上に情報は早い。
私は後に兵器管制課程に入校した際、稚内のレーダーサイトでこの事件をレーダーですべて見ていた隊員と一緒になりました。
彼は大韓航空機が本来の航空路を外れたところから、ソ連の戦闘機が迎撃に上がり、やがて戦闘機が撃墜態勢に入り、大韓航空機の航跡が消えたところまでを目撃していたと生々しく語ってくれました。
領空外を飛行する民間航空機には何の権限もない自衛隊は、この事件も黙って見ているしかなく、「コースを外れていると呼びかけたかった」「スクランブル機を上げて守ってやりたかった」と言う体験談はみな沈黙し、「まさか旅客機を撃墜するとは思わなかった」との沈痛な言葉に仮想的国・ソ連への敵愾心を奮い立たせたものでした。
米空軍の動きは早く、翌日には嘉手納基地のFー15戦闘機部隊が青森の三沢基地へ展開しました。
航空自衛隊南西航空混成団では米軍のF―15戦闘機が多数抜けた沖縄周辺空域の防空能力の低下を補完するため、通常のスクランブル待機の戦闘機に、追加で戦闘機を待機させる緊急発進増強態勢をとると共に、急速整備を実施して定期点検検査中の戦闘機を全機可動状態にしました。
それと同時に基地の警備態勢を強化し、特に弾薬、ミサイルを搭載した戦闘機を並べたエプロン地区では弾薬の取り扱い、非常時の対処要領の教育を受けた空曹(下士官)の隊員が小銃と実弾を持って勤務につきました。
その夜、私はランウェイ(滑走路)側のポストに配置されました。海から上陸してランウェイを越えての侵入者を警戒、阻止するのが任務でした。
数日来、急速整備で夜遅くまでの整備作業が続いているところでの徹夜の警備勤務は、はっきり言って辛い。私は、まだ消灯前の時間でしたが睡魔に襲われ、眠気覚ましにポスト周辺のエプロンをうろうろ歩き回りました。
飛行隊の隊員たちはショップに泊まりこんでソファーや組み立て式のベッドで仮眠しながらいつ発令されるかわからない緊急発進に備えているはずです。しかし、今はエプロンに人影はなく、ミサイルを搭載して並べられたFー104J戦闘機のシルエットが不気味に静かに見える。整備格納庫は灯りがついているが空っぽでした。
その時、夜間飛行のボーイング747が一機着陸し、目の前をタクシングしてきました。
窓からは明りが漏れていて、搭乗している旅客のシルエットが見える。どうやら満席のようでした。
「あの人たちは今、日本の周辺空域で何が起こっているかも知らないで旅行を楽しんでいるのだろうな」「ここにミサイルまで積んだ戦闘機が並んでいることも、実弾を持った隊員が立っているのも知らないんだな」とそんなことを考えながら見送りました。
「そう言えば撃墜された大韓航空機もボーイング747だったな」そう思うと戦闘態勢にある自分たちが目の前の風景が別の世界の住人のように思えました。
  1. 2013/09/01(日) 10:02:12|
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