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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月29日・酒田の大火

1976(昭和51)年の明日10月29日に山形県酒田市で大火が発生し、主に商店街の約1200戸、面積22万5000平方メートルが焼失しました。
野僧は山形県に血縁があり何度か酒田市も訪れましたから現地で詳しい説明を受けましたが、この火災は17時40分頃、酒田市中町にあった映画館「グリーンハウス」の棒イラー室から出火し、夕方の映画を楽しんでいた観客20名はただちに避難したものの折からの風速10メートルを超える西寄りの強風で隣接する木造の建物に燃え広がりました。この風のため市内各所で飛び火や火の粉による類焼が相次ぎ、路地が狭く消防車が接近できない、消火栓から十分な量の水が出なかったなどで瞬く間に火は燃え広がり、翌日の午前3時頃には市街地を分けるように流れる新井田川にまで達しましたが、対岸からの大量放水と風向きが変わったこと、さらに降り出した雨によって午前5時頃に鎮火したそうです。
この大火の被災者は3300名に上りましたが、死者は火事の急報を受けて通りがかった車で現場に駆けつけ、出火元の映画館内を確認していた酒田地区消防組合の消防長の1名だけでした。
山形県・酒田市の対応は早く、鎮火した翌日の31日の早朝には酒田市役所で山形県庄内支庁建設部と酒田市都市計画課、さらに建設省による「火災復興都市計画」の策定作業が始まり、その翌日の11月1日には「防災都市づくりの計画概要」が決定しました。
これは「将来の交通量に対応した幹線道路の整備」「近代的な魅力ある商店街の形成」「住宅地の生活環境の改善整備」「商店街と住宅街の有機的な結びつけ」を骨子とする「防災都市の建設」を目指すもので、酒田市は明治27(1894)年10月22日に発生した庄内地震の火災で大きな被害を被ったものの(この時も西風が吹いていた)、太平洋戦争では終戦の5日前の8月10日に艦載機による空襲を受け死者・行方不明者30名を出しただけで、震災復興時の狭い道路と木造家屋が建ち並んでいた古びた地方都市を抜本的に再構築しようと言う意欲的な計画で、陸上自衛隊が災害派遣として瓦礫などの撤去を実施するなどの官民挙げての積極的な取り組みもあり、2年半後には復興式典が開催されました。
庄内地方では江戸時代から城下町の鶴岡市が中心とされ、酒田市は北前船の寄港地としての商業・産業の中心地ではあっても格下と見られていましたが、これでスッキリとした魅力的な街になりました。
しかし、ついでに「住宅地の生活環境の整備」として下水道の整備などを盛り込めば民主党政権では、今回の東北地区太平洋沖大震災の復興の遅れを見るまでもなく「官僚利権の便乗計画」などと揶揄され、完全には実現しなかったでしょう。実際の酒田市内は道路網が広く整備されているものの市街地には平屋が多く、予算確保に便乗して建設したような形跡はうかがえませんでしたが。
余談ながら翌々年の1978年8月3日にはフェーン現象の酒田市で気温40・1度が記録されています。
  1. 2013/10/28(月) 00:17:29|
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10月28日・濃尾地震が起きた。

1891(明治24)年の明日10月28日午前6時38分に岐阜県本巣市を震源とする濃尾地震が発生しました。
当時は近代的な測定器材が地方にまで行き届いておらず、正確な震度やマグニチュードは判りませんが、被害の規模から震度は7以上、マグニチュードは8・4程度ではないかと推測されています。
野僧が児童・生徒・学生の頃には阪神大震災や中越地震、東北地区太平洋沖大震災など一連の大規模地震が起きておらず、大地震と言えば関東大震災と濃尾地震でした。
特に愛知県と言うこともあり濃尾地震については詳しく習いましたが、この震源地付近では745年の天平地震、1586年の天正地震も起きています。
しかし、この間隔を見ても「何年に1回」「もうすぐ起きる」などと言う周期は予測できず、あれほど大々的に危機を煽り、対策に多額の予算をつぎ込んだ東海地震は何だったのか?やはり世間の注目を集め、研究費を獲得しようと言う地震学会と文部省(当時)の官僚などの画策だった疑いが払拭できません。今も東北地区太平洋沖大震災の余韻を利用して太平洋岸で不安を煽っていますが、その前に全国各地で生起した多くの大地震が予測できなかった原因と責任を明らかにするべきでしょう(野僧は宗教者として今上さんの責任だと思っていますが)。
濃尾地震と言えば根尾谷断層帯が有名ですが、大学での地学の講義ノートによれば、正確には岐阜と福井の県境付近から南南東方向へ愛知県に至る大断層で、最も高低差がある根尾谷付近では7・6メートルに及ぶようです。
被害としては人口が少なく、市街地が小さかったこともあり、死者は7273人、負傷者は1万7175人で、倒壊家屋は全壊14万2177軒、半壊8万324軒でした。
ただ震源地付近では山肌が崩れて木が抜け落ち、はげ山になった地域もあり、岐阜市内では火災が発生したため、記者の本社への第1報は「ギフナクナル」だったそうです。
  1. 2013/10/27(日) 12:18:04|
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10月24日・世界恐慌が始まる。

1926年の明日10月24日、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し、世界恐慌が始まりました。
この頃のアメリカは、第1次世界大戦で国土が戦場となったため農業・工業・商業が大打撃を受けたイギリスを除くヨーロッパ各国に、戦争中の兵器生産で急激に発達した重工業製品や機械化によって生産量が大幅に伸びた農業産品などの輸出による資本の蓄積が進んでいました。また国内では戦争からの帰還兵によって消費が増大し、同時に労働者も確保できたことで全ての産業が活況を呈していたのです。
この余剰の資本が投機に向けられるのはアメリカ経済の悪癖で株価は高騰を続け、借金をしてでも株を買えば利益が出ると言う実態のない投機により、経済は架空の膨張を続け、アメリカは「永遠の繁栄」と呼ばれる悪酒に泥酔することになりました。
ところが1918年の終戦後、次第にヨーロッパの都市の再建が進み、産業の復興が本格化すると農業産品、工業製品が供給過剰になり、作っても売れないデフレ状態に陥ったのです。
それでも投機を目的とする資本の証券市場への流入は止まらず、ダウ平均株価は1924年からの5年間で5倍になり、9月3日には381ドル17セントの過去最高額をつけたのですが、次第に調整局面に入り、1ヶ月間で17パーセント下げたものの次の1週間で8パーセント戻し、次の1週間で戻った分が下がる状況の中、ついにこの日を迎えました。
午前の取引からゼネラル・モータスの株価が80セント下落したの皮きりに株価の大暴落が始まり、この日は木曜日だったので「Black Thursday(暗黒の木曜日)」と呼ばれました。
当然、投機家たちは株価の買い支えを行いましたが一時しのぎに過ぎず、5日後の29日には24日を超える大々暴落が起き、1日にしてアメリカ合衆国の国家予算の10倍、第1次世界大戦に注ぎ込んだ戦費を超える損失を出し、この日は火曜日のため「Tragedy Tuesday(悲劇の火曜日)」と呼ばれました。
これは大戦以降、アメリカとの取引が増大し、経済的に密接につながっていたヨーロッパ各国も直撃して、やがて植民地内の流通を宗主国に限るブロック経済などの苦肉の策が取られることになり、それがユーラシア大陸の反対側にある日本にも大きな打撃を与えました。
日本は日露戦争での戦費の大半を外国債によって賄った上、ロシアから賠償金を得ることができなかったため返済を自力で果たすしかなくなり、さらに関東大震災や冷害による不作なども重なって、経済破綻の一歩手前まで陥っていました。それが対岸の火事の第1次世界大戦で戦勝国側に加わることができて、東アジアにあるヨーロッパ各国の植民地との交易で利益を上げて人心地ついていたところへブロック経済によって締め出されてしまったのです。
これは植民地をほとんど持たなかったイタリア、大戦で敗れて植民地を失っていたドイツも同様で、ムッソリーニのファシズム、ヒトラーのナチズムが台頭し、日本の軍国主義と歩を一つにしました。
それにしてもバブル経済に踊った馬鹿な政治家・官僚・経済人・個人投資家たちは、この史実を学んでいなかったのですかね。
余談ながらケネディ大統領の父・ジョセフ・P・ケネディは、ウォール街の靴磨きの少年が「金を貯めて株を買い、大儲けしたい」と言ったのを聞いて、子供の浅知恵レベルで動いている好況の破綻を予感し、投機で購入していた大量の株を売り払い、大恐慌の荒波から逃れたそうです。これはケネディの伝記に載っていた逸話です。
  1. 2013/10/23(水) 09:57:43|
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10月20日・「きけわだつみのこえ」が出版された。

1949(昭和24)年の明日10月20日に戦没学徒の遺言集「きけわだつみのこえ」が岩波書籍から出版されました。
それまでにも学徒出征で戦地に赴き、散った学生たちの遺書集は1947年に「はるかなる山河に」が出版されていましたが、今回は大手出版社と言うこともありベストセラーとなりました。これを受けて翌1950年4月22日に日本戦没学生記念会・わだつみ会が設立されています。
この題名は一般公募による2千通を超える応募の中から藤谷多喜雄氏の日本古来の海の神から採った案が選定されたのですが、そこには「なげけるか はたもたせるか いかれるか きけはてしなき わだつみのこえ」の一首が添えられていたそうです。
しかし、この本は反響が大きかっただけに左右両派から激しい非難を浴びています。
岩波書籍は「広辞苑」の偏向した言語の用法用例や岩波文庫の日本語・現代語訳を見ても判るように一貫して左翼思想を扇動しており、この本に於いても国家への絶対的忠誠や戦争に命を捧げることを喜びとするような愛国的な遺書は編集段階で不掲載にされるか内容に手を加え、さらにその添削・修正の証拠を残さないため遺族から寄せられた遺書を返却しないと言う暴挙をはたらいたのです。これには右派が厳しい批判を寄せました。
一方、左派はこの遺書集の対象が、当時は少数派の高等教育を受けられたインテリ層に限定されており、殊更に将来への希望、大きな可能性を国家によって奪われた悲劇の主人公と言う演出がされていることもあり、学徒兵だけが約束された未来を踏み躙られたかのような扱いは大多数の兵士たちに対する差別・冒涜であると、こちらも強い抗議を繰り広げました。このため保守系の光文社などから再編集された同じ題名の本が出版されています。
高校時代、野僧が海上自衛隊を志望していることを知った担任の国語教師から「これを読んでよく考えろ」と「きけわだつみのこえ」の岩波文庫を手渡されましたが、海上自衛隊志望は中学時代からですから、すでに阿川弘之さんの「雲の墓標」「春の城」、さらに真継不二夫さんの「海軍特別攻撃隊の遺書」などを読んでおり、「きけわだつみのこえ」の自分は犠牲になるんだと言う恨み節の遺書は、かえって女々しく感じてしまいました。
特攻隊員に限らず戦没者の遺書集なら靖国が発刊している「英霊の言の葉」が簡潔でよろしいのではないでしょうか。これは拝殿の脇の掲示板に貼り出している戦没者の遺書や遺族の手記を編集したもので、陸海軍、士官将校、下士官兵を問わず収集されています。
ちなみに野僧が22歳で3等空曹に昇任した時に詠んだ辞世は、「いざ死なむ 我が屍(しかばね)を 踏み越えて 征ける戦友(とも)らに 道を標(しめ)して」でした。
ついでに3等空尉に任官した時に詠んだ遺偈(すでに坊主になっていたため)は「二十七年遊夢庭 少学文武似銷夏 幻身幻影未安寧 一切有為如風花(二十七年、夢の庭に遊んでいた 少しぐらいは文武を学んできたが夏に暑さを消そうとしたようなものだ 幻の身は幻の影であり未だに安寧ではない 一切の巡り合わせは風の中の花のようなものだ)」です。本当に戦死できれば「わだつみのこえ」になりましたが残念です。
  1. 2013/10/19(土) 10:56:10|
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10月15日・新渡戸稲造の命日

1933(昭和8)年の明日10月15日は1984(昭和59)年から2007(平成19)年まで5千円札になっていた新渡戸稲造先生の命日です。72歳でした。
野僧はお札のデザインが変わった時、この人物に興味を持って調べ、岩手県出身と知って職場の岩手県人たちに訊いてみましたが、ベテランから若手まで「石川啄木や宮沢賢治なら知っているが、こんな人は知らん」と言う答えでした。ただ後年、薫陶を受けた隊長が岩手県人だったので同じ質問をすると、机の中から取り出した岩波文庫の「武士道」を手渡されました。
新渡戸先生は南部藩の藩主用人を務めていた新渡戸十次郎の三男として1862(文久2)年9月1日に盛岡市内で生まれました。野僧は市内でも外れに在る生家跡に行ったことがありますが、現在は更地に石畳を敷き銅像が座っています。
新渡戸稲造
現在なら小学校に入学するくらいの年齢になると藩校・作人館に入りますが、浅田次郎さんの名作「壬生義士伝」では主人公の吉村貫一郎は脱藩して新撰組に入るまでここの助教でしたから、本人は無理としても兄は教え子かも知れません。
新渡戸先生は同時期に掛かりつけの医者から英語を習い、海外雄飛の夢を描いていたそうですが、間もなく戊辰戦争が勃発して、新政府側についた秋田・佐竹藩を攻めた南部藩は賊軍となり、海外渡航の夢は断念せざるを得なくなりました。
その後、札幌農学校に2期生として入学しますが、有名な初代校長のウィリアム・クラーク博士は入れ替わりにアメリカへ帰国していました。
入学した頃の新渡戸先生は直情径行な乱暴者だったらしく、教授への質問が激論になり、そのまま殴り合いになることも珍しくなく、「アクチーブ(=アクティブ・行動派→暴れ者)」と仇名されていたそうです。
ところが学内でクラーク博士の下でキリスト教に入信していた1期生の布教活動を学び、函館のプロテスタント教会で洗礼を受け、「パウロ」と言うクリスチャン名を与えられます。洗礼後は「キリスト教は争うことを禁じている」と乱暴な言動は影をひそめ、同期生の内村鑑三が「モンク(修道士)」と仇名をつけ直すような人物になったそうです。
しかし、眼病を患い、勉学に支障をきたすようになると欝病に陥り、母親から帰省しての療養を勧められて盛岡に帰ると到着の3日前に母が死んでいて、欝病が深刻になってしまったのですが、「クリスチャンは自死できない」と踏み止まったと言われています。
新渡戸先生と言えば前述の名著「武士道」ですが、これはアメリカで活動している時、欧米人から毎回のように異文化・異教徒である日本人の倫理観に関する質問を受け、その度に説明しなければならないことによる必要から執筆した本で、1900(明治33)年に英語版が出版され、続いてドイツ語版、フランス語版が出ましたが、日本語版は日露戦争の勝利により、日本への関心が高まってベストセラーになっていた1908(明治41)年のことです。
新渡戸先生が「武士道」で述べておられるのは、武士=日本人が抱いていた切腹に象徴される刑罰以前に自らを裁く強固な倫理観で、聖書で禁じられている自死が、罪と言うには軽い落ち度までを自らの死を以て償う行為であることを広く伝えたのです。
結局、あの5000円札は日本ではなく外国向けの人選だったのでしょうか?
  1. 2013/10/14(月) 00:04:27|
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10月14日・謀反(討幕)の密勅が偽造された。

1867(慶応3)年の明日10月14日に徳川将軍家に謀反を企てろ(倒幕)と言う偽の勅状が三条実愛から毛利藩の広沢平助と島津藩の大久保一蔵=利通に手渡されました。
野僧が子供の頃は、明治新政府で実権を握った毛利藩が捏造した「勝てば官軍」史観に基づき、幕府が国際情勢を勘案しながら諸外国との粘り強い交渉の末に結んだ条約による開国を「外国を怖れて不平等条約を押しつけられた弱腰外交」と批判し、天皇を利用して政権を奪取しようと企んだテロリストを取り締まった会津藩とその配下の新撰組の活躍も勤皇の志士への弾圧として、徳川幕府がやったことは全て悪事と断罪し、これに危機感を抱いた毛利藩と島津藩が救国の兵を挙げ、打倒したのだ教えられました。これも当時の学校の教師や読んでいた歴史の本を書いていた作者が、戦前の学校教育でそれを習い、何の疑問も抱かずに請け売りしていたのでしょう。
しかし、最近になってようやく史実を客観的に検証することができるようになり、幕末の動乱は、毛利藩と島津藩でも藩主や重臣ではなく、過激な下級武士たちが画策した倒幕の謀略に世間知らずな若手公家が同調して幕府を武力討伐するように暗躍し、ついには大政奉還によって必要がなくなった内乱を引き起こした暴挙であったことが公然と語られるようになりました。
この密勅にしても父・孝明天皇が岩倉具視によって毒殺された後を継いだ睦仁くん(明治天皇)は当時、まだ15歳で、このような重大事を裁可するような見識はなく、それを利用した取り巻きの公家が勝手に作った偽造であることは誰の目にも明らかでしょう。
当時の徳川幕府はすでにオランダの助力で海軍を創設し、フランスの支援で陸軍の近代化を図りつつあり、さらに最後の将軍・慶喜が幕政改革に着手しており、それはオランダ留学から帰国した津和野藩士・西周(にし・あまね)から欧州の法制度を学び、藩主を議員とする議政院(議会)を設置するなどの近代的な内容でした。
このため幕府が力を盛り返すことを恐れた毛利藩と島津藩が、「軍事力で優位に立っている今のうちに」と討幕を実行する大義名分に捏造したのがこの密勅だったのです。
この密勅の情報を得た慶喜は、土佐藩主・山内容堂から建白されていた大政奉還を決意し、京都にいた有力大名と代行の重臣を集めて建議の上、これを表明しました。
そうなると武力討幕ができなくなるため島津藩の西郷吉之助は策謀を巡らせ、江戸の島津藩士に、浪人に扮して江戸城や会津藩など譜代大名の江戸屋敷に攻撃を加えては島津藩邸に逃げ込むことを命じ、これに怒った幕臣や譜代大名が戦いを仕掛けてくることを待ったのです。
これが明治新政府(現在も山口県人は)の偉大な業績(維新の大業)として国民に吹き込んできた幕末史です。
  1. 2013/10/13(日) 10:29:24|
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10月12日・社会党委員長・浅沼稲次郎が刺殺された。

1960(昭和24)年の明日10月12日に日本社会党の浅沼稲次郎委員長が日比谷公会堂で演説中、右翼の少年(17歳)に刺殺されました。61歳でした。
野僧はこの事件の資料映像を見たことがありますが、民社党の西尾委員長の後に人間機関車(愛称)が登壇すると場内は「第2共産党」「中共(=中華人民共和国)の手先」などの怒号で騒然として、司会のアナウンサーが「静粛にして下さい」と呼びかけたところで演説が始まりました。池田内閣の所得倍増計画への批判、日米安保廃棄、日中国交正常化と続き、そして「選挙の際は国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占めると・・・」と言ったところで学生服にコート姿の若者が壇上に駆け上がり、鞘を抜き捨てた短刀で浅沼委員長の左胸を深く刺したのです。
浅沼委員長は演壇から眼鏡や原稿を振り飛ばしながらクルクルと回るように倒れましたが、搬送された日比谷病院で即死と診断されたそうです。
犯人は大東文化大学の聴講生で右翼団体・全アジア青年反共連盟員の山口二矢(おとや)で、父親は陸上自衛隊の1佐でした。この時代は現代のような未成年者への報道規制がなく、17歳であったにも関わらず実名や顔が写った写真が大々的に報道され、父親の山口晋平1佐は4日後の15日に依願退職しています。1佐にしては異例のスピード決裁でしょう。と言うのも事件後わずか3時間で日比谷公園には数万人の群衆が集まり、「浅沼を返せ、池田内閣退陣」を叫んだため、岸信介首相の退陣でようやく沈静化してきた安保闘争が再燃することを恐れ、13日には山崎国家公安委員長を「高度の政治責任を取る」と辞任させており、事態の収拾のため矢継ぎ早に手を打っていたのです。
山口二矢は山口1佐の二男で、2月22日生まれであったため「2」と言う数字に縁があると「二矢」と命名したそうです。父の厳格な教えを受けながら兄の影響で右翼運動に参加するようになり、赤尾敏氏の演説を聞いて感激し日本愛国党に入党しますが、取り締まりの警察官とトラブルを繰り返したため脱党させられています。犯行後、11月2日の深夜に移送された東京少年鑑別所の単独房でシーツを裂いて紐状にした物を天井の裸電球のコードに縛りつけ、首を吊って自裁しましたが、多くの右翼団体は「英雄」として盛大な追悼行事を行いました。
池田隼人首相は17日に臨時国会を召集し、19日に「沼は演説百姓よ。汚れた服にボロ鞄、今日は本所の公会堂、明日は京都の辻の寺・・・」と言う自作の詩を織り込んだ追悼演説を行い、21日に施政方針演説、各党代表質問の後、25日に衆議院を解散しています。この前の20日に社会党は日比谷公会堂で党葬を行っていますが、衆議院の解散が確実視されている中、選挙前の決起集会になって葬儀の沈痛な厳粛さとは真逆の熱気を帯びていたそうです。結果は自民党が296(解散前283)、社会党は145(同122)、社会党からの分派であった民社党が17(同40)の独り負けで、浅沼委員長の霊前に誓った自民党の議席を奪うことはできなかったようです。
今年、三宅坂の社民党本部は老朽化により耐震性に問題があると取り壊されましたが、玄関のロビーには浅沼稲次郎委員長の立ち姿の銅像があったものの、新しい間借りの党本部には置く場所がないため胸像にしたそうです。
  1. 2013/10/11(金) 10:32:30|
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10月11日・アンリ・ファーブルの命日

1915年の明日10月11日は「昆虫記」の筆者・ジャン=アンリ・カシミール・ファーブルさんの命日です。91歳でした。
ファーブルさんは1823年12月21日に南フランスのアヴェロン県のサン・レオンで生まれますが、3歳の時、山村に住む祖父母に預けられたため遊ぶ友達もいないため植物や昆虫の観察をして毎日を過ごしていたようです。
やがて親元に帰りますが14歳の頃、化学メーカーを立ち上げていた父が事業に失敗して一家は離散、ファーブルさんは肉体労働で糊口をしのぎながら勉学を続け、やがてアヴィニヨンの師範学校に首席で合格、同じく首席で卒業し、コルシカ島の中学校の教師になりました。いざ赴任すると担当科目の理科に良い参考書がないことに気づき、物理学や化学の解説書を自分で作成しました
その後、アヴィニヨン、セリニャン・デュ・コンタに赴任しますが、どこでも昆虫の観察を続け、その成果をまとめたのが「昆虫記」です。
ファーブルさんの「昆虫記」は昆虫の行動を中心に長期間にわたる観察と実験を繰り返していて、例えばメスが発散するフェロモンを発見し、発情期にメスのマユ蛾を籠に入れて窓を開けて実験すると一晩で60匹もオスが集まってきたそうです。
これはそれまでの昆虫研究にはない視点だったのですが、フランスでは理解されませんでした。何故ならファーブルさんは独学であったため既成の学閥に属しておらず、にも関わらず大きな成果を上げたことを妬んだフランスの専門の学者たちが黙殺したのだと言われています。それでも隣国のドイツやオランダでは影響を受けた研究者が出て、日本でも古来、「鈴虫を飼って鳴く声を鑑賞する」「蝶、蝉、赤トンボなどの虫を俳句の季語にする」と言った昆虫の飼育、観察を愛好する風土があり、紹介されるとたちまち多くの信奉者が生まれました。若い頃は昆虫学者を目指していた北杜夫さんには「ドクトルマンボウ昆虫記」と言うエッセイがあり、映画でも今村昌平監督・吉村実子さん主演の「にっぽん昆虫記(1963年・日活)」があります。ちなみに外国人には鈴虫の涼しげな声も雑音にしか聞こえないらしく、アメリカ人の彼女に「沖縄では秋の虫が鳴いていないなァ」と残念がっても、「インセクトのノイズ?」と言うだけで全く理解してもらえませんでした。
ファーブルさんは40歳の時、アヴィニヨンのナンマルシャル礼拝堂で講演して「植物はオシベとメシベで受粉する」と話したことを女性の聴衆たちから「男女の性交を自然なこととするのはフシダラだ」と非難され、教師を退職することになりました。
さらにダウィーンと個人的な交流があったものの進化論には否定的でした。それは虫の環境によって学習・進化することはなく、ただ自然淘汰によって適応したモノだけが生存すると言う摂理による見解です。
しかし、野僧の小学生時代を思い出してみると、現在は小学校の校長になっている友人がカマキリにバッタを食べさせて、もがく様子を見ながら「虫は苦痛を感じるのか?」「死を恐れるのか?」などと論じ合っていましたが、頭が良くて研究熱心でも残酷でした。
  1. 2013/10/10(木) 10:06:12|
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10月6日・正受老人の命日

1721(享保6)年の明日10月6日は白隠禅師の師である正受老人・道鏡恵端和尚の命日です。道鏡と言うと天平時代の女帝を迷わせた怪僧が有名なので正受老人と呼ばれているようです。因みに「正受」とは長野県のJR飯山駅から北西に5、600メートルの小高い丘の上に結んでいた庵の名前に由来しています。
正受老人の母は真田信繁(幸村)さんの兄で関ヶ原の合戦では徳川側について上田藩主(後に松代へ転封)となった真田信幸(信之)公の側室ですから、その息子と言うことになります。
ただ、母は正受老人を身篭ると飯山城主の松平忠倶公に預けられ、そこで生まれました。
真田信幸公には本多忠勝公の娘で家康公の養女として嫁した小松姫と言う超美人の正妻がありましたから、その辺りに事情があるのかも知れません。
余談ながら小松姫は関ヶ原の合戦の折、西軍について上田城の向かう真田昌幸公が沼田城に立ち寄り、「合戦の前に孫の顔が見たい」と所望したのに対して、「敵味方となった以上、義父と言えども夫から留守を預かっている城に入れる訳にはいかない」と拒否しましたが、昌幸公が休憩している城下の正覚寺に子供たちを連れて訪ね、対面させた逸話は武人の妻の鑑の美談として有名です。この小松姫が先立った時、信幸公は「我が家から光が消えた」と大変に落胆したそうですから、「だったら側室を持つな」と言いたいところですが、おかげで正受老人が生まれたのですからよかったのでしょう。
正受老人(この頃は子供ですが)はその後も飯山城で育ちますが、城に法話にやってきた曹洞宗の坊主に「貴方には観音が宿っている」と言われて考え込むようになり、ある時、城の階段から落ちて気を失い、意識を吹き返すと「わかった」と躍り上がったそうです。以降「自分は悟った」と言う自覚を抱き、それを証明してくれる師を探すようになり、松平公の参勤について江戸へ赴くと禅門の名僧を訪ね歩き、至道無難和尚の下で勝手に出家しました。その後、奥州などへ旅したものの大半は江戸で過ごし、やがて至道無難和尚の印可(悟りの証明)を受けて飯山に戻っています。つまり臨済宗の本山が立ち並ぶ京都に上ることのないまま臨済宗の法統を継承し、それが沼津の白隠禅師によって大きく花開くのですから、佛法とは土地や建物ではなく人によって伝えられるものなのでしょう。
正受老人の師・至道無難和尚は「関ヶ原の番太郎」と自称しておられますが、その禅風は「生きながら 死人となりて なり果てて おもひのままに するわざぞよき」との道歌や「殺ろせ殺ろせ 我が身を殺ろせ 殺しはてて 何もなきとき 人の師となれ」と言う法語でも解かるように死を直視・探求したもので、それが正受老人によって「死を限りと思えば、一生にだまされやすし」「一大事と申すは、今日只今の心也。それをおろそかにして、翌日あることなし」に発展・深化し、白隠慧鶴禅師に至って「若い衆や 死ぬがいやなら 今死にや 一たび死ねば もう死なぬぞや」と衆生に届くよう簡明・普遍化します。
野僧も武人の出身ですから、お公家さんのお坊ちゃまである道元の曹洞禅よりも、鈴木正三の勇猛禅にも通じる力強い江戸時代以降の臨済禅にシンパシーを感じています(正三自身は至道無難よりも少し時代が早かったため京都の堕落した臨済宗を批判していますが)。
正受老人の遺偈(辞世の漢詩)は「末後一句 死急難道 言無言言 不道不道」=「末期の一句 死急にして 道い難し(いいがたし) 無言の言を言として 道わじ道わじ(いわじいわじ)」です。
しかし、「道」と言う字を「いう」と読ませるのには深いものがありますね。


  1. 2013/10/05(土) 10:47:43|
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10月3日・日本武道館が開館した。

東京オリンピックが間近に迫る1964年(昭和39)の明日10月3日に日本武道館が開館しました。
これは自衛隊体育学校から全日本剣道選手権を見に行った時(福之上里美さんの記事に一部関連)、1階ホールの説明板をメモしてきた内容です。
場所は旧江戸城の北の丸にあり、下りる駅は花見の靖国や毎日新聞本社と同じ九段下です。
設計は山田守氏、施工は竹中工務店だそうですが、外観は法隆寺の夢殿をモデルにした八角形で、大屋根は富士山を表し、最上部には擬宝珠が乗っています。
建設については東京オリンピックで柔道が競技種目に決まったことを受けて、1961年6月30日(野僧の生年月日の前日)に読売新聞社主の正力松太郎氏を長とする超党派(本当に共産党を含む各党のトップが参加していた)で「武道会館建設議員連盟」が発足し、1962年1月31日には「財団法人・日本武道館」が成立し、正力松太郎氏が初代館長に就任しました。
設備としては大道場と呼ばれるアリーナは板の床で、柔道の時には地下倉庫にある畳を敷くそうです。ちなみに武道場と体育館では床のクッションが異なり、体育館の固い合板の床は裸足で武道の練習・競技をするのに向かないそうです。
職員さんの話では日本武道館で全国規模の大会を行っている色々な武道の種目の中で、銃剣道は極めて異質だそうです。大道場(アリーナ)一杯に試合場を並べるのは他になく(普通は中央に1つか2つ)、何よりも大騒ぎの応援が武道の精神性を全く感じないそうです。実際、野僧が見に行った剣道の全日本選手権でも、試合中は息を止めているかのような静けさでした。福之上さんの話では「竹刀の当たる音で太刀筋や部位を判定するため」だそうです。
観客席は1階の固定席が3199席、2階・3階はそれぞれ7・846席あり、コンサートや式典などでは大道場に専用シートを敷いて2・946席が設置でき、観客・参列者の最大収容人員は14・971席だそうです。
日本武道館で最初にコンサートを行ったのは1966年のビートルズですが、この時には「日本の武道文化を冒涜する」と反対意見がかなり強かったそうです。
現在ではドーム球場がコンサートなどの会場として常用されるようになりましたが、海外の歌手などの間ではやはり和風の外観やオリンピック会場だったと言うプレミアが付くため、根強い人気があるようです。
最後に「いかにも」と言う不文律を紹介します。それは大道場の中央の天井から掲揚されている日章旗は、競技のためには決して下ろさないと言うことです。つまり球技には使用させないと言うことかも知れません。
  1. 2013/10/02(水) 09:51:17|
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第12回月刊「宗教」講座・神無月ブラスα

10月を暦では神無月と言いますが、これは全国の神々が出雲に集って留守になるからで、出雲では逆に神在月と言うそうです。
それにしても10月は秋の収穫時期で、収穫すれば祭りになるのが日本の神事ですから、この月に神社が御留守では何のための秋祭りか判らなくなります。
これについて各地の神社に訊いたことがあるのですが、すると「神様は出雲におられても祈りは通じている」と苦しい言い訳をしていました。
祭りだけならまだ好いのですが、この時期は台風シーズンでもあり、鎮守の神様の公務優先による責任放棄は困ります
ところでこの時期、出雲には日本におられる外国の神々も集われるのでしょうか?
七福神でも大黒さんの大黒天、弁天さんの弁財天、毘沙門天さんはインドの古代ヒンズー教の神様、福禄寿と寿老人は中国の道教の神様、布袋は実在した中国の禅僧で、日本の方は恵比寿さんだけです。
キリスト教のカミ様も室町時代に来日した宣教師に京都の神官が「切支丹のカミも、この国に来れば八百万(やおよろず)の神々のお一人になる」と予言したように、クリスマスでジングルベルを歌った数日後に除夜の鐘を聞き、年が明ければ初詣に行くのが日本の宗教行事ですから是非ともお出まし願いたいものです。
ただ、あちらは唯一絶対のカミ様ですから八百万の一人になることは受け容れられないのでしょう。
と言いながら同じカミ様がユダヤ教ではヤハウェイ(ヘブライ語)、キリスト教なら各国バラバラ(イタリア語=Dio、スペイン語=Dios、フランス語=Dieu、ドイツ語=Gott、英語=God)、イスラム教はアッラーになるのですから困ります。
ところで1555(弘治元)年の10月1日(ただし太陰暦)は中国地方の太守・大内義隆公を長門国湯田の大寧寺で討った陶晴賢(すえはるかた)殿を毛利元就公が滅ぼし、新たな中国の覇者となった厳島の戦いの日です。
この時、元就公は作戦会議で「厳島(=宮島)に上陸されると不利だ」と発言し、それを会議に参加していた陶側の間者(かんじゃ=スパイ)が晴賢殿に伝えたため、真に受けて誘き寄せられたと言われています。つまり元就公はそれ程の重大な会議への出席者まで疑っていた訳で「毛利と言えば謀略」と評される代表例でしょう。
元就公の酷い所は、宮島は島全体が御神域の結界なので死者の魂魄は出入りすることができず、この戦いで斃れた双方の戦死者は成佛、往生は不可能なことです。
実際、神社の御神域で自殺する人がいますが、どんな葬儀をやっても魂魄は結界から出ることができず、亡霊として神域をさまよい続けることになっているそうです。
ただ、宮島では昔、住民が島で亡くなると、早急に遺骸を対岸の廿日市まで船で運び、そこで亡くなったモノとして葬儀その他の慰霊行事を行っていたそうですから、大量の戦死者をそのように処置していれば別ですが記録にはありません。
1841(天保3)年の10月11日は愛知県田原市にある崋山神社の御祭神・渡辺崋山先生の命日です。
崋山先生と言うと「何でも鑑定団」の影響もあるのか画家としての顔ばかりが有名ですが田原藩の江戸家老であり、何よりも高野長英、小関三英たちと「尚歯会」を作り、海外事情を探り、西洋の先端科学や近代政治学、さらに西洋史などを普及させ、有為な人材に身分に関わりなく活躍の場を与えた大学者であります。
と言いながら田原市の郷土資料館(博物館)の学芸員でさえ「絵画作品しか業績がありませんから画家です」と断言しているくらいですから仕方ないのかも知れません。
渡辺崋山先生の伝記を読むと少年時代、江戸の街中を書物に夢中になりながら歩いていて同じ年頃の池田公の若様が乗った駕籠に失礼を働き、家臣に殴打されたことで身分に関係なく尊敬される学者になろうと決意したと言う逸話が出てきますが、崋山先生も譜代大名の江戸家老の子であれば身分は高く、これには些か無理があります。
しかし、天保の改革に盲進する水野忠邦に取り入った鳥居燿蔵が、当時は蛮学(野蛮な学問)と呼ばれていた蘭学者の集団・尚歯会の存在が重みを増すことを嫌い、得意の謀略によって引き起こした蛮社の獄によって無実の罪(未発表の私的論文での幕政批判)に陥れられ、国元である田原へ蟄居することになりました。
鳥居燿蔵は幕府の御用学者である林述斉の妾腹の子であり、儒学思想に凝り固まっていて、西洋の先進性、優位性を紹介する蘭学者を忌み嫌っていたのです。
田原藩が治める渥美半島は現在でこそ用水路が整備され一大農業地帯になっていますが、当時は太平洋、三河湾からの海風に吹き晒され、山がないため水利に乏しく、高潮などの被害もあって稲作に不向きな痩せた土地であり、田原藩・三宅家は大名を名のること自体に無理があるような小藩でした。
そこに崋山先生は尚歯会を通じ入手したジャガイモを植えるなどの農業指導を行って農民の苦境を救ったのですが、やはり貧乏藩の罪人では生活は困窮を極め、それを見かねた弟子たちが江戸で作品を売って送金したことを崋山先生が推進した藩政改革を快く思っていなかった国元の守旧派重臣たちが、「主君に迷惑がかかる」「罪人の立場が判っていない」とここぞとばかりに指弾し、「不忠不孝渡辺登」の七大文字遺書を記しての自刃に追い込まれたのです。結局、田原藩も事の善し悪しではなく、常識に合うか否かだけを問題にする東三河なのでしょう。
野僧は崋山先生の死亡診断書を読んだことがありますが、腹部は深さ3寸(約10センチ)、長さ1尺2寸(約36センチ)、頚部にも深さ1寸(約3センチ)、長さ3寸(10センチ)の傷とあり、見事な切腹だったことが判ります。
崋山先生の子息は渡辺小崋(しょうか)と名乗られ、門弟の椿椿山(つばきちんざん)とともに父譲りの画業で有名になりました。
ところで蛮社の獄の直後にアヘン戦争が起り、幕府は西洋諸国の怖ろしさを思い知ったのですが、西洋事情に熟知した最高峰の蘭学者たちを弾圧したばかりだけに水野忠邦も対応に困り、尚歯会のメンバーだった伊豆代官・江川太郎左衛門を重用するようになったのですから、若し、鳥居燿蔵の暴挙がなければ幕閣にも西洋事情が周知され、ペリー来航に際しての幕政の混乱から過激な尊皇攘夷運動に走り、やがて戊辰戦争に至る血塗られた幕末史もなかったかも知れません。
次に1859(安政6)年の10月27日は、萩市の松陰神社の御祭神・吉田松陰先生が30歳(満29歳)の若さで斬首された日です。
田原市では「崋山先生」と呼ぼうとする声に「山口の人が吉田松陰を松陰先生と呼んでいるみたいで変だ」と言っていますが、山口県人の極めて多くが松陰先生の門下生のようで、直接教えを受けたかのように「松陰先生はこう言っておられた」と語りますから、むしろ呼び捨てにする方が不自然でしょう。
先生の号の松陰は九州遊学の旅で寛政の三奇人である高山彦九郎の破天荒な生涯に感銘を受け、久留米にある墓に参って墓石に刻んである戒名「松陰以白居士」に因んだものと言われています。
ただ、野僧は以前から山口県人の「何でもかんでも郷土の人がやったことは絶対に正しい」と言う独善性に疑問を持っていて、是は是として誇るにしても、非は非として真摯に省みなければならないと考え、そのシンボルである松陰先生のことを「完全無欠の聖者」のように強弁する人に会うとこの質問をすることにしています。
「ウサマ・ヴィン・ラディンと松陰先生はどう違うのか?」
先年、アメリカ軍特殊部隊によって殺されたウサマ・ヴィン・ラディンは、アメリカを通じてしか世界を見ていない日本では「9・11事件を引き起こしたアルカイーダの首領の凶悪なテロリスト」ですが、イスラムの人々にとってはキリスト教の正義で世界を制覇しようとするアメリカに対抗し、痛撃を加えた英雄であります。
また、ウサマ・ヴィン・ラディンはイスラムの戒律を厳格に守り、最期まで清廉な生活を守っていたようです(富豪の家の生まれのため質素とは言えませんが)。
これは松陰先生の信奉者が口を揃える人間性の魅力に通じるでしょう。
実際、宮部鼎三との津軽への旅で泊めたと言う旧家の方も、「偉そうな宮部と違い、松陰さんは物静かで礼儀正しかった」と言い伝えています。
しかし、地元の信奉者が真顔で語る「松下村塾に厠(かわや=トイレ)がないのは松陰先生は用便をしなかったからだ」と言うのは間違いなく迷信です。
松陰先生が目的達成の手段として扇動したのは、山口県人が維新の志士と持て囃している過激派藩士たちを使っての幕府要人の暗殺、外国人の殺傷や公館焼き討ちなどであり、これは弟子を使ってのテロに他ならないでしょう。
結局、戊辰戦争で勝利を収めた長州が明治以降の学校教育を取り仕切ったから、過激派志士たちは英雄とされ、その教祖(狂祖)である松陰先生も神格化されているのであって、やったことはウサマ・ヴィン・ラディンと何も変わらないのです。
野僧は松陰先生の真実の人間性に迫りたいと研究をしているのですが、江戸へ移送される直前、野山獄で女囚・高須久子から手拭いを受け取って交わした相聞歌、

一声を いかで忘れん 郭公(ほととぎす)・ひさ女
箱根山 越すとき汗の い出やせん 君を思ひて ふき清めてん・寅次郎
鴫(しぎ)立って あと淋しさの 夜明けかな・ひさ女

これもほのかな恋歌と解することは冒涜になるそうでから困ったものです。
松陰先生は伝馬獄で長く留め置かれたため辞世を多く詠まれたそうで、少なくとも次の四首が遺っています。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
心なる ことの種々(くさぐさ)かい置きぬ 思い残せる ことなかりけり
親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん
此の程に 思ひ定めし 出立(いでたち)は けふきくこそ 嬉しかりける

このうち最後の一首は斬首の呼び出しを待たせての作で、添削する時間がなく「けふきくこそ」の「き」のところに印を入れた状態の未完成だったようです。
中でも有名なのはやはり「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも」でしょう。
ただ、ペリー艦への密航を企てて自首した後、長州に移送される途中、赤穂浪士の墓所がある泉岳寺の山門前で「かくすれば かくなるものと 知りながら 已むに已まれぬ 大和魂」と言う歌も詠んでいますので、「大和魂」と言うのは松陰先生の常套句=モットーだったようです(しかし、松の廊下の刃傷沙汰は朝廷からの使者への接遇担当の浅野内匠頭長矩が激情に駆られて指導役の吉良上野介義央を切り、城内を混乱させたのですから、尊皇を唱える松陰先生が称賛するのは矛盾しています)。
国学者・本居宣長は「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花」と詠んでいますが、大和心と大和魂では迫ってくる力が違います。
さらに出牢=死刑執行の宣告を受けた時には、この即興詩を詠じておられます。

吾今為国死(吾れ今、国の為に死す)
死不負君親(死して君親にそむかず)
悠々天地事(悠々、天地のこと)
鑑照在神明(鑑照、神明に在り)

松陰先生の前に福井藩士・橋本左内が斬首されていますが、最期の願いを問われて、しばしの猶予を求め、静かに落涙したと言われています。
一方、松陰先生は特別なこともなく従容と死を受け容れ、旅立たれたようで、首斬り役人の七代・山田浅右衛門は「最も見事な死に際であった」と評しています。
松陰先生の遺骸は、小塚原刑場(隠語で骨ケ原と呼ばれた)の因習で衣服を遺体処理の非人が奪い全裸だったそうで、引き取りに行った桂小五郎、尾寺新之丞、飯田正伯、伊藤俊輔(博臣)らがそれぞれ衣服を脱いで着せたと言われています。
また斬首された罪人の首を継ぐことは刑の否定になるため許されず、遺骸の膝に抱かせる形で、小塚原の敷地内にある回向院に橋本左内と並んで埋葬されたそうです。
それにしても神在月の出雲では、伊邪那岐命、伊邪那美命、天照大神、須佐之男命などの天津神や大国主神、建御名方神などの国津神から菅原道真公、崋山先生や松陰先生などの元は人間の神々まで勢揃いになるのですが、乃木神社の祭神・乃木希典は松下村塾に入るように言われながら、錚々たる塾生たちにビビって申し出られず、小間使いのようなことをやっているのを見かねた叔父の玉木文之進が教育したそうですから、松陰先生と同格にされたことをどう思っているのでしょう。
そう言えば戦死者も軍神として靖国に祀られていますから、ものすごい柱数(神様は柱と数えます)になります。さぞや賑やかなことでしょう。
南無十方三世一切諸佛八百万神々

出雲の社               
出雲大社
椿椿山作・渡辺崋山先生
渡辺崋山先生
この肖像画は江戸への移送が決まってから弟子の松浦亀太郎(松洞)が野山獄中で描いた物で、8枚描かれたうちの6枚現存しているが、どれも同じポーズ、構図です。
しかし、どう見ても29歳には・・・。
吉田松陰先生
  1. 2013/10/01(火) 12:31:41|
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