1894(明治27)年の明日11月27日に松下電器産業社長の松下幸之助さんが誕生しました。
松下さんは現在の和歌山市禰宜の小地主の3男だったのですが、5歳の時に父が米相場で失敗したため和歌山市内に出て下駄屋を始めます。しかし、元々が小地主の坊ちゃん育ちであったため商才に欠け、尋常小学校4年の時には店を畳んで松下さんも学校を中退することになりました。そして9歳で火鉢店に丁稚奉公し、その後、自転車店に移ったのですが、そこで次第に商才を発揮し始めました。
例えば客に煙草を買いに使い走りさせられることを逆手にとり、まとめ買いをして単価を下げ、差額でもうけるようになったのですが、そのことで丁稚仲間の妬みを買い、周囲にも利益を分配する必要性など人間を用いる手法も学んだそうです。
ある日、大阪で路面電車を見て感動し、電気関係の仕事をしたいと志すようになり、16歳で大阪電燈(関西電力)に入社して7年間勤務しますが、在職中にそれまで素人では交換が困難だった電灯をソケット式に改良するアイディアなどを発案していたようです。
18歳で関西商工学校夜間部予科に入学し、22歳の時には大阪電燈を退職して大阪市内の自宅に妻や義弟、友人2名と共に電灯のソケットを製造販売する工場を立ち上げました。しかし、売れ行きは思わしくなく友人2名は去りますが、電気会社から扇風機の部品の大量受注で窮地を脱したそうです。ちなみにこの時の義弟・井植歳男さんは三洋電器の創業者です。
その後、アタッチメントプラグや2灯用差し込みプラグを開発して、経営が軌道にのった・・・と言うのは小学生の時に読んだ伝記からの知識ですが、松下さんがある日、街を歩いていると家の中から電気プラグの差し込む順番争いをする姉弟の声が聞こえ、2股ソケットを考案したエピソードで「アイディアの切っ掛けはどこにでもあるが気付くのは才能だ」と言う教訓でまとめていました。
中学・高校・大学に入って本格的な経営者の伝記を読むようになると、ナショナルと言う商標登録は戦前の1925年に行っていたことや大阪府門真市に本社・工場を移転する計画に対して「大阪市内から鬼門に当たる」と反対する意見が多かったのに対して、日本地図を広げ「大阪から見れば日本列島の東半分は鬼門だ」と言って計画を決定したエピソードなどが紹介されていました。
敗戦後、軍事産業へ参入(何と飛行機を制作した)したことの責任を問われ公職追放処分を受けますが、この頃、同じく丁稚奉公から身を起こした石田梅岩に倣って人間形成に取り組むようになりphp研究所を創設します。一方、敗戦後の経営危機にも社内留保の資金を取り崩してまで人員整理を避けたことに感動した労働組合の嘆願もあり、1947年には社長に復帰しています。
しかし、現在のパナソニックはナショナルの登録商標を廃止し、大幅な人員整理を繰り広げ、さらに来日した鄧小平が大阪まで松下さんを訪ねて要望した中国の工場も反日デモで破壊の限りを尽くされ、昔日の面影は失われました。何よりも松下政経塾出身の民主党の政治屋たちの体たらくには松下さんも草葉の陰で嘆いておられることでしょう。
松下さんは大阪万博の時、松下館を竹林で囲んだ純和風の外観にし、館内には表・裏・武者小路の千家三家の茶道を楽しめる茶室を設け、さらに未来への伝言として巨大なタイムカプセルを製作・展示しました。目先の利益確保に走るパナソニックの経営陣にはこの高邁な精神をもう一度噛み締めてもらいたいものです。
- 2013/11/26(火) 10:00:31|
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1920(大正9)年の明日11月25日に呉海軍工廠で戦艦・長門が竣工しました。
戦艦・長門は88艦隊計画(主力戦艦8隻で常備艦隊を編成し、その艦齢を8年までとする)に基づいて建造され、当時としては世界最大の41サンチ連装砲4基を装備して日本の造船技術が世界の最高峰にあることを誇示した戦艦でした。ちなみにアメリカのアイオワ級戦艦の主砲も40サンチですが就役は1940年代になってからです。その意味では歴史家が揶揄する大艦巨砲主義に陥っていたのは日本だけではありません。
長門級の全長は224メートル(大和級・263メートル)、全幅は34・59メートル(同・38・4メートル)、基準排水量が33800トン(同・64000トン)でした。
武装としては前述の主砲の他に両舷側に並んだ14サンチ単装砲が20門、7・6サンチ単装砲が4門、53サンチ魚雷発射管が8基でしたが、大改修の結果、主砲以外は14サンチ単装砲が18門になり、12・7サンチ連装高角砲4基と25ミリ連装機銃10基に換わりました。またこの時、艦橋に噴きかかる排煙への対策として2本ある煙突の前の1本を後方へ大きくうねった形に変形させ、シルエット上の特色になりました。
戦後は大和ばかりが有名で長門は影が薄いのですが、連合艦隊旗艦としては1942年2月に大和へ譲るまで長門が勤めており、真珠湾攻撃の時も山本五十六長官は長門に乗艦していたのです。確かに映画「トラ・トラ・トラ」では長門で描いていました。
長門級には姉妹艦の陸奥がありましたが(要するに本州の両端です)、1943年6月8日に周防大島沖で謎の爆沈を遂げています。この時、長門は至近距離にいましたが、陸奥では退艦命令が発令されなかったため乗員の大半はそのまま運命を共にして海中に没するのを座視するしかなかったそうです。
長門は多くの海戦に参加しながら生き残り、敗戦まで稼働状態だった唯一の戦艦になりましたが、1945年9月15日に除籍になり、1946年7月にビキニ環礁で行われた原爆実験「オペレーション・クロス・ロード」の標的艦になりました。
この時、標的艦になったのは日本からは長門と軽巡洋艦・酒匂、ドイツからは重巡洋艦・プリンツ・オイゲン、アメリカは戦艦・ネバダ、アーカンソー、ニューヨーク、ペンシルバニア、空母・サラトガなどの計71隻でした。
実験は7月1日に空中爆発、これで酒匂などの小型艦艇が沈没し、続く24日の水中爆発では100メートルの水柱が上がり、大半が間もなく沈没したものの長門だけは浮き続け、7月29日から30日にかけての夜間、人知れず姿を消していました。
これを日本の造船技術を世界に示して一矢報いたと言う人もいますが、姉妹艦・陸奥の爆発後、数時間で自沈した最期を考えると素直に賛同はできません。
アニメ「009」では日本海軍の撃沈された艦艇や撃墜された軍用機が浮上して現代人に復讐する物語がありましたが、この時も放射能に汚染された長門が最大の脅威として描かれていました。つまり原作者の石ノ森章太郎さんの世代までは長門を知っていたのです。
- 2013/11/24(日) 11:11:59|
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1566(永禄9)年の明日11月19日に月山富田城が落ちて尼子氏が軍門に下り、毛利氏は中国の覇者になりました。
月山富田城跡は島根県安来市にあって航空自衛隊美保基地から近く、足立美術館へ行ったついでに何度か見たことがありますが、海抜197メートルの小高い円錐形の山の天辺が平らで「天空の城」と呼ばれたのもうなづけました(ラピュタならぬトミタですが)。
この城は古くから山陰地方の要衝であり、特に尼子経久が大規模な改修を加えてからは中国地方の制覇を目指す大内氏に立ちはだかる難攻不落の砦となりました。
実際、大内義隆は1541(天文10)年11月13日に尼子経久が死んだことで動揺した出雲、安芸、備後、岩見の国衆の求めに応じて毛利氏など配下の豪族を従えて大規模な攻撃を仕掛けましたが苦戦を強いられ、かえって国衆の寝返りによって命からがら周防へ逃げ帰っています。
その後、大内義隆公を裏切った陶氏を討って領域を受け継いだ毛利元就公が石見銀山を巡る対立から1556(弘治2)年に月山富田城を攻めますが、忍原崩れと呼ばれる惨敗を喫しています。しかし、ここからが粘り腰の元就公で1559(永禄2)年に再度、攻撃を敢行したものの降露坂の戦いで敗退します。ところが1561(永禄3)年に尼子晴久が死んで若い義久が跡を継ぐと3人の息子たちを引き連れて再々度の攻撃を仕掛けます。
この戦いは長期戦になり、尼子十旗と呼ばれる支城を落としながら城に立て籠る尼子氏を追い詰めますが、この途中、九州北部の領地に大友宗麟が侵入したとの知らせを受けて嫡男・隆元を派遣し、足利将軍の仲介で和睦させたものの、1564(永禄6)年に隆元は急死し、元就公は「弔い合戦」として士気を鼓舞しました。
その後、城を完全に攻囲して籠城戦に持ち込みますが、石見銀山の炭鉱夫たちに坑道を掘らせて井戸の水を遮断させたり、自腹を切って食料を調達した重臣・宇山久兼を「毛利に内通している裏切り者」と言う噂を城内に流して殺させるなど「謀略の毛利」の名に恥じぬ知謀を駆使しています。
こうして月山富田城は落城し、元就公は二男の吉川元春に与え、さらに羽柴秀吉の天下になった1600(慶長5)年からは堀尾吉晴が入城しますが、1611(慶長16)年に松江城に移ったことで月山富田城の役割は終わりました。
尼子氏と言えば主君よりも有名な家臣がいます。それは月山富田城の攻防戦でも活躍した山中鹿之助ですが、落城後も毛利氏をつけ狙い、そんな旅の途中、峠から夜空に上がった満月に向かって「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った故事などは講壇や歴史文庫に悲劇のヒーローとして描かれていました。
- 2013/11/18(月) 10:11:09|
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1973(昭和48)年の明日11月14日に関門橋が開通しました。
この時、野僧は愛知県の中学生でしたが関門海峡と言えばトンネルのイメージだったので、何故、橋まで架けたのかよく判りませんでした。
それを理解したのは一般空曹候補学生として防府に入隊してからで、新幹線と在来線、そして国道はトンネル、高速道路が橋だったのですが、現在でも一般道の関門トンネルは排気ガスによるコンクリートの傷みが激しく改修工事が欠かせませんから、台風や霧による通行止めを除けば橋が正解なのかも知れません。と言いながら関門橋も設計時の想定を超える交通量のため大規模な改修工事が実施されています。
関門橋は全長1068メートル、実際の橋の部分(支間)は712メートルで、福岡県北九州市の若戸大橋の全長627メートル、支間長367メートルを抜いて東洋最長の橋になり、それは1983年に因島大橋が開通するまで10年間維持されました。
関門海峡は海上交通の要所なので、橋桁から海面までの高さは61メートルあり、それを吊っているケーブルの太さは63センチ、5・04ミリのワイヤーを14014本も束ねています(檀ノ浦サービスエリアの展示看板による)。
吊り橋と言えばサンフランシスコの金門橋(ゴールデンゲート)が有名ですが、こちらは戦前の1937年の開通で、全長は2737メートル、支間長は1280メートルです。
帝国海軍の軍人たちは太平洋を渡って、これを見ると日米の工業力の違いを思い知ったと言いますが、確かに当時の日本の橋とは規模が違います。
ちなみに下関インターチェンジから門司インターチェンジまでは独立した関門自動車道で、中国自動車道でも九州自動車道でもありません。したがって橋を挟んだ下関壇ノ浦サービスエリアとめかりサービスエリアも関門自動車道の施設です(漢字の「めかり」は和布刈=ワカメ刈りと書きます)。
この壇ノ浦サービスエリアには鯛焼きならぬフグ焼きがあり、餡子で腹が膨らんでいます。
それにしても山口県人は橋が好きなようで、岩国の「錦帯橋を世界遺産に」と言う世間知らずな運動は相変わらずですし、関門橋は日本一の座を瀬戸大橋に譲ったものの2000年には当地の「無料で渡れる日本一の橋」=角島大橋が開通しています。
残念ながら深い峡谷はないので高さ日本一を狙うのは無理ですから、そのうち青森県鶴田町にある日本で一番長い木の橋=日本一長生きの橋を超える木製の橋を造ると言い出すのではないでしょうか。錦帯橋の廃材を流用すれば簡単にできそうですから。
- 2013/11/13(水) 10:01:04|
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1557(弘治3)年の明日11月7日(太陰暦)に毛利元就公が息子3人に14カ条の訓戒状を与えました。
毛利元就公と言えば3本の矢の教訓が有名で、今でも中国地方ではJリーグのチーム名・サンフレッチェ(この「サン」は日本語の「3」です)や陸上自衛隊第13旅団の部隊章などになるほど親しまれていますが、実は史実ではなくこの訓戒状の内容と中国の故事を重ね合わせて後世に創作されたものです。
現在、山口県防府市の毛利博物館に所蔵されている訓戒状は長文ですから、別に長男・隆元に宛てた補足説明の全文を掲載したいと思います(拙い現代語訳は御容赦下さい)。ただし、この書簡の日付は霜月25日になっています。
これもまた読み終わったら返してちょうだい。
1、巻き物(=正式文書)の中で言うべきことだが、このことは肝心である。おそれ多いことだが隆元と(吉川)元春、(小早川)隆景の3人のためには身の守りが何にごとも勝る大切なことであるから別紙で言う次第である。
3人の間が露塵ほどにも不仲になり、互いに相手のことを悪く思うようになれば、もはや滅亡すると思いなさい。唯今、当毛利家のためには別に守りを考えるまでもあるまい。
只々、これを定めることが隆元と元春、隆景両人のためになることは言うまでもなく、子供の時代までの守りとなるだろう。それは張良(中国・前漢時代の劉邦の軍師)の書物1巻にも勝ることだ。今のように毛利・吉川・小早川の3家が一体であればおそれながら国中の者どもも隙を狙って小股をかかれることもないであろう。他家や他国から脅かされる恐れもそれほどないだろう。
1、当毛利家がよくなって欲しいなどと思う者は、他国のことは言うまでもなく、当安芸の国にも1人もあるまい。
1、3家が今のように1つにまとまっていれば、毛利家中はお前(隆元)の心のままとなり、小早川家中は隆景の思い通りになり、吉川家中は元春の考えのままになるであろう。
もし万が一、少しでも家運が悪くなれば、まずは家中の者どもから主家を侮るようになり、一行にことが成就しなくなるであろう。そうであるから、ただ毛利家をはじめとする3家の繁栄の秘訣はこんなことであろうと思う。
1巻の書に述べた要点は、このようなことである。露ほどでも兄弟の間に悪い兆しが現れたなら、3家の滅亡の元と思うがよかろう。吉事を幾畳にも重ねていただけるようにしなさい。
なお妙玖(みょうきゅう・元就公の正室で3人の生母・天文14年没)がいたら、このようなことは言わないが、いつまでもいつまでも一身の気遣いと思うばかりである。
原文は当主を譲っている息子に対する敬語を使っています。ところがこの書状を受け取った隆元は1563(永禄6)年に先立ってしまい、元就公は1571(元亀2)年まで孫の輝元を育成することになりました。
ちなみに大河ドラマ「毛利元就」で富田靖子さんが演じていた正室は「みい」と言う名前でしたが、実際には俗名を示す資料は発見されておらず不明です。
- 2013/11/06(水) 08:39:07|
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11月3日の「文化の日」は日本国憲法が公布された日でもありますが、睦仁くんの誕生日だった明治節を戦後に廃止する代わりに無理に設けた休日で、明治と言えば「文明開化」と言うイメージだけで文化に関する特別な由来はありません。
11月3日を祝日として残したのは、終戦直後にはまだ多くが生存していた明治生まれへの配慮と言われていますから存続する意味はあまりなくなりました。
ところで由来を無視して月曜日を休日にすることで3連休を作り、消費拡大を狙った「ハッピー・マンデー」は現在、平成10年に変更された1月15日から1月の第2月曜日になった「成人の日」と東京オリンピックの開催日だった10月10日(晴天の特異日でもある)を10月の第2月曜日にした「体育の日」、続いて平成13年に追加された9月15日を9月の第3月曜日にした「敬老の日」と明治天皇が巡行から海路帰着した7月20日を7月の第3月曜日にした4日があります。
東京オリンピックはもう一度開催されることになりましたから旧体育の日の10月10日の由来は忘れるとしても、「海の日」は元来「海の記念日」だった7月20日を外すことはできません。
ならば特に由来がない11月3日の「文化の日」こそハッピー・マンデーの対象にすべきで、10月がスポーツの秋なら11月は読書の秋、芸術の秋と言うのも悪くないでしょう。
むしろ4月29日が「昭和の日」になったのですから「明治の日」にする方が意味は通ります。ちなみに戦後すぐの第1回文化勲章は4月28日に授与されています。
- 2013/11/03(日) 11:32:02|
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今回は靖国(神社)について語らせていただきます。
何故なら1869(明治2)年11月5日は靖国(神社)の前身である招魂社を創建し、大鳥居の前に巨大な銅像がある村田蔵六・大村益次郎の命日だからです。
戦後も我が国の戦没者の慰霊施設と言えば「靖国(神社)」になりますが、現在では所属、姓名などが判明して戦死、戦病死が確認できた方は厚生労働省の事務処理で靖国(神社)へ通知され英霊=軍神として祀られる一方、遺骨などが収集されただけの身元不明の方は環境省管轄の千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に納められます。つまり同じ戦没者でありながら身元が判るか否かで、英霊と無名戦士の遺骨に分かれてしまうのです。
その英霊を祀ることになっている靖国(神社)ですが、実は神道を統括する神社本庁に属さず、神社とすることを否定する宗教関係者も少なくありません。
現在では靖国(神社)を作ったのが毛利藩士の村田蔵六、初代宮司が萩の椿八幡宮から招かれた青山清であったため、それが山口県の神職たちが画策したことのように思われていて、8月15日が近づき靖国問題が騒がしくなってくると山口県の神職の所には他県の友人の神職から、「いい加減に何とかしろよォ」との苦情の電話が掛かってくるそうです。
そう言えば殉職した自衛官の夫を護国神社に祀られたことに抗議して訴訟を起こしたクリスチャンの妻は山口市内在住でした。
逆に靖国は占領軍司令部の命令により朝鮮半島元山沖で掃海作業に当たっていた下関掃海部の掃海艇が昭和25年10月7日に触雷し、中谷坂太郎隊員が戦死した時、遺族が提出した合祀の請願を拒絶し、戦後、70年に当たっても「自衛官が戦死することになっても合祀しない」と公言しました。したがって野僧も神社とは認めず、あえて靖国と呼ぶこととしています。
靖国の始まりは慶応4年4月に東征大総督であった有栖川宮熾仁親王から戊辰戦争の招魂祭を行うように命を受け、6月に江戸城西丸の大広間上段に神座を設けて報国隊士・大久保初太郎が祭主を務めて招魂祭を行い、明治2年になって大村益次郎が九段坂に招魂社を仮設したのです。
やがてその地で靖国神社と呼ばれるようになると、慶応元年8月6日に長州の下関・桜山で蛤御門の責めを負って自刃した福原越後の招魂祭を行い、その後も蛤御門の変や長州征伐の犠牲者を弔うための招魂祭の祭主を務めていた萩の椿八幡宮宮司・青山是清(後に清と改名)を宮司に迎えました。このため靖国は安政の大獄の犠牲になった吉田松陰や橋本左内を含む戊辰戦争に於ける薩長土肥側の戦没者を軍神として祀りながら、同じ戊辰戦争の幕軍側戦没者は未だに「賊徒」として差別し、第2次長州征討の岩国口、大島口、石州口や馬関の戦いで戦死した各藩兵や鳥羽伏見の戦いでの会津、桑名などの幕軍兵と新撰組、上野の彰義隊、さらに長岡の河井継之助、会津の白虎隊、五稜郭で死んだ土方歳三などは賊徒として差別されたままになっています。
しかし、日本国内で行われた戦いの戦没者を敵味方として差別し続けているような施設に果たして国家の慰霊を担う資格があるのでしょうか?東北人の野僧としては疑問以前に深い憤りを禁じ得ません。
靖国が批判される理由としては、先ずA級戦犯の合祀問題がありますが、これは戦前の厚生省が戦没者名簿を靖国に通知していたことを戦後も踏襲し、A級戦犯も捕虜虐待などの罪で刑死したB・C級戦犯と同じく戦没者に加えられたことを事務的に処理した結果であって、徴兵によって戦争に駆り出され国家に殺された者と国の名を以って戦争を引き起こして多くの国民を殺した者を同列に拜礼の対象とすることの可否について真剣な考察があったとは決して言えません。
国家を滅ぼし、戦死、戦災死を合わせれば300万人を超える国民を殺し(朝鮮人は24万人、台湾人は21万人)、塗炭の苦しみを与えた大罪人を合祀しながら、郷土を思い、主君に忠節を尽し、大義に殉じた多くの武士たちを賊軍に貶めたままなのはどう言う理屈でしょう。
それにしても許せないのは平成21(2009)年に亡くなった南部利昭宮司で、盛岡藩主・南部家の45代当主でありながら、日露戦争で戦死した祖父・利祥の慰霊に励んだだけで戊辰戦争の佐竹攻めなどで戦死した藩士の復権は放置したままだったそうです。
そもそも南部家は奥州藤原氏滅亡後に鎌倉から派遣された源氏の進駐軍であり、戦国時代末期には秀吉の派遣軍の力を借りて自分に従わない九戸政実の城を包囲し、「今、降伏すれば家臣・領民は許す」とだまして捕縛し、一族郎党、家臣領民、男女養老の別なく皆殺しにした後、本人も斬殺しました(今でもこの惨劇が起きた9月4日には九戸城跡に武者の亡霊の行列が現れ、女子供の泣き声が響くそうです)。
また、江戸時代には天明の大飢饉によって米が値上がりしたことを知り、領民から翌年の種もみまで取り上げて飢饉からの回復を絶望的なものにし、さらに先に高い官位についた津軽藩主・寧親公を逆恨みして悶死し、その恨み言を遺志と受け取った藩士・下斗米秀之進に暗殺を計画させるなど(相馬大作事件)、領民のことなどは全く考えていない暗君、暴君揃いの家系ですから当たり前かも知れません。
庄内の酒井家など心ある旧奥羽越列藩同盟の旧藩当主は戦後になって寄せられるようになった靖国からの宮司就任の要請を断っているそうですから、旧藩主を取り込むことで賊軍扱いの問題を回避することが狙いではないかと疑ってしまいます。
また、最近は本人や遺族の遺志を無視して合祀された問題での裁判も相次いでいますが、これも同様にお役所仕事の結果であり、裁判所は法的手続きの正当性からの判断しかしませんから、本来は精神=情の問題であるべき宗教問題の是非・可否を判断するのには相応しくありません。
ここで宗教的な問題を指摘すれば、仮に靖国は神社であるとすれば、英霊として神域に封じ込められた魂魄は結界から出入りすることはできません。
つまり遺された奥さんや子供たちが亡くなって、愛する夫や恋しい父と再会したいと願っても、鳥居で遮られてしまい果たせないのです。
野僧は多くの戦没者の遺族や元軍人の方からお話を伺ってきましたが、「戦死した夫は靖国で軍神なる」ともてはやされるのに任せていたが、本当は「自分の傍で見守っていて欲しい」と願っていたと言うのが遺族たちの真情、「戦死してまで軍人だけで集められてたまるか。俺は家の墓で先祖と一緒に家族を守ると決めていた」と言うのが死線を潜ってきた元軍人たちの本心だったようです。
もう1つ、戦没者が死ぬまでに念佛を唱えていれば阿弥陀如来と観世音・大勢至菩薩の迎接を受けて西方浄土に往生しており、戦死の通知を受けた役所が事務処理をして、靖国に通報した頃には魂魄は西方十万億土の蓮の上です。
果たして靖国の神職に十万億土から呼び返すだけの力があるのでしょうか。
この2つの歌を比べてみれば、どちらが遺族の心情に近いか判ると思います。
ベトナム戦争の反戦歌・愛する人に歌わせないで(森田公一・詞曲)
もう泣かないで坊や あなたは強い子でしょう
もう泣かないで坊や ママは傍にいるの
あなたのパパは強かった とても優しかった
だけど今は遠い 遠いところにいるの
ほら見てごらん坊や きれいなお星さまを
ほら見てごらん坊や いつもあなたを見てるの
ママはいいの一人でも あなたが傍にいれば
だってあなたはパパの パパの子供だから
あなたのパパは坊や 私たちのことを
あなたのパパは坊や とても心配してたの
戦いに征くその日まで きっと無事で帰ると
かたい約束をして 出掛けていったのに
あなたのパパは坊や あんなに云ったけど
あなたのパパは坊や ここに帰らないの
あなたが大きくなったら 愛する人に二度と
歌わせないで頂戴 ママの子守唄を
軍国歌謡・軍国子守唄(詞・山口義孝 曲・佐和輝禧)
坊や泣かずに ねんねしな 父さん強い 兵隊さん
その子がなんで 泣きましょう
泣きはしません 遠い満州の お月様
ねんねおしおし ねんねすりゃ 父さん匪賊 退治して
凱旋なさる おみやげは
きっと坊やの 可愛い坊やの 鉄兜
坊や大きく なったらば 兵隊さんで 出征して
母さん送りに 行ったなら
汽車の窓から 笑って失敬 するでしょね
野僧は単なる追悼と記録の場としての戦没者慰霊施設を作るべきであり、その場所としては神奈川県横須賀市の戦艦・三笠記念公園に沖縄県摩文仁の平和の礎のような戦没者名簿の碑を併設するのが良いのではと考えています。
戦艦・三笠であれば大東亜戦争の戦没者だけではなく、明治以降の戦役の魂魄を慰霊すると言う位置づけも明確であり、非宗教の慰霊施設であっても戦艦・三笠と言う歴史的記念物により来場者は維持できるでしょう。
靖国の役割は都内きっての桜の名所と戦争博物館だけで十分です。
南無十方三世一切諸佛八百万神々
村田蔵六さん(出身地の鋳銭司自治会制作)

靖国(神社)

これは地元・山口新聞歌壇で二席になった拙歌です。
「死んでまで 靖国などへ 逝くものか 家のお墓で 御先祖になる」
- 2013/11/01(金) 09:55:07|
- 月刊「宗教」講座
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1942(昭和17)年の明日11月2日は詩人・作詞家の北原白秋さんの命日です。
野僧の故郷・愛知県岡崎市の市歌(1937年6月29日制定)は白秋さんの作詞で、小学校の音楽の授業で白秋さんの作品を習った時に女教師がそう説明したのでリクエストしましたが肝心の歌は知りませんでした。7月1日の市制記念日(=野僧の誕生日)でも歌っていなかったのか記憶にありません。勿体ないことです。
白秋さんを福岡県柳川市の生まれ、実家を生家と記している観光ガイドがありますが、実際は1885(明治18)年1月25日に熊本県玉名郡南関町の叔父宅で生まれ、間もなく柳川の自宅に移ったのだそうです。
北原家は柳川の江戸時代から油屋と海産物問屋で財を成した豪商で、父親は隆吉、母親はシケと言って、白秋さんが生まれた頃には造り酒屋も経営していたようです。
老舗のお坊ちゃんとして育ち、1891(明治24)年には地元の尋常小学校に入学し、高等小学校を経て福岡県立伝習館中学校(現在は高校)に進学したものの詩作に熱中し、1899(明治32)年には成績不良で落第してしまいますが、本人は同人誌に詩を載せ、この頃から「白秋」の号を用い始めます。
1901(明治34)年、酒蔵が全焼して家運が次第に傾き出しますが、1904年には父に無断で中学を中退して早稲田大学英文科の予科に入学しています。
上京、入学後は同郷の歌人・若山牧水と親交を持ち、短歌にも励むようになりますが、やはり詩人と唱歌・童謡などの作詞家として名を為していきます。
有名なところでは童謡の「雨降り」「あわて床屋」「待ちぼうけ」「ペチカ」、唱歌では「からたちの花」「この道」「砂山」「城ヶ島の雨」「ゆりかごのうた」など我々の世代なら学校で習った歌が並びますが、このほかにも「松島節」「ちゃっきり節」と言った民謡は「砂山」「城ヶ島の雨」などと共に御当地ソングとしても愛唱されています。
一方、晩年には国家主義に傾倒し、今上さんが生まれた時には「皇太子さまお生まれになった」、ヒトラー・ユーゲンスが来日した時には「万歳ヒトラー・ユーゲント」を作詞しています。その他にも「伏見軍司令部総長宮(「官」ではなく「宮」です)を讃え奉る」「ハワイ大海戦」「マレー攻撃戦」「海道東征」などの軍歌もあるそうですが聞いたことはありません。
白秋さんは1937年に糖尿病の合併症で腎臓病と眼底出血を起こして、ほぼ視力を失い、次第に弱って行きますが、1941(昭和16)年の春には数十年ぶりに故郷の柳川と生誕地の熊本県岡関町を訪れています。そして1年半後のこの日に亡くなりました。
- 2013/11/01(金) 09:46:11|
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