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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月29日・作曲家・山田耕筰の命日

1965(昭和40)年の明日12月29日に作曲家の山田耕筰さんが亡くなりました。
山田さんは「耕作」と書かれていることがありますが、本来は「耕筰」で(戸籍上の変更は戦後になってから)、40歳代の頃に頭が禿げて、「カツラをかぶれ」と馬鹿にされたことに反発し、「作」に「ケ(毛)・ケ」が付いた「筰」へ変更したと言われています。本当は同姓同名の人が多く(野僧の親戚にもいる)、著作権などの手続き上の混乱を避けることが理由だったようです。
山田さんは1886(明治19)年に東京都文京区本郷でキリスト教伝道師の息子として生まれました。フォークの神様・岡林信康さんも牧師の息子ですが、「賛美歌を聞いて育ったことが音楽性の基礎になった」と言っていますから、山田さんも同様なのかも知れません。
山田さんが10歳の時、父が死去し、遺命によって日本基督教巣鴨教会に入れられ、13歳まで寄宿生活をおくります。その後、外国人宣教師と結婚していた姉を頼って岡山の養忠学校に入り、ここで正式に西洋音楽を学んだようです。
14歳の時に関西学院(同じように「関西」と書いてもキリスト教系の学校は「かんぜい」と読みます)、の中学部に入学しますが1904年に本科を中退して東京音楽学校予科に入学し、1908年に同校の声楽科を卒業します。
1910年から3年間、三菱財閥の総帥・岩崎小弥太(弥太郎の息子)の援助でベルリン音楽学校の作曲科へ留学し、帰国後は岩崎が組織していた日本フィルハーモニー会の管弦楽部の主席指揮者になったものの、結婚したはずの山田さんが別の女性に手を出したことを知った岩崎が激怒して出資を取り止めたため、この会は解散することになります。
その後も楽団を組織しながら本人の不行跡で失うことを繰り返していきますが、やはり並はずれた才能は必要とされ続けたようです。
山田さんと言えば日本語のイントネーションを活かした曲調の歌曲が有名で、特に北原白秋さんと共作の「からたちの花」「この道」「赤とんぼ」「ペチカ」「待ちぼうけ」「あわて床屋」などに親しんできた者は唱歌・童謡の作曲家と思っていますが、実際には日本人初の交響曲「かちどきと平和」を始めとする多くの交響曲やオペラ、舞踊曲などを作曲した和製クラシックの第1人者だったのです。
ちなみに北原白秋の時に紹介した野僧の故郷・愛知県岡崎市の市歌も作曲しています。
活躍した時節柄、軍歌も数多く手掛け、中でも「燃ゆる大空」は軽快ながら威風もあり、航空教育隊の隊歌(軍歌)係だった野僧は必ず教えるレパートリーにしていました。
こうなると敗戦後、他の文化人同様に戦争協力者として批判を受けることになりましたが、所詮は専門馬鹿に過ぎない芸術家に国家が邁進している戦争に抵抗することを求めるのは、いささか無理があるのではないでしょうか。
軍楽隊長を務めていたアメリカのグレン・ミラーは勝った側だったから戦死した後も英雄と称えられ、ドイツの女優・マレーネ・デートリヒは亡命して反ナチスの宣伝に協力したから英雄になったのですが、その影でドイツなどの素晴らしい芸術的才能が刈り取られてしまいましたから手放しで賛同はできません。
そもそも批判の繰り広げたマスコミこそ世論を煽った責任を負うべきです。
山田さんは昭和23年に脳溢血で倒れ、身体が不自由になりますが、それでも25年には指揮者協会の会長に就任し、昭和25年には文化勲章を受章しています。
しかし、戦後のエピソードは間隔が開いていて、昭和40年に亡くなるまでは燃え尽きかけた残り火・余生のような過ごし方だったのかも知れません。
  1. 2013/12/28(土) 09:59:30|
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ミハイル・カラシニコフ博士の死去について

ロシアのミハイル・カラシニコフ博士が23日に亡くなりました。94歳だったとのことです。
カラシニコフと言えば拳銃のトカレフと共にガンマニアにはよく知られた名前で、ソ連軍が使っていた銃器の多くは博士の設計だったようです。
自由主義経済の欧米は武器も各メーカが独自性、優位性を競い合って技術革新されていくのですが、社会主義だったソ連では国家から命じられる性能を実現するための研究を各御用技術者が担っていたのです。
カラシニコフ博士は第2次世界大戦開戦直前の1938年に徴兵され、戦車長として独ソ戦に参加し、砲撃を受けて負傷したことで、銃の研究に取り組むようになったそうです。
博士が設計した最高傑作はAKー47小銃でしょう。これは1945年から47年に行われた開発コンテストで評価され、49年に制式化されたもので、当時のアメリカの小火器がMー1ガーランド小銃、Mー1カービン騎銃、トンプソン軽機関銃などであったのに比べても画期的な設計ですが、ナチス・ドイツ軍のハーネルStG44突撃銃がモデルと言う説もあります。
しかし、こんな話をしていても旧日本軍の武器とはレベルが違い過ぎて愕然とします。
野僧はAKー47の7・62ミリ(当時のNATO弾とは別)から5・45ミリに口径を変更したAKー74をいじったことがあります。
外観上は木製の部分があり、プラスチックと軽合金製のアメリカ軍のMー16と比べると時代遅れな印象を受けましたが、手袋をはめたまま分解・結合できるほど堅牢・単純な構造で、それを売りにしているMー16よりも実用性を感じました。
重さはMー16より重く、64式小銃よりは軽いのですが、30発入りの弾倉を装着するとバランスに問題がありました。
また弾倉はバナナ型と言う円を描いた形状のため、弾を込めるのに立てることができず手間取りました。隣りで現地軍の兵士がやっていましたが手早くはありませんでした。
射ってみると銃身が短いため集弾性=命中率は低いようでしたが、自衛隊式に精密に狙うのを見ていた士官は「これは狙撃銃ではない」と呆れていたので使用目的が違うのでしょう。
反動はMー16よりも弱かったですが、引き金が固く日本人の指ではガク引きになってしまうかも知れません。
AKー47や74はソ連(ロシア)、中国、北朝鮮からの輸出だけでなくフィンランドのパメル社がライセンス生産したRk62など世界各国で製造されており、特にイスラエル軍はアラブ人ゲリラとの戦闘で砂漠の過酷な環境下でも作動不良を起こさないAK―47の優位性に着目し、パメル社の銃を参考にしてIMIガリルを開発しています。
ガリルはその後のNATO弾の変更に合わせた改良を加えられ、現在も主力小銃になっています。
その意味でカラシニコフ博士が設計したAKシリーズは世界で最も使用されている軍用小銃になり、「人類史上、最も多くの人を殺した武器」と呼ばれています。
  1. 2013/12/27(金) 09:40:19|
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12月27日・虎ノ門事件が発生した。

1923(大正12)年の明日12月26日に虎ノ門事件が発生し、このため第2次山本権兵衛(やまもとごんのひょうえい)内閣は総辞職しました。
この日、摂政を務めておられた皇太子、後の昭和の陛下が貴族院議会に出席されるため自動車で宮城を出ようとしたところを、虎ノ門付近の群衆に紛れていた難波大助がステッキに仕込んだ散弾銃で狙撃したのです。
弾丸は窓ガラスを破りましたが摂政の宮に怪我はありませんでした。ただし同乗していた侍従長は軽傷を負ったようです。
犯人の難波大助は犯行直後に群衆から袋叩きにされていて、警察は逮捕よりも保護する状態だったそうです。
その後、大逆罪(当時の刑法にあった皇族に対する犯罪)で告訴され、大審院(現在の最高裁判所・大逆罪は最初からここで審理される)では皇室の権威を保つため、難波に罪を悔いる供述をさせた上で死刑の判決を出し、皇太子からの恩情で減刑する方針でしたが、難波が自分の正当性を主張し続けたため死刑にせざるを得ず、1年後の大正13年11月15日に執行されています。
この大逆罪は明治24年に来日していたロシア皇太子が警備の警察官・津田三蔵に斬りつけられて負傷した大津事件でも政府は適用しようとしたのですが、当時の司法当局は「法律を政治的に変造することはできない」と拒否し、傷害罪で無期徒刑(現在の無期懲役)にしたことがあります。
難波大助は共産主義者で、関東大震災後の社会不安や無政府主義者・大杉栄・伊藤野枝とその子供の3人(愛人関係なので夫婦ではない)が甘粕憲兵大尉に連行され拷問死した事件や高徳秋水への大逆事件などの無政府主義者、共産主義者への取り締まりに不満を抱き、犯行に及んだそうです。
難波大助は共産主義者と言いながら山口県選出の衆議院議員・難波作之進の息子で、中学校時代、帰郷した田中義一陸軍大臣(後の首相)の出迎えで沿道に駆り出されたことで反権力の意識が芽生えたそうです。他所の者なら「疲れたなァ」「馬鹿らしい」と不平不満を言って終わる話が、天下国家の問題になってしまうのは山口県人気質かも知れません。
事件後に父は議員を辞職し、自宅の門を江戸時代の蟄居の作法に則って交差させて縛った竹で閉じ、一切の食事をとらず餓死したそうです。
しかし、この後が極めて山口県的で、難波作之助の辞職で欠員になった議席を松岡洋祐が受け継ぎ、戦後は岸信介と佐藤栄作兄弟の選挙基盤になりました。
さらに犯行に使われたステッキ仕込みの散弾銃は伊藤博文が長州ファイブとしてイギリスに留学した際、入手して持ち帰った物だったそうです。
しかし、大学の刑法の講義で、現在はない大逆罪に1時限を使い、教授が熱弁を奮っていた理由、目的は理解できないままです。よほど皇室が嫌いだったのでしょう。
(ただし、難波大助の実家の話は地元で聞きました)
  1. 2013/12/26(木) 09:32:13|
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12月26日・徳川家康公の誕生日

1542(天文11)年の明日12月26日(太陰暦)は東照大権現・征夷大将軍・源氏の長者であらされる神君・徳川家康公の誕生日です。
家康公は野僧の故郷である愛知県岡崎市の生まれなので、子供の頃から矢作川越しに岡崎城を臨んでは存在を身近に感じていました。
ちなみに岡崎城の北側には家康公が生まれた場所と伝わる「康生町」と言う地名がありますが、岡崎公園内の産湯の水を汲んだとされる井戸からは結構離れていて、首を傾げていました。この井戸も野僧が子供の頃には柵を越えて覗くと底の方に水が見えましたが、20年ぶりに行った時には石が投げ込まれていて半分近く埋もれていました。このためか井戸の上は金網で厳重に覆われていて、歴史を感じるには興醒めになっています。
家康公は岡崎城主の松平広忠と正室・於大(おだい)の方との間に生まれたのですが、母の実家の水野氏が織田方についたため今川と同盟を結ぶ松平氏としては離縁せざるを得ず、竹千代(家康公の幼名)は2歳で母と生き別れになってしまいました。この母とは織田信長と同盟を結んでから縁を取り戻し、やがて引き取って晩年を一緒に過ごしましたからハッピーエンドではあります。
その後、今川の人質として駿府に向かう途中で渥美半島の領主・戸田氏に裏切られて織田に送られ、それを取り戻されてそのまま駿府に送られ、そこで父が家臣に殺されるなどの苦難の人生は有名なので省略します。
やはり家康公と言えばやはりこの遺訓でしょう。
「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝つることばかりを知りて、負くることを知らざれば害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり」野僧は幼い頃から父が気に入らないと言う理由だけで、掲げていた志を踏みにじられ、描いていた夢を破り捨てられ、育てていた愛を引き裂かれ続ける苦難の人生に耐えてこられたのも、小学校時代にこれを暗唱し、折に触れて詠いながら噛み締めてきたからでしょう。
東照権現
  1. 2013/12/25(水) 09:55:15|
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12月25日・カトリックとプロテスタントのクリスマス

明日12月25日はローマ・カトリックとプロテスタントのクリスマス(降誕祭)です。
ただし、これはローマ・カトリックがヨーロッパの冬至のお祭りとクリスマスを重ねたもので、オーソドクス(ギリシャ正教・ロシア正教)やコプト(エジプトを中心とするアラブ圏のキリスト教)、アビシニア(エチオピアのキリスト教)などローマ・カトリックより前のキリスト教では1月7日をクリスマスとしていることが多いようです。
尤も日本のロシア正教の教会では「12月の方が定着している上、年明けでは正月の影に隠れてしまう」と言うことで12月25日にしていると聞きました。
それにしても西暦はイエスさんが生まれた年を紀元としているはずですが、1月7日生まれと12月25日生まれでは約1年の開きがあり、カミの祝福をこの世にもたらす救世主とされるイエスさんが、西暦1年にほぼ1年間存在したのか、1週間足らずだったのかは宗教上、大きな問題です。
紀元前の英語標記・BCとはビフォー・クライスト(キリスト以前)の頭文字であり、そのイエスさんが12月生まれでは、紀元1年も事実上のBCと言うことになりますから。
と言う質問をキリスト教の聖職者にバラ撒いているのですが回答がありません。
クリスマスカード(ドイツ発)
昨年はオーストラリアから届いた真夏の海で遊ぶサンタクロースのクリスマスカードを紹介しましたが、今年はドイツから届いた歴史の匂いがするカードです。
何で佛教の坊主のところへ世界各国からクリスマスカードが届くのやら・・・合掌。
  1. 2013/12/24(火) 08:51:20|
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12月23日・東京裁判に於けるA級戦犯死刑囚の刑が執行された。

昭和23(1948)年の明日12月23日の午前0時から東京裁判に於けるA級戦犯のうち死刑が確定していた7名に刑が執行されました。
死刑は巣鴨拘置所内で吊首刑(いしゅけい)として執行されたのですが、先に土肥原賢二、松井石根、東條英機、武藤章の4人(全員、陸軍大将)、続いて板垣征四郎、木村兵太郎(どちらも陸軍大将)と唯一の文民である広田弘毅元首相の順でした。
巣鴨の処刑場は同時に5人まで執行できたのですが、1つは予備として使用せず4人と3人に分けたようです。
それにしても目の前で長年、生活を共にしてきた人達の死刑が執行され、その遺骸を片づけるのを見ながら自分の死を待つ気持ちはどのようなものだったのでしょう。
野僧はあるルートでこのうち4名の遺骸写真を見たことがありますが、手には手錠をはめたままで、服装の乱れや首吊り死体によくあるような苦悶の表情もなく、比較的穏やかな死に顔でした。その点、ナチス戦犯の遺骸の方が悲惨でした。
この日に執行されたのは今上さんの誕生日=将来の天長節を選んだと言う説が一般的ですが、米軍関係者の意見としては、その時点では皇太子に過ぎなかった今上さんの誕生日よりも、兵員が揃って休暇を取るクリスマスまでに片づけたかったのではないかと言うことです。何より皇室が存続するか否かは連合国の胸一つでしたから。
何にしろ彼らにとって死刑の執行も業務の1つに過ぎず、命令を受ければ淡々と手順通りに7人の命を絶ったのです。
野僧はこの7人の遺灰が納められている「殉国七士廟」がある三ヶ根山の麓の高校へ通っていましたが「国を滅ぼした罪人」以上の特別な感慨はなく、日本人の代わりに連合国が罰してくれたのだと思っていますから「命日だからどうしろ」とは申しません。
右傾の方なら明日の天長節は一般参賀で宮城へ行って「万歳」を歓呼した後に靖国へ参拝して冥福を祈れとでも言うのでしょうけど、野僧は単にあの戦争に於ける1つの区切りがついた日であることだけをお知らせしておきます。
  1. 2013/12/22(日) 10:23:32|
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2月19日・スミソニアン・レートが決定し、1ドル360円時代が終わった。

1971(昭和46)年の明日2月19日に10カ国蔵相会議(G10)でスミソニアン・レートが決定し、1ドル360円時代が終わりました。
それまでは第2次世界大戦中の1944年に開かれたプレトン・ウッズ会議で確立された固定相場制だったのですが、これを止め、変動相場制に移行したのです。
プレトン・ウッズ会議とは世界恐慌前後から主要各国が金本位制から脱落していく中、これを維持していたアメリカに対する各国通貨の取引を固定化するものだったのですが、通貨の発行数の増大と金の産出量の減少により制度の維持が困難になり、1971年8月15日にアメリカのニクソン大統領が放棄を宣言したため、これを受けアメリカのスミソニアン博物館で行われたG10による会議で、アメリカ・ドルに対する増価を前提とする変動相場制への移行に合意しました。
金本位制とは貨幣の価値を金との交換によって定めていた=どれだけの金と交換できると言う保証を国家が行っていたもので、これを採用していた当時の日本の紙幣には「この券で金××(単位は匁だったと思います)と交換できる」と明記されていました。
つまりアメリカ・ドルは金に交換が可能であると言う信用から、他国通貨との交換レートによる保証に流通の構造が転換されたのです。
日本経済も1ドル=360円から308円前後に変更されたため、輸出産業を中心に大きな打撃を受けました。ニュースで円とドルの相場を伝えるようになったのは、この時からですが、おかげで何も知らない小学生も「ドル・ショック」「変動相場制」と言う言葉を覚えてしまいました。
ただ、スミソニアン体制の終焉は予想外に早く訪れました。
何よりもドルの準備高が流通の国際化に見合うだけの量を確保できておらず、ドルの乱高下による国際経済の不安定化に対処するため、1973年3月には為替相場制に移行することになったのです。
これにより輸出入のための外貨準備を目的として流通量の増減で高騰・下落していた通貨価格に、差益で儲ける不純な投機が介在するようになり、国際経済の不安定化による暗い影を落としているのは事実でしょう。
ところで日本は江戸時代まで金本位制ならぬ米本位制だったのです。将来、食糧危機が来れば紙幣に「この券で政府標準米×合と交換できる」と言う印刷が復活しませんかね。金よりは実用的でしょう。
  1. 2013/12/18(水) 09:54:49|
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12月5日・ウォルト・ディズニーが誕生した。

1901年の明日12月5日にシカゴでウォルト・イライアス・ディズニーが誕生しました。野僧が保育園の頃に愛読していた偉人伝では、1966年没のウォルト・ディズニーと1968年没のヘレン・ケラーは唯二、存命の方でした。
伝記の後ろには保護者向けの解説があり、そこも読んでいたので詳しいのですが、ウォルトは大都市のシカゴで生まれたものの、両親が幼い頃にミズーリ州マルスリーヌへ移住して農場を経営することになり、そこで鳥や虫、花などの自然を友として育ったようです。農場の傍に走っていた鉄道の汽笛の音が大好きで、後年、大成功を収めて建てた邸宅に8分の1サイズの鉄道模型を走らせ、それに乗って遊ぶのが趣味と書いてありました(写真入りだった)。
また、幼い頃から絵が大変に得意で、小学校に入る頃にはスケッチを近所の人たちに売っていたそうです。その時期、父親が新聞販売業を始めたため、兄と一緒に朝3時半起きで配達を手伝うようになり(無給)、このため老齢になってからも「配達を寝過した夢を見る」と紹介されていました。
11歳の頃、カンザスシティーに引っ越したため、そこで絵画学校に入学して本格的に学ぶことができたそうです。
その後、再びシカゴに引っ越して、高校と一緒に夜間の絵画学校にも通っていたのですが、第1次世界大戦が勃発すると学校を退学して、兄と共に志願兵としてヨーロッパへ赴きました。しかし、ウォルトは若年であったため兵にはなれず赤十字社の衛生兵として負傷者の輸送に従事したようです。
1年後、終戦によって帰国し、カンザスシティーに戻りますが、新聞の漫画や広告のデザインなどの仕事で食いつなぎながら、1920年に友人のアイワークスと「ディズニー&アイワークス・カンパニー」を立ち上げたものの、ウォルト自身がアニメーターとして映画会社に採用されたためあえなく頓挫、そのままアニメの技術を磨きます。
アニメ映画が成功して仕事が入るようになると独立しますが、雑な経営のため倒産することを繰り返したようです。やがてハリウッドに進出しますが、ここでも同様のことになっています。その失意のどん底の中で自社のキャラクターとして以前、餌付けしていたネズミをヒントに描いたのがミッキーマウスです。
伝記では貧しいウォルト青年が仕事場に顔を出すネズミに餌を与え、次第に慣れて手の上で餌を食べるようになる情景が感動的に語られていましたが、近所の小母さんはネズミ捕りにかかったミッキーマウスを水に漬けて殺していました。
1955年、カリフォルニア州アナハイムにディズニーランドを建設し、日本でも金持ちが海外旅行で行く憧れの地になっていましたが、今では千葉県浦安市にも「東京」ディズニーランドがあります。
野僧は基本的にディズニーの映画は嫌いです。何故ならヨーロッパ人以外を描く時には、醜くさを強調していて、上目遣いの媚びるような表情は見ていて気分が悪くなります。
さらに実写映画でもアメリカの庶民的な自由さを賛美し、伝統文化を破壊する展開ばかりで、その低俗な文化に酔った馬鹿な大人が増えたことが日本人の劣化につながったように思われてなりません。そもそも真珠湾攻撃で日本軍が病院を攻撃したと言う史実に反する場面を描いていた「パール・ハーバー」もディズニー映画でした。
  1. 2013/12/04(水) 10:16:49|
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第14回月刊「宗教」講座・一休さん特集

11月21日は臨済宗大徳寺48世・一休宗純禅師の命日でした。
一休禅師は室町時代の始めの頃、京都で生まれましたが、父は南北朝統一後の最初の天皇である後小松帝、母は南北朝が争っていた時、南朝方だった公家の娘だったそうです。南北朝の和睦が成ったと言うものの実際には足利幕府の武力を後ろ盾にした北朝の軍門に南朝が下ったのであり、敗者側にあった者の娘が勝利者のトップに仕え、その寵愛を受けることは許される訳がありませんでした。
そのため懐妊した母は御所を離れて京都の西・嵯峨野の民家に身を隠し、そこで一休を生み、人知れず育てました。そして六歳の時、安国寺で出家したのです。
その時の僧名は「周建」で、一休と言うのは25歳の時に受けた道号であり、テレビなどで人気を博している可愛らしい子供の「一休さん」は存在しません。
子供の頃の一休さん、元へ周建さんと言えば頓知咄ですが、有名なところでは「屏風の虎の咄」「このはしわたるべからずの咄」「息が臭い咄」「水飴の毒の咄」などがありますが、これらの頓知咄は禅の教えを子供時代の一休さんに託し、判り易く説いたものとされています。
たとえば「屏風の虎の咄」ですが、ある日、少年一休(便宜上の呼称)は三代将軍・足利義満に呼ばれ、「屏風の虎が逃げ出さないように縛ってくれ」と言われました。
すると一休は鉢巻きに襷掛け、荒縄を手に持って身構えながら「さァ、縛るから虎を追い出して下さい」と言い放ちました。
これは「臨機」=機に臨むと言う禅の精神を表しています。現在、大変人気がある宗教家・ひろさちやさんは「これは虎が屏風から逃げ出してから縛ればいいのだから、屏風の虎を縛るなんて言う無駄なことは必要ないことを教えている」と解説していますが、これでは曹洞宗の黙照禅であって臨済宗の「悟る」禅とは気風が違います。
「虎を縛ろう」と真剣味をもって屏風の虎に立ち向かった少年一休が発した「虎を追い出してくれ」の一言で、義満以下の大人たちは自分たちが脇役、端役に過ぎない
いことを思い知らされたのです。禅語に曰く「随所作主 立処皆真」。いかなる舞台でも主人公とは最も真剣な演じ手のことです。
次に「このはしわたるべからずの咄」です。ある日、意地悪な施主家に呼ばれた住職と少年一休は、施主の屋敷の前を流れる小川に架かっている橋の手前の立て看板に困惑します。そこには「このはしわたるべからず」と書いてありました。
ところが一休は意に介さぬように堂々と橋を渡り、屋敷の前で見ていた施主は「看板が見えぬか」と文句を言いました。それに一休は「端は渡っていない。真ん中を通った」と答えました。これは「不立文字(ふりゅうもんじ)」です。
言葉即ち知識とは本来、人間がより良く生きるための道具に過ぎません。しかし、現代人は逆に知識に縛り付けられて、知識を通してしか物事を理解しようとしません。
人の心やこの世の大きさが知識などで語り尽くせるほど小さなものではないことを忘れ、自分が持つちっぽけな知識の中に無理やりはめ込もうとする。
「このはしわたるべからず」と言われれば、もう目の前の橋に歩み出せない。そして、橋と端が、どちらも「はし」であることに気づかされた時、我々は「言葉・知識」と言う道具の無力さを痛感しなければならないのです。
続いて「息が臭い咄」」です。ある夜、少年一休が灯明を口で吹き消したのを見咎めた和尚が「人の息は生臭いので佛さまが嫌がられる」と注意しました。
翌朝のお勤めの時、一休は後ろを向いてお経を詠んでいるのに気づいた和尚が、すかさず「佛さまに尻を向けるとは何事か」と叱ると、一休は平然と「生臭い息を吹きかけては佛さまが嫌がられます」と答えました。
我々が「当然」と思い込んでいる物事で、単なる形式に堕していることがどれ程多いことか。かつてアメリカの文化人類学者・ルース・ベネディクトは著書「菊と刀」の中で日本人の行動様式を「恥の文化」と定義付けましたが、我々が物事を決定する最大の価値基準は「周囲との調和」であり、他人と同じであることが日本人にとって非常に重要であり、何よりも安心なのです。
和尚にとって灯明を息で吹き消すことの是非は過去の経験と周囲との比較以外の根拠を持っていた訳でなく、この形式的な思考は本来「透脱自在(とうだつじざい)」を志向すべき禅僧としては怠慢、不徹底であり、一休の尻は佛さまでなく、実は和尚に向けた警策の一打だったのです。
最後に「水飴の毒の咄」です。和尚が小僧たちに隠れて舐めている水飴。それが甘い水飴だと知っている小僧たちは舐めたくて仕方ありませんでした。
すると和尚は「これは大人が舐めれば薬だが、子供が舐めると死んでしまう毒になる」と説明して壺を隠しました。ところが和尚が出掛けた留守に、甘いものに飢えていた小僧たちは壺を見つけると夢中で舐めました。気がつくと壺は空っぽになっていて、我に返り途方に暮れる小僧たちに一休は案じた一計を示しました。
それは和尚が大切にしている硯を叩き割り、小僧たちと一緒に横になって待つと言うものでした。帰山して驚く和尚に一休は「大切な硯をわってしまったお詫びに毒を舐めて死のうとしましたが死ねません」と答えたのです。
水飴も舐めて死ねば毒であり、病を癒せば薬です。事実を事実として受け留めるのに釈尊以来の戒律も邪魔になることがある。
ある時、青年一休は水浴びする女人の秘部を拜みました。それを訝る村人に一休はこの道歌を詠んで答えました。
「女をば 法の御蔵(みくら)と 言うべかり 釋迦も達磨も ホイホイと生む」
佛教の戒律では女性は修行を妨げる毒とされています。しかし、その毒から佛教を開いた釋尊も、禅宗を始めた達磨も生まれてきたのです。
つまり毒にするのも薬にするのも、まさに飲む者、舐める者次第なのです。
反体制の思想を持つ現代の文化人、評論家などは一休禅師の破戒を「戒律に縛られることへの反発、戒律の否定だ」と評しますが、野僧は一休禅師の精神が、そのような否定の上に立つとは思っていません。
京都・真珠庵には一休禅師の「諸悪莫作(もろもろの悪をなす莫れ)」「衆善奉行(ことごとく善を奉行せよ)」の書が遺っていますが、その迫力に満ちた筆跡からは一休禅師の「善」なるものへの強烈な志向が伝わってきます。
先ほどの橋と端の言葉遊びではありませんが、一休禅師にとって禅とは善であり、善なる心で為すことは全て許されることを、その実践で証し得たのです。
ある日、一休禅師の熱烈な信者の妻が庵の掃除に来たのですが、その埃に汚れながら甲斐甲斐しく働いている姿を見て、「そなたは美しい。抱きたい」と言いました。
するとその妻は「このスケベ坊主、エロ爺々」と言ったかどうかは知りませんが、兎に角、怒って家に帰り夫にそのことを訴えました。すると夫は「一休さまに抱いていただけばこれ程の果報はない。すぐに戻って抱いてもらえ」と言いました。
妻はすっかりその気になって、綺麗な着物に着替え、念入りに化粧をして庵にもろりましたが、一休禅師は妻の艶やかな姿を見て「そんなあんたにゃ興味はない。帰っておくれ」と追い出したそうです。妻は「今度は恥をかかせた」と前回以上に怒って帰ったそうですが、夫は「流石は一休さま、抱くも抱かぬも自由自在」と敬服し、益々信心を深めたそうです。
この時、誇りに汚れながら甲斐甲斐しく働く妻を「美しい」と愛でた心は善、「抱いてくれ」と求める女を抱けば欲、一休禅師の破戒の根底には常にこの人間を慈しむ優しさがあります。
ある日、一休禅師が親友の蓮如聖人に頼まれて親鸞聖人の頂相(ちんそう=肖像画)
にこんな讃を入れました。
「襟巻きが 暖かそうな 黒坊主 こいつが法は 天下一なり」
確かに親鸞聖人の頂相は色黒に描かれ、黒の法衣に黒の袈裟で白い襟巻をしていることが多いのですが、一休禅師が「天下一」と称えた親鸞聖人こそ、自らの愚と悪を直視し、心は常に阿弥陀如来に向け、純粋に念佛に生きたいと願いながら立ち切れぬ煩悩の赴くままに公然と妻をめとり、肉食をした方です。
禅僧の偽善に絶望した一休禅師の目には、親鸞聖人の生き様(いきよう)にこそ善に生きた偉大な先達の姿を見いだしたのでしょう。
一休禅師は人間が好きで好きでたまらず、善に生きたいと願いながら善に生きられず、悪に堕してしまう衆生の弱さを哀れみ、愚かさを愛でました。また欲に生きながらそれを善と偽る権力者、聖職者に怒り、糾弾しました。
そして自ら風狂に遊び、破戒を冒して「心が善であれば知識に縛られることも、形式にとらわれる必要はない」と衆生に安心を与え続けました。
最後に一休禅師が生と死について詠まれた道歌を紹介します。
先ず死の広さについて。
「生まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釋迦も達磨も 猫も杓子も」
死とは決して特別なことではなく、生きとし生けるもの全てに平等に訪れる事実です。
次は長さについて。
「門松は 冥土の旅の 一里塚 馬籠もなく 泊まり家もなし」
我々が過ごす1日1月1年は立ち止まることなく死へ至る旅の道程に外なりません。
最後に深さについて。
「人の世は 喰うて稼いで 寝て起きて さてその後は 死ぬるばかりぞ」
人の一生は単純な事実の積み重ねであり、それらを1つ1つ積み上げたあと、「さて」と全てを捨てて死んで逝く。「さて」の一言だけ遺して逝けたなら、素晴らしいではないですか。
これで終われば説法としてはまずまずなんですが、追伸として一休禅師の遷化(逝去)の様子について申し添えます。
晩年、一休禅師は森(しん)侍者と呼ばれる盲目の美女と暮らしていました。
そして死の床で森侍者の手を握り、涙ながらにこう言ったそうです。
「死にとうない。死ぬのが勿体ない」やはり勝てませんね。
南無阿弥陀佛

一休宗純禅師頂相
一休宗純禅師
晩年の一休禅師
老・一休宗純禅師
一休・諸悪莫作衆善奉行
  1. 2013/12/01(日) 00:20:23|
  2. 月刊「宗教」講座
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