あらためて新春の慶びを申し上げます。
本日1月31日は太陰暦の1月1日なので旧正月、ウチナー(沖縄)正月、おまけで中国の春節です。アジアの国々の中で民衆も欧米式のカレンダーで正月を祝っているのは日本ぐらいのものですが、以前はもう少し遅く、春の気配が感じられる候になってからの旧正月だったので、「新春」「迎春」と言う挨拶は、こちらの方が似合うと思っていましたが、いつの間にか大寒直後の真冬に移動していました。
太陰暦4月8日から15日まで釈尊の生涯を祝うスリランカのウェサック満月も以前は5月の下旬でしたが、昨年は4月になっていましたから、おそらく気がつかないうちに閏月があって1カ月早まったのでしょう。しかし、中国の春節も同じ日ですから国際標準になっているとすれば、どこが暦を作っているか興味がわきます。
江戸時代は公儀(幕府)の天文方が天体の観測をしながら暦を作っていましたから、現在なら気象庁や国立天文台になりますが、それでは日本だけの暦です。
中国が総本家を名乗って作るとすれば中東のイスラム諸国が黙っていないでしょう。ダマダンなどイスラムの儀礼も太陰暦で行われますから。
太陰暦では1カ月が30日しかないため1年が360日になり、毎年5日ずつ太陽暦のカレンダーとずれるため、それで6年に1回は閏月を設けるのですが、その難しいところはどの月を重ねることが一番季節感を損なわないかと言う予測です。
8月を閏8月として重ねていながら秋が早まれば涼しい8月、肌寒い9月になり、2月と閏2月にして暖冬になれば、桜咲く2月、サツキ咲く3月になってしまいます。
さらに太陰暦は農事に直接結びつきますから現在とは比べ物にならぬほど影響が大きく、昔は王権の象徴として失敗が許されない国家的事業だったのです。
ついでながらカレンダーと言うのは本来、「朔日(ついたち)」を意味する古代ローマ語で、太陰暦の月末に姿を消していた月が薄っすら見えた新月を称える言葉だったようです。太陰暦では満月なら十五夜、細ければ三日月と月を見れば日付が判るのです。
太陰暦の決定を誰がやっているのか?中国とスリランカと中東の友人に訊ねてみます。
- 2014/01/31(金) 09:43:20|
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1902(明治35)年の明日1月30日に日英同盟が調印されました。
歴史の授業では「日露戦争のために日英同盟を結んだ」と簡単に教えられ、気が利いた教師だとそれまでイギリスは「光栄ある孤立」として同盟を結んでいなかったことを補足説明する程度ですが、実際には締結に至るまで多くの経緯があり、単にロシアと対立する日本をイギリスが後押しした訳ではありません。
日清戦争以降、清朝末期の中国では欧米の列強による浸食が激化し、土地を奪われ、故郷を荒らされた人民たちの怒りは過激になり、「扶清滅洋」を叫んで教会などを破壊し、領事館を包囲した義和団事件が生起しました。これに対して列強は軍を派遣しましたが、第2次山県有朋内閣の青木外相は「日本が列強に加わる好機だ」と大軍を派遣することを主張し、一方、桂太郎陸相は「かえって列強の疑惑を招くことになる。本格的な介入は列強の要請があってから」と慎重な意見を述べ、顔見世程度の小規模な派遣にとどめました。その結果、事件の長期化の苦しんだイギリスから財政支援付きの派遣要請があり、これを受けて大軍を派遣し事件の鎮圧に貢献したのです(現在の学校教育で教えている軍人による大陸進出とは真逆の史実ですが、軍人は自分が死ぬことになるため慎重な場合が多いのです)。
事件以降、列強は中国の植民地化を進め、特にロシアは満州から朝鮮半島へ食指を伸ばし、イギリスはドイツと協同でこれを阻止しようとしたものの満州に近い青島(チンタオ)に租借地を得ていたドイツはロシアと対立することを回避し、むしろ英露の対立による間隙を狙うことを画策したため、代わりとして日本に目をつけたのが日英同盟の端緒でした。
ところが伊藤博文は「日英同盟を締結すればロシアとの戦争が回避できなくなる」と反対し、独自に日露協商の実現に動きましたが、国際情勢は明らかに日英同盟を必要としており、この日に至ったのです。ヒステリー小母さんの韓国では伊藤博文を「日韓併合を推進した帝国主義者」と教えているようですが、実は大変な貧乏症の非戦論者で「朝鮮を併合すれば日本は財政破綻する=お荷物になる」と反対していたのです。
日英同盟を結んだことで日本はロシアとの戦争を遂行したのですが、開戦後は極東に回航するバルチック艦隊のスエズ運河の通過を拒否しただけで(確かに時間稼ぎにはなりました)世界最強のイギリス海軍が撃滅してくれた訳でなく、戦費公債さえ黄色人種の勃興を嫌う世論によってイギリスでは売れず、購入してくれたのはユダヤ人財閥でした。
その日英同盟が破棄されたのは日本との間に楔を打ち込み、自らの陣営に引き入れようとした欧米の画策の結果ですが、第1次世界大戦で日本が艦隊を地中海に派遣しただけで、陸軍をヨーロッパ戦線に投入しなかったことが口実になったと言われています。
しかし、日露戦争に於けるイギリスの支援の程度を考えればこれは些か無理な要求に思われます。やはり日本国憲法を押しつけて手足を縛っておいて、そろそろ「show the flag」「boots on the ground」と要求してくるアメリカと同じアングロサクソンだけのことはあります。
- 2014/01/29(水) 16:26:23|
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1219(建保7)年の明日1月27日(太陰暦)に鎌倉3代将軍・源実朝くんが暗殺されました。
実朝くんは頼朝さんと政子さん(この名前は建保6年に朝廷から官位を受けて改名したものです)の4人の子供の次男ですが、長女の大姫ちゃんは源義仲さんが人質として鎌倉に送った息子と婚約したのですが、後白河法皇から追討命令を受けたことで許婚が処刑されて精神を病み、早逝しました。長男の頼家くんは素行不良で伊豆の修禅寺へ追放されて暗殺、妹の三幡ちゃんも若くして病没しています。さらに頼朝さんが政子さんの前に豪族・伊東祐親の娘・八重姫との間に儲けた子・千鶴丸は平家を懼れる父親の手で殺され、別の愛人の子供も政子の嫉妬で焼き殺されていますから、どう言う兄弟姉妹なのでしょう。
おまけに実朝さんを殺したのは頼家さんの息子の公暁くんですが、実朝さんの伯父・悪源太義平さんも父親の義朝さん(実朝くんの祖父)からの命で叔父の義賢さんを殺していますから、どう言う一族なのでしょう。ちなみに頼朝さんは弟2人も殺しています。
ついでに言えば公暁くんと弟の八幡くんは事件後に殺されて河内源氏の血脈は絶えました。
実朝さんは権力闘争の犠牲になった姉や兄の不幸を目の当たりにしていたため、元服前の12歳で将軍に任じられてからも政務は執権の叔父・北条義時さんに丸投げにして歌道に逃避しており、藤原定家先生に師事して公表前の新古今和歌集を入手していました。しかし、鎌倉武士の間では平家の滅亡は公家の文弱に染まったことが原因と信じられており、歌道に没頭する実朝さんへの信頼は次第に低下していき、やがて御家人の謀反が相次ぎましたが、実朝さんは義時さんの強硬意見を退け、寛大な処置に留めました。
そんな折、東大寺の大佛再建を行った宋の僧・陳和卿と面会し、「貴方の前世は宋の医王山の長老である」と言われ、実朝さん自身も高僧からそう告げられる夢を見ていたので即座にこれを信じ、前世に暮らした地を訪れようと宋へ渡航することを計画し、大型船の建造を命じました。しかし、完成した船は浮かばず計画は頓挫しました。その頃、園城寺で修行していた頼家さんの長男・公暁くんが鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮の別当になっています。
そして、この日は前年12月に右大臣に任ぜられたことの祝賀と感謝の参拝でしたが鎌倉では珍しい大雪で、神殿での神事を終えて石段を下りてきたところを待ち伏せしていた公暁くんに討たれたのです。公暁くんは太刀持ちの源仲章も殺しましたが、これは参拝前に北条義時さんが体調不良で役を譲っていたので狙いはこちらだったのかも知れません。
遺骸は首を公暁が持ち去ったので胴体しかなく、これに参拝前の整髪で「記念」として与えていた抜け毛を添えて埋葬したようです。墓所は祖父の義朝さんの屋敷跡に建立された寿福寺で、母親の政子さんと並んだ「やぐら(岩肌を掘った穴に建てた石塔)」に埋葬されています。首塚は公暁くんを討った武常晴さんが神奈川県秦野市の金剛寺に建立しました。
公暁くんは「親の仇」と叫んで斬りかかっていますから「父親の頼家さんを殺したのは実朝さんだ」と吹き込んだ者があったのでしょう。実際は母親の政子さんと叔父の義時さんの姉弟は頼家さんを修善寺に押し込めた後、朝廷には「死んだ」と報告し、元服前の実朝さんを征夷大将軍に任じさせてから殺していますから首謀者はこちらでしょう。
以上は野僧が現役時代に愛読していた「吾妻鏡」によります。
実朝さんの万葉調の歌「大海の 礒もとどろに よするなみ われてくだけて 裂けて散るかも」
- 2014/01/26(日) 09:58:27|
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1212(建暦2)年の明日1月25日(太陰暦)に圓光大師(東山天皇)、東漸大師(中御門天皇)、慧成大師(桃園天皇)、弘覚大師(光格天皇)、慈教大師(孝明天皇)、明照大師(明治天皇)・法然房源空上人が往生(逝去)されました。
ちなみに列挙した大師号は全て括弧内の天皇から上人に贈られたもので、各宗派の御祖師様の中で最多です。
上人は配流先の四国から京に戻ってからは高齢と疲労などで床につくことが多くなり、遷化される2日前に弟子から懇願されて「一枚起請文」を遺されました。
一枚起請文
唐土(もろこし)我朝(わがちょう)に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にあらず、また学問をして、念のこころを悟りて申す念佛にもあらず、ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀佛と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外(ほか)には別の仔細候らわず、ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀佛にて往生するぞと思ううちにこもり候なり、この外に奥ふかき事を存せば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候べし。念佛を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念佛すべし。
証のため両手印をもってす。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり、源空が所存、この外に全く別義を存せず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢ぬ。
建暦二年正月二十三日 大師御在判
「理屈や知識は不要、この念佛で往生するんだと信じて念佛せよ」と仰っておられるのですが、これが往生される2日前の文章とは信じられません。現在なら酸素マスクをはめられ、腕に点滴、胸には心電図をつけられ、男根にも採尿管を入れられて集中治療室(ICU)に移る直前の状態でしょう(野僧も経験しました)。
そして2日後、「光明遍照 十方世界 念佛衆生 摂取不捨」と唱えながら眠るように往生されたのです。
ただ、上人の墓は、念佛の流行、隆盛を憎む既成の佛教各宗派の過激分子によって度々破壊され、それに危機を感じた弟子たちは遺骨を南都佛教や比叡山も手が出せない真言宗の本山・高野山金剛峯寺に預け改葬しました。
このため現在でも法然上人の墓は高野山にあり、その縁で真言宗も法然上人の教えを説く和讃を唱えるようになりました。ただし、命日の法要などは勤めていないそうです。
余談ながら、野僧が賜わった左券も印がなかったため、猊下は両手に墨を塗り押して下さいました。
- 2014/01/24(金) 10:04:50|
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1965年の明日1月24日にイギリスのサー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル元首相が90歳で死去しました。元首相と言ってもチャーチルさんはノンフィクション作家としても有名で1953年にはノーベル文学賞を受賞しています。
野僧は高校の英語・readerの教科書にチャーチルさんの少年時代の回想記が載っていて、貴族のお坊ちゃんとは思えない型破りな言動が面白かったので伝記を読みましたが、アメリカ軍の士官の中にはセオドア・ルーズベルトと並んで尊敬する政治家にしている者が多く(セオドアは第2次世界大戦時のフランクリン・ルーズベルト大統領とは別人です)、共通の話題になって助かりました。
チャーチルさんはイギリスの名門貴族の父とアメリカの財閥の娘であった母との間の長男で、父は政治家でもありました。
幼少期に父の社交上のトラブルのためアイルランドへ赴くことになり、ここで育ちました。8歳でセント・ジョージ校に入学しますが成績は全科目最下位で、体育も苦手な落ちこぼれの問題児だったため校長から何度も鞭で打たれたようです。続いてブラントン寄宿学校に入学しますが、素行に問題があったものの国語(英語)や古典、図画、フランス語が得意になり、乗馬と水泳に熱中したそうです。そしてパブリック・スクールのハーロー校に入学しますが、試験の成績は悪かったものの元大蔵大臣の息子と言うことで合格し、劣等生クラスに入れられました。ここでも成績不振に素行不良で、さらに先輩に対しても反抗的だったため校長や先輩から鞭で打たれたとのことです。劣等生では大学へは進学できずハーロー校の「軍人コース」からサンドハースト王立陸軍士官学校へ進み騎兵士官になりました。しかし、当時のイギリスでは戦争がなく、休暇を取ってキューバで起こった反乱の鎮圧に参戦していますが、この時、トレード・マークの葉巻を覚えたと言います。
その後はインドやスーダンなどのイギリスの植民地へ赴任し、反乱の鎮圧に参戦しますが、この頃から現地レポートを著書として出版したり、新聞社と従軍記者として契約を結ぶようになったようです。
1899年に軍を退役し、父の後を継いで政界への進出を図りますが落選しました。そこで南アフリカでの独立戦争に従軍記者として赴きますが、今度は捕虜になってしまいます。
このように紆余曲折を繰り返しながら政界進出を果たしますが、政治家としても保守党から自由党へ移り、再び保守党へ復党するなど流転の経歴を刻んでいきます。
チャーチルさんは兎に角、ジッとしていない人で、アスキス内閣の商務大臣と内務大臣、海軍大臣、ランカスター公領担当大臣、第1次世界大戦中のロイド・ジョージ内閣の軍需大臣と戦後の戦争大臣、植民地大臣を勤めながら失職すると海外の紛争へ出掛けたりして常に新聞に名前が載り、さらに自分でも戦記、旅行記などのベストセラーを執筆しますから、その知名度は揺るぎないものになっていたようです。そうしてチェンバレン内閣の海軍大臣の時にヒトラーとの融和政策に反対したことで、チェンバレンが辞任した後の首相になりました。ここから先の活躍は有名なので省略しますがナチス・ドイツが降伏してヨーロッパの戦争が終結した後に10年ぶりに行われた解散総選挙でチャーチルさんの保守党は惨敗を喫して退陣しました。このことはイギリスの議会制民主主義の成熟度を示す史実でしょう。
実は戦後の1951年にも第2次チャーチル内閣を組閣しており、1952年2月にはエリザベス2世が即位し、同年10月初旬にはオーストラリア沖のモンテベロ諸島で核実験を成功させて米ソに続く核保有国になっています。
演説巧者だったチャーチルさんの名言は多過ぎて紹介し切れませんが、野僧が好きな一言は「人類の歴史は1人の男が1人の女と出会うことから始まった」です。
- 2014/01/23(木) 09:24:03|
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17日に声優・加藤精三さんが逝去されました。亨年は86歳とのことです。
加藤さんと言えば「巨人の星」の星一徹の声があまりに有名で、「あの声で怒られてみたい」「励まされたい」「誉められたい」、それが無理なら「飛雄馬の代わりに名前を読んでもらいたい」と言う願望を持っていた者も多かったことでしょう。「口説かれてみたい」と言う女性がいたかは不明ですが。
「巨人の星」以外にも「ジャングル大帝」「リボンの騎士」「サスケ」「海のトリトン」「科学忍者隊ガッチャマン」などのアニメに数多く出演しておられますが、あの渋すぎる低音ですから、ほとんどは悪の黒幕的な役柄が多かったように思います。
野僧が一耳聞いて(一目見てではない)加藤さんだと判ったのは、「決断」のレイテ作戦のダグラス・マックアーサーです。これも敵役の黒幕と言えそうですが間違いないでしょう。
「巨人の星」の星一徹の名言の中では飛雄馬から届いた宮崎キャンプでの日高美奈との恋と永訣を綴った手紙を読み、涙を流しながら妻の遺影を見上げ「母さん、何と答えてやったらいい・・・この命がけの問いに何と?」と問う場面が一番好きです。
- 2014/01/19(日) 12:08:39|
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17日にルバング島の英雄・小野田寛郎元少尉が逝去されました。享年91歳とのことです。小野田元少尉は野僧が中学校に入学する直前にルバング島から帰還されたのですが、2年前の昭和47年1月にグアム島で発見された横井庄一伍長と違い士官の品格を感じさせる言動、特に厳正な敬礼に子供ながら敬意を抱きました(父は「トロイなァ」の一言でしたが)。
中学校に入り、町立図書館でルバング島戦記「たった一人の30年戦争」を熟読しましたが、色々な意味で教訓を学び、航空自衛隊で幹部になってからの指針を与えてくれました。
小野田寛郎元少尉は和歌山県出身ですが、昭和17年に応召して陸軍中野学校二俣分校に入校し、ゲリラ戦の教育を受け、情報将校としてルバング島へ赴いたそうですが、同じく陸軍中野学校出身と自称していた少林寺拳法の開祖・中野道臣さんは「スパイを養成する中野学校出身者が軍服を着て活動するはずがない」と偽物だと断定していました。しかし、他の二股分校出身者から聞いた話では、分校は本校と異なりフランスのレジスタンスのようなゲリラを要請することを目的にしていたようで、小野田元少尉も浜松基地を夜間攻撃する訓練に励んでいたそうです。
ルバング島では数名の兵士を率いゲリラ戦を指揮していたそうですが、通信アンテナ以外に重要な軍事施設もない小島の日本軍残存兵は実質的に放置されていて、忘れた頃の米軍やフィリピン軍による捜索以外は接触もなく、住民から食料などを奪うため山賊と言われ、武装しているため現地の警察も無視していたようです。
ところが昭和47年10月20日にフィリピン軍の捜索隊と遭遇して戦闘になり小塚金七元1等兵が戦死し、これで小野田寛郎元少尉の名前と顔が有名になり、捜索隊が派遣されました。しかし、小野田元少尉は姿を見せなかったのですが、鈴木紀夫と言う関係のない青年が島に渡ってキャンプしていたテントに現れ、そこで「自分が島から出るには上官の直接の命令がなければならない」と言ったため、3月9日に鈴木青年と元上官である谷口義美元少佐がキャンプして待っていたテントで命令を受けて武装解除、島を出て翌日にはマルコス・フィリピン大統領と会見、3月13日に30年ぶりに帰還したのです。
小野田元少尉の戦記を読むと、弾薬を島内に分散して隠していたことや眠る時は熟睡せず視界が確保できるよう斜面に寝ていたこと、悲鳴を上げさせずに家畜を屠殺する方法など実戦の心得が並んでおり、捜索隊との遭遇戦で倒れた小塚元1等兵の目が白く引っくり返ったのを見て「駄目だ」と確認したと言う表現は実戦の様相を知る者だけのリアルさでした。さらに脱走した島津2等兵が捜索に加わっているのを見つけ、敵を案内した裏切り者として射殺しようとしたことや捜索隊が残していく雑誌で華やかな皇太子の結婚パレードの写真を見て、敗戦は嘘だと確信したことなどの心理状態は考えさせられました。
帰国後に放送された小野田元少尉が各界の著名人の質問に答えるテレビ番組の中で、映画監督の黒沢明さんからの質問には「目を隠している人の質問には答えたくない」と拒否したのは感服しましたが、父は「エラそうに」の一言でした。どうやらこの頃から将来の幹部自衛官とそれに反対した会社員の感性の違いが表れていたようです。
- 2014/01/19(日) 12:07:07|
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1957(昭和32)年の明日1月18日に偉大な植物学者・牧野富太郎博士が亡くなりました。
いきなりの余談ながら野僧の中学校にも牧野姓の同級生がいて、「牧野家は豊橋の戦国大名の末裔だから牧野姓の有名人は全て親戚だ」と言い切っていました。そこで野球部の友人が「読売ジャイアンツの牧野茂ヘッド・コーチは愛知県出身か?」と訊くと、「愛知商業から甲子園に行ったからそうだ」と即答しましたが実は香川県高松市出身でした(戦艦大和を設計した牧野茂大佐は名古屋市出身ですが)。続いて野僧が「植物学者の牧野富太郎博士は?」と訊くと、農家の息子のくせに牧野博士を知らず、一緒に図書室で調べたところ「やっぱり愛知県出身だ」と言ったのですが、奴が見せた本には「▲知県豊岡郡佐川町出身」とあり、愛知県の豊岡郡佐川町を考えてみましたが思い出せませんでした。
それもそのはず高知県の出身で、幕末の1962(文久2)年5月22日(太陽暦)に造り酒屋の坊ちゃんとして生まれたのですが、現在、この日は「植物の日」になっているほど我が国の植物学に遺した功績は大なのです。
大きな造り酒屋のボンボンとして育ちながら塾や学校に通いますが、興味は花や植物に向かい、明治になって12歳で小学校に入っても勉学の必要性を感じられず2年で中退してしまいます。その後も家業は祖母や番頭に任せ(両親は亡くなっていた)、植物観察や植物学の書物を読みふけりながら過ごしますが、19歳の頃に顕微鏡などを使った西欧式の植物研究を知り、居ても立ってもいられずお供2人を連れて上京し、22歳で東京帝国大学理学部植物学教室に出入りするようになりました(小学校中退なので入学はできなかった)。そして25歳で研究者仲間と「植物学雑誌」を創刊し、全国各地を植物観察の旅で巡り、26歳で「日本植物志図篇」を刊行しますが、この頃には実家は没落・倒産して生活は困窮していたようです。ようやく31歳で東京帝国大学理科学校の助手になり、新種の植物の発見や植物品種の理科学的な分類などに没頭しながら64歳で津村順天堂の援助を得て「植物研究雑誌」を創刊、65歳で東京帝国大学から理学博士号を贈られ、78歳で現在も再版が続いている「牧野日本植物図鑑」を刊行、89歳で第1回文化功労者に選ばれて、この日、94歳の大往生を遂げ、没後に文化勲章を授与されています。
野僧は小学校で牧野富太郎博士の伝記と図鑑を読みましたが、現代の写真を並べただけの植物図鑑と違い、本当に現地へ踏み入り、実物を手に取って見たと判る詳細・緻密な観察記録の集大成で子供ながらに感激しました。
ほとんど独学で好きな学問に打ち込み、家財産を失くしても学問だけに専念し、やがて日本の第一人者になった牧野富太郎博士の「好きこそモノの上手なれ」の学究人生は野僧にも大きな影響を与えています。
しかし、現在の日本の学界は、分野を問わず大学で学び、教授の学閥に属さないと活躍の場を与えられないそうです。それは宗教界も同様で一匹狼、はぐれ猿に居り場がないのがこの国の管理社会なのでしょう。
- 2014/01/17(金) 10:04:34|
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1月16日は浄土真宗本願寺派のみの御正忌=親鸞聖人の命日です。それ以外の真宗大谷派や浄土真宗高田派、北陸四派(出雲路派、誠照寺派、山元派、三門徒派)などでは11月28日に行われています。
この違いは、本来の命日が太陰暦の11月28日であり、本願寺派は明治の改暦に際して太陽暦のその日に当る1月16日に置き換えたのに対し、他の派はそのまま太陽暦の11月28日に行うようになったため生じました。この辺りの経緯は盂蘭盆会の関東の新盆と地方の旧盆にも通じます。
ただ、地方では本願寺派でも11月に行っている寺院が多く、京都の東西本願寺ほどハッキリ分かれていないかも知れません。
娘の覚信尼は聖人の死に際して紫雲や芳香、光明などの奇瑞(有り難い奇跡)が起ることを期待したようですが、ごく普通の最期であったと言われています。
ちなみに聖人の遺言は「某(それがし)閉眼せば 賀茂川に入れて 魚に与うべし」でしたが遺族の意志で荼毘にふされ京都に埋葬されました。

帰命尽十方無礙光如来
- 2014/01/15(水) 09:57:12|
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1月3日にミスター大阪(?)であるやしきたかじん(本名・家敷隆仁)さんが亡くなったそうです。昨年末に俳優のすまけいさんが亡くなった時も、平仮名の訃報にドキッとしましたが今回はその通りでした。
たかじんさんの本業は歌手で「やっぱ好きやねん」「あんた」などの大阪を舞台にした演歌風の歌詞でジャンル不明の曲が有名ですが、高音の歌声とは対照的なオッサン声と本質を突く喋りで聞かせるトーク番組でも人気を集めていたようです。
野僧は読売テレビ系列の「そこまで言って委員会」しか見ていませんが、友人たちがゲストやコメンテーターとして出演していて、テレビを見た後、発言について電話で話し合っていると自分まで出演している気分になりました。友人に「ワシも出演させるょうに推薦しろ」と言ったことがあるのですが、「知名度がない。本でも書いて話題性を作れ」とのことでした。
野僧が出演すれば孤立無援の田島陽子女史と一緒に「憲法9条を守れ」と護憲論を展開し、改憲派の保守系コメンテーターを論破して見せたのですが残念です。殺し文句は「お前らは口だけの机上論だが、ワシは国防の現場で命を掛けてきたんだ」ですな。
たかじんさんは出演者を決める上で絶対的な権限を持っていたそうで、会社員であるプロデューサーでは問題・批判を懼れて呼べないような強烈な人物を招き、思うままに発言させ、それで番組の人気と権威が高まったことは間違いなく、実際、田母神俊夫元航空幕僚長やケビン・メア元アメリカ国務省日本部長などは解任直後に出演して真情を吐露しています。さらに晋三さん(安倍首相)が体調不良で辞任した後、東京のマスコミが揃って無視を決め込んでいた時、何度も番組に出演させて真実一路な人間性を発信して復活を後押ししました。
野僧がたかじんさんに共感するのは、大阪発と言うよりも東京以外で放送する番組制作の手法で、綺麗事の裏で自分たちの政治的意図への世論操作を画策する東京のマスコミでは受け入れられないような本質論を、本音勝負の大阪なら自由に論じ合えると言うことを証明して見せてくれたのです。
野僧の出身地である愛知県岡崎市では「東京など家康公が造られた岡崎の植民地だ」と教えられ、現在住んでいる山口県では「明治以降の政治は山口県が動かしている」と誇っています。ですから東京の発想で全国を動かそうとする官僚や東京の論理だけが正しく優れていると言うマスコミには我慢がならず、それを覆してくれたたかじんさんにはエールを送っていました。
何にしろ残念です。合掌
- 2014/01/11(土) 10:30:49|
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2008(平成19)年の明日1月9日に臨済宗天龍寺派管長・天龍寺住職だった平田精耕猊下が遷化されました。
平田猊下の「精耕」と言う名前は先代管長だった関牧翁猊下から与えられたそうですが、「苗字が平たい田んぼなら精しく耕せ」と洒落ながらも先々代の関精拙猊下と先々々代の耕雲軒・高木龍淵猊下から一字ずつもらったと言うのは法話のネタでした。
野僧は武人(自衛官)のまま出家したため剣術家でもあった大森曹玄老師の著作を愛読していて、大森老師が天龍寺で得度を受けられたことを知り、奈良の幹部候補生学校に入校中、拝観に行ったことがあります。ところが法衣姿で「御開山に拜到を願います」と言えば通常は無料なのが天龍寺ではシッカリと拝観料を取られ、おまけに土産の関老師の達磨の絵まで勧められ、完全に観光客扱いを受けました。これは平田猊下とは関係ない話でしょうけど些かイメージが損なわれたのは確かです。
天龍寺の庭園も他の臨済宗寺院の庭園と異なり、明らかにプロの手によるもので、こちらもやや落胆しました(今どきは修行僧が手入れしている有名寺院の方が珍しいですけど)。
その後、平田猊下の経典を解説する著作物を読みましたが、佛法を説明する具体例が僧堂と大学だけで、やや期待外れでした。
平田猊下は京都大学文学部哲学科卒でドイツにも留学され、大学で教鞭をとっておられましたから、どうしてもそうなってしまうのでしょうけど、師家として大学を卒業したばかりの修行僧の指導に当たられると大学の講義の延長になってしまいそうでした。
平田猊下は開山の夢窓疎石禅師が天龍寺を創建する資金を作るのに日明貿易を勧め、これを天龍寺船と呼んだ史実から天龍寺には国際性が備わっていると言っておられましたが、
鎌倉五山の建長寺や円覚寺は宋からの亡命僧が開山であり、京都五山の建仁寺の栄西(ようさい)や東福寺の弁円は宋から帰国した禅僧ですから、国際性で言えば遜色はありません。つまり根拠として無理があると言うことです。
誠に申し訳ありませんが、平田猊下は本来、単純明快な実践の宗教のはずの禅を難しく語る現代師家の代表だったように思えてしまいます。
- 2014/01/08(水) 09:43:29|
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托鉢に出ていた頃、野僧はいつも1冊の文庫本を懐に入れて持ち歩いていました。
それは「歎異抄」と言う本で、少しでも時間があると開いて読み、勇気をもらい、怒りを忘れ、多くの場合、涙していました。
ですから野僧の歎異抄はすぐにボロボロになってしまい、現在の本は5冊目です。
歎異抄は親鸞聖人の肉声を弟子の唯円が書き留めて伝えたもので、その題名は聖人の没後、信仰の形が「異なってしまっていることを歎く」と言う意味でつけられています。現在では浄土真宗の一枚看板のようになっている「悪人正機説」も実はこの中で伝えられているものなのです。
「善人なおもて往生をとぐ、いかにいはんや善人をや。しかるを世の人常に曰く、悪人なお往生す、いかにいはんや善人をやと、この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり」=善人が浄土に往生できるのなら、悪人が往生できないはずがない。それなのに世間の人は皆、悪人が往生できるのだから、善人が往生できると言っている。この考えは理にかなっているようだが、阿弥陀佛の本願にお任せすると言う他力の意趣に背いている。
これが歎異抄の中で悪人正機説を述べておられる冒頭の一節です。
「善人なおもて往生をとぐ、いかにいはんや悪人をや」この言葉の意味を浄土真宗のお坊さんを始めとする多くの宗教家たちが色々な難しい理論を展開して説明しているようですが、野僧は佛教を言葉で論ずる哲学ではなく、行動してこそ救われる実践の宗教だと信じています。そして実際の日常に立ってこの言葉を受け止めれば聖人は実に自然なことを述べておられることが判ると思います。
いきなり漢字の勉強で申し訳ありませんが、念佛の「念」と言う漢字を頭に思い描いてみて下さい。「念」と言う文字は「今」の「心」と書きます。つまり念佛と言うのは今の心を佛に向けることを言うのです。
「南無阿弥陀佛が念佛」ではなく「南無阿弥陀佛は念佛」であり、南無阿弥陀佛の御六字は心を阿弥陀如来に向けるためのスイッチなのではないでしょうか。
それでは善人とはどのような人を言うのでしょうか?
浄土真宗の根本経典である浄土三部経の中の1つ「観無量寿経」には上品上生から下品下生まで九段階の人の在り様とそれに対する阿弥陀如来の救済と往生の仕方が描かれています。ただ、ここで聖人が述べておられているのはそう言った絶対的な定義ではなく、また他人が「あの人は善人だ」と見る客観的な評価と言うよりも、むしろ自分が「私は善人だ」と思っている主観的な善人を言っておられるようです。
では逆に「悪人は」と言えば、これも現代人が持つ二者択一的な「正しいの反対は悪」と言うイメージではなく、もっと平凡な「そうしなければならない」と判っていても、それが実行できない弱虫。「それはしてはならない」と判っていても、それが止められない愚か者。植木等さんの「スーダラ節」で描かれている「わかっちゃいるけど止められない」そんな凡夫・衆生を言っておられるようです。
ちなみに植木等さんは三重県の浄土真宗の寺院の息子さんで、御本人を知る方は「本当はとても真面目な方だった」と口を揃えています。
この「スーダラ節」をレコーディングする時も、「こんな不謹慎な歌を唄うのは嫌だ」と悩み、父上(浄土真宗のお坊さん)に相談したのですが、すると父上は「これほど人間の本質を描いた歌はない」とかえってレコーディングを勧めたそうです。
これらのことをよく理解した上で世間を見渡し、悪人正機の教えを噛み締めてみたいと思います。
「善人が浄土に往生できるのなら悪人が往生できないはずがない」
前述のように野僧は身体で御佛にお仕えしている坊主ですから、どこの寺ででも普通のお坊さまのように法衣を着ての葬儀・法要のお勤めよりも、作務衣でお墓や境内の掃除をする方が好きで、いつも竹法器(ホーキ)を持って掃き回っていました。
そこでよく目にしたのが、毎日のように墓参りに来る信心が篤いはずの人々が自分の墓のゴミを平気で通路に落としている姿でした。
おそらく、その人たちは「自分はいつも墓参りを欠かさない善人」と信じているのでしょう。こんな人たちにゴミのことを注意しても聞く耳を持たないで嫌味を返されるのが落ちです。
一方、あまり墓参りに来ない人が、家でも持たない雑巾で墓石を不器用に拭き掃除している姿には、ついつい嬉しくなって声を掛けてしまいました。すると墓参りに来ないことを申し訳ないと恐縮され、一層、掃除に励まれます。そんな人に会うと手を合わせて自然に「南無阿弥陀佛」の御六字が口から溢れ出ます。
日頃、路上のゴミを蹴っ飛ばしてしまうどこにでもいる悪人も、「南無阿弥陀佛」と心を御佛に向ければ、「今ここで、このゴミに出会ったのも何かの御縁」と有り難く拾うことができるかも知れません(できないかも知れませんが)。
また、腹が立つことや哀しいことがあっても「南無阿弥陀佛」のスイッチを押せば、心に「なんだそんなこと」と言う阿弥陀様の声が響き、「ありがたい」とは思えなくても「仕方ない」と不思議に許せるようになるはずです。
日頃の生活の中で「わかっちゃいるけど止められない」愚かな行いを繰り返す平凡な悪人たちも、念佛で心を御佛に向ければ、たちまち行いは「済度衆生」「発菩提心」、御佛と一緒になれるのです。
それは後で「誰かに誉めてもらいたい」からではなく、ましてや「極楽に往生したいから」でもありません。
御佛と一緒になれることが既に救われていることなのですから、「自力作善」などと力む必要はなく、「絶対他力」と手を引っ込める必要もないのです。
ところが「自分が正しい」と思い込んでいる人の心には、「南無阿弥陀佛」が入る隙間がありません。
路上にゴミがあったら「私は偉い。誰か誉めて」と思いつつ拾う。これならまだ「善人なおもて」と救われますが、大概は「誰がゴミを捨てた。許せん」と他人の非をあげつらい、無視する者が多いのではないでしょうか。そんな人は自分の独善がかえって周囲に迷惑を掛け、他人を傷つけていることが多いことに気づかないのです。
むしろ「わかっちゃいるけど止められない」自分を恥じている人の素直さ、謙虚さが自分を救い、社会を救うのではないでしょうか。まさに「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人おや」でしょう。
歎異抄にはこのほかにもいくつもの深い洞察に満ちた言葉が書き留められています。
「親鸞は父母の孝養と言う目的をもって念佛をしたことは一度もない。なぜなら、この世の生きとし生けるものは、すべて阿弥陀如来によって生かされている父母兄弟なのだから、誰も彼も阿弥陀如来の誓願によって、必ず浄土に往生し、佛になれるのだから、ただひたすら、我らを等しく救って下さる阿弥陀如来におまかし、感謝すればよいのである」
野僧は日本の佛教の救いは「優しさ」にあると信じております。
日本人が日常的に行っている亡き父母、祖父母、祖先への供養は、自分の生命の源を辿り、その恩に感謝する確認行為なのでしょう。
祖先への感謝は、そのまま自己の尊重に昇華し、生きとし生けるものすべてが祖先を持つことに想いが至る時、人は優しくなれるのです。ところが祖先供養の法要は、父母への孝養の義務、世間体を満たすための行事に変質してしまい、形式化した行事が独り歩きするようになってしまいました。
聖人は、この父母への義務、世間体などと言った自己満足のための法要を否定され、生命の全てを掌っておられる阿弥陀如来の御恩に感謝する念佛のみを勤めてこられたと言っておられるのです。
今でも門徒さん(浄土真宗の信者)の法要は、他の宗派に比べ極めて簡素です。それは「死ねば必ず西方浄土へ往生できる。浄土では全て阿弥陀様に任せておけばよい」と言う考えに基づいています。
例えば門徒さんでは、佛壇やお墓に御膳やお供物を上げることをしません。何故なら浄土では食べ物は阿弥陀様にお任せしておけばよいからです。
また、門徒さんは「法要は亡くなった者のためにするのではなく、亡くなった者が自分たちに御佛の教えに触れる機会を与えてくれた」と言う考え方をします。
さらに門徒さんにはお盆の習慣がありませんでした(江戸時代になって寺院が宗門検めの役割を担うようになり、お盆のお勤めが自宅の点検の意味も持つようになってからは行う地域もできましたが)。
何故なら念佛による阿弥陀如来の救済で往生は決定(けつじょう=絶対)であり、餓鬼道に堕ちる心配をする必要はないからです。
考えてみればこの世に遺った者が亡くなった人の食べ物や飲み物を心配したり、功徳を積ませるためにお経をあげる。さらに餓鬼道へ堕ちた人々を救いたいと願うことなどは阿弥陀様の救済を疑うことになります。その意味では門徒さんの法要に対する謙識は一つの完成された形と言えるでしょう。
ちなみに門徒さんの法名(=戒名)はお釋迦様の一族として「釋」姓を名乗る「釋××」と言う上下の位階がないシンプルなものでした。
しかし、近年になってこの平等で美しい法名に「△△院」などと言う無粋な位をつけるようになったのは残念でなりません。
しかも院号は本山からの下賜と言う形をとるためかなりの高額が必要だそうです。
「阿弥陀如来が宝蔵菩薩だった頃、「人を救いたい」と言う誓願を立てられ、五劫もの長い間、修行を積まれたのも、ひとえにこの親鸞1人を救うためなのだ。それは親鸞こそ誰よりも業が深く、阿弥陀如来の本願によってでなければ救われようがないからである。真に有り難いことです」
浄土真宗の信仰は例えて言うならば、阿弥陀様と言うタクシーを呼んで、待っているようなものでしょう。人はただ頭を西に向けて、そのまま待っておれば好く、「功徳を積もう」などと勝手に西に向かって歩いてしまうと、折角、迎えに来たタクシーと行き違いになってしまいます。
農家に生まれた人は田畑を耕しながら、漁師に生まれた人は魚を獲りながら、山奥に生まれた人は鳥獣を捕りながら、商家に生まれた人は金を稼ぎながら、そこに生まれたのも「阿弥陀様の計らい」と心を御佛に向けながら素直に待っていれば良いのです。
農家が害虫を殺し、漁師が魚を殺し、猟師が鳥獣を殺し、商人が利益を求めることを佛教の戒律に反するから罪だと畏れ、恥じる必要などは元よりなく、まして現世の苦しみから逃れるため、親や妻子を捨て、職をなげうって山奥の寺に逃れる必要などは何もないのです。
親鸞聖人の念佛は地獄に落ちる罪人が必死にすがる断崖絶壁のザイルではありません。強風に吹き晒されながら現実の世に生きる者が、現実に生きる故に犯さなければならない罪の苦悩から自己を解き放ち、高きに舞い上げる凧の糸のようなものです。
人生の苦悩が深ければ深いほど念佛への衝動は強まります。
「念佛は 阿弥陀佛の 凧遊び 風強きほど 天高く舞う」古志山人
「くじけても 頑張れなんて 言わないよ 仕方ないさと 南無阿弥陀佛」同前
ここまでなら「親鸞聖人の教えは何と有り難いんだろう」と言うよくあるお説教ですが、歎異抄には親鸞聖人の心の傷を晒け出すような悲痛な告白が記されています。
「(唯円が)「私は念佛をお勤めしても、踊り上がるような歓喜の気持にも、早く浄土へ往生したいと言う気持にもなりませんが、どう言うことでしょう」と申し上げたところ、親鸞聖人は「(私も)そのことがどうしても理解できなかったのだが、唯円、貴方もだったのか」とおっしゃりました。そして、「よく考えてみれば、浄土に往生することは天に踊り、地に躍るほどの無上の喜びなのだが、これを喜べないのはこの世への執着のためである。このように自ら執着を断てない我々だから阿弥陀如来の他力の悲願によるほか救われる道がないのであって、むしろ、阿弥陀如来の御救いを頼む気持ちが強まるものである」
日本の佛教には多くの宗派があり、その数だけ御祖師様がおられるのですが、弟子に「自らの信仰に自信が持てない」と告白できたのは親鸞聖人をおいてほかにないでしょう。
直視すれば直視するほど愚かにして罪深い自分、こんな者が本当に救われるのだろうか?この不安と確信を正直に、否、素直に弟子にさえ口にできた親鸞聖人。
聖人の著書「教行信証」を拜読すると、それは誰かに真理を説くためではなく、ただ自分自身が救われることへの確信を得るために書かれたものとしか思われない深刻な重みがあります。教行信証の大きさは聖人の苦悩の大きさではないでしょうか。
帰命尽十方無礙光如来

親鸞聖人像

東大寺・五劫思惟像(長い間の修行で髪が伸びている)
- 2014/01/01(水) 01:26:24|
- 月刊「宗教」講座
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