1591(天正19)年の明日2月28日(太陰暦)は千宗易・利休居士の命日で、茶道で言う利休忌です。
利休と言う名は秀吉の命で宮中茶会を行った時、町人である宗易では宮中・内裏に立ち入ることが許されないので出家者と言うことにするため大徳寺で受けたものです。
宗易は秀吉の怒りを買い自刃を命ぜられたのですが、その理由としては石田三成などの側近との権力争い、博多と堺商人の勢力交代などを背景として、「不当な茶器の価値判定により暴利を貪った」「秀吉の好みを否定して侮辱した」、何よりも「天皇や秀吉もくぐる大徳寺山門に自分の像を置き足下にした」ことなどを罪とされました。
ただし、この像は宗易が大徳寺の伽藍復興に多額の寄進をしたことに感謝して、寺が製作して祀った物ですから冤罪としてもかなり無理があります。
当然、この像も撤去されましたが宗易の首を踏みつける形で晒されたそうです。
宗易の最期は形見の茶杓を削り、「ひっさぐる 我が得具足の 一つ太刀 今此の時ぞ 天に抛つ」の辞世を読み、茶室で検死役に一席もてなした後、そのままそこで腹を切ったのですが、戦国武士が見てもたじろぐほどの死に様だったようです。
ただ、茶室は天井が低いために刀を振り上げることができす、首は打てなかったとも言われています。当に辞世の通りに武士の最期を演じ切ったのでしょう。
この形見の茶杓は古田織部が譲り受け、自ら筒を作り「泪」の銘をつけましたが、現在は尾張・徳川家の宝物を展示している名古屋の徳川美術館に所蔵されています。

「泪」の茶杓
- 2014/02/27(木) 09:43:25|
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1933年の明日2月27日にヒトラー政権が成立していたドイツで国会議事堂放火事件が発生しました。
戦後70年が目前になってもドイツと日本の犯罪国としての烙印は解消されておらず、この事件も結果としてナチスが独裁政権を樹立することになったため、その暴略と断定していますが、ドイツの友人から聞いた史実では首を傾げたくなる点も目につきます。
この事件に先立つ約1ヶ月前には正規の政治手続きを経てヒトラーは首相に就任しており、その政権基盤を固めるため解散・総選挙に打って出て、その投票は3月5日を予定されていました。
そんな2月27日の午後9時30分頃、たまたま通りがかった神学生が国会の建物の前でガラスが割れる音を聞き、火を持った人影を目撃したのです。そこで急いで警備の警察官に通報したのですが、現場に駆け付けた時には建物内に火の手が上がっており、数分後に消防隊が到着しても手遅れの状態だったようです。
その火災を議事堂の真向かいにある宿舎で目撃したナチス党外国宣伝部長のハンフシュテングルがヒトラーも参加しているパーティが開かれていたゲッペルス宣伝相の自宅に電話して事件を知らせました。
この一報にゲッペルスは「悪いジョークだ」と信じなかったのですが、国会議事堂の方角の空が赤く染まり始めたのを見てヒトラーと共に現場に駆け付けました。そして現場では「共産主義者の犯行だ」と断定するヒトラーを中心に対策が協議されましたが、その内容は「この事件をどのように利用するか」が中心だったようです。
やがて犯人としてオランダ共産党員のルッペが現場で確保されますが、この事件を利用した共産主義者狩りは不手際の連続で、裁判では検事を勤めたゲーリングの辻褄の合わない主張が失笑を買い、世界各国からも濡れ衣と断定されて、ルッペの単独犯行として死刑判決を下したものの連座させられていた共産党の幹部は全員無罪になったのです。
どう見てもヒトラーの謀略にしてはお粗末で、むしろ願ったり叶ったりの事件に飛びついたものの、準備不足が露呈したと言うところではないでしょうか。
ちなみに1981年になって西ドイツ政府(当時)はルッペの無罪判決を宣告しましたが、これは裁判の不当性を認めたもので、犯行そのものを否定した訳ではありません。
ただヒトラーは外国からの批判は巧みにかわしながら事件を利用して選挙に大勝し、政権基盤を盤石にした上で合法的に職務権限を強化し、独裁政権に向けて次々と手を打っていったのですからヒトラーの謀略説にも説得力はあります。
しかし、野僧はこの事件だけでなく第2次世界大戦そのものをスターリンの世界戦略だと愚考しています。何故ならこの時期、日本ではソ連のスパイであるリヒャルト・ゾルゲの命を受けた朝日新聞主筆の尾崎秀実が近衛内閣に食い込んで、関東軍が大陸で引き起こした日支事変の拡大に向けて世論を誘導しており、これにより本来はシベリアに向けて配備されていた満州の兵力を南進させ、軍国・日本とナチス・ドイツが勢力を拡大すれば遠からず英・米と衝突し、その破壊と混乱に共産主義のつけ入る隙が生じるのです。
アメリカでもニューディーラーと呼ばれる共産主義者が暗躍して日本を戦争に引き込み(ハル・ノートなど)、本土決戦で相互に致命傷を負わせるため終戦を妨害したのですが(「天皇を裁判にかける」と言うラジオ放送など)、ルーズベルトの死と昭和の陛下の聖断によって頓挫しました。
実際、第2次世界大戦後の東欧、東アジアの共産主義国家の乱立を見れば、最大の利益を獲得したのはスターリンですから、その結果からの推理です。
スターリンが投げた餌で政権を獲得したヒトラーが、その野望に気づいたことがソ連侵攻の動機だとすれば・・・だから歴史は面白いのです。
- 2014/02/26(水) 09:28:33|
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1936(昭和11)年の明日2月26日に2・26事件が勃発しました。
隣町の山口県長門市油谷河原は2・26事件の首謀者の1人・磯部浅一の出身地で、墓なら兎も角、記念館があって現在も慰霊祭が行われています。
歴史の教科書では5・15、2・26事件のクーデターによって政党政治が終焉し、日本は軍国主義に突き進んでいったと教えられますが、背景には陸軍と海軍の対立と陸軍内の皇道派と統制派の権力争いがありました。
事件の5年前の1931(昭和6)年、陸軍内では皇道派の首魁・荒木貞夫大将が犬養内閣の陸軍大臣に就任し、その職権を利用して子分の真崎甚三郎を参謀次長に据えたのを皮切りに主要ポストが皇道派で独占されました。これで爆発寸前だった陸軍内の不満も沈静化するかと思われたのですが、1934(昭和9)年に荒木大将が病気を理由に辞職すると事態は急変したのです。荒木の後任には林銑十郎大将が就任し、統制派の大物・永田鉄山少将が軍務局長になると、後に続くように統制派が軍中枢に進出し始めたのです。
先ず皇道派の秦真次第2師団長と柳川平助第1師団長が予備役に編入されて、代わりに建川美次・小礒国昭中将、東條英機少将などが送り込まれました。これに教育総監になっていた真崎が反対すると林陸相は皇族の閑院宮参謀総長の同意を得て真崎も更迭しました。この事態を受けて1934(昭和9)年11月にクーデター計画への参加容疑で検挙され、停職処分を受けていた村中孝次大尉と磯部が動き始めたのです。
村中と磯部は「君側の奸を討ち、昭和維新を断行すべし」と記した「粛軍に関する意見書」なる過激な文書を配布し、陸軍内にクーデターへの気運を扇動しました。
この頃の若手将校たちは実務的で冷淡な統制派よりも熱血・激情型の皇道派に共鳴する者が多く、軍事参議官の閑職にあった真崎は表では鎮静と軍規の厳守を説きながら裏では自分の処遇の不満を交えた統制派への敵意を煽り立てていたのです。
こうして2・26事件は勃発しましたが、標的になったのは岡田啓介首相、斉藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長などの海軍大将や文官の高橋是清蔵相と真崎の後任の陸軍教育総監の渡辺錠太郎大将で、閣僚ではない渡辺大将が入っていることでも真崎の私怨による事件であることは明らかです。特に(温和な知性派として人望があった)渡辺教育総監は寝室で家族といるところを襲われ、至近距離から機関銃弾を浴びせられた上、トドメとして首も討たれていますから尋常ではありません。この惨劇の現場にいた2女の和子さんは現在、ノートルダム修道院のシスターになっておられ時折、テレビなどにも登場しています。
また3人の海軍大将が襲われたのには海軍士官の英国式の態度を「舶来の貴族趣味」と国粋主義の皇道派が嫌っていたことが背景にあり、このため海軍は鎮圧に向けて戦艦を東京湾に入れて主砲を国会議事堂に向け、陸戦隊を待機させたのです。
結局、この事件は純粋=単純馬鹿な青年将校たちが真崎たち上級者の煽動を鵜呑みにして暴発したものですが、問題は自分の部隊・兵士を使用して私的な政治主張を実現しようとしたことで、この暴動を描いた映画などでは青年将校を権力闘争に利用された犠牲者に美化していますが、「重臣殺害は部下のため」などと言う狂気の論理は、元決起将校(未遂)の野僧にも容認できません。
今年も磯部浅一の命日(1937年8月19日)には慰霊祭が行われるのでしょうけど、地獄に堕ちた霊を救っていただけるように念佛法要にした方が好いですよ。しかし、敗戦後の1956(昭和31)年8月31日まで生きて、畳の上で死んだ真崎甚三郎は絶対に許せません。こいつこそ超A級戦犯なのですから。
- 2014/02/25(火) 09:36:25|
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1953(昭和28)年の明日2月25日に歌人で精神科医、斉藤茂太・北杜夫兄弟の父である斉藤茂吉(「しげよし」と読ませていた時期もあるが「もきち」です)先生が亡くなりました。
茂吉先生は山形県南村山郡金瓶(現在の上山市金瓶)の守谷右衛門熊次郎の3男として生まれましたが、実家に就学させる資力がなかっため、東京の浅草で医院を経営していた同郷の医師・斉藤紀一の娘と結婚させて跡取りにする婿養子候補者として面倒を見てもらうことになりました。
15歳の時、父と兄に連れられて上京しますが、途中の仙台で初めて最中を食べて「こんな美味いものがあるのか」と驚嘆し、夜に東京に着くと「こんなに明るい夜があるものだろうか」と唖然としたそうです。山形県上山市と言えば昭和26年に無着成恭先生(曹洞宗の僧侶)が「山びこ学校」を出版した時、田舎の窮乏を宣伝したと地元で非難されましたが、昔からあまり豊かな土地ではなかったようです(ただし、「敗戦直後にも食糧難の東京に比べ腹一杯の飯と牛肉まで食べられて極楽だった」と北杜夫先生は書いています)。
それからは斉藤医院から通学して医師の資格を取り、31歳で次女・輝子の婿養子になったのですが、この輝子は都会のお嬢さま育ちの自由奔放、我まま放題な性格だったため、冒頓で律儀な茂吉先生とは価値観が合わず喧嘩が絶えなかったようです。
ドイツへの留学には帯同したものの帰国後にはダンス教師との不倫問題を起こし、青山病院の本院と別院などで約10年間も別居することになりました。
茂吉先生の人間性については二男の北杜夫先生の「どくとるマンボウ青春記」に詳しく書かれていますが、かなりの食いしん坊で鰻に目がなくて2人前食べていたことや大変な癇癪持ちで、(精神科医の)息子が見ても医師よりも患者に近かったと述べられています。
その中で野僧が強く印象に残っているのは疎開先で作歌する時、ムシロを持って出かけると神社の境内にそれを敷いて座り、頭を抱えて苦悶を始め、昆虫が好きな北先生が観察などをして時間をつぶして戻っても同じ姿勢で苦悶しており、「茂吉と言う歌人が自分の全てを絞り出して歌を作っているように感じた」と言う逸話です。
野僧の祖母も地方歌人ですが、やはり思いついた歌をノートにメモすると、その一節、一字を他の言葉、文字に置き換え、並び替える作業を延々と繰り返していました。
そんな茂吉先生の歌と言えば処女歌集「赤光」にある「みちのくの 母のいのちを 一目見ん 一目みんとぞ ただにいそげる」「死に近き 母に添寝の しんしんと 遠田のかはづ(蛙) 天に聞ゆる」「のど赤き 玄鳥(つばくらめ)ふたつ 屋梁(はり)にゐて 足乳根(たらちね)の母は 死にたまふなり」でしょう。ちなみに「赤光」とは時宗の信者だった茂吉先生が「佛説阿弥陀経」から採りました。
北杜夫先生の「どくとるマンボウ青春記」は父・茂吉先生の死で幕を閉じています。
「インターンが終わりに近づき、医師国家試験を前にして相変わらず恥多き怠惰な日をおくっていたとき、とうに老衰していた父の死の報知を受けた。しかもひどい宿酔いのなかで電報を受けとった。東京に電話したとき、すでに父はこときれていた。最後まで、私は親不孝者であった。(中略)東京に戻る夜汽車の中で、私は大学にはいってから手にとることのなかった父の処女歌集「赤光」をあてもなく開いて過ごした。(中略)こういう歌をつくった茂吉という男は、もうこの世にいないのだな。もうどこにもいないのだな、と幾遍も繰り返し考えた。(後略)」
- 2014/02/24(月) 09:21:54|
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昭和7(1932)年の明日2月22日午前5時(攻撃開始)に、第1上海作戦で爆弾3勇士(朝日新聞は「肉弾3勇士」と報じた)と謳われた3人の兵士が戦死しました。
その3人とは久留米に駐屯していた独立工兵第19大隊の江下(えした)武二1等兵、北川丞(すすむ)1等兵、作江(さくえ)伊之助1等兵ですが、この戦闘で戦死した兵士は他にも多数いました。
戦後の日本人は「国民党軍は弱い」と言う先入観を持っていますが、蒋介石は第1次世界大戦で敗北したドイツ軍の軍人を顧問として招聘し本場仕込みの陣地戦の指導を受けていましたから、第1次世界大戦のヨーロッパ戦線そのままの深い塹壕に鉄条網を張り巡らし、地雷原を構築した堅牢な陣地で待ち構えていたのです。
日本軍は開戦当初、蒋介石軍の上海侵攻に大河内伝七中将が指揮する精鋭・海軍陸戦隊が防御に当たりましたが多勢に無勢、衆寡敵せずで苦戦しているところへ陸軍部隊が投入され、反抗を開始してこの陣地に遭遇したのです。
陸軍の戦術は第1次世界大戦において青島(チンタオ)のドイツ軍陣地攻撃で多大な犠牲を出しながら何の教訓も学んでおらず、日露戦争の旅順要塞攻撃そのままの肉弾戦を繰り返したようです。
日露戦争当時でも砲火力により敵陣地を破壊し、その上で撃ち漏らした鉄条網や地雷原を工兵が破壊するのが常識であったにも関わらずこの攻撃では爆破筒と言う先端に爆薬を装着した竿を抱えて突進し、敵陣地の鉄条網や地雷原に差し入れて破壊しようとしたのですが、この3人は退避する時間を確保するため長くしてある導火線を短く切り、本来は挿入後に行う点火を事前にして出発したそうです。
ところが先頭を走っていた北川1等兵に敵弾が命中して転倒、2人で前進している間に爆発し3人とも戦死したのです。戦果は不明ですが荒木貞夫陸軍大臣は戦時下の美談として華々しく発表し、他の戦死者は無視してこの3人だけが軍神に祭り上げられました。
これが前例になって太平洋戦争では敵戦車の前に爆薬を抱えて突っ込み、轢かれて破壊する地上版特攻戦法や有効射程数百メートルの機関銃を射ってくる敵陣地に銃剣を構えて駆け足で突進する万歳突撃が当たり前のように多用されることになったのです。
戦後になってこの3人のうち2人(苗字で判断)は被差別□□出身者であったとされ、「志願と言いながら強要があったのではないか」と言う推測に基づく批判が行われました。
そうなると従軍慰安婦の吉田清治のように捏造証言を広める奴が現れるもので、「指揮官が『あの連中は戦死してやっと日本国民に入れるのだ』と言っていた」との見てきたような証言も本になっています。こちらの相手は国内の□□解放運動ですから外交問題にはなりませんでしたが。
- 2014/02/21(金) 09:14:00|
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本日2月18日は女優・声優・ナレーターの本多知恵子さんの1周忌でした。

合掌
- 2014/02/18(火) 22:21:47|
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1979年の明日2月17日に中越戦争=第3次インドシナ戦争が勃発しました。
野僧は元人民解放軍の友人からこの戦争について詳しい状況を知ることができたのですが、背景には激化していた中ソ対立があったようです。ベトナム戦争の終結によりカンボジアの親米ロン・ノル政権が崩壊して中国の支援を受けたポルポト率いるクメール・ルージュが政権を奪取すると、軍司令官のヘン・サムリンはベトナムに亡命しました。これを支援する形でベトナムが進攻し、カンボジア国内のベトナム人を大量虐殺していたポルポトを政権から引きずり下ろしたのですが、これを中国はベトナムがソ連の意を受けて親中国のポルポトを討った裏切りと解釈し、中国軍は56万もの大軍を狭いベトナムとの国境に集結させて示威行動を繰り広げた後、雲南と広西から10万人の地上軍を侵攻させました。この時、ベトナム戦争で補給物資を運んだ兵士たちが先導したそうです。
一方、ベトナム軍の主力はカンボジア国内にあり、北部には民兵しかいなかったのですが、この民兵はゲリラ戦の修羅場を潜り抜けた精鋭で、ベトナム戦争のアメリカの北爆にも耐えた地下陣地に立てこもり、最新式のソ連製や南ベトナムなどから捕獲した米国製を含む優れた装備を有していたのです。
中国軍は国産の62式戦車を主力としてベトナム北部に侵攻したものの対戦車兵器で大半を撃破され、さらに国境付近には地雷原が敷設されていたため歩兵も前進困難になったようです。その時、中国軍は兵士を横一列に並べ、ベトナム軍陣地に向かって歩かして地雷を排除したそうですが、当然、陣地からは銃撃され、地雷を踏めば爆発します。しかし、指揮官が後ろから銃で狙っているため兵士は逃げることができず、命を捨てて任務を遂行したようです。これが人民解放軍の実態なのです。
戦力に勝る中国軍は圧倒的な火力でベトナム軍陣地を叩きますが、陣地戦に優れたベトナム軍は巧みにそれを回避しつつ反撃し、中国軍に多大の損害を与えました。
約半月の戦闘で中国軍は北部の要衝・ランソンを占領し、5省を制圧したもののベトナム軍は被害を出さずに撤退しており、ハノイの大地下陣地で主力の到着を待ちながら反撃の準備を整えていました。
そして3月5日に主力が到着、ハノイの陣地には5個師団が集結したのですが、それを察知した中国中央軍事委員会は翌6日に撤退を命じました。
ところが中国軍は撤退に際して非人道的な焦土作戦を繰り拡げたため、ベトナムの反中感情は決定的なモノになりました(自国内では鉄の規律の人民解放軍ですが、他国では夜盗山賊同様になるようです)。
この戦争は野僧が高校2年の時ですが、それまで毎回のように反米の立場でベトナム戦争を熱く語り、中国は北ベトナムを支援した正義の国と強弁していた日教組の教師に見解を求めたところ、言葉に詰まって早々に授業を始めました。本当は徹底的に追及したかったのですが、その教師の科目は得意でなかったので控えました。
現在でも中国はこの戦争を「裏切りに対する懲罰」と称し、ベトナム側の謝罪要求にも応じていません。友人も同様の見解です。
カンボジアPKOには中国も参加していましたが、日本のような人道や復興支援と言った綺麗事ではない政治・軍事的な意図があったことは論ずるまでもないでしょう。
- 2014/02/16(日) 09:48:59|
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明日2月15日は涅槃会・ 釋尊の命日です。
釈尊の死は「般涅槃(はつねはん)」と言い悟りの完成を意味します。これは「悟り」によって精神的苦悩から解放され、「死」によって肉体的苦痛からも離脱することが出来たと言うことです。
その最期の情景は平家物語の冒頭で「沙羅双樹の花の色、生者必衰のことわりをあらわす」と詠われているように2本の沙羅(夏椿)の樹の下で北を枕にして、右脇を下に亡くなったようです(これが北枕を避ける風習の起源です)。
死因は下痢と嘔吐で、南方佛教では豚肉を食べてあたったとされていますが、僧侶の肉食が禁じられている中国以東では茸と言うことにしています(肉食を禁じたのは中国の皇帝とそれを踏襲した日本の天皇で佛戒にはありません)。
南方佛教の涅槃経は釋尊が最後の旅に出られたところから亡くなって埋葬されるまでを劇的に描いていますが、日本では「佛垂槃涅槃略説教誡経」と言う最後に説かれた教えだけを尊んでいます。
その中心を為すのは「知足(足ることを知る)」です。
この教えは簡単な話で、満足することを知らなければ欲望に限りがなく、常に飢えているような苦しみを味わい続ける。しかし、満足することが出来れば、僅かに得た物でも満ち足りて幸福になれると言うことです。
もう1つ、最後を締め括るように説かれているのが「自灯明、法灯明」の教えです。
自灯明と言うのは暗闇の中で足元を照らす明かり、法灯明は行き先を示す灯りです。人生は、一歩先も見えない暗闇の中を手探りで歩んでゆくようなモノですが、行き先が判り、足元が確かめられればやがては目的地に辿り着けるでしょう。
これが儒教やカトリックのように「こうでなくてはいけない」とレールをひかれ、その上だけを脇目も寄り道も許されずに進む人生では窮屈で味気なくありませんか。時には迷い、時にはつまづくことも人生の醍醐味、教訓なんですから。
そんな人生の終幕を、釋尊は巨木が倒れるように閉じられました。
釋尊は弟子たちに「何か訊きたいことはないか?」と何度も繰り返し、弟子たちが「もう十分です」と答えると、「私は今、涅槃に入る」と言って眼を閉じ、すると沙羅の花が一斉に咲いて散り、白い鶴のような枯れ木になりました。
師僧はいつも涅槃図を飾りながら、まだ子供だった野僧=小坊主に「キリスト教は十字架にかけられて苦悶の表情で死んでいるイエスを拝んでいるが、佛教は微笑んで亡くなったお釋迦様を拝む。つまり佛教は笑うための宗教だ」と言っていました。
確かにあらゆる苦しみから解放される方法を説いているのが佛教ですから、その教えを体得すれば微笑んで死んで逝けるのかも知れません。
寺の涅槃図では、弟子たちのほかに動物たちも集まっていて、その先着順に干支が決まったと言う伝説があります。天女が落とした薬袋が枝に引っ掛かっていて、届かなかったことを嘆き悲しむ天女の姿も描かれています。また足に教えを受けようと駆け付けたのに間に合わなかった老婆がすがっています。それを指差して師僧は「学ぶ気持ちを先延ばしにすると、このように嘆き悲しむことになるのだ。知りたい欲は大いに燃え立たせ、極め尽くせ」と教えました。

手塚治虫先生「ブッダ」より
- 2014/02/14(金) 09:56:57|
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明日2月14日はオーソドクス(ギリシャ、ロシア正教)とローマ・カトリックのセント・ヴァレンティヌスの祝日ですが、2月13日と言うところもあります。
セント・ヴァレンティヌスは古代ローマ帝国時代の実在の人物で西暦270年に亡くなったと言う記録も残っています。
ヴァレンティヌスは「兵士が弱くなるから」と兵士の恋愛・結婚を禁じていた皇帝に背き、愛し合う兵士と恋人の結婚を祝福したことで罪に問われ処刑されました。
捕えられた時、取り調べる執政官の娘の不自由な眼を祈りで治し、これが評判になりましたが、結局、皇帝の命令に背くことは出来ず、処刑されました。
この恋人同士の想いを命にかけて遂げさせたことで、ヨーロッパでは中世から友情、恋愛の守護者として崇敬を受けていました。
ただし、聖人信仰と言うのはオーソドクスやカトリックまでのものでプロテスタントには見られません。プロテスタントではカミの前で人間は平等であると言う思想が強く、カトリックの「聖人」はカミの下に精霊がいて、その下にローマ法王を頂点とする聖職者を配して衆生の上に君臨する身分制度の一部であるとして、時にはその聖人が行った殉教や自己犠牲までも否定することがあります。
友人のプロテスタントの牧師はマザー・テレサが聖人の前の段階である福者に列せられた時、テレサのインドでの活動を称賛する野僧に「テレサはカトリックなのが間違っている」と否定しました。これはセント・ヴァレンティヌスやセント・ニコラウス(=サンタクロース)も同様でしょう。
ちなみにオーソドクスやカトリックの普通の教会にいるのは神父ですが、プロテスタントでは牧師=羊飼い、つまり衆生は迷える子羊なのです。
ただプロテスタントでもこの日を「愛を確かめ合う日」とする風習は残っているようで、アメリカ人の彼女もチョコレートを贈る日本のセントバレンタインデーは不思議がっていましたが、違う形でとろけるような愛情を示してくれました。
尤もクリスマスにバレンタインデーと言った日本のキリスト教の行事はお菓子メーカーが始めた風習ですね。最近はハロウィンまで始まりましたが、こちらもお菓子が絡みます。

セント・ヴァレンティヌスさん
- 2014/02/13(木) 10:19:51|
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1875年(明治8)の明日2月13日に「平民苗字必称義務令」が布告され、全国民に苗字を名乗る義務が付与されました。
実は明治3年9月19日(この時は太陰暦でした)に「平民苗字許可令」が出されたのですが手続きをする者が極めて少なく5年後に義務化したのです。ちなみに太陽暦の9月19日が「苗字の日」とされています。
それまでの苗字は公家や武士などの支配階級か、功績があった庄屋や名主などが名誉として与えられたものと言われていますが、実際には地主や店主なども屋号として姓を持っていました。しかし、小作人や下働きの職人、奉公人などには屋号もなく、地名を取るか(通称は「××郷の△△」だったので違和感はなかった)、庄屋や店主、菩提寺の和尚などに頼むことになったようです。
また坊主も姓を名乗らなければならなくなり、元武士であれば俗名を登録したものの庶民から出家した者(多くの場合、口減らしで寺に預けられた)は僧侶としての道号をそのまま姓にすることも多く、一見してそれと判る浮世離れした苗字ができました。
困ったのは受け付ける役所の方も同様で、手が足らないため文字が書ける者を臨時雇いにしたのは良いのですが、申告に来る方は字が書けないため、口で言った音で漢字を記載するしかなく、全国各地に読みは同じだが字が違う苗字ができてしまいました。
例えば東北に多い「コン」さんは「今」が一般的ですが、「近」「紺」「昆」などの「コンさん」にも会ったことがあります。「モリタ」さんでも「森田」「守田」「盛田」など、「オガタ」なら「緒方」に「尾形」「小片」、山形の親戚の「ショウジ」となると「庄司」「荘司」「正司」「匠司」「荘士」から「東海林」まで実にバラエティが豊富です。最後の「東海林」は太郎さんが有名だから「ショウジ」と読まれますが、この字を当てた人に由来を聞いてみたいものです(逆に東海林が先かも知れませんが)。
さらに本来は「小松」と言う苗字だったのですが、自分で書いた字が崩れ過ぎていたため「小柏」として登録され、親戚一同「小松」姓の中で1軒だけ「小柏」になった家も知っています。
また武士階級出身者には戦国武士だった先祖が勇猛ぶりを称賛されて与えられた「鬼」「悪」などの字が使われた苗字もありますが、友人の鬼頭くんが「鬼の頭なんて恐ろしげな苗字は嫌だ」と言うので、悪友が「亀の頭ならキトウだぞ」と悪知恵を与え、意味も知らずに「亀頭」と書いていたことがありました。
自民党の政権奪還以降、下火になっている夫婦別姓ですが、中国や韓国は儒教に基づく家族制度のため結婚しても妻は実家の姓のままです。
一方、欧米では選択制になっていて庶民は別姓が多いようですが、上流階層は夫の姓を名乗るようです。このためビル・クリントン元大統領の妻・ヒラリー元国務長官は弁護士としての仕事の都合で別姓だったのですが、夫が州知事選挙に出馬する際、上流階層の支援が得られないと言う理由でヒラリー・クリントンになりました。
自分の苗字が嫌いな者にはあまり記念したくない日かも知れません。
- 2014/02/12(水) 09:13:23|
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1925(大正14)年の明日2月12日に臨済禅を再構築した近代の傑僧・南天棒鄧州、正しくは鄧州全忠(とうじゅうぜんちゅう)老師が遷化(=逝去)されました。
老師は常に南天で作った警策(けいさく)を持ち歩き、全国の僧堂に乗り込んでは「坐禅じゃあ」と絶叫しながら殴りまくったため「南天棒」と呼ばれ、自分でも号とされたのです。
南天棒老師は蛮社の獄が起きた1839(天保10)年3月11日(太陰暦)に肥前国(佐賀県唐津市)で生まれ、出家後は主に九州各地で参学し、29歳の時に久留米・梅林寺の羅山元磨老師から印可を受けました。
そんな旅の途上に立ち寄った阿蘇山中で見つけた南天の枝を削り警策にしたのが南天棒で、「臨機不譲師(機に臨んでは師にも譲らず)」と刻んであったそうです。
その南天棒で門弟3000人を叩きのめしたのですが、座右の銘が「道(い)い得(うる)も南天棒、道い得(え)ざるも南天棒、肝を作れ、人を作れ」でしたから、刀匠が鋼を打って刀とする木槌のような真の人間を生み出す鍛えの棒だったのでしょう。
南天棒老師は宮城県松島の瑞巌寺や兵庫県西宮の海清寺の住職を歴任する一方で、全国各地の本山・僧堂を巡り歩き、師家(指導に当たる高僧)が本当に悟っているかを点検して回り、ついには宗門の師家の見地や境涯を点検し、不合格なら資格を剥奪すると言う「南天棒宗匠検定法」を提案しましたが黙殺されました。
このため在家者の教導に力を注がれるようになり、山岡鉄舟居士、児玉源太郎大将、乃木希典の坐禅の師でもありました。ある日、児玉さん(この時の階級は不明)に「軍人の禅とは何か。即今、3000の兵を使ってみよ」との公案を与え、児玉さんが「目の前に兵がいないのにどうやって使うのか」と訊き返したところ、「簡単ではないか」と言うといきなり押し倒して背にまたがり、「全隊、進め」と言って尻を打ったそうです。
これで児玉さんは「初めて禅機を見た」と深く得るモノがあったようです。
南天棒老師は「佛弟子たる者が釋尊よりも長生きしては申し訳ない」と80歳になった大正6年に参列者1000人を集める盛大な葬儀を行ったのですが、多くの僧侶が読経する声を聞きながら棺桶の中で大酒を楽しんでいたそうです。
そんな南天棒老師の本当の遷化は87歳の時で、「ワシは神武天皇の命日(神武祭)に生まれたのだから紀元節に死ぬ」と宣言して、2月11日の朝に涅槃衣(僧侶の死に装束)に着替え、夜になってウドンを食べ、晩酌をして坐禅を組んだ後、「ウーン」と唸ったので周囲は「いよいよ入寂か」と思ったのですが、付き添いの医師が注射をしていたため検死が6分ずれてこの日になったようです。
南天棒老師は野僧とも法縁がない訳ではありません。かつて掛塔した小浜の僧堂の堂長老師の印可は南天棒老師の弟子である飯田戃隠(とういん)の法脈なのです。

南天棒鄧州老師(手に持っているのが南天棒)
- 2014/02/11(火) 10:21:09|
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山口県内では紀元節と天長節には神社に集まって市内をパレードする日の丸行列が行われている市町村が多いのですが、最後は式典会場の公会堂や市民会館に集まって「紀元節」「天長節」の歌を斉唱してから紅白饅頭をもらって解散になるのが定番です。
それにしても行事そのものが「建国記念の日」「天皇誕生日」と呼ばずにこの名の「祝賀行進」でしたから、戦前からカレンダーが止まっているようです。
野僧は防府南基地に勤務している時、周囲から「お前は参加するよな」と半ば強制されていたので、このテーマ曲を覚えてしまったのです。しかし、昭和の陛下の御代には皇室に対して畏敬の念を抱いていましたが、今上さんになってからは何の感情も持っていないので、幹部になっていた2度目の勤務の時にはただの作業員でした。
唯一の楽しみは制服に儀礼用の階級章=ワラジを着け、儀礼刀=サーベルを下げて行くことで、警察官は「銃刀法違反でないのか?」と困っていましたが、幹部自衛官の正式の服装なので何も言いませんでした。羽織はかまの爺さんもいましたから時代絵巻としては丁度いいのでしょう。
紀元節(詞・高崎正風 曲・伊沢修二)
1、雲にそびゆる 高千穂の 高根おろしに 草も木も なびきふしけん 大御世(おおみよ)を 仰ぐ今日こそ 楽しけれ
2、海原なせる 埴安(はにやす)の 池の面(みなも)に なおひろき 恵の波に 浴(あ)みし世を 仰ぐ今日こそ 楽しけれ
3、天津日嗣(あまつひつぎ)の 高みくら 千代万代(よろずよ)に 動きなき もとい定めし そのかみを 仰ぐ今日こそ 楽しけれ
4、空に輝く 日の本の 万(よろず)の国に たぐいなき 国のみはしら たてし世を 仰ぐ今日こそ 楽しけれ
これは記紀(古事記&日本書紀)に描かれている情景ですが、曲調が行進曲に相応しくないため、野僧は伴奏する車からテープで流れているこの歌を無視して「紀元二千六百年」を大声で唄っていました。
ちなみに今年は皇紀2674年です。

これで作業員に出掛けました(本当は大礼服にしたかった)。
- 2014/02/10(月) 09:39:01|
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1873(明治6)年の明日2月7日に仇討を禁止する太政官布告「復讐禁止令」が発令されました。発令者は司法を担当していた江藤新平さんです。
仇討ちは有史以来、洋の東西を問わず行われてきた処罰の一種ですが(害した者を同様の目に遭わせると言う意味で)、日本の場合はこれに儒教の忠節、孝行が結びつき家臣、子弟の義務になっていたところが特異です。
大学の刑法の教授が熱弁を奮っていたところでは江戸時代に正式な免状を受けた仇討ちは記録が残っているだけでも100件を超えるそうです(ヤクザのオトシマエなど庶民階層の仕返しは含まない)。水戸黄門は1回の道中で必ず立ち合っていましたが、実際の頻度はこの程度です。
兄の十郎と弟の五郎が父の仇・工藤祐経を討った「曽我物語」は吾妻鏡に記述がある鎌倉時代初期の話ですが、江戸時代にも読み物や歌舞伎などの大衆演劇・講談で人気を博しており、戦後生まれの野僧の小学校の図書室にも児童書がありました。さらに同級生には曽我兄弟の母から名前を取ったと言う満江と言う女子までいました。
また宇喜田秀家の家臣の兄・重次郎と弟・重三郎が父の仇・当麻三郎右衛門を追い求めて全国を旅し、兄は返り討ちに遭ったものの下僕の幸右衛門と力を合わせて父と兄の仇を討った「天下茶屋の仇討ち」も有名でした。しかし、「曽我物語」でも兄が死んでいますが、そんなところが重なるとどこまで史実なのか判らなくなります。
中でも、いまだに人気を得ている仇討ちと言えば天下一の馬鹿殿・浅野内匠頭長矩の逆恨みによる傷害事件の被害者を「仇」とした失業藩士たちが名君中の名君・吉良上野介義央公を殺害した「忠臣蔵」でしょう。
この太政官布告の趣旨は「殺人と言う大罪の処罰は政府の公権によって行うものであるから、個人が行うことは殺人と同じである」と言う近代法治国家としての原則の徹底ですが、発令から140年余りが経過しても(全面禁止は13年)日本人にとって親や主君の無念を艱難辛苦の末に(ここがポイント)晴らす仇討ちは心情に訴えるものがあるようです。
現在でも親族を殺された遺族が裁判によって下された判決に納得できないと「自分で仇を取りたい」と涙ながら発言し、それを批判ではなく法令に定める刑罰や裁判制度の問題点として同調することが当たり前になっています。
ちなみに最後に行われた仇討ちは秋月藩士で佐幕派の父が母・幼い妹と共に勤皇派の一瀬直久によって惨殺された6歳の少年・臼井六郎が16年後に東京上級裁判所の判事になっていた一瀬を旧藩主邸で殺した事件で、自首した臼井六郎は終身刑の判決を受けますが、10年後に大日本憲法公布の大赦で仮出獄し、60歳の天寿を全うしたようです。
ただ秋月藩は勤皇派が大勢になっていた政治情勢を慮り、妻子を巻き添えにした惨殺と言う武士道に反する罪を犯した一瀬を無罪放免して、かえって臼井家を逆族として処罰していますから旧藩主にも恨みはあるはずですが、それは考えないのが作法のようです。
結局、日本人にとっての仇討ちは、苦労が報われる目的達成に勧善懲悪、体制への欝憤が融合したドラマの材料であって責任の所在や事件が発生した背景などはどうでも好かったのでしょう。指導を受けた相手の言い方が嫌味に聞こえたからと激昂し、朝廷からの使者の接遇と言う職務を放棄して抜刀の上、負傷させた馬鹿殿の逆恨みを晴らすため江戸時代最高の善政をしいていた名君を殺害した事件が「忠臣蔵」なんですから。
- 2014/02/06(木) 09:32:02|
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1863(文久3)年の明日2月6日(太陰暦)に毛利藩の直目付だった長井雅樂(ながいうた)さんが自刃しました。45歳でした。
雅楽さん(こう呼ぶと桂歌丸師匠のようですが)は1819(文政2)年に藩主・毛利家と同族の名門・長井家の長男として生まれましたが、4歳の時に父が病没したため当主となったものの家禄を半減されたのは周布政之助さんと一緒です。周布さんの場合は生後6か月だったので3分の1でしたが。
成長するに従って藩校・明倫館で学んだ後、藩主「そうせい公」の小姓になり、大番頭、藩主の世子の後見人、直目付と出世街道を突き進んでいました。
ペリーの来航により幕府が開国したことを受け、公武合体を前提としてこれを発展させる「航海遠略策」を唱え、そうせい公もこれを承認し、江戸出府に同行させて老中・安藤信正さんと久世広周さんにも直接説明させたため正式な藩論になったのです。ただ、そうせい公は幕政に参画する好機ととらえ、格好の材料として利用したのかも知れません。
ところが毛利藩内では渡米を図った罪で蟄居中だった松陰先生が私塾・松下村塾で過激な尊皇攘夷を主張しており、その門下生たちは藩内や京都でテロを繰り広げていきました。
このため雅楽さんは松陰先生の仇敵と言う悪役を押しつけられ、さらに安政の大獄で松陰先生に召喚命令が出た時、これを伝達する役目を担当したため井伊大老の共犯者だったと言う不当な評価が現在でも山口県内では語られています。
雅楽さんの主張を幕政に反映していた老中・安藤信正さんは坂下門外の変で井伊大老同様に水戸藩士の襲撃を受け、命からがら逃亡したことを「武士にあるまじき失態」として辞任に追い込まれます。この事件も本来は水戸藩士と毛利藩士の共同謀議だったのですが、当時の藩論は雅楽さんの「公武合体」「航海遠略策」に定まっており、主命に背くからと参加できなかったのです。
ただ安藤さんの失脚や板倉具視による孝明天皇さんの毒殺などで急速に尊皇攘夷が力を強め、やがて討幕が公然化すると雅楽さんは立場を失い、やがて尊皇攘夷に乗り換えた「そうせい公(だから『そうせい公』と呼ばれるのですが)」によって免職の上、帰国謹慎を命ぜられ、反論が二分することを避けるため自刃させられたのです。
雅楽さんには2つの辞世が伝わっています。
「ぬれ衣(ぎぬ)の かかるうき身は 数ならで 唯思はるる 国の行く末」「今さらに 何をか言わむ 代々を 経し君の 恵みに むくふ(報う)身なれば」
雅楽さんや土佐の吉田東洋さんの「航海遠略策」は極めて現実的な提言であり、尊皇攘夷を表看板にして幕府を倒した明治政府が推進したのも正にこれでした。
さらに「公武合体」は国家を一体化することであり、開国には必要不可欠な施策ですが、松陰先生門下の過激派テロリストたちからは「朝廷を貶める策謀」と否定されています。
毛利藩出身の明治新政府の権力者たちは、幕府とそれに忠義を尽くした会津・長岡を始めとする奥羽越列藩同盟諸藩を朝廷に背いた逆賊と断罪し、時代遅れな愚か者と誹謗しただけでなく、藩内でも自分たちと意見を異にする者を仇敵として徹底的に排除していたのです。このような近代日本史は早急に客観的な検証を加えなければなりません。
- 2014/02/05(水) 09:51:21|
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「我が国で最も偉大な僧侶を1人選べ」と言われれば、野僧は迷わず圓光大師(東山・以下贈号した天皇)、東漸大師(中御門)、慧成大師(桃園)、弘覚大師(光格)、慈教大師(孝明)、明照大師(明治)・法然坊源空上人を選ぶでしょう。
いささか前置きが長くなりましたが、法然上人は天皇から贈られる大師号の最多記録を保持しておられるのです。
ところで在家の皆さんが佛教に求めているものは何でしょうか?
釋尊は生きとし生ける者が等しく負っている生老病死を苦しみ、哀しみとして、それから逃れる術を追求し、ついに悟りに至られましたが、現世を楽しみながら暮らしている皆さんにとっては早い話、「極楽に往生すること」ではないでしょうか。
法然上人の偉大さは、戒律を守り、経典を学び、修行に励むことによって煩悩を離れ、苦から解放され、真理を悟ろうとする釋尊以来の佛教から、祈ることで救われる。つまり悟りに向かって人間が進んでいくのではなく、御佛の方から救いに来て下さると言う、従来の佛教から見れば大逆転とも言える他力本願の教えを開かれたことです。
法然上人は衆生に対して「難しいことを学ぶ必要はない。むしろ邪魔にさえなる」と説かれ、「無理に戒律を保つよりも一心に念佛を唱え、阿弥陀如来の本願にお任せせよ」と勧められました。
しかし、上人御自身は「持戒第一」「智恵第一」と称えられ、後に比叡山、南都をはじめとする伝統佛教からの「念佛停止(ねんぶつちょうじ)」を求める要求に際しても、上人個人が厳格に戒律を保つ洗練な生活を送り、深い学識を究めておられることには誰も批判し得なかったと言われています。
自らは誰よりも知性にあふれ、戒律を厳しく保っておられる上人が「難しい道を行くことはない。もっと易い道があるのだから」と勧められたのですから、衆生はこの始まったばかりの念佛を強く信頼したことでしょう。
尤も、現代の僧侶たちが口にする「戒律にこだわるな」と言う台詞は、自分たちが戒律を保てないことへの自己弁護の場合があまりにも多く、それを聞くだけで野僧は背筋が寒くなります。
一方、親鸞聖人は法然上人の高弟でした。ただ、文書への署名の順番などを見る限りでは、それほど目立った存在ではなかったようです。
また御自身が「法然上人の教えを信じて地獄に堕ちるのならそれもよい」と言っておられるように、新たな教団を起こす考えもなかったようです。
法然上人と親鸞聖人、浄土宗と浄土真宗、同じ念佛による救いを説いていながら、両者には微妙な違いがあるように感じるのは何故でしょう。
法然上人は美作国(岡山県)の押領司・漆間時国の子、つまり武士の出身です。
上人が八歳の時、父が他の豪族に襲撃されて殺されると言う悲劇に遭いましたが、この時は弓を取って戦ったとも言われています。
深手を負った父が死の間際に「仇討ちは恨みが巡るだけである。孝心があるのなら出家して菩提を弔ってくれ」と言い遺したことを守り、僧侶になられました。
法然上人は頂相に見られる風貌も丸顔で、微笑たたえられた温和なイメージがありますが、内面にはやはり武士の剛毅な気質を生涯にわたり保っておられたようです。
晩年、上人が朝廷の念佛停止を受けて土佐に配流される際、見送りにきた弟子たちに「後世を願うと云うは、唯今頚を切られる者の心に成って、念佛申すべし」と当にそのことで罪に問われ、停止の命令を受けた「一行専修の義」を説いたので、そのあまりに大胆不敵な言葉に驚いた弟子の一人が諌めると、上人は「われたとひ死刑にをこはるるとも、この事いはずあるべからず(私は例え死刑を行われるとしても、このことを言わないではおかない)」と言い放ったと伝わっています。
内面にこれほどの気迫を秘めていたからこそ、平家物語の一ノ谷の合戦で有名な関東武者・熊谷次郎直実も心服、帰依したのでしょう。
法然上人、浄土宗の念佛には、浄土真宗、親鸞聖人の念佛に比べ、譬えて言うならば、「阿弥陀様のお迎えをいただくからには、礼儀を正さなければならない」「少しでも阿弥陀様が救いやすいように」と言うケジメのようなものを感じます。
それは上位者に対して武士が示す、節度からきているのかも知れません。
親鸞聖人は中流公家であり、学問の家柄であった日野有範の子です。
私の知人に熱田神宮の大宮司さんと同族にあたる千秋藤原家の末裔と言う方がいます。また大名の毛利家、藤堂家の現在の当主の方と身近に接したこともありますが、どうもお公家さん、旧華族と言う方たちには私たち僧侶が言うのとは違う意味で「自分がない」と言うか、風に吹かれる柳のように何の疑いもなく自分を流れに任せられる軽さ、柔らかさがあるようです。
親鸞聖人と言えば「妻帯肉食」の破戒が有名ですが、比叡山の雄琴をはじめとする大寺院の門前には娼婦街、色街が栄えたと言われるくらい僧侶の女好きは昔から公然のタブーでした。
並みの僧侶であれば性欲の悩みなどは「男なら当然のこと」と開き直り、人目を避けて娼婦を買うか、寺に妾を囲いました。これは何ともしようのない男の性(さが)であり、一般庶民も「仕方ない、坊主も人間だ」と黙認せざるを得ませんでした。
つまり日本に於いて破戒とは軽蔑されることはあっても、それで全人格、僧侶としての存在を否定されるほどのことではなかったのです。
逆に性欲を直視し、悶え苦しんでそれを克服した「清僧(せいそう)」と呼ばれる一部の僧侶もありました。法然上人、明恵上人がそうでした。
ところが親鸞聖人は、その開き直りも、悶々と苦しむことも善とせず、戒律を破る、否、戒律を捨て敢然と結婚に踏み切りました。
これは自分を貫いたように見えますが、すでに世間の常識に於いて許容されているタブーを敢えて破ると言うことは、進んで自分を危険・困難に晒すことであって、世間体、保身などの「自分を守る」と言う本質的な意味の自己がないのです。まさしく公家の血がなせる業(わざ)でしょう。
法然上人は「一紙小消息」の中で「罪人なほ生まる、況や善人おや」と述べておられます。一方、親鸞聖人の「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人おや」との言葉が「歎異抄」に伝えられています。
それでは法然上人と親鸞聖人は全く逆の見解(けんげ)をお持ちだったのでしょうか。
ここで気をつけなければならないのは、法然上人は「罪人」、親鸞聖人は「悪人」と言っておられることで、罪人とは当に罪(この場合、現世の法規と言うよりも佛戒)を犯した者ですが、悪人には罪を犯さなくとも倫理感、克己心が薄弱で正しい行いを保てない愚者・弱者も含まれます。
法然上人が念佛の教えを説かれた開教初期には比叡山や南都からの批判が強く、布教するにもまだ経典を根拠にせざるを得なかったのでしょう。
浄土三部経の一つ「観無量寿経」の第十四観から第十六観には、上輩生・上品上生から下輩生・下品下生までの九段階の人間の生き様とそれに応じた阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の来迎、極楽での往生の過程が述べられていますが、上人が言われる罪人とは下輩生、善人とは上輩生の者を指すと思われます。
下輩生の者が上輩生の者よりも救われ難く、極楽に往ってからの精進が必要なことは、観無量寿経にも明記されています。
一方、親鸞聖人の見解は、すでに経典、学問の文言を離れ、人間と言う視点に立って述べておられるのでしょう。
もう一つ、浄土宗と浄土真宗には、阿弥陀去来を父と見るか、母と見るかの違いがあるように思われます。
ある冬休み、野僧は小学校のPTAの役員として女性の役員と一緒に、子供たちが集まって縄跳びの練習をするのにつき合ったことがあります。
すると子供たちは、底冷えのする早朝から集まって来てはいるものの寒がって何もせず、固まって話したり、ふざけ合っているだけでした。
そこで野僧は「折角、集まっているのだから、しっかりやれ」と叱りましたが、女性の役員は「寒い中、集まっているだけでも十分ですよ」と子供たちをかばったのです。
この時、野僧は目的を達すると言う男社会の厳しい視点と、努力を肯定する女性の慈しみの視点の違いを噛み締めました。
そして、「父は肩車で風に晒しながらより高い世界を見せ、母は負うて温もりを伝えながら同じ世界を見せる」と言う両親の子育てで果たす役割の違いを見事に現した例えがありますが、これらが一組になってはじめて子供たちは社会性を身につけるのだと感じ入りました。
「父母恩重経」には「母の懐を離れて初めて歩く時、父に教えられずば、火の身を焼くことをも知らず。母にあらざれば、刃物の指を傷つけることをも知らず。乳を離れて初めて喰らう時、父にあらざれば、毒の命を奪うことも知らず。母にあらざれば、薬の病を救うことも知らず」と両親の慈愛の有り難さが説かれていますが、ここでも父は外へ出ることによる危険を、母は我が身を守ることの術を教えています。
友達関係のような親子が増えた現代に当てはまるか判りませんが、浄土宗の念佛には、威厳のある父親の前に揃って正座している子供たちの姿が見えます。
一方、浄土真宗の念佛は、優しい母の傍で戯れる子供たちのハシャギ声が聞こえます。
それは父の遺言を守って僧侶になった法然上人と戒律を捨ててまで妻をめとった親鸞聖人で、阿弥陀如来に求めた救いに父性と母性の違いがあるのかも知れません。
文部省唱歌「雪の夜」にはこんな家族の情景が唄われています。
灯近く衣縫う母は 春の遊びの楽しさ語る
居並ぶ子供は指を折りつつ 日数かぞえて喜び勇む
囲炉裏火はトロトロ 外は吹雪
囲炉裏の傍でワラなう父は 過ぎし戦さの手柄を語る
居並ぶ子供は眠さ忘れて 声も立てずに拳を握る
囲炉裏火はトロトロ 外は吹雪」
厳しい現世に生きる衆生にとって念佛は、吹雪の夜に家族が憩う囲炉裏のようなものでしょう。そこでは父の威厳も、母の慈愛も、どちらも欠かすことができない大切な温もりであることは間違いありません。
結局、それは宗派によるのではなく、受け取り者の心の問題なのでしょう。
帰命尽十方無礙光如来

法然坊源空上人

愚禿親鸞聖人
- 2014/02/01(土) 09:55:32|
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