1961(昭和36)年の明日3月28日に三重県名張市で毒ブドウ酒による殺人事件が発生しました。
野僧は3年ほど名張市の寺の春秋彼岸と盂蘭盆会、年末を手伝ったことがあり、市内は何十周も走り回りましたから非常に詳しいです(歌手の平井堅さんの実家でもお参りしました)。盆地である名張市を囲む丘陵には近鉄が関西圏のベッドタウンとして造成・販売した住宅街が点在し、それには桔梗、富貴(ふき)、百合、すずらん、つつじ、梅などの花の名前に「ヶ丘」がついています(桔梗は盆地の中央で「丘」ではありませんがついています)。
事件現場は名張市西方の高台にある梅ヶ丘に隣接するカントリークラブの奥の葛尾地区で、山に囲まれた寂しいくらい静かな集落です。
事件については名張市立図書館で詳細な資料を読んだのですが、この日、公民館で農村生活改善クラブ「三奈の会」の総会が行われ、男性12人と女性20名が出席したようです。会合後の宴席で女性用に出された白ブドウ酒(男性は清酒)を飲んだ17名が中毒症状を起こし、このうち5人が亡くなったと言うものです。
ブドウ酒からは農薬が検出され、宴席の準備を担当した男性3名と飲まなかった女性3人が取り調べられた結果、死亡した女性の中に妻と愛人がいた男性Oが「三角関係の解消を狙った犯行」として逮捕されました。しかし、逮捕当初は犯行を認めていた(警察発表)Oは一転、否認に転じます。
そして迎えた津地方裁判所での1審では証言から導き出される犯行時刻や蓋を口で開けたとする歯形が一致しないことなどの理由で無罪が言い渡されます。
ところが名古屋高等裁判所での2審では参考人の証言が変わったことなどもあり、死刑の判決が下り、11年後の1972年に最高裁でも上告が棄却されたためOの死刑が確定しました。
その後は弁護団の強力な支援を受けて資料を読むのが面倒臭くなるほどの再審請求が行われています。しかし、弁護団側がOの犯行を否定する証拠を提出して再審を請求し、検察側が犯行は可能であったとする方法を示して棄却されることが繰り返された結果、素人が思いつくことは無理なのではないかと首を傾げるほど微妙な犯行テクニックになっており、刑の執行がないまま時間が経過しています(事件は野僧が生まれた年なので経過した時間は年齢と同じです)。
分厚い資料をメモしながら読んでいる野僧に司書さんが、「坊さんは被害者と何か関係があるのですか?」と声を掛けてきたことで色々な裏話を聞けたのですが、葛尾地区では警察の事情聴取とマスコミの取材で相互不信が激しくなり、「新聞に載った証言は誰が喋ったのか?」から始まり「影で自分を真犯人だと言っていた」などの疑心暗鬼で暴力沙汰に発展することが珍しくなくなったそうです。これが2審で証言が覆る結果につながったのかも知れません。
名張市は江戸川乱歩先生の出身地でもありますから、O死刑囚が存命のうちに名探偵・明智小五郎さんの登場を願い、真相を解明したいものです。
- 2014/03/27(木) 09:22:43|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1976(昭和51)年の明日3月23日に右翼の大物・闇社会の支配者と呼ばれていた児玉誉士夫さんの東京都世田谷区等々力の自宅に売れない俳優・前野光保くんが操縦する小型機が突入しました。一部では「セスナ機が突入」と言われていますが、前野くんが操縦していたのはパイパー社の小型機でセスナ社のものではありません(航空自衛隊第1術科学校で学んだ知識)。
児玉さんが亡くなったのは野僧が一般空曹候補学生の卒業課程に入校していた昭和59年1月17日だったので、同期と売店で買って回し読みしていた雑誌(文春、新潮とサンデー毎日)の特集記事で、かなり詳しくなってしまいました。
日本のマスコミは基本的に右翼を敵視しているため、児玉さんの経歴紹介はかなり酷かったのですが、関わりのあった人物を見ると偏見とばかりも言えないかも知れません。
その後、理論派右翼の友人からも滅茶苦茶な批判を聞きましたが、「巨悪」と呼ぶのに相応しい人物だったようです。
児玉さんは福島県の旧二本松藩士の家に生まれて、若い頃から右翼の大物に私淑して度々、投獄を経験しながら人脈を作り、大陸に渡ると軍部の裏取引(特殊な軍需物資の調達=強奪)に関与して財力を蓄えていったのです。
戦後は軍部の資産を抱えて帰国したのですが、闇の資産の存在が発覚すると戦争犯罪の容疑が掛けられるため旧軍部の誰も手をつけられず、莫大な資産は事実上、児玉さんの物になりました。さらにアメリカの後ろ盾を得るためCIAのエージェントになったともされ、アメリカの対日工作文書では「プロの嘘つき、ペテン師、大泥棒であり、情報工作ができるほどの能力は全然なく、金儲け以外に関心を持たない」と酷評しています。
この闇の資金を背景に戦後の混乱した社会で暗躍したのですが、これがヤ△ザと区別できない任侠右翼の始まりと言われています。ちなみに稲川会の顧問を勤めていました。
実は鳩山由紀夫元首相の祖父・鳩山一郎元首相が昔の日本民主党を結党する時の資金も児玉さんが提供したとされ、さらに河野洋平の父・河野一郎を首相にしようとする政治工作にも多額の資金を融通していたことは否定される事実とされています。
この流れが民主党と自由党の合併による自由民主党の結党につながったのですから、戦後政治史は児玉さんが影で操ったと言えるのかも知れません。
また安倍首相の祖父・岸信介元首相が日米安全保障条約を改定したことで反安保闘争が激化すると、ヤ△ザが活動家を葬り治安を回復するための実力組織「東亜同友会」の結成を目指して、東西ヤ△ザの両雄・田岡一雄3代目山口組組長と町井久之東声会会長の兄弟杯を実現させました。
この経緯があり自民党政権、警察はヤ△ザの取り締まりに本腰を入れられなかったのですが、暴対法成立以降の動きは「恩を仇で返した裏切り」と受け取るのも理解できます。
さらに日韓国交成立にも大きな役割を果たしたそうで、現在の朴槿恵大統領の父の朴正煕元大統領とは大陸人脈と呼ばれる強い信頼関係を持ち、韓国の右翼宗教団体とされる統一教会とも友好的だったそうです。つまりあのような形で日韓の国交が成立したのにも児玉さんの闇の力が働いていたのです。
児玉さんはロッキード事件の国会の証人喚問を病気を理由に拒否して自宅療養していたところに小型機が突入してきたのです(本人は1階にいたため無事)。
しかし、前野くんは新宿上空での撮影飛行の帰路に突入したのですが、帰路では燃料が残り少なく爆発や炎上の効果が限定的なことも判らなかったのでしょうか?
余談ながら元航空機整備員の目で見ると、ロッキード社の政治工作によって導入が決まったとされるFー104スターファイターやL1011・トライスターは対抗候補機に比べ格段に性能が高く、特に日本航空が導入したマクダネル・ダグラス社のDC10は事故が続発した欠陥機ですからロッキード事件は本当にあったのか大いに疑問です。むしろ性能が劣る機体を採用させたダグラス社の方が怪しいです。
- 2014/03/22(土) 09:11:39|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
明日3月21日は春彼岸のお中日です。お中日と言うのは彼岸会が本来、1週間7日間勤めるもので、前後3日ずつの中間に当たる日だからです。
これを現在のカレンダーでは「春分の日」などと味もそっけもない呼び方をしていますが、神道の紀元節は「建国記念の日」、天長節が「天皇誕生日」、新嘗祭は「勤労感謝の日」なのですから、もう少し本来の意味を匂わせる呼称にしてもらいたいものです。
春彼岸が「牡丹の日」、秋彼岸が「お萩の日」と言うのはどうでしょう(春彼岸に食べるのはあくまでも「ぼた餅」ですよ)。
お彼岸の法要は太陽が真東から上り、真西に沈むことと日の出から日没の時間が1日の半分であることを此の世と彼の世に結びつけて始まりましたが、中国などでは先祖供養ではなく、王家の繁栄を祈る儀式だったようです。
ちなみに中国などの祖先供養は太陰暦の4月8日の清明祭(シーミーサイ)です。
ところで今年の年頭に「金はいらんがお鐘が欲しい」と言いましたが、いきなり鐘が届きました。
近所の寺の住職が亡くなり無住になったため、門徒総代さんと寺族さんに「貸してちょうだい」とお願いしたところお許しをいただけたのです。
「さてどうやって運ぼうか」「取りつけは大丈夫か」と相談していた工務店の人が下見に行ったついでに持ち上げてみて、そのまま担いで来てしまったのです。つまり外見は重そうですが、計ってみると17キロなので銅はかなり薄いようです。
ただ胴に「南無阿弥陀佛」と刻んであるので、禅宗では鐘を撞く時、般若心経を唱えるのが一般的ですが、こちらは念佛のようです。
寺の鐘を時報代わりにされると差定(さじょう=日程)が時計に縛られ、数分遅れると苦情を言われるようになってしまいます。このため行事の日以外は撞かない寺が多く、現在ではタイマーで自動的に鐘を撞く機械まで普及しています。
小庵では「これからお経を勤めるぞ、手を合わせろ」と言う広報の鐘にするつもりです。差定は決まっていますから鐘を叩くのは定時になるのでしょうけれど、休日などに大きく時間をずらして時々、裏切ってやろうと思っています。
師僧は「鐘の響きには邪気を払う力がある」と言っていましたから野僧もこの谷間の集落に鐘を響かせて災厄を除きたいと願っています。
昨年の大晦日までは縁側に佛間の鐘子(けいす)を置いて叩いていた除夜の鐘を、今年はもう少し響かせられれば楽しく、村の人たちが叩きに集まってくれれば嬉しいです。
それにしても普通、寺の鐘は撞くものですが小庵の場合は叩く、鐘の音は「ゴーン」ではなく「カーン」です。せめてバットで撞木(鐘を撞く丸太)でも作りましょうか。
門徒総代さん曰く「鹿除けになるだろう」。ごもっともです。
- 2014/03/20(木) 09:29:55|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1873(明治6)年の明日3月20日に明治天皇・睦仁さんが断髪しました。
日本では古来、髷は男根と同じ物と位置づけられていて、僧侶が髷を切り落として剃髪することは男性としての欲望を断つ=去勢と言う意味もあったようです。
また髷を晒すことは下半身が裸になるのと同じことになり、常に冠や烏帽子を被るか布などを巻いていて、位が高い者は寝る時も脱がなかったようです。ですから貴族や武士が人前で冠、烏帽子を奪われることは大変な恥辱だったのです。
それが廃れたのは戦国時代になって兜をかぶる機会が増え、蒸れる不快感から月代(さかやき)を剃るようになったためで、宮中では平安以来の風俗が固く守られていたのです。
この2年前の1871(明治4)年8月6日には散髪を許可する太政官令が布告されているのですが、外国人と接する機会が少ない庶民や地方の者には全く浸透せず、江戸時代の風俗のままでは欧米化と同じ意味の文明開化が進展しないと言う政府首脳の焦りから睦仁さんに率先して範を示してもらうことになったようです。
これに先立つ3月3日には昭憲皇后・美子(はるこ)さんが既婚の女性の作法であった黛(まゆずみ)と鉄漿(おはぐろ)を止めていますから、夫婦足並みを揃えての欧米化の宮中改革でした。これ以降の御真影は2人とも洋装になりました。
このうち黛と言うのは眉毛を剃り落して額に黒く書く風習ですが、旧家には最近でも守っている高齢の奥様がいて(額ではなく眉を書いていた)、早朝に訪ねて化粧前の顔を見ると腰を抜かしました。
鉄漿は揚子江(現在の長江)以南から東南アジアに見られる風習で、歯を強くする効果があると言う俗説もありますが、強い酢に鉄を溶かした液に五倍子粉(ふしこ=タンニン)を混ぜて作るため口の中は常に酸っぱく、鉄を舐めているように不快なものだそうですから美子さんは悦んで止めたのではないでしょうか。
ちなみに美子さんのことを宮中や神道では「昭憲皇太后」と呼んでいますが、これは大正3年4月1日に逝去された後、夫である睦仁さんが祀られている明治神宮に合祀する際、天皇が崩御された後の敬称でやってしまった結果です。面子にこだわって間違いを改めることができない事なかれ体質はやはりお公家さんの宗教です。
もう1つ余談ですが大正天皇・嘉仁さんは美子さんの子ではなく、愛妾の柳原愛子(なるこ)さんが生みました。昔ながらの能面風な顔立ちの美子さんに比べ愛子さんは今の基準で見ても美人に属すると思いますが、嘉仁さんは美子さんを実母と信じていたそうで、事実を知った時、強くショックを受けてしばらくふさぎ込んでいたそうです。
その嘉仁さんの奥さんは健康と才覚で選ばれた貞明皇后・節子(さだこ)さんです。節子さんも九条家の4女ながら妾の子であったため幼い頃、杉並区の農家に里子に出されて極めて逞しく育ち、「九条の黒姫」と仇名されていました。さらに女子学習院では津田梅子や石井筆子などの薫陶を受けたため昭和天皇の御兄弟は優秀で健康な方が多いと言われています。、

柳原愛子さんです。
- 2014/03/19(水) 09:13:31|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1863年(文久3)年の明日3月15日(太陰暦)に幕末の毛利藩士人気ナンバーワンの高杉晋作くんが出家しました。と言っても頭を丸めただけで僧侶について正式な得度を受けた訳ではなく、世捨て人になるための形を整えただけのようです。
晋作くんは1862年5月に藩命で幕府使節に随行して欧米の実質的な植民地になっていた上海へ渡航する機会を得て、中国人の惨めな姿を見聞して帰った後、12月12日には伊藤俊輔(=博文)らと品川に建設中だったイギリス公使館を焼き打ちしています。
その後、尊皇攘夷派と佐幕派が血みどろの内部抗争を繰り返している毛利藩の実情に危機感を抱き、藩の重役であり松陰先生とその門下生のよき理解者であった周布政之助さんに「尊皇攘夷などはやめて倒幕に動くべきだ」と進言したのです。
すると周布さんは「時期尚早」と嗜めたので、晋作くんが「その時期とは何時だ?」と問い返すと「10年後だ」と答えたので、藩に10年間の暇を乞い、藩も多事多難な折、暴れ者を大人しくさせようとこれを許可したため、即座に頭を丸め、敬愛する西行法師に倣い「東行」と名乗って萩の松本村付近で隠遁生活を始めました。
ところがこの年の5月10日に毛利藩は関門海峡を航行する外国船に向かって砲撃を加え、馬関戦争が始まると、6月には下関で身分を問わない志願者による奇兵隊を結成します。
翌年の8月にイギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国艦隊によって馬関の砲台が破壊、占領されると藩を代表して和議の交渉を行い、「砲撃は幕府の『異国船打ち払い令』に従った結果であり、責任は幕府にある」と言う形で成立させています。
この時、下関の彦島を租借することを条件として提示されたのですが断固拒否しています。上海で見た中国人の姿が郷土で再現されることだけは絶対に許せなかったのでしょう。
現在、晋作くんの写真は髷を結わず今風の髪型にしていますが、剃髪が伸びただけの状態でいたのでしょう。
確かに髷は意外に重く、強く引っ張って結うため一度落としてしまうとその快適さは捨て難かったのかも知れません。一度、頭を剃ると顔や背中のついでに頭を洗え、何よりも髪の毛と言う断熱材なしの冷却効果は病みつきになります。
それとも外国人を見て髷を結った日本人の姿が奇異に感じたとすれば中々のファッションセンスです。確かに幕末になると月代(さかやき)を剃らなかった人物が目立つようになっていますから(思いつくだけでも佐久間象山、勝海舟、西郷吉之助、桂小五郎、坂本竜馬、近藤勇、土方歳三など)、あながち当てずっぽうとも言えません。
こんな天衣無縫で自由奔放な夫を支え、留守がちの家を守り、義父母に仕え、子まで儲け、育て上げた正妻の雅さんこそ大河ドラマの主人公にするべきですが、現代女性の好む生き方とは相容れないのでしょうか?

こんな写真もあります(当時、写真は非常に高価だったのですが何の記念だったのか?)
- 2014/03/15(土) 09:27:36|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1578年(天正7)年の明日3月13日(太陰暦)は上杉謙信公の命日です。
謙信公と言えばNHK大河ドラマ「天と地と」ですが野僧は小学校2年でした。大河ドラマはその前年の「源義経」から見ていましたが、いつもは8時就寝だったので45分間の夜更しになり、月曜日の朝は起きるが辛かったことを覚えています。
主人公・長尾景虎(謙信)役の石坂浩二さんは今でも「何でも鑑定団」などで顔を見ると白頭巾の武者姿を思い出してしまいます。
野僧は現役の自衛官でありながら出家得度を受けていたこともあり、上杉謙信公を始め北条早雲公、武田信玄公、斎藤道三公、島津日新公、黒田如水公など坊主の武将に憧れ(佛敵・大友宗麟は除く)、兵法書や合戦史、業績や伝記などを研究しましたが、やはり常人を超えた才覚の持ち主が多かったようです。
謙信公は北方守護・毘沙門天の化身を自称しておられ、真言宗のイメージが強いですが、幼い頃には兄が家督を継いだことにより曹洞宗の林泉寺に預けられています。そこでは経典の勉強には関心を示さず兵法書や兵棋演習ばかりやっていて、「坊主には向かん」と判定されたそうです。その後は2度の上洛を果たし、臨済宗の大徳寺で「宗心」と言う法号を与えられますが最終的には真言宗で、高野山金剛峯寺から伝法潅頂を受け、阿闍梨大僧都の位を贈られています。ちなみに「不識庵謙信」と言う僧名は1570(元亀元)年に40歳で北条氏康の7男を養子に迎えた時、自分の最初の名前・景虎を与えてから名乗っています。
上杉謙信公と武田信玄公は綺羅星の如き戦国武将の中でも傑出していますが、この2人が天下を取れなかった理由は、やはり地の利が悪かったことでしょう。
それは京都からの距離の問題もありますが、むしろ甲斐・武田、越後・長尾(上杉)、相模・北条の三つ巴の争いを繰り返している間に互いが消耗し、宿敵が消えた時には自分の死が近づいていたと言うことです。北条氏は天下など狙わず関東だけを見ていましたが、かえって天下の形勢を見誤り秀吉に滅ぼされる結果になりました。
信玄公の上洛では出口の駿河に今川氏、途上に徳川氏、織田氏が行く手を阻んでいましたが、謙信公の場合は越中、加賀、越前の一向宗・門徒でした。
一向宗・門徒との抗争と言うと織田信長公の伊勢長島や石山本願寺との血みどろの戦いが有名ですが、徳川家康公も三河一向一揆で命を落としかけています。
中でも加賀は実質的に門徒の自治領になっていて、北上する織田方と同様に大いなる障害でした。越前・朝倉氏が機敏に動けなかったのも、当主の優柔不断よりも門徒の動向に振り回されたことが原因と言われています。
もう1つ、大きな障害になっていたのは越後から越中に抜けるには避けることができない「親不知子不知(おやしらずこしらず)」の難所で、飛騨山脈が日本海に突きだす断崖絶壁の下の細い海岸を波の合間に通過するため、大規模な軍勢の移動は不可能だったのです。
謙信公の最期は厠(トイレ)で用便中だったと言われ、長年、梅干しや味噌を肴に飲む酒を好んできたため高血圧による脳溢血ではないかと推察されています。享年49歳でした。
- 2014/03/12(水) 09:33:54|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
明日3月12日は奈良・東大寺の「修二会(しゅにえ)」のお水取りです。
修二会と言うのは正式には「十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)」と呼ばれ、太陰暦の2月1日から15日まで行われていた二月堂の本尊・十一面観音さまに過去の罪障を懺悔し、佛法興隆と天下泰安、万民和楽、五穀豊穣を祈る儀式=修行で、現在は太陽暦の3月1日から14日までの2週間になっています。
起源としては東大寺の開山・良弁僧正の弟子・全忠さんが笠置山での修行中に洞穴から兜率天に入り、そこで天人たちが十一面観音さまに懺悔している姿を見て下界でも行いたいと願い出たところ、「兜率天の1日は下界の400日に当たるため間に合わない」と言われ、そこで走って勤めることになったとのことです。記録に残っているところでは大佛開眼の752年には既に行われています。
この行を勤めるのは「練行衆(れんぎょうしゅう)」と呼ばれる11名の僧侶で、良弁僧正の命日である12月16日に華厳宗(東大寺は本山)の管長から発表されるそうです。
儀式に先立って新人の指導役は2月15日から、それ以外の練行衆は20日から東大寺戒壇院の庫裡で「別火(べっか)」と呼ばれる清めの合宿を勤めます。別火と言うのは火種(マッチ、ライターは勿論のこと)を用いることが許されず、火打ち石で別に火を点けることが由来です。その期間中にも21日は二月堂での入浴、23日には南天と椿の造花を作る「花拵え」、蝋燭の芯を作る「燈芯揃え」などが行われ準備も進んでいきます。
3月1日の本行に入ると先ず授戒(導師が戒律を示し、練行衆が保つことを誓う)があり、続いて木沓(きぐつ)に履き替えると開け放たれた内陣に駆け入り、須弥壇を3周回って本尊さまに礼拜し、内陣内の掃除と飾り付けを行います。
そこからは懺悔法要、読経と清掃、喫食、就寝の繰り返しですが、移動は全て駆け足です。
また5日と12日には東大寺の聖武天皇以降の過去帳が読み上げられますが、その中に「青衣の女人(しょうえのにょにん)」と言う名前もあるそうです。これは鎌倉時代にこの儀礼を勤めている時、青い衣を着た女性の幽霊が立ち「私の名を読み落としているぞ」と言ったため、僧侶が声をひそめて「青衣の女人」と言ったところ消えたそうです。このためこの名前は声をひそめて読むのが作法になっているそうです。
12日はいよいよ「お松明(おたいまつ)」と呼ばれるメイン・イベントになります。先ず、
呪師(しゅし)が須弥壇を回りながら水を撒き、印を結んで呪文を唱える儀式の後、堂司以下8人の練行衆がヘルメットのような「達陀帽(だったんぼう)」を被り、火の点いた松明と洒水器を持って堂内で踊り狂います。そして1人の童子(と言っても大人)が松明をかざして回廊を駆け上り、1人の練行衆が続き、火の粉をまき散らしながら二月堂の舞台を回るのです。これは本来、行のため堂に登る練行衆のための灯りで1日から毎日行われるのですが、12日だけ1回り大きな篭松明が使われるのです。
そして本当のフィナーレーである「お水取り」になります。お松明が終わった深夜に呪師が5人の練行衆を伴って蓮松明で照らされながら南側の石段を下り、若狭井と呼ばれる小屋に向かい、香水と呼ばれる水を汲んで堂内に戻ります。
この水は福井県(旧・若狭国)小浜市の若狭神宮寺で汲まれ、3月2日に「お水送り」と言う儀式が行われています。
以上は奈良・幹部候補生学校の時に東大寺で、小浜の僧堂の時に若狭神宮寺で聞いた話でした。
- 2014/03/11(火) 08:55:19|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1872(明治5)年の明日3月10日に現在も横浜海岸教会(神奈川県庁の隣)として親しまれている教会堂を建設した日本最初のプロテスタント会派・日本基督公会が設立されました。
この公会は福音同盟会の流れですがプロテスタントと言う以外に特定の宗派に属さず、日本独自のキリスト教会派と位置付けている宗教学者もいます。
当初の日本人信徒は9名の青年と2名の中年男性だけで、アメリカ人のジェームス・ハミルトン・バラ牧師と共に(カトリックではないため「下で」とは言わない)公会の規約を起草し、翌年には東京に姉妹公会を設立しています。
ここで言う公会とは組織のことであり、建物としての教会は85年に完成し、その時に「横浜海岸教会」と言う名称が用いられることになりました。
ただし、この建物は1923年の関東大震災で焼失して、10年後の33年に再建を果たした現在の建物は戦災をまぬがれ、戦後は進駐軍兵士の賛美歌の会などに使用されました。
この公会はバラさんが仮の牧師を務めたもの、初代の稲垣信(あきら)牧師以降、全て日本人が就いていたことも特色になっています。
この創設期に集まった日本人信徒たちは「横浜バンド」と呼ばれ、キリスト教をカトリックと同義語にしていた日本で、プロテスタントを普及するのに貢献しました。
今ではキリスト教会の聖職者に神父と牧師がいることは知識としては知っているでしょう。
ただし、プロテスタントの教会にはカトリックのようなイエスやマリアの像やロシア正教のようなイコン(聖画)はなく、ガランとしたコンサート・ホールと言った感じです(十字架にもイエスの遺骸はついていません)。
この日本基督公会は戦後まもない1950年に解散し、日本キリスト教会に吸収されて横浜の海岸教会堂も同教会の所属になっています。
余談ながら明治以降、最初のカトリック聖堂が創建されたのも横浜で、こちらは1862(文久元)年に現在の中華街にあった外国人居留地に作られ、横浜天主堂の名で親しまれていましたが市街化にともない1906(明治39)年に山手へ移転しています。
おまけで言えば現在の日曜日を休みとする生活習慣は、旧約聖書でカミさんが6日間かけて天地を創造し、7日目に休んだことに由来し明治以降に広まりました。
それまでは寺院の「四九日(しくにち)」と言う4日、9日、14日、19日、24日、29日の5日ごとが休みだったようです。太陰暦は毎月30日に固定化されているため休日も確実にやってきました。
しかし、この記事で「公会」「教会」と使い分けている名称は、どちらも英語で言えば「church(チャーチ)」ですから、やはり日本語には馴染まないのかも知れません。
- 2014/03/09(日) 11:57:01|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
明日3月3日はは雛祭りですが、本来は太陰暦に行われていたため「桃の節句」と言うには時期が早く、梅の節句のように思われます。
今年の大河ドラマ「軍師・官兵衛」の第3話で、初恋の女性が室津城主・浦上宗景との婚礼の席を宿敵・赤松政秀に襲われて殺される話がありましたがこれは史実で(殺された新妻と黒田官兵衛の関係は不明)、兵庫県たつの市御津町室津地区では落城したのが3月3日であったため、以前は新妻の霊を悼んで雛祭りを八朔の夏に行っていました。また香川県の仁屋場でも同様の理由で八朔の雛祭りだそうです。尤も、昔は家屋の防湿性が良くなかったため、人形を風に当てる目的で秋にも雛祭りを行っていた地域は結構ありました(航空自衛隊には全国各地から隊員が入隊してくるためローカルネタには事欠きませんでした)。
女の子がいる家では雛人形を飾りますが、野僧の妹は外で遊ぶのが好きなワイルドな娘だったため、雛人形の飾りつけの手伝いは家で本を読んでいる息子の仕事になっていて、夕方に帰宅した妹は飾り付けられた雛人形を見て喜ぶだけでした。当時のリカちゃん人形の代わりに衣装を脱がそうとして叱られる馬鹿でもありましたが。
「片付けが遅れると嫁に行き遅れる」と言うのでこれも手伝いましたが、帰宅した妹は「何で私のお雛さんを片付けた!」と怒り狂い泣きわめきました。トホホホ・・・。
ところで雛人形は東京ではお内裏様(旦那)が向かって左側に座っていますけど、京都を中心とする関西圏では逆です。これは関西では上位者が向かって右側に座る日本古来の作法を守っているのに対して東京では大正天皇が西洋式に向かって左側に立った結婚写真を庶民が真似したため変化したと言われています。これは時代劇の歴史考証のレベルをチェックするポイントでもあります。
また雛祭りには古式に則って白酒を飲みますが(清酒ができたのは江戸時代)、未成年である子供は甘酒、大人はドブロクと言うところでしょうか。
昔は菱餅や雛アラレなどを作って食べましたが(これも息子が手伝いました)、地方によっては蛤を食べる風習もありました。これは蛤の殻は違う貝の物とは絶対に合わないため、娘が二夫に交えない貞淑な妻になることを願う風習だったようです(今は結婚しなくても多夫に交えていますが)。
ちなみに3人官女の中央の女性だけは眉がないのは既婚者であることを意味しているそうです。
童謡「うれしいひなまつり」の歌詞では「明かりを点けましょ雪洞に お花を上げましょ桃の花 五人囃子の笛太鼓 今日は嬉しい雛祭り」「お内裏様とお雛様 二人並んですまし顔 お嫁にいらした姐様に よく似た官女の白い顔」「金の屏風に映る灯を かすかかにゆする春の風 少し白酒召されたか 赤いお顔の右大臣」「着物を着換えて 帯締めて 今日は私も晴れ姿 春の弥生のこのよき日 何より嬉しい雛祭り」と登場人物が並んでいますが、一番下で履物と傘と笠を持っている仕丁(しちょう)の3人は出てきません。この3人は泣き笑い怒る表情も見せており、「三人上戸」と言う別称もある役どころなのですが流石のサトウハチロー先生も歌詞にしにくかったのでしょう。
ただ小学校入学前から歴史少年だった野僧は左右大臣の脇に置く右近の橘、左近の桜の意味や五人囃の雅楽の楽器などにも興味をもって調べましたので、楽しい手伝いではありました。
一度、流し雛に参加してみたかったですが、娘は生まれてこられませんでしたから残念です。

山口県の民芸品「大内雛」
- 2014/03/02(日) 09:21:19|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
今回は我が国の浄土教のもう1つの流れである時宗の開祖・一遍智真上人です。
前回、法然上人は武家、親鸞聖人は公家の御出身だと申しましたが、一遍智真上人は伊予国松山(愛媛県)の河野水軍・河野通広の嫡子で、時代としては親鸞聖人よりも66年遅い1239年生まれですが、聖人よりも短命だったので27年後の1289年に亡くなっており、聖人と上人の生涯は23年間重なっていました。
上人は10歳の頃、母の死をきっかけに出家して福岡県の浄土宗西山派の祖・証空に師事しましたが、河野家相続のため還俗しました。
しかし、領地の相続争いに巻き込まれて再度出家し、信濃の善光寺に参籠するも帰国、その後、妾の超一と娘の超二を連れて遊行の旅に出ました。
その意味では妻を娶ったことを煩悩が捨てられない自分の罪、業、愚として苦悩し続けた親鸞聖人よりも数段上をいっています。
ただ上人は街中や村落で衆生と共にあることを道とした他の念佛者と異なり、断崖絶壁の山の上などで念佛を行じて境地を深めていき、やがて大阪の四天王寺、紀州の高野山などに詣でて託宣を得たとされていますが、熊野権現では「御坊の勧めによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず、阿弥陀佛の十劫正覚に一切衆生の往生は南無阿弥陀佛と決定するところなり。信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし=御坊の勧めによって全ての衆生は始めて往生するのではない、阿弥陀佛の長い修行・思索によって全ての衆生が南無阿弥陀佛によって往生することが決定しているのだ。信仰心の有無を選ばず、浄不浄を嫌わずに、その札を配りなさい」と言う神勅を受けて往生札を配るようになったそうです。
ところがある日、上人がいつものように往生札を配っていると、旅の僧侶が「宗旨が違う」と受け取りを拒みました。すると上人は「阿弥陀の衆生済度の誓願はこちらが求める拒むに関わりなく普く及んでいる」と押しつけるように手渡したそうです。
つまり法然上人が開かれた念佛によって救われると言う浄土教は、一遍上人により「往生必定」を保証するに至ったのです(その頃、親鸞聖人は「私のような者が本当に救われるのだろうか」とまだ悩んでいましたが)。
また紀州では由良・宝満寺の法燈国師に参禅し、無門関「念起即覚」の提唱を受けて、「となふれば 佛もわれも なかりけり 南無阿弥陀佛の 声ばかりして」の1首を呈するも国師は「不徹底」と拒絶し、そこで上人は「となふれば 佛もわれも なかりけり なむあみだぶつ なむあみだぶつ」の1首を再呈してゆるされたと伝えられています。つまり「南無阿弥陀佛の声ばかりして」では「佛もわれもなかりけり」と言いながら南無阿弥陀佛を聞いている自己があり、両者の間に隔たりがあると言うのです。そして「なむあみだぶつ」だけになり切ったのです。
そんな遊行の旅は出身地の四国はもとより、北は祖父・河野通信の墓があった陸奥の江差(岩手県)から南は九州の大隅(鹿児島県)まで全国各地に及びました。
上人と言えば往生札と共に有名なのが踊り念佛ですが、これは善光寺に参詣した時(前回とは別)、在家宅の庭先で踊ったのが始まりで、瞬く間に全国に広がり、現在行われている盆踊りの原型と言われています。
青森県の八戸辺りではお盆に墓で踊る風習がありますが、これが本来の趣旨に近いのかも知れません。
ただ時宗の踊り念佛は打ち鳴らす鐘に合わせて念佛を唱えながら飛び跳ねる躍動感あふれるもので、上人は踊り念佛を「自然遊躍」と言っておられますから、沸き起こる往生の悦びに任せて体が躍り上がる陶酔=トランス状態の踊りのようです。
これは同じ青森で行われるネプタ(ネブタ)の「ラッセラーッ」と叫んで飛び跳ねる「ハネト」に近いものでしょう。
また時宗の念佛は天台宗の聲明のような独特の節回しがあり、簡単には覚えられません(以前住んでいた地域には在家念佛として不完全ながら伝わっていました)。
ちなみに浄土真宗では法名に「釋」姓をつけますが、時宗では名の末尾に「阿弥」をつけます。世阿弥、観阿弥、黙阿弥も時衆(時宗の信者)なのかも知れません。
本阿弥光悦が日蓮宗徒であることは有名ですが。
上人の旅には次第に同行者が増え、一度に280名以上が出家したこともあったとも言われ、その中には「早く往生したい」と海に入水自死する者までありました。
その点も親鸞聖人が高弟の唯円と「往生できると言われても待ち遠しいとは思えない」と言い交わしていたことが、「歎異抄」に記されているのとは対照的です。
つまりこの時点では、念佛者としての境地、宗教家としての教導力は共に上人の方がはるかに上をいっていたことが判ります。
学問の家柄の御出身である聖人は、あくまでも学術的に阿弥陀如来の念佛による救済を論証しようとされましたが、上人は官能的に神勅と言う形で教えを確立していきました。文字すら読めなかった当時の衆生には、「××経にはこう説かれている」などと論理的に説明されるよりも、「絶対に救われるんだ」と断言され、周囲の者の熱狂に身を任せる方が信仰心を植えつけられたのでしょう。
ただ、聖人が心血を注いだ学術的論証は後世になって信仰を継続、深化させる基礎になり、さらに宗教哲学として再生する便(よすが)にもなりました。
一方、一遍上人の時宗は、やがて念佛の一大勢力になり本流であるはずの法然上人からの法脈をも圧倒していきました。
上人が示寂する時、紫雲がたなびき弟子たちがそれを告げると「紫雲にまかせておけ=放っておけ」と言われ、目を閉じたそうです。
上人は生前、「飢えて死に逝く者を見ても放置するような世なら、生きていても仕方ない」と語られていましたが、死因は栄養失調ではないかと推測されています。
上人には大佛寺(永平寺)から参じて後継者と目されていた如一と言う弟子がいましたが先に遷化し、さらに示寂に当たって一切の著述物を焼却させたと言われますから、教義が正しく継承されず、没後、鎌倉幕府は保護すると共に全国各地の守護、地頭、豪族を探る隠密として利用したため、アッと言う間に衰退しました(時代劇に出てくる隠密は虚無僧が定番ですが、あちらは明暗宗と言う禅宗の一派です)。
やはり神秘体験は本人だけのものであり、伝聞では力を持ち得ないのです。
一遍智真上人の辞世「一代の聖教みな尽きて 南無阿弥陀佛になりはてぬ」
神奈川県藤沢市にあって箱根駅伝で選手が山門前を通過する時宗の本山・清浄光寺(遊行寺)はこの時代の創建です。この寺には本尊の佛像はなく、六字名号の掛け軸が本堂の中心に掛けられているだけだそうです。
南無阿弥陀佛

一遍上人像(重文・宝蔵寺・2013年8月10日・火災で焼失)

往生札
- 2014/03/01(土) 00:11:54|
- 月刊「宗教」講座
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0