昭和3(1928)年の明日5月21日に現1000円札・野口英世さんがアフリカのアクラ(ガーナの首都)で死去しました。51歳でした。
野口英世さんと言えばエジソン、リンカーンと並び子供向け偉人伝の常連でした。幼い頃、母親が野良仕事に出ていた留守に囲炉裏に落ち、左手を大火傷して指が癒着してしまい、同級生たちに「手ん棒(仇名)、左手でジャンケンしよう」などと苛められながらも勉学に励み、やがて外科手術によって指が切り離されたことで医学に目覚め、アメリカに渡って細菌学の研究に打ち込んで、黄熱病の研究と治療のためアフリカに渡り、自分も感染して死んだと言う生涯は日本人なら誰でも知っているでしょう。
しかし、リンカーンの時も奴隷解放は欧州の支持を獲得するための政策であり、ネイティブ・アメリカン(いわゆるインディアン)を大量虐殺した非道な大統領だと言う事実を紹介しましたが、野口さんも人間性は「素行不良」と断ぜざるを得ません。
野僧は野口さんと同じ福島県猪苗代町出身の友人がいて、地元に伝わる素顔、裏話を数多く聞きましたが、伝記とかけ離れ過ぎていて愚息たちには説明できませんでした。
先ず伝記では父親が酒びたりの怠けものだったため貧乏であり、母親が1人で家を支えて苦労していたことになっていますが、実際には父親も婿養子であったように野口家は数代にわたって娘しか生まれず、このため働き手がなかったことが没落の原因でした。
父親の佐代助さんは農家のほかにも郵便配達の仕事に励み、酒は近所の人との交流の場で飲み過ぎる程度だったそうです。母親のシカさんは産婆(助産士)の資格を取ったので優秀だった=野口さんは母親似と言うことになっていますが、父親は読み書きができて当時の田舎としては教養人であったのに対して、母親の方は無学文盲で試験のために字を習ったのですが、それ以外の文章の読解、記述は満足にできなかったようです。つまり父親譲りの頭脳に母親の努力が重なって野口英世と言う科学者ができたのでしょう。
野口さんは兎に角、女癖が悪く、金銭感覚が欠落した社会性のない人格破綻者で、医学を学ぶため医院の書生になっていた頃に出会った女学生に横恋慕して、相手が迷惑がっても手紙や贈り物を送り続けています。医師の国家資格を取得した後、アメリカへの留学資金を得るため知り合いの医師の姪と婚約したにも関わらず、その女学生にペアの指輪を贈ったのですから呆れます。その上、婚約者の方は「顔も醜く学がない」と言って放置した揚句、婚期を逃すことを懼れた先方から破談にさせました。
この他にも野口さんは周囲の協力者の尽力で学費や留学費を得ると、それを遊郭で使い果たしてしまい協力者たちは再度の金策に走り回って間に合わせることの繰り返しだったようです。アメリカでも女癖と浪費は改まらず、結婚したアメリカ人の妻もかなり苦労していたと言われています(ただし、日本女性ではないので黙ってはいなかった)。
野口さんは医師と言うよりも研究者であり、アフリカへも治療よりも黄熱病の検体採取を目的に赴いたようです。1928年の1月に一度、黄熱病の症状を起こしていて(実際にはアメーバー赤痢だったと言われている)、黄熱病は終生免疫ができることからその後は油断して患者に接したため感染したようです。この日の昼頃に死亡しましたが、採取した血液を猿に接種したところ黄熱病を発症したので死因は特定されました。
野口さんの肖像が印刷されている1000円札は遊興費と医療費に遣うのが供養なのかも知れません。それにしても5000円も1000円も表情が暗いですね。
- 2014/05/20(火) 09:53:40|
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昭和7(1932)年の明日5月15日に「5・15事件」が発生し、犬養毅首相が暗殺されました。死亡が確認されたのは夜11時26分だったので、あと30分少々で命日は16日でした。
犬養首相は安政2(1855)年6月4日に現在の岡山市北区で生まれ、21歳で慶応義塾に入学し、卒業前に報知新聞の記者として採用されて、西南戦争に従軍しています。会津藩士の生き残りによって編成された「抜刀隊」を取材したのは犬養記者だったと言う風説もあります。
西南戦争により不平士族の暴動が鎮まると世間の関心は経済建設に向かい、この方向性を巡ってマスコミでも激しい論争になったのですが、その流れの中で政界と関わるようになって27歳の時に大隈重信が創設した立憲改進党に入党します。
犬養首相は青年将校によって暗殺され、生前は尾崎行雄と共に「憲政の神様」と呼ばれていたことから、軍備拡張に反対していた平和主義者のように思われていますが、実際には戦前右翼の大物・頭山満の盟友であり、アジア主義者として中国の辛亥革命を援助し、亡命していた孫文を生家にかくまうなどしています。
さらにロンドン海軍軍縮会議では「政府(海軍大臣は政府側)が勝手に軍備の削減の交渉をすることは天皇の統帥権に対する干犯である」と批判して政争の具に供しています。しかし、当時の日本は大恐慌や第1次世界大戦の後遺症が脱し切れておらず、政治家としては軍縮を推進するべきだったのですから、どう言う見識だったのか理解できません。
この論法は後に政治が軍の問題に関与することを拒否する時の常套句になり、日本が軍国化の道を突き進む端緒になってしまったのも事実です。
では何故、犬養首相は青年将校に狙われたのか?「内閣が行き詰まって政権を投げた後は野党第1党に政権を譲る」と言う当時の政治慣習と元老・西園寺公望の推挙によって77歳の高齢で首相になった直後、解散・総選挙に打って出て政権基盤を固め、高橋是清を大蔵大臣に就けて経済不況は徐々に改善しつつありました。一方、大陸で勃発していた満州事変は難題で、軍部が求める満州国の承認を拒否し、辛亥革命以来の国民党との人脈を使って外交交渉で解決しようとしていました。
しかし、右翼であった内閣書記官長を通じてこの情報が軍部に筒抜けになり、まさに「統帥権の干犯」として批判し、過激な言動をとる青年将校が暗躍するようになりました。これに対して犬養首相は陸軍の長老・上原勇作元帥に風潮の鎮静化を依頼し、天皇にも問題の青年将校の免職を上奏したのですが、これが前述の内閣書記官長を通じて軍部に伝わったのです。この内閣書記官長は首相が日曜日に官邸で過ごしていることや邸内の首相の居場所や警備が手薄なことを襲撃した青年将校(一部は士官候補生)に知らせ、手引きしたとも言われています。
襲撃を受けた後、犬養首相の意識はハッキリしており、「今、撃った男を連れて来い。よく話して聞かせることがある」と言ったことが、「話せばわかる」の名台詞になりました。
犬養首相の暗殺後、軍は予算や作戦に政府が関与することを「統帥権」を盾に拒絶し、それでも引き下がらなければ「決起将校に暗殺されるぞ」と脅すようになりました。
それで口をつぐんだ根性無しの政治家こそが批判されるべきかも知れませんが、その種子は憲政の神様・犬養首相が蒔いたのです。
- 2014/05/14(水) 09:38:29|
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昭和34(1959)年の明日5月12日に堀悌吉海軍中将が亡くなりました。76歳でした。
堀中将は明治16(1883)年8月16日に大分県杵築市の農家の次男として生まれましたが10歳で士族である堀家の養子になり、地元の杵築中学校(旧制)を卒業後、32期生として海軍兵学校に入りました。この32期には連合艦隊司令長官・山本五十六大将がいて肝胆相照らす盟友となったそうです。堀中将は入学時が192人中3番、卒業時はトップだっただけでなく、同期たちから「海軍兵学校創立以来、未だ見ざる秀才」「上様の傑作の1つは堀の頭脳」と称賛されるほどの卓越した人材だったのです。ちなみに山本大将は入学時2番、卒業時13番であり、同期からは塩沢幸一(養命酒の社長の息子で入学時トップ、卒業時次席)、嶋田源太郎、吉田善吾の4人が大将になりました。
32期の卒業は日露戦争真っただ中の明治37年であったため恒例の遠洋航海は行われず、堀少尉候補生は「三笠」乗員として日本海海戦に参加しました。この時、双眼鏡で見た集中砲火を浴びて沈没寸前のロシア艦が掲げていた信号旗が「降伏だったのではないか」との疑問を抱いたことから「戦争そのものは悪であり、凶であり、醜であり災いである。然るにこれを善とし、吉とし、美とし、福とするのは、戦争の結果や戦時の副産物などから見て、戦争の実体以外の諸要素を過当に評価し、戦争の実体と混同するからにほかならない」「軍備は平和の保証である」「海軍はどこまでも防御的なものであるべき」との思想を抱くことになったのです。堀中将は兵学校の生徒の頃から自然の中の散策や佛閣神社への巡拜、日本舞踊などの伝統文化を愛する閑雅風流な人物だったそうなので、思いがけない大勝利に舞い上がる単純な軍人たちとは感性が違ったのでしょう。
主力艦の保有数を制限するワシントン条約会議に随員として参加すると加藤友三郎大将の片腕となって、この思想を実現するべく努力します。続く補助艦のロンドン条約には盟友・山本五十六少将が参加しました。この会議では補助艦の総排水トン数でワシントン条約と同じ対米比7割を主張する日本と6割で譲らないアメリカの間で激論が交わされたのですが、日本側はアメリカばかりではなく国内で軍縮そのものに反対する艦隊派こそが難敵だったのです。日本側は7割を切ることでアメリカ側の妥協を引き出し、巡洋艦1隻分にあたる6割9分5厘で締結にこぎつけたのですが、それでも艦隊派は7割を下回ったことを徹底的に批判しました。これに山本少将は「アメリカは太平洋と大西洋の二正面作戦だから半分でも戦える」とイギリス海軍の存在を無視した名言=詭弁を弄しています。一方、艦隊派はそろそろ認知症が始まっていた軍神・東郷平八郎元帥を担ぎ出して批判させようとしたのですが、「訓練に制限はあるまい」との金言を吐くだけでした。
そのうっ憤晴らしのように行われたのが愛知県稲沢市出身の大馬鹿野郎・大角岑生による条約派潰しの「大角人事」で、堀中将も予備役へ編入され、この比類なき人材は戦争に向かう国難から遠ざけられてしまいました。
堀悌吉中将は海上自衛隊の生みの親でもあり、陸が警察予備隊と言う奇胎から保安隊を経て自衛隊に変質していったのに対し、海上自衛隊は始めから海軍として組織作りを行い、驚くほど帝国海軍の伝統を継承できているのも、堀中将の巧みな外交交渉と豊富な人脈の賜物と言われています。
- 2014/05/11(日) 09:59:27|
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昭和17(1942)年の明日5月11日は詩人・萩原朔太郎さんの命日です。55歳でした。
荻原さんは明治19(1886)年11月1日の朔日(ついたち)に生まれたため朔太郎と命名されたそうです。父親の荻原密蔵さんは現在の群馬県前橋市の開業医だったので何不自由なく育ち、本人は生涯、定職に就くことがなかったのです。
そんな生い立ちのためか子供の頃から神経質で、「皆から除け者にされている」と思い込み、1人でハーモニカや手風琴を奏でて過ごしていたのですが、これは大人になってからも続いてマンドリン奏者として前橋市内で演奏会を開いています。
旧制中学で短歌を始め、級友たちと同人誌を発行しますが、幾つかの作品が「明星」に掲載され、それを通じて石川啄木とも交流が始まりました。ただ勉強は苦手だったようで、授業中はいつも窓から空ばかり眺めていて、旧制高校へは入学したものの落第、転校しても退学の繰り返しで、転校した第6高校の教授が父親に「朔太郎の学業に将来の望みなし」と言う手紙を送ったほどでした。27歳の頃、北原白秋の雑誌に6編の詩が掲載され、詩人として出発します。
野僧は中学時代、教育雑誌に続けて入選したことを切っ掛けに詩作に励んでいたのですが、詩人の作品を数多く読んだため用いている言葉が難しくなり過ぎて、「中学生の作品ではない=教師が添削している」と疑われて入選できなくなってしまいました。
そんな中で荻原さんの作品は平易で、どことなく不気味な情景描写があって好きでした。
「猫」
まっくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根(やね)のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
「あわぁ、こんばんは」
「あわぁ、こんばんは」
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」
「おわぁぁ、ここの家の主人は病気です」
荻原さんは16歳の時からカメラを始め(流石はお坊ちゃん)、屋根の上からパノラマ写真を撮るのが好きだったようです。これが詩の情景描写に役立っていると言われています。また大のミステリーファンで、江戸川乱歩さんとは個人的に交流を持っていたようです。「猫」と言う作品はこの2つのエピソードがそのまま投影されていませんか?
- 2014/05/10(土) 09:07:29|
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1945年の明日5月8日はナチス・ドイツが降伏した終戦の日です。
東はポーランド、オーストリア、西はフランス、北はノルウェー制圧し(当時は国の数が少なかった)、同じファシストであるイタリア、スペインと共にヨーロッパをほぼ手中に収めたヒトラーですが、スターリンの世界共産化の野望を挫くためソ連に侵攻したことの失敗で第3ローマ帝国建設は急速に退潮していきました。
1944年6月22日に始まったソ連軍の反抗はバグラチオン作戦と呼ばれ、1945年1月20日にはドイツ領内に入り、参謀総長・グデーリアンはベルリン防衛の強化をヒトラーに進言しますが、石油の大半を産出するハンガリーの防衛を優先し、残り少ない機甲軍の1つをベルリンからハンガリーに転用したのです(この部隊はハンガリーで壊滅した)。
3月28日にキュストリン橋頭保の陥落の責任をヒトラーの判断の誤りと批判したグデーリアンを解任し、クレーブスを参謀総長に任命しました。しかし、すでに戦力は枯渇しており、第3機甲軍、第6軍、第4機甲軍(別組織の隷下)の正規軍と国民兵、外国人義勇軍などの寄せ集め状態の上、実際の戦力は書類上の部隊規模になっていませんでした。
4月16日になってソ連軍はベルリン占領を目的とする作戦を発動しますが、初日はドイツ軍の頑強な抵抗に遭い、弱点を探して各地での攻撃を反復する戦況に陥りました。しかし、その抵抗も長くは続かず翌日からは各陣地が1つずつ陥落していったのです。そんな中、20日にはヒトラーの誕生日を祝うため軍とナチス党の高官が総統官邸に集まり、ドイツ北部の指揮権をデーニッツ元帥に与え、各種政府機関はベルリンから退避することが決まりました。ところがソ連軍は20日には陸軍総司令部付近に迫り、21日からは重砲による市街地への砲撃を始め、24日にはベルリン郊外へ突入したのです。
そこからは市街地戦に入りますが、ナチス党員は降伏しても死刑になることが判っており、ヒトラーもドイツ人、ドイツ文化、建造物まで全てを道連れにすることを決めていたため熾烈な戦闘が続きました。一般の市民が家に白旗を掲げるとナチス親衛隊に銃撃され、掲げないとソ連軍に殺される悲惨な状況になっていたのです。
4月29日、ナチス親衛隊長官のハインリッヒ・ヒムラーが西側連合軍に対して降伏を申し入れたことがBBCで放送されるとヒトラーは覚悟を決め、デーニッツを大統領、ゲッペルスを首相に任命して後事を託し、連れ添っていた愛人・エバ・ブラウンと結婚したのです。そして翌30日の午後3時20分に新妻・エバを殺し、自分も拳銃で自死しました。
新任の首相・ゲッペルスはソ連に停戦と講和交渉を申し入れましたが拒絶され、ベルリン守備隊に包囲網の突破を許可したもののそれも無理であり、5月1日に守備隊は降服しました。ゲッペルスが妻と6人の子供を道連れに自死すると新任の大統領・デーニッツは6日にフランスのアイゼンハワー連合軍総司令部へ全権特使を派遣して降伏交渉に当たらせ、
ソ連に占領されている東部地域から連合軍が占領する西部地域へ移動する時間猶予のため8日に発効と決まったのです。
この時、日本では沖縄戦が行われ、各都市は連日の空襲を受け、特攻隊も出撃していました。世界で孤立無援になって尚、何をするつもりだったのでしょうか?「本土決戦で一矢を報いて有利な講和を結ぶ」と言う妄想を実行しようとしていた陸軍は、全てのドイツ人、ドイツ文化、建物を道連れにしようとした狂人・ヒトラーと同罪です。
- 2014/05/08(木) 09:29:15|
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法然上人、親鸞聖人、一遍上人、道元と鎌倉佛教の御歴々が続けば日蓮聖人を語らない訳にはいきません。ただ野僧は日蓮聖人がどうも苦手なので「君子危うきに近づかず」でおきたかったのですが・・・。
そもそも法華宗の信者さんたちは、聖人ではなく大聖人、下手すれば大菩薩と呼ばなければ許さず、何よりも教義の形態を表す法華宗ではなく、宗祖の個人名を冠した日蓮宗と名乗るくらいの個人崇拝の教団ですから、ウッカリ「批判した」と受け止められればとんでもない目に遭いそうです。
また大聖人(と呼んでおきます)自身も、はじめは「比叡山の天台宗を守る」と頑張っておられて、山内で批判されると今度は「比叡山はなってない」と激しく批判される。また「南無阿弥陀佛の念佛などは佛教ではない」と批判しておきながら、念佛が衆生に広く浸透しているのを覚ると一転、「南無妙法蓮華経」とお題目を始められる。さらに密教の御祈祷を否定しておきながら、今では法華修験をやっておられる。ここまで自己矛盾、支離滅裂になると浅学非才、暗愚なる野僧の理解を超えてしまって手に負えません。
と言うことで昔から近づかないことにしていたのですが、ある団体旅行で千葉県は房総半島の鴨川へ宿泊したところ、そこは大聖人の生誕地でした。そして生誕地に建つ誕生寺からの眺めは、半島や島などが一切視界に入らず、何の遮るもののない茫洋とした太平洋です。そこで大聖人の小事に拘らず、自分の信じた道を邁進する極めて体育会的な人間性が養われたことを得心しました。
千葉県と言えば長嶋茂雄さんの出身地ですが、あの迷いのない豪快なスイングに野性の勘と呼ばれた打球に飛びつく溌剌プレー、何よりも天真爛漫な性格を愛されるミスター・プロ野球がユニフォームを法衣に着替えて辻に立ち、「ワシが言うことが絶対に正しい」と大声で呼び掛ければ、そのオーラに魅せられて直ぐにファンができて、次第に熱狂的な応援になることでしょう。
ここで言う熱狂的は狂信的と同義語で、日蓮宗の信者には常人に理解できない特異な言動で物議をかもした人物が大勢います。
例えば満州事変を画策した関東軍参謀の石原莞爾中将は、他の参謀が作戦の実現性に疑問を示すと、「お題目を唱えておれば大丈夫だ。南無妙法蓮華経と唱えて突撃すれば必ず勝つ」と真顔で答え、それで押し通してしまったそうです。
野僧が航空自衛隊幹部学校に入校した時、同期に日蓮正宗の過激団体である「顕正会(創価学会=池田大作への対抗組織)」の熱烈な信者がいたのですが、作戦実習の討議の席で「お題目を唱えれば邪は攻め寄せることなく必ず滅ぶ」と断言し、周囲は呆れながらも根拠を問うと、「立正安国論にそう説かれている」と真顔で答えました。
入校中は。その同期のこうした発言への反論として野僧に意見を求められ迷惑しましたが、「天才」と呼ばれた石原莞爾中将に根拠を問う者はいなかったでしょうけど、問われれば同じ答えを返したかも知れません。
また、日蓮宗の信者と言えば宮沢賢治も有名ですが、呼んでもいないのに関わってきた日蓮正宗の幹部によれば、「賢治が若死にしたのは日蓮宗と言う邪宗を信じ、折伏(布教)したから佛罰が当たったのだ」そうです。
キリスト教とイスラム教は同じ旧約聖書を奉じていても、新約聖書とコーランが違いますから対立するのもある意味仕方ないのですが、同じ日蓮大聖人を個人崇拝し、同じ妙法蓮華経を信じているのに、ここまで激しく憎み合うのは全く理解できません。
尤も大聖人自身が「四箇格言(しこのかくげん)」の中で、「真言は亡国、禅は天魔、念佛は無間、律は国賊」と他宗派を口汚く批判しており、信者がその凶暴性を受け継いでいるのなら、近親憎悪が凄まじいものなるのは宗風かも知れません。
ただ、1つだけ肯定するならば、当時、鎌倉には蒙古に圧迫されていた宋国から禅の高僧が亡命していて、殊更に禅を好んだ執権・北条時宗に教えを垂れていましたので、そこで蒙古の悪逆非道ぶりを吹き込んだ可能性があります。
このため元(=蒙古)のフビライ・ハーンが国交を求めて来日させた使節を、侵略を目的にした偵察と断定して殺したため国交は断絶し、2度の襲来を招きました。しかし、陸上での騎馬戦闘に長け、機動的侵攻を得意としていた蒙古ですが、船団を仕立てての渡海侵攻の経験はなく、侵略意図の有無は交渉の中で判断すべきだったのに、執権が先入観に囚われて始めから敵と決めつけてしまったのですから、「禅は天魔」と断ぜられても仕方ないでしょう。
大聖人がどこまで国際情勢を知り、考えていたかは疑問ですが、それでも元寇から国を救った恩人として、博多の東公園には巨大な立像があります。
ちなみに大聖人が日蓮と名乗ったのは鎌倉に住んでからで、それまでは是聖房でした。
大聖人は「立正安国論」を幕府に提出して以降、激しい弾圧を受けるようになります。法華宗ではこれらを「法難」として奇跡の伝説に仕立て上げていますが、先ずは前述のように激しく攻撃した念佛の信者によって鎌倉に結んだ松葉谷の草庵を焼かれ(草庵焼き討ち)、翌年には社会的不安を煽る危険人物として伊豆へ流罪になります(伊豆法難)。そして鎌倉に戻って故郷の安房へ向かおうとした時、東条郷の地頭に襲われ眉間に傷を受けます(小松原法難、若しくは東条法難)。
とどめが蒙古の襲来が近いと緊張感が増す中、それを批判する者として龍の口で斬首されかかります(龍の口法難)。この時、妙法蓮華経観世音菩薩普門品を唱えていると江ノ島方向から光の玉が飛んできて、首斬り役がすくんでしまい取り止めになったと言うのですが(振り上げた刀に落雷したと言う伝説もある)、確かに観世音菩薩普門品には「各執刀加害 念彼観音力」とあり、このシーンに合致する功徳があるものの、眉に唾をつけたくなるのは学校教育で受けた理科の授業の悪しき影響でしょうか。
結局、大聖人は佐渡島に流されることになり、そこでも島内だけでなく北陸からも僧侶が集まって迫害を受けます。
これも法華宗の信者は大聖人を妬む悪役の仕業であり、徳と智恵で切り抜けたと称賛しますが、自分で点けた業火が降りかかってきただけのことでしょう。
やがて佐渡島から鎌倉に戻った大聖人を、かつての信者が富士の裾野の身延山に迎え、移り住んで晩年を過ごし、祖廟(墓)もここに在ります。このため富士山の周りには日蓮宗、日蓮正宗の本山が林立し、創価学会の本部もあって、新幹線には「新富士」と言う駅まで作られました。ただ、法華宗の信者の人たちは大聖人を天下無双の秀峰・富士山に譬えますが、野僧は前述の理由で太平洋の方が似合うと思っています。
大聖人は9年間を身延で過ごす中、健康を害して温泉療養するため常陸国の身延(同じ地名なのでややこしい)に向かいましたが、途中の武蔵国の池上氏の屋敷で入滅しました。ここが現在の池上本門寺になっています。
では法華宗が絶対視する妙法蓮華経とはどのような経典なのか。
巻は第八まであり、巻第一は序品第一、方便品第二、巻第二は譬喩品第三、信解品第四、巻第三は薬草喩品第五、授記品第六、化城喩品第七、巻第四は五百弟子受記品第八、授学・無学人記品第九、法師品第十、見多宝塔品第十一、巻第五は提婆達多品第十二、勧持品第十三、安楽品第十四、従地涌出品第十五、巻第六は如来寿量品第十六、分別功徳品第十七、随喜功徳品第十八、法師功徳品第十九、巻第七は常不軽菩薩品第二十、如来神力品第二十一、嘱累品第二十二、薬王菩薩本事品第二十三、妙音菩薩品第二十四、巻第八は観世音菩薩普門品第二十五、陀羅尼品第二十六、妙荘厳王本事品第二十七、普賢菩薩勧発品第二十八です。
先ず、過去の経典は全て佛祖がこの経典を説かれるまでの方便であり、比喩であり、解説であって、この経典こそが佛教の真髄であるとクドイほど繰り返しています。ではこの経典をどのように信ずれば良いか、そうすればどれほど素晴らしい功徳があるかを、これもまたクドイほど繰り返し、だから信じなさいと迫ります。そして、この経典を説いた佛祖は最早、悟りに至った人間・釋尊ではなく、永遠の寿命を得た神に等しい超自然の力を持ち、経典を信ずる者を護り、無上の至福を与えて下さる。と畏れ入るほど強弁します。さらに色々な如来や菩薩がこの経典を信ずる者を護り、善導して下さる。だから疑うことなく、この経典だけを信じ、守りなさいと念を押しているのです。
ただ、この経典は長い上に大袈裟な比喩や過剰な情景描写が多く、読んでいても有り難さを感じないのは野僧だけでしょうか?
法華宗の人たちは「妙法蓮華経には人生のすべてに対する回答が書かれている」と言いますが、それはクリスチャンも「聖書」について同様のことを言い、マルキスト(マルクス主義者)からは「資本論」で聞きます。
野僧はこの3つとも熟読しましたが、これだけ長い長い書物を思い入れを込めて読んでいれば、何があっても当たらずとも遠からずで、自己暗示にかかって「このことだったのかァ」「自分のために説いて下さっているのだ」と感激するものです。
ところで法華宗のお題目の「南無妙法蓮華経」を「書物の名前を祈って何の救いがあるのか」と疑問を呈する声は昔からありました。確かにイスラム教徒もコーランを神聖視していますが、祈るのは唯一絶対のカミ「アッラー」であり、預言書「コーラン」ではありません。
ただ、お題目は「法華経の教えに帰依する」と言っているのであって、書物の名前ではないのは言うまでもないでしょう。所謂、他宗派からのイチャモン、粗探し、揚げ足取りと言う奴ですが、喧嘩を売ったのは大聖人、法華宗の方が先です。
むしろ野僧がイチャモンをつけるとすれば、法華宗が往生すると言う「霊山浄土」のことで、妙法蓮華経に説かれている釈尊がおられた場所とするのなら、インドかネパールの実在する場所になり、そこへ行けば死んだ人に会えるのでしょうか?
浄土門が信ずる阿弥陀如来の西方浄土は十万億土の遥か遠くであり、薬師瑠璃光如来の東方浄土は十劫伽沙で逆方向ですが、それでも「地球を何万周回るのか?」「お互い何回会うのだろうか?」と言う話になります。
こんな野僧の失礼な指摘にも大聖人は「ガッハッハッハ」と豪快に笑いながら、「はじめに『衆生を救う』と言う願があるんだよ。衆生が救われるのなら何でもありじゃ。今風に言えばお客さんのニーズ第一だな。細かいことは気にしない」と答えられるのでしょう。
余談ながら「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えているのは法華宗だけではありません。実は曹洞宗でも葬儀の時などに唱える「十佛名」では、過去佛の「清浄法身毘盧舎那佛」「圓満報身盧舎那佛」、現在佛の「千萬億化身釋迦牟尼佛」、未来佛の「當来下生弥勒佛」、そして「十方三世一切諸佛」の後、「大乗妙法蓮華経」を入れてから、「大聖文殊師利菩薩」「大行普賢菩薩」「大悲観世音菩薩」「諸尊菩薩摩訶薩」「摩訶般若波羅蜜」と唱えています。
同じ禅宗でも臨済宗の十佛名にはありませんから、これは身体が弱って急に妙法蓮華経を信じるようになった道元の趣味かも知れません。
ただ、これを呉音で「だいじょうみょうほうれんげきょう」とは読まず、漢音で「だいじんみょうはりんがきん」と唱えていますから、曹洞宗の檀家でも気づいていない人が殆どでしょう。今回は南無妙法蓮華経
「怪傑日蓮」北村西望氏の作(東京都武蔵野市・井の頭公園)

北村西望氏は長崎の「平和祈念像」の作者でもあり、同時期に制作されました。
- 2014/05/01(木) 09:44:57|
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