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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月1日・愛知県岡崎市の市制記念日

明日7月1日は野僧の故郷・愛知県岡崎市の市制記念日です。岡崎が町から市に移行したのは98年前の大正5(1916)年のことで全国でも67番目のことでした。この日は野僧の誕生日でもあり、岡崎市内の小学校を卒業するまでは市制記念日で休みだったのです。
その後、野僧は中学生時代を過ごした愛知県宝飯郡一宮町(現・豊川市)で生徒、教師から執拗な嫌がらせを受け、生きながらにして三悪道(修羅・畜生・餓鬼)を経験しましたが、日本人の嫌な面、愚かな点を凝縮しているような愛知県でも(全国各地に移り住んだ経験からの実感)岡崎市と豊田市は別でした。
愛知県人が他県の人々に比べ格段に能力が劣るのは、人よりも先んじることで出る杭になることを懼れて自重する精神風土と個性を異端と同義語としてあげつらい、迫害する伝統がある上、教職員も過去や周囲と異なる内容を取り入れて問題が生じた時の責任追及を避けようと前例踏襲、基準厳守の教育しか行っていないことが大きいのです。
その点、岡崎市は天下の覇者・東照神君・徳川家康公の出身地であり、全国各地の譜代大名を量産した人材の宝庫であった堅忍自給・切磋琢磨の武士の気風は今も色濃く残っています。また豊田市は世界に冠たるトヨタ自動車の本拠地であり、企業として愛知県に人材がいないことを痛感し、全国各地から有能な人材を集め、社員の子弟が通う地元の学校への支援を充実し、ついにはトヨタの全寮制高等学校を創設しました。
岡崎市は野僧が育った西の矢作と防府で一緒になった女性自衛官の出身地の東の本宿では風景が全く違い、矢作は地平線が見える平野ですが、本宿は緑深い山間の地です。野僧は幼い頃から矢矧川越しに岡崎城を仰ぎ、自分が三河武士であるとの想いを燃え立たせて天下を夢見ていましたが、彼女は東名高速道路と国道1号線、名鉄電車を見ながら広い世界に憧れていたそうです。ちなみに野僧が小学校6年のNHKの大河ドラマは「国盗り物語」で、家康公を演じたは今年の「軍師官兵衛」と同じ寺尾聰さんでした
徳川家康公が生まれる前の岡崎・西三河は新興勢力・尾張の織田と強大な守護大名・駿遠の今川に挟まれ、期待の英邁な領主・松平清康が家臣の裏切りに遭って若死にした後は没落の一途を辿ったのですが、その落ち目の主家を支え、守っていたのが忠誠無比を謳われた三河武士です。
野僧も幼い頃から鳥居忠吉・元忠父子や本多平八郎忠勝、大久保彦左衛門などの物語などを聞いて育ちましたから比類なき忠誠心を植え付けられていたのですが、「主君のために」と言う想いに私心を挟まない三河武士の気風は主君を利用して自己の野心を実現する=主君を目的達成の道具とする毛利藩・山口県の主従関係とは全く違い、地元出身が多い防府南基地ではかえって誤解を招いてしまいました。
ただ、その三河武士が領民と共に激しい一向一揆を起こしたのですが、一揆の本拠地になったのも野僧の地元でした。岡崎では川を渡った東側の城下は浄土宗、西側は浄土真宗(地元では一向宗と言っていました)の熱心な信仰地域です。
  1. 2014/06/30(月) 10:08:05|
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6月24日・赤松満佑が足利義教を殺害した。

1441(嘉吉1)年の明日6月24日(太陰暦)に赤松満佑が室町幕府6将軍・足利義教を殺害し、同席していた中国地方の雄・大内持世も巻添えで重傷を負いました。
足利義教は「将軍さま」こと3代・義満の3男ですが、側室の子であった上、同母兄に義持、異母弟の義嗣がいたため得度を受け僧侶・義圓になっていました。それも天台座主、大僧正と言う最高位まで上り詰めていたのです。
ところが兄の4代将軍・義持は息子の5代将軍・義量が病没しても後継者を決めず(将軍職を譲ってからも操っていた)、やむなく岩清水八幡宮でクジ引きが行われ、義持の没後に開封すると義圓が当選していたのです。これが「クジ引き将軍」と呼ばれる由縁になりました。
こうして還俗した義圓が6代将軍になったのですが、元服前に出家していたため武士としての見習いから始めなければならず、将軍就任には1年以上を要したため(髷を結えるだけの髪が伸びるまで)権力の空白が生じてしまいました。
将軍に就任した義教(還俗後、義宣と名乗っていたが就任時に改名した)は兄・甥の時代に失墜した幕府・将軍の権威・権力の回復を企図し、父・義満に倣った諸施策を打ち出しました。特に将軍と同等、ある面では凌ぐ権勢を得ていた鎌倉公方に対しては力を削ぐことに腐心しますが、いつの時代も権力の回復は新たに台頭していた勢力との抗争の原因になり、座主を勤めていた比叡山とも弟を後任に据えようとしたことで抗争が生じ、自ら軍勢を率いて包囲しました。また諸将・豪族への高圧的な命令を発し、ついには関東管領・上杉憲実と結んで鎌倉公方・足利持氏を追討しようと挙兵した「永享の乱」を引き起こしました。
この他にも儀式中に談笑していた武将が「自分を笑った」と思い込み、所領を没収したり、闘鶏見物に行こうとして野次馬の民衆に邪魔されて間に合わなかったことに激怒し、京での闘鶏を禁じ、鶏を全て洛外に捨てさせたり、酌が下手だからと侍女の殴打した上、髪を切って尼にしたりとかなり我がまま放題に振舞っていたため「悪御所」と綽名されていたようです。
赤松満佑はその名に3代将軍・義満の1字を授与されているように幕政の担い手の1人として活躍したのですが、5代将軍・義量の時代に播磨の所領を前将軍・義持が寵愛する従弟の赤松持貞(こちらは義持の1字を授与されています)に移されたため、足利将軍家への感情は急速に悪化しました。ちなみに播磨の赤松氏は今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場しています。
そして強権を揮う義教の登場で赤松氏に限らず諸将は警戒していましたが、誅刹が繰り返されるようになるとそれが危機感になり、やがて「殺られる前に殺る」と言うところまで追い詰められていたようです。
この日、義教は結城合戦の祝勝の宴として持貞の屋敷に招かれたのですが、猿楽を鑑賞中に乱入した赤松家の武士によって首を討たれたのです。
そこには義教の九州征討に協力して周防・長門・豊前・筑前の領主となっていた大内持世も同席していて重傷を負い、7月28日(太陰暦)に亡くなりました。
  1. 2014/06/23(月) 09:44:02|
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6月23日 沖縄慰霊の日=長勇参謀長の命日

1945(昭和20)年の明日6月23日、摩文仁の第32軍司令部壕内で牛島満司令官と長勇参謀長が自決したため指揮系統に基づく戦闘が終結し、この日が「慰霊の日」となりました(戦闘は8月15日に日本が降服した後も本島各地で継続していた)。
牛島司令官については戦史研究者の中でも毀誉半ばする評価であり、その否定的見解の論拠の大半は長参謀長の強硬意見に振り回されて無謀な反攻を裁可したため、不要に戦力を消耗し、八原高級参謀が綿密に立案していた「戦略持久」作戦を中途半端にしてしまったことです。つまり沖縄戦の悲惨な戦況の元凶は長参謀長と言うことになります。
長勇参謀長は1895(明治28)年1月19日に福岡県粕屋郡粕屋町で農家の長男として生まれましたが、幼い頃に母親から折檻を受けていて、沖縄戦の最中にも「母ちゃん、痛いよ!」「ごめん、許して」と寝言で叫ぶことがあったそうです。
旧制中学修猷館、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て28期生として陸軍士官学校に入り、1916(大正5)年12月には陸軍少尉に任官しています。
その後、歩兵連隊で勤務しながら1928(昭和3)年12月に40期生として陸軍大学校を卒業して第48歩兵連隊の中隊長になり、続いて陸軍参謀本部支那科で勤務しますが、橋本励五郎と共に過激派集団・桜会を結成し、閣議中の首相官邸を襲撃し、全閣僚を殺害すると言うクーデター計画=三月事件、十月事件によって検束されました。
ところが帝国陸軍は「過激派青年将校はかなりの数に上り、弾圧してはかえって収拾がつかなくなる」と言う弱腰で、長少佐も台湾の第1歩兵連隊に大隊長として赴任し、翌々年には中佐に昇任して参謀本部支那科勤務、然も陸軍大学校教官兼務になっています。つまりクーデター未遂はお咎めなしだったのです。
続く南京攻略戦では中支方面軍情報主任参謀として参加し、捕虜を「やっちまえ」と処刑するように命じたため松井石根軍司令官に叱責されています(その松井大将は南京虐殺の罪を問われA級戦犯として処刑されました)。それでも順調に昇進を続け、連隊長、師団参謀長、印度支那派遣軍参謀長、歩兵団長などのエリートコースを歴任して第32軍参謀長に就任したのです。
しかし、長勇参謀長に軍人として何か優れた資質があったのかと言えば、むしろ沖縄戦でも見せた先見性や大局的視野のないメンツとハッタリだけの無謀な作戦指導と強引な言動ばかりが目立ち、何を以て牛島司令官が「戦上手」と評していたのか理解に苦しみます。むしろ旅順要塞攻撃で局面でしか戦況を理解できず形式的な作戦指導で多大な犠牲を出した乃木・第3軍の伊地知幸介参謀長に似ているのはないでしょうか。
帝国陸軍では将校士官がエリートコースに乗るためには「1天、2表、3敬礼、4馬鹿、5理屈、6大声」と言う要素が必要だとされていましたが、長参謀長は陸軍大学校を出ているので1の天保銭(陸大修了者の徽章)には該当し、2の命令起案能力は参謀勤務が長いところを見ると劣ってはいなかったのでしょう。3の敬礼には首を傾げるものの人好きする性質だったことは間違いなく、5の理屈は脅迫に近く(沖縄戦では泣き落しだったが)、4の馬鹿と6の大声はその典型です。
結局、帝国陸軍は明治の創設時から派閥抗争が絶えず、特に軍の中核をなした毛利藩は幕末から尊皇佐幕の内部粛清を繰り返してきましたから、クーデターに対してそれ程の罪悪感がなかったのかも知れません。
その狂った組織の稚拙な人事が、この凶暴な人格破綻者を参謀長にまで引き上げてしまい、緻密な作戦計画を無謀な暴走に変質させたのですから、滅びるべくして滅びた国家、軍だったのでしょう。
  1. 2014/06/22(日) 08:44:34|
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6月18日 沖縄戦でバックナー中将が戦死した。

1945(昭和20)年の明日6月18日に沖縄戦のアメリカ軍側最高指揮官・第10軍司令官であったサイモン・ボリバー・バックナー・ジュニア中将が戦死しました。
中将で戦死と言うのは第2次世界大戦のみならず世界戦史でも例がなく「最高位の戦死者」とされていますが、硫黄島で栗林忠道中将が自決ではなく戦死していれば同階級、さらに訣別電報を受信した直後、特別昇任させていますからそれ以降であれば大将でした(通説では突撃したが負傷し、敵に捕獲されないため拳銃で自決した)。
バックナー中将は1886年にケンタッキー州で生まれ、父は南北戦争の南軍側の将軍でした。それでもセオドア・ルーズベルト大統領の推薦を受けてウェストポイント・陸軍士官学校に入校しているのですから、戊辰戦争後、会津・長岡などの奥羽越列藩同盟出身者を不当に差別していた日本陸軍とは度量の差を感じざるを得ません(山本五十六海軍大将は長岡の出身です)。
太平洋戦争ではアラスカ軍司令官としてアリューシャン戦線に参加し、ダッチハーバー・アッツ、キスカの奪還作戦を指揮したと言うものの、アッツでは2番目の玉砕である山崎保代部隊の猛攻に苦戦し、逆にキスカでは撤退後のモヌケの殻の島に猛烈な艦砲・爆撃を加えた後から上陸し、不安に駆られた兵士が同士討ちで約100名も戦死する失態を演じてしまいました。それでも奪還には成功したので少将に昇任し、陸軍と海兵隊の混成部隊の第10軍が編成されるとハワイに赴き、中将に昇任しています。
沖縄戦を巡っては日本の大本営が台湾への侵攻の可能性を重視して、第32軍から第9師団を抽出して配置換えする愚策を犯しましたが、米軍の方も当初は台湾に侵攻させる予定だった第10軍を、欧州戦線のソ連軍の侵攻が予想よりも早かったため終戦を急ぐワシントンの政治的判断により、沖縄へ向けました。
また沖縄作戦の指揮官は当初、硫黄島など太平洋諸島での上陸作戦を指揮したホーランド・スミス海兵隊中将があてられる予定だったのが、スミスVSスミス騒動などで陸軍と対立し、太平洋方面軍内でも批判されていたためバックナー中将が任じられたのです。
この日、バックナー中将は日本軍を摩文仁に追い詰めたと言う自信からか、前線であった糸満・真栄里の高台に少数の随員と一緒に登り、立って視察中に砲撃を受けました。
その砲撃については野僧が独自に集めた証言とインターネットを含む研究者の間の定説では大きな違いがあります。後者ではバックナー中将の行動を察知した日本軍が高台に向けて砲撃を加え、第1野戦重砲連隊第2大隊第4中隊の石原正一郎大尉が指揮する96式15糎榴弾砲の砲弾が命中したと言う大尉自身の証言(現在、石原大尉は台湾に移動して沖縄戦には参加していないとされている)に基づく説や小野1等兵が小銃で狙撃したと言う説がありますが、野僧が聞いたのは高台の傍の洞窟壕内に潜んでいた日本兵が放った89式擲弾筒(てきだんとう)の擲弾がバックナー中将の足元で破裂したと言うモノです。
野僧が大尉の証言で疑問を感じるのは、15糎榴弾砲であれば射程は10キロ以上あり、これを証言にあるような2キロの至近距離に落下させるためには上方に高く撃ち上げなければならず、その分、命中率は落ちます。さらに当時の日本軍の配置では着弾点を確認して修正を指示する観測点、誤差を連絡する通信網は確保できず、狙い撃ちすることは不可能でしょう。そして砲弾の威力は爆風だけでなく破片の飛散が大きいので、えぐった石の破片がバックナー中将の胸に当たり戦死したが随員に怪我はなかったと言うのも現実的にあり得ません。また「小野1等兵による狙撃」説の方は厚生省の戦死者や生還者の名簿に該当する名前はないようです。やはり直径5センチの擲弾の破裂と言うのが真実ではないでしょうか。
バックナー中将は1954年になってから功績が評価され大将に特別昇任しています。この冷静な人物評価も戦死すれば一律に特別昇進させ(生前の階級・軍功などにより2階級、1階級は分かれる)、愚将・乃木まで名将に祀り上げてしまった日本陸軍とは雲泥の差です。
沖縄戦バックナー中将戦死地
1985年になってから建立された戦死地の慰霊碑
沖縄戦洞窟壕戦死地のすぐ傍にある洞窟壕の跡
  1. 2014/06/17(火) 10:05:01|
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6月13日・沖縄戦で大田実海軍根拠地隊司令官が自決した。

昭和20(1945)年の明日6月13日に海軍沖縄根拠地隊司令官・大田実少将(戦死後に中将へ特別昇任)が司令部壕内で自決されました。
野僧の前世は沖縄で戦死した海軍中尉でしたから大田司令官に直接お仕えした上、現役時代には警備幹部として航空陸戦隊を育成するため、その先達である海軍陸戦隊についてかなり研究していました。
大田司令官は千葉県長生郡長柄町出身で海軍兵学校の41期ですが、同期にはキスカ島撤退作戦の指揮官・木村昌福中将、駆逐艦によるガダルカナルへの隠密輸送を待ち構えていた米海軍の巡洋艦隊を返り討ちにしたルンガ沖夜戦の指揮官・田中頼三中将などの世界的な名将や一刀正伝無刀流の4世宗家ではあるものの第1航空艦隊参謀長としての作戦指導にまでその発想を持ち込んで失敗した草鹿龍之介中将などがいます。
大田司令官は日露戦争以降、陣容を整えていった海軍陸戦隊の中心人物で、大河内伝七中将が指揮した第1次上海事変や2・26事件の鎮圧部隊などに参加し、さらにミッドウェイ作戦では航空攻撃の後に計画されていた上陸・占領部隊の指揮官でした。
沖縄では約1万人の兵力を指揮し、豊見城村の司令部壕を根拠地にして現在の那覇空港がある小禄地区を担任していました。
アメリカ軍は本島中部に上陸して南進しましたが、島を完全に包囲していたのですから別の地点から上陸することは思いのままで、断崖絶壁が多い本島南部の地形から言って小禄地区が最適地だったのです。
実際、嘉数高地で攻撃が停滞すると米軍は小禄地区からも部隊を上陸させて首里を挟み撃ちにしようとしましたが、海軍陸戦隊の猛烈な反撃に遭い作戦は頓挫しました。
その後も小禄地区を固く守備していたのですが、5月末になって事前の調整もないまま陸軍は本島最南部の摩文仁に司令部を移し、それだけを知らされた海軍は一緒に撤退するものと判断し、陣地や重火器を破壊した上で南部への移動を開始しますが、そこへ陸軍から「第32軍司令部の撤退を支援せよ」との命令が届き、豊見城村の司令部壕に戻り、破壊した陣地の修復をしながら米軍を迎え撃ったのです。
しかし、火砲は既になく、応急修理しただけの陣地では抵抗にも限界があり、トンネル状の司令部壕内で銃撃戦が続く中、拳銃で頭を撃ち自決されました。
この時、海軍次官に宛てた訣別文を打電していますが、沖縄県民が老若男女を問わず積極的に軍を支援し、多くが自ら戦闘に参加していたことを詳細に述べた後、「沖縄県民斯く戦へり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」の1文で締め括っています。
普通の訣別文は「天皇陛下万歳」で終わるものですが、大田司令官は陸軍とは違い県民を戦闘に巻き込むことを極力避け、それでも押し掛ける者には武力紛争関係法(戦時国際法)の趣旨を説いて逃がそうとするような方でしたから、最後にこれだけは言わずにおれなかったのでしょう。
大田司令官は司令部壕内でも髭を剃り、身嗜みに心掛けておられましたから美しい死に様だっただろうと想像しています。野僧はこの1週間前に斥候に出ていた豊見城村の集落で逃げ遅れた母子をかばい、囮になって戦死しました(詳細は「戦士の戦史」でどうぞ)。
  1. 2014/06/12(木) 09:30:26|
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林隆三さんの逝去を悼む。

6月4日に俳優の林隆三さんが亡くなったそうです。70歳でした。
林隆三さんと言えば小学校4年の時にNHK「天下御免」の小野右京之介役で見て以来、6年の時の「国盗り物語」の雑賀孫市、高校1年の「黄金の日々」の今井宗薫、自衛隊に入ってからの「翔ぶが如く」の勝海舟、「信長」の織田信秀、「炎立つ」の藤原基成、「徳川慶喜」の松平春嶽、そして退役後の「葵・徳川三代」の土井利勝などの大河ドラマの常連として顔を忘れる間がなく、前回のイメージを引きずらないで鑑賞するのに困ったほどでした。そのイメージとしては小野右京之介と雑賀孫市は自由奔放なくせいにどこかセンチメンタルなところがある当時の若者のイメージ、今井宗薫と勝海舟はキレ者だが古手が牛耳る組織の中では浮いてしまっているイメージ、松平春嶽と土井利勝はキレ者の実力者でしたから、同世代の人たちが社会で味わっている境遇に合わせてイメージを具現化させていたようです。
その中でも「信長」の父・信秀役では敵の城を落とした夜、捕えてきた敵将の妻を抱いている姿を幼い信長か目撃する場面があり、それまでの大河ドラマにはなかったリアルな描写に強烈な印象が残っています。ただ父・信秀は早々に亡くなってしまって、ドラマ自体は演技力不足の素人役者ばかりの学芸会のようだったため、途中で視聴を止めてしまいました。
その他に映画「竹山ひとり旅」は実際に青森県で暮らすようになり、描かれている世界を実体験しましたが、新藤兼人監督の作品であったため高橋竹山さんを妙に迫害と差別の被害者のように描かれていて、実際の人物像とはかけ離れてしまっていたのが残念でした。
林さん自身も両親が山形県出身のため東京生まれとは言え自分に流れる東北人の血を色濃く感じていたそうで、宮沢賢治作品の朗読に取り組んでいたそうです。
昭和が少しずつ消えていくようです。
  1. 2014/06/10(火) 10:08:06|
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6月10日・沖縄戦で賀谷支隊が全滅した。

昭和20(1945)年の明日6月10日に沖縄戦に於いて勇名を馳せた独立歩兵第12大隊=賀谷(かや)支隊が最後の突撃を敢行して全滅しました。
賀谷支隊は賀谷興吉中佐が指揮し、4月1日に米軍2個師団が沖縄本島中部に上陸して以降、日本軍が主力を嘉数高地に配備する中、4日間ほぼ単独で戦闘を行い、侵攻を遅滞させると共に巧みな退却により日本軍が待ち構える陣地に誘導して行ったのです。
この支隊の兵員の多くは3年から5年の軍歴を有する古参兵で、昭和19年に沖縄に配置されるまで中国戦線に於いて匪賊との非正規戦闘なども経験しており、団結が極めて固く、指揮官・賀谷中佐との間には強固な信頼関係があったようです。さらに沖縄に配置後は一貫してこの地域を担当していたため陣地構築や警備任務を通じて地形地物を熟知していたことも勇戦につながりました。
現代戦では遅滞戦闘を「あらかじめ配置した部隊が侵攻してくる敵に砲火力を加え、優越した機動力による打撃により逐次行動を妨害する」と定義していますが、賀谷支隊には米軍に打撃を加えるだけの砲火力はなく、移動は徒歩なので機動力も戦車や車両を縦横に駆使する米軍には敵いませんでした。
それでも賀谷支隊は米軍の移動に先回りして、予め選定していた高台、難路などから攻撃を加え、自分たちが大陸で苦しめられた非正規戦のような神出鬼没の戦闘を展開したのです。
この4日間の戦闘で賀谷支隊は戦死した将校11名、下士官兵231名、負傷者不明(大半が負傷していたため)の損害を出しましたが、米軍はこの指揮官を「(間もなく敗れる)日本軍でなければ世界的名将になる人材だ」と高く評価し、「殺すには惜しい。できれば生け捕りにせよ」と指示し、賞金が掛っていたと言う伝説もあるのです。
その後も賀谷支隊は転戦を続け、嘉数高地での激闘、首里司令部陣地への攻撃、さらに南部への戦闘拡大を後方撹乱と言う形で米軍を苦しめ続けましたが、兵員が10名に足らない状況に至り、最後の突撃を決意したようです。
この時の賀谷支隊の模様には多くの伝説があり、その1つでは米軍の通訳になっていた沖縄県民の若者が賀谷中佐と面談し、壕の中にいた文民(非戦闘員)を引き渡した後、兵たちに投降を許してから決意を確かめ、自らの水筒の水を末期の杯代わりに回し飲みして突撃を敢行したと言うのです。また賀谷支隊であることを知った米軍は「ルテナンカーネル(中佐)・カーヤ、貴方は十分に戦った。もはや勝敗が決した以上、投降して下さい」と呼びかけたのに対して賀谷中佐は「お言葉に感謝するが、これが日本軍の作法なのだ」と英語で答えた後、突撃したと言うものもあります。真偽は判りませんが、そんな伝説が生まれるほど活躍し、米軍にも敬意を抱かれていたのでしょう。
賀谷中佐は山口県防府市牟礼の出身で子供の頃から「神童」と呼ばれるほど頭がいい子だったそうです。墓所は寺ではない同地区の集合墓地にありますが、戦死後の特別昇任で陸軍少将になっていながら目立たない小さな墓石です。
1つ苦言を呈すると、防府市には航空自衛隊の新入隊員、新任空曹を養成する航空教育隊がありますが、教官要員の誰1人として賀谷中佐が地元出身であることを知らず(名前すら知らなかった)、課程教育にはノータッチだった野僧が唯一、研究していたのです。
  1. 2014/06/09(月) 08:15:56|
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第20回月刊「宗教」講座・弘法大師空海

最近、身の程知らずにも鎌倉佛教のお祖師様方を語ってきてしまったので、ここはやはり我が国佛教界のスーパースター・弘法大師・空海さまに登場していただきましょう。ただし、文中の呼び名は日本人の信仰を表している「お大師様」とさせていただきます。
野僧は以前、お大師様の生誕地である香川県(讃岐国)善通寺市に長期間滞在したことがあるのですが、東に讃岐富士、西に五岳山がそびえる(ただし海抜は低い)静かな美しい土地に名刹・善通寺が鎮座する素敵な街でした。
そこで感動したのは地元の方たちが弘法大師と言う大師号や空海と言う僧名、さらに一般的なお大師様でもなく、幼名の「真魚(まお)さん」と呼んでいたことです。
五岳山の崖を指差して、「あそこから真魚さんが飛び降りたら天女に救われて、自分に果たすべき役割があるって覚らはったんや」と説明してくれたのを聞いて、「やはり生まれ故郷だなァ」とシミジミ温もりを噛み締めたものです。
お大師様は唐に渡る前、都で学究に打ち込み、四国の山中では激しい修行に明け暮れていたそうですが、こうした地元の人々に接すると、時にはこの故郷に立ち寄り、疲れを癒し、精気を養ってまた修行に向かったのではないかと感じました。
一方、「臨済録」には唐代の禅匠・南嶽壊譲が馬祖道一に与えた「莫帰郷(帰郷するなかれ)」の言葉が記されています。
「勧君莫帰郷 帰郷道不行 並舎老婆子 説汝旧時名(君に帰郷しないことを勧める
帰郷すれば道は行われず となりの家の老婆は 君の幼い頃の名前を呼ぶだろう)」
これは道元も正法眼蔵に引用して弟子たちに説いていますが、肉親の情などにとらわれていては、佛道を極めることは出来ないと言う教えでしょうけど、お大師様にはそれとは逆のエピソードが遺されています。
紀州の高野山の麓には九度山と言う関ヶ原の合戦の後、真田昌幸、幸村父子が流されたことでも有名な土地がありますが、地名の由来はお大師様と母上様の物語です。
お大師様が高野山に金剛峯寺を開いた後、老いた実母が息子を頼って来たものの高野山は女人禁制のため立ち入ることが出来ず、この地に住んだのです。
そして、お大師様は月に9度、山を下りて母親を訪ね、孝養を尽したと言うのです。
これなどは母の看病のため修行に入ることをためらっていた若者に「母親に佛道を妨げる大罪を犯させてはならぬ」と言い放った道元に聞かせてやりたいような人情話ですが、その辺りがお大師様と道元の生い立ち、器の違いのでしょう。
ところでお大師様と道元の肉親の情の違いには個人的資質の問題もありますが、それ以上に日本の佛教の伝来に関する順番違いと言う大きな背景があるのです。
日本では最初に法相宗(興福寺・薬師寺)、華厳宗(東大寺)などの哲学的な佛教が伝来し、後に鑑真和上によって律宗がもたらされて奈良を学究都市化しましたが、その現世の救いとはかけ離れた机上論に対する不満に応えて、伝教大師やお大師様が唐に渡り、天台宗と真言宗を持ち帰り平安佛教が成立しました。
そして伝教大師の天台宗・比叡山から禅宗や念佛宗、法華宗の鎌倉佛教が派生したのですが、その出どころである中国では順序が大きく違います。
中国では先ず禅宗がありましたが、その出家者の求道のみが根源的救済への道とする思想と悟りに至る困難さに対する疑問があり、その回答として易行(軽易な修行)の念佛が生まれ、さらに死後の救済(極楽往生)だけでは満足しない中国人への現世利益の教えとして妙法蓮華経の天台宗が流行したのです。
ですから前出の南嶽懐譲、馬祖道一や六祖慧能、百丈懐海などの中国禅の巨匠たちは奈良佛教の行基や鑑真和上と同世代になります。
そして、祈りによる現世利益だけでは納得しない現実主義者の要求に応えて当時、最先端の天文・気象学、医学、建築学、鉱物学、食品学などを網羅した総合的な教えとして密教が東西交流もあり高度な文明国であったインドから伝来しました。
それを修めてきたからお大師様は故郷・讃岐での満濃池の建設を始め(アーチ式ダムで堅固な排水溝つきです)、全国各地で鉱山や温泉を掘り当て、薬草の知識を広め、病人を治療し、天体気象を操った伝説を数多く全国各地に遺せたのです。
これは高野聖(こうやひじり)と呼ばれる旅の僧侶に引き継がれ、全国各地の津々浦々にまで「お大師様伝説」を広げていくことになりますが、惜しむらくは日本人の宗教観、教養が未成熟であったため、この特産開発、殖産興業、技術指導とも言うべき業績は現実離れをした超能力による奇跡の伝説にされてしまいました。
真言密教の根本経典「大楽金剛不空真実三摩耶経(いわゆる般若理趣経)」も本来は欲を悪しきものとして捨てるのではなく、人間が持つ根源的な生命力として正しく燃え上がらせれば、世界を淨化し、力を湧き立たせることが出来ると言う現代人にも納得できる教えなのですが、単なる加持祈祷のアイテムになってしまい、今では護摩を燃やしながらの読経が真言密教のイメージになっています。
この「大楽金剛不空真実三摩耶経」の貸し借りを巡る確執が、我が国佛教史上、最大の悲劇とも言うべき伝教大師・最澄様とお大師様の断絶になりました。
比叡山では「全てを教えては不利になるから最後のネタを隠した」「最澄さまの明晰な頭脳をおそれて近づくのを止めた」などと批判していますが、「最も澄んだ」と言う名前を受けられた伝教大師と「空と海」と言う大自然の無限の広がりを名にされたお大師様では、同じ経典を学ばれても理解は異なり、大自然を修行の場とされてきたお大師様だからこそ生命の躍動的な営みも理解できるのであって、学究肌の伝教大師が机上論に陥ることを心配されたのかも知れません。
確かに、この「欲を燃え立たせる」と言う教えを「性欲」にこじつけて、女性を迷わす密教の悪僧の物話は昔からあり、近年では大奥モノの定番になっています。
伝教大師はそれまで奈良の東大寺、大宰府の観世音寺、下野の薬師寺の戒壇院に独占されていた佛戒を三聚淨戒と大乗菩薩戒と言う日本独自のものに変更して、比叡山に戒壇院を設けしましたが、その三聚淨戒「摂律儀戒」「摂善法戒」「摂衆生戒」や十重
禁戒「不殺生戒」「不偸盗戒」「不邪淫戒」「不妄語戒」「不酤酒戒」「不説過戒」「不自讃毀他戒」「不慳法財戒」「不瞋恚戒」「不謗三宝戒」とは別に、真言宗では在家向けとは言え「不殺生」「不偸盗」「不邪淫」「不妄語」「不綺語」「不悪口」「不両舌」「不慳貪」「不瞋恚」「不邪見」の十善戒を与えています。
ここで特徴的なのは「不酤酒戒」がないことで、御遺告二十五条では「酒はこれ治病の珍、風除の宝なり」とまで言われいますから、やはり深山幽谷に分け入る山岳修行では酒が身体を温め、疲労回復、滋養強壮の効果を持つことを認めておられたのでしょう。ただし「酒は百薬の長」の出典は「漢書・食貨志」です。
ところで、お大師様は唐に渡られる前に、その天才的な頭脳での学究と山中での激しい修行により、すでに佛教の境地に到達されておられたのではないでしょうか。
それを百花繚乱の中国佛教界の中で体系づけ、証を受けるため渡海された。だからこそ恵果阿闍梨は初対面から半年で大悲胎蔵の学法灌頂、翌月には金剛界の灌頂、さらに翌月には伝法阿闍梨の灌頂を許し、「遍照金剛」の灌頂名を与えたのでしょう。
野僧は日本人の殊更に純化だけを尊ぶ得意な国民性の背景には、「悟り」と言う目的を否定して坐禅を安楽の法門=ストレスを解消するリラックスの方法にしてしまった道元の曹洞宗と法然坊源空上人が極楽往生を願う行(ぎょう)として選択された「南無阿弥陀佛」の念佛を決定事項である阿弥陀佛の救済への感謝とした親鸞聖人の浄土真宗が全佛教徒の半数を占めていることも大きいと考えています。
道元と親鸞聖人はどちらも公家出身であり、汗を流し、泥に塗れ、戒律上の罪を犯しながら生活の糧を得る庶民の苦しみを味わうこともなく育ち、だから他のお祖師さま方のように日常生活に根ざした救済ではなく、傍観者としての独善的な立場から究極の見解(けんげ)を説いたのでしょう。
かつて野僧は比叡山の居士林で、指導に当たっていた所長老師が余りに口汚く各宗派の御祖師方を「挫折者」「恩知らず」呼ばわりするのを腹に据えかねて、ミーティング後の質疑応答の時、わざと「人間には本来佛性があるのになぜ修行をするのですか?(道元はこの疑念への解答が得られず比叡山を下りた)」と訊いてみました。
すると所長老師は「君は道元と同じ事を訊くなァ」と言いながら「人間は鏡のようなものだ。常に塵や埃を払い、磨かなければいけないのだ」と答えたのです。
そこで野僧が六祖・慧能と神秀の問答を引きながら「元より明鏡無くば、何が塵や埃をひくのか?=始めから鏡がなければ、何に塵や埃が着くのか?」と再挙(再回答)を求めたところ、いきなり「お前は生意気だ」と逆切れしました。
後から野僧が得度を受けた僧侶だと告白して意気投合し、色々ご教示をいただきましたが、中でも「禅僧はやたらに彼岸の世界を語りたがる。しかし、人間は究極(=悟り)のことを知らなくても、右左、進む止まるを間違わなければ生きていけるものだ」との言葉は、野僧が済度衆生を考える上での指針になりました。
日本の佛教が中国同様の成熟過程を踏んでいれば、鎌倉佛教が成立する意味合いも異なり、比叡山は多様な学説を発信し続け、高野山はそれを吸収・包含しながら実践する純化よりも多様性を根差し、育てる力となっていったことでしょう。
そのためには最澄と空海の両巨頭の唐への留学と法然坊源空上人が学問を究めた比叡山の成立などを菅原道真による平安時代の鎖国や平清盛の日宋貿易の再開と整合させる必要がありますから日本史そのものを御破算から積み直すしかありません。
承和二(八三五)年三月二十一日(太陰暦)に入寂(逝去)されたお大師様は、高野山の洞窟の廟の中で修行をされておられていると伝えられ、数年後、開けてみたところ髪と髭が伸びた姿で坐っておられたそうです。
つまり亡くなったのではなく姿を隠されたと言うべきかも知れません。
南無大師遍照金剛

大楽金剛不空真実三摩耶経=般若理趣経(現代語訳・抜粋)
この世の世界は常住不変のものと人は見る。しかし心静かに省みれば、世界の万物は時の流れにしたがって、いつかは姿を変えていることに気づかれよう。何故ならばすべてのものは空であって、その本性は実体がないからだ。この真理に気づいたならば、確信に満ちた自己の考えも、せまい視野に閉ざされた一つの観方に過ぎないことが分るのだ。眼にうつる万象は、あらゆる知識の縁ではあるが、静かに思いをめぐらせば、それは無相の大海に生じた一つの波に過ぎなくて、移り、過ぎ去り、変わりゆく姿であることに気づかれよう。何故なら眼にうつるすべてのものは、仮の世界の現れであるからだ。この真理に気づいたならば、かたくなな自己の知識にこだわることは、自ら真実の世界に窓を閉ざしていることが分るのだ。
宇宙のすべてのいとなみは、永遠の摂理のもとに動かされていく。何故ならば天地自然の偉大な働きは、私利私欲を超えた無願性の中にあるからだ。この真理に気がつけば、自己の願いのせまさが分り、純粋創造の大願への新たな行動は生じよう。
現実の世界も、眼にうつる世界もそこより生ずるすべてのいとなみも、清らかな心をもって、あるがままに観ていけば、自己をとりまくすべてのものは光り輝く報土となろう。何故ならば世界は本来清浄で、浄穢と観るのは我が分別であるからなのだ。この真理に目覚めた人は真実智恵、般若波羅密に生きる人なのだ。
わが世界は人それぞれに自己の立場を主張する故、愛憎の渦に巻き込まれはするが、人若し般若の教えを体したならば、この現実の世界を離れて理想の彼岸はなく、すべては浄穢を離れた平等一如であることが体得されよう。それ故般若の働きはせまい自我の殻を打ち破り、正邪善悪の分別を超え不滅金剛の意志を湧き出させ、確信に満ちた人生を歩ませるのだ。
わが人生は苦悩に満ち溢れてはいるが、人若し般若の教えを体したならば、この苦悩の世界の真っただ中に無上の宝庫が見出されよう。それ故般若の働きはすべての世界の中に神秘の宝を見出させ、深い心を育んで光り輝く報土を建設させるのだ。
わが見る世界は幻の如く、また陽炎のように消え去るものではあるが、人若し般若の教えを体するならば、この世界を離れて真実を得ることは出来ないのだ。それ故般若の働きは清浄な原初の心に立ち帰し、幻の中に在りながらも、物の観方を大きく変えて真理の世界に目を開かせるのだ。
弘法大師堂小庵隣りのお大師様
  1. 2014/06/02(月) 10:11:13|
  2. 月刊「宗教」講座
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