fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月1日・鳥居元忠の命日

慶長5(1600)年の明日8月1日(太陰暦)に忠誠無比を謳われていた三河武士の中でも別格の忠臣・鳥居元忠さまが討ち死にされました。
野僧が育った愛知県岡崎市矢矧の渡(わたり)町は鳥居家が代々治めた土地で、「鳥居家発祥の地」の石碑があり、幼い頃から子供たちは竹の棒を振り回して合戦ごっこで遊んでいましたが(女の子は守られるお姫さま役)、小学生でも家康公の家臣の名前を知っていて鳥居元忠さまと本多平八郎忠勝さまが2大スターでした。
元忠さまは11歳の時、織田家に奪われた人質から駿府の今川家の囲い者になった竹千代くん(後の東照神君・家康公)の近習として同行し、以来50年以上にわたり一心同体の奉公を続けました。
そんな鳥居家が治めていた渡の地が家康公にとって武田信玄に惨敗した三方ヶ原の合戦と共に生涯最大の危機とも言われる三河一向一揆の舞台になったのです。
一揆の発端は渡の寺に奉納されている米を兵糧として差し出すように命じたことでした。岡崎でも矢矧川の西岸は親鸞聖人の足跡が残る浄土真宗の聖地であるため、忠誠無比の三河武士たちも門徒として佛敵と断ぜられた家康公と戦わなければならなかったのです。しかし、実際には家康公が包囲されても「殿、こちらからどうぞ」と門徒が退路を案内し、混戦で家康公に斬りかかった門徒が「これは殿、失礼」などと言って別の家臣と斬り合いをやり直すような合戦だったそうです。したがって家康公も信長公などとは違い一揆が終った後、浄土真宗の禁教や門徒の弾圧は行っていません。
慶長5年、家康公は上洛を拒む会津の上杉景勝を討伐するため、間もなく起こる関ヶ原の合戦で東軍となる武将たちを引き連れて大坂(当時の地名)を出陣します。
その時、家康公は元忠さまに伏見城代の役を命ずるのですが、豊臣家内でも石田三成などの実務屋=五奉行と対立する武将たちが揃って上方を離れれば、留守を狙って挙兵することは明らかで、真っ先に狙われるのは家康公が譲られて拠点としていた伏見城であることは判っていました。つまり家康公は50年来の忠臣に「死」を命じ、元忠さまはそれを全て承知した上で拜命したのです。
別れの酒杯を重ねながら元忠さまは「これから殿が天下を取るには多くの家臣が必要です。全滅するこの城に家臣を残すのは無駄なので1人でも多く連れて行って下さい」と申し出ています。そして「思えば長い主従の縁(えにし)でございました。これにて今生の訣れとさせていただきます」と言って立ち去り、部屋に残った家康公は声を上げて号泣したと言われています。
家康公が出陣するとやはり石田三成は毛利輝元を総大将に祀り上げて反旗を翻し、4万の大軍を以って1800人が守る伏見城を包囲しました。それでも元忠さまは徳川家家臣・三河武士の誇りを賭けて戦い抜き、13日間の激闘の末に城内で敵方との一騎討ちで斃れたのです。
この時の伏見城内の畳は忠臣の血染めであることから江戸城の伏見櫓の最上階に敷かれて参勤・登城する諸大名の崇敬を集めていましたが、幕末の開城の折に祟りを恐れる西軍が元忠さまを祀る精忠神社(栃木県)に埋めて供養したそうです。
元忠さまは伏見城籠城に於いて1つだけ失策をおかしています。それは徳川方に加わろうと軍勢を率いて来た島津義弘公を追い返し、三成側に走らせてしまったことです。
  1. 2014/07/31(木) 08:31:50|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

7月29日・キスカ島撤退作戦

昭和18(1943)年の明日7月29日にキスカ島撤退作戦が成功しました。
キスカ島はアラスカからカムチャッカ半島にかけて並ぶアリューシャン列島の島ですが、アメリカ本土の一部であり、アメリカの本土が外国軍に占領されたのは建国以来、現在に至るまで唯一のことなのです。
この最果ての地・キスカ島とアッツ島を日本陸海軍が占領したのはミッドウェイ作戦の一環で、アメリカ太平洋艦隊を撃滅した上でミッドウェイ島を占領し、さらに本土まで奪取すれば、流石のルーズベルトも国民の支持を失い、和平交渉に応じざるを得ないだろうと言う遠望・楽観に基づく作戦だったようです。
ところがミッドウェイ作戦は大失敗に終わったため、反抗を開始したアメリカ軍は補給線が伸び切っていた太平洋諸島を確固に撃破し始めて、昭和18年1月のニューギニア島ブナに続き5月にはアッツ島の守備隊が全滅しました。
当時、北太平洋地区を担当していた海軍第5艦隊司令長官・河瀬四郎中将はアッツ島の惨状を見て守備隊全員の撤退作戦を計画します。
しかし、キスカ島には陸海軍の5183名の将兵がおり、艦隊を投錨させての一括撤退以外に方法はありませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが生粋の駆逐艦乗りで操艦の神様と呼ばれていた木村昌福少将だったのです。
アリューシャン列島を奪還したアメリカ軍はキスカ島の周辺海域に多数の艦艇を配置し、隣りのアムチカ島には航空基地も作っていたため制海・制空権はアメリカ側にあり、日本海軍はこの時期に発生する北太平洋の濃霧だけを頼りにするしかありませんでした(「霧隠れの術」と自嘲していた)。
昭和18年6月29日に木村少将が指揮する第1水雷戦隊は北千島の幌筵を出撃しますが突入地点に至ったところで霧が晴れてしまい、艦橋内の幕僚や各艦長が揃って突入を促す中、木村少将は「戻る。戻ればまた来ることができる」との決断を下しました。
燃料も乏しい中の作戦断念は第1水雷戦隊内、第5艦隊だけでなく連合艦隊、軍令部からも非難轟々でしたが木村少将は意に介せず、九州帝国大学からの学徒出身士官・橋本恭一少尉が出す天気予報を信じて機会を待ちました。
そして濃霧の予報を受けて7月25日に再出撃、この日の13時40分にキスカ島の東側の湾に投錨し、わずか55分間で115名の遺骨を含めた全員を乗艦させ、7月31日から翌8月1日にかけ幌筵に無事に帰還したのです。
この作戦の成功をアメリカ軍は全く知らず(レーダーのエコーを日本艦隊と誤解して砲撃を加え、前日に弾薬の補給のため全艦を撤退させていた)、8月15日に苛烈な砲爆撃の後、3万4千名の大兵力をもって上陸作戦を敢行しましたが、姿を見せない日本軍への恐怖から同士射ちが頻発し、約100名の戦死者と数十名の負傷者を出した上、日本軍の医官が悪戯で残していった「ペスト患者収容所」の看板を通訳が説明すると大パニックになったそうです。
更に日本陸軍も北方軍司令官・樋口季一郎中将がアリューシャンの放棄を決定しながら撤退作戦に消極的だった大本営への不信から一切報告せず、撤退が完了してから知った陸軍上層部が海軍に抗議した実話もあります。
野僧は現役時代からこの作戦を詳細に研究してきましたが、成功の理由は1回目の突入断念と2回目の海図がなく経験者もいないキスカ島の西側を迂回して接近した木村少将の判断に尽きます。これを可能にした木村昌福少将個人については2月13日の命日に語らせていただきましょう(筆者が生きていれば)。
  1. 2014/07/28(月) 09:34:08|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

7月17日・山中鹿介の命日

天正6(1578)年の明日7月17日(太陰暦)は昔懐かしい講談本のヒーロー・山中鹿介さんの命日です。と言っても今年は大河ドラマ「軍師官兵衛」で大きく取り上げられていたので後追い記事になってしまいました。
講談本では「山中鹿之介」と言う名前でしたが、実際は「山中鹿介」と書いて「しかのすけ」と読んだようです。
鹿介さんは山陰・月山富田城(現在の鳥取県安来市)を拠点に中国地方の東を治めていた尼子氏の家臣ですが、鹿介さんが死んだ直後から忠臣・英雄として持て囃されたため、「我が家の血縁」と名乗り出る者が続出して確実な出自・系図は不明です。実際、墓所や首塚・供養塔は西日本各地にあり、遺骸をバラバラに切り刻んだのかと思ってしまいます。
伝承によれば幼い頃に尼子氏の家老であった父を亡くしたため側室であった生母に育てられ、元服前から仕えて合戦にも出陣し、8歳で敵を討ち取り、その後も武芸や軍学に励み、13歳の時には兜首を上げ、16歳で敵将を一騎討ちで斃しました。
こうして勇名を馳せたことで尼子氏の家老・亀井氏の養子になったものの間もなく山中家に戻り、ひ弱な異母兄に代わって家督を継ぎました。
尼子氏は中国地方の覇者の座を巡り、西の大内氏と雌雄を決する戦いを続けていましたが、大内氏の先兵として出陣していた安芸国(広島県)の毛利氏と度々衝突していたのです。
その後、大内氏が陶氏の謀反によって滅びると、陶氏を討った毛利元就さんが後継者に名乗りを上げ、尼子氏との戦いを再開しました。
元就さんは「策謀の毛利」の名に相応しいアクドイ手法で、次第に尼子氏を追い詰めていきますが、鹿介さんは武勇を以て孤軍奮闘、元就さんの息子で毛利両川と謳われた吉川元春さんと小早川隆景さんを度々返り討ちにして苦杯を舐めさせています。
奮戦むなしく月山富田城が落城して当主や重臣が毛利の策謀で殺されても、鹿介さんは生き延びて尼子氏再興を目指し、八面六臂の活躍を始めます。
先ず尼子義久さんの出家していた遺児を還俗させて後継者・勝久くんとして担ぎ上げました。こうして城を奪っては敗れることを繰り返し、大河ドラマで取り上げられていた上月城の落城で勝久くんを失い、毛利の軍門に下って吉川、小早川に近づき刺し違えることを狙いましたが、この日、備中国の合(あい・阿井とも書く・現在の岡山県高樑市)の渡しで騙し討ちに遭い死去しました。
講談本などではその勇姿を三日月の前立てに鹿の角を差した兜と表現していることもありますが、山口県岩国市の吉川史料館所蔵の遺品の兜には三日月の前立てだけです。
同じく講談本では三日月に向かって「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と祈った名場面がありますがワザワザ願わなくても十分に苦難を引き受けていましたから、「百難千苦では多過ぎる。七難八苦くらいにしておいてくれ」と言う祈りだったのかも知れません。
  1. 2014/07/16(水) 09:11:29|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

7月12日・源頼朝が征夷大将軍になった。

建久3(1192)年の明日7月12日(太陰暦)に源頼朝さんが征夷大将軍になりました。
本来、征夷大将軍とは朝廷に仇なす東の敵・夷(えびす)を倒すために派遣された征討軍の指揮官のことで、北へ向かう場合は征狄(せいじゅう)大将軍です。ところで「東夷(とうい)」と言うのは中国が日本人を蔑んだ呼称なので、朝廷が国内で用いるのには「お前こそ東夷の親玉だろう」と皮肉を投げ掛けたくなります。ちなみに「北狄」も「南蛮」「西戎」と同様に四方を見下した中華思想の言葉です。
歴史の教科書で習った知識では源頼朝さんの前の征夷大将軍は坂上田村麻呂さんくらいしか思い浮かびませんが、記紀(古事記+日本書紀)の時代から東で朝廷に従わない敵を征討する者が任命されていたようで、万葉歌人として有名な大伴家持(「海ゆかば」の作詞者)さんも征東(=夷)大将軍として東北に赴いており、宮城県の多賀城で没したとの説があります。
また頼朝さんよりも先に入京し、平家を追討した源義仲さんは「旭将軍」と言われていますが、後白河法皇の命により上洛(この「洛」も中国の都・洛陽から取っている)する鎌倉勢を迎え討つに当たり征東大将軍の任命を受けており、このあたりは後白河法皇の腹黒さが際立ちます。
源頼朝さんはこれに先立って奥州藤原氏を滅ぼしており、その武功を以て征夷大将軍の任命を受けようとしたのですが、平家で懲りていた後白河法皇は武家に力を与えることを許さず、朝廷内の工作を依頼されていた久我通親(道元の父)は受け取った資金を全て着服して何もしなかったので一向に実現しなかったのです。それでもこの年の3月に後白河法皇が薨去すると半年を経ずして征夷大将軍に任官されました。
征夷大将軍は幕府を開くことができますが、これは軍の司令部機構のようなもので、あくまでも武力集団を統括する権限しかなく、徴税も兵糧に限られていたのです。
ところが頼朝さんは治安維持、情報収集などの名目をつけて守護、地頭などを全国に派遣しました。当時の地方行政は朝廷が任命する国司・郡司などと公家や寺院が個人として持つ荘園によりましたが、ここに割り込む形で守護が赴任したのです。それまで国司や郡司が押領司を兼務して治安維持などの任務を負っていたのに代わって、実際の武力を伴っている守護が実権を握るようになり、次第に幕府が統治機構としての地位を確立していったのです。
ただし、頼朝さんの血統は孫の代で途絶えてしまい、征夷(東)大将軍も空位になりましたが、それが復活したのは同じく源氏の足利尊氏さんでした。以降、前例踏襲主義の朝廷では征夷大将軍は源氏の役職と言う不文律ができてしまったため、東照権現・徳川家康さまも源氏の家系を買い取り、遊行僧だった松平家の始祖を新田源氏の出自と言うことにして江戸幕府を実現したのです。
久しぶりに記紀や吾妻鏡を熟読したのでくたびれました。
  1. 2014/07/11(金) 09:48:46|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

7月9日・田中頼三中将の命日

昭和44(1969)年の明日7月9日は、アメリカ軍から太平洋戦争に於ける帝国海軍随一の名将と評価されることもある田中頼三中将の命日です。
野僧は現役時代、警備幹部と輸送幹部を兼ねており(その他に兵器管制幹部、教育幹部なども)、警備幹部としては海軍陸戦隊の戦歴、輸送幹部としてはキスカ島撤退作戦とガダルカナル隠密輸送作戦を研究していました。
田中中将は駆逐艦によるガダルカナル隠密輸送作戦に於いて待ち構えていたアメリカ海軍の巡洋艦隊を返り討ちにした名将なのですが、人事的な不運が野僧に似ていてその意味でも敬愛していました。
田中中将は山口県嘉川村(現在は山口市嘉川)出身で海軍兵学校41期生ですが、同期には海軍陸戦隊の第1人者にして沖縄戦で勇名を馳せた大田実少将(戦死後に中将)、キスカ島撤退作戦の指揮官・木村昌福中将など世界的に評価が高い逸材や真珠湾、ミッドウェイで作戦ミスを連発した草鹿龍之介などがいます。
田中中将は木村中将と同じく生粋の水雷屋・駆逐艦乗りで、第1次世界大戦では地中海へ派遣されています。太平洋戦争の開戦時は第2水雷戦隊司令官だったのですが作戦指揮は意外に慎重でした。陸軍の南方作戦を支援していた昭和17(1942)年2月の「ソロバヤ沖海戦」では英米蘭豪の連合艦隊を撃破したものの日本側の戦力が勝っていたにも関わらず遠距離からの攻撃に終始したため撃沈することができず、「敢闘精神に欠ける=臆病者」と非難されてしまいました。
その名を海戦史にとどろかせたルンガ沖夜戦では、駆逐艦8隻でアメリカの重巡洋艦4隻を主力とする14隻の内、巡洋艦1隻撃沈、3隻大破させる大きな戦果を上げたのですが、指揮官の乗艦・長波を中央に位置させた隊形のまま突撃し、先頭の高波が集中攻撃を受けて撃沈されたことを「指揮官先頭の海軍の伝統に背いた」として非難され、輸送作戦(ドラム缶に詰めた食糧や弾薬を海面に投下する)を中断したことの責任を問われて地上勤務になってしまいました。
しかし、東郷平八郎元帥が日本海海戦を指揮した時代とは違い、太平洋戦争ではレーダーが艦隊の位置を探知し、艦隊決戦の前に航空機による攻撃もあったのですから、指揮官先頭の伝統が必ずしも正しいとは言えず、この夜戦でも先頭の高波が撃沈されていることを考えれば、指揮不在を防いだ適切な判断と言えるのではないでしょうか。
何よりもこれだけの戦歴を持つ指揮官を地上勤務のまま終戦を迎えさせた人事の拙さは(海軍兵学校創設以来の逸材と言われた堀悌吉中将も同様)、野僧の型に収まらない才覚を出る杭として葬った空幕輸送室や航空教育隊(第1教育群)に受け継がれています。
ところで山口県は不思議な土地柄で愚将・乃木希典を軍神に祀り上げ、2・26事件の首謀者・磯部浅一を顕彰していながら、世界的名将と称賛される田中頼三中将や沖縄戦で勇名を馳せた賀谷興吉中佐(山口県防府市)は出身地の教育委員会や公民館も知りませんでした。功績と評価が一致しているのは児玉源太郎大将ぐらいでしょうか。
ルンガ沖夜戦については当日・11月30日の「日記(暦)」でも述べましょう。
  1. 2014/07/08(火) 09:12:44|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

7月8日・秀吉により刀狩り令が発せられた。

天正16(1588)年の明日7月8日に刀狩り令と、同時に海賊禁止令が発令されました。これは織田信長が目指した「天下布武」を実現する仕上げだったのです。
織田信長が行った数多くの兵制改革の中で最も画期的だったのが兵農分離でしょう。それまでの戦国武将たちは農民を動員して軍を整えていましたが、織田信長は農家の分家にもならない3男4男を兵として雇い、農民には農耕に専念させる代わりに税を納める義務を付与したのです。これにより専業武士の常備戦力化を図り、それまで農閑期に限られていた合戦を常時実行することが可能になったため、旧来の合戦の仕方しか知らない相手は戦力を整える暇がないままに敗北することになっていったのです。
さらに漁民が副業に励んでいた海賊を禁ずることによって農民と同様に今で言う1次産業の従事者は生産だけにいそしみ、反逆の芽を摘むことで富国強兵を実現していきました。ただし、ここで禁止した海賊は瀬戸内海などで活躍した水軍ではなく倭寇を指していたと言う説もあります。
愛知県で使っていた教科書では刀狩りによって集めた刀を鍬や鋤、鎌に打ち替えて農業生産を増加させる施策であったと肯定的にとらえていましたが、共産党系の教職員が多い県ですから、農民が武士の都合で戦に駆り出されるよりも農業生産に専念できて良かったと言う反戦平和・労働賛美の意識があったのでしょう。しかし、この時、所持を禁じられたのは刀だけで、弓や鉄砲、槍は狩りの道具として認められています。
これ以降、日本人は武器と言うものから遠ざかり、一揆を起こすのにも鎌や鍬と竹槍になりました。さらに江戸時代には武士も弱体化が図られていて、刀は戦場刀ではない細身の二本差(大刀と脇差)になり、剣術は乱戦を目的とした自由に振り回す討ち物稽古から1対1の果たし合いのための両手構えに変化しました。服装も機能性よりも様式美が重視され、武士の進退作法まで実戦とは程遠いものになっていきました。
とどめに明治政府の排刀令により、いよいよ刀はこの国から姿を消し、徴兵により国民皆兵が進められても依然として「武器は恐ろしい物だ」と言う意識は根強く、戦前は大陸での護身のため個人が拳銃などを所持することは比較的自由であったにも関わらず、アメリカのように「武器を持つ権利=個人が自衛する権利」と言う意識は芽生えませんでした。
野僧が子供の頃には元軍人だった家主が記念に隠し持っていた拳銃や軍刀が蔵から出てくることがありましたが(将校士官の拳銃・軍刀は私物品だった)、それを見つけた家族は「恐ろしい物が出てきた」と慄き、自分で警察に届けることもできず、パトカーを呼んで持っていってもらう間、遠巻きに眺めている状態でした。
結局、この刀狩りによって日本人は武器と一緒に猛々しい野性味も奪われ、去勢されたのでしょう。
  1. 2014/07/07(月) 09:47:47|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

アナトリー・コルヌコフ元総司令官が亡くなりました。

ロシア空軍のアナトリー・コルヌコフ元総司令官が1日に亡くなったそうです。72歳でした。コルヌコフ司令官は現在のウクライナ東部のルガンスク州出身なので(現在、揉めている地域)、ソ連が崩壊した後はロシアとは別の国の人間になったのですが、そのままロシアに留まり、亡くなったのもモスクワ郊外の病院だったようです。
野僧がコルヌコフ総司令官の名前を知ったのは、1983年9月1日に起こったサハリン上空での大韓航空機撃墜事件を命じたソ連軍極東軍管区防空軍師団司令官として報じられた時です。
大韓航空機撃墜事件ではKAL007が飛行経路から外れたことを北海道東部のレーダーが探知した時から航空自衛隊は重点監視しており、北部航空方面隊を通じて米軍にも通知したのですが何故か黙視したままだったそうです。
当時、ソ連のレーダーは動いておらず、そのまま千島列島を通過させ、サハリンに近づいたところで戦闘機を上げたことは北海道のオホーツク海側のレーダーが航跡を捉え、米軍と自衛隊が交信を傍受・録音していました。
その時、ソ連のパイロットは「コーションランプを点滅させている」「大型機だ。747だろう」「客室のライトが見える」と地上に報告していたので「民間の旅客機である」ことは認識しており、それを知った上で撃墜したのです。
しかもパイロットは火を噴いた瞬間に「ウラー(万歳)」と歓声を上げ、空中分解しながら落ちていく様子を興奮気味に実況中継していたそうですから、それを聞きながらロシア語を日本語に翻訳した隊員は憤怒すると同時に恐怖したと思います(しました?)。
事件の直後、在日米空軍は嘉手納の戦闘機部隊を三沢に展開させましたが、沖縄のアメリカ領事館では東京の大使館と嘉手納の空軍からの情報や米軍・自衛隊の動向と沖縄県内の反応などの報告、さらに在沖縄の米国企業やマスコミからの問い合わせが殺到し大混乱になったそうです。アメリカも国防総省(ペンタゴン)と国務省(デパートメント=直訳すれば総務省ですが何故か国務省になっている)は別ルートで情報をホワイトハウスへ送るので、現場レベルでは意外に混乱が生じるようです。
このように民間の旅客機を撃墜する命令を下し、多くの文民を殺した司令官をソ連は処罰することなく、むしろ英雄的行為として称賛し、それがロシアでも引き継がれて、コルヌコフ司令官は1998年から2004年までの間、ロシア空軍の軍服のトップ・総司令官の職に就きました。
戦時中なら対馬丸に限らず米独の潜水艦が多くの民間徴用船を撃沈していますが、平時に行われたこの暴挙は犯罪以外の何物でもないでしょう。と言いながらアメリカも中東では民間機を撃墜しています。アメリカの場合は「ヒューマン・エラー」と釈明して責任者を形式的に処罰しますが、結局はウヤムヤにしてしまいますから大差ないのかも知れません。
  1. 2014/07/05(土) 09:36:19|
  2. 追悼・告別・永訣文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

第21回月刊「宗教」講座・鈴木正三・起編

野僧が航空自衛隊に入って最初の体力測定で同期が体力測定で殉職し、半年後には浜松基地でブルーインパルスの墜落事故を目撃しました。赴任した那覇基地では離陸しようとしたTー33Aが滑走路の端のテトラポットに突っ込んで炎上し、さらに基地内に陸上自衛隊のヘリコプターが墜落する事故も目の当たりにしました。
さらに作業事故での殉職、相次いだ同僚の自死など不思議に野僧の周囲では人の死がつきまといました。
このことで野僧は「自衛官としての死」と言う疑問を抱き、帰省した折、師僧に問いました。する師僧は「人には死ななければならない時は確かにある。しかし、普通はないものだ。お前たち自衛官は死を直視するべき職業なんだろう」と言って坐禅と武道の修行を勧めました。
それからは言葉通りに少林寺拳法と坐禅に励み、帰省の度に師僧を訪ね、道を問うようになり、やがて師僧は「趣味の坐禅なら今のままでいいが、ここから先を知りたければ頭を剃れ」と言いました。
こうして野僧は自衛官のまま得度を受けましたが、師僧は「江戸時代に鈴木正三と言う三河武士出身の禅僧がいた。正三は『坊主よりも武士の方が修行になる。何故なら武士は常に生死のギリギリの処に身を置いているからだ』と言っている。お前も自衛官の仕事を修行と心得て精進せよ」と垂訓しました。
鈴木正三和尚は天正7(1579)年、愛知県豊田市から旧足助町にかけての山合いの地を領する徳川譜代の幕臣・鈴木重次の嫡男として生まれました。
2代将軍・秀忠に仕え、関ヶ原に向かう途上の真田父子が守る上田城攻めや大阪冬・夏の陣に参戦していますが、合戦に臨んでは槍を構え、相手の穂先に向かって突進すると向こうが怯んで、姿勢を崩して斃せたそうです。
正三和尚は天下が定まり、幕府の体制が確立していく中、将軍・秀忠の信任厚く、将来が約束されていたにも関わらず、42歳で突然に剃髪・出家し(これだけで家禄が没収されるような重罪)、全国を行脚しながら法隆寺などで修学し、45歳からは今の豊田市石平の千鳥山にあった自領で荒行に明け暮れました。正三和尚はこの時、健康を害しましたが肉食して快復したと言います。
以降、20年余りの長きにわたりこの地に留まり、61歳で「はらりと生死を離れ」大悟しました。
そこには石平山恩真寺と言う古刹があり野僧も訪れましたが、豊田市街から足助に抜ける途中の山深い静かな土地で、正三の分骨を納めた墓もあります。
64歳の時、島原で起きたキリシタンの反乱が鎮圧された後の幕府代官に弟の鈴木重成(正三が出家した後、秀忠の配慮で家督を継いだ)が就任したため、その宗教政策を援けるため3年間、同地に赴きました。
そこで正三和尚はキリシタンによって破壊された寺院を復興するとともに「破切支丹」と言う書物を著わし、佛教の立場からキリスト教の教義の矛盾を指摘して、多くの信者を転向させ、受け入れることに努力しました。
これは一向一揆などの宗教に起因する争乱の後には、過酷な弾圧により信者を根絶やしにすることが常識であった時代に於いては画期的なことであり、また寺院の建立は大規模公共事業による雇用機会の提供、資材の調達による経済効果も視野に入れた極めて合理的な政策でありました。
島原では後に実態に合わない石高の軽減を訴え、これが受け入れられないと自刃して諫言した鈴木重成、その善政を継いだ正三の実子で重成の養子・重辰とともに正三和尚を合わせた三柱を祀る鈴木神社が信仰を集めているそうです。
この時、正三和尚は佐賀・鍋島藩でも多くの藩士たちを教導し、後に武士道を学ぶ上での必読書になった「葉隠」にも多大の影響を与えていると言われています。
その後、正三和尚は七十歳で江戸に出て、幕臣や参勤で出府する各地の藩士に教えを与えました。そして、1655年6月25日、75歳の時に江戸の弟・鈴木重成の屋敷で遷化しました。
それでは正三和尚の教えとはどのようなものでしょう。その特色としては「俗世に生きることも修行」と言う在家佛教を唱えたことが挙げられます。
正三和尚が生きた時代は、江戸開府から幕藩体制が確立し、身分制度が形成されていく時期であり、そんな時代において「士農工商の生業(なりわい)も心のあり方一つで佛道修行即ち人格形成の道足り得る」と唱えたのです。
実際、「近代的な職業倫理の先駆け」として評価する欧米の研究者もあるそうです。
ある時、ある人が正三和尚に問いました。
「同じ位の人にして、僧と俗では、何れが修行の為に是ならんや(同じレベルの人なら出家者と俗人の日常では、どちらが修行になるのか)」正三和尚は答えます。
「大数を言わば、出家は諸手討ち、在家は片手打ちなり、在家は障うる縁多し、出家は碍うる縁少なし。しかれども今時の出家衆は、みな佛法嫌いなり。俗の半分も道にすく人なし。その上機だらりとして不義心多し。さて侍は主を持ち、機に張り合いあり、また天然と死を守る心あり。結局、今時は修行は俗がするなり。さりながら大真実の人にしては、出家の人、徳大いなり=一般論としては(剣術に例えれば)坊主は両手で、在家の人は片手で打つようなものだ。在家の人には修行の障害になることが多いが、坊主には少ない。しかし、今時の坊主たちは佛教が嫌いである。在家の人の半分も修行していないだろう。その上、やる気もなくダラリとしていて悪いことばかり考えている。その点、侍は主君に仕えていて気迫があり、常に(佛教の根源的な命題である)死を直視している。結局、今時は修行は在家の人がしているのだ。しかし、本当に悟りに近いのは出家の方なのだが(残念なことだ)」
野僧も専業坊主になって以来、いわゆるプロの坊さんと言う人たちとつき合うようになって、まさしく正三和尚の嘆きそのままの苦悩を噛み締めていました。
坊さんたちは御佛の教え、出家者のあり様に純粋であろうとする野僧に「そんな固いことを言っていたら生活できない」などと「助言」してくれました。しかし、そんな言葉こそが野僧に「佛教の教えは純粋に守っていては生活できないような非現実的なものなのか」と言う疑問と苦悩を与えていたのです。
釋尊は全ての執着を捨てることで絶対的な安心を得ることができることを、その生涯を以て示して下さいましたが、その弟子の末裔であり、同じ道に生きているはずの坊さんたちは俗世の人たちと何の変わりもなく、欲望をかなえる喜びを幸せとしています。それは佛教の本質を僧侶自身が否定していることにほかならず、これを思えばまだ「やる気がない」と言うだけの正三和尚が羨ましいくらいです。
正三和尚は、こうも言っています。
「近年佛法に勇猛堅固の大威勢ありということを唱え失えり、ただ柔和になり、殊勝になり、無欲になり、人よくはなれども、怨霊となるようの機を修し出だす人なし。
いずれも勇猛心を修し出だし、佛法の怨霊となるべし=近年の佛教において『勇猛堅固の大威勢を持て』と言うことを聞かなくなってしまった。ただ柔和になり、殊勝になり、無欲(無気力)になり、お人好しにはなったけれども、執念深く怨霊となっても何かをやり遂げようとする気迫をもって何かを行う人はいない。皆さんは勇猛心を身につけて、佛教を追及する怨霊となるように」
今の日本人は坊さんに限らず、どの人もこの人も敵を作らぬように人当たりは柔らかく、表面的にはけな気で、大きな夢は持たず、お人好しにはなったけれども、それは自分に与えられている気楽さや豊かさを守ることのみを考えているのであって、社会のため、世界のために何かをしようとか、今、持っている現実的な利益を投げ捨ててまで何かを追及しようとか、志を抱き、夢を描くことはないようです。
世間を見渡せば年齢、地位などに関わりなく目先の利益、一時の快楽のためにちっぽけな悪事を働く者ばかりです。
「修行というは、強き心をもって修することなる間、出家よりも侍よきなり。その故は、まず主を持って機に油断なし。常に大小をさし働かし、すわと言う機、おのずから備わるなり。この機にてさえ用いられず、いわんや出家となり、機だらりとなりて、何の用に立たんや=修行と言うのは強い精神力をもって佛道を追求することであるから、坊主よりも侍の方が良いだろう。何故なら侍は主君に仕えることで緊張感を保って油断がない。常に抜く覚悟で刀を差している。坊主になってもこのような気迫はなく、ただダラリとしているばかりである。こんな連中が世の何の役に立つのか」
禅宗の坊さんの修行と言えば掃除が定番ですが、航空自衛隊も本当によく掃除をします。週に1回は3千メートルある滑走路に横並びになって歩いて小石を拾い、時には掃除機もかけます。また、航空機を整備する格納庫も床にモップをかけ、電子装置の整備をする作業室の床は塵1つ、埃すら許されません。
何故なら滑走路に小石などが落ちていれば高速度で大量の空気を吸入しながら滑走するジェット機のタイヤがパンクしたり、エンジンが異物を吸引して破損する(フォーリング・オブジェクト・ダメージ)ことがあるからです。
また格納庫の床に新しい油の染みや部品の欠片があれば機体の油漏れや破損を疑わなければならず、作業室では髪の毛1本が紛れ込んでも1箱数億円する装置が壊れ、航空機の機能が損なわれるからです。
確かに佛弟子・チュナ・パンダカのように「心の塵を一緒に拭い捨てよう」と掃除するのなら正しく修行ですが、ただ「古参(先輩)に怒られるから」「参拝者が見ているから」などと言う今の坊さんの掃除など、航空機を安全に飛ばし、パイロットの命を守ると言う航空自衛隊の必死の掃除に比べれば、「機だらりとして、何の用に立たんや」でしょう。
また、自衛隊では体育訓練中に隊員が殉職することがあります。
民間の人にとってスポーツはリクリエーションやストレス発散、健康維持のためのもので基本的には心地好さがともなうものでしょうから、自衛官が「死ぬまで体育をやる」と言うことそのものが理解できないかも知れません。
しかし、自衛官にとって身体を鍛えることは「任務に耐え得る頑健・強靭な身体を作り、維持する」、ハッキリ言えば「何時でも戦える体力を保持すること」を目的にしているのです。
ですから駆け足1つにしても、1秒でも早く走れれば敵を追い、敵から逃れることができると言う危機感を前提にすることになり、体育訓練に限らず全てに命掛け、これが正しく「すわと言う機、おのずから備わるなり」であります。
南無大強精進勇猛佛
月刊「宗教」講座・石平山恩真寺石平山恩真寺
月刊「宗教」講座・鈴木正三石塔鈴木正三の石塔
航空自衛隊怪僧記・ブルーインパルス4ブルーインパルスの事故


  1. 2014/07/02(水) 08:57:56|
  2. 月刊「宗教」講座
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

7月2日・金閣寺が炎上した。

昭和25(1950)年の明日7月25日に臨済宗相国寺派の別格地である鹿苑寺の舎利殿(いわゆる金閣)が放火により炎上しました。
鹿苑寺=金閣寺の舎利殿と言えば金ピカのイメージですが、焼失する前は金箔が完全に剥がれ落ち、屋根や壁の傷みが進んで、かなり身そぼらしい姿だったのですが、敗戦5年後では寺、宗門、市、府、国には修復する余裕もなく放置されていたのです。しかし、この消失によって国や府が支援に乗り出し、地元財界からも多額の寄付が集まり、5年後には現在の金閣に再建されました。幸いなことに明治期に大修理が行われていたため詳細な図面が残っていたため、元の建物に忠実な再建が可能になったのです。
ただ消失前の最上階の天井板は1枚の巨木から切り出した板だったそうで、それだけの巨木を伐採することは自然保護の観点からできず完全とはいかなかったと言われています。また明治期の大修理では確認できなかった金箔の痕跡が、焼け残った建材で検出され、再建では焼失前の状態に戻すのではなく創建時の姿を再現することになり、現在の文字通りの金閣寺になりました。
ちなみに金色の建物と言えば奥州平泉の中尊寺の金色堂(別名・ひかり堂)も有名ですが、金箔はこちらの方が3倍の厚さだそうで、自然光とスポットライトの違いはあっても、確かに金色堂の金金ピカピカの輝きに比べると金閣寺は金ピカにとどまります。
放火犯は現在では舞鶴市になっている日本海に突き出た岬の漁村出身の修行僧見習いで、父は寺院の子ではなかったものの病弱だったため26歳で地元の空き寺の住職になり、その息子であった犯人は優等生ではあったものの吃音があったため、学校での友達つき合いが上手くできず、孤独の中で過ごすようになったそうです。
やがて父の病状が重篤になり、成績は優秀でも孤立癖の息子の将来を心配し、寺が学費を出して修行僧を通学させている鹿苑寺の噂を聞き、住職に後事を依頼したのです。こうして犯人は鹿苑寺に修行僧見習いとして上山したのですが、宗門の花園中学、禅門学院に入学した後、浄土真宗系の大谷大学中国語科へ進学しています。
しかし、元来の孤立癖は寺での団体生活に馴染めず、古参の僧侶から受ける叱責も「自分は嫌われている」と被害者意識で受け止め、次第に寺が疎ましく、特に優美な姿を見せて観光客を集めている舎利殿に憎悪を抱くようになり、ついには放火して、その劫火の中で死のうとしたのですが(=心中?)、果たせず裏山で沈静睡眠薬を飲んで手首を切って倒れているところを発見されて逮捕されたのです。
この事件は三島由紀夫氏の「金閣寺」や水上勉氏の「金閣寺炎上」などの小説や実録記になっています。三島氏の小説では鹿苑寺の住職を犯人が寺に絶望して放火に追い込んだ腹黒い俗物として描いていますが、実際には面識のない寺の息子を預かって大学にまで進学させた人格者であり、放火による服役中も面倒を見ていたそうです。このためか「炎上」と言う題名で映画化された時には寺の名前を驟閣寺=シュウカクジにしています。
この事件の特異さはそれを建てた人物を憎悪するのではなく、建物そのものに嫉妬し、憎悪すると言う心理状態で、山や海などの大自然、絵画や彫刻の美に惚れた者の話は聞いたことがあっても、それで放火し、心中しようと言うところまで追い込まれるのはやはり心が病んでいたようです。放火犯は刑期を終えて間もなく1956年3月7日に肺結核で死亡しています。27歳でした。
  1. 2014/07/01(火) 09:27:59|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0