8月26日夜に演出家・絵本作家・画家で個性派俳優の米倉斉加年さんが腹部大動脈瘤破裂で亡くなりました。80歳でした。
米倉さんは福岡市出身と言うことで、春日基地に勤務中や博多の僧堂に参禅していた時に旧友と言う方からエピソードを聞いたことがあります。それによると本当は「正扶三(まさふみ)」と言う名前だったのですが旅の坊さんに「斉加年」と名づけられ、以来、そちらを名乗り、後年には裁判所で改名手続きをして正式な名前にしたそうです(僧堂では「その坊主は誰か?」で盛り上がりました)。西南学院大学在学中に演劇に目覚め、中退して劇団・民藝に入ったのですが、役者ではなく演出家志望だったそうです。
野僧はNHK「明智探偵事務所」の九州弁を話す怪人20面相が記憶に残っていますが、申し訳ないことにこの番組はテレビ版「おさな妻」の玲子役だった麻田ルミさんが目当てでした(喫茶店のウェイトレス役)。
大河ドラマの常連でもあり、「国盗り物語」で竹中半兵衛を演じた時は博多人だけに「本当は黒田官兵衛をやりたかったらしい」と聞きました。
その後も「風と雲と虹と」では平将門を新皇(しんのう)に祭り上げ、反逆者にした興世王(おきひとおう)、「花神」では桂小五郎でしたが、米倉さんが演じると繊細で怪しいインテリになってしまうのはキャラクターでしょう。ただし、「竜馬伝」で桂小五郎役だった谷原章介さんも「軍師官兵衛」で竹中半兵衛を演じましたから、NHK的には共通性を感じているのかも知れません。
しかし、最近の「坂の上の雲」の大山巌元帥役では度量の広い鷹揚な大人物を演じていましたから年齢を重ねて演技に幅ができたのでしょう。
あの独特のキャラクターは若手には見当たりません。絵画作品も怪しく素敵でした。残念・・・合掌。
- 2014/08/31(日) 00:03:35|
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昭和31(1956)年の明日8月31日に、本来であれば2・26事件の主犯として銃殺刑になっていなければならなかった真崎甚三郎がようやく死にました。
真崎は子飼いの過激派青年将校たちを扇動し、2・26事件を起こさせたにも関わらず、陛下の御意が「断固鎮圧」であることを知ると掌を返すように恭順を説き、事件後も巧みに罪を免れ、敗戦後にA級戦犯として告訴された極東軍事裁判までも逃れて、この日になって畳(ベッド?)の上で死んだのです。
2・26事件で襲撃を受け、暗殺された重臣たちの多くは真崎が日頃から「舶来の貴族趣味」と嫌っていた海軍の将帥であり(岡田啓介首相、斎藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長は海軍大将)、これに真崎を追い落として就任する形になった陸軍の渡辺錠太郎教育総監が加えられていることを見ても状況証拠は十分でしょう。
事件後に開廷された軍法会議で裁判長を務めた寺内寿一陸軍大臣は「真崎を銃殺する」と息巻いていましたが、途中で支那事変が生起して最高司令官として北支へ転任したため、後任者に「何が何でも真崎を有罪にしろ」と申し送ったと言われます。
結局、物的証拠や明確な証言がないため、陸軍大将を処罰することを躊躇した形の無罪となりましたが、判決文には罪状が羅列されたまま結論だけが「無罪」だったそうです。
真崎は明治9(1876)年に佐賀県で生まれ、県立佐賀中学校を卒業すると日清戦争に勝利したことで人気が高まっていた陸軍士官学校に入校しました。
卒業後、少尉に任官すると対馬守備隊に配置され、陸軍士官学校勤務を経て陸軍大学校に入校しますが、折から日露戦争が生起したため中隊長として参戦することになりました。
終戦後に課程は再開され優秀な成績で卒業したようです。この時の主席は後に皇道派・右翼の頭目となる荒木貞夫でした(現在ならT母神元幕僚長か?)。
その後は陸軍大学校の優等卒業者に相応しいエリートコースを歩んで行きますが、第1次世界大戦中に久留米の俘虜収容所長を務めた時、ドイツ軍士官の俘虜2名を殴打する事件を起こし国際問題になりかけました。久留米の収容所の俘虜虐待は有名で、終戦後に久留米から徳島の坂東へ移送された俘虜たちは松江豊寿所長の寛大な処遇に感激し、母国に帰ってからもその賛辞を惜しまず、対日感情の好転に多大な貢献をしましたが、ある意味、真崎の軽挙を打ち消してくれたとも言えるでしょう。
真崎は大正15年から2年間、陸軍士官学校の校長を務め、2・26事件の首謀者たちの多くはこの時の学生だったのですが、純粋無垢な若者たちを洗脳するような忠君愛国の熱弁を奮い、狂信的な神国思想を説いたのでしょう。
この頃から陸軍大学校の同期トップである荒木貞夫の昇進に便乗する形で要職を歴任するようになりますが、皇道派と言う派閥を形成すると、その神がかった精神主義に批判的な現実主義者たちが統制派を形成し、軍内で派閥抗争を繰り広げるようになったのです。その中で真崎は次第に立場を危うくしていきますが、それは自業自得であったにも関わらず子飼いの青年将校には統制派の策謀であるかのように吹聴し、それを信じ込んだ愚かな過激分子が相沢事件、3月事件、10月事件を続発させ、総決算と言うべき2・26事件を引き起したのです。
陸軍はこの大不祥事を悪用し、思い通りにならない政治家に「またクーデターが起きるぞ」と脅迫するようになり、それが軍国主義、大東亜戦争、敗戦へつながりました。
何故、真崎がA級戦犯として不起訴だったのか?太平洋戦争開戦時に予備役だったことが理由のようですから悪運だけは見事です。
- 2014/08/30(土) 09:39:21|
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昭和40(1965)年の明日8月30日に太平洋戦争における日本陸軍では数少ない名将・宮崎繁三郎閣下が亡くなりました。73歳でした。
宮崎閣下は岐阜県厚見郡北島村(現在は岐阜市)の出身で陸軍幼年学校ではなく県立岐阜中学校を卒業して陸軍士官学校に入校しています。
宮崎閣下は日本陸軍がソ連軍に惨敗を喫したノモンハン事件に歩兵第16連隊長として参戦され、戦車部隊の攻撃により多大な損害を受けながらも陣地を守り抜き、しかも停戦時、その陣地に石工の経験がある兵士に「日本軍陣地」と戦闘経過を刻ませた石を残し、後の支配地設定時の証拠にしたと言うオマケも付けています。
また南方戦線の惨劇、牟田口軍司令官の暴挙と言われるインパール作戦にも歩兵団長として参戦され、白骨街道と呼ばれた悲惨な撤退作戦(「ビルマの竪琴」や「深い河」にも描かれた)からも多くの部下を連れ帰っておられます。
日本軍の部隊の多くが往路に村々で食糧を奪い、横暴な態度をとって恨みを買い、その帰路で村人にイギリス軍に内通される原因を作ったのに対して、宮崎部隊では食糧には代金を払い、軍規の厳正に努め、宮崎旅団長自身も「チビ」と名付けた子猿を肩にのせて子供たちとも親しく交わるなどして信頼と友好を得ていたため、日本軍と見て始めは逃げ出した村人たちも、それが宮崎部隊だと判ると帰って来て、よろこんで食料を提供し、村で休息させるなど、すすんで協力したと言われています。
白骨街道で日本軍は足手まといになる負傷者や病者に自決用の手榴弾を渡して置き去りにする。末期には自決を待って肉をとるような悲惨な状況も生起していたのに対して、宮崎部隊では兵団長自身が病者、負傷者を背負い、亡くなると可能な限りの慰霊の儀礼を行い、渡河する際にも岸に残って部下が全員渡り終えるのを確認してから自分も渡ったと、実際に宮崎兵団の下士官兵として白骨街道から生還された方たちから伺っています。
白骨街道から生還した後には第54師団長になられますが、これは迫りくるイギリス軍を迎え撃つ捨石と言う大損な役柄でした。それを命じた方面軍司令官自身が真っ先に逃亡して孤立無援になったのですが、ここでも何とか切り抜け敗戦を迎えます。
では宮崎閣下は現場部隊を渡り歩いてきた叩き上げかと言えば意外にも情報・通信・暗号畑の経歴が長く(当時、陸軍幼年学校から士官学校へ入校した者は頭が固いため情報畑には向かないと言われていた)、逆にその経験が冷静な状況分析と柔軟な発想に基づく的確な指揮を可能にしたのかも知れません。
終戦後、宮崎閣下は小田急・下北沢駅前の商店街で小さな瀬戸物屋「陶器小売店岐阜屋」を営んでおられたそうですが、小柄な閣下はいつもニコニコしておられて、普通の商店の親父にしか見えず、元陸軍中将であることは隠しておられたそうです。それが知られるとワザと商品の瀬戸物を割っていく不心得者がいて、そんなことがあっても閣下は何も言わず、ただ哀しそうな顔でその者の気が済むまで好きにさせていたそうです。
宮崎閣下は臨終まで「分離した部隊を間違いなく掌握したか?」とうわ言を繰り返しておられたそうですから、戦後20年間、白骨街道や捨石で犠牲になった部下たちを忘れることはなかったのでしょう。
- 2014/08/29(金) 09:23:14|
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延暦4(785)年の明日8月28日(太陰暦)は万葉歌人・大伴家持(おおとものやかもち)さんの命日です。
大伴家持さんと言えば戦時中の大本営発表のラジオ放送で全滅(玉砕)や戦死を伝える時に流された「海ゆかば」の作詞者として有名ですが、本人も大和朝廷以来の武門の家柄として辺地に赴き、防人に関わる役職についたことで作品を集め、万葉集に多くの「防人の歌」「東歌(あずまうた)」が掲載されることになったとも言われています(防人から聞いた話を家持さんが歌にしたなどの異説はある)。
野僧は現役時代、「防人の歌」や「東歌」が好きで研究していたのですが、万葉集の掲載歌の1割以上は家持さんの作品なのです。ところが歴史や国語の授業では額田王と大海人皇子のラブポエムや柿本人麻呂や山上憶良、山部赤人ばかりが取り上げられていたのは家持さんが「海ゆかば」の作者だからでしょうか?名前を出せば教師としてはこの歌を紹介しない訳にはいかないでしょうから。
家持さんは少年時代、父・大伴旅人(おおとものたびと)さんが防人を統括する任も負う太宰帥として太宰府に赴任すると母、弟と共に同行しました。その後は聖武天皇の下で順調に昇任して、天平18(758)年には越中守として現在の富山県に5年間赴任しました。小納言に任ぜられて都に戻ると兵部小輔と言う武門の役職につき、ここで東国などから徴兵されてきて難波に到着した防人を身上確認・指導することになったのです。
その後は因幡守として山陰に赴任しますが、都での政争に巻き込まれ薩摩守と言う報復人事を受けています。しかし、そこは巧みに乗り切り、太宰小弐に転任し、都に戻ると重職を歴任しいきながら伊勢守や上総守として都と地方の往復を繰り返して行きました。
そうして桓武天皇時代に入り謀反の疑いを掛けられたものの許されて、征東(=征夷)将軍として陸奥の多賀城へ赴任中に没したと言われます。
ところがこの最期の地については2つの説があり、奈良の幹部候補生学校時代の郷土史研究家の知人からは「征東将軍は役職だけで任地には赴かなかったから都で没した」と聞き、東北史を研究している仙台の友人からは「当然、多賀城で没した。当り前田のクラッカー」と言われました。野僧も東北人ですから後者の意見に賛同しておきます。
問題の「海ゆかば」は「海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草むす屍 大君の辺こそ死なめ 顧みはせじ」と言う長歌で、野僧は昭和の陛下の時代には自衛官として危険・困難な任務に赴く時に愛唱し、「オベンチャラの胡麻すり歌に過ぎない『君が代』に代えて国歌にすべきだ」と思っていましたが、今上さんに代替わりしてから(=平成元年に幹部候補生学校に入校した)は「あんなオッサンのために死ねるか」と一切唄わなくなりました。
これは愚息1が陸上自衛隊に入り、北海道に赴く時に贈った防人の歌です。
「父母が 頭かきなで 幸くあれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる(丈部稲麻呂)」
- 2014/08/27(水) 09:18:33|
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昭和17(1942)年の明日8月26日にラボール(ラバウル)のリヒトホーフェンと謳われた笹井醇一中尉が戦死しました。
笹井中尉は東京・青山の生まれで、府立(当時は東京府だった)第1中学校を経て海軍兵学校に入校しました。笹井中尉は写真を見ても映画ポスターの俳優かと思うほどの美男子で、さすがは東京山の手の出身です。ちなみに墓所は青山霊園にありますが、案内版などはなく広いので探すのは大変でした。
少尉任官後、飛行学生となり開戦直前の昭和16年11月に台南航空隊(当時は台湾)へ着任すると、配備されたばかりの零式艦上戦闘機を操り戦果を上げていきます。
台南航空隊の記録によれば出撃回数76回、単独撃墜27機、共同撃墜187機と言う兵学校出身者としてはトップの戦果で、開戦から1年半余りの短期間であることを考えると驚異的な数字です。
初陣は12月10日のフィリピン・クラーク基地攻撃ですが、この時はエンジンの不調で引き返しています。翌年には東南アジアへ転戦し、アメリカ陸軍機と対戦しながら頭角を現していき、続いてニューブリテン島のラボール(Rabaul)へ赴任しました。
意外にラボールの位置を知らない人が多いようですが、ラボールは島の名前ではなくニューブリテン島東端の岬です。そのニューブリテン島はパプアニューギニア島の東、ソロモン諸島の西側にある大きな火山島です。
ラボールでは大空のサムライ・坂井三郎1等飛行兵曹と共に戦果を重ねていきます。
この日、笹井中尉はガダルカナル島に飛行場を建設し、制空権を固めつつあった米軍を攻撃するため、ラバオールから約2千キロ(東京から小笠原諸島の約2倍)の距離を7時間以上かけて飛んだ後の空中戦で、アメリカ海兵隊の撃墜王・カール大尉と敵基地上空での一騎打ちになり、地上からの対空砲火を浴びながらも執拗に追い続け、撃墜寸前まで負い詰めながら反撃の一連射を受けて空中爆発したのです。
笹井中尉が有名になったのは8月上旬の空中戦で重傷を負い、内地に送られていた坂井三郎1飛曹の著書「大空のサムライ」によるところが大きいのですが、この日は坂井1飛曹の誕生日でもありました。
坂井1飛曹はイギリス海軍から貴族趣味まで学んだ海軍士官が大嫌いで、「大空のサムライ」でも全く誉めていませんが、笹井中尉だけは手放しに称賛しています。
実際、「坂井が落胆して快復が遅れるから」と戦死の報を誰も知らせず、半年後に知った時、「俺がついていれば殺させることはなかった」と地団太を踏んで悔しがったそうです。
野僧が第83航空隊に勤務している時、Fー104のパイロットたちから尊敬する先輩の話を聞きましたが、航空学生出身者は坂井三郎さんなどの予科練出身が多く、防衛大学校出身者は淵田美津雄大佐や友永常市大尉たち海軍兵学校出身のパイロットが多かったようです。中にはレッドバロン・リヒトホーフェンと言う人もいましたが、府立第1中学校を前身とする日比谷高校出身の防大出のパイロットはやはり先輩・笹井醇一中尉でした。
- 2014/08/25(月) 18:14:12|
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8月17日にハワイアン歌手の三島敏夫さんが亡くなりました。87歳でした。
野僧は三島敏夫さんが歌っている航空自衛隊歌「蒼空遠く」のテープを持っているため、あの甘い声には特別な思い入れがあります。そのテープには藤山一郎さんの海上自衛隊歌「海をゆく」や加賀城みゆきさんの「浜松航空隊歌」も入っていますがアップの仕方が判らないのでお聞かせできません。
三島さんはアロハ・ハワイアンズやマヒナスターズのメンバーとしてのハワイアン歌謡だけでなく「松の木小唄」も唄っていますが、こちらは「松本(松山・松村・松下など)ばかりが松じゃなし」と同僚のテーマソングにしていました。合掌
- 2014/08/20(水) 09:45:47|
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昭和20(1945)年の明日8月20日に南樺太・真岡の郵便局で女性電話交換手(当時は郵便局が電話の交換業務も担当していた)12名のうち10名が自決を図り、9名が死亡する事件が起こりました。
8月9日に日ソ不可侵条約を無視してソ連軍が満州に侵攻し、11日には樺太にも上陸したのですが、8月15日に日本が無条件降伏した以上、停戦するのが国際法慣習でありながらソ連軍は武力行使を継続していました。
それに先立つ10日には軍と官民により島民の緊急疎開要領が作成され、13日から疎開が開始されましたが、ソ連軍の侵攻は早く島内各所で略奪、住民の殺傷、婦女子の強姦などが頻発し、その惨状を内地に伝えるのも郵便局の業務だったのです。
8月16日になり真岡郵便局を管轄する逓信局長から「女子吏員は全員引き揚げさせよ。そのため業務が一時停止してもやむを得ない」との疎開命令が下り、代行として男子中学生を急速練成しますがやはり無理があり、やむなく残って業務を継続する希望者を募ると既に出勤しなくなっていた者を除く全員が希望しました。
17日になり真岡郵便局長は疎開するように説得を開始し、逓信局長と相談して海底電話線敷設船を真岡港へ回航させて疎開することを決めましたが、ソ連軍の侵攻があまりにも早く実現しませんでした。
その後も女性電話交換手たちは3交代の勤務体制を維持しながら業務を続けていましたが、20日早朝になって「ソ連の軍艦が接近した」との報告が入ると間もなく艦砲射撃が始まり、7時33分(ソ連軍資料)に2艘の上陸揚襲艇で上陸した兵士により市街地で無差別の住民殺傷が開始されると、郵便局周辺でも砲撃や銃撃が起こりました(日本軍はいないので戦闘ではない)。真岡郵便局は平屋建ての本館と2階建ての別館があり、電話交換所は別館の2階だったので砲弾や銃弾が飛び交うようになると外部から孤立しました。
そうして追い込まれた状況の中で10代の若い女性を含む交換手たちは業務を継続しながらソ連軍による強姦・凌辱、殺傷などを想い、死を決意していったのです。
順番については生存者が少ない上、錯綜した状況であったためハッキリしませんが「最初に責任者だった女性班長から序列順に青酸カリやモルヒネを飲んで服毒自決した」と言う話や「女性班長は逃げるように説得していたが若い者から死んでいった」と言う逆の話、さらに「勤務体制を維持しながら業務を終えた者から死んでいった」と言う話が伝わっています。
最後に残った交換手が本館に「すでに7名が自決し、自分も死ぬ」と訣別の連絡をしたため男性局員が急行し、まだ服毒・絶命していなかった交換手2名を救出しました。
内地では8月15日に敗戦を迎え、現在も全国各地で戦没者慰霊行事が挙行されていますが、ソ連軍との戦闘は継続されており、満州ではより大規模な殺戮、略奪、強姦、凌辱が繰り広げられていました。
アメリカによる原爆投下の惨状や沖縄戦でのひめゆり学徒隊の悲劇は学校でも十分すぎるほど習いましたが、このソ連軍の蛮行は全く触れられませんでした。
1974年、東映がこの事件を題材にした「樺太1945年・氷雪の門」が制作しましたが、「経営方針の変更」を理由に上映はされませんでした。
当時、タス通信はこの作品を「ソ連軍とソ連国民を中傷する反ソ映画」と批判しており、それが経営方針を変更させたのは間違いないでしょう。
- 2014/08/19(火) 09:34:07|
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昭和20(1945)年の明日8月18日に千島列島の最東端にある占守島(しゅむしゅとう)をソ連軍が攻撃し、日本軍守備隊との間で戦闘が発生しました。
米英ソの首脳たちで勝手に戦後の分配を決めたヤルタ会談では樺太と千島列島はソ連が獲得することになっていましたが、軍事的な占領の分担は明記されていませんでした。
この時点で日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏していますから国際常識から見て停戦が成立していたのですが、ソ連は8月9日に日ソ不可侵条約を破っての(破棄する1年前の通告が義務付けられていたが無視した)侵攻を継続していたのです。
停戦成立後に軍事行動を継続することは国際法慣習に反し、しかも前日には対岸のカムチャッカ半島から砲撃を加えていますから、守備隊が応戦したのは当然のことです。
この日の深夜2時30分頃、ソ連軍の先遣隊・1個大隊が島で唯一上陸可能な竹田浜に侵攻したのですが、荷物を積み過ぎていて接岸できず兵は船から泳いできたようです。占守島付近は夏でも最高気温は15度程度で、寒流の水温はかなり低く、その海で泳ぐのですからロシア人は本当に頑健です。、
日本の陸軍守備隊は第5方面軍から「16日の時点で停戦し、軍使を派遣せよ」「敵が攻撃してきた場合の自衛戦闘は妨げない」と言う命令を受けており、前日から対岸でソ連艦艇の動きが活発になっていることを察知・警戒していたため直ちに攻撃を加え、沖のソ連軍の艦艇も応戦し戦闘が始まったのです。1時間後には主力の1個狙撃連隊も上陸を開始し、日本軍は激しい砲撃で多くの船艇に損害を与えました。さらに海軍航空隊の97式艦上攻撃機も出撃しましたが、対空砲火により1機が撃墜されています。
この通報を受けた第5方面軍司令官・樋口季一郎中将は「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と命じ、それを受けて陸軍守備隊の第91師団は猛反撃を開始し、戦闘は激しさを増していくばかりでした。一方、樋口司令官から報告を受けた大本営はマックアーサー占領軍司令官(まだ日本には来ていない)にソ連へ停戦を働きかけるように要請しましたが、スターリンは黙殺したのです。
18日の午後、日本軍は軍使として陸軍大尉を随員と護衛付きで派遣しますが、ソ連軍に拘束されて連絡がつかなくなり、翌日に派遣した陸軍大尉がようやく交渉を開始したもののソ連軍は師団長の出頭を要求し、師団参謀長や第73旅団長が代理として交渉に当たりましたが、停戦だけでなく武装解除も強硬に要求したため難航しました。
翌日には一応の停戦合意を見ていたにも関わらず、ソ連軍の艦艇が占守島と幌莚島の間の狭い海峡に侵入したため海軍守備隊が攻撃し、戦闘が再発したのです。
結局、一進一退のまま21日の夜になって日本軍が正式に降伏し、23日は武装解除が行われました。
この戦闘でソ連側の発表ではソ連軍が1567名、日本軍は1000名の戦死者を出していますから(日本側の未確定資料ではソ連軍が3000名以上、日本軍は600名程度)ソ連の敗北であることは明らかであり、これにより千島と樺太から北海道まで奪取しようとしたスターリンの野望は頓挫しました。
勝因はアメリカが孤島を攻略する際には、守備隊の3倍以上の兵力で攻撃する基本原則を確実に守っていたのに比べ、ソ連軍は約2万5千人の日本軍に対して約8千5百人で攻撃しており、日本軍は太平洋戦争の開戦後に対米戦に備えて蓄えていた武器・弾薬を使っていなかったため戦力も十分だったことなどです。
しかし、ソ連軍に投降した守備隊員の多くは10月になってからシベリアに抑留され、北海道へ船で逃れる途中で拘束された水産会社の女工20名も3年間にわたり抑留されています。(20日に続く)
- 2014/08/17(日) 08:05:31|
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終戦詔書(音読)
ちんふかくせかいのたいせいとていこくのげんじょうとにかんがみ、ひじょうのそちをもってじきょくをしゅうしゅうせんとほっし、ここにちゅうりょうなるなんじしんみんにつぐ、ちんはていこくせいふをしてべいえいしそしこくにたいし、そのきょうどうせんげんをじゅだくするむねつうこくせしめたり、そもそもていこくしんみんのこうねいをはかり、ばんぽうきょうえいのたのしみをともにするは、こうそこうそうのいはんにしてちんのけんけんおかざるところ、さきにべいえいにこくにせんせんせるゆえんも、またじつにていこくのじそんと、とうあのあんていとをしょきするにいでて、たこくのしゅけんをはいし、りょうどをおかすがごときはもとよりちんがこころざしにあらず。しかるにこうせんすでにしさいをけみし、ちんがりくかいしょうへいのゆうせん、ちんがひゃくりょうゆうしのれいせい、ちんがいちおくしゅしょのほうこう、おのおのさいぜんをつくせるにかかわらず、せんきょくかならずしもこうてんせず、せかいのたいせいまたわれにりあらず、しかのみならずてきはあらたにざんぎゃくなるばくだんをしようして、ひけにむこをさっしょうし、さんがいのおよぶところしんにはかるべからずにいたる。しかもなおこうせんをけいぞくせんか、ついにわがみんぞくのめつぼうをしょうらいするのみならず、ひいてじんるいのぶんめいをもはきゃくすべし。かくのごとくんば、ちんなにをもってかおくちょうのせきしをほし、こうそこうそうのしんれいにしゃせんや、これちんがていこくせいふをしてきょうどうせんげんにおうぜしむるにいたるゆえんなり。ちんはていこくとともに、しゅうしとうあのかいほうにきょうりょくせるしょめいほうにたいし、いかんのいをひょうせさすをえず、ていこくしんみんにしてせんじんにしし、しょくいきにじゅんじ、しめいにたおれたるものおよびそのいぞくにおもいをいたせば、ごないためにさく、かつせんしょうをおい、さいかをこうむりかぎょうをうしないたるもののこうせいにいたりては、ちんにふかくちんねんするところなり。おもうにこんごていこくのうくべきくなんは、もとよりじんじょうにあらず、なんじしんみんのちゅうじょうもちんよくこれをしる、しかれどもちんはじうんのおもむくところ、たえがたきをたえ、しのびがたきをしのび、もってばんせいのためにたいへいをひらかんとほっす。ちんはここにこくたいをごじしえて、ちゅうりょうなるなんじしんみんのせきせいにしんし、つねになんじしんみんとともにあり、もしそれじょうのげきするところ、みだりにじたんをしげくし、あるいはどうほうはいさいたがいにじきょくをみだり、ためにだいどうをあやまりしんぎをせかいにうしのうがごときは、ちんもっともこれをいましむる。よろしくきょこくいっかしそんあいつたえ、かたくしんしゅうのふめつをしんじ、にんおもくしてみちとおきをおもい、そうりょくをしょうらいのけんせつにかたむけ、どうぎをあつくし、しそうをかたくし、ちかってこくたいのせいがをはつようし、せかいのしんうんにおくれざらんことをきすべし。なんじしんみんそれよくちんがいをたいせよ。
終戦詔書(原文には句読点がありません)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ、茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク、朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ、其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ。抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ、萬邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ、皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々惜カサル所、曩ニ米英二國ニ宣戦セル所以モ、尚實ニ帝國ノ自存ト、東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ、他國ノ主権ヲ排シ、領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス。然ルニ交戦巳ニ四歳ヲ閲シ、朕カ陸海将兵ノ勇戦、朕カ百僚有司ノ励精、朕カ一億衆庶ノ奉公、各々ニ最善ヲ盡セルニ拘ラス、戦局必スシモ好転セス、世界ノ大勢亦我ニ利アラス。加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ、頻ノ無辜ヲ殺傷シ、惨害ニ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル。而モ尚交戦ヲ継続セムカ、終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス、延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ。斯ノ如クムハ、朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ、皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ、是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ。朕ハ帝国ト共ニ、終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、遺憾ノ意ヲ表セサスヲ得ス、帝國臣民ニシテ戦陣ニ死シ、職域ニ殉シ、非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ、五内為ニ裂ク、且戦傷ヲ負ヒ、災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至タリテハ、朕ニ深ク軫念スル所ナリ。惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ、固ヨリ尋常ニアラス、爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル、然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所、堪エ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス。朕ハ茲ニ国體ヲ護持シ得テ、忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ、常ニ爾臣民ト共ニ在リ、若シ夫レ情ノ激スル所、濫ニ事端ヲ滋クシ、或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ、為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ、朕最モ之ヲ戒ムル。宜シク挙國一家子孫相傳ヘ、確ク神州ノ不滅ヲ信シ、任重クシテ道遠キヲ念ヒ、總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ、道義ヲ篤クシ、志操ヲ鞏クシ、誓テ国體ノ精華ヲ発揚シ、世界ノ進運ニ遅レサラムコトヲ期スヘシ。爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
裕仁
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣 鈴木貫太郎
以下十五大臣連名
戦没者慰霊を勤めるのにこれ以上の文章はないでしょう。いかなる経典、聖書やコーラン、ましてや資本論、毛沢東語録の一節を以てしても及ばないと思います。
- 2014/08/15(金) 07:35:39|
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昭和20(1945)年の明日8月15日の早朝、陸軍大臣・阿南惟幾(あなみこれちか)大将が自刃しました。58歳でした。
昭和42年に放映された東映戦争映画シリーズの「日本のいちばん長い日」では三船敏郎さんが演じ、切腹シーンが最大の見せ場になっていましたが、実際の阿南大臣は三船さんのような濃い顔ではなく、髪は薄いものの品の良い温和な醤油顔でイメージは全く違います。
映画で三船さんの阿南大臣は山村聡さんの米内光政海軍大臣を相手にドスが効いた声で「本土決戦に持ち込み、一矢報いてから有利な条件で講話するべきである」と強弁して譲りませんでしたが、実際の阿南大臣は内務省の役人であった父の転勤について徳島の中学生だった時、11師団長だった乃木希典の助言があって陸軍幼年学校に入校したため終生尊敬して已まなかったと言われ、また侍従武官だった時、侍従長だった鈴木貫太郎首相の度量の広さに感服し、やはり信頼・尊敬していたそうですから、あのように内閣の方針を覆すような強硬な主張をしたとは思えません。
映画でも描かれているようにポツダム宣言の受諾が決定すると、陛下の終戦の詔勅のラジオ放送=玉音放送を阻止しようと都内にいる陸軍省や近衛師団の過激派青年将校が事実上のクーデター・宮城事件を起こしましたが、同調を求める過激派に阿南大臣は「すでに聖断は下ったのだ」と撥ね退け、その焦りから近衛師団の過激派は陛下を守るべき本務を忘れ、皇居内で発砲するなど暴走していきました。
阿南大臣は東京陸軍幼年学校長の時に生起した2・26事件を受けて、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ぶ者は、先ず軍服を脱いだ後に行え=軍人は政治に関与してはならない」と叛乱将校を批判して同調者を防ぎました。このように当時の陸軍には珍しい常識派の阿南大臣ですから鈴木首相がポツダム宣言の受諾を決めて以降、これを陸軍内にどのように受け入れさせるかだけを考えていて、その最大の方策が自刃だったのではないでしょうか。
記録ではこの日の朝5時半に自刃し、介錯(=トドメ)を拒み、苦しみながら7時半に絶命したとありますが、立ち合った陸軍省の部下は「訣れ酒を飲み過ぎて酩酊状態で腹を切られた」と述べていますから意外に好い気分の割腹だったのかも知れません。
遺書には「一死ヲ以テ大罪ニ謝シ奉ル。昭和20年8月14日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州ノ不滅ヲ信ジツツ」とありますので、そこから深酒したのでしょう。
辞世は「大君の 深き恵に 浴みし身は 言い遺すへき 片言もなし」でした。
それにしても本土決戦を叫んでいた陸軍の過激派(海軍の大西瀧次郎を含む)は沖縄戦や原爆の惨状をどのように捉えていたのか?本土決戦になれば沖縄戦以上の徹底的な破壊と殺戮が行われることは間違いなく、実際には3個目の原爆は新潟に落ちる予定でしたが、あのまま戦争を継続すれば広島や長崎と同様の地獄絵図が各地で描かれ、国土の再生は不可能になることも考えが及ばなかったのしょうか。
阿南惟幾大将が敗戦時の陸軍大臣、下村定大将が最後の陸軍大臣であったことはこの国にとって幸いでした。最後の最後になってようやく人物が登場したのです。
- 2014/08/14(木) 00:08:53|
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元禄6(1693)年の明日8月10日(太陰暦)は元禄時代を彩る庶民文化の大看板(=代表)・井原西鶴さんの命日です。
歴史の教科書では井原西鶴さんを浮世草子の作者=現代の小説家と紹介していますが、実際には俳諧(俳句)で先に名を売り(松尾芭蕉よりも2年早く生まれ、1年早く死んだ)、近松門左衛門の師匠ではないかと言う俗説がある人形浄瑠璃作家でもあります。さらに江戸ではなく大坂(当時の地名)・難波の人です。
ただ、あの時代の庶民に関する記録は寺が管理していた人別帳(現在の住民票)くらしかなく、当時、一流の文化人だった井原西鶴さんも親の素性や家業、さらに本名などの人物像についてはあまりハッキリしていません。
ところで西鶴さんの作品を国語の古文の授業で習うことはありません。何故なら歴史の授業で分類している浮世草子の代表作は「好色一代男」「好色一代女」「諸艶大鏡」「男色大鑑」と言う題名でも判るように現在で言う風俗レポートなのです。
野僧は中学時代に「好色一代男」「好色一代女」を原文で読みましたが、流石に興奮はしなかったものの古文の表現ながらかなりリアルな内容でした。現代語訳すると問題になりそうです。
俳諧の作品は「長持(=衣装ケース)に 春かくれゆく 衣替え」「大晦日 定めなき世の 定めかな」など後の与謝蕪村、小林一茶を思わせる味がありますから問題なさそうですが、歴史の授業との整合性のため黙殺しているのでしょう。
野僧が西鶴さんと再会したのは自衛隊に入りレンタルビデオが定着してからで、先輩が「ウルトラ警備隊のアンヌ隊員が出ているポルノ映画だぞ」と言って上映会を開いた「好色元禄㊙物語」に登場していました。
アンヌ隊員=菱見百合子さんにからむ若い坊主・西鳩(さいきゅう)が最後に名前を替えて西鶴と名乗るのですが、実際に西鶴さんが坊主だったと言う記録はありません。
この映画には川谷拓三さん、室田日出男さんなどの後の名優や笑福亭鶴光さんなども出演しており、西鳩役は山田政道さんでした。
江戸時代の文化の中心は江戸と思いがちですが、江戸は現在の東京と同様に四角四面の綺麗事ばかりでしたから自由な討議による発展、型にはまらぬ学究の気風には程遠く、本音で勝負の庶民文化は大坂で花開き(落語なども大坂発)、伝統文化は京都が本場だったのです(儒学も大坂の商家の方が本格的に研鑽していた)。
江戸の庶民文化が成熟したのは田沼意次が禁制を控え、商業活動を活性化させたことによります。しかし、田沼失脚直後に老中となった松平定信は寛政の改革で武士の論理を庶民にまで押しつけ、取り締まりを受けなかった戯作者、絵師、版元はなかったと言われています。次に庶民文化が爛熟するのは定信失脚後の化成文化です。
大阪市中央区の誓願寺に残る人別帳(=過去帳)によると西鶴さんの戒名は「仙皓西鶴信士」で、晩年に詠んだ「浮世の月 見過しにけり 末二年」が辞世とされています。
- 2014/08/09(土) 09:20:30|
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今年も第1目標の小倉が悪天候であったための巻き添えで犠牲になった長崎への原爆犠牲者の慰霊法要はこの歌から始まります。一部、長崎では少数派の切支丹ではなく大多数の門徒に合わせて歌詞を変えています。
「長崎の鐘(改作詞・古志山人 作曲・古関裕而)」
こよなく晴れた青空を 哀しと思う切なさよ うねりの波の人の世に はかなく生きる野の花よ
なぐさめ 励まし長崎の ああ長崎の鐘が鳴る ゴーン
召されて妻は御浄土へ 一足先に旅立ちぬ 形見に遺る御六字の 文字に白き我が涙
なぐさめ 励まし長崎の ああ長崎の鐘が鳴る ゴーン
つぶやく雨のお念佛 唱える風のお念佛 高鳴る胸のお念佛 微笑む海の雲の色
なぐさめ 励まし長崎の ああ長崎の鐘が鳴る ゴーン
心の罪をうち明けて 更けゆく夜の月明けぬ 貧しき家の柱にも 誰が刻んだ御六字を
なぐさめ励まし長崎の ああ長崎の鐘が鳴る ゴーン
ああ長崎の鐘が鳴る ゴーン
戦後70年が経過し日米の同盟関係は強固なものになっているため、「そろそろ断罪的な取り上げ方を控えないと中韓のような見方をされるのではないか」と心配する声も聞かれ始めましたが、原爆投下は「文民の無差別殺傷」「過剰な威力を持つ兵器の使用」と言う人類史上類例がない重大な武力紛争関係法違反であり、何よりも日本軍捕虜への虐待を描いた映画「Unbroken」が上映される以上、こちらも断罪の手を緩める訳にはいきません。しかし、12月上映開始と言うことはパールハーバーに合わせてくるつもりではないでしょうな。
終わりはヒロシマと同様にこれになります。2番以降は革命歌の悪臭がしますから唄いません。
「原爆を許すまじ(詞・浅田石二 曲・木下航二)」
ふるさとの街焼かれ 身よりの骨埋めし 焼土(やけつち)に 今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を 3度(みたび)許すまじ原爆を われらの街に
- 2014/08/08(金) 09:20:16|
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昭和43(1968年)の明日8月8日に札幌医大・和田寿郎教授による日本初(世界では30例目)の心臓移植手術が行われました。
この時、野僧は小学1年生でしたが、輸入ドラマ「ベン・ケーシー」や放送中の「白い巨塔」の影響もあって非常に強く興味を持ち、発熱で通院して主治医に色々な質問をすると、「ヒョッとして知恵熱かな」と呆れられてしまいました。
心臓を提供したのは溺れた21歳の男子大学生(今はドナーと呼んでいます)、提供を受けたのは重い心臓病を患い、他の治療法では効果がないとされていた男子高校生でした(同じくレシピエントと呼んでいます)。
和田教授は終戦の前年に北海道帝国大学医学部を首席で卒業し、独立前の1950年からガリオア留学生(アメリカの財団の出資で設立された日本の優秀な若者を留学させる制度)としてアメリカに渡り、ミネソタ州立大学、オハイオ州立大学、ハーバード大学で最新の医療技術を学んでいました。特にミネソタ州立大学では後に世界初の心臓移植手術を行う南アフリカのクリスチャン・バーナード博士や犬の移植実験を成功させてアメリカでの牽引車になったノーマン・シャムウェイ博士と知り合い、刺激を受けたようです。
手術後、レシピエントは一時的に回復し、8月29日には病院の屋上を10分間散歩する姿も報じられましたが、9月に入ると徐々に食欲不振に陥り、意識混濁も始まって、83日後の10月29日に食事を喉に詰まらせて呼吸不全で死亡したと発表されました。
すると各方面から批判の声が湧き上がり、数々の問題点・疑問点が暴露、指摘され、12月には大阪の漢方医が殺人、業務上過失致死、死体損壊の罪で刑事告発しました。
その問題点とはレシピエントが本当に心臓移植以外に治療法がない病状であったのかと言う本質的な問題に始まって、手術前、ドナーが札幌医大病院に搬入されると十分な蘇生措置が施されず、脳死判定のために不可欠な脳波の検査も行われなかった点、摘出後のドナーの遺体は警察に通知されておらず火葬にふせられた点、レシピエントの死後、移植時に摘出された心臓が行方不明になり、発見時には病巣部分が摘出されて移植手術の必要性を判定することができなかった点などでしたが、結局、告発された罪を認定するだけの権威を持つ医学者がおらず1970年に嫌疑不十分で不起訴処分になりました。しかし、1973年3月には日本弁護士会が当時の心臓移植手術の妥当性について警告を出しています。
これらのことがあり日本で2回目の心臓移植手術が行われたのは31年後のことになり、法整備にも手間取り、最近になってようやく欧米並みの水準に近づきつつあるようです。
臓器移植に反対する団体の中には佛教系の組織もあるようですが、釈尊には飢えた虎の母子に我が身を与えようとしたが弱って襲えないため、自ら剣で命を絶って母虎に血を飲ませ、子虎に乳を与えさせて救った王子が前世であると言う説話があります。死に逝く身体で他者を救うことができれば功徳無上ではないでしょうか。
当然、野僧も臓器提供カードを持っていますが、主治医は「アンタには使える臓器がない=もらった人が早死にする」と言っています。それでもよろしければどうぞ。
- 2014/08/07(木) 08:57:25|
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昭和38(1963)年の明日8月7日午前11時25分に映画、ドラマで日本人の涙を絞った「愛と死を見つめて」のヒロイン・みこ=大島みち子さんが亡くなりました。
このドラマが放送された1964年、野僧はまだ3歳でしたが、母親は家事を放り出してテレビにかじりつき、涙を拭いながら見ていたので青山和子さんが唄う主題歌まで丸暗記してしまいました(小学生になって母親が買っていた原作本を読みました)。
「愛と死を見つめて(作詞・大矢弘子 作曲・土田啓四郎)」
まこ 甘えてばかりでゴメンネ みこはとっても幸せなの
はかない命と知った日に 意地悪言って泣いた時 涙を拭いてくれた まこ
まこ わがまま言ってゴメンネ みこは本当に嬉しかったの
たとえその瞳(め)は見えずとも 2人で夢見た信濃路を 背負って歩くと言った まこ
まこ 元気になれずにゴメンネ みこはもっと生きたかったの
たとえこの身は召されも 2人の愛は永久(とわ)に咲く みこの命を生きて まこ
この主題歌はレコード大賞を受賞しました。
この物語は「まこ」の河野實(まこと)さんと「みこ」の大島みち子さんの3年にわたる闘病と純愛が往復書簡を中心に描かれていますが、映画ではヒロインの「みこ」を吉永小百合さん、「まこ」は毎度の相手役・浜田光夫さん、ドラマでは大空真弓さんと山本学さんが演じています。なお2006年には広末涼子さん、草彅剛さん版も作られています。
大島さんの病名は軟骨肉腫ですが、「サインはV」のジュン・サンダースもこの病気で死んだため小学生の間で妙に認知度は高かったのです。これが大島さんの絶筆です。
病院の外に、健康な日を3日下さい。
1日目、私は故郷に飛んで帰りましょう。そしておじいちゃんの肩をたたいて、それから母と台所に立ちましょう。おいしいサラダを作って父にアツカンを1本つけて、妹達と楽しい食卓を囲みましょう。
2日目、私は貴方の所へ飛んでいきたい。貴方と遊びたいなんて言いません。お部屋を掃除してあげて、おいしい料理を作ってあげたいの。そのかわり、お別れの時、やさしくキスしてね。
3日目、私は一人ぼっちで思い出と遊びます。そして静かに1日が過ぎたら、3日間の健康ありがとう、と笑って永遠の眠りにつくでしょう。
後年、野僧がこの歌を口ずさんでいると先輩が「そのまこって奴は結婚したんだぜ」と冷ややかに笑いました。結末が死の純愛は当事者のその後が難しいのは確かです。
光市の母子殺人事件の被害者の夫・父親に対しても再婚したことを皮肉に報じる死刑反対派のマスコミがありました。奴等は「犯人に死を望む者には未来を考える資格はない」と言いたいのでしょう。人の命を奪った犯罪者と奪われた被害者家族を同列に扱うとはあまりにも愚かなことです。
- 2014/08/06(水) 09:22:48|
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今年も明日のヒロシマ・デーの慰霊法要はこの歌から始めます。
「死んだ少女(詞・ナジム・ヒクメット 訳詞・本田路津子)」
扉を叩くのは私 貴方の胸に響くでしょう 小さな祈りが聞えるでしょう 私の姿は見えないの
8月6日の夏の朝 私は広島で死んだ そのまま7つの女の子 いつまでたっても7つなの
私の髪に火がついて 目と手が焼けてしまったの 私は冷たい灰になり 風で遠くへ飛び散った
私は何にもいらないの 誰にも抱いてもらえないの 紙切れのように燃えた子は 美味しいお菓子も食べられぬ
扉を叩くのは私 みんなが笑ってくらせるよう 美味しいお菓子が食べられるよう それが私の祈りです。
しかし、海上自衛隊の幹部候補生の2次試験を受けるため制服で8月6日に広島へ行った時、呉線の中で取り囲んだ「原水禁」「原水協」のゼッケンをつけた連中が吐いた「ソ連や中国の原爆はアメリカに3度使わせないため絶対に必要だ」と言う台詞は許せません。
法要はこの歌で終わりますが、「3度目は国籍に関係なく許すまじ」でなければなりません。
「原爆を許すまじ(詞・浅田石二 曲・木下航二)」
ふるさとの街焼かれ 身よりの骨埋めし 焼土(やけつち)に 今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を 3度(みたび)許すまじ原爆を われらの街に
- 2014/08/05(火) 09:51:58|
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舒明2(630)年の明日8月5日(太陰暦)に犬上三田鍬(いぬかみのみたすき)を大使とする第1回遣唐使が出発しました。
日本史の授業では厩戸皇子(いわゆる聖徳太子)が推古15(607)年に小野妹子を派遣した遣隋使だけを習い、生徒としては中国の政変で隋が唐に変った程度の認識しかありませんでした。
日本書紀に載っている遣隋使は小野妹子からですが、隋の行政記録「隋書」にはその7年前に第1回朝貢使の記録があり、隋の高祖・文帝との問答では小野妹子が煬帝(ようだい)を怒らせた「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」の国書に通じる内容がありますから日本側の記載漏れの可能性が高いのではないでしょうか。
ただし、中国の友人(学者)の見解では、煬帝が激怒した原因は「日出ずる=興隆する・日没する=衰退する」の表現ではなく、日本の王が自分の承認も受けずに対等の「天子」を名乗ったことだそうです。
ちなみに隋朝は遣隋使を皇帝に貢ぎ物を献上して臣従の礼をとるための朝貢使としていますが、日本側はあくまでも外交使節のつもりで、このため朝貢使であれば毎年送るべきところを数年に1回であり、隋朝も遠隔地を理由に容認しています。
隋朝は名君・文帝の時代は安定していましたが、暴君・煬帝の圧政が続くと各地で反乱が相次ぎ(映画「少林寺」で詳しく描かれています)、5回派遣されている遣隋使もあまり得ることはなかったようです。
一方、唐朝は隋朝を超える大帝国であり、シルクロードを通じた東西交易も盛んになっていて、遣唐使が持ち帰った宝物は正倉院などに残り、今も我々に古代と異国文化を堪能せさせてくれています。さらに遣唐使には多くの留学生を同行させ、帰路には渡来者を連れ帰り、当時最新の律令や行政手法、土木・工業技術、医学、天文学=暦、鉱物学、化学、佛教経典などを貪欲に吸収して日本の近代化に大きく貢献したのです(こちらは映画「天平の甍」や「空海」で詳しく描かれています)。
実際、唐の行政記録「唐書」には遣唐使が皇帝から下賜された宝物を洛陽市内で売り、その金で膨大な書物を買って帰国したことが記録として残っています。
日本がそうして吸収した文化、技術を国内で熟成させて自信をつけた頃、藤原氏が菅原道真を中央から遠ざけるため遣唐使に任命し、それを拒んだ菅原道真の建白で19回続いていた派遣は中止になりました。
以降、日本では源氏物語に代表される国風文化が花開きますが、所詮は宮中・公家のお遊びであり、科学技術の発展には結びつかず自己矛盾を生じ、行き詰っていきました。大陸との交易の本格的な再開は平安末期の平忠盛・清盛父子の時代で(相手国は宋)、正式な国交回復には足利義満の勘合貿易まで待たなくてはならなかったのです(相手国は明)。
なお、遣隋使の国書では自国を「俀(倭の誤表記?)」と呼称していますが、遣唐使から「日本」を用いるようになっています。
- 2014/08/04(月) 10:42:17|
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正三和尚は侍だけでなく庶民の生業も佛道と捉え、修行の道筋を説き示しています。
農民について。
「農家として生まれて生きることは、世界の人々を養育する役を天から授けられたことである」
「農作物を作り出して佛様や神様の恵みを受けて、人々に命の糧を与えるのみでなく、葉を喰う虫にまで餌を与えている。こう言った大誓願を立てて迷いなく農業に励めば、田畑も清浄な修行の地となって、そこで作られた作物を食べた人にもまた執着や迷いを捨てて精進する薬となることだろう」
「鋤鍬鎌を自由自在に使いこなし、自分にむらがり茂る執着や迷いを敵として、これを責めるように土を鋤き、草を刈りなさい」
「農業はそのまま佛道の実践である。わざわざ別に佛道修行を探す必要などはない。皆さんも体は佛様になるべき尊い体、心は佛様を信じる心、仕事は佛様から与えられた仕事である」
「しかし、折角の尊い行いも、心掛けが悪いため、かえって地獄に堕ちることになってしまう。人を憎み、可愛いと執着し、慳い(おしい)貧い(ほしい)などと欲深く、さまざま自分自身の中で悪い心を作り出し、今の生では日夜苦しみ、死後は地獄餓鬼畜生修羅などに堕ちるのは残念ではないか」
「若し残念に思うのならば、農業をもってこうした悪い心を退治しようと強い願いを立てて、『南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛』と田畑を耕せば、必ず佛様のお救いがある。ただ全て天から与えられる使命のみを追求し、自分自身の欲にとらわれることがなければ、天の恵みによって今の生、死後ともに幸いとなろう」
野僧は畑で働く農家の方々に接すると、「この方たちが天地の恵みを形にして与えて下さっているのだ」と頭の下がる思いがします。そして、遠くまで見渡すと低地から里山まで田、畑、果樹園、山林と続く日本の原風景が、実に農家の皆さんが永々と拓き、築き、作り、守ってこられたことに驚かされます。
そんな尊く清らかな仕事も今では商売として成り立たなければならず、丹精を込めた作物も、獲れ過ぎたからと棄て、商品として規格に合わないからと捨てなければならないのです。しかし、無理して作物の商品価格を高めに調整してきたことが、かえって輸送コストを加えても大量生産される外国産の野菜を輸入した方が安いと市場を奪われたことを考えると、「天道に万事任せ奉り正直を守って私の欲をかわくべからず」と言う正三和尚の戒めをもう一度、噛み締めてみる必要があるのかも知れません。
それにしても現在のこの国では、農家の息子が農家であることを恥じてマンションから自宅にスーツ姿で通勤する。農家の嫁が「土がついて汚い」「大きさや形が不揃いで使いにくい」とわざわざスーパーマーケットで野菜を買ってくる。
今や高齢者が殆どの農家が、田畑を守ることができなくなってしまえば、この国はどうなってしまうのでしょうか。
職人について。
「どのような職業も御佛が示された修行となる。人々はその仕事の修練によって人格の向上・完成を得ることができるはずである。そのためには、どんな仕事も世界のために貢献しているのだと言うことを自覚すべきである」
「佛になるべき体をいただき、佛となるべき資質を持っている人間なのだから、悪い心を抱き、あえて悪道に入ることのないように。この世の真実を悟られた御佛はお一人であるが、その悟りの救済は百億に分身して世界中のあらゆる存在に及んでいるのだ」
「鍛冶屋や大工をはじめとする色々な職人がいなければ、世界の人々は必要な物を手にすることはできない。職人が手足を自由に使うことができるのは、御佛の力を分けていただいているのだ」
野僧が航空自衛隊に入った頃は「神業」と呼ばれる技術者たちが大勢いました。
ある油圧整備のベテランは整備が完了した最終チェックで脚の出し入れを点検している時、「どうも力がない」と言い出しました。ところが測定機材を使っても異常がなく、若い整備幹部は「整備が完了したなら早く飛行隊に引き渡せ」と命令しました。しかし、そのベテランは命令を無視して脚を分解し、すると油圧のゴム製パッキングが摩耗して千切れる寸前でした。
また、ある兵器指令官はレーダーが航空機を捉えられなくなって画像から消えても、その位置が判り、正確に次に画像に現れる位置を予測して対応していました。
こうした熟練の技に関する神話は航空自衛隊に限らず、かつてはこの国にあふれていて、某国営放送がシリーズ番組化したこともありました。
ところで長年、日本の発展を支えてきた建設業や中小の町工場では中堅の職人の人材不足が深刻だそうです。
かつてバブル景気の頃、誰も彼もが肉体労働を嫌って事務職に進んだため、建築業や工場の現場などに入ってくるのは最低レベルの学力しか持っていない者ばかりになり、その後の不況では「寄らば大樹の影」と大企業に人気が殺到した上、気に入らない仕事をするくらいなら責任がないアルバイトでいる方が楽と言う現代の若者気質が、これに追い打ちをかけました。
さらにアメリカ式のグローバリズムが企業を短期的な利益追求に走らせ、かつて日本の企業が取り組んできた人材育成を続ける余裕を奪いました。
確かに工業用機械の急速な発達によって企業は熟練工を必要としなくなったと言われますが、例えばどれほどカーナビゲーションシステムが発達しても実際に車両を運転するドライバーの腕が悪ければ、貨物は無事、確実に配達されないのと同じことで、企業が人材育成の努力を放棄するようでは、遠からず日本の経済は斜陽の末に日没を迎えることになるでしょう。
最後に商人について。
「商売をする人は、まず利益が上がる工夫をすることを修行すべきである。その工夫とは他にはない。卑しい小細工などを弄することなく、一筋に正直の道を学びなさい」「信用第一」が日本の企業、商人の美徳でした。確かにその倫理感には「信用を失えば損をする」と言う打算的な側面があることは否定できませんが、それでも我々は「あの会社ならば」と言う信頼を日本の企業に抱くことができました。
それもいつの間にか過去の話になってしまい、今では社長以下、末端の社員まで目先の利益と保身に汲汲として、自分の小さな嘘や手抜きによって作られた不良品が会社そのものの信用を失わせて、結局、会社全体を危うくすることにまで想いが至らないようです。
かつての日本の企業、商人には「先物買い=先行投資」「損して得を獲れ」と言う気風がありました。その投資は一時的には損失に過ぎなくても、それが将来、大きな利益をもたらせばよい。有為な人材を発掘し、その人材に必要な教育の機会を与えることが企業、店に直接的な利益を与えなくても、社会からの信用を得ることができる。
毎年の株主総会までの近視眼で目先の利益を追求することしか知らない現代の経営者たちは忘れてしまった見識でしょう。
正三和尚が説いた「職業を以て修行とせよ」と言う教えは、損得や名誉と言った現実の利益の追求を超え、職業を通じて社会に貢献することを喜びとする崇高な職業倫理でした。かつて多くの日本人はこの精神を共有していて、働くことを自己実現の手段として、働くことそのものを目的に働く国民でした。
若し、日本人が高度経済成長、バブル景気と言う毒酒に悪酔いしたまま目が醒めないのなら、それがこの国の命運なのでしょう。
しかし、幸いなことに長引く不況の結果、リストラにあった農家の息子たちが実家に戻って土に取り組むようになり、バブル崩壊以降に成長した若い世代は、資格取得こそが不況下で生き延びる道と技術習得に取り組み、企業もまた海外進出の失敗に懲りて、日本に戻りつつありますから希望の光は見えてきています。
問題はバブルの時代の欲に狂った感覚が身に染まってしまった世代ですが、新たな世代と競わせ、敗れれば容赦なく下位に落とし、分相応の立場に至ったところで、似合った仕事をやってもらいましょう。
それでも酔いの醒めない愚か者が自死したら、「民族再生のための自然淘汰」と野僧が弔ってやります。安心してどうぞ。
南無大強精進勇猛佛
- 2014/08/01(金) 10:46:49|
- 月刊「宗教」講座
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