今月20日に元朝鮮民主義人民共和国労働党日本支部長で衆議院議長の席を汚した土井たか子が死んだそうです。
日本では死者を鞭打つことは厳に戒められ、「死なば仏」と現世の罪は帳消しにするのが流儀ですが、国を守るため危険を顧みず任務を遂行し、市街地への墜落を避けるため身を捨てて殉職した同僚たちの遺骨に対して公務員労組が浴びせた罵声、夫を失ったばかりの妻に土下座を強要したことが社会党の葬送の作法のようですから、それを尊重したいと思います。
また社会党系の活動家どもは「憲法違反の自衛官には日本国憲法が保障する人権はない」と公言してはばかりませんでしたから、「自衛隊を認めない社会党には海空自衛官が生命を捧げて守っている日本の民主義を享受する資格はない」と考えていいのでしょう。
土井たか子は憲法学者から政界に入ったと言われていますが、教え子だった知人によれば「憲法学の講義は明けても暮れても第9条の話ばかりで、試験も戦争反対と書いておけば及第点がもらえた」そうです。政治家としても同様で成長はありませんした。
土井たか子は女学生の頃に憧れていた(俗説では初体験の相手)大学生が学徒出征で戦死したため軍隊を深く恨み、憲法第9条が規定するとおり軍隊が存在しない国を実現することが初恋の男性への愛の証だったとある雑誌のインタビューで本人が語っていましたが、早い話が個人的な感情で「駄目なものは駄目」と咆哮していたと言うことです。
またパチンコ愛好者でパチンコ業界から多額の政治献金の供与を受けていましたが、パチンコ店の経営者の過半数以上は在日北朝鮮人であるため、これは北朝鮮からの工作資金であったことは間違いないでしょう(パチンコ愛好者であることは庶民性を示すエピソードとしてマスコミが紹介していました)。
実際、拉致家族会は当初、北朝鮮労働党と友党関係にある日本社会党に協力を求めたのですが、「この世の楽園・朝鮮民主主義人民共和国の善導者・金日成同志がそのようなことをするはずがない」と即座いに否定し、警察に圧力を掛けて「危険団体」として取締りの対象にさせようとしたことでも明らかです(拉致家族会幹部の証言)。
こんな社会党が政権与党になっていた村山富市自社政権や社民党も参加していた民主党政権では、与党の特権で社会党・社民党の議員が各官公庁の情報を集めて回り、防衛庁・防衛省でも陸海空幕が秘密にしていた文書も内局の予算担当者や防衛施設庁は普通文書として流出させたようです。このためレーダーの探知能力などが中国や北朝鮮に漏洩したことは軍用機の行動で確認できました。
土井たか子は社会党が絶頂を迎えた時代のシンボルなのですから、社会党・社民党も一緒に地獄へ連れて逝ってもらいたいものです。
果たして「南無憲法第9条」と言うお題目であの世へ往生できるものなのか?社民党の「お別れの会」の締め括りはこれでしょうな。「南無憲法第9条、南無憲法第9条・・・」
- 2014/09/30(火) 09:28:53|
- 追悼・告別・永訣文
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明治37(1904)年の明日9月26日に「怪談」の作者である小泉八雲さんの命日です。
教科書などでは「本名はラフカディオ・ハーン」と紹介していましたが、「小泉八雲」も日本国籍を取得した時に登録した本名なのです(ペンネームではありません)。
むしろ「ラフカディオ」と言うのは出身地のエーゲ海に浮かぶレフカダ島から採ったセカンドネームで、フルネームは「パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick・Lafcadio・Hearn)」です。ちなみに本人は姓の「ハーン」を「ヘルン」と呼ばれるのを好んだようです。
「八雲」と言う名前は、暮らしていた島根県の国名「出雲」の(古事記・万葉集にもある)枕詞「八雲立つ」から採ったと言われ、明治期の外国人とは思えない深い日本への理解ですが、本人は輪廻転生を信じていて「前世は日本人だった」と言っていたそうです。
父はアイルランド出身のイギリスの軍医で当時はイギリス領だったレフカダ島に赴任している時、現地の名士であったギリシャ人の娘と結婚し、小泉さんが生れました。
生まれて間もなくアイルランドへ戻りますが、4歳の時に母が精神を病んでギリシャに帰国したため父方の親族に預けられました。アイルランドはイギリス国教会に帰属することを嫌い分離・独立した宗教意識が強い国のため、小泉さんも厳格なカトリック教徒としての生活・教育を強いられ、キリスト教嫌いになったようです。
やがて父が病没し、親族も破産したため19歳の小泉さんは移民船でアメリカへ渡り、新聞記者になり次第に有名になっていきました。24歳の頃、当時は違法だったアフリカ系の女性と結婚しますが3年後に離婚しています。
明治23(1890)年に出版社の特派員として来日しますが、間もなく契約を破棄して英語教員となり、翌年には赴任先の松江で出雲大社国造(=宮司)の血を引く日本人女性と結婚しました。
著書「怪談」は小学校の図書室で借りて読んだものの(あの頃は心霊ブームだった)、夏休みで祖父の寺に泊っている時、「耳なし芳一」を思い出して夜中に便所へ行けず、縁側で放尿して怒られたことがありました。その地元に住むことになるとは・・・。
「雪女」には青森県の車力で勤務していた時、厳寒の雪道を徒歩通勤していて、残業で遅くなった夜に会いました。つむじ風が白い着物と長い髪の女性に代わり、手招きしているのです。稲森いずみさんか加藤あいさん風の美女だったので、抱き締めて口づけしようと思ったのですが、うっかり念佛を唱えたため消えてしまいました。
「むじな(ノッペラボウ)」や「ろくろ首」は三遊円朝が落語の題材にしていますが、小泉さんの方にはオチがありません(円朝の「ろくろ首」では家出して婿入りした与太郎が、初夜に嫁の首が伸びるのを見て仲人の家へ逃げ帰り、「母の家へ帰る」と言うと「お母さんも首を長くしているだろう」と言われるのがオチです)。
野僧は重病になった許嫁が「すぐに生まれ代わるから15年後に結婚してくれ」と言い遺して死ぬ「お貞さんの話」が一番好きです。お貞さんのように亡き嫁が今世で生まれ変わって再会できることを待ち望んでいます。再会は野僧が死ぬ方が手取り早そうですが。
- 2014/09/25(木) 09:14:10|
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昭和23(1948)年の明日9月25日に堀内豊秋海軍大佐が刑死されました。
前世が海軍陸戦隊士官である野僧は今回の人生で海軍陸戦隊の研究をライフワークにしてきましたが、多くの偉大な先達の中でも独特の個性を持つ堀内大佐を最も尊敬しています(現役時代には真似をして口と顎に髭を生やしていました)。
堀内大佐と言えば現在も海上自衛隊体操として継承されている海軍体操の考案者として有名ですが、これは空・陸自衛隊が採用している自衛隊体操や一般的なラジオ体操と比べて動きに絶妙の緩急があり、呼吸との整合も取れている極めて近代的なものです。ただ考案したのは昭和に入ってからなのでNHKの「坂の上の雲」で秋山真之さんが日本海海戦の前に甲板で下士官・水兵たちと一緒にやっていたのは史実に合いません。
ちなみに野僧は警備小隊長の時、交通統制の動作を演練する「交通統制体操」を考案しましたが定着させる前に転属になってしまいました。
また太平洋戦争開戦直後の昭和17年1月11日にオランダ軍が守備するセレベス島北部のメナドへ日本初の空挺作戦を指揮した元祖「空の神兵」でもあります。続いてティモール島へも空挺降下していますが、大本営発表は2月14日になって実施された陸軍によるスマトラ島パレンバンへの空挺作戦と同時発表になり、日本国内では戦果が大きかったこちらの方が有名になったようです。
ただセレベス島北部には「危機には北の空から白い翼の生えた勇士たちが舞い降りて救ってくれる」と言うジョボジョボ伝説があり、白い落下傘で降下した海軍陸戦隊は伝説の英雄そのものになり大変な人気でした。
堀内大佐は日華事変の時、厦門方面特別根拠地隊に勤務していて、拳銃どころか軍刀も下げずに街中を歩き回って親しく市民と交際し、生活困窮者には軍の食料を分け与えるなどしたため絶大な人望を得て、転属が知られると村長以下の連名で職務継続の嘆願書が提出されたほどでした。結局、嘆願は叶わなかったのですが堀内大佐の功績を称える記念碑が建立されたそうです。
堀内大佐は占領した南方地域でも現地の民族衣装を身にまとい、気軽に集落へ出向いて祭りなどに参加したそうですから、そう言うキャラクターなのでしょう。
ただ、学徒動員された予備学生の教官になった時、「食欲や性欲を強く抑制せよ」と説いていたそうですから占領地でこれらの問題に直面していたのかも知れません。
堀内大佐はオランダから「残虐行為=公衆の面前でオランダ軍人を侮辱した」の罪で訴追され、始めから判決ありきの軍法会議を経て銃殺刑に処せられました。この時、占領地で部下たちが犯した罪の責任を取ることを自ら認め、目隠しを断って静かに銃弾を身に受けられたと言われます。
オランダは戦争初期に惨めに敗走したことを強く恨み(女王も来日や天皇の訪問時のパーティの席で恨み節をスピーチしている)、英・米以上の執念を以て日本の軍人たちを戦犯に仕立てて上げましたから、開戦劈頭に自分たちがやれない空挺作戦を指揮して打ち破った堀内大佐はそれだけで死刑に値する重罪だったのでしょう。
- 2014/09/24(水) 09:08:44|
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平成12(2000)年の明日9月22日は「大空のサムライ」の著者でゼロ戦の撃墜王・坂井三郎さんの命日です。84歳の長命でした。
野僧は小学校の図書室にあった「大空のサムライ」を同級生たちと回し読みして、幼い頃に見た「ゼロ戦はやと」の記憶と重ねながら競い合って研究したことで、戦史研究をライフワークにする素地が作られたのです(吉田満さんの「戦艦大和の最期」も同様です)。
その後、航空自衛隊に入隊し、航空機整備員として第83航空隊に配属されると坂井さんを尊敬しているパイロット(愛機のFー104Jをゼロ戦塗装にした)がいて、野僧も「大空のサムライ」の読者だと知ると更に体験談を加えた知識を与えてくれました。
坂井さんは大正5(1916)年8月26日に現在の佐賀市西与賀町の農家の三男の次男として生まれ、父親が小学校6年の時に病没したため東京在住の伯父に引き取られますが、成績劣等、素行不良のため青山学院中等部を退学し、実家で農業を手伝うようになりました。
その頃から早い乗り物が好きで、「競馬の騎手になろう」と思ったものの本家に反対されてしまいました。ある日、地元出身の海軍パイロットの展示飛行を畑で見上げ、「海軍飛行少年兵」を志願しましたが試験に失敗し、「海軍に入っていればヒョッとして飛行機に触ることができるかも知れない」と佐世保海兵団に入営して水兵になります。
戦艦・榛名に配属されていた時、艦載水上機を射出するのを見てパイロットへの夢が甦り、猛勉強の末、年齢制限ギリギリで操縦練習生に合格します。
しかし、霞ヶ浦航空隊に入隊したものの操縦が下手で、単独飛行を許されたのは卒業直前、射撃も駄目でしたが学科だけは優秀だったので、希望通り艦上戦闘機要員になれたのです。
昭和13(1938)年10月5日に大陸で初陣を飾り、96式艦上戦闘機で蒋介石軍のポリカルポフI―16戦闘機(ソ連製)を撃墜し、撃墜王へ踏み出します。
昭和15年に内地へ帰還し、制式化されたばかりの零式艦上戦闘機に乗り換え、大陸戦線や陸軍の北部仏印進出の支援、さらにソ連から援蒋ルートの遮断など各地で空中戦を繰り広げ、撃墜記録を積み上げて勇名を馳せるようになっていきました。
そしてラボール(ラバウル)へ赴き、アメリカ海軍機との死闘に明け暮れますが、昭和17(1942)年8月7日に戦闘機の編隊と誤認して接近したSBDドーントレス艦上爆撃機の後部銃座から機銃弾を右側頭部に受け、脳神経の傷害で左腕が麻痺、大量出血で意識を失いかけながらも何とか帰還して内地に戻り、横須賀軍病院に入院します。結局、右目をほぼ失明し、左目も視力が低下したため戦闘機パイロットには復帰できず、教官として後輩の育成に当たりました。やがて米軍がサイパン島に上陸すると硫黄島に配属され、戦闘機パイロットに復帰しました。来襲する米艦隊の艦載機相手の空中戦では多勢に無勢で苦戦を強いられたようですが、坂井さんは孤軍奮闘だったと強弁しています。
著書「大空のサムライ」は坂井さんがゴーストライターに語った自慢話を編集サイドが手を加えた武勇伝仕立てになっており、辻褄が合わず戦術上あり得ない虚構、史実にない盲言、さらに個人の好みの依怙贔屓も多く、読み物としては面白いものの戦史の資料としては歴戦パイロットの体験談程度の認識に留めておいた方が良いでしょう。
特に「自分こそが海軍航空隊を代表する撃墜王だ」と言う自画自賛については「蒋介石軍や米軍がまだ弱体だった戦争初期の戦果で、本当に意味の激戦は体験していない」との批判は海軍航空隊関係者に根強く、坂井さんは持ち前の偏屈で自己顕示欲旺盛な気性から身内である海軍への批判も始めたため完全に孤立して、人生を踏み誤り続けてしまいました。

手前がゼロ戦塗装のFー104J
- 2014/09/21(日) 08:33:12|
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天正7(1579)年の明日9月15日(太陰暦)に東照権現・徳川家康公の嫡男・信康さまが自刃されました。
信康さまは家康公が松平元康と名乗っていた頃に結婚した今川家の重臣・瀬名義広の娘(義元の姪、後の築山殿)との間に永禄2(1559)年に生れました。
生まれて間もなく父・元康さまが駿府から岡崎に戻ったため、母と共に同行し、将来の城主・三河武士団の頭領として育成されることになりました。
永禄3(1560)年に桶狭間で今川義元が討たれると父・元康さまは暗愚な新当主・今川氏真を見限り、永禄5(1562)年に織田信長との間で清州同盟を結びます。
家康公は幼い頃、今川家に人質として送られる途中、田原の戸田氏の裏切りで尾張に送られ、そこで信長さんとも交流があったと言われますから、個人としては旧交を温めたのかも知れませんが、妻・築山殿は今川家の人質だった年下の夫を侮り、さらに実父が責任を負わさせられて自刃したことで夫婦中は急速に悪化したようです。
9歳の時、同じ歳(現在なら1学年下)の信長さんの娘・五徳ちゃんと結婚し、岡崎城で幼い新婚生活を始めますが、その年に父・家康公が浜松城に移ったため岡崎城主となり、異例に早く元服をして、義父と父から1字ずつを与えられ「信康」と名乗りました。
信康さまは天正元(1573)年に初陣を飾り、天正3(1575)年の長篠の合戦には侍大将として参陣し、その後も卓越した指揮能力や情勢判断、さらに家臣の掌握力を発揮して戦国最強と謳われた武田軍団相手の合戦で幾多の武功を挙げ、父や三河武士団の期待を一身に集めたのですが、留守を預かる五徳ちゃんと家康公が岡崎城に残した姑・築山殿との間が険悪になり、12カ条の苦情を父・信長さんに訴えたことで運命は暗転します。
突然、信長さんから家康公に「信康は正室である五徳をないがしろにして女色にふけっている」「築山殿は武田と内通している」との嫌疑を記した書状が届き、信康さまは岡崎城から三河の大浜城、遠江の堀江城を経て現在の天竜市にあった二俣城へ移されました。
この時、徳川家中では「織田との同盟関係を破棄してでも嫡子を守るべきだ」との声が上がり、身代わりを申し出る老臣もいましたが、使者として信長さんから糾問を受けた酒井忠次が事実と認めてしまったことで家康公は弁明の余地がないことを覚り、非情な要求を呑んで我が子に自刃を命じたのです。信康さまわずか20歳(満年齢)でした。
信長公からの嫌疑のうち「女色にふけっている」と言うのは五徳ちゃんとの間には女子2人であったため跡取りを心配した母・築山殿が複数の側室をあてがったことを指し、「築山殿の内通」については「家康公の留守に引き入れた愛人(医者とも按摩とも言われる)が武田の密偵だった」との三面ネタが地元には残っています。築山殿は浜松へ送られる途中、浜名湖畔で命を受けた家臣に殺され、その後、家康公は秀吉に妹・旭を押しつけられるまで正室を持ちませんでした。
信康さまには異母弟・結城秀康くんが遠ざけられていることを不憫に思い岡崎城で対面させ、席を立とうとする家康公の着物の裾を押さえつけて秀康くんを膝に乗せた人情譚や供1人を連れて武田勝頼の本陣近くまで物見に出て父に「今が決戦の時」と訴えた武勇伝、さらに関ヶ原の合戦は信康さまの命日にあたり、家康公が遅参した秀忠さまに「倅(=信康さま)がいればこんな思いをせずにすんだ」と嘆いたと言う逸話が残っています。三河武士にとっては「森山崩れ(12月5日に述べる予定)」と並ぶ痛恨事でした。
- 2014/09/14(日) 00:01:49|
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8月28日に「米国史上最悪」と言われたスパイ事件の主犯・ジョン・アンソニー・ウォーカー(囚人番号・22449ー037)が終身刑で服役中の刑務所内の病院で死にました。77歳でした。
この事件が発覚した1985年、野僧は沖縄で勤務していたためアメリカ空軍の友人たちから詳しく話を聞いたのですが、ウォーカーは海軍の准尉であったため、まだ空軍にはそれ程の影響はないようで、強いて言えば酒のジョニー・ウォーカーを飲む時、妙な奇声を上げていました(アメリカ人はあまりスコッチを飲まないので自衛官のボトル)。
普通、スパイ事件と言うと敵側から狙いをつけられた人間が多額の報酬や秘密の暴露などの脅迫と引き換えに祖国を売る罪悪感に苦しみながら情報を提供するイメージがありますが、ウォーカーは全く違い東西冷戦が激しかった1967年に自分からワシントンのソ連大使館へ出向き、通信員として知り得る情報を売ることを持ち掛けたのです。
そもそもウォーカーが海軍に入ったのは強盗で逮捕された時、刑務所に入るか軍隊に入るかの選択を求められたためで、そのような人間を国家的な秘密に触れられる職務につけたアメリカ海軍の人事制度にこそ問題がありました(自衛隊もバブル最盛期には保護観察逃れで入隊してくる者がいましたが除外する職種は堅持されていました)。
ジョン・ウォーカーの異常性は動機だけでなく肉親を含む周囲を勧誘して情報源=スパイにしていたことです。
先ずは海軍で知り合って結婚した妻、続いて通信学校の教官だった時に目をつけた教え子を協力者にしています。さらに自分が海軍を退役し私立探偵になった後も、海軍少佐であった実兄や海軍に入れた1人息子までも巻き込んでスパイ活動を継続しているのです。
ウォーカーがソ連に提供した情報は通信員だけに暗号に関するもので、1987年1月にアメリカ海軍の環境調査船・プエプロが北朝鮮に拿捕された事件も、情報提供が始まった1ヶ月後と言う時期を考えると暗号を解読したソ連軍が情報収集船である実像を把握し、北朝鮮に拿捕させたと言う見方が有力です。その後もウォーカーが提供した暗号情報による解読に気づかずに交信し続けていたアメリカ海軍の秘密はソ連側に筒抜けになり、ソ連海軍の急速な近代化に多大の貢献をした(?)と言われています。
事件の発覚は離婚した最初の協力者であった妻のFBIへの通報で、ウォーカーが生活費の支払いを拒否したことが動機だと言われています。
各スパイの刑罰については、ウォーカー自身は情報の完全な提供を条件に終身刑、元妻は告発者としての功績で不起訴処分、通信学校の教え子はウォーカーが息子を庇うため不利な証言を行い懲役365年となり仮出所が可能になるのは2048年で彼は111歳です。実兄は終身刑、息子は懲役25年で2011年に仮出所しています。
ちなみにウォーカーが仮釈放の手続きをとることが可能になるのは服役して30年が経過する来年2015年5月のことでした。
特定秘密保護法の必要性を痛感させる事件の当事者の死が絶妙のタイミングになりました。

ウォーカーはKGB(カーゲーベー)ではありませんでした。
- 2014/09/03(水) 09:04:51|
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正三和尚の禅風を佛教研究者たちは「二王禅」若しくは「勇猛禅」と呼んでいます。
野僧は師事した浄土宗の管長猊下から「念佛とは今の心を御佛に向けることだ」の一句を受けて往生しましたが、正三和尚も禅僧でありながら熱心に念佛を勧めています。
正三和尚は法然上人が土佐に流されるに当たって弟子たちに説いた「たとえ死罪になろうともこのことを語らずにはおかない。今、首を打たれる気持ちで念佛せよ」と言う教えを「見事」と絶賛しています。しかし、正三和尚の念佛は浄土門が説くような穏やかで、易しいものではありません。
正三和尚は「南無阿弥陀佛」とは「放下著のことだ」と説いていますが、放下著とは「捨ててしまえ」の意味、それも「思い切り放り投げよ」と言うことです。
さらに正三和尚の念佛は門徒さんが口の中で呟くように唱える念佛とは異なり、下腹に力を入れて、声を限りに叫ぶもので、「『なまんだぶ』の声と共に、心の迷いを口から吐き捨て、人生と言う御縁を与えて下さった阿弥陀様に、この生命を御返しせよ」=「阿弥陀如来になり切れ」と言うものです。
確かに我慢ばかりしないで、どこか1人になれるところへ行き、大声で不満を叫べばスッキリします。内容を聞かれては拙いような場合には、「なまんだぶ」と絶叫すればストレス解消になり、スッキリしたところで御佛と目が合えば、信心が芽生えるかも知れません。
野僧が語ると何だか鈴木正三和尚の尊い念佛禅も、単なるストレス解消法になってしまいますが、禅僧がしたり顔で説いているような「坐禅で一切を両断し、自己を解放せよ」と言う形而論よりも、相手を決めて手渡す=目標を定めて投げる方がイメージとして具体的で容易でしょう。
さらに正三和尚は口で唱える念佛のほかにも身体でする念佛を勧めています。
身体でする念佛と言うのは、「佛の機を受ける」つもりで佛像の姿を真似ることで、初心者には静かに坐っている如来様よりも、力強い二王や不動明王の姿を真似るように説いています。
二王は金剛力士とも呼ばれ、お寺の山門、つまり入り口に立ち、佛教を護持し、その入門者を監視する役目を負っておられます。
不動明王は真言宗の十三佛の中では最初におられ、迷いを断ち、穢れを除く働きがあると言うことで、人が死ぬと最初にお世話になる方だとされています。
正三和尚は信者の前に立っては全身に力を込め、阿吽の表情で二王の姿勢を真似して見せては、「どうだ、この二王の機が移らんか」と迫ったそうです。
ちなみに二王の姿勢は古代インドの武術にある守りの形で、日本の少林寺拳法にも取り入れられています。
ある女性信者は、女だてらにそれを真似て人前で二王の姿をして見せるので、周囲に「気がふれたのでは」と噂されたそうですが、何かをやろうと気持ちを奮い立たせる時には、とても良いかも知れません。ただし、血圧が高い方は気をつけないと、脳の血管が切れる懼れもあります。
心が迷ってしまった時、心が迷っている人に会う時には、無理に御佛のような顔をして冷静さを装うよりも、不動明王のように岩の上に腰を下ろし、背中から炎を燃え立たすくらいの強い気持ちで憤怒の顔をしてみては如何でしょう。
野僧は現代の日本人の精神が荒廃してしまった原因の1つは、真剣に怒ることを止めてしまったことだと考えています。
人が「怒る」ことは多くの場合、相手の過ちを正し、迷いを断つことであり、自分自身の迷いを断つためでもあるのです(中には不安を隠すために殊更に大声を上げる小心者もありますが)。
野僧の幹部自衛官としての後半の勤務は、まさに「念佛による救いの証明に費やされていた」と言えるかも知れません。「人の心が善に向かっているのなら、それは全て正しい」と言う確信の上、隊員の行為が善意に依るならば、それが例え野僧の意図に背くことであっても、微笑を以て励まし、慈しんできました。
しかし、それが不誠実による行為に陥ったならば、それこそ世間の常識をかな繰り捨てて怒りました。野僧の怒りに触れた者は「マジに殺されるかと思った」と言っていましたから、その情景を想像して下さい。
この相手を思うが故に発する真剣な怒りこそが、不誠実と言う過ち、自己弁護と言う迷いを断つ不動明王の機を用いることなのでしょう。
現代社会では誰もが波風を立てることを避けようと、正すべき過ちを叱責することすら控えていますが、これでは人は迷いから救われることがなく、過ちに気づくこともなく、いつしか道を踏み外すことになってしまいます。
ところで佛の姿と言えば、野僧が掛塔した福井県小浜の發心寺僧堂の堂長・原田雪渓老師は曹洞宗では数少ない印可に至られた活佛ですが、大衆に法を説かれる時、必ず右手の先を床につける姿勢をされました。
これは阿閦(あしゅく)如来の姿で、阿閦如来は佛法を大地に植える働きを負っておられる佛でありますから、活佛もそれに倣われたのかも知れません。
ちなみに阿弥陀如来は阿弥陀定印(あみだじょういん)と言って、両手の親指ともう1本の指で輪を作っておられます。
これは阿弥陀如来にとって人を救うことなどは、「弾指(ビシッと指を弾くこと)」の間にできるくらい容易であることを示しておられるのだそうです。
余談ながらその指の組み合わせは、上品生の人(戒律を保ち、佛道を修行している人)は親指と人差し指、中品生の人(普通の人)は親指と中指、下品生の人(罪人)は親指と薬指になっているそうです。
この「佛・菩薩・諸天の機を受ける」と言う正三和尚の法は、皆さんにも実践していただけるかも知れません。
例えば職人さんならば、「自分が千手観音に代わって卓越した技を用いて世を救うぞ」と誓いを立てて、その手を2本(両手)お借りすることを念じながら仕事をしてみては如何でしょう。妙法蓮華経観世音菩薩普門品には「念彼観音力」の言葉が繰り返し出てきますから、苦しい時には観世音菩薩が力を貸して下さることでしょう。
農家ならば大地から現れ出でて、土と一体になってその恵みを収穫するお地蔵さまです。鍬や鋤を杖にして、田畑に静かに立ってみましょう。そうすれば天地の導き、作物の声が聞こえるかも知れません。
商家ならお客のニーズを知るために十一面観音は如何でしょう。商売を繁盛させるには、「これしかない。買いたきゃ買え」の上から目線では上手くいきません。お客さんが求める品物を仕入れ、店頭に並べてこその商売繁盛です。
ついでに11も顔があれば、お客さんによって使い分けることもできるでしょう。
運送業なら馬頭観音です。馬が荷物を運んでいた時代、長い峠などの難所には馬を守る馬頭観音が祀られていました。馬がトラックに代わっても、道中の無事安全を祈る気持ちに変わりはないはずですから。
ただ、馬頭観音は頭が馬であったり、馬の形の冠を被ったりしているため、姿を真似るのは難しいかも知れません(今なら珍妙な被り物がありますが・・・)。
続いて医療、薬事関係なら真打ち登場の薬師瑠璃光如来です。この如来は奈良時代、疫病・飢餓に苦しむ衆生を救う功徳があるため大流行し、古い由緒あるお寺では薬師瑠璃光如来が御本尊と言うことが意外にあります。
薬師瑠璃光如来は手に薬瓶をのせておられるのが特徴ですが、侍者は日光、月光(がっこう)菩薩であったり、十二神将だったります(十二支をシンボライズしている場合が多い)。姿を真似るのに侍者まで気にされるなら研究してみて下さい。
余談ながら奈良の薬師寺は日光・月光菩薩、同じく新薬師寺は十二神将です。
教育関係なら文殊師利菩薩です。東南アジアや南アジアの佛教国では男女を問わず、ペットまで「マンジュウ」と言う名前の人や動物に会いますが、これも文殊師利菩薩の智恵にあやかろうと言う命名です。
また文殊師利菩薩はこの名前で実在したとの学説があるのですが、「維摩経」と言う経典では主人公の維摩居士と問答し、負けていますから、ヒョッとしてこれは実話だったのでしょう。
文殊師利菩薩は獅子に乗り、宝冠を被り、右手に剣を立て、左手に経典の巻物を持っている姿が一般的ですが、時代、地域によっては剣が花になったりします。
最近、禅宗に納品している佛具店が「僧形文殊菩薩」と言う坐禅をする僧侶の姿の文殊菩薩像を売り出して、坐禅堂などに置いている寺院もありますが、菩薩像は悟りに至っていない=俗世の衆生と共にあることを表すため宝冠を被っているのが決まりなので(大日如来も同様)、あまりお勧めできません。
やはり迷い・誤りを断つ剣と真理の教えである経典のセットが教育者には必要ではないでしょうか。
最後に自衛隊、警察、消防、海上保安庁ですが、これは不動明王、金剛力士に限らず、諸天、明王は佛法護持の誓いを立てた正義の味方ですから、どなたでもよろしいのではないでしょうか。ただし、危険なので取扱注意です。
楠木正成は摩利支天、上杉謙信は毘沙門天、独眼竜政宗は不動明王と武将が崇敬した諸天、明王は数多いですから、自分の勤務環境に合う方を探してみるのも一興です。
航空自衛隊なら空を飛ぶところで孔雀明王=ガルーダは如何でしょう。
ちなみに正三和尚は「南無大強精進勇猛佛」と言う佛名の揮毫を遺しています。
名前を見れば、どんな御佛樣かは一目瞭然ですが、全国各地、スリランカ、韓国でも探したのですが、本尊様が大強精進勇猛佛と言う寺院は見つからず、そのお姿は判らないままです。
南無大強精進勇猛佛
本格的に念ずる方のための真言(呪)集
登場順に
二王(金剛力士)
阿形=なまさまんだ・ばさらなん・とらだりせい・まかろしゃな・きゃなやさるばだたあぎゃたねん・くろそわか
吽形=なまさまんだ・ばさらなん・けいあびもきゃ・まかはらせんだきゃなや・きんじらや・さまや・さまや・まなさんまら・そわか
不動明王=なうまく・さんまんだ・ばざらだん・せんだ・まかしゃだ・そはたや・うんたら・たかんまん
阿閦如来=をん・あきしゅびや・うん
阿弥陀如来・をん・あみりた・ていせい・からうん
千手観音=をん・ばざら・だるまきりきり
延命能化地蔵願応尊=をん・かかか・びさんまえい・そわか)
十一面観音=をん・まかきゃろにきゃ・そわか
馬頭観音=をん・あみりとう・どばんば・うんばった
薬師瑠璃光如来=をん・ころころ・せんだり・まとうぎ・そわか
文殊師利菩薩=をん・あらはしゃ・のう
摩利支天=をん・まりしえい・そわか
毘沙門天=なうまく・さまんだぼだなん・べいしらまんだや・そわか
孔雀明王=をん・まゆ・ら・きらんでい・そわか
鈴木正三の揮毫・意外に優しい書体です(小庵の大強精進勇猛佛)。

- 2014/09/01(月) 09:27:21|
- 月刊「宗教」講座
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