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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月28日・従軍カメラマン・沢田教一の命日

昭和45(1970)年の明日10月28日は日本を代表する戦場カメラマン・沢田教一さんが散った日です。
沢田さんの戦場での写真には銃を構えている兵士を前から撮影したモノがありますが、これでは兵士よりも敵に近い位置から銃弾が飛んでくる方向に背中を向けてカメラを構えていることになり、然も撮影対象からも銃撃を受けているはずです。
また1人の兵士を追った作品では、走って伏せて、匍匐して銃を構えての繰り返しを比較的高い位置から撮影していて(伏せている兵士の背中が写っている)、兵士が危険を感じて伏せるような状況でも姿勢を変えていないのです。
素人は銃弾の威力を知らないと思いますが、弾自体は直径7・62ミリ(ベトナム側のAKー47小銃)でも弾丸の周囲には熱い空気の塊が付随し、当に火の玉が飛んで来るような威力があります。その火の玉が何発も間近を通過していく中でシャッターチャンスを見つけ、当時は自動焦点補正ではありませんから冷静にピントを合わせて撮影していたのです。
沢田さんは1936年2月22日青森市の生まれで、県下の名門校・青森高校の出身ですが、歌人で劇作家の寺山修司さんと同級生だったそうです。早稲田大学を目指したものの2回受験に失敗して帰郷、三沢基地前にある小島写真店にアルバイトとして就職したことで運命が変わりました。
小島写真店は米軍の三沢基地内にも出店していて、店員として基地に出入りするようになり、店主の写真家・小島一郎さんの指導を受けながらカメラの腕を磨き、戦場写真家・ロバート・キャパやスナップ写真の大家・アンリ・カルティエ=ブレッソンに憧れるようになったようです。
20歳で写真店の先輩で11歳年上のサタさんと結婚しますが、25歳の時に単身上京し、UPIに職を得ました。ベトナム戦争が拡大した1965年2月1日から1か月間の長期休暇で現地に入り、自費で取材を開始するとUPIサイゴン支局は滞在延長を要請し、さらに1か月取材を継続しました。4月3日に帰国して成果を報告するとサイゴン支局からの要請もあり、7月13日には正式にカメラマンとしてサイゴン支局へ転勤したのです。
その後は前述のような活躍を重ね、銃弾を避けながら川を渡る母子を撮影した「安全への逃避」でハーグ世界報道写真大賞とニュース部門第1位、アメリカ海外記者クラブ賞第1位を授与されました。以降も米軍の装甲車がゲリラの遺体を引きずっている「泥まみれの死」やアメリカ兵2人が両側から負傷した女性ゲリラを連行している「敵を連れて」などの作品を発表し、日本人としては2人目のピューリッツァー賞報道写真部門を受賞しました。
1968年9月になってUPI香港支局の写真部長になりますが、やはり戦場から遠く離れた場所での勤務に馴染めず、1970年1月15日にサイゴン支局に戻って今度はカンボジアのクメール・ルージュの取材に入り、この日、プノンペンの国道2号線で頭部に銃弾を受け死亡しました。愛用のカメラ=ライカは何者かに持ち去られたそうです。
沢田さんはニコンでは戦場の過酷な環境に耐えられず、故障でシャッターチャンスを逃したことがあったため三沢で購入して以来、一貫してライカを愛用していたそうです。
  1. 2014/10/27(月) 09:12:45|
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10月26日・明石元次郎大将の命日

1919(大正8)年の明日10月26日は日露戦争勝利の影の立役者・明石元次郎大将の命日です。
野僧が明石大将を知ったのは幼い頃に見た映画「日本海大海戦」でした。仲代達矢さんが演じていたロシア駐在武官・明石大佐(当時)は長身の理知的な美男子のイメージでしたが、実際は背が低く運動音痴で、13歳年上ながら同郷の栗野慎一郎駐露公使から能力に疑問を持たれるようなさえない容貌だったようです。
明石大将は年末には対岸の長州で高杉晋作が功山寺決起した元治元(1864)年8月1日に福岡藩士の次男として生まれました。藩校・修猷館から陸軍士官学校に入校し、陸軍士官として歩み始めます。陸軍大学校を卒業するとドイツへ留学し、その後も海外勤務が続きました。
明治34年にフランス駐在武官となり、翌年には緊張の度を強めていたロシアへ転任します。ここで日英同盟に基づく協力者としてイギリスのスパイ・シドニー・ライリーを友人にしました。ライリーは明石大佐の要請で建設材の貿易商に化けて旅順に潜入し、ロシア軍の配備状況や旅順要塞の設計図などの重要情報を提供しています。
明治37年に日露が開戦すると公使館員は国外退去となりますが、明石大佐はスウェーデンを拠点としてロシア情報の収集と同時に革命を画策していたレーニン、トロッキーなどを支援しました。この工作資金は膨大な戦費に国家財政が破たん寸前だったにも関わらず、現在の400億円以上に相当する額だったと言われています。
しかし、ソ連=ロシアとしては日本の力で革命が成功したことにはできないため、明石大佐とレーニンの関係には否定的で、日本との戦争でロシアも巨額の戦費を遣ったため税金が過重になり、帝政下の劣悪な境遇に対する庶民・農奴の我慢が限界に達した結果であったとしています。その方がソ連に苦しめられた世界の国々に顔向けできますから、あえて否定する必要はないでしょう。
明石大将はある意味、自分も成立に協力した社会主義国・ソ連について「長くは続かんだろう」と言っていたそうですが、崩壊までに80年を要しましたから情報戦の大家としては見込み違いだったようです。
フランス駐在武官だった時、パーティー会場でドイツとロシアの武官と同席し、「君はドイツ語ができるか」と訊かれたので「フランス語がやっとです」と答えると、「黄色い猿(日本人)ならその程度だろう」と信じた2人はドイツ語で密談を始め、本当はドイツ語も堪能だった明石大佐は全て聞き取ってしまったそうです。野僧も現役時代、この手をよく使い、「英語が苦手」と言って米兵同士の会話を聞いたり、沖縄方言や東北弁が判らない顔をして地元の人たちの噂話に耳をすませたものです。
日露戦争後は朝鮮総督府の憲兵司令官や第6師団長を経て台湾総督に就任し、近代化に向けて多くの業績を遺しましたが、公務出張で帰国する船の中でスペイン風邪を発症して亡くなりました。遺言により台湾に埋葬されています。
  1. 2014/10/25(土) 09:23:52|
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10月23日・アイヌの英雄・シャクシャインが謀殺された。

寛文9(1669)年の10月23日(太陰暦)にアイヌの大蜂起を指導した英雄・シャクシャインが松前藩によって謀殺されました。  
松前藩主は鎌倉時代から東北地方北部を治めていた南部氏と同族の武田源氏で、津軽地方を治めていた安東氏を征討するように命を受けて赴いたものの逆に手を結び、一緒に津軽海峡を渡って蝦夷地へ逃れたのです。その後、安東氏は津軽に戻り滅ぼされますが、武田氏は蝦夷地で勢力を拡大していきます。しかし、それはアメリカ大陸でヨーロッパ人がネーティブ・アメリカンに行ったのと同様の迫害と搾取の歴史でした。
当時、アイヌには鉄器を作る技術がなく、狩猟用の武器は原始的な石器のレベルで、さらに広大な土地で平和に暮らしていたため組織戦闘の経験も無きに等しく、戦いに慣れたシャモ(和人)にかかっては為すすべもなく服従させられていくしかありませんでした。
その圧政に耐えかねて応仁の乱の10年前には函館付近の大酋長・コシャマインが蜂起しますが、圧倒的な数と地の利、そして狩猟用に入手していた鉄器を使い、勝利を掴みながらも「敵を滅ぼす」と言う発想を持たないアイヌは武田氏の策略にはまり、クシャマインは謀殺されたのです(松前藩の記録では当主・信広と一騎討ちの末、斬られたことになっている)。
それからも松前藩の圧政は続きますが、米の味や漆器、鉄器などの便利さを覚えてしまったアイヌたちは松前藩が独占する内地との交易に特産品を供給する役割を担うことになって行きました。
そんな中、米は取れないが1万石並みと言う特例の大名になっていた松前藩は悪化していた財政の立て直しのため搾取を強め、アイヌも交易のために生きる上での必要量以上の収穫が必要になったことから部族間の狩猟権・漁業権を巡る争いが頻発していたのです。
松前藩はこれに直接介入することは避けていましたが抗争の激化を懸念し、反松前藩の惣大将(酋長)を誅殺して沈静化を図りましたが、かえってアイヌのシャモへの敵愾心に火を点け、日高地方の惣大将であったシャクシャインを旗頭に蝦夷地内の各所で武装蜂起が起こったのです。
この事態に松前藩は幕府に援軍を要請し、津軽藩、南部藩、久保田藩が出兵を命ぜられますが、圧倒的な数を誇るアイヌも弓矢と鉄砲では次第に劣勢へと追い込まれ、松前藩も幕軍の圧倒的な武力を背景に各部族の切り崩しを進め、戦闘の長期化を嫌う松前藩からの呼びかけでシャクシャインとの間に和睦が成立しました。ところがヒポク(新冠町)の松前藩陣所での宴席に招かれて、そこで騙し討ちに遭ったのです。
これ以降、松前藩は交易相手の商人にアイヌに対する生殺与奪権を譲ったため、迫害、搾取は苛烈の度を極め、この悲劇は田沼時代に幕府が蝦夷地開拓に乗り出し、現地調査を行うまで放置されました。蝦夷地を北海道と命名した探検家・松浦武四郎の「知床日誌」には「女性は16、7歳になると国後へ送られ、内地からの漁民などの性交渉の相手をさせられ、男性は奴隷のように酷使されている」と記されています(あくまでも吉田雄兎=清治の「私の戦争犯罪」ではありません)。
  1. 2014/10/23(木) 09:46:12|
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10月18日・本多平八郎忠勝さまの命日

慶長15(1610)年の明日10月18日(太陰暦)は東照神君・家康公を天下人に押し上げた三河武士の中でも最強を謳われた本多平八郎忠勝さまの命日です。
三河武士の気風が脈々と受け継がれている愛知県岡崎市で育った野僧は、「平八郎」と言われると「東郷」ではなく「本多忠勝」と思ってしまいますが、子供のチャンバラごっこでも希望者が多く、やはり1番強い子がやっていたのは名前が持つパワーかも知れません。
愛知県豊川市(旧宝飯郡小坂井町)が本多家の発祥の地とされており、徳川家の家紋とされている「丸に三つ葉葵」は元来、本多家の「丸に立ち葵」を借りたものですが、水面に葵の葉が映っているのを見て家紋を考案したと言われる池も現存します。
忠勝さまは生まれて間もなく父の平八郎忠高さまが討ち死にしたため、叔父・忠真さまの下で育ちますが、幼い頃から松平元康さま(後の家康公)に仕え、12歳で元服して、そのまま桶狭間の合戦の前哨戦であった大高城への兵糧入れで初陣を飾っています。
桶狭間で今川義元が討たれると元康さまは織田信長と同盟を結び、三河の平定、さらに東進を図って今川氏真との戦いに移行しますが、15歳の時の合戦で育ての親の叔父・忠真さまが討った敵の兜首を譲って手柄にしようとすると「人の力を借りなくても自分でやれる」と断り、敵陣に突入して初首を上げたので周囲は感嘆したと言います。
25歳の時の三河一向一揆では門徒から浄土宗に宗旨替えして家康公側で戦いました。
姉川の合戦では優勢な朝倉義景・浅井長政軍を前にこう着状態に入っていた中、単騎で突入を敢行し、それに続いた三河衆の活躍により織田軍が勝利をおさめ、家康公と三河武士の名を世に知ら示すことができました。
その後は武田との血みどろの戦いに明け暮れますが、その中で敗走する徳川軍の殿(しんがり)を務め、その武勇を武田信玄の重臣から「家康に過ぎたるものが2つあり、唐のかしら(=輸入品風の兜)に本多平八」と称賛されています。
逆に長篠の合戦で武田軍を打ち破った後、沈んだ顔をしていたため理由を問われると、「武田家の惜しい勇将たちを数多く亡くした。今後、戦いで血が騒ぐようなことはもうないであろう」と答えたそうです。
小牧・長久手の戦いでは8万の秀吉軍本隊に5百騎で対峙しながら退かず、関ヶ原でも抜群の武功を上げましたが、生涯57度に及んだ合戦でも身体に傷1つ負わなかったそうです。岡崎城内にある龍城神社の祭神の一柱になっておられますが、「事故防止・業務安全」の功徳があるとすれば忠勝さまでしょう。その忠勝さまは小刀で持ち物に名前を彫っていて指を切り、「本多平八も傷を負ったらお仕舞いだな」と言われ、その言葉通りこの日に亡くなったのです。62歳でした。
ただ関ヶ原以降、天下太平の世となると戦陣でこそ力を発揮する真の武将は活躍の場を失い、忠勝さまも不遇であったと言われています。
それでも辞世は「死にともな ああ死にともな 死にともな 深きご恩の 君を思えば」ですから、やはり三河武士は処遇などに関わりなく忠義を尽し抜くものなのです。
それが通じない毛利藩領の防府南基地に勤務したのが野僧の不運でした。 
本多平八郎忠勝「信長協奏曲(コンチェルト)」の本多平八郎忠勝さま
  1. 2014/10/17(金) 09:02:43|
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初公開!小庵の猫「音子(ねこ)」

5月30日から飼い始めた小庵の猫で、名前は「音子(ねこ)」です。これは来た当日の写真なので現在はもう少し大きくなっています。
海上自衛官の彼女が下宿で飼い始めた黒猫を「大和」と命名したので、「宅急便か?」と訊くと「戦艦大和だよ」と答えましたが(そのまま「守るも攻めるもクロガネの」と唄うところが流石の海軍娘です)、ウチはメスなので愛らしい名前にしました。
困るのは第3者と話している時に「ウチのネコが」と言っても固有名なのか種類なのかがハッキリしないことで、逆に便利なのは初めて会った人が「あっ、ネコだ」と言えば「はい、音子です」と紹介すれば済むことです。
それにしても我々の世代で黒猫と言えば「タンゴ」ですが、もう少し若い世代では「魔女の宅急便」の「ジジ」になるそうで、来庵した子供たちも「あっ、ジジだ」と喜んでいます。一瞬、「あっ、ジジィだ」に聞こえて返事をしてしまいますが。ついでに言えば宮崎アニメなら「となりのトトロ」の「真っ黒くろ助」と言う線もあります。
日露戦争を勝利に導いた影の立役者・明石元二郎大将が黒猫好きだった故事にならった訳ではありませんが、主治医の診療所に「黒猫はいりませんか」と言う看板が出ていたので、「捨てるのならウチでどうぞ」と消極的に希望したところ翌週には捨てられてきました。
早速、「山寺の和尚さんは 毬は蹴りたし毬はなし 猫をかん袋に押し込んで ポンと蹴りゃニャンと鳴く」で遊ぼうかと思いましたが、そんな大人しい猫ではなく、まさにF―4Fワイルドキャットそのものです。
それまで人里離れた農家で庭を駆け回っていたそうなので、閉じ込めるのは可哀そうかと思ったのですが、車道が比較的近く、鹿がはねられて死んでいるところ頻繁に見ているので、居住スペース内で暮らさせています。ところが直線距離で縦10メートル、横8メートルある室内を全力疾走してガラスにぶち当たって止まり、その場で反転して今度は途中で直角に曲がってガラスにぶつかるのが毎朝の寝覚めの運動なのです。
今年の秋は修行用の黒の作務衣にしてペアルックを楽しんでいます。
そんな「音子」の話は機会があればレポートしたいと思います。
あ・音子
  1. 2014/10/16(木) 10:13:50|
  2. 猫記事
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10月14日・ロンメル元帥が服毒自死

1944年の明日10月14日に「砂漠のキツネ(砂漠のネズミ=イギリス軍がつけた仇名)」エルヴィン・ロンメル元帥が強要されて服毒自死しました。
ロンメル元帥は1891年11月15日にドナウ川沿いのウルム市郊外で父親が教員の家庭に生まれました。戦前のドイツ陸軍では初の貴族出身ではない元帥です。
ロンメル元帥はウィルヘルム2世の治世下にあった1910年に士官候補生として陸軍に入り、士官学校を卒業して少尉に任官、1914年に生起した第1次世界大戦ではフランス戦線において歩兵小隊長として軍功を挙げ1級鉄十字勲章を受けています。中尉に昇任した後、エーデルワイスの部隊章で有名なヴェルデンブルグ山岳猟兵大隊に転属し、ルーマニアと北イタリア戦線へ赴き、1個中隊を率いてイタリア軍の要塞を攻略し、1個師団を撃退してドイツ軍最高のプール・ル・メリット勲章を受け、大尉に昇任しますが、ドイツの敗北で大戦は終結しました。
ワイマール体制下では保安部隊の中隊長や歩兵学校の教官(この時、ベストセラーになった「歩兵の攻撃」を出版した)、猟兵大隊長、兵学校の教官、士官学校長などを歴任しながら少将にまで上ります。
1939年に第2次世界大戦が勃発すると翌年2月に第7機甲師団長として西部戦線に赴きます。戦車部隊の指揮官にはアメリカのジョージ・S・パットン将軍や日本のバロン西=西竹一大佐に代表される騎兵出身者が多いのですが、ロンメル元帥はイギリスのバーナード・モントゴメリー元帥と同じく歩兵出身です。
歩兵出身のロンメル元帥は常に最前線で陣頭指揮することを信条としていましたが、それは通信連絡では戦況に報告者の主観・解釈が介在するため、自らの感覚と直感で指揮するためと言っています。そのことでは最高指揮官が危険に身を晒すことを危惧し、所在不明になることを非難する声もありましたが、常に前線の立つロンメル元帥は兵士からも絶大な信頼と尊敬を集めていました。
同じく歩兵のモントゴメリー元帥は兵站を非常に重視し、燃料、弾薬の枯渇によりドイツ軍の進撃が停滞しても、自軍に十分な補給が確保できるまで反撃に移らず、猪突猛進の騎兵・パットン将軍とは度々衝突しました。
ロンメル元帥が自死を強要されたのはヒトラー暗殺未遂事件への関与を疑われたためで、事件に共謀したシュテュルプーナル・パリ軍政長官が自決後のうわ言でロンメルの名前を口にしていたことやシュテュルパーナルの副官が共謀をうかがわせる供述したことが理由とされています。しかし、ロンメル元帥自身は軍人の美意識として政治への不関与を貫いており、事件後のヒトラーの疑心暗鬼を鎮めるため側近が疑わしきは一網打尽にしようとした結果でしょう。この日、空襲による銃撃で重傷を負って療養していたロンメル元帥をヒトラーの使者が訪れ、「反逆罪で裁判を受けるか名誉を守って自殺するか」の選択を迫り、「軍人として最高司令官の命令に従う」との答えを受け毒薬を手渡したのです。
余談ながら幹部候補生の同期にロンメル元帥に瓜二つの人物がいました(本人は純粋な日本人ですが)。
ロンメル新里候補生無断掲載は勘弁して下さい。
  1. 2014/10/13(月) 08:09:49|
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10月11日・ゼネラル・ヒグチ=樋口季一郎中将の命日

昭和45(1970)年の明日10月11日にゼネラル・ヒグチこと樋口季一郎中将が亡くなりました。82歳でした。
「ゼネラル・ヒグチ」と言うのはイスラエルのユダヤ民族基金の献金記録名簿である「ゴールデン・ブック=黄金の碑」に極東ユダヤ人協会の寄付により記載された名前で、逆に言えばわざわざ多額の寄付をしてまでも名簿に載せたいと思わせるような貢献をしたと言うことです。
樋口中将は明治21(1888)年に淡路島で生まれましたが、18歳の時に岐阜県大垣市の樋口家の養子になっています。つまり戸籍上は岐阜県人なのですが、岐阜県は県内八尾津町出身でユダヤ人にビザを乱発した外務官僚・杉原千畝ばかりを宣伝し、イスラエルのみならず世界中で高く評価されている樋口中将は無視を決め込んでいます。
樋口中将はハルピンの特務機関長を勤めている時、現地のユダヤ人協会会長のカウフマン博士の来訪を受け、極東ユダヤ人大会の開催の許可を求められました。樋口中将は快諾し、来賓として出席して、「ユダヤ人を追放する前に彼らに土地を与えよ。安住の地を与えよ。そして祖国を与えなければならない」と言う名演説をぶったのです。
またドイツでの弾圧から逃れた4千人を超えるユダヤ人たちがソ連と満州国の国境の駅に足止めされて凍死者が出ている状況を知ると直ちに救援に当たり、彼らが目指す上海へ送り届ける処置をとりました。このことを知ったナチスからの抗議を受け、軍部でも「三国同盟を危うくする」と言う非難が起こりましたが、樋口中将は関東軍参謀長だった東條英機に「苛められてここまで逃げて来た者を、苛めっ子の顔色を窺って一緒に苛める気か」と詰め寄り、これを承認させたのです。
樋口中将は駐在武官としてソ連情報の最前線であったポーランドへ赴任したことがあり、その時、旅宿でさえ東洋人と見て宿泊を拒否される中、ユダヤ人たちが暖かく迎え入れてくれたことやソ連国内のグルジアに潜入し、現地のユダヤ人の老人から「日本人こそ虐げられたユダヤ人を救う聖なる民族だ」と言う伝説を聞いたことで、ナチスに同調する風潮が蔓延する日本国内でもユダヤ人に対して冷静な評価ができたようです。
樋口中将は太平洋戦争中の昭和17年8月からはアリューシャン列島から千島、樺太までを管轄する北部軍司令官(名称は変わるが任務は同じ)を勤め、アッツ島・キスカ島からの撤退を大本営に進言しながら黙殺され、軍司令官の頭越しにアッツ島へ全滅を強要する訓令が発せられたことで不信感を抱き、海軍が独自にキスカ島からの撤退作戦を計画していることを知っても黙っていました。
一方、単なる人道主義者であるだけではなく、敗戦後にソ連軍が樺太・千島に侵攻を始めるとこれを撃破することを命じ、多大な損害を与えてスターリンの野望を頓挫させました。このことでスターリンは樋口中将を戦犯に指定するように要求しましたが、これを救ったのは世界のユダヤ人たちでした。ニューヨークに本部を置く世界ユダヤ人協会が樋口中将の功績と危機を世界各国のユダヤ人協会に通知したため救出に向けた国際世論が湧き起こり、占領軍総司令官・マックアーサーを動かしたのです。
  1. 2014/10/10(金) 08:56:43|
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生誕100年!10月7日・ピストン堀口の誕生日

今から100年前の大正3(1914)年の明日10月7日に拳聖・ピストン堀口さんが生まれました。
昭和36年生まれの野僧は当然、堀口さんの雄姿を見たことはないのですが、劇画「空手バカ一代」で若き日の大山倍達さんとの関わりが描かれていたため名前と活躍、そして昭和25(1950)年10月24日の悲劇的な死が強く記憶に刻まれました。特に長年にわたり顔面を殴打され続けたことによるパンチドランカーにより、真っ直ぐ歩くことも不可能になっており、迫ってくる列車のライトも揺れる陽炎のように見えていたのではないかと言う解説には当時、やっていた剣道の「面」が心配になってしまいました(実際には飲酒による酩酊と言う説が有力)。ボクサーがはめるグラブは拳を保護し、殴られる側へのクッションと思われがちですが、グラブ自体の重みでパンチの威力が増す一面もあるのです。
後年、自衛隊体育学校に入校してボクシングの練習生たちと歓談した時に堀口さんについて訊いてみるとやはり熱気を帯びた議論になりました(全員が同じ劇画を読んでいた)。
技術的な評価ではカシアス・クレイ(=モハメッド・アリ)に代表される「蝶のように舞い、蜂のように刺す」軽快なフットワークがなく、むしろ足を踏ん張り、防御を捨てて突進する時代遅れなファイティングスタイルとのことでした。
そこでパンチドランカーについて訊くと「あの闘い方であの試合数をこなせばなる可能性は高い」と口を揃えていましたが、ただ驚異的な試合数178と圧倒的な勝利数138、さらにノックダウン勝利数82KOは人間業ではなく、「目標にすらできない」と言うのが共通した認識だったようです。
ピストン堀口さんは警察署長の長男として栃木県真岡市で生まれ、(旧制)真岡中学校では柔道の選手として活躍していたのですが、中学校の先輩である日本ボクシングの父・渡辺勇次郎さんが地元で開いた試合に飛び入り参加して、プロボクサーを相手に2ラウンドを闘い、渡辺さんから度胸と才能を見いだされ、本人もボクシングに魅了されたため18歳で上京して入門しました。そして半月後には初試合でKO勝ちを収めます。翌昭和8(1933)年にはプロデビューを飾り、その年に開催された日仏親善対抗戦で前世界チャンピオン・エミール・プラドネル相手に8回引き分けを果たし、昭和9年には第1回全日本選手権で優勝し、フェザー級の初代日本チャンピオンになっています。この頃の47連勝と言う大記録は勝利数、KO勝利数と同様に現在も破られていません。
その後、昭和11(1936)年にハワイでフィリピン人王者・B・D・グスマンを破り、東洋チャンピオンになりますが、当時、日本にはコミッショナーがなかったため世界タイトルへの挑戦はできませんでした。
ピストンと言う愛称は正式のリング名ではなく、パンチを繰り出しながら突進する姿が蒸気機関車が前進するように見えたことからついた仇名ですが、本名でリングネームの堀口恒男よりもこちらが定着してしまい、東洋チャンピオンの記念トロフィーにもこの名前が刻まれています。
ところで読売巨人軍のV9戦士の堀内恒夫投手の名前とは関係ないのでしょうか?
  1. 2014/10/06(月) 09:18:41|
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10月4日・今村均大将の命日

1968(昭和43)年の明日10月4日に今村均大将が亡くなりました。82歳でした。
今村大将は軍人としての武勲もさることながら占領地での軍政に抜群の人徳と手腕を発揮し、軍政下に在った地域は現在も親日的な国になっています。
今村大将は明治19(1886)年6月28日に仙台で生まれました。祖父は戊辰戦争の折、奥羽越列藩同盟軍の伊達藩参謀を勤めた重臣でしたが進駐してきた薩長土肥軍に恭順しようとしたため裏切り者扱いされ、財産の全てを家臣に分け与えて隠遁生活をしていたそうです。
今村大将は陸軍幼年学校から陸軍士官学校に進んだのではなく、判事だった父の赴任先に転校しながら高校(旧制)・大学への進学を目指していたものの19歳で父が亡くなったため陸軍将校の娘だった母に陸軍士官学校を勧められたのです。
今村大将は9歳になるまで寝小便をしていたため夜中に何度も用便に行く癖があり、士官学校でも寝不足で講義中に居眠りしてしまうことがあったそうです。そのため眠くなると小刀で身体を刺したり、農家でもらった唐辛子をかじって目を覚ましていたのですが、それを知った教官たちは叱責することを止め、黙認するようになったようです。
それでも成績は優秀で、中尉で陸軍大学校に入校しますが、士官学校から申し送りがあった教官黙認の居眠りをしながら首席で卒業しています。
太平洋戦争では第16軍司令官としてオランダ領だったインドネシアを攻略しますが、この時、乗っていた輸送船に日本海軍が敵艦に放った魚雷が命中し、温かい南の海で泳ぐ羽目になったそうです。戦闘では現地の独立運動活動家を使い、日本軍の兵力や戦果を過大に広めて圧迫し、決戦になる前に軍使を送って降服を勧告し、無用な犠牲を出すことなく9日間で占領に成功しています。
軍政においても厳正な軍規の保持を徹底させると同時に、現地人に対しては自由を享受させながら生活面の支援に手を惜しまず、オランダの軍人に対しても俘虜収容所の待遇を可能な限り改善し、民間人には住宅に住むことを許し、外出も自由にさせたことで(国際法上は保護施設に抑留しても合法)、「インドネシアの軍政が甘い」と言う不満を抱いた東條内閣の高官が叱責と指導のため訪れても、かえって「現地人は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」と称賛するほどの成果を上げていたのです。
昭和17年11月20日に第8方面軍司令官としてラボール(ラバウル)があるニューブリテン島に着任しますが、現地では長期戦に備えた自給自足体制の実現に励み、田畑を開墾し、薬草となる植物の研究を進め、火山島の硫黄で火薬を生成し、壕を掘って湧き出した温泉で浴場まで作っていたのです。このため現地では紫色のナスや緑色のカボチャなど日本の野菜が収穫されています。
敗戦後、オーストラリア軍の軍法会議で死刑を求刑されますが、現地住民からの嘆願が湧き起こり暴動に発展しそうになったため懲役10年に減刑されました。
今村大将は将官として東京の巣鴨拘置所に収監されたのですが、「元部下たちと一緒に服役したい」と嘆願して、大量の野菜の種を持って収容所があるマヌス島へ向かい、刑期を終えています。帰国後は自宅の庭の一角に建てた謹慎小屋に自分を幽閉し、執筆した「回顧録」の印税で戦死者や刑死者の遺族、元部下たちの生活を支援していたそうです。
それを聞きつけて元部下を騙って金を無心する者にも判っていながら金を渡したそうですから、正に祖父の生き様に倣ったのでしょう。
  1. 2014/10/03(金) 10:29:06|
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第24回月刊「宗教」講座・鈴木正三・結編「正三は死ぬとなり」

先ず鈴木正三和尚の特色ある教えをもう1つ語らせていただきます。
正三和尚は佛法を説くのに「謡(うたい)」を用いました。そのため辞書などで「鈴木正三」を引くと、禅僧ではなく謡曲の作者と紹介されていることがあります。
ちなみに一休禅師も能の始祖・世阿弥に禅を教え、自作と言われる作品を幾つか残しています。
謡と言うのは能の節をつけた台詞のことで、織田信長が好んだと伝わる「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬ者のあるべきか」の「敦盛」は有名です。
今でこそ歌舞伎も古典芸能として高尚な趣味のうちに入っていますが、元来は能や狂言を上流階層、歌舞伎が庶民の芸能とされていました。
まだ標準語がなかった江戸時代、武士たちが参勤交代で江戸に出府するにあたり、この謡を練習して上品な言葉づかいを身につけたと言われています。
ですから昔の時代劇俳優は台詞の節回しを身につけるため、能や狂言も勉強したそうですが、最近では大河ドラマに出てくる武士まで自分のことを「私」と言っていますから、「拙者」「それがし」「みども」などの自称まで死語になっていきそうです。
話が反れましたが正三和尚の謡は布教とは関係なく広く上演されたようで、その意味では現代のベストセラー作家か、歌謡曲の人気作詞家に近く、やはり当時の認識では禅僧よりも、謡の作者だったのかも知れません。
この手法を現代に当てはめてみると、例えば美空ひばりさんの「人生一路」や村田英雄さんの「皆の衆」「捨てて勝つ」などを正三和尚に聞かせれば、「我が意を得たり」と快哉を叫び、弟子たちに歌わせる情景も想像してしまいます。
ちなみにクレージーキャッツの植木等さんは、三重県の浄土真宗の寺院の息子さんですが、本当はとても真面目な方だったそうで、「スーダラ節」をレコーディングするのに「こんなふざけた歌を唄うのは嫌だ」と大変悩み、お父さん(浄土真宗のお坊さん)に相談したところ、「これほど人間の本質をとらえた歌はない」と絶賛して唄うことを勧められたそうです。
「わかっちゃいるけどやめられねェ」愚かな人間も、「南無阿弥陀佛」と念佛すれば、「スイスイスッタラタッタスラスラスイスイスーイ」と極楽往生できると言う訳です。
「日本一の無責任男」も万事を阿弥陀如来にお任せすれば、本人には何の責任はなく、お気楽に伸びやかに楽しく生きていけばよいのです。
ところで野僧は三重県のある山村の葬儀のBGMで非常に感心したことがあります。
そこでは今でも葬列を組んで村はずれまで歩くため、僧侶や棺を担いだ人が位置につくと葬儀屋の車のスピーカーから「仰げば尊し」が流れ始めたのです。
1番の「仰げば尊し 我が師の恩 教えの庭にも」は今、引導を受けた導師のことを言っているようですし、2番の「互いに睦みし 日頃の恩 別るる後にも やよ忘るな」は出席者への謝辞、3番の「朝夕慣れにし 学びの窓 蛍の灯 積む白雪」は慣れ親しんだ村への想いに聞こえました。
何よりも何回も繰り返される「いざさらば」は亡くなった方の惜別の辞のようです。
最近は趣味のロックやジャズ、フォークソングなどで説法をする坊さんも増えてきて、檀家さんを集めて本堂でコンサートを行っている情景が、ニュースなどで紹介されることもありますが、それには聞く人のセンスに上手く合うことが必要です。
住職の自己満足で寺の空気を破っているのでは心に響く説法にはなりません。
ここで本題の正三和尚が死について述べた言葉を紹介させていただきます。
「糞袋を何とも思わず打ち捨てること也。これを仕習うより別の佛法を知らず=この糞を作るだけの袋に過ぎないこの肉体を何とも思わず打ち捨てることである。このことを習うこと以外の佛法は知らない」
言い回しには正三和尚独特の癖がありますが、死を恐れず、むしろ自然のこととして受け容れ、身の危険を顧みずに何事かを為すことを佛法としているのです。
野僧は小浜の僧堂では下肥えを汲み取って畑に運ぶ作務が大好きでした。
何故なら下肥えの臭いを嗅ぎながら桶を担いでいると正三和尚の言う「人間は糞袋」を確認できるからです。
次に玄石と言う若い僧侶の臨終に際して、
「いつまで生きていても何の変りもない。むしろ1日も早く打ち捨てられることは好い事であろう。まずは今の命を突き破ることである。私もこの年まで生きてきたけれど、何も変わったことはない」
「(皆が高祖と仰ぐ)道元和尚も、まだまだ隙がある人だと思う。未だ悟り切った佛の境地ではなく、(執着があって)精神が自由になっていない」
「目的を達成できていないのは貴方1人ではないのだから、いつまでも生きようとすることも仕方のないことではないか。まずは少しで早く、この肉体を打ち捨てることこそ好い事であろう。ワシもそのうちいくぞ」
これは正三和尚が与えた引導ですが、病み衰えた肉体を持て余している野僧は非常に大きな共感を覚えます。
またこの中で正三和尚が道元について述べた一言は、道元への個人崇拝で凝り固まっている曹洞宗の坊主どもには「高祖禅師の否定」と受け取られたらしく、本来なら現代社会でこそ活かされるべき鈴木正三和尚の教えが、宗門の中では黙殺されていることの原因になっています。
最後に正三和尚の臨終の言葉です。
明暦元(1655)年、いよいよ重篤だと知った弟子が「最期の教え」を求めたところ、正三和尚はその弟子をハッタと睨みつけ、こう言い放ったそうです。
「何を言うか。30年間私が教えてきたことを受け留められなかったくせに、そんなことを言っているのか。正三は死ぬのだ(原文では「正三は死ぬとなり」)」
南無大強精進勇猛佛
鈴木正三鈴木正三像(恩真寺)
  1. 2014/10/01(水) 09:20:54|
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