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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月1日・海洋戦略の大家・マハン少将の命日

1914年の明日12月1日は海軍士官の必読書である「The Influence of Sea Power upon History=海上権力史論」の著者であり、日本海海戦に於ける連合艦隊作戦参謀・秋山真之中将がアメリカ留学時に教えを受けたアルフレッド・セイヤー・マハン少将の命日です。
野僧は海上自衛官志望だった高校時代に購読していた雑誌「世界の艦船」でこの本を知り、かなり高額だったのを無理して注文・購入したのですが、海上自衛隊を志望する動機になったシーレーン防衛の重要性について歴史学的に述べられていて深く感銘を受けました(その本は座右の書になっていましたが、幹部に任官した時の防府南基地からの引っ越しで紛失した段ボールの中にあったため行方不明です)。
マハン少将は1840年9月27日にアメリカ合衆国ニューヨーク州ウェストポイントで陸軍士官学校の教授の息子として生まれましたが、陸軍士官になることを望んでいた父親の意向に背き、コロンビア大学で2年間学んだ後、アナポリスの海軍士官学校に入校し、少尉に任官した21歳の時に発生した南北戦争に参戦しました。
中佐に昇任してから軍艦・イロコイの副長として来日し、新政府成立直後の日本を見ています。
1885年に戦術論文「メキシコ湾と内海」が評価されて大佐に昇任すると同時にアナポリスの海戦術の教官として研究と人材育成に没頭することになりました。
1890年には「海上権力史論」を発表し、1892年から2年間は2代目の校長になっています。
巡洋艦・シカゴの艦長になったのを最後に退役し、1906年になって少将に叙せられますが、武力紛争関係法(戦時国際法)の1つであるハーグ条約を制定した万国平和条約のアメリカ代表団の顧問を務めた以外は研究に没頭し、「The Life of Nelso =ネルソン伝」「アメリカ・メキシコ戦争の教訓」「Sea Power in Its Relation to War of 1812=フランス革命とナポレオン帝国に於けるシーパーワーの影響」「Naval Stategy=海軍戦略」などを発表しますが、この日、ワシントンD・C・で亡くなりました。
「海上権力史論」では「海軍力が欧米の歴史にどのような影響を与えたか」を論じていますが、古代ローマからナポレオン戦争に至る歴史書的な側面もあり、殊更に海軍力の必要性を強弁している訳ではありません。ただ、古代ローマ帝国がカルタゴを攻略し、イギリスがナポレオンの侵攻を阻止し、海洋国家として先駆けていたスペイン、ポルトガル、オランダがイギリスに後れを取った原因を解説することで読者自身に気づかせる手法を取っています。
野僧が幹部学校に入校した時、「戦略」の講義でマハン少将の著書に基づく質問をしたところ教官から「SOCどころかCSでもワシに突っ込んだ質問をしてくるような学生はいない。お前は何者だ」と呆れられました。マハン少将も昇任には恵まれませんでしたが研究者タイプの人間は組織の中では出る杭になり、孤高の人でいるしかないようです。
余談ながら愚息2は「聖也」と言いますが命名した後、マハンさんのミドルネームが頭をよぎって「いい名前だ」と思いました。
  1. 2014/11/30(日) 09:57:28|
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11月30日・ルンガ沖夜戦

昭和17(1942)年の明日11月30日夜にガダルカナル島ルンガ岬の沖で日本海軍・田中頼三少将が指揮する第2水雷戦隊とアメリカ海軍・カールトン・H・ライト少将の第67任務艦隊の間で戦闘が起こりました。
太平洋戦争が始まって1年に満たないこの時期に、日本海軍は6月上旬のミッドウェイ海戦での敗北で既に南太平洋での制海・制空権を喪失しており、ガダルカナル島への補給輸送も困難になっていたのです。
このためドラム缶に食料や弾薬を半分まで詰めて紐でつなぎ、高速の駆逐艦に運んで沖に投下する輸送方法を取り、これを「ネズミ輸送」と自嘲していました(駆逐艦の損害が増大して潜水艦に替えてからは「モグラ輸送」になった)。
田中少将個人については7月9日の命日で紹介していますが生粋の駆逐艦乗りで、第2水雷戦隊司令官に着任後は猛訓練に明け暮れていたのです。
この時は前日に8隻の駆逐艦で母港のショートランドから出撃し、ガダルカナルに向かったのですが、輸送任務のため旗艦「長波」と警戒艦「高波」を除く6隻は魚雷発射管に装填してある1撃分以外の予備の魚雷を下ろして隙間なくドラム缶を積載していました。
そして19時40分頃、ガダルカナル島沖に到着し、ドラム缶の投下を開始したのですが、1時間が経過した頃にアメリカ海軍のレーダーがこれを捕捉し、攻撃するべく重巡洋艦4隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻の艦隊で現場に急行しました。この時の天候は晴れ、満月から6日欠けた明るい夜で、視程が10キロあったため投下作業現場の周辺海域を警戒していた「高波」も間もなく接近するアメリカ艦隊を発見して旗艦に通報、田中少将は「陽陸止め!全軍、突撃せよ」と命令を下しました。
それを受けて各艦はドラム缶を固定するか海上に投棄し、戦闘態勢を整えましたが、それよりも先にアメリカ海軍はレーダーで測距しながら魚雷を発射、それが届かないと更に接近して巡洋艦が砲撃を開始しました。
アメリカ艦隊の砲撃で集中弾を受けた「高波」も反撃を開始し、砲撃でアメリカ側の駆逐艦2隻を炎上させ、これが艦隊の影を浮かび上がらせて戦闘に転じた日本側の反撃の目標になりました。
結局、アメリカ側は重巡洋艦1隻が撃沈、3隻が大破の大損害を受け、日本側は「高波」だけが炎上、後にアメリカの駆逐艦によって撃沈されたのです。
この惨敗の報告を受けてニミッツ提督は「訓練、訓練、さらに訓練せよ」と訓示したと言われていますが、日本海軍は田中少将の旗艦「長波」が艦隊中央に位置し、戦闘は警戒艦「高波」が中心だったことを「指揮官先頭の伝統に反する」と輸送作戦の失敗の責任を負わせる形で解任して敗戦まで閑職に置きました。
この海戦は戦史アニメ「決断」で取り上げられたため意外に有名なのですが、個々の戦史では自軍の戦力に見合った戦域設定や長期展望などの戦略的視野が欠落していた日本軍の過誤は学べません。
  1. 2014/11/29(土) 09:10:20|
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高倉健さんの逝去を悼む

昨年の11月には文化勲章の受章のニュースに歓喜したばかりの俳優・高倉健さん(本名・小田剛一さん)が11月10日に亡くなったそうです。83歳でした。
高倉健さんは福岡県中間市の出身で、博多の僧堂には旧友だと言う老師が出入りしておられた関係で素顔を聞くことができたのですが(九州では皆が知り合いのような雰囲気があります)、映画の寡黙で不器用なイメージとは真逆で、陽気で多弁な九州男児の典型だったそうです。
野僧が最初に見た高倉さんの作品は戦争映画「ああ同期の桜」で、学徒動員で海軍に入り飛行機乗りになった松形弘樹さんを赤トンボで鍛える教官の役でしたが、高倉さんの父親は元海軍軍人なので立ち振る舞いがとても自然体でした(特に立っている時の姿勢)。
次は初デートで高校の後輩と見に行った角川映画「野性の証明」ですが、薬師丸ひろ子さんのデビュー作でもあります。ここでは陸上自衛隊奥羽方面隊の特殊工作隊員・味沢1曹でした。この映画でも特殊工作隊員としての極限状態の顔と薬師丸ひろ子さんを育てる父親の顔、そして高倉さんが本当の父を殺したことを知った薬師丸ひろ子さんの憎悪の目を見返す時の苦悩した顔はどれもリアルで、作品自体の不出来を十分にカバーしていました。映画を見た後に後輩から「副会長(当時)はあんな恐ろしい世界に行くんですか?」と訊かれ、「ワシは海上自衛隊だから違う」と答えた憶えがあります。
その次に2・26事件の「動乱」を見ましたが、この作品は昔の日本映画の悪癖で事件の全体像を事細かに画いているため、野僧が覚えているのは決起前夜に脱走して銃殺された兵の姉で娼婦に身を落としていたところを身受けした吉永小百合さんを初めて抱いた濡れ場と銃殺で心臓の後、額を射たれた糞リアリズムなシーンくらいです。
「八甲田山」では全員を無事に連れ帰った弘前連隊の徳島大尉で、モデルである福島泰蔵大尉を尊敬していた野僧のイメージが高倉さんに重なってしまったのは当然です。
意外なところでは「刑事物語」に友情出演して武田鉄矢さんが演じる片山元(はじめ)の後任の刑事として見送りの場に現れ、涙していた樹木希林さんが「高倉健そっくり」と片山そっちのけで舞い上がるシーンが記憶に残っています。
「ブラック・レイン」は末期癌を直視していた松田優作さんの熱演に隠れてしまった観は否めませんが、少年時代、小倉に駐留していた米軍司令官の息子と友人になって覚えた見事な英語には驚かされました。
最後は「ぽっぽや」ですが、病気の赤ん坊を抱いた妻が乗る列車を駅長として見送るシーンは、高倉さん自身が江利チエミさんとの間に授かった子供を妊娠中毒で失ったことを知っていたので、同じ経験を持つ野僧も「演じるのは辛かっただろう」と涙しました。
今回のニュースで紹介されていた高倉さんの座右の銘「往く道は精進にして忍びて終わり悔いなし」を野僧は比叡山の老師から聞いたことがあります。
比叡山を舞台にした映画には出演していないと思いますが、教えを受ける佛縁があったのでしょうか?また、1つ昭和が消えてしまいました。御冥福をお祈り申し上げます。
  1. 2014/11/20(木) 09:48:27|
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ウナギ猫・音子(ねこ)

5月30日に捨てられてきた黒猫の音子ですが細身の上、とても尻尾が長いので黒いウナギのようでした。したがって赤塚不二夫先生の代表作「天才バカボン」の「ウナギいぬ」に倣って「ウナギねこ」と呼ぶことにしました。
この猫が体長100センチ以上、尻尾80センチ程度、体高80センチ以上になれば庭先を徘徊する鹿や猿と追い払うディアキャット、モンキーキャットになると期待しています。そのくらいの大きさになると黒猫ではなく黒豹ですが。
黒豹候補生・音子の野性ぶりは次回に述べさせていただきます。
い・音子
  1. 2014/11/13(木) 13:13:14|
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11月9日・最後の連合艦隊司令長官・小沢治三郎中将の命日

昭和41(1966)年の明日11月9日に最後の連合艦隊司令長官・小沢治三郎中将が亡くなりました。80歳でした。小沢中将は野僧の幹部候補生の同期の間では航空作戦を指揮した名将として山口多聞中将と並んで人気がありました。
小沢中将は明治19(18886)年10月2日に宮崎県児湯郡高鍋町で生まれました。幼い頃から非常に喧嘩が強く、旧制中学校はそれで退校処分を受けて東京の私立中学校に転校しますが、街中で酔った青年と喧嘩になり、投げ飛ばした揚句に下駄で踏みつけて降参させ、それが後の三船久蔵十段だったと言う伝説があります。しかし、両者には3歳の年齢差があり、講道館で本格的に柔道を学ぶ武道家と現在の高校生の喧嘩ですから真偽のほどは判りません。
小沢中将は鹿児島の旧制第7高校に入学したのですが、海軍兵学校の合格通知が届いたため退学し、37期生として入校しました。卒業後は水雷畑を歩み、主に水雷艇長を勤め、第1次世界大戦でヨーロッパへ派遣された第2特務艦隊に参加しています。海軍大学校卒業後も水雷畑で主に駆逐艦長、戦艦の水雷長、水雷隊参謀、水雷学校の教官、同校長などを勤めています。
ところが昭和14(1939)年11月に第1航空戦隊司令官に任ぜられるとパイロットたちに空母艦隊や航空機の運用方法の研究を命じ、翌年春の演習で地上機と艦載機の合同運用を実証し、夏には「航空艦隊編成に関する意見書」を海軍大臣に提出して航空畑に鮮烈デビューしました。
太平洋戦争の劈頭では南遣艦隊司令長官としてマレー沖海戦を指揮し、イギリス艦隊の撃滅やセレベス島メナドへの海軍陸戦隊による空挺作戦を成功させています。
ミッドウェイ海戦大敗後の1942年11月から空母艦隊である第3艦隊司令長官になりました。ミッドウェイでの米艦隊に関する報告書を見て「暗号が漏れている」と察知したものの調査を命ぜられた担当者が否定したため抜本的対策は実施されず、昭和18(1943)年4月18日の山本五十六連合艦隊司令長官の撃墜につながりました。
小沢中将の第3艦隊は昭和19(1944)年6月にマリアナ沖海戦を指揮しますが、攻撃後の帰還が日没後になるため航続距離に勝る日本軍艦載機が得意とするアウトレンジ戦術の好機を逸した上、ミッドウェイ以降の搭乗員の低練度、米艦隊に関する情報の混乱などと米艦隊が新兵器・近接作動信管(VT信管)の配備を受けていたこともあり、「マリアナの七面鳥狩り」と呼ばれる惨敗を喫したのです。
続いて10月にはフィリピンに上陸したマックアーサー部隊を叩くべく実施された捷1号作戦にハルゼー艦隊をフィリピンから引き離す囮役で参加しましたが、目的を達することには成功したものの栗田艦隊が突入を回避したため戦果は限定されました。
昭和20(1945)年5月29日に連合艦隊司令長官に就任しましたが、すでに連合艦隊には海上決戦を行う艦艇、航空機、何よりも燃料がありませんでした。
小沢中将は敗戦時、部下たちに自決を禁じ、「俺には敗戦の責任があるが、戦争を始めた責任はない」と自分も自決しないことを明言し、部下に操縦させた航空機で米艦に突っ込んだ宇垣中将を「軍令違反である」と非難しています。あの空気の中で冷静さを保っていたのは流石です。
  1. 2014/11/08(土) 00:05:00|
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11月7日・ソ連のスパイ=ゾルゲと朝日新聞の尾崎秀実が処刑された。

昭和19(1944)年の明日11月7日にソ連のスパイ=リヒャルト・ゾルゲとその手下だった朝日新聞記者・尾崎秀実(ほつみ)の死刑が執行されました。
ゾルゲはロシアのコーカサスで働いていたドイツ人鉱山技師の子供で第1次世界大戦でドイツ軍に従軍して重傷を負い、入院中に大学で社会主義に傾倒していた従軍看護婦の影響を受けたのです。終戦後はベルリン、キール、ハンブルグの各大学で学び、政治学の博士号を取得しますが、ドイツ共産党が結成されると即座に参加しました。
ドイツ共産党大会に来賓として出席したソ連共産党の要人に会ったことで才能を見い出され、ソ連の軍事諜報部員になったのです。1930年にドイツの大手新聞社の記者と言う肩書で上海へ派遣され、極東における英仏米、何よりも日本の情報を収集しました。ここでアメリカ人女性文筆家・アグネス・メドレーを通じて尾崎秀実と親交を持ちます。
その後、ゾルゲは上海のイギリス警察からソ連のスパイとして疑われていることを察知すると1933年9月にナチス党員のドイツ新聞社特派員として日本へ移住し、巧みにドイツ大使館に喰い込み、その人脈で日本陸軍内にも情報収集の網を広げていきました。
尾崎秀実は報知新聞の記者の子供として東京で生まれ、父が台湾日日新聞の主筆として赴任したため台湾で育ち、このため中国語に堪能でした。東京帝国大学と大学院を卒業後、朝日新聞に入社し大阪朝日新聞社を経て上海支局に配属されました。ここでアグネス・メドレーと愛人関係になり、その仲介でゾルゲと知り合ったのです。
尾崎は1932年12月に大阪朝日新聞社に戻り、ここでゾルゲと再会して配下に入ることを約束し、1934年に東亜問題調査会が設立されると東京朝日新聞社へ転勤しました。東京では国際通として名を売り、次第に政治中枢で活躍するようになったのです。
ゾルゲが尾崎を使って行った政治工作は満州の日本陸軍を南進させることで、これによりソ連は2正面作戦を回避して対独戦への準備に専念でき、日本軍の南進によって正面衝突する国民党軍は消耗して毛沢東による共産革命の下地が整い、日本は英仏米との権益争いに巻き込まれ、やがてはドイツと共に第2次世界大戦に突入することになる。英米仏と日独伊が共倒れになれば世界共産革命が実現すると言う悪魔のシナリオでした。
満州事変が勃発すると近衛内閣は「戦線不拡大」の方針を打ち出しましたが、尾崎は朝日新聞の紙上で「蒋介石は相手せず」と言う記事を出して外交交渉を頓挫させ、以降は「勝った」「勝った」「また勝った」と大陸での戦果を誇大宣伝しながら、やがて英米との軋轢が生じると「撃ちてし止まん鬼畜米英」の扇動で対米戦争に引き込ました。
さらに日本でも共産革命を起こさせるためには米軍の空襲によって焦土と化し、本土決戦によって相互に多大の犠牲を出させ、拭い難い恨みを植え付ける必要がありました。これが朝日新聞の推し進めた一億玉砕の本当の目的です。
ゾルゲと尾崎のスパイ活動・政治工作は、特高警察が帰国したアメリカ共産党員・宮城与徳、北林トモを拘束したことで明らかになり、1941年10月14日に尾崎が、18日にはゾルゲ以下3名の外国人を逮捕されました。
そして2年にわたる裁判の後、ソ連の革命記念日に巣鴨拘置所内で絞首刑が執行されました。
野僧は尾崎1人が巨大組織・朝日新聞を意のままに動かすことは不可能であり、おそらく会社ぐるみがソ連とそれを引き継いだ中国の世界共産化戦略の実行組織になっていて、今も継続していると見ています。
尾崎が逮捕された後も朝日新聞は本土決戦の論陣を張り続け、敗戦後は一転してソ連賛美、毛沢東による共産革命万歳の態度を崩さず、最近の(いわゆる)従軍慰安婦問題を捏造したのも日本軍の罪を世界に喧伝して日本政府を窮地に追い込むためにほかなりません。
  1. 2014/11/06(木) 09:49:51|
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本島等元長崎市長が死にました。

神さん不在の神無月31日、市議会での共産党議員の誘導質問に「天皇には戦争責任がある」と答え、右翼から銃撃された本島等(もとしま・ひとし)元長崎市長がベッドの上で死に腐りよりました。92歳の天寿を全うしたことになります。
この発言があったのは昭和63(1988)年12月ですから、翌年1月7日に昭和の陛下は崩御されているので、まさに国民等しく御病状を心配し、奇跡を願って然るべき時期であり、この質問をした共産党員は論外ながら長崎市長と言う立場にあれば「この時期に相応しくない」と嗜め、回答は控えるべきだったでしょう。それが審議拒否と問題にされても流石の朝日新聞も批判できなかったと思います。
ところがこの発言が朝日新聞を中心に大々的に取り上げられると全国から批判の声が上がり、その矛先は質問をした共産党議員ではなく本島市長に向かいました。
自宅は勿論のこと長崎市役所にも抗議や嫌がらせ、脅迫が殺到し、恒常業務にも支障をきたす有り様でしたが、市長は発言を撤回しなかったのです。
その結果、昭和の陛下の喪が明けた平成2(1990)年1月、市役所前で右翼の男に胸を拳銃で射たれ、約1か月の重傷を負いました。
朝日新聞を中心とするマスコミはこの事件を最大限に利用して「暴力による言論弾圧を許すな」と言う反暴力のキャンペーンを展開し始め、市長の発言を忘却・消去することに成功しました。
昭和の陛下と間近に接し、眩いばかりの御稜威(みいつ)を感じて以来、個人的に崇敬していた野僧もあの時期に、あの発言をした本島が許せず、長崎市出身の同僚や教え子などから地元での評判を訊いたのですが、左翼と言うよりも切支丹=カトリック教徒で、以前から反皇室的発言を繰り返しながらアメリカ軍の原爆の投下については日本が罪を犯したからカミの罰を受けたと擁護しているとのことでした。
実際、平成10(1998)年7月には「(原爆を)落とされるべきだった。(アジアで罪を犯していた)日本に対する報復としては仕方なかった」と発言しています。
つまり天皇の名の下で行われた日本の戦争は罪であるが、カミの名の下にアメリカが行った戦争は正義であり、原爆は悪しき国民を抹殺する鉄槌であったと言う、礼拝で聖書ではなく憲法第9条を説いている日本のキリスト教会の先駆け的存在だったのでしょう。
本島は「被爆50年を自分の手でやりたい」と平成7(1995)年の選挙にも73歳で出馬しましたが落選しています。NHKあたりは長崎市民の大半が切支丹であるかのようなイメージを演出していますが、実際には門徒(浄土真宗)大国で、天皇は批判してもアメリカの原爆投下は容認するような人間に50年の節目を汚させてはならないと考えたのかも知れません。
キリスト教徒も死後は西へ向かいますが間違って西方浄土へ紛れこまないように。お前が「殺されても仕方なかった」と言った原爆の犠牲者が多数往生しておられますから。
昭和の陛下の戦争責任については天皇に政府が決定した開戦を禁ずる権限があったか、否かの問題でしょう。
  1. 2014/11/05(水) 10:06:31|
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第25回月刊「宗教」講座・沢庵宗彭・前編

沢庵和尚と言えば吉川栄治氏の代表作「宮本武蔵」の中では、若き日の武蔵が出会い、時には窮地を救い、その導きによって粗野な暴れ者に過ぎなかった武蔵が、本来は殺人技の錬磨であった剣の修行を人間完成の道として、「剣禅一如」の境地に到達する基礎を与えた人物として描かれていますが、史実では地理的にも、時間的にも宮本武蔵と沢庵和尚が接触した可能性は低く、2人の絡み合いは吉川氏の創作なのでしょう。しかし、この作品は何度も映画化されて大ヒットし、その後もテレビドラマや漫画になりましたから、武蔵と沢庵和尚の関係は史実として定着してしまっているようです。
一方、宮本武蔵の著書「五輪書」、特に「地の巻」を読むと明らかにある禅僧の教えを受けたと思われる論理の展開が見られます。
宮本武蔵が「五輪書」で述べていることは、前回まで紹介してきた鈴木正三和尚が著書「万民徳用」などで説いている「職業を人格完成の道とせよ」と言う職業倫理論と多くの共通性を見い出すことができます。
武蔵が生きた江戸初期は、ようやく迎えた天下泰平の世に士農工商の身分制度が分別、差別化された時代であって、むしろ職業の尊卑意識が強まり、常識になっていった時期でもあり、正三和尚の独創的な職業倫理論を一介の武辺に過ぎない武蔵が同様の思想を体系化し、論理を展開するには無理があるように思われます。
ですから武蔵が正三和尚と何らかの接触を持った可能性は否定できませんし、武蔵は尾張国に長期間滞在した時期があり、正三和尚も足助の自領で暮らしていました。
さらに武蔵は島原の乱に従軍して城兵が落とした石に当たって重傷を負ったと言われており、乱の平定後、正三和尚は島原代官になった弟を援けるため同地に赴き、宗教施策を推進した史実もありますから、ここでも地理的、時間的な共通性を有します。
現役の流行作家・井沢元彦氏の武蔵を主人公にした小説「光と影の武蔵(1987年)」では沢庵和尚ではなく鈴木正三和尚と武蔵の出会いを描いています。
ところで沢庵和尚には将軍家剣術指南役、柳生新陰流の柳生但馬守宗矩に宛てた「不動智神妙録」や一刀流の小野忠明に宛てた「大阿記」と言う剣の奥義を説いた書簡が残っていますが、その伝記や人物像については意外に知られていないようです。
沢庵和尚には「漬物のタクアンを発明した」と言う伝説がありますが、大根の塩漬けと言う食品自体は沢庵和尚以前にもあり、実際には江戸・品川の東海寺にある沢庵和尚の墓が大きな丸い石を置いただけのもので、これがタクアンの漬物石に似ていることから名づけられたと言うのが真相のようです。
沢庵和尚こと沢庵宗彭禅師は、織田信長が足利義昭を奉じて京都に上った天正元年、但馬国に生まれました。父は山名宗全の家臣・秋庭綱典です。
天正八年に山名宗全が豊臣秀吉に滅ぼされると、出雲国の浄土宗・唱念寺で出家しましたが、14歳の時に宗鏡寺の希先和尚に師事して禅宗に転じています。
19歳で希先和尚と死別しましたが後任として大徳寺から宗鏡寺に来た董甫和尚が戻るのに同伴し、大徳寺に上がりました。そこで塔頭の三玄院の春屋宗園禅師に師事し、この時、宗彭の名前を受けました。
その後、沢庵和尚は大徳寺を去り、大阪は堺の南宗寺の一凍紹滴和尚に師事しましたが、その教えは極めて厳しく、沢庵和尚は見事にそれを受け止め、慶長9年・32歳の時に印可、つまり悟りの証明を許され、「沢庵」と言う道号を贈られました。
沢庵和尚は2年後に一凍和尚と父、さらに翌年には母を立て続けに亡くす一方、一凍和尚の後を継いで南宗寺の住職になったものの次第に沢庵宗彭の名が高まり、慶長14年には勅命により大徳寺154世の貫主(住職)に任じられます。
ところが沢庵和尚はわずか3日間で「私は元来、雲水であって、由緒ある紫の衣を身にまとうことなどは畏れ多い」と貫主の職を辞し、南宗寺に戻ってしまいます。
ところが南宗寺は大阪冬の陣・夏の陣で焼失してしまい、再興を果たしたものの「富貴を好んで人にへつらい、佛法を売って渡世の営みをし、佛祖の道を泥に堕さんよりは」と48歳で故郷の宗鏡寺に帰って裏山に投淵軒と言う庵を結び、人を避けて暮らしていたようです。
沢庵和尚の理想としては、そのまま深山に抱かれ、埋もれて逝きたかったのかも知れませんが時代はそれを許しませんでした。それが「紫衣事件」です。
この事件は、それまで京都五山十刹は南禅寺を通じて幕府が統制し、妙心寺と大徳寺は事実上、朝廷が直轄にしていたのを全て掌握しようと、元和元年、僧侶の最高位を示す紫衣の推挙を徳川幕府が独占し、しかも12年後の寛永4年には逆上って元和元年以降の朝廷による紫衣着用の勅許を調査し、15名もの僧侶の許可を取り上げたのです。この時、真っ向から幕府に反論したのが沢庵和尚でした(大徳寺の玉室宗珀・江月宗玩、妙心寺の単伝士印と連名ではある)。
しかし、名誉を嫌って住職就任からわずか3日で大徳寺を去った沢庵和尚が、紫衣の剥奪に反論したことに矛盾を感じない訳ではありませんが、この反論は紫衣着用の可否よりも、幕府が着用許可の基準として定めている僧侶の修行過程の非現実性の指摘を主眼としています。
詳しい内容は専門的に過ぎますから省略しますが、概要を言えば「幕府が寺社諸法度で定めている妙心寺と大徳寺の貫主への資格基準は、時間的にも実行面や過去の実例から見ても現実性がない。これは禅宗に対する無知から来ているに違いない」との正当、かつ痛烈な幕政批判で、早い話が「判りもしない癖に口を出すな」と言う幕府の宗教に対する介入の拒絶でした。
ただ、寺社諸法度を起草したのは南禅寺の高僧で、建長寺の住職も務めている黒衣の宰相・金地院崇伝なので禅宗の作法を知らないはずはなく、沢庵和尚たちが守りたかったのは宗教の独立と裏返せば政治に深く関与する金地院崇伝への批判だったのでしょう。実際、金地院崇伝は全員を遠島にしようとしましたが、天海僧正と柳生宗矩のとりなしで沢庵和尚は出羽国上山、玉室宗珀は津軽国棚倉、単伝士印は出羽国由利に流罪になりました。このお陰で山形には沢庵和尚の、青森には茶人でもあった玉室宗珀の茶杓や詩文、書が数多く残っています。
上山での沢庵和尚については意外な恋の物語が伝わっています。
配流先になった上山藩主・土岐頼行は大徳寺の貫主を勤めた高僧を受け入れることを内心では喜び、幕府の目を逃れながらも春雨庵と言う茶室付きの立派な庵を用意し、領民との交流も黙認するなど厚遇しました。
そんな穏やかな暮らしのある日、沢庵和尚は庭先にある井戸で背中一杯に薪を背負った娘が汗をすすいでいるのを見かけました。
沢庵和尚は娘が持っていた金楼梅に目を止め、声を掛け一枝を分けてもらい、それから娘は山仕事の途中に春雨庵へ寄るようになり、いつしか沢庵和尚も美しくはないが澄んだ瞳のこの娘・まさを心待ちにするようになりました。
まさは彼岸にはボタ餅やおハギを届け、山に咲いていた季節の花を手渡すようになり、やがて春雨庵には温かい空気が漂うようになりました。
そんな月日が巡るうち、突然、まさが姿を見せなくなり、沢庵和尚は「忙しいのだろう」と思っていましたが、やがて「病にでも・・・」と心配に変わりました。
そこで村人にまさの消息を尋ねてみると「良い縁があって嫁いだ」との答えで、沢庵和尚は祝いに書をしたためて贈ったそうです。
4年後の寛永9年、赦されて故郷の但馬に戻る時、この井戸に「浅くとも よしやまた汲む 人あらば われに事足る 山乃井の水」の一首を残しています。
その翌年、沢庵和尚は江戸に下って将軍・家光と会見し、絶大な帰依を得ましたが、この時、家光が建立・寄進したのが品川の東海寺です。
晩年の沢庵和尚は東海寺にあって将軍・家光をはじめ多くの幕臣や大名の精神面の教導に努めました。しかし、このことを以て後継者と期待した弟子からさえも、「権力に媚諂った」と批判されたのですが、沢庵和尚自身は最期までこれらの権力者に何かを求めることはなく、また求めに応じることもなく超然としていたようです。
そのことを如実に示しているのが、印可を絶法にしたことでしょう。
沢庵和尚は一凍紹滴和尚から受けた印可を、将軍・家光をはじめとする多くの帰依者たちが懇願したにも関わらず誰に継がせることなく遷化しました。
正保2年12月11日(太陰暦)に迎えた沢庵和尚の遷化は不肖・野僧もあやかりたいと思うほど格好が良かったようです。
先ず遺言は「葬式をするな。香典は一切もらってはならない。死骸は夜、密かに担ぎ出して野外に埋めて2度と参ってはならない。墓を作らないこと。位牌を作らないこと。法事をしないこと。朝廷からの禅師号は受けてはならない」です。
また禅僧は頂相(ちんそう)と言う肖像画を遺すのですが(現在は遺影)、沢庵和尚のそれは円相と呼ばれる一筆書きの円の中央に点を加えたものでした。
円相は本来、僧侶の迷いのない完成された境地を現わすものですから、これに敢えて点を加えることは不完全であった自己を自省したものと言えるでしょう。
完成を誇る虚栄とは対極の自省に沢庵和尚の美意識を見ることができます。
「丸画いてゝ(チョン)」の遺影なんて格好良いではないですか。
また禅僧は遺偈と言う自己の境地を示す辞世の漢詩を遺すのですが、沢庵和尚はそれも拒み、臨終の床で弟子たちが「最期に何か」と訴え続けて、ようやく「夢」の1文字を書いて筆を投げ捨てて遷化したと言われています。
実は遺偈や辞世は年頭に作っておくものなのですが、沢庵和尚は生前、「まださめぬ 此の世の夢に 夢を見て はやはかななる 身の行方かな」を遺していました。
十方三世一切諸佛至尊菩薩摩訶薩摩訶般若波羅蜜
く1・沢庵像・春雨庵
春雨庵の等身大像(流刑中のため髪と髭は剃れなかった)と自筆「春雨」の額
  1. 2014/11/01(土) 09:39:05|
  2. 月刊「宗教」講座
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