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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月1日・井伊直政の命日

慶長7(1602)年の明日2月1日(太陰暦)は徳川3傑の1人にして初代彦根藩主である井伊直政さまの命日です。
野僧が東照神君・徳川家康公の譜代の家臣を語る時、故郷・愛知県岡崎市の三河武士の魂が熱く沸き起こるのですが、井伊直政さまは三河武士でなく現在の浜松市北区引佐町出身の遠州武士です。と言っても野僧は浜松基地に勤務している時、隣接する引佐郡細江町の官舎に住んでいたため慣れ親しんだ土地であり、愚息たちの七五三は井伊谷宮で受けました(お宮参りは岡崎城内の龍城神社だった)。
井伊家は代々遠州・井伊谷の地の領主でしたが祖父・直盛さんは今川義元に仕えるようになり、直政さまが生まれる前年に桶狭間の合戦で討ち死にしています。
父の直親さんは直政さまが生まれた翌年、義元の跡を継いだ暗君・今川氏真から謀反の疑いを掛けられ誅殺されてしまいました。
幼い直政さまでは井伊家を継ぐことはできず、窮余の策として直親さんの従妹で出家していた祐圓尼が還俗・男装して直虎を名乗りワンポイントリリーフになったのです。
しかし、母親は直政さまを連れて今川家の家臣・松下清景と再婚したため井伊家は事実上、断絶されてしまいました。母親が嫁いだ松下家では誅殺された直親さんの遺児が邪魔で仕方なく、折あらば殺そうと狙っていたようですが、御前崎の領主・新野親矩さん(直虎の伯父)に救い出されて井伊家に帰り、直虎さんを養母として育てられることになりました。
設楽が原の合戦があった14歳の時、徳川家康公に拝謁して井伊の家名と旧領の回復を許され、小姓として仕えることになったのです。こうして21歳の時に養母・直虎さんが亡くなると当主になり、三河譜代に引けを取らぬ八面六臂の活躍を見せるようになりました。特に武田攻めでは数々の武功を挙げ、22歳で遅い元服を迎えると家康公の養女・花を嫁に与えられ、本多忠勝さま、榊原康正さまと共に徳川3傑と称されるようになりました。ただ、家康公が他所者である直政さまを側近に取り立てたことを快く思わぬ輩の中には美男子であったことから「男色の相手ではないか」との噂もありましたが、生涯現役で子作りに励みまくった家康公に男色の趣味があったとは考えられません。
武田家が滅びた後、家康公は信玄以来の遺臣を召抱えますが、中でも飯富虎昌(おぶとらまさ)や弟の山県昌景が率いた「赤備え」を直政さまに与えました。これは全員が赤色の鎧兜を身につけた精鋭部隊で、ここから後は「井伊の赤備え」と呼ばれ、小牧・長久手の戦い、小田原城攻め、関ヶ原の合戦、大阪の陣、さらに幕末の戊辰戦争でもこの恰好で戦いました(戊辰戦争では目立って狙い射ちされたた脱ぎ捨てて逃げた)。
関ヶ原の合戦後は石田三成の遺領である近江国佐和山藩を与えられますが、領民が善政を敷した三成を敬慕し続けているのを見て、努めて石田時代の制度を踏襲し、三成と一族を供養することも許したことで領民の信頼を得たと言われています(同じことを加藤清正没後に肥後・熊本に入った細川忠興もやって成功している)。
井伊家からは正式には5人の大老が出ていますが、直弼さんが桜田門外の変で討たれた後、10万石の大幅減封を受け、毛利征伐では前述の惨敗を喫し、戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いでは先鋒を任されながら敵に寝返っています。
  1. 2015/01/31(土) 10:09:22|
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1月31日・英陸軍・パーシバル中将の命日

1966年の明日1月31日はイギリス陸軍のアーサー・パーシバル中将の命日です。
「パーシバル中将」と言われて判る人はかなりの戦史研究家でしょう。太平洋戦争開戦時のイギリス極東軍司令官であり、シンガポールにおける降服交渉で山下奉文中将の向かいの席に座っていた人物です。
当時の報道では「答えをはぐらかすパーシバルに山下将軍の目が光り、机を叩きながら『イエスかノーか』と迫り、パーシバルはうなだれて『イエス』と答えた」とドラマチックに描いていますが、山下中将自身は「通訳が回りくどい言い方をするので『君はイエスかノーかだけを正確に通訳すればよい』と注意しただけだ」と訂正しています。
野僧は子供の時に戦史アニメ「決断」を見ていたため「優柔不断で臆病なパーシバル中将は貴族出身に違いない」と思い込んでいましたが実は真逆で、軍学校(=イギリスに数多くある私立の士官学校)を出ていない兵隊上りの叩き上げでした。
綺麗事を言いながら自分の手は汚さない卑怯者のイメージは日本の公家のもので、イギリス貴族は元来が騎士や海賊であり、国王のため真っ先に命を捧げるのが貴族の誇りであり、責任とされているのです。
あるイギリス貴族の息子たちが学校の休みを利用して旅をしている時、新聞で「第1次世界大戦が始まった」との記事を読み、そのまま2人で最寄りの陸軍部隊に志願したことは「ノブレス・オブリージェ(高貴なる者が負う義務)」の実例とされています。
一方、パーシバル中将は第1次世界大戦に陸軍の兵士として出征しますが、すぐに将来の士官要員として育成されることになり、1916年7月1日から11月19日までフランス北部のソンム河畔で繰り広げられた最大の激戦・ソンム会戦で少尉に任官し、終戦までに大隊長、旅団長代行も務めています。
これが戦時中だけの特例処置かと思いきや終戦後もアイルランドの独立運動鎮圧で実力を発揮し、サンドハースト王立陸軍士官学校に入校した後、革命直後のロシア、ナイジェリアへの駐在を経てフランス派遣軍参謀長としてヨーロッパに赴き、第43師団長の時にはナチス・ドイツの本格進攻を避けて1940年5月26日から6月4日の間に連合軍が撤退したダイナモ作戦に参画しました。その後は第44師団長として英本土防衛の任務に当たっていたのですが、1941年4月に前述のイギリス極東軍司令官に就任したことで残存兵員13万人と言うイギリス軍史上、最大の降服にサインをすることになりました。
それにしてもこれだけの戦歴を持つパーシバル中将が何故、あのような体たらくを晒したのか?1つ考えられるのが「軍政」に不慣れなため住民(特にイギリス人)に対する配慮が過剰になって軍人としての本務をなおざりにしてしまった可能性です。
捕虜になってからは台湾や満州に抑留されていましたが終戦後に解放され、フィリピンでの山下奉文大将の降服やミズーリ号艦上で行われた日本の降伏文書調印に立ち会っています。その後はイギリス本国に帰りましたが、退役した将軍に贈られる「ナイト」の称号を受けることもなく沈黙を守った長い余生だったようです。
会見場に向かうパーシバル中将
会見場に向かうパーシバル中将(右から2人目)
宮本三郎作「山下中将とパーシバル中将」
宮本三郎作「山下中将とパーシバル中将」

  1. 2015/01/30(金) 10:27:41|
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アブドゥッラ国王の崩御を悼む

サウジアラビアの第6代国王であるアブドゥッラ・ビン・アヴドゥルアズゥーズ・アール=サウード陛下が1月23日に崩御されました。90歳でした。
アブドゥッラ国王は初代国王であるアヴゥルアズゥーズ・イブン・サウード国王の息子の1人で、オイルショックを起こして欧米先進国と対等に渡り合った3代・ファイサル・ビン・アブゥルアズゥーズ・アル・サウード国王や先代のファファド・ビン・アブドゥッルアズゥーズ国王とは異母兄弟にあたります。と言うよりもサウジアラビアでは2代目以降の国王は全員が初代・サウード国王の息子なのです。
昔のアラブ社会では友好の証として部族長の娘に子供を産ませる慣習があり、アラビア全土を治めることになった国王は100人以上の女性を相手に(イスラムの戒律で許されるのは5人)公認されているだけでも男子52人、女子37人、計89人の子供がおり、新たに就任したサルマーン・ビン・アブドゥッルアズゥーズ国王は先々代のファファド国王と母親を同じくする14歳違いの実兄弟です。
3代・ファイサル国王がオイルショックを起こす前、欧米各国はサウジアラビアが潤沢なオイルマネーで独自の軍事力強化を目指していることに反対し、最新鋭の兵器の輸出を拒否しました。それはイスラムの戒律を緩和して女性への教育を認めた国王を「親欧米である」と勝手に思い込んでいたのですが、サウジアラビアはあくまでもイスラム教国であって親欧米的政策は「それが国家の近代化に必要である」との判断に過ぎなかったのです。実際、ファイサル国王は「反イスラムである」として反発していた甥のファイサル・ビン・ムサーイド王子に暗殺されています(公式には精神疾患が原因とされ、同じ理由で反乱を起こした兄が国王の命令で射殺されたことへの恨みとも言われている)。
ファイサル国王の暗殺以降、サウジアラビアはイスラム教への回帰を鮮明にしており、実際、アブドゥッラ前国王はアフガニスタンのタリバンを始めとする原理主義運動を支援しており、これは今後も継続され、イスラム教国の盟主を志向していくのでしょう。
ところでサウジアラビアの新国王は1935年大晦日生まれの79歳ですが、タイのラーマ9世=プーミポンアドゥンラヤデート(これが1つの名前)国王は1927年12月5日生まれの87歳、ダライ・ラマ14世法王猊下は1935年7月6日生まれの79歳、イギリスのエリザベス2世女王は1926年4月21日生まれの88歳、ついでに日本の今上さんは1933年12月23日生まれの81歳で、有名どころの王様は高齢化が進んでいるようです。お若いのはブータンのジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王で1980年2月21日生まれの34歳です(2006年に退位された父のジグミ・シンゲ・ワンチェク前王も1955年11月11日生まれで御壮健です)。
日本の皇室は後継者不足に悩んでいるそうですが、昭和の陛下と良子皇后の間には2男・5女でした。秋篠宮さんは「兄のところに男子ができるまで」と遠慮していたそうですが今となっては失敗だったようです。
合掌すると冒涜になりそうなので黙祷。
  1. 2015/01/29(木) 09:38:27|
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1月28日・福島泰蔵大尉が戦死した。

明治38((1905)年の明日1月28日に八甲田山から全員を無事に生還させた弘前・歩兵第31連隊の訓練指揮官・福島泰蔵大尉が戦死しました(=映画「八甲田山」では高倉健さんが演じた徳島大尉)。
あの映画の原作は新田次郎さんの「八甲田山死の彷徨」ですが、野僧は恩師から借りた福島大尉の伝記「八甲田山から還ってきた男(著者・高木勉さん)」を読んで深く感銘を受け、幹部自衛官になってからは「将軍や提督を目標にしても仕方ない」と福島大尉を指揮官としての規範としていました。幸いなことに青森県の車力に赴任する機会を得て、地元で各方面の資料を探すことができましたが、新田さんの原作や映画よりも高木さんの伝記の方が史実に近いようでした。
福島大尉は群馬県新田郡世良田村の商家に生まれ、徴兵で陸軍歩兵第15連隊に入営し、兵役1年で選抜した者を1年間の教育で下士官に養成する教導学校を経て陸軍士官学校に入り、少尉に任官しました。ところで福島少尉には地図作成と言う趣味と特技があり、中尉の時にはこれを活かすため陸地測量部に転属になりますが、1年後には大尉に昇任し、新設された歩兵第31連隊の中隊長として弘前に赴任しました。
この頃は日露間の戦争が現実味を増し、弘前の第31連隊は函館連隊区、青森・歩兵第5連隊と共に津軽海峡を警備し、さらに大陸での戦闘に備える任務を帯びていました。
そんな中、福島大尉は岩木山での雪中行軍を成功させており、八甲田山はその研究・訓練の延長として1か月前に命令を受け、綿密な準備と参加者=少数精鋭37名への教育を実施していましたが、一方の青森・第5連隊の神成文吉大尉(=映画では北大路欣也さんが演じた神田大尉)は連隊首脳の思いつきから出発の3日前に命じられたのです。
このため青森側は、訓練の目的も単なる雪中行軍から模擬戦闘にまで話が広がり、それに伴って編成は210名(死者は199名)と大規模になり、さらに視察名目で大隊長の山口鋠少佐も同行することになりました。
神成大尉は秋田県北秋田郡鷹巣村の出身なので群馬県出身の福島大尉よりも雪には慣れていたはずですから、やはり上の単なる思いつきを下に押しつける組織の愚かさに殺されてしまったのでしょう(野僧も防府と車力で嫌と言うほど経験しました)。
その後の福島大尉は旅団長の副官になったものの旅団長・友安治延は同郷(山口県出身)の乃木希典をミニチュアにして素行不良にしたような人物で、真面目一筋の福島大尉と上手くいくはずがなく、旅団長が池で釣りをしている時、脊後の馬上から大きな石を投げ込み、何も言わずに立ち去るなどの乱暴狼藉を尽した結果、陸軍省の裁定で友安は後備役編入、福島大尉は山形(記録では山形だが日露戦争前は秋田に在ったはず?)の歩兵第32連隊へ転属しました。そして日露戦争に出征し、旅順要塞攻略に続く奉天会戦・黒溝台の戦闘で戦死したのです。
ちなみに友安は現役復帰して旅順攻撃への参加を命ぜられましたが、悲惨な現場を見て辞退する醜態を演じましたが、山口県では郷土出身の将軍に列せられています。
この日は神成大尉が八甲田山で死んでから丁度、3年と1日でしたが2人に面識があったかは不明です。映画のような交流はなかったようですが。
  1. 2015/01/27(火) 09:26:25|
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1月27日・三船久蔵10段の命日

昭和40(1965)年の明日1月27日は柔道の神様・三船久蔵(「くぞう」と呼ばれることが多いが「きゅうぞう」)10段の命日です。82歳でした。
三船10段は岩手県久慈市出身で、尋常高等小学校を卒業して地元の郡役所に就職したものの数日で退職、親は仕方なく一関中学校を経て仙台第2中校へ進学させました。
仙台2中で柔道に出会い、同じ仙台市内の第2高校へ通って柔道を学びながら自分の中学校にも柔道部を作りますが、仙台市内にはまともに立ち合える相手がいなくなったため上京し(東北帝国大学や警察などにもいなかったのか?)、講道館に入門しました。
三船10段は身長159センチ、体重55キロと柔道家としては小柄だったため「柔よく剛を制す」を体現した人と言われていますが、昭和40年まで存命だったため老齢になってからの模範演武の映像が残っており実際の神技を見ることができます。
野僧もインターネットが普及する以前に自衛隊体育学校で記録ビデオを見ましたが、大柄な相手に振り回されながら隙を突いて力も入れずに投げ飛ばしているように見え、「これが達人の技かァ」と大変に感動した覚えがあります。
三船10段と言えば「空気投げ=隅落とし」ですが、高校の柔道部で西郷四郎6段の「山嵐」と同様に「空気投げ」を研究したことがあります。この時は丁度、地域の柔道連盟主催の講道館柔道の形の講習を受けたので最初に習う「浮落」を「これが空気投げに違いない」と誤解して終わりました。しかし、「隅落=空気投げ」と「浮落」では崩す方向が逆だったのです。と言うのも体育学校で教官に掛けてもらったことがあり(「身長差があった方がやり易い」と言われて教材にされた)、印象としては大外刈のような崩し方で足を刈らずに引き手だけでひっくり返されたような感じでした。打ち込みのように身構えていてはやり辛く、試合や乱取りの流れの中で相手の勢いを借りて投げる技でしょう(芦原会館空手の「捌き」のように)。その時、教官は「多分、これは合気道の技だ」と説明していましたが、合気道にも「隅落」と言う技があり、「三船10段は合気道も学んでいたから乱取りの時に使ってみたら決まったので得意技に加えたのだろう」と言うのが推論でした。
もう1つ、三船10段と言えば関節技の「三角固め」ですが、これは当時の柔道部員の愛読書「1・2の三四郎」で岩清水健太郎が唯一の得意技にしていた「三角締め」と間違えて研究していました。この技は相手が「縦四方固め」に入ってくる時がチャンスなのですが、きまると簡単に落ちてしまうため「活」の入れ方を習うことになりました。
野僧は後年、レスリングの元日本代表から「三角固め」をアームロックの「トライアングル・アームバー」として習いましたがかなり痛いです。合気道や少林寺拳法の間接技は捻りによって神経に効きますが、柔道の関節技は力学的に責めますから無理な我慢をすると骨折することもあります。気をつけましょう。
野僧は三船10段が考案した技では「踵返し」が得意でした。これは襟を握って押しながら相手の膝下をさらって倒す技で、小内刈りからの連続技として使っていました。
  1. 2015/01/26(月) 09:14:22|
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柔道家・斉藤仁さんの逝去を悼む

我々と同世代(昭和36年1月2日生まれ)の柔道家・斉藤仁さんが20日に亡くなったそうです。
斉藤さんは国士館大学の柔道部で「東海大学の山下泰裕5段(当時)のライバルになるのではないか」と新聞などで報じられていましたが、結局、公式戦では勝つことなく終わってしまいました。
ところが国際舞台では無敵の強さを発揮して、山下さんは日本がモスクワ・オリンピックをボイコットしたため果たすことができなかったオリンピック連覇の偉業を達成しています。
斉藤さんを見ていると超々一流のライバルを持った超一流の選手の不運を感じざるを得ません。相撲界なら大横綱・大鵬の陰に隠れた横綱・柏戸、野球界ならONに打たれることで名を残した阪神・村山実投手、サッカー、ボクシング、マラソンなどにもスーパースターが浴びるスポットライトの影で敗者にならざるを得なかったスーパー・ナンバー2は数知れないでしょう。勿論、大したことがないのに全体のレベルが低かったからスーパースターになった選手も少なくありません(特に神格化されている黎明期の選手)。
陸上競技や水泳などはタイムと言う明確な数字で比較され、チーム・プレイは試合の中で活躍の場が与えられますから偉大なナンバー2の実力もある程度は知られますが、武道や個人戦の球技ではライバルが出ない試合で優勝しても「××がいないから勝てた」と酷評されて終わりです。
「運も実力のうち」と言われればそれまでですが、同様に「実力はあっても運がない」野僧は涙ぐみながら冥福を祈ります。合掌
  1. 2015/01/23(金) 11:29:56|
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閏1月22日・戸沢政盛公の命日

慶安1(1648)年の明日・閏1月22日(太陰暦)は我が新庄藩の初代藩主・戸沢政盛公の命日です。波乱満場の64歳でした。
戸沢家は鎌倉時代から出羽国で力を伸ばしていた名門ですが、戦国時代になると本拠地である角館(現在の秋田県仙北市)の周辺を領するに過ぎなくなっていました。そんな中、政盛公の父・盛安公は「鬼九郎」と呼ばれた程の勇将で、折から最上義光公、伊達政宗公の登場で東北地方が本格的乱世の様相を呈し始めたのに乗じて勢力を拡大していったのです。ところが秀吉の小田原攻城に参陣していた天正18(1590)年6月6日に24歳の若さで病没してしまいました。
家督は弟の光盛公が継ぎましたが、こちらも2年後の16歳の時、文禄元(1592)年に朝鮮出兵で肥前国・名護屋に向かう途上の播磨国姫路で病没しました。
一方、政盛公は盛安公が鷹狩りに出た時、一目惚れした農民の娘に生ませた落し胤で、母親は連れ子で東光坊と言う山伏の妻なっていたのですが、光盛公にも子供がなかったため戸沢家は断絶の危機に陥り、家臣たちは東光坊を惨殺して7歳の政盛公を奪い取り、そのまま大坂で秀吉と対面させて相続させたのです。
その後は角館で成長し、秀吉没後に起こった関ヶ原の合戦では東軍側につき、会津・上杉景勝と山形・最上義光公の死闘の中で最上川河口にある上杉方の東禅寺城を攻略しました。
この功で常陸国の松岡藩に4万石を与えられますが、これは角館領よりも5千石の減封だったのです。この地で徳川家譜代中の譜代にして忠臣中の忠臣、ミスター三河武士の鳥居元忠さまの娘を正室に迎え、さらに元忠さまの息子・忠政の二男を娘の婿養子(=従兄妹同士の結婚)にして跡取りに定め、幕府との関係を強化したこともあり、大坂冬・夏の陣では攻城に参加することなく、江戸城に詰めて守護に当たりました。
こうして関東の地を約20年間治めましたが、現在の山形県の大半を領していた最上家が改易になり、その広大な領地を分割することにした幕府から現在の新庄市と最上郡一帯、村山郡の一部を与えられ6万石の大名となったのです。その後は新庄城の築城や城下町の整備と新田開発や鉱山開発、市場改革などに努力しながら生涯を終えました、政盛公の治世は実子の正誠公(まさのぶ・鳥居忠政の二男は藩主になる前に病没した)の時に花開き、実質的な禄高は13万石を超えたのですが、60年にわたる藩政の緩みから次第に放漫経営に陥り、3代藩主・正庸(まさつね)公の時には巨額の借財を返却するため厳しい倹約令を敷き、産業振興を図りますが、折から続発した飢饉により破綻状態に至ります。
これ以降の藩主は領民に「いくら働いても仕方ない。年貢だけ納めれば好きにせよ」と言って放任していたと伝わっています。
実は山形県最上郡の戸沢村(旧・角川村)が野僧の祖父の出身地で、先祖代々の墓参に訪れた際、大叔父から地名の由来を「藩主・戸沢家の出身地だから」と聞かされていますが調べてもハッキリしません(大叔父が野僧を住職に迎えようと尽力してくれた戸沢村蔵岡の長林寺が戸沢家の先祖の菩提寺とも聞いていますが)。
  1. 2015/01/21(水) 09:45:46|
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SF作家・平井和正さんの逝去を悼む

1月17日に「エイトマン」の原作者であるSF作家の平井和正さんが亡くなったそうです。意外に若く76歳でした。
「エイトマン(漫画の方は「8マン」と書く)」は1963年から64年にTBS系列で放送されたアニメ番組で、同時期に放送されていた日テレ系の「鉄腕アトム」(こちらの方が約2年長かった)と見比べ、主題歌を歌い比べたものでした。
主人公の私立探偵・東八郎が変身してエイトマンになるのは純粋にロボットの鉄腕アトムにはないと魅力ですが、リアリティとしてはアトムの方に軍配が上がるのでしょう。現代のロボット研究者には子供の頃、アトムの影響を受けたと言う人が多いですから。
エイトマンを見ていて子供心に腹が立っていたのは探偵事務所の助手・関さち子が毎回、危険な目に違いエイトマンに救ってもらうことで、「邪魔だからついてくるな」とテレビに向かって文句を言っていました。
エイトマンの主題歌を歌っていた克美しげるは愛人を殺してトランクに詰めて放置する事件を起こしたため「懐かしのアニメソング」の番組にも登場しなくなってしまいましたが、背番号8番だった読売ジャイアンツの原選手や近鉄バッファローズの梨田選手の応援歌になっていました。あの歌で子供同士の論争になっていたのは「タマよりも早く」の一節で、その時にエイトマンが新幹線を追い抜いていく場面が映るため小学生のガキ大将が「こだま号のことだ」と言い張って「鉄砲の弾のことだ」と言った野僧は「嘘つき」「知ったかぶり」と苛められてしまいました(作詞は前田武彦さんです)。
それにしてもアニメは24、5歳の頃の作品だったのですね。御冥福を祈ります。合掌
  1. 2015/01/20(火) 09:38:38|
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1月21日・レーニンの命日

1924年の明日1月21日にロシア革命の首謀者・タバーリシ・レーニン(本名・ウラジミール・イリイチ・ウリヤノフ)が53歳で死去しました。
野僧は中学・高校時代にモスクワ放送を欠かさず聴いていたためレーニンに心酔し、ラジオに習ってロシア語で「同志」を意味する「タバーリシ」を付けて呼んでいました。
これは洗脳と言うよりもラジオや親がとっていた朝日新聞、更に愛知県の学校教育(県教組は共産党系)で美談ばかりを聞かされた結果でしょう。中学校の音楽室でもショスターコービッチの交響曲5番「革命」が流れていました。
レーニンは1870年4月22日にヴォルガ河畔のシンピルスクに貴族で物理学者の父とドイツ系ユダヤ人の母の2男として生まれました。
父は貴族と言っても学才と教育手腕を皇帝に認められて列せられた人物なので、当時のロシアが抱えていた農奴や庶民の貧窮の問題を子供たちに語り、このため兄は皇帝暗殺計画に加わった容疑で絞首刑、姉も追放刑を受けています。
レーニンは秀才揃いの兄弟姉妹の中でもずば抜けた学才を発揮していましたが、カザン大学時代にマルクスの著作に触れたことで学生運動に参加するようになって退学処分を受け、「テロリスト兄弟」として秘密警察の監視されることになりました。
この頃のレーニンは面立った活動は控え、マルクス主義の学習とカザン大学時代に専攻していた言語学の研鑽(ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、英語、ドイツ語に極めて堪能だった)などの学究生活を送り、兄の母校であるサンクトペテルブルグ大学に入学し、国家試験で最高得点を獲得して第1法学士の称号を与えられています。
その後はマルクス主義の革命家の道を歩み、逮捕・投獄、シベリア流刑を受け、やがてスイスに亡命しました。ヨーロッパと言う舞台で得意の語学を駆使して人脈を広げながらロシア国内でのマルクス主義運動を遠隔操作しながら第1次世界大戦中の1917年に発生した2月革命により帰国を果たしました。しかし、革命政権内の路線対立で少数過激派が実権を握るとフィンランドに亡命し、また遠隔操作で権力闘争を勝ち抜き、10月革命で反対派を排除=抹殺して「ソビエト社会主義共和国連邦」を樹立したのです。
レーニンの思想は国内での労働階級による権力奪取までだったマルクス主義を世界革命による地球規模の共産主義社会の実現に拡大したもので「マルクス・レーニン主義」と呼ばれています。またイギリスと中心に力を持っていた労働者が団結権に基づく平和的な闘争によって資本家を交渉して待遇改善を実現する社会民主主義運動は「真のプロネタリアート社会の実現には武力革命による社会制度の根本的な変革が不可欠である」と否定しています。日本共産党も以前はこの見解を党是としていましたが最近は口にしなくなりました。
ちなみに創設期の日本共産党を指揮した野坂参三と宮本顕治は山口県出身で、戊辰戦争を「日本における武力革命=階級闘争」と認識していたらしい発言が残っています。
レーニンの死因は脳梗塞とされていますが遺骸は防腐処理され、ソ連崩壊後の現在も赤
の広場にあるレーニン廟に安置されています。
余談ながらソ連から現在のロシアには「国家指導者の頭はハゲとフサフサの交互」と言う不思議な法則があります。レーニン(ハゲ)、スターリン(フサフサ)(1週間だけ暫定のマレンコフは除く)、フルシチョフ(ハゲ)、ブレジネフ(フサフサ)、アンドロポフ(ハゲ)、チェルネンコ(フサフサ)、ゴルバチョフ(ハゲ)、エリツィン(フサフサ)、プーチン(ハゲ)、メドベージェフ(フサフサ)、プーチン(ハゲ)。ほぼ100パーセントです。
  1. 2015/01/20(火) 09:37:47|
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声優・大塚周夫さんの逝去を悼む。

1月15日に声優・大塚周夫さんが85歳で亡くなったそうです。
大塚さんと言えば我々の世代では「ゲゲゲの鬼太郎」のビビビのねずみ男ですが、野僧は「チキチキマシーン猛レース」や「スカイキッド」のブラック魔王が印象に残っています。
特にスカイキッドは航空自衛隊に入ってからテイクオフ(離陸)する戦闘機を見送りながら主題歌を口ずさんでいると周りの連中と合唱になったものです(ほとんど合いの手で、歌詞は短いため簡単だった)。
「えらいこっちゃ えらいこっちゃ 捕まにゃそんそん そーれどうしたどうしたどうした どうしたどうしたどうした 敵はホッピー1匹だけさ シャバダシャバダそれ行くぞ ブラック魔王とケンケンたちも シャバダバシャバダバ追いかけろ あの手この手奥の手で 空中作戦ソレソレ開始ソレ開始 あっどうしたあっどうしたあっどうした どうしたどうしたどうした」御冥福を祈ります。合掌  
余談・ケンケンの笑い声(台詞はない)を担当していた神山卓三さんは2004年の3月15日に逝去しています。
  1. 2015/01/19(月) 09:47:08|
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1月20日・イランの米大使館占拠事件が解決した。

1981年の明日1月20日、イランの米大使館占拠事件が444日ぶりに解決しました。
事件の背景には1979年1月16日にイラクのモハンマド・レザー・パフラヴィー(当時は「パーレビー」と呼んでいた)国王が自ら政府専用機を操縦してエジプトに亡命し、2月1日にホメイニー師が帰国したことでイスラム革命評議会が権力を奪取したイラン革命がありました。
パフラヴィー国王はエジプト、モロッコ、バハマ、メキシコを転々としていましたが、「癌の治療」の名目でアメリカへの入国を求め、イラン新政権との対立を心配するカーター大統領を国王の友人であるキッシンジャー元国務長官が説得し、10月22日に入国しました。これまでアメリカは欧米的な宮廷生活を送るパフラヴァー国王を支持し、イスラム革命を敵視していましたから、この実質的な亡命によりイラク国内では憤激が巻き起こり、イスラム法学校の学生たちが11月4日にテヘランにあるアメリカ大使館を占拠して、外交官や在願公館警備の海兵隊員とその家族53人を人質に国王の引き渡しを要求したのです。これは公館への私人の侵入・破壊・冒瀆を禁じ、外交官を保護する責任を定める「外交関係に関する1961年ウィーン条約」に対する重大な違反であり、成立間もないイラン革命政権は国際的な批判を浴びることになりました。
この事件の発生を受けてパフラヴィー国王は12月5日にアメリカを離れ、パナマを経てエジプトへ戻りました。
元軍人である(現在は牧師)カーター大統領も手をこまねいた訳でなく1980年4月24・25日に「イーグルクロー(鷲の爪)作戦」と言うデルタフォース(陸軍の非公認の特殊部隊)、海軍、空軍、海兵隊を動員した大使館員奪還作戦を実施しましたが砂漠の気象に対する認識が甘く、砂嵐で輸送ヘリが飛行不能になった上、強風にあおられたヘリコプターが輸送機に激突して炎上、8名の死者と4名の負傷者を出す失敗で終わりました。、
この作戦を知ったイラン革命政権は当然のように態度を硬化させ、カーター大統領に対するアメリカ国民の支持は急落しました。さらに5日後の4月30日にロンドンの駐英イラン大使館を占拠した反ホメイニー派暴徒をSASが6日間の戦闘で解決に成功した「ニムロッド(旧約聖書の登場人物)作戦」が追い討ちを掛けたのです。
結局、パフラヴィー国王が1980年7月27日に死んだことで占拠の意味が薄くなり、この年の大統領選挙でカーター大統領が敗北したことで合意に至り、ドナルド・レーガン大統領が就任するこの日に人質が解放されました。
この事件によって威信を傷つけられたアメリカはイラン革命政権に対抗するイスラム国家としてイラクのサダム・フセイン政権を選び、資金と武器を供与し、軍事訓練を施し続けたのですから、その後の軍事行動とフセインの捕獲・処刑は自ら蒔いた種から生い茂った草を刈る責任であった反面、対イスラム外交の失敗として真摯に反省すべきだったのです。
そもそも敬虔なイスラム教徒が支持するはずのない欧米かぶれの国王を支持していたところから間違っていました。おそらくワシントンの人間はイスラム教徒をアラビアン・ナイトのイメージで見ていたのでしょう。
  1. 2015/01/19(月) 09:45:55|
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1月18日・最上義光の命日

慶長19(1614)年の明日1月18日は我が山形県の英君・最上義光(よしあき)公の命日です。
戦国時代は日本史の中でも一番人気ですが、東北地方の歴史はNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」で取り上げられるまで地元の郷土史以外は詳しく教えられなかったようです(明治新政府にとって都合が悪い内容が含まれるため学校教育でも否定されていたらしい)。
その「独眼竜政宗」で原田芳雄さんが演じていた(当初は松田優作さんの予定だった)義光公は妹であるお東の方(岩下志麻さん)に我が子・政宗(渡辺謙さん)の毒殺をそそのかしたりする悪役扱いで、東北の戦国ドラマが少ないだけにそのイメージが固定されているようです。その伊達政宗も本来は米沢の領主なので山形県の英雄ではあります。
義光公は天文15(1546)年の元日(太陰暦)に出羽国の新興勢力であった山形の領主・最上義守公の嫡男として生まれました。ちなみにこの年の12月22日(太陰暦)には軍師官兵衛=黒田如水公が生まれています。
永禄3(1560)年に元服して初陣を飾り、永禄6(1563)年には義光公も父に従って上洛し、13代将軍・足利義輝に拝謁しています。それにしても当主と嫡男が一緒に長旅をするとは中央の武将では考えられないことです。
翌年、前出の妹・義が米沢の伊達輝宗に嫁ぎ、永禄10(1567)年8月3日(太陰暦)に政宗を生みますが、この年には次回の大河ドラマの主人公・真田信繁(=幸村)が生まれています。
元亀元(1570)年、父との間で争いが起こりますが重臣の仲裁で和解し、家督を相続することができました。しかし、内紛の火種はくすぶり続け、才覚と野心にあふれた義光公は伊達氏を始めとする周辺の諸侯の中で出る杭になっていきました。
その伊達家でも相続争いを鎮めるため妹の夫・輝宗が突然、嫡男・政宗に家督を譲ると義光公以上の猛々しさを発揮して、東北地方は本格的乱世が始まる寸前になっていきました。ところが中央では既に豊臣秀吉が覇権を確立しており、天正18(1590)年の小田原攻城までの間、諸将はどちらにつくかの選択を迫られます。義光公は庄内地方を巡る上杉氏との戦いで徳川家康公を通じた人脈を持っていたため迷うことなく豊臣側についています。小田原へは父親・義守公の葬儀のため伊達政宗よりも遅参していますが何の咎めも受けず本領を安堵されました。
ところがそこから悲運が始まり、末娘の駒姫が秀吉の甥・秀次の目にとまって側室に召し出されたものの秀吉によって一族皆殺しにされた中で15歳の命を散らしました。
関ヶ原の合戦では会津・上杉景勝との死闘を演じ、その功により現在の山形県(置賜地方を除く)を治める57万石の大大名になりましたが、その後もお家騒動は続き、家臣の讒言によって不仲になっていた長男(廃嫡)の義康さんが暗殺されると家康公の小姓(=人質)を勤めていた次男の家親さんを跡取りにしますが、義光公が没して3年後に36歳で亡くなりました。その子・家信くんが13歳で藩主になったものの内紛は収まらず、元和8(1622)年に改易されてしまいました(この時、義俊と改名した)。余談ながら時代劇「水戸黄門」に登場していた家老の山野辺兵庫(初代は大友柳太郎さん)は義光公の4男・義忠さんの子供で孫にあたります。
義光公は武勇に優れていただけでなく治世にも長け、関ヶ原の合戦後に獲得した庄内地方と山形を結ぶ街道を整備し、水上交通の最上川の難所を開削しています。さらに日本海に面する酒田港を整備して領内だけでなく全国に流通を行き渡らせました。そして優れた職人を招聘して産業を興し、商人を保護して城下町を発展させ、東北地方でも他県とは全てにおいて格が違う我が山形県の基礎を作り上げたのです。
名言「大将と士卒は扇のようなものだ。要は大将、骨は物頭、総勢は紙だ。どれが欠けても用を為さないのだから、士卒とは我が子のようなものだ」野僧もそう思っていました。
  1. 2015/01/17(土) 10:23:38|
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1月17日・「マッサン」のエリーのモデル・竹鶴リタの命日

昭和36(1961)年の明日1月17日はNHKの朝の連続テレビ小説「マッサン」の亀山エリーのモデル・竹鶴リタさんの命日です。64歳でした(マッサン=亀山政春(玉山鉄二さん)のモデル・竹鶴政孝さんは昭和54年8月29日没、85歳でした)。
リタさんは第1次世界大戦で婚約者を亡くした直後にスコットランドのグラスゴー大学に留学していたマッサンと出会い、両家の反対を無視して登記所で婚姻手続きをしました。
ドラマはマッサンが鴨居商店に入るところからしか見ていないので2人の出会いや結婚を決意するまでの交際がどのように描かれていたのかは知りませんが、リタの妹から弟に柔術を教えるように頼まれてカウン家を訪れ、リタがピアノ、マッサンが持参していた鼓を演奏したことから急接近したようです。
来日したのは大正9(1920)年でリタも大阪市住吉区にあった自宅に近い定塚山学院で英語やピアノの教師として働きました。ドラマにはありませんが大正13(1924)年と昭和6(1931)年には寿屋(ドラマでは鴨居商店)からの視察でスコットランドへ行ったマッサンと一緒に帰国し、その後は鎌倉市に移住しています。
昭和9(1934)年にマッサンが寿屋を退社して北海道で大日本果汁(ニッカは日本と果汁の頭文字)を設立すると翌年にリタも転居しました。
ドラマの登場人物としての養女は「エリー」と「政春」の1字ずつを取って「エマ」と名付けましたが、実際も「リタ」と「政孝」で「リマ」と改名しています。ただ成長していくに従って不仲になり、やがては家を飛び出して金の無心の時だけ父親に連絡するような関係になってしまったようです。それでもリタの晩年には帰宅して懸命に看病したそうですからNHK的なハッピーエンドにするのでしょう。
鴨居商店の大将・鴨居欣次郎(堤真一さん)はサントリーの創業者・鳥井信治郎さんですが、長男の栄一郎(浅香航大さん)は鳥井吉太郎さんで寿屋の副社長を務め、阪急や東宝の創業者・小林一三さんの2女と結婚しながらも31歳の若さで早逝しています。
もう1人、ニッカ・ウィスキーを継いだのは広島の姉の4男を養子に迎えた威(たけし)さんで昨年12月17日に90歳で亡くなりました。
マッサンの実家の竹鶴酒造(ドラマでは亀山酒造)は広島県竹原市に現存し、「竹鶴」と言う銘柄の酒を出しています。幹部候補生学校の時、年末年始休暇で全国各地に帰省するので地酒を持ち寄って利き酒会をやったのですが、防府の酒屋で勧められたこの酒を同期たちに飲ませたところ「癖のないマイルドセブンのような酒」と言う評価でした。スモーキー・フレーバーが効いていないのかも知れません(冗談です)。
ドラマのエリーは金髪ですがリタさんは黒に近い濃い茶色の髪で、演じているシャーロット・ケイト・フォックスさんも本当は同様の髪なのにワザワザ金髪にさせているのです。これは日本人が固定観念として抱いている外国人女性のイメージに合わせているのでしょうけれど、両親を英語ではなくフランス語(むしろ中国語)の「パパ」「ママ」と呼ばせていることも合わせて、あまりにも軽薄です。とマッサンになり損なった野僧は怒っています。
  1. 2015/01/16(金) 09:02:31|
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1月16日・藪入り

明日1月16日は藪入りです。これは丁稚奉公があった時代、小正月明けのこの日と7月16日にだけ完全な休みを与えられ、親元に帰ることが許されたのです。
本来は丁稚などの奉公人ではなく嫁が実家に帰る「宿下がり」が始まりで、それが「宿入り」に変化して「藪入り」になったと言うの語源の定説になっています。関西地方では6が付く日の帰宅なので「六(むつ)入り」とも呼ばれ、鹿児島では親に会いに行く「親見参(おやげんぞ)」と言うそうです。
今では丁稚奉公もなくなり、労働基準法によって休養日は従業員の権利として認められていますが、「藪入り」と言う言葉は古典落語の名作として残っており、丁稚奉公に出した我が子の帰宅を待つ親の心情や成長した我が子と再会した親の驚きが絶妙の笑いと共に描かれています。
野僧は預けられていた寺で「笑点」やNHKの「お好み演芸会」を見ていたため古典落語が好きになり、高校の時には生徒会長の職務権限で生徒のフォーク歌手やロックバンドの希望を無視して先代の三遊亭円楽師匠を文化祭に呼び、猛反発していた生徒たちからも「流石は会長!感動しました」と絶賛されました。大学でも落語研究会(落研=おちけん)に入ろうと思ったのですが副業が忙しくてそれどころではありませんでした。沖縄では寄席がないので円楽師匠や笑福亭仁鶴師匠のカセット・テープを揃えましたが、奈良の幹部候補生学校では上方落語の高座、目黒の幹部学校からは上野・鈴本演芸場へ通ったものです。
「藪入り」は元来、「お釜さま」と言う小僧が番頭から性的虐待を受ける破礼噺(ばればなし=下ネタの噺)でしたが、それを三遊亭金馬が人情噺に改作したのです。
「お釜さま」では小僧が男色趣味の番頭から肉体関係を強要され、口止め料として小遣いをもらっていたのですが、藪入りで帰宅した時、息子を銭湯へ行かせた親が財布の中の多額の金を見つけて驚き、訳を訊くと息子が番頭との関係を洗いざらい話し、それを聞いた父親が「お釜さまのおかげだ」と落ちをつけています。一方の「藪入り」は息子が帰宅するところだけを抽出して膨らまし、「藪入りや 何にも言わずに 泣き笑い」を枕(まくら=序)に前夜、布団の中での両親の会話から早朝に起き出してイライラと待ちわびる父親、帰宅した息子の成長に驚く父親をクスグリ(小ネタ)で笑いにつなげ、そして銭湯へ行かせて財布の中の金を見つけるところは同じでも、落ちは当時、ペストの流行でネズミに懸賞が掛かっていてそれが当たったことになり、「みんなチュウのおかげだ」になっています。
この「チュウ」は忠義の「忠」とネズミの鳴き声の「チュウ」を掛けていますが、庶民の芸としては難解で、あまり上手い落ちではありません。
なお「藪入り」の名台詞は拙作「どさ?」「江戸さ」でトモ造が津軽から帰ってきて両親と再会した場面などで使わせてもらっています。
野僧も「帰りたい」と願えるような実家が欲しかった・・・強制帰省は本当に苦痛でした。
  1. 2015/01/15(木) 09:17:13|
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1月15日・薬師岳での愛知大学山岳部の集団遭難事故

昭和38(1963)年の明日1月15日に北アルプス・立山連峰の薬師岳で愛知大学山岳部の13名が集団遭難しているのが発見されました。
愛知大学は野僧が親の命令で無理やり受験させられ中退した地元の大学ですが、この事故の捜索や賠償金が巨額になったため経営危機に陥った話は詳細に聞いています。
昭和38年は「サンパチ豪雪」と呼ばれる大雪になった年で、明治35(1902)年に旭川で日本の最低気温を記録した時に八甲田山に入った青森・第5連隊並みの不運でしょう。尚、同一遭難事故での犠牲者数としては八甲田事件に次ぐ国内第2位の惨事で、新田次郎さんの名作「聖職の碑」の題材になった大正2(1913)年8月26日の木曽・駒ケ岳での箕輪中学校の教職員・生徒11名が続きます。
この惨事の舞台になった薬師岳は北アルプス=飛騨山脈の北端、立山連峰の冨山県側にあり、海抜は2926メートルで最高峰、山岳信仰では薬師瑠璃光如来の在所とされています。ちなみに主峰・立山は阿弥陀如来です。
愛知大学山岳部のパーティーは4年生をリーダーにした新入部員が大半の素人集団で正月登山として薬師岳に登頂する予定だったのです。
1月2日に山頂下の太郎平にある山小屋を出発したものの折からの天候悪化で標高にして300メートル、距離では4キロ程を残して登頂を断念し、引き返したのですがホワイトアウト状態の中、下山ルートを誤り、東南尾根に迷い込んでしまいました。
宿泊予定の麓の旅館から地元・上市警察署に連絡が入ったのは13日になってからで、下山予定は6日だったのですからすでに1週間が経っていました。
当時は平野部でも2メートルを超える大雪で、重みによって家の屋根が倒壊する事故が相次ぎ、交通網は完全に麻痺していたため山間部へは食糧も届かない状況でした。
そんな中、県警と山岳ガイドが出動しますが当時のヘリコプターは悪天候下での飛行は困難で、県警に専門の救助隊はなく2次災害の危険と隣り合わせでした。
この日、ようやく現場に辿り着き、太郎平の山小屋のオーナー・五十嶋博文さんの「正しいルートで下山していれば山小屋に寄るはずだ(山小屋としては遭難の確信がない状態で危険な単独捜索はできない)」との推測に基づく先導で東南尾根を捜索したところ11名の遺骸を発見、その後、奥の廊下で残る2名を発見しました。
事故の原因としてはリーダーの4年生も大学に入って登山を始めたレベルで大半の冬山初心者を指導するには経験不足だったこと(これが登山計画を許可した大学の責任を問われた要因)や遺骸や残された荷物からコンパスや地図が発見されておらず、ルートから外れる事態を想定していなかったのではないかと推定されています。
現在、薬師岳への登山口に入ってすぐの道沿いには犠牲者の慰霊のため13の屋根を積んだ石の十三重の塔が建立されています。
しかし、「冬山で遭難すると金がかかる=登山は親不孝者の趣味」と言う卑しい教訓が広がっているのが地元・愛知県東三河地方なのです。
  1. 2015/01/14(水) 09:36:51|
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1月14日・若林東一中尉が戦死した。

昭和18(1943)年の明日1月14日に香港作戦の英雄・若林東一中尉がガナルカナル島の見晴山で戦死しました。戦死後に大尉に特別昇進しています。
若林中尉の活躍はアニメンタリー「決断」でも紹介されているため意外に有名なのですが、個人については名前も紹介されていなかったのであまり知られていないでしょう。
野僧の場合、「決断」を見て心酔した同期(タック・ネーム「テイコク(帝国)」)が名前を調べてきたため研究できました。
若林中尉は山梨県南部町出身で、昭和8年1月に甲府の第1師団歩兵第49連隊に入営して、翌9年11月には仙台の教導学校を卒業して12月に伍長になっています(教導学校とは入営後1年で選抜された者を1年間の教育で下士官に養成する歩兵科の教育機関で仙台と豊橋、熊本に置かれていました)。
翌10年4月に天津へ転属して実戦経験を積みながら12月には軍曹に昇進し、続いて11年4月に予科士官学校に入校、13年4月に士官学校本科に進み、14年9月には主席で卒業、11月に大陸戦線の歩兵34連隊で少尉に任官しています。
15年3月、同じく大陸での戦闘に参加していた歩兵第228連隊に転属し、12月には中尉に昇任、そして昭和16年12月8日の太平洋戦争を迎えました。
香港作戦ではマレー半島上陸、ハワイ・真珠湾空襲と同じ12月8日の早朝にイギリス軍の航空基地に空襲を加え、地上部隊は大陸から九龍半島へ進攻しました。
この時、問題になったのはイギリス軍が九龍半島を遮断するように構築していた「ジン・ドリンカーズ・ライン」と言うコンクリート製のトーチカを並べた堅固な陣地で、第23軍は攻略に数週間を見積もっていました。ところが若林中尉を指揮官とする斥候は陣地を守るイギリス軍が油断していることを察知すると独断で突入し、攻略部隊の最後尾に置かれていることに不満を抱いていた第228連隊の土井定七連隊長も戦闘開始を察知すると直ちに攻撃を命令して主用な高地を占領したのです。
この独断専行は第23軍内で問題になり、軍司令官の酒井隆中将も土井連隊長、若林中尉を軍法会議にかける意向だったのですが、香港島攻略後に先送りしている間に「前線偵察中に敵兵力の不備と油断を発見し、身を挺して突入した」と戦意高揚のための宣伝材料にされて、若林中尉は一躍、英雄として感状が授与されました。
「決断」では若林中尉が実戦経験豊富な叩き上げであったことが現場での独断と指揮を可能にしたと評価していますが、野僧自身も部内選抜幹部と言う叩き上げではあるもののこの評価に全面賛成はできません。同期を始め部内選抜幹部の大半は現場の経験・常識を引きずるだけで、実務はそつなくこなせても幹部として大所・高所に立った遠い視野・広い視界を有する者は極まれでした。この若林中尉がそう言う人材だっただけで、叩き上げを無条件で持ち上げるのは間違いでしょう(庶民感情には合致するかも知れませんが)。
若林中尉は激戦地・ガダルカナル島の見晴山陣地を守備していて負傷したため後退して治療を受けるように勧められても「自分は部下と共に最後まで戦い抜き、見晴山を死守します。武人としての若林の一生は見晴山で終わります」と言って拒否し、戦死したのです。
山梨県南部町の菩提寺の墓所には「何やらむ よきこと待てる 心地して 今宵も寝むる 此の穴掘りて」の辞世の歌碑が建てられているそうです。
若林東一中尉
「決断」の若林東一中尉(全く似ていない)
  1. 2015/01/13(火) 09:23:12|
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鏡開きは今日=1月11日ですか?

1月11日の暦には「鏡開き」と書いてあることが多いのですが、京都の友人は「4日やろう」と言い張り、「20日(はつか)だべ」と言う田舎も少なくありません。そうなると由来を調べないといられないのが野僧の悪癖ですが、意外なほど根拠不明なのが判りました。
始めは神道の風習だろうと思って全国各地の神職の友人たちに訊いたところ「昔から11日だ」「4日だ」「20日だ」とバラバラなので、「地域にそれを普及させたのは神社だろう。由来は何だ?」と言っても誰も答えられませんでした。それでは佛教かと思いきや釋尊のインドには「鏡餅」を供える風習はなく、これは道教・儒教の中国も同様のようです。そうなると民俗学の領域なので「餅の形」の調査で培ったそちらの人脈で調べてみたところ、輪郭らしいものが見えてきました。
鏡開きは本来、武家の風習で、刀や鎧兜などの武具に供えた餅を下ろして雑煮にして食べ、「武運長久」を祈る行事を「刃柄(はつか)の祝い」と言ったそうなのです。
日付は語呂合わせで「20日」だったのですが(逆に小正月の20日に合わせた造語との説もある)、これが江戸時代になって3代将軍・家光公が4月20日に亡くなったことで20日は月命日になり、慶事と忌事を重ねることを避けるため日付が替わったのです。ところがあくまでも応急処置のため変更先は「松の内を過ぎた辺り」程度のいい加減なもので由来不明の11日になったようです。
20日に留まった地域は家光公の月命日を勤めなかったのか、単に慶事と忌事を重ねることを気にしなかったのか、小正月にこだわったのかは不明です。
実際には乾燥した冬とは言え20日間も経つと餅が黴て食用にする気が失せることも理由だったのではないでしょうか?
しかし、京都の4日は正月3カ日開けの「御用始め」と言うこと以外出てきません。そもそも京都はお公家さんの文化なので武家の風習とは別の由来があると思うのですが、来年に向けて追跡調査したいと思います(餅の形も数年がかりでした=正月以外に餅の話を訊いても関心がないため)。
ちなみに鏡餅を食べるサイズに細分化する時、刃物を使うことを避けるのは「切腹」や「斬り死に」に通じるからで、これは武家の風習の踏襲です。
カチカチに硬くなった寺の特大サイズの鏡餅では割れ目を押し開くか、木槌で叩き割りますが(金属は避ける)並大抵のことではなく、「ノコギリで切りたい」と思っていました。
建て前で撒く餅を焼いて食べてはいけないのも火事に通じるからですが、餅は縁起物だけに厄介な食材です。
鏡開きを「鏡割り」と言うことも「目出度さを割る」に通じるとして避けられています。
酒樽の蓋(=鏡)を叩いて割る儀式も同様に「鏡抜き」と言うのが本当で、割ってはいけないそうです。
  1. 2015/01/11(日) 09:53:06|
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1月10日・110番の日

明日1月10日は数字そのままに「110番(ひゃくとうばん)の日」です。これは昭和60(1985)年に警察庁が制定しました。
この電話番号は正式には「警察通報用電話」と呼ばれ、敗戦後の昭和23(1948)年にGHQによって制定されました。当初は東京地区だけが対象で、大阪・京都・神戸地区は1110番、名古屋は118番だったのですが、昭和29(1954)年に新たな警察法が制定された時に全国一律の110番になりました。
昭和32年から69年まで日本テレビ系列で「ダイヤル110番」と言う刑事ドラマが放送され、オープニングの「はい、ダイヤル110番(ひゃくとうばん)です」と電話を取る場面が定着に一役買ったようです。
110番になった理由については諸説がありますが、やはり当時のダイヤル式電話(小庵では現在もダイヤル式です)では「1」が最も短時間で戻り、続けて回すのに容易であり、最後の「0」が戻る間に間違いであれば切ることができる。更にダイヤルの両端の穴であれば間違える可能性が低いことなどが定説になっているようです。
もう1つの緊急番号である消防・救急の119番はもう少し歴史が古く、電話がダイヤル式になった大正15(1926)年に112番と決められましたが、最後の「2」と「1」を間違える事例が多かったため翌・昭和2(1927)年に119番へ変更されました。
ちなみに「119番の日」は1月19日ではなく11月9日ですが、制定されたのが1987年なので先に1月10日にしていた警察庁に消防庁が遠慮したのでしょう(偶然、来庵した消防署員の個人的見解では「秋の火災予防運動のためではないか」とのこと)。
日本では事件・事故の警察と火災・救急の消防で番号が分かれていますが、アメリカではダイヤル991、イギリスではダイヤル999が全ての緊急事態に対応します。
これはオペレーターが状況を判断して通報先を振り分けるためで、現在は日本でも交通事故で110番に通報すると警察から消防へも連絡してくれるようになっています。
野僧が警備小隊長だった時、交通事故防止だけを考えている間に事勿れ主義に陥いることが多い輸送幹部の管理隊長の下では警備本来の戦闘能力の練成・発揮ができないと管理隊分割を提案したのですが、新たな編成単位部隊として施設隊の消防小隊と統合することを想定していました。後年、民間の警備保障会社と関わりを持つようになると守衛と自衛消防を統合運用している大企業(トヨタ、ホンダなど)が一般的であることが判りました。
2000年から海難や海上犯罪の通報先として海上保安庁(英語名・コーストガード=沿岸警備隊)の118番も制定されていますが、野僧はこのような分割を進めるよりも通報先を1つに統合し、事態に応じた通報をプロが判断するべきだと考えています。
それが実現すれば救難1つとっても警察・消防・海上保安庁がバラバラに自己の任務として抱え、高価なヘリコプターまで持っている無駄を解消できるでしょう。
それには縦割り行政の下、業務の実績を予算請求の根拠にする官僚の縄張り意識から脱却できなければ無理な話ではあります。
  1. 2015/01/09(金) 09:29:59|
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1月8日・「戦陣訓」が発表された。

昭和16(1941)年の明日1月8日に「戦陣訓」が発表されました。
「戦陣訓」と言えば長い本訓(後述)の一節=其の2・第8「名を惜しむ」の「恥を知るもの強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の一文の後半ばかりが有名で、これが11ヶ月後に始まる太平洋戦争に於いて日本軍の降服を否定し、戦果・勝敗の帰結に関係のない万歳突撃などによる集団自死に駆り立てた元凶と言われています。
ただ、「戦陣訓」はあくまでも陸軍大臣・東條英機の名で発せられた訓示通達であって、法的な強制力はなく、帝国陸海軍の法規には逃亡して敵に投降する逃亡罪や指揮官が部隊を率いて投降する辱職罪はあっても、兵士が個人で投降することを禁じる規定や俘虜になったことを罰する罪科はありませんでした。
と言いながら日本は昭和4(1929)年のジュネーブ条約「俘虜の待遇に関する条約」に調印しながらも批准しておらず、「戦陣訓」以前から俘虜となることを否定する観念が軍部内に深く根を張っていたのは確かなようで、だから陸軍内だけの通達である「戦陣訓」の適用を受けない海軍でも投降を認めない頑迷さが蔓延していたのです。
実際、海軍航空隊のパイロットたちは脱出して敵に捕獲されることを嫌いパラシュートは座布団として座席に敷くだけで身体にバンドを装着しなかったようです。
「戦陣訓」は狂信的な内容的から東條英機の意向で作成されたように思われていますが、実際は阿部信行(予備役の陸軍大将)内閣の畑俊六陸軍大臣の時に起案が始まり、陸軍内の教育担当者だけでなく井上哲次郎や和辻哲郎などの国粋主義的な哲学者や文化人によって皇国史観、武士道的死生観が深められ、さらに島崎藤村などの文学者が文体を古文調にしたため、当初の下士官・兵士に対する具体的で判り易い訓示と言う目的を離れ、格調ばかりが高い精神論の御託宣になってしまったようです。
野僧は高校時代、拙作「銅の海」を執筆していた時に図書室にあった戦史の本で全文を転記・熟読しましたが、戦後教育を受けている者には「馬鹿馬鹿しい」妄想の羅列で、20世紀も半ばになってこのような神国思想を信じていたのでは欧米の近代的な軍隊に勝てるはずがないと帝国陸・海軍を冷めた目で見るようになりました。
序文から「夫れ戦陣は大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威(みいつ)の尊厳を感銘せしむる処なり」で始まり、以降の本訓は其の1の第1「皇国」、第2の「皇軍」、第3「軍紀」、第4「団結」、第5「協同」、第6「攻撃精神」、第7「必勝の信念」、其の2の第1「敬神」、第2「孝心」第3「敬礼挙惜」、第4「戦友道」、第5「率先躬行」、第6「責任」、第7「死生観」、第8「名を惜しむ」、第9「質実剛健」、第10「清廉潔白」、其の3の第1「戦陣の戒」、第2「戦陣の嗜」。そして結とくるとカルト宗教の教義のようです。
やはり畑俊六大臣が指示したように「忠義を尽くせ」「命令に従え」「規律正しく」「盗むな」「逃げるな」「むやみに殺すな」と言った具体的な注意事項の列挙にすべきだったでしょう。
  1. 2015/01/07(水) 09:53:00|
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1月7日・正しく本当で真実なクリスマス

西暦1年の明日1月7日にナザレのイエスが生まれました。と言いながら「紀元前4年だったのではないか」とする説が大勢になっているのは宗教を学問的にのみ研究する(主に物的証拠の確認と別の記録との整合性の確保)学者の畏れを知らぬところです。そもそも西暦とはイエスの誕生を紀元とすることでBC(Befor Christ=キリスト前)・AD(Anne Domini=主の年)に分かれているのですから、紀元前4年の生まれであれば西暦自体を4年前にさかのぼらせなければ嘘になります。
このクリスマスもローマ・カソリックがヨーロッパの冬至の祭りと重ねたことをプロテスタントが無批判に踏襲した結果、世界では12月25日が多数派になっていますが、それよりも古いコプト(エジプト)、アビシニア(エチオピア)、ヤコブ(シリア)、ハリトソス正教会(ギリシャ、ロシア)などでは明日1月7日としています。ですからテレビなどでも「海外面白ニュース」的にロシア正教やコプト、エルサレムなどの1月7日のクリスマスを紹介することがあります。
ちなみに日本では「マリアは処女懐妊したと信じられている」と思われていますが、このことを述べているのは福音書でも「マタイ」と「ルカ」だけで、「マルコ」「ヨハネ」「トマス」にはありません。このことを強調するようになったのはローマ・カソリックがマリアを「無原罪の宿り(悪いことをしてないのにできちゃった)」と神聖化するようになってからで、古代ローマではキリスト教への弾圧が過酷を極め、イエスや使徒たちと共にマリアも完全無欠の聖母にしなければ信仰を維持できなかったのでしょう。
と言ってもイエスの下には弟が多数いますから、やはりマリアも「悪いことしちゃった」のです。
影の薄いイエスの養父(実父とする教派もあるが、そこでは古代ユダヤの聖王・ダビデの末裔としている)はナザレのヨセフと言う名前の大工だとされています。「マタイ」によればまだ悪いことをしてないマリアが妊娠したことを知っても「不義密通をはたらいた」として訴え出ることをせず我が子として産ませ、育てようとしたしたと言います。それなのにローマ・カソリックではマリアの神聖化に兄弟の存在が邪魔になるため、ヨセフは子を抱えた男寡(おとこやもめ)で兄弟たちは連れ子と謦うことにしてしまいました。そうなると兄弟たちはイエスよりも年上になってしまいますが、その辺りの矛盾はあまり気にしておらず後世の学者が勝手な論証をしているのです。
ヨセフはカミの子が生まれることを預言で知ったユダヤの暴君・ヘロデ王が乳幼児の大虐殺を始めることを天使のお告げで知り、身重のマリアを連れてエジプトに逃げようとして、途中の家で一夜の宿泊を乞い、そこの馬小屋でイエスは生まれたことになっています。ただ、この時代の中東では馬は家の中で飼われており、日本人が聞かされている物語とは違う情景になります。
そもそも古代ユダヤ人はロシア正教のイコンやローマ・カトリックの聖画、彫刻のような金髪で線が細い華奢な顔立ちではなく、黒の縮れ毛で顎が大きな野性的な容貌ですから、この機会にイメージを修正しておきましょう。
  1. 2015/01/06(火) 08:43:52|
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凄すぎる?ワイルド・キャットの大脱走

昨年の大晦日、除夜の鐘の6時間前に小庵では怒声が響きました。ワイルド・キャット・音子が連続して脱走を企てたのです。
1回目は佛間の指揮刀=サーベルの上に立ち、猫パンチで障子を破ってそのまま土間に逃げ出しましたが、蹴ったサーベルが倒れたため野僧が気づきたちまち御用。2度目は第3回の「音子」コーナーで紹介した障子と本棚の間を無理やり通り抜け、同じく土間へ遁走したものの着地場所に置いてあった洗濯用ハンガーの音で野僧が気づき再び御用。ここでゲージに幽閉して破った障子の紙をアサヒペン社製の「超強・プラスチック障子紙」に貼り替え、障子と本棚の間を溝1本分詰めました。これで安心と思っていたら何とその「超強」の紙を破り、3度目の逃走を図ったのです。
ただ今度もサーベルを蹴倒したので身体を障子の枠に入れた状態で発見し、重営倉(ゲージではなくバスケット)に収監し、障子紙を補修しました。
それにしてもこの障子紙は「ペットの引っかき傷にも強い」を宣伝文句にしている製品で、アサヒペンほどのメーカーなら動物によるテストもされているはずなのに、刀掛のサーベルの上に立つと言う不安定な姿勢で何度も簡単に破ってしまうのはウチのワイルド・キャットが普通の猫ではないと言うことでしょうか?
その後も重ね貼りした「超強・プラスチック障子紙」を破ったので、現在はボール紙が貼ってあります。これで駄目ならベニア板ですな。
脱走してもどこへ逃げる訳でなく土間に座っていますから(余韻を楽しむように破った穴を見上げている)、障害を突破することが目的なのでしょう。
警備小隊長当時の警戒心と直感を呼び戻してくれる可愛い猫ではありますが。
け・佛間正面こ・超強障子紙を突破
逃走経路と被害

  1. 2015/01/04(日) 08:33:39|
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第27回月刊「宗教」講座・白隠慧鶴禅師

白隠禅師は生前から「駿河の国には過ぎたるものが2つあり、富士のお山と原(沼津の原村)の白隠」と富士山に同格と謡われ、仰ぎ見られていました。
かつて臨済宗の坐禅会に参じた時、山主(=住職)は「確かに曹洞宗の道元禅師とウチの栄西(ようさい)禅師を比べると負けている気がするが、曹洞宗は後が続かず尻切れトンボでも、ウチには応燈関(大応・大燈・関山国師)から一休禅師、沢庵禅師などの禅匠が綺羅星のように輩出し、極めつけに白隠慧鶴禅師が登場された。最早、こちらの方が上だ」と豪語されておられました。
臨済宗には14派と言われる流れがありますが、江戸幕府が発布した寺社諸法度の継承規定があまりに厳しく法脈は途絶えていて、白隠禅師の弟子たちが招聘されて再興させていますから、現実には全て白隠禅師の宗派になっています。
ただ、野僧はその頃、白隠禅師について迫力のある禅画を描かれる方と言う知識しかなく、山主さまの言っておられることの意味があまり理解できなかったのですが、坐禅会の最後に「坐禅和讃」を唱え、その素晴らしい内容にあらためて感服仕りました。
曹洞宗の坐禅会で唱える道元の「普勧坐禅儀」が単なる坐禅の手引書に過ぎないのに対して、「坐禅和讃」は坐禅の宗教的な意義、佛行としての位置づけ、その功徳などを判り易く説いた衆生向けの教典なのです。
ちなみに「普勧坐禅儀」は中国の禅宗4部録の1つ「坐禅儀」に手を加えて翻訳したもので道元の独創ではありません(「十牛図」も4部録の1つです)。
結局、道元は「坐禅を組めば安楽だ」と快感を味わったところで満足してしまい、「その快感を確実なモノにするためには世俗から離れて無菌状態の道場に来い」と出家得道を救済の手段として、俗世に暮らす衆生にまで意識が及ばなかったのですが、白隠禅師は坐禅の功徳を衆生に及ぼすだけの強い確信を極めておられたのでしょう。
道元が言うように無菌状態の環境に身を置いて坐禅すれば安楽に過ごせるとしても、
里川に棲む鮒や鯉、鯰が泳ぎ上っても清流の岩魚になれる訳でなく、下流の濁った水の中で通用する教えでなければ済度衆生の法ではないのです。
これは延命能化地蔵願応尊への信仰による功徳を説いた「地蔵和讃」でも明らかで、「延命地蔵経」で列挙されている「女人泰産」「身根具足」「衆病悉除」「寿命長遠」「聡明智恵」「財宝盈溢(よういつ)」「衆人愛敬(あいきょう)」「穀米成熟(じょうじゅく)」「神明加護」「証大菩提」と言う地蔵菩薩の10の福徳に、それぞれ「身安穏」「意自在」「體堅固(たいけんご)」「願成就」「持禁戒」「施貧窮」「無怖畏」「民安楽」「除災難」「成佛道」と使途をつけ加えています。
それにしても「寿命長遠=長生き」の目的が「願成就=願いを成就させる」、「聡明智恵=賢くなる」は「持禁戒=ルール、マナーを守る」、「衆人愛敬=みんな仲良し」が「無怖畏=怖れが無くなる」とは正に人間観察の精華であり、世間に背を向けて山の中に引き篭もっている坊主には想いも及ばないでしょう。
また「懺悔和讃」では衆生の信仰心が足らないことを叱っていますが、現代人とあまり変わらず苦笑してしまいます。
「つらつら吾身を感ずれば 腹立つ暇はあるけれど 御慈悲を喜ぶ暇はなし あだ言云へる暇あれど 念佛唱ふるひまはなし 3度の食事は缺けねども 2度の御礼は忘れがち 短気を起すひまあれど 御報謝つとむる暇は無し 孫や子供のかたらいに 流す涙は多けれど 尊き御慈悲を思ひやり こぼす涙は更になし たまたま御縁に預らば 居眠りあくびで聞き流し 無常と聞けども上の空 地獄と聞けども驚かず 花の都の御浄土と 聞けど嘉ぶ心なし 今日もせわしい明日もまた 兼ねては障りなけれども 聴聞参りと成る時は 障りある故参られぬ 夏は暑いと小言つけ 冬は寒いと障りつけ 雨や風にも障りつけ 火の中分けても聞くべきに 何故に信心致さぬぞ 何故に後生を願はぬか」我が身を振り返って如何ですか?
白隠禅師が佛教に目覚めた切っ掛けは岩次郎と呼ばれていた幼い頃、熱心な法華宗徒だった母親と一緒に寺へ通う中、11歳の時に「摩訶止観」の提唱(講義)があり、そこで「地獄の絵解き」を体験したのです。
これは阿鼻叫喚の地獄図を見せながら生前に犯した罪に応じた責め苦を解説していく現代で言う倫理教育ですが、岩次郎は「自分は草や花を手折り、虫や魚を殺しているから地獄へ堕ちるに違いない」と大声を上げて泣き叫び、救われる道を求めるようになったと言う逸話が伝わっています。
その後、母親の勧めで「この怖れを解決できるように菅公のような知恵を授けてくれ」と天神社に参拝したのですが、神頼みでは何ともならないことを実感するうちに出家を決意し、やがて近所に在った松蔭寺(現在の白隠宗本山)で単嶺(たんれい)和尚の得度を受けました。それからは懸命な修行に励んだのですが、ある日、中国の巌頭全豁(がんとうぜんかつ)と言う高僧が佛教弾圧に遭って寺を焼かれた上、追放されたため渡し場の船頭になっていたところ賊に襲われて首を斬られて死んだと言う説話を読んだのです。
それで白隠くん(まだ若かった)は「修行を積んだ高僧でも賊に首を斬られて死んでしまうのなら、禅も大したことはない」と思い、坊主を辞めようかと悩みました。
そんな時、たまたま立ち寄った寺で虫干ししてある多くの本を見て「これから取り出す1冊の本で、私の進むべき道を決めて下さい」と佛神に願を立てながら取り出すと、それは求道、探求に心血を注いだ禅僧たちの苦心談を集めた「禅関策進」と言う本でした。さらに目を閉じて本を開くと、そこは「昔、慈明和尚は座禅中に眠くなると錐で太腿を刺して目を覚まし、修行をつづけた」と言う「慈明引錐の話」で、この先人の姿に自分の迷いを恥じ、再び修行に励むようになったそうです。
野僧も坐禅に励んでいた頃、眠くなると千枚通しで太腿を突いて目を覚ましましたが、血管に当たると血が噴き出して衣類が汚れてしまう上、太腿に内出血の跡が残るため、手警策(短い警策)で肩を叩くようにしました。
やがて24歳になった白隠さんは越後・高田の英巌寺の性徹(しょうてつ)和尚の「人天眼目」の提唱を聞くために参じ、そこでの坐禅中に遠方の寺の朝の鐘の音が耳をつんざくような大音声に聞こえ、それで悟ったと言うことになりました。
ところが性徹和尚の点検を受けても明快な見解(けんげ)を示さないので横面を張り倒して退室し、色々な和尚を訪ね巡ったものの大差なく、いつしか「ワシほど悟り切った者はいない」と自惚れるようになったようです。
しかし、左券(印可証明)に不安を抱いていた白隠さんは英巌寺に掛塔(入門)してきた宗格さんの勧めで信濃・飯山の正受老人・道鏡慧端を訪ねます(この道鏡と言う名前は女帝を迷わせた奈良時代の坊主に重なっていけません)。
正受庵で対面した時、白隠さんは自分の境地を漢詩にした紙を差し出しますが、老人は「これは請け売りの知識だ」と右手で握り潰し、「お前が会得したモノを出してみよ」と左手を出しました。そこで白隠さんは「会得したモノがあるなら吐き出しますわい」と言って嘔吐の真似をしました。すると老人は「趙州の無字をどう見たか?」と公案を持ち出し、白隠くんが「無には手のつけようがない」と答えると即座に顔の鼻を捻り、「手をつけたぞ」と自惚れを圧し折りました。
以来、老人は白隠さんを「穴倉坊主(自己満足に陥っている坊主)」と呼び、坐禅していると「窪い(くぼい)、窪い、2階から井戸の底を見るようだ」と罵ったと言います。正受庵には老人が白隠くんを蹴落とした言われる石段もあるそうです。
こうして正受老人は早熟だった白隠さんが咲かせていた悟りの花をむしり取ることで、さらに深く強く根を張った大輪の花を咲かせたのです。26歳で完成品になってしまえば、残りはそれを保ち、磨くだけの佛道になってしまいますから。
半年ほどの参禅の後、沼津に帰った白隠さんは、以前にも増して厳しい修行に明け暮れるようになりましたが、心身の過度な酷使のため病んでしまいました。
その症状は「心火逆上し、肺筋焼焦して、国手(医師)も手をこまねく=心臓の動悸と胸や背中・腰が熱をもって痛み、医師も処置がない」とあり、これ以外にも両目から涙が止まらず、絶えず耳鳴りがして、明るいところでは恐怖に苛まれ、暗いところでは陰鬱に陥る。さらに悪夢にうなされるなど12の症状があったそうです。
そんな療養生活を見舞った人の勧めで、京都は洛東の白河に住む白幽と言う仙人を訪ね、「内観の法」「軟酥(なんそ)の法」と呼ばれる秘伝を伝授され、完治したとのことです。白隠さんはこのことを「夜船看話(やせんかんな)」や「遠羅天釜(おらてがま)」と言う本にしていますが、野僧も小浜の僧堂で、白隠禅師の禅画に感銘を受けて来日し、沼津の松蔭寺で得度を受けて安居していたドイツ人の古参修行僧から詳しく教授されました(曹洞宗の僧堂なので関心を示す雲衲がいなかった)。
「内観の法」の実施要領ですが、先ず寝具の上に仰向けに横たわり、目を閉じて両手足をゆったりと伸ばし力を抜き切ります。力を抜き切ることが難しければ、一度、力を入れ、それから息を吐きながら力を抜くとできるでしょう。次に気海胆田(ミゾオチからヘソ)、腰、脚、足心(土踏まず)に力を入れていきます。そして次の偈文を唱えながら意識を集中していくのです。
「わがこの気海胆田、腰脚、足心、そうに、これわが本来の面目、面目なんの鼻孔(びくう)かある」「わがこの気海胆田、腰脚、足心、そうに、これわが本分の家郷(かきょう)、なんの家郷の消息かある」「わがこの気海胆田、腰脚、足心、そうに、これわが唯心(ゆいしん)の浄土、浄土なんの荘厳かある」「わがこの気海胆田、腰脚、足心、そうに、これわが己身(こしん)の弥陀、弥陀なんの法をか説く」
要するに「この気海胆田、腰脚、足心こそ自己の本来の姿、安住の地、浄土、阿弥陀如来である」と宣言し、それぞれの様子を想い描くのです。
雑念が湧いてきても気にせず、この偈文を唱え続けるとやがて天地一切と一体になった解放感に包まれ、悩み、迷い、苦しみが解消するでしょう。
次に「軟酥の法」ですが、ここで言う「酥(そ)」とは牛や山羊の乳を煮詰めて固めたチーズのような食品で、仙人の滋養強壮の妙薬だと考えれば良いでしょう。
先ず坐禅を組み(正座でも可)、頭の上に卵大の酥が載っていると想像します。そして腹からユックリ大きく息をしながら、それが次第に軟らかくなり、バターのように溶けて流れ出すイメージを描きます。その溶けた酥は頭から流れ出し、顔や首筋に滴り落ち、背中や肩、胸へと垂れてきます。こうして全身が酥で潤わされ、同時に調子が悪い箇所(臓器)に染み込んで調子を整え、悪しき物を流れ去ります。
最後にイメージの中で脚の下に溜まっている酥を見下ろして終わります。
この間、深くユックリした腹式呼吸を保つことが大切で、野僧は真冬に暖房のない部屋でやっても背中に汗をかきます。
白隠さんは医者に見放された重篤の病者にも教えましたが、多くの者は症状が緩和し、完治する者も少なくなかったようです。野僧の場合、改善はしないものの悪化もせず、鍋で炒られるような状態が長引いているだけですが、それは真剣味が足らないからだそうです(実は生きていたくないのが原因なのですが)。
白隠禅師は前述のように衆生済度に努めておられ、その先達だった鈴木正三道人の在家佛教に共鳴する点が多く、法話でも度々引用していたようです。
白隠禅師は修行の心得について、こう述べておられます。
「1つには大信根、2つには大疑情、3つには大憤志。もしこの中の1つを欠いても鼎(かのう=火鉢の中に立てる3本足の鍋置き)の足の折れたるが如く、到底弁道はおぼつかない。また末期の1句に「『勇猛』の2字を忘るるべからず」
一方、正三道人にもこの法語があります。
「近年佛法に勇猛堅固(ゆうみょうけんご)の大威勢有るということを唱え失えり。ただ柔和になり、殊勝になり、無欲になり、人よくはなれども、怨霊となるようの機を修し出す人なし。いずれも勇猛心を修し出だし、佛法の怨霊となるべし」
今でも正三道人は曹洞宗よりも臨済宗で評価されています。
また白隠禅師は出家得度に拘らず在家の衆生にも坐禅を勧めており、在家のまま印可に至った参禅者も数多くあったようです。
そんな弟子と参禅者が坐っている道場を見て回る姿は「虎視牛行(虎のように見ながら牛のように歩く)」と言われていました。
さらに坐禅による境地の点検の手段として中国から伝来した公案(禅問答)を整理、体系化すると同時に自らも日本の生活慣習や風土・風景を用いた公案を考案されて再構築されました。ただ公案を考案するには解答も示さなければならず、然もそれは「1+1=2」と言った無味乾燥・単純明快なものではなく、悟った感性に映る情景ですから、生悟りの坊主にできることではありません。
白隠禅師の禅画ですが、これは言葉で伝えられない情景、風貌を描くことで伝えようとしたと言われていますが、確かに技巧ではなく迫力で見せる絵であることは間違いありません。美術評論家は「緻密な計算に基づいた高度な画法だ」と言いますが、野僧には心の赴くまま筆の走るままに描いたとしか思えません。
最後に白隠禅師の秀逸な道歌を1つ
「若い衆や 死ぬがいやなら 今死にや 一たび死ねば もう死なぬぞや」
南無地獄大菩薩

「自画賛」
千佛場中千佛に嫌われ 群魔隊裡群魔に憎まる
今時黙照の邪党を挫じき(黙照禅=曹洞宗) 近代断無の瞎僧をみなごろしにす
この醜悪の破瞎秀 醜上に醜を添うまた一層

a白隠禅師坐像白隠慧鶴禅師
o地獄極楽変相図
地獄極楽変相図(閻魔大王)

半身達磨図の変遷
b半身達磨像c半身達磨像d半身達磨像e半身達磨像
g朱衣達磨h一つ目達磨朱衣達磨図と一つ目達磨図
r南無地獄大菩薩南無地獄大菩薩(地蔵ではない)
  1. 2015/01/02(金) 09:01:53|
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1月2日・太平洋戦争における初の玉砕=ブナ守備隊の全滅

昭和18(1943)年の明日1月2日にニューギニア島・ブナの守備隊が全滅しました。
大本営は同年5月30日に山崎保代陸軍大佐指揮のアッツ島の守備隊が全滅したことを初めて「玉砕」の美辞麗句をもって発表し、国民に大きな衝撃と感動を与えましたが、その半年前のこの日(訣別電は前年12月28日発)に安田義達海軍大佐指揮の海・陸軍守備隊が全滅したのです。
安田義達大佐は沖縄戦で自決された大田実司令官と並ぶ海軍陸戦の権威と称され、警備小隊の「航空陸戦隊」化を目指していた野僧は心から崇敬し、業績を研究していました。
安田大佐は広島県府中市の出身で、広島高等師範付属中学校を卒業して海軍兵学校(46期生)へ入りました。当初は砲術士官だったのですが、砲術学校専攻科学生として陸軍歩兵学校に派遣され、本格的に陣容を整え始めた海軍陸戦隊の先駆者となったのです。
太平洋戦争に先立つ昭和7(1932)年の上海事変では大河内伝七中将指揮の上海特別陸戦隊参謀、続く昭和12(1937)年の第2次上海事変には呉鎮守府第1次陸戦隊司令として参戦しています。その間の昭和11(1936)年に発生した2・26事件では海軍省の警備のため横須賀鎮守府から事件当日に東京へ派遣されました。
昭和15(1940)年、大佐に昇任すると陸戦と陸上対空射撃を教育する館山砲術学校の創設に尽力し(初の陸戦専修高等科が設けられた)、横須賀第5特別陸戦隊司令として太平洋戦争の開戦を迎えたのです。
この第5特別陸戦隊は航空機によるミッドウェイ島への攻撃が終了した後、上陸・占領する任務を帯びて後方の本隊に控えていたのですが、機動部隊の壊滅を受けて帰還するとガダルカナル島やキスカ島、そしてニューギニア島に分散派遣されました。
安田大佐はニューギニア島で横須賀第5特別陸戦隊292名、佐世保第5特別陸戦隊110名、第14設営隊399名を指揮していましたが、この中の319名は土木工事にあたる軍属で、小銃以外の兵器は高角砲2門、連装機銃1基、速射砲3門、重機関銃3機と言う貧弱なモノでした。
昭和17年11月、ロバート・アイケルバーガー中将指揮のアメリカ・オーストラリア連合軍が上陸を開始すると安田大佐は指揮所をあえて上陸地点の近くに移し、陣頭指揮を執りました。そして陸軍の歩兵連隊や工兵隊を協同しての50日間に及ぶ激闘の末、この日、生き残っていた兵士と突撃したとも敵の目の前で自決したとも言われます。
アメリカ軍はブナでの戦闘を「世界一の猛闘」と評していますが、守備隊側の兵力、装備を考えれば、作戦指揮の妙による奇跡的な大善戦と言うべきでしょう。
安田大佐は生前、連合軍の戦術、習性を詳細に分析し、その対策を記した分厚い遺書を残していて、戦術教範として陸軍にも渡され、激賞されたと言うことです。
野僧も沖縄戦で戦死した海軍陸戦隊中尉の生まれ替わりですから航空陸戦隊の育成こそ天職だったのですが、人事の常識によって輸送幹部として管理され踏み躙られました。
近い将来、この国に戦いが及んだならば野僧を葬り去った者たちは国民に対して慚愧しなければなりません。
  1. 2015/01/01(木) 00:20:34|
  2. 日記(暦)
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謹賀新年(一応、宗教ネタの拙歌を2首)

のびた毛を 刈ったついでに 出家せば 迷える羊も 佛道精進

「迷える子羊」と言うのはキリスト教の人間観です。牧師と言う羊飼いに連れられて天国へ行くよりも、毛を刈ったついでに佛教僧になれば現世で往生できるでしょう。キリスト教では羊などの家畜はカミが人間に与えた「物」ですが、佛教では「悉有佛性」として他に尽くしていることを尊重するのです。

ジンギスカン 本場の味を 知る人は 羊を見れば 「うまそう」と言う

羊はウールを作る家畜だと思っていますが、美味しいジンギスカンの材料でもあるのです。羊のフサフサにのびた毛を見て「暖かそう」と言う人がいれば、「おいしそう」と言う人がいても不思議ではありません。ところで北海道にウールを取る羊牧場があるのでしょうか?北海道の羊は食肉用に飼われているのかも知れません。
1月2日追記・北海道の友人によれば道内でも外れの方には羊毛を取っている牧場があるそうです。
山口NZ村・周作山口NZ村・聖也
追記・除夜の鐘はそれ程の風もなく無事に終わりました。精霊のマイムマイムは例年よりも派手でしたが。

  1. 2015/01/01(木) 00:13:39|
  2. 日記(暦)
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