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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月29日・大久保彦左衛門の命日

寛永16(1639)年の明日2月29日(太陰暦)は我々三河武士のバイブル「三河物語」の著者である大久保彦左衛門忠教(ただたか)さんの命日です。
彦左さんは桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、後の東照神君・松平元康公が岡崎に帰られた永禄3(1560)年に現在の岡崎市南部、JR岡崎駅の西側にあたる上和田で大久保忠員(ただかず)さまの8男として生まれました。忠員さまは49歳でしたがまだ弟が1人います。
17歳の時、28歳年上の長兄・忠世(ただよ)さまに従って家康公の遠州平定に参加し犬居城攻めで初陣を飾り、その後も忠世さまや次兄の忠佐(ただすけ)さまの旗下で各地を転戦し、武田氏の高天神城攻めでは敵将・岡部丹波守元信を討ち取りかかっています。と言うのも城兵が突入してきた時、大将が先頭だとは思わず太刀を数度斬り結んだ後、配下の本多主水に譲り、自分は周囲の状況確認のためその場を離れてしまったのです。
岡部元信は家康公に何度も苦杯を舐めさせた宿敵であったため本多主水は大殊勲で、忠教さんは「三河物語」に「岡部丹波とは最初に平助(=彦左さんの自称)が太刀を交わして寄り子の本多主水に討たせた。丹波と名乗っていれば寄り子に討たせるようなことはしなかったのだが、(奴が)名乗らなかったからだ」と率直に悔しさを述べています。
天正13年、甲斐・武田氏を滅亡させた2ヶ月後に織田信長が本能寺で死ぬと織田家の家臣に分配されていた武田氏の旧領で蜂起が続発し、多くは尾張や美濃、伊勢の自領に逃げ帰りましたが、それを徳川家康公は南信濃から、北条氏直公は甲斐へ、上杉景勝が北信濃を平定しながら手中に収めていきました。
やがて徳川と北条の間で和睦が成立したのですが、この時の揉め事が発端で真田昌幸が上田城に立て篭もり、家康公は鳥居元忠さま、大久保忠世さま、平岩親吉さまを派遣して攻めさせました。2代将軍・秀忠公も上田城攻めで関ヶ原に遅参しましたが、この時も真田の術中にはまって散々翻弄されました。それでも彦左さんは兄と共に奮戦したと記しています。要するに合戦の勝敗とは別次元の小競り合いで奮戦したのでしょう。
天正18(1590)年に家康公が関東に移封されると長兄の忠世さまは小田原城主4万5千石、次兄の忠佐さまは沼津城主2万石に任じられて、彦左さんも直臣として3千石を受けました。
その後、忠佐さまの嫡男・忠兼(ただかね)さんが早逝したので彦左さんを養子にして跡を取らそうとしたのですが、彦左さんは「自分の勲功で得た領地ではない」と固辞し、結局、沼津藩の大久保家は慶長18(1613)年に忠佐さまが亡くなると改易されてしまいました。
翌年の慶長19年には大久保長安の横領疑惑に連座する形で忠世さまの跡を継いでいた忠隣(ただちか)さまが改易されると彦左さんも連座しますが、大久保の家名を惜しんだ家康公から旗本として召し出され、三河の額田の地に1千石を受けていますから(その後も1千石加算されている)大名にならなかったことは逆に幸いだったのかも知れません。
彦左さんと言えば一心太助ですが、確かに東京都港区の立行寺にある墓所のすぐ傍には寄り添うに建つ「一心太助」と刻まれた石塔があります。しかし、その墓に本当に埋葬されているかは確認されておらず実在したかの真偽は不明です。
大久保彦左衛門(安彦良和)
安彦良和先生(=ガンダムの作者)の「三河物語」の大久保彦左衛門さん
  1. 2015/02/28(土) 10:01:28|
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振り向けばイエスタディ14

日曜日の夕方、三越前からタクシーに乗り波の上宮のそばの海浜公園に来た。丁度、ウリズン(初夏)の海が夕陽に染まっていた。
「やっと、海に連れて来てくれたさァ」そう言って頬を夕陽に染め潮風に髪をなびかせている美恵子と海を私は防波堤にもたれかかって眺めていた。
「潮風に吹かれると 想い出す貴方のこと 口笛を真似しても 夏の日は返らないの もう一言いわれたら 恋人でいたのに・・・」私はいつもの癖で歌を口ずさんだ。
「誰の歌ねェ?」美恵子が振り返って訊いてくる。
「南沙織の『潮風のメロディー』さァ」「南沙織って沖縄の人さァ。初めて聞いたよ」美恵子は続きを唄えと顎でリズムをとった。
「・・・初めて口づけした日を 貴方も忘れずにいるかしら」歌詞にはあまり自信がない。「カラオケで唄って確認されたら困るなァ」と思いながら唄い切った。
「いい歌さァ、少林寺はいつもBGMつきだね」美恵子は笑いながら左に並んでもたれた。珍しく2人の間に沈黙が流れ、美恵子は結んだ両手の指で1人遊びをしている。私は吸わない煙草を口にくわえたい気分だった。
肩に手を掛けて引き寄せるのと美恵子が肩にもたれ掛かってくるのは同時だった。私が見つめると、「睨めっこねェ」と笑った後、美恵子は顔を向けて目を閉じた。
ゆっくり顔を近づけると美恵子は緊張からか唇を固く閉じている。私がフッと息を掛けるとそれで唇が緩んだ。唇を重ねた時、カチッと2人の前歯が当り、美恵子は一瞬鼻息で笑った。
しばらく唇を重ねていると突然、美恵子が「ウッ・・・」と苦しげな声を出して、唇を離して口で深呼吸をした。
「キスって息ができないから苦しいさァ」美恵子はそう言うと笑いだした。私はそんな美恵子を可愛いと思った。その瞬間、背中を伯父と父の視線が刺した。
「胸がドキドキしてる・・・」美恵子の言葉に私は黙って右手を左胸に押し当てた。美恵子は拒まなかった。私は自分の大胆な行動に驚きながら乳房の感触を確かめた。美恵子の乳房は思ったよりも小さめで筋肉質で固かった。
「南洋の女は情熱的だから・・・」伯母の声が聞えたような気がした。
「鼻でゆっくり息をするんだよ」妙なアドバイスをして私はもう一度、美恵子を抱き寄せてキスを再開した。今度は美恵子もキスを味わっているようだ。不器用に鼻で息をする美恵子の一生懸命さが可愛いかった。
「安心したらお腹すいたさァ」美恵子は唇を離し、少し体をずらすとアッケカランと言った。私はそれまで少なからずキスの経験があったが、こんな反応をした娘は初めてだ。私は拍子抜けと呆気に取られながら、もたれていた防波堤から立ち上がった。
「今日は何を食べる?」美恵子は私の顔を見上げている。
「波の上は知らないから案内してよ」「うん」私の返事に美恵子は嬉しそうに先に立って歩き出した。キスの後、ウットリした顔で寄り添ってくる女性たちの態度は実は演技なのでゃないかと密かに悩みながら美恵子の後に続いた。
  1. 2015/02/28(土) 09:59:21|
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振り向けばイエスタディ13

「キスするさァ」酔った勢いもあり、私は送って出た美恵子の肩を両手で持ってこう言った。廊下にはほかの人影はない。しかし、美恵子は私の顔を見上げて首を振った。
「お客さんとするみたいだから嫌。少林寺、酔ってるさァ」ママさんは、けっしてボックス席には行かせない、酒は飲ませない。お客の態度にも目を光らせて最初の言葉通り叔母として美恵子を守っていた。
「明日会った時さァ」美恵子の続きの言葉に私はドキッとした。
美恵子はそれだけ言うと私の右の頬に唇をあてて腕をすり抜け、振り返らずドアを開けて店に戻っていった。
「明日会った時って、そんなこと言われたら・・・」私は期待と不安で目眩がしそうだった。美恵子の奇襲攻撃は航空自衛隊もタジタジだった。

「モリヤ、ほっぺに口紅つけてるさァ」ウチナ―屋へ行くとママさんはカウンターに座った私の顔をジッと見ながらからかってきた。
ウチナ―屋は私が土曜日の2軒目に決めている郷土料理屋で、ここも自衛官が来ないいところが好い。私はこの店でチャンプルを食べながら泡盛をシコタマ飲む。
「モリヤはキープ料はいらないさァ、1本空けていくもん」「残った分は他の客に出してもいい」と言う約束で特別料金にしてもらっている。
「変な店で浮気してきたねェ」ママさんはまだニヤニヤしながらタオルを差し出した。このママさんは年齢不詳だが、多分私の母と同年輩だろう。老けた天地真理と言う感じだ。
「彼女できたね?」私は照れ笑いするとママさんはうなずいた後、真顔になった。
「内地の親御さんどうするねェ。沖縄の娘とは反対してるんだろう」ママさんの言葉で私のアルコールと美恵子のキスの酔いは一気に醒めてしまった。
この店には私が以前愛していた女性とも通っていてママさんも彼女を気に入っていた。それを有無を言わさず引き裂いた両親と伯父の仕打ちをママさんは怒っている。私は何だかカウンターの席の両側に父と伯父に挟まれて座っているような気分になった。
「何とかなるさァ」一気に暗くなった私に、ママさんは励ますように言った。
「お祝いさァ。今日は島酒(泡盛)原価でいいよ」無料にはしてくれなかった。
ウチナ―家のママさん
  1. 2015/02/27(金) 09:03:50|
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2月26日・佐藤幸徳中将の命日

昭和34(1959)年の明日2月26日は牟田口廉也軍司令官が強行するインパール作戦にあくまでも反対し、作戦中に独断退却した第31師団長・佐藤幸徳中将の命日です。
佐藤中将は明治26(1893)年に山形県余目町(現・田川郡庄内町)で生まれ、鶴岡中学校から仙台陸軍幼年学校に入校し、陸軍士官学校を終えると地元の歩兵第32連隊で勤務し、中尉で陸軍大学校に合格しています。
陸大を卒業した後も第32連隊で中隊長を勤めシベリア出兵に参加しましたが、加藤高明内閣の山梨半造陸軍大臣が断行した軍縮と関東大震災の復興が始まっていた大正12(1922)年11月から参謀本部勤務になりました。
参謀本部では戦史課の配置でしたが、東條英機や小磯国昭など後の総理大臣たちの統制派の人脈に加わり、この大物との関係で階級の上下に捉われることなく正論を吐く性分が培われたと言われています(野僧にも通じるので山形県人の気風ではないべか?)。
また当時、同じ大尉で総務課長だった皇道派の牟田口廉也(5歳年上)と対立し、激しく口論したことがあるそうなので、これが後の独断撤退の伏線になったのかも知れません。
しかし、帝国陸軍と言う極度の階級社会ではそれに従属しない人間が異端視されるのは当然で、中将自身も認めているように東條英機などの常識的な上層部に睨まれて、その後は決してエリートコースとは言えない人事的な取り扱いを受けることになります。
ところが昭和12年8月に朝鮮半島の付け根で北部満州の歩兵第75連隊長に赴任すると翌年7月から8月に生起したソ連との国境紛争である張鼓峰事件に参戦することになり、半数の部下を失いながら停戦まで陣地を死守し、勇名を馳せるようになりました。
こうして前線の指揮官として勤務しながら大東亜戦争を迎えると昭和17年12月に中将となり、翌年3月に第31師団長に任命されましたが、同時に上級部隊の第15軍司令官には悪因縁の牟田口廉也中将が就任したのです。
インパール作戦は牟田口が硬直した戦局を打開するために思いついた作戦で、補給が困難であることなどの理由で上級の南方軍や第15軍隷下の各指揮官も強く反対しましたが、始まった作戦は危惧された通りで、ビルマとインドの国境地帯の山脈を越えるには寒冷地並みの服装が必要なのに南方軍が持つはずもなく、「荷駄運搬用に牛を連れていけば食糧にもなり一挙両得」と言う牟田口の発案も現実性はなく、兵士たちは深刻な飢餓に悩まされ、イギリス軍のゲリラ戦に苦しみながらの消耗戦に陥っていきました。
中将は第15軍司令部では埒が明かないため直接、他の師団長にまで補給を要請しましたが弾薬・食料は全く届かず、とうとう「でたらめな命令を与え、部下に不可能なことを強制するのは暴虐に過ぎない」「司令部の最高首脳者の心理状態を速やかに医学的断定を下すべきだ」と言う痛烈な批判電報を打つと独断で撤退を命じました。
これは日本陸軍にとって史上初の抗命事件であり、陸軍刑法第42条に違反し、銃殺も予想される重罪でした。しかし、中将自身は軍法会議でインパール作戦を強行した牟田口の罪を明らかにするつもりだったようですが、結局は「発狂」扱いで解任されたのです。
菩提寺である庄内町の重慶寺にある立派な顕彰碑の碑文「つわものの生命救いし決断に君は問われし坑命の責め・インパール作戦のインド国コヒマ攻略戦において将軍の撤退決断により生かされた我らここに感謝の誠を捧ぐ。昭和六十年九月十六日 第三十一師団生存将兵有志建之」
同じ碑が第31師団の兵士が多かった高松市にも建っています。
  1. 2015/02/26(木) 09:26:01|
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振り向けばイエスタディ12

「少林寺、あまり私の名前を呼ばないさァ」カウンターの向こうで美恵子が不思議そうな顔をして尋ねた。
「少林寺は相手の顔を見ながら話すから呼ばなくていいのさァ」ママさんが話に入って来たが、その通りかも知れない。さらに言えば私は大概、この店の開店と同時に来るので貸し切りでマンツーマンなのである。
「でもママさんのことは呼ぶさァ」確かにママさんに話しかける時は呼んでいるよな気がした。どうやら美恵子は自分の名前を呼んでもらえないことが不満なようだった。その時、私は後でとんでもないことになるとも思わずうっかり口を滑らした。
「美恵子さんって言う叔母さんがいるんだ。お袋の弟の嫁さんだけど・・・」こっちの美恵子はビックリしたような顔をした。
「その人、素敵な人ねェ?」「うん」質問に私は正直にうなずいたが、その時の美恵子の表情の変化を見逃してしまった。
「まだ、若いねェ」「俺よりも11歳上だから34、35歳、そんなに若くないさァ」「若いさァ」とあちらの美恵子さんよりも少し上のママさんが口を尖らせた。
「綺麗な人ねェ?」「可愛い人さァ」今度はママさんが質問を続けた。
「憧れの人ねェ?」「そんなんじゃあない」「初恋の人ねェ?」「それは違う」「忘れられない人ねェ?」「何じゃそれは」ママさんの尋問は熱を帯びてきた。
「それじゃあ、何ねェ?」突然美恵子が割って入ってきた。美恵子の顔は明らかに怒っている。顔の真ん中で鼻の穴が少し膨らんでいた。
「それじゃあ、何ねェ」と言われても私にもわからない。いつも優しく笑っている叔母=あちらの美恵子さんの顔が浮かんだ。叔母は今でも私を「可愛い」と言ってくれている。
「小さい頃、優しくしてくれた近所のお姉さんみたいなものさァ」私はやっといい答えが見つかったと思ったが、それも甘かった。
「同じ美恵子でどっちが好きねェ」何て質問だ!「これは告白への誘導尋問だ」と鈍感な私も気づいた。案の定、ママさんはカウンターの隅で笑いながら聞き耳を立てている。こんな時に限ってお客は入ってこない。
「美恵子さんさァ」「どっちの?」「片思いじゃあ恥ずかしくて言えないさァ」「じゃあ、あっちねェ」美恵子の追及は佳境に入ったようだ。
「叔母さんに片思いはしないよ。こっちのさァ」ついに私は告白をしてしまった。しかし、実のところ私は美恵子への気持ちにそこまでの自信はなかった。私は自分の行動を監視する両親や伯父の刺すような視線を常に背中に感じているのだ。美恵子はそんな私の気持ちに気づくことなく顔中、否、全身で笑った。
「うれしいさァ、私も少林寺が大好きさァ」ママさんはカンタ―の隅で腕組みしながらテレビのマイナーな青春ドラマを見るような顔をしている。
「カラオケでも唄うさァ。ラブソングねェ」ママさんに冷やかされて美恵子は真っ赤になった。
え・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/02/26(木) 09:24:54|
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振り向けばイエスタディ11

「ソーキ2つ」美恵子が店の奥のカウンタキッチンの中にいる小母さんに注文すると、小母さんは「ニイニは内地の人だけどソーキ大丈夫ねェ?」と私の顔を見ながら確かめた。
「マーサイさァ」私の答えに今度は美恵子と小母さんが顔を見合せて笑った。こうも笑われるといささか自信がなくなる。
「ゴ―ヤも頼んでいいかなァ」私がすすけた壁に貼ってあるメニューを見ながら言うと、「ゴ―ヤも食べられるねェ」と、また小母さんは驚いたように言った。私がガッカリしていると美恵子は「少林寺といると楽しいさァ」と笑っていた。
「はい、ソーキ2つとゴ―ヤ」小母さんが料理をお盆にのせて持ってきたので、「ビールある?」と訊くと「(地元の)オリオンならあるさァ」と答えた。
「1本ちょうだい」それを頼むと小母さんは「ニイニ、オリオンビールも飲めるねェ。感心するさァ」とのけ反って驚き、美恵子はテーブルの向こうで拍手しながら喜んでいる。
私は「もっとも新鮮オリオンビール、もっとも古いサッポロビール」と言う基地で流行っているオリオンビールのCMのパロディーをつぶやいた。
「いっただきまーす」美恵子は私に割り箸を割って渡すと手を合わせた。
それにならうと今度は「少林寺、拝むの決まってるさァ」と私の合掌を誉めてくれた。
「当り前さァ。少林寺拳法の挨拶はこうするのさァ」と言う私の説明と実演に目を丸くした美恵子の口にソバが一筋吸い込まれていった。
「やっぱりモリヤは少林寺さァ」しかし、美恵子の妙な納得のされ方には困ってしまった。
「ニイニ、マーサイねェ」小母さんがビールとグラスを持ってきて訊いた。
「イッペイマーサイビン(とっても美味しい)」私が答えると小母さんは好奇心丸出しの顔で、「ニイニ、アシテビチ(豚足)食べるねェ。サービスさァ」と訊いてきた。
「カッチーサビタン(ごちそうさま)」そう言って手を合わせると店中に響く大きな声で「この人はシマナイチャー(沖縄の本土人)さァ」と叫び、美恵子も「そうさァ」と笑って同意した。また新しい呼び名ができてしまった。
  1. 2015/02/25(水) 10:22:22|
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振り向けばイエスタディ10

「ソバを食べたいさァ」次の日曜日の18時、三越前に今度は十分遅れで駆けてきた美恵子は息を整えながらこう言った。
「たまには天ぷらソバもいいな」と私が思っていると、美恵子は「少林寺、ソーキ食べれるねェ?」と訊いた。
「ああ、沖縄ソバね」と納得しながら「マーサイさァ(美味しい)」と答えると美恵子は「少林寺がナイチャー(本土の人)の顔で方言を使うと変さァ」と笑った。
「那覇ソバへ行くかァ」と言う私の提案に美恵子は「あそこは観光客向けさァ、ついてくるさ」と言って先に立って歩き出した。
横断歩道を渡り平和通りに入っていったが混んでいて家族連れや若者、観光客、基地で見たことがある顔まである。私は美恵子に追いついて並んで歩こうと思ったが通行人が多くて上手くいかなかった。
「ここさァ」美恵子はいきなり左手の靴屋に入っていった。靴屋は3メートルくらいの間口で奥に細長く、通路を挟んで両側の棚に商品が並んでいる。私は一瞬、呆気に取られたがあわてて後をついて行った。
靴屋を抜けると建物の裏通りに出て、そこを伝うように行くと看板もないその店はあった。古びた鉄筋の建物1階の半分がそうで引き戸から灯りとザワメキが漏れている。
「こんにちはァ」と引き戸を開けて入っていった美恵子の後を「ハイサーイ(こんにちは)」と言いながら続くと「だっからオカシイさァ」と店の中で美恵子はまた私の方言を笑った。
店の中には家庭用のテーブルが6つ、家族連れが2組食事をしていた。
  1. 2015/02/24(火) 09:37:21|
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振り向けばイエスタディ9

アルデン亭が入っているビルを出ると、あたりはもう暗くなっていた。
「気持ちいいさァ」グラス2杯のワインで美恵子はほろ酔い加減だった。
「今度、ネェネと来るさァ」美恵子には2人の姉と弟がいる。それは多分、那覇のアパートで一緒に暮らしているすぐ上の私と同じ歳の姉だろう。
「未成年が酔っぱらちゃあいかんべさ」私は突然、先祖返りして東北弁になっていた。
「ネェネに怒られるぞォ」「ネェネは彼氏のところから戻って来ないさァ」私の心配に美恵子はアッケカランと答えたが、と言うことは今夜の美恵子は1人住まい同様と言うことになる。
「少林寺、自転車は?」美恵子が歩道の上に駐輪している自転車の中に赤いサイクリング車を探しているので「飲酒運転の上、2人乗りしたら自衛隊を首になるさァ」と答えた。確かにデートは「春色の自転車で・・・」と誘ったのだが。
「やっぱり、少林寺は真面目さァ」私が真剣に心配する顔を見て美恵子はそう言ってケラケラ笑った。やはりかなりワインが回っているようだ。
「タクシーで帰るよ」私はそう言って車道に半歩踏み出してタクシーに手を挙げた。
「送ってくれるゥ?」美恵子は後ろから声をかけてきて私は「うん」とうなずきながらも、「そんなに人を信用するなよ」と少し馬鹿にされているような気分になっていた。

「ここでいいさァ」美恵子は牧志の住宅街の奥の鉄筋3階建てのアパートの前でタクシーを停め、ドアが開き下りると振り返って私の顔を覗き込んだ。
「来週も会うさァ」私の言葉に美恵子はニッコリと笑った。
「毎週会うさァ」美恵子の反応を見て私は続けざまに予約を取った。
「うん」美恵子は大きくうなずくと「お休み、楽しかったさァ」と言って手を振った。リアの窓から振り返ると、まだ手を振っている美恵子の姿が見えた。
「小禄第2ゲート」基地へ目的地を指定した私に運転手さんは「お客さんは真面目さァ。一緒に下りて部屋まで送ってあげないと駄目さァ」と呆れたように言った。
「うん」私はうなずいた。

「沖縄は本土復帰を果たしたと言っても歴史も文化も民族も違う。沖縄の女性と結婚しても上手くいくはずがない。だから絶対に許さない」これは以前、私が沖縄の女性と交際していることを知った父の長兄に当たる伯父から届いた手紙である。
「南洋の女は情熱的で男に迫って来るらしいから気をつけさせないと駄目だよ」これはその妻に当たる伯母が私の母に言った言葉である。何よりも残念なのは私の父も母もこの伯父伯母の言いなりなことだった。父は長兄に叱責されることを恐れ、母は父が怒ることを懼れていた。それは帰省するたびの事情聴取、電話のたびの「そちらで彼女を作ってないだろうね」の念押しにまでなっているのだ。そして盆、正月、地元のお宮の祭礼などで両親の心配を聞いた伯父は「父母に心配をかけるのは親不孝だ。親から受けた恩を忘れるな」と的外れな叱責の手紙を送ってくる。
「真面目なんかじゃないよ」私は運転手さんの言葉に心の中で反論しながら溜め息をついた
  1. 2015/02/23(月) 09:25:18|
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2月22日・「竹島は我が国固有の領土です」

竹島は三河湾に浮かぶ標高22メートル、周囲約680メートルの小島で、対岸の蒲郡市とは約400メートルの橋で結ばれています。
島には東照神君・徳川家康公も参詣された弁財天を祀る八百富神社があり、鳥居には東郷平八郎元帥の筆による鋼製の額がありましたが戦争で供出されたままになっています。
竹島の神さまの弁財天は女性のため「デートで参拝すると焼き餅を焼かれて別れる」との言い伝えがありましたが、それでも「弁天何かに負けないぞ」と2人で参拝する高校生が後を絶たず、何故か確実に別れていました。
我が蒲郡高校が農業学校だった頃、畜産科の荒くれ生徒が近所の水産学校の生徒と集団で果し合いをしたのも竹島の対岸でした。このため生徒会長に就任すると前期は5月1日、後期は10月1日の午後5時に三谷水産高校の生徒会長と竹島で会って握手し、不戦を誓うのが秘めた伝統行事になっていましたが、口頭の申し送りでしたから現在は継承されていないでしょう。
竹島は陸地と約400メートルしか離れておらず干潮の時には歩いて渡れますが、植生は対岸と全く異なり、やや南方系の野草が茂っている極めて特異で貴重な島なのです。
竹島は我が国固有の領土であり貴重な自然・文化遺産です。
竹島2竹島全景 
竹島3潮干狩り 
竹島1夜景
  1. 2015/02/22(日) 00:06:28|
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振り向けばイエスタディ8

「僕のは春色の自転車さァ」そんな台詞で私は翌日・日曜日の夕食に美恵子を誘った。
月から金曜日の昼間は理容学校、土・日曜日の昼間は理容・比嘉でバイト、金・土曜日の夜はママさんのスナックでバイトと言う美恵子のスケジュールでは私が入り込む余地はそこにしかなかったのだ。
日曜日の午後6時に三越前で待ち合わせたが、この時間を自衛隊式に18時と言ったのも美恵子には判らなかった。
私は国際通りに連接する平和通りの花屋でスイトピーを5本買った。美恵子は「赤いスイトピー」を熱唱した後、「スイトピーってどんな花だっけ」と訊いて私たちを呆れさせたのだ。
「マメ科の花だよ。昔、お客さんに花束をもらったさァ」ママさんの説明と自慢に美恵子は、「花束かァ、いいなァ」と羨ましそうな顔をした。
「待ったァ?」美恵子は5分遅れでやって来たが、仕事場から早足で来たのか少し息が上がっている。今日は黄色に白の細いストライプが入ったポロシャツにGパンだ。
「ほいッ」私は花束を美恵子の顔の前に差し出した。
「えッ?」美恵子は驚いて固まってしまったようだった。
「もっと大きなのと思ったけど荷物になるから・・・それがピンクのスイトピーさァ」私が照れ隠しにまくし立てるのを聞きながら、美恵子は全開の笑顔になった。
「嬉しい、花束をもらったの初めてさァ。少林寺大好きィ」そう言って美恵子は目を潤ませながら花の匂いをかいだ。私は一瞬、頬へのキスでもと期待したがそれはなかった。

「モリヤ君が女の子を連れてくるなんて珍しい」私の行きつけのスパゲティー店・アルデン亭のマスターは、いつものよく通る声で歓迎してくれた。ただ、本当は「珍しい」ではなく「久しぶり」だった。
「今日はモリヤ君が(最近は)座ったことがないカップル席に御案内します」相変わらずキチンとした言葉遣いと態度で私たちを店の奥の国際通りを3階の窓から見下ろせる席に案内してくれた。
「今日は何にします。サッパリ系ならトマトソースがお勧めです」マスターの低音は男の私も聴き惚れてしまうが、この台詞は以前にも別の女性と聞いていた。結局、私は和風にタラコ、美恵子は茄子のトマトソースを選んだ。
「私、スパゲティー何てミートソースとナポリタンしか知らなかったさァ」美恵子が何十種類ものスパゲティーの名前が並ぶメニューに感心しているとマスターが席に来て声をかけた。マスターの手には白ワインの小瓶があった。
「モリノ君、今日は車かい?」「いいえ」私の返事にマスタ―はワインを差し出した。
「これは私のおごりだから遠慮なく」美恵子は驚いた顔をしてマスターと私を見た。
「ありがとうございます」私は遠慮なく厚意を受けた。しかし、いつものサラダを注文するのを忘れていた。
  1. 2015/02/22(日) 00:03:50|
  2. 夜の連続小説8
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2月22日・日本の「猫の日」

明日2月22日は昭和62(1987)年に猫の日実行委員会なる組織が制定した日本限定の「猫の日」です。この由来は猫の「ニャー」と言う鳴き声と数字の「2=ニ」を語呂合わせしただけで大した意味はありません。
ならば同じ年に制定された「犬の日」は「ワンワンワンワン」で11月11日かと思いきや「ワンワンワン」の11月1日だそうです。だったら1月11日でも好いのでは?
しかし、「猫の日」には2002年に国際福祉基金(IFEW)が制定した8月8日の「インターナショナル・キャット・デー(国際猫の日)」若しくは「ワールド・キャット・デー(世界猫の日)」があり、後から決められたとは言えこちらを尊重するべきでしょう。
アメリカではコリーン・ペイジと言う愛猫活動家が「野良猫への避妊・去勢手術」を呼びかけた10月29日が「猫の日」になっていますが、こちらは2005年からなので何か「世界猫の日」に対する反発があるのでしょうか?
イタリアではローマ数字の17「VIXI(正しくはVIIX)」が「生の過去形=死」を意味し、「猫は不死身の動物」と言う俗説に因み2月17日と制定されたそうです。同じ理由なのかは不明ですがポーランドも2月17日です。
台湾は愛猫族連詮会が呼び掛けた投票で決まった4月4日が「猫の日」ですが、日付「4月4天」の発音は「スービンスーツェン」ですから広東語の鳴き声「ミャオミャオ」の語呂合わせではないようです。
最後にロシアは3月1日です。ロシア語で「猫」は「кошка(コーシュカ)」と言い、鳴き声は「Мяу―Мяу・ミャウミャウ(犬=サバーカはガウガウ)」なので日本と同様に「3月=марта・マータ」と「1日=один день・アジン・ジ」の語感に合わせたのかも知れません。と言いながら「マータアジンジ」が猫の鳴き声に聞こえますかね・・・無理。
古来、ヨーロッパでは黒猫を魔物の使いとする迷信があり、魔除けとして殺す祭りが行われて来ました。現在も何かを始める前の景気づけに黒猫を殺す人が後を絶たず「猫の日」はその風習を止めさせることが目的だったようです。そこでドイツとフランス、ロシアの友人に黒猫・音子の写真を送って感想を訊くことにしました。
ところで尻尾が短い日本猫(ジャパニーズ・ボブテール)を本当に見なくなったと思いませんか?この種類は1960年代にアメリカで確立・認定され、種の保存を受けているのです。折角、「日本の猫の日」を作るなら「日本猫の日」にして昔ながらの三毛猫・虎猫の復活に努力しては如何でしょう。
今年から愛猫家に加わってしまったため熱心に調べましたが、警備幹部時代にはこれ以上の真剣さで犬を研究していたのです。
黒猫ヤマト
ヤマトはヨーロッパでもこのマークを使っているのでしょうか?
(悪魔の荷物が届くみたいに見えるのかも)
  1. 2015/02/21(土) 09:06:16|
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振り向けばイエスタディ7

「少林寺、ボトルが終わったさァ」ママさんはグラスにジャックダニエルを注ぐと軽くボトルを振ってこう言った。気がつくとママさんまで私のことを「少林寺」と呼ぶようになっていた。
いつもはカウンターの向こうで私の前に立って色々と話をする美恵子が今日はママさんの影に隠れるようにして聞き役に回っている。
「少林寺はストレートで飲むから終るのが早いさァ」「ママさん、大助かり」私が茶化しても今日の美恵子は笑わなかった。
「少林寺、またバーボンでいいねェ」「今度はスコッチにする。シーバースを持ってきて」「意外に浮気者さァ」ほかに飲み手がいないバーボンのボトルを抱え、困った顔をしながらママさんは言った。するとこの「浮気者」と言う言葉に美恵子が反応した。
真面目な顔で私を見た美恵子にママさんは「冗談、冗談」と顔の前で手を振った。
「今はお酒の味の勉強中なのさァ」「たくさん勉強して下さいね。はい1万円」そう言いながらママさんはシーバースリーガルのボトルを持ってきた。
「これもストレートね?少林寺は本当に強いさァ」ママさんは空になったジャックダニエルのボトルからネーム札をシーバースリーガルに付け替え、私は札の名前が「少林寺」になっていないか確かめたが大丈夫だった。
「私、味見がしたい」突然、美恵子が言いだした。私とママさんが「えッ」と顔を見合わせていると美恵子はもう自分のグラスを持ってきた。
「薄くするさァ」水割りを作っている美恵子の横でママさんが指図している。
「未成年にまずくないかい」「20歳さァ」私の心配にママさんは反論した。
「いただきまーす」美恵子は私のグラスと乾杯するとスコッチを一口含んだ。
「舌がピリピリするけど甘い、それに匂いがいいさァ」そう言いながらもう目尻は赤くなっている。目も少しトロンとしてきたような気がする。
「少林寺のグラスは、まだバーボンねェ」「発音が違う、ヴォウブォン」いつもは感心してくれる私のウンチクにも美恵子は反応してくれない。私はアルコール摂取後の美恵子の顔の変化を眺めていた。
「少林寺、私、唄っていい?」今日の美恵子は本当に驚かされる。
「いいよ」と答えながら私はいつものように千円札を百円玉にこわした。その向こうで美恵子はカラオケのメニューで曲を探している。
目指す曲が見つかったのかママさんにメニューを見せると、いつもの手順で機械が操作され、やがて「赤いスイトピー」のイントロが流れた。
「春色の汽車に乗って 海に連れて行ってよ 煙草の匂いのシャツに・・・」初めて聞いた美恵子の唄声は意外と細かった。 
「美恵子をデートに誘えばいいさァ」カラオケの画面を見ながら唄うことに一生懸命の美恵子の横顔を見ながら、ママさんが叔母さんの顔でささやいた。
う・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/02/21(土) 09:04:45|
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振り向けばイエスタディ6

「それじゃあ、裾と耳の周りだけ短く刈るね」美恵子はそう言うと仕事を始めた。散髪と言えば頭を刈っている間の会話も楽しいものだが、美恵子は黙って真剣な顔で額に汗をかきながら仕事を進めている。
「でも、そんなに待っていて、もし来なかったらどうするつもりねェ」「少林寺は『来る』って言ったら絶対に来てくれると思ってたさァ」美恵子は鏡を見ながら返事をする。
「あッ」美恵子は私を寝かせて顔を剃り始めて突然、小さく声を上げた。
「血が出てきたさァ」確かに上唇がチクッと痛みを感じた(念のためT字剃刀を使っていたが)。
「どうするさァ」美恵子は困ったような顔で店長を見たがスポーツ新聞に夢中だ。
「唾でもつければ治るさァ」私の言葉に美恵子は「えッ」と驚いた顔をした。
「舐めてくれれば治るさァ」私が悪戯心で繰り返すと突然、顔が近づいて「ペロッ」と美恵子の舌が私の唇を舐めた。私は何が起こったのか判らなかった。ただ、美恵子はそれから益々無口になり怒ったような顔で仕事を続けていた。
「ありがとう また来るさァ」店長はレジのところで私の払った3千円を受け取ると愛想よく笑い、「美恵ちゃん、見送るといいさァ」と言った。
店長の言葉通り、美恵子は私と一緒に店を出て下までついてきた。
「自転車ねェ」美恵子は驚いたのか呆れたのか興味深そうに私の赤いサイクリング車をのぞいた。
「今度、ドライブしよう。2人乗りで」と冗談で言うと、「いつ?」と真面目に訊いてきて私は黙って苦笑した。
「さっきの私のファーストキスさァ」突然、美恵子は私の顔を見ながらそう言った。
「えッ?」私は美恵子の思いがけない告白に何と答えていいのか判らなかった。美恵子はもう一度私の顔を見ると、みるみる顔を真っ赤に染め、背を向けて階段を登っていった。
「あれがファーストキスかァ?」私は思いがけない出来事への驚きと自分の軽率さへの後悔で混乱していた。
い・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/02/20(金) 09:27:45|
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2月20日・ニミッツ提督の命日

1966年の明日2月20日は太平洋戦争で日本軍を討ち負かしたアメリカ太平洋軍最高司令官(陸・海軍を指揮した)・チェスター・ウィリアム・ニミッツ提督の命日です。
ニミッツ提督は1885年にテキサス州フレデリックバーグでドイツ系移民、然も没落した貴族の末裔の家庭に生まれました。祖父はテキサス開拓に参加し、提督が生まれたフレデリックバーグの街を建設するとホテル(民宿?)を始めました。提督の父は生れる前に亡くなり、母は夫の弟と再婚したので、そのまま祖父が経営するホテルを手伝いながら育ったのです。この祖父はジョークの名手として知られ、それを受け継いだ提督も緊張から硬直し、悲報に意気消沈した司令部内で絶妙のシーマン・ユーモア(艦乗りの冗談)を飛ばして空気を和ませていたようです。またホテルでの接客を通じて人物を見極め、相手の心を掴む術を学び、これが後に大変な力を発揮することになりました。
ある日、ホテルに若い陸軍士官2人が宿泊し、それでウェストポイントの陸軍士官学校への進学を希望するようになったのですが、入学には連邦議会議員の推薦が必要で、地元選出の下院議員に頼んだところ「ウェストポイントの枠は使ってしまったのでアナポリスではどうか?」と訊かれ、テキサスで生まれ育って海を見たことがなかったチェスター少年は海軍軍人になることになったのです。ところでアメリカのウェストポイントとアナポリスの陸・海軍士官と養成している学校は「U.S.Military Academy」と「U.S.Naval Academy」であって日本の帝国陸海軍のように士官学校、兵学校に呼び分けていません。教育対象から言えば「士官学校」の方が正しいでしょう。
アナポリスを114人中7番で卒業したニミッツ(将来の)提督は遠洋航海で日本を訪れ、日本海海戦で勝利した直後の東郷平八郎大将と対面しています。この時、候補生たちは東郷大将を取り囲んで歓談し、大将のイギリス訛りの流暢な英語に感動して、最後には胴上げまでしたそうです。この時の感動が後に感動的な行動につながりました。
太平洋戦争の開戦時は序列28番目の少将でしたが、ノックス海軍大臣とルーズベルト大統領の強引な指名を受け、中将を飛び越して大将職の太平洋艦隊司令官になったのです(アメリカではポストで階級が決まる)。当時の太平洋艦隊司令部内では真珠湾攻撃の責任によって「参謀は総入れ替えされる」との噂が充満していましたが、提督はそれを一蹴して士気を倍増させると共にそれまで蓄積してきたノウハウを継続して発揮させました。こうして艦隊を建て直しつつイギリス式海軍伝統の決戦は避け、残存戦力で日本軍の作戦を阻止することに徹しながらアメリカの工業力による戦力の充実を待ちました。
その後は3歳年長で士官学校の先輩であるハルゼー中将、同じ年のターナー中将、3歳年長で海兵隊の狂犬・スミス中将、さらに1歳年下のスプールアンス中将、2歳年下のミッチャー中将などの手駒を適材適所・自由自在に使い分け、日本を敗戦に追い込みました。今の日本人はダグラス・マックアーサーに負けたと思っていますが、あちらは南太平洋から攻め上ってフィリピンに来ただけで、太平洋諸島の日本軍を撃破して東から迫ってきたのはニミッツ提督なのです。実際、戦艦・ミズーリ艦上で行われた日本の降伏文書への調印式ではマックアーサーが連合国軍、ニミッツ提督は合衆国代表として署名しています。
ニミッツ提督は前述の通り、遠洋航海で会った東郷平八郎元帥を終生尊敬していて、敗戦後、放置されていた戦艦・三笠がダンスホールになっていることを聞いて激怒し、海兵隊員に警備を命ずると同時に手記を日本の雑誌に掲載して原稿料を寄付したためようやく復元の気運が高まり、現在の姿になった記念式典ではアメリカ海軍代表に「東郷元帥の大いなる崇拝者にして弟子であるニミッツ」とサインした肖像写真を贈呈させています。
  1. 2015/02/19(木) 09:00:19|
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振り向けばイエスタディ5

「はい」と美恵子が手渡した地図によれば、その店は国際通りの突きあたりを左折してすぐのビルの2階にある「理容・比嘉」と言う店のようだ。カッコして「毎週土日、9時~5時」とあるのは美恵子のバイト時間らしい。
「明日、さっそく行くさァ」私が地図をしまいながら言うと美恵子は驚いた顔をした。
「まだ、髪は短いさァ」「美恵子ちゃんに会いに行くさァ」私の答えに美恵子は嬉しそうな、戸惑ったような、困ったような顔をした。
「うッそ、髪が耳に触っているから刈る時期なんだよ」今度は安心したような、ガッカリしたような、怒ったような顔になった。美恵子の表情の豊かさは見ていて本当に愉快になる。
「本当に来てくれるゥ?」美恵子が私の顔を覗き込んで訊いたので、「うん」とうなずいた。美恵子は顔中で笑ったが、唇からは前歯がのぞいていた。

理容・比嘉はすぐに見つかった。私は愛車(と言っても自転車だが)を看板が出ている電柱の下に停めるとチェーンの鍵をかけて階段を上っていった。階段を上った突き当たりの「理容・比嘉」と言う金の文字が入ったガラスのドアを開ければ店だった。
「いらっしゃいませ」待合い席に座りスポーツ新聞を読んでいた店長らしい中年男性が声を掛けてきた。色は黒く、パンチパーマで髭を生やしているが目が人懐こいせいか威圧感はない。昼時のためか他に客はいなかった。
「初めてですけどいいですか?」私の声に店の奥の蒸し機のところでタオルを片付けていた美恵子が顔を上げて明るく笑った。
「少林寺、来てくれたねェ」美恵子の嬉しそうな声に店長もニコッと笑った。
「美恵ちゃんのお待ちかねの彼氏はこの人ねェ」店長はからかうような視線で私と美恵子の顔を見比べ、「どうぞ」と3つある席の1番奥に案内した。
私が席に座ると美恵子は店長の横に首に巻くカバーを持って立ち、店長は鏡に写った私と美恵子の顔を見るとニヤッと悪戯っぽく笑った。
「美恵ちゃん、やってみるねェ」鏡の中で美恵子は驚いた顔をした。
「いいんですか?」「本当はよくないさァ」私の後ろで2人の話はまとまったようだ。ところで私の意見はどうなるのだろう・・・。
「嬉しいさァ」美恵子は本当に嬉しそうだった。店長はニタニタ笑いながら待合い席に戻ってまた新聞を広げて読み始めた。
「私、おトォの頭をよくやるから大丈夫さァ」美恵子は自分にも言っているようだった。
「また、短く刈るねェ?」美恵子は鏡の中の私の顔を見ながら少し心配そうに訊いてきた。
「のばしたらいいって言ったさァ」私は何故かそう答えてしまった。私は小学校高学年で坊主刈りにして以来、高校・大学でものばしたことがなかったのだ。
「本当!少林寺、きっと似合うさァ」しかし、鏡の中の美恵子の喜ぶ顔を見ながら、私も「まァ、いいか」と自分を納得させた。
  1. 2015/02/19(木) 08:59:20|
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振り向けばイエスタディ4

「少林寺、髪をのばさないの?」突然、美恵子が訊いてきた。
「自衛隊はのばせないさァ」横からママさんが口をはさんだが、この店には私以外に自衛官の客がいないのでママさんの自衛隊に関する知識も時々ピンボケである。
「そんなことはないけど似合わないさァ」私はあまり関心がなさそうに答えた。
「少林寺は整った顔をしてるからかっこいいさァ」美恵子はいつものように目をクリクリさせて微笑んだ。
「そんなこと言われたの初めてさァ」私は照れてしまったが、それは本当に初めてだった。
「少林寺、どんなスタイルが好きねェ?」さすがに理容師の卵だけあって美恵子は興味を持って訊いてくる。
「クルーカット」私がぶっきらぼうに答えると美恵子は「エッ」と言う顔をした。
「素人はマリンカットって言うけどアメリカ海兵隊の髪型さァ。ミリタリースラングではジャ―ヘッドって言うんだよ。上から見るとふたを開けたジャーみたいだからね」私が一気にまくし立てると美恵子は「へーッ」と感心した。
「相変わらず物知りさァ」隣りでママさんも感心と言うか呆れている。そこで私は追い打ちをかけるようにウンチクを並べた。
「あれは頭のてっぺんに手を置いて、残ったところをバリカンで刈って3分ででき上がりさァ」私が自分の頭と手で実演してみせると、美恵子は興味深々と言う顔でうなずいた。
「それってモヒカンって言うんじゃないの」ママさんがまたピントを外した。
その時、お客が入って来てママさんと美恵子はいつもの挨拶をした。ママさんがカウンターを出て美恵子がグラスの準備を始める。2人の息も随分合って来ているようだった。
私はその隙にグラスの酒、その時はバーボン=ジャックダニエルを口に運んでいた。バーボンを飲んでいたのはアメリカ空軍の友人の影響だが「バーボンはあまり飲む人がいないから困る」とママさんには不評だった。
ママさんが客を案内したボックス席にグラスその他のセットを運んで、美恵子がお盆を抱えて戻って来た。
「少林寺、散髪はどこへ行ってるねェ」「基地の床屋さァ、安いから」私の答えに美恵子はまた「へーッ」と言う顔をした。
「だけど下手だし、態度も悪いし、最悪さァ」私の話に小さくうなづいた。
「失敗されて文句を言うと、『俺はエライさんを知ってる』って開き直るんだよ」「そんなの関係ないさァ」美恵子は口を尖らせて一緒に怒ってくれた。
「私、散髪のバイトをしてるから今度来て」美恵子は少し真面目な顔をした。そしてカウンターのナプキンたてから1枚取るとボールペンで地図を書き始めた。
「国際通りは分かるよね・・・」ボールペンを使いながら美恵子は独り言のように話し続け、私もそれを覗いていた。
  1. 2015/02/18(水) 09:27:16|
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ヴィレム・ルスカさんの逝去を悼む

2月14日にオランダの柔道家のヴィレム・ルスカさんが亡くなりました。74歳でした。
日本ではウィレム・ルスカと呼ばれていますが(リングネームは何故か「ウィリアム」だった)、オランダ語の発音で「Willem」は濁るのが正しいようです。
ルスカさんはミュンヘン・オリンピックで無差別級、最重量級の2階級を制覇し、東京オリンピックの無差別級で神永昭夫さんが同じオランダのアントン・ヘーシンクさんに敗れていた日本柔道界にとっては悲願を断たれた形になりました。ちなみに間のメキシコでは柔道は行われず、テレビでもレスリングの「アニマルワン」が放送されていました。
ただルスカさんは最重量級では圧勝したものの無差別級ではソ連のクズネツョフに3回戦で敗れ、当時は敗者復活戦でも決勝まで勝ち上がれたため優勝したのです。
ミュンヘンでの日本柔道は最重量級の西村昌樹さんが準決勝でルスカさんに敗れて銅、無差別級では篠巻政利さんがルスカさんと同じく3回戦で敗退しましたが、篠巻さんを敗った相手が次で判定負けして敗者復活の資格を失ったことを当時のマスコミも「日本潰し」と非難していました。
その後はアントニオ猪木がモハメッド・アリさんとの異種格闘技戦を企画していると聞き、その前にプロレスVS柔道戦を行いましたがバックドロップの3連発を受けて敗れ、新日本プロレスに参戦することになりました。しかし、柔道にも「裏投げ」と言う同じ技があるのに無防備に術中にはまったのには首を傾げてしまいます。ちなみにモハメッド・アリさんはオリンピックのゴールド・メダリストを敗ったことで対戦に応じる気になったと言われています。
リングの上では北欧系の金髪に真白い肉体が映え、熱戦になるとそれが真っ赤に染まったことから「オランダの赤鬼」なるニックネームがつけられましたが、本人はあまり真剣にレスリングの研究をしなかったようで華々しい戦績を挙げぬまま消えてしまいました。この頃は我々のような高校の柔道部員たちが「柔道の恥」と非難していたのは確かです。
そもそもルスカさんは海軍の水兵時代に柔道と出会って夢中になり、退職後には日本へ留学して本格的に柔道を学んでいましたから(時期的には東京オリンピック前後なのでヘーシンクさんに対抗する練習台にされたらしい)改めてレスリングを学ぶ気など起こらなかったのかも知れません。
ルスカさんとヘーシンクさんは6歳違いなので活躍した時期はあまり重なっておらず、1965年(東京オリンピックの翌年)のヨーロッパ選手権ではルスカさんが無差別級で銀、最重量級では銅、ヘーシンクさんは無差別級で銅、最重量級でも銅だったので並んで表彰台に上がったようです。1967年の大会ではルスカさんは最重量級で前年に続いて金を獲得したものの無差別級では銅、ヘーシンクさんが金でした。
それにしても直前のオリンピックのゴールド・メダリストが優勝できなかったのですから、ヨーロッパの柔道のレベルはかなり高かったのが判ります(アンゾール・キクナーゼ選手などソ連のサンボ出身者がいた)。2001年に脳出血を発症して以来の長き闘病に合掌。
  1. 2015/02/17(火) 09:21:12|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ3

次の週末、ママさんのスナックに行くと美恵子が待っていた。
「モリヤ、何か唄うさァ」三十代半ばであろうママさんは姉さん面と親しみを込めて私をこう呼ぶ。私は財布から千円札を1枚取り出すとママさんに渡した。
「いつもの『芭蕉布』ねェ」ママさんは百円玉に両替えしながら訊いた。
「スゴーイ、沖縄の歌が唄えるんだァ」美恵子が驚いた顔をしたので私は「うん」とうなずいた。
「モリヤは島唄(沖縄民謡)も唄えるさァ」ママさんが百円玉を私の前に積みながら答えると、美恵子はさらに目を丸くした。
「モリヤは来る時間が早いからカラオケはいつも貸し切りさァ」ママさんは機械を操作すると百円玉を入れ、すぐに「芭蕉布」のイントロが流れた。
「海の青さに空の青 南の風に緑葉の・・・」私の唄に美恵子が小声で合わせているので2番への間奏のところで「唄う?」とマイクを差し出すと「恥ずかしいさァ」と首を振った。
「上手いさァ。もっと唄ってよ」美恵子は拍手をしながらリクエストしてきた。
「『てんさぐの花』を唄うさァ」ママさんは本当に遠慮がない。私は「てんさぐの花」「美わしの琉球」「十九の春」「ハイサイおじさん」「谷茶前」「ゆうなの花」など知っている島唄メドレーで9百円遣った。
「『二見情話』をデュエットするさァ」私は最後の百円玉を渡しながらママさんに言った。
「美恵子ちゃんは唄える?」美恵子が私の顔を見ているので訊いてみると、ママさんは「ミチコさァ」と言いながら「ダメダメ」と顔の前で手を振って見せ、美恵子も下を向いた。
ママさんは百円玉を機械に入れるとマイクをもう1本取り出した。
「二見美童や・・・・」デュエットしているとお客が入って来て、ママさんは唄いながら「いらっしゃいませ」と器用に声を掛けた。
唄い終わったママさんがボックス席に行くと美恵子はカウンター越しに顔を近づけた。
「私もデュエットできるようになるさァ」美恵子の目は真剣だった。
「あまり飲み屋に染まらないでくれ」私はそう言いたかったが、もう美恵子は客に出すグラスの準備のため後ろを向いていた。
  1. 2015/02/17(火) 09:20:16|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ2

「そうかァ、女の子にはヤモリは気持ち悪いよね」私の言葉に美恵子はうなずいた。そのまま2人して壁にヤモリがいないか探していたが、突然、美恵子が叫び声をあげた。
「少林寺でいいさァ」美恵子はそう言うと勝手に何度もうなずいている。
「少林寺?まずいなァ」私の胸に少林寺拳法部の支部長のいかつい顔が浮かぶ。しかし、美恵子はアッケカランと笑うと、もう一度「少林寺」と独り言で繰り返した。
「仕方ないなァ。美恵子ちゃん専用ならいいかァ」「美恵子って呼ぶのもそうさァ」ここで2人の間に妙な約束が成立した。
「少林寺拳法って、ジャッキー・チェンがやってるあれねェ?」「少し違うけど似たようなもんさァ」「へーッ」美恵子は私の答えに感心したように反応し、目をクリクリさせた。
「ミチコちゃんさァ。短大生さァ・・・」その時、ボックス席でママさんがお客に美恵子の説明をしているのが聞えてきた。
「短大生なんだァ」私が感心したように言うと、美恵子は悪戯っぽく笑った。
「嘘さァ。本当は理容学校の新入生さァ」「りょうり学校?」「理容学校さァ!散髪だよォ」「ああ床屋さんかァ。新入生なら18歳?」一般的には床屋をあまり理容とは言わないだろう。高卒の新入生なら18歳かと推理した。
「勘が好いさァ。でもママさんは20歳にしておかないといけないって、お酒を出す店だから・・・」美恵子は顔を近づけて声を落として言った。しかし、美恵子は見た目よりも若く(幼く)見えるので少し無理があると思った。
「少林寺は不思議な人さァ、何でも話してしまうさァ」少し美恵子は困った顔をしている。
「これも2人の内緒なんだ」「うん」私の返事に美恵子は小さくうなずきながら、カウンターに肘をついて身を乗り出した。
「今度は少林寺のことを話すさ、少林寺は幾つねェ」「水牛年さァ」私の惚けた答えに美恵子は一瞬、戸惑った顔をしたが、すぐに理解した。
「丑年ねェ。私のネェネと一緒さァ」美恵子はクイズを解いたように嬉しそうな顔をした。
私は美恵子に問われるままに答えたが、美恵子は私の出身地・愛知県も名古屋と言わなければ判らないようだった。
「自衛隊って鉄砲を持って戦うの?」これはよくある質問だ。
「違う、僕はエアフォース(空軍)さァ」美恵子はキョトンとした顔をした。
「エアホースってなんねェ」ああ勘違いである。これでは「空気の管」だ。
「航空自衛隊、飛行機の整備をやってるのさァ」「かっこいいさァ」美恵子は関心と感心に目を輝かせた。本当に目の表情の豊かな子だ。
美恵子とは何故か、初対面からお互いのことをよく知る関係になってしまった。
  1. 2015/02/16(月) 09:22:52|
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2月15日・涅槃会

釋尊の死は「般涅槃(はつねはん)」と言い、悟りの完成を意味します。これは「悟り」によって精神的苦悩から解放され、「死」によって肉体的苦痛からも離脱することができたと言うことです。
その最期の情景は平家物語の冒頭で「沙羅双樹の花の色、生者必衰のことわりをあらわす」と詠われているように2本の沙羅(夏椿)の樹の下で北を枕にして、右脇を下に亡くなったようです(これが北枕を避ける風習の起源です)。
日本の坊主は「真冬の2月に夏椿が満開になったのは釋尊の神通力による」などと言いますが、インドの沙羅は年中咲いている花なので別に不思議はありません。
死因は下痢と嘔吐で、南方佛教では豚肉を食べてあたったとされていますが、僧侶の肉食が禁じられている中国以東では茸と言うことにしています(肉食を禁じたのは中国の皇帝とそれを踏襲した日本の天皇で佛戒にはありません)。
人生の終幕を釋尊は巨木が倒れるように閉じられました。
南方佛教の「涅槃経」は釋尊が最後の旅に出られたところから亡くなって埋葬されるまでをドラマチックに描いていますが、日本では「佛垂槃涅槃略説教誡経」と言う最後に説かれた教えだけを尊んでいます。
その中で釋尊は弟子たちに「何か訊きたいことはないか?」と何度も繰り返し、弟子たちが「もう十分です」と答えると、「私は今、涅槃に入る」と言って眼を閉じ、すると沙羅の花が一斉に咲いて散り、白い鶴のような枯れ木になりました。
しかし、日本の夏椿は白いですがインドの沙羅はオレンジ色(写真参照)で、「こんな鮮やかな花びらに埋もれて亡くなった釋尊はお洒落だなァ」と感心したものです。
師僧はいつも涅槃図を飾りながら、まだ子供だった野僧=小坊主に「キリスト教は十字架にかけられて苦悶の表情で死んでいるイエスを拝んでいるが(正しくはカソリック)、佛教は微笑んで亡くなったお釋迦様を拝む。つまり佛教は笑うための宗教だ」と言っていました。
確かにあらゆる苦しみから解放される方法を説いているのが佛教ですから、その教えを体得すれば微笑んで死んで逝けるのかも知れません。
寺の涅槃図では、弟子たちのほかに動物たちも集まっていて、その先着順に干支が決まったと言う伝説があります。また天女が落とした薬袋が枝に引っ掛かっていて、届かなかったことを嘆き悲しむ天女の姿も描かれています。また足に教えを受けようと駆け付けたのに間に合わなかった老婆がすがっています。それを指差して師僧は「学ぶ気持ちを先延ばしにすると、このように嘆き悲しむことになるのだ。知りたい欲は大いに燃え立たせ、極め尽くせ」と教えました。百拜
月刊「宗教」講座・涅槃佛と僧
月刊「宗教」講座・紗羅


  1. 2015/02/15(日) 10:16:10|
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振り向けばイエスタディ1

「お客さん、少林寺拳法をやるんだァ」ママさん不在のカウンタ―に座っていると後ろから声をかけられた。店に入った時、初対面だったその娘(こ)は開店準備の仕上げにボックス席の机の上を拭いていて後ろから何かを発見したらしい。
「Tシャツの背中に書いてあるさァ」振り返るとその娘は布巾のタオルを持って興味深そうな顔でこちらを見ていた。
私は父親から躾で初対面の人には素っ気なく振舞っていたが、あらためて見ると身長は155センチくらい、髪は肩までのソバージュ、顔は丸顔に沖縄の娘らしいハッキリした眉に大きな眼、鼻は高くはないが先っぽが尖っている。笑うと唇から大き目の前歯がのぞく。大き目の前歯は私にもあり親近感を覚えた。
「名前は?」私はカンタ―に入って来たその娘に訊ねた。
「玉城美恵子さァ」するとその娘は、何故か少し後ずさりながら答えた。
「お客さんに本名を教えるもんじゃないの」そこにママさんが帰ってきて美恵子と言ったその娘に声を掛けた。
「ミチコちゃんさァ、今日からです。はじめましてェ」ママさんの紹介に私は、「今更遅い」と苦笑しながら顔の前で手を振った。
「モリヤなら大丈夫だけど、ミチコちゃんさァ」ママさんが繰り返したところで美恵子が話に加わってきた。
「いわゆる源氏名って言う奴ですか?」「若い癖に変なこと知ってるさァ」私の質問にママさんは呆れた顔をした。
「源氏名?」「芸名みたいなものさァ、美恵子ちゃん」不思議そうな顔をしている美恵子に私が説明すると「へーッ」とうなづいた。
「こちらはモリヤさん、自衛隊さァ」ママさんが紹介すると、美恵子は「自衛隊」と聞いてビックリしたような顔をした。
「ミチコちゃんはウチの親戚さァ。悪さしないでね。モリヤなら大丈夫だけど」どうやら私は徹底的に安全パイだと思われているようだ。
その時、ドアのカウベルが鳴り、珍しく早い時間にお客さんが来た。馴染みの客らしくママさんはカウンターを出て歩み寄るとボックス席に案内した。
ママさんの指示でグラスと水割りセット、キープボトルを持っていった美恵子は私の水割りの準備をしながら訊いてきた。
「モリヤさんって呼べばいいですか?」美恵子はクリクリとよく動く大きな目で私の顔を
観察するように眺めながら答えを待っている。
「壁のヤモリさんとでも呼んでよ」「ヤモリさん?」私は職場で呼ばれている仇名を答えたが、美恵子は周囲の壁を見回して気持ち悪そうな顔をした。
お・岡田奈々イメージ画像
(本人を見た友人の褒めたイメージです)
  1. 2015/02/15(日) 10:11:07|
  2. 夜の連続小説8
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2月15日・清水次郎長一家・大政の命日

明治14(1881)年の明日2月15日は清水の次郎長一家のナンバー2・大政の命日です。50歳でした。
次郎長一家と言えば「旅姿三人男」ですが、大政は2番で歌われています。
「富士の高嶺に白雪が 溶けて流れた真清水で 男磨いた勇み肌 何で大政 何で大政 国を売る」この歌詞の「国を売る」の意味は作詞者の宮本旅人氏も明確には語っておらず、大政が武士出身と言う俗説から「脱藩して渡世人になった」ことになっています。
しかし、実際は尾張国常滑の廻船問屋の跡取り息子で名前は熊蔵と言ったのですが、後に次郎長の養子になり、山本政五郎と改名したようです(次郎長の戸籍登録名は山本長五郎)。したがって映画などで描かれるような槍の名人と言うのも浪曲などの創作に近く、正式に習った訳ではないようです。
身体は本当に大きかったらしく、親分の次郎長と共に葬られている清水市・梅蔭寺の遺物館に展示されている胴着は現代人でもLLサイズでした。
三重県の荒神山で行われた安濃徳との血闘では次郎長の義兄弟・吉良の仁吉と共に指揮を執り、敵の浪人上がりの用心棒・門之助を槍で串刺しにして打ち取っています。
この頃の逸話は浪曲などの創作や庶民の伝承も混じるためどこまで史実か判らないのですが、明治以降は次郎長が市中警護役と言う警察署長のような役職につくと、やはり手下として治安維持の仕事をしていたようです。
ただ清水では犯罪者を追い掛ける清水一家の子分たちは鬼のように怖かったと伝えられ、大政はその鬼よりも怖い大鬼だったと言います。
一説に大政は温厚な人柄で人望を集めていたと言われますが、それは次郎長一家の身内や親しい人たちとの間のことで、清水の庶民から見れば近寄りがたい大鬼だったのでしょう。
  1. 2015/02/14(土) 08:55:59|
  2. 日記(暦)
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アラスカン・フィーリング

 「アラスカン・フィーリング」

物語は「亜麻色の髪のドール」聖美との別れから始まる。

私は1月上旬から山口県の防府南基地で曹候学生の卒業課程に入校する。
「3曹に昇任すると言う区切りがあるなら、帰って報告しろ」親から年末年始に帰省するように命令してきた。こうなったら有無を言わせないのがウチの親だ。私は聖美とのプランをキャンセルして帰省しなければならなくなった。

年明け早々、父の実家に年始の挨拶に連れて行かれた。父の両親の遺影が飾ってある奥の座敷の卓机2つを囲んで父の兄弟とその妻、従兄弟が座った。御馳走が並び、酒盃が重ねられる中、「沖縄はどんなところ?」と叔母が訊いてきた。
「いいとこですよ」私もホッとしながら話し始めた。そのまま観光案内的な沖縄の話題で盛り上がってきて、そこで私は何気なく「沖縄でハーフの子と知り合ったんですよ」と口にした。すると叔母は女性らしい興味を示した。
「もし、その子と結婚したら子供は何になるの?」「クォーターかな」従弟が答えた。私は「気が早いなあ」と思いながらも満更ではなかった。
聖美の母は娘がハーフゆえに殊更に厳しくしつけていて同世代の女性に比べても芯が強く、思慮深く、私はそんな人間性に魅かれている。ただ、それは私が3曹になってから考えるつもりだった。突然、伯父が口を開いた。
「ハーフなんて言っても混血児のことだろう」伯父はいつもの「沖縄人は文化も歴史も民族も違う」と言う持論を語気も荒く語り始めた。その横で伯母が母に向って説教を始める。
「そんなアイノコとつき合わせちゃ駄目だよ。南洋の女は情熱的で男に迫ってくるそうだから気をつけさせないと」すると母はうなずきながら「だから沖縄で彼女を作っちゃ駄目って言ってあったのに・・・」とこぼすように答えた。
伯父は説教をしながら酔いもあって興奮し、「そんな女と結婚すれば血が汚れる」とまで言った。私はうつむきながら怒りがこみ上げてくるのを耐えていた。その時、父が口を開いた。その口調は諭すように静かだった。
「どうせ将来はないんだから、そんな混血児とは手を切るんだな」これが判決だ。この家の子供である私には反論の余地もなく、ただ聖美を裏切る決心をしなければならなかった。

「本土は寒いんでしょ」「訓練って厳しいんでしょ」沖縄に戻り防府に出発する前の夜、聖美は私の身体の心配ばかりしていた。
「フライトは何時?」「9時かな」「いつもの迷彩の飛行機でしょ」「多分ね」「その時間、ランウェイを見てるよ」そんなたわいのない会話で時間は過ぎていった。そして帰り際、アパートの玄関でキスをした後、優しく微笑みながらこう言った。
「無理しないでね」私は口を固く結び、黙ってうなづいた。
「自分は今、この人を裏切ろうとしている」私は聖美の何の疑いも抱いていない目が怖かった。暗い廊下からは部屋の明りが逆光になって聖美の亜麻色の髪だけが光って見える。
「モリノ3曹、出発」聖美は右手を額にかざして敬礼をした。その時の聖美の目はしばらく会えなくなる不安よりも、その後に続くはずの未来を見ているようだった、私は答礼すると踵を返し早足で歩き始めた。
聖美が廊下まで出て見送っているのが判ったが、振り返ることが出来なかった。
この時の沖縄の1月の夜は本土以上に寒く、私は心が凍えた。

私は防府から聖美に一度も連絡することはなかった。
毎週届く手紙にも返事を書かず、教育を終えて沖縄に帰る日も知らせなかった。
「理由を告げない一方的な別れ」この非情な作業を時間だけに任せたのだ。
このことは親たちにとっては、子供が見つけてきた玩具を「気に入らないから」と取り上げた程度のことだろう。しかし、聖美は決して人形などではなかった。私は、人でなしになったのだ。

「シンシア、映画を見に行かないか?」防府から戻ったある日、私は行きつけの米軍用レストランでアルバイトしている顔馴染みのアメリカ人の女の子をデートに誘ってみた。
それは「ハーフの聖美をあそこまで誹謗した両親や伯父・伯母はアメリカ人の彼女だったなら何と言うだろう」と言う屈折したイタズラ心と「どうせ日本人、自衛官を相手にしてくれるはずはない」と言う冗談半分のつもりだった。
「リアリィ(本当?)」シンシアは一瞬、驚いた顔で私の顔を見返した。その碧い目は彼女の揺れる心を映しているようだ。ただ、シンシアは金髪と碧い目以外はアジア風の顔立ちで(ハーフの聖美の方が彫は深く外国人的だった)、大学時代の友人が講義中に隣りの席から見せてきた「機動戦士・ガンダム」のセイラ・マスに似ていると思っていた。
セイラ・マス1「機動戦士ガンダム」セイラ・マス
仕事中に私的な会話をしていてはまずいのか、シンシアはメニューを説明するような振りをして話を続ける。
「何か面白い映画やってた?」「ベストキッド2かな」「あれはカラテの映画だよ。サージェントもカラテをやるの?」シンシアは興味深そうに私の顔を覗き込む。しかし、前作のベストキットは聖美と初めて見に行った映画だ。
この「サージェント」と言うのは先ほど「アイ ビケーム トゥ スタッフ・サージェント=3曹になったよ」と申告してからの呼び名で、それまでは「キャデット(候補生)」だった。
一方、彼女の名前の「Cynthia」は正確には「スィンティア」に近く、始めは上手く発音できず、その指導から会話が弾み仲良くなったのだ。
「僕(実際の1人称は「I」です)がやってるのは拳法だよ、ブラックベルト(黒帯)なんだ」私の答えに今度は感心した顔で笑ったが、多分、空手と拳法の違いは判らないだろう。
「ほかに君が見たいのがあればそれでもいいけど」「ううん、OKだよ。でもマミィ(母親)の許可をもらってからね」シンシアの答えに「アメリカの自由な家族関係」をイメージしていた私は戸惑ったが、シンシアはそのまま店の隅にある公衆電話で家に電話をかけた。この私的用件の使い分けは理解不能だ。
食前のコーヒーを飲みながら聞き耳を立てているとシンシアと母親の会話が聞こえてくる。
デートの相手である私の説明には「ジャパン・エア・フォース」「スタッフ・サージェント」と自己紹介した時の情報を使っている。「ジェントルマン」「ナイス ガイ(好い人)」と言うのも私のことのようだ。
「空手のブラックベルトとベスト・キッド2を見に行く」と言うのは安心させて許可を取るための作戦だろうか。しばらくの遣り取りの後、シンシアは公衆電話を切って振り返ったが、その顔は満面の笑顔に変わっていて、それだけで母親の「OK」が出たのが判った。

夕方、シンシアがアルバイトを終える時間にレストランまで迎えに行った。

「沖縄が舞台の映画でも全然、沖縄の風景は出てこなかったね」「確かに」映画を見終わるとシンシアは意外に鋭い感想を口にした。確かに沖縄と言う設定の街並みや田舎の村落の風景は出てきたが、現地に住んでいる者から見れば明らかに違う。やはりハワイ辺りに作ったセットだろう。大体、街の看板が全て横文字で、車は右側通行なのだ。
「サージェントは本土の人だけど沖縄の文化に詳しいの?」「ジャスト ア リトル(少しは)」「私は文化人類学専攻だから日本文化を研究してるんだよ」シンシアは映画で描かれていた沖縄を文化人類学の視点で見ていたようだ。
「本土と沖縄は違うの?」「民族は一緒だよ」私は伯父たちが断定した見解を否定したかった。
「文化は違うでしょう?」私の答えにシンシアは真顔になって訊き返してくる。
「いや、根っこは一緒だよ」私は込み入った説明をするには英語力に自信がない。ただ母音のエ段がイ段、オ段がウ段になる沖縄の方言は古い時代の日本語がそのまま残っていると言われていることを英語で説明した(かなり苦労したが)。
「多分、同じヨーロッパ文化でもラテン圏とゲルマン圏が違うみたいなものだね」シンシアの方が上手い例えで納得してくれた。人ごみにまぎれて通りに出ると辺りはもう薄暗かった。
「夕食はどうしよう?」「ピザでも食べに行こうか」最近見つけた美味しいピザ店に連れて行こうと思って提案するとシンシアは意外な反応をした。
「駄目、私はイタリアン(イタリア人)ではないわ」シンシアは真顔だった。その「イタリアン」と言う言葉には、どこか見下したような響きがあることを感じた。
「それじゃあ、スパゲティも駄目なんだ」「ピザはヌードル(麺)だけど、あまり好きじゃないよ」シンシアはやはり首を振る。と言っても聖美とのデートコースだったアルデン亭には連れて行けないのだが。それにしても私は今日、色々なことを学んだような気がした。
この日、私はシンシアがアラスカ生まれの19歳、嘉手納のインターナショナル・カレッジ(国際大学)の学生で、母親は嘉手納・米軍病院のメジャー(少佐)の看護婦長、父親は基地医務室=空軍衛生隊のマスター・サージェント(1等軍曹)、5歳年下の妹がいることを知った。
「アメリカ人の女子大生がデートをするのにも親の許可を取る」「母親が空軍少佐で父親は1等軍曹」「イタリア系ではないからピザやスパゲティは食べない」カルチャーショックの連続だ(そもそもスパゲティの麺をパスタではなくヌードルと言っていた)。
「だったら、何を食べる?」「ハンバーガーが好い、あそこのマックへ行こう」そう言うとシンシアは映画通りの正面に見えるマクドナルドに向かって私の手を引っ張って歩き始め、そんな様子を周りにいた日本人カップルが驚いた顔で見ていた。しかし、マックでもシンシアは意外な話をした。
「何でハンバーガーに野菜を挟むの、肉が水っぽくなるよ」そう言ってシンシアが指でつまんで抜いたレタスを私が食べた(後日、カレーライスに誘ったが、「私はインド人ではない」と言わなかったものの「ライスは野菜だ」「パンに挟んで食べる」と言って呆れさせた)。

次のデートも映画だった。今度はシンシアのリクエストで「ゴースト・バスターズ」を観た。
映画のストーリーの展開に合わせて喜怒哀楽を見せるシンシアに私はアメリカ的なストレートに感情移入する映画の楽しみ方に感心しながらその横顔を見ていた。その時、シンシアはゴースト・バスターズと一緒に怪物と戦っていた。
映画の後、またハンバーガーショップに入るとシンシアが思い出したように話し始めた。
「父がモリノってイタリア人の名前だからピザやパスタが好きなんだって言うんだよ」「そうなの?」「デン・モリーノって言うイタリア系の有名なバスケットの選手がいるんだって」シンシアの意外な話に私は感心しながらうなずいた。ちなみに「モリーノ」とはイタリア半島の中央部にあるラクイラ県の山村の地名で、それを調べてくるところがシンシアだった。
「この間、ピザに誘ったのは、そこが美味しいからだよ」「うん、わかってる」とうなずきながらハンバーガーにかぶりつくのを見て苦笑してしまう。ただ、私はハンバーガーをコーラで食べるのは味覚としたまだ慣れていない。そのコーラもシンシアには「アメリカと違う」と不評なのだ(コカ・コーラを「コーク」と呼んでいて、私は昔の「コークと呼ぼう、コカ・コーラ」と言うCMを思い出してしまった)。
「ハンバーガーが安くて、お腹一杯になって栄養バランスも好くて、最高よ」食べ終わったシンシアの説明に私は「成る程なァ」とまた感心した。シンシアは看護婦長・衛生隊員の娘だけに食事の栄養バランスも考えているらしい。
「だったら、レタスも食べろよ」またシンシアが抜いたレタスを食べながら私は心の中でそう言っていた。でもピクルスは水っぽくならないから良いらしい。

そんなデートを重ねたある日、帰りのタクシーを止めた私にシンシアはキスをしてきた。
開いたドアの中から運転手が見ているのは分かったがシンシアは一度唇を離した後、首に手を回してきたので私は背中に手を回すとそっと抱き締めてもう一度キスをした。これがアメリカ式なのかは判らないが確かに映画のワンシーンのようではあった。
これは防府に入校する前夜、アパートの玄関で聖美と交わして以来のキスだった。私は胸の中で聖美に詫びていた。

「私の家に遊びに来て」次のデートの後、ハンバーガー店へ向かう歩道でシンシアが訊いてきた。陰ってきた日差しの中で碧い目が私の顔を覗き込んでいる。
「うん、いいよ。何時?」そう答えながらも私は「イタリア人じゃあないからスパゲティ―は食べない」と言うアメリカ空軍軍人である両親に会うことが少し心配だった。

翌日の日曜日の午前、嘉手納基地外の米軍官舎へ行った。
米軍官舎は周りの沖縄県民の住宅と違い広々とした敷地に点在していて風景もアメリカだった。シンシアは父親の車で官舎の入り口まで迎えに出てくれていた。
シンシアの父は私の父よりも若いのだろうか?髪は濃い茶色で目も茶色、金髪のシンシアとはあまり似ていないが、やはり共通した面影がある。私は後ろの座席にシンシアと一緒に乗り込んだ。
「はじめまして、モリノです」「運転中はドライバーには声をかけないように」車が走り出したところで挨拶をすると父はそれを制した。黙っているとますます車内の空気が重くなって窒息しそうだった。

「はじめまして、モリノです」官舎についてもう一度挨拶をやり直した。
「はじめまして、よく来てくれました」シンシアによく似た母も頭を下げた。シンシアの母は空軍少佐だけあって、私の上司でも隊長クラス、それ以上の貫録がある。短い時候の挨拶、雑談の時、私の一言にシンシアの父が突っ込んできた。
「アイ アム ジャパン エア・ホース(日本空軍)」私の自己紹介に父はいきなり両手で筒を作り、息を吹き込んだ。私が呆気にとられてシンシアと顔を見合わせると父は「これがエア・ホース(空気の管)だ」と言ってニヤリと笑った。
「これはジョークですよ」母はそう説明すると大らかに笑い、私たちもそれに倣った。「エア・フォース」いきなり父親から発音の教育を受ける羽目になってしまった。

「サージェントは本当にジェントルマンだって聞いています」「すいません、キスはしてしまいました(本当はキスをされた)」私の告白を聞いて両親と妹は一瞬呆気に取られた顔をしたが、すぐに愉快そうな表情に戻り話を続けた。
「キャデットは正直で、本当にジェントルマンだね」母は、感心したようにうなずいた。
「シンシアのラバー(恋人)はジェントルマンなの?」妹のサンディは父親似で髪は亜麻色だ。
「ボーイフレンドだろう」妹の問いかけに父が横から変な返事をした。
「ラバーだよ」父の台詞にシンシアと母、妹まで口を尖らせて反論した。父は黙って私の顔をマジマジト見直してきて、私はこの父と母の反応の違いは世界共通だと知り愉快な気分になった。

昼食は母とシンシアと妹がキッチンで作り、キッチンからは楽しげな会話と笑い声が聞こえてきた。
その間、父と私はリビングルームの掃除をしていた。日本であれば客を迎える時にはいつも以上の掃除をしておくものだが、父は1つ1つそれが何の記念品なのか説明しながらダスキンのようなもので飾ってある置物の埃を取っている。私もハンド・モップで家具の上を拭いていた。どうやら日常生活の中に受け入れてくれるつもりのようだ。
「サージェント・モリーノ(イタリア人の呼び方だった)」「イエス・サー」父が呼んだので私は軍隊式に返事をした。
「それを取ってくれ」父は拭き掃除をする手を止めて箒を指差した。
「ラジャー(了解)」私が空軍式に返事をして箒を取ると父が「チッチッチッ・・・」と口を鳴らして首を振る。私は「何の事か」と思って父の顔を見返した。
「ロージャ」父はいきなり私の発音を言い直す。
「ロージャ」「ノ―、ロージャ」航空自衛隊員が手軽に「ラジャー」と使いなれている「了解」の返事も、正しくは「ロージャ」に近い発音とアクセントのようだった。そのまま個人レッスンが始まったが中々上達できない。
「ロージャ」「ロージャ」「ロージャ」それが十数回の繰り返されたところで、ようやくで父の合格がもらえたが、その時には2人とも用事を忘れていて顔を見合わせて笑い合った。

「お互いのことを知るために、これからも時々遊び気に来て下さい」父の車で送ってもらう私に母は微笑んで両手で握手してきた。
「はい、ありがとうございます」私も両手で握り返して家族に受け入れてもらったことに礼を言った。父は私の返事にはじめて表情を緩めた。シンシアは安心したように笑顔で妹と顔を見合っていた。
Cynthia’sfamily 2
3曹に昇任してから私の仕事へのプレッシャーは厳しくなっていた。曹候学生の士長の頃には許された仕事のミス、出来ない仕事も周囲は認めてくれない。戦闘機の故障が手に負えず助けを求める私に、先輩たちは「3曹になっても駄目か」と厳しい言葉を投げかける。そんな毎日が続いている。
「責任を果せ」「努力に不可能はない」、私が子供の頃から父に叩き込まれてきた言葉は、不甲斐ない現状を、自分自身への失望へと追い込んでいた。
そんな時、母と父は少佐と1等軍曹の立場で教訓を与えてくれる。
父は「空軍にはオフィサー(士官)の空軍とエアマン(下士官・兵)の空軍がある」と言うのが持論で、自分たち上級軍曹はエアマン(=現場)の空軍の指導者であるとのプライドを持ち、オフィサーとは管理・監督を受ける関係ではあっても任務においては対等であると断言していた。
「できないものはできないと正直に言うのも責任なんだよ」シンシアの父は空軍の上級軍曹として、そんな慰めとも違う言葉で私を激励してくれる。
一方、母は組織全体や国家を考え、日米安保体制まで視野に入れた助言を与えてくれた。
「できるように頑張っているだけで今はいいんじゃないの。人材育成も空軍の勤めだよ」母はそう言うと落ち込んでいる私の顔を優しく見詰めてくれた。
その後のシンシアの激励は決まっている。拳を握りながらの「ドゥ ユア ベスト(最善を尽くして)!」だ。そして激励のキスで翌週に向かって気持ちを奮い立たせてくれる。しかし、私は「日本軍の下士官が、米軍人に慰められていて良いのか」を悩んでいた。
(下士官の父は一般空曹補学生と言う個人の技量に関係なく2年で一律に昇任させる人事制度についてどう説明しても納得せず、士官の母は優秀な隊員の確保と人材育成の施策として理解してくれた)

※この時、父が語ってくれた下士官の資質(NCO Leadership)=資料もくれた
Integrity(高潔)、 Knowledge(知識)、 Courage(度胸)、 Decisiveness(決断)、 Dependability(信頼)、 Initiative(率先)、Tact(機転)、 Justice(公正)、 Enthusiasm(熱意)、 Bearing(威厳)、 Endurance(忍耐)、 Unselfishness(無私)、
Loyalty(忠誠)、 Judgment(判断)

ある日、父が「アン オフィサー アンド ア ジェントルマン=邦題『愛と青春旅立ち』」のビデオを借りて来て見せてくれた(字幕なし)。こうして家族揃って鑑賞するのもアメリカでは普通のことのようだ。
「やっぱりネービー(海軍)は格好良いね」ビデオのラストで海軍の白い詰襟の制服姿のリチャード・ギアが恋人を迎えに行くシーンを見ながらシンシアは何気なく呟いたが、元々は海上自衛他志望だった私も内心では同感だった。
「何を言ってるんだ! エア・フォース イズ ベスト(空軍が一番だ)」突然、父が大声を出し、シンシアは驚いたような顔をした。
「ユニフォーム(軍服)だけだよ」シンシアは言い訳をしたが今度は母が横から口を挟んだ。
「ユニフォームもエア・フォース・ブルー(=空軍の青)が一番美しい」私はそんな両親を「意外に大人気ないなあ」と呆れながら黙っていると話はいきなり私に飛び火してきた。
「君は自分の恋人がエア・フォースよりもネービーの方が好いと言っても平気なのか?」シンシアは驚いて妹と顔を見合わせた。
「貴方はサージェントでしょう、もっとしっかりとしたプロ意識を持たないと駄目」返事をしないと母まで私に説教を始めた。シンシアは自分の一言で私まで叱られて困り果てていたが、それも自衛官として有り難い教訓になったのだ(※後年、海軍を描いた「トップ ガン」の大ヒットに刺激された空軍の全面協力で「アイアン イーグル」が製作され、それに「愛と青春の旅立ち」の軍曹役だったルイス・ゴセット・ジュニアが準主役で出演していたのを見て、この時の両親の態度を思い出して笑ってしまった)。

当時、「愛と青春の旅立ち」の主題歌「アップ ウェア ウィ ビロング」は全日空が新たに導入したボーイング767に合わせて変更した機体の塗装のCMに使っていた。
その機体が着陸してくるのを見た隊員たちは自然にこの歌を鼻ずさんでいたが(鼻歌)、誰も歌詞を知らなかった。そこで私はシンシアに頼んでビデオから歌詞を書き取ってもらうことにした。
「ふーん、こうして聞いてみるとアメリカの英語じゃないね」あらためてビデオを再生しながら聞き直すとシンシアは意外な指摘をした。私には同じ英語にしか聞こえないが母国語として使っている者にはかなり違うらしい。実際、唄っているジョー・ロッカーはイギリスのロック歌手だった。
「できたァ。同じ歌詞の繰り返しが多いから簡単だったよ」そう言って紙を手渡したがシンシアの筆記体は癖字なので詠み辛く、つかえながら小声で読み上げているとシンシアは少しイライラしながら口ずさみだした。
「単語を全部読もうとするからいけないのよ。耳に残った言葉だけを拾って歌えば良いの」そう言うとシンシアはビデオを巻き戻し、ラストシーンの歌を再生した。
確かにシンシア作の歌詞カードにある単語を(文法から考えて入れたらしい)かなり跳ばしている。おそらく口の中で歌って次の必要な単語に移っているのだろう。
全日空のCMで使っているサビの部分でも歌詞カードでは「ラブ ライフ アス アップ ウェア ウィ ビロング、ウェア ザ イーグル クライ オン ア マウンテン ハイ」とあるが、聞こえてくるのは「ラブ ライサップ ウェア ウェビロング、ザ イーグル クライ オン マウンテン ハイ」のようだ。
この後、サビの部分だけを徹底的に指導されて暗唱し、翌朝の隊員食堂の行列で降りてきた全日空の新塗装の機体を見ながら歌うと周囲の人が拍手をしてくれた。 

「少林寺拳法の大会があるんだ、見に来るかい?」「うん、行く行く」いつもの映画の後、私は来週、基地の体育館で行われる少林寺拳法の大会に誘ってみた。
「一度、貴方のファイトしているところ見てみたかったんだ」そう言うシンシアは今の映画のアクションスターを見るような顔をする。と言われても少林寺拳法の大会は試合ではなく、組演武と言われる試合形式の型なのだ。そのことを説明してもシンシアはやはり気合いを入れた。
「貴方なら絶対勝てるわよ、優勝して」シンシアは力を込めて拳を握って見せる。私はそんなシンシアに静かに首を振った。
「武道の目的は勝ち負けじゃあないんだ」「じゃあ、何のために練習するの?」私の答えにシンシアは怪訝そうな顔をする。私は説明するための英単語に悩んでいた。
「自分に負けないためさァ」「自分に?」私の通訳が拙いのかシンシアは難しい顔をして考え込んだ。
「怖いって言う弱い心に勝つためだよ」私は知っている英単語を並べて言い直してみた。
「難しいなァ、東洋の哲学だね」シンシアは感心したようにうなづいた。その顔を見て私は美空ひばりの「柔」を唄い、また、その歌詞を英語で説明した。
「ボクシングやレスリングじゃあ、そんな難しいことを教えないよ」「あれはスポーツマンシップとファイティングスピリッツだからね」これは私が中退した大学での体育理論の講義で習った話でもある。私の返事にシンシアは深くうなづいた。シンシアは大学で文化人類学を専攻しているのだ。
「ドゥ ユア ベスト!」今回もそれがシンシアの応援と激励だった。

試合前、道着の上にジャンバーを羽織ってゲートまで迎えに行くと約束の時間通りにタクシーでシンシアはやって来た。タクシーを降りて私を見つけるとシンシアは笑いながら手を振って駆け寄ってくる。要件を訊くのに困っている歩哨の横から私が声をかけて、そのまま警衛所で面会手続きをすると、増加警衛勤務で顔見知りの警備の隊員は驚いた顔をしてシンシアを見た。それに気がついた他の隊員たちまで受付に集まってきて警衛所内は人だかりになった。
「代筆で良いよな?」「名前はカタカナで書くのか、英語で書くのか?」私の質問にも警備の隊員は気がつかないほど夢中になってシンシアの方を見ている。
「お前らなァ」私が少し声を荒げて訊き直すと受付の隊員は慌てて振り返り、ベテランの判断を仰いで、「カタカナで結構です」と答えた。

試合会場でもそれは同じだった。会場の体育館の壁際に立っているシンシアを仲間の部員は準備運動もそっちのけで、応援に来ている若い隊員たちも無遠慮に視線を浴びせてくる。私がシンシアと立ち話をしていると部長や先輩たちまで遠巻きに囲んできた。
「サージェント、ブラックベルトが似合ってるよ」とシンシアは周囲には無感心に誉めてくれたが、胸にある当時の少林寺拳法の卍の印を「(ナチスの)ハーケンクロイツみたい」と怪訝そうな顔をしたので、「お寺のマークだ」と意味まで難しい説明をすることになった(英語で)。
私が拳法の形を幾つかやって見せるとシンシアはその度に拍手をして喜んだ。そんな様子を羨ましそうに見ていて彼女を呼んでいた仲間が怒られていた。
やがて開会式の集合が告げられ、シンシアは「ドウ ユア ベスト!」と先週と同じ激励の言葉をかけてくれた。

大会では3位だった。予選の上位3組で行われた決勝では演武の最初の回し蹴りが相手の腹に入って中断したため大幅に減点されたのだ。
「エイッ!」と気合を入れて蹴り出したつま先を相棒が受け切れず、「ウッ・・・」と呻きながらうずくまった様子にシンシアは「ノック・アウトしたか」と思って拍手したが、こちらは「しまったァ」と焦りまくっていた。
大会の後、銅メダルを見せるとシンシアは「ノック・アウトしたのに何故、ブロンズ(銅)・メダルなの?」と訊いたので、私は組演武のルールを説明し直した(※デートには薄い英和・和英の辞書を携帯しており、通じないとお互いにその場で引いて見せていたが、「演武=型」の英訳はないので「ポーズ」「ゼスチャー」「パフォーマンス」などと思いつく単語を並べたのが間違いだったかも知れない)。
「それでベストを尽くせたの?」「君の応援があって120パーセントだったよ。余ったパワーで相棒をノック・アウトしてしまったけど」私の皮肉な答えにシンシアは嬉しそうに笑って両手で手を握ってきた。それを遠目にみんなが羨ましそうに見ていた。

私は那覇の街で嘉手納の空軍や普天間の海兵航空隊の同業者と飲むことがよくあった。
先輩の行きつけのスナックで日米混成の整備員たちで飲んでいる時、テーブルに刻んだオレンジが出て、私がそれを食べながら「美味しい。I like Sunkist(私はサンキストが好きだ)」と言うと、突然、隣の席のアメリカ兵の顔が変った。
「Are you Sonkisst(君はサンキストか)?」と彼が訊くので「文章としておかしい」とは思いながらも「イエス」と答えると彼の眼が妖しく光った。
私としてはあくまでもアメリカ産オレンジを誉めて場を和ませようとしたのだが、彼はいきなり私を抱き締めて口づけをしてきた(唇を奪われてしまった)。
驚いて跳ねのけるとその様子を見ていた別のアメリカ兵が説明してくれた。
「オレンジなどのブランド『SUNKIST』は英語では『スンキスト』と発音しなければならず、『サンキスト』では息子にキスをする人と言う意味になる。この場合の息子は男性自身で『ホモ』を意味する」と言うことだった。つまり私はホモを相手に「自分はホモが好きだ」と告白してしまった訳で「悪いことをした」と深く謝ったが、彼は「謝った」ことを「満更でもない」と理解したようだ。
その後も傍を離れず肩を掴み、尻を撫で、腕に手をからめながら「君は肌が綺麗で魅力的だ」「男性との愛に目覚めればきっと夢中になるよ」などと口説いてきたが、そちらの趣味はないので逃げまくった。しかし、男に接吻をされて舌まで入れられてしまった・・・これも経験(?)。

別の日、海兵隊でも地上部隊の連中と飲んでいた時のことだ。
酔った黒人軍曹が潤んだ目で有線放送に合わせて口ずさんでいるのを見た店の女の子が「ヒー イズ プリティ」と笑った。すると彼の眼が突然鋭く光り、怒り始めた(多分、顔色が変わっていた)。
私は興奮した彼の怒鳴り声を通訳しながら怯える女の子に説明したが、要するに「俺を幼稚な奴、小物と言った=馬鹿にした」と言うことだった。
日本の学校では「プリティ(pretty)」と言う単語を「可愛い」の意味で教えるが、これには「幼い者」「小さい物」を愛でる上から目線のニュアンスがあり、女性が男性に用いると侮辱的な意味を持つことがあるのだ。
私は彼に「日本人はプリティにそんな意味があることを知らないのだ。彼女はファニィ(funny=微笑ましい)と言いたかったのだ」と説明してようやく納得してもらったが、そのあたりも学校で教えないと無用のトラブルに巻き込まれるかも知れない。

父の命令を伝える母の電話で夏期休暇には帰省させられた。
私は聖美の件が許せず親が謝罪するまで愛知には帰らないつもりだったが「父の機嫌が悪くなると私が困る」と言う母の泣き言で応じざるを得なかったのだ。
しかし、父は反省するどころか地元の神社の大祭が行われるゴールデン・ウィークに帰省しなかったことを叱責した上、「沖縄の女との交際を禁じるのはモリノ家として家訓だ」と厳命し、母は「もう懲りたでしょう。諦めなさい」となだめるだけだった。
そこで私は実家には泊まらず、中学生の時に預けられていた祖父の寺で久しぶりの小坊主として過ごすことにした。
祖父は高校受験の時、父が気に入らないと言うことだけで猛勉強をして掴んだ海上自衛隊生徒の合格通知を破り捨てられ、志望大学も同じ理由で許されず、父の命令で嫌々入った地元の大学も高校3年の夏休みに家を改築し(騒音の中の受験勉強だった)、妹が私立高校に行ったことで学費が続かなくなり結局は止めたことを知っていて、私の不満・嘆きを聞き、相談に乗り、激励してくれていた。
聖美と引き裂かれることになった時も寺に行って号泣した私に「その人と結婚して勘当されてしまえ。自分の人生を取り戻せ」と言ってくれた。今回も私がシンシアとの楽しい出来事を話しながら悔し涙をこぼすと祖父は何があったのかを察してくれた。
「本当の親孝行とは子供が幸せになることだ。それなのにモリノ家の人たちは親の言うことに黙って従うことを親孝行だと思い込んでいる。××子は何をやっているんだ」祖父は自分の娘である母が何もしないでいることを怒っていた。
「外国人だろうが、日本人だろうが、好い人は好い人なんだ。その人に会いもしないで何が判る」「碧い目の嫁さんかァ、世界が広がって面白いじゃあないか」祖父の言葉は有り難かったが、それでなくても祖父を快く思っていない父が仲違いすること、その板挟みになって母が苦しむことを私は怖れていた。我が家では母親が息子を守るのではなく、息子が母親を守るルールになっているようだ。
そこへ奥の部屋で昼寝をしていた祖母が顔を出した。
「お祖母ちゃんに習った英語がアメリカ人に通じているよ」祖母は女学校時代から英語が得意で中学に入った時、厳しく徹底的に英語を教えてくれたのだ。私の感謝と報告に祖母は「発音はわからんよ」と謙遜したが、やはり少し得意そうだった。

シンシアがバイトをしている米軍レストランに隣接する公園で那覇市の夏祭りがあった。私はシンシアのアルバイトが終わるのを待って一緒に祭りに行くことにした。
広い会場は夜になって灯りが点り、露店が並び、迷子になりそうなくらいの人ゴミと相まって、本土と同じ夏祭りの雰囲気が出ている。浴衣姿の女の子も多く、ポロシャツにGパンのシンシアは少し羨ましそうに見ていた。
ズラリと並んだ露店を覗きながらシンシアはいつもの質問を始めた。
「これは?」「オクトパス(タコ)シュークリーム」タコ焼きをそう説明したがクリスチャンは聖書で鱗がない魚を食べることを禁じられていてタコ、イカも食べないらしい。シンシアは肩をすくめて気味が悪そうな顔をした。次は、お好み焼きだった。
「これはピッツァ(ピザ)?」「イエス(うん)、バット ジャパニーズ テイスト(だけど日本の味)」「ふーん」今度は興味がありそうだ。最初のデートの時、ピザはイタリアのスナックだから食べないと言っていたが日本のお好み焼きは良いらしい。
「レッツ トライ(試してしてみよう)」「うん」シンシアの笑顔を見ながら私は汗をかいてお好み焼きを焼いている小父さんに1枚頼んだ。小父さんは隣のシンシアに気がついて「大丈夫か?」と言うような顔をしたが、シンシアの興味深々と言う顔を見て作り始めた。
でき上がったお好み焼きとついでに買った私のビール、シンシアのコーラを持って、雑踏から離れたベンチに行き、並んで座って試食をした。
「あれ?ホット(辛い)」ピザかクレープを想像していたのか、お好み焼きに入っている紅生姜を1口食べて、シンシアは戸惑っていた。
「キャベツと肉が入っていて、ハンバーガーと同じくらいヘルシーな食べ物だよ」「ムグムグ・・・」私の説明には口の中にお好み焼きが入っていて答えられない。私はシンシアが飲み込んだのを確かめて訊いてみた。
「美味しいかい?」「うん、でもソースは日本の味なの?」相変わらず鋭い質問だ。
「多分、『お多福のお好み焼きソース』って言うスペシャルなソースだよ」「ふーん」うなずきながらシンシアはコーラ、私はビールを飲んだ。
「よォ」その時、彼女連れの友人が声をかけてきた。彼女は浴衣を着ている。しかし、友人には悪いが純沖縄の顔立ちの彼女にはあまり浴衣は似合っていなかった。そのまま2人は「グッドバイ」と言って暗い公園の奥へ歩いていった。
「誰?」「モリノ君」「彼女?」「だろう」そんな会話が聞こえてきた。
私たちはお好み焼きを食べ終えてから逆に雑踏に戻り、露店ショッピングを再開した。みたらし団子、タイ焼きなど甘い物ばかり食べておいてビールを飲むのは辛い。その時、私は公園のあちらこちらに貼ってあるポスターに気がついた。
「おっ、香坂みゆきのコンサートをやるな」コンサートは広場に作られた仮設ステージで行われるらしい。
「Who(誰)?」当然、シンシアは香坂みゆきを知らない。かと言って私も、「ジャパニーズ・シンガー(日本人の歌手)」以上の説明をする知識を持っていなかった。取り敢えず2人でコンサート会場へ行ってみると、まだ1番前の席が空いていた。
香坂みゆき香坂みゆきさん
「サージェント!」コンサートが終わった時、隣りからシンシアが声をかけてきた。シンシアの顔を見ると少し目が吊りあがっている。つまり怒っていた。
「貴方(You)は私が何度、声を掛けても気がつかなかったよ」確かに私は香坂みゆきの歌やトーク、それ以上に彼女の美貌と抜群のスタイルを真近から見上げ、夢中になっていた。
考えて見ればシンシアには日本語のトークも歌も、あまり理解できなかったはずで退屈だったのだろう。私は、「ソーリィ(ごめん)」とそれに気がつかなったことを謝った。しかし、シンシアの怒りの理由は違っていた。
「貴方(You)も、あのタイプの日本人の女の子が好きなんだね」一息にそれを言うとシンシアは黙って先に出口に向かって歩き出した。
「香坂みゆきは歌手だよ」「シンシアが俺のタイプだ」・・・私は後ろから一生懸命に説明したがシンシアは振り返らない。逆にシドロモドロの英語の言い訳に益々怒ってしまったらしかった。やがて私たちは交通量が多い国道の歩道に着いた。
シンシアはタクシーを止めると「グッド ナイト(おやすみ)!」とだけ言って乗り込み、すぐにタクシーはドアを閉め、走り出した。

部隊に帰るとすぐにシンシアから電話が入った。
「スタッフ・サージェント モリィノォ、電話ァ!」内務班の一斉放送の呼び出し方で、それは解る。ただし、シンシアからの電話は英語が苦手な当直空曹には敬遠されていた。
「彼女だよ」今日の当直空曹は曹候学生の先輩の小平3曹で、私は一礼して電話に出た。
「ハロー」喧嘩の続きの電話だけに「別れ話でも切り出されないか」と心配しているとシンシアは何故か笑いながら話し始めた。
「サージェント、ごめんなさい。私はジェラシー(嫉妬心)を爆発させました」「What(何が)?」「私はあのシンガーにジェラシーを感じました」私は焼き餅を焼いていたシンシアの顔を思い出して、つられて笑った。
「家に帰って今夜の話をしたら父に笑われ、母に叱られ、妹にカラカワレました」私は家族の反応がバラバラなのに興味を持ったがシンシアが説明してくれた。
「父は本当にサージェントが好きなんだなって」「ふーん」「妹は私が欲張りだって」「へェー」「母はそんなことしているとサージェントに嫌われるよって・・・ごめんなさい」「そんなことはないよ。イッツ マイ ミステイク(僕の失敗だったんだ)。ごめん」謝りながらも私はホッと溜息をついた。小平先輩は聞き耳を立てていたが英会話が判らなかったのだろうテレビを見始めた。
「でも、俺だってアルバイトでシンシアがお客さんと楽しそうに話しているのを見るとジェラシーを感じるよ」「リアリィ(本当)?」米軍のレストランとは言え客商売である。シンシアが注文をとりながら男性客と談笑する姿に嫉妬を感じることは確かにある。
「私、アルバイトをやめようかなァ」暫く考えてからシンシアが言い出した。
「違うよ、それも俺がシンシアを本当に好きだっていうことだよ」これは英語でなければ照れくさくて、とても言えない台詞だ。
「ユー アー マイ スペシャル(君は僕の特別な人だ)」「ミー トゥ(私も)。アイ ラブ ユー」「アイ ラブ ユー」 最後の台詞は解ったのか小平先輩はこちらを見てニヤッと笑った。

母の許可が出てシンシアを行きつけの喫茶スナックへ連れて行った。「アラスカ州の法律では18歳でOKだが、ここは日本だから」と20歳になるのを待っていたのだ。
マスターには「アメリカ人の彼女を連れて来る」と予告していたが、それが現実になると「英語は苦手」と言ってカウンターの向こうで内職のようなことを始めた。
「ねェ、エルビスって好き?」カラオケでカーペンターズやビートルズの英語の歌を何曲か歌ったところでシンシアが私の顔を覗き込んで訊いてきた。
「プレスリーねェ?」どうもロックとシンシアのイメージが結び付かない。私は高校時代、同級生が唄っていたロックを口ずさんでいて父親から「ロックは不良の音楽」と禁止されて以来、全く縁がなかったのだ。
「父が好きなの」シンシアは少し得意そうな顔をした。言われてみれば父は私と2人の時、オールディ―ズのテープを聴いている時がある。シンシアが聞き覚えのある歌を口ずさみ始めるとマスターが話に加わってきた。
「ラブ ミー テンダーねェ?」このくらいの英語は判るらしい。シンシアはうなずいた。
「ラブ ミー テンダー ル―ルルー・・・」マスターは判るところだけ口ずさんだ。私はそれを聴いて、この歌は唄えることを確認した。
「よし、唄ってみよう」そう言いながらマスターと男同士で額を寄せてカラオケのメニューを覗き込み選曲を始めた。マスターは機械を操作してカウンターの上に積んであった百円玉を1枚取って投入すると「ラブ ミ― テンダー」のイントロが流れた。
「love me tender, love me sweet・・・」英語の歌を唄うには画面の歌詞を読んで頭の中で発音を確認しなければならない。私は汗をかきながら一生懸命に歌った。シンシアはそんな私の横顔を嬉しそうに見ていた。
「サージェント、サンキュー」シンシアはそう言いながら唄い終わった私の顔を見た。
「うん、一応、英語の歌には聞こえたね」マスターは相変わらずズケズケとモノを言う。確かに初めての歌では発音も棒読みに近かったはずだ。
「でも、ラブの発音がおかしかったよ」「そうかなァ?」シンシアはそう言うと「アイ ラブ ユー」と手本を聞かせてくれる。
「アイ ラブ ユー」私もそれに倣ったが日本人が苦手な「L」と「V」が入っていて、こうしてあらたまると中々上手く発音が出来ない。
「アイ ラブ ユー」「アイ ラブ ユー」「アイ ラブ ユー」・・・・シンシアは何度も練習させながら、何故か嬉しそうに笑いだした。
「あんたらねェ、何回告白すればいいんだい?」マスターの呆れた声で、私もシンシアがさっきから嬉しそうな顔をしていた訳が判った。
「サージェント、アイ ラブ ユー」「ミー ツー(僕もだよ)、アイ ラブ ユー」「はいはい、ごちそうさま」見つめ合って微笑む私たちに、マスターは私のボトルのバーボンで勝手に水割りを作り、1人で「カンパーイ」と言って飲み干した。

その日は夕食の後、父と酒を飲んで泊めてもらうことなった。
「リビングのソファーで寝なさい」母はそう言うとシンシアに毛布と枕代わりのクッションを持って来させて父に続いて寝室に入って行った。
私はシャワーを浴び、Tシャツと短パンに着替えると先にシャワーを浴びていたシンシアと並んでソファーで話をした。シンシアの赤と白の格子柄のパジャマは可愛い。
「サージェント、貴方はもう私の家族のメンバーになれたみたいだよ」シンシアはそう言うと私の肩に頭をもたげ掛けてきた。
「おやすみ」のキスを終えるとシンシアは微笑みながら立ち上がり、そっと手を振って妹との相部屋へ歩いて行った。

「サージェント、寝ちゃった?」ソファーに横になって眠りに落ちた頃、耳元で声がしたような気がして目を覚ますと横にシンシアの顔があった。リビングの小さなルームランプだけの薄暗い部屋でシルエット(影)が見える。私はしばらくそれが夢か現実かに戸惑っていた。
「妹が寝たから・・・朝までここにいる」「エッ?」リビングは死角ではあったが両親の寝室に面している。シンシアは足音を忍ばせてドアに耳を当てて中の気配を確かめるとゆっくり戻って来て私の隣に座った。
「サージェント、一緒にいたい・・・」シンシアは私の顔を見詰め目で誘う。気持ちは「駄目だ」と言っているが身体はもうそのつもりになっていた。
そんな私の迷っている顔を見てシンシアは何も言わず首筋に腕を廻し身体を寄せてきた。ゆっくりと抱きしめると髪からシャンプーが甘く匂った。
手がパジャマの上からシンシアの体の輪郭をたどり、そのままソファーに押し倒そうとした時、私は背後に人の気配を感じた。それは自衛官の研ぎ澄まれたセンサーだった。耳を澄ますと両親の寝室でベッドがきしむ音がしている。小声で話す声も聞こえた。
「ごめん、今は止めておこう」「What?(どうしたの)」「Why?(何故)」私が手を止めてそう言うとシンシアは目を開けて怪訝そうな顔をした。その時、寝室から父の咳払いが聞こえた。シンシアは「もう」と言って残念そうに肩をすくめた。

日本人は放任主義をアメリカ式だと思い込んでいるが、ある程度の社会的地位(母が空軍士官)にある家庭では子供に対する躾は厳格で、生活そのものにキリスト教的な戒律が色濃く投影されていて、昔の日本のように父を軸にして「ピン」と筋が通ったところがある。
初めてデートに誘った時もシンシアは女子大生でありながら母親に電話して許可をもらい、親しくなってからは家族に会わそうとすることなどは日本ではとっくに忘れられていた昔の家庭のような雰囲気で、戦後、よくテレビで放送されていたアメリカのホームドラマの場面がそのまま目の前で実演されているような気がしたものだ。
また家族をとても大切にし、お互いの人格を尊重しながら信頼し合い、夫婦は家事を分担し、子供は親の手伝いをして、それを楽しんでいるようだった。
実際、米軍官舎でも休日には夫は草刈りや日曜大工に励み、子供たちが車を洗っているのをよく見かけた(近所の車を洗うのは子供の一般的なアルバイトでもある)。
また、ダンスミュージックが流れると両親がリビングで踊り出し、娘たちが後をせがむのは将来の社交デビューの練習のようで、その後の両親のキスも真似したかったのだが、そこは日本人の感覚でためらうとシンシアからしてくれたのも練習だった(何の?)。
テレビのニュースや映画を見ながら夫婦で互いの見解を討論し合い、それに子供たちが質問をして家族で考えると言うのは「日本人も学ぶべきだ」と思ったが、ウチの実家では私が父親よりも難しいことを口にすると「プライドを傷つけた」と激怒されていた。

そんな時、意外なマナーの違いを学ぶことになった。
いつもはバスの乗り継ぎか自転車で嘉手納基地まで時間を掛けて行くのだが、その日は嘉手納基地に飛来する珍しい米軍機を撮影に行くマニアの先輩に基地前のバス停で拾ってもらい、予定よりも1時間近く早く官舎地区のゲートに着いた。そこからシンシアの家に電話を掛けて迎えに来てもらうのだが、たまたま父が車で帰ってくるのに会い、そのまま乗せて帰ってもらったのだ。
「こんにちは」いつもの調子で玄関を開け、家に入ると母は異常に驚いた顔をした。
「サージェント・モリノ、どうしてこんなに早く?」母はどちらかと言えば立腹した顔で質問してきた。その後ろで妹のサンディが慌てて奥へ駆けていったのが見えた。
「いつもはバスで来るのですが、今日は嘉手納に来る先輩の車に乗せてもらって・・・」私が説明している時、奥からシンシアが出てきた。上半身はタンクトップで肩は丸出し、髪を後ろに束ねて顔はパックで白く固まっていた(当時は貼り付け式ではなかった)。
目は怒っているがパックで表情は見えず、あまり話もできないようだ。確かにシンシアは目や鼻がソバカスの中にあるように酷く、出迎える前にはパックで肌を整えていてくれたようだった。
「アメリカでは女性に支度する余裕を与えるように約束よりも少し遅れてくるのがマナーですよ。日本では遅刻がマナー違反のようですけど」完全に怒っているシンシアと愉快そうに笑っているサンディの前で母が説明してくれた。
それにしても父は入ってこない。ヒョッとすると自分が連れてきたことを責められないようにガレージで時間をつぶしているのかも知れない。

ある日、異常で恐ろしい体験をした。シンシアがバイトしている米軍用クラブでカントリー・ミュージックのコンサートがあったのだ。そのチラシを持ち帰った私はウェスタン映画好きの先輩に渡した。
「へーッ、本場の生演奏かァ」「でも嘉手納の愛好者バンドだから素人ですよ」先輩の期待が膨らみ過ぎないように私は釘を刺したが、隣りから別の先輩が話に加わってきた。
「俺も以前、嘉手納のジャズバンドのコンサート見たけど流石だったよ」この先輩は自分でもスゥイング・ジャズのバンドを組んでいてグレンミラーのナンバーを得意としている。実はチャンスを見つけて飛び入りしようと会場へ自分のトランペットを持ち込んでいたのだがレベルの違いを思い知らされてきたのだ。
そんな訳でチケットを購入してきた先輩に頼まれて同行することになった(自分のチケット代は払わされた)。

「駄目、絶対に来てはいけない」電話でシンシアにコンサートへ行くことを言うと強硬に禁じた。本当は「ウェイトレスのバイトを抜けて一緒に楽しもう」と誘うつもりだったのだが理由を言わずに強硬に禁じてくる。私は「もうチケットを買ってしまったんだよな」とも言えず楽しみにしている先輩の顔を思い浮かべて困惑していた。

結局、先輩に連れられてコンサートに行くことになった。先輩には「彼女が来るなと言っている」と伝えたのだが「彼氏が来るんじゃあないのか?」などと真面目に聞かず、半ば強制連行だった。私としても情報を提供してしまった手前、断ることもできず後に続いて店に入った。
店内は冷房が効かない程の熱気に満ちていて、いつもは並べられているテーブルが片づけられて広いホールになっており、そこに作られた仮設ステージでバンジョーやウッド・ベース、アコーディオンが演奏されていた。
ステージの下ではテンガロン・ハットに革製のベストを着たカウ・ボーイ姿の男性や古びたワンピースに白いエプロンをした女性の客たちが陽気に騒ぎながら踊り狂っている。
中にはリボルバー拳銃を天井に突き上げている者もいるが、アメリカ人だけに「本物ではないか」と心配になった(クラブの敷地はアメリカの軍用地なので日本の法規は適用されない)。
先輩は演奏だけでなくウェスタン映画の場面が実際に目の前で展開しているような気分になったようで踊りに加わろうと近づいていく、しかし、私は危険を感じて引き留めた。
確かに踊っている客たちの中には時折、私たちを敵意と言うよりも殺意に似た目で見る者があり、猛獣の檻の中に入れられてしまったような気がしていたのだ。
まだ加わりたくてウズウズしている先輩を連れてホールの壁際に並べられている椅子に座ると、お盆を持ったウェイトレスたちが客の注文を受けて酒を運んでいるのが見えた。その酒はバーボンのボトルで男たちはジョッキに注ぎ合って飲み比べているのだ。その時、シンシアが私に気がついて早足で近寄ってきた。
「どうして来たの?危険だから帰って」そう言ってシンシアは先輩に「今日は米軍オンリー」と説明しながら玄関に連れ出した。先輩は「チケットは売ってくれたぞ」と不満そうだったがシブシブ従った。
後からの電話で「あのような場所でアジア系の人はネイティブ(いわゆるインディアン)と思われて危険」と説明したが、確かに酒が進めば本当に殺されそうな雰囲気だった。とうしても行くのならやはり紋付き袴に刀を差した「レッド・サン」の三船敏郎スタイルだろう。

カントリー・ミュージックのコンサートでの体験は私にアメリカ人の根底にある人種差別の問題を考えさせた。
最初のデートでシンシアは「イタリア人ではない」とピザを拒否した。同じヨーロッパ人であるイタリア人を蔑視しているのならネーティブ・アメリカ人を大量虐殺したようにアジア人である日本人も人間として認めていないのではないか?私の中で太平洋戦争中にアメリカ軍が行った都市部への無差別爆撃や原爆投下、ベトナム戦争でベトコンを虐殺したことなどが不信となって膨らんでくる。何よりも聖美の母が高校生だった時、コザの街の裏通りで数人のアメリカ兵に集団暴行されて妊娠したことが思い出された。
こんなことはシンシアに訊くことはできないので父と2人で日曜大工をやっている時に雑談として問うてみた。すると父はこんな話をしてくれた。
「ある日、ヨーロッパ系の兵士がアフリカ系の士官にワザと欠礼をした。すると士官は『私が誰であるかは問題ではない。合衆国が与えてこの階級に君は敬礼する義務がある』と言って敬礼をさせた」。つまり現在のアメリカ合衆国は国家として人種差別を認めておらず、合衆国の国民が公的にそれを主張することは違法であり、個人として差別意識を持っているのは反社会的な人間であることを自ら告白しているのと同じことだ。
「我が家ではそんなことは意識しないよ。エアマン(下士官・兵)と結婚したオフィサー(士官)の家族なんだから」言われてみればそうだった。シンシアのイタリア嫌いは別の理由がありそうだ。
父はついでにこんな敬礼に関する標語を語ってくれた(参考のためメモした)。
「You must salute all moving and fixed objects=君は動いている全ての物と据えつけてある物に敬礼しなければならない」「When in doubt salute=上官か疑わしい場合は敬礼せよ」

そこで2人で日米の敬礼を見せ合ったことから基本教練(ドリル)が始まり、私は英語で号令を掛けられるようになった(文字面とは異なり、動令は「ハッ!」と掛ける)。
自衛隊の基本教練はアメリカ軍と大差ないが「気をつけ(アテンション)」の時、手を握るのは警察・消防もやっておらず自衛隊がアメリカ軍から学んだようだ(寒い時に指先が冷えないので助かる)。
その中で米軍と全く違うのが「回れ右(アバウト フェイス)」だった。
自衛隊は第1動作で「気をつけ」のままの角度(60度の半分)で真っ直ぐ足を引き、第2動作は両かかとで回転し、第3動作で足を引いて揃えるのだが、アメリカ軍の「回れ右」は第1動作で後ろに引いた足をつま先立ちにして、第2動作で回るのと同時に揃える。
何度も模範演技を見せて父に教えたが中々マスターできず、発音指導の「恩」をこんなところで返したのだった。
父は「ジャパン・エア・フォースじゃあなくてよかったァ」と言いながらも自衛隊式に第3動作でかかとを揃えて音を立てるのが気に入り何度も試していたが、私にはかかとを鳴らすのはナチスの「ハイル・ヒトラー」のイメージがあり、少し不思議な気がしていた。

「天ぷらにチャレンジしてみたよ」シンシアは台所で皿を持って振り返った。
先日、一緒に入った日本ソバ屋で私が天婦羅そばを美味そうに食べるのを見てチャレンジしてみたのだと言う。最近は日本料理やカレーなど聖美とは行かなかった店にも行くようになっている。先日、そこのマスターからもらった店のロゴ入りの赤いエプロンを使っていて可愛い。
「すごい、御馳走だね」「でもレシピを見ながら作ったから・・・」シンシアの後ろの母と妹も自慢半分、心配半分の顔をしている。
「まあ、基本的にはフライと同じかな」母はそう言って腕組みをした。
「でも、ご飯がないね」「そうかァ、日本食だった」私の指摘に母は「シマッタ」と言う顔をし、シンシアと妹のサンディは顔を見合わせた。
「まぁ、オカズになれば十分です」私の助け船に母はホッとしたように笑った。
「ところでソイ ソース(醤油)は?」今度はシンシアが鋭い指摘をした。
「それもないよ、材料を探すだけで手一杯だったからね」母は言い訳のようにそう答えるとため息をつき、シンシアと妹はまた顔を見合わせた。
「なければソルト(塩)でも美味しいですよ」今日は妙にフォローに忙しい。私の返事に困った顔をしていたシンシアはパッと笑顔をほころばした。妹も微笑んで「早く食べたい」と言って皿に手を伸ばし、「行儀が悪い」母に叱られた。
「ところで私、日本食はどこで習えばいいの?」「彼の母親が教えてくれるよ」シンシアの質問に母は微笑んだが、私は自分の親の頑な性格を想い急に食欲がなくなった。         

シンシアの両親は男の子がいないこともあり私に息子のような職業教育をしてくれるようになってきた。リビングでの雑談の中で母は国際標準の軍事常識について語り、父はサージェントとしてのプロ意識をについて熱弁を奮う。時には資料まで用意して待っているようだった。
そんな中で父が語ってくれたアメリカ空軍の新兵教育隊の校則(=資料もくれた)は「アメリカ軍」と言う組織の本質を理解させてくれた。
1、合衆国の任務遂行(24時間)
2、行動の優先順位は①国家、②任務、③部隊、④同僚、⑤家族、⑥自分
3、任務は国家、国民、自由社会を守ること
4、カミの前に公正であれ、国家の前に公正であれ、同僚の前に公正であれ・・・(中略)・・・他人に迷惑をかけるな。誇りを持って敬礼せよ。
また「USAF 3SHARP(アメリカ空軍の3シャープ」は出かける時、支度に手間取る女性陣に父が呼びかけていた。
「LOOK SHARP (身嗜み良く)」「BE SHARP (ぼんやりするな)」「ACT SHARP(機敏に行動せよ)」これらは航空教育隊で習った「航空自衛隊の3S」=「スピード(SPEED)」「スマート(SMART)」「サイエンス(SCIENCE)」にも通じるが、やはり英語の国だけに完成度は数段上に感じた。
ただ、シンシアは私が夢中になってノートまで取っていることに焼餅を焼き、家よりも外で会いたがるようになってしまった。

※おまけの軍事英語のワンポイントレッスン(字幕や同時通訳でよく間違っている単語)
階級では「キャプテン」は陸空軍・海兵隊では大尉だが、海軍では大佐。「ルテナン」は陸空軍・海兵隊では中尉・少尉でも海軍は大尉・中尉。
次に部隊単位の「スコードロン」は空軍では「編制単位部隊」だが、陸軍・海兵隊では「分隊」。したがってスコードロンの指揮官は、空軍では「コマンダー」だが、陸軍・海兵隊は「リーダー」になる。ちなみに空軍の分隊は勤務態様で「ショップ」「セクション」「クルー」などに分かれる。
また戦争映画の題名にもなった「プラトーン」は陸軍・海兵隊の小隊で、空軍で小隊は「ユニット」とするのが一般的なようだ。

私は1年遅れで上映が始まった映画「人生劇場」に誘ってみた。最近、シンシアの日本語は私の英語以上に上達していて映画の台詞くらいなら大丈夫だろう。
「どんな映画なの?」「愛知県が舞台の文芸作品だよ」「貴方の故郷だね」「うん」人生劇場の原作は尾崎志郎が故郷の幡豆郡吉良町を舞台に書いた小説だった。
ところが次の日曜日に2人で映画を見に行った後のシンシアの反応は厳しかった。
「これはポルノなの?」シンシアは真面目に怒っている。
「いや、何で?」「セックス シーン(性描写)ばかりだったじゃない」確かに中井貴恵が愛人の松方弘樹や風間守夫と絡む激しい性描写が何度もあった。
「あの女性は売春婦なの?」「うん、そうだけどヤクザのお妾さん(=愛人)だね」私は中井貴恵が松方弘樹と風間守夫に抱かれていた経緯を補足説明した。
「貴方の故郷には売春宿があったの?」「昔はあったかも知れないな」私のそれを認める返事にシンシアは黙り込んでしまった。実は父方の曽祖父は生涯一度も働かず、田畑を売った金で遊郭に通いつめて大地主だったモリノ家を没落させたのだ。
「そんなの不道徳よ」しばらくの沈黙の後、シンシアは吐き出すように言った。
「善きアメリカ人」として育てられてきたシンシアにとっては買春婦や愛人も倫理に背く許せざる存在で、日本的に「男の性(さが)」などと寛容な目では見てはくれない、ましてや浮気などすればどんな目に遭うか、私は背筋がゾッとした。
「ゴッド ファーザーだって愛人を抱くシーンなんて描かないワ、日本映画は不潔よ」これからシンシアに日本映画を見せる前には映倫以上の厳しさで内容をチェックする必要がありそうだ。
確かに日本映画は人気女優の性描写を売り物する傾向があり、その点、性モラルへの認識が低いのかも知れなかった。
セイラ・マス2
「機動戦士ガンダム」セイラ・マス

ここだけの話、その頃の私はシンシアに顔向けできない悪さをしていたのだ。

那覇の街で嘉手納基地の空軍や普天間基地の海兵隊の整備兵たちと飲んでいて、次の店に行こうと歩いていると観光客の女の子たちから声を掛けられることがあった=いわゆる逆ナンパ。
「ねェ、こちらの外人さんを紹介してよ」グループのリーダーと思われる女性が私に向かって声を掛けてきた。
「私は日系アメリカ人だから日本語はあまり分からない」と英語で答えると彼女たちは大声で「この人もアメリカ人だってさ」「日本語が分からないんだってよ」などと言い合っていた。
そのうち「誰が誰とつき合うか決めまい」と言う声が出てジャンケンを始め(「チョキ」を「ピー」と言っていた)、勝った者から順番にアメリカ兵を選んで腕にすがりつき、中にはその場でキスを始める者もあった。アメリカ兵たちは観光客の逆ナンパには馴れていて、どうすれば歓ぶかを知っているようだ。実は我々も誰が女の子たちのホテルを使うかを話し合っていて今回は私がもらっていたのだ。
結局、1番負けた女の子が「日系人」の私になるのだが、本物の外国人に当った者たちは「日系人だってアメリカ人だらァ」「優しそうでいいじゃん」などと慰めるので私は英語訛りの日本語で「ヨロシク」と言って手を握った。
そこで解散になりそれぞれの女の子を連れて次の店に行ったり、飲酒運転でドライブに行くのだが、私は一度だけ先輩に連れて行ってもらったムードが良い静かな店に誘った。
「貴方はどこから来たのですか(英語)?」「アイチケーンのトヨハシ・シティです(片言の英語?)」これは先ほどの三河弁で予想していた。つまり沖縄で同世代で同郷の女の子と知り合ったのだ。出身校を訊こうと思ったが身元がバレそうなので控えた。
「貴方の仕事は何ですか?(英語だが「ワーク」ではなく「ジョブ」と訊くところがミソ)」「保母です(日本語)?」「ホボ?」「うーん・・・・プロフェッショナル・ベビーシッター」ワザと判らない振りをした私に女の子は苦し紛れの珍回答をした。英語で保母はナースだが日本人には「看護婦」と言う固定観念があるので自信がなかったのだろう。それでも片言の日本語で「リトル チャイルドのセンセー(先生)ね」と助け船を出すと安心したようにうなずいた。
こんな英語と片言の日本語のみの会話で酒を勧めて酔わせ、ムードの良い音楽でダンスを踊りながら、やがては彼女のホテルへ向かうといよいよベッドインになる。部屋のドアを閉めてベッドに座り、肩を抱くと彼女は緊張して震えていた。
それでも顎に指を掛けて顔を近づけると急に泣き出して日本語で「友達がそうしたいと言うから合わせていただけで本当はそんなことはしたくない」「地元に好きな人がいる」と訴えた。
私は日系アメリカ人と言うことになっていたのだから日本語が判らない振りをして押し倒してもここまで来ていれば罪にはならないだろう。しかし、私は「国民を守る自衛隊の使命」に則って退却した。
それにしても真面目でウブな女の子も周囲の目が届かなくなり、一緒にいる友人が調子に乗れば、それに無批判に同調してしまう東三河の女性にはトコトン愛想が尽きた。
あれが私だったから退却したが、後日、一緒に飲んだ時、このアメリカ兵たちは飲酒運転で海岸へ行き、女の子たちを「トッカーエヒッカーエ(妙な日本語)で抱きまくった」と自慢していたので、若し、ジャンケンで勝っていれば彼女も間違いなく好きな人を裏切ることになっただろう。
実はこの話は1回だけでなく「夏には本土から慰安婦がやってくる」と言うのは沖縄の自衛隊の常識だった(北海道は冬の悪天候で飛行機が飛ばなくなった時、空港に泊まろうとしているスキー客の女の子を下宿に誘うらしい)。

航空総隊総合演習でしばらく会えなかったが演習後は夏の日差しと暑さがやわらぎ外で活動するには丁度いいシーズンになる。
「シンシア、サイクリングへ行こう」最近、自転車を買ったシンシアを思い切って誘ってみた。
「本当?行こう、行こう」私の提案にシンシアは嬉しそうな顔をした。
「本島の南部へ行こう」私のプランにシンシアは「賛成」と言う顔でうなずいた。
「だったら、どこかでキャンプしようか」どちらから言うともなくこんな話になった。
「泊るなら海岸かな」私の提案にシンシアはまたうなずいた。つき合い始めて半年、私たちはまだプラトニックだったが胸に聖美とのことがよぎったのでそんなことは忘れておいた。
「テントと寝袋は私が持ってるよ、携帯燃料もあるしね」「さすが、クライマー(登山家)」とからかうと「エヘッ」とお茶目な笑いを見せる。本当は登山へ行きたいのだろうが沖縄では無理な話だ。実は以前から「北米大陸の最高峰・マッキンリーへ一緒に登ろう」と誘われていたのだが、高所恐怖症の私にはこれも無理な話だった。
「でも泊りで出かけたらお父さんお母さんにバレちゃうよ」「平気だよ」かえって大袈裟に心配する私の様子が不思議そうな顔をする。アメリカでは面接試験に合格すれば両親公認で交際は全面解禁になるらしい。
「その前に君がどうやって那覇まで来るかだね」「あッ、そうか」嘉手納から那覇まで自転車で来ては、それだけで体力を使ってしまう。結局、バスで来た私が乗って基地に帰ったのだが、座席の位置がかなり高く、身長が10センチ違っても足の長さが全く違うことを思い知らされた。

「お待たせェ」朝、シンシアは父の車で那覇基地のゲートまでやって来た。今朝は一度、自分の自転車でゲートまで来て、徒歩で内務班(寮)に戻り、シンシアの自転車を取ってきて2台並べてゲート脇で待っていたのだ。
車から降りたシンシアはサングラスを掛け、白のポロシャツにエンジ色のショートパンツ、私は黄色のポロシャツにジャージ(基地の規則上、半ズボンでは外出できない)だ。
シンシアは私が用意していた自分の自転車の点検を始めた。ゲートの隊員は私の待ち合わせの相手がアメリカ人と判り驚いた顔をしている。
「大丈夫、航空機整備員が点検してくれてるから」車の中から母が呆れ顔で声をかけ、妹も可笑しそうに微笑んだが、父だけはムッとした顔で黙っていた。
シンシアが持って来た荷物を分けて荷台に積むと2人して自転車にまたがった。
「シンシア、行ってらっしゃい」車の窓から妹が声をかけてきて流石にシンシアは恥ずかしそうにはにかんだ。私も家族と背後から隊員の視線の集中砲火を浴びて困っていた。

聖美との思い出が心に残っているひめゆりの塔や摩武仁の丘などは避けたがコースには幾つかの戦跡がある。その中で米地上軍司令官・バックナー中将が戦死した地に建つ石碑に寄った。
バックナー中将が戦死した高台には私の祖父の出身地・山形県の慰霊碑があり、その傍らには日本軍が地下壕にしていた洞窟もあった。2人で階段を下りて中を覗くと「貴様は何故、毛唐の女を連れている」と叱責する声が聞こえてくるようだった。シンシアも気味悪がって少し後退さる。階段を上り、石碑の前に止めた自転車に戻りながらシンシアが質問してきた。
「どうしてここまで追い込まれても日本軍は降伏しなかったの?」軍人の娘であるシンシアは基礎的な軍事知識は持っているので私は日本軍の「玉砕」について説明した。
「そんなのクレイジーだよ。間違ってる」日本軍の「生きて虜囚の辱めを受けず」と言う「戦陣訓」の説明にシンシアは怒りを隠そうとしなかった。
「それが日本の軍人の美学なんだよ」そう答えて私は丘の上から海を眺めた。
「貴方は私のために生きて帰って来て」シンシアはそんな私の横顔を見詰めながら両手で片手を握った、

玉泉洞とハブセンターを見学すると目的地の新原ビーチに着いた。私たちは海水浴場から少し離れた砂浜に2人用テントを張った。
新原ビーチは海のマリンブルーと珊瑚礁のコーラルグリーンが夕方の日に映えて美しい。
あたりに人気はなく2人っきり、貸し切り、プライベートビーチ状態だ。
そういえば私たちは水着を持ってきていなかった。沖縄では夏の強過ぎる日差しが弱まる今が泳ぐには一番よい季節なのに。何よりシンシアの水着姿を見損なってしまった。
私たちは荷物を片づけると波打ち際を並んで歩いた。日は海に傾き、日差しは海からの風が心地よい。シンシアはサングラスを外し、手をひさしのように額にかざしている。私は歩きながら、いつもの癖で歌を口ずさみ始めた。
「This is the moment I have wait for・・・」「エルビスね、『ハワイアン ウェディング ソング』だったかな」シンシアが顔を覗き込む。
「I do」「I do」「Love you」「Love you」父親譲りのシンシアも合わせてデュエットになった。シンシアは歌いながら私の手を握り肩へ頭をもたげてきた。
「2人でハワイに来たみたい」シンシアの台詞に「新婚旅行の定番だな」と私は肩をすくめて笑った。傍らを見ると夕陽が金髪をオレンジ色に染めている。本当は夕方の海なら加山雄三の「君といつまでも」を唄いたかったのだが即興の英訳は無理だった。

夕食は父親提供の米軍のCレーション(携帯食)だった。日本軍の乾パンにあたる厚くて大きなビスケットにマーマレードをつけて食べ、携帯燃料で沸かした湯でインスタントコ―ヒ―を作って飲んだ。
「こんな時、軍人の娘は得なんだよ」コーヒーを飲みながらシンシアは笑った。
「でも携帯食は日本軍の方が美味しいな」「そうなの?」私の話にシンシアは興味津々と言う顔で訊き返した。
「日本軍のは色々な味のライスとオカズの缶詰の組み合わせなんだ」「フーン、美味しそうだけど重くない?」「確かに重いな」これは軍人の娘と言うよりも登山家としての意見だろう。
「今度、演習で出たら食べさせてあげるよ」「うん、楽しみ」シンシアは嬉しそうに笑った。
すっかり日が落ちて暗くなった夜空を見上げると今夜は満月だった。
「シンシアって月の女神の名前なんだよ」シンシアは月を見上げながら話し始めた。
「ダイアナ(Diana)も同じ意味だけど」「ふーん、プリンセス オブ ウェールズと同じなんだ」私は最近結婚したイギリス皇太子の若い妻の美しい顔を想い浮かべて答えた(※正確に言えばシンシア=アルテミスはギリシャ神話、ダイアナ=ディアナはローマ神話の月の女神)。
「日本にはシンシアって言う名前の歌手がいるよ」「本当?」「南沙織って言う名前で沖縄出身、お父さんは確かフィリピン系の米兵のはずだよ」「ふーん、ビッグ スターなの?」「うん」シンシアは興味深そうに私の説明を聞いている。
「シンシアって言うファンのシンガーソングライターが作った歌もあったな」「サージェントは歌える?」私の話にシンシアは身を乗り出した。
「うん・・・」そう答えて私は低く吉田拓郎の「シンシア」を歌い始めた。
「懐かしい人や 町をたずねて 汽車を降りてみても 眼に映るものは 時の流れだけ 心が砕けていく・・・シンシア そんな時 シンシア 君の声が 戻っておいでと唄ってる・・・」これは高校時代に吉田拓郎ファンの友人に教えられた歌だが、まだ唄えた。ただし、「シンシア」の発音はかなり本格的だった。リズムを顎で合わせながらこちらのシンシアもこのサビの部分を覚えたのか鼻歌で合わせてきた。歌い終わってから2人で並んで夜空を見上げ、今度は星座の話をした。
「月が明る過ぎてサザン クロス(南十字星)は見えないね」「沖縄から見えるの?」「水平線すれすれで上の1つだけだね」「北半球なのにね」琉球諸島最南端の波照間島からなら上の3つが見えるらしい。
「アラスカの州旗はノースポール(北極星)と北斗七星なんだよ」シンシアの話は中学校の英語の教科書にあった物語だ。私がその話をすると「それは小学校の教科書にあった話だよ」と言って呆れ顔をした。
「そうか日本の中学校の英語は小学校のレベルかァ」と私がぼやくと「貴方はレベルアップしているよ」と優しく笑ってくれた。
後年、大学(=中国研究では日本最高峰を自賛している)で使っていた中国語の教科書を中国人の友人に見せると同じことを言われ、さらに落胆したが・・・。
アラスカの州旗
朝、目覚めると隣にシンシアが寝ていた。シンシアは私の左の手を握っている。テント越しに朝の日差しがやわらかくシンシアの寝顔を照らしていた。枕元の腕時計はまだ6時を表示している。私が起きた気配でシンシアもぼんやりと目を覚ました。
「グッド モーニング・・・ダーリン」シンシアはかすれた声を出した。昨夜のシンシアはいつもの「サージェント(軍曹)」ではなく「ダーリン」と甘えてきた。
私を階級で呼ぶことを不思議に思い訊ねたことがあるが「だって貴方が軍曹であることは私の自慢だもん」と答えた。つまり軍人の階級は国家に果たしている職責を表し、それを誇りにしてくれているのだが裸になって抱き合う時は心の制服も脱ぐのだろう(後年、映画「トップガン」でトム・クルーズが演じる主人公をケリー・マクギリスの恋人の美人教官・チャーリーが、コールサイン兼ニックネームのマーベリックや本名のピートではなく、「ルテナン(大尉)」と呼んでいるのを見てこのことを思い出した。「ピート」と呼んだのは2人きりで甘える時だけで、そこも同じだった。一度、シンシアに「ルテナン」と呼ばせてみたかった)。
「グッド モーニング ハニー」私が答えるとシンシアは恥ずかしそうに笑顔を見せた(ダーリンとハニーは夫婦や親密な男女が互いを呼び合う言葉だ)。
シンシアがテントの中で着替えている間、私は外でシートの上に昨日スーパーで買ってきたパンを並べていた。
「モーニングコーヒーだよ」テントから出てきたシンシアに缶コーヒーを手渡すと「缶だけどね」と可笑しそうな声で答えた。
「これ何?」シンシアは並んだ菓子パンの中で、アンパンを取り上げて訊ねた。
「イッツ ANPAN(アンパンだよ)。 ジャパニーズ スイート テイスト(日本の甘味)」「甘い物も食べないとね、今日も長いこと走るんだから」そう答えるシンシアに「意外に世話女房だなァ」と妙に感心しながら私はうなずいた。

その日は太平洋岸を北上してコザ市側から嘉手納の米軍官舎に帰ったが、家に着くとガレージは空で家族は出掛けて留守だった。
「フーッ、流石にくたびれたァ」そう言ったシンシアは自分の自転車をガレージに仕舞い、私の顔を見ながら「今日は父に送ってもらいなさいよ」と提案した。確かに時間的にも体力的にも那覇まで帰るのには無理がある。ただ自転車がないと職場までの往復が徒歩になってしまうが仕方ないだろう。
家に入るとそのままシャワーを勧められた。ただし、着替えはないのでシンシアは父のTシャツを出してくると言った(身長は私よりも高いがサイズが合うと言うことは足が・・・)。
先にシャワーを浴びているとTシャツを置きにシンシアが入ってきた。アメリカ式の建築ではトイレと洗面台、バスタブとシャワーなどの水回りは同じ部屋で特別な更衣室はなく、着替えはカーテンの向こうに置いてあるワゴンの篭に入れるのだ。ところがシンシアが服を脱ぎ出した。
昨夜、裸を見たばかりだがこんなところに家族が帰ってきたらどうしよう・・・カーテンを開けて入ってきたシンシアは焦っている私の顔を見て不思議そうに首をかしげた。そこから先は言えません。
セイラ・マス4
「機動戦士ガンダム」セイラ・マス

次の土曜休みにも(この頃は隔週の週休2日制だった)本島中部のタイガー・ビーチまでサイクリングのキャンプをした。このビーチは嘉手納基地に近いこともありアメリカ人が多く、アバンチュールを狙った本土からの女の子たちも集まっていて余り雰囲気は良くない。
シンシアの水着姿はアメリカ人女性=グラマーと言うイメージとは正反対だったが、登山(ロッククライミング)が趣味なだけに筋肉質で下半身はしっかりしている。
「ビキニは着ないのか?」「駄目、自信がないよ」スポーツ水着のシンシアは首を振る。
「まあ、俺もマッチョじゃあないからな」と言いながら私も自分の細身の体をビーチで本土の女の子と戯れている米兵たちの筋肉質な体と見比べてうつむいた。
「ハーイ、シンシア」その時、同年代の男女の集団が声をかけて来た。それはシンシアのインターナショナル・カレッジの同級生たちだった。
「ハーイ」シンシアが座ったまま微笑んで手を振ると、彼等は私たちを取り囲んだ。
「貴方がヤング・サージェント(若い軍曹)ね」同級生の女の子たちは興味津々と言う顔で私を見て、その横で男たちは対抗意識丸出しの顔をしていた。
それから暫くは彼らと一緒に海に入ったり、ビーチボールで遊んだりして楽しんだ。
「サージェント、君はもっと食べた方がいいよ」昼食にビーチの売店で買ったコーラとハンバーガーやホットドッグを分けて食べ始めると同級生の男たちがからかって来た。
「可哀想に、ジャパニーズ エア・フォース(日本の空軍)では飯も出ないのかい?」別の男も私の貧弱な体を眺めながらボディ―ビルのポーズで隆々とした筋肉を見せびらかした。
「これも食べたら」女の子の1人が私にホットドッグを差し出したのを見て、シンシアはムッとした顔で言い返した。
「彼は、KENPO(拳法)のブラック ベルト(黒帯)よ」しかし、彼等はそれを信じない。
「沖縄大会でブロンズ メダリスト(銅メダル受賞者)なんだから」「だったら、KENPOの技を見せてみろ」シンシアがムキになって繰り返すと中でも1番長身で体格も大きな男がコーラを飲み干して私の前に立った。彼の顔は明らかに挑戦的だ、イザとなれば力でねじ倒してやると書いてある。ほかの同級生たちも半信半疑、むしろ冷かしの顔で私と彼を取り囲んだ。
私は米軍関係者とトラブルになることを恐れてためらっていたが、真顔でうなずいているシンシアの目を見て覚悟を決めた。
「痛くても絶対に怒るなよ」「OK」私の言葉に彼は嘲笑うように了解した。少林寺拳法の形で待ち構えると彼は無造作に掴み掛かってきて私は右手首を掴み、左わきに手を差し込みながら払い腰で投げ飛ばした。彼は一瞬で砂地に投げ倒されて「何が起こったのか」と言う顔で私を見上げている。
「オ―」同級生たちも呆気にとられた後、驚きの声を上げた。
「今度は俺だ」別の男が掴みかかってくる。彼も私より身長が高い。レスリングのようなスタイルで首を掴んできたので、そのまま腕を掴んで首を押しながらの大外刈り(正確に言えば講道館護身術の「追い手刈り」)で仰向けに倒したが、受身の心得がない彼は後頭部を打った。
彼のそばで様子を確かめている私に今度は別の男がボクシングのポーズで殴りかかってきた。
私はとっさに跳び退いて間合いを取り、少林寺拳法の形に構え直した。蹴り技がある拳法の間合いはボクシングよりも遠く、彼は明らかに素人のぎこちないステップで近づこうとするが、こちらが踏み込むと大きく下がり間合いは詰まらない。
アメリカ人には睨み合いが我慢できないようで(日本人のように息詰まる緊張感とは受け取らない)、先ほど投げられた連中が囃し立てると女子の同級生たちまで手拍子で応援を始めた。
引くに引けなくなった相手が1歩踏み込みながら顔面にパンチを打ってきたので私は拳法の防御で受け、そのまま連続した蹴りを繰り出した。先ずは足に下段蹴り(ローキック)、続いて肩へ回し蹴り(頭を蹴ったつもりが短足で届かなかった)、最後に足刀を突き出すとそれが腹に深く入り、後ずさりしながらひっくり返った。
「Ouch(痛い)!ギブアップ(参った)」始めは「当て止め」だったが最後の足刀は腹に突き刺さってしまい流石の素人ボクサーも降参した。
私が構えを解き、姿勢を正して合掌すると彼等は戸惑いながら顔を見合わせている。アメリカならば勝者は勝ち誇るのが常識なのだ(その前に祈りを捧げられた意味が判らなかっただろう)。
「だから彼はブラックベルトだって言ったでしょ」シンシアが自慢げに女の子たちに言うと彼女たちは黙ってうなずいていた。
シンシアはゆっくり歩み寄ると黙って首筋に手を廻し「勝者へのキス」をしてきた。それを同級生たちは遠目に黙って見ている。私は映画の主人公の気分を味わった。
Cynthia (2)
シンシアを抱くと困ったことがあった。当時の日本人の性交渉では男性のリードに女性は身を任せるのが常識であり、慎みとされていた。それはアバンチュールを求めてやってくる本土の女性たちでもベッドに入れば同様だった(一度、火が点くと滅茶苦茶だったが)。
ところがアメリカ人には性行為を愛情表現の1つとして「一緒に楽しむ」感覚があり、テニスなどのスポーツをダブルスのパートナーではなく対戦相手としてやっているような雰囲気なのだ。
これだけであれば求めるままに愛し、求められるままに応えれば好いのだが、楽しみながら結ばれるため声も「アウッ」「オウッ」などとスポーツの歓声のようでテントでは外に声が聞こえてしまうだろう(絶頂を迎える時、日本人は「いく」だがアメリカ人は「アイ アム カミング=来た」だった)。
ただ女性の恥じらいを常識としている日本人男性はアメリカ人女性を奔放で好色だと誤解しているが、これはあくまでも肉体で結ばれることを愛情の形ととらえ、快感を一緒に味わい、楽しんでいるのであって貪欲に快楽に走っている訳ではないのだ。
私の極めて乏しい僅かな経験ではアバンチュールを求めてくる本土の女性の化けの皮を剥いだ後の方がはるかに淫乱で始末に負えなかった。
教師や銀行員、国家公務員や一流企業のOLたちのベッドで乱れ切った姿を見ていると、この女性がどんな顔をして固い固い仕事をしているのか想像できなかった(その点、スチュワーデス=キャビンアテンダントはベッドでも完璧なマナーで感心した)。

もう1つ具体的に困ったことがあった。それは興奮してくると背中に爪を立てるのだ。翌日、基地の浴場に行って裸になると顔見知りたちが声を掛けてくる。
「昨夜(ゆうべ)は激しかったな」「ヘッ?」「背中が凄いことになってるぞ」そう言われて脱衣場の鏡で見てみると背中に左右4本ずつの引っ搔き傷が線になっている。
「背中を洗うと沁みるぞォ」隣りから先輩も冷やかしてくるが確かに仕事中に汗をかいた時、少し沁みたような感じはあった。
シンシアとのデートは嘉手納基地内と周辺が多いので一部の人にしか知られていないものの目撃者からの口コミで徐々に広まっているようだ。
「アメリカ人を興奮させられるなんてお前も大したものだな」「いえ、単なる愛情表現です」「過激な愛情表現だな。俺もやってみたいもんだ」それにしても聖美とは1年近くつき合い、アパートへも毎週のように遊びに行っていたのだが最後まで清く正しく美しくプラトニックを守り通した。一方、シンシアとも決して遊びでつき合っているつもりはないが、ストレートな愛情表現にストレートに投げ返す若さを与えてもらっているような気がしている。
それは聖美を大切に守りながら育てていた愛情を親に頭から否定されたことで、幼い頃から押し付けられてきたモリノ家式の古臭い倫理観まで放棄してしまったのかも知れない。今はシンシアの「ストレートなラブ」に「ドゥ マイ ベストのラブ」で返しているだけだ。
「ところで彼女は金髪だろう。ナニの毛も金髪か?」話がシモに落ちるのはどうしようもない。
「いいえ、明る目の茶色です」と正直に答えながら私は心の中で「馬鹿野郎」と怒鳴っていた。

シンシアと一緒に嘉手納基地内のBX(売店)へ行くと雨が降ってきて(官舎側のゲートは米軍人や家族と一緒なら入門できた)、そこで意外な事実を知った。
嘉手納基地の空・海軍はシフト勤務態勢をとっているため休日でも軍服を着た兵員が食事などに来ているのだが、海軍の兵員は自衛隊のようにレインコート(雨衣)を着て、白い軍服のズボンの裾が汚れないように気をつけて歩いているのに対して空軍は軍服のまま平気で傘を差していくのだ。
日本では自衛官だけでなく警察官や消防士、海上保安官なども傘は差さないが、これは明治時代にヨーロッパから近代的な軍事や警察制度を学んだ時に入ってきた風習だ。
ヨーロッパではいつでも剣を抜けるように手を空けておくのが騎士の作法だったのに対して、日本で傘を差すのは位が高い者の特権で武士以上にしか許さなかった藩もあった(逆に日本の武士はいつでも刀を抜けるよう手を振って歩く習慣がなく、ヨーロッパ式の行進には困ったらしい)。
家に戻って母に訊くと「アメリカでは空軍だけが許されている。空軍はエンジニア(技術者)の集まりで戦争屋ではない」と答えた。
考えてみれば自衛隊でも服務規則や服装規則に傘を差すことを禁ずる規定はなく、マナーのレベルなのだから無視しても処罰の対象にはならないが、あえてやる者はいないだろう。

ある日、隣りの家のガーデン・パーティーに参加させてもらった。
映画などで見ることがあるように網をのせたコンロを庭に出して、そこで分厚い肉を焼くのだが、焼き具合は「レア」と言うよりも「血の滴る牛肉のタタキ」に近い。うっかり「ウェルダン」などと言えば「炭を喰いたいならこれを喰え」とコンロの中の燃えカスを出されるだろう(日本式に木炭ではなくオガクズを樹脂で固めたような不思議な固形燃料だった)。
そこで隣家の大尉が言うにはアメリカ産の肉牛は飼料のコーンを食べているから肉に独特の旨味があるが、オーストラリア産の肉牛は草を食べているため水っぽく青臭いとのことだった。
私は和牛の説明をしたが、肉を軟らかく脂肪を散らずためビールを飲ませ、マッサージをすると言うところで英語力は限界だった(「霜降り」の「霜」が出てこなかなったが、実際は「Marble Meat=大理石肉」と言う)。
何よりもこのようなワイルドな調理は男性陣の仕事で、女性軍は男性が焼き上がった肉を食べられる大きさに切って皿に並べ、女性軍が作っておいたサラダやフルーツを添えて運んでくるのを雑談しながら待ち構えている。
私も父に倣ってシンシアに甲斐甲斐しく運び、食べていただいたが、分厚い肉を調理した経験がなかったので(日本では焼き肉でしょう)残念ながら手料理ではなかった。
ガーデン・パーティーには大尉の部下のテクニカル・サージェントが家族連れで来ていて金髪の娘が可愛かった。父は「シンシアの幼い頃に似ている」と言って愛おしそうにあやしていたが、私は母に似ているように思っていて「シンシアもやがて母のような貫禄がある顔立ちになるのか」と納得した。
隣家の娘
両親と私で雑談していると笑い話としてミリタリー・スラング(Military slang)を教えてくれることがあった。中でもアメリカ5軍の陰口での呼び名は傑作だ。
陸軍(Army):Doggy=犬ころ・犬が土を掘る動作で兵士が壕を掘ることを表す。
海軍(Navy):Squid=烏賊・聖書では悪魔の手先のような扱いをされている。
空軍(Air Force):Zoomies =「ズーン」と言うジェットの衝撃音。
海兵隊(Marine Corps):Jar Head =壺の頭部・海兵隊刈りの頭を上から見た形。
沿岸警備隊(Coast Guard):Bath Tab =浴槽・外洋に出られないため
おまけにミリタリー小噺
小隊長「トムとジャックよ。お前たちは何故、軍隊に入隊したんだ?」
トム「はい、小隊長殿。私には妻はいないし、戦争が好きだから入隊しました」
ジャック「はい、小隊長殿。私には愛する妻がいますし、平和を愛するから入隊しまし
た」これを英語で説明されて一緒に笑わなければならないので大変だった。

ある日、エアコンが効き過ぎているので持っていった私の航空ジャンバーに縫い付けてある3曹の階級章の由来を説明した後(陣所の防護用に立てた盾=これをバリケード・ボードと説明したが通じた・・・はず)、米軍の階級章について教育をうけた。
先ずは父の下士官の階級章からで、アメリカの陸軍、空軍、海兵隊は兵から下士官の階級章は同じデザインで線が減らないのが年輪のような成長の過程を表していると言うことだった。
続いて母による士官の階級章では、少尉・中尉が木の幹、大尉が枝、少佐・中佐は葉と上に登り、大佐は鷲で空を飛び、将官は星になっていまうのだそうで、昔の軍服の襟に金色の生地が多かったため、目立つ銀色が上位の場合が多く、米軍でも少尉は金のバー、中尉が銀のバー、母の少佐は金の葉、中佐は銀の葉なのだそうだ。日本なら銀の空の方が金の陸より上になる。

今でこそ日本でもハロウィンを楽しむことが普通になってきたが、あの頃(昭和60年前後)にはまだ街中で楽しむ仮装大会のように思われていた。ところが米軍の官舎は法的にもアメリカ合衆国であり、この変な行事も本格的に行われていて、私も体験することができた。
女子大生のシンシアは「子供の行事」と白けた顔をしていたが(その辺りは日本と同じ)、中学生の妹・サンディは大はしゃぎで父の古い黒のコートとつばの広い帽子に箒を持って魔女に仮装し、母も日頃の威厳ある空軍少佐の顔を忘れてそれにつき合っていた。
夕暮れ時なると官舎には映画「ET」のように色々なお化けが現れ、それぞれ家々を回るのだが、玄関に籠に盛ったキャンディなどの菓子を置いておきお化けにそれを渡して除けてもらうのだ。
これはキリスト教が伝来する前に北欧で行われていた精霊信仰に由来する宗教行事であると聞いて、私は秋田県男鹿半島のナマハゲを思い出した(この行事を知らなくてカメラを持って行かなかったのが悔やまれる)。

「お前は寺の息子だからクリスマスは関係ないよな」11月下旬のある日、先任空曹から声をかけられた。我が第83航空隊では単身赴任者は早目の帰省をし、クリスマスイブには若い者が嫌がって勤務のつき手がおらず、先任も勤務割に苦労しているらしい。
「息子じゃあなくて孫ですけど」「そうだったかなァ・・・でもキリスト教の行事は関係ないだろう」先任は強気に攻めてくる。
昨年は聖美が休みではなかったため「はい」と2つ返事で快諾したのだが、今年はシンシアと本場アメリカ式のクリスマス・パーティーに参加する予定だった。
「そりゃあ困った。あてにしていたのになァ・・・まァ、毎年ではお前も怒るわな」私が断ると先任は渋い顔で別の隊員に声をかけた。

アメリカのクリスマスは非常に厳粛で、家族で教会に出掛けて祈りを捧げ、その後、教会で讃美歌のコンサートを聞いてイエスの誕生を祝す。
ただし、基地の教会は1つしかないためミサはカトリックとプロテスタントが合同で、神父と牧師のチャップレン(従軍宗教者)が並んで聖書を詠んでいた。
そして家に戻るとホームパーティーが始まる。リビングにテーブルを運び、その中央に「トムとジェリー」と言うフルーツを浮かべたカクテルの鉢を置き、七面鳥の丸焼は無理だったので鶏にして、あとはケーキやクッキーを並べ、クリスマスキャロルをBGMにしながら談笑し、ダンスを踊って楽しむのだが、父と私はカクテルを飲んで酔っ払い、「佛教徒がクリスマスを祝っていいのか?」などとタブーに近い宗教談議を始め、私も何故か日本語で熱弁を奮い、それでも会話は成立していた(お互いに言いたいことを言っていただけ?)。
本来は日本の年始の挨拶や忘年会のように友人を招いてホームパーティーにすることもあるようだが、その年は来客がなかった(断ってくれたのかは不明)。
大晦日は強制帰省させられていたので行けなかったが、0時の10秒前からカウントダウンをするだけで特別なことはしないそうだ。どちらかと言えばクリスマスに全力投球して経済的にも体力・気力も残っていないのだろう(※春のイースター(復活祭)も大切な行事だそうだが、一緒に色つきの卵を作った以外は記憶にないのは何故だろう)。

年末の沖縄便は観光客が来る方は満席だが本土への便は意外に空いている。しかし、送迎ロビーは混み合っていた。そんな中、青い制服姿の自衛官と金髪のアメリカ人の組み合わせは目立っていたようだ。
「次は一緒に連れてって」アルバイトを抜けて空港まで見送りに来たシンシアはそう言って微笑んでいる。シンシアとのつき合いも春には1年を過ぎ、聖美よりも長くなるのだ。
「本土に行くなら夏が好いな。マウント・フジに登って見たい」シンシアはアラスカの小学生で登山を始め、中学生を過ごした韓国でも励んできたのだ。
「俺の家から遠くはないから、それじゃあ夏だな」「うん、日本一の山に登ってみたい」そう言ってシンシアは私の正帽をとり、抱きついてキスをしてきた。
その様子を丁度、到着ロビーに出てきた本土からの観光客の小父さん、小母さんたちが驚いたように、物珍しそうに眺めていた(米兵に見えたのだろう)。

家に帰っても母が吐く台詞は毎度の口癖だった。
「あっちで彼女を作っていないだろうね。駄目だからね」それは父の考えと、その向こうにある伯父の言いつけなのだろう。母は常に父の考えだけを尊重し、子供たちが背くことが無いように心配している。
「だから、何でそうなるんだよォ」私は寺に行って祖父に怒りをぶつけたが、流石の祖父も聖美の時と比べアメリカ人との結婚には慎重だった。
「向こうはクリスチャンなんだろう。将来結婚すればお前が洗礼を受けるか、あちらが佛教徒になるか決めないといけなくなるぞ。1つの家に2つの宗教では正しいことが別々と言うことになる。ウチの檀家でもそれで揉めてる家があるんだ」祖父の言葉に私は数日前、嘉手納基地の教会の厳粛なクリスマスのミサに感激したことを思い出し、来年からは仕事以外に宗教の勉強もしようと決めた。

正月の帰省以降、私の態度に不信感を持った母は毎週のように電話を掛けてきて素行調査をするようになった。しかし、度重なる母親からの電話に当直空曹から「マザコンか?」「乳離れしろよ」などと冷やかされるようになり、嫌々ながら毎週末にこちらから電話する羽目になった(当直空曹が電話に出ると「息子がお世話になっています。どうぞよろしくお願いします」などと馬鹿丁寧な挨拶をしたらしい)。

沖縄に帰った私を空港まで迎えに来たシンシアと一緒にバイト先に近い沖縄県護国神社まで初詣と武運長久の祈願に参った。シンシアは「神社に参るのは初めて」と言ったが、実は私も初詣をするのは初めてだった。中学時代から佛教に親しんできた私にとって神社は若者らしく可愛い巫女さんを見に行く場所に過ぎないのだ。ただ、神社への初詣の習慣がない沖縄だけに1月3日でも護国神社は空いていた。
2人で鳥居をくぐり参道を歩きながら、私たちは神社、神道のレクチャ―を始めた。
「日本には大勢の神がいるんでしょ?」いきなり文化人類学専攻の質問だった。
「うん、エイティ ミリオン ゴッズ(八百万の神々)って言うね」「ふーん、英語ではゴッドを複数形にはしないよ」「そうだろうね、唯一絶対の神様だもん」私の答えにシンシアは深くうなづいた。
「でも、初めてキリスト教が日本に来た時、神道の神職が日本に来ればキリスト教の神も八百万の神々の1人になるって言ったそうだよ」私の話をシンシアはメモでもとり出しそうな真面目な顔で聞いている。
「実際、そうなってるよ。日本ではクリスマスを祝って、1週間もしないうちに大晦日には除夜の鐘を聞いて、夜が明けたら正月で初詣に神社へ行くんだから」「ふーん、だからブディスト(佛教徒)のサージェントも初詣に来るんだね」そこまで話したところで拝殿についた。
私は2礼、2拍手、1拜の神社の拜礼の作法をゼシュチャーで教えたが、その意味に関するシンシアの質問に答えるには知識も英語力も不足していた。
「日本の神社はユダヤ教の神殿に似ている」参拜を終えた後、シンシアは本殿の中を覗きながら言った。
「そうなのか?」米軍基地には従軍牧師(Chaplain)の教会と同じようにユダヤ教の神殿もあるそうなので構造などが似ているのだろう。佛教寺院があれば就職したかった。

「ねェ、久米島に行こう」いきなりシンシアが提案してきた。
「なんで?」「沖縄の歴史的文化財を見てみたいんだ」久米島は沖縄本島から慶良間諸島を挟んで東に位置し、太平洋戦争でも戦場になっておらず琉球王朝時代の史跡が残っていらしい。しかし、島内を観光するのなら日帰りでは無理だろう。
「でも、久米島に泊まることになるよ」「うん、カレッジの研究のためだから大丈夫だよ」確かに日本ではゴールデン・ウィークが近いがインターナショナル・カレッジはアメリカのカレンダーなので連休はない。その分、完全週休2日制なので私が隔週休みの土日で行くことになりそうだ。しかし、これは婚前旅行と言うのではないだろうか?

久米島まで飛行機を使うと南西航空になる。それでは受付で聖美に会う可能性があるだろう。
聖美の性格から考えればシンシアと一緒のところを見られてもトラブルになることはないと思うが、私自身のケジメがついていないのだ。
結局、申し込みが遅かったため飛行機はとれずフェリーで行くことになった。

泊港ターミナルの前で待ち合わせてフェリーに乗船した。しかし、運悪く強い低気圧が接近していてフェリーは凄まじく揺れた。
私は高校時代、ヨット部に所属していたこともあり船酔いはしないが、シンシアは洗面器を抱えて嘔吐を繰り返し、私がそれをトイレに運んで片づけながらの散々な船旅は終わった。

「やっと大地に立てた」久米島の港に到着し、ふらつく足で波止場に下りたシンシアにはいつもの元気はなかった。
「天気が悪くなりそうだから荷物は持ったままタクシーで回ろう」「う・・・ん、だけど車に酔いそう」私の提案にシンシアは首を振った。
「でも、明日のフェリーは昼に出るから、今日中に回らないと研究できないぞ」「うん、民宿に行く途中の史跡を見学すれば良いよ」いつもの「ドゥ マイ ベスト(最善を尽くす)」とは逆の弱気な答えに船酔いがかなり堪えたのが分かった。仕方ないので港がある街で泡盛「久米仙」の工場や古民家などを見学してから民宿へ行った。

民宿についた途端、外は土砂降りの雨になった。
「お客さん、運がいいさァ」民宿の親父さんはカウンターでチェックインしている私にそう言って笑いかけた。
「彼女は日本食で大丈夫ねェ?」「イエス」日本語の質問に英語で返事をするのも変だが、それは最近の私たちの会話のスタイルだ。
「食堂はあちら、風呂はこちら、部屋は2人部屋です。案内します。ついてきて」親父さんはカウンター越しにそれぞれ指差して説明した後、鍵を持って先に立って歩き出した。
「こちらが自販機コーナーです」「トイレです」「正面が非常口ですが外からは開きません」途中で説明しながら部屋が並ぶ廊下に入り、非常口の説明をした後、1番手前の部屋に立ち止まった。ドアは合板の安い建材で、宿泊料金相応の造りだった。
久米島の観光スポットは世界有数の長さを誇る砂浜のイーフビーチで、リゾートホテルもあるが観光客相手の洒落た民宿もそちらに集中しているそうだ。
つまりこの民宿はフェリーを利用する業者などが相手で、だから直前でも予約できたのだ。
鍵を渡されてドアを開けると6畳の部屋に2段ベッドがあり、反対の壁に小さなテーブルと向かい合った椅子、奥には小型冷蔵庫の上にテレビが載っている。窓は外に出られないような胸の高さの狭いものだった。

「シンシア、アー ユー OK(気分はどうだ)?」「イエス、ダイジョーブ」シンシアは返事を日本語にして微笑んでうなずいた。
「シャワーを浴びれば気分も良くなるよ。浴槽は5時からだけどシャワーは24時間OKだって」「夕食は何時?」「シックス オクロック(6時)だからスリー アワー(3時間)ある」流石に親父さんの早口な説明では全ては判らなかったらしく私は英語で言い直した。
「雨は上がりそうもないからシャワーを浴びて休憩しよう」私の提案にシンシアは窓に歩み寄って暗い雨空を見上げた。

シャワーから出るとシンシアが廊下で待っていた。「女性の方が長いだろう」と部屋の鍵は私が持っていたので意外だった。
「あんな広いバスルームではリラックスできないよ」廊下を並んで歩きながらシンシアは理由を説明した。確かに湯船につかる習慣がないアメリカでは浴室はカーテンで仕切って狭いのが一般的だ。日本のように広い浴室で1人シャワーを浴びるのは落ち着かなかったかも知れない。
「それでドラヤーは使わなかったのか?」シンシアの金髪はタオルで拭いただけのようでウェーブが解けてストレートになっている。
「あれは使っていいの?」「そこはホテルと一緒だよ」と言いながら髪が短い私はよく判っていない。ただ脱衣場の鏡の前にドライヤーが置いてあるのを見ただけだ。
「エアコンが効いているから髪を乾かさないと風邪をひくよ」「うん、廊下で待ってて」シンシアが女子の浴室に戻り髪を乾かしている間、廊下で待っていた私に通り掛かった親父さんは「一緒にシャワーを浴びたねェ」と声を掛けてきた。そんな男女の奔放な関係がアメリカ人に対して日本人が抱いているイメージかも知れないが、確かにその夜は徹夜で煩悩が尽きる経験をした。
やはりテントでは外が気になって全力投球できないのだが、部屋の中なら(幸い両隣りは空き部屋だった)思う存分だ。
2段ベッドの下の寝床で一緒に寝ていて可能状態になると戦闘開始の繰り返しで22回、太陽が黄色くなるのはまだ手前、煩悩が尽きると風景が白黒になるのだぞ。

翌日は晴天になりタクシーで島内を回った後、フェリーに乗り込んだが、シンシアを腕枕して泊港まで爆睡してしまった。

真夏に「南極物語」と言う日本映画を見に行ったが今度は犬たちが主人公の映画なので、台詞が少なく助かった。ただ、シンシアはオーロラのシーンを見ながら涙を流していた。
私は「生まれ育ったアラスカを思い出しているのか」と思って黙って(シンシアにもらったパステル柄の)ハンカチを渡した。

7月下旬のある日、私はシンシアの両親に呼ばれた。私は8月下旬からF―4EJ戦闘機への転換OJTで福岡の築城基地へ約2ヶ月間臨時勤務する。このため夏期休暇は早目に取る予定だった。
「サージェント・モリノ、私たちは9月にアラスカに転属することになったんだ」食事の後、全員が揃った席で父が私に向って話を切り出した。
「リアリィ(本当ですか)?」私は、それだけを答えるとシンシアの顔を見た。
「私たちは故郷へ帰ることになるけれど、シンシアをどうするかを決めなければならないのです」言葉が出ないでいる私の横で母が話を続けた。
「シンシアはインターナショナル・カレッジだから転校は問題ないけれど、ここに残って寮に入ることもできるのです」母の説明にシンシアは黙ってうなずいた。私は先日、映画「南極物語」を見てシンシアが涙を流していた訳がわかった。多分、久米島行きも同じ理由だろう。
「貴方がシンシアをどう考えているかを聞かせて下さい」母はそう言うと私の顔を見詰める。父も妹も同じように私の顔を見ていたが、シンシアだけはうつむいていた。
私の耳元で祖父が「お前が幸せになることが本当の親孝行だ」と囁いた。そして、それを打ち消すように伯父が「親の意思に背くことは人として許されない」、父が「親の恩を忘れるような奴は人間の屑だ」と言った。さらに「沖縄で彼女を作っていないだろうね、駄目だからね」と言う母の口癖が続く。昨日も母は電話で夏期休暇に帰省しないことを「彼女と過ごすのか?」と勘繰り、クドクドと事情聴取してきた。シンシアとのことをあの家で許してもらうことは、どう考えても不可能だろう。
「将来に対する責任」、父が幼い頃から繰り返していた教えが私の胸に重くのしかかって来る。私が親の言いつけに背いて激怒する父と、それに怯える母の顔が浮かんだ。
「日本の家族制度の下では守り切れない・・・あの家の子は親に従うしかない」私は哀しい決断をして頭の中で慎重に英訳すると両親の顔を見返しながら答え始めた。

「私はまだ若いですから何の約束もできません。私にはシンシアとの将来に責任が持てません」そこまでの答えを聞いてシンシアは顔を上げて驚いた目で私を見た。シンシアは「自分をここに残してくれ」と言う答えを待っていた、信じていたのだろう。
「それはこれでお別れと言うこと?」シンシアは唇を震わせながら絞り出すような声で訊いた。「イエス・・・」私は深くうなずいた。私の答えを聞いて両親は顔を見合わせ、シンシアの目からは涙がこぼれ落ちた。この時、私は「碧い眼には涙が似合う」などと全く関係ないことを考えていた。
「責任とか約束とか言う問題ではなく、それは君とシンシアが決めることだよ」父は私に解るように易しい英語で訊き返した。しかし、それはモリノ家には通用しない考えだ。
「私はまだ下士官として技術を磨かなければなりません。プライベートなことを考える余裕はありません」これは明らか綺麗事だった。私の胸には勝ち誇った父と伯父の顔が浮かんでいた。
父は意を決した表情でシンシアに訊いた。
「シンシア、これがサージェント・モリノの答えだ。わかったな」「ノ―、私は沖縄に残る・・・」父の言葉にもシンシアは首を振った。
「シンシア、仕方ないんだよ。サージェントは今、仕事しか考えられないのだから」「お前がいるとサージェントの迷惑になるんだ」両親の説得にもシンシアはまだ泣きながら首を振っていた。
シンシアの胸に妹がすがりつき、抱き合って泣く姿に私も両親もかける言葉がなかった。ただ、軍人である両親は私の立場を理解して励ますようにうなずいてくれていた。結局、祖父が言っていた通り私には親の言うこと以外の選択はなかったのだ。
セイラ・マス4
「機動戦士ガンダム」セイラ・マス

夏期休暇は帰省せず、シンシアとも会わずに過ごし、8月下旬から築城基地に臨時勤務した。
築城基地からは少し落ち着いたシンシアに毎晩のように電話をした。私はその日あった仕事の話をし、シンシアは「母の本と父の趣味の物が多くて片付かない」と引っ越し準備の話をする。
そして「ドゥ ユア ベスト」と言って話を終わる時、急に泣き始めることの繰り返しだった。
このシンシアの言葉にどれだけ救われ、励まされ、力をもらっていたか、それは私が一番知っていた。

シンシアがアラスカに旅立って3週間後、私はOJTを終え、沖縄に帰った。そして、しばらくしてアラスカから小さな荷物が届いた。
中には「アラスカを忘れないで」と言う手紙と紺色地に北極星と北斗七星を描いた大きなアラスカの州旗が入っていた。
それから父の「君は考え過ぎるから下士官よりも士官が向いている」と言うメッセージとアメリカ空軍の徽章のキーホルダー、母からは「しっかり勉強して、良い士官になりなさい」と言う激励とアメリカ空軍大尉の階級章。そして、あの日、シンシアが涙を拭いたハンカチも入っていた。ハンカチからは確かにシンシアの匂いがした。
航空自衛隊怪僧記・USAF
総合演習を終えた私はシンシアと約束した南十字星を見に八重山へ傷心旅行に出掛けた。
夏の観光シーズンを過ぎた南西航空の旅客ターミナルは意外に空いている。石垣への搭乗手続きのためカウンターに並んでいると何故か懐かしい視線を横顔に感じ、顔を向けると私が並んだ列の隣の窓口に聖美がいた。
見覚えがあるオレンジ色のハイビスカスがプリントされたブラウスの制服を着た1年半ぶりに会った聖美は少し大人びて変わらず美しい。
一瞬、視線があった時、聖美が会釈したので私も深くうなずいて挨拶を返した。

搭乗待ちロビーの長椅子に座り軍事雑誌を読んでいると誰かが横に立った気配がして、見上げるとそこには聖美が立っていた。
「元気だった?」聖美にした仕打ちを思えばこの場で頬を打たれても仕方ないと覚悟したが、あの頃と同じように優しく微笑んでいる。私は何も言えないまま聖美の顔を見返していた。
「元気そうね」「うん」うなずきながら立ち上がると聖美は背筋を伸ばして胸の下で肘を抱くようにしている。あの頃と癖は変わらないようだ。私は見詰められたまま言葉を探したが何を言っても弁解になってしまう。
「ごめん・・・」私が謝ろうとすると聖美はそれをさえぎるように首を振った。
「ううん、貴方のことだから何か理由があったんでしょ。判ってるよ」「う・・・ん」私の胸にこの優しい人を何も知らぬまま差別、誹謗し、無理やり引き裂いた両親と親戚の顔が憎悪、怒りとともに浮かんでくる。聖美は私のそんな気持ちを読み取ったのか哀しげな眼をした。
「大丈夫、私も元気だよ」「うん」私は日頃の口達者が情けないほど何も言えないでいた。聖美はあの頃と同じように吸い込まれそうな深い目で私を見つめている。
私の胸に今度は聖美と過ごした優しい、安らぎの日々の思い出が蘇ってきた。
「何故、この人と別れたのか・・・それを繰り返さなければならなかったのか」確かに私たちは愛し、愛され、お互いを必要としていたはずなのに・・・私は運命と言うものが理解できないでいた。
「貴方とは優しい思い出しかないよ」短い沈黙の後、聖美はもう一度微笑んだ。
「それじゃあ、仕事をチョッと抜けてきたんだ」聖美はそう言うと、これもあの頃と同じ癖で胸の前で小さく手を振り、背中を向けてロビーから出ていった。

1泊2日の八重山旅行では波照間島に行くことはできず、私は石垣島の防波堤から南十字星を眺めた。夜の海からは波の音が響いてくる。
「シンシア、すまん」星空に向かってそんな言葉を呟いた時、胸に言い知れようのない怒りが沸き上がってきた。私は聖美やシンシアを心から愛し、彼女たちも私を心から愛し、必要としてくれていた。それを自分たちの価値観だけを押しつけて、聞く耳も持たずに引き裂いた両親、あの家とはもうつき合いきれない。私は海に向かった雄叫びを上げた。
私は石垣島から電話を掛け、那覇空港で聖美と待ち合わせる約束をした。

石垣島からの最終便で戻ってロビーに出ると聖美は制服のまま待っていた。
「ただいま」そう言って前に立つと聖美の顔から表情が消え、数秒間黙ったまま見詰め合った。
「これを」私が手を差し出して小箱を手渡すと聖美は黙って受け取った。中には八重山の民芸品「ミンサー織り」の小袋が入っている。これは本来、女性が変わらぬ想いを込めて男性に贈る品だ。
「来週の予約状況を教えて下さい」「・・・土曜日に空席があります」質問に聖美はようやく答え、私は「まだ、気持ちは通じている」と確信した。
「ありがとう」私はスニーカーのかかとを鳴らして気をつけすると野球帽のひさしに手をかざして敬礼した。振り返ると後ろで片づけを始めている職員が物珍しそうな顔で見ていた。

「こんにちは」次の週の土曜日、アパートの玄関で聖美は昨日の続きのように信じられないものを見るような顔で私を迎えた。
「おかえりなさい」それだけを言うと聖美は笑顔を作りながら目を潤ませた。何も言わずに思い切り抱き締めると聖美も私の脇に腕を回してくる。聖美の吐息、髪の匂いは変わらない。背の高さ、身体の弾力も同じだ。首筋に当てている頬の温もりが懐かしい。何も変わっていなかった。私の胸で聖美がポツリポツリと話し始めた。
「私、寂しかったよ」「哀しかったよ」「だけど待ってたよ」いちいちうなづきながら私の胸は申し訳なさで一杯になった。しかし、聖美の結論は違っていた。
「でも・・・ごめんね」「・・・」私は聖美の優し過ぎる気持ちを裏切った自分が申し訳なくて腕に力を込めた。
「やっとここに帰れた」胸に顔を埋ずめながら聖美は呟き、今度は私が涙をこぼした。

1年半ぶりの部屋に座って私は防府に出発する前、実家であったことから今までの出来事を全て話し、聖美は正座して自分の膝を見ながら話を聞いていた。
「俺は親よりも君を守りたい」そう話を締めくくった私に聖美は静かにこう答えた。
「私は親との縁が薄いから親のない辛さはわかっています。だから貴方にも、親御さんにも同じ思いをさせたくありません」「もし、私でなければ・・・」そう言いかけた聖美を私は遮った。
「俺は君を選んだんだよ」「でも」聖美はまだ私の顔を見ないでいる。
「俺は俺らしく生きたいんだ。それには君にいて欲しいんだ」自分でもよくこんなことが言えたなと呆れるほどキザな台詞だった。確かにシンシアと過ごした1年半は私の何かを変えている。聖美は顔を上げると涙をこぼした。あんなに芯の強かった人が何だか涙もろくなったような気がする。
「1つ約束して下さい。お父さん、お母さんに解ってもらうことを諦めないで下さい。私のために親を捨てるなんてことは考えないで・・・」しかし、私は黙って首を振った。
「自分の子供の幸せを尊重できない人間を親とは認められない」私はシンシアの家族に接し、親子関係のあるべき姿を学んだように思っていた。子供が掲げた志、描いている夢、育てている愛を自分たちの偏狭な常識だけで踏み躙り、破り捨て、引き裂き、それを反省もしない人間たちとは決別する覚悟で聖美を選んだのだ。それは故郷を捨て、家族と遠く離れて私と生きようとしてくれたシンシアから学んだ「マイ ベスト」だった。

「モリノ、それが男さァ」久しぶりに2人でウチナ―屋へ行って今までのことを話すとママさんはそう言って誉め、励ましてくれた。
「でも・・・」珍しく聖美がママさんの言葉に反論しようとする。
「聖美の気持ちもわかるさァ、だけど・・・」「だけど?」2人は真顔で見合った。
「人生、中々百点満点は取れないものなのさァ」「今、2人に何が1番大切か優先順位をつけなければいけない時もあるのさァ」「はい」聖美が深くうなずくとママさんも優しく微笑みながらうなずいた。
「モリノは聖美といることを1番大切だと選んだのさァ」「はい」「だったら選ばれた聖美が迷ったらモリノが可哀そうさァ」「はい」ママさんの言葉は私の気持ちを代弁してくれている。聖美は黙って私の顔を見つめた。
「人生は入試じゃあないのさァ、追試もあるんだよ」ママさんの話は判り易かった。
「聖美は百点満点しか取ったことがないからなァ」「そんなことないよォ」私が場を和らげようと茶化すと聖美は少しむきになって唇を尖らせた。
「ところであんたたち、もうすることはしたねェ」ママさんの突然の大胆な質問に私たちは顔を見合わせて下を向いた。確かにアパートでの再会の時、そのまま押し倒す手はあったができなかった。
「何だァ、始めからやり直しねェ」ママさんは呆れたように笑った。

今年も年末年始の観光シーズンが来て聖美の仕事は大忙しだった。正月休暇は年明けに交代で3日ずつだけだ。
「俺も後段休暇にして代休をためようっと」「本当ォ、そんなことできるの?」「後段休暇は希望者がいないから喜ばれるさァ」私の説明に聖美は「納得」と言う顔でうなずいた。
「だったらどこかへ旅行に行こう」「はい」私は迷うことなく提案し、聖美も迷うことなく同意した。シンシアは何度も抱き、煩悩が尽きるような経験もしたが聖美とはまだ清く正しく美しくプラトニックだった。聖美が負っている心の傷を忘れた訳ではないが、それを考えてためらうよりも胸に燃える想いに任せたいと決意したのだ。
「今度は2泊3日で八重山に行きたいなァ」私の希望に聖美は賛成した。
「冬休み明けの平日なら飛行機取れるかな、ホテルも探さないと」「流石は南西航空!」私がからかうと聖美は「エヘッ」とお茶目な笑いを見せた。これは以前には見たことがない表情だ。あの頃は陽気で元気な子が多い沖縄には珍しい物静かで、どちらかと言えばクールな女性のイメージだった。
「でも、南西航空を使ったら職場の人にバレちゃうよ」「平気だよ」聖美は大袈裟に心配する私を、かえって不思議そうな顔をする。自分から大胆な提案をして聖美の同意を得ておきながら、後から余計な心配をしてしまう臆病さは、まだ治っていない。それが「ドゥ マイ ベストだ」と信じて突き進むことを胸の中で再確認した。

後段休暇中は飛行訓練がないため整備作業は少ないが、警衛や当直の特別勤務や基地内待機が多く希望者はあまりいない。
それでも「年末年始期間中には何度でも勤務につきたい」と言う申し出に先任空曹は「いやーァ、助かるよ」と喜び、クリスマスイブと大晦日に警備勤務につくことになった。
「整備の仕事ができないからって警備で御奉公かァ」先輩たちの皮肉な言葉に少し傷ついたが、その後の大きな楽しみを思えばそれほど気にはならない。飛行機も民宿も聖美が手配してくれた。

大晦日の警備勤務で翌朝は元旦だ。南西ゲートの勤務についているところに出勤前の聖美が寄っていった。
「明日は8時まで南西ゲートだよ」と昨晩の電話で知らせておいたおかげだが厳密に言えば秘密の漏洩だ。
「明けましておめでとうございます」「ございます」門のフェンスを挟んでお互いに深々と頭を下げた。続いて私が「気をつけ」をして敬礼しながら「服務中異常なし」と報告して見せると、「御苦労様です」と、聖美も笑いながら敬礼して答えてくれた。
沖縄に慣れた体には冬はそれなりに寒い。私はジャンバー、聖美もジャケットを着ている。
「風邪ひかないでね」聖美は微笑んで手を振っていった。

「何故、正月なのに帰って来ないんですか?お父さんも貴方の顔が見たいと言っています」親からの年賀状にはこんな言葉が添えてあった。しかし、私はあの正月の出来事がまだ赦せないでいた。多分、生涯赦さないだろう。
「あなた方が従順に作ったはずの息子は今、言いつけに背いていますよ」と返事を書いてやりたかったが、あえて何もしなかった。

「友人と八重山旅行かァ、女の子とか?アメリカ軍の彼女とは別れたはずだよな」後段休暇に入る前、代休申請に行くと隊長代理の整備小隊長・三谷2尉は旅行計画を確認しながら声を掛けてきた。その黒い顔は小さな目が好奇心に光っている。
「まァ、お前に次から次なんて甲斐性があるとも思えんがな・・・」三谷2尉はそう言って納得したが、私は心の中で舌を出した。これで代休申請も完了、いよいよ出発だ。
「車に乗るなよ!」その頃、ウチの隊では隊員のレンタカーでの交通事故が続発していて、上司たちはかなり神経質になっている。
「はい」私は素直に、そして元気よく返事をした。

私は何とか空いていた昼前の飛行機に合わせて約束した時間の十分前にロビーに到着したが聖美はもう待っていた。
正月シーズンが明けても観光客は多く、離島便の南西航空のロビーは常夏のリゾート気分丸出しの観光客で混んでいた。そんな中、地元の私たちは冬の服装で聖美は白のブラウスに茶色のジャケットとスカート、私はポロシャツにトレーナーを着こみ綿パンだ。
「待たせたね」私の声に聖美は顔を向け、パッと光ったように笑った。
「大丈夫、私も今来たところ」聖美は嬉しそうに微笑んだ。2人で受けカウンターの前に並ぶと、聖美に気がついた同僚たちが笑いかけてくる。社員教育が厳格な本土の航空会社では、こんなことはあり得ないのだろうけれど、そこは沖縄、大らかと言うかいい加減と言うかだ。
「聖美、行ってらっしゃい」チケットを受け取りながら同僚に声を掛けられて流石に聖美も恥ずかしそうにはにかんだが、私も彼女らの視線の集中砲火を浴びて困ってしまった。

石垣島行きのボーイング737は満席だった。
「よく席が取れたね」私が感心すると聖美は「エヘッ」とお茶目な笑顔を見せる。
「何か裏技を使ったなァ」と言う私の追及にも、「エヘヘヘ」とまた笑って答えない。どんな技を使ったのか興味あったがそれ以上の追及は止めておいた。何だか2人ともウキウキしていた。
そのうち737はタクシング(移動)を始め、窓からは見慣れた那覇基地が見えた。整備格納庫では整備員たちが戦闘機に取りついて仕事をしている。普段の私なら、こんな光景を見れば後ろめたさを感じて暗い気分になっただろう。とにかく私は親から楽しむことを禁じられて育ってきたのだ。
「ところで旅行のこと、お母さんは知ってるの?」「うん、よかったねって言ってたよ」737が舞い上がってところで尋ねると聖美は微笑んでうなづいた。
「それからモリノさんによろしくって」聖美の言葉に一度だけ会った母の顔が浮かび「この人を取り戻してよかった」と心の底から思った。
飛行機が宮古島を通過する頃、聖美は感情を交えずに思いがけないことを口にした。
「私、貴方がアメリカ人の女の子と付き合っていたの知ってるよ」「エッ・・・?」「(同級生の)順子が見たって教えてくれたのさァ」私は返事ができなかった。
「貴方のことだから遊びじゃあなかったんでしょ・・・」「うん・・・聖美に会ったのは自分の気持ちにケジメをつけるための旅だったんだ」傷心旅行から帰ってそのまま縁りを戻した私を許してくれるのか・・・そう思って顔を見ると聖美は吸い込まれそうな深い目で見返してきた。
「その人が貴方に勇気を与えてくれたんだね」「エッ?」「前の貴方なら私を旅行に誘うなんて考えられなかったさァ」「うん・・・(確かに鍛えられた)」私の返事を聞いて聖美は黙って手を握ってきた。
宮里聖美 (7)
「あッ、聖美ィ、久しぶりさァ」聖美は石垣空港のスタッフからも声を掛けられた。
石垣空港ともなると那覇空港以上にアットホームになっている。
「今日は何ねェ」「旅行さァ」「いいなァ」そう言いながらその子は後ろに立っている私の顔を見た。私が会釈をすると、その子も会釈を返して聖美に何かを耳打ちした。聖美は照れたように笑いながら私を振り向いた。

宿泊先は格安ホテルか民宿のつもりだったが石垣市街の外れにある全日空系列の観光ホテルだった。
「ここ高いんだろう」「シャイン・ワ・リ・ビ・キ(社員割引)」真顔で心配する私に聖美は悪戯っぽく笑って答える。確かに南西航空は全日空系列だ。でもこの時期に予約を取るには何か裏技を使ったに違いない。
今回の旅行で私は、今まで知らなかった聖美の人間性を発見して驚きの連続だった。そのパワー、逞しさ、そして意外なほどの大胆さには「とってもかないません」とここらで白旗を上げるべきかと悩むほどだった。

私たちの部屋はダブルだった。それが聖美の決心を示していた。何よりも両隣の部屋はハネムーンのカップルだ。海に面した広い部屋は安いビジネスホテルや民宿とは造りが違いハワイかグアムのリゾートにいるようなエキゾチックな雰囲気があった。
シャワーを使い、Tシャツ、短パン姿で大きなベッドに座って待つ私には、これから聖美を抱くことへの迷いはなかったが、ただ若さゆえか胸が高鳴っていた。
やがて私に続いてシャワーを使っていた聖美が同じ格好で出てきて隣に座った。下着を着けない体の線が美しく、Tシャツを透けて見える小さめの乳首にドキッとする。
しばらくは2人で黙ったまま並んで座っていたが、やがて聖美が口を開いた。
「私、『好きな人に抱かれた』って言う記憶が欲しかったんだ」そう言って聖美は、のばした自分の素足を見ている。この言葉に今まで私が頭で考えていた「聖美を守る」と言うことがハッキリ言えば独りよがり、本当に聖美の気持ちを考えていなかったことに気づかされた。
中学生の時、義父に傷つけられた聖美の心の痛みを「今、聖美を抱くことでそれを救えるのなら」、そう思うと私の胸には聖美への愛おしさと同じくらいの切なさが溢れて、思わず泣き出してしまった。
「モリノさん・・・」それを見て聖美までもらい泣きをして、身も心も興奮、高揚するはずの旅の夜が妙に締めっぽくなってしまった。
「聖美さん」私はベッドの掛け布団をめくり、真ん中に座ると聖美を呼んだ。
「はい」聖美は涙目をしながらもはにかんだ頬笑みを浮かべて並んで座る。私がベッドの枕元のスイッチで部屋の灯りを消すと街外れにあるこのホテルには窓からの明りはなく、部屋は小さなルームランプだけになった。
「やっぱり恥ずかしいさァ」並んで座りながら肩を抱くと聖美がささやいた。それはさっきの告白をした自分の大胆さを言っているようだった。
私たちは黙って口づけるとそのまま抱き合って横になる。直接肌に触れるのは初めてだった。
身体が1つになってゆっくり優しく腰を前後させると聖美もそれに合わせて顎を上下させた。呼吸が次第に荒くなってくる。私の動きと聖美の息が重ねっている。私は命も一緒につながったのだと感じていた。
「ありがとう、私、幸せだよ」終った後、腕枕をしていると聖美は静かにささやいた。
「こちらこそ、ありがとうさ」そう言ってまぶたに口づけると聖美は涙をこぼした。
その時、私の胸に「イッツ ヨォ ベスト・・・(それが貴方の最高)」と言うアラスカの風が吹き抜けていった。


 私の語学力
私の英語は中学生の頃、女学校時代から得意だったと言う祖母から習い、この時にマスターしたのだが、両親はアラスカ出身、シンシアもアラスカ生まれでかなり訛りがあったらしい。
その後、防府に転属して岩国基地の航空祭などで米軍人と話すと必ず妙な顔をされた。
「君はかなりアラスカ訛りがあるがイヌイット(=エスキモー)か?」「はい、ジャパニーズ・イヌイットの山形県人です」とジョークで答えても通じなかったのは仕方ないだろう。
また、幹部に任官し、兵器管制幹部見習いとしてソ連軍のベトナムへの輸送機と交信する際、通常は無視するソ連軍のパイロットが反応することがあった。
「アエロフロート×××(コールサイン) ディス イズ ジャパン エァ セルフ ディフェンス フォース(こちら日本国航空自衛隊)、ユー アー ■マイル レフト・・・(君は飛行ルートから■マイル左にそれている=防衛秘密に属するので詳しくは書けない)」と呼びかけると突然、「ザー」と言う雑音が入り、そのまま懐かしそうな声で返信が入った。
「Oh, your English is excellent (君の英語は素晴らしい)」ソ連軍はアラスカの空軍と話し慣れているので思いがけない場所で私の訛った英語を聞き感動したらしい。
それに「スパシーボ(ロシア語の「ありがとう」)」と即答したので雑談が始まりそうだったが、SOC(方面隊指揮所)から「国際問題になるから余計なことを話すな」と指導が入り、航空自衛隊側が無視することになった。
さらに日本人のパイロットと交信すると「おっと米軍につながったかと思ったよ」と言われるくらい訛った英語のようだ。
航空自衛隊英語弁論大会の予選では「練習不足なら鍛えれば何とかなるが、あの訛りの修正は難しい」と山形出身の審査委員長に評価されたから私のアラスカ英語は東北弁と同じと言うことのようだ。ちなみに航空自衛隊の英語は太平洋空軍の司令部がハワイにあるため、当時、アイドルの早見優が売り物にしていたハワイ訛りだ。
前々回の大統領選挙でサラ・ペイリン・アラスカ州知事が注目された時、その演説やインタビューを聞いて妙に懐かしかったのも、「ふるさとの 訛りなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく(石川啄木)」のような気持ちだったのだろう。
ただ、普通の日本人は英語を読むことから始めるため読解は得意でも会話は苦手と言うが、私は逆にシンシアから口伝え(口移し?)で習ったため、電話はできても手紙は読むにも書くにも辞書が手放せない。何より英語を日本語に訳さず理解するので文章は音読が欠かせないのだ。
次に私は中学1年から自衛隊に入るまで勉強の合間にモスクワ放送を聞いていたためロシア語もある程度話せ、領空に接近するソ連機にロシア語で通告すると向こうが妙に反応することもあった。ところがこれも方面隊指揮所から「国際問題になるから余計な話をするな」と指導が入り、日ソ友好は促進できなかったが、退職後にボリショイサーカスを見に行った時も係員とロシア語で会話できたから雑談してみたかったものだ。
中国語は愛知大学で習っただけだったが、あの頃、沖縄に働きに来ていた台湾人女性たちと仲良くなるのに役立った。
中華街のように飾り付けたアパートの部屋で広東語のテレサ・テンを聴きながら食べた手作り餃子や春巻は美味かった。
Cynthia
  1. 2015/02/14(土) 08:52:42|
  2. アラスカン・フィーリング
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2月13日・大河内伝七中将の命日

昭和33(1958)年の明日2月13日に第2次上海事変で海軍特別陸戦隊を指揮して圧倒的に優勢な蒋介石軍を相手に3ヶ月間守りぬいた大河内伝七中将が死去しました。71歳でした。
大河内中将は明治19(1886)年9月2日に佐賀県塩田町(現・嬉野市)で生まれ、日露戦争が終わった翌年(明治39年)に海軍兵学校へ入校しました。同期には井上成美大将、小沢治三郎連合艦隊司令長官、ラボールの草鹿任一中将がいます。
大河内中将は上海防衛戦で有名を馳せたため海軍陸戦隊の先駆者と思われていますが、実際には砲術の専門家で根っからの艦乗りでした。
連合艦隊の砲術参謀(中佐)だった昭和2年8月24日にはロンドン・ワシントン海軍軍縮条約に不満を持つ艦隊派の頭目・加藤寛治連合艦隊司令長官が繰り広げていた月月火水木金金の猛訓練の中(不満を軍神・東郷平八郎元帥に訴えたところ「訓練に制限はあるまい」との託宣を受けたのが切っ掛け)、美保関沖で2隻の巡洋艦と2隻の駆逐艦が衝突した多重事故が起こりましたが、艦隊内が大混乱に陥ったため高橋参謀長は旗艦・長門を退避させるように意見具申して長官も同意したのに激怒し、「死傷者が多数出ているのに長官が真っ先に逃げ帰るとは何事か」と怒鳴りつけ、加藤長官は絶句、参謀長が謝罪して現場に留まり、事態の収拾を図ったことがあります。
また教育者としても手腕を発揮し、海軍兵学校を卒業した少尉候補者の指導教官として3度、自分の時を含めれば4度も遠洋航海に出掛け、マニラ、シンガポール、シドニー、ホノルル、サンフランシスコなど太平洋沿岸の主要都市に寄港しています。
大河内中将は頬がこけた細身で、眼鏡を掛けてちょび髭を生やした外見はひ弱そうなので、上海に着任した時には士官から水兵まで「本当に大丈夫か」と不安がったそうですが、いざ戦闘が始まると指揮官先頭の鉄則を実践し、「勇猛果敢な人」と評価は逆転しました。
海軍陸戦隊が島の防衛戦で陸軍以上の活躍を見せた背景には艦艇の火砲射撃術を応用した有効な火網構成があります。陸軍は大砲を進行する歩兵の援護のために使用する認識から脱却できず、上陸してくる敵に向かって一列に並べた大砲を発射する形式的な無駄射ちに陥りがちだったのです。その点、海軍は洋上の砲撃戦の重点目標に集中的に撃ち込む運用が身についており、上陸阻止よりも敵が物資を集積した補給拠点などを破壊する砲撃を心掛け、ブナや沖縄ではアメリカ軍を散々に苦しめました。
大河内中将が第2次上海事変を戦った頃の海軍陸戦隊はまだ本格的な編成や訓練が始まっておらず、それでも数倍の敵を相手に一歩も引かず多大の損害を強いた善戦は特筆すべきであり、やはり海軍陸戦の先駆者と言って間違いではないでしょう。
しかし、太平洋戦争開戦の前年に中将に昇任していながら目立った戦歴はなく、同期の井上大将が小沢中将や草鹿中将と同様に「戦上手」と評価した偉才は発揮されずに終わったようです。
それにしても日本海軍は何を考えて人事を決めていたのでしょうか。閑職に埋もれていた東郷平八郎大将を連合艦隊司令長官に抜擢した冴は影をひそめています。
  1. 2015/02/12(木) 09:47:39|
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猛獣・音子の狩り

昨日の深夜、音子がネズミをくわえて帰ってきて、方丈(野僧の書斎・寝室・居間・食堂=じきどう)でイキナリ放し、追いかけて遊び始めたのです。
流石は将来の黒豹だけあってネズミの進路に先回りして猫パンチ、ふらついたのをくわえて場所を移動、そこで放して逃走・追跡再開の繰り返しで楽しんでいたのですが、次第に追いかける距離・時間が短くなり、ネズミの命が尽きつつあるのが判りましたが寒かったので放置しておきました。夜が明けて確認すると音子は動かなくなったネズミを前足で突っつきながら「もっと遊ぼうよ」と誘っているようで、遺骸を片付けると「私の玩具(友達?)を返して」と不満そうに鳴きましたがすぐに諦めたようでした。
音子のハンティングはデビュー直後にネズミを殴り殺したことから始まり、その後はカマキリ相手に「蟷螂拳(とうろうけん)VS猫パンチ」の異種格闘戦を繰り返していました。
顔をギリギリまで近づけて挑発し、鎌が届く寸前にかわす身のこなしは少林寺拳法全自衛隊大会チャンピオン、元格闘指導官の野僧も感心する野性の技で、身体が大きくなれば庭を我が物顔に占拠する鹿や猿も忽ち餌食になるでしょう。
ネズミと違ってカマキリは数回のパンチで弱ってしまうため、後は足と鎌、頭を残して胴体は食べられてしまいます。
これを超える信じ難いスーパー技は次回にでも紹介します。
さ・音子VSカマキリし・音子VSカマキリ

  1. 2015/02/11(水) 09:10:11|
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2月11日・ルルドの奇跡が起きたらしい。

日本では井伊直弼が大老に就任した1858年(安政4年)の明日2月11日にカソリックが「ルルドの奇跡」と呼んでいる超常現象が起きたとされています。
ルルドはフランスとスペインの国境があるピレネー山脈の麓の山村で、この日、14歳の貧しい村娘・ベルナデット(スペイン語読みではベルナデッタ)・スビルーが村外れの洞窟の傍で薪広いをしていると「自分よりもやや年上の15、16歳の白い衣を着て、青い帯を締め、両手に黄色いバラを着け、白の珠のロザリオを持った女性(本人の証言)」が立ったと言います。その女性がベルナデットに「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と言ったので川へ行こうとすると洞窟の岩の下を指差し、そこで湧き出していた泥水が次第に透明な水に変わっていったそうです。
村に帰ってこの女性の「この地に大聖堂を建てるように」との言葉を伝えても人々は全く信じず、親に相談された教会の神父はたしなめるつもりで「本当ならその女性の名前を訊いて来い」と命じました。すると再びその女性に会った(計18回会ったと言う)ベレナデットは「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・クンセプシウ(=無原罪の宿り)」と名乗ったと報告したのです。この名前は4年前の1854年にカトリックの教義として採用されたばかりで無学文盲に近いこの村娘が知るはずもなく、驚いた神父によって話が広まるとたちまち評判になり、6年後の1864年4月4日には女性が現れた場所にリヨンの高名な彫刻家・ファビッシュの手による大理石製のマリア像が建立されましたが、ベルナデットは「ちっとも似ていない」と酷評したようです。それでも「高名な彫刻家がマリア像を建てた」と言う評判で巡礼者が増加すると小さな教会は大聖堂に建て替わりました。
ベルナデットは修道女・シスター・マリー・ベルナールとなって外界との接触を断って信仰生活を送っていましたが1879年4月17日に肺結核で亡くなりました。35歳でした。そして1925年に列福、1933年に列聖されるとされると泉の評判はさらに高まり、やがて泉の湧水で不治の病が治ったとの奇跡が報告されるようになったのです。
カトリックでは過度に風聞が広まると期待を裏切られた失望によって信仰が損なわれることを懼れ、ルルドに医療局を設置して治癒を申告した人の病歴や治療経緯を詳細に確認して、医学的に解明できない治癒例だけを奇跡と認定しています。
一方、日本では明治になって渡来したフランス人神父がこの噂を紹介すると、似たような昔話に親しんでいた庶民の信者獲得に役立つことが判り、全国各地の教会にルルドの洞窟とマリア像を祀った模型が造られるようになりました。野僧も長崎や函館のカソリック修道院だけでなく東京・目白のルーテル教会(プロテスタント)でも見たことがあります。
しかし、ベルナデットが見たマリアとされる女性は明らかにヨーロッパのカトリックで描かれていた聖画のイメージであり、考古学的に証明されているイエスの時代のユダヤ人女性ではありません。カソリックでは聖なる世界の衣類だと言っていますが無理があります。
別にマリアでなくても日本では弘法大師が病気を治す温泉や泉を全国各地に掘っていますから殊更に珍しい話ではないでしょう。
BemadetteSoubirous.jpg
聖Bemadette Soubirousの遺骸(顔は仮面と言うのが定説)
  1. 2015/02/10(火) 09:44:23|
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2月10日・北九州市ができた。

昭和38(1968)年の明日2月10日に門司、小倉、八幡、戸畑、若松が合併して、人口100万人を超える九州最大にして初の政令指定都市の北九州市ができました。
それまでの九州最大の都市は昭和8(1933)年に熊本市からその地位を奪った福岡市だったのです(こちらが政令指定都市になったのは昭和47年、人口が100万人を超えたのは昭和50年でした。現在は福岡市約146万人、北九州市約98万人です)。
確かに中小企業が多い福岡市に比べ北九州市には八幡製鉄所に代表される大企業があり、存在感では負けていませんが、人口が増大して政令指定都市になった訳ではなく八幡市(35万人)、小倉市(約30万人)、若松市(約7万人)以下の都市が合併した結果です。
しかし、昭和20年8月9日に使用されたプルトニウム爆弾の本来の目標は小倉であり、その日は上空の雲が厚かった上、築城の海軍、小月の陸軍航空隊が迎撃機を上げたため逃げながら長崎で投下しましたが、あれが小倉で爆発していれば平坦な地形だけに広島以上の被害が出たのは間違いなく、戦後18年でここまで復興するのは無理だったでしょう。
江戸時代の福岡県は筑前福岡藩(黒田家)、筑後久留米藩(有馬家)、筑前柳川藩(立花家)、そして豊前小倉藩(小笠原家)の4つに分かれていて、中でも小笠原家は九州探題の任を帯びており、作法の小笠原流の宗家でもあります。
その一方で対岸の長州からの脅威には晒され続け、中国地方の雄・大内氏、それを引き継いだ毛利氏に領有されただけでなく、幕末にも第2次長州征討への反抗で高杉晋作の奇兵隊に逆襲され、小倉城は藩主以下の撤退に先立って自ら放火し炎上・落城したのです。
付言すればこの時の戦死者でも奇兵隊側は英霊として靖国に祀られていますが、小倉藩兵は賊徒して鞭打たれたままです。
我が下関市では安倍首相が復活するまでは「北九州市と合併して『海峡市』になるべきだ」との意見が熱を帯びていたのですが、現在は幕末から明治にかけての思い上がりが再燃していて話題に上ることがなくなりました(宇部市出身の菅直人が首相の頃は「何であんな奴が出たのか」とかなり意気消沈していましたが)。
現在、市民たちは買い物やイベントで気軽に海峡を渡って小倉まで出掛けており、愚息2を含む若者も小倉へ就職することが多いので、実現に向けて動いて欲しいのですが、山口県人は戦国時代以来、小倉・九州を見下す気分が抜けないので、先ずはそこを改めないと駄目でしょう。
ちなみに地元の人は「筑豊炭鉱ができてから急に品が悪くなった」と言いますが、昔から気の荒い漁師町であり港の色町でもあり「元々の気質だ」言うのが周囲地域の評価です。何にしろ現在は「小倉生まれで玄海育ち 口も荒いが気も荒い」の無法松のイメージが定着しています(広島は「仁義なき戦い」ですが)。
余談ながら野僧は愛知県の学校教育で「北九州市が福岡県の県庁所在地だ」と教えられていて(そもそも福岡市の存在を知らなかった)、山口県防府南基地の航空自衛隊に入るまで間違ったままだったため西日本出身の同期たちから散々馬鹿にされました。
  1. 2015/02/09(月) 08:43:12|
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2月4日・秋山真之中将の命日

大正7(1918)年の明日2月4日は日本海海戦に於ける連合艦隊作戦参謀・秋山真之中将の命日です。49歳でした。
秋山中将については2009年から11年までNHKがスペシャルドラマ「坂の上の雲」を放映したので司馬遼太郎先生の原作を読まなくても知っている人が多いでしょう。
野僧は小学生の頃、テレビで新東宝の戦争映画シリーズ「日本海大海戦」を見て東郷平八郎元帥に興味を持ち、関係する本を読み進めていく間に日本海海戦で完全な勝利を収めた最大の功労者は作戦参謀・秋山真之中佐だったことを知り、戦史の研究の中で名前に接すれば調べるようになりました。
一般的に秋山参謀は「天才」と呼ばれていますが、実は常人の理解から遠く外れた努力家で、その意味では「超秀才」と評する方が適切でしょう。
仕事上の問題点を見出すとその分析を徹底的に行い、そうして突き留めた問題の核心を解決するため探求を加え続け、思案に集中すると余事には一切意識が行かなくなるのです。
バルチック艦隊がウラジオストックに向かう経路について東郷司令長官や加藤友三郎参謀長以下の幕僚が揃って白熱した議論を戦わしている時、いきなりテーブルの上のリンゴを取って「ムシャムシャ」とかじり始め周囲の者たちを呆れさせましたが、本人はリンゴをかじっていることも意識には入っていなかったようです。
有名な煎り豆も同様で、いつでもどこでもかじり続け、戦闘中も東郷司令長官の隣りで「ボリボリ」と音を立てていたそうです。
このため巨大な屁を放つのですが思案中は自分の屁に気づかず、周囲が顔をしかめているのを不思議そうに見ていたと言います。
秋山参謀は作戦命令や「敵艦見ゆの警報に接し・・・本日天気晴朗なれども波高し」の通信文、「連合艦隊解散の辞」に代表される訓示などに名文を残しただけでなく、「先制」「威嚇」「封鎖」「追撃」など多くの言葉の用法を確立して海軍の文章の規範を策定しましたが、それは書面に限らず、旗旒信号(信号旗)も簡単明瞭に改良したのです。「Z」の1旗に「皇国の興廃この一戦にあり、各員奮励努力せよ」の意味を与えたのも秋山参謀でした。
しかし、日露戦争以降は健康を害して(陸軍・満州軍の児玉源太郎参謀長も終戦の翌年に急逝している)日蓮宗に入信し、退役後には大本教などの古神道に傾倒して常軌を逸した言動を見せるようになり「晩節を汚した」と言われていたのですが、日露戦争の活躍で神格化されていたため知る者だけが知る事実だったようです。
秋山中将の死因は盲腸炎ですが当時は手術を執刀できる病院は限られていて、炎症を散らす処置が病状を悪化させ肋膜炎を併発してしまいました。
臨終の時、枕元には親族と海軍士官が20数名も並び、苦し息の中で遺言を語ったと言われます。「これからの戦争は飛行機と潜水艦の時代になる」「アメリカと事を構えると日本は苦境に追い込まれる」などの予言めいたことを口にした後、「皆さん、色々お世話になりました。これから1人で逝きますから」と挨拶して息を引き取ったそうです。
  1. 2015/02/03(火) 09:11:50|
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2月3日・ミッチャー提督の命日

1947年の明日2月3日は太平洋戦争において初めて東京を空襲したドーリットルを発進させた空母ホーネットの艦長であり、山本五十六大将を撃墜した航空部隊の司令官でもあり、日本海軍を完膚なきまで叩きのめしたマーク・アンドリュー・ピート・ミッチャー提督の命日です。
ミッチャー提督は海軍軍人とは言え生粋のパイロットで、全身に入れ墨を彫っているなど、その波乱万丈な軍歴や強烈な個性には妙な共感を覚えてしまいます。
1887年1月26日にウィスコン州でドイツ系移民2世夫婦の長男として生まれますが、翌年に両親は父を頼ってオクラホマ州に移住しました。この海のない土地で海軍や海には全く興味がないまま育ちますが、父は息子をアナポリスの海軍士官学校に入れるのが夢で、17歳になると知り合いの下院議員の推薦を取り付けて入校させたのです。
ところが2年の秋、学生同士の暴力事件が発生し、死亡者が出たことで風紀取り締まりが過酷になり、成績劣等で素行不良だったミッチャー学生は要注意人物として退校させられてしまいました。ところが父は諦めず再び同じ下院議員の推薦を得て2期遅れで再入校します。しかし、年下で本来は後輩に当たる上級生から虐待され、「内向的・反抗的・非社交的」とのレッテルを貼られたものの131人中103番の成績で何とか卒業することができました。
ミッチャー提督が学生生活を送っていた時期はライト兄弟が人類初の動力式飛行機を飛ばしてから5年前後でしたがアメリカ海軍は早くも関心を示しており、アナポリスを卒業して5年後にはパイロットとしての道を歩み始めることができたのです。
その後は航空機の発達と歩みを同じくしながら海軍内での地位を固め、次第に海軍航空隊に欠かせぬ人物になっていきました。
日本海軍による真珠湾攻撃の直後に完成した高速空母ホーネットの艦長になると、何故か陸軍の双発爆撃機Bー25を搭載することを命じられ、洋上で発進させる実験と訓練を行いました。こうして実施された東京初空襲の成功もありミッチャー大佐は少将に昇任して提督になりますが、後任の艦長予定者は高速空母を運用できる技量を持っておらず、艦長に留まったままミッドウェイ海戦に参戦しました。
ところがこの海戦での航空機の運用や報告を巡り司令官だったスプールアンス提督と感情的な行き違いが生じ、ミッチャー提督はハワイや太平洋諸島の航空部隊の指揮官となり、ある面、海軍航空隊の練度の底上げに貢献していったのです。その中でラボールからブーゲンビルへ視察に向かう山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗する1式陸攻を撃墜しました。
その後、アメリカ海軍内の人事抗争の結果、第5艦隊司令官となり、後半戦に入った太平洋を転戦して行きますが、沖縄では戦艦大和の出撃を戦艦同士の決戦で迎え撃とうとするスプールアンス提督に「(目的地偽装のため北上する大和に)戦艦で追いつけるのか」と迫り、航空機で撃沈しました。さらに乗艦していた空母が何度も神風の特攻機に襲われています。
終戦後は1946年3月1日に大将に昇任し、60歳になった8日後に心臓発作で亡くなったのです。
ミッチャー提督
かわぐちかいじ作「ジパング」のミッチャー提督
  1. 2015/02/02(月) 09:22:58|
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第28回月刊「宗教」講座・盤珪永琢禅師

盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師は前回の白隠慧鶴禅師に比べると知名度はやや落ちますが、衆生を教化したと言う意味では遜色なく、西国諸藩の藩主や家臣から篤く帰依を受けたのみならず、門下は1300人に及び、法脈は数万名に達すると伝えられています。このため白隠禅師を語って盤珪禅師を素通りすることはできません。
ただし、白隠禅師は現在の臨済宗でも中興の祖、大成者として一身に崇敬を受けているのに対して、盤珪禅師は勅命をうけて本山・妙心寺の貫主を務め、遷化後には禅師号を贈られていながら異端者扱いされているのも確かなようです。
盤珪禅師は大坂夏の陣から8年後、徳川家光が3代将軍になる前年の元和8(1622)年に播磨国揖西郡・現在の兵庫県姫路市網干区浜田の儒学者で医師の菅原道節の3男として生まれました。幼名は母遅(もち)と言いました。
十歳で父が病没したため母と跡を継いだ兄に育てられたのですが、幼い頃、寺の書道の手習いに通わされたもののそれが嫌で逃げ出してばかりいたそうです。
手を焼いた兄が渡し場の船頭に、「弟が途中で帰ってきても乗せないでくれ」と頼んだため帰ろうとしても舟に乗せてもらえなかったのですが、すると「水の底は地面だ」と言って歩いて川の中に入り、そのまま潜って対岸に渡ってしまったそうです。
兎に角、度外れた腕白坊主だったようですが、根性もその後の片鱗を表しています。
ある日、知り合いの儒学者から「大学」の提唱を受けていて「明徳」の意味が判らず問い詰めたところ、あまりに厳しい追及に音を上げた儒学者は「我らは家業として儒学を講じているが、それは学んだ言葉を並べているだけで本当の意味は知らないのだ。博識の禅僧のところへでも行って訊け」と言って追い返したそうです。
そこで言われるままに禅僧を訪ねようとしたのですが地元に禅寺がなく、仕方ないので先ずは浄土門の寺に行き念佛を学んだのですが納得できず、続いて密教の寺で密教経典を学びながら川の中に立ち、滝に打たれるなどの荒行に取り組んだもののやはり答えが見つからなかったようです。
こうなると極めなければ居られないのが盤珪くん(まだ若かった)で、「老いた母に明徳の意味を教え、安心して死なせたい」と言う誓願を立てて、赤穂の随鷗寺の雲甫老師を訪ねたところ「坐禅をすれば判る」と言われて16歳で得度しました。
ところがこの母は93歳の長命だったため、それから数十年の長きにわたり40を過ぎてから生んだ我が子を見守り続けたそうです。
しかし、厳しい坐禅修行に明け暮れながら師の許しを得て全国を行脚したものの答えは見つからず、随鷗寺に戻ってからも「これでもか」と探求を続けた結果、大病を患ってしまったのです。
盤珪くんは修行中、尻の皮が破れて血が滴り落ち、足を乗せる太腿が汗疹と血行障害でただれてしまったそうですが、野僧も坐り過ぎて尾骶骨が変形し、尻尾が生えたように突き出てしまったことがあります。ところがある日、コンクリートの床に尻餅をついたところ「バキッ」と言う音がして戻ってしまいました。
盤珪くんの場合、外傷だけでなく喉が詰まったので吐き出すと指先大の真っ黒な塊だったそうなので、おそらく肺結核による血痰が高熱で固まった物と思われます。
その時、盤珪くんは「ひょっとして一切の事は、不生(生きるのを止めること)で調うものを、今までそれが判らず無駄骨を折っていった」と思い当たり、「明徳」の真の意味を把得したそうです。
そこで師の雲甫老師に所解(しょげ・体験の申告)したところ、「汝、徹せり、大いに達磨の骨髄を得たり、以後、天下の人、汝を奈何ともするなし」と印可を許したのです。盤珪永琢さんが26歳のことでした。
おまけにこれ以降、身体に力が湧いてきて病気も全快してしまったそうですが、重篤な肺結核が精神療法だけで完治するものなのか?(主治医に訊いてみましたが「発病してからでは投薬なしの治癒は難しいから鼻血が何かではないか」とのことです)
その頃、中国では漢人の明が満州人の清に圧迫され、多くの僧侶が日本へ渡来してくるようになりました。これは鎌倉時代に元の侵略により宋の高僧たちが続々と亡命し、禅に傾倒していた北条執権の庇護を受け、現在の「鎌倉臨済」を形成したのと同じ状況ですが、この時には日本の禅門はすでに確立しており、逆に中国では衰退していたため、鎌倉時代のように新たな宗教の興隆につながることはなかったようです。
それでも盤珪さんは長崎に渡来した超元と言う高僧を崇徳寺に訪ねて語り合い、超元は「お手前は生死を越えた人じゃ」と称賛し、盤珪さんも超元の境地に感ずるところがあり親しく交流していたようです。やがて超元は「琢禅人こそ大事を了畢している(盤珪こそ悟りきった人だ)」と感服し、日本への態度も改めたとのことです。
その後、隠元が渡来したのですが、盤珪さんは船から下りてくる姿を見て「不生の人ではない」と言って拒絶し、以降、関わりを持たなかったようです。
実際、隠元は沢庵宗彭禅師を失って精神的な支えを求めていた将軍・家光の厚遇を得て黄檗宗を開くなど政治的な立ち回りに長けており、決して「不生の人」ではなかったのでしょう(現在の宗教学では臨済宗黄檗派とする研究者も多い)。
さらに黄檗宗は暴君・家光の後ろ盾を得たため、公儀(幕府)を畏れる外様大名もこれを受け容れ、藩庁がある街に寺院を建立したのですが、中華風の佛像や伽藍、節をつけた読経と肉魚に似せた精進料理・普茶料理くらいしか特色はありません。
これほどの境地に至られていた盤珪禅師が現在の臨済宗で異端視されている理由としては公案の否定があります。
公案は所謂、禅問答のことで「隻手の音声を聞け(片手の音を聞け)」「無字を書け(文字でない字を書け)」などの常識では理解できない難問を与え、それによって知識・論理を超えた自己の感性を引き出すと共に、その時の境地を点検する手段です。
盤珪禅師が活躍されたのは日本の公案を整理、大成させた白隠禅師よりも少し早かったため(年齢的には63歳年長)、公案は禅僧がイベント的に行うセレモニーか、今で言うクイズやパズルのような遊興・娯楽の類に堕していたようです。
そのため盤珪禅師は公案を「よそごとを言い回るのは無駄なことだ。そんな暇があればワシの説法を聞け」と明確に否定したのです。
しかし、いくら公案が現在の臨済宗では必須の修行法であるにしても、あの時代には模範解答集のようなマニュアルが広まっていて、それを暗記することで「悟り」と認められる単なる形式に堕していたのですから、それを否定したからと言って異端視するのは的外れのように思います。
また曹洞宗では公案を掛けても弟子の回答を点検できないため、自己弁護のために否定していますが、その理由の説明に盤珪禅師の説を借用している老師を何人か知っています(小浜の僧堂では盛んに行われていましたが)。
それでは盤珪禅師の「不生禅」とはどのような教えなのでしょうか。
常識を抱えた人たちが「不生=生きず」と言われると「自死の勧め」のように誤解して、「不生で全て解決する」なら「人間、死ねば全て終わり」と安易な納得をしてしまうかも知れません。
逆に頭で理詰めに考える人たちは「生きず」「生きず」「生きず」・・・と言葉だけを抱え込み、「難解だ」「理解不能です」とかえって道に迷いかねません。
その点、野僧は死ぬことばかりを仕習ってきたため、「苦しみの根源は生きていることだ」と言われれば、「全くその通りだ」とストーンと胸に落ちます。
この場合の「生きる」とは心臓が鼓動し、肺が呼吸し、消化器が動くと言った生命活動だけでなく、人間として社会生活を営むことも含みます。
釈尊が示された四苦八苦とは「生まれ」「老い」「病み」「死ぬ」と言う生命活動の苦しみと、「愛するものと別れ離れる」「怨み憎むものとを会う」「求めるものが得られない」「五陰盛苦(ごうんじょうく)」の社会生活における苦しみのことですが、これらで苦しむのは正に生きているからでしょう。
ちなみに「五陰盛苦」と言うのは眼耳鼻舌肌の感覚が過剰になることで、例えば「美味しい物が食べたい」と思って何も手につかず、好きな音楽、芳しい香り、心地よい室温など現代人が求めてやまない快適さや選り好みによる快楽が満たされないことが、やがては苦しみになると言うことです。
盤珪禅師は「夏の頃しも恋しき風も、秋の果てぬに早にくむ」と言っておられますが、人の感覚とはこれほど身勝手で当てにならないモノであり、それにとらわれて生きるよりも、生きない方が余程、安心ではないでしょうか。
一方、野僧が△ンカ持ちであることを聞いた人から「悟ったなら本能が無くなるから飯を喰わんでも大丈夫でしょう」などと冷やかしの質問を受けることがありますが、これは「本能」と「煩悩」の読み間違いであって、釋尊も飯を喰われ、睡眠し、老いて衰え、病んで苦しまれた末に般涅槃(はつねはん)に入られたのです。
悟りに至った者は欲望に執着して煩い悩むことがなくなるだけで、超能力が身につく訳ではありません(確かに佛神や魂魄とは交流できるようになりますが)。
つまり「不生」とは生命活動への執着を断って大自然の流れに身を任せ、社会生活も自己の存在を主張することを捨て、知足と寛容の心に安住することでしょう。
盤珪禅師は「修羅にしかえず、畜生にしかえず、餓鬼にしかえず、おのずから佛心で居ようより外に、しよう事ことがござらぬわいの(修羅になれず、餓鬼になれず、畜生にもなれないのなら、おのずから佛心で居るより外に、しようがないでしょう)」「おこる念に少しも貪着せずして、起こるまま止むままに被り成り候わば、自然に本心に叶い申し候(起こる念に少しも貪着しないで、起こるまま止むままに受け容れていれば、自然に本当の心に叶うであろう)」と言っておられますが、盤珪禅師よりもやや早い時代に勇猛禅を説いていた鈴木正三和尚(年齢的には43歳年長)は「総じて死して死に損なく、生きて生き損多きものなり」と喝破しています。
正三和尚は佐賀藩の「葉隠」に多大な影響を与えたと言われていますが、確かに冒頭の「武士道とは死ぬことと見つけたり」の背景にはほぼ同様の考察が見られます。
それでは積極的に生きることを止めて無気力に流されていれば良いのかと言えば、盤珪禅師、ましてや正三和尚がそんなことを説くはずがありません。
「一生懸命」と言う単語を私たちは「頑張る」程度の意味で軽く使っていますが、本来は一生を懸け、命まで捨てる覚悟で取り組むことを言っているのです。
「必死」も同様で、必ず死ぬことになる程の努力でなければ必死ではありません。
つまり「不生=生きず」とは命を失うことも恐れぬ覚悟で、身心を燃焼し尽くして精進することを言っているのです。
実際、盤珪禅師は「明徳」を探求した時、身心を極限まで追い込んで死線を踏み越えかけたのです。つまり生きながらにして魂は彼岸へ至ってしまった。その境地が「不生」だったと言うことです。
野僧が航空自衛隊に入隊して最初の体力測定の1500メートル走で、同期が殉職しました。以来、野僧は「努力とは命を掛けるもの」と考えるようになり、「アイツにやれて俺にできないはずはない」と死を追い求めるようになりました。
私は常に同期の先頭を引っ張って訓練に励みましたが、無理を重ねたため膝を痛め、駅伝大会では途中で速度を維持できなくなり、順位を1つ下げてしまったのです。
大会が終了した後、「俺の努力が足りなかった」と涙ながらに詫びると、同期たちは「あれ以上、努力したら死んじゃいますよ」と慰めてくれたのですが、私は自分が生きていることが許せず、「次は死ぬぞ」と決意していたのです。
また浜松基地に入校中の航空祭では目の前でブルーインパルスが墜落して、パイロットが殉職しました。それは市街地や東名高速道路に被害が及ばないよう自ら自動車会社の駐車場に突っ込んでいったのです。
さらに那覇基地では管制官の誤った指示により離陸ができなくなった連絡機が、那覇市街を危険に晒さないように滑走路端のコンクリート製のテトラポットに激突・炎上し、前席のパイロットが殉職しました。
つまり市民を守るためには無理に引き起こす努力よりも瞬時に死を選んだのであり、航空自衛官にとって「不生」は常識的な覚悟だったのです。
そんな航空自衛隊を退役し、僧侶になっても野僧の「不生」癖は改まりません。
東北地区太平洋沖大震災の後、野僧は「西方浄土に最も近いこの地で魂魄を案内しよう(=イメージは空港の搭乗案内)」と発願し、24時間の読経と念佛を始めました。本当は自分も死んでガイドになるつもりだったのですが、49日目に意識を失い、そのまま2日間、尿便を垂れ流したまま眠ってしまいました。
航空自衛隊では幾度も死線を潜る経験をしましたが、僧侶になっても死に損なって生き恥を晒し続けるのが野僧の負っている宿業のようです。
盤珪永琢禅師の遷化は元禄6(1693)年9月3日(太陰暦)のことでした。
遷化に当たり弟子たちが、「何か仰せおかれることは(言い遺すことは)?」と問うたところ、「身ども一生、云い置く事のない事ばかり、人々に云い聞かせた(私は一生、余計なことばかり、人々に言い聞かせてきた)」と答えられたそうです。
野僧が月刊「宗教」講座を閉じる時、拜借したい言葉です。
南無文殊師利菩薩
28・盤珪永琢盤珪永琢禅師
  1. 2015/02/01(日) 08:55:38|
  2. 月刊「宗教」講座
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