築城から帰り、土日をはさんで月曜日からは総合演習だった。したがって日曜日の夜はまたシンデレラボーイになった。
航空自衛隊の演習は陸上自衛隊のそれとはかなり趣を異にする。常に実戦態勢にある航空自衛隊では演習と言っても、やることは普段とあまり変わらない。
演習の前半は作戦準備として約1週間、我々整備員は全戦闘機に急速整備と言う点検整備を施し、飛行可能状態にする。このため家族持ちも基地に泊まり込み、待機室のソファーや折り畳みベッド、人によっては作業台に毛布を敷いて寝る。
これを隊員たちは「年に1度のアルコール抜き」と呼び、独身者は基地に缶詰めの24時間態勢で整備に当たるのだ。
また、急速練成と呼ばれる訓練が行われ、帰って来た戦闘機に燃料を補給し、点検を行う再発進。バルカン砲弾やミサイルを補充、再装填する再武装。さらに場内救難や敵の爆撃で滑走路に穴が開いたことを想定した被害復旧など、どれもストップウォッチを持った幹部が見守る中、私たちは黙々と機械の歯車になる。
間の日曜日、家族持ちは一旦家に戻る。これを航空自衛隊では何故か「生理休暇」と呼ぶ。また、この時に子供が出来る夫婦も多いと言われ、航空自衛隊の官舎には夏生まれの子供が多いらしい。しかし、独身者の外出は許されない。
演習の後半、翌月曜日は早朝の非常呼集から始める。大概は朝4時か5時、司令官の機嫌が悪いと深夜2時に一斉放送が入る。
「訓練、オール ジャパン コックド ピストル(戦闘態勢発令)」我々はショップに駆け付け、それぞれ決められた仕事に向う。
「フォース ゲート オープン・・・」どこかで聞いたことがあるコールを口にしながら飛行隊の隊員が扉を開いた格納庫から戦闘機を引き出すと、その発進準備の支援(実際は航空燃料のホース運びが主)、弾薬の準備支援などが始まるが、新米は格納庫周辺の警備だ。
そうしているうちに家族持ちが出勤して来て全戦闘機のランナップ(飛行前点検)が始まり、基地内はジェットのエンジン音に包まれ、やがて発進準備を終えた戦闘機が次々と早朝の空へ飛びあがって行く。ここまでの訓練は頻繁に行われているので慣れたものだ。
航空自衛隊の演習の一番の特徴は本番がやたらに暇だと言うことだ。
全員出勤しているので人手はある。整備作業は作戦準備で終わっていて飛行中の故障がでない限り仕事はない。かと言って駆け足などの運動をする訳にもいかない。
忙しいのはパイロットと管制官、あとは飛行機が帰って再発進するまでの作業に当たる要員くらいである。この頃になると待機室で座り疲れたベテランたちが気分転換と運動不足解消のため交代で警備につき、小銃を持って担当エリアをウロウロと歩くようになる。
時折、場内救難や被害復旧の訓練があるがそれも数時間のことで、こんな時、飛行中の戦闘機が故障を起こして整備作業が入ると「俺が行く」と作業の奪い合いになる。
こうして長い1週間が過ぎて最終日は徹夜の警備訓練で航空自衛官が陸上自衛官になって演習は終わる。はずだった。
- 2015/03/31(火) 08:59:40|
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昭和19(1944)年の明日3月31日に海軍乙事件が発生し、古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職しました。
古賀長官は山本五十六大将が1943年4月18日にブーゲンビルへの視察の途中で搭乗機が撃墜され、戦死した後任として連合艦隊司令長官に就任し、それまでの機動部隊による艦隊決戦を繰り返す積極的攻勢から、日本海海戦に倣った防御的守勢に戦略転換しましたが、日米の工業力の格差は消耗戦を補う戦力格差に直結し、じり貧は現場の戦略・戦術では挽回できませんでした。
日本海海戦ではロシア・バルチック艦隊の目的地はウラジオストックであり、経路は対馬、宗谷、津軽の各海峡に限定されたので戦力を集中して待ち受けることも可能でしたが、太平洋戦争では広大な洋上でアメリカ艦隊の来襲を察知してから艦隊を差し向けて迎撃することは戦術的に無理だったはずです。実際、東京初空襲でもアメリカの空母艦隊が小笠原近海まで接近するのを見逃していました。強いて言えば海軍の守備範囲をサイパン、グアム、千島と台湾、フィリピン、東南アジアの線まで縮小し、連合艦隊を限定的な海域で運用しながら、アメリカが日本近海に多数の潜水艦を配置し、航行する艦船を無差別に雷撃した戦術に倣い、ハワイ、西海岸、パナマ運河の沖で通過する艦船を攻撃して足を引っ張ることくらいしか思いつきません。
古賀長官は明治18(1885)年9月25日に佐賀県西松浦郡で生まれ、旧制・佐賀中学校を経て34期として海軍兵学校に入校します。ちなみに佐賀県人である下村湖人先生の自伝的小説「次郎物語」に登場する海軍少年・新賀峯雄のモデルと言われています。
兵学校では3号生徒(=3学年)だった山本大将や兵学校始まって以来の逸材と謳われた堀悌吉中将、吉田善吾大将、塩沢幸一大将たち32期生の薫陶を受けました。
卒業後は戦艦「安芸」、戦艦「鹿島」、軽巡洋艦「北上」に乗り組みながら、少佐で第1次世界大戦(1914から1918年)が終結して2年のフランスに駐在武官補佐官として赴任し、1926年にも大佐で駐在武官としてフランスへ赴き、ジュネーブでの軍縮会議に出席しました。帰国後は重巡洋艦「青葉」、戦艦「伊勢」の艦長、提督になってからも第7戦隊司令官、練習艦隊司令官、第2艦隊司令長官などを歴任していますが、軍縮に反対する艦隊派ではなく、山本大将、堀中将と同じく条約派として米英協調に向けて努力しました。これも兵学校での薫陶と終戦後のヨーロッパを見てきたことで軍縮が世界的潮流であることを理解していたのでしょう。
この日、1944年2月17・18日のトラック島空襲で連合艦隊の拠点が移されていたパラオ群島も3月に空襲を受けたことからダバオへ2式大型飛行艇で移動している途中で低気圧に遭遇し消息を絶ちました。この事件を嶋田繁太郎海軍大臣(一応、海軍兵学校32期)は「敵前逃亡」と批判し、戦死ではなく殉職とされました。このため靖国に合祀されていませんが、元帥府には列せられ、墓所も東郷平八郎元帥、山本五十六大将と並んで建てられました。ちなみに海軍甲事件とは山本五十六大将の撃墜です。

かわぐちかいじ作「ジパング」より
- 2015/03/30(月) 09:55:05|
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私は築城基地でも少林寺拳法の自主トレを続けていたが、この基地の支部は活動停止中で(事実上の廃部)、代わりに芦原会館空手道部があった。
夕食後、私が武道場の鏡の前で少林寺拳法の突き蹴りを繰り返していると後ろで空手部が練習を始める。その腰から上をひねって突く動作は那覇で見慣れている松濤館流とは違い、むしろ少林寺拳法に通じるように感じた。
私が練習を中断して見ているのに気がついた黒帯を絞めた指導者が声を掛けてきた。
「那覇から来てる電機の人でしょう。一緒にやりませんか?」「いいんですか?」「Fー4と一緒に芦原会館のOJTも受けて帰って下さい。押忍(おす)」そこで私も合掌して10人ほど並んでいる部員の一番端に移動した。確かに指導者が言う通り鏡を相手に練習するよりも得るモノがあるだろう。
再開した正面突きを隣りの白帯の動作を見ながら始めると指導者は「そんな初心者の真似をしては駄目だ。自分を見てやりなさい」とたしなめ私を中央に移動させた。
芦原会館と少林寺拳法の突き蹴りの違いは、少林寺拳法は当てるのと同時に引いて元の姿勢に戻るのだが、芦原会館は一撃一撃を打ち込むようにしている。
少林寺拳法では「突き蹴りの威力は衝撃なので当たる時間が短い方が効果はある」と教えるが、こうして身体をひねって突き込む方が威力はあるように思った。
休憩時間の雑談で指導者は修理隊エンジン小隊の大浦2曹(2段)と自己紹介し、「愛媛県宇和島出身なので小学生の頃に芦原英幸館長が極真会館だった時から八幡浜の道場に通い始めた」と言った後、「空手バカ一代で館長や二宮(城光)さんにボコボコにされる道場生の1人が自分です。押忍」と笑っていたが、少林寺拳法は極真空手を「ハッタリ」「虚構」「邪道」などと敵視しており、自分がスパイのような気分になった。
こうして始まった芦原会館のOJTは非常に学ぶ点が多かった。何よりも芦原館長直伝のローキックは少林寺拳法の膝の上の急所を蹴る下段蹴りと違い実戦的で、上から膝を蹴り下すのと柔道の出足払いのように足首を蹴り上げる2種類を練習しながら組み手で身につけるのだ。
その組み手は茶帯相手だったが(最初は大浦2段が相手をしてくれたが勝負にならなかった)一応は黒帯である私の突き蹴りは何発も命中するものの全く効かず、練習時間の半分を使っている筋力トレーニングの効果を実感した。
大浦2段は修理隊でも有名人のようで、ジャージを持たず体育の時間も常に空手着で参加し、集団で走っていても突然、立ち止まって突き蹴りを始めるので目立っていた。
またソフトボールの練習中、ブロックの穴に木製バットを立てて蹴り折ってしまい訓練係を困らせ、さらに若い隊員に金属バットで腹を殴らせていたが、その一発の先端が鳩尾に入り、血を吐いて入院したこともあるそうだ。
OJTを終えて那覇に戻る時、夏期休暇で愛媛に帰省して芦原館長に会ってきた大浦2段がサイン入りの著書を記念にくれたが、何よりも劇画「空手バカ一代」の登場人物の実像を知ることができたのは感激だった。
- 2015/03/30(月) 09:52:58|
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築城ではFー4EJファントムⅡと言う航空自衛隊の主力戦闘機(当時)に失望しっぱなしだった。ファントムⅡはベトナム戦争でアメリカ海軍、空軍の主力戦闘機として批判的な意味を含んだニュースでも頻繁に取り上げられていたので、アメリカの近代的で強大な軍事力の象徴のようなイメージがあった。
ちなみにファントムⅠと言うのは第2次世界大戦中、アメリカ海軍が創業間もないマクダネル社に開発させた初の艦上ジェット戦闘機・FHー1のことだが、ターボジェット・エンジンの製造が間に合わず実戦に投入されることなくグラマン社のFー9Fパンサーにとって代わられた。
私はこの戦闘機を教材にした中級電機整備員課程を学んでいたので予備知識は持っていたが、実際に部品の交換作業などを経験すると、この戦闘機が技術革新の狭間で泥縄式に作り上げられた粗悪品であることを痛感した。
ファントムⅡが開発された当時、超音速戦闘機同士が接触するのは一瞬であり、機関砲による空中戦を行う機会はなく、遠距離でミサイルを発射するだけになる=ミサイル運搬機と言うのが軍と技術者の見解であった。このためファントムⅡには当初、バルカン砲が装備されていなかったのだが、実戦に投入されるとミサイルで撃ち漏らした敵の戦闘機と空中戦になることが頻発し、抵抗手段を持たないファントムⅡは次々と撃墜されたのだ。このためバルカン砲を追加装備することになったものの戦闘機には構造上、無駄なスペースがなく、燃料タンクなどを一部撤去することでモーター(6本の銃身を回転させて連続発射する)や弾倉(1分間に6000発の発射速度なのでかなり大きい)を設置した。
さらに新開発したジェネレーターに絶対的な自信を持っていたため予備電源の確保は考えておらず、Fー104のような風車式の緊急発電機はおろかバッテリーすら付けていなかったが、これも実戦での教訓から追加することになった。
このバッテリーを取り付けたのは後席の右足の脇のパネルの中で射出座席が外されていればコクピット内にしゃがんで交換作業をできるが、多くの場合は座席の発火レバーに気をつけながら(屋外で発火すれば80メートル撃ち上げられる)上半身を狭いスペースに押し込んでパネルを外し、複雑に入り組んだコード類を傷つけないよう慎重に作業をした上、ボルトが緩むのを防止するセフティワイヤー(=針金)を締めなければならないのだ。
アルカリ式バッテリーの充電の頻度を考えればかなり無茶な構造であり、アメリカ軍では安全管理を優先し、後部座席を外してから作業をやらしているのも理解できた。
航空機王国・アメリカのトップに君臨するロッキード社が「最後の有人戦闘機」として開発したFー104Jに比べ格段に見劣りするのは当然だが、次期主力戦闘機のFー15Jもマクダネル・ダグラス社(1967年に合併した)であり、ファントムⅡは3流メーカーの設計思想を革新する意味を含めた教材なのかも知れなかった。
ただし、複座式のファントムⅡは航空自衛隊のパイロットが抱いていた「上空で頼るのは自分だけ」と言う冷厳な覚悟を失わせ、空中戦でも前後席で責任のなしりつけ合いを始め、最後は兵器管制官のせいにする甘えを植え付けてしまったとも言われている。
- 2015/03/29(日) 00:04:36|
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「あと半月さァ、待っててな」夕方、福岡空港で搭乗口に入っていく美恵子に声を掛けると、「もう大丈夫さァ」と列の前の人の背中を見ながら答えた。
そんな美恵子は「少林寺が本土に帰ると不安になる」と涙ぐんだ時とは全く違っていて、私は山城2曹が言った「女の決心」と言う言葉を噛み締めていた。

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「よっ色男、お帰り」持田2曹と山城2曹が休日の定位置にしている居酒屋に行くと案の定、2人はカウンターに並んで座り、ほろ酔い加減だった。
「昨日の晩は、モリヤちゃんが彼女と寝ているかと思うと俺まで興奮して寝られなかったよ」持田2曹は酔うとエッチ度が増すようだ。
「どれどれ、沖縄の女の子の匂いを俺にも分けて」と山城2曹が私の手を取ると匂いを嗅いだ。どちらも変態の気があるのか・・・?
「そんなところに突っ立っていないで、ここに座って貧しい妻帯者にお祝いのビールでもおごりたまえ」持田2曹が自分の右隣の席を引き出して勧めた。
「モリヤは来た頃は固くてとっつきにくい奴だったけど最近は大人になったさァ」もう勝手にビールを3本注文している持田2曹の向こうで山城2曹がシミジミ言った。
「彼女のおかげさァ、大切にしなさい」今度は持田2曹。「帰ったら彼女、綺麗になってるぞォ。楽しみにしてな」最後も持田2曹が決めてくれた。
- 2015/03/28(土) 09:25:50|
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その日、私は福岡県立博物館や美術館に行きたかったのだが、「買い物がしたい」と言う美恵子のリクエストで博多のデパート巡りをすることになった。
沖縄にはない巨大なデパートで迷子にならないように私たちはシッカリと手をつないで歩いた。それにしても服、雑貨、食品などすべて量も種類も圧倒される。
「少林寺にもらったお金が少し残ったさァ。何か買ってもいい?」美恵子は甘えたような目で訊いてきた。こんな目を見るのは初めてだ。
「いいよ」私の答えに美恵子は「やったァ」と顔中で笑った。
2つ目のデパートに入り、1階から上へ行くエスカレーターに乗った時だった。
「モリヤさんじゃあないですかァ?」突然、後方の下から声を掛けられた。見下ろすように振り返ると曹候学生の同期・安藤が驚いた顔で見上げている。
「モリヤさんは確か沖縄じゃあ・・・わかった新婚旅行だァ」エスカレーターの上でも安藤は相変わらず軽くしゃべり、私たちはそのまま最上階の喫茶店に入った。
4人掛けの席で奥に安藤、手前に私と美恵子が座ったが、安藤は軽いしゃべりを続けた。
「この人が奥さん・・・わかった教育隊の時に言ってた看護学生の律子さんだァ。振られたなんて言ってたけど、やっぱりよりを戻したんだァ」「オイオイ、その娘には本当にフラレタ(実際は自然消滅)」と私は頭を抱えたくなった。
「美恵子です」美恵子は微笑みながら落ち着いた声で安藤の顔を見ながら言った。その顔はなぜかとても自信あり気に見える。
「ふーん」安藤は本当に判ったのか判らないが、とりあえずうなずいた。結局、午前中は安藤につきあって終わってしまった。
「博多の夜景と雲海が綺麗っすよ」「外出して山を下りると空気圧も気温も違うっす」安藤は福岡と佐賀の県境にある海抜千数百メートルの背振山山頂にあるレーダーサイトに配属されていて、毎晩、山頂から博多の夜景を眺めて泣いていると言っていた。
「本土にも少林寺の時間があるさァ」安藤が去った後、美恵子はシミジミと言った。
「少林寺、今度は長く本土にいて帰りたくならない?」美恵子はそう言って隣りに座っている私の顔を見た。
「沖縄が、美恵子が恋しいさァ」私がそう答えると美恵子は包み込まれるような優しい目で笑った。一晩で美恵子は急に大人びたように思った。
- 2015/03/27(金) 08:55:48|
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寛文11(1671)年の明日3月27日(太陰暦)に伊達騒動の最終幕である刃傷事件が起こり、原田甲斐(はらだかい)他の関係者が亡くなりました。
原田甲斐宗輔(むねすけ)は2代将軍・徳川秀忠公の治世の下、広島藩主・福島正則が改易された元和5(1619)年に伊達家の重臣・原田宗資さんの嫡男として船岡屋敷(すでに一国一城令が出ていたので城ではない)で生まれました。
5歳で父親が急死したため家督を継ぎますが、幼い頃から形式的とは言え伊達家重臣として生きていかなければならず、その重圧の中で成長していったようです。
伊達騒動と原田甲斐については山本周五郎先生の小説「樅の木は残った」の出版とそれがNHKの大河ドラマで放送されるまで地元・宮城県でも歌舞伎「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の悪役のイメージで固まっていたようです。このため1970年の放送から30年近く経ってからも関係した土地には「大河ドラマ『樅の木は残った』の舞台」と言う立派な看板が立っていて汚名返上・名誉回復に感謝していました。
ただ、あの小説とドラマはあくまでも山本周五郎先生の創作であって史実とは異なる点も少なからずあり、何よりも伊達騒動は幕府の外様有力大名取り潰しの大方針を利用して一関支藩の領主・伊達宗勝が伊達家の撮り潰し後に62万石の半分を獲得しようとしていたことが事件の内幕になっていますが、実際は藩主・綱宗公が素行不良によって隠居逼塞に処せられると僅か2歳の綱村ちゃんが3代藩主になり、実権は初代藩主・政宗公の10男だった大叔父の宗勝が握って完全に私物化していたことを考えると、危ない橋を渡ってまで野心を遂げる必然性があったのでしょうか?
ただ、史実では大老・酒井忠清さまの屋敷での評定の間に甲斐が宗勝の専横を訴え出た伊達宗重を斬ったため、これを柴田朝意(四国の雄・長宗我部盛親の実子との説があり、事件の10年後、遺族が甲斐さんの旧領を受けている)と蜂屋可広が斬ったものの、そこへ駆けつけた酒井家の家臣が乱心による刃傷沙汰と誤解して斬り伏せたことになっていますが、邸内には大刀を持ち込むことができないため脇差では互いに致命傷となるような斬り合いは難しいのではないでしょうか?この点だけは宗勝と結託して伊達家取り潰そうとした事実が発覚することを恐れた忠清さまの命で家臣たちが惨殺したとする小説やドラマの方が説得力はあります。
伊達騒動と並ぶ外様雄藩のお家騒動と言えば元和9年の黒田騒動でしょう(前田家の加賀騒動と合わせて「三大騒動」と言われている)。2代藩主・黒田忠之は若い頃から素行不良で父の長政公は真剣に廃嫡を考えていたのですが、それを栗山大膳(善助の息子)が双方を諌めたため藩主になれたものの素行は改まらず、かえって後見役になった大膳の口喧しさに反発して遠ざけると常軌を逸した暴政を行うようになったのです。その頃は前述の福島家が改易されており、お家の危機と考えた大膳は幕府に「忠之が幕府転覆を狙っている」と訴え出ました。その本当の目的は「幕府に黒田藩が長政公の関ヶ原での多大な軍功に報いるため東照神君から特別に与えられたことを再認識させ、改易を免れさせるためだった」と言うのは文豪・森鴎外先生の小説「栗山大膳」のあらすじでした。「お家騒動の影に忠臣あり」と言うのが日本人好みのようです。
- 2015/03/26(木) 09:39:37|
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私はバスローブを着てベッドに座り、某基地の教官から習った「バージンを抱く時は自分の快感は捨てて優しくユックリと」と言う注意事項を思い起こしていた。やがて長いシャワーを終えた美恵子が同じ格好で出てきて視線も合わさないまま隣りに座った。
「美恵子・・・」肩に手を掛けると美恵子はうなずいてもたれ掛かってきた。そして唇を重ねるとユックリと肩に掛けた手を体に這わしていった。
背中から腰を何度か往ったり来たりしながらベッドに押し倒すと美恵子は固く目をつぶって私にされるままにしている。
私はその怯えを和らげるため、優しさに徹しながらユックリと愛撫を始めた。
翌朝、美恵子は早起きだった。目を覚ますとニコニコしながら私の顔を見ていた。こう言う反応は私のデータにない。
初めて迎える朝、女性は感動を噛み締めるようにこちらを見つめていて目が合うと涙が・・・男はそれを見て元気百倍、「朝からもう」と言うのが先輩たちの体験談である。
「何?」「だって嬉しくって・・・」そう言うと美恵子は私の顔を持ってキスをしてきた。
それでも部屋を出る時、美恵子の歩き方がぎこちなく、私が心配すると「まだ少林寺が中にいるみたいさァ」と恥しそうに答えた。
枕の下にシーツを破瓜の血で汚したお詫びの洗濯料金=お祝儀(?)を置いてきたのも先輩の指導であった。
- 2015/03/26(木) 09:35:55|
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天正3(1646)年の明日3月26日(太陰暦)は柳生流(新陰流を名乗ったのは福岡藩に伝わった系統のみ)を以って公儀剣術指南役を務めた柳生但馬守宗矩さまの命日です。
柳生家は大和国(現在の奈良県)北部の山間の地を領していましたが、航空自衛隊の幹部候補生学校は奈良市にあるため60キロ行進訓練ではここを通過しました。
宗矩さまは1971年放送のNHKの大河ドラマ「春の坂道(演じたのは中村錦之助さん)」では主人公になり、「一紙半銭も私(わたくし)せず」と清廉潔白で、満州族=後の清王朝の侵略に苦しむ明からの出兵要請を拒否する平和主義者として描かれましたが、1978年公開の映画「柳生家の陰謀(同・萬屋錦之助さん)」では3代将軍を巡る家光と忠長兄弟の争いと言う史実を大幅に脚色する中で、家光を将軍に据えることで幕府の実権を手中に収めようとする巨悪にされていました。さらに1981年公開の「魔界転生(同・若山富三郎さん)」では幕府を呪う天草四郎時貞の怨霊と戦いながらも自分を超える剣の腕に嫉妬している我が子・十兵衛との対決に誘われて魔界側に立つ役柄でした。そして1987年放送の大河ドラマ「独眼竜政宗(同・石橋蓮司さん)」では公儀の交渉窓口になり、反目する公儀と政宗公を仲裁しながらも、激高した政宗公が抜いて斬りつけた太刀をかわし、素手で挟み抑える「真剣白刃取り」を見せていますから、剣に関しては鬱屈を抱えながらも裏方に徹した影の軍師のイメージが定着しているようです。
柳生一族を決定的な悪役にしたのは劇画「子連れ狼」で、拝一刀・大五郎父子を執拗に狙う敵役が柳生烈堂でした。実は宗矩さまが側室に生ませた子が出家してからの僧名も列堂義仙で、物語の中では同一人物になっていますが、こちらは柳生家の菩提寺の初代住職になっていますから史実としては別人です(確かに足跡不明の時期はある)。
「子連れ狼」の中の柳生家は公儀刺客人の役を果たしており、1人を斬らしている間に別の者が斬る集団戦法を常用しています。一方、柳生家が隠密や忍者を操っていたと言う史実は確認できませんが、奈良から京・大阪・伊賀に通じる緊要地を領していたことでイメージになっているようです。
当時の剣客に関する書物によれば公儀剣術指南役としては柳生流よりも一刀流(小野派を冠するようになったのは各藩に広まって分派が続いてから)の方が評価は高く、柳生家の中では宗矩さまの江戸柳生よりも尾張・徳川家に仕えた宗厳さまの孫・利厳さん(宗矩さまの長兄の子)の尾張柳生の方が強いと言われており、吉川英治さんの小説「宮本武蔵」でも武蔵が江戸ではなく尾張に向かった理由にしています。
また嫡男の柳生十兵衛三厳さんは実在の人物でありながら伝説ばかりが先行し、ドラマや映画もどこまで史実でどこからが創作なのかも判らなくなります。
何よりも隻眼ですがこれも歴史的な裏付けはなく、昔の子供が愛読していた文庫本などでは父親の宗矩さまが投げた小刀が片目に刺さった時、刺さっていない方の目を押さえたため宗矩さまが理由を問うと「両目を失ってしまえば武道家としてやっていけなくなる」と答えたと言う少年時代の場面が描かれていました。
少なくとも柳生の地には十兵衛さんが植えたと伝えられる杉の大木が枯れたまま立っていて、行進の経路からも見えました。

「春の坂道」で柳生宗矩を演じた中村錦之助さん(後に萬屋に改姓)

柳生烈堂
- 2015/03/25(水) 09:30:10|
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夜は(博多名物の屋台を覗きたいと思ったが)美恵子も私も疲れているので、宿泊する博多ステーションホテルの近くの居酒屋に入った。
「魚がすごいさァ」美恵子はカウンターのガラスケースに並べられた沢山の魚に驚き、喜んだ。どうも種類の多さが嬉しいようだ。
「美味しいさァ」「これは何ねェ」「こっちもマーサイさァ」美恵子は刺身のお造りにも感動していた。大好きな沖縄料理だが魚料理はいまいちである。私も久しぶりの刺身を堪能した。
「少林寺は飲まんねェ」美恵子の質問に持田2曹のアドバイスを思い出した。
「酔って女とやると失敗するから駄目だぞ」何を失敗するのかは言わなかったが(避妊の失敗、アソコが立たない、途中で眠るなど色々あるらしい)、私はそれを守った。
ホテルではフロントで部屋の鍵を受け取っている時から美恵子は無口になった。部屋はダブルだが、このダブルの部屋を取ったのは山城2曹のアドバイスだった。
私は例のごとくモリヤ家式の臆病さから「本当は別々に泊るつもりでした」と言い訳できるようにシングルを2つ取るつもりだったが、山城2曹は「女の子が決心して来るのだから男が言い訳するのは失礼さァ。沖縄の娘とつき合うのならもっと素直に、気楽にすればいいさァ」と「沖縄のお父さん」の顔をした。
部屋に入ってからの美恵子は益々無口になり顔も幾分強張って口を固くつむっている。
「美恵子、一緒に入ろう」私はシャワーを浴びる時、美恵子を誘った。しかし、美恵子は黙ったままベッドに座っている。
シャワーを浴びていると更衣室に美恵子が来たのが判った。すりガラス越しに見える裸になった姿に私の方が「ドキッ」とした。
「少林寺・・・」やがて美恵子が入って来た。当然、美恵子の裸を見るのは初めてだが、胸はかなり小さめで乳首はまだ肌色、理容師と言う立って腕を使う仕事をしているためか、肩から腕、腰から腿にかけて筋肉質で逞しかった。
私がシャワーをゆずると美恵子は背中を向けて髪を洗い始めた。シャンプーを泡立てて手際よく髪を洗う姿は流石にプロの卵だがシャワーで流したところで私が声を掛けた。
「美恵子、今日は汗になったろう、背中流すよ」「うん・・・」そう言ってシャワーを受け取ると私は背中に湯を掛けながら手のひらでこすった。そうしている間にも私の体は臨戦態勢になっていた。
洗い終わって振り返った美恵子はそれを目にして怯えたような顔をした。そこで私はシャワーを床に置き、抱き締めてキスをした。
「美恵子、大丈夫だ・・・向こうで待ってるよ」美恵子が「うん」とうなずいたので私はシャワーを終えて先に出た。

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- 2015/03/25(水) 09:17:56|
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元亀3(1572)年の明日3月25日(太陰暦)は元祖ミスター三河武士・鳥居忠吉さまの命日です。
天文4(1535)年12月5日(太陰暦)に英君・松平清康公が森山崩れで斃れると、下手な歴史小説家でも書かないような幾多の苦難が松平家・三河武士を襲いますが、それでも清康公から受けた深き恩情を忘れぬ三河武士たちは国を捨てることなく、自ら鍬を取って畑を耕しながら合戦では先を争って敵中に突っ込み、「忠誠無比」「犬よりも従順な松平の家臣」「戦国ナンバー2(1は武田)」の称号を得ていきました。
森山崩れの後、清康公の父・信忠さまとも家督を争った桜井城主(現在の安城市桜井)・松平信定が跡目の乗っ取り図ると命を狙われた嫡男・仙千代さまは矢矧川を下って吉良氏を頼りますが、鳥居家は岡崎城から見れば矢矧川の対岸の渡の領主であり、水運にも深く関わっていましたから手引きしたのは忠吉さまだったのかも知れません。
天文18年に広忠さまが亡くなった前後、三河武士の活躍により織田信秀の長男を捕獲し、人質の交換が成立したものの駿府へ送られてしまったのでした。
この時、忠吉さまは竹千代さまよりも3歳年長の3男・元忠さまを護衛と学友役の小姓として同行させました(嫡男の忠宗さまは天文16年に戦死、2男は出家している)。
城主不在の岡崎城には今川の代官が入っていましたが、代官とその家臣たちは三河の地で横暴の限りを尽しており、収穫の大半は駿河に送った上で残った分も着服し、気に入れば若い娘から人妻まで妾にしながら織田との合戦では三河武士を先頭に押し立てて自分たちは後方の安全地帯で高みの見物を決め込んでいたのです。
竹千代さまが父の墓参に岡崎に戻った時、忠吉さまが今川の代官に収穫の殆どを奪われている中、蓄えていた倉一杯の米を見せ、「家臣一同、殿のお帰りを待っております」と言った忠臣譚は児童必読の絵本にもなっていました。
この日、忠吉さまは80歳で亡くなりましたが、その揺るがぬ忠誠は元忠さまにも受け継がれ、関ヶ原の合戦の前哨戦・上杉討伐では伏見城の城代を任され、2万人の石田側の攻城に1800名の手勢で13日間も抵抗した末に総員討ち死にしています。
このため元忠さまの嫡男・忠政公は最上家改易後、山形24万石の藩主になり、さらに忠政公の嫡男・忠恒公が跡継ぎを儲けぬまま亡くなって改易された後も、「鳥居家の忠誠」に免じて側室の子が鳥居家を継ぎ、減封の上で信州高遠藩主になっています。
野僧の小学校では誇るべき郷土史と共に三河武士の気風を教えられ、その後の精神の基盤になっていました。しかし、野僧は忠義を尽くすべき相手を「国家」としていたため発想が部隊のレベルを超えてしまい、計算高く偏狭で意に背く者を抹殺する毛利武士道の影響下にある防府南基地では周囲に敬遠され、上司に嫌われてしまいました。
家康公や三河武士たちは旧今川領を手に入れた後もその風土を愛し、臣従する者を受け入れましたが、決して恨みを忘れず、それを晴らすためには手段を選ばない毛利武士なら、今川の代官から受けた以上の苦しみを武士だけでなく領民にも与えたことでしょう。
- 2015/03/24(火) 09:37:47|
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駅を下りるとすぐに太宰府天満宮の門前通りだ。両側に並ぶ土産物と梅が枝餅の店に驚き、珍しそうに目をクリクリさせる。
店の前に立つ小母さんたちは沖縄風の顔立ちの美恵子に「お客さん、観光ですか」と声を掛けてきて、美恵子がそれに「はーい」と嬉しそうに返事をすると「帰りに寄って下さいね」とまた声を掛けた。
「でも、こんなに一杯寄れないさァ」と歩きながら美恵子は悩んでいた。
門前通りを抜けると天満宮の高い石の鳥居だ。鳥居の奥には心字池にかかる3つの朱塗りのアーチ型の橋がある。1番手前の橋から池をのぞくと濁った水に鯉、石の上に亀が群れていた。珍しそうに見ている美恵子に「海亀の刺身(沖縄料理)が食べたい」と言うと、「可哀そうさァ」と怒った顔をして私の顔を見た後、すぐに笑った。
天満宮の朱塗りの拝殿で参拝をした。美恵子は右隣の私に合わせて2礼、2拍手、1拝の作法をしたが、これも初めてだった。
美恵子は長い時間、手を合わせて何かを祈っていたが、キュッと口をつぶり、目を閉じた真剣な横顔を見ていて、「俺は佛教徒だ」と神社に対して大した信仰を持たず、いい加減に祈った自分が恥ずかしく、天神様に申し訳なくなり、もう一度祈った。
拝殿から左に進むと神職と巫女さんがお守りなどを売っている。沖縄にも護国神社や波の上宮と言う神社があるが薩摩藩に支配されていた時代や明治以降の皇民化政策の中で本土の神道を導入するために造られたもので、必ずしも沖縄の人々に浸透したものではない。
「色々あるさァ」美恵子は学業成就、健康、交通安全、商売繁盛、安産など祈願ごとに分けられた色々なお守りに感心していた。
「友紀子ネェネに安産のお守りを買うさァ」「怒られるさァ」私たちのやり取りを聞いて巫女さんが吹き出した。
結局、美恵子はタクシードライバーの父には交通安全、母には健康、今年が高校受験の弟には学業成就のモノを選んだ。
お守りを袋に入れてもらうため巫女さんに手渡しながら美恵子は、色々並んだお守りの箱の横に、青と赤のセットで白い小箱に入った「良縁成就」のお守りを見つけた。私は美恵子の視線と表情を見て巫女さんに声を掛けた。
「これもください。箱はいりません」巫女さんから初穂料と引き換えに白字に太宰府天満宮と書かれた紙袋を受け取ると、私は赤の方の良縁成就のお守りを取り出して美恵子に手渡した。
「嬉しいさァ」美恵子は手のひらにお守りをのせると顔中をクチャクチャにした笑顔を見せてくれた。チラッと見ると巫女さんが少し羨ましそうに見ていた。

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- 2015/03/24(火) 09:35:54|
- 夜の連続小説8
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美恵子は9月の第1週の土、日曜日に来た。OJTも丁度半分、折り返し地点だ。
那覇から一緒の持田2曹と山城2曹は外来宿舎の金属製のベッドに腰をかけニコニコ、いやニヤニヤしながら朝から出かける私を送ってくれた。
「がんばれ」と持田2曹が何故か私にまむしドリンクを手渡し、「モリヤは真面目さァ。俺なら久しぶりに本土に来て思いっきり遊ぶのになァ」と言った。
「持っちゃんとは違うのさァ。沖縄の子によろしくねェ」沖縄出身の山城2曹が羨ましそうに言った。
「モリヤ3曹、出撃します」そこで私はビシッと気をつけをして、挙手の敬礼をしながら、両先輩に申告をした。
「よし、行ってこい!必ず撃沈しろ」持田2曹も立ち上がって答礼し出撃命令を下した。
電車と地下鉄を乗り継いだ私と沖縄から全日空の美恵子はほぼ同時に福岡空港に着いた。地下鉄の長い階段を駆け上り、広いロビーを走り回って何とか美恵子の到着に間に合った。
美恵子は何か少し膨れっ面をしてロビーに出てきた。姉から借りたのだろう大人びた柄のブラウスに紺色のスカートを履いた美恵子は、これも借り物らしい使い込んだ大きめのカバンを持っている。
「お疲れェ」私がそう言って美恵子のカバンを右手に取り、自分の着替えが入った紙袋(出張先でカバンがなかった)を左手に下げて歩きだしたが、両手がふさがっては手をつなぐことも、腕を組むこともできない。
「飛行機の中で男の子に声をかけられたさァ」美恵子は隣りで怒っていた。
「なるほど、それで膨れているのか」と私は納得した。
「どいつだ?喰らわしてやる」私がそう言うと「こんなに一杯いたら判らないさァ」と答えて一緒に出てきた団体の人ごみを見渡した。どうやら本気で喰らわして欲しいようだった。
昼食を空港のレストランでとった後、2人で太宰府天満宮へ行った。
西鉄福岡駅で荷物をコインロッカーに預け電車に乗ったが美恵子は電車は初体験で、ドアが開く空気圧の大きな音に驚いてホームで後ずさった姿に吹き出しそうになった。
- 2015/03/23(月) 09:44:16|
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明日3月23日から31日まで奈良の薬師寺で修二会・花会式(しゅにえ・はなえしき)が行われます。この日程になったのは昨年(2015年)からで、それ以前は3月28日から4月5日まで行われていました。これは太陰暦の2月末の週を太陽暦に合わせるために生じた誤差です。
この儀式の趣旨は東大寺の二月堂で大松明を振って走る「修二会=お水取り」と同じく「佛法興隆」「国家の繁栄」「五穀豊穣」「万民豊楽」などですが、こちらは名前の由来になっている花の造花を薬師瑠璃光如来(東大寺は二月堂の本尊・十一面観音)へ捧げながら悔過法を勤め、最終日には結願法要として「鬼追い式」が行われます。
この造花は嘉承2(1107)年に堀河天皇(白河法皇の子、鳥羽天皇の父)の皇后・篤子内親王が病気になった時、薬師瑠璃光如来に祈願したところ霊験によって快癒したので、お礼として女官たちに10種類の造花を作らせて供えたことに由来し、現在も和紙で梅、桃、桜、百合、杜若など10種類の造花を作っています。ちなみに東大寺の「花拵え」では時期が少し早いためか南天と椿の冬の花です。
儀式に参加する学僧=修行僧はこちらも「練行衆(れんぎょうしゅう)」と言いますが、その筆頭が裏方を取り仕切る「堂童子(どうどうじ)」に「アー ユー レディ=準備はよいか?」の意味を込めて呼び掛け、「奉(ほう=イエス・サー)」と答えるところから始まります。
ただ、東大寺の練行衆が二月堂に籠り切りになるのと比べ、薬師寺では茶道や華道、香道などの家元による献茶、献花、献香や雅楽、能楽など古舞楽の奉呈、中にはバイオリニストの演奏までが連日のようにあり、少し息をつく暇があるのかも知れません。
今の薬師寺は高田好胤猊下の発願によって真新しい伽藍が立ち並んでいますが、昔は朽ち果てたボロ寺で、好胤猊下の師である橋本凝胤猊下(昭和48年3月25日に遷化)の時代には儀式の最中に金堂の天井の一部が崩れ落ちたのですが、顔色1つ変えずに勤められたそうです。本来はその位の気迫を以って勤め上げる儀式なのです。
尤も凝胤猊下は生涯肉食飲酒をせず女性と接することもなく佛戒(奈良佛教は鎌倉佛教諸宗派とは異なり本来の佛戒)を保ち、講義の最中に居眠りした幼い好胤猊下を火箸で殴り、暗い境内に叩き出すほど佛道に対して厳しい面と遠足や運動会の弁当を自ら作る優しさを併せ持った傑僧ですから腹の据わり方が違うのでしょう。凝胤猊下は出家した直後の女流作家・瀬戸内某が雑誌の企画で各宗派の管長猊下との対談を申し入れてきた時、「分際を弁えろ」と拒否し、押し掛けてきたのも門前払いし、置いていった土産も寺の外の者に与えたと言われます。これを瀬戸内某は「古臭い権威主義」と雑誌で非難しました。
薬師寺は興福寺と同じく「唯識論」を説く奈良佛教・法相宗の本山ですが、満行前日(=最終前日)には山伏たちによる紫燈大護摩が焚かれます。
そして満行の夜、練行衆が「南無薬(なむやく=南無薬師瑠璃光如来の略)」を唱え続ける中、「天地の持剣(てんぢのじけん)」と呼ばれる2本の剣を上下に構えた1人の練行衆が堂内を舞うように歩きますが、これは「咒師走り(しゅしはしり)」と言う儀式で天、地からの災厄を除くことを表しています。
こうして勤め終えた学僧たちの額に堂童子の頭領が「牛玉(ごおう・誤字ではない)の宝印」を押して満行になるのですが、外ではメイン・イベントである「鬼追い式」が行われます。この儀式では黒、赤、青、白、黄色(柄が入った装束で以外に御洒落)の5人の鬼が燃える松明(竹に葉がついた松の枝を括りつけた物)を持って登場し、金堂の前を駆け回ると毘沙門天が現われて退治するのです。
以上は奈良・幹部候補生学校の時に毎週のように通って聞いた話でした。
- 2015/03/22(日) 00:01:29|
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築城基地の外来宿舎は「全国心霊スポット」と言う本に載っているくらい有名だった。
その幽霊は進駐軍のアメリカ兵に連れ込まれ、集団レイプを受けた後、殺された女性で、両手で顔を覆い泣いているので声を掛けると「私、綺麗ですか?」と訊いてきて、「はい」と答えると「これでも」と激しく殴られて腫れ上がり、鼻と口から血を流した顔で迫ってくると言うのだ。
私はOJTの第1回だったので出発前、那覇の同僚たちから「坊主の孫ならシッカリ供養をしておけ」と特命を受けていて、到着後は毎朝晩の読経を欠かさず、一緒に行った先輩たちも線香やロウソクを買ってきて、どんどん本格化していた。
起床ラッパが鳴っても点呼はないので酔い潰れている電機班の持田2曹と油圧班の山城2曹の寝顔だけ確認して、そのまま電話で修理隊当直に異常の有無を報告するのは私の担当だ。そしてトイレに言っている間に起きた持田2曹が朝の一服のついでに火を点けてくれたロウソクで線香にも火を点けて蚊取り線香の皿に寝かせて置くと朝のお勤めが始まる。
取りあえず少林寺拳法式に合掌し、自衛隊式に45度の敬礼をすると鳴らし物がないので連れてきた美恵子のマグカップを工具箱にあったドライバーの柄で叩いて音を出した。
「コーン、コーン、コーン」「摩訶―般若―波羅蜜―多心経―」数少ない暗記しているお経では一番長い般若心経を唱え始めるが、このお経は中学生の時、寺に預けられて憶えて以来、久しぶりだったのであまり自信はなかった(途中が抜けたりする)。
実際はお経の後に回向と言う目的を述べなければならないのだが、判らないので小声で「成佛して下さい」と唱えて「十方三世一切佛 至尊菩薩摩訶薩 摩訶般若波羅蜜(浄土門の念佛に当たる)」と締め括っていた。その間、両先輩は一緒に手を合わせて真剣に祈っているところを見ると本当に幽霊を怖れているようだ。
その功徳があったのか我々は幽霊に遭遇しなかったが、隣りの棟に宿泊した陸上自衛隊の隊員たちに目撃者が続出した。
隊員クラブで飲んでいた隊員たちが酔って帰ってきて、消灯になって涼みに外へ出た者が「ギャー」と悲鳴を上げて逃げ帰り、「まったく馬鹿馬鹿しい」「ビビっているから何かを見違うんだよ」などと言いながら出てきた者がまた「ギャー」と悲鳴を上げ、それが数回続いた後、一晩中電灯を点けていたから余程怖い目に遭ったようだ。
翌朝に出発する時、「やっぱり小倉泊にすればよかった」と口を揃えていたが、このため「供養じゃあなく追い払っただけだ」と評価は急落してしまった。その頃はまだ出家していなかったのだからそんなものだろう。
そう言えば築城から電機分隊の海水浴に行った山口県豊北町の土井ケ浜では私が泳いで通り過ぎた場所から水死体が上がり(ゴーグルを付けていなかったので海底は見えなかった)、引き上げるのを手伝い、お経を唱える羽目になったが、それは功徳なのか、祟りなのか?とりあえず毎朝の読経がここでも役に立った。
- 2015/03/22(日) 00:00:43|
- 夜の連続小説8
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3月19日、演芸界の至宝である3代目・桂米朝師匠が89歳の天寿を全うされました。
米朝師匠は1996年に前年の江戸落語の柳家小さん師匠に続いて重要無形文化財保持者=人間国宝に認定され、2009年には演芸部門としては初の文化勲章を受けています。
最近の日本人はこの国の全てが東京中心に動いていて、古くからの伝統文化も京都でなければ江戸から始まったと思っていますが、江戸時代から明治前半にかけての庶民文化の中心は大坂であり、落語も江戸時代の初期、京都の日蓮宗の談義(=説教)僧が還俗した露の五郎兵衛が始めた笑い話や物真似(鳥や虫、動物の鳴き声などを真似る)、声色(こわいろ=歌舞伎役者の台詞を真似る)などの辻噺が、むしろ大阪で大衆演芸として広まっていました。このため明治になって名人・三遊亭円朝などが創作した人情噺や怪談噺など以外の滑稽噺の多くは大坂で作られ、江戸で演じるために手を加えたものがほとんどです。
例えば「今、何時だい?」の落ちが有名な「時そば」は本来、大阪らしく「時うどん」でした。そして「うどん」だから豪快に「ズルズル」と音を立ててすするのも真実味があるのであって、細い「そば」ではいささか無理があるでしょう。
江戸落語では大食い自慢の隠居がソバで競う「そば清」も上方落語の「蛇眼草」の改作で、こちらは甚平を着た男が餅の大食いで賭けをするのです。この時、どちらも大蛇が食べた物を消化する蛇眼草(じゃがんそう)を舐めて勝とうとするのですが本人が溶けてしまいました。江戸落語ではソバが羽織を着ているのが落ちですが、これでは隠居が羽織の下に着ていた着物や肌着も溶けてしまったことになり、甚平に餅が詰まっていたと言う上方落語の方が完成度は高いようです。
上方落語は都はるみさんが岡千秋さんとデュエットしたヒット曲「浪速恋しぐれ」で謳われた2代目・桂春団治のような天才を輩出しながらも東京のように噺家と寄席との収支協定や落語以外の芸を色物(看板を朱字で書いたことが由来)として一段低くする出演者の地位序列、噺家一門の師弟関係などの組織だった経営手法に欠けていたため内部分裂状態に陥っていたのです。
現在の江戸=東京落語は漫才や曲芸などの色物とは別格の伝統芸能の一つになっていますが、上方=大阪落語は漫才や浪花節と競い合って発展を遂げ、一部を除けば吉本興業が一手に経営を引き受けています。その一方で噺家に江戸落語のようなエリート意識がなく、売れるためにならテレビのバラエティ番組にでも進んで出演するため、今では大御所の笑福亭仁鶴師匠や上方落語協会会長の6代目・桂文枝師匠(以前の三枝)もNHKを含む東京のマスコミでは一段低く扱われているようです。特に米朝門下の筆頭弟子(桂枝雀の没後)である桂さこば師匠は若い頃、桂朝丸としてウィークエンダーなどのバラエティ番組で活躍したため、東西寄席などで江戸落語の桂歌丸師匠と同格に扱われることが意外であるかのように受け取られ、実力が正当に評価されていないのが残念でなりません。
おそらく東京の政治屋や官僚が選定する文化勲章も人間国宝同様に柳家小さん師匠(2002年に逝去)の次に授与される予定だったのでしょうけれど、芸の力量と育成した弟子を客観的に評価すれば米朝師匠が後回しになる理由はありません。
- 2015/03/21(土) 09:15:32|
- 追悼・告別・永訣文
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チャンプルを鉢皿に、ご飯と吸い物をそれぞれの器にのせたお盆を美恵子が運んで来て、テーブルに並べた。
「美味しそうだね」「自信ないさァ」私のシミジミした台詞に美恵子は心配半分、恥しさ半分の顔をした。今日は髪を後ろで束ねているので丸顔がハッキリ見えたそれも可愛い。考えて見ると美恵子の手料理を食べるのは初めてだった。
2人で合掌して(最近は美恵子も少林寺式になっている)早速、箸をつける。美恵子のチャンプルはやはりウチナ―屋のママさんよりも母親の味に近かった。
「マーサイねェ?」「うん」美恵子が心配そうに訊いてきたが私は料理が口の中に入っていたのでうなずいた答えた。
「片づけはするよ」「いいさァ」私の申し出に美恵子は笑って首を振った。私は階級だけは3曹=下士官になっていたが後輩が配属されず、ショップでは未だに雑用から卒業できず人に世話を焼かれるとかえって落ち着かないのだ。
美恵子は手早く片づけをすますと居間に戻って来たが食卓には私の土産のペアカップが残っていた。
「美恵子が前に使っていたカップくれよ。築城に持って行くから」私はペカップを眺めなら思いついたことを言った。美恵子は「築城」と言う地名を聞いて「ビクッ」と一瞬怯えたような顔をした。
「美恵子のカップを一緒に連れていくさァ」私がもう一度繰り返すと美恵子は「うん」とうなずいて、部屋の隅の食器棚から自分のカップを持ってきた。
「はい」「ほい」美恵子が差し出したカップと引き換えに私は封筒を手渡した。
「何?」美恵子は怪訝そうな顔をして確かめたが中には5万円入っている。
「航空券代さァ、福岡に来るんだろ」私は美恵子が何か言う前に説明した。それは2人のことに於いて私が初めて自分から意思を伝えたのだった。
「嬉しいさァ。必ず行くよ」美恵子は目を潤ませて微笑んだ。最近、美恵子はよく涙ぐむようになった。
「色っぽい・・・」また、私の胸は高鳴った。しかし、同時に頭の中でまた帰巣本能のカラータイマーが鳴って時計を見た。
「10時!門限だ」最近は美恵子もこのパターンに慣れてきたのか一緒に立ち上がった。
普通、シンデレラボーイとは無名の新人が有名になることを言うが、航空自衛隊では好い所で門限になって諦めなくてはいけなくなった奴を指す。
それでも、その夜の私は立ち上がった美恵子を抱き締めて長めのキスをした。美恵子の唇はチャンプルと吸い物とウーロン茶の味がして一味違った。

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- 2015/03/21(土) 09:14:23|
- 夜の連続小説8
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私が築城に出発する前の土曜日、ママさんは美恵子に買い物を頼み席を外させた後、カウンターに身を乗り出して真顔で訊いてきた。
「美恵子を福岡に呼ぶねェ?」叔母であるママさんがこんな質問をしてくると言うことは、美恵子の両親もこのことを知っているのだろう。しかし、美恵子を福岡に呼ぶと言うことは当然、泊りの旅行になる。これは「私と結婚させるために既成事実作りか?」それとも「私の節度を試しているのか?」私は答えを濁しながら考えていた。
「やっぱり、色々考えてるさァ」ママさんは私の顔を見ながら呆れたような顔をした。
「考えることないさァ。娘が好きな人に会いに行く。止めることないよ」ママさんは笑いながら言ったが、それでも私の父なら「そう言って(騙して)既成事実作りをされたら」と勘繰るはずである。そして「行動は慎重に」「軽率なことはするな」と怒りだすかも知れない。しかし、私は「それならそれでもいいか」と思った。
「呼ぶさァ」私の答えにママさんはニッコリ笑い、「あの子、お金ないよ」と付け加えた。
「それは(雇い主である)貴女が何とかしてよ」と私は思った。
翌日、美恵子は「手料理で送る」と言った。
いつもの三越前で待ち合わせた後、国際通りに隣接する平和通りに入り、その奥にある公設市場で食材を買ってアパートへ行った。
美恵子の手料理は豆腐チャンプルとナカミ(豚の内臓)の吸い物だった。台所は狭いので私は居間の食卓の前に胡坐をかいて待っていた。
私の食器はネェネ=友紀子の物と言ったので短パン、Tシャツの背中を向けて調理している美恵子に声をかけた。
「食器を勝手に使ったらネェネに怒られるよ」「チャンと洗うから大丈夫さァ」私の心配も美恵子は一向に気にしていないようだった。
「ネェネの彼氏にも悪いさァ」この心配にもピンとこないようだったので、「関節キスさァ」と言うと大笑いした後、「少林寺が私のを使うさァ」と振り返った。
- 2015/03/20(金) 09:41:21|
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空港からタクシーで国際通りへ向かいママさんへの土産を持ってウチナ―屋に行った。以前から「彼女を連れてくるさァ」とママさんに言われていて、「未成年だから」と断ると「ウチは料理を食べさせる店さァ」と少し怒った顔をされていた。確かに夕方5時から開いているウチナ―屋は早い時間には子供連れも少なくない。
「これがモリヤの彼女ねェ。沖縄の顔をしてるさァ」ママさんはカウンター越しにニコニコ笑いながら美恵子の顔を眺めた。2人は初対面のはずだが何故か美恵子も懐かしそうな顔をしてママさんを見返している。
「今日は何食べるねェ、チャンブルなら彼女の方が詳しいさァ」ママさんが何種類ものチャンプルの名前が並ぶメニューを差し出しながら言うと、美恵子は「すごーい、私こんなに知らないですゥ」と感心した。
「何でも炒めればチャンプルさァ」ママさんは豪快に答えると美恵子の顔を見て笑った。
「彼女はチャンプル得意ねェ?沖縄の女の常識さァ」美恵子はうなずいた。私がナーベラ(糸瓜)の味噌炒め、美恵子はフ―イリチー(麩入りチャンプル)を頼んだ。
私は料理ができる前にと紙袋から美恵子への土産をカウンターの上に置いた。それは名古屋空港の売店で買ったペアカップだった。
私はいつも買い物に行くたびに「元美術部部長の癖にセンスが悪い(年寄りくさい)」と叱られ、「おトオと買い物に来てるみたいさァ」と呆れられている。
「何?スゴーイさァ」箱を開けながら美恵子の顔がパッと光ったように見えた。色調を抑えた水色とピンクのペアカップを取り出すと店の暗めの灯りにかざし見ながら「いい色さァ」と今日は誉めてくれた。
「休暇の土産ねェ。上等さァ」と言いながらママさんは2皿のチャンプルを出したので、私はその手に「ほい、いつものお茶」と土産の静岡茶の袋を渡した。
「私もペカップが好いさァ」「僕とママさんの?」「私のパパさんとさァ」ママさんと私の掛け合いが始まり、美恵子は隣りで楽しそうに笑っていた。
「モリヤ、今日は飲まんねェ」「休暇から酔って戻るとまずい」私の返事にママさんは「相変わらず自衛隊は厳しいさァ」と言って壁にもたれかかった。そして真面目な顔をして美恵子に話しかけた。
「彼女、モリヤをよろしく。私はモリヤの沖縄のお母さんみたいなもんさァ」美恵子もうなずいた。
「モリヤはチャンプルが好きで、島唄が得意で、沖縄が大好きだけど・・・」ここでママさんは一息ついた。「だけどやっぱり本土の人さァ」ママさんの目は真剣だった。
「いつか、必ず本土に帰るのさァ。そのことを忘れちゃあいけないよ」美恵子はママさんの目を見ながらうなずいた。するとママさんは急に笑顔になった。
「と言う訳で今日は泡盛おごろうかと思ったけど飲まないなら残念ねェ」うーん、残念。
- 2015/03/19(木) 09:16:16|
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沖縄には日曜日の夕方に戻り、美恵子がバイト先から空港まで迎えに来ていた。
到着ロビーのガラス越しに私の姿を見つけると美恵子は右手を飛び跳ねるように振ったが、出口に集まりだした出迎えの人々の向こうになって手だけが見えるようになった。
私は右手にスポーツバッグ、左手に土産の紙袋を下げて美恵子に歩み寄った。
「ただいまァ」「帰ってきたさァ」久しぶりに見る美恵子の顔と沖縄方言に正直愛知へ帰った時よりもホッとした。
今回の帰省では沖縄での交遊関係については私も両親もあえて話題にしなかった。ただ、虫の知らせか女の勘か、祖父の寺で会ったアチラの美恵子さんだけには「沖縄で彼女が出来たでしょう」と訊かれた。
私はこちらで美恵子に告白することになった経緯を言えば笑い話になるかと思ったが、たちまち両親に情報が伝わってしまうと思い止めておいた。
いつもならハシャイダように喜ぶ美恵子が今日は私の顔を見て黙っている。その時、私たちの横を名古屋からの団体客がガイドに先導されて、「ミャーミャー」言いながら通っていき、私は紙袋を右手に持ち替えて美恵子をかばい壁際まで連れて行った。私の手は美恵子の腰を支え、抱き寄せる形になっている。
「少林寺が本土に行っちゃうと不安になるさァ」美恵子はそう言うと肩に頭をもたげ掛けてきた。少し涙ぐんでいるようだった。

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- 2015/03/18(水) 09:15:02|
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お盆休暇は帰省した。私は再来年に我が第83航空隊の戦闘機がFー104JからFー4EJに機種転換されることに備え、8月上旬から9月下旬まで福岡の築城基地へ委託OJTに行くことになり、7月下旬に1週間の休暇になった。おかげで忌門である伯父の家には行かずにすんだ。今回の休暇では何よりも祖父に会いたかった。
帰省した翌日、土産の黒砂糖と沖縄の棕櫚の皮を編んで作った民芸品「ハブグチ」を持って祖父の寺を訪ねたが、それで父は不機嫌になった。
祖父は沖縄の黒糖は純粋で美味しいと喜んでくれ、ハブグチの口に指を入れ、引いて抜けなくする遊び方の説明を興味深そうに聞き、何度も試してくれた。祖父はどんな土産でも本当に喜んでくれるので、こちらも嬉しくなる。
ひとしきり土産と土産話を楽しんだ後、私は正座して祖父に対し、先日の事故の話をした。
「愛する家族を遺して死んで逝ったパイロットの、それも奥さんに抱かれた遺骨に罵声を浴びせる。人はなぜそこまで残酷になれるのか」「そんな人のために我々は命をかけなければならないのか」私の疑問を祖父は真剣に聞いてくれた。
「お前もそんなことを考えるようになったか・・・」祖父はシミジミ言うと、掘りゴタツの天板の上にわら半紙を広げ、「自灯明。法灯明」の2つの言葉を書いた。
「これはお釈迦様が亡くなる時、それを嘆く弟子たちに『自らを拠り所にせよ。正しい教えを道標にせよ』と言い遺された言葉だ。人の評価を気にして世間の常識に縛られていると集団の流れから逃れられなくなる。大切なのは『何が正しいのか』を自分で考えることだ」祖父はそう言うと「坐禅はやっているか」と尋ねた。
「うん」と私がうなずくと「坐ってみろ」と言った。私は立ち上がって部屋の隅に転がっていた祖父の枕代わりの坐蒲(坐禅用の座布団)を拾い尻の下に敷いて座った。
「まだ足が痛くて・・・」と言いながら足を組むと「あまり坐り慣れていないな」と祖父は厳しい目をした。
- 2015/03/17(火) 09:44:59|
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翌々日、本江1尉(1階級特進)の部隊葬が基地で行われた。この日も私は警備要員で今回は基地正門付近の警備に当たっていた。そもそも私は警備と言う仕事自体スリルがあって好きで、その上、格闘技の経験があるので警備の仕事はよく回ってきた。ようは徹夜の仕事に文句も言わずにつく上司には有り難い隊員なのだ。
フェンス越しに見ると基地の外の道路の向う側には、事故に抗議するデモ隊が「××労」「××教組」と染めた赤い旗を何本も掲げ、視界の外まで歩道上に細長く並び「我々は沖縄県民を危険に陥れた今回の事故に抗議する」「那覇空港を軍民共用の危険な空港にするな。自衛隊は出ていけェ」などとリーダーの音頭でシュピレコールを上げていた。
私たちは手には警棒(米軍なら拳銃だろう)、空曹の腰にはトランシーバー、デモ隊を刺激しないため、また新聞やテレビに映されないようにフェンス沿いに木陰や建物の後ろに隠れていた。彼らが基地に迫った時が出番だ。
その時、腰のトランシーバーから「遺骨、Aポスト通過しました」と連絡が入った。那覇市郊外の火葬場で荼毘にふされた本江1尉の遺骨が官用車で、おそらく奥さんの胸に抱かれて基地に帰って来る。その車が正門の北側、つまり左から接近してくるのだ。すると左手から怒鳴るようなシュピレコールが聞こえてくる。始めはその怒声が何を言っているのか判らなかったが、どうやら車の移動に合わせて声も近づいてくるようだった。
「遺骨、Bポスト通過」「Cポスト通過」トランシ―バーから聞こえる報告は遺骨を乗せた車が、こちらに接近していることを伝えている。それと共にデモ隊が発する声も近づき、はっきりしてきた。
「馬鹿野郎!」デモ隊は黒塗りの官用車の後部座席で夫を亡くしたばかりの奥さんの胸に抱かれた遺骨に向かってこう叫んでいたのだ。
「何てことを・・・」私は、銃があればデモ隊に乱射したいほどの怒りをおぼえた。しかし、フェンス越しに見えた後部座席に遺骨を抱いて座っている奥さんは罵声を浴びせるデモ隊に顔を向け、詫びるかのようにお辞儀を繰り返していた。それが事故のたびに繰り返される航空自衛隊のパイロットの遺族の作法なのだ。私は初めて日本人を憎んだ。
この日の部隊葬では本江1尉の3人の遺児の奥さんの母親の腕に抱かれていた1番下の男の子が儀仗隊員の射った弔銃に驚いて泣きだして隊員たちの涙を誘った。
(事故原因は翼に下げたポットから漏れたチャフを煙と誤認した管制官が飛行中止を命じたため停止しようとしたが間に合わず、前席の本江2尉が「このままでは市街地に墜落する」と判断し、自らテトラポットに突っ込んだのだ。しかし、那覇空港を管轄する沖縄運輸局は先に記者会見を行って「パイロットの操縦ミス」と発表し、マスコミもこれに同調したため、運輸省が派遣した事故調査員会の結論も決まっていた。ちなみに私は事故調査委員会の指示で事故機の操縦桿を確認したが、スイッチは「テイクオフ=離陸」になっていた)
- 2015/03/16(月) 09:24:10|
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1週間後、私がエプロン(駐機場)のFー104Jのバッテリー交換のため右手にツールボックス、左手に交換用バッテリーも持ってハンガー(格納庫)を出ようとした時だった。1機のTー33A練習機が北に向って滑走路を離陸していった。
「おかしい?」私は目の前の情景に困惑した。本来ならすでに引き起こして機体が浮いていなければならない位置なのにまだ地上を走っている。
Tー33Aが通り過ぎて視界から消えるとすぐに「ドーン」と言う爆発音が北の方から響いた。私は早足で外に出ると音がした方向を見た。
「ドーン」「ドーン」と言う爆発音が続き、滑走路のエンド(端)の方に黒煙が勢いよく上がっているのが見えた。その時、「エマージェンシー、エマージェンシー。Tー33ランウェイ(滑走路)エンド、クラッシュ(衝突)」意外に冷静なアナウンスが響いた。
消灯の10時から事故現場の警備に当たった。私のポストは機体に1番近く、相棒は曹候学生の同期の武上3曹だった。
このポストは空港の建物のライトで明るく、かえって黒焦げの事故機がハッキリ浮かびあがって不気味だった。あたりにはまだ消火剤、機体の焦げた臭い、何よりも血と人間=肉の焼けた臭いが漂っている。
「ここで1人死んだんだァ」武上が主翼に上り、割られたキャノピーから前の操縦席をのぞき込み、「わッ、血が臭い」と顔をそらしてのけ反った。
「止めろよ、不謹慎だぞ」私がたしなめると武上は「相変わらず糞真面目だなァ」と言って機体から下り、警棒を振りながら規定の位置に戻って来た。
私たちはすでに浜松の第1術科学校に入校中にブルーインパルス、那覇でも陸上自衛隊のⅤー107ヘリコプターの事故を目の前で経験していて航空機事故に対してどこか鈍感になっているのかも知れなかった。
しばらく2人並んで立っていると突然、武上が「女の人の泣き声が聞こえません?」と怯えたような声で訊いてきた。
「お前も聞えたかァ・・・」私もさっきからTー33Aが突っ込んだテトラポットにぶつかる波の「ドーン」と言う音の中に「ウッウウウ・・・」と言う圧し殺したような女の人の泣き声を聞いていた。私は「これが事故の後に聞えると言うパイロットの奥さんの生霊の声か・・・」と思い、奥さんの悲しみにつき合うつもりで黙って聞いていたのだが、武上は先ほどの大胆さはどこへやらで完全にビビッていた。
「モリヤさん、お寺の孫でしょう。お経をあげて下さいよ」武上の必死のリクエストを無下に断ることもできず、私は「摩訶ァ般若ァ波羅蜜多心経ォ」と低く唱え始めた。すると「そんな低い声でやられちゃあ、余計に怖いじゃないですか。もっと元気にやって下さいよ」と今度は怒ったように言ってきた。
「摩訶ー般若ー波羅蜜ー多心経ー」この元気のよいお経は、ほかのポストの耳にも届いて、その夜の警備要員は「お経の声が聞こえる」と全員ビビリぱなしだったそうだ。
- 2015/03/14(土) 23:59:57|
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明日3月15日に愛知県小牧市にある田懸神社で世界的に有名な豊年祭り(正式な別名・扁之古祭り=へのこまつり))が行われます。
この祭りでは白装束の男性たちが巨大な「大男茎形(おおおわせがた)」と言う男性器をかたどった神輿を担ぎ、その周りを巫女の装束を着た若い娘たちが腕くらいの大きさの男性器を大切に抱きながら従います。これは子宝を豊作に重ねた意味を持ち、この男性器に触れると子宝が授かり、五穀豊穣、商売繁盛などの御利益があるとされています。
この時、売り出されるお守りも真鍮製の小指大の男性器で、亀頭部からカリ、竿、皺まで(睾丸はない)の形状がリアル過ぎて思わずトイレで見比べてしまいました。
同様の形をした飴玉の土産もあり、彼女に色々な舌の使い方で舐めさせて興奮する意味不明の男もいるそうです。
ちなみに隣りの犬山市にある大懸神社で直前の日曜日に行われる豊年祭り(正式な別名・於祖々祭り=おそそまつり)では女性の腹部を模した巨大な鏡餅と女性器をかたどった草鞋を載せた山車が練り歩きますが、両方が一対の祭りなのだそうです。
この祭りが世界的に有名になったのは小牧基地にある第5術科学校で兵器管制幹部課程の教官を勤めているアメリカ空軍の交換士官が同僚に誘われて見学し、その話を横田基地に帰って広めたためで、評判が評判を呼んで横田(空軍)や厚木(海軍)、座間(陸軍)から満員の観光バスをしたてて見学に来るようになったのです。
ただし、案内した自衛官が祭りの名前を「チンポ祭り」と教えたため、この名前で広まってしまっており、大懸神社の方はズバリ「マン■祭り」です。
アメリカ軍の口コミは世界規模なので、ゴラン高原PKOやイラク派遣で小牧基地の第1輸送航空隊の輸送機がヨルダンへ飛んだ時にも会ったアメリカ空軍のパイロットたちから「KOMAKI(小牧)から来たのならCHINPO MATSURIを知っているだろう」と訊かれたそうです。そこで興味を持って集まってきた世界各国のパイロットたちの間で説明することになったようですから口コミ情報が更に拡散しているかも知れません。
ところで愛知県には他にも赤面するような面白い祭りがあります。それは10月の第3、若しくは第4日曜日に蒲郡市三谷町で行われている奉納神楽の「黒ごま」で、若い衆が「明日は晴天、黒ごま煎れたか、弁当の仕度できたか、できたか」と囃しながら笛、太鼓で賑やかに街を練り歩くのですが、その時、年内に結婚した新婚家庭に押し掛け、玄関で正座して拝聴している若夫婦を前に祝詞(のりと)を上げるのです。
その内容は夫婦の夜の営みに関する具体的な解説で、「先ずは××を手でよく△△し、妻の□□が○○になれば・・・」などと放送禁止用語のオンパレードなので「祝詞を文字にすることは猥褻文書の作成になるため禁止」されているそうです。これも英訳すればアメリカ軍に受けるのでしょうけれど文章にはできないので口頭の同時通訳でなければなりません。何よりも個人住宅の玄関で上げている祝詞を第三者が聞きながら同時通訳することは無理でしょう。惜しいなァ。
- 2015/03/14(土) 09:08:01|
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「御苦労様です。どうですか?」オレンジ色のつなぎを着た2尉のパイロットが戦闘機の下にもぐり込んで整備作業をしている私たちに心配そうに声をかけてきた。戦闘機パイロットにしては珍しく優しそうな目と柔らかい口調が印象的な人だ。胸には「MOTOE」と云う名札が縫い付けてある。
「接触不良ですかねェ、中々再現しませんね」格納庫のコンクリートの床に腰を下ろして電機系統の配線図をみながら私に故障探求の指示をしている本間2曹が答えた。
傑作戦闘機・Fー104Jも導入から20年を過ぎ、かなり老朽化が目立ってきた。我々が担当する電機系統ではコネクター(接続部)内の接触不良による故障が続発していた。
しかし、飛行中に接触不良により装置が作動不良を起こしても地上では正常に電気信号が流れてしまい故障が再現しないことが殆どだった。米軍ではワザとコネクター内部を汚して接触不良を起こさせて誤魔化すようなこともするらしい。
私と本間2曹は今回、本江2尉が午前中の訓練飛行中に発見、指摘した不具合の故障探求に当たり、関係する全装置の機能チェックを終えて、今は関係系統のワイヤー(電線)の導通テストをしていた。通常、故障探求の作業は夜勤シフト者に引き継ぐことはせず、担当者が最後までやるのが原則だったが、もう19時になっていた。
「少し休憩でも」そう言うと本江2尉は飛行服のポケットから栄養ドリンクを2本取り出し、本間2曹が「こりゃどうも」と笑顔で受け取った。
「どうもお願いします」本江2尉は、「自分が不具合を指摘したため整備員に苦労をかけて申し訳ない」、そんな顔をして帰っていった。
「ああ言うパイロットは長生きできんよ」ショップ「職場」の待機室のソファーに座り、本江2尉にもらった栄養ドリンクを飲みながら本間2曹は平然と言った。
「飛行機の故障を見つけるのはパイロットが自分の命を守ることさ。それを遠慮するようじゃあ生きようとする精神力が弱い。これはジンクスだ」「ふーん、なるほどォ」私も別段、「縁起でもない」とも「不謹慎な」とも思わずうなずいて聞いた。
航空自衛官は航空機事故と言う「死」を見慣れているせいか、自分自身を含めて人の死に対して醒めてしまっているところがある。
結局、関係する系統間の電気抵抗を測り、接触不良を証明して作業は終わった。
- 2015/03/14(土) 09:06:49|
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美恵子のアパートは2階の西側だった。美恵子に続いて中に入ると、玄関に入ってすぐに3畳の台所、その左奥はシャワールーム、ドアの右はトイレ、奥に6畳1間の畳の部屋。突きあたりに半畳の押し入れと1間のベランダと言う造りになっている。
台所には小さな冷蔵庫、棚には片手鍋とフライパン、ケトルが1つずつ、流しのカゴには茶碗と汁椀と鉢皿、カップが1つずつ。奥の部屋にはファンシーケースと衣装ケースが3段、食器棚と座卓が家具である。家賃は姉の幸子が払っていると聞いているが、この部屋に2人は厳しい。ネェネが彼氏のところから帰ってこないのは生活環境が理由なのかも知れない。
「ウチは椅子がないさァ。行儀が悪いけどテーブルに座って」美恵子は部屋の隅で何かを探しながら目でも指示した。私は言われるままにテーブルが壊れないようにユックリ腰を下ろした。
「ハサミあったさァ」美恵子は私の前に正座し、薬局の紙袋から中身を取り出した。美恵子は両手でズボンの裾を捲り上げ、靴下を脱がしたが、脱がされる時、少し傷み私は「ウオッ」と声を漏らした。右足は指先まで内出血している。
「痛い?」美恵子が顔を見たので、私は「今日は舐めてくれないの」と冗談を言おうと思ったが美恵子の目がそれを許さなかった。
「本当に馬鹿さァ。格好つけるの似合わないのに」美恵子の目は「本当に心配」に戻っている。美恵子は湿布を脛に1枚貼り、もう1枚を半分に切って足の甲に貼り、その上から絆創膏で固定し、伸縮性の包帯を巻いた。
「でも私は嬉しいさァ。やっと来てくれた・・・」そう言いながら美恵子は靴下を履かせ、裾を下ろしてくれた。手当てを終えて上げた美恵子の顔はいつものアッケカランとした笑顔ではなくシミジミ幸せを噛み締めていると言う顔だった。美恵子の家に行ってから、否、キスを交わしてから美恵子は時々、大人の表情を見せるようになったような気がする。
「色っぽい・・・」私の胸が急に高鳴った。今はこの部屋に2人きりだ。そう言えば私は美恵子の家に行って以来、両親の視線をあまり感じなくなっている。
私は女を知らない訳ではない。ただ、それは某基地、某学校の学生だった頃、年上の女性との「個人授業」だった。「女の子を抱く時はね・・・」懇切丁寧に女の扱い方を教えてくれた教官の声が聞えたような気がした。
「何か飲むねェ」、美恵子は(危険を感じたのか)台所へ立って行った。
「ウーロン茶しかないけど」そう言ってペットボトルを出してきた。
「あッ、カップはネェネのしかないさァ」美恵子は恥ずかしそうに微笑むとペットボトルを抱えて食器棚に移動した。
「今度、少林寺のカップも買うさァ」「茶碗もな」私の答えに美恵子はまた嬉しさと恥ずかしさの入り混じった、はにかんだ顔になる。私はテーブルに座ったまま注いでくれたウーロン茶を一気に飲み、美恵子はまた私の前に正座してゆっくり飲んでいた。
その時、私の頭の中で帰巣本能の消灯ラッパが鳴った。腕時計を見ると「十時」私は慌てて立ち上がり、美恵子はビックリして見上げた。
「門限だ。帰るさァ」美恵子も私について立ち上がった。
- 2015/03/13(金) 09:28:50|
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夕食に国際通りのマクドナルドに入ったが、店の中で私はまだ格闘について熱弁を奮っていた。美恵子は相変わらず熱く語っている私の顔を可笑しそうに見ていた。
「少林寺拳法の技を見せて」店を出ると美恵子は何気なくリクエストしてきた。私は黙ってうなずくと前に立っていた道路標識を脛で思いっ切り蹴った。
「ゴーン!」標識が唸りを上げて震える。
「すごーい」美恵子は感心しながら標識を見上げたが、私は声を出せずにうずくまり、それに気づいて美恵子が駆け寄った。
「どうしたねェ?」ズボンの裾を捲り上げてみると脛のところは真っ黒に内出血し、靴下を下げると、それに合わせて内出血は下に広がっていった。
「ひどいさァ」そう言うと美恵子はうずくまった私を置いて20メートルほど向こうにある薬局に駆け出した。
十分ほどで美恵子は戻って来て手には薬局の紙袋があった。その頃には私の痛みも幾分おさまり立ち上がっていた。
「大丈夫?」美恵子は「本当に心配」と言う目で私を見上げた。
「大丈夫さァ、いつもビール瓶で叩いて鍛えているし」そう答えると今度は「本気で怒った」目をして「馬鹿!」と言った。
「一緒に来るさァ」そう言って美恵子は車道に半歩踏み出してタクシーを停め、今日は美恵子が先に乗り、奥に座った。
- 2015/03/12(木) 09:00:50|
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20世紀の最終年である2000年の明日3月12日にローマ教皇・ヨハネ・パウロ2世が過去にキリスト教会が犯した罪を懺悔するミサをカソリックの総本山・サンピエトロ大聖堂で行いました。
具体的には「歴史上、神の子(=クリスチャン)を苦しめた行為を深く悲しみ、許しを求め、真の兄弟愛を誓う」「十字軍遠征や異端審問などの異端に対する敵意を持ち、暴力を用いたカソリック教会の名誉を傷つけた行為について謹んで許しを求める」「(アフリカやアメリカ大陸などで)人種、民族的な差別に基づいた排他的な行為があり、罪深い振舞いがあった。異人種の権利を迫害し、彼らの伝統的な宗教や文化に対する侮辱的な態度を取った」と言う内容で、翌年には十字軍による虐殺を正式に謝罪しています。
それにしてもこれを懺悔したのがローマ教皇としては第264代目であり、イエスの誕生を紀元とする西暦が2000年も経過してからですから、それまで自己の行いを省みることが一切なかった独善的な自己陶酔には畏れ入るしかありません。
野僧は宗教者として宗教史を研究していますがキリスト教こそが非常に好戦的であり、極めて残虐であることに疑いの余地はないでしょう。
イスラム教徒によって支配されているエルサレムの奪還を目指して侵攻した十字軍は幾多の市街や村落を破壊し、物品を強奪し、何よりも善良な市民に殺戮の限りを尽していますが、それこそが非キリスト教徒には人間としての尊厳を認めないキリスト教の本性なのです(カソリックが非キリスト教徒を人間と認めたのは20世紀に入ってからです)。
それは「フラワー号で新大陸に移民した選ばれしキリスト教徒の末裔」を自称するアメリカが戦時国際法すら無視した戦闘方法を非キリスト教国で繰り広げながら(ナチス・ドイツへの無差別爆撃はドレスデンくらい)未だ恥じないことでも証明されています。
魔女狩りに代表される異端審判では「信仰に背く言動がある」実際は「周囲とは違う」と言うだけで魔女(男性も対象だった)の疑いを掛けられ、「カミの救いがあれば濡れない」と言う滅茶苦茶な論理で水に投げ込まれ、「火傷はしない」と焼いた鉄棒を握らせて、魔女と断定されれば見せしめに火炙りになったのです。しかし、現在でも欧米のキリスト教国は「民主主義」の美名に看板を掛け替えたキリスト教の論理に基づく魔女狩りを世界中で行っており、火炙りの代わりに爆弾を降らせ、ミサイルを撃ち込んでいます。
大航海時代の植民地獲得の口実もカミの救いを世界に実現することでしたが、北米のネイティブ・アメリカンへの弾圧、中南米のインカ、アステカ文明の破壊と虐殺などの実態を見れば教皇が懺悔している通りです。
それにしても祖国・ポーランドがナチスとソ連によって支配され、その苦しみを知っていたヨハネ・パウロ2世はこうして真摯な反省を示し、プロテスタントや正教会の聖堂・教会だけでなくで佛教の寺院、イスラム教のモスクでも祈りを捧げ、異教徒との対話を推進しましたが、その後のベネデエクト16世はドイツ出身で「元ナチス党員=20世紀の魔女?」として不人気でしたが、「地動説」を唱えたガリレオ・ガリレイを裁いた「異端審問は正当だった」と述べて非難を浴びています。さらにアルゼンチン出身である現在のフランシス教皇も他宗教の倫理を批判する発言を繰り返しており、出身地の先住民を弾圧・支配した加害者側であったことを反省する姿勢は全く感じられません。
- 2015/03/11(水) 09:47:50|
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5分前に着いたが今日は美恵子が先に待っていた。
「映画へ行こう」と言う私の提案に美恵子は例のごとく顔中で笑った。いつもは夕方に会うため気づかなかったが仕事帰りにも美恵子は唇に薄い色のリップを塗っているようだ。
「何を見るさァ」「スパルタンX」私は当直室に置いてあるスポーツ新聞で上映時間を確認してきた映画を提案した。
「ジャッキー・チェンの映画ねェ。やっぱり少林寺さ」美恵子はそう言ったが私はこの映画でジャッキー・チェンの敵役で出演しているベニー・ユキーデのアクションが見たかったのだ。ベニー・ユキーデはマーシャルアーツの元全米チャンピオンである。
「面白かったさァ」映画館を出て歩いて国際通りに戻りながら、美恵子はハシャイでいた。
「少林寺、格闘シーンで一緒になって鼻息で気合を入れてたさァ」確かに興奮していたことは認めざるを得まい。私は恥しくなって黙って歩いた。
「ジャッキーと悪役は本当はどっちが強いの?」「そりゃあ、ユキーデさァ」そう答えて私は早足で5歩ほど前に出ると振り返って止まった。そして、「ジャッキーの蹴りは、こう大振りさァ。ユキーデのはこうコンパクトで早いさァ」と両者の蹴りの違いを実演入りで説明した。
「それからユキーデは蹴る時、軸足の膝を曲げて安定させているのさァ」美恵子は説明よりも私の熱演が面白いようで笑って聞いていた。
気がつくとほかの人たちが笑いながら私たちの横を通り過ぎていく。これでは私はまるで危ない人だ。私はまた黙って歩きだした。
「少林寺は、本当に一生懸命さ」歩きながら美恵子は誉めてくれた。

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- 2015/03/11(水) 09:46:38|
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前回、予告した音子の信じがたいスーパー技ですが、スピードが早過ぎてシャッター速度が遅いデジタルカメラでは瞬間を捉えることはできませんでした。
小庵では春の訪れと共に姿を現す可愛い爬虫類に「ヤモリノくん」と名前をつけてペットにしていますが、音子には獲物に見えるらしくガラス戸の向こうで明かりに集まる虫を捕食しているヤモリノ1号や2号(大きさの順に番号付与)に向かって枠を駆け登ります。勿論、ガラス越しではどうしようもありませんが。
ところが方丈(自室)の天井にも小さいヤモリノ3号がいて、それに気づいて以来、下から見上げて雄叫びをあげていました。そしてヤモリノ3号が方丈の隅に来た時にそれは実行されたのです。
いきなりガラス戸を駆け上がると最上段からジャンプしてバレーボールのアタックのように身体を捻りながらヤモリノ3号を叩き落とし、くわえて走り去りました。
野僧としてはヤモリノくんも可愛いペットなので見殺しにできず、納戸の中央で玩具にしている音子から取り上げて土間に放しましたが、猫パンチを喰らったらしく全く動きませんでした。それでも翌朝には姿を消していたので一安心です。
それから音子は恨んだような眼で野僧を見ながら口惜しそうに鳴き続け、ガラス戸の向こうの1号、2号に向かって猫パンチを繰り返していました。
問題なのは害虫駆除係のヤモリノくんがいなくなったことで蚊が好きなように飛び回るようになり、蚊取り線香で喉をやられた音子は鳴き声が変になりました。
その後、夜中に野僧の寝台の横のガラス戸をよじ登り、最上段から腹と胸に数回、最後は顔の上に落ちてくるようになりました。まさにニードロップ状態です(暗闇で黒猫が降ってきても避けようがない)。

ヤモリノ2号発見

ヤモリノ3号

攻撃開始
- 2015/03/10(火) 08:49:34|
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