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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ75

「だったら、短めに刈るね」「うん」美恵子は振り返ってバリカンを用意し始めた。久しぶりに美恵子に頭を刈ってもらうが流石に慣れていて表情にも余裕がある。やがて髭を剃り始めた美恵子に私は小声で声をかけた。
「唇切ってよ、また舐めて欲しいから」「コラッ」美恵子は照れたように笑い店長の様子を見てからソッと舐めてくれた。
美恵子は私が最後の客だったようで、そのまま店の片づけを始め、私は待合席で雑誌を読みながら待っていた。
「帰ります」「御苦労様ァ」美恵子がエプロンを外しながら奥の部屋に声をかけると、店長が返事をした。部屋からはテレビと家族の話し声が聞こえてきた。
「待ったさァ」美恵子がドアの前に立っている私のところへ来て2人揃って店を出た。
「やっぱり自転車ねェ」もう薄暗い店の外で、しゃがんで自転車の鍵を外し始めた私に美恵子は呆れと懐かしさが入り混じったような声をかけて来た。
「今度、ドライブしよう」「何時?」私の台詞に美恵子は一瞬、間をおいて答えた。これは初めて美恵子のバイト先に行った時、美恵子が言うファーストキスの日の再現だった。私たちは顔を見合せて笑った。
「さァ、買い物していかなきゃあ」「うん」私が自転車を押して歩き出すと後ろをついて来ながら美恵子は言った。
糸満市内の道は狭いので2人乗りはできず、自転車があっては手をつなぐこともできないことに気がついた。
て・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/04/30(木) 09:24:47|
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4月30日・宇垣一成陸軍大臣の命日

昭和31(1956)年の明日4月30日に戦前は「よくぞ」と広く国民からの支持を集めながら戦争中は一転、「アイツのせいで」と蛇蝎の如く嫌われ、戦後は公職追放が解除された昭和28年の参議院選挙ではトップ当選を果たした宇垣一成陸軍大臣が亡くなりました。87歳でした。
宇垣陸相と言えば「軍縮」ですが、これは平成に行われた防衛力の弱体化を目指した予算削減とは違い、第1次世界大戦後に軍縮が世界的気運となっている中、大正10(1921)年にワシントンで開かれた海軍軍縮会議と歩調を合わせ、明治以降、拡大の一途を辿っていた陸軍を国力に合った規模に縮小すると同時に近代化を推進しようとしたものです。
当初は山梨半造陸相が断行したのですが、折から関東大震災が発生したことで復興に動員した部隊は廃止できず、予算も増額される結果になったため、大正14(1925)年に後任として就任した宇垣陸相が再度の軍縮を図ることになったのです。
ただし、「軍縮」と言う単語は適当ではなく、あくまでも時代遅れな兵種や装備を整理して予算の無駄を省き、第1次世界大戦で登場した戦車や航空機などの調達に充てる近代化が主眼でした。
実際、4個師団、連隊区(自衛隊の司令部援護・広報班や地方協力本部に似た組織)16カ所、陸軍病院5カ所、陸軍幼年学校2校を廃止する引き換えに1個戦車連隊、1個高射砲連隊、2個飛行連隊、1個山砲連隊(山砲は野砲に比べ軽量で機動性に優れる)、自動車学校1校、通信学校1校、飛行学校1校を新設しています。このため騎兵の多くは戦車兵や飛行機乗りになりました。一方、師団を廃止して連隊を設立したことで将官の配置が減り、多くが予備役・退役に追い込まれました(野僧の曽祖父=少将・旅団長もその1人です)。
陸軍内での宇垣大将の評判は最悪で、何度も総理大臣への就任が実現しそうになりながら陸軍の妨害で頓挫したため首相を太陽に例えてその周りを回る「惑星」と仇名されたのです。
戦争中は大陸だけでなく東南アジア、南洋諸島、アリョーシャン列島にまで戦線が拡大して慢性的な戦力不足に陥ったため、「宇垣が軍縮をやったからだ」と非難を浴びせられ、昭和19年には失意のまま表舞台から身を引いて拓殖大学の学長になっています。
しかし、大正7(1918)年に第1次世界大戦が終結して以降の日本は大正10(1921)年の大凶作、大正12(1923)年の関東大震災、昭和4(1929)年の世界恐慌勃発、昭和6(1931)年の大凶作などの大打撃が続き、経済は危機的状態にありましたから、海軍の88艦隊構想と同様に陸軍の軍備拡張などは実行不可能だったのは明らかであり、むしろ戦力に見合った戦略を立てなかった軍首脳の方が非を問われるべきなのです。
敗戦後、宇垣陸相は「ファシズムに抵抗した平和主義者」と占領軍に称賛されていますが、実際は国家改造を企図したクーデター計画・3月事件の首謀者でもありますから、必ずしも当たっていないでしょう。
それにしても「近代化を目指した」と言いながら、昭和14(1934)年のノモンハン紛争ではソ連軍の戦車部隊や戦術に完膚なきまで叩きのめされていますから、基礎となる科学技術がなければ無理は話だったようです。
宇垣陸相は岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市東区瀬戸町)の農家の末っ子で、連合艦隊参謀長だった宇垣纏中将(22歳年下)も同郷ですが姓は同じでも親戚ではないそうです。
  1. 2015/04/29(水) 08:55:36|
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振り向けばイエスタディ74

私は2週間の総合演習が終った土曜日の夕方、自転車に乗り、糸満市の美恵子が勤める理容店に行った。その店は糸満ロータリーよりも1本奥の通りにあった。
「あのォ、予約してあるモリヤですけど」店の入り口で声をかけると待合席でテレビを見ていた店長らしい中年の男性が「どうぞ」と答えた。美恵子は3つ並んだ真ん中の椅子で初老の客の頭を刈っている。
「少林寺、早いさァ」美恵子は仕事の手を止めて私の顔を嬉しそうに見て言った。美恵子に予約を頼んでいたが、それよりも15分ほど早かった。
「なんだ、ニィニは美恵ちゃんの旦那さんねェ?」店長が私の顔を見ながら言うと頭を刈られている小父さんが驚いた顔をした。
「美恵ちゃんは嫁さんねェ?」美恵子は照れ笑いをしながら首を振った。
「まだ、結婚はしてないさァ」店長がニヤニヤしながら訂正すると「だって、ウチの娘よりも若いさァ」と小父さんが言って、「うん」と美恵子もうなづいた。
「もうすぐ終わるさ、座って待たんねェ」店長は席を勧め、またテレビを見始めた。
「髪結いの亭主は最高さァ、旦那は遊んで暮らせる」小父さんがそう言うと美恵子は「彼は働き者さァ」と鏡を見ながら自慢げに反論した。
「彼はナイチャアみたいさァ」小父さんがそう言うと店長が口をはさんだ。
「与座岳の隊員さんさァ」「何だ自衛隊ねェ」私は「那覇ですけど」と訂正したかったが余計なことは止めておいた。
「2人でガッポリ稼いだら金持ちさ」小父さんは皮肉っぽく笑いながら鏡に映った美恵子の顔を見た。沖縄では国家公務員である自衛官は高給取りの部類に入るのだ。
「少林寺、もう髪は伸ばさんねェ」小父さんが終り、私の番が来て奥の椅子に座ると後ろに立った美恵子が訊いてきた。
「俺、坊さんになったのさァ、知らんかったんねェ」「嘘ーッ」鏡の中で美恵子は目を丸くする。ただ、沖縄には坊さんはほとんどいないので美恵子は多分、プロの坊さんに会ったことはないだろう。
「祖父さんの弟子になったのさァ」「何時?」「夏の休暇の時だよ」私は美恵子と別れていた夏の休暇に帰省して祖父の寺で得度して坊主になったのだ。
「だったら剃らんでいいねェ?」美恵子もそれくらいは知っていた。
「祖父さん、師僧が『短くしていればいい』って許してくれてるのさァ」「ふーん」鏡の中で美恵子は少し残念そうな顔になった。
「今度はビルマの竪琴の中井貴一だよ」私の台詞に美恵子は一緒にビデオで見た映画を思い出したのか、懐かしそうに微笑んだ。
  1. 2015/04/29(水) 08:54:24|
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4月29日・潜水艦伊ー168の田辺彌八艦長の命日

平成2(1990)年の明日4月29日にミッドウェイ海戦後、大損害を受けながら沈まずにいた空母・ヨークタウンにとどめを刺した潜水艦伊ー168の田辺彌八艦長が亡くなりました。84歳でした。
ヨークタウンは山口多聞司令官の第2航空戦隊・飛龍の艦載機による猛攻を受けて2本の航空魚雷と数発の爆弾が命中しますが沈まずに浮いており、応急修理により真珠湾へ向けて自力航行を始める準備中だったのです。
ヨークタウンはミッドウェイ開戦前の珊瑚海海戦でもエレーベーターに命中弾を受けて大損害を受けていますが、突貫工事で使用可能状態に漕ぎつけ、洋上で修理、訓練を続けながらミッドウェイ作戦に参加したのです。これもアメリカの空母は攻撃力一辺倒の日本の空母と違い、飛行甲板の下に鉄板を敷くなど防御も重視していたため大損害も致命傷にはならなかったからです。ただし、珊瑚海海戦で同型艦のレキシントンは沈没しています。
田辺艦長は日露戦争のポーツマス講和会議が始まって3日後の明治38年8月13日に香川県三豊郡豊中町で生まれ、海軍兵学校に56期生として入校します。昭和13年からは潜水艦畑を歩み、呂ー59から伊ー168に転任して5ヶ月後の作戦参加でした。
この時の活躍は戦史アニメンタリー「決断」で取り上げられているため田辺艦長は知る人ぞ知る英雄なのですが、その大胆な戦闘指揮、卓越した操艦手法は戦後になって事情聴取したアメリカ海軍の調査官も驚嘆したと言います。
伊―168はミッドウェイ海戦に当たり、哨戒の任務を帯びて5月29日に呉基地を出撃し、6月2日には作戦予定海域に到着して5日の海戦を待ちました。
海戦本番では味方艦載機によるミッドウェイ島空襲の模様を確認していたものの無線でアメリカ軍の攻撃で味方の空母が大損害を受けたことを傍受、続いて「10サンチ砲でミッドウェイ島の海岸陣地を砲撃せよ」との命令を受けて実施しましたが、アメリカの哨戒艇に追い回されただけでした。そしてヨークタウンを撃沈する命令を受けたのですが、敵状と距離を確認するためヨークタウンの下を潜り抜け、万全な位置から4本の魚雷を発射し、1本をヨークタウン、1本を接舷していた駆逐艦・ハムマンに命中させ、どちらも撃沈したのです。その後のアメリカの駆逐艦の執拗な報復攻撃も潜り抜け、6月19日に無事に帰還しました。この作戦中、日本海軍は目標を「エンタープライズ型空母」と呼んでいましたが、それは珊瑚海海戦でヨークタウンとレキシントンを撃沈したと思い込んでおり、「何故、同型艦が2隻いるのか」が理解不能だったからです。
田辺艦長はその年の8月4日に最新鋭の伊ー174の艦長になったもののミッドウェイ以降の劣勢の中では華々しい活躍の場はなく、ニューギニア島ラエで補給物資を揚陸中、アメリカ軍機の空襲を受け、爆弾と米を詰めたドラム缶の破片で重傷を負い、横須賀海軍病院に入院・加療後は潜水学校の教官になり、軍令部・特兵=特攻兵器部員として終戦を迎えました。
敗戦後は埼玉県大宮市に住みながらJR山手線の田端駅で下車して線路の上の長い陸橋を渡ってすぐの特殊金属加工の工場(従業員は30人くらい)を経営しておられました。
田辺彌八イー168艦長潜望鏡を覗く田辺艦長(本人)
  1. 2015/04/28(火) 08:54:53|
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振り向けばイエスタディ73

この頃の第83航空隊司令・生越龍生空将補は若い隊員から絶大な人気があった。先ず外見は男が見ても痺れるような男前であり、着任した時の第83航空隊は第207飛行隊と整備群だけだったため1佐だったが、間もなく那覇基地隊が統合され、司令は空将補に昇任して基地司令を兼務することになっても戦闘機を操縦して空を駆け巡ることを止めず、毎日のように飛行隊長や防衛部長などを相手に激しい空中戦訓練を楽しんでいた。
戦闘機から下りて「どうだァ、恐れ入ったか」「うーん、やられたァ」などと相手に声を掛けながら足取りも軽く飛行隊の隊舎に歩いていく姿を若い整備員たちは「凄ェなァ」と感心しながら見送ったものだ(若いパイロットでもグッタリすることが多いのに)。
やがて南西航空警戒管制隊の隊員から司令のタックネーム(=コールサイン)が名前に因んだ「ドラゴン」であることを聞いた隊員が「おこドラ=生越ドラゴン」と仇名し、さらに自宅は岐阜県で中日ドラゴンズのファンであることも広まってこれは完全に定着した。
そんな生越ドラゴンは何故か航空自衛隊車両操縦免許(いわゆる青免)を取得して自分で基地司令用の黒塗りのクラウンを運転するようになり、VIPが乗車していることを示すヘッドライトを点けて基地内を走らせ、隊員が敬礼しても後席が空なので呆気に取られているのを運転席で手を振って喜んでいた。兎に角、魅力満載なのだ。
演習の前夜、友人と外出して基地の傍の飲み屋に入るとキープ・ボトルの棚の正面に「生越さん」と書いた札が下がった泡盛「久米仙」のグリーンボトルがあった。そこで私が「おッ、生越さんのボトルがあるなァ」と言うとママさんが「お客さん、生越さんの知り合いねェ」と訊いたので「一緒の職場さァ」と答えた。どうやら生越ドラゴンは自分が基地司令であることを言ってないらしい。
「それじゃあ、御馳走になるかァ」「えーッ、大丈夫ねェ?」「明日、会ったら断っておくさァ」と言って勝手に飲み始めたが気がつくと空になっていた。そこでお詫びに同じボトルをキープしようと思ったが在庫がなく、代わりに少し高い「瑞泉」を入れて帰った。
そして始まった総合演習最終日の基地警備訓練で合言葉は何故か「久米仙」「瑞泉」だった。
私は相棒と2人でアラートハンガー(スクランブル機の格納庫)のタクシーウェイ側で警戒に当たっているとライトを消した黒塗りのクラウンがゆっくりと近づいてくる。相棒は敬礼をしようとしたが私は前に立ちはだかって停車させた。
ドライバーが窓を開けたので銃を突きつけ、「誰か」と誰何すると「司令ドラーバー」と応える。続いて「久米仙」と声を掛けると後席から生越ドラゴンが「瑞泉」と答えた。
そこで姿勢を正して「服務中異常なし」と報告したついでに「久米仙、御馳走さまでした」とお礼を言うと「おう、美味かったか?瑞泉ありがとう」と笑っていた。
演習の講評では「ライトを消して走って来る怪しい車を停止させて誰何したのはアラートの1名だけだった」と誉めてくれたが個人名はなかった(知っているはずはないが)。
生越龍生司令
  1. 2015/04/28(火) 08:52:39|
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4月28日・プロレスの鉄人・ルー・テーズの命日

2002年の明日4月28日にアメリカのプロレス界では「20世紀最強」と称えられているルー・テーズが亡くなりました。86歳でした。
ルー・テーズは日本のプロレスが敗戦コンプレックスの捌け口として大柄な悪役外国人レスラーを小柄な日本人レスラーが倒す勧善懲悪茶番劇から脱皮しつつあった時期に本格的なレスリングを見せる実力派として登場しました。
余談ながら英語には「プロレス=プロレスリング」と言う単語はなく単に「レスリング」で、アマチュアの方は「フリー」「グレコ=グレコローマン」と競技種目で呼んでいます。
ルー・テーズは梶原一騎原作の「プロレススーパースター列伝(少年サンデー)」や平松伸二先生の「リッキー台風(少年ジャンプ)」などの劇画・漫画で神格化され、ザ・ファンクス(=ファンク兄弟)やミル・マスカラス(リッキー大和も)を育てたことになっていますが、レスラーは伝説と事実がハッキリしません。
ルー・テーズはハンガリー人の父とドイツ人の母の間に生まれ、幼い頃から(アマチュア)レスリングの経験があった父に鍛えられながら一緒に(プロ)レスリング観戦に通い、16歳でプロ・デビューしました。その後はやはり伝説の世界ですが、レスラーとしての実力と共に人脈を構築していったのは間違いないでしょう。
こうしてヨーロッパで第2次世界大戦が始まる半年前の1939年2月23日にNWA(全米レスリング同盟)のヘビー級世界チャンピオンになりました。それにしても「ナショナル=全米」のレスリング団体が世界チャンピオンを認定するのも不思議な話です。
そのチャンピオンベルトは半年経たないで奪われた上、生涯の故障になる左膝の怪我をして約1年間の療養生活を余儀なくされてしまいました。
そして第2次世界大戦も大詰めになってきた1943年に27歳で陸軍に入営し、体育の教官をしながらレスリングの興行も行っていたようです。と言うのもレスリングの収益の一部は軍に寄付されていましたから人気レスラーのルー・テーズを参加させることは軍の利益だったのです。同様に入営していた俳優のクラーク・ゲーブルも広報映画の役者にしていますが、日本軍では兵隊=帝国軍人を興行に参加させて利益を上げることなどは考えつかないでしょう。
戦後、本格的にレスリング界へ復帰すると大活躍を繰り広げ、NWA世界チャンピオンを何度も獲得しています(ボクシングとは違い継続には執着しないようです)。
1957年10月になって初来日しますが、この時、年齢は41歳に達していました。
ルー・テーズの得意技と言えばバックドロップですがヘッド・ロックで相手を攻め、逃れようとするのを背後に回り、一気に投げるのが静と動のコントラストが鮮やかな見せ場になっていたようです。
レスラーの知人によればプロレスでは相手が掛けてきた大技を受けるのが原則で、そのため簡単には壊れない強靭な肉体を作るのですが、派手な投げ技は命にかかわるので本当に怖いそうです。そんなレスラー生活を76歳で引退するまで58年間も続けたのですから(軍に入っていた2年間を除く)、やはり鉄人でしょう。「鉄人」は日本だけの敬称ですが。
  1. 2015/04/27(月) 09:53:49|
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振り向けばイエスタディ72

「あんなことも何も本当にそれでいいんですか?」私の返事を聞いて母親は一瞬、美恵子の顔を見た。
「モリヤさんだからお願いしているんです」母親は手をついたまま深く頭を下げた。
「お話は判りました。美恵子はそれでいいのか?」隣りでまだ不安そうな顔をしている美恵子に訊くと、その問いかけにうなずいた。その眼差しは私の心の迷いを見逃さないように真剣だったが私に動揺はない。
「妊娠した」と嘘をついて私の気持ちを試そうとしたのも美恵子の私への思いの強さと若さ故であり、そこまで追い込んだのは私の臆病さのためだと後悔していた。そして何より私はまだ美恵子を愛している。
「私、やっぱり少林寺が好きさァ」美恵子は私の目を見たまま答えた。
「ならば俺も大喜びさァ」私は微笑みながらうなずいた。美恵子と一緒だとやはり言葉はシマグチ(沖縄方言)に戻ってしまう。
「本当?」美恵子はあの頃と同じように大きな目で私の顔を覗き込んだ。
「俺も美恵子が大好き、いや、愛してるよ」私の告白に母親は呆気にとられた顔をしたが美恵子はパッと嬉しそうに笑った。
「だけどやり直しはしないよ。続きさァ」私の言葉に母親と美恵子は一緒にうなずいた。
「この子も今月で20歳になりました。今度は大人同士として付き合ってやって下さい」「はい、ありがとうございました」母がまた手をついたので私も両手をついて礼を言った。母親は私の返事にやっと表情を緩め、美恵子も涙を浮かべて私と母親の姿を見ていた。
「だけど、結婚前の赤ちゃんは駄目だよ」ここで母親は少し悪戯っぽい顔で言った。
「はい、気をつけます」この台詞に私は頭をかき、美恵子は真っ赤になる。しかし、明日の月曜日からはそのまま総合演習が始まり、どちらにしろお預けだった。
つ・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/04/27(月) 09:51:05|
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振り向けばイエスタディ71

総合演習が迫ったある土曜日、突然、美恵子の父親の玉城松栄さんの面会を受けた。
「娘を許してやってくれませんか?」父親の唐突な申し出に私は戸惑った。警衛所の面会室は夕暮れの光りが窓から射してはいるものの薄暗い。
父親の顔は心配そうで美恵子によく似た大きな黒目がちの目で真っ直ぐこちらを見て、額にはうっすらと汗がにじんでいた。
「許すも何もどうしたんですか?」私は父親の顔を見ながら問うた。その質問に父は安心したように溜息をついたが、そこにはまだ不安の色がある。
父親は美恵子が最近、糸満市内の理容店に勤め、またアパートを借りて1人住まいを始めると告げた。私は父の表情からはこの申し出の真意を測りかねていた。

次の日曜日の午前、私は父親に教えられたアパートへ行った。美恵子のアパートは那覇から糸満へ続く国道沿いで広くはない糸満市街の外れにあった。1階が家具屋の3階建て、美恵子の部屋は3階だ。私は乗って来た自転車を止め、階段を上って部屋の前に立ってチャイムを押した。
「こんにちは」と声をかけると、すぐに美恵子がドアを開けて中に入れてくれた。半年ぶりに会う美恵子の髪は中途半端なストレート、変わらぬ大きな目で私を見たが、あの頃のような天真爛漫な笑顔はない。
6畳1間の部屋の造りも置いてある家具も那覇のアパートとほぼ同じだったが、部屋には美恵子の母親が初対面の時よりも緊張した面持ちで正座している。美恵子も母親の隣りに正座した。
「お久しぶりです」私は母親の前に正座して両手をついた。
「ご無沙汰しています。お元気でしたか?」母親も両手をついて頭を下げた。短い時候の挨拶、雑談の後、母親が切り出した。
「モリヤさんとお別れしてからこの子は抜け殻みたいでした」「縁側に座っては海を見ながらモリノさんに習った歌を口ずさんでばかりいました」私は苦笑しながら美恵子の顔を見たが硬い表情のまま母親を見ている。
「それに戦闘機のエンジンの音が聞こえるたびに、『あッ、マルヨン(Fー104J)だ』って嬉しそうに笑うんです」ここで母は目を潤ませた。
「あんなことをしておいて、こちらからお願いできる話ではないんですけど・・・」母は言葉を区切り1つ息を飲んだ。
「もう一度、美恵子とやり直してやってくれませんか」母はまた手をついた。
  1. 2015/04/26(日) 08:02:16|
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振り向けばイエスタディ70

次の土曜日は小父さんが自分で借りてきた天地真理の「魔性の香り」だった。
「俺は中学生の時のとなりの真理ちゃん以来のファンなんだよ。あの頃はテニスウェアの胸の膨らみで十分だったがなァ」「真理パイだな。俺もお世話になったよ」小父さんは熱弁を奮うが若い者は昭和48年放送のその番組自体を知らないだろう。
「それにしても俺たちの憧れの女優たちがバンバン脱いでるよなァ」「うん、嬉しいやら、ガッカリするやら」「どうせならお互い若い頃に見たかったもんだ」「確かに」この言葉の意味は女優が若く美しい頃とそれを見て興奮できる元気があった頃の両方だろう。
「何と言っても高田美和」「大魔神のお姫さまは綺麗だったな」「それから五月みどり」「お暇なら来てよね、私、さびしいの・・・」「それに大谷直子」「うん、NHKの連ドラ出身(=昭和44年放送の「信子とおばあちゃん」)なのに意外だった」いつもは前置きなしでの上映開始を命じる小父さんたちが今夜は勝手に盛り上がっている。
「そろそろ始めますよ」そこで主催者の先輩が声を掛け、映画が始まった。しかし、34歳になっている天地真理のヌードは完全に体形が崩れていて、艶技力なしのベッドシーンも全く興奮せず、私にとっては似た顔のウチナー屋のママさんの濡れ場のようで完全に白けた。おまけに共演の鰐淵晴子や風祭ゆきも小母さんで若い参加者たちは缶ビールを開けて飲み始めていた。

次の週は先輩が借りてきた小森みち子の「あんねの子守唄」だった。それからは小父さんとたちと我々の世代が借りてきて2本立て上映することが慣例になってしまったが、小父さんたちは黛ジュンと新藤恵美の「女帝」や中村晃子の「待ち濡れた女」、大谷直子の「ダブルベッド」、池波志乃の「白く濡れた夏」、児島美ゆきの「不倫」などの小母さん女優路線で、特に児島美ゆきは「ハレンチ学園」の「十兵衛」が強烈な印象に残っているらしく、始まる前から少年のように目を輝かせワクワクしていた。
一方、我々の世代は山本奈津子、小田かおる、水島裕子、美保純、赤坂麗、朝吹ケイト、浅見美那、太田あや子、鹿沼えり、城源寺くるみ、高倉美貴などの若手ポルノ女優路線だったが、これが小父さんたちには意外だったようだ。
「今のポルノ女優って綺麗だよな」「うん、俺たちの頃とはエライ違いだ」終了後の座談会でも先ず単身赴任の小父さんたちが口火を切るのがパターンだ。こうなると若い連中は話が合わないので映画評論家の私が加わった。
「でも泉じゅんや片桐夕子は美人でしょう」「確かにどちらも顔だけじゃなくて乳もよかったなァ」実は私の高校では泉じゅんのファンが多く、映画館は年齢制限だけなので18歳なら高校生でもポルノ映画を見に入れないか真剣に議論していたのだ。
「俺は東てる美が可愛いくてよかったな」「それなら正統派美人の田中真理だろう」「美人なら宮下順子の方が上だぞ」こんな調子で真剣な議論が繰り広げられ、私の妙な知識は増え続けていった。
  1. 2015/04/25(土) 08:59:32|
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振り向けばイエスタディ69

この頃、安価になってきたビデオデッキが独身者にも普及し始めて内務班の先輩たちが続々と購入した。ただし、この時代のビデオはナショナルを中心とするVHSとソニーのベータマクスの2種類があり、ナショナルが圧倒的なシェアを誇る本土ではVHSが主力だが、本土で売れない商品を持ち込むゴミ捨て場になっている沖縄ではベータマクスが優勢だった。したがって職場ではベータマクスを購入した隊員を「永住希望者」、VHSは「転属希望者」と呼んでいた。
そんな内務班ではビデオデッキが買えない単身赴任者や若い隊員のために先輩がレンタルビデオ店で借りてきた日活ロマンポルノの上映会を開くようなった。
土曜日の夜には広くない内務班の部屋に外出していない暇な者が自分の椅子と酒やツマミを持って集まってくる(本来は内務班での飲酒は禁止)。
「本日も多数の皆様にお集まりいただきまして・・・」「うるせーッ、とっとと始めろ」「つまらん映画だったら許さんぞ」「この間、言ったヤツを借りて来たんだろうなァ」昼間から恥ずかしいビデオを借りてきた功労者である先輩に観客から罵声が飛び、その迫力に圧倒された先輩は黙ってビデオをデッキに入れ、再生を開始した。
この頃の日活ロマンポルノは有名女優を出演させる路線を始めていて、単身赴任の小父さんたちはそちらを期待していたが、若い独身者たちは落ち目になった中年の女優よりも、最近の可愛いポルノ女優が希望だった。
「大奥十八景」この日の作品は徳川4代将軍・家綱の時代の大奥を舞台に跡継ぎ=次期将軍作りにしのぎを削る女たちの争いを描いた話題の歴史大作だ。主演は辻沢杏子と野村真美の2人だが、他にも山本奈津子、伊藤祐未、渡辺良子、森田水絵、八神康子、美波千秋などの人気若手ポルノ女優総主演で、後半は急死した家綱の忘れ形見を身篭った女を探す仕事を請け負った勝野洋が確認のため全ての女性を抱くと言うストーリーだった。
この先輩は「飛んだライバル」のリンゴちゃん以来の辻沢杏子のファンなのでそれが目的だったのだろう。しかし、聴衆たちは次々に繰り広げられる性描写には拍手と歓声を上げていたが辻沢杏子の控えめな濡れ場ではビールを飲んでいた。
映画の後は聴衆が持ち込んだ酒とツマミで座談会になる。先輩が壁に張っている雑誌「GORO」の付録のポスターを見ながら小父さんたちは辻沢杏子の濡れ場の評価から始めた。
「辻沢杏子は色気がないな」「うん、喘ぎ顔なんて全然感じてないよ」「そこが清純派なんじゃあないですか」酷評された先輩はむきになって反論したが無視された。
「どっちかと言うと風呂で姦った・・・」「ソープ嬢ですか?」「馬鹿、映画の話だ」「野村真美ですね」映画好きでロードショー、キネマ旬報などを熟読していた私も加わる。
「うん、好い乳しとる」「でも・・・」そこに1等空士が口を挟んだので全員が注目した。
「うぶな娘の割に乳首が黒くないですか?」「確かに」「お前、鋭いなァ」「去年まで高校生だった癖に」小父さんたちは若造の観察力を誉めたが私は無粋な反論をしてしまった。
「でも痛がっていないから処女じゃないでしょう」「・・・」何故か一気に白けた。
野村真美問題のシーン(の直前)
  1. 2015/04/24(金) 10:27:10|
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俳優・西本裕行さんの逝去を悼む。

4月19日夜に俳優の西本裕行さんが亡くなったそうです。88歳でした。
西本さんと言えば声優として出演した「ムーミン」のスナフキンでしょう。特にギターを弾きながら唄う「おさびし山の歌(=スナフキンのテーマ)」が印象に残っていますから、その歌で追悼します。

  おさびし山の歌(詞・井上ひさし 曲・宇野誠一郎)
雨に濡れ立つ おさびし山よ われに語れ 君の涙のその訳を
雪に降り立つ おさびし山よ われに語れ 君の強さのその訳を
夕日に浮かぶ おさびし山よ われに語れ君の笑顔のその訳を

中学生の時にムーミンの原作を読んだのですが、スナフキンはミーとミムラ姉妹の異父弟でミーの方が姉です。原作では子供の癖にヘビースモーカーなので、未成年者に喫煙やホームレス生活をさせるのはまずいから大人にしたのかも知れません。
  1. 2015/04/23(木) 09:03:03|
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振り向けばイエスタディ68

美恵子と別れた私にはデートの予定もなく、土曜日の午後に宿泊先のホテルを訪ねた。
「おう、よく来たな・・・こちらは元生徒会長のモリヤ先輩だ」フロントからの電話でロビーに出てきた先生はそう言うと後ろに並んだ女生徒に私を紹介した。
「押忍」私は空手式に挨拶したが、生徒たちは恥ずかしそうに顔を見合わせた後、「こんにちは」とお辞儀をした。
その日は大会前日と言うこともあり、夕食までにホテルへ戻れるよう国際通り周辺の沖縄空手・上地流の道場に案内した。生徒たちは上地流の貫き手(指を伸ばした状態)での突きや逆に足の指を握り拳にしての蹴り、さらに笹の束をサンドバッグの代わりに突き蹴りし、大きな土製の壺の口を鷲掴みにして中腰で歩く鍛練法を驚いたように見入っていた。
続いて案内した沖縄空手用具の店では「釵(サイ=十手を大きくしたような道具)や「鎌(練習用の木製もある)」、「トウィファー(元は石臼の突き棒)」「ヌンチャク」「三節混」などの道具を手に取っては店長を質問責めにしていた。流石は我が後輩である。
店長から「琉球王家が庶民の武器を取り上げて農具に加工したため、盗賊に襲われても抵抗する手段がなく日用品を武器にした」と説明され、先生は「だから護身術に空手をやるんだ」と妙な教育を付け加えていた。この呼吸が教師なのだろう。

大会当日、当直室の冷蔵庫からアイスノンを出して凍らせたスポーツ・ドリンクと紙コップを持って応援に行った。この時、関係者用の入場券なので大浦2曹からもらった「芦原会館」のTシャツを着ていったのだが大失敗だった。
極真系と一般の空手は少林寺拳法と空手以上に対立していて、背中の「ASHIHARA―KARATE」と言うローマ字を読んだ人が舌打ちする音を聞き続ける羽目になった。
大会はいわゆるリングサイドに入ることができたが、そこで空手の世界選手権の型の部で優勝した沖縄劉衛流・佐久本嗣男先生の「アーナン」を間近で見られたのは感動だった。勿論、後で基地の空手部の連中に自慢した。
後輩たちは善戦したが蹴りのタイミングが微妙にずれ、その焦りから失敗を繰り返した娘がいて、終わって泣いているのを慰める役をもらい内心、嬉しかった。
その時、選手や関係者で混み合って冷房が効かないほどの熱気だったロビーの一角に人だかりができているのに気がついた。「何事か?」と思って近づくと野次馬が私のTシャツを見て遠ざかったので通路ができ、奥には小柄な女子選手が立っている。
道着の胸には「都立・目黒」、肩には「東京」とあり、それは月刊空手道などで注目されている型の時安利栄選手だった。私は雑誌の写真よりも遙かに可愛い時安選手に見惚れてしまい、その熱い視線に気がついたのか時安選手もこちらを見て微笑んで会釈してくれた。これも基地の空手部の連中に自慢したが、佐久本先生以上に羨ましがられた。
時安選手は個人の部だったが、最後の突きで脚が振らつき会場から悲鳴のようなどよめきが起こった。結局、時安選手は優勝を逃し、一目惚れしていた私も残念だった。
時安利栄時安利栄さん
(目黒の幹部学校に入校した時、会わないか期待したが残念だった)
  1. 2015/04/23(木) 08:59:21|
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4月23日・相馬大作事件

文政4(1821)年の明日4月23日(太陰暦)に弘前藩主・津軽寧親公の参勤交代の帰路を狙った暗殺未遂テロ・相馬大作事件が発覚しました。相馬大作と言うのは逃亡中の偽名で本名は下斗米(しもとべ)秀之進です。
この事件は日本随一の暴君・暗君一族である盛岡藩主の南部利敬が39歳で死んだ時に言い残した恨み事が原因でした。
津軽家と南部家の対立は無能な主君に見切りをつけた津軽為信公が反旗を翻して独立したことから始まり、南部家では代々が「家臣筋の津軽為信が謀反を起こし、領地を略奪した」と決めつけ非難し続けているのです。
情報収集と情勢判断に優れた津軽為信公は秀吉の天下が定まったことを確信すると上洛して謁見しようとしますが、海路では暴風に遭って船が難破し、陸路では経路上の領主に阻まれて実現しませんでした。それでも何とか家臣を派遣し、献上品を届けることができたのです(後日、小田原攻城の前に駿河で謁見を果たした)。このため後手に回った南部家が「津軽為信は謀反人だ」と訴えても与えられていた本領安堵は揺らぎませんでした。
江戸時代に入っても津軽家と南部家の能力差は歴然としており、正徳4(1714)年に野辺地の烏帽子岳周辺の領有について幕府の裁定を求めた時も、津軽家側は地図や領民の戸籍、年貢の徴収記録など万全の証拠文書を揃えて提出したのに対して、南部家は馬鹿の1つ覚えの「津軽は謀反人」と言う主張を繰り返すだけだったので津軽家の勝訴になりました。こうしたことが津軽家への怨恨として蓄積していったのです。
そして江戸時代も後半に入ると日本周辺には外国船が姿を見せるようになり、特にロシア船が来航した蝦夷地(北海道)の防備が重要な課題になってきました。この任に当たったのは津軽家と南部家でしたが寧親公は幕閣に人脈を構築し、文化3年には4万7千石から7万石に加増され、2年後に南部家が20万石に倍増されると10万石となり、利敬の不満は昂じる一方でした。そんな中、病に伏せていた利敬の耳に「寧親公が侍従になる=津軽家が格上になる」と言う噂が流れてきて、実際に就任すると間もなく悶死したのです。
これを聞いた下斗米秀之進は「主君の無念を晴らさなければならないと決意した」と言うのは南部側の資料ですが、実際の下斗米は家庭内の不満から脱藩した前科があって藩士ではなく、一時期は脱藩中に江戸で学んできた知識で多くの門弟を集めていた私塾の経営にも行き詰っていて、単に暴発する口実を見つけたに過ぎないのではないでしょうか。
下斗米は身分も弁えず寧親公に脅迫状を送りつけ、面倒を見ていた刀鍛冶に武具を製造させますが、使用目的を不用意に喋ったため共犯者になることを懼れた刀鍛冶が津軽藩に通報し発覚したのです。寧親公は元々が南部領を避けて出羽国内を通っていた参勤経路を海岸巡視の名目で手続きをして変更し、大舘と碇ヶ関の間の白沢街道で待ち受けていた下斗米をやり過ごすと幕府に訴え出ました。こうして文政4年10月6日に江戸で捕縛された下斗米は翌年8月29日に小塚ヶ原で斬首されたのです。
昔から松陰先生を始め下斗米を忠臣と持て囃す馬鹿者は多いですが、赤穂浪士の忠臣蔵と同様に暗君の妄言を家臣が尻拭いしただけの茶番悲劇でしょう(下斗米は失敗した)。
  1. 2015/04/22(水) 08:51:28|
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振り向けばイエスタディ67

親に無断で出家したことに父は激怒したが、私は毎晩のように外食して顔を合わさないで過ごした。そんな土曜日、高校の柔道部へ恩師を訪ねると丁度、県大会で練習をやっておらず仕方ないので隣りの空手部を覗いてみた。
「お前、社会人になっても相変わらず坊主刈りなのか?」こちらの恩師は柔道部で坊主刈りだった頃の私を思い出して首をかしげた。高校へは大学時代に顔を出して以来なので中退して航空自衛隊に入ったことは年賀状をやり取りしている担任以外は知らないのだろう。
「お前は23歳だよな(4です)。大学は卒業したのか?」「いいえ、中退して航空自衛隊に入りました」「航空自衛隊?パイロットか?」「整備員です」「ふーん、確かに生徒会長の時も妙に校長と馬が合っていたからな」私が高校時代の校長は学徒出征した元陸軍中尉で日教組の教師とは決定的に対立していたが、生徒会長である私も軍隊少年だったので波長が合い、全国植樹祭に参列した時、天皇陛下が入場されるのを豪雨の中、2人で傘もささずに立っている姿がテレビで大きく映り、「右翼の師弟」と呼ばれていたのだ。そう言うこの国語の先生も武道会系で、古文の教材に「葉隠」を使ったりして楽しませてくれた。
「今日は空手部に参加させてもらっていいですか?」「お前、空手を始めたのか?」「専門は少林寺ですが空手も少しかじりました」「何流だ?」かじったと言っても2カ月だけなので迷ったが一応「芦原会館です」と答えておいた。
「極真系かァ、やはり自衛隊は実戦空手なんだな」航空自衛隊の空手部は松濤館流なので先生の早合点だが、それでも参加を許してくれた。そこで柔道着に着替え、空手部員の後ろに立って準備運動から開始したが、ウチの高校の空手部は和道流なので芦原会館とは全く違い、突き蹴りの基本動作から困惑してしまった。
「よし、身体が温まったところで選手以外は柔道場で個人練習」いきなり先生が声を掛けると全国大会に出場すると言う3人の女子部員を残して他の生徒たちは柔道場の畳の上に移動した。先生は3人を集めて指導を与え、間もなく広くはない道場全体を使って三角形に立ち、声を揃えて「セイシャンッ!」と型の名前を唱え動作を始めた。
他の生徒たちも鏡の前で型の練習を始めたので、私も芦原会館の「型その1」から「その3」までをやってみたが柔道の黒帯を絞めている手前、生徒たちに間違った認識を与えるかも知れないと思い少林寺拳法(こちらは黒帯)の天地拳や龍王拳に変更した。
「お前、航空自衛隊は小牧で勤務しているのか?」帰り際、先生が訊いてきた。
「いいえ、那覇基地です」「えッ、ナハって沖縄のか?」「他に那覇ってありましたっけ」元生徒の揚げ足取りの質問には答えず、先生は話を続けた。
「全国大会は来週の日曜日に那覇市の体育館であるんだ。その体育館の名前が読めなくてな」そう言うと先生は着替えた後、生徒指導室に寄るように言った。

「流石に沖縄まで応援に行ってくれるOBやPTAもおらんでな。チケットが無駄にならんでよかったよ」先生はそう言って関係者用入場券をくれたが、確かに体育館の「奥武山(おうのやま)」は国語の教師でも難しいだろう。
  1. 2015/04/22(水) 08:50:34|
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振り向けばイエスタディ66

美恵子の母親がバス停まで送ってくれたが、私たちは何も話さずに歩いた。途中の家々の庭先に咲くハイビスカスやブーゲンビリアの色が何故か哀しかった。
バスはすでにバス停に待っていたが、発車まで10分ほどあった。
「じゃあ、これで」そう言ってバスに乗り込もうとする私に母親は「モリヤさん、ありがとうございました」と言って深々と頭を下げ、私もそれに倣った。
「お元気で」「お元気で」そんな言葉を交わして私はバスに乗り込み、母親は家に帰って行った。ハンカチで目元を拭っているのが後ろ姿にも判った。

「最近、外泊しないな。彼女に振られたか?」整備小隊長の三谷2尉は整備関係の書類の確認を受けに来ている私に全く関係のない質問をした。
私が返事をしないでいると机の引き出しから印鑑を取り出して書類に押しながら私の顔を見上げ、ニャーッと笑った。黒い顔の小さな目が細くなり、目尻に笑いシワが寄った
「ほい、御苦労さん。若いんだから色々あるさ。ほれ、ツーリストの彼女はどうした?」そう言うと三谷2尉は立ちあがってバインダーに挟んだ書類を渡した。
「ボーとして整備ミスをするなよ」敬礼して小隊長室を出ていく私に注意を与えたが、三谷2尉の顔はまだ笑っていた。

私は夏期休暇で帰省して祖父の寺で得度を受けた。曹洞宗の葬儀は得度の作法を準用しており、あの親の子である自分自身を葬ったのだ。
私は何の資料もない中で必死に勉強して受験した自衛隊生徒の合格通知を父親に破り捨てられて以来、大学受験も志望校を禁じられ、どうしても嫌だった地元の私立大学を強要された。然も受験の年に家を改築した上に妹が私立高校に入ったため学費が続かなくなり、一般空曹候補学生に合格したのを機に中退しなければならなくなった。
航空自衛隊に入ってからも私の職業を一切認めず、教育隊の訓練や術科学校での勉強の苦労話、部隊での実戦経験も「それが何の役に立つんだ」と揶揄・誹謗するだけだ。
さらに高校時代から「彼女を作る3条件」なる勝手な命令を押しつけ、その条件に合わない彼女を引き裂くことを繰り返し、沖縄の愛し合っていた彼女も一方的に禁止して、珍しく優しい文面の手紙に同封してあった「彼女に読ませなさい」と記した封書の中には「結婚は絶対に認められないから別れた方が貴女のためだ」と書いてあった。
私が美恵子との関係で前に進めなかったのも親の足枷が切り離せなかったからであり、そんな苦悩と葛藤を全て知っている祖父は出家を勧めてくれたのだ。
「自衛官としては剃るのはまずいだろう」と美恵子お手製の髪の毛をバリカンで坊主刈りにして得度の儀式を執り行ってくれた。
野草山岳録・得度式
  1. 2015/04/21(火) 09:27:02|
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振り向けばイエスタディ65

次の日、私は新原ビーチ行きのバスに乗った。去年の夏、美恵子と一緒に乗った時よりもバスは混んでいる。
「白い夏帽子 膝の上に置いて・・・」やはり岩崎良美の「涼風」が口に出た。しかし、「少林寺のBGM」と笑ってくれる美恵子は隣りにいなかった。

「こんにちは」美恵子の家のいつも開けてある玄関で声をかけた。
「ハーイ」と言う母親の返事と同時に右手の庭から「少林寺」と言う美恵子の声がした。見ると美恵子は私と選んだ麦わら帽子をかぶって庭の隅にある狭い花壇にホースで水をやっていた。
「少林寺、どうしたさァ」と言いながら庭の隅にある水道の蛇口に水を止めに行く美恵子と入れ替わる形で私が庭に入った、
この庭にも思い出がある。2度、3度目に美恵子の家に来た時、私は弟の松真(ショウシン)にせがまれて少林寺拳法を教えた。地元の空手を習ったことがある松真はそれが癖になって中々少林寺拳法の剛法(突き蹴り)は要領がつかめなかったが、柔法(関節技)には興味を持ち、私に手を捻られて「痛い、痛い」と喜んでいた。
「モリヤニィニ、美恵子ネェネとケンカした時も関節技を使うねェ?」松真の質問に私が笑って答えないと、「それってSMって言うさァ」とマセタことを言った。
水道の水を止めた美恵子が戻ってきて開けっ放しの縁側に並んで座った。2人ともしばらく何も言わなかったが、やがて美恵子が前に見える海を見ながら話し始め、私はその横顔を見つめていた。
「私、1人で少林寺が来るのを待っているの寂しかった・・・」「すぐに帰っちゃう少林寺を見送るの悲しかった・・・」「私、もっと一緒にいたかった・・・」独り言のようにここまで話して美恵子は一呼吸置いた。
「早く一緒に暮らしたかったのさァ」少しの沈黙の後、今度は私が話し始めた。
「大丈夫、結婚すれば一緒に暮らせるさ」私がこう言った時、縁側の奥の方で母親が鼻をすする音が聞こえてきた。どこかでソッと聞いているのだろう。
「駄目さァ」そう言うと美恵子は真っ直ぐに私の顔を見る。
「今、少林寺といると私、嫌な女になっちゃう」私たちは黙って互いを見つめ合った。
「貴方のこと愛してた・・・」これは美恵子が初めて使った「愛」と言う言葉だった。でもそれは過去形、それが結論だった。美恵子はまた海を見た。
ち・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/04/20(月) 08:23:58|
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閏4月20日・山口県が生んだ悪鬼・世良修蔵が誅殺された。

慶応4(1868)年の明日閏4月20日(太陰暦)に山口県が生んだ非道の悪鬼・世良修蔵に天誅が加えられ、無間地獄に堕ちました。
世良鬼は瀬戸内海に浮かぶ周防大島(現在の山口県大島郡周防大島町椋野)で半農半漁を営む庄屋の子として生まれました。どう言う手を使ったのか庄屋=農家・漁師の子が藩校・明倫館に入り、続いて稀代の殺生僧・月性の門弟になって過激な殺戮者としての人格破綻に磨きをかけました。その後、江戸へ出て儒学を学んで帰ったため地元・阿月の領主に認められ、塾の講師として仕官を果たしたのです。
松陰先生(と付けるのが当地の作法)や月性などの過激で非現実的な攘夷論に引き摺られた毛利藩が、馬関海峡を航行する外国船に発砲した報復攻撃で敗北すると、藩論が幕府への服従に傾いていくのに焦った過激派テロリスト・高杉晋作が農民や商人までも戦闘に巻き込む奇兵隊を結成しました。高杉が内戦を起こして実権を握ると世良鬼は「(同じく月性に洗脳されていた)赤禰武人の誘いを受けて奇兵隊に参加した」と地元では語られていますが、赤禰は「幕府の第2次征討の危険性が高まっている時に内戦を起こすべきではない」と高杉に反対したことで裏切り者にされて遁走していますから、これは山口県人得意の史実捏造だと思われます。むしろ世良鬼は赤禰の失脚を知り、自分を売り込む好機と見て高杉の下へ乗り込んだのではないでしょうか。こうして世良鬼が奇兵隊に加わったことが日本史に大きな汚点=深い悲劇を生む原因になったのです。
「攘夷」を表看板にしながらアメリカ南北戦争の終結で余った武器を死の商人・坂本竜馬を通じて大量に購入した毛利藩は島津藩と共に反乱を仕掛け、世良鬼も持ち前の残虐さを発揮して近代化が遅れていた諸藩を撃破し、反乱軍の中で頭角を現していきました。そして江戸へ無血入城した反乱軍は九条道孝を長とする奥羽鎮撫総督府を派遣することになったのですが、その兵力は500名に過ぎず、然も軍艦で直接、仙台に乗り込む無謀さに毛利藩の品川弥次郎、島津藩の黒田清隆が断り、世良鬼が参謀として乗り込んだのです。
ところが世良鬼は半農半漁の成り上がり者であり、身分格式を全く弁えず仙台藩主・伊達慶邦公に「新政府内で地位を保ちたければ会津を討て」などの暴言を吐きまくり(その点、島津藩の大山綱良さんは由緒正しい武家なので礼節を失わず、これが東北で毛利藩と島津藩の評価が真逆な理由です)、さらに東北武士に色濃く残る徳川家への忠誠心を新政府への反逆と曲解し、「奥羽は全て敵と見て攻め滅ぼすべし」と言う書簡を戸沢藩の新庄にいた大山さんに送ったのですが、それを運んだのも福島藩士であり、内容はたちまち露見し、福島城下の旅籠で女と寝ているところを襲撃され、2階から飛び降りて負傷し、そのまま川原で斬首されました。尤も武士として切腹が許されても作法を知らなかったはずです。
病的に地元贔屓な山口県では現在も世良鬼や殺生僧・月性を顕彰しようとする輩がいますが、顕彰するよりも世良鬼の暴挙が原因で戦乱に引き込まれ、その後も不当な忍従を強いられた東北諸藩に謝罪しなければならず、確実に無間地獄に堕ちている師弟を救ってもらえるよう念佛法要を勤めた方が良いでしょう。
山口県人は「毛利藩は身分に関係なく人材を引き立てた」と誇っていますが、明治以降の失策を見るまでもなくこのような「人罪」にまで身分不相応な立場を与えていたのです。
ところで月性が説いた海防論とは「討幕」と言う亡国論だったのでしょうか?
  1. 2015/04/19(日) 00:11:34|
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振り向けばイエスタディ64

1週間後の土曜日の朝、突然、美恵子の姉の友紀子に呼び出された。待ち合わせ場所のバスターミナルに行くと友紀子はもうベンチに座って待っていた。友紀子は私を見つけるといつもとは別人のように硬い表情で話しはじめた。
「美恵子は実家に帰りました。妊娠は美恵子の嘘でした。御心配かけてスミマセンでした」そこまで言うと友紀子は頭を下げた。
続いて友紀子が「これを」と左手に下げていた大き目の紙袋を差し出し、私は「何?」と受け取ったが、まだ混乱していて何も言えないでいた。
「もう、会わないって妹は言っています。さようなら」友紀子は感情をいれずにそれだけを言うときびすを返して歩き出した。その目に涙が光ったように見えた。
友紀子を見送り紙袋の中を見ると私がアパートに残していたトレーナーとジャージ、下着と靴下だった。美恵子が洗濯してくれてあった。

その晩、美恵子がやめて2カ月、久しぶりにママさんのスナックへ行ったが私の飲み残しのシーバースリーガルのボトルはまだ残っていた。やはり早い時間は貸し切りだったが、ママさんは全てを知っていた。
「今日は悪酔いしそうだから水割りにしなさい」そう言って薄い水割りを作り私の前にグラスを置きながらママさんは優しい目で見つめた。
「僕が軽率でした」私のまるで父に向って言っているような反省の弁にママさんはゆっくり首を振る。
「少林寺、あなた責任とか考えているでしょう」私は深くうなずいた。
「違うさァ。少林寺は本当に美恵子のことを大切にしてた。私が見ていて羨ましいくらいだったよ。美恵子も少林寺のことが大好きだった。それだけのことさァ」私は少しずつ水割りを飲んだがママさんの言葉のように優しい味がした。
「美恵子の親が何で怒ったと思う?」ママさんは私の顔を覗き込むようにして訊いた。私には「何事も慎重に、責任を持て」と言う父の言葉しか浮かばなかった。
「それは美恵子が少林寺に嘘をついたから、少林寺の気持ちを試そうとしたからさァ」このママさんの言葉を聞いた瞬間、私の両目から涙が溢れて止められなくなり、ママさんはお寺の美恵子さんがしてくれるように「ヨシヨシ」と頭を撫でてくれた。
「少林寺、美恵子に会いに行かんねェ」「美恵子がもう会わないって言ったさァ」鼻水をすすりながら私が答えるとママさんは少し声を大きくした。
「だからあんたは馬鹿正直って言うんだよ。会いたいって思ったら会いに行くさァ。あんたが会いに来なければ美恵子は捨てられたって思うよ。それが判らんねェ」結局、私は「泣き上戸」になってしまった。カウンターでうつ伏して泣いている迷惑な客(=私)をママさんはほかっておいてくれた。
  1. 2015/04/19(日) 00:10:12|
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漫画家・小島功さんの逝去を悼む。

4月14日に黄桜のCM「お色気河童」の作者である漫画家・小島功さんが87歳で亡くなりました。小島さんは弔辞を語るよりも楠トシエさんのこの歌で送るべきでしょう。
「かっぱっぱ ルンパッパッパ かっぱ黄桜かっぱっぱ ボンピリピン飲んじゃった ちょっと好い気持ち 飲める飲める飲める飲める いけるけるけるケロッ 黄桜黄桜ソフトなお酒 古い暖簾のモダンな味 かっぱっぱルンパッパ黄桜」合掌
ところで黄桜には「酒は黄桜本造り」と言うCMソングもありませんでしたか?唄っていて思い出してしまいました。
  1. 2015/04/18(土) 21:47:32|
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振り向けばイエスタディ63

「赤ちゃん、できたかも知れない」夜勤シフトの前の日曜日、つまり私が美恵子のアパートに泊る夜、食事を終えて部屋の隅で本を読んでいる私の前に正座して美恵子は言った。大きな目は私の気持ちを見通そうとするかのように真っ直ぐにこちらを見ている。
「本当?」私は意外に冷静だった。あれから何度か「大丈夫」と言う美恵子の言葉を信じて中で終わっていて自分でもこうなる可能性は否定していなかった。そして何よりも「これで結論が出たな」と言う妙な安心感が心を占めていた。私は多分、静かに微笑みながら美恵子を見返していたと思う。
「美恵子の親にお詫びとお願いに行かなくちゃな」私の答えに美恵子は「えッ?」と言う顔をした。
「順番が逆になったけど美恵子をお嫁に下さいって」美恵子はまだ視線を外さない。
「ウチの親は前もって言うとややこしくなるから、突然、一緒に愛知へ行くさァ」これは本音だった。何でもないことを話したばかりにウチの親が過剰に反応して、それを必要もないのに父が伯父に相談して、伯父は自分の勝手な思い込みで決めつけ、事態を混乱させる。私はこの繰り返しに疲れ果てていた。
「もし親がどうしてもって反対したら俺が親を捨てる。もう愛知には戻らない」そう言いながら私は最近ショップに回って来た東亜国内航空那覇工場の開設に伴う整備員募集の回覧を思い出していた。あれならズッと沖縄にいられる。
「お前の人生はお前のモノだ」祖父の言葉が久しぶりに聞こえた。
「その前に医者だ」私がそう言った時、美恵子の目に涙が浮んだ。
「少林寺、怒らないの?」私は美恵子の質問の意味が判らなかった。
「別に・・・よかったさァ」私の答えに美恵子は胸にすがりついて泣き出した。
「ごめんね、ごめんね・・・」と叫ぶように繰り返しながら号泣する美恵子の背中に両腕を回し私は髪の匂いを嗅いでいた。
私には美恵子の「ごめんね」の意味が判らなかった。
「私を縛ってしまう」美恵子はそんな考え方をする女ではない、むしろ「一緒に頑張ろう」と能天気なくらい前向きな考え方をするはずだ。私は単純に「避妊に失敗したことを詫びているんだろう」と思っていた。
  1. 2015/04/18(土) 09:33:52|
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4月18日・史上最強の柔道家・木村政彦の命日

平成5(1993)年の明日4月18日は「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と謳われた史上最強の柔道家・木村政彦さんの命日です。通常、武道家には敬称に代えて段位を付けているのですが、木村さんの7段は誰が見ても不相応なので止めておきます。
野僧は高校で柔道部に入った時、書店に並ぶ解説書の中で木村さんの「柔道・実践に役立つ技の研究」を選びました。それは木村さんの名前を知っていた訳ではなく、写真が明瞭な上、説明も解り易かったからですが、その具体的な技のコツは本当に「実践に役立つ」でした。例えば木村さんの得意技と言われる「大外刈り」は、他の解説本では襟と袖を刈る足側に引いて重心を移すように解説していますが、木村さんは襟を巻き込むように引き上げ、袖を押し引いて相手を仰け反らせると説明していました。
一般的な技の仕掛け方では奥襟を取る必要があり、身長が相手よりも高いことが前提になりますが、木村さんは身長170センチなので当時の日本人としては大柄でもスポーツ選手としては小兵でしたから徹底的な工夫によって自分の技を確立したのでしょう。それは立ち技だけでなく寝技、関節技、締め技も同様で、これを試合で実践できれば必勝なのですが知識と動作が一致しないのは凡人の哀しさです(それが稽古の目的です)。
それでも大外刈りの練習として背後に立てたロウソクを足で消したことを真似てみたのですが、ロウソクを蹴飛ばしてカーテンを焦がし、家での練習を禁止されてしまいました。
木村さんは大正6(1917)年9月10日に熊本県飽託郡川尻町(現在の熊本市南区)で生まれ、幼い頃から父親と一緒に加瀬川の急流の中でザルを使っての砂利取りを手伝って強靭な足腰が鍛えられたそうです。10歳から竹内三統流柔術の道場に通い始め、武徳会から4段を与えられますが旧制・鎮西中学に入学すると柔道に移り、16歳の時には講道館から4段を送られています。在学中には全国制覇を成し遂げ、中学の先輩で拓殖大学の師範だった牛島辰熊に誘われて東京の自宅兼道場に寄宿することになり、拓殖大学予科に進むと不滅の無敗記録を開始し、それは15年間に及びました。
そんな幾多の偉業を成し遂げた木村さんですが、戦後には失意を味わうことになります。
昭和25(1950)年に師の牛島が旗揚げしたプロ柔道に参加したものの経営に失敗したため無収入になってしまい、そんな中、妻が肺病に罹ったことで多額の治療費を得る必要に迫られたのです。こうしてプロ柔道から脱退してハワイやブラジルへ渡航して興業するようになり、それがプロレスにつながりました。
力道山との対戦は格闘マニアの中でも話題が尽きない謎ですが、伏線として力道山とタッグを組んでいた木村さんがシャープ兄弟に花を持たせる役を押し付けられていることへの不満から新聞紙上で「実戦なら負けない」と語ったことがあり、力道山がこれを「プロレスの名誉を傷つけた」と非難し、「プロレス界に残り高額の収入=妻の治療費を維持したければ負けろ」と取引したのではないかと言うのが一般的な見方のようです。
昭和36(1961)年に拓殖大学の監督に就任して柔道に復帰すると輝かしい戦績を収め多くの名選手を育てますが、講道館は7段から昇段させることはなく、柔道殿堂に関連する資料、遺品を展示していません。
木村さんは「月刊柔道」の誌上対談で山下泰裕5段に「遠藤純男5段のカニ挟みで骨折したのは明らかに君の負けだ」と言って黙り込ませていました。また山下5段や遠藤5段、斎藤仁3段などの巨漢選手について「今の柔道は豚がやる柔道だ」と批判しています。
木村さんはエリオ・グレーシー(ヒクソンの父親)との試合で腕を骨折させながら「参った」の動作をしないので関節技を掛け続けた「柔道の鬼」ですから、スポーツ柔道そのものに相容れない想いがあったのでしょう。
  1. 2015/04/17(金) 09:11:03|
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振り向けばイエスタディ62

理容学校を卒業して松山の理容店に就職した美恵子は土、日曜日も仕事が終わるのは7時過ぎで、私がアパートで帰りを待つようになった。
「帰ったさァ。今からご飯の支度するね」美恵子が玄関を上がって来ると私は自動的に反対を向き、美恵子はそこで着替えをするのが最近の作法になっている。
「晩御飯の支度はしておくよ」と何度か言ったのだが美恵子はそれだけは許してくれなかった。美恵子はトレーナーに着替えるとそのまま台所に立った。
「今日もチャンプルだけどいい?」「うん」「少林寺が島ナイチャーで助かるさァ」美恵子は手際よくキャベツを刻みながら言った。
「ねェ、明日は?」一応、月間スケジュールは伝えてあるが、美恵子の月曜休みに合わせて土日勤務の代休を取ることもあるので念を押すように訊いてくる。
「ノーマルさァ」「ふーん」私の答えに少しガッカリしたような返事をした。
「できたさァ、急がないと」美恵子は豚肉のチャンプルを大鉢に、茶碗にご飯を盛り、お盆にのせて来た。その間に私はペアカップを並べ麦茶を冷蔵庫から出している。
「最近はあわただしいね」美恵子は食器を座卓に並べながら溜め息をついた。
確かに以前は土曜日の夜はママさんのスナックのカンタ―に並んで話すことができたし、日曜日の夕方にはデートもしていた。ただ、ママさんの店でも、ほかの客を接待するところを見られたくない美恵子と見たくない私の間には「開店からほかの客が来るまで」と言う暗黙のルールができていた。
「少林寺、ここから通えばいいのに」美恵子は独り言のように呟いた。確かに先輩の中には外出で毎朝、彼女のアパートから帰って来る人もいる。しかし、曹候学生出身の新米3曹である私には許されないことだ。
「ごちそうさまァ」食事が終って10時までが残り時間だ。その週にあったことを話しても時計を気にしながらではいまいち盛り上がらない。すぐに制限時間がきて「少林寺、1週間分抱き締めて」と言う美恵子の口癖に応えてギュッと抱き締めるのが日曜日の夜の習慣になっていた。

「今年は戸鹿神社のお祭りに帰って来ますか?」母からゴールデンウィークの帰省を確かめる葉書が届いた。私は美恵子を連れて帰り交際宣言、場合によっては結婚宣言をしてやりたいと思っていた。しかし、やり方を間違うと全てを失うことになりかねない。私の家にはそんな危険があり、母の葉書を見ながら迷っていた。
  1. 2015/04/17(金) 09:09:54|
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振り向けばイエスタディ61

美恵子は本当にささやかな卒業祝いをリクエストした。
「自衛隊の制服を着て抱き上げて欲しい」それは2人で見たビデオ「愛と青春の旅立ち」のラストシーンを再現したいと言う美恵子らしいものだった。
卒業してすぐの土曜日、私は衣替え直前の冬制服を持って美恵子のアパートへ行ったが、
途中で花屋へ寄って今度は大きめの花束を買った。
「玉城さーん」と言ってドアをノックすると「はーい」と返事をして美恵子がドアを開けたので私はその隙間から花束を差し入れた。
「少林寺でしょう。ビックリしたさァ」花束の向こうで美恵子が驚いた声を上げる。
「卒業おめでとう」私が花束を渡しながら祝福すると「ありがとう」と今日の美恵子は花束を抱きながら幸せそうに微笑んだ。
「さァ、着替えるさァ」私は部屋に入って紙袋から制服を取り出して着替え始めた。横から美恵子が興味深そうに覗いているので「嫌ーん、エッチィ」と言うと「馬鹿」とケラケラ笑い始めた。折角、花束で演出した感激を自分で台無しにしたのかも知れない。
水色のワイシャツにネクタイを締めて濃紺の上衣=ジャケットを羽織り、正帽を被った。
「少林寺、格好いい。別人みたいさァ」思えば美恵子に制服姿を見せるのは初めてだ。
「リチャード・ギアよりも?」私の質問に美恵子は笑って答えなかった。その代わり首筋に手を回してきて私は抱き上げた。筋肉質な美恵子は小柄な割には重い。
「重いさァ、大丈夫?」「うーん、確かに」私が正直に答えると「モ―ッ」と美恵子は腕の中で少し膨れる。またまた台無しにしてしまったかも知れなかった。
「がんばれェ」美恵子は笑いながら声をかけ、抱きあげられる感触を楽しんでいたが、やがて映画のヒロインがしたように私の正帽に手を伸ばし自分の頭にのせた。
「Love life us up where we belong Where the eagle cry on a mountain high」そこで私は暗記してきた愛と青春の旅立ちのテーマソングを口ずさんだ。
「少林寺ィ!」美恵子は私の腕から下りると抱きついてキスしてきた。ラストで演出は成功したようだった。
  1. 2015/04/16(木) 09:40:31|
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羽柴秀吉=三上誠三さんの死去に思う。

4月11日に全国各地の知事や国政選挙に「羽柴秀吉」などの名前で出馬して落選し続けてきた三上誠三さんが肝硬変のため亡くなりました。65歳でした。
野僧は車力時代に三上さんと面識があるのですが、ハッキリ言って「何を感えているのか?・・・そうかッ(膝を打つ)何も考えていないのか」と納得してしまうような人物でした。
三上さんは旧北津軽郡金木町の出身で(作家の太宰治さんや歌手の吉幾三さんの出身地でもある)、若い頃、近所の住職に「戦国武将のような面構えだ」と誉められたことを勝手に「豊臣秀吉の生まれ変わりだ」と思い込み、以来、天下獲りを夢見てきたそうです。
21歳でダンプカーを1台購入すると運送会社を立ち上げ、27歳で青森県の高額納税者番付に載ったことは有名でした(夏は建設用の土砂、冬は除雪した雪を運ぶので儲かる)。
その後、温泉を掘り当てて小田川温泉を始めますが、遠くからも一目で判る天守閣があり、興味本位で近づくと宇治平等院のような妖しい建物が建っていましたが、入浴客は誰もおらず野僧も早々に退散しました。
その天守閣の土台(石垣ではない)の下には大きな看板が立っていて、「小田原城を包囲した時、暇を持て余した豊臣秀吉は奥羽の地を視察して回り、金木の地で村娘との間に子供を儲けた。それが自分の先祖である」と言う解説が述べられていました。
ただ地元では「建物が飽きられてくると無人の時に火災が起こる」と噂されていて、実際に天守閣以外の建物は何度も焼失し、建て替えられていました。
三上さんと言えば選挙ですが、最初は高額納税者になった27歳で地元の金木町長に挑戦したものの落選した上、選挙違反で逮捕されました。その後は金木町長に再挑戦、東京都知事、大阪府知事、衆議院(大阪から)、参議院(自由連合の比例区)、長野県知事(唯一のダム誘致派として注目された)、合併前の五所川原市長、衆議院(小泉純一郎の選挙区から出馬=首相を蹴落とすつもりだった)、合併後の五所川原市長、夕張市長(善戦して次点となった)、参議院(住民票を移していた北海道から出馬し、社民党の候補者には勝った)、青森県南部で岩手・秋田との県境の田子町長、夕張市長に再挑戦(3位)の選挙に出馬して全て落選しています。このため肩書は政治家ではなく政治活動家でした。
ついでに言えば1回目の五所川原市長と夕張市長、田子町長以外の選挙では立候補に際して治め、得票率によっては返還されるはずの供託金は没収されています。
これだけ全国各地の選挙に出馬していましたが、本人は豊臣秀吉の生まれ変わりである以上、大阪から天下を獲るのが夢だったようです(と熱く語っていました)。実際、五所川原市役所の向かいのビルの屋上には「羽柴秀吉・青森の大バカで終わるか、天下を取るか。決戦大阪城攻略」と言うネオン照明つきの大看板があったそうです(野僧は見たことはないですが)。
葬儀は金木公民館で行われるようですが、借金は残さなかったのでしょうか?だとすれば事業家としては大したものです。
  1. 2015/04/15(水) 09:13:58|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ60

「判るさァ。俺たちもそうだったもん」三島3曹は言葉を続けながら、隣りの席で眠っている赤ちゃんを抱いた奥さんの顔を見た。
「考えてみろよ。沖縄と北海道だぞ。お前の愛知の倍も離れているんだ。賛成してくれる訳ないじゃないかァ」江島3曹は奥さんに笑いかけた。
「まァ、気長にやることだよ。お前も来年はアドバンス、それがすんで独り立ちにはもう1年」そこで美恵子が「アドバンス?」と小声で訊いたので私も小声で「上級整備員課程」と答えた。
「まァ、2年もすれば彼女も床屋で1人前、2人とも1人前で親も根負けでメデタシ、メデタシと言う訳だ」三島3曹はそう言いながら「飲め」とビールを注いでくれた。今度は奥さんが話を続けた。
「本土の人は沖縄の人よりも少し複雑だけど、結局は一緒さァ」美恵子がうなずいた。
「私も随分泣いたけど、今ではこの子の顔を見に北海道からワザワザ来てくれるのさァ」そう言うと奥さんは赤ちゃんと三島3曹の顔を順番に見て、三島3曹は赤ちゃんの顔を見ていた。奥さんの声に赤ちゃんが目を覚ました。赤ちゃんは泣くこともなく御機嫌で奥さんが美恵子の顔を見ながら訊いた。
「おきたから抱いてみる?」「わーッ、いいんですかァ」美恵子は嬉しそうに席を立って奥さんの腕から赤ちゃんを受け取った。その時、美恵子の目が潤んでいることを私は気に留めなかった。

「お父さん、お母さん、反対してるの?」三島3曹の家からアパートへ帰るタクシーの中で美恵子が前を見たまま訊いてきた。
「うん、美恵子のことじゃないよ。前から沖縄の娘とは結婚させないって言ってるんだ。そんなことを言うと美恵子は心配するだろう」私の言い訳に美恵子は黙ってうなずいた。

アパートへ帰ると、その夜は初めて美恵子の方から求めて来た。私は少し酔っていたので迷ったが、結局、美恵子を抱いた。
「今日は大丈夫だからいっていいよ」美恵子の言葉に私は中で果てた。
た・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/04/15(水) 09:11:58|
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4月15日・6号潜水艇の事故で佐久間勉艇長以下14名が殉職した。

明治43(1910)年の明日4月15日に6号潜水艇が山口県新湊沖で半潜航訓練中に沈底し、有毒ガスの発生と浸水で艇長・佐久間勉大尉以下14名の乗員が殉職する事故が起こりました。
佐久間艇長は軍神・東郷平八郎元帥、広瀬武夫中佐と共に日本海軍士官の理想とされ、江田島の海上自衛隊幹部候補生学校では各教場の正面に写真が掲げられていました(現在は撤去されたそうです)。
野僧は意外なところで足跡に触れることになりました。それは航空自衛隊を退役して僧侶の修行に入った小浜の僧堂の秋托鉢で福井県三方郡若狭町へ行った時、休憩に寄った前川神社に「佐久間艇長ゆかりの地」と言う看板が掲げられていたのです。境内にある掲示物で佐久間艇長がこの神社の宮司の息子であることを知ったのですが、名前も知らない他の若い修行僧たちが質問してきたため、「世界的に有名な英雄である」と前置きして偉業を日本語と英語で説明しました(外国人の参禅者たちもいたため)。
1号から5号潜水艇はアメリカに発注したのですが6号潜水艇は初の国産として明治39(1906)年に川崎重工で建造されました。それでもやはり試行錯誤の状態であり、性能は1号から5号艇とは格段の差があったため、この日も母艦・歴山丸(れきざんまる=ロシア時代のアレキサンドルへの当て字)の随伴を受けた単独での訓練になったのです。
事故はシュノーケルを海面に出してガソリン・エンジンによる半潜航状態での航行中、シュノーケルの長さよりも深度が下がり、さらに緊急時の閉鎖弁も作動しなかったため海水が流入したことで起こりました。
海底に沈座した潜水艇内で乗員はバッテリーから発生した毒ガスに意識もうろうとしながら停電の暗闇の中、必死に排水などの対応を取り続け、佐久間艇長はその模様を詳細に記録しながら遺書を書いたのですが、死に臨んでも沈着冷静だった態度が海軍士官のあるべき姿とされたのです。
またイタリアで同様の事故があった時、艇内では乗員が出口に殺到した状態で死んでいたのに対して、6号潜水艇では排水作業に当たった者も含めて全員が自分の持ち場で死んでおり、これを伝え聞いた各国海軍から絶大な賞賛を受け、特にイギリスやアメリカ海軍の士官学校では太平洋戦争中も展示資料を撤去しなかったそうです。
一方、平成17(2005)年に防衛研究所戦史部第1戦史研究室の山本政雄2等海佐が「事故の原因は6号潜水艇を足手まとい扱いする潜水艇隊司令に対する佐久間艇長の不満と自分なりの対策案を実証したいと言う野心によって強行された無謀な訓練の結果である」と断ずる論文を発表しこともあり海上自衛隊内でも評価は冷めていったようです。しかし、この論文が指摘するように事故の原因が佐久間艇長自身にあり、乗員は巻き添えになったのだとしても、迫る死の恐怖の中で持ち場を死守した使命感は称賛に値し、それを指揮し、記録した佐久間艇長の海軍士官としての姿勢は手本とされて然るべきでしょう。
ところで実家の前川神社では命日前日の4月14日に例大祭が行われ、神幣が村を練り歩きながら途中で子供が同行しますが、これは日吉山王神に捧げる人身御供=生贄と言われています。すると佐久間艇長と乗員たちも人身御供だったのではないでしょうか?
  1. 2015/04/14(火) 09:55:41|
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振り向けばイエスタディ59

「彼女を連れてウチに飲みに来い」美恵子の理容学校の卒業も近づいた頃、三島3曹が自宅に招待してくれた。
「来週はシフトだから日曜日の夜は彼女のアパートに泊るんだろう」この頃には例の外出簿のおかげで彼女がいる独身者の交際の様子は修理隊当直の勤務につく2曹、3曹に周知されていた。
三島3曹は北海道出身、年上の奥さんは沖縄出身の元教員で「隠れ国際結婚」と言われていたが、結婚して5年も子宝に恵まれなかった後、最近になって長男を授かったのだ。

夕方、美恵子とお土産に赤ちゃん用品を買いに行くと、デパートのマタニティー売り場に並ぶベビー服や玩具類に美恵子は目を輝かせた。一方、私は周囲の視線が気になって仕方なかった。
23歳と19歳のカップルがマタニティー売り場で嬉しそうに買い物をしているのは確かに色々な想像を駆り立てるだろう。そこで私は「きっとこれが喜ぶさァ」「こっちの方が好みだよ」などと「これはプレゼントです」と周囲に判るように大きな声で言ったが、美恵子はそんな私が不思議そうだった。結局、予算の関係でベビー服は買えず玩具3点セットになった。

「お前、親が(結婚に)反対してるんだろ」奥さんの手料理が半分になった頃、酒の弱い三島3曹が目の下を赤くしながら言った。私も「はい」と素直に答えてしまったが、正直に言えば反対される以前にまだ両親に話していないのだ。
「美恵子との結婚」を意識するようになってから私はまた両親の存在を感じるようになっていた。それは以前のように見られていると言うものでなく、美恵子と一緒に進もうとするのを引き留めるような重い足枷だった。右足に父、左足を母が押さえつけているような気がしている。しかし、この時、美恵子が怯えにも似た驚きの目で私を見たことに気づかなかった。
  1. 2015/04/14(火) 09:54:21|
  2. 夜の連続小説8
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4月14日・タイタニック号が沈没した。

日本では明治最後の年である45年、第1次世界大戦が始まる2年前の1912年の4月14日にタイタニック号が処女航海の途中で氷山に衝突して沈没し、705人が救助されたものの1500人前後の乗客・乗員が犠牲になりました(現在も未確定)。
「氷山に衝突して沈没した」と言われれば真冬の事故かと思いますが、厳冬期は北極海も凍結するため氷山が流出することはなく、やはり日差しが強くなり、気温が暖かくなって表面の溶けた水が氷の割れ目を浸食するようになってから移動を開始するのでしょう。
タイタニック号はオリンピック号とブリタニック号の姉妹船で、イギリスのホワイト・スター・ラインが所有・運航していました。世界最大の戦艦・大和と比較すると全長はタイタニック号が269・1メートル、大和は263メートル(以降、この順番)、全幅は28・2メートルと38・9メートル、喫水(水面下の船体)は10・4メートルと10・5メートル、総トン数・軍用艦としての基準トン数はタイタニック号が46328トン、大和は64000トン、最高速度は23ノットと27・46ノットでしたから、ほぼ同程度の大きさだったことが判ります。ちなみに昭和20(1945)年4月7日に大和が沈没した時の生存者は276名(269人説もある)、戦死者は2498名とされています。
タイタニック号の沈没事故については1997年公開の映画「タイタニック」や1980年公開の「レイズ・ザ・タイタニック」で詳細に描かれていますから多くは語りませんが、タイタニックも大和同様に「不沈船」の称号=宣伝文句を得ていて、この過信が乗客・乗員の定員に比して救命ボートが絶対数足りなかったことや衝突後の初動対処と退船命令避難誘導が遅れた原因になったようです。
ただ「タイタニック」はアメリカ映画なので、毎度のことながら多くの事実と異なる点があります。例えば映画の中で金持ちの乗客から賄賂を取って救命ボートに乗せ、パニックになった乗客を射殺した1等航海士は、最期まで乗客を救命ボートに乗せるために努力していたと言われます。さらに船底の機関部で浸水してくる海水を必死に汲み出して多くが殉職した機関員たちも職務を放棄して逃げ出したように描いていたのは遺族・関係者などから批判を浴びました。アメリカ映画は日本映画以上に勧善懲悪の単純なストーリーにすることが多く、観客が賞賛するヒーローを際立てるため憎悪する対象を作るため、実在の人物までも平気で極悪非道や強欲利得の悪人俗物、職務を放棄する卑怯者にしてしまいますから要注意です。特に日本人は昔から狙い撃ちで、実際に乗船していた細野正文氏が「他の乗客を押しのけて救命ボートに乗り込んだ」と言う批判が事故直後にヨーロッパから流れてきて、日本では官民を問わず「日本人の恥」と指弾され、鉄道院主事を免職になったのですが、実際は指摘されたのとは別のボートに細野氏は乗っていてイギリス仕立ての紳士服で髭も生やしていたため小柄なヨーロッパ人と間違われたようです。さらに非難された行為があったボートには下働きの中国人が乗っていたようですが、多くの男性が女性を優先して死んだ中、自分が生き残ったことを細野氏は恥じたようです。
  1. 2015/04/13(月) 08:44:11|
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振り向けばイエスタディ58

年末年始休暇は帰省し、祖父を訪ねたが、「帰って来ると寺ばかりに行く。あまり変なモノに染まるな」と父はまた不機嫌だった。
私は寒い祖父の寺の部屋で掘り炬燵に入りながら秋のオリオン対処の話をした。興味深そうに聞いていた祖父は「そうか、去年の大韓航空機事件だけじゃなく、日常的にそんなことが起きてるんだな。お前たちのおかげで平和に暮らしていられんだ。ありがとう」と言って頭を下げた。しかし、私は実家での話を私が憤りを込めて続けた。
「息子が国のために命がけで頑張っているのにウチの親は『勝手に戦争を始める気か』って批判するんだよ。何のためにこうして命をかけているのか判らなくなったよ」祖父は高校受験以来、繰り返されている息子の意思を踏み躙る父親の暴挙に顔を曇らせた。
「お前の親は何も判っていない。判ろうともしないからな」と言った後、姿勢を正した。
「国のため、国民のためなんて意識を持って仕事をすると、どうしても理解して欲しい、評価して欲しいと思うようになる。仕事は自分のためだと思って頑張ってみろ。昔、鈴木正三と言う武士出身の禅僧がいてな、正三は『武士の方が坊主よりも修行になる。何故なら武士は常に生死ギリギリのところで生きているからだ』と言っていたんだ。お前も自衛官だから武士みたいなもんだ。自衛隊の仕事を修行だと思って油断のないように努めてみろ」この教えはその後、私の自衛隊勤務の指標になった。
しかし、実家では父と口論になり美恵子の話をするどころではなくなってしまっていた。

その頃、美恵子は那覇市内の居酒屋で行われた理容学校の同級生の忘年会に出ていた。同級生の大半は未成年だったが、そこは沖縄、アルコールが入った同級生たちが素面(しらふ)の美恵子を両隣、前の席から取り囲んだ。
「この間、国際通りを男と歩いているところを見たさァ。あれ彼氏ねェ?」「どう見てもあれはナイチャアさァ」両隣から男子の同級生が訊いてきた。
「美恵子の彼氏は自衛隊さァ」前の席の女子の同級生が代わって説明した。
「自衛隊ねェ、そんな奴とつき合っても本土に帰る時、捨てられるさァ」「自衛隊はシマンチュウの女を誘惑して味方を作ってるのさァ。美恵子も利用されているだけだよ」「それよりも美恵子を抱きたいだけさァ」同級生たちは今まで平和教育と称して教師たちから吹き込まれてきたことを美恵子にぶつけてきた。美恵子はいたたまれなくなって途中でアパートに帰り1人泣いた。
そ・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/04/13(月) 08:43:00|
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振り向けばイエスタディ57

基地じゃあ、いつも通りにね。みんなに知られちゃうとモリヤくんも困るでしょう」授業を終えて2人でシャワーを浴びた後、私を基地の手前まで送ってくれた車の中で森山2曹はそう指示した。あくまでも教官としての態度に徹している。
「それから私とは今回限り、個人授業は終了よ」そう言うと森山2曹は赤信号で止めた車の中で私の顔を見詰めた。私は思いがけないこの出来事をどう受け止めればいいのか判らなかった。
「本当に有り難うございました」私はあらたまってお礼を言っていた。それは大切なこと教えてくれた個人授業に対する礼儀のつもりだった。森山2曹は信号が変わらないことを確かめると、また私の顔を見詰めた。
「モリヤくんらしいな、一度、抱くと自分のモノって顔をする男が多いけど・・・」折角の森山2曹の誉め言葉だが私はそのような人間的な感情に欠けていることを指摘されたような気がした。大学時代の彼女に見合いの話がきて「断る理由が欲しい」と言われたのに対して、私は「学生では責任が持てない」と答えてしまったことがある。彼女は傷ついて故郷へ帰り、私はそれでようやく彼女の大切さに気づき曹候学生の合格通知を持って福井の実家に彼女を訪ねたがもう間に合わなかった。それが「女性を愛すること」「大切な人を守ること」の意味を知った出来事だった。
「もっと会ってくれませんか?」無意識のうちに私はそう言っていた。私の突然の申し出に森山2曹は驚いた顔をしたが信号が青になったのを見て前を見て車を発進させた。
「そんなに気持ちよかった?若い女の子なら私よりも綺麗でもっといいよ」森山3曹の返事に私は自分が彼女に言った言葉と同じ響きを感じた。
「卒業試験はないんですか?」「短期講習だけでは駄目なの?あとは実習あるのみ」私が何時になく食い下がると森山2曹はそれが本意でないことを見通しているように横顔で笑った。
「そうそう補習だけど、相手がバージンだったら自分の快感は捨てて優しくゆっくりね。だけど最後は痛がってもキチンと決めないと駄目よ」「はい」私は返事をしながら「そんな相手と出会うのだろうか」と考えていた。
基地が近づいて私は手を鼻に近づけ、シャワーを浴びて洗い流してしまった森山2曹の体臭を確かめてみたが石鹸の匂いしかしなかった。

大会当日、広い某基地の体育館は選手と応援の隊員で混み合っていた。
「続いて那覇基地支部、大村初段、モリヤ初段」と呼び出されて立ち上がり、私は開始線まで進み、少林寺拳法の作法としてお互いに合掌し、呼吸を合わせながら構えた。この時、多くの声援の中に聞き覚えがある声が耳に届いた。
「モリヤく―ん、頑張ってーッ!」私は組演武の最初の回し蹴りを腹に入れてしまい相手は悶絶し、イキナリこけてしまった。
  1. 2015/04/12(日) 09:09:47|
  2. 夜の連続小説8
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