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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月1日・次郎長一家・森の石松の命日

万延元(1860)年の明日6月1日(太陰暦)は次郎長一家の子分たちの中でもおそらく一番 人気の森の石松の命日です。
森の石松は次郎長一家のテーマソング「旅姿3人男」の3番で「腕と度胸じゃ負けないが 人情からめばついホロリ 見えぬ片目に湧く涙 森の石松森の石松 好い男」と唄われていますが、本当は実在したのかもハッキリしないのです。
次郎長一家の子分は天田五郎が明治17(1884)年に出版した「東海遊侠伝」を題材にした浪曲や映画「次郎長三国志」で創作された架空の人物が多く、明治まで生きていれば戸籍などが残りますが、それより前だと無宿の渡世人は寺の過去帳にも記載されず確認が難しいのです。片目の子分としては「豚松」と言う名前は伝承されているものの「石松」については不明です。と言いながら石松が次郎長の代参で金毘羅宮へ名刀を奉納に行った時に寄った店などが琴平の門前には存在しますから、虚構も長い間語り継がれていくと事実になってしまうようです(その意味では韓国の執拗な宣伝外交は要注意です)。
野僧は苗字の関係で子供の頃から「森の石松」と言う仇名で呼ばれていたためこの人が嫌いなのですが、伝承を調べると一方的に嫌うことができない因縁があるのかも知れません。
石松は遠州・森の出身なので「森の石松」と呼ばれていますが、親は三河・新城の船着村の小作人だったと言う通説もあるのです(新城の富岡村説もありますが存在がハッキリしない以上、確定するのは無理でしょう)。船着村の地主と言えばウチの先祖で、「過酷な年貢の取り立てに苦しめられた揚句、女房を妾にされたため逃げ出した」と言う伝承もあの家の人間ならやりかねません。父方の曽祖父にあたる人物は生まれて死ぬまで一度も働かず、白い馬に乗って遊郭に出掛けては入り浸り、このため土地の大半は売り払って落ちぶれ果てました。石松の親を逃亡に追い詰めたのはそんな曽祖父の親に当たりますからかなり真実味があります。
一方、静岡県周知郡森町の教育委員会では石松を一応「郷土出身の有名人」としていますが、やはり教員なので「石松などは現在で言えば暴力団の構成員に過ぎない。森町にはもっと誇るべき歴史的遺産や素晴らしい自然の景観がある」と問い合わされたことが迷惑と言う態度でした。確かに教員にとって「腕と度胸じゃ負けない」それで「馬鹿」な生徒は不良の落ちこぼれであり、それが次郎長一家と言う広域暴力団=反社会的組織に入って有名になったのでは「郷土の恥」以外の何物でもないのでしょう。 
何はともあれ浪曲や映画の森の石松は、幼い頃に(ウチの小作人だった?)両親を失い、孤児になっているところを侠客・五郎に拾われて育ち、そのまま組織の構成員になって抗争に加わり、国定忠治の出身地である上州の同業者を切って逃亡している時にかくまってもらったことで清水の次郎長の子分になっています。その後は単純馬鹿丸出しで、酒や女の失敗(ウチの先祖の隠し子ではないのか?)、喧嘩に勝って博打で負けての破天荒なドラマを繰り広げるのが人気の理由でしょう。そして次郎長の妻の2代目(次郎長は3回結婚し、毎回「お蝶」と名乗らせている)お蝶が街で斬殺された仇を討ち、次郎長の代参で日頃から信仰している金毘羅宮に名刀を奉納しに行き、往路の船の中で有名な「江戸ッ子だってね。寿司喰いねェ」のエピソードが作られました。ところが帰路のこの日、方々で預かってきた高額の香典を狙った遠州・都田(みやこだ=現在は浜松市の工業団地)の吉兵衛の騙し討ちに遭って殺されたのが顛末です。
墓は森町の大洞印(曹洞宗)や富岡の洞雲寺(曹洞宗)、さらに清水の梅蔭寺(臨済宗妙心寺派)の次郎長一家連名などがありますから、やはり実在したのでしょうか?
森の石松
みなもと太郎作「風雲児たち・幕末編」の森の石松の最期
  1. 2015/05/31(日) 00:05:57|
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振り向けばイエスタディ106

総合演習が終り、月曜日が代休になって日曜日の夜から美恵子の家に行った。
「モリヤさん、飲まんねェ」今回は美恵子が作った夕食の後、父は泡盛の1升瓶を持ってくると食卓の上に置いて向かい側に座り、今日は母もつき合ってくれるようで隣りに座った。飲めない美恵子も私の左隣にウーロン茶のペットボトルを持ってきて座った。
母が2人分の水割りを作り(私はストレート)、全員で乾杯した。数杯飲んで会話がスムーズになって来たところで父が話を切り出した。
「モリヤさん、美恵子をもらってくれんねェ?」「えッ?」私はこちらから言わなければならない話を突然持ち出されて戸惑ったが両親はそれでも穏やかな顔でこちらを見ている。
「モリヤさん、貴方の親御さんは?」「はい、反対しています」予想された回答だったのか両親は表情を変えずに私の顔を見ていたが、私の背中には汗がにじんできた。
「親御さんは美恵子の何が気に入らんねェ」父が感情を押し殺して訊いた。
「沖縄は遠い上、風習が違うので親戚づきあいが出来ないことと・・・」「ことと?」母が私の顔を覗き込んだ。
「やっぱりスナックで知り合ったことです」私は言っていて情けなくなる。
「そんなの美恵子には責任がないさァ」やはり母は少し呆れたように言った。
「美恵子はまだ21歳、何も判らない未熟者です。だけどモリヤさんを思う気持ちは本当なんですよ」母の言葉に私は深くうなづいた。
「モリヤさん、シマンチュウにならんね」父の突然の言葉に私は意表を突かれた想いで顔を見た。
「でも自衛隊には転勤があるんです」父は黙ってうなずいた。
「それは仕事で、2人揃ってこの家に帰って来ればいいのさァ」「美恵子が初めて好きになった貴方と一緒になれれば、あの寂しい思いをさせたことも無駄じゃあなかったって救われます」母の言葉は決して皮肉でも冗談でもなかった。私こそ救われた気持ちになり、しばらく4人で見つめ合った。
「よろしくお願いします」両親が揃って頭を下げたので私と美恵子も「はい、こちらこそよろしくお願いします」と一緒に頭を下げた。
「この両親の娘ならこんな夫婦になれるのかな・・・」そんなことを思いながら美恵子の横顔を見ると、相変わらず顔中で笑っていたが目は潤んでいた。
  1. 2015/05/31(日) 00:02:10|
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5月31日・謎の日本人・ウラジミール・ヤマトフの命日

明治18(1885)年の明日5月31日は幕末に国際舞台で活躍した謎の日本人・ウラジミール・ヨシフォヴィチ・ヤマトフ=増田甲斎の命日です。
「活躍した」と言っても歴史の教科書には載っておらず、今回の大河ドラマを含む幕末モノでも登場することがないので知名度はゼロに近いのですが、野僧は托鉢で訪れた静岡県掛川市で知り、いつもの悪癖で調べてみると世界を股にかけた波乱万丈の人生が少し判りました。
ヤマトフはオットセイ将軍・家斉の50年にわたる長期安定政権の下、庶民の化政文化が花開いていた文政3(1820)年に掛川藩士の次男として生まれ、成長するにしたがってずば抜けた学力を発揮し始めたものの脱藩して江戸へ出てしまいました。江戸では学才を認められて仕官の誘いがあったようですが全て断り、博徒になって何度も投獄されています。昔から静岡県では「金に困ると駿州人は詐欺師、遠州人は博徒、豆州(=伊豆)人は山賊になる(熱海は娘を温泉芸者に売る)」と言われていますが、遠州掛川藩士の息子だったヤマトフも例外ではないようです。
その後、何故か日蓮宗の池上本門寺で出家して、ここでも「将来は高位の僧侶にしよう」と英才教育を施されそうになりますが脱走して伊豆へ放浪し、そこでヨシフ・ゴシケーヴィッチと知り合いました。ゴシケーヴィッチはペリーが来航したとの情報を得たロシアが以前から多くの漂流民を通じて日本の情報を収集して準備を進めていながら対日外交の先陣を奪われたことに焦り派遣したプチャーチン中将の外交使節の通訳(専門は漢語)です。当初、プチャーチンは漂流民・大黒屋光太夫一行を送ってきたラックスマンマンが受け取った長崎への入港許可証を持っており、長崎で幕府と交渉するつもりだったのですが、クリミア戦争で敵対していたイギリスが来襲すると言う情報を得て急遽出港して以降、紆余曲折の末に伊豆・下田に入港していたのです。この時の日露交渉の舞台でもあった下田の了仙寺は日蓮宗なのでヤマトフは題目坊主として潜り込んだのかも知れません。
開国に向けて歩み出したとは言え一介の坊主がロシア人と直接交際することが許されるはずがなく、特にヤマトフが和漢の辞典を貸したことが発覚し捕縛されています。捕縛されたヤマトフは代官所から脱走し、ゴシケーヴィッチを頼ってロシアの軍艦にかくまわれ、そのままロシアへ渡ろうとしますが(ここが吉田松陰と金子重之輔の密航を拒否したペリーとの違いです)、途中でイギリス軍艦に拿捕され、約9ヵ月間を艦内で過ごすことになりました。ここでゴシケーヴィッチと協力して1万6千語を収録した初の露日語辞典を完成させたのです(それまでの日本人は漂流民だったので学力は限定的だった)。
解放後はロシア正教で洗礼を受け、外務省の役人とサンクト・ペテルブルグ大学の講師として活躍し、日米和親条約の締結のためアメリカに渡った幕府の使節団やパリ万博に出席した代表団、さらに外交音痴を世界に晒した岩倉具視たちの遣欧米使節がロシアに立ち寄った際、接遇したことで「謎の日本人」として存在が知られるようになったのでした。
接遇した岩倉具視から熱心に説得されて帰国したものの芝・増上寺(浄土宗)の隅に小屋を与えられただけで政府の要職につくことはなく、また坊主に戻った増田甲斎としてロシアからの年金で暮らして亡くなってしまいました。65歳でした。
墓所は高輪の源昌寺にありますがここは曹洞宗です。それにしても岩倉具視って奴は全くロクでもないですな。加山雄三の母方の曽々祖父ですが。
ちなみに野僧のロシア語名は「テンジンスキィ・ノリヒトイ・モリノフ」です。
増田甲斎みなもと太郎作「風雲児たち・幕末編」より
  1. 2015/05/30(土) 09:13:23|
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振り向けばイエスタディ105

その年の総合演習では意外な経験ができた。根っからの警備好きを買われ南西警戒管制隊のレーダーサイトの増強要員に選ばれたのだ。行き先は沖永良部島だった。
私としてはフェリーでの移動でクルーズも楽しみたかったのだが、沖永良部島へは奄美大島からしか航路がなく、作戦準備の急速整備が終わったところで救難隊の大型ヘリコプター・Vー107バートルを輸送機にして、「アッ」と言う間に到着してしまった。
レーダーサイトは別れた彼女と久米島へ行った時、同期を訪ねて庁舎地区は見学させてもらったが、レーダー地区や通信地区は初めてだった。
しかし、沖永良部島は南西航空警戒管制隊でも鹿児島県内のため住民感情は全く違っていた。何よりも分屯基地には外柵がなく一般の道路が各地区の間を通っていてBX(基地売店)で近所の住民が買い物をしているのだ。
「自衛隊さんのBX(この単語を知っていた)は安くていい」「島の店じゃあ運送代が上乗せされてるから高くていかん」そう言って数人分のアイスクリームを抱えて出ていく背中を私たちは呆れながら見送った(夜には隊員クラブも島民で満員だった)。
我々の任務である基地警備もここでは用なしだった。一応は南西航空混成団の肝いりで派遣されているので歩哨訓練や巡察パトロールをやっていたが(実際は視界確保を名目にした草刈り作業員だった)、それを目にした島民たちが声を掛けてきた。
「兄さんたちは55(ゴーゴー)の隊員さんじゃないだろう?」島民たちは沖永良部の第55警戒群(当時)のことは親しみを込めて「ゴーゴー」と呼んでいるらしい。
「やっぱり判りますか?」「ここの隊員さんは全員、顔を知っているからな」「何よりも帽子が違うよ」そう言った小父さんたちは第55警戒群の部隊章をプリントしたTシャツを着ていて、それが妙に麦わら帽子に似合っている。
「演習で警備の増強に来たんです」私は防衛秘密に触れるので言わなかったが別の増強要員の士長が口を滑らせた。すると島民たちが急に怖い顔になった。
「警備?この島でそんなもんはいらん」「ゴーゴーを攻撃にくる奴がいたら先ず俺たちが叩きのめしてやる」「船に漁船で体当たり、サトウキビ畑に隠れても見つけて取っ捕まえてやる」どうやら太平洋戦争中も米軍を相手にこの調子で戦うつもりだったらしい。
「つまらんことは止めて休憩しろ」そう言って小父さんは自動販売機で缶コーラをおごってくれた。
これは演習最終日の警備訓練でも一緒だった。島民たちは見学しようと分屯基地内にやって来て、草を刈った後に掘った壕の中で監視をしている我々に声を掛けるのだ。
「止まれ!誰か?」「俺だ、俺俺」真面目に誰何をしてもこの調子で、「動くな!」と命じると「俺が判らんようじゃあ、お前は余所者だな」と逆にやられてしまう。
「大変だねェ。これでも飲んで頑張れ」この不審者はそう言うと歩哨に缶ビールを渡し、勝手に帰って行った。
沖永良部島では愉快な経験だったが、久米島では目の前をハブが這っていき、宮古島では松明を持った連中が迫ってきて、与座岳では演習を妨害しようと外柵のあちらこちらに人間の大便がしてあったそうだ。
  1. 2015/05/30(土) 09:11:29|
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5月30日・真珠湾で「トラトラトラ」を打電した淵田美津雄大佐の命日

昭和51(1976)年の明日5月30日は奇襲部隊指揮官として真珠湾を攻撃し、作戦成功を意味する「トラトラトラ」を打電した淵田美津雄大佐の命日です。73歳でした。
淵田大佐は海がない奈良県の山間部・葛城村(現在は葛城市)出身で、海軍兵学校は当代きってのスタンドプレイヤー・源田実や昭和の陛下の次弟・高松宮と同期の52期生でした。海軍兵学校を卒業後、砲術士官として歩み始めたものの中尉の時に飛行科へ移り、偵察要員として航空機に搭乗することになりました。
飛行機乗りは個性と自己主張の塊なので同業者でも乗っている航空機の使用目的=任務で人種が違うかのような言い方をします。同じ戦闘機乗りでも空中戦を主任務とする防空戦闘機と対地上・海上への攻撃を主任務とする支援戦闘機では猛禽類と野獣のようでしたが、その中で偵察員は敵中深く入り込みながら逃げ帰ることを任務とするので一種独特の雰囲気がありました。
淵田大佐は偵察目的で使用されることが多かった大型艦の艦載水上機の搭乗員として重巡洋艦「青葉」、空母「加賀」、佐世保航空隊、潜水母艦「迅鯨」、軽巡洋艦「名取」、重巡洋艦「摩耶」、舘山航空隊を渡り歩きました。そんな昭和11(1936)年、巨大戦艦・大和、武蔵、信濃、紀伊の建造計画に反対し、空母への変更を要求する航空士官たちで航空研究会を立ち上げたものの、海軍青年士官による首相殺害=5・15事件の4年後、陸軍青年将校による大規模なクーデター=2・26事件が起きたその年であったため士官の私的な団体結成を危険視した海軍当局に解散させられています。
その後も横須賀航空隊、海軍大学校入校、空母・龍驤、佐世保鎮守府参謀、空母・赤城の飛行隊、長、第3航空戦隊参謀を経て昭和16(1941)年8月に再び空母・赤城の飛行隊長として着任しました。赤城に着任した時は少佐であり、ある意味の左遷だったのですが、それは極秘裏に研究が進められていた真珠湾攻撃のための人事でした。
真珠湾攻撃は事前研究ができない敵の領土内に深く侵入して攻撃する奇襲作戦であり、攻撃に集中する猛禽類的パイロットよりも、冷静に状況判断できる偵察員の素養を必要としたのであり、第1航空艦隊航空参謀だった源田が兵学校以来の親友である淵田少佐の着任を強く要望したと言われています。こうして淵田少佐は「総隊長」と言う尊称で呼ばれながら奇襲攻撃を指揮し、「全軍突撃せよ」のト連符「トトトト(・・―・・、・・―・・)」と「われ奇襲に成功せり」の「トラトラトラ(・・―・・、・・・、・・―・・、・・・)」を打電しました。
続くミッドウェイ海戦では虫垂炎の手術を受けた直後だったため出撃せず、赤城が撃沈された時の脱出で両足を骨折しています。
敗戦後はアメリカの日本軍研究に協力し、そこで空軍のチャップレン=従軍牧師が書いた冊子を読んでキリスト教に関心を持ち、奈良へ帰郷すると大阪府堺市の日本人牧師が開いている平和集会に参加して洗礼を受けただけでなく伝道者としてアメリカへ8度も出かけ、娘をアメリカ人と結婚させています。この行動を海軍の元軍人や遺族たちは「裏切り」「英霊への冒涜」と非難しましたが、当時の雰囲気ではアメリカ側に立った者を強く責めることはできず、源田の同期・盟友だけにスタンドプレイを駆使して上手く立ち回ったようです。
淵田大佐は戦後も実家に住んでいたため、奈良市内にある航空自衛隊幹部候補生学校の学生が訪ねては話を聞いたそうですが、どちらかと言えば批判的な立場だったので、特に「大先輩の武勇伝」を期待していったパイロットの学生たちからは失望する声が多かったと聞いています。
  1. 2015/05/29(金) 09:12:53|
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振り向けばイエスタディ104

「モリヤ3曹は歴史に詳しいんだって?」演習前段の急速整備が始まり全員が基地食堂で食べるようになったある日、前の席から工作小隊先任の平山曹長に声を掛けられた。
「いいえ、それ程でもないですよ」「内務班でも難しい専門書を山ほど並べてるって評判だぞ」確かに私は空曹3年目になって個室をもらったのを機にスチール製の本棚を買い、そこに今までダンボールに入れてベッドの下にしまっていた本を並べたのだ。
「副業柄、佛教の本は読んでますが・・・」「副業?俺も副業があるんだよ」思いがけない話には私は曹長の顔を見返してしまった。自衛官は法律によって副業が禁じられているが、それは「別の収入と言う意味だ」と教えられている。だから私も坊主として布施や謝礼をもらうことを避け、寺を手伝ってもお供物を受け取ることにしているのだ(坊主の教員などは布施を宗教法人=寺への収入として事務処理し、職員扱いの妻が給与として受け取っていることが多い)。
「曹長も坊主ですか?」「いや、俺は砥師(とぎし)だ」砥師とは刀剣を研ぐ職人のことで、江戸時代までは武士の魂を整える匠として作る刀鍛冶と同様に尊重されていた。言われてみれば平山曹長には伝統職人が持つ特有の雰囲気があり、修理隊に揃っているベテラン航空機整備員とは違った存在感を発している。
「それは興味がありますね」「そうだろう。先ず知っている刀匠の名前を言ってみろ」座ったまま身を乗り出した私に平山曹長はいきなり口頭試験を与えた。
「先ずは岡崎五郎入道正宗」「流石だな、フルネームできたか」確かに「名刀・正宗」と言う名前は知っていてもフルネームで答える者はマニアだけだろう。
「関の孫六兼元」「おッ、こちらもフルネームか」平山曹長は腕組みをしてうなずいた。
「とくれば肥後同田貫正国」「子連れ狼だな」「はい、愛読者です」この一言で私の知識が学問ではなく雑学なのがばれてしまった。
「三条宗近」「ほォ、お主、やるな」隠れた名刀の匠を持ち出すと曹長は感心してくれたが、これも子連れ狼で仕入れた知識だった。
「あとは妖刀村正の千子(せんじ)村正」「お前、刀剣マニアだろう」曹長の隣りから工作小隊の2曹が口を挟んだが、愛知県岡崎市出身の私は幼い頃から家康公の伝記を学んできた中でたまたま妖刀村正の逸話を知り、興味を持って調べただけだった。
「ついでに江戸新刀代表で四谷正宗・源清麿」「よし、百点満点、合格」実は高校時代、私の前々任の生徒会長だった先輩が刀鍛冶の息子で、卒業後には関(=兼元)へ修業に行ったのだが、話が合う私に刀剣論を熱く語って聞かせ、知識を与えてくれたのだ。
それからは機会を見つけて刀砥ぎの技法について詳しく教えてもらうことになった。刀は刃を尖らせるだけではなく、先に行くほど細く薄くなる刀身の流れや厚みの線を乱すことなく整えなければならず、砥ぎ過ぎれば刀身がくぼんで切れ味が落ち、厚みを損なえば強度を失うことになる。このため特殊な砥石を使うのだが入手も次第に難しくなっているそうだ。
平山曹長の刀剣講座はノート1冊になったが、「脇差で夏のボーナス、大刀は冬のボーナス」と言う具体的な料金だけは記入しなかった。あくまでも副収入は規律違反ですから。
  1. 2015/05/29(金) 09:11:33|
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5月29日・次郎長一家・小政の命日

明治7(1874)年の明日5月29日は次郎長一家・小政の命日です。
小政は次郎長一家を唄った「旅姿三人男」の開口1番で「清水港の名物は お茶の香りと男伊達 見たか聞いたかあの啖呵 粋な小政の粋な小政の旅姿」と先陣を飾っています。
浪花節の人気演目だった「次郎長三国志」は映画やテレビでも度々取り上げられシリーズ化されていますが、映画の東映版では里見浩太郎さんが演じ、時代劇スターへの足掛かりになりました。
小政と言えば大政とワンセットで語られ「旅姿三人男」でも1番、2番と続いていますが、これは名前がどちらも政五郎だったため「身体の大きさで呼び分けた」「大政の方が年上だった」「次郎長一家内の序列だった」「喧嘩の強さで順番を付けた」とも言われています。
また大政が槍の名人になっているように小政は逆に匕首(あいくち=短刀)の名手とされ、これも「槍だから大政・匕首だから小政」と「大政小政」の由来の1つになっているようです。
小政愛用の匕首は柄の部分に重りを着け、威力を増す工夫がされているそうです。野僧は短剣道5段の匕首の専門家ですが、刀身の重みで身体を断裂できる剣道とは違い、短剣の場合は当てただけでは傷をつけるだけになってしまうため、振るのとは別に力を加えなければなりません。その意味では小政の工夫は適切であり、名手だったと言うのは真実でしょう。
野僧が小政の命日を知ったのは意外な場所でした。それは托鉢中に弁当の握り飯を食べた浜松市高町の日本たばこの傍の公園にあった浜松監獄跡の石碑です。そこには次郎長一家の小政が収監中に死んだことが記されており、墓が幸(さいわい)町の曹洞宗・大聖寺内にあることを聞き、訪ねてみました(後述)。
その後、裁判資料に当たってみたところ、明治6年2月7日に出された判決文には「産業(=定職)なくして脇差を帯して歩行、その上博徒どもと招結(=集めて)し、博奕(ばくやく=さいころ博打)す科(=罪)」で刑期は5年とありますが、気になったのは本人の身元でした。そこには「遠江国敷知郡浜松宿新町 雑業 由五郎弟政五郎事 吉川冬吉」とあり、これでは広く流布されている大政の常滑と同じ尾張の名古屋城下出身と言う俗説は虚構で、森の石松と同じ遠州の浜松出身で本名は冬吉と言うことになります。さらに市史の資料を読むと博徒・小政=冬吉は天保13(1842)年に浜松城下新町の桶屋・吉川屋由蔵の2男として生まれ、家計を助けるため庭で飼っていた鶏の卵を売り歩いている間に次郎長と出会い、浜松宿の博徒・国領屋亀吉と魚問屋の仲介で身内になり、大政と同じく養子になって山本政五郎と改名したのですが、明治以降、次郎長が清水の治安維持や富士山麓の開墾や茶の販売などの堅気の正業に力を入れている中、渡世の道を歩み続け、掛川宿に移り住んでから博打絡みで2人を惨殺したことが、この逮捕・収監につながったようです(この時代は刑法が未整備で江戸時代はヤクザ同士の抗争に公儀は不介入だったので罪にならなかった)。
大政は50歳で次郎長の片腕のまま病没したのに対して、「粋な」小政は32歳で監獄内に死んだのです。前述の墓は次郎長との仲介をした国領屋亀吉の妻が遺骸を引き取り、建立したとのことです。
こんな興味本位の研究につき合ってくれた浜松市図書館と住職に感謝します。
  1. 2015/05/28(木) 08:58:13|
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振り向けばイエスタディ83

生越ドラゴンが松島の第4航空団司令に栄転し、後任の司令は正反対な人物だった。一応はパイロットなのでウィングマークを維持するため規定の飛行時間を消化しなければならず月に1度は飛ぶのだが、それは戦闘機ではなく連絡機のTー33Aなのだ。整備員たちは「せめて複座の(Fー104)DJで飛べよ」と嘲笑していたがランディング(着陸)してエプロン(駐機場)に戻り、機体から下りる時も自分では立ち上がれず、機付長(機体の担当整備員)の手を借りる始末だった。
さらに「基地内でランニング中、酸欠になって航空機の酸素タンクを管理している修理隊の救命装備班に現れマスクで吸っていった」と言う噂が広まると、若い隊員たちは「生越ドラゴンは松島でブルーインパルスに乗ってるんだろうなァ」と懐かしがっていた。
そんな司令の評判を決定的に落とす事件が起きた。芦屋基地のWAF(空自の女性自衛官)の空士長である司令のお嬢さまが研修でやって来たのだ。
お嬢さまが乗ったCー1が到着すると出迎えていた副官の3尉が大きな荷物を受け取ってエプロンに待たせてあった黒塗りの司令車の後部座席に座らせた(=司令の席)。それを見ていた他の搭乗者たちは呆気に取られ、その話を職場や内務班で広めた。
さらにお嬢さまが芦屋基地で同棲していた修理隊の空士長が研修期間中に増加警衛勤務についていることが判ると副官から交代を指示され、私が勤務することになった。
警衛勤務についてもお嬢さまの評判で持ち切りで、芦屋から転属してきた隊員から「お嬢さまは服務規律違反の常習犯で、それを司令が電話を掛けて揉み消していたことは有名だった」と聞いた。すると待機室にシーツを持ってきて我々の噂話を聞いた警備の隊員が口を挟んだ。
「さっき司令のお嬢さまが男と外出しましたが、飲み屋の姐ちゃんみたいだったすよ」「あのド派手な服は芦屋でも有名だったよ。だったら朝まで帰ってこないな。帰隊遅延しても電話1本だよ」しかし、今回はもっと凄かった(と後で聞いた)。
翌朝になって出勤前の支度に忙しい隊員たちの前を飲み屋のホステスにしか見えないド派手なワンピースを着た女がトイレから歩いてきたのだ。
「誰か単身赴任者が連れ込んだのか?」「あの年なら相手は若い奴だろう」などと隊員たちが噂をしながら見送ると、その女は例の空士長の部屋へ入っていった。その2人部屋の相手は初任空曹課程に入校中なので昨晩は2人で過ごしたらしい。
「あれが司令のお嬢さまかァ」「ここにWAFを泊めていいのか?」「それよりアイツは日勤だろう」「関わると厄介だから放っておけ」そんな噂を小声で交わしながら隊員たちは食堂に向かったが、私が警衛勤務を終えて内務班に戻ると問題の空士長の部屋で小隊長と分隊長が指導しているのが見えた。それでも副官の指示で相手の空士長には研修期間中の休暇が与えられ、2人で外泊して帰ってこなかった。
したがって今回の総合演習は全く盛り上がらなかった。司令部の幹部まで「生越司令は自分が飛びたくて仕方ないのを我慢して指揮所の椅子に座ってるのが判ったが、今度はグチグチとくだらない指示ばかりで気疲れする」とこぼしていた。
  1. 2015/05/28(木) 08:57:15|
  2. 夜の連続小説8
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5月28年・現代の禅画家・高塚省吾(せいご)の命日

平成19(2007)年の明日5月28日は日本女性の裸を描かせれば敵う者はいない画家・高塚省吾先生の命日です。76歳でした。
野僧の現役時代、防衛庁共済組合のカレンダーが高塚先生のパステル画だったことがありましたが、前年まで続いていた雛形あき子さんの水着カレンダーと違って希望者が少なく、容易に入手することができました。野僧は小学生の頃から本棚の画集でミケランジェロ、レンブラント、ゴヤ、ルノワール、アングル、モディァーニ、ブグロー、ピカソなどの裸婦像に親しんでいましたが、高塚先生が描く日本人女性の美しさには強く深く感銘を受けたのです。
高塚先生は岡山県岡山市出身で、小学生の頃から児童コンクールで入選を重ね、東京芸術大学では梅原龍三郎画伯、林武画伯などに師事し、卒業後は当時流行していた表現主義、構成主義の作品を発表したものの全く評価されませんでした。この頃の作品1954年の「花束」や1969年の「6つの意志」を見ると技法は巧みでも明確な個性=インパクトを感じられず、野僧のような素人でも「駄目だろうな」と思ってしまいます。このためバレーの衣装デザインや雑誌の挿絵、映画の題名の背景の仕事で食べることになりましたが、やがて東京大学の佛教青年会で曹洞宗の坐禅会に参加するようになり、既成概念や自己の価値観を捨て、ありのままをキャンバスに投影することを思い立ち、1976年の「海」やその後の「薔薇」「白と黒」などで風景と肉体の一部を融合させた写実的な表現に移行し、それが裸婦像へと発展していったのです。
ちなみにカレンダーになったパステル画は試作の段階で、実際はキャンパス生地が分るほど薄塗りの油絵で、高塚先生はそれに日本画的な輪郭線を入れることで存在を際立たせています。何にしても日本女性のきめ細かい肌の質感と全てに控え目な肉体をここまで見事に表現し得た画家は他にいないでしょう。美術評論家などの中には服やズボン、帽子を身にまとい、花などを手に持っている作品について「裸体の美しさを際立たる技巧」と解説していますが、野僧は高塚先生の裸婦像は自己解放と世界との一体化を表現する「禅画」であり、この一点は解放し切れない存在を表現していると解釈しています。
昔はこの浴衣の絵の額を玄関に飾っていると来庵した人のほぼ全員が「奥さんのヌードですか?」と訊き、義母に至っては「娘の裸の絵を描かせた」と激怒しました。確かに同居人は元モデルではありますがヌードの仕事はしていないそうです(本音を言えばハーフだった亡き妻の方が好みです。やはり自分で選んだ人でしたから)。
1つ補足すると高塚先生の制作風景を紹介する本に写っていたモデルさんは顔や身体も普通の女性で、作品のような気品ある清純な美女ではありませんでした。つまりモデルを踏み台にして自分の理想を形にするのも画家の悦びなのかも知れません。
高塚省吾「おくれ毛を」「おくれ毛を」
高塚省吾・しのび舞い「しのび舞い」
  1. 2015/05/27(水) 09:36:23|
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振り向けばイエスタディ102

その頃、那覇市議会では本土のマスコミが報じ始めた市職員労組や県教組などによる自衛官や家族への迫害が問題になり、少数派の保守系議員が市長を追求した。
「公務により沖縄へ赴任してきた隊員の転入手続きを妨害したり、その子弟の転校を拒否するのは那覇市の良識の欠落を本土に宣伝しているようなもので恥ではないのか?」「自衛官は沖縄を本土決戦の時間稼ぎのため戦場にした日本軍と同じ目的で赴任して来ている。だからそれを阻止するのは沖縄の人間として当然の自衛処置だ」この回答に議場では拍車が湧いた。
「しかし、自衛官にも日本国憲法が保障する基本的人権はあるはずだ。それを那覇市職員が侵害していいのか?」「日本国憲法に違反している自衛官に憲法が保障する人権はない」この暴言と断じてよいはずの市長の答弁を地元新聞2紙とNHKを含む地元テレビ各局は「画期的答弁」と絶賛したが、本土のマスコミは無視した(取材していなかった?)。

9月15日、美恵子は21歳になり、次の日曜日の夕方は誕生祝いと演習前のスタミナ付けに波の上へステーキと張り込んだ。注文を終えてステーキが出てくるまで、いつものようにたわいのない話をして待っていた。
「俺たち、つき合い初めて2年だね(中断した半年を除くと)」「うん」私の何気ない台詞に美恵子は真顔でうなずいた。
「でも私、ニンジンさんみたいに勉強していないし、まだまだ判らないことばかりさァ。貴方に追いつける自信がないよォ」この答えは想定外だった。最近、私の小難しい話に美恵子が哀しそうな顔をすることがある。2人でいながらそれに気づかなかった自分の鈍感さに腹が立ち、次の言葉に迷った。
「何を言ってるのさァ。俺が美恵子に色々なことを教えてもらってるんだよ」「えッ?」美恵子が顔を上げ私を見つめた。
「今の私で大丈夫ねェ?」「もう、十分さ」微笑んで見返すと突然、美恵子が泣きだした。
「ありがとう、嬉しいさァ」美恵子は泣きながらそう繰り返す。
「嬉しいなら泣くなよ」「だって嬉しいさァ」美恵子の台詞は答えになっていない。私は「ホッ」と安堵の溜め息をついてそっとハンカチを手渡した。
気がつくとステーキを運んできた店員さんが私たちに驚いて困っている。私は「別れ話じゃあないよ。その逆さァ」と説明したかったが止めておいた。
「泣くなよ。折角のステーキの味が判らなくなるぞ」「だってェ」美恵子は私のハンカチで鼻をかみながら笑った。
  1. 2015/05/27(水) 09:31:26|
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5月27日・戦艦ビスマルクが自沈した。

1941年の明日5月27日にナチス・ドイツ海軍の戦艦ビスマルクが自沈しました。
戦艦ビスマルクはナチス・ドイツがベルサイユ条約を破棄した翌年の1936年7月に起工され、第2次世界大戦が始まっていた1940年8月に就役しています。その半年後の1937年11月に日本では戦艦大和が起工され、同じく半年後の1941年12月に就役しました。
戦史マニアの中には大和・武蔵を「帝国海軍の大艦巨砲主義が生んだ前時代の遺物」と揶揄する者もいますが、対するアメリカはアイオワ級戦艦の1番艦・アイオワを1940年6月に起工して1943年2月に就役させて以降、4番艦・ウィスコンシンを1941年1月起工で1944年4月に就役させるまで2番艦・ニュージャージ、3番艦・ミズーリも建造し、イギリスに至ってはキング・ジョージ5世(2代目)を1937年1月に起工して1940年12月に就役させただけでなく、新たに設計した戦艦ヴァンガードを大戦中の1941年10月に起工して終戦1年後の1946年8月に就役させて、ウィストン・チャーチルに回顧録で「我々の海軍は戦艦なんて物で戦ってしまった」と歎かせています。その点、日本海軍は大和級3番艦・信濃を無理にでも空母に改造していますから独米英よりは新たな時代の到来を理解していたのではないでしょうか(アメリカは別に空母を続々と量産した)。
ナチス・ドイツが最大、最強と誇っていたビスマルクですがそれはあくまでも就役した時点の話で、ビスマルク級(2番艦はティルビッツ)は全長241・55メートル、全幅36メートル、基準排水量41700トンなのに対して大和級は全長263メートル、全幅38・9メートル、基準排水量64000トン、アイオワ級も全長270メートル、全幅33・1メートル、基準排水量48500トンですから遠く及ばず、4か月後に就役したイギリスのキング・ジョージ5世(2代目)は全長248・3メートル、全幅32・8メートル、基準排水量44500トンなので早くも抜かれています。
最強の尺度である武装もビスマルク級の主砲は38・1サンチ連装砲×4基なのに対して大和級は46サンチ3連装砲×3基、アイオワ級は40・6サンチ3連装砲×3基なので勝負にならず、逆にキング・ジョージ5世(2代目)はロンドン条約の制限内で設計したため35・6サンチ4連装砲×2と連装砲×1で砲の数では勝っているものの総合力ではビスマルク級の方が強そうです。つまり太平洋の日本VSアメリカと大西洋、北海、バルト海のナチス・ドイツVS大英帝国では艦のレベルが全く違い、戦術も時代格差があったようです。
尤も「艦隊決戦」で勝敗を決する近代海軍戦術を提唱したマハン提督はアメリカ人であり、日本は天才・秋山真之中将が直弟子として学び、帰国して海軍大学校戦術教官、連合艦隊作戦参謀に就任して植え替えることに成功しましたが、イギリスは「こちらが本家」と言う自意識があり十分に根づかせることができなかったのかも知れません。
ナチス・ドイツとはドーバー海峡を挟んで対峙しているイギリス海軍にとってビスマルクは目障りこの上ない存在で、それを葬り去ることは至上命題でした。
そこで1941年5月24日にデンマーク海峡で戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦フッドが遭遇すると砲撃戦を交わしたものの逆にフッドは撃沈、プリンス・オブ・ウェールズは中破されました。ビスマルクの存在を確認したイギリス海軍は追撃戦を開始し、空母アークロイヤルや駆逐艦隊、そして戦艦キング・ジョージ5世(2代目)、同ロドニー、重巡洋艦ノーフォーク、同ドーセットなどを続々と急行させ、集団リンチ状態で満身創痍に追い込んだのです。こうしてプロシア騎士の美学に殉じ、艦底に設置されていた自沈用の爆薬が点火され、フランス西北部ブルターニュ半島沖の西方650キロの大西洋に沈みました。
  1. 2015/05/26(火) 09:28:48|
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振り向けばイエスタディ101

奥さんからの告白を聞いて下村2曹は小隊長に連絡した上で警察に通報した。ところが警察は「犯人たちが口にしていたのが標準語であることから考えて本土からの活動家であり、すでに逃亡している可能性が高く捜査は難しい」と言っていると警務隊を通じて情報が入った。
さらに警察署に待機していた地元新聞の記者たちがアパートへ取材に押し掛け、近所の住民たちに「下村さんの奥さんが強姦された件で」とインタビューを始めたため忽ち周囲に知れ渡ってしまった。そして地元新聞2紙は「告訴するなら記事にしたい」と了解を求めてきたが、これは「告訴すれば県内中に知れ渡るぞ」と言う反戦活動家を守るための圧力であることは明らかだった。また被害者に了解を求めたことで反戦活動家が起こした事件として本土の新聞が取り上げることへの牽制にもなるはずだ。
子供の小学校でも教師が「お母さん、大変だったね。だけどお父さんが自衛隊だから悪いんだよ」と教室で慰めたため同級生とその親たちにまで母の悲劇が知れ渡り、子供が下村2曹に「お父さんのせいでお母さんが酷い目に遭ったの?」と抗議の質問をするようなった。
こうして下村2曹は奥さんと子供を実家に帰し、単身赴任者として内務班に入ることになったのだ。

下村2曹は内務班でも酒浸りになり、入浴のついでに隊員クラブへ直行して酒をあおり、酔うと泣き叫びながら暴れる困った存在だったが、私たちは哀しい思いで聞いていた。
「『アイツ等はお前の夫が自衛隊だから悪い』って言いながら女房を犯したんだ」「『日本軍は朝鮮人の女を慰安婦にしていたのだからお前が慰安婦になるのは当たり前だ』と言いながら代わる代わる犯したんだ」「『米軍は沖縄の女性を犯しまくっているから、その手下の自衛隊が償うのは当然だ』って言うが俺や女房に何の関係があるんだ」こう叫びながら頭を壁に打ちつける下村2曹の額からは血が吹き出ている。酔いが醒めれば「これじゃあ(劇画「愛と誠」の)大賀誠みたいだな」「早乙女なら主水之介の方か(=旗本退屈男)」などと照れたように誤魔化すが夜になれば同じことの繰り返しだった。那覇病院の医師からも「傷口が治癒する前に繰り返すと縫合が困難になる」と注意を受けていた。
下村2曹は警察での事情聴取で奥さんの供述内容を聞かされたと言う。事実関係の整合を図ると言う名目はあるとしても、これは本土の警察では考えられない無神経さであり、むしろ自衛官を傷つける意図であえて説明したとしか思えなかった。

結局、下村2曹は奥さんの実家から「離婚するか」「自衛隊を辞めるか」の選択を求められ、単身赴任ではない営内者になった。
  1. 2015/05/26(火) 09:26:14|
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振り向けばイエスタディ100

内務班にある過酷な事情を抱えた空曹が入ってきた。下村2曹は半年前の3月、九州の部隊から奥さんと小学生の息子さんを連れて転属してきて家族と沖縄の夏を楽しんでいた時だった。8月15日の終戦の日を名目にした反戦平和運動のビラを配る男たちがアパートにやってきた。チャイムが鳴って奥さんが鍵を外すと1人の男が九州の官舎の感覚でチェーンをしていなかった部屋のドアを引き開けた。
「こんにちは。沖縄を平和な島にする運動をしている者です。沖縄から米軍と自衛隊を追い出して再び戦争に巻き込まれることがない恒久平和の島にするための署名をお願います」男は丸暗記してきたらしい台詞を並べた後、「沖縄でアメリカ兵が起こした犯罪」と印刷されたビラを差し出した。
沖縄に来るまでは基地に隣接する官舎に住んでいた奥さんはこのような活動家に接したことがなく、何と言って断ったらいいのか困ったが、(本土では)常識的な言葉を選んだ。
「ウチの主人は自衛官ですから困ります・・・」この言葉に男の目が暗く光った。
「アンタの旦那は自衛隊か!」語気も荒くそう言い放った男は手に持っていた署名用のバインダーをドアに挟んで閉めると、恐怖に言葉を発することもできないまま後退りする奥さんを追うように土足のまま玄関を上がってきた。居間にまで追い詰められた奥さんが悲鳴を上げようとした時、ドアが開いて複数の男たちが入ってきた。
「何だ」「どうした」男たちはすがるような眼で見ている奥さんではなく押し入った男に声を掛ける。
「ここの夫は自衛隊なんだ」押し入った男が吐き出すように言うと男たちも顔色を変え、土足のまま押し入ってきた。同時に最初の男は奥さんの口を押さえながら馬乗りになり、続いた男たちは手分けして手足を押さえた。
そして馬乗りになった男は奥さんのTシャツを引き上げ、強引に下着を外した・・・。

下村2曹が帰宅すると子供が1人でテレビを見ていて、いつもは夕食の支度をしている奥さんは寝室だった。引き戸を開けて入ると奥さんは背中を向けて肩を震わせている。
「どうした・・・?」下村2曹が歩み寄ると奥さんはその場に泣き崩れた。
  1. 2015/05/25(月) 09:18:04|
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5月25日・作曲家・ホルストの命日

1934年の明日5月25日はイギリスの作曲家・グスターヴ・ホルスト先生の命日です。ホルスト先生と言われても知っている人は少ないでしょうから組曲「惑星」の作者と補足しますが、それでも判らなければ2004年に(CDの発売は2003年12月)平原綾香さんが日本語の歌詞をつけて唄った「木星・ボイジャー」の原曲を書いた人です。
クラシック好きな中学生だった野僧はブラスバンド部の連中とレコードを交換して鑑賞していましたが、組曲「惑星」を貸した友人は「木星のレコードだ」と言って渡しました。
そう言われて全曲を聞くと確かに「木星」は感動的だったものの野僧個人としては軍歌のような響きがある「火星」の方が好みです。ただ曲の構成から言えば「土星」が1番長く中心であるような印象を持ちました。この組曲を深夜にカーテンを閉めて灯りを消し、ヘッドホーンで大音量にして聞くと狭い6畳の部屋が無限の宇宙空間のような気分になりました。
その一方でそれぞれの曲の題名になっている日本語の惑星の名前では旋律が奏でる音楽のイメージと結びつかないため、学校の図書室でギリシャ神話と天体の本を借り、惑星の名前の由来について調べることになったのです(後年、ギリシャ神話の月の女神の名前を持つ彼女から詳しく教えられ、この記事はそちらのネタです)。
先ずは8つの惑星のうちオリンポスの12神の名前なのは「水星=英語名・マーキュリー、ギリシャ語名・ヘルメース、日本名・水野亜美?(以降、この順)」「金星=ビーナス、アプロディーン、愛野美奈子?」「火星=マーズ(マルス)、アーレス、火野レイ?」「木星=ジュピター、ゼウス、木野まこと?」「海王星=ネプチューン、ポセイドン、日本名・海王みちる?」です(この日本名はセーラー戦士です=冗談。亜美ちゃんのファンなのでアシカラズ)。
アポロ計画で使用された大型ロケットはサターン型ですが、日本人はこれをサタン=悪魔と誤解し、「何故、縁起でもない名前をつけたのだろう?」と疑問に感じていましたが、実際は土星の英語名なのです。ギリシャ語名ではクロノスと言い12神ではない天空と農耕の神です。
残った天王星は英語名・ウレイナス、ギリシャ語名・ウラヌスで、こちらはサターンの父親で、天空の神の前任者です。
日本人は理科の授業で「水金地火木土ッ天海冥」と覚えているため「冥王星がないぞ」と思うかも知れませんが、冥王星がクライド・トンボー先生によって発見されたのは1930年なので、ホルスト先生がこの組曲を発表した1917年の時点ではまだ認知されていませんでした。また2006年になって天文学会が「太陽の周りを公転している」「自己の重力で球形になり、姿勢を安定させる程の質量を有している」「軌道上の他の天体を排除している」と言う惑星の定義を採択し、この定義を完全には満たさない冥王星は準惑星とされています。補足すれば冥王星の英語名はプルート、ギリシャ語名はプルトンで、冥府=あの世の神です。
さらに組曲「惑星」と言いながら地球も入っていませんが、ホルスト先生は占星術に傾倒しており、星空を見上げながら構想したそうですから足下の「地球」には想いが至らなかったのでしょう。「地球」の英語名・アースは大地を意味する古い英語で、ラテン語名の「テラ」は野僧が高校に入った頃のSF漫画「地球(テラ)へ」で有名になり、アニメの主題歌もヒットしました。ギリシャ語名の「ガイア」は現在、ビジネスマン向けの教養番組で「夜明け」になっています。ところでマグマとモル夫婦を生んだアースさまは何の神さまなのでしょうか?
この曲は映画音楽などにもつまみ食いされており、全曲を聞いていると「あれッ?」と思うこともあります。BGMには適当な曲ですが、「火星」のバイオリンの弦を叩くように演奏する音色の圧迫感だけは要注意です。
水野亜美水野亜美ちゃん=セーラー・マーキュリー
  1. 2015/05/24(日) 08:48:10|
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振り向けばイエスタディ99

奥武山公園からママさんのスナックは歩いていける距離だ。美恵子は国道沿いの歩道を先に歩いていき私は後を追い掛けながら言い訳を繰り返した。
「庄野真代は歌手さ、美恵子とは違うさァ」「どう違うねェ」「美恵子は違うタイプの美人さァ」「嘘!」「美恵子が俺のタイプさァ」「口ばっかっり」「美恵子は・・・」「私は何ねェ?」そう言うと美恵子は立ち止まり振り返った。少し涙ぐんでいる。私の言い訳を聞いていて更に怒ってしまったようだ。
「美恵子は大切な人さァ」「ふんッ」結局、美恵子が怒ったままでママさんのスナックに着いてしまった。

「いらっしゃいませ」ドアを開けるとママさんが声をかけてきた。
「美恵子、何を脹っ面してるねェ?」久しぶりに来た美恵子の顔を見ながらママさんは呆れたように訊いてきたが、席に座ると美恵子は先ほどの顛末を一気に捲し立てる。
「それっておノロケって言うのさァ」ママさんがカウンターの中で腕組みしながらクールに言ったので、私は「ホッ」と溜息をついた。
「美恵子、焼き餅もホドホドにしないと少林寺に嫌われるよ」ママさんが叔母の顔で言うと美恵子は「えッ」と今度は怯えたような顔をした。
「少林寺もこんな時は怒らないと駄目さァ」「はァ」私も返す言葉がなかった。
「そんなんじゃあ、尻に敷かれちゃうよ」ママさんはニヤッと笑いながら言った。
「もう手遅れ、座布団さァ」私が答えると美恵子は「酷ーい!」とまた膨れる。
「少林寺、こんな不束な姪ですけど、よろしくお願いします」「はい、引き受けました」膨らんでいる美恵子はほかっておいて、私とママさんで談笑を始めた。
「でも少林寺、こんな焼き餅焼きのどこがいいのさァ」「そこが可愛いのよォ」「美恵子の焼き餅は少林寺が好きだからさ」「俺も大好きだよ」「少林寺が優しくて美恵子は幸せさァ」「だって愛してるもん」突然、鼻をすすり始めたので2人で見ると美恵子は泣いている。
「おまけに泣き虫さァ」「そこもいいのよォ」私の台詞に美恵子は「ごめんなさい」と小声でうなずいた。
「だからアンタたちの喧嘩は、おノロケだって言うんだよ」そう言ってママさんは笑った。
「美恵子、アンタは少林寺に遊んでもらってるんだよ。手の中で」「だったら美恵子は孫悟空なんだァ」「私は猿ねェ!」またまた美恵子の頬が膨らみ、それを見て私とママさんは大笑いをした。
  1. 2015/05/24(日) 08:46:41|
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振り向けばイエスタディ98

しばらく話しながら待っているとコンサートが始まった。庄野真代はフォーク界きっての美人シンガーと言われているだけあって抜群の美貌で、何よりも大人の女性の色香が匂い立つようだった。
「飛んでイスタンブール」「乾杯、モンテカルロ」の外国地名シーズは内務班で先輩が聞いていたはずなので観客を振り返ってみたが、すっかり日が落ちて暗くなった客席と明るいステージの落差でよく判らなかった。
私は次第に生のプロの歌声に引き込まれ、「ジョーの肖像」「ルフラン」「マスカレード」「逃亡者」などの大人の歌が続くと庄野真代の魅力で完全に酔わされてしまっていた。ところがコンサートが終ると突然、美恵子が怒りだした。
「もーッ、何を夢中になってるのさァ」そう言った美恵子は頬を膨らませている。
「はァ?」私は何のことか判らず、戸惑いながら顔を見返した。
「ニンジンさん、夢中になって私が何回声をかけても気がつかなかったさァ」確かに私は庄野真代の歌と言うよりも彼女の美貌と抜群のプロポーション、優雅な仕草に見惚れていて声を掛けられたこと自体に気がつかなかった。
特に「アデュー」の「若くはないわ もう昔のように 抱き締められたら 全てを捨てた きっと・・・」の悩ましげな声には1人で胸をときめかせていた。
「やっぱりニンジンさんはああ言うタイプが好きねェ」そう言うと美恵子は先に立って歩き出したが頭からは湯気が立ち上っているようだ。
確かに4歳年下で子供っぽい美恵子と比べ、7歳年上の庄野真代のような大人の女に憧れる気持ちはある。しかし、それは一瞬の気の迷いだろう。
庄野真代庄野真代さん
  1. 2015/05/23(土) 09:13:35|
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振り向けばイエスタディ97

「たまには旦那さんと遊びに行くさァ」美恵子の理髪店の店長がウチナー盆(太陰暦の7月15日)の日曜日の夕方、仕事を早く上がらせてくれた。それにしても店長は相変わらず私のことを「旦那さん」と呼んでいるらしい(気が早い)。
「奥武山公園の納涼祭りに行こう」「うん、やったァ」早く上がれることを知らせる美恵子の電話でそのまま話を決めた。
「ニンジンさーん」基地のバス停で待っていると糸満発、那覇ターミナル行きのバスの窓
から顔を出して、美恵子は嬉しそうに声をかけてきた。すると周囲で一緒に待っていた連中が一斉に私と美恵子を見比べる。
「おゥ」と返事をしながらバスに乗り込んで美恵子がカバンを置いていた席に座ると美恵子は笑顔全開だった。
「本当は浴衣着て来たかったさァ」「そうか、見たかったな」そう言って美恵子はバスの中の浴衣姿の女の子たちを見た。美恵子は仕事のエプロンを外しただけのサマーセーターにGパンだった。
「でも私の浴衣はおカァからおネェ2人のお下がりさァ」と美恵子は不満そうだ。
「基地の盆踊り大会に来られるようになったら買うさァ」「えッ?」美恵子は驚き半分、嬉しさ半分で全開の笑顔をさらにパワーアップさせる。と言いながらも私は頭の中では美恵子の顔と浴衣姿は上手く画像を結べなかった。
奥武山公園前のバス停で下りると、あたりは浴衣の女の子と連れたカップルで一杯だった。
ただ、やはり沖縄の顔立ちの女の子にはあまり浴衣は似合わないように思う。
「迷子になりそうさァ」そう言いながら美恵子は手をつないできた。そう言えばそろそろ薄暗くなって、公園内は提灯の灯りが点り、雰囲気が出てきている。公園のメインストリートには露店が並び、美恵子は子供のように一軒一軒楽しそうに覗いているが、どちらかと言えば買い物が苦手な私はそれを後ろから見ていた。
人ごみの中には基地で見る顔もあって女連れ同士で一瞬彼女を見比べて勝負するのは男の性だろうか?中には美恵子の友達もいて今度は女同志で勝負している。美恵子は「勝ったァ」と言う顔をしているが私としては自信がなかった。
「7時から庄野真代のコンサートやるさァ」公園内の野外特設ステージで行われるコンサートの看板を見つけて美恵子は目を輝かせた。
「庄野真代って知ってるのか?」「うん、化粧品のコマーシャル・ソングを唄ってたさァ」それは「Hey Lady 優しくなれるかい」と言う私が大学に入った年のヒット曲なので、美恵子はまだ中学生だったはずだが、もう化粧品に興味を持っていたらしい。その話題から帰りはママさんのスナックでカラオケを歌うことが決まった。
「早目に行って前の方に座ろう」私たちは露店で缶ビールと缶ウーロン茶、たこ焼を買い、特設ステージに向ったが最前列のステージの真下の席に座ることができた。
(庄野真代は大阪の中学の生徒会長だったそうで、そこに妙な親近感を持っていた)
ね・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/05/22(金) 09:38:01|
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振り向けばイエスタディ96

ある日、補給隊にFー4EJ用の整備工具を受領に行った。那覇基地の補給隊の倉庫は米軍当時から使われている大きな建物でトラックの荷台に合わせたプラットホームがあり非常に機能的だった。
補給隊ではその広い倉庫を無粋にロッカーで区切り、迷路のようにして使っているため滅多に来ない者は用件がある場所が判らず迷子になってしまう。
私も補給隊の隊員に「工具を受領に来た」と用件を伝え、教えてもらったのだが言われた場所に担当者がおらず、仕方がないので置いてある珍しい器材を見ながら待っていた。
すると突然、ロッカーの向こうで「大変だァ」「誰か来てくれ」と言う絶叫が聞こえた。同時に倉庫内に駆けつける人の足音が響き、私もロッカーを迂回した。
そこには脚立が倒れていて、天井のクレーンの鎖からつないだ紐で隊員が首を吊っていた。
「おい、☓☓、☓☓」その隊員の上司らしい1曹が足元で声を掛けているが、首は長く伸び、目が腫れ上がり、口から舌が飛び出して完全に死んでいる。
私に続いて駆けつけた2曹が「兎に角、下ろしましょう」と言って脚立を起こしたので、私は彼の足を両腕で抱えて支えるとズボンの前には尿、後ろに便が滴り落ち、それが首筋に伝わった。
脚立を起こした2曹が上って紐を外そうとしたが、大人の体重が掛かっていてビクともしない。そこで上から「ハサミだ。切れる大きなハサミを持ってこい」と声を掛けた。そこは補給隊である。リテイル(消耗品)係が新品のハサミを持ってきて箱から出して下から手渡すと2曹は紐を切った。同時に私の腕に全体重が掛かったが倒さないように降ろしたため鼻から鼻水、口からは涎を垂らしている遺体と頬ずりしてしまった。
別の隊員の手を借りて敷いた毛布に仰向けに寝かすと、外から救急車の音が響いてきて、間もなく自衛隊那覇病院の医官と看護婦が入ってきた。
こうなると私の出番は終わりである。そのままトイレに行き、両手と顔を念入りに洗ったが、顔を洗い終わって前を見た時、鏡に死んだ隊員が映らないか冷や冷やした。
作業服と下着についた尿と便、鼻水と涎は洗面台で手荒いし、洗濯機で脱水するくらいしかなかったが、帰ろうとした時、補給隊の需品(被服担当)係が「御迷惑様でした。これは員数外ですからどうぞ」と新品の作業服をくれた。
結局、工具の受領は後日になったがそこで第1発見者だった1曹から聞いた話によると原因はすでに同棲していた行きつけの飲み屋のママさんとの結婚に親が「沖縄の女、それも水商売の女などとは絶対に許さん」と猛反対したため、「今までの生活費を返せ」と要求されたことだと言う。そこへ作業服をくれた需品係が顔を出した。
「モリヤ3曹は坊さん何だって?」「はい、一応は資格を持っていますよ」「だったら遺品の弔いをやってくれよ。残業していると泣声が聞こえるって言う奴が多くて困ってるんだ」実際は親を恨む背筋が凍りつくような呻き声だと言っていた。可能であれば録音してウチの親に聞かせてやりたかった。
  1. 2015/05/21(木) 09:46:20|
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5月21日・坂東俘虜収容所の松江豊寿所長が亡くなった。

昭和31(1956)年の明日5月21日に第1次世界大戦後に開設された徳島・坂東俘虜収容所を極めて人道的に運営し、ドイツ人に親日感情を与えた松江豊寿所長が亡くなりました。83歳でした。
ドイツは元来、アジア人、アフリカ人だけでなくユダヤ人、ラテン人、スラブ人、コーカソイドなども蔑視しており、それがアドルフ・ヒトラーの「アーリア民族至上主義」につながったのですが、松江所長への称賛が広まったことで「日本人は非ヨーロッパでは唯一の文明人である」とする特別な存在として認知されたそうです。このため野僧のドイツ人の友人たちも松江所長の名前を知っており、「元自衛官=軍人」と分かると人物像、軍歴、人生について質問してきました。
松江所長は明治5(1872)年7月11日に戊辰戦争の非道な殺戮・破壊から復興していない会津若松で警察官をしていた元藩士の長男として生まれました。
16歳で陸軍仙台幼年学校に入校すると陸軍士官学校を経て明治27(1894)に青森の歩兵第5連隊で陸軍少尉に任官し、日清戦争に従軍しています。明治33年には参謀本部へ転属したため2年後に起きた八甲田山での雪中行軍大遭難事件には関係せず、日露戦争では韓国駐剳軍(ちゅうさつぐん)として朝鮮半島に駐留していました。
そして大正3(1914)年に中佐で徳島俘虜収容所の所長、続いて大正6(1917)年4月に徳島県板野郡坂東町(現・鳴門市)に開設された坂東俘虜収容所の所長に就任し、8月には大佐に昇任しています。
坂東収容所には丸亀、松山、徳島の各収容所の俘虜が集められたほか、所長の真崎甚三郎(=2・26事件の扇動者)自らが虐待を行っていた久留米からも送られてきて、約1000名のドイツ人の街になりました。この時、地元の坂東町は村から町に移行して2年目で人口は現在でも2千人超に過ぎません。
松江所長はこの収容所を故郷・会津で見聞きしてきた薩長土肥による敗者への非人道的な仕打ちを教訓として運営することを決意し、俘虜への信頼を前提とする自治と労働以外の体育・文化活動、さらに地元民との交流を推奨したのです。
野僧は長年にわたり武力紛争関係法を研究してきましたが、坂東俘虜収容所の処遇は当時の日本国内の文化水準から見れば多少の不満はあっとしても、ジュネーブ条約で定められている基準を遙かに上回っています。
特に学校の遠足や社会見学、修学旅行のような野外活動や飲酒許可の各種パーティー、地元民への料理教室と工業・農業・芸術・体育の技術指導、さらに所内楽団のコンサート、そして所内の新聞での自由な論評などは流石のジュネーブ委員会も言い出せなかったレベルです。
坂東ではこの時の経験によりドイツ文化が根付き、四国の田舎とは思えないハイカラな店が軒を並べていました(特に本格的な洋食レストランには驚きました)。
俘虜たちはドイツに帰って「世界中のどこに坂東のような俘虜収容所があり、松江のような所長がいただろうか」と語り、半信半疑のドイツ人たちに熱弁を奮っていたそうです。
松江所長は大正11(1922)年5月に少将で退役すると12月から会津若松市長に就任し、大正14(1925)年まで勤めました。
ポーランド出身のヨハネ・パウロ2世もそうですが、敗者の方からこそ真の人道主義者は生まれるようです。
  1. 2015/05/20(水) 09:23:01|
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振り向けばイエスタディ95

「モリヤ、歌え!」テントの中で汗をかきかきカップラーメンにお湯を注いでいる城間3曹が声をかけてくる。しかし、ラーメン屋で哀切な残留孤児の歌は合わないので仕方なく、これも教授から習った景気の良い中華人民共和国国歌を歌った。
「起来! 不応 做奴隷的 人們!把我們 的 血肉,筑成 我們 新的長城!中華 民族 到了 最 危 険的 時候 毎 個 人 被迫 着発 出 最 后 的 吼 声 起来! 起来! 起来!我 們 万 衆 一 心 冒 着 ◆ 人 的炮 火 前進 前進! 前進! 進!」ただ中国の国歌は大東亜戦争中の「(日本軍と)戦え、倒せ、前進、前進」と言う軍歌のはずだ。
やがて「あのう、日本語わかりますか?」と2人の若い陸上自衛官が声をかけてきた。
「日本語少し、英語少し、中国語沢山わかります」と片言の日本語で答えると「一緒に写真を取らせて下さい」と彼らはカメラを見せたので「好々(ハオハオ)」と私は軽い悪戯心で了解した。
テントの前で彼らと写真を撮っていると数人が「私も」と声をかけてきて、商才に長けた城間3曹がすかさず「ラーメン一杯、中国軍と写真つき!」と言いました。
「エクスキューズ ミー」と米軍兵士にまで声をかけられるようになって、さすがに私は「国際問題になるとまずいな」と心配になってきた。軍人が他国の軍服を着ることは厳密に言えば戦時国際法上の「スパイ行為」に当たる可能性がある。それでも城間3曹は強気に「フォト サービス ウイズ ヌードル」と訳のわからない英語で声をかけていたが・・・。
私はカップラーメンが殆んど売り切れたところで城間3曹に「グッド ラック」と親指を立てて「終わり」の合図をし、テントの裏手でトレパンとTシャツに着替え、先ほどから我慢していたトイレに行った。すると最初に写真を撮った若い陸上自衛官が「航空ってすげえなァ、中国軍まで呼んでらァ」と感心した口調で言っていた。やっぱり本当に信じてた。
中国人民解放軍これは本物です。
  1. 2015/05/20(水) 09:21:51|
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振り向けばイエスタディ94

8月上旬の土曜日の夜、航空自衛隊那覇基地、海上自衛隊沖縄航空基地、陸上自衛隊那覇駐屯地合同の盆踊り大会があった。あの頃はまだ沖縄には盆踊りの風習がなく本土風の珍しい行事を楽しみに開放された基地のグランドには地元の人も大勢集まっていた。こう言う行事では新婚や彼女のいる隊員は新妻や彼女に浴衣などを着せて先輩や同僚たちに披露し、彼女のいない仲間や後輩に見せびらかす場でもある。しかし、時には彼女が別の隊員とも付き合っていたことが発覚することもあり、同じ女性と寝た者同士を航空自衛隊では「穴兄弟」と呼んで特別な友情で結ばれることもあった(どちらもその女性と別れていることが前提)。
また自衛隊のこのような行事では必ずと言っていいほど爆破予告、妨害予告の電話が入り、楽しい行事の裏では(彼女がいない独身者=来る人がいない)選ばれた隊員による厳戒の警備態勢がひかれている。私はと言うと美恵子は仕事を抜けられなかったため「来る人なし」で警備勤務のはずだったのだが、ある特技によって行事の方に参加することになった。我が修理隊は盆踊り会場でラーメン屋を開いた。と言っても直営売店で安く大量に仕入れたカップラーメンにお湯を注いで2百円と言う他の隊の焼きソバ屋や綿菓子屋、ヨーヨーすくいなどに比べると手抜きな商売だった、私はそこで客引きを命じられたのだ。
それは以前、修理隊の忘年会でA知大学(=北京外語学院と姉妹校)の学生時代に中国人留学生からもらった人民服と人民帽に赤い星と階級章をつけて仕立て上げた中国人民解放軍の軍服を着て、これも愛大で中国人教授から習った中国語の「残留孤児の歌」を歌ったことによる。哀切な残留孤児の歌は「沖縄残留孤児」を自称する単身赴任者たちを大いに感動させ、その後もたびたびリクエストを受けるようになったのだが、今回はラーメン屋のテントの前で中国人に扮してラーメン(と言ってもカップラーメンだが)を売り込めと言う難しい任務なのだ。
「来々(ライライ)、おいしいラーメンあるよ。本場中国の味あるよ」と私は人民解放
軍の兵士に扮して片言の日本語で客に声をかけた。客の中には「中国のカップラーメンか?」と皮肉を言っていく人や「ニンハオ」と声をかけていく人、「本物かと思ったらなんだモリヤか」とからかう先輩などがいて、それなりに客が集まってきた。
  1. 2015/05/19(火) 09:25:08|
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振り向けばイエスタディ93

那覇基地は所在地そのものが沖縄戦の激戦地だ。苛烈な砲爆撃の末、小禄飛行場から上陸した米軍は頑強に抵抗する海軍陸戦隊と激戦を繰り広げ、多くの犠牲者を出しながら豊見城村にある海軍司令部壕へ追い込んで行った。したがって現在の基地内には日米双方の犠牲者が多数、横たわり、地面を血で染めたため基地内の立ち木を切ると根や幹は赤くなっていると言われ、実際、伐採作業に当たっていると切った枝の切り口が赤いのに驚き、作業員は「樹液が血のようだ」と赤く染まった軍手を見ながらささやき合っていた。
そんな基地だから心霊スポットには事欠かず、どこでも幽霊に会えたが、その一方で感じない者は全く感じないことも解った。数人で幽霊を見て騒いでいるのに1人だけポカンとしながら「どこに?」と訊き、「あそこだ」と口々に言いながら指差しても「おらん」「見えん」と言い張るのだ。
ある日、増加警衛の勤務につくと夜中に暗い道を歩いてくるヘルメットをかぶった隊員の姿が見えた。そこで相棒と「巡察だ」と思って待ち構えていると何時までたってもやってこない。そこで顔を見合せて「何だァ、幽霊か」と納得し合った。
逆に巡察コースではない道からやって来る隊員が見えたので「また幽霊だな」と無視していると「おい、おきてるか?」と声を掛けてきた。「今夜の幽霊はリアルだなァ」と感心していると巡察が自販機でジュースを買ってきたのだそうだ。中には英語で話しながらやってくる影があるので「今夜は米兵の幽霊か」と思っていると南西航空警戒管制隊の巡察が英会話の練習をしながら回っていたのだ。
そんなある夜、赴任してきたばかりの警務隊長が基地のビーチへ夜釣りに行ってビーチに備えてある電話を掛けてきたそうだ。
「鉄砲を担いだ兵隊が1個分隊いる・・・ワッ、取り囲まれた・・・助けてくれェ!」警務隊長にそう言われては基地当直幹部も対応しない訳にはいかず警衛隊を向かわせたが、ヘッドライトが照らすと幽霊たちは消え、ビーチの管理棟の中で警務隊長は怯え切っていて、車内でもガタガタ震えていたそうだ。それにしても警務隊長と言えば外国軍や旧軍なら泣く子も黙る憲兵隊長であり、遺体の検屍にも立ち合うのだろうけれど1個分隊の幽霊には勝てなかったようだ。
  1. 2015/05/18(月) 09:51:17|
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振り向けばイエスタディ92(これも実話です)

順調にコンサートが進行し始めるとデモ隊の中には会場に乱入しようとする者が出て、我々の外側で警備に当たっている警察官たちと押し問答になった。すると警察官の間隙を狙って1台の軽4輪トラックが突入して立ちはだかった私を正面で撥ね飛ばした。幸い柔道2段の私は後方に1回転して怪我はなかったのだが、驚いたのは一部始終を見ていたはずの沖縄県警の警察官の対応だった。
「危険なことをするな」警察官は撥ねたトラックの運転手ではなく私に向かって注意を始めた。その隙にトラックの運転手は「自衛隊死ね」と捨て台詞を残して逃走したにも関わらず、これを放置したのだ(運転手は顔や捨て台詞の口調から明らかに本土の人間だった)。私はトラックのナンバーを憶えていたので、それを言っても警察官はメモをしただけで手配の通報はしなかった。
「これは交通事故ではないのか、逃走した運転手を引き逃げの現行犯で逮捕しろ」私も流石に怒り心頭で強く抗議したが警察官は耳を貸そうともしない。そして「進路妨害による危険行為だ。第一、お前は怪我をしていない」と詭弁を弄した。
「相手が死ねと言った以上、殺意があった殺人未遂だ」法学部中退の私が法理論を根拠に執拗に喰い下がると現場責任者らしい幹部警察官が出てきた。
「自衛隊がこんな行事をやらなければ警察官も暑い中、大変な勤務につかなくてすむんだ。迷惑を掛けている立場を理解しろ」と彼らの本音で説諭した。
以前から私有車を購入した隊員への安全指導で「沖縄の人間と事故を起こして警察官を呼んでも、自衛隊だと判ると全面的にこちらの過失にされるから身分は可能な限り隠せ」と説明しているのは知っていたが、まさか我が身に降りかかってくるとは思わなかった。
ところで豊見城村の公会堂でデモ対処をしている時、デモ隊と我々の周りをどう見ても怪しい浮浪者がうろついていた。それは本土の公園や駅などにいるボロボロの厚着をしてボサボサ頭で顔を真っ黒に汚した浮浪者だったが周囲から完全に浮いている。沖縄の浮浪者は厚着をしなくても凍えることがないため小ざっぱりとした軽装で、夜には公園のトイレで水浴びをしてからベンチで横になって過ごすので意外に身綺麗なのだ。
その浮浪者は立ち止まっては写真を撮っているようなので影で声をかけると那覇地方調査隊の隊員だった。そこで沖縄の浮浪者の服装を説明すると「那覇に来たばかりなので知らなかった。だったら暑い思いをしたのは無駄だったのかァ」とガックリきていた。幸いデモ隊も大半は本土から来た活動家だったので違和感なく浮浪者だと思ってくれたのかも知れないが、疑われて身分がバレれば大問題になっただろう。後日、基地で会ったがカツラを取って制服を着ていれば普通の隊員だった。
その夜、美恵子に車にはねられたことを話すと「私のニンジンさんに何をするのさァ」と怒っていた。その剣幕はデモ隊よりも凄かった。
  1. 2015/05/17(日) 08:52:32|
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5月17日・メンフィス・ベル号が25回目の帰還を達成した。

1943年の明日5月17日に映画でも描かれたメンフィス・ベル号がイギリスからドイツへの爆撃で任務を解除される条件とされていた25回目の帰還を達成しました。
野僧は3等空尉に任官した平成2(1990)年に公開されたこの映画を見て、非常に感銘を受け、かつ「指揮官とは?」と言う問いを投げ掛けられました。その後、航空自衛隊の内部資料で調べたところ実際のメンフィス・ベル号は機長以下の搭乗員の氏名や階級、何よりもストーリーが映画とは違うことが判りました。
映画ではメンフィス・ベル号をこの爆撃隊で初の条件達成機と搭乗員を宣伝材料にしようと広報担当の大佐が派遣されていて広報的な発想で実戦を遂行している部隊を搔き乱し、隊長と対立しますが、実際にはメンフィス・ベル号よりも前にヘルズ・エンジェル号が25回目の帰還を達成していました。ただアメリカ陸軍がこの爆撃隊の活躍と条件達成を広報に活用しようとしていたのは事実で、ドキュメンタリー映画化するために従軍していた有名映画監督を派遣していたのです。こちらの映画は1944年4月5日に公開されています。
映画の中で機長は名前の由来を「メンフィスで出会った女性だ」と話していますが、実際は「訓練中のワシントン州(アメリカ西海岸)でメンフィスから来た女性と出会った」のでした。
また映画ではメンフィス・ベル号の最終任務の爆撃目標はブレーメンの軍需工場になっていましたが、実際はドイツのキール軍港だったようです。
メンフィス・ベル号は1942年11月7日からこの日から2日後の1943年5月19日までロンドンの北にあったバッシングボーンを母基地とする第91爆撃航空群第324爆撃飛行隊に所属し、フランス沿岸のユーボートの基地に始まり、フランスへ18回、ドイツが6回、オランダに1回出撃しています。
ただ実際は同じ搭乗員で出撃した訳ではなく、副操縦士(映画では中尉だが実際は大尉)は最終回に初めてメンフィス・ベル号の操縦桿を握ったのでした。
メンフィス・ベル号はボーイング社のB-17フライング・フォートレス(=空飛ぶ要塞)で、この機体は本土に住む日本人が空襲に晒されたB-29スーパー・フォートレス(初空襲は空母に搭載したB-24リベーターだった)よりも6年前、第2次世界大戦が勃発する前年の1938年4月から運用を開始しています。生産機数はBー29の3倍以上の12731機です。逆に航続距離は最長5800キロでBー29の9000キロには敵わず、日本本土への空襲は1944年6月5日のサイパン島守備隊の全滅(大場栄先輩の小部隊は残っていたが)と1944年5月8日のB-29の運用開始が重なって始まったのです。1944年5月8日と言えばナチス・ドイツが降伏する丁度、1年前ですがドーバー海峡の対岸であるドイツへの空襲にはB-17で十分だったのでしょう。B-29がヨーロッパ戦線に投入されることはありませんでした(中国大陸を基地にするため通過はしている)。ちなみにメンフィス・ベル号の機長は帰国後、機種転換の訓練を受け、日本への空襲にも参加しました。
任務を満了してアメリカ本土に帰ったメンフィス・ベル号は訓練機として使用され、前述のB-29の登場以降は基地の隅に放置されるようになり、廃棄処分寸前だったのですがメンフィス市の尽力で修復され、現在は専用の建物で保管・展示されているようです。
  1. 2015/05/16(土) 09:16:46|
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振り向けばイエスタディ91(このエピソードも実話です)

ある日曜日、豊見城村の公会堂で南西航空音楽隊のコンサートが行われ、私は駐車場の交通整理と来場者の誘導案内の名目の会場警備についた。
案の定、会場にはコンサートの数時間前から多くのデモ隊が押し掛け、公会堂に通じる道路を閉鎖したため駐車場は空っぽ、来場者はそれ以前に自衛隊のバスでピストン輸送して会場内で待っていましたから仕事は完全に警備だった。それにしても一般道をデモ隊が閉鎖しても良いものなのだろうか?
と言うことで警備の目でデモ隊を見ると立ち並ぶ赤い旗には毎度お馴染みの「沖縄県自治労」「沖教組」「那覇空港公務員労組」などの他にも本土の各県の同様の労組の名前があり、公務員は休日なら沖縄までデモに駆けつけることを知った。
デモ隊はコンサートが始まる前から妨害のため大音響で相変わらずワンパターンの演説を始めたが、豊見城村公会堂は最新式の防音設備なので無駄だろう。先ずは沖教組の歴史の教師を名乗る男からだった。
「沖縄戦で日本軍は多くの住民を虐殺した。ここ豊見城村は日本陸軍の司令部があった殺害の舞台だ」しかし、豊見城村にあったのは海軍の司令部であり、住民の殺害が確認されているのは南部地区なので間違いだ。続いて那覇空港公務員労組の代表が登壇した。
「自衛隊は米軍と一緒に沖縄空域を占有している。我々の空の主権と平和を取り返そう」それを聞きながら「スクランブル機の発進を妨害しているお前たちこそ日本の平和を脅かしている」と怒っていた。そして沖縄県自治労の代表が珍しくシマグチ(沖縄方言)で喋りだした。
「航空音楽隊の目的は自衛隊の宣伝活動を通じて住民を取り込む宣撫工作なのさァ。その証拠に音楽隊長は3等空佐の少佐だァ。ただのマーチングバンドの隊長としては考えられない高級幹部なのさァ」確かに音楽隊の活動目的には広報活動も含まれているが3佐が高級幹部であるかは疑問だろう。
これらの演説の終わりには短文のアピールを読み上げ、デモ隊はシュピレコールで応じるのだが、いきなり石垣島の環境保護団体の代表が登壇した。
「世界有数のサンゴ礁を破壊する新石垣空港建設に断固反対しよう」いきなり意味不明な主張をしたため、流石のデモ隊も「サンゴを守れ」と小声で応じていた。中でも傑作だったのは本土の音楽教師と言う女性の特別講座だった。
「自衛隊の音楽は兵士を戦場に送り込むための行進曲だけで芸術性は全くない」と芸術論の熱弁を振るい始めたのだが喋っている本人が持論に酔ったのか小難しい音楽論が長々と続き、デモ隊は雑談を始めていた。ちなみにそのコンサートの演奏曲はマーチではなくグレン・ミラーのヒットナンバーだったので、これを否定すれば怒るスイングジャズ・ファンもいただろう(つづく)。
  1. 2015/05/16(土) 09:15:56|
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5月16日・鳥居強右衛門が磔(はりつけ)になった。

天正3(1575)年の明日5月16日(太陰暦)に長篠城から脱出して岡崎へ走った密使・鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)さんが城内に戻ろうとして捕えられ、磔になりました。
長篠城がある愛知県の東三河地方ではキリスト教の布教の者が訪れて「イエスは人間の罪を償うため磔になりました」と話すと応対した小父さんが「磔なら鳥居強右衛門の方が偉い」と答えるほどの英雄なのです。
当時、長篠城を守っていたのは奥平貞昌さん(この戦いの後、信長から1字もらって信昌に改名した)で、奥平家は代々現在の新城市作手の領主でした。作手は本宮山と言う海抜789メートルの山裾に広がる台地で西三河・尾張と東三河・遠江を結ぶ経路です。このため奥平家は西三河の松平氏と東三河の牧野氏の間で危ない綱渡りをしながら地盤を守っていたのですが、松平氏に英傑・清康公が出て三河統一に乗り出すと牧野氏を滅ぼした吉田城に駆けつけ帰順を誓っています。その後、森山崩れで清康公が倒れると再び今川氏に寝返りますが桶狭間の戦いで義元が討たれると今度は家康公に戻っています。ところが上洛を目指して武田信玄公が飯田街道を南下してくると再び寝返りながら信玄公が病に倒れたことを察知すると離反しました。
そんな奥平家に生まれた信昌公は武田氏による再度の侵攻に備え、三河各地の領主の結束を固めようとする家康公から持ち掛けられた長女・亀姫との縁談に応じ(実際に応じたのは父の定能さん)、徳川家の武将として立つことになりました。これにより奥平家から武田氏に差し出されていた人質3人は斬首されています。そして信玄没後に戦国最強の武田軍団を受け継いだ勝頼が飯田海道を再び南下してくると、これを長篠城で迎え討つ大役を任されたのです。
この時、長篠城の守備兵は作手からの手勢500人で一方の武田軍団は1万5千人でした。それでも約3週間に亘って持ち堪えていましたが、武田軍の火矢によって兵糧庫が焼失するといよいよ進退窮まり、現状を伝え、救援を確かめるべく密使を派遣することにしたのです。
その密使に選ばれたのは水練に長けた鳥居強右衛門さんでした。長篠城は寒狭川と宇連川の合流地点の断崖上にあり、周囲を武田軍に包囲されている以上、脱出経路は夜間に崖を下って川に入るより他になかったのです。こうして強右衛門さんは脱出に成功し、雁峰山で狼煙を上げると岡崎に走りました。岡崎城には既に徳川8千人と鉄砲3000丁を持つ織田3万人の連合軍が集結しており、長篠城の救出だけでなく武田軍を撃ち滅ぼす戦の準備が整っていたのです。強右衛門さんは本隊に同行することを勧められましたが、「先に帰って城内に救援が近いことを知らせたい」と戻ったところを捕らえられてしまいました。
勝頼に「救援は来ない。降伏せよ」と嘘をつけば士分に取り立てると言われて応諾した強右衛門さんは城門の前に引き出されたのですが、「徳川・織田の連合軍3万8千が間もなく救援に来る。あと人頑張りだ」と絶叫し、寒狭川の対岸で磔にされたのです。
強右衛門さんは現在の愛知県豊川市市田出身(奥平家の地元・作手出身との説もある)で、長篠城に入る貞昌さまの城兵募集に応じただけの俄か侍でした。それでも忠誠無比の三河武士道は根づいており、これに感動した武田方の落合左平次道久は強右衛門さんの磔姿を自分の旗印にしました。この旗印を立体にした原寸大の像が豊川市市田の寺に祀られています。
  1. 2015/05/15(金) 09:21:57|
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振り向けばイエスタディ90

3曹に昇任して2年、私の仕事のプレッシャーはさらに厳しくなっていた。私には電機整備員として本質的に才能がない。先ず電気と言う見えないものが機体の各所に導通して色々な装置を作動させていることが感覚として理解できないのだ。
そのため配線図を見ても、スイッチをオンにした後にバッテリーやジェネレーター(発電機)の電気が信号として装置を始動させると動力源としてモーターを動かし、ライトを点灯させる仕組みが頭の中でつながらず故障探求する時も先輩たちの問答を聞いているだけだった。
一応、英語は得意なので日本語訳のJTOとアメリカ軍のTO(技術司令書)を読みこなしているが文章が実物として頭の中で描けない。職場の先輩たちも「(新型機導入で)アメリカへ留学してもこれじゃあ駄目だな。宝の持ち腐れだよ」と嫌味を言うだけだ。
作業の方も手先が不器用なことを自覚しているため装置の取り外しは兎も角、取り付けではミスや抜けがないよう先輩に言われた注意事項を記した手帳を見ながら慎重、確実に作業を進める上、点検も完全を期すため非常に時間が掛かるのだ。
曹候学生の士長、駆け出しの3曹の頃にはゆるされた仕事のミス、できない仕事もアドバンスへの入校時期になると周囲は認めてくれず、戦闘機の故障が手に負えず助けを求めに戻る私に検査隊のベテランたちは「適性がないんじゃないか?」「仕事ができる人をよこしてよ」と厳しい言葉を投げかける。特に曹候学生の先輩たちは「曹候の恥を晒すな」と粗探しのように目を光らせている。そんな毎日だった。
そんな時、私の胸には幼い頃から父に投げ掛けられてきた「努力に不可能はない。できないのは努力が足りないからだ」との叱責が浮かび深刻な自己嫌悪、絶望の淵に沈めていた。父は運動会の徒競争で転んで最下位になった時でさえ、「努力が足りないから転ぶんだ」と断罪したのだ。

「(理容師の)学校にも頑張ってるけど上手くならない子がいたさァ」私は愚痴をこぼすたびに日頃感じている自分の限界をズバリ言われてドキッとしていた。
「理容師は好きなだけじゃあ務まらないよ。整備員のことは判らないけどプロの仕事はきっと同じさァ」でもこの後、美恵子は笑顔でこう付け加える。
「でも私のニンジンさんならきっと大丈夫さ、チバリヨ(頑張れ)」私は美恵子に救われている自分を幸せだと思っていた。
「朱に染まれば赤くなる」と言う諺はあまりいい意味ではないが、何事にもこだわらず陽気な元気印の美恵子といると私も陽気で元気になれるようだった。
「この人といれば一生挫折と言うものを味わなくてすむかも知れない」私はそんなことを考えていた。
  1. 2015/05/15(金) 09:21:04|
  2. 夜の連続小説8
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5月14日・榊原康政の命日

慶長11(1606)年の本日5月14日(太陰暦)は徳川4天王・榊原小平太康政さまの命日です。
康政さまの榊原家は松平家の直臣ではなく三河・上野城主(現在は東名高速の上郷SAがある辺り)・酒井忠尚さんの家臣だったのですが、康政さまは幼い頃からの博識と能筆を買われ、13歳で家康公の小姓になりました。康政さまの岡崎・大樹寺で学んだ能筆は家康公に重宝がられていたようで、この時代の書状には亀丸=康政さまの筆による物が多いとのことです。
その2年後の永禄6(1563)年に勃発した三河一向一揆で初陣を飾り、武勲を上げて家康公の1字を与えられて康政と名乗ります。ところが主君の酒井忠尚さんは一揆側について籠城し、攻撃されると東へ逃亡したので、ここからは松平家の直臣・譜代に加えられたのでしょう。
さらに3年後の永禄9(1566)年に19歳で元服し正式に榊原康政となりました。ちなみにこの年の12月19日に家康公は勅許を得て松平から徳川へ改姓しています。
その後は同じ年の本多平八郎忠勝さまと好敵手の親友として切磋琢磨し、武勲を重ねていきます。
特に元亀元(1570)年に家康公が織田信長の軍に加わって浅井・朝倉の連合軍を撃破した姉川の合戦では朝倉軍の側面を突き、壊滅させる大殊勲を挙げました。
元亀3(1572)年の三方ヶ原の合戦で本多忠勝さまは逃げる家康公を守るしんがりを勤め、押し寄せる武田軍を一手に喰い止める荒武者振りに信玄公から「家康には過ぎた物が2つあり、唐の兜と本多平八」と称賛されましたが、康政さまも浜松城外に潜伏して敗走してくる兵士を集めて編成を取り、城に迫った武田軍を背後から襲い三方ヶ原を抉るように走る崖の絶壁から追い落としました。
設楽ヶ原の合戦や高天神城攻めでも武勲を重ねたのですが、武田勝頼を滅ぼして3ヶ月後に起こった本能寺の変で家康公は女性2名を含む34名の供回りだけを連れて堺に滞在しており、三河・浜松に帰るためには和泉から河内、山城、近江を経て(洞ヶ峠には大和の筒井順慶の動向を見定めるため光秀が出兵していた)伊賀を越えなければならず、地元民から落ち武者と見なされればたちまち襲撃されてしまいます。その時も康政さまは徳川4天王の1人として家康公を守り無事に帰りつきました。この難行軍で出遅れた家康公は羽柴秀吉に光秀打倒の先を越され、天下取りが先延ばしになっていまいますが、その間の小牧・長久手の戦いでも康政さまは活躍して旧主家である酒井家の忠次さまと同格の徳川4天王と称されるようになっていったのです。
家康公が家臣たちを評した言葉では「康政は武勇では本多忠勝には及ばないが、衆=兵を使う指揮能力では忠勝に勝り、井伊直政に匹敵する」とあります。
康政さまの名が武勲の割に徳川4天王の中で今1つなのは徳川の主力を率いて中山道を西進していた秀忠が真田昌幸の挑発に乗って上田城攻めに引き込まれ、関ヶ原の合戦に間に合わなかった失態の責任を問う向きがあるからでしょう。実際には康政さまの「関ヶ原へ急ぐべきだ」との諫言も真田の挑発に怒っている若い秀忠は聞かず、他の側近たちまで同調したためどうしようもなかったと言われています。
この責任を感じていたのか康政さまは幕府が開かれてから水戸へ25万石に加増・転封する話を断り、上野国・館林10万石の領主として59歳の生涯を終えました。
榊原小平太康政
石井あゆみ作「信長協奏曲」の榊原康政さま
  1. 2015/05/14(木) 09:18:03|
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振り向けばイエスタディ89

傑作機・Fー104Jスターファイター(=航空自衛隊名・栄光)も経年変化と言う老朽化には勝てなかった。国民の血税で買った戦闘機は定められている飛行時間を満了させることが絶対条件であり、予測できない故障が頻発するようになった機体に可能な限り最高の整備を施して飛ばしていたが、それでも故障は発生した。
私が赴任する前には着陸したスクランブル機のランディングギア=主脚が固定されずランウェイ=滑走路の中央で折れ(目撃者の証言では着陸直後に収納された)、機体をコンクリートに擦りながら停止した。このため機体の下半分は摩耗してなくなり、パイロットも下半身がなくなった状態で殉職した。閉鎖された滑走路に飛び散った部品を回収に行くとランウェイには金属片や油と一緒に肉と血、骨がこびりついており、パイロットの遺骸は腰から上は綺麗なまま操縦桿を握っていたと言う。
特に最後の2年間は油圧タンクの溶接部分が裂けて上空の低い気圧の中でオイルの大半が噴出して操縦不能になったり、エンジンの噴出口のノズルを固定するビスが破損してワイドオープン=全開状態になるなどの検査・点検では予測できない故障が続発した。
ノズルワイドオープンではジェットエンジンは推進力を失い、前進することで揚力を得ている飛翔体=航空機は墜落するしかない。ましてや超音速飛行を優先して設計されたFー104の主翼は極端に狭く薄いため、速度を失えば忽ち地上・海面に激突することになる。それでも墜落せずに基地へ帰ってこられたのは死を恐れず冷静に機体を操縦して、可能な方法を試し続ける神業を身につけた熟練パイロットたちだったからだろう。
ある日、高空で突然、エンジンが停止し、推進力を失ったFー104Jは墜落状態で急降下し始めた。そのエマージェンシー・コール=緊急事態通報を受けた兵器管制官は「ベールアウト(脱出)」を命じたがパイロットはそれを無視して風圧でエンジンを再始動しようとしたのだ。この事態は一斉放送でエプロン地区に流され、そこにいた全ての隊員たちは空を見上げて奇跡を祈っていた。
一瞬で3千フィート(約9百メートル)降下する中、身体はGで数倍の重さになり、目の前には青い海面が迫ってくる。それでも冷静にエンジンの回転を見さだめ、その瞬間にエンジンを点火した。失敗すれば海に突っ込んで命がなくなるのは判っていた。
「エマージェンシー機は再始動に成功、無事帰投します」このアナウンスに我々は歓声を上げる前に大きく溜息をつき、中にはヘナヘナと座り込む者もあった。
こうして帰ってきたパイロットに同僚たちは「この死に損ない」と声を掛け、機付長(航空機の担当整備員)が「何故、脱出しなかったんですか?」と訊くと「冬物を着てなかったから漂流すると寒いだろう」と答えた。それが航空自衛隊の「栄光」だった。
  1. 2015/05/14(木) 09:15:40|
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5月14日・ドイツの名将・グデーリアン大将の命日

1954年の明日5月14日は第2次世界大戦においてドイツ軍の戦車機動力を発揮する戦術を確立し、運用した名将・ハインツ・グデーリアン大将の命日です。65歳でした。
第2次世界大戦のドイツの名将と言えばエドウィン・ロンメル元帥ばかりが有名ですが、幼い頃から戦史研究を趣味にしていた野僧は中学時代にはグデーリアン大将の名前を知っていて、ドイツ軍の戦車のプラモデルを集めている同級生とロンメル元帥とグデーリアン大将について熱く語り合いました(あの頃はグーデリアン大将と呼んでいた記憶があります)。
航空自衛隊に入ってからも警備戦術の研究の中で、ソ連軍が常用する戦車戦がドイツ軍の電撃戦の踏襲であることを知り、その提唱者のグデーリアン大将について学ぶことになりました。
ロンメル元帥は歩兵出身で戦車部隊を率いても陣地の防御では塹壕戦を採用し、攻撃では敵地の占領にこだわるなど歩兵的な運用が抜け切ることはありませんでしたが、グデーリアン大将は通信士官だったため大戦中に登場した新兵器である戦車を白紙の状態で考察できたようです。
第1次世界大戦の敗戦により飛行機、戦車、潜水艦などの最新兵器やドイツが生み出した参謀本部や軍学校の保有を禁じられ、地上兵力10万人の制限を受けたドイツ軍ですが、政治巧者=策略家のアドルフ・ヒトラーが政権を握るとスターリンとの間で「独ソ秘密軍事協定」を結び、ソ連領内に戦車士官養成の教育機関を創設し、鉄道・車両輸送と通信を担当していたグデーリアン大将も送り込まれ、自動車を使った演習を繰り返しながら戦車戦術を確立していきました。
この研究をソ連の内陸で実施したことが副次的な意味を持ち、1つには世界最強を誇るコサック騎士団の機動性や運用方法を取り入れる素地を生み、もう1つがソ連軍に同様の戦車戦術を伝授することになったのです。
グデーリアン大将の戦車戦術は「電撃戦」「縦深突破戦術」とも呼ばれ、敵の弱点を察知するとそこに集中的な攻撃を加えて防御線に突破口を開け、そこから戦車を中心とする高機動部隊を支配地域の奥深く喰い込ませていくことで敵を崩壊させるのです。我々はドイツやソ連の戦車戦と言うと広大な平原を横一線に並んだ戦車が畑を耕すように前進してくるイメージを持ちますが、実際は立ちはだかる敵を戦車砲で撃破しながら前へ前へと突き進み、その後ろを車両などの機動力を付加された歩兵部隊や砲兵部隊が追従しました。
ただし、この戦術が無敵を誇ったのはヨーロッパの平原で、ソ連軍はアフガニスタンに侵攻した後、山岳地を利用したゲリラの攻撃に苦しみ、結局、全土を支配することはできませんでした(その前にフィンランド軍のモッティ戦術で撃退されている)。ドイツ軍もソ連に侵攻した時、こちらの手の内を熟知するソ連軍の焦土戦に遭い、冬将軍によって壊滅されました。
グレーリアン大将は戦争のプロとしてヒトラーが作戦に口出しすることを嫌い、第2次世界大戦中に2度も解任されていますが、ロンメル元帥のように暗殺計画に関与した疑いを掛けられ、自死を強要されることはなく、1度目の解任の後、参謀総長を務めていた9ヶ月間は連合軍がヨーロッパ戦線に於いて最も苦戦した時期でした。
そんなグレーリアン大将はヒトラーから2度目の解任を受けていた時(休養を命じられた)に敗戦を迎え、ソ連とポーランドはニュルンベルク裁判の戦犯にするよう主張しましたが起訴はされず、戦車戦の権威として敵だった連合国からも尊敬を集めていたようです。
  1. 2015/05/13(水) 09:31:07|
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