むつみ村訓練の疲れをいやす暇もなく曹候学生は総合点検に突入する。曹候学生では1期から「優秀」と言う最上級の評価を獲得することが伝統になっているのだが我々7期の時は直前に不祥事を起こした者があり(女子高生に正帽をかぶらせているところを若い警察官に注意され、「ウルセイ」と言ったことを基地に通報された)、上の心象が最悪な中、汚名挽回・起死回生の一戦だった。実際、総合点検の会場に向かう前、中隊長は学生を集め「皇国の荒廃この一戦にあり、各員奮励努力せよ」と訓示したのだ。
それを思えば学生たちだけでなく教官側の緊張感も今一つだが、環境係でもある私は先輩として厳格に指導し、発破を掛けまくっている。
「班長、掃除が終わりました」と言う報告にも「ロッカーの後ろもやったか?」「エッ?」「ベッドのマットは洗ったか?」「ヘッ?」「掃除道具に埃が付きっ放しじゃあないだろうな」「ゲッ?」「下着にもアイロンをかけろよ」「・・・」と確認する。私は自分たちがやってきたことを指導しているのだが、学生たちは「冗談だろう」「そこまでやるか」と言う感じで受け止めているようだ。
「立つ鳥跡を濁さず。明日は出撃する特攻隊員になった気持ちで掃除しろ。遺品を受け取りにきた家族が恥をかかぬように徹底的にやれ」これも我々が総合点検を受ける時に区隊長から受けた指導だが、ベテランの班長が「ヨッ、中隊長代理」とからかってきた。
今回の総合点検には美恵子も間接的ながら参加している。中期点検以降、学生が集中する時期だけ基地の理容店を手伝っているのだ。おかげで小父さんの店は小母さんと3人フル稼働で学生をさばき、例年の一・五倍の売上げだったらしい。
「モリヤ班長、おかげで助かりますよ」BXで会うと小父さんはお礼を言うが私としては少し複雑だった。美恵子に臨時収入ができたため扶養の認定が複雑になり、会計隊に何度も呼び出されているのだ。小父さんとの口約束では新隊員と曹候基礎課程の中期点検と総合点検の前の土日に手伝うだけで、給与も日給なので扶養から外れることはないのだが、会計隊では「その日給を理容店の営業日全部でかけると月☓☓万円になります」などとあり得ない計算をして扶養から外すように迫ってくる。それが会計隊にとって職務上必要な確認だとしても忙しい中を呼びだされる者としては腹が立ってきた。
私としては美恵子の技量維持が目的であり、日給はお小遣いのつもりなのだ。しかし、そのお小遣いもピカピカ、ヒラヒラ、キラキラのファッションに消えている。
「奥さん、本当に可愛いらしい服装をしますよね。ウチの娘と同じ年頃なのに華やかでズッと若く見えますよ」理容店の小母さんは感心したように言うが、内心では「主婦・妊婦の癖に」との皮肉がかなりこもっている。仕事中に着ている割烹着もワザワザ広島で探してきたフリルつきなのだ。世間の人たちから見れば本当に不似合いな夫婦だろう。
何はともあれ、こうして第12期一般空曹候補学生は卒業していった。
- 2015/06/30(火) 08:05:27|
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むつみ村でも「三浦先任作業隊」は活躍していた。それは2泊3日の訓練中に食べる料理を作る本格的なもので事前に衛生隊で寄生虫などの身体検査を受けた精鋭たちだった。
彼らはトラックとバスで到着して他の学生たちが訓練場内の下見に出ている間も三浦先任の大声を聞きながら資材を下ろし、テントを張り、釜戸や調理場を設置し、休む間もなく野菜を洗い、食器を並べ、働き詰めなのだ。禅寺では「典座(てんぞ)」と言う食事係は最も修行ができる役職とされているが、食事は命の糧であり、修行の原動力でもある一方で、寺全体の動きを把握していなければ適時適切な料理が提供できない。さらに衛生に万全を期さなければ全ての者の命を奪いかねず、調理が不味ければ食欲が落ち、修行が滞ってしまう。しかも材料は限られており、その中で美味しく安全な食事を造り出すための創意工夫は何物にも代え難い修行なのだ。しかし、私はその真逆のことを先任Sになった班員・河内に指示した。
「お前が大変な仕事をしていることは十分に判っているが、それを他の仲間に言うなよ」「えッ、どうしてですか?」河内は少し不満そうな顔で質問してきた。
「他の連中は限界に耐え抜いたと思って、それを自信にしている。判るな」「はい」河内がうなずいたので本論に入った。
「それをお前が自分も大変だったと言えば・・・」「はい、白けてしまいます」「うん、それだけでなく、お前の言い訳のようにも聞こえるだろう」「はい、判りました」河内が納得した顔をしたので肩を叩いて、「最後まで先任Sを頑張ってくれ」と激励した。
むつみ村訓練から戻った夕食後、私は班員たちの様子を見に寄った。本当は3日間も美恵子に会っていないので飛んで帰って玄関で押し倒したいのだがそこは職務である(考えてみれば妊婦だった)。部屋に入ると穴見が真っ先に近づいて声を掛けた。
「班長、御心配かけました。すみませんでした」「おう、お経を上げるところだったぞ」そう言って手を合わせると穴見は困った顔をした。その後は1人1人に声を掛け、体調と感想を訊いて回ったが、河内にはこちらから声を掛けた。
「お前は本当に大変だったな。ご苦労さん。ありがとう」「・・・」その様子が意外だったのか他の班員たちは怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「朝は4時起きで味噌汁の材料刻みに卵を200個割って汗をかきながらの卵焼き・・・食器を洗ってそのまま昼の運搬食を作って、戻ってきたら食器洗いに夕食準備、片づけて寝るのは11時、何より三浦曹長と一緒に過ごす3日間。よくぞ頑張った」ここまで言って振り返ると班員たちは尊敬の眼差しを河内に贈っている。河内は涙ぐんでうなずいていた。
- 2015/06/29(月) 09:45:39|
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「この中で体調の悪い者は?」班員たちに確認すると数名が目眩がすると申し出る。そこで私はまだ日頃から体力のある元気のありそうな隊員に穴見の小銃、背納、鉄帽、水筒などの装具を手分けして持たせ穴見を背負った。
戦闘訓練場の草むらを横切り砂利の道路に出たが、穴見は背中でぐったりしている。ただ鼻息が私の汗に濡れた首筋にかかり、息をしていることが判った。私は荷物を持っていない小柄な金藤に横で穴見に声をかけ、様子を見ているように指示して分隊員たちと坂道を下り始めた。途中で何組か後発の分隊が怪訝そうな顔ですれ違った。
約1キロと言う距離は駆け足ではすぐそこのように思っていたが、炎天下、隊員を背負ってのそれは遠く、何より水筒の水は全て穴見にかけてしまい私自身も喉がカラカラに渇いていた。「穴見」「穴見」と横から金藤が声をかけるたびに穴見の顔がわずかに動くのを感じながら私は歩き続けた。私の脳裏には体育訓練中に殉職した曹候学生の同期のことが浮かんで離れなかった。
結局、穴見は待機位置からジープでそのまま村の診療所に搬送されて、1日冷房が効いた病室に寝て、訓練が終了した夜には元気になって戻って来た。
「快適だったぜ」「いいなァ」こんな無邪気な会話で笑い合う穴見と他の連中の姿を眺めて私はやっと胸を撫で下ろした。
夕食を終えると学生たちは自分の個人用天幕に戻り、やることがないので早々と眠りにつく。それを確認すると中隊長以下の区隊長、班長たちは業務用の大型天幕に集まって反省会になる。と言っても酒を飲みながらの宴会なのだが、私はその夜は当直ドライバーだったので三浦曹長にもらったペットボトルのウーロン茶を飲んでいた。
始まりはその日の訓練の反省からなので当然、穴見の熱射病の件になり、私の健康状態確認が適切だったかが問題になった。訓練幹部の追及に近い質問に黙り込んだ私に先輩の班長が「まあ、一杯飲め」と缶ビールを勧めてくれた。
「いいえ、飲めません」それを断ると班長は「何だ、焼酎のウーロン割りか?」と言って一升瓶を差し出したので「当直ドライバーなのでアルコールは・・・」と再度、断った。すると既に酒が入っていた別の班長が顔色を変えて怒り出した。
「何を良い子になってやがるんだ。今夜、誰を乗せて車を出すって言うんだ。言ってみろ」どうやらこの班長は中々教育隊の流儀に溶け込まない私が気に入らないようだ。しかし、当直ドライバーが飲酒できないのは常識だろう。それを「厚意を無にした」と激怒するのが教育隊の流儀なら私が航空自衛隊の良識を教えなければ一般空曹候補学生の良き伝統は築けないと思った。
結局、先任班長が中に入りその場は収まったが、不寝番と銃前哨たちが天幕ごしに響いた怒声を聞いていて、翌朝、「××班長って最低ですね。流石はモリヤ先輩です」と声を掛けてきた。私にはそれも複雑だった。
- 2015/06/28(日) 08:56:24|
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寛政5(1793)年の明日6月28日(太陰暦)に寛政の三奇人の1人・高山彦九郎正之くんが自刃しました。47歳でした。
高山くんは林子平さん、蒲生君平くんと共に「寛政の三奇人」と並び称されていますが、林さんは時代と生まれ方を間違えた奇才ですが、高山くんは貴人=公家に利用されて捨てられた棄人です。ただし、後述の理由で山口県人には特別な存在なのかも知れません。
高山くんは林さんよりも9年遅く延亨4(1747)年に上州新田郡の庄屋の二男として生まれました。実家は庄屋=農家と言っても昔は武士だった郷士で、家伝では新田義貞の重臣・高山重栄(しげひで)とされており、思い込みが激しい高山くんは13歳の時、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の興亡を描いた「太平記」を読んでからは自分が新田義貞の家臣であるかのように振る舞い、父や兄の耕作を手伝うことなく学問に打ち込み、やがて武芸を磨くため江戸へ出たのです。
江戸で遊学中、父が急逝すると日頃から対立していた代官の仕業と思い込んで仇討のために帰郷しますが、跡を取った兄に叱責されて遺書を置いて家出しました。その後は徳川幕府を後醍醐天皇と争った足利尊氏と同一視して、朝廷の権威を復活させようと全国を巡って「勤皇思想」を説いたのです。その旅で上洛すると京に入る手前の三条大橋のたもとで御所に向かって望拝(ぼうはい)していたため現在も土下座しているような銅像が置いてあります。
高山くんは郷士と言っても身分は農民であり本来は武士と対等に交際できるはずはないのですが、その強烈な個性と過激な勤皇思想、無謀な行動力で知己を得て、その紹介で更に人脈を広げて、やがて市井の学者として有名になると公家とも関係するようになりました。
その頃、高山くんは下級公家・岩倉具選(ともかず=具視の義曽祖父)の屋敷に寄宿して尊皇思想を過激化させていたのですが、どこかで甲羅の後部に緑の毛が生えた「緑毛亀」を見つけ、これは奇瑞であると天皇に献上し、天顔(てんがん=天皇の顔)を拝する栄誉を受けたのです。
当時、後桃園天皇が皇嗣のないまま崩御すると傍流の閑院宮から光格天皇が立ちましたが、そこで天皇は実父である典仁親王に退位した天皇の尊称である上皇の位を与えたいと思うようになり、これが尊号問題に発展したのです。宮中ではこの機会に幕府の関与、指図を弱める狙いがあり、全国の大名に働きかけ賛成の世論を作ろうとしました。そこで選ばれたのが高山くんでした。反幕府の公家にそそのかされると「緑毛亀が現われた奇瑞は天皇の世が来る証だ」と言う宣伝をするために西国の各藩を訪ね歩く旅に出たのです(緑毛亀の図5百枚を持っていた)。ところが老中筆頭・松平定信の対応は迅速・強硬で御三家でありながら尊皇運動の首謀者である水戸家までも「前例のない上皇位の贈与は不可」と言う回答に賛同させて、天皇を断念させました。
こうなると高山くんは早まって放った鉄砲玉であり、元々は身分卑しい農民の二男ですから切って捨てることに躊躇はなく、勝手に世論を扇動している危険分子として幕府の監視を受けることになり、天領である豊後・日田に入ったところで捕縛されたのです。取り調べを終えて釈放された高山くんは身を寄せた知人である久留米藩医・森嘉膳の屋敷で腹を切って死にました。
通報を受けて検屍の役人が来た時にはまだ息があり、動機・原因を問われると「狂気」とだけ答え、再度、故国を問うと「上州新田郡神谷村」と答えて絶命したようです。
戒名は「松陰以白居士」で、森邸から数百メートルの遍照院(真言宗大覚寺派)にある墓を参った毛利藩士・吉田寅次郎は高山くんの異常な思い込みと直情径行に共感して「松陰」と名乗るようになったのです。つまり松陰は自分の狂気に対する自覚があったのでしょう。

「風雲児たち」より
- 2015/06/27(土) 09:19:26|
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7月下旬、私が担当していた一般空曹候補学生基礎課程は山口県北部にある陸上自衛隊むつみ訓練場で2泊3日の野外訓練に入った。
当日、現地は快晴だが無風で湿度も高く、体感温度は40度を超え、不快指数は非常に高く、幹部の間では訓練の一時中止も検討されていたが、結局、2日目の訓練場を縦横に使っての接敵行動及び地上戦闘訓練が開始された。
キャンプ地から各班長によって指揮される分隊ごとに10分間隔で出発、奇数の区隊と偶数の区隊の班で訓練場の一番奥にある2つの仮想陣地に向かった。
「第23分隊(2区隊3班)、最終弾着5秒前、4、3、2、1。突撃に」私は分隊の真ん中で分隊員(学生)が突撃準備の姿勢をとるのを確認し、「進め」と言う号令と共に分隊員は一斉に躍り上がり、一気に陣地へ突撃して行った。
「☓番到着、異常なし」分隊員たちは順番に異状の有無を報告していく。ところが11番が報告せず、「11番」「11番」「穴見」何度か穴見曹候生を呼んだが返事がなく、「班長、穴見がいません」12番の金藤曹候生が困ったように言ってきた。
「よし、状況終了。装具点検」私は隊員に次にやることを指示して1人で穴見曹候生を探しに行った。すると穴見は突撃発起位置で突撃準備の姿勢をとったまま気絶していた。「穴見!」私は駆け寄り声をかけたが返事はない。
「大丈夫か?」抱え起すとかすかに息はしているが反応はなく汗をかいていない。
「熱射病だ」私は穴見の頬を打ち声をかけた。すると穴見が微かに返事をしたので、「水を飲め」と私は自分の水筒を穴見の口に当てた。
穴見は弱々しく水を口に含んだが飲むことができない。その時、先任学生の千崎曹候生が「班長、人員装具異状ありません」と報告に駆け寄って来た。
「すぐに全員集合」私は千崎に指示し、穴見の作業服のチャックを下ろし、残った水筒の水を頭、背中と胸にかけた。
すぐに班員たちが集まってきて「穴見、大丈夫か」全員が私の腕の中の穴見の顔を覗き込むが、穴見は意識を取り戻さない。
無線機は区隊長にしか渡されておらず車両は1キロ程下った待機位置にしかいない、私は穴見をそこまで背負って下ろすことを決心した。
- 2015/06/27(土) 09:17:14|
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寛永20(1643)年の明日6月27日(太陰暦)は薩摩示現流(じげんりゅう)の開祖・東郷藤兵衛重位さんの命日です。東郷さんは信玄と謙信が繰り返し争った川中島でも最大の激戦が起こった永禄4年に薩摩の土豪・瀬戸口家で生まれましたが、実家が縁戚に当たる名門・東郷家の許しを得て旧姓に服したため東郷藤兵衛になったのです。
若い頃から武芸に励み、肥後・人吉の丸目蔵人佐(くらんどのすけ)が創始したタイ捨流を学んでいます。このタイ捨流は「体捨流」と書くことが多いのですが熊本の剣道の先生は「捨てるのは体=命でも待=タイミングでも対=相手でもない」と漢字を当てることを否定していました。タイ捨流は剣術と言っても現代の剣道とはかなり趣が異なり、広めの足幅で腰を落として構え、長い距離は歩み足で間合いを詰めます。さらに剣で斬り合うだけでなく接近した時の目潰しや蹴り、剣を絡めて奪う技、さらに両手に刀を持つこともあるのです。長い真っ直ぐな木剣も上段から強く打ち下ろす振り方で、受けは両手で剣を支えるなど体捨流=体斜流=脇構えと言うイメージとはかなり違いました(「子連れ狼」其之二十四・雲竜風虎でも脇構えに描いています)。
その後、東郷さんは主君・島津義久に従って上洛し、天寧寺(曹洞宗)の僧・善吉から天真正自顕流を学んで帰国すると両者の技法を統合した独自の流儀を編み出して島津家中で剣術を教えるようになりました。この評判を耳にした藩主・家久(関ヶ原後に世襲した)の命令で行った御前試合でタイ捨流の剣術師範を倒し、大竜寺の南浦文之(なんぽぶんし・臨済宗)から「示現流」の名を授けられて門外不出の流派(御留流・おとめりゅう)になったのです。
示現流と言えば日頃、逃げることを「士道に背く」と禁じている近藤勇が隊士たちに「薩摩の芋侍の抜き打ちは受けてはならぬ」と逆の指導をしたように激烈な剣技で、これを「一の太刀を疑わず。二の太刀要らず=初手必殺」と表現しています。野僧は示現流を学んだ先生の試合稽古を見たことがありますが、剣道の上段とは違い抱えるように竹刀を立てた構えで「キャーチィーリェーウォー」と動物の咆哮のような叫び声を発して突進し、受けている側の竹刀が折れるのではないかと思うほどの強打・連打でした(受けた先生によれば「竹刀が焦げる」そうです)。
ある日、東郷さんが客人と碁を指している時、高弟が興奮して訪ねて来ました。そして「途中で犬に吠えられたため一刀で抜き打ちにしたところ、首を落として地面には触らなかった」と自分の剣技を誇ったので、東郷さんは客人を下がらせ刀を抜くと「チェーイッ」と言う気合いと共に碁盤を真っ二つに両断し、切っ先は床に深く刺さっていました。そこで畳をどかすと畳を抜けて床板まで貫いていたのです。これが示現流なのでしょう。
こんな強打では練習もままならず、示現流では固い真っ直ぐな木の枝を適当な長さで切り、これを木剣として、前述の蜻蛉(とんぼ)の構えから立ち木(柱)を相手に左右の連打を繰り返します。また数本の柱を立ててその間を駆け抜けながら打つ稽古もあります。
一方、大隅の土豪・薬丸家が示現流と家伝の野太刀の技を融合させた薬丸自顕流(じけんりゅう)は更に強烈で、木の枝を積んだ「立ち木」を示現流の蜻蛉の構えから剣を上に突き上げるようにして、そこから一気に振り下す稽古を繰り返します。この強力な斬撃こそ近藤勇が怖れた「芋侍の抜き打ち」です。薬丸自顕流は郷中教育(藩士の子弟を集めて学び鍛えた教育制度=ボーイスカウトの原型になった)に採用され、子供の頃から立ち木打ちで鍛えられた薩摩藩士の抜き打ちは幕末の斬り合いでも相手の受けた剣を両断して胴体を切り裂いています。前述の動物の咆哮のような気合も薬丸自顕流のもので「猿叫(えんきょう)」と言うそうです。
東郷重位さんの示現流はそんな薩摩隼人=鹿児島県人を創り出したようです。享年62歳。

みなもと太郎作「風雲児たち」より
- 2015/06/26(金) 09:36:08|
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夏になると学生たちも訓練に身体が慣れて故障者が少なくなるため先任S(せんにんず)も人手不足で三浦曹長自ら草刈りを行うようになった。ところが三浦曹長は「日中は暑い」と夜も明け切らぬ早朝から出勤してきて起床前から草刈機で仕事を始めるのだ。
朝、出勤して学生たちの健康状態を確認すると全員が「寝不足です」と声を揃えた。この時期には訓練の疲れで熟睡し、起床ラッパまでは夢も見ずに眠っているはずだ。
そこで訳を尋ねると「先任が起床前から草刈りを始めるんです」「エンジン音が凄いから窓を閉めると暑くて寝てられません」「あれは騒音公害です」と苦情を並べ始めたので、「戦闘航空団ではスクランブルが掛かれば真夜中でもジェットの爆音が響くぞ。先任はそれを教えてくれてるんだろう」と代わりに弁明して引き揚げた。
しかし、学生の声は伝えなければならないと事務室に寄ると三浦曹長は達成感を満喫している顔で「モリヤ班長、ワシは朝から一仕事終えたよ。暑いのは嫌じゃから女房に朝昼の弁当2つ作らせて来たんじゃ」と先に説明を始めてしまった。
こうなっては学生の苦情を言って白けさせることはできない。それにしても学生は兎も角として近所の住人から騒音の苦情はないのだろうか?そんな先任の草刈りの替え歌が流行り始めた。
「誰だ誰だ誰だ 朝の眠りを破る音 草刈り始めた先任 エンジンかけて刈り出せば 伸びた草など残らない 刈れ刈れ刈れ先任 行け行け行け先任 仕事は1つ これだけ1つ オー先任 先任(「ガッチャマン」の替え歌)」
突然、三浦曹長が妙な指示を発令した。
「自販機で間食を買うならカップラーメンじゃなくウドンにしろ。それで器を洗ってワシのところへ出せ。赤いキツネじゃあないから間違えるな」隊舎の裏の自動販売機コーナーにはジュース類の外にカップヌードル各種と生麺のきつねウドンの自動販売機がある。先任はこのウドンのプラスチック製の器を集めようと言うのだ。
早速、当直室には器を入れる大きな段ボール箱が置かれたが、食べ盛りに鍛えられている学生たちの食欲は凄まじく、忽ち数十個が集まった。中には「俺、カレーヌードルが食べたかったんですが」「俺はシーフードです」などと文句を言う者もいるが、三浦先任の指示には誰も逆らえないのだ。
翌朝、当直を下番して器を持っていくと三浦先任は1つ1つ点検し、「これは水滴がついちょる」と文句を言った後、「これで半分じゃ」と数を記録した。
「これはな、むつみで使うんじゃ」何も訊かなくても説明してくれるのが三浦先任だ。ただ、それは時期を考えれば判っていることだった。
「給養で借りる食器の皿よりも、この方が汁までタップリ入るじゃろう。買うよりも安上がりじゃ」確かにそうだがウドンの器を回収に来ていた業者が「最近、妙に少ないなァ」と困っているのを私は目撃していた。
- 2015/06/26(金) 09:34:22|
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6月19日に作詞家の横井弘さんが肺炎のため亡くなったそうです。88歳でした。
大の歌謡曲好きの祖母の影響で野僧は子供の頃から横井さんの作品を愛唱していて、夕陽が沈むのを見て友達が「夕焼け小焼けで日が暮れて」と唄っている横で「下町の空に輝く太陽は 喜びと悲しみ写すガラス窓」と倍賞千恵子さんの「下町の太陽」を唄っていました。しかし、この歌の2番の「縁日に2人で分けた丸い飴」と言うのは舐めかけを相手に舐めさせることのはずで、その後に「口さえきけず別れては」と言われても「そんな訳ないじゃん」と子供心に思ったものです。
その後、ド田舎へ引っ越すことになり草むらで1人過ごすことが増えると、勝手に自分たちの出身地に家を建てた親に反発し、「いつかこんな腐った土地を出るぞ」と胸に湧き立つ想い(=憤怒)を傍らに咲くアザミの花を見つけて伊藤久男さんの「山には山の憂いあり 海には海の哀しみや まして心の片隅に 咲きしアザミの花ならば」と唄いながら鎮めていました。
高校は「ド田舎から一歩でも遠く」と言う条件で選んだため1時間近くの電車通学になり、車窓からド田舎の山が見えてくると気分は「ドン」と沈み、そこで口から出るのは「惚れて惚れて 惚れていながら行く俺に 旅を急かせるベルの音」と言う「哀愁列車」でしたが、小声で唄っているのを聞いて隣席の小母さんがデュエットしてきたもありました。ただし、祖母は三橋美智也さんを「目が細くて不細工だ」と嫌っていましたからどこで覚えたのかは謎です。しかし、心に沁みる名曲が多い横井さんですが、この歌だけは詠み難い言葉が多く失敗作のようです。1番の「つらいホームにきはきたが」は歌詞カードでは「来は来たが」です。「灯」を「ひ」、「瞳」を「め」と読ませるのも昭和31年当時としては画期的と言う前に無理があったでしょう。
横井さんの歌を愛唱する変な小学生はこんな妙な親爺になりました。合掌
- 2015/06/25(木) 10:49:22|
- 追悼・告別・永訣文
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学生の終礼の後に行われる区隊長・班長など基幹隊員への命令伝達の時、三浦先任が私に命令らしき茶封筒を渡した。表には毛筆で「第8中隊 モリヤ3曹宛」とあり中身は冊子らしかった。終礼の後、席に戻り開けてみると田沼曹長からで「歎異抄の勧め」と言う浄土真宗の門徒向けの冊子だった。田沼曹長は私を「禅寺の息子」と思っているのかも知れないが、私は跡取りではなく中学生の時に師僧の寺へ預かられていた縁で得度を受けたのだ。
また高校時代に日本哲学全集の親鸞聖人を読んで教行信証や和讃、歎異抄も知っており、さらに親鸞聖人の思想を哲学の手法で説き明かした清沢満之の著作を読み、本格的に学びたいと龍谷大学の哲学科へ進学したいと思ったのだが宗教嫌いの父に反対され、おまけに高校3年の夏休みに家を改築した上、妹が私立のお嬢さま高校へ入ったため金が掛からない地元の大学へ行く羽目になったが、結局、2年で止めて一般空曹候補学生に入隊したので、この冊子は懐かしい気持ちの反面、古傷に触れられるような気分にもなった。
ただ高校時代に読んだ時は内容に関する質問をぶつけても、教師は知識でしか答えず、師僧は曹洞宗の立場からの疑問だけだった。そこで浄土真宗が歎異抄をどのように解説しているかを確認すると言う視点で読んでみた。すると浄土真宗の教義は「阿弥陀如来は自らの発願により人間を救って下さるので、その慈悲に感謝の念佛を唱えること」のようで、これでは師僧が示した「念佛に救われると言いながら縛られるのではないか」と言う疑問の方が正しいことになってしまう。そこで読み終えてそのまま第1教育群本部総務班へ田沼曹長を訪ねてみた。
木造の本部庁舎の2階にある総務班に入っていくと前回の「雛鳥の墓」騒動を覚えている3曹は視線を合わせないように机で仕事を再開した。田沼曹長は命令伝達から1時間も経たないうちに現れた私に少し困惑した顔をしている。
「もう読んだのかね」「はい、実は以前から親鸞聖人の教えには興味を持っていて、教行信証や歎異抄は読んでいたんです」「それはかえって失礼したね」意外な話に田沼曹長は真顔で詫びた。
「ただ、私の勝手な理解では親鸞聖人が説かれる念佛は最後の救いである蜘蛛の糸ではなく、困難を乗り越えるザイルであると思うのです」「・・・」話が難しくなったのか田沼曹長は席で姿勢を正したが、他の隊員たちは部屋から出て行った。
「ところがこの冊子では阿弥陀様の救いが絶対であることを感謝せよと説いておられるようです」「・・・」「私の理解は間違っているのでしょうか?」「・・・」田沼曹長は返事をしなかった。私の愛読書「維摩経」では文殊師利菩薩から佛法の大意を問われた維摩居士は無言で解答する。これは「維摩の一黙」と言う名場面だ。私には曹長も沈黙で返答されたように見えた。やはり「この曹長は本物の坊主であり、曹長ではなく僧正(そうじょう)なのだ」とその日は感動して帰ることになった。
- 2015/06/25(木) 09:20:08|
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私は学生時代から戦闘訓練に疑問を抱いていた。歴史好きな私には戦闘訓練のクライマックス・突撃が日露戦争の旅順要塞で繰り広げられた組織的自滅の再現のように思われてならないのだ。
そこで沖縄時代、アメリカ海兵隊の友人に「突撃=charge」の実施要領について質問したのだが、火砲や爆撃で破壊した陣地を占領するため生き残っている敵兵を発見し、捕獲・殺傷するための手段であって、航空教育隊がやっているような援護射撃がない突撃は「日本軍伝統の集団自殺=バンザイ・アタックだ」と一笑に付された。
教育に先だってこの話を訓練幹部にしたところ「だったら陸上自衛隊の特科連隊が支援射撃してくれるとでも言っておけ」と片づけられたが、そもそも基地警備のどこで戦闘訓練にあるような攻撃を実施するのかが判らない。すると横からベテランの班長が「そんなことを考える前に学生の前で展示する動作は大丈夫か?」と訊いて水を浴びせてくれた。
要するに旅順で愚かな指揮官振りを発揮して多くの将兵を殺した乃木希典第3軍司令官の出身地(=山口県)では集団自殺の伝統を継承する教育を行うのだろう。
戦闘訓練にはもう1つ疑問があった。それは「伏せ」の動作で、アメリカ軍では銃口に泥などの異物を入れないように小銃を上に向けながら腰から倒れ込み、射撃などでは床尾を地面に当てながら支点にして伏せる。一方、航空教育隊で教えている伏せの動作は旧軍が長い30式歩兵銃を持って伏せていた時代のもので短い64式小銃には力学的に不合理な点が目立つ。実は陸上自衛隊でもMーガーランド小銃やMー1カービン騎銃を使っていた頃はアメリカ軍式の動作だったのだが、国産の64式小銃になった時、床尾を地面に叩きつけるとその衝撃で暴発する不具合が発生し、その対策として旧軍方式の柔道の受け身のような動作が復活したらしい。その後、64式小銃には補助逆鈎が追加されて暴発はなくなったが伏せの動作は戻らず、そのまま航空教育隊にも踏襲されたのだ。結局、航空教育隊は陸上自衛隊のやり方を不完全な形で請け売りしているだけで、航空基地や離島、山頂のレーダーサイトを防衛するための技術を研究する気概や教育する能力もないことが痛感された。
そんな私の不満そうな顔をみた訓練幹部は「要するに苦痛に耐えて目的を達成する精神性を身につけさせれば教育としては十分だ」とたしなめた。確かに何も知らずに入隊してきた時には熱い地面を這い回り、「突撃に・進め」と言われて「ワー」と喚声を上げて突撃すれば達成感を味わえたが、それが「何の役にも立たない形式的な訓練」と知ってから教えるのでは確信犯だ。
「だったら健康的にラグビーでもやらせた方が良いんじゃないですか?」と独り言を呟くと周囲の班長たちは顔色を変えて厳しい視線の集中砲火を浴びせてきた。
- 2015/06/24(水) 09:32:12|
- 夜の連続小説8
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本日は沖縄慰霊の日なので例年通り戦没者供養の法要を勤めましたが、戦死・自決した日米軍の将兵や犠牲になった沖縄の人々は別として、現在の沖縄県民に対する感情は過去にない程冷めています。やはり翁長なる元保守派の政治屋が県知事に選ばれ、沖縄県を中国に売り渡そうとする言動を繰り返していることを容認している沖縄県民の売国行為が、生命を賭してこの地を守ってきた同僚たちの英霊に対して申し訳なくなるのです。
沖縄県民が反対しているのなら無駄な予算を使って辺野古へ移設することなく普天間基地を永久に固定化すべきでしょう。彼の地は沖縄戦最大の激戦地ですから、その血に染まった大地が国家防衛の役に立てば英霊も納得するはずです。
「南無弥勒世果報(なむ・みるくゆがふ)」合掌
- 2015/06/23(火) 08:58:10|
- 沖縄史
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天明8(1788)年の明日6月24日は江戸時代中期にそれまでの質素倹約による緊縮財政と収入増加=米の増産しか経済政策を持たなかった幕府に消費や流通による近代的経済政策を導入した大政治家・田沼意次さまの命日です。
戦前とその影響が残っていた頃の歴史教育では田沼意次さまを「賄賂政治」で幕府を堕落させた元凶と非難し、松平定信を寛政の改革でそれを立て直した名宰相のように称賛されていましたが(ドラマ「大江戸捜査網」でも隠密同心を創設したことになっている)、これは武士が経済活動に関与すること自体を卑しむべき不道徳とする武士階級出身の権力者や言論人たちが一方的に断定した偏見に過ぎず、幕府財政の推移や庶民文化の成熟、さらに外交政策などから客観的に検証すれば田沼さまこそ硬直した幕政を一大転換させた革命家だったことは間違いありません。
田沼さまは紀州藩主から暴れん坊将軍になった8代・吉宗さまが部屋住みだった頃から側近として仕えた田沼意行さんの長男として生まれました(吉宗さまは4男だったので藩主になる見込みは皆無に等しかった)。幼名は竜助です。吉宗さまが将軍になると紀州時代の側近を旗本としたため意行さんも600石の幕臣になり、竜助くんも小姓として7歳年長の世継ぎ・長福丸=後の家重さまに仕えることになりました。この家重さまには脳性マヒによる言語障害があり、意志疎通に不自由している中、意次さまだけはそれを洞察して適切に処理したため絶大な信頼を獲得するようになったのです。やがて家重さまが将軍になると発言=上意を通訳・説明する者が必要になり、それができる田沼さまの地位が上っていきましたが、これは航空幕僚長と団司令では副官の階級が違うようなものです。その後も将軍の裁定を代行することが必要になるとその度に加増を受け、やがて遠州・相良藩1万石の大名になりました(バラバラに加増を受けたため領地は関東から関西まで細かく7カ国にわたっています)。
実は田沼さまの異例の出世は家重さまの没後、家治さまが将軍になってからで、江戸城内に住んで何事にも口出ししてくる父の兄弟・御三卿から自分をかばってくれる田沼さまを父のように慕い、重用したため、相良藩は5万7千石として老中になる資格を得たのです。
田沼さまは父の意行さんが元は足軽だったこともあり身分に対するこだわりがなく、幅広い人物と交際し、能力を認めれば最大限に活躍の場を与えています(これも賄賂の結果と見なされた)。
そんな田沼さまの幕政の中で特筆すべきは、同業者同士で株仲間を結成させて幕府が公認・保護することで税を徴収し、質素倹約とは逆に活発な商取引・流通によって幕府の増益を得る商業重視の経済政策をイギリスでアダム・スミスが「国富論」を発表するのと同期に採用したことでしょう。それだけでなく長年にわたり赤字を出していたオランダとの貿易収支を改善させることにも成功しています。さらに当時は蔑視されていた蘭学者と交際してロシアの脅威に備える必要を認めると北方の実情を把握するための探検隊を派遣していますが、これらの革命的政策は守旧派には忌み嫌われました(先ず「成り上がり者」と言う偏見がつく)。
田沼さまの失脚は意志を継ぐ者として期待していた長男・意知さんが江戸城内で暗殺されたことから始まり、将軍・家治さまの死を隠した御三卿などの側近によって画策されたのです。
その代表は御三卿・田安家の次男でありながら奥州・白河藩の養子に出されたことを逆恨みしていた松平定信で、老中首座として政権を奪取してからは田沼さまの先進的政策を完全に否定して、既に失敗が明らかになっていた吉宗さまの享保の改革の再現・徹底を断行しました。
田沼さまは老中としての業績ばかりが研究されていますが、相良藩主としても名君中の名君で、年貢を低く抑えることで農民の耕作意欲を高めることに成功し、養蚕や製塩、地形にあった作物の植生も奨励しています。このため失脚後に幕府が送った代官では領民の不満を治めることができず、文化6(1823)年に下村藩(現在の福島市の一部)1万石に転封されていた田沼さまの4男・意正さまが藩主として返り咲きました。

みなもと太郎作「風雲児たち」より
- 2015/06/23(火) 08:57:19|
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私が中隊当直空曹についた時、学生たちを入浴させる前にこう指導した。
「浴場の脱衣カゴをキチンと片づけておけ、後で点検して片づけてなかったら1個×10回腕立て伏せをさせるぞ」「わかりましたァ」学生たちは明るく返事をしてその日の疲れを癒しに浴場に向かった。
ところが我が中隊の入浴時間が終り、次の中隊が来る前に臨時勤務の若い班長たちと確認に行くと片づけていないカゴが棚に幾つも残っていた。私たちがそれを片づけ始めると外で煙草を吸っていた学生が慌てて覗きに来たが、「班長、幾つありましたか?」と訊く彼らの顔は引きつっていた。
夜の点呼の後、私は学生たちに向かって「入浴前、片づけてなかったカゴ×10回腕立て伏せをさせると指導したな」と念を押し、学生たちも「はい」と返事をした。
「あれから××班長と△△班長で点検したが・・・」グランドに重い空気が漂う。
「16個片づけてなかった」「エーッ」私の宣告に悲鳴に近い声が上がった。航空自衛隊では罰を与える時には指導責任を負って指導者が真っ先に受けると言う美学があり、私も曹候学生の先輩として学生にそれを示すため、「腕立て伏せ用意」と号令してコの字型に並んだ学生たちの中央で腕立て伏せの姿勢を取った。
「1!」「1!」「2!」「2!」腕立て伏せが始まると若い班長たちは手抜きする者がいないかを見て回り、私は号令をかけながら動作を繰り返した。
「80!半分」私の声に途中で許してもらうことを期待していた学生は崩れ落ち、若い班長から「みんなやっているんだァ。頑張れ」と励まされ泣きながら体を起こした。
「100!」ここからはカウント式に数を減らしていった。「59!」「59!」・・・「30!」「30!」・・・「10!」「10!」その間も若い班長たちは「他人のミスにも気を配って処置しなければ事故は起きるんだ」「ミスの責任から逃れられないことを体に刻め」などと自分たちの部隊での経験を込めた指導を加えて励ましている。
「5!」「5!」「4!」「4!」「3!」「3!」「2!」「2!」ラスト5回になると点呼を終えて部屋に戻っていた隣りの中隊の学生まで窓から顔を出して声をかけ、「1!」「1!」「ヨーシ、その場に立てェ!」と言う私の号令に拍手が起こった。160回の腕立て伏せを終えた学生たちは力尽きて立てない者も半数いたが、互いに助け合って立ち上がった。
消灯後は「シーン」と寝しずまったが、翌朝の起床では「班長、身体が起こせません」と言う者が続出した。そして出勤してきた中隊長が報告に行った私に不思議そうな顔で訊いてきた。
「今朝、ウチの学生は挨拶はするが敬礼をしないんだよなァ」つまり学生たちは筋肉痛で腕が上がらず、腰も曲がらず敬礼ができなかったようだ。
その頃の私は筋力トレーニングの成果で百キロのダンベルを上げていたから腕立て伏せの160回くらいは朝飯前だったのだ。
- 2015/06/23(火) 08:55:39|
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昭和48(1973)年の明日6月23日に栃木県にある北宇都宮駐屯地(航空基地)から陸上自衛隊の連絡機・LM-1が乗り逃げされる事件が起きました。
この事件以降、行方不明になっている少年工科学校出身で整備員をしていた20歳の3等陸曹が犯人と言われていますが、現時点でも本人は勿論、機体も発見されていませんから事実は明らかになっていません。
この日は土曜日で、3曹は外出して酒を飲んで帰隊したことまでは警衛隊員の証言などで判っていますが駐屯地内で足跡は消えています。
夜の9時に突然、1機のLM-1が離陸し、南に向かって飛び去ったことを管制官や隊員や近隣住民などが証言しているものの福島県の大滝根山や千葉県の峰岡山などにある航空自衛隊のレーダーサイトは航跡を捕捉しておらず、そのまま消息を絶ち行方不明になりました。
北宇都宮駐屯地は戦前、中島飛行機宇都宮製作所の飛行場で、滑走路や格納庫は当時の物を改修して使用していました。このため格納庫は比較的小さく、有事即応の建前で施錠していなかった扉も1人で開けることが可能だったのでしょう。
問題なのは単なる整備員に航空機を操縦することが可能なのかですが、操縦する上で難しいのは映画などでも描かれることがある着陸で、離陸と飛行はレバーやスイッチ、メーターの位置さえ判っていれば比較的容易なのです。特に整備完了後の検査・点検で操縦席に座り、エンジンを掛けて各種スイッチを操作していると「このままブレーキを解除して走り出せば離陸できるのではないか」と言う気分になってきます。実際はどの程度の出力で滑走し、どこでどれだけ操縦桿を引くのかが判らなければ機体を浮かせられないまま滑走路を飛び出して擱座するか、運よく離陸できても失速・墜落して炎上することになります。ただLM-1は初等練習機のT-34メンターをライセンス生産していた富士重工(前身は中島飛行機)が改造したレシプロ単発機なのでジェット機よりも速度が遅く、操縦も比較的簡単だったのでしょう。
陸上自衛隊には操縦員を陸曹から選抜する制度があり、この3曹も希望していたようですが受験資格は昇任2年後からなので、憧れを現実にするため整備員としての仕事以上の強い関心を持って機体を触っていたことは想像に難くありません。
飲酒によるアルコホールの影響は上空では気圧が低いため地上以上に酔いが回りますが(旅客機ほど気密性は高くない)、どこまで飛んだのかも不明なので検証できません。
離陸に成功すれば後は失速しないようにエンジン出力=速度に注意しながら操縦すればよく、レーダーサイトが捕捉できないほど低空を飛行しながらエンジン音や機影などの聴撃者・目撃者がいないことを考えれば広大な原野・茨城県上空を通過して海に出たのでしょう。
この事件を報じるマスコミは3年前のよど号ハイジャック事件の犯人たちのように北朝鮮へ向かったのではないかと推測記事を並べていましたが、日本海に出るためには複雑な山岳地帯を越えなければならず、低空で飛行するのはプロでも難しく(高度を上げればレーダーが捕捉する)、激突・墜落すれば機体が発見されますからあり得ません。
やはり陸上自衛隊が推定しているように「酔って理性・抑制が働かなくなったため、日頃の憧れが衝動になって操縦した=若気の至り」と言うのが現実的です。
富士重工のLM―1は最高速度296キロ、巡航速度204キロ、上昇限度1万5千フィート(約4500メートル)ですが、62・5ガロン(約236・6リットル)の燃料を使い切って航続距離1556キロを飛ぶ間に満喫できたのでしょうか?夢が叶ってよかったね・・・。
- 2015/06/22(月) 09:45:28|
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ある日、BX(売店)の前で理容店の小父さんに声を掛けられた。
「モリヤさん、今度はどこの床屋に行ってるんですか?」この基地には学生が集中して入ってきた時に合わせて2つの理容店があり、私は入隊したての曹候基礎課程や卒業前の空曹候補者課程でも小父さんの店を利用していた。
「いいえ、家で女房に刈ってもらっているんですよ」これは事実だが小父さんは首を振る。
「そんなはずはないでしょう。首筋の剃り方はプロの仕事です。見れば判りますよ」小父さんとしては班長に学生を紹介してもらうことは固定客の確保に直結する死活問題なので何とか引き戻したいようだ。
「実は女房は理容師なんですよ。だから家でプロに剃ってもらってるんです」「へッ?奥さんは理容師ですか」「はい、沖縄の理容学校を出ています」思いがけない返事に小父さんは腕を組んで黙ってしまった。私としては用事がすんだところで中隊に帰りたかったのだが、考え込んでいる小父さんの顔を見るとそれもできないでいた。
「奥さん、学生さんの点検前に手伝ってもらえませんかね?」「へッ?」「そうと判っていれば入隊の時も頼んだけど、中期と修了時の点検前も各中隊から一斉に来るから人手が足りなくて困ってるんですよ。断る訳にもいかないしね」「なるほど・・・でも女房は妊婦なんですわ」「それは体調を見ながらで結構です」「それじゃあァ、帰って訊いておきます」「お願いします」そうは答えたが「理容師命」の美恵子に言えば「イケイケドンドン」になるのは目に見えている。初産であることを考えると返事をする前に産婦人科で確認した方が良いのではないかと思案しながら中隊に帰った。
私は学生たちが食事から戻るのも待って自分の班員たちの悩みなどを聞いてから家に帰り、制服を脱ぐと下着のまま浴室に行き、シャワーで汗を流してから居間に戻ることになっている。居間でテレビを点け、夕方のニュースを見ながら台所の美恵子に声を掛けた。
「基地の床屋さんが忙しい時に手伝ってくれないかってさ」「理容店さァ、ここの基地にもあるねェ?」相変わらずプロとして理容店と言う呼び方にこだわりがあるようだ。
「うん、2軒もあるのさァ。学生が大勢入っている今が稼ぎ時で客の奪い合いなんだよ」「それで毎日ねェ?」「いいや、学生が点検を受ける前に手伝って欲しいだって」「点検って?」「新隊員は3カ月、曹候は4カ月の中間と卒業前に訓練の出来具合を点検するのさァ」「ふーん・・・」この説明では点検に身嗜みも含まれることは判らないだろう。しかし、美恵子は仕事の方に興味が移ってしまったようで料理の手が止まっている。
「おい、鍋が噴いてるぞ」私の注意も耳に入らないようなので立ち上がってガスを止めた。
「家にいてもテレビを見てマンガを読むくらいしかやることがないのさァ。理容師の腕を落とさないためにもやるさァ」やはり結論は話し合いの前に出た。そこで産婦人科に確認することを助言した上で無理をしないように注意した。
- 2015/06/22(月) 09:44:30|
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ある日、外周走路を走っていると学生たちが待っていた。
「モリヤ班長、鳥の子供が死んでいます」学生の1人が差し出した掌の上には雀らしい雛の死骸がのっている。この辺りには鳥の巣があるような立ち木や建物はなく、カラスにでもくわえられて行く途中で落ちたのだろう。
「可哀そうになァ」「折角、生れたのに」「親鳥に会いたかっただろう」学生たちは代わる代わるに雛を撫でて声を掛けている。私は現代っ子のこんな優しさが意外だった。
「モリヤ班長はお坊さんですよね?」「うん、一応な」「だったらお経を詠んで下さい」「そうか・・・判った」学生たちの目が真剣であることを感じ、私は引き受けた。
そこで走路から少し外れた場所に10センチほどの穴を掘って死骸を埋め、土饅頭を作って石を置いた。そして学生たちに帽子を脱がせて一緒に合掌し、延命十句観音経と言う短いお経を3度繰り返した。私の宗派では動物の供養には馬頭観音の加護を願うのだ。
勤経を終えて振り返ると通りがかった学生まで加わって10人以上が並んで手を合わせていた。
ところがこの一件は妙な問題になり、不思議な佛縁を与えてくれた。
夕方に外周走路を歩いていた第1教育群司令が一見して墓と判る土饅頭を見つけ、「縁起でもない」と同行していた群本部の隊員に壊させたのだ。
翌日のランニングで学生が「雛のお墓がなくなっています」と訴えてきたのと命令伝達で群本部から「外周走路脇に墓を作るイタズラをした者がいるが、縁起でもないので注意しろ」と言う群司令の口頭指導が届くのが重なって私の怒りに火が点いた。
終礼が終わるのと同時に私は群本部へ乗り込んで群司令への面談を求めた。しかし、対応した総務班の3曹が「群司令は食事に行かれています」と説明しながら嘲笑するような顔をしたため私は完全にブチ切れてしまった。
「あの墓は学生が見つけた雛鳥の死骸を埋葬した本物だ。イタズラではない」「本職の坊主の私が読経したんだ。勝手に壊せば罰が当たるぞ」「教育隊は雛鳥を育てるのが任務だろう。死んだ雛鳥を悼む学生の気持ちを踏み躙ってどうするんだ」興奮状態の私を持て余した3曹が奥の席で聞いていた曹長に目配せするとその坊主刈りの曹長は立ち上がって声を掛けてきた。
「私も本職の坊主です。モリヤ3曹が言っていることには全く同感です」意外な話に制服の名札を見ると「田沼」とある。顔を見直すと確かに坊さんらしい雰囲気があり、得度しただけで修行もしていない私とは別格の和尚ではないかと思うと興奮は一気に冷却された。そもそも坊主が興奮して怒鳴り込むとはトンデモナイことだった(それも中隊に無断で)。
田沼曹長の自己紹介と見解(けんげ)を聞いて引き上げようとした時、群司令が開いていたドアから顔を出し、「悪かったな」と声を掛けてきた。
- 2015/06/21(日) 09:05:42|
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寛政5(1793)年の明日6月21日(太陰暦)は寛政の三奇人・林子平・六無斎さんの命日です。56歳でした。寛政の三奇人とは林子平、高山彦九郎、蒲生君平の3人のことですが、偶然とは言え林さんと高山君は1週間違いで亡くなっており、蒲生君は17年後の高山君から1週間後が命日です。つまり半月の間に3奇人の命日が並んでいるのです。
林さんは元文3(1738)年に幕臣で御書物奉行を勤めていた岡村良通さんの5人姉弟の末っ子の次男として生まれますが、直言癖が原因で父が改易になったため叔父で医師の林従吾さんに預けられ、やがて姉弟揃って養子になりました。叔父は医師として各藩の江戸屋敷に出入りしており、その縁で長姉・なよと2人で伊達家に奉公に出た次姉・なほ(15歳)が藩主・宗村公の目にとまり側室・清の方となったのです。このため叔父も伊達藩に仕官することになり、叔父の没後は兄の嘉善が跡を取り仙台へ移り住むことになりました。当時、林さんは兄の部屋住み(跡取りができるまでの予備)でしたが、宗村公の子供2人(男女)を産んだ清の方への執心もあり異例の仕官が許されました。ところが異例の分度を守って大人しく奉公できる人間性ではなく、江戸で見聞してきた時代の変革を仙台藩でも実施するように藩士教育や産業改革、経済政策に関する建白書を家老に提出しますが受け入れられないと、禄を返上し兄の部屋住みに戻りました。そんな頃、仙台で藩医・工藤平助さんの強い影響を受けることになったのです。工藤さんは多岐にわたる人脈から入手した北方の情報を極めて正確に分析しており(そこが吉田松陰とは真逆)、後年、優れたロシアの解説書「赤蝦夷風説考」を刊行しています。
それからは気軽な立場を最大限に活用して北は北海道から南は長崎までを旅して回り、金に困れば医術の経験を利用しながら多くの学者・文人たちと交流し、その紹介で更に見聞を広めていきました。長崎では中国人の暴動を鎮圧することに貢献し、その功績で本来は許されないオランダの商館長とも面談して海外情報も仕入れ、そこで至ったのが「海は世界につながっている=日本は海国である」と言う思想でした。当時の日本では海は船乗りと漁師だけの領分であり、それ以外は大地に足をつけて働き、暮すことしか考えていませんでしたから、瀬戸内などで活躍した水軍を除けば陸戦だけが兵法だったのです。こうなれば林さんが黙っていられるはずがなく、先ずは北海道から伊豆、沖縄までの風景・風物を網羅した「三国通覧図説」を刊行し、これが大ベストセラーになって将軍から天皇の目にまで留ることになりました。次に「海国兵談」を発表しようとしたのですが資金不足と政治的な内容に幕府からの処罰を懼れて請け負う書店がなかったため自分で版木を削って出版したのです。ところがタイミングが非常に拙く比較的自由に意見を言えた田沼意次公の時代が終わり、偏狭な武士の倫理で社会を統制しようとしていた松平定信に政権が移っていたため、「無許可出版」さらに「幕政への口出し」として処断されることになりました。結局、16巻で1部となる「海国兵談」は回収焚書され、自作の版木も没収・焼却された上、兄の下で蟄居することになりました。それでも林さんは蟄居中に書写しており自筆版5冊が確認されています(発覚すれば兄にも類が及ぶことは考えなかったようです)。六無斎とは蟄居中に詠んだ「親も無し 妻無し子無し 版木無し 金も無けれど 死にたくも無し」と言う狂歌に由来する号です。
野僧は海上自衛官志望だった中学時代に「海国兵談」を読みましたが、戦術については元寇の時に武者が博多湾で行ったものと大差がなく完全な時代遅れでしたが主張は大いに賛同しました。
野僧も現役時代、航空総隊司令官からも「航空自衛隊の三奇人」と呼ばれていましたが、この「奇人」を「砂中の玉」とするか、単なる「出る杭」にするかは社会や組織、何よりも使う者の度量の問題でしょう。


この肖像画をみなもと太郎先生が漫画化するとこうなります(「風雲児たち」より)
- 2015/06/20(土) 09:18:05|
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そこで律ちゃんは周りの妊婦たちの視線に気づき看護婦の顔に戻り、「じゃあ」と会釈して入院病棟の階段に向かって歩き出し、入れ換わりに美恵子が戻ってきた。
「お待ちどうさま、順調だってさ」診察を終え幸せそうな笑顔で美恵子が戻って来ると、待合室の妊婦たちは一斉に視線を反らした。今度は未成年を妊娠させた上に看護婦にまで手を出した「女の敵」になってしまったようだ。
「だから女房なんだってばァ」私は出口の手前の窓の前でお腹を撫でながら会計をしている美恵子の横でまだ視線でついてくる女性たちにそう言いたかった。
考えてみると3年前に美恵子が福岡へ来た時、デパートで会った同期の安藤が「わかったァ。教育隊の時に言ってた律子さんだ」と暴露していたから美恵子の記憶力が良ければ危ないところだが、それ程でもないので大丈夫だろう。
ただ、街で出会うと気まずくなるので十分に注意しながら歩かなければならなくなった(沖縄でも梢と暮らしたアパートや一緒に行った店には近づかないようにしていた)。
人間関係で苦労していた防府だが素敵な出会いもあった。基地のそばのお寺・宝林寺の住職夫妻。杉浦正信老師は脳梗塞で半身不随、奥様が夫の世話からお寺の雑事、接遇までやっておられる。私は得度した僧侶として寺の空気を吸いに毎週末には境内の掃除と坐禅、読経をしに伺っていたが、不自由な身体でも僧侶としての威厳を保っている住職と苦労を耐えるでもなく避けるでもなく事実は事実として淡々と受け容れている奥様の姿には学ぶことが多い。そして元教員の奥様のお話には深い洞察と広い慈悲の趣があり、まるで祖父(=元教員)と話しているかのようだった。
美恵子を数度連れて行ったらすっかりお寺が気に入ってしまい慣れない学生教育で疲れて「休もう」と思っても「今日はまだ行かないの」と訊くようになってしまった。
- 2015/06/20(土) 09:15:31|
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私は産婦人科につき合うのが苦手だった。待合室でどう見ても未成年のような美恵子の隣りに座っていると女子高生に手を出した悪い奴にしか見えないのだ。私は周囲の好奇心の目にうつむいて本を読んでいるしかなく美恵子の話にも生返事を繰り返している。
「モリヤさん」と美恵子が呼ばれ1人になると尚更、女性たちはアカラサマに視線を集中させ、中にはコソコソとこちらを見ながら小声で話し始める人までいた。
その時、私は衝撃の再会を果たしてしまった。読みかけていた本に目を落とした私の前に看護婦が立ち、白衣のスカートから腰、腹、胸に視線が上がっていく時、何故か胸でそれに気づいた。それは曹候基礎課程の時につき合っていた小林律子だった。
「モリヤくん?」「律ちゃん?」大学を中退して入隊した最初の曹候基礎課程で、私は高校卒の連中に負けないよう懸命に自分を鍛え、毎日の自主トレでも同期よりも長距離を走っていた。このため連休の頃には膝を痛め、近くの整形外科に通院したのだが症状に違和感を持った医師は県立中央病院での精密検査を勧めた。そこで看護実習中だった律ちゃんと知り合い毎週の外出でデートするようになったのだ。
教育隊では単独外出は許されないのだが同期たちは一緒に外出しても途中で2人きりにしてくれた。しかし、基地に帰るとデートでの行動を詳細に報告しなければならず、「制服外出だから模範的な行動に心掛けなければならない」とつき合い始めて1カ月経っても手も握らない私に同期たちは苛立ち始め、仕舞いには男同士でキスの仕方を実演し、私にも練習をさせた。確かに抵抗された場合の奪い方は勉強になった(何の?)。
そして「今日こそ熱い唇を奪え」「実戦あるのみ」「そのまま押し倒せ」と発破を掛けられて臨んだデート。徳山市の万葉の森公園のベンチで交わしたファーストキス・・・律ちゃんには本当のファーストキスだったようだ(私が知り合う女性は真面目な人ばかりなのでファーストキスだったことが多かった。美恵子が真面目なのかは疑問だが)。
律っちゃんとは基礎課程を終えてもらった1週間の休暇を防府に残って2人で過ごそうと思ったのだが、教育隊が送った卒業式への招待状で日付を知った父の厳命で強制帰省させられた。
「結婚したんだね・・・おめでとう」「律っちゃんは?」「私は・・・」某基地での整備員課程の間は律子も国家試験に備えての勉強に全力投球で互いに連絡が取れなくなり自然消滅してしまったのだ。
本当は沖縄に赴任する前に防府へ行くつもりだったのだが、連絡を取る前に父から「地の果てへ行く前に先祖の墓に参って親戚に挨拶しろ」と強要された。
浜松では毎週の帰宅を強制され、それで大学時代の生活が戻ったような気になっていた親には私が沖縄に赴任することになったショックは大きかったのだろう。実際は「少しでも遠くへ」と希望したのは私自身だったのだが。

勝手に使ってスミマセン(初デートで行った防府天満宮)
- 2015/06/19(金) 09:18:10|
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基地開庁記念日には西日本出身の学生の家族が我が子の晴れ姿を見にやってくる。このため市内のホテルは押さえてあり、家族の人数さえ申告すれば予約は必要なく、行事が始まる時間に合わせてホテルから貸し切りバスが基地へ直行する。
私は自分の仕事を美恵子に見せたいと思ったが、他の班長たちと一緒に整列した部隊の後方で倒れた学生を運び出し、同じくらいの身長の者が交代に立つ係だったため案内することができず観閲行進は見せられなかった(見なくても結構だが)。
式典が終わると学生と家族の対面になる。私の班員では福岡、佐賀、広島から両親が来ているはずだが、その中に予定外の若い娘さんが入っていた。
「班長さん、息子がお世話になっています」「こちらこそ。御子息は頑張っていますよ」「はい、1カ月少々で見違えるほど立派になって驚きました」こんな挨拶を交わしながら順番を進めていくと娘さんは福岡出身の学生の姉だと判った。
「今日は福岡から?」「はい、今朝は6時出発でした」私と挨拶を交わしている両親の後ろで学生と姉が話している。
「あれが班長さん?」「うん、曹候の先輩なんだよ」「私と幾つ違いなの?」「確か25歳だから・・・」「だったら丁度いいね」「へッ・・・?」挨拶が区切りになったところで母親が娘さんを横に出して紹介した。
「これは△△の姉です。班長さんに紹介したいと思いまして連れてきました」「・・・」つまり即席の見合いのようで私は絶句してしまった。確かに姉は弟とは似ていない博多美人だが妻帯者が見合いを受ける訳にはいかない。
「お前なァ、家族に何て言ったんだ?」「いえ、僕は良い班長でラッキーだと言っただけです」「俺が女房持ちだと言わなかったのか?」「だって、奥さんに会ったことないですから」この会話で両親は私が妻帯者だと理解し、姉は困ったように顔を曇らせる。
「わかった。不十分な情報提供で誤解を招いた罰だ」「はい」自衛隊の「罰」と聞いて鉄拳制裁を想像したのか母親と姉は怯えたような顔を見合わせた。
「腕立て伏せ、用意」「1、2」私の指示に学生が番号を呼称し、2人揃って腕立て伏せの姿勢をとった。「1」「1」「2」「2」そこからは学生の先導に合わせて私も腕立て伏せを始めた。
場もなごんだ20回で終えて立ち上がると父親が質問してきた
「自衛隊の罰則は腕立て伏せ何ですか?」「はい、ついでに体力練成できますから。その意味では非暴力の体罰です」「でもどうして班長さんまで?」「監督責任です」「なるほど・・・」突然、腕立て伏せを始めた私たちを他の家族まで取り囲んでいたため、私の説明にみんなが感心したようにうなずいていた。
その日は午後から美恵子がやってきて学生たちにも初披露できたが、中には同じ21歳の現職組もいて嬉しそうにツーショット写真におさまっていた。
- 2015/06/18(木) 09:30:20|
- 夜の連続小説8
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4月27日に生まれた子猫も1カ月半が過ぎて1匹前になってきました。毛並みは黒猫の音子(最近は「喪服が似合う好い女」と呼んでいる)とは全く違いますが、やることは母親譲りのワイルドキャットで、障子で爪を研ぐことを覚えると立っている物なら何でも構わずやり始め、現在は野僧の足がお気に入りです。これから暑くなって甚平になると昨年、膝で眠っていた音子が目覚めて伸びをする時に爪を立てた以上の傷になりそうです。背中にもよじ登るのでTシャツになれません。
音子の方は1匹っ子のため母性本能全開で、外へ遊びに出しても子猫が鳴けば即座に戻ってきて「戸を開けろ」と暴れます。それで子猫の姿が見えないと狂ったように探し回り、その呼び声「ニャーオ」を名前にしました。それにしても「若緒」が野僧の膝を定位置にしているため、帰ってくると「私の娘を誘惑した」と疑いの目で睨むのは止めてもらいたいものです。
一緒にいれば長い尻尾を猫ジャラシにして遊ばせたり、猫パンチ・猫キック、噛みつきなどの格闘技を教えたりと習ってもいないのに母親をしていて、習っても母親になれない者が多い現代の日本人女性は「猫よりも劣るのではないか」と首を傾げてしまいます。要するに頭デッカチになって動物的な母性本能を喪失しつつあるのでしょう。
夜も昼も生んだ時のまま抱いて寝ていますが、これからサイズが変わらなくなってくるとどうなるのでしょうか?




- 2015/06/17(水) 09:26:53|
- 猫記事
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防府南基地では5月中旬の日曜日に基地開庁記念日が行われる。普通の基地であれば航空祭としてエプロン(駐機場)に飛行機を展示して多くの見学者が集まるのだが、空を飛ばない航空教育隊では見世物がなく、学生による観閲行進が目玉なのだ。
今回は班長として行進の動作を指導する立場だが、学生たちも岩国基地の航空祭を見てきたばかりなので今一つやる気がない。そこで基本教練の前に区隊ごと出発してグランドの観閲台の前を通過してくる練習の時、またまた余計な訓示をしてしまった。
「お前たちは行進することで日本の平和を守るんだ」「・・・?」武器庫で小銃を受領して道路に整列した学生を前に一席ぶち始めると学生たちは意味が判らず顔を見合わせた。
「お前たちが立派な行進を見せれば航空自衛隊の練度の高さを内外に示すことになり、日本の侵略を狙っている敵は一歩引くだろう。いいか!」「・・・はい」流石に話が飛躍し過ぎており、後輩たちの返事も散発的だった。
その頃、私は防府南基地の観閲行進に関して1つ疑問を見つけていた。それは行進曲が航空自衛隊の制式になっている「ブラビューラ」ではなく陸上自衛隊の分列行進曲「抜刀隊」であることだ。ブラビューラは本来、アメリカ海兵隊の行進曲だが全く別の曲のようにアレンジしてある。だからと言って借用の外国曲よりは旧陸軍の行進曲の方が良いかと言えば私は賛成できなかった。
「抜刀隊」は西南戦争で西郷南洲の私兵と戦った斬り込み隊を称賛する軍歌で、これを陸軍の分列行進曲に制定したのは西郷が賊徒になったことで陸軍での権勢を手中に収めた山県有朋などの山口軍閥だった。つまり山口県防府市にある航空教育隊では山県有朋の汚い権力欲を明日の航空自衛隊を担う学生にまで植え付けようとしているように思われ無性に腹が立ってきた。
実際には航空自衛隊が創設された頃、公職追放を解除された旧陸海軍の出身者が上級幹部に採用され、その中の陸軍出身者は警察予備隊から始まった陸上自衛隊には持ち込めなかった旧陸軍の伝統を航空自衛隊で再現したらしい。だから基本教練や日課時限は陸軍式、実戦で全く役に立たないことが太平洋戦争で実証されている銃剣道まで持ち込まれ、航空部隊や警戒管制部隊がアメリカ空軍から学んでいる近代性とはかけ離れた時代錯誤な教育がまかり通っているのだ。基地開庁記念日の「抜刀隊」も旧陸軍出身だった当時の第1航空教育隊司令が自分の好みで命じたのだろう。
- 2015/06/17(水) 09:22:49|
- 夜の連続小説8
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安政4(1857)年の明日(太陰暦)は迫りくる諸外国との交渉を常識的に進め、埋もれていた多くの人材を発掘して徳川幕府に最後の花を咲かせた名宰相・阿部正弘公の命日です。
この名宰相について尊皇派は「井伊に先立って開国を進めた」、逆に佐幕派も「幕政に島津などの外様を介入させた」などと批判的で、おまけに地元でも諸事多難な幕政に掛かり切りで1度しか国元へ帰らず藩政を蔑ろにしたと酷評されています(実際、藩の財政は破綻寸前だった)。しかし、極めて正確な世界情勢に対する知識を持ち、門地門閥に捉われることなく能力で人材を発掘し(芋づる式の藩閥人事だった薩長土肥とは全く違う)、近代的な理念を以て幕政改革を志向しながら、それを断行ではなく日本的な歩調で進めていった慎重な政治手法は高く評価されるべきです。
阿部公は文政2(1819)年に老中を務めていた福山藩主(現在の岡山県)・阿部正精(まさきよ)公の5男として生まれますが、7歳の時に父が病没したため3男だった兄の正寧(まさやす)公が跡を継ぎました。この時の阿部兄弟は揃って病弱だったようで長男は廃嫡され、2男と4男は早世しています。正寧公も病弱ったため10年後には隠居して末弟の正弘公に家督を譲りました。こうして19歳で政治の表舞台に登場すると奏者番、2年後に寺社奉行見習い、半年で寺社奉行とステップアップを続け、25歳で兄が就くことができなかった老中となっています。この1年後には天保の改革の失敗で解任された水野忠邦が、後任者たちの無能さに業を煮やした将軍・家慶さまによって復権させられると言う珍人事が行われましたが、裏切りによって幕閣に留まっていた鳥居耀蔵や後藤三右衛門などの面従腹背で利権を漁り、天保の改革を失政に落とした身中の虫たちが排除され、阿部公が活躍する舞台が整う結果になりました。
阿部公は寺社奉行時代に前将軍・家斉さまの好色に関与した寺院を厳しく罰して家慶さまの信任を得ており、水野の復権でも「将軍の命で解任した者を復権させれば権威が失墜する」と反対を直言するなど政権基盤は確立していたのです。そこで2百年間続いた鎖国体制では対応できない新たな組織造りに人材登用を進め、鳥居によって弾圧された蘭学者の集まり「尚歯会(しょうしかい)」のメンバーであった伊豆代官・江川太郎左衛門英竜さんを抜擢し、その人脈から川路聖謨(きよあきら)さん(旗本)、筒井政憲さん(旗本)、戸田氏栄(うじよし)さん(旗本)、高橋泥舟さん(旗本)、岩瀬忠震(ただなり・旗本)、井上清直(御家人)、勝鱗太郎さん(御家人)などを発掘しました。これを尊皇派は「幕臣ばかり」と批判しますが、薩長土肥に比べて幕臣は底辺となる人数が格段に違う上、諸藩よりも身分の固定化が厳しかった幕府としては画期的なことだったのです。
さらに開明派(=蘭癖)大名の筆頭であった島津斉彬公にも意見を求めましたが、島津家は本来、東北の伊達藩、中国の毛利藩と並ぶ仮想敵であり、幕政に口出しさせることなどは常識的な幕閣には決して容認できないことでした。さらに阿部公は相次ぐ外国船の来航と通商の要求に国を挙げて対応するため諸藩に意見を求めましたが、この時も建設的な航海遠略策を唱えたのは吉田東洋さんを擁する土佐藩や長井雅樂さんがいた毛利藩などの外様=仮想敵でした(どちらの逸材も尊皇攘夷の狂気の中で圧殺されてしまいました。長井さんは現在も継続中です)。
そんな阿部公の足を引っ張ったのは将軍の身内であるはずの御三家末座・徳川斉昭で、2代藩主・光圀が趣味で始めた「大日本史」の極端に偏向した尊皇攘夷思想に染まり切っており、武力の違いも認識せず、戦前の帝国軍人のように「夷狄(いてき)討つべし」と声高に叫んでいました。阿部公はこの斉昭を海防掛に加えて公式に意見を述べる機会を与えることで、無責任で過激な扇動を収め、現実的に幕政改革の歩を進めていったのです。しかし、やはり病弱な身体に重大な局面は過酷であり、この日に老中在職のまま江戸で急死してしまいました。39歳でした。
おそらく阿部正弘公と島津斉彬公(翌安政5年7月16日没・49歳)があと10年生きていれば、若く英明な将軍・家茂(いえもち)の下、穏やかに開国と幕政改革、公武合体が進み、安政の大獄や狂ったように滅亡へと突き進んだ大日本帝国が成立することもなかったでしょう。

みなもと太郎作「風雲児たち」より
- 2015/06/16(火) 09:21:53|
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わが8中隊の先任空曹・三浦曹長は傑物だった。私が曹候学生基礎課程に入隊した時は、1曹の訓練係長だったのだが、卒業課程では曹長で中隊の先任空曹、そして今回で3度目の出会いなのだ。
三浦曹長の凄いところは起居動作、挨拶、服装容儀、整理整頓など全てに三浦流の作法があり、学生や事務室の空士、若手空曹は言うまでもなく上官である区隊長、下手すれば中隊長にまで「8中隊に来たならば」とその流儀を学ばせていたことだ。
親元の自由気ままな高校生活から入隊してきた学生たちに三浦曹長は強烈過ぎるキャラクターのようで、ある日、学生たちが唄っている替え歌を聞いて笑ってしまった。
「迫る先任 事務室の長(おさ) 我らを狙う作業鬼 中隊業務のためだけに ゴー ゴー レッツゴー 轟く叫び 先任草刈り 先任蒔き割り 三浦先任 三浦先任 先任 先任(「仮面ライダー」の替え歌)」三浦曹長は怪我などで訓練に参加できない学生を「作業員」として預かり、故障している部位と症状を確認するとそこを使わない肉体労働をやらせ、その際の流儀は「訓練よりもキツイ目に遭わせる」だった。だからこんな歌ができたらしい。私は隊歌係だったので当直の夜の隊歌演習で歌わせると大受けだった。そこで興味を持って学生から募集すると続々と傑作が集まってきた。
「先任の前では男の子 みんな元気 それは何故 それは嫌味 嫌味のせいなの ピンピンピン 熱が3度も下がったの ピンピンピン それは何故 それは甘え 病気に負けちょる 神さま先任(「秘密のアッコちゃん」の替え歌)」これは身体の具合が悪く衛生隊に受診する前に事務室で交わされる三浦曹長と学生の会話だ。三浦曹長の口癖まで忠実に描写されていることに感心した。
私自身も曹候学生の卒業課程では沖縄から入校した上、例年にない大寒波で入校早々に風邪をひき三浦曹長のお世話になったが、40度近い高熱だったため逆に心配してくれた。だから私は学生たちに三浦先任の口やかましさの後ろにある職業意識と親心を説明し、ついでに作業員たちの部隊歌を作詞した。
1「先任の声轟々と 若者は征く作業員 背中に重たい十字架は 訓練できない激務休(げきむきゅう)我らはその名も先任S(せんにんず)」
2「寒風酷暑身がもたず 艱難辛苦耐えきれず 作業に当る弱者(よわもの)が シッカリやってきてくれと 同期に祈る虚しさよ」
3「担架交ゆる衛生隊 七度(ななたび)重なる診断の 休務の影に焦りあり ああ今は無き訓練の 内容どこで取り戻す(ここでか曲が変わる)」
4「毎日続く作業員 中隊業務身につけて いつかは事務所の長(おさ)となり 先任と呼ばれる時が来る 我らは曹候先任S(「加藤隼戦闘隊歌」の替え歌)」
それにしても全国各地に三浦曹長のような先任空曹ができたら航空自衛隊は大変なことになりそうだ。

本名は微妙に違います。
- 2015/06/16(火) 09:17:39|
- 夜の連続小説8
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慶応2(1866)年の明日6月16日(太陰暦)に浜田藩士・岸静江国治さまが討ち死にしました。この最期こそ警備小隊長たる者の規範とされるべきです。
岸さまは天保7(1836)年に上州・舘林藩士・岸国道の子として生まれましたが、生後半年で藩主・松平右近将監斉厚公が石州・浜田藩に転封されたため家族で転居しました。岸さまは幼い頃から学問と武芸に励み、藩校での官学だけでなく和歌、書にも秀でていたため選ばれて江戸へ遊学しています。帰国後もその姿勢は変わらず23歳の時には藩主から学業優秀で表彰を受け、藩校の教授職の娘と結婚しました。24歳で近習(きんじゅう)に抜擢され、水戸家から養子に入って跡を取った藩主・武總公(=徳川慶喜の弟)の側近になったのです。その頃の岸さまは使用人たちに学問や武芸を授け、その成果を実感させるため書物や護身用の刀などを与えたそうです。
慶応2(1866)年に父が隠居して家督を相続すると物頭(ものがしら)と言う要職に就きますが時代は風雲急を告げ、浜田藩が枝胤(徳川家の親族)として山陰に存在する理由である仮想敵・毛利藩が武器商人・坂本龍馬の仲介で島津藩の名義で南北戦争の終結で余った大量の武器を入手して武力を強化し、朝敵として受けている第2次征討に反攻の挙に出たのです。この反攻では井伊藩などが広島から侵攻して来るのを迎撃した岩国口、周防大島での大島口、高杉晋作が庶民を戦闘に巻き込むため結成した奇兵隊が小倉へ上陸して略奪と破壊の限りを尽くした小倉口と共に山陰から侵攻しようとした浜田口で戦いが起こりましたが、岸さまはそれに先立つ5月27日に国境を守備する多田村扇原の関門の頭に任ぜられ赴任しました。
浜田口に迫る毛利軍は村医者出身ながら西洋の近代軍学を修めた比類なき軍師・村田蔵六さん(士分になった時、大村益次郎に改名させられた)が指揮していました。ところが隣接する津和野藩では藩主・亀井玆監(これみ)が藩士たちに登城を命じて閉門し、家族や領民を放置して毛利藩を通過させたのです(郷土史家は「中立を守った」と自己弁護しています)。ちなみに津和野城は街道筋=城下町から少し離れた山城ですから完全な素通りだったのでしょう。
その頃、岸さまの下では配下の武士や集まった地元の農民などが一戦交える覚悟でいたのですが、通過を要請する使者から毛利軍が抵抗を受けず無傷であることを聞いて少数での抵抗の無駄を覚り、全員を逃がして1人残ると十字槍を構えて待ち受けたのです。これに対して指揮官の蔵六さんは「迂回すればすむことだ」と脇道を進みましたが、いきり立った兵士の1人が発砲したため至近距離から銃弾を受けて戦死しました。
その後、大政奉還した徳川家を朝敵として壊滅しようと薩長土肥の反乱軍が東海道を東進した時、同じく枝胤として新井の関所を守護する任務を負っていた三河・吉田藩は抵抗するどころか宿泊・給食の世話から荷駄を運ぶ馬や人足まで提供しました。つまり吉田藩・松平家の7万石には1名の岸静江もいなかったと言うことです。野僧は新井の関所に近い浜松基地の警備小隊長だった時、「吉田藩のような卑怯者にはなるまい」「浜松の岸静江になろう」との覚悟で勤務し、ゲート前に集まり爆音を響かせて気勢を上げている暴走族の中に1人で入って解散を命じ、殺気立つデモ隊にも単身で対応しました。あそこで殺されていれば野僧も「平成の岸静江」と呼ばれたのかも知れませんが残念ながら死に損いました。
岸さまの遺骸は毛利軍が置いて言った金で丁重に埋葬されましたが、これが大島口であれば悪鬼・世良修蔵によって辱められ、岩国口でも桂小五郎が埋葬を禁じたはずです。国際常識を熟知する村田蔵六さんだから死者に対する礼節が守られたのでしょう。
余談ながら平成1(1989)年12月に放送された年末時代劇「奇兵隊」の岸さまは当時61歳だった織本順吉さんが古武士として演じていましたが実際は31歳の男盛りでした。
- 2015/06/15(月) 08:47:31|
- 日記(暦)
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ゴールデンウィークには岩国基地で日米親善デーの航空祭があり、私は曹候学生たちを引率して行くことになった。私は沖縄以外の米軍基地を見るのは初めてだ。
この日も早朝に出勤し、大津島の時と同じように集合させ、またもや先任だったため注意事項を説明することになった。
「今回は休日だが制服で行動する以上、民間の人から見れば見学者ではなく自衛官だ。ましてや海上自衛隊やアメリカ海兵隊に恥をかかせるような行動は厳に戒めなければならない。また航空機などの説明を求められることがあるかも知れないが相手は君たちが入隊間もない学生とは思っていないのだから間違った情報を流すことのないよう慎重に、しかし、親切・丁寧に対応しろ」ここまで言って「これではまた訓示になってしまった」と思いおまけをつけた。
「アメリカ人と一緒に写真を撮りたい時は何と言うか教えよう」以外な話にそれまでは関心がなさそうだった学生も表情を変えた。
「ポーズ ウィズ ミー、これでOKだ」このワンポイント・レッスンに学生が興味を持ったようなので、もう一言追加した。
「それから自己紹介する時、マイ ネーム イズなんて言うなよ。アイ アム モリヤで結構だ」今回は好評だろうと思って学生の横に戻ったが区隊長は「勉強になったよ。流石」と妙な感心をしてきた。おまけに中隊長は皮肉な訓示をした。
「モリヤ班長は曹候7期、諸君らの先輩だ。英語が自在に操れるのも曹候学生の資質なのだろう。今日は英語の実習だな。なお、通訳はモリヤ班長に頼むように。以上」私の英語は大学で学んだことよりも沖縄でアメリカ軍とつき合って身についたものなので正式な会話には自信がなかった。それでも観光バスの中で教育の追加をしてしまった。
「それではアメリカ海兵隊の歌を唄う。覚えたら向こうで唄ってみろ。すぐに友達になれるぞ」マイクを握った私の口上にガイドさんは半信半疑の顔をしていたが構わず唄い出した。
「From the hall of Montezuma,To the shores of Toripoli」これは「マリーンズ ヒム(海兵隊賛歌)」で普天間の連中、特にジュディから習ったのだ。
「We fight our country’s battle, In the air, on land and sea.」ガイドさんは正面でアングリと口を開けて私を見ている。
「First to fight for right and freedom, and to keep our honor clean.」考えてみればこの歌も歌詞カードなしで唄える程、愛唱していた。
「We are proud to claim the title of United Stats Marine」最後まで歌い上げると学生たちから拍手喝さいを受けたが区隊長は皮肉な笑いを浮かべていた。
航空祭ではアメリカ兵と談笑しているところを見ていた一般の人たちから通訳を頼まれたが、学生たちは曹候学生のプライドに掛けて自分で頑張っていた。
基地に帰りついて下車する私にガイドさんが「自衛隊って本当は凄いんですね」と声を掛けてきたので「どう言う意味なんだろう?」と悩みながら帰宅した。

私は空曹時代からオーダーの制服を着ていました。
- 2015/06/15(月) 08:46:38|
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ようやく安定期に入った頃、私は美恵子を連れて近くの温泉に行った。
「気持ちいいさァ」温泉は初体験の美恵子は少し上気した顔で出てきた。
「お腹は大丈夫か?」「うん」美恵子は髪を拭きながらマタニティーのお腹をさすった。
「何だか長生きしそうな気がする」「若いくせに何を言ってるんだよ」自分と私のタオルをビニール袋に詰めながら美恵子が口にした感想に呆れると、「そうかァ」と笑って誤魔化した。
「本土では温泉から出たらこれを飲むのさァ」そう言って私はフルーツ牛乳を差し出した。
「美味しいさァ」美恵子は半分残っていたフルーツ牛乳を美味しそうに一気飲みした。そんなやり取りを待合室の家族連れたちが不思議そうな顔で見ている。
「奥さんかいね?」ソファーに座っているお婆さんが親しげに訊いてきた。
「はい」「奥さん、若いね」「でも21ですよ」私の返事にお婆さんは驚き、それが聞えたのか周りの人たちも振り向いた。
「可愛い奥さんっちゃね」「こりゃどうも」私が返事をする横で美恵子は照れ笑いする。
「奥さん、赤ちゃんがいるの?」「はい」美恵子が答えるとお婆さんはうなずいた。
「足元に気をつけてね。立派な赤ちゃんを産んで下さい」待合室から出ていく時、お婆さんに声を掛けられて美恵子は少し恥ずかしそうにお辞儀をした。
「貴方はもう忘れたかしら・・・2人で行った横町の風呂屋 『一緒に出ようね』って言ったのに・・・」外に出て長い渡り廊下を下りながらBGMを口ずさんでいると私に習った美恵子も鼻歌で合わせてくる。
「おトゥ、おカァも連れて来たいさァ」そう言いながら美恵子は「いい?」と尋ね顔で見上げ、「赤ちゃんが生まれたらな」と言う私の返事に美恵子は嬉しそうに微笑んだ。
今年は盆も正月も沖縄へ帰省できそうもないので赤ん坊が生まれたら見に来てもらおうと思っていた。
私の両親は結婚以来何も言ってこないが11月に子供が生まれることと防府に転属したことは一方通行の葉書を送っておいた。

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- 2015/06/14(日) 00:02:40|
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4月中旬、大津島研修に出かけた。大津島は瀬戸内海に浮かぶ島で太平洋戦争中には人間魚雷「回天」の訓練場と基地があった。国鉄(現在のJR)の徳山駅を下りてすぐ徳山港からフェリーか旅客船で渡り(船によって発着場所が違うので注意)、私も曹候学生基礎課程の時に行ったことがあるのだが今回も引率することになった。
早朝に出勤すると班長が同行しない班まで健康状態を確認して区隊長に報告する。今回の研修では私が最先任の班長なので実務を仕切らなければならないのだ。
出発前に集合させた学生たちの前で私が昨日、先任班長に確認した注意事項を説明した。
「今回はあくまでも研修であって外出ではない。したがって許可なくジュースなどの購入は厳禁だ。また大津島は我々と同じ志を持って命を捧げられた回天特攻隊の英霊たちが留まっているはずだ。見苦しい振る舞いは許されないから気をつけろ」日頃はベテランの班長の影で大人しくしているので、こうして後輩たちの前で教育をしていると気分が高揚してきて訓示のようになってしまった。それでも説明を終えて学生の横に戻ったが、続いて朝礼台に上がった中隊長は皮肉な訓示をした。
「今のモリヤ班長の訓示の通り。以上」こうして自衛隊のバスとトラックで防府駅に移動し、無事に徳山港から船に乗ったのだが、ここでも私は目立つ教育をしてしまった。
「船に乗る時は船尾に掲げられている国旗に敬礼してから乗るのが国際マナーだ。それから船の上では風で飛ばされないように帽子の顎紐を掛けろ」すると海上自衛隊から入校してきた現職組が「そうです」と相槌を打ち、中隊長以下の幹部たちは「そうか、知らなかったなァ」と感心していた。
島の港から歩いて基地の跡に向う途中、私が「特攻隊員たちはどんな気持ちで外出してたんだろうなァ」と呟くとそれを聞いた学生たちが「帰るのが怖かったでしょうね」「俺、帰らないで逃げてしまうかも知れません」などと返事をしてきて後ろで中隊長が「最高の精神教育だな」と感心してくれた。そしてトドメが慰霊碑の前での黙祷だった。
「モリヤ班長、ラジカセを忘れました」学生たちが整列を終え、中隊長が慰霊の意味を訓示している時、同行した中隊本部の1士が困ったように申し出た。黙祷をする時、カセットテープに録音した「海ゆかば」を流すのだが、この体育馬鹿は自分のウォークマンを持ってきたのだ。それが聞こえたはずの区隊長たちは関わらないように無視している。しかし、そうとも知らぬ中隊長は回れ右をして慰霊碑に向かい厳粛な顔で「それでは黙祷する。黙祷」と指示した。
「海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草蒸す屍・・・」一瞬、間を置いて私は独唱を始めていた。私は中学生時代に朝夕のお経と御詠歌で鍛えたため2オクターブは軽く声が出る。したがって音程差が大きい「海ゆかば」も唄い切ることができた。しかし、この歌に感動した館長が傍を離れず案内をしてくれたため、翌日、区隊長から「モリヤ3曹は班長ではなく中隊長要員として転属してきたな」と皮肉を言われてしまった。
- 2015/06/13(土) 09:21:09|
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慶長20(1615)年の明日6月13日(太陰暦)に徳川幕府から一国一城令が発せられました。いきなり余談になりますが1615年は7月13日(太陰暦)で慶長から元和(げんな)に改元されているため資料によっては元和1年とされていることがあります。念のため。
この「一国一城令」を明治6年に反乱新政府が発した「廃城令」と混同する人もいますが、武士への憎悪に目が眩んだ公家と洋風化に酔って歴史的建造物の価値を認めなかった薩長土肥の成り上がりが犯した伝統文化の破壊とは全く違います。
何よりも「一国」の定義が極めて柔軟なことで、国と言えば奈良時代以前の律令制度から定められている令制国のことだと思いますが、それでは陸奥(現在の青森・岩手・宮城・福島県)や出羽(秋田・山形県)に1つの城しか認められなくなってしまいます。このため国は領国(後の藩)を指すものとしました。さらに「一城」も意外なほど寛大で、加賀、能登、越中の3カ国を領する前田氏のような大大名には各令制国に1つの城を認められています。陸奥の大大名・伊達氏も仙台・青葉城とは別に白石城を残すことが認められ、支城や砦も代官などの屋敷として温存できました。
一方で大大名の領地を分割された小大名の中には領内に城がなく、新たに築く財力もないため陣屋を城扱いしていることもあります(「城なし大名」と馬鹿にされた)。さらに三河の新城では水野氏が1万石を与えられて新城城を築きますが、家康公の関東移封によって豊橋の吉田藩に組み込まれ、その後、菅沼氏が天領代官として入ったものの3千石なので大名ではありませんでしたが、それでも城は破壊されることなく代官の陣屋として残されています。
逆にこの通達を悪用したのが毛利氏で、長門・周防の2カ国を領するため城も2つ許されたのですが、萩城だけを残し国境の重要拠点・岩国城は完全に破壊してしまったのです(現在の模造天守閣は別の場所に石垣から造り直している)。
これは幕府から岩国の領主に任じられた吉川氏を「関ヶ原で徳川に内通し、西軍の総大将だった本家=主君・輝元を裏切った不忠者」と断罪し、城を与えることを許さなかったためで、その後も再三にわたり幕府から「支藩への格上げ」を勧められても拒否し、あくまでも分家扱いに貶めていました。この恨み深い性質は藩の気風=現在の山口県人の気質なのでしょう。
幕府がこれほど柔軟・寛大な運用を行った背景には、恐るべきは江戸に攻め上ってくる敵であって、自領で立て篭もる城は攻略に手間取る以上の脅威ではなくなっていたことがあるでしょう。さらに天下泰平が定まれば城は陣地・根拠地としての位置づけを失い、警備が行き届いた領主の邸宅、領民を威圧する象徴的な意味しかなくなることを理解しており、その効果を確保するため領内に1つの城を許すことには必然性もあったのです。
現在の日本人は城には天守閣があるものと思い込んでいますが(単なる陣地だった城址にも天守閣を建設していることがある=愛知県の墨俣城・小牧山城など)、本格的な天守閣が造られるようになったのは戦国時代も後半になって城が山上から大規模な兵員を終結・運用し易い平地や独立した低い山に移ってからです。
要するに「使わなくなった砦は破棄しろ」と言う命令なので各大名にも異存はなく円滑に実行されたのですが、破棄したのは建物だけで石垣や堀が残っている場合も多く、島原半島の先端にあった要害・原城は切支丹が立て篭もり幕府も攻城・鎮圧に苦戦することになりました。
野僧は小学生の頃から大の城好きでハセガワのプラモデル「日本の城」シリーズは全部作りました。それにしても「江戸城」は何故18歳未満への販売が禁止されていたのだろうか?(買ったけど)
- 2015/06/12(金) 09:11:58|
- 日記(暦)
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さらに私の教育は続いた。それは「部隊で役立つ教育をしたい」と言う私の願いの第一歩でもある。終礼で明日の予定を説明した後、訓練幹部がこう言った。
「今夜も当直空曹のモリヤ班長が特別講座を開くそうだ・・・モリヤ班長、説明を」各班単位でコの字型に並んでいる学生たちは「今度は何だ?」と言う顔を見合わせ、学生に背を向けて立っている班長たちは苦笑していた。
私は仰々しく訓練幹部に敬礼すると基本教練通りに中央へ出て学生に向かった。そして、いきなり質問を投げ掛けた。
「諸官たちの中でドリップ式のコーヒーを入れたことがある者はいるか?」「へッ?」学生たちは一瞬、呆気に取られた後、冗談と思ったのか爆笑した。
「何が可笑しい?お前たちが部隊へ行って最初にやる仕事の教育だ」私が真顔で続けると学生たちは顔を見合わせた。
私は親から「喫茶店は不良の溜まり場」と禁じられたまま高校を卒業し(当時、インベーダーゲームが大流行していたが喫茶店には入らなかった)、貧乏学生だった頃は彼女と喫茶店に入る金がなく、下宿に来てもインスタントだったのでドリップ式コーヒーを飲んだことさえなかった。このため那覇基地に赴任してコーヒーを入れることになった時、インスタントのように粉をコップへ入れてお湯を注ぎ、かき回してしまった。
この他にもフィルターに満杯の粉を入れ、とてつもなく濃いコーヒーを作ってしまう者、水を入れるタンクに熱湯を入れて蒸気で粉を吹き飛ばしてしまう者、挽くことを知らず豆のまま買ってきてフィルターに入れてしまう者など意外に失敗することが多いのだ。
「もう一度訊く、ドリップ式のコーヒーを入れたことがある者は挙手しろ」すると各班に1人ずつくらい手が上がった。そこで私は全員を対象にした教育方法を選択した。
「よし、自習の時、各教場を回って説明するからメモできるようにノートを用意しておけ」「はい」航空自衛隊に入って数週間の後輩たちは「変なところだなァ」と言う顔をして返事をした。
その夜、コーヒーメーカーと挽いた豆が入った缶を抱えて各教場を回ったが、そこで「航空自衛隊はアメリカ空軍を親として創立した組織だから部隊は非常にアメリカ・ナイズしている」と補足説明した(これが主題なのだ)。
確かに防府の教育隊は発想自体が航空自衛隊と言うよりも陸上自衛隊そのもので、教育内容も部隊で役立つことは徹底的な掃除くらいしかない。私は少しでも部隊の空気を伝え、後輩たちを全ての仕事(教育隊を除く)が大空につながる航空自衛官にしようとの思いを強くしていた。
ところが班長連中は「折角、覚えたなら実習させなきゃあ忘れてしまう」と口実をつけ、教官室と事務室のコーヒーを入れることを中隊当直学生の仕事にしてしまった。
- 2015/06/12(金) 09:10:51|
- 夜の連続小説8
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