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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

振り向けばイエスタディ167

「ねェ、下関って遠いの?」土・日曜日に曹候基礎課程の総合点検前の散髪を手伝いに行った美恵子は帰ってくるなり質問をした。
「下関って山口県のだろう」と答えたが山口県以外の下関には心当たりはない。江戸時代、毛利藩では瀬戸内海側の海運に税を掛け、西の端の下関と中央付近の中関、東の端の上関(柳井市の南)の3ケ所に関を設けていた。この中関は防府南基地の所在地であることを教えたが、美恵子は「早く質問に答えろ」と怒った顔をしただけだった。
「そうだなァ。九州に渡る手前だから覚えていないか?」「車で行ったから長い吊り橋しか覚えてないさァ」美恵子が言う長い吊り橋があるところが下関のはずだ。
「それで下関に何の用だい?」「それそれ、店長さんが下関に理容師の神さまがあるんだって」「床屋の?」「理容師さァ」それは初耳だった。航空教育隊では学生の外出範囲が防府市内と徳山市(現・周南市)、山口市に限定されていて下関市とは縁がなかった。ただ、地元出身の同期の話では下関市は山口県内で最も人口が多い大都会で、関釜フェリーが発着する国際都市とのことで(小倉出身者は「ただの田舎町」と全面的に否定した)、トルコ風呂や売春街があるとも聞いている(これも「小倉が本場」と否定した)。
「それでその神さまは何処にいるんだ?」「亀山八幡って神社なんだって」「何だ神社かァ」つまり理容師が祭神と言うことになるが八幡宮では少し違うような気がした。それでも道路地図で調べると亀山八幡宮は中之町と言う関門海峡に面した場所にあり、赤間神宮と言う観光名所に隣接しているらしい。
そこで沖縄へは帰省できない夏期休暇のイベントとして出掛けることにした。考えてみれば防府に来た年は美恵子が妊娠していたため山口県内の観光にはあまり出掛けていなかったのだ。

防府から下関までは国道2号線を走っていく(まだ山陽自動車道は開通していなかった)。美恵子は後席で淳之介の相手をしていながら外の風景を眺めている。
「ニンジンさん、淳ちゃんは車が好きみたいだよ」「へーッ、判るのか」「うん、ご機嫌で外を見ているのさァ」我が家ではガソリン代が勿体ないので基本的に窓を開けて走っているが山口県内の交通量なら問題はなかった。
「風が気持ちいいのかな?」「うん、髪が伸びてきたからね」「そうか・・・」ルームミラーで見ると美恵子は愛おしそうに淳之介の髪を撫でていて私は坊主刈りの頭を掻いた。おそらく美恵子は淳之介をどのような髪形にするか色々考えているのだろう。
「今日、出掛けてみて淳之介が大丈夫そうなら休暇中にもう1回くらい出掛けよう」「うん、今日は理容師の神社と水族館へ行くんだよね」「後は隣りの赤間神宮へも寄りたいな」私は安徳天皇を祀った神社よりも怪談「耳なし芳一」の舞台になった平家一門の墓が見たかったのだが、恐い話が嫌いな美恵子には黙っておいた。
  1. 2015/07/31(金) 09:37:49|
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振り向けばイエスタディ166

第13期一般空曹候補学生には親が住んでいるド田舎(早い話が親の出身地)の周辺地域出身の隊員が3人もいた。こうして3人を観察してみるとあの土地の異常性は際立っている。先ず曹候学生としての教育の主眼であるリーダーシップを植え付ける土壌が全くない。確かにあの土地では出る杭は根元から切り倒した上で、地面にめり込むまで叩き潰される。良くも悪くも目立つことは絶対的悪事なのだ。
私は同じ愛知県の三河地方でも西側の岡崎市で育ったため幼い頃から武士の気風を徹底的に叩き込まれた。例えば好きな女の子に告白しないのは「臆病」「卑怯」と非難されるため、勇気を奮って正直に告白し、成功すれば小学生の癖に親公認でデートにも出掛けていた。ところが東側のド田舎では好きになっても口にすることが恥であり、うっかり思いが伝われば好き嫌い以前に「恥をかかされた」と糾弾されなければならない。その癖、影では常に「誰が誰を好きだ」と噂し合っていた。
ド田舎出身の後輩たちはその悪しき気風をそのまま持ち込んでおり、同期が問題行為をやっていても自分で注意することはせず、「アイツ、あんなことをやっている」と陰口を叩くだけだった。このため九州出身の同期たちから「女々しかァ」「せからしかァ」「許せんばい」と面と向かって批判され、時には胸倉を掴まれたりしていた。
ド田舎の人間にはやり返す根性はなく、「アイツは乱暴だ」と陰口で孤立させようとするのだが、逆に「チクリ屋=密告者」と嫌われていた。班長に相談しても九州出身なので似たような反応しかなく、最後には同郷出身と聞いている私のところへやってくる。しかし、コイツらは親や友人を使って私の個人情報を収集して中隊内で噂を流してくれていたのだ。
そこで私は相談を受けるのではなく、ド田舎の異常性をそれが成立した土地柄や歴史的経緯から説明した上でリーダーシップの本質を教育してきた。
卒業にあたり私はド田舎出身の3人を集め、「航空自衛隊に長く務める気なら絶対に浜松や小牧を任地にするな」と最後の助言をした(幹部候補生に合格すれば顔を見ることはない)。今回はコイツらの班長たちにもド田舎の異常性を説明し、それを理解してもらった上で教育・指導してもらったが、折角、作り上げた土壌も近傍の基地で勤務して頻繁に帰省するようになれば元の黙阿弥だろう。先ずは遠方の基地で勤務して全く違う土地の正常な価値観を学び取るべきである。私の場合は防府に入隊して親と距離を取ったはずが浜松へ入校したため反動が来てしまい、沖縄に逃れた後も立ち入った指図をしてくるようになった。それが親子絶縁の原因なのだ。
「休暇で帰省した時、お前たちに語ったド田舎論を親にも言ってみろ」「その前に班長が愛知大学中退だって言ったら、勿体ない。親不孝者だって怒ってました」私は律ちゃんと過ごすスケジュールを親に壊されたが、コイツらは帰省して親に会うことを楽しみにしているようだ。人それぞれだから勝手にしろ。
  1. 2015/07/30(木) 08:46:42|
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7月30日・死の配達便=米巡洋艦・インディアナポリスが撃沈された。

1945年の明日7月30日に広島・小倉へ落す原爆を空襲の基地があったテニアン島へ届けたアメリカ海軍の重巡洋艦・インディアナポリスが日本海軍の潜水艦・伊57に撃沈されました。
配達前に撃沈していれば広島での122338人、小倉上空の悪天候と前日の八幡空襲による火災の煙塵で巻き添えを受けた長崎の73884人の犠牲は回避されたのですが残念です。
しかし、インディアナポリスの乗員たちは撃沈された後、原爆の使用によって引き起こされた地獄の序幕を演じたかのような凄惨な目に遭いました。
インディアナポリスは沖縄本島上陸に先立ち行われた九州方面への艦砲射撃の帰路、隼5機による陸軍特別攻撃隊の1機が艦尾に命中して燃料が爆発した損傷の修理のため、カリフォルニア州のメア・アイランド海軍造船所で修理を受けており、それが完了して西太平洋方面へ復帰する前に本土空襲の基地があるテニアン島に原爆の核材料と部品の運搬を命じられたのです。
7月16日にサンフランシスコを出港し、19日にパール・ハーバーに寄った後、単独でテニアン島に向かい26日に到着、そこからグアム島へ寄り、28日にグアム島からレイテ島へ向けて出航しました。そして30日に日付が変わって15分後、グアム島からフィリピンへ一直線の太平洋上で伊57の攻撃を受けたのです。この時、伊57は回天特別攻撃隊を出撃させる任務を遂行中でした(詳細は昭和30年公開の新東宝映画「人間魚雷回天」でどうぞ)。
発射された魚雷は回天ではなく通常の酸素魚雷が3本ずつ2回の6本で、このうち初弾の2発、次弾が1発命中しますが、次弾は初弾が空けた穴から入り、艦内の奥で主砲の弾丸を爆発させたため、全長186メートル、全幅20メートル、排水量9800トンの重巡洋艦も巨大な火柱を上げて沈没しました。その間「わずか16分だった」との証言もあります。
乗員1199名のうち300名はこの攻撃で死亡し、残りの900名は単独行動だったため救助する僚艦もないまま夜の海上に漂うことになったのです。
海面には運よく落下した13隻の救命筏が辛うじて浮いていましたが全員が乗ることはできず、多くは舷側に掴まることになりました。食糧や水は救命筏内にあるだけで、夜が明けると熱帯の真夏の太陽が容赦なく照りつける中、屈強な海の男たちは1人1人と力尽きて沈んでいきました。そんな彼らを鮫の群れが襲ったのです。
生存者の証言では多くの巨大な鮫の背びれが救命ボートの周りを泳ぎながら、1枚が水中に沈むと同時に生存者が1名姿を消す。中には救命胴衣を着けて浮いている仲間の様子がおかしいので引き寄せると下半身がなかったと言う悲惨な話もあります。
乗員たちがこうした惨劇を味わっていた頃、アメリカ海軍では呑気にインディアナポリスの到着を待っていました。すでに日本海軍には組織的な抵抗をする戦力はなく、重巡洋艦が途中で撃沈されることなどは想像もしていなかったのでしょう。そして到着予定日を過ぎても連絡がないことを不審に思い、捜索機が漂流している乗員を発見したのは撃沈から4日後のことでした。
こうして高速駆逐艦を中心とする救助艦隊が急行し、ようやく生存者316名(飛行艇による救助者56名を含む)が収容されたのです。
日本人的には「原爆を運んだ罰が当った」と言うところですがそれは勝手な自己満足で、単にアメリカ海軍の油断が招いた悲劇であり、おそらく太平洋上で撃沈された多くの日本海軍の艦艇や輸送船の乗員たちも同様の惨劇を味わったはずです。
終戦後、艦長・チャールズ・バトラー・マクベイⅢ大佐は軍事法廷で裁かれ有罪とされました(ニミッツ提督たちの尽力で有罪は撤回された)。そして少将で現役を退いてからも遺族の糾弾を受け続け1968年になって拳銃自決しています。
  1. 2015/07/29(水) 09:08:14|
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振り向けばイエスタディ165(海田市を呉に替えれば事実です)

2次試験は総合点検直前の8月7日に海田市駐屯地の第13師団司令部でを受けた。このため8月6日の原爆の日に制服で広島を通過することになってしまった。
列車が終点の広島駅に入るとホームには「原水禁」「原水協」のゼッケンを胸に付けた人たちが溢れていて、呉線に乗り換えるため他の客たちと一緒に下りた私を見つけると敵意に満ちた視線の集中砲火を浴びせてきた。それは沖縄以来の経験だった。
呉線の発車まで30分近くあったが気がつくと前、横の座席から通路まで「原水禁」のゼッケンを付けた人たちで満員になっている。ここから3つ目の矢野駅(海田市駅よりも駐屯地に近い)まで孤立無援・四面楚歌の状態で過ごさなければならないようだ。
「あのォ、その制服は何なんですか?」やがて正面の女性客が丁寧な口調で訊いてきた。それと同時に車内の全ての客の耳がこちらを向いたような気がした。
航空自衛隊の水色と紺の制服なら何か誤魔化す適当な職業はないか考えたが、正帽をかぶり階級章と防衛記念章を着けているので無理だと判断し、正直に「航空自衛隊です」と答えた。すると声が聞こえるはずがない距離の客まで何故か一斉にこちらを見た。
その女性は周囲の客と小声で話し合った後、表情を硬くしながら質問をしてきた。
「貴方は核兵器についてどう考えているのですか?」相手の背後には反戦平和運動に名を借りた反米・反自衛隊の組織があるのは想像に難くない。迂闊な発言をすれば「自衛官の発言」として問題化される可能性を考えなければならないだろう。しかし、私は沖縄でそのような経験は嫌と言うほど積んできたのだ。
「その前に貴方はどなたですか?」「私は広島県立△△高校で教師をやっています・・・」女性が姓名を名乗ろうとしたのを隣りの席の男性が止めた。
「そうですか。ならば私的な質問として個人的見解をお答えすればいいのですね」「はい・・・」あくまでも個人的見解と確認した上で私は回答した。
「国際常識としては核兵器が大国同士の全面戦争を抑止する力とされており、日本政府も同様の考えに基づいて防衛政策を進めていると認識しています」「なるほど・・・」それから周りの客たちは代わる代わる質問を浴びせ問題発言を引き出そうとしていたが、私は沖縄時代、毎週のように飲み屋で反基地闘争に励む過激派の教員や地元マスコミの記者を相手に激論を戦わしていたので、その手には乗らなかった。
電車が山陽本線と別れる海田市駅に入ったところで私からカウンターパンチの質問をした。
「皆さんはソ連や中国の核兵器をどう考えているのですか?」この質問に正面の女性は隣りの男性と顔を見合わせ、そのさざ波が車内に伝わっていった。
「ソ連や中国の核は人類に対して使われていないから問題ありません」女性は男性に言われた通りに答えた。するとそれを補足するかのように私の隣に座っている初老の男性が口をはさんできた。
「ソ連や中国の核兵器がアメリカに再び人類を殺傷させないように封じ込めているんだ」「それは東西がお互いにでしょう」落ちは私がつけて次の矢野駅で下りた。
これが面接の練習になったのか、陸将補と1等陸佐2人相手の面接にも臆することなく回答できた。
  1. 2015/07/29(水) 09:07:14|
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7月29日・木口小平喇叭手(ラッパ手)が戦死した。

明治27(1894)年の明日7月29日に日清戦争の成歓(ソンファン)の会戦で木口小平喇叭手が戦死しました。
幼い頃から明治生まれの祖父の薫陶を受けてきた野僧は「立派な明治の日本人」としてこの名前を知っていたのです。小学校も校庭に非常に立派な忠魂碑があり、図書室に「戦艦大和の最期(吉田満)」や「大空のサムライ(坂井三郎)」が置いてあったくらいですから道徳の授業でも聞いた覚えがあります。その後、警備小隊長として航空自衛隊の喇叭手を育成・指導するようになった時、よくこの話をしました。
航空音楽隊が自分たちの職務遂行=使命感を語る時、映画「グレン・ミラー物語」に描かれている演奏中に爆弾が落ちて来たので観客が慌てて伏せても楽団は少しも乱れることなく演奏を続けていて、それに気づいた観客の拍手を浴びたシーンだと言います。一方、警備小隊のラッパは芸術ではなく信号であって、技巧や演出よりも正確さと音量が優先され、何よりも我が身が危険に晒されていても冷静にラッパを吹奏し、非常事態を知らせる胆力が必要なのです(唯一、技巧が必要なのは慰霊行事で吹奏する「国の鎮め」でしょう。この例として野僧はケネディ大統領の埋葬の時、海兵隊員がラッパを吹奏するシーンのビデオを見せていました)。
木口喇叭手は明治5(1872)年8月8日に現在の岡山県高梁市の農家の長男として生まれました。義務教育として尋常小学校に入学しますが、12歳で退学して地元の銅や鉛、亜鉛などの鉱山で働き始めました。そして20歳になった明治25(1892)年12月、徴兵されて広島の歩兵第21連隊に入営したのです。そのまま陸軍2等卒(=2等兵)として勤務し、明治27(1894)年6月に日清戦争へ出征することになりました(兵役満了半年前です)。
日清戦争はこの年の6月8日に清国軍約2500名がソウルの南85キロの牙山に上陸し、その後も約4000名に増強されていることを受け朝鮮政府が日本政府に対して撃退を要請したことにより始まりました。広島市の宇品港を出港した歩兵第22連隊は6月27日に朝鮮半島仁川(朝鮮戦争でマックアーサーが上陸作戦を実施した場所)に上陸するとそのまま成歓で清国軍と対峙していました。そして7月28日に攻撃命令が下り、牙山に向って進軍を開始し、深夜に安城で渡河したのです。これに対して清国軍は攻撃を加え、歩兵第21連隊の第12中隊長・松崎大尉が最初の戦死を遂げています。この戦闘の中、木口喇叭手は突撃ラッパを吹奏中、敵弾を咽に受けて倒れましたが、死後もラッパを口から離さなかったと言うのです。
元陸軍の兵隊だった担任教師は「一度、途切れたラッパが再び聞こえ始め、それが次第に低く弱くなっていった」と自分が現場にいたかのような熱弁を奮っていましたが、現在の史実研究屋たちは「単なる死後硬直だ」と揶揄します。それが事実であったとしても致命傷を受けて倒れながらそれでもラッパを吹こうとしたからこの状態で死後硬直したのでしょう。
問題なのはこの話題が広まって、国民から英雄として称賛する声が上がると陸軍がこの会戦の渡河で溺死した白神源次郎1等卒(岡山県倉敷市出身・予備役から招集された)と間違った名前を公表してしまったことです。このため修身の教科書にはこちらの名前で掲載され、7年間も訂正されませんでした。この会戦で戦死した日本軍将兵は34名ですから、あまりにお粗末な人事管理でしょう。
ちなみに突撃ラッパは日露戦争の時、「敵が迎撃の準備をする」と言う理由で中止されました。また英雄になった木口喇叭手は戦死後も2等卒のままで、一般的に思われている戦死者の2階級特進は、太平洋戦争で乱発されるまでは滅多にないことだったのです。
  1. 2015/07/28(火) 09:20:04|
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振り向けばイエスタディ164(完全に実話です)

新隊員よりも1カ月長い曹候基礎課程の仕上げが迫ってきた頃、実にくだらない、そして腹立たしい事件が起きた。始まりは夏の休日、車で帰宅した衛生隊の2曹に家の前で遊んでいた顔見知りの女の子が声を掛けてきたことだった。
「小父ちゃん、海を見に連れてって」「うん、いいよ」2曹は女の子の両親とは親しく近所づき合いしており、妻同士はお互いの車で買い物に出掛けていた。
「やったァ」女の子は何度も乗ったことがある車の後部座席に乗り込み、2曹は「出発進行」と声を掛けて車を発進させた。ところがその一部始終を女の子の幼稚園の友達の母親が目撃していた。
この母親の脳裏には毎年のように続発しているワイセツ目的の幼女誘拐・殺人事件が浮かび、胸には最悪の事態が迫ってくる。4年前(昭和59年)の冬、愛媛県新居浜市で小学6年生の女子児童が刺殺され、3年前の夏には東京で留守番をしていた4歳の女の子が自宅に押し入った男に絞殺された。2年前の梅雨時には静岡県清水市で小学1年生の女子児童が下校途中で誘拐され、遺体を海に投げ捨てられた。昨年の冬は大阪市で大人の女性4人を殺していた46歳の中年男が小学3年生の女子児童を絞殺、夏には東京都調布市で20歳の若者が小学6年生の女子児童を絞殺している。そして今年の5月にも神奈川県厚木市で幼稚園児の牧師の娘が殺されていた。
それらを思い出した母親は迷わず警察に通報し、駆けつけた警察官が現場確認しているところに帰ってきた2曹を「誘拐容疑」の現行犯で逮捕した。
ところが防府警察署に詰めていた新聞記者たちが夕刊で「自衛官が幼女誘拐、ワイセツ目的か?」と書き立てたため事件が独り歩きして、夕方の地方ニュースでも事実が確認されないまま報道されてしまった。
女の子の母親はテレビのニュースを見て娘に事情を訊き、あわてて警察に連絡して2曹は釈放されたのだが、腹立たしいのは航空教育隊の対応だった。
事件そのものは目撃者の誤解による冤罪であったにも関わらず新聞、テレビで報じられた事実だけで依願退職に追い込んだのだ。つまり航空教育隊の首脳部には隊員を守る気概など微塵もなく、世間体だけで罪なき隊員を処断する保身だけが行動原理なのだ。
2曹が退職した後、航空教育隊本部の依頼で防府地方警務隊長が行った服務教育では「親の同意・了解なしで子供を連れ歩けば誘拐罪が成立する。その意味では2曹は立件されなかっただけで誘拐罪は犯している」と説明した。しかし、私も大学で刑法は学んでおり、これが法律運用上の詭弁であることは判っていた。そうなると黙っていられないのがモリヤ3曹だ。私は手を挙げて質問した。
「つまり1人で泣いている子供がいても親に無断で迷子案内に連れていけば誘拐になると言うことですね。すると保護対象者を放置した責任は問われないのですか?」この質問に警務隊長の横から航空教育隊本部の人事科長が「それは今回の事件とは関係ない」と遮った。私は「何が何でも幹部候補生に合格したい」と切実に願うようになった。
  1. 2015/07/28(火) 09:18:46|
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7月28日・カール・ゴッチの命日

2007年の明日7月28日は実像が謎に包まれている名レスラー&大コーチのカール・ゴッチさんの命日です。ゴッチさんはそもそも国籍がドイツ人なのかベルギー人なのかも不明なのです。実際にロンドン・オリンピック(前回の1948年大会)のグレコローマンとフリーにベルギー代表として出場しているようですから、父がベルギー人、母がドイツ人のドイツ系ベルギー人と言う折衷説に信憑性がありそうです。
それでもリング上ではドイツ人で通し、北米でデビューした頃のリングネームもドイツ人らしくカール・クラウザーと名乗っています(本名はカール・イスターツ)。当時は第2次世界大戦の反ドイツ感情が残っており、ヒール(憎まれ役)として売り出されるために必要な演出だったのかも知れません。そのためなのかヒトラー、ナチズムの信奉者を演じていました。
リング歴も謎に包まれており、元オリンピック代表の肩書を引っ提げヨーロッパでデビューしたものの戦績は振るわず、そこでロンドンのスネーク・ピット(蛇の穴)に入ってランカシャー・スタイル(レスリングの発展形としてコブラ・ツイストなどの関節技も使う)のレスリングを徹底的に叩き込まれ、カナダから北米デビューしたと言います。
ゴッチさんについて日本ではアントニオ猪木さんを先行する大スター・ジャイアント馬場さんと同格のプロレスラーとして売り出そうとするスポーツ根性劇画(「愛と誠」も書いていますが)の原作者・梶原一騎さんが少年雑誌で虚構と真実を織り交ぜた作品を数多く連載したため、伝説の方が先行してしまっているのは確かです。
後年、ゴッチさんがハワイでごみ収集会社を経営していたことも、日本人レスラーが大柄な作業員を見つけるとそれはゴッチさんで、リング上でセメント(真剣勝負)を追求することをプロモーター(興行主)に嫌われ、生活に困窮していた武芸者のような苦労物語にされていました。
スネーク・ピットでのトレーニングもどこまで真実かは判りませんが、梶原作品では極めて理論的に解説を加えて(その手で大リーグ・ボールを信じた野球少年も多かった)真実味を持たせています。後年、新日本プロレスで「ゴッチ教室」と開き多くの若手を鍛えましたが、こちらは小林まことさんの「1・2の三四郎」の方が詳しいです。
野僧も沖縄時代の内務班に「アントニオ猪木の30分トレーニング」と言う本を実践している空曹がいて付き合いましたが、ヒンズースワットや各種腹筋・腕立て伏せなど自分の体重を利用した筋力トレーニングが中心でした。確かにバーベルのベンチ・プレスなどで付けた筋肉は強力でも固まってしまい格闘技には向かない面があります。
またカール・ゴッチさんは組合いこそレスリングの本質と言う美学を貫いて、キックやチョップ、頭突きなどは「場つなぎの技に過ぎない」と言う認識だったようです。したがって試合でも通好みの投げ技や固め技が多く、来日して最初の試合でナンバー1・テクニシャンと言われていた火の玉小僧・吉村道明さんをジャーマン・スープレックス・ホールドで失神させています。それでも空手チョップだけが売り物の力道山よりも吉村さんを高く評価していたそうです。
そのジャーマン・スープレックス・ホールドは日本での名前で、ゴッチさん自身はレスリングの技の名称であるスープレックスと呼んでいました。日本語では「原爆固め」と言いますが、これはアメリカでのアトミック・スープレックス・ホールドに由来します。ちなみに背後から抱きついて後方に投げ落し、そのまま固めるのがホールドで投げ捨てるのはホイップです。
ゴッチさんは伝説の人のままこの日の夜、動脈瘤破裂で亡くなりました。82歳と言う年齢も生年月日が色々あって確かではありません。
  1. 2015/07/27(月) 09:40:44|
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振り向けばイエスタディ163

むつみ訓練の前に防府市内のカリオン通りを親子3人で歩いていると美恵子が呉服店の「新作浴衣・入荷しました」と言う看板に反応してしまった。
「そう言えば浴衣を買ってもらってないさァ」「えッ?」「あれは奥武山公園の納涼祭りに行った時さァ」確かに「基地の盆踊りに行けるようになったら買おう」と言った覚えがある。それにしても日頃、あまり記憶力を働かさず、言われて思い出すことが多い美恵子の頭の構造が判らなくなった。
「去年は淳之介がお腹に入っていたから1年我慢したのよ」そう言って美恵子は老舗の呉服店のウィンドウに飾ってある浴衣を見に行く。しかし、この店は私にとってデンジャラス・ゾーン(危険空域)だった。6年前の曹候基礎課程の時、卒業後の休暇を防府で過ごすつもりだった私は「休暇期間中に行われる防府市の夏祭りへ一緒に行こう」と律ちゃんに浴衣を買ったのだ。あの時、1回切りのお客を店の人が覚えているかは判らないが、制服姿の自衛官が彼女の浴衣を買うのはかなり珍しいはずだ。夢中になって見ている美恵子の後ろで淳之介をあやしながら私は冷や汗をかいていた。
「買うんだったらスーパーの方が良いだろう」「・・・」私の苦肉の提案にも美恵子は耳を貸さない。もう頭の中で浴衣のファッション・ショーが始まってしまっているらしい。
「中にもあるよね」「だからスーパー・・・」「ここが専門店さァ」確かに私は「買うなら高くても専門店」が基本である。後は店の人の記憶力が美恵子以下であること期待するしかないようだ。
「いらっしゃいませ」冷房が効いた店内で地味な浴衣を品良く着こなした高齢の店員さんが声をかけてきた。美恵子はいつもの「ハイサイ」ではなく小声で「こんにちは」と答えた。
「浴衣ですか?」「はい、看板を見て」美恵子と挨拶を交わした後、店員さんは私の顔を見て驚いた顔をしたが、すぐに元の品の良い笑顔に戻った。
「奥さまはお若いようですがお子さまがおられるのですね」「はい」「ならば少し落ち着いた柄の方がよろしいでしょう」店員さんの助言に美恵子は戸惑った顔で私を振り返る。おそらく頭の中では沖縄の原色の花が咲き競ったような浴衣を考えていたのだろう。私としては我が意を得させてもらった気分だ。
それからは美恵子と店員さんが店内を見て回り始め、私も淳之介を抱いて少し離れついて行った。そこでも店員さんは美恵子が選ぶ白地に赤や黄色の花柄を描いた若向きではなく紺地に白で染めた落ち着いた物を勧めてくれていた。
「落ち着いた柄の浴衣は何十年も着られますからね」店員さんの言葉に美恵子はうなずいたが、こちらとしては値段が気になっている。
それにしても今日の浴衣を着た美恵子と市の夏祭りに出掛け、あの時の浴衣を着た律ちゃんに会ったりすればやはり見比べてしまいそうだ。それこそデンジャラス・ゾーン、フリージング・タイム(凍りつく時間)だろう。若し律ちゃんが彼氏連れだったら・・・。
み・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/07/27(月) 09:37:13|
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振り向けばイエスタディ162

夏、松真は防府の教育隊を卒業して希望通りの航空機整備員に指定されて、浜松へ赴任して行くことになった。卒業式の朝、美恵子は出席する準備をしながら寂しそうな顔で訊いてきた。
「浜松ってどんなところ?」「都会だよ。色々なものがあって面白いところさァ」「ふーん」美恵子は返事をしながらも遠くを見るような目をしていた。
課程教育中にも松真は何度か遊びに来て、美恵子も遠くから訓練風景を見に行ったりしていたがそれも今日までだ。浜松が私の実家のそばであることを美恵子は気づいていなかった。
松真は私と違って高校時代から女子に持てたので、私のような初体験はとっくに完了しているのだろう。そんなことを考えて私は浜松で何を学んだのか判らなくなってしまった。

式では今回も淳之介より美恵子の方が号泣して目立っていたが、年齢よりも若く見える美恵子は学生の妻だと思われていたようだった。
逆に神道的で湿っぽい「君が代」が大嫌いな私は国歌斉唱(この頃、国旗国歌法は制定されていなかったが自衛隊法では「国歌」と規定していた)の時はヤケクソの大声にコブシを入れて唄っていて父兄席でも聞こえたそうだ。
この蛮声を曹候の学生たちは「ド演歌・君が代」と呼んでいたが、流石に真似する度胸がある後輩はいないようだ。当時も問題になっていた小中高校の卒業式で君が代を拒否する教師たちもこの手を使えば良さそうだが、「市民を戦争に追い込んだ天皇崇拝・軍国主義の歌」と言っているので、口にするだけで罪を犯す気分なのだろう。

「班長、お世話になりました」松真は徳山駅へ向うバスに乗り込む前、私に向ってキチンと敬礼をした。たち振る舞いはもう1人前の自衛官、制服も一段と似合っている。
「ネェネ、ありがとう」松真は笑顔で美恵子の顔を真っ直ぐに見た。
「行進の時、応援してもらって嬉しかったさァ」その言葉に美恵子はこらえていた涙を溢れて止められなくなったようだった。
「ショウシン・・・」美恵子は言葉にならない。
「淳ちゃん、叔父さんとバイバイさ」美恵子の泪に困った松真は腕の淳之介の頭を撫でる。
「それじゃあ、友達がいるから」松真はそう言うと私たちから離れ、同期の輪に入って行き、美恵子は驚いた顔でその背中を見送った。
「自衛隊ってすごいよ。松真はすっかり大人になってしまったさァ」同期たちとふざけ合っている松真の姿を眺めながら美恵子がポツリとつぶやいた。
「それがニンジンさんの仕事なんだね」美恵子の誇らしげ視線を横顔に感じながら私までこの「理解者」を得た感激に涙が出そうだった。
  1. 2015/07/26(日) 08:43:53|
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野良猫を殺せば動物愛護法違反になるのか?

前回、ウチの飼い猫・音子を誘惑し、妊娠させたオスの野良猫が庵内に侵入したところを封鎖し、杖で撲殺したつもりでいましたが、その後、近所の道路脇に座っているのが目撃され、しぶとく生きていたことが判明しました。前回の処置を実施する前、猫が行動可能な範囲で確認したところ、全世帯が「知らんちゃあね」「あれは野良じゃろう」と回答しましたから野良猫と断定して良いのでしょう。実はこの野良猫は役所で借りた罠を仕掛けても餌だけを奪う離れ業を使うため(10回以上やられています)、公的手段で殺処分ができないのです。
その野良猫が再び庭先に現れたので、今度こそ息の根を止めようと不法侵入した工作員を処理する時の方法を復習して実施したのですが、やはり専用の薬でないため嘔吐してあったものの遺骸はありませんでした。野僧としては「裏山の藪の中で死んだのだろう」と思って毎月12日の動物供養を勤めましたが、これがまた近所の石垣の上を歩いていたのです。そこで「一撃必殺」とバットを持って(逆の手には歩くための杖があった)向かったのですが流石に野良猫は殺気に敏感なようで既に逃げた後でした。
問題なのは「動物の愛護及び管理に関する法律(昭和48年10月1日法律105号)」違反で告発されると2年以下の懲役又は200万円以下の罰金を科せられ可能性があることです。早速、大学時代の六法全書を引っ張り出して調べたところ、防衛庁と並んで無能な官僚が揃っていると言われていた環境庁(どちらも当時)の法律とも思えない駄文で、これを根拠に2年も服役させられては堪ったものでありません=生活費は助かりますが。
何よりも一番肝心な愛護対象動物の規定が条文のどこを探してもがなく、都道府県知事が定めることにして逃げているのです。
基本的には犬、猫などの「ペット」と呼ばれている愛玩用の家畜が対象のようですが、兎については飼い兎(=家兎)は保護しても畑を荒らす野兎は駆除の対象です。ならば家に侵入して荒らし回り、飼っているメス猫を勝手に妊娠させる野良猫も駆除の対象になるはずですが、猫の場合、飼い猫と野良猫の区分けが明確にできないため、家屋や食品、飼っている魚類などに被害を及ぼす猫だけが対象になるようです。その意味ではこの野良猫は殺処分の対象になるのですが、前述のように捕獲できない場合の処置については明確な規定がありません。
ちなみに魚類や鳥類、昆虫類は保護対象にはならないようで、金魚を熱帯魚の餌にしている飼い主が「残酷だ」と問題になったこともありましたが、法律や条例には盛り込まれなかったようです。魚類を虐待するのは人間よりも猫が専門ですから話がややこしくなるのでしょう。
野僧の母国・スリランカは世界最古の動物愛護法、環境保護法を持つ慈愛の国ですが、2千年以上も前に制定されたそれらの法律は日本の低能官僚が書いた駄文とは雲泥の差があります。
先ず保護対象は「生けとし生ける全ての命」であって、野生動物(豹もいる)と愛玩用のペット、労役(象や水牛)・食肉用(牛や豚、山羊や鶏)の家畜などの区別はありません。その一方で人間が我が身を守り、家族を守り、財産を守ることは無条件に認めていて、人間に「全ての生命が共存するための努力義務」を課しているのです。だから2千年以上も無意味に虐待された経験がない毒蛇・コブラは踏んだりしない限り人間を咬むことはなく、祭りの日に餌を振舞われると人間の手から食べて草むらに帰っていきます。
こう言う動物愛護法なら喜んで守りますが、都会しか知らない低能な官僚の駄文などは田舎での生活には邪魔・迷惑・有害・無益です。都会の住人には野良猫が家に忍び込むことが想像できないのでしょう。
  1. 2015/07/25(土) 09:15:12|
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振り向けばイエスタディ161

梅雨が明け新隊員たちの教育もいよいよ佳境に入っていた。
「松真たち水溜りの中を這ってたさァ」ある時、帰宅した私を玄関に出迎えながら美恵子が口を尖らせた。
「あれって陸上自衛隊の訓練じゃないの?」美恵子の腕の中で淳之介が手を伸ばした。どうやら美恵子は淳之介を自転車に乗せて散歩のついでに松真の中隊の戦闘訓練を覗いてきたようで、泥まみれ、汗まみれになった弟の姿が不満らしい。
「まァ、兵隊になるための基本だからなァ」私は制服からTシャツ、短パンに着替えながら答えた。その間に美恵子が淳之介をベビー椅子に座らせて、あやし始める。
「沖縄の頃もあんな訓練やってたの?」美恵子は何故か真顔で私を見た。
「あんなのはここだけさァ。部隊ではやらないよ」そう言えば初対面の自己紹介の時、美恵子から「自衛隊って鉄砲を持って戦うの?」と訊かれたことを思い出した。
「それじゃあ、何であんなことやらせるねェ。可哀そうさァ」「自分が兵隊だってことを体に判らせるためだよ(多分)」「ふーん」それでも美恵子は納得しない。
実は私自身も教育隊の部隊の実情とかけ離れた教育内容に疑問を持っていて、逆に「それを追求してみたい」と思ったのが陸上自衛隊の幹部候補生を受験した動機だった。
「松真の顔を見ても訓練中は声をかけるなよ」「判ってるさァ」美恵子はムッとした顔で言い返した。

「明日の3時頃、松真たちがあっちの道を通るから応援してやれよ」私は松真の中隊の班長に聞いた予定を美恵子に教えた。松真たちの中隊は1泊2泊の行進訓練に行っていて明日帰って来るが、暑い中、疲れ果てていても姉に声をかけてもらえば元気も出るだろう。
「声をかけてもいいの?」「松真にじゃあなくて、みんなに『頑張れェ』ってね」「うん」戸惑った顔をしていた美恵子も満面の笑顔になった。
翌日の午後、美恵子は淳之介を抱いて官舎の横の道で待っていて大声で「チバリヨ―」と応援したそうだ(これなら松真にしか通じないだろう)。
帰宅した私に美恵子は「松真は日に焼けた顔で、それでも元気に照れ笑いをして小さく手を振って行った」と喜んで報告した。
ま・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/07/25(土) 09:14:10|
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振り向けばイエスタディ160(陸を海にすれば実話です)

山口県地方が梅雨入りした頃、私は山口駐屯地で陸上自衛隊の一般幹部候補生を受験した。一応は公務出張扱いにしてもらったので制服だったが、それで大変な目に遭った。
先ずは受付で志願票を確認した陸上自衛官の広報官が「あれ、間違っていますね」と言うと私の説明も聞かず立ち上がって幹部のところへ行ってしまったのだ。
「航空の方が陸上になっているんです」「何?それはまずいじゃないか。すぐに受験者の内訳の訂正を連絡しろ」2人の興奮した会話は筒抜けだ。仕方ないので私は陸曹の広報官がこちらを見た時に手招きすると妙な愛想笑いをしながら戻ってきた。
「すいません。こちらの手違いで貴方が陸上自衛隊を受験することになっていまして」「いいえ、私は陸上自衛隊を受験するんですよ」「へッ?」呆気に取られた広報官は後ろについてきた幹部と顔を見合わせた。
「本当ですか?」「はい、できれば陸上自衛隊でお世話になりたいのですが」「へーッ」「ほーッ」今度は2人で違う相槌を打った。
「何はともあれ間違いでなくて好かった。頑張って下さい」その場は幹部が納め、私は試験会場に向かった。

1次試験は学科だが私服の大学生と薄茶色の陸上自衛隊の制服を着た受験生の中で水色の上衣と紺色のズボンをはいた航空自衛官は目立ってしまった。試験官も私ばかりを重点的に見ているようで歩いて回りながら私のところでだけ一瞬立ち止まるのだ。
試験と試験の合間の休憩にはトイレに行っても席に座っても大学生から話しかけられ、特に航空自衛隊を受験する連中が「航空よりも陸上の方が好いですか?」と真剣に訊いてきたので「大学時代、山岳部だったんだ(嘘)。山が忘れられなくてね」と誤魔化した。
航空を受験する北基地の航空自衛官が「そんなに肉体労働がやりたいんですか?」と訊いてきたので「教育隊にいると脳が筋肉になっちゃうんだよ」と答えると「やっぱり」と妙に納得していた。
昼食は駐屯地の隊員食堂で食べたがハッキリ言って不味かった。陸上自衛隊は調理師免許の取得を希望する素人の隊員が交代で調理しているらしく仕事が雑な上、盛りつけも乱暴だった。ただ試験に通って陸上自衛官になればこの料理を食べることになるので心していただいた。
午後の記述式の試験でも私は目立っていたようで最後の小論文を書いている間、試験官は横からのぞき込み、内容を読んで「ほーッ」「ふーん」「なるほど・・・」と感心していた。私は「どうだァ、驚いたか!」と楽しんでいたが気が小さい受験生にはこれ程のプレッシャーはないだろう。それでも1次試験は突破した。
  1. 2015/07/24(金) 09:08:01|
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7月24日・ 紫電改の名パイロット・鷲淵孝大尉が戦死した。

昭和20(1945)年の明日7月24日に紫電改の名パイロット・鷲淵孝中尉が戦死しました(時期的には大尉のはずですが、戦死後に2階級特進した階級が少佐なので中尉とします)。 
鷲淵中尉は海軍兵学校の同期である作家・豊田穣さんの「倉空の器・若き撃墜王の生涯」(高校時代に熟読し、「銅の海」の参考にしました)の主人公であり、航空自衛隊に海軍航空隊の生き残りが入らなくなった元凶・源田実が自己弁護・自己宣伝に利用した東宝戦争映画「太平洋の翼」では加山雄三さんが滝司郎大尉として演じています。
鷲淵中尉は大正8(1919)年10月22日に長崎市内の医師の息子として生まれ、旧制・長崎中学校から68期生として海軍兵学校に入りました。
同期には前述の豊田穣さんの他にも真珠湾攻撃に特種潜航艇・甲標的で参加して戦死した広尾彰少尉と同じく座礁した甲標的から脱出して日本軍捕虜第1号になった酒巻和男少尉、さらに開戦半年後の5月31日に同じく甲標的でシドニー湾に突入して戦死した伴勝久中尉がいます。ちなみに豊田さんも操縦する99式艦上爆撃機をソロモン方面で撃墜されてアメリカ海軍の救助を受け捕虜になりました。しかし、「生きて虜囚の辱めを受けず」と説いた戦陣訓は陸軍大臣の通達ですから海軍には関係ないと思うのですが、そうはいかない国民性のようです。
鷲淵中尉は海軍兵学校を卒業後、大分航空隊で戦闘機操縦士としての教育を受け、国内の基地で教官を勤めた後、昭和18(1943)年にラボールへ赴任し、そこでラボールのリヒトホーフェン・笹井醇一中尉や大空のサムライ・坂井三郎上飛曹など名パイロットの薫陶・特訓を受けて戦闘機乗りとして成長したようです。
その後、編制替えで国内に帰還し、占守島の第203航空隊で北千島の守備に当たっていましたが、昭和19(1944)年に捷1号作戦の発動に伴い台湾航空隊に転属、さらにフィリピン方面に移動して、セブ島上空の空中戦で負傷しました(レイテ海戦の時にフィリピン航空隊にいれば狂人・大西瀧次郎に爆弾を抱いて敵艦に体当たりさせられています)。
映画「太平洋の翼」では千田(せんだ)大佐に呼ばれた滝大尉はフィリピンから松山に駆けつけることになっていますが、実際はこの負傷により別府の海軍病院に入院していて、退院後に松山へ赴任したのです。
松山では最新鋭戦闘機・紫電改(と言っても水上戦闘機・強風を改造した機体)で編成された第343航空隊・維新隊(=第701飛行隊)の隊長として主に太平洋から紀伊水道、日向灘、豊後水道を北上して関西、中国、九州方面の空襲に向かうB-29や護衛の戦闘機を相手に空中戦を挑みましたが、紫電改の空冷エンジンでは排気タービンを装着したB-29とは高高度での飛行性能が格段に違い、さらに護衛戦闘機として使われ始めたP-51とは初期型で125キロ、後期型でも50キロの速度差がありますから、どの程度の戦果が上がったのかは疑問です(広島の被爆者団体の中には「松山の航空隊が通常の爆撃を阻止したから原爆を落とされた」と言う者もあります)。
映画で滝大尉はB-29に体当たりして散りましたが、実際の鷲淵中尉は豊後水道を北上するB―29の編隊に3度攻撃を加えたもののエンジンに被弾して、僚機に付き添われながら松山へ帰搭しようとした途中で消息を絶ったのです。
昭和53(1978)年11月に愛媛県南宇和郡愛南町の久良湾で7月24日に墜落が目撃されている紫電改の機体が発見され、その後、海上自衛隊の手で引き上げられました。しかし、操縦席には遺品などは見当たらず、塗装も剥げ落ちて機体番号も判らず、この日の戦闘で未帰還だった鷲淵中尉以下6名共通の遺品として愛南町の「紫電改展示館」で保管されています。
  1. 2015/07/23(木) 11:25:01|
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振り向けばイエスタディ159

この年は思うところがあって願書を出した陸上自衛隊一般幹部候補生(部外選抜)の受験勉強に励んでいた。と言っても第2希望まで航空自衛隊ではなく海上自衛隊だったことが知られて心象を害した部隊では「私的な受験」として完全に無視されている上、新隊員ではないので地方連絡部も何の資料も提供してくれないため上級職国家公務員の想定問題集を買ってきて独学で取り組んでいるのだ。
尤も出題範囲は一般教養なので、私も2年で中退するまで大学で学んでいたのだから何とかなりそうだった。問題なのは判らないことを質問するにも防衛大学校、一般幹部候補生出身の幹部が殆どいない航空教育隊では大卒者は航空教育隊司令、副司令、第1教育群司令、基地業務群司令、各大隊長くらいしかおらず、大学を卒業して数十年たっている人たちに質問するのは恥をかかせるようなものだ。そんな訳で勉強は受験対策と言うよりも教養を拡大・深化させる方向に走っていった。

夕食後、食卓での勉強を終えてシャワーを浴びると、もう美恵子は淳之介と並んで寝ていた。私はガラス戸越しの月明かりで美恵子の寝顔を見つめた。大きな目は長い睫毛で閉じていて唇からは相変わらず大き目の前歯が少しのぞいている。
「可愛いな・・・」私の胸は美恵子への愛おしさで一杯になり、その気持ちが妙な形で体に反応して私は淳之介の方を向いて横向きに寝ている美恵子の背中側に寝転んだ。
薄い掛け布団の中で美恵子の脇から胸にそっと手を伸ばした。美恵子は一瞬、ビクッとしたが寝た振りを続けている。私は体を美恵子に密着させてパジャマのボタンの裾から手を差し入れて(ほとんどない)乳房を掴み、唇を首筋に吸いつかせた。手を胸から腰に這わせる頃には美恵子の背中は汗ばみ息使いが荒くなってきた。腰からパジャマのズボンに手を差し入れたところで美恵子が「もーッ」と言って上を向いた。その開きかけた目は少し潤んでいる。
「ごめん、おこしたか・・・」「当り前さァ」そう言いながら美恵子が私の首に両手を回したので上に重なって口づけをした。
その時、私たちの横で淳之介が「ぶーッ」と声を出し、2人で慌てて見た。すると目を開けて不思議そうな顔でこちらを見ている。私たちは呆気に取られた後、顔を見合わせて笑った。
「はい、残念でした」美恵子はそう言うとパジャマを直して、また淳之介に添い寝を始めた。私は後ろに座って少し恨めしい気分で2人の寝顔を見て溜め息をついた。
外8・市川美織イメージ画像
  1. 2015/07/23(木) 09:14:03|
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7月22日・児玉源太郎大将の命日

日露戦争が終決して約1年後の明治39(1906)年の明日7月23日に満州軍参謀長・児玉源太郎大将が脳溢血で急逝しました。55歳でした。
「薩摩の海軍・長州の陸軍」と言われているように海軍は山本権兵衛大臣と東郷平八郎連合艦隊司令長官の薩摩コンビで日露戦争を戦いましたが、陸軍の桂太郎大臣は長州人でも満州軍司令官の大山巌元帥は薩摩人です。このため陸軍を牛耳る長州閥は「海の東郷、陸の乃木」などと満州軍の足を引っ張り続けた愚将・乃木希典を悲劇的なイメージだけで英雄に祀り上げました。確かに第1軍司令官・黒木為楨大将は薩摩人、第2軍司令官・奥保鞏大将(当時)は賊徒である小倉人ですから乃木しかなかったのでしょう。しかし、旅順要塞を攻略した乃木が海外で評判を呼んだのは卓越した指揮能力などではなく、将兵を殺すためだけの突撃を執拗に繰り返し、我が子を含む1万5千4百人の将兵たちもそれに従って死んだ狂気が理解できなかったことだけです。その旅順攻略を成功させたのは山口県人(ただし防州人)である児玉大将だったことは司馬遼太郎先生が「坂の上の雲」で取り上げるまで知られていませんでした。
児玉大将はペリーが浦賀に現れる前年の嘉永5年4月14日に毛利藩でも徳山支藩の百石取りの藩士の長男として生まれますが(ちなみに明治天皇、山本権兵衛大将、寺内正毅元帥=山口県人は同じ年です)、遅くなってからの子であった上、5歳の時に父が早逝したため姉が婿養子を迎え家督を継ぎました。ところが義兄は毛利藩内で繰り返されていた佐幕派と尊皇派の内部抗争に巻き込まれ、家族の面前で惨殺されたのです。帰宅した児玉くんは冷静に遺体を整え、室内の片づけをして家族に葬儀の準備を促したと言われています。その時、13歳でした。
毛利藩の非情なところは義兄が尊皇派であったため幕府に恭順する立場を採る重臣たちにより、家禄を没収され、主を失った家族は路頭に迷うことになったのです。
そんな事情もあって明治の新生陸軍に入営すると佐賀の乱では負傷したものの熊本の神風連の乱に参戦し、西南戦争では熊本城に立て篭もったことは奥元帥と重なります。
日清戦争から3年後の明治31(1893)年には4代目(前任は乃木希典、前々任は桂太郎=どちらも長州人)の台湾総督に就任し、後藤新平を民政局長に据えて近代化を推進すると共に抵抗する者は徹底的に鎮圧しながら従順な者は穏健に処遇する政策によって台湾人の民心を掌握することに成功しました(NHKなどは鎮圧の部分だけを取り上げて批判していますが)。
日露の開戦が政府の既定方針になっていた時、児玉大将は台湾総督を兼務したまま内務大臣に就任していましたが、満州軍司令官になることが決まっていた参謀総長の大山巌元帥の要請により参謀本部次長に移動し、児玉大将の卓越した能力を知る欧米各国はこの降格人事で日本が対露戦を決意したこと推察したと言われています。
日露戦争では当時の戦争の目的であった相手国の屈服は始めから放棄し、満州での局地戦で勝利を重ね、優位な形で講話に持ち込むと言う先進的な戦略目標を立てていました。
そのためヨーロッパ方面のロシア軍が動員される前に決着をつけるべく乏しい兵力を最大限に使い切る綿密な作戦計画を立案していたのです。だから海軍から旅順港に逃げ込んだロシア極東艦隊を追い出すため旅順の攻略を要請されたことで計算が狂い始め、その司令官が予定外の乃木希典になった頃から悪い予感はしていたのでしょう。詳しくは「坂の上の雲」でどうぞ。
NHKの「坂の上の雲」では児玉大将を高橋英樹さんが演じていましたが、出身地の周南市の資料によれば御本人は笑顔が可愛い童顔で、身長は当時としても低い152センチだったので(乃木でも162センチ)、少しイメージが違うかも知れません。
それにしても明治39(1906)年4月11日に台湾総督を佐久間左馬太大将(長州人)に譲ってこの日を迎えたのは如何にも児玉大将らしい最期ではないでしょうか。
  1. 2015/07/22(水) 09:35:52|
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振り向けばイエスタディ158

夕方、学生たちと一緒に外周走路を走っていると松真が追いついてきた。
「ニィニ、遅いさァ」松真も高校で美恵子と同じハンドボール部だっただけに運動神経はいいようだ。「おッ、頑張るな」私の返事に松真はニッコリ笑った。
親しげに話しながら走る私たちを松真や私の中隊の学生たちが不思議そうに振り返っていくので「班長、太ってませんか?」と松真は言葉遣いを変えた。
「うん、奥さんの料理がマーサイでさ」「そうですかァ?」松真は意外そうな口ぶりだった。
「今度、職種のことで相談にのって下さい」「いいよ、帰りに中隊へ寄るワ」私が了解すると松真は会釈して追いつけないほどのハイペースで先に走っていった。

空いていた娯楽室のソファーに並んで座ると松真は唐突に切り出した。
「俺、航空機整備に向いていますか?」「航空機整備希望か?」「はい」ここで私は下の自動販売機で買ってきた缶コーヒーを開けさせた。
「班長は航空機整備員だったんですよね」「2人だけの時はニィニでいいよ」「うん」松真の表情が少し緩み座る姿勢まで力が抜ける。
「美恵子の弟だから手先は器用だよな」「う・・・ん」この確認には曖昧にうなずいた。
「だったら、あとは飛行機が好きかだな」「うん」「整備員は飛行機が故障したら時間とか関係なしで働かなきゃいけない。飛行機が好きじゃないとできないよ」「うん」「仕事じゃなくてもプラモを作ったり、ポスターを貼ったり、写真を撮ったり、みんなマニアみたいな人ばっかりさ」「ヘー」「ジェットの音がしたら部屋の中でも思わず上を向いちゃうくらいじゃあないとね」「それって変さァ」松真は愉快そうに笑って天井を見上げた。
「ネェネはニィニと別れていた時、いつも自衛隊の飛行機を見ては泣いていたのさァ。俺、それにつき合ってるうちに飛行機が好きになってしまったんだ」私は切ない気持ちで美恵子の泣き顔を思い浮かべた。しかし、自分が果たせなかった夢をこの義弟が引き継いでくれるようで嬉しかった。
へ・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/07/22(水) 09:33:37|
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振り向けばイエスタディ157

その年の岩国基地の航空祭には三浦曹長がそっくりな下の娘を連れて参加した。したがって私は先任班長ではなかったが、曹長は「ワシは事務室の長で学生教育にはノータッチじゃ」と言って関わらなかったため私が昨年同様の指導をすることになった。
ところが私の区隊の観光バスに父子で乗り込んだため車内では学生たちも妙に緊張している。そこで雰囲気を打ち破ろうと1発、ズーミング(マッハの衝撃波)をかました。
運転手の真後ろの席の私はガイドさんからマイクを受け取ると身を乗り出して「何か指導か?」と言う顔をしている学生に話し始めた。
「今日は三浦先任とお嬢さんが同乗してくれているので歓迎の気持ちを表してお前たちの先輩が作った三浦先任の歌を披露する・・・拍手」私がリクエストしてようやくパラパラと拍手が起こった。そこで一息吸うと唄い始めた。
「迫る先任 事務室の長(おさ) 我らを狙う作業鬼 中隊業務ためだけに・・・先任の前では男の子 みんな元気それは何故?・・・誰だ誰だ誰だ 朝の眠りを破る音 草刈り始めた先任・・・」ここまでは替え歌メドレーだった。そこでガイドさんに頼んでおいたカラオケを始めてもらった。
「先任の声 轟々と 若者は征く作業員 背中に重たい十字架は 訓練できない激務休 我はその名も先任S・・・」歌い終わって振り返ると1番奥の席で渋い顔の三浦曹長の隣りでお嬢さんが大喜びしていた。

航空祭は昨年同様だったがアメリカ兵たちが開いている露店のゲーム・コーナーをのぞいていると突然、声を掛けられた。
「サージェント・モリヤ?」驚いて振り返るとそれはジュディだった。ジュディは私が返事をする前に駆け寄って抱きついてきたが、体格が良いので押し倒されそうだった。その様子を傍にいた学生が写真に撮ろうとしたので手で禁止した。
「ジュディ、どうして?」「昨年の秋に部隊が岩国に移動になったから一緒に・・・モリヤは?」「俺はベーシック トレーニング レジメント(新隊員教育連隊)のインストラクター(教官)になったんだよ」と英語で会話しているのを学生たちが感心した顔で取り囲んで見ていた。
「今日は仕事なの?」「半分だね。基地の中では3時までフリーだけど」私の返事を聞いてジュディは一緒にバスケットのシュート・ゲームをやっている仲間に「これからデート」と声を掛け、腕を組むと引っ張って歩き出した。
その日は岩国基地内でのデートになったが那覇基地のパーティーで一緒に飲んだ連中も多く旧交を温めることができたもののジュディとのツーショット写真を撮られまくり、1枚5百円で買う羽目になってしまった(別れ際のキスシーンは口止め料込みで2千円)。
さらに学生が基地の新聞に寄稿した「アメリカ軍の女の兵隊と親しくしていた班長が羨ましいので、私も英語を勉強したいと思います」と言う記事は非常に危険だろう。
アメリカ軍
  1. 2015/07/21(火) 09:15:48|
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振り向けばイエスタディ156

弟の入隊式には美恵子と淳之介が出席した。私はゲートで待ち合わせ美恵子から淳之介を受け取り松真の中隊まで2人を連れていった。私に抱かれた淳之介は帽子を取っては悪戯してきた。松真たち新隊員は隊舎前のグランドで父兄を待っている。
「松真、かっこいいさァ」米兵のように見える弟の制服姿に美恵子は感激していた。
「ニィニよりも?」松真の悪戯な質問だったが美恵子は否定せず少し困ったような笑顔で私と松真を見比べた(確かに負けていた)。私は淳之介を美恵子に渡し、3人の写真を撮った。
「それじゃあ、俺は仕事に行くワ」私は自分の中隊に戻って学生の父兄に挨拶し、入隊式会場に連れていかなければならないのだ。
「班長、ありがとうございました」突然、松真が横で敬礼をしてそれを美恵子は驚いた顔で見た。私も姿勢を正して答礼した。
「美恵子、淳之介が泣きそうだったら早めに会場を出ろよ」「はい」と返事をしながら美恵子は淳之介に「お父さん、バイバイね」と話しかけているので、どこまで解っているのか心配した。淳之介は式が始まる時「気をつけ」の号令で1000人の学生が一斉に立ち上がった音に驚いてグズッた以外は良い子でいたが、むしろ美恵子の方が感激して泣いてしまったらしい。

「行ってくるさァ」美恵子は朝から鍋で茹でて殺菌消毒した散髪セットを入れたカバンを持って出かけた。杉浦さん夫妻から始まった美恵子の散髪ボランティアは口コミで広まって散髪に出かけられないお年寄りからの電話依頼が入るようになっている。今年は入隊式前に基地の理容店を手伝ったが、それが終わった後には丁度いい仕事だろう。
「淳之介、お父さんと留守番しような」私が駐車場まで淳之介を抱いて見送りに出ると、美恵子は淳之介の頬にキスをして「淳ちゃん、バイバイね」と微笑みかけた。
淳之介はキスされた頬がくすぐったそうな顔をしながら美恵子に手を伸ばした。
「俺には?」「もーッ」私のリクエストに美恵子は悪戯っぽく笑いながら頬にキスした。
「気をつけてな」「タクシードライバーの娘さァ」そう言いながら美恵子は軽ワゴンに乗り込み、助手席にカバンを置いて出ていった。
「バイバイ」淳之介は私の腕で手を振って見送っている。私は色々なことが判るようになってきた我が子とボランティアを始めてから輝くように元気な美恵子が嬉しかった。
「淳之介、お父さんと遊ぼうな」「あぶーッ」淳之介は私の顔を玩具にして遊びだした。
  1. 2015/07/20(月) 08:41:04|
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7月19日・奥保鞏(やすかた)元帥の命日

昭和5(1930)年の本日7月19日は明治日本陸軍の至宝・奥保鞏元帥の命日です。85歳でした。
奥元帥は弘化3(1847)年の11月19日に譜代の重鎮・小笠原家の小倉藩で生まれました。15歳の時に奥家の嫡流に養子として迎えられるとそのまま家督を継いで馬廻役になり、その後は小姓、物頭を務めました。そして元治1(1864)年と慶応2(1866)年の2度にわたって勃発した長州征討には幕軍側で参戦して1勝1敗を経験したのです。
こうして世が改まると明治4(1871)年に創設された陸軍に入営し、主に九州方面で勤務しました。明治6年の佐賀の乱では負傷したものの明治7年の台湾出兵、同8年の神風連の乱(熊本で廃刀令に反発して起こった不平士族の反乱)に参戦しています。
明治10年に西郷南洲が訣起した時は鎮西鎮台の中隊長として熊本城に立て篭もり、途中で西郷軍の包囲網を突破して後方の八代方面に上陸した政府軍と連絡を取りました。
これらの華々しい戦歴・武勲により奥保鞏の名は陸軍内で有名になり、本来は冷遇される幕軍出身者としては異例の昇進を始めたのです。
明治36(1903)年には陸軍大将に昇任し、翌37年に開戦した日露戦争では第2軍司令官として第1軍司令官の黒木為禎大将と共に中心的な活躍を見せます。
先ずは大連を確保するため遼東半島に上陸し、苦戦の末に南山のロシア軍陣地を奪取します。続いて遼東半島の先端にある旅順陣地を攻撃する第3軍が到着すると入れ替わりで北上して遼陽を目指しました。するとこれを防御するためロシア軍は2万人の大兵力を南下させてきたため得利寺付近で激突し、2日間の激戦で撃退しました。さらに約1か月間の攻撃で遼陽陣地を奪取し、これらの戦果により乃木の第3軍が攻撃する旅順要塞は完全に孤立したのですが、名将と愚将の違いは何ともなりませんでした。
乃木が旅順で無意味な兵力=人命の消耗を繰り返した後にも奥大将の第2軍は沙河に反転攻勢に出てきたロシア軍を夜襲の連続攻撃で圧迫、撤退させました。厳寒期に入るとロシア軍は一気に戦況を逆転させようと10万人の大軍で攻勢に出てきたのです。この時は「冬季の攻勢はあり得ない」と油断していた満州軍司令部の指揮の混乱で第2軍も兵力の逐次投入を強いられますが、秋山騎兵旅団の奮闘で持ち応えていた防御線を側面から支援し、これを撃退することができました。そして最終決戦・奉天会戦ではここでも乃木が足を引っ張ったものの黒木大将の第1軍と共に日本軍の中核として持てる兵力を使い果たすまで戦い抜きました。
奥大将は自軍と敵の戦力把握、敵の意図の分析から兵站、人事まで抜群の能力を発揮し、第2軍司令部では参謀に仕事がなくて困ったと言われています。その点も無能な参謀たちに指導を加えることもできなかった乃木とは真逆でした。
日露戦争終結の翌明治39(1906)年夏に児玉源太郎大将が急逝すると陸軍参謀総長に就任し、明治44(1911)年には薩長以外では初の元帥府に列せられました。
薩長土肥出身の将帥たちの多くは政治への野心を隠しませんでしたが(無能な乃木でさえ山県や桂などに利用された)奥元帥は真逆で、一切の政治的な立ち回りを避け、むしろ逃げていたようです。老齢になると「耳が遠くなったから元帥を辞退したい」と申し出たのですが、「そのような前例を作ると名誉職に執着する後進が困るから」と陸軍が無視したと言われています。
手柄も自慢の反対で「多大な戦果は多大な犠牲によって獲得される」と言う認識を持っていたため式典などで戦功を称賛されても「すまん。許してくれ」と本気で謝罪をしていたそうです。
そんな奥元帥ですから晩年は世捨て人のようになっていて、「亡くなった」と言うニュースに「まだ生きていたの」と驚く人が大半だったようです。
  1. 2015/07/19(日) 08:55:36|
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振り向けばイエスタディ155

春、松真が航空自衛隊の新隊員として防府南基地に入隊した。
「ニィニ、よろしくお願いします」松真は入隊前日、私たちの家に泊った。
「やっぱりニィニは頭いいさァ。俺、曹候学生は1次試験も受からなかったさァ」松真はそう言うと妙な尊敬の眼差しで私の顔を見る。
「ニンジンさんはアンタとは違うのさァ。いつも勉強してるもん」そう言いながら美恵子がお盆にのせた飲み物を持ってきた。
「今年も受ければいいよ、現職からだと2次試験は受かり易いのさ」「学科はもっと頑張らないとね」折角の私の励ましに美恵子は水を差す。しかし、美恵子に言われると何故か元気がもらえるような気になるから不思議だ。弟もそうなのか、黙ってうなずいた。
「ニィニ」「うん?」「ニィニはどうして自衛隊に入ったんねェ?大学にいってたんでしょ」松真の真顔での質問に私は美恵子が隣りにいることを忘れて答えてしまった。
「大学の時、彼女がいたのさァ。その子に見合いの話が来てな、でも学生じゃあ何も言えないだろう。だから手っ取り早く就職するために自衛隊を受けたのさァ」「ふーん」松真は意外そうな顔でうなずいた。
「で、その人どうしたの?」「合格通知を持って『結婚してくれ』って言いにいったけど駄目だった」その時、私は横でメラメラと燃え上がる赤いオーラを感じた。
「ニンジンさん、初めて聞いたさァ」私は「しまったァ!」と思いながら恐る恐る見ると美恵子は涙ぐんで怒っている、
「ごめん、昔の話さァ」私はドッと汗をかきながら謝った。しかし、美恵子はしばらく横を向いて鼻をすすっていた。
「淳ちゃん」松真は困った顔で脇の布団で寝ている淳之介をあやし始めた。
「ぶーッ」淳之介は嬉しそうに叔父さんの松真の顔を見ている。玉城家の大らかさもあり、入隊前日でも松真にはあまり緊張感がないようだ。
「本土の人はシマンチュウみたいに大らかじゃあないから始めはみんなに合わせてな」私の苦し紛れのアドバイスに、松真は「仕方ないなァ」と言う顔でうなずき、私とまだ鼻をすすっている美恵子の顔を見比べた。
それにしても独身時代の私は彼女が途切れたことがなかった(極めて真面目なつき合いだったが)。これも「女たらし」と言うのだとすれば淳之介の将来が心配になる。
外7・青木江田・82・3・5勝手に使ってスミマセン
  1. 2015/07/19(日) 08:54:17|
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7月19日・栗栖弘臣統合幕僚会議議長の命日

平成16(2004)年の明日7月19日は陸海空自衛隊随一の名将である栗栖弘臣統合幕僚会議議長の命日です。84歳でした。
栗栖閣下は野僧が(海上自衛隊生徒に合格しながら父親の命令で入学させられた)県立高校1年だった昭和53年に週刊誌上で「現行の自衛隊法には穴があり、奇襲侵略を受けても首相の防衛出動が発令されるまで動くことができない。第1線部隊指揮官が超法規的行動に出ることはあり得る」と発言したため金丸信防衛庁長官によって解任されました。この発言の背景には昭和53年4月、国連の海洋資源調査で豊富な地下資源が存在する可能性が指摘された尖閣諸島に中国の漁船約100隻が押し寄せ、領海侵犯や違法操業を行ったことを受け、防衛庁長官への報告と指示を受けるため面談を求めたところ秘書室の事務官は事前手続きを行っていないことを理由に拒絶されたことがあります。栗栖閣下は東京帝国大学法学部卒の旧内務官僚出身なので、国家公務員試験でも最下級の成績で採用された馬鹿しかいなかった防衛庁の内局では対等に物を言える官僚がおらず、「折あらば」と追い落とす機会を狙っていたようです。
日頃は国士を気取りながら頭の中身は打算と虚栄しかない金丸長官は、取り巻きの官僚たちから「シビリアンコントロールを否定する問題発言」「『長官を無視しなければ奇襲に対処できない』と言っている」などと吹き込まれた悪口を鵜呑みにして即座に解任したのです。ところが当時、田中派だった金丸長官とは相容れない福田赳夫首相はこの正論を採用し、有事法制の研究促進と民間防衛体制の検討を指示しました(=金丸の面子を潰した)。
実は栗栖閣下と官僚の抗争はこれだけでありませんでした。1972年から出身地の広島県(本人は呉市)に司令部を置く第13師団長に就任すると広島市内での観閲行進を計画したのです。当然のように地元マスコミや被爆者団体が「原爆犠牲者の魂を軍靴で踏み躙り、被爆者の心の傷を鞭打つものだ」と猛反対し、市長も「市民の反発が強い」と難色を示すのを「戦争の惨禍を繰り返さないための平和を守る力を見せることが本当の慰霊なのだ」と説得して、当時の新型戦車(=61式がようやく第13師団にも配備された)を含む隷下部隊による盛大な観閲行進を市内のメインストリートで数万人の市民を集めて実施しました。その頃、栗栖閣下よりも東京帝国大学法学部と内務省の3年先輩であり、防衛庁内局で帝王のように君臨していた海原治が国防会議事務局長になっており、元部下の官僚たちに「制服組が注目を集める大イベント」の阻止を命じたのです。しかし、栗栖閣下は「観閲行進=訓練の実施は部隊長の職務権限である」と官僚の介入を拒否し、隠然たる力を奮う海原については「国防会議は防衛庁とは別組織であり、OBとは言え自衛隊の行動に関与することは越権行為である」と批判して封じました。その後、海原は東京帝国大学・内務省の同期で、戦時中は海軍に入ったと言う点で栗栖閣下と同じ経歴を持つ中曽根康弘防衛庁長官から「国防会議事務局長などはタイピスト、コピー取り、お茶汲みと何ら変わらない軽い仕事」と切って捨てられています。
残念でならないのは防衛大学校出身者トップの教養レベルと言う「防衛秘密」を漏洩して解任されながら妙なスター扱いされている田母神氏と違い、あの時代の世論は左傾マスコミが作っており、これ程の人物が社会的に活躍の場を与えられることなく抹殺されてしまったことです。元パイロットだけに知性も低空飛行の田母神氏と違い比類なき頭脳と胆力を持たれる栗栖閣下がその後の防衛政策に深く関与されていれば、自衛隊も野僧が抹殺されるような組織にはなっていないでしょう。
余談ながら野僧は高校1年の夏休みの宿題に栗栖閣下の「私の防衛論」で読書感想文を書き、日教組の教師から睨まれてしまいました。冬休みは「悪の論理(倉前盛通)」でしたが。
  1. 2015/07/18(土) 09:28:32|
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振り向けばイエスタディ154

空曹候補者課程は正月明けに入校して厳寒期に「指揮官足る者のやせ我慢」を学び、春に向かって新たな生命力を身につけると教えられてきた(ならば夏の初任空曹課程は秋に向かって枯れていくのか?)。その仕上げは3月に入ってからのラストスパートで1泊2日行進訓練、1万メートル計測、銃剣道の昇段審査、体力測定、学科試験、総合点検などの試練が矢継ぎ早に立ちはだかる。私も学生の頃、治らぬ風邪に悩みながらも可能な限りの努力を続けていたが、その裏側を知り大いに失望してしまった。
1泊2日行進訓練のコースは新隊員課程と何も変わらず、「指揮官教育」と称して学生だけで山中を踏破させるのも単に班長たちが近道をして楽をするための名目のようだった。現場で指揮要領を監督指導し、安全管理上も同行すべきなのだが「それでは班長に頼る甘えが残る」「時には突き放すことも必要だ」と詭弁を弄するのが教育隊なのだ。
1万メートル計測は誤魔化しようがないと思うがこれにも秘儀がある。中隊長が「用意、ドン」とピストルを鳴らしてもすぐにはストップウォッチを押さないのだ。それも事前に計った平均タイムと気象条件なども加味する数十秒単位の綿密な調整だった。
銃剣道の昇段審査は完全な癒着だ。銃剣道連盟からは前もって段位認定証が届き、それを書道が得意な班長が記名しておく。学生からは前月の給料時に審査料名目で段位認定料も徴収しており、真面目に練習に励んでいる学生たちは山口県銃剣道連盟にとってはお得意さまに過ぎなかった。おまけに怪我や病気で昇段審査を受けられない学生がいると班長が代役で受験して人数合わせをする。これには私も関与することになってしまった。
「モリヤ、3万円よこせ」「ヘッ、そんな大金を何ですか?」前月の給料日に突然、先任班長から声を掛けられた。煙草を吸わずパチンコなどの趣味もない私は小遣いをもらっておらず、財布の中には必要経費として常時1万円が入っているだけなのだ。
「班長が初段じゃあまずいから今度の昇段審査で3段を買え(取れとは言わなかった)」「私は銃剣道をやったことがありませんよ。それで3段ですか?」「いいから買っておけ」と言うことで防衛庁共済組合の貯金を下ろし、銃剣道3段を買うことになった(認定料は2段・3段分で3万円だった)。
学科試験は私の頃にはなかった組織ぐるみの成績操作だった。先ずは前日に試験問題が届くと区隊長たちが正解を作り、夜の自習時間に「これを暗記しろ」と教えて回っているらしい。その時、「疑われるから絶対に満点は取るな」と注意を与えることも忘れないと言う。
それでも心配な学生についても対策はある。数百人分数科目の採点は群本部の担当者だけでは手に負えないため作業員として各中隊の空士たちが集められるが、彼らはポケットの中に消しゴムと鉛筆をしのばしている。採点して不合格になった者は数問だけ「修正」して救助するのだ。
こうして最後の試練を打破した学生たちは立派な空曹として部隊へ帰って行った。勿論、入校時に土産をもらった同期たちには同程度の土産を持たせました。
  1. 2015/07/18(土) 09:27:21|
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振り向けばイエスタディ153

空曹候補者課程は指揮官としての教育なのだが、ここの歩哨訓練でも私は航空教育隊のやり方に疑問を抱いていた。陸上自衛隊の実施要領に部隊での検証を加えることなく踏襲している航空教育隊では、実施場所、対処状況が全く違うにも関わらず形式的に教育しているのだ。
地上戦闘訓練の時には訓練幹部から「苦痛に耐えて目的を達成する精神性を身につけさせれば十分だ」と言われてしまったが、歩哨訓練は実際の基地警備で使う実用の教育のはずだ。ならば個々の実施要領はそのままにして状況だけを基地警備に当てはめられないかが研究課題だった。
陸上自衛隊の歩哨は存在そのものを秘匿し、情報収集として敵の行動を監視することを目的としている。このため前方を通過する斥候などを想定しており、やり過ごすことができない場合にだけ誰何することになっている。一方、航空自衛隊の歩哨は基地に侵入を図る敵を発見するのと同時に迎撃しなければならない。つまり存在の秘匿よりも侵入の阻止に重点が置かれるべきなのだ。
この件については以前からゲリラ戦を研究してきて(大学時代の過激派の友人からもゲバラ教範などを入手していた)、アメリカ海兵隊の友人とも議論を交わしていた。
私の中では陸上自衛隊式に前方を通過する不審者ではなく、侵入しようと接近してくる敵を想定した状況で歩哨の対処要領を演練すれば内容を大きく変えなくても実用的な教育ができると結論が出ている。そこで訓練幹部に基本教案(マスター・レッスンプラン)の変更について相談していたのだが、それを聞いていた先任班長がチャンスをくれた(と好意的に受け取った)。
「明日の歩哨の教育はモリヤ班長と若手の班長でお願いします」前日の命令伝達時の教育予定の説明で突然、先任班長がそう言った。これは当然、訓練幹部も了解しているのだろう。つまり「やりたいようにやってみろ」と任されたのだ(と信じた)。
翌日、若手の班長たちと一緒にグランドで教育を始めた。通常、歩哨訓練は基地の外れの木立を利用して陸上自衛隊式の状況を説明するのだが私の教育には不要なのだ。
始めは監視する姿勢、顔の向け方などの動作、交代要領、誰何、不審者を腹這いにしての身体検査などの基本からでここには特別な変更はない。
続いて実際の歩哨の勤務要領になった。先ず各班の分隊長を決め、私はメガホンで指揮しながら各班から2名ずつ2組の歩哨を出し、残りの隊員は20メートルほど後方に待機させた。その時も周辺の監視を怠らないように説明をする。
数回、歩哨の交代を演練した後、班長たちを歩哨たちの間に侵入させた。それを歩哨に報告させ、分隊長に侵入者の前方に2名の隊員を配置させ銃で狙わせた。そして後方から歩哨が基本通りに誰何する。突然、侵入者が逃走し、それを分隊長の指揮で射殺して状況は終わる。
この教育は訓練幹部以下の区隊長や班長たちも窓から見ていたが、部屋に戻ると「なる程な」と一言だけコメントしてくれた。
  1. 2015/07/17(金) 08:52:12|
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7月17日・江戸が東京になった。

慶応4年(=明治元年)の明日7月17日(太陰暦)に「江戸ヲ称シテ東京ト為ス詔書」が発布され、江戸が東京になりました。この詔(みことのり)が発せられた後、10月13日に天皇・睦仁さんが江戸へ行幸すると江戸城も東京城に変えています。
この国の首都をどこに置くかについては大政奉還によって徳川幕府が政権を返上した頃から議論が始まっており、「人心を一新するため遷都すべきだ」と推進する薩長土肥の武士たちと「千年の都を捨てることはできない」と反対する公家の間で激しい確執を生みました。
そこで大久保一蔵(後の利通)が妥協案として京都に近く、経済の中心地であり、交通の要衝でもある大坂(正式な名称が現在の「大阪」になったのは廃藩置県の詔勅で「大阪府」と明記されてから)への遷都を提案したのですが、その進め方は如何にも薩長土肥的で、睦仁さんが岩清水八幡宮へ戦捷祈願に行幸したついでに大坂へ赴き、それで帰ってこないと言うものでした。尤も、毛利藩は公武合体の意志を変えない孝明天皇を拉致して山口で監禁しようとしたのですからそれを思えば島津藩は大人になのでしょう。しかし、この妥協案にも公家は反対し、何とか実現した大坂行幸も軍艦を遠くから見ただけで還ってきてしまったのです。そんな中、反対派の公家たちは九州の不平士族と結託し、背後から薩摩、肥前、長州を脅かすと言う毎度の卑劣な手段を講じて妨害しますが、そんな折に幕臣・前島来輔(後の密)から大久保一蔵に「江戸を寂れさせないように遷都すべきである」との提案が届き、江戸城を無血開城することを前提に検討が始まりました。一方、佐賀藩からは「江戸と京都の両方を首都として鉄道で結ぶ」と言う壮大な提案が出されますが(現在の高速鉄道とネット社会を予見していたかのようです)、結局、実現性がないと却下されています。
こうして公家を無視して江戸への遷都が進められたのですが、江戸無血開城が実現したこともあり、それが現実味を帯びてくると公家が睦仁さんの母=英照皇太后に「関東は魑魅魍魎が棲む恐ろしき土地」などと時代錯誤も甚だしい風説を吹き込むなどして妨害したため、先ずは天皇単身での行幸と言う形で江戸へ出掛けたのでした。
この時も12月には京都に還り、翌年3月28日に皇后を伴って行幸してようやく東京が天皇の居住地になったのです。ただし、この時を「奠都(てんと)」とする説と明治5年になって英照皇太后が東京に移り住んだ時とする説があります。ちなみに遷都(せんと)は「前の都を廃止する」と言う意味があるため、これを打ち消すため正式には「奠都」と言っていますから現在も佐賀藩の提案通りに京都も首都なのかも知れません。
現在、「東京」と言えば日本の首都ですが、この都市名はアジア各地に存在していました。
中国には北京、南京、西京があるように東京もあったのです。古くは後漢の時代(西暦25年~220年)に長安から東の洛陽に遷都したため、洛陽は東京と呼ばれました。隋(同581年~619年)や唐(同618年~907年)の時代にも首都を長安に置いたため古都・洛陽を東京と呼びました。そして北宋(同960年~1127年)の時代には東京(現在の河南省開封市)、西京(同・河南省洛陽市)、南京(河南省地級市)、北京(同・河北省)に4つの都を置いたのです。ただし、現在の北京、南京、西京とは違います。一方、半島の高麗では首都を開京(現在の北朝鮮・開城市)とした一方で慶州を東京、平壌を西京としていました。さらにベトナムでも現在のハノイの古名は「東京(ドンキン)で、これがトンキン湾と言う地名に残っています。
余談ながら山口県の県庁所在地・山口市は大内氏の時代に京都を真似て建設されたため「西京=西の京」と名乗っています。
  1. 2015/07/16(木) 09:42:02|
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振り向けばイエスタディ152

乳飲み子の淳之介がいるので暖房による部屋の乾燥には気をつけなければならない。とは言っても沖縄出身の美恵子が暖房を切るのは夜、布団に入ってからだけだ。2人で向かい合ってコタツに入っていると美恵子はミカンを剥いて食べ始めた。
「本土のミカンってジュースみたいに甘いさァ」「それは本場の三ケ日ミカンだからな」今回、浜松北基地の第1航空団から入校してきた学生が班長の私が7期曹候学生であることを職場の同期に知らせ、「どうぞよろしく」と送ってきたのだ。
「でも暖房を入れっ放しにしているとミカンも干からびてしまうぞ」「そう思ってストーブに薬缶を載せてるさァ」「今年は良いけど、来年は淳之介が近づかないように気をつけないとナ」「そうかァ。1歳なら歩くよね」「ハイハイでも危ないよ」「うん、今年は大丈夫だね」そう答えた美恵子の口の中に最後のミカンの房が入っていった。
「ミカンはビタミンCの補充になるから風邪予防にもいいね」「ふーん、だったら沢山食べれば良いんだァ」「食べ過ぎると手が黄色くなるぞ」「そんなの嘘さァーッ」美恵子は驚いて否定したが、昔の子供のオヤツはミカンだけだったので掌が黄色くなるまで食べ、水分の補給過多で寝小便をしたものだ(寒くて夜中にトイレに行かなかったこともある)。
「本当だよ。あまり食べ過ぎると目まで黄色くなるんだよ」「だったら止めるさァ」「でも美恵子がビタミンCを摂れば母乳で淳之介も飲めて母子とも健康って訳だ」「ふーん。だったら食べよっと」美恵子はそう言って篭のミカンに手を伸ばしたので私も1個取り、皮を剥くとそれから食べ始めた。
「ところでニンジンさん」「うん?」「どうしてミカンやリンゴの皮まで食べるの?」確かにミカンの皮を食べる人は少ないだろう。実は祖父の寺に預けられていた頃、「食べられる物を無駄にするな」と教え込まれ、スイカの皮まで塩漬けにして食べていた習慣が抜けないのだ。親元に帰ってからは「貧乏臭いことをするな」と怒られたが父親よりも祖父を尊敬していた私は親の目を盗んで続けていた。その意味では私と言う人間は両親の子供ではなく祖父母の孫であり、淳之介はひ孫なのだ。
「うん、祖父さんの教育だね」「おジィのねェ」「うん、明治生まれの禅僧だからな」しかし、私は美恵子との結婚が原因で親と音信不通になり、祖父とも疎遠になっている。正月には淳之介の写真を入れた年賀状を送ったが返事はなかった。おそらく私を許さぬ父の顔色をうかがう母が祖父にも連絡を禁じているのだろう。両親には会いたいとも思わなかったが、今年で76歳になっている祖父が心配になってきた。そんな私の顔を見て美恵子が話を変えた。
「やっぱり冬って寒いね」「うん、俺も5年ぶりの冬だからこたえるよ」「くっついていたら温かいさァ」「・・・」「そっちへ行っても良い?」「ゴクッ・・・」こちらの返事を聞く前に美恵子は立ち上がり私の隣に座った。産後3カ月、そろそろ夫婦の営みも試運転中だが乳を吸うと母乳が出るので興醒めしている。
「それでも」と思った時、淳之介が泣き出して母乳は息子が飲むことになった。
ほ・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/07/16(木) 09:41:10|
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振り向けばイエスタディ151

空曹候補者課程では大嫌いな教育もしなければならない。基礎課程では柔道、剣道、銃剣道の3種目からの選択なので、柔道2段、剣道初段の私は経験者としてどちらかを担当させてもらえるのだが空曹候補者課程では銃剣道だけなのだ。
私は銃剣道こそ旅順要塞攻撃から大東亜・太平洋戦争までも日本軍が「万歳突撃」なる集団自殺を繰り広げた狂気の原因であると考えており、槍のように長い30式歩兵銃に脇差並みの長さがあった30年式銃剣を着けていた頃ならまだしも64式小銃では実戦の用に立たないことは明らかだろう。しかし、教育隊には銃剣道を本業として各種大会で好成績を挙げたことで異例の昇任をしている班長連中が多く、それを否定すれば一巻の終わりであることは判っている。
そんな銃剣道は入校早々の寒稽古から始まった。基礎課程の時、柔道や剣道を選択していた初心者にはそれまでの体育の訓練で基本動作を教えていたが、自分の空曹候補者課程で初段を取った私は教官と言うよりも学生だった。
寒さが厳しい1月下旬に朝も早くから出勤すると隊舎には灯りが点いていて、学生たちは着替えて準備をしている。朝の点呼は室内で行い、朝食は訓練終了後なので学生たちはカロリー・メイトをかじっていた。実は私も淳之介の世話で睡眠不足になっている美恵子を起こすことはやめ朝食は握り飯なのだ。それでも寝顔にキスをするとうっすらと目を覚まし「いってらっしゃい」と呟いた。

銃剣道の教育は課程教育の中盤に行われる班対抗の大会までは試合教習が中心、それ以降は卒業前の昇段審査の練習になる。格闘技の趣旨から言えば逆だと思うのだが、形に残る成果至上主義の教育隊では異論を挟む余地はないようだ。
寒稽古が終わり、正規の教育で銃剣道が始った時、若手の班長で模範試合を展示することを命じられた。教育職の班長連中は銃剣道の強化訓練を経験しており熟練している。一方、私は少林寺拳法一筋で木銃は同じ空曹候補者課程で触って以来だった。
教育では訓練幹部が学生たちの前で一席ぶった後、試合場の周囲に移動させ、いよいよ模範試合になる。
「赤、モリヤ初段、白、片岡3段」審判役の古参班長の呼び出しでコートの白線に移動したが、学生たちは「モリヤ班長は初段なんだ」と小声で噂していた。
「礼、構え」審判の指示で構えると「始め」の号令で片岡3曹が初一本を狙ってくる。私はとっさに木銃を握っている左手で少林寺拳法の受けをしてしまった。
片岡3曹は一瞬、呆気に取られたが続いて喉を突いてきた。すると私は無意識に邪魔な木銃を放り投げ、右手で上受けをしてしまった。
「木銃の放擲。反則負け」そこで審判が判定を下し、訓練幹部が「これは反則の展示だ。注意しろ」と補足説明したが、私にとって少林寺拳法は頭ではなく身体に刻み込んだ技なので試合となれば無意識に動作が出てしまうようだ。
  1. 2015/07/15(水) 09:14:36|
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振り向けばイエスタディ150

年明けから曹候学生としての最後の教育・空曹候補者課程が始まる。私は沖縄から入校した上、その年の冬は数十年に一度の大寒波だったため課程開始直後に風邪をひき、高熱を出して1週間寝込み、快復しても朝の点呼で上半身裸体になると再発することの繰り返しで、私の空曹候補者課程は先任Sフルコース、教官は三浦曹長だったのだ。
空曹候補者課程では基礎課程の時のように臨時勤務の班長がいないため各班の学生は20名になる。今回の私の班には南西航空混成団所属の隊員が3名いた。彼らが到着すれば防寒対策に万全を期し(沖縄では制服などの中に着る防寒衣類が入手できないため)、ウガイ、手洗いなどの風邪の予防だけでなく、予兆を感じれば早期受診することまであらゆる注意事項について指導するつもりだ。

全国各地からの輸送機が続々と北基地に到着し、バスに乗せられた学生が運ばれて来ると荷物を解いた者から預かっている土産を届けに班長室にやってくる。
「□□士長、入ります」「市長?どこの県の市長さんだ?」「へッ?」特幹出身(曹長・准尉から昇任した定年前の初級幹部)の区隊長が嫌味な質問をしたが学生には通じなかった。そこで訓練幹部が指導をし直した。
「ここでは一般空曹候補学生の仕上げの教育をするんだ。士長に用はない」「は、はい。□□曹候生でした」私は第83航空隊でも「モリヤ曹候生」で通していて、FOD(異物吸入事故)の原因になるため外すことになっていた襟の曹候徽章も留め金にコンパウンド(固定剤)を塗ることで認めてもらっていたからこの失敗はあり得なかった。
その意味では「娑婆っ気を抜く」と入営してくる新兵を殴った古参兵は私にこそ適役なのだが自分の空曹候補者課程で失敗しているので遠慮しておいた。
ただ、大声でやり直したのを廊下で聞いていた学生たちは失敗を繰り返すことがなく、このソツのなさは後輩たちも大したものだ。
「あのー、モリヤ班長ですか?○○3曹から土産を預かってきました」私は全国に散らばった同期たちと連絡を取り合っているため土産が一杯集まってきた。中でも沖縄の連中からは離島の泡盛の3合瓶ばかりだ。
「俺もそっちが好いなァ、」机の上に並んだ泡盛を見て他の班長たちは本当に羨ましそうな声を掛けてくる。普通の沖縄土産は「ちんすこう」、気が利いた者でも黒糖か「ドライ・パイナップル」だろう。酒を飲まない美恵子には菓子類の方が良いのだが本土の酒店では手に入らない銘柄の泡盛は確かに有り難かった。
「職場へのアルコール類の持ち込みは禁止されている。したがって没収する」そう言って手を伸ばした訓練幹部も「宮の鶴(石垣島)」「多良川(宮古島)」「泡波(波照間島)」のどれにするかで迷っている。実は年賀状でリクエストしておいた選りすぐりの銘柄を没収されては困るのだ。
  1. 2015/07/14(火) 09:16:18|
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7月14日・廃藩置県が断行された。

明治4(1871)年の明日7月14日(太陰暦)に廃藩置県が断行されました。
日本人は昔から「日本」と言う統一国家に住んでいると思っていますが、律令体制が確立して以降の宮中で行われていた政(まつりごと)は地方から租税を搾り取り、それを使って立身出世することだけ、後は神頼みでした。源平の争乱から戦国時代に至ると一部の有力武将が「天下」と言う発想を持つようになったものの凡庸な武将は身を守るため敵味方を選択することに腐心していたのです。戦国時代に最大の勢力を有していた西日本の覇者・毛利氏でさえ「天下を望んではならぬ。自領の保持に努めよ」を家訓にしていました。江戸時代に入り天下泰平の世が実現しても、やはり「領国」が国家でした。意外にも幕府の政治的統制は天領に留まり、各藩については原則として藩主による統治が尊重され、老中が推し進める改革などは各藩主の立場でどうするか程度の問題に過ぎませんでした。それが幕末になって外国船が近海に出没するようになると初めて「世界の中の日本」と言う意識が芽生え、国家としての対応の必要性を考える藩が出てきましたが、それも一部の雄藩だけで大半の貧乏な小藩は幕府から達せられる「異国船撃ち払い令」なども多額の出費を伴う藩財政の問題として内向きに苦慮していたのです。「海に向けて砲を設置せよ」と言う命令に寺の釣鐘を並べて胡麻化した藩もありました。
この「迫りくる外国の脅威への対応」を口実にして討幕と言う反乱を成功させた薩長土肥は「日本」と言う統一国家を樹立し、中央集権体制を確立しなければならなかったのですが、武士の存在理由である「忠義」は藩主と家臣と言う着線的な人間関係に基づくため(下級武士に切腹を命じる場合も藩主の命令=上意と言う形式を採った)、藩を潰すことが全国規模の反乱に直結する危険が大きいことは判っており、順序正しく慎重に進めていったのです。
先ずは「版籍奉還」と言う手続きにより藩主に土地と領民を天皇に返させますが、それでも各大名=領主は知藩事として行政権を保持したままでした。しかし、天領や旗本の領地は中央政府の直轄地の府と県になり、この2重構造を解消することを名目に次の一歩に踏み出しました。
この段階になる中央政府の狙いに気づいた武士たちが反対・阻止に動き始めたのですが、財政の悪化から自領を直轄地にしてもらいたいと願い出る有力大名(鳥取=池田家、名古屋=徳川家、熊本=細川家、盛岡=南部家、徳島=蜂須賀家)が出てきたため、これを利用して強引に「廃藩置県」を断行します。この日、東京在住の知藩事を皇居に召集し、先ずは薩長土肥の島津氏、毛利氏、山内氏(代理として板垣退助)、鍋島氏に「廃藩置県」の勅命を下し、続いて前述の鳥取、名古屋、熊本、盛岡、徳島の知藩事、さらに56藩に申し渡したのです。
この時に設けられた県は旧藩の名前を置き換えただけなので東京、京都、大阪の3府と302県に上りましたが、3ヶ月後に72県に統合され(東北地方を除くと概ね律令国通り)、ここで初めて中央政府が県令を任命したのです。県令の多くは薩長土肥から選ばれていますが、能力ではなく人脈だけで選ばれた愚か者も目立ち、自県民を「賊徒」と見下して陳情にも耳を貸さず、中央政府の命令を頭ごなしに押し付けて無用の混乱を招きました。
その後も軍や警察管区や財政基盤などの理由で統廃合が繰り返され、現在のような形になっていきますが、問題なのは戊辰戦争で薩長土肥に敵対した地方が歴史的に対立していた領主の地域を合併されている例が目立つことです。その典型例が津軽領と南部領の青森県で、現在でも敵地に赴任することを拒否する県職員や教師が多いと言われています。福岡県は小笠原・黒田・有馬・立花領が一緒になっており県民気質もバラバラです。野僧は全国各地に移り住みましたが、県民意識が上手くまとまっている都道府県は殆どありませんでした。つまり明治政府が犯した数多くの失策の典型と言うことでしょう。
  1. 2015/07/13(月) 08:24:37|
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振り向けばイエスタディ149

大掃除中の我が家には洋服ダンスの代わりにファンシィ・ケースが2つ、テーブル代わりにコタツで食事しているがスチール製の本棚だけは3つもある。1つには私の軍事と佛教の専門書だが、1つには美恵子のヘアスタイルやファッションの雑誌と理容の専門書、もう1つには少女漫画が並んでいる。この少女漫画は美恵子ではなく私のコレクションなのだ。
私は高校時代、いがらしゆみこの「キャンディ・キャンディ」「一人ぼっちの太陽」と里中満智子の「あした輝く」を愛読していて、沖縄に行ってからは吉田まゆみの「年下のあんちくしょう」「カラフル・STORY」「エリー・DOING」「五番街のメルヘン」と庄司陽子の「生徒諸君」「Let’s豪徳寺」、佐伯かよの(元航空自衛官の漫画家・新谷かおるの妻)の「口紅コンバット」「熱帯椿・カトレア」、大和和紀の「はいからさんが通る」、山本鈴美香の「新・エースをねらえ」、美内すずえの「ガラスの仮面」そして和田慎二の「スケバン刑事」「超少女明日香」などにはまり、全巻を揃えていたのだ(「ガラスの仮面」は未完)。
実は私が大して男前でもないのに女性との縁が切れないのは、長年にわたり少女漫画で女性の心理を研究してきた成果だった。少女漫画では主人公は憧れのハンサム・ボーイと結ばれるが、その友人は外見ではなく人間的な魅力で好きになった男性と結ばれるパターンが多い。この友人が好きになる男性の魅力を研究すれば自分にもチャンスは巡ってくるはずだ。少女漫画の作者は女性なので心理描写に間違はいないだろう。そんなことは口が裂けても美恵子には言えないが何事も研究なのだ。

正月休暇が始まって美恵子を近所のスーパーに行かせると総菜のパックを山ほど買ってきた。
「ニンジンさん、本土のオセチって面白いさァ」「もう、そんな時期かァ」沖縄のオセチは鳥の空揚げやウィンナー、焼きトウモロコシ、フライド・ポテト、サラダなどのオードブルなので本土のように「よろこぶの昆布」「子沢山の数の子」「マメに働く黒豆」「腰が曲がるまで長生きの海老」などと言う縁起担ぎや山海珍味の決まりはない。
「試食させてもらったらお菓子みたいに甘い物ばかりで嬉しくなったさァ」そう言って袋から出した総菜は黒豆、伊達巻き、栗きんとん、田作り、昆布巻きなどの甘い物ばかりだ。
「酢の物は?」「酢っぱいの苦手さァ」「それでも甘い物ばかりじゃあ口がおかしくなるぞ」「酸っぱいお菓子なんて食べないさァ」「これはお菓子じゃあなくて縁起物のオカズなんだよ」尤も煮しめや紅白の大根の生酢、酢蓮などは家で作るものだろう。
ところが美恵子が仲良くしている鳥取県出身の奥さんが教えてくれた雑煮は小豆が入ってゼンザイのように甘かった。
  1. 2015/07/13(月) 08:23:37|
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7月13日・名馬中の名馬・シンザンの命日

平成8(1996)年の明日7月13日に戦後の競馬界に於いて幾多の不滅の記録を打ち立てて戦前のクリフジと並び称せられる名馬中の名馬・シンザンが死にました。
シンザンは昭和36(1961)年の4月2日に北海道の松橋牧場で生まれましたが、野僧も同年生れのため小学校時代の競馬ブームでもシンザンは大人気で特に詳しくなってしまいました。
シンザンは馬主の方針で乳離れして直ぐに広大な牧場に移され、幼馬の頃から成馬が集団で運動しているのに付いて走り回ったことで決して離されないスタミナと執念を身につけたと言われています。何よりもサラブレットとしてはズングリとした洗練されない体型ながら、調子を崩すことがない強健な馬体を持ち、「無事是れ名馬」そのものの馬に成長しました。
こうして昭和38年11月13日に京都競馬場で迎えたデビュー戦で優勝し、それから4連勝を飾りますが、厩舎の責任者は管理していた同年生まれの他の馬の方に期待をして一流の馬との対戦を避け、阪神3歳ステークスにも出場できませんでした。
それでもデビュー以来破竹の4連勝と言う成績が知られるようになると東京でのメジャーデビューが実現し、スプリング・ステークスに出走すると半馬身の僅差ながら優勝を果たしました。こうして迎えた昭和39(1964)年4月19日の皐月賞でも優勝し、以降は同年5月31日の東京優駿=日本ダービー、11月15日の菊花賞のクラシック3冠を制覇します(東京オリンピックの開会式が行われた10月10日にも阪神競馬場ではレースがあり0・1秒差で2着でした。どうやら関西の競馬ファンに国家的イベントは関係ないようです)。
クラシック3冠は現在でもセントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーヴルの7頭しか達成していません。しかし、シンザンが名馬中の名馬と称賛されるのは、この上を行く記録を達成しているからなのです。
翌昭和40(1965)年に入っても活躍は続き、6月27日の阪神競馬場の宝塚記念で優勝した後、東京競馬場で11月23日の(秋の)天皇賞、12月26日の有馬記念を制覇し、前馬未踏の5冠を達成したのです。
日本の競馬ではこの5レースに桜花賞、春の天皇賞、優駿牝馬を加えて8大競争とされますが、桜花賞と優駿牝馬はメスでなければ出走できず、春の天皇賞は過去に天皇賞で優勝していると出走できない勝ち抜け制であるため、牡馬=オスはこの5冠で全勝と言うことになります。
シンザンのレースはぶっち切りの大勝は少なく、半馬身や1秒未満の僅差のことが多かったようです。このためシンザンの勝ち方は「鉈(なた)の切れ味」と言われたのですが、それでも出場したレースの全てで2位以内の単勝複式の対象になっているのは流石でしょう。
シンザンは極端に脚力が強いため踏み込みが深くなり過ぎて前脚の蹄鉄が後脚の蹄に当たり負傷したそうです。このため後脚には通常の蹄鉄に補強材を加えた特製の「シンザン鉄」を装着するようになりました。しかし、この蹄鉄は通常の2倍以上の重さがあるため並みの競走馬では脚を痛める危険性があったのですが、強健な馬体に生れついていたシンザンはこれにも順応したようです。
引退後は種付け馬となりますが、それまでの外国馬の血統を偏重する風潮に対してシンザン・ブランドを確立するとミホシンザンなど多くの血統を残しました。なお、ミルキーウェイは馬術競技に転向し、ソウル、バルセロナ両オリンピックに出場しました。
そしてこの日、サラブレットの国内最長寿記録と最高齢種付け記録を更新したまま老衰で死にました。死に方まで凄い馬です(この記録は既に破られています)。
  1. 2015/07/12(日) 08:53:31|
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