日本人の大半は第2次世界大戦の開戦を昭和16(1941)年の12月8日の陸軍・山下奉文部隊のマレー半島上陸だと思っていますが(ヒョッとしてその後の真珠湾攻撃か?)、ヨーロッパでは1939年の明日9月1日にナチス・ドイツとその同盟国・スロバキアがポーランドに侵攻したことで始まっていたのです。ただし、独伊と英仏の双方が慎重に情勢判断していたため宣戦布告は9月3日になり、正式な開戦はこの日と言う見方もできます。
この9日前の8月23日にナチス・ドイツはソ連と「独ソ相互不可侵条約」を結んでおり、さらに9月17日にはソ連もポーランドへ侵攻したのですからポーランドの分割・占領は条約締結時の合意事項でありヒトラーとスターリンは共犯者と言うことになります。
ドイツは第1次世界大戦の敗戦により軍事力は質・量共に厳しい制限を受けていましたが、ヒトラー政権がベルサイユ条約を破棄してからは秘密協定によってソ連領内で育成していた機甲部隊を本国に呼び戻し、秘密裏に技術開発を進めていた軍用機の生産も開始して急速に戦力を増強していたのです。一方、ポーランドは元来が農業国であり、独露両大国の脅威に晒され続けた歴史から平和を希求する国民性であったため軍備の増強には消極的でした。
ただヨーロッパは地続きであることから当事者同士に問題がなくても第3国を原因とする対立が生じることは珍しくなく、ドイツがシレジアに介入するためのポーランド領内の通過(いわゆるポーランド回廊)を巡る交渉から対立が起きていたのです。
ドイツの作戦計画ではソ連との条約締結後、日を置かずして26日に侵攻を開始する予定だったのですが、前日の25日になってイギリスのチェンバレン政権が「ポーランドとの独立と保護に関する同盟が成立した」と発表したため状況を再確認し、イギリスの発表が外交上の脅しに過ぎず、英米仏はポーランドと国境を接していない以上、独ソで分割占領しても宣戦布告する理由はないと判断したことで1日に宣戦布告なしの侵攻を開始しました。
ポーランドの領土の大半は平野であり、ドイツ軍は優勢な空軍が先制攻撃を加え、続いて戦車部隊が侵攻を開始しました。しかし、長大な国境線から同時一斉に侵攻するには歩兵を乗せるトラックが不足しており、戦車部隊、自走砲部隊の進行速度を落とす結果になったのです。
結局、優秀な機動力を発揮して敵中深く侵攻し、楔を打ち込むように戦線を崩壊させる縦深突破戦術=電撃戦を実施することはできず、戦車と自走砲は歩兵部隊を支援する形で随伴する伝統的な殲滅戦を展開することになりました。これに対してポーランド軍は馬を使う本物の騎兵で対抗しましたが、戦車相手では敵わなくても歩兵であれば損害を与えることができたためヒトラーから「(思ったよりも?)よく戦った」と称賛されるような善戦を果たしたようです。
それでも劣勢であったことは間違いなくポーランド軍は領内の東側へ追い詰められていったのですが、その背後からソ連軍が襲いかかりました。それがソ連軍によるポーランド軍士官の大量虐殺・カティンの森事件に続いたのです。
その頃、日本では8月20日に関東軍がソ連軍に完膚なきまで叩き伏せられたノモンハン事件の停戦がようやく成立したものの23日の「独ソ相互不可侵条約」の締結を受け、28日に平山騏一郎首相が「欧州の天地は複雑怪奇」と能天気な声明を出して退陣しました。しかし、現代も昔も国際情勢が複雑怪奇なのは至極当然でしょう。
ちなみに日本がドイツ、イタリアと三国同盟を結んだのは昭和15(1940)年9月27日ですからヨーロッパは戦争の真っ最中であり、どう考えても不介入=中立的立場を確保していた日本をワザワザ渦中に引き摺り込んだ亡国行為だったのです。
- 2015/08/31(月) 08:51:17|
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今回、空曹候補者課程に入校してきた学生は私が最初に担当した第12期生だ。ガムシャラな情熱を傾注して教育に当たった教え子たちは私との再会を楽しみにしてくれている。しかし、私は「殉死」への誘惑から抜けられていなかった。
「モリヤ班長、何だか透明ですよ」「もう生きてない人みたいです」班長室へ土産を持って来た教え子たちは不思議がって声をかけるが私は虚ろに笑うだけだ。
「モリヤ班長は幹部候補生の2次試験のことで頭が一杯なんだよ」横から別の班長が勝手な説明をすると入間からの学生が異様な反応をした。
「えーッ、試験の前の夜に『やる気がない』って俺たちと散々に飲んでいたのに受かったんですかァ?」確かにそうだった。この期の課程教育中に私は2次試験を受けなければならず、その意味では基礎課程のように全力投球とはいかないだろう。
教え子たちの顔を見て私も少しずつ生命力を取り戻すことができた。それにしても何故、それが家族の存在ではなかったのだろうか?
課程教育が流れ始めた頃、私の2次試験対策も始まった。担当は航空幕僚監部の空曹から部内選抜で教育幹部になったばかりの区隊長だ。この区隊長は頭が切れ過ぎるため班長たちには敬遠されていたが、私とは不思議に波長が合っている。
毎晩、空き部屋で行われる面接の練習ではドアのノック=「コン、コン」の間隔、強さから始まって開ける時のノブの回し方、声のかけ方、足の踏み込み方と敬礼、室内での進み方など航空幕僚監部総務課直伝の作法を徹底的に教え込まれる。私は感心しながらも「これを部外の前にやって欲しかった」と不満を抱いていた。あの時は「私的受験」として完全に無視され、面接もブッツケ本番だった。今思えば「幹部に反論は許されない陸上自衛隊」としては拙い点もあったはずだ。
その「入室教練」が終わってから面接の練習になるのだが、ここでは区隊長の方が感心していた。区隊長は航空教育隊の空曹たちの知的水準に呆れており、始めは低次元な質問を並べたが、それに私はスラスラ即答し、上げ足を取って追い詰めようとしても詳細な軍事知識で逆襲した。
「お前さん、教育隊じゃあ完全に浮いてただろう。ここは筋肉馬鹿でなければ勤まらんからな」面接の練習を終え、講評をしながら区隊長は愚痴のような本音を漏らした。
「確かに試験官が知らないような知識をぶつければ突っ込まれる心配はない。お前さんなら簡単だろう。問題は『生意気な奴』と思われて心象を害すことだが今のレベルなら圧倒できるから大丈夫だな」私が陸上自衛隊の部外に合格していることは課程学生に不要な疑問を与える可能性があるからと緘口令が敷かれている。つまりその事実はないことにして部内の2次試験に取り組むのが教育隊的対応なのだろう。
その後、北基地の合格者と一緒に集団面接(=討論)の練習にも参加したが担当者の人事班長も圧倒され、「流石は教育隊」「彼は当選確実」と噂していたそうだ。
- 2015/08/31(月) 08:50:15|
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「今度の年号はヘーセーに決まったぞ」受け入れ準備が完了したことを報告に行った先任班長はテレビのニュースを点けていた事務室から戻って来ると大声で解説した。
訓練幹部が区隊長・班長室のテレビを点けると臨時ニュースとして小渕恵三官房長官の記者会見の様子が流れている。官房長官は「平成」と書いた額を示し、「新しい元号は平成であります」と説明した。その後、由来についての解説があったが私は「あの天皇にはお似合いの果てしなく軽い元号だな」と白けていた。
家に帰り、玄関を閉めると昭和の陛下が崩御された慟哭が甦ってきて、私は靴を脱ぐこともできずその場に立ちすくんで涙を流していた。
「どうしたのさァ?」いつまでも部屋に入ってこない私を不審に思った美恵子が出て来て声を掛ける。
「昭和が終わってしまった・・・」私はそれだけを答えると靴を脱ぎ、重い脚を引きずって部屋に入った。いつもはハシャイダように笑う淳之介も今日は黙って凝視している。私は制服のボタンを外すと茶の間の座布団に腰を下した。
「1日で急に老けたさァ。何事があったんねェ?」本土復帰前の沖縄で生まれ育った美恵子には「昭和」と言う時代に特別な思い入れはないようだ。朝から流れ続けている陛下崩御のニュースもまるで気に留めていなかったように訊いてきた。
「昭和の陛下は神だった。俺たちは神の時代に生まれ、育ってきた。だから国民はどんな苦難があっても耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことができたんだ。それも終わりだ」すると美恵子は「理解不能」と言う顔をして立ち上がり、淳之介をあやした後、台所に向かった。
朝のニュースを見て以来、私は1つの自問自答を繰り返していた。それは「殉死」の可否だった。明治天皇の大喪の礼の日、忠犬・希典は割腹して後を追い、それを見つけた妻も夫に続いた。昭和の陛下の偉大さが明治天皇を凌駕していることに疑問の余地はない。その陛下の後を追う者が果たしているのだろうか?
「陛下の病状が重篤である」と言う事実が公然と流れるようになり、朝霞駐屯地で行われる中央観閲式も中止になった時、私はこの疑問と「誰も殉死しないなら私が腹を切る=銃剣を貸して」と言う覚悟を体育学校の1等空佐にぶつけた。すると1佐はこう答えた。
「乃木希典は一応、陸軍大将だがお前は3等空曹だ。明治天皇は陸軍大将が殉じたが昭和天皇は3等空曹だったではかえって恥をかかすことになるだろう。せめて陛下にお前が3尉=幹部になるまで永らえていただくことだ」確かにその通りだった。そして1佐はこう補足した。
「俺は天皇が誰になってもシンボルに過ぎないと思っている。愛国心に変わりはない」
- 2015/08/30(日) 08:37:58|
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年明けにいきなり我々の「昭和」が終わってしまった。「来週には学生が着隊する」と言う1月7日の土曜日、朝礼前に点けていたテレビのニュースで沈痛な顔をした藤森昭一宮内庁長官が「天皇陛下には1月7日、本日午前6時33分、吹上御所において崩御あらされました」と読み上げたのだ。
その時、先任班長が「朝礼だ」と声を掛け、他の班長たちは正面玄関前の朝礼場に向かって駈け出したが(学生がいない時は20名程度しかいないため大隊朝礼になる)、私は足元が崩れ落ちたような気持ちになり、その場にへたり込んで動けなくなった。
座り込んでいると涙が溢れ出て止まらなくなり、外からは「気をつけ」「右へならへ」と整列している声が聞こえてきたが、それも遠い世界のことに思われた。
「モリヤ、朝礼だ」階段を駆け上がる足音の後、開いていたドアからベテランの班長が顔を出して声を掛けたが、肩を震わせて号泣している私を見つけて唖然としていた。結局、歩けなくなっている私にベテラン班長が肩を貸して朝礼場に行った時には国旗掲揚10秒前だった。
私が高校3年だった昭和54年に愛知県で全国植樹祭が行われた。生徒会長だった私は校長と一緒に地元の代表として参加することになった。
当日は早朝から市が用意した観光バスに揺られて出かけたのだが、空には雨雲が垂れこめてすぐにも雨が降り出しそうだ。
式典が始まり、県知事や来賓の挨拶などが終わったところで天皇陛下が御臨席になった。その時、突然に大雨が降り出してので会場には傘の花が満開になる。しかし、私は目の前の天皇陛下に眩い光=御稜威(みいつ)を感じ、雷に打たれたように身体が動かなくなっていた。
元陸軍大尉である校長も同じことを感じていたようで叩きつける豪雨の中、傘も差さず直立不動で立ち尽くしている2人の姿が夕方のニュースで大きく映された。
このため私は「右翼」「保守反動」「校長の弟子」と決めつけられ、日教組の教師と校内で勢力を張る民主青年同盟予備軍の生徒たちからは敵視されたのだが、この感動は生涯変わらぬ昭和の陛下に対する忠誠心となっていた。
私は元来、古事記・日本書紀に描かれている天孫降臨以降、大和朝廷の侵略と搾取、差別を受け続けてきた東北人の血統を持つ者として皇室には潜在的な敵意を抱いているのだが、昭和の陛下に感じた「神」はそれを打ち消すのに十分だった。
その後、沖縄で皇太子夫婦やその息子を見たが何も感じていない(同世代の息子のヘラヘラした顔には嫌悪感も覚えている)。私が抱く昭和の陛下への畏敬の念は皇室に対するものではないのだ。
その陛下が崩御された。そしてあの愛妻家振りをひけらかすだけの皇太子が天皇になる。私は「昭和」と言う時代に殉死したくなった。
- 2015/08/29(土) 09:48:58|
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無事、自衛隊体育学校曹格闘課程を卒業して懐かしくはない防府に帰った。そして迎えた正月休暇に私は防府で冬物の衣類を買い込み、沖縄へ家族を迎えに行った。
実家の座敷で義父母と百里から帰省した松真の4人で泡盛を飲んだ(美恵子はウーロン茶)。淳之介は祖父母に遊んでもらい疲れたのか義母の横に並べた座布団でよく眠っている。
「ニィニ、入れ替わりなんて残念さ」松真は今度こそと曹候学生に合格したのだ。
「自衛隊さんは本当に頑張るねェ」「学校に入って勉強して、鍛えられてばかりだもんねェ」義父母は感心した顔で私と松真の顔を見比べる。
「ニィニの教育は面白そうだって楽しみにしてたのになァ」「お前、ついでに面倒も見てもらおうって思ってたんだろう」義父がからかうと松真は「図星」と言う顔をして、それを見て全員で笑った。
「だけど何で陸上なの?」松真は不思議そうな顔で私を見る。一応、一般幹部候補生に合格はしているが航空教育隊では部内にも合格させようと躍起になっており、年明けには2次試験の合宿が始まるらしい。それでも義弟には自分の正直な気持ちを説明した。
「航空教育隊の訓練は陸上の請け売りさァ、どうせやるなら本物を極めてみたいのさァ」「教育隊の班長だったらプロじゃない」「航空じゃあ使う場がないのさァ」私の説明に松真は日頃の勤務と重ね合わせて納得した顔でうなずいた。
「でも陸上は馬鹿ばっかりなんでしょ?」「うーん、だから幹部は安心なんだろ・・・」そう答えながら昨年入校した自衛隊体育学校格闘課程の陸上自衛隊の同期たちの顔を思い出した。確かに体力馬鹿も多かったが世帯が大きい分、色々なタイプがいたような気もする。逆に陸の隊員たちからは「航空は頭が良いんでしょう」と嫌味を言われていたのだ。そんな陸上自衛隊の話は脇に置き、私は後輩になる義弟に精神教育を始めた。
「ノーブレス・オブリュージェ」「何それ?」「選ばれた者の義務。曹候学生は選ばれた者だから新隊員の手本にならないとな」「ハイ、先輩」「そんな難しいことアンタにできるの」「曹候って新隊員より厳しいよォ」私の言葉に真面目にうなずいた松真を今度は義母と美恵子がからかい、また全員で笑った。
「オトォ、オカァ、本土へ来て松真とニンジンさんの入校式の梯子をすればいいさァ」美恵子の提案に義父母は顔を見合わせて目で相談した。
「防府と久留米は同じ福岡空港ですし、久留米へは家族連れですから泊まる所は心配いりませんよ」私の補足説明に義父母もその気になってきたようだった。
「松真、オトォとオカァの交通費はウチラで割り勘だな」「エーッ、俺、金ないさ」私の提案に真剣に反対する松真にまたまた全員で声を上げて笑い、その声に義母の隣で淳之介が眠ったままビクッと伸びをした。
帰りの飛行機に乗るため空港に送ってくれた義父母はお礼を言う私に何故か「申し訳ありません」と詫びを繰り返していた。機内で美恵子に理由を訊いてみたが「知らないさァ」と正調化したシマグチで答えただけだった。
- 2015/08/28(金) 09:43:12|
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「モリヤさん、卒業?長いこと有り難うね」卒業前、PXに朝霞駐屯地の記念品を買いに行き、パン屋さんに寄ると小母ちゃんに声をかけられた。身体を酷使する課程期間中、学生は甘いものが食べたくなり(ビールも?)、昼休みに山ほど菓子を買っていた。その中で私はパン屋のジャムパンだった。
はじめは店にジャムパンがなく小母ちゃんに取り寄せってもらったのだが、あまり真剣な顔で注文したため小母ちゃんの方から「モリヤさん、ジャムパン入ってるよ」と声を掛けてくれるようになった。すると女性自衛官たちが「ジャムパンって美味しいんですか?」と訊いてきたので、その場で「アーン」と試食させたところ人気になり(食べかけは私がいただきました)、今では常時、数個は置いてあるようになっている。
「小母ちゃんのおかげで頑張ることができました」そう言って握手を求めると小母ちゃんは「そんなこと言われたら泣けてしまうよ」と言いながら鼻をすすった。
卒業式では上級指導官と部隊指導官が別々に呼ばれ、校長閣下からそれぞれの格闘徽章を授与された。上級指導官の中には感極まって大声で号泣する者もあり、逆に呼ばれなかった者の間には失望感が漂い、発表している伊東教官を恨めしそうに睨んでいる奴もいた。私は予想通り部隊指導官だったが式の後、伊東教官から意外な評価を聞いた。
「最初に君の突き、蹴りを見た時には徒手格闘で上級指導官にできるかと思ったが最後まで少林寺の癖が抜けなかった。逆に氏原教官の個人教授で銃剣格闘はいくかと思ったがこちらは追いつかなんだ。早い話が時間切れだ」やはり運動音痴は長く険しい人に倍する努力の果てに技を身体に刻むもののようで短期集中練成には向かないようだ(それでも訓練記録には「優秀」のスタンプの上に赤ペンで「過去最高」と書き加えてあった)。
式が終わると在校生に見送られて自分たちの居室に戻るのだが、オリンピック要員のところで私は握手攻めに合ってしまった。先ずは森山先輩が「後輩、頑張れよ」と声を掛けて背中を叩き、隣りの宮原1尉が「しっかり頑張って下さい」と握手してくれた。この2大スターがやれば若手も倣い、何かを勘違いしたように握手を求めてきて、レスリングがやればボクシングもとオリンピックのスター選手になったような気分だった。
卒業式の後は居室に戻り、教官以下全員で格闘課程の歌を合唱した。
「めざせ上級指導官、集いし鍛えし学び舎に 格闘同期の意気高く ともに苦難を乗り越える 団結固き この課程 我ら格闘指導官」ともに苦難を諦めなくてよかった。
原隊復帰も陸上自衛隊式だ。私は当然、入間からCー1のつもりだったが帰路は新幹線だった。地面がつながっていない北海道と九州は民間機だが、本州の端の青森と山口は鉄道なのだ。しかも不正流用できないように経費ではなく期日指定の切符を渡される。
東海道・山陽新幹線では守山、大津、信太山、日本原、海田市、そして防府南の同期たちが山ほど買いこんだビールとつまみで宴会を繰り広げながら帰っていった。
- 2015/08/27(木) 09:09:44|
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卒業前、駐屯地の隊員クラブで謝恩会が行われた。以前、軍事雑誌で陸海空の気質の違いの例として宴会での態度と言う話を読んだことがあったが、確かに陸上自衛隊の宴会は変に緊張感があり、航空自衛隊のように上司も部下も一緒になって馬鹿騒ぎするような雰囲気ではない。若い隊員は先輩のグラスの中に気を配り、いつでもビールが注げるように準備している。それでいて上司が勧めると直立不動で恭しく酒を注いでいただき、美味しそうに飲み干さなければならないようだ。
その時、あり得ないことに校長閣下を取り巻くエライさんたちが空曹の私を手招きした。
「モリヤ3曹だな」「はい、モリヤ3曹です」こうなると酔いは一気に吹き飛び、頭の中では礼式規則の条文が字幕で流れ始める。そこに格闘課程の幹部たちも集まってきた。
「君は陸の部外に受かったそうだが?」「はい、先月、合格発表がありまして・・・」私が校長閣下から直接声を掛けられると伊東教官が代わって説明を始めた。
「部内の1次試験にも受かっています」それを横から先日の1等空佐殿が話を遮った。伊東教官も1佐が相手では口をつぶるしかなく困ったような顔で私を見た。
「要するにどちらも受かればそれから決めると言うことだな」校長閣下の理解は間違っているが陸曹が幹部に反論することが許されない陸上自衛隊の将軍閣下が相手では「はい」と返事するしかない。しかし、体育学校は陸上自衛隊ではないはずだが・・・。
校長閣下から解放されると助教たちに取り囲まれた。
「モリヤ3曹は日本拳法をかじったことがあるだろう」「ヘッ?」「波動突きを知っているのが証拠だ」「動作も少林寺の癖の下に日拳があると見た」「はい、2級でした」「うん、そんなものだ」今度は訊問が始まるようだ。
「後は極真系の蹴りを使うな」「はい、芦原会館を舐めました」「だろう」「柔道は2段と言うが高校初段だな」「はい、2段は教育隊の上乗せです」「やっぱり」達人の域にある助教の眼力に掛かれば学生の技量は丸裸同然なのだ。
「銃剣道が素人3段と言うのは正直でよろしい。本当にドドドドド素人だった」「はい・・・」普通は持ち上げて落とすものだが、ここでは潰して穴に埋めるようだ。
「格闘課程には腕に覚えがある奴らが入ってくるから嫌でも分るようになる。その点、モリヤ3曹の少林寺は鍛錬で身につけた自分の技だな。かなり練習をしただろう」「はい、もっと才能があれ助教たちのレベルに近づけたのですが」「いや、不器用者が血の汗と涙で身体に刻み込んだ技だから意味があるんだ」そんな言葉を聞かされては泣き上戸になりそうだ。しかし、そこから話は急に厳しくなる=埋めた穴に土を山盛りにした。
「ところで陸曹にとって理詰めで考える幹部ほど困る者はない。モリヤ3曹が陸の幹部になっても俺は下にいきたくないな」「どうしてですか?」「隙がなさ過ぎて窒息しちまうんだ」同期たちにもこんな気持ちを抱かせていたとすれば・・・その場で土下座して詫びたくなった。
- 2015/08/26(水) 09:52:32|
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大正2(1913)年の明日8月26日から新田次郎さんの名作「聖職の碑」の題材になった木曽駒ケ岳遭難事件が起きて校長と生徒10名が犠牲になりました。
野僧は「アラスカ物語」を読んで新田次郎さんのファンになって以来、乏しい小遣いの中から「八甲田山死の彷徨」「芙蓉の人」「富士山頂」に続いてこの作品も購読しました。
この事件は夏休みの集団宿泊行事として木曽駒ケ岳に入山していた長野県伊那郡中箕輪村立中箕輪高等小学校(現在の中箕輪中学校)の2年生25名と引率の赤羽長重校長、征矢隆得訓導(現在の教諭に相当する)、清水政治准訓導、そして同行した卒業生10名が遭難したもので、集団行動中の遭難犠牲者数としては明治35(1913)年1月の八甲田山雪中行軍の199名と収容後の死亡者6名や昭和38年1月の薬師岳愛知大学山岳部遭難事件の13名に次ぐものです(昭和48=1973年3月の富士山異常気象事故や平成26=2014年9月の木曽御嶽山の噴火、平成3=1991年の雲仙普賢岳の火砕流などは除きました)。
木曽駒ケ岳は海抜2956メートル、千畳敷カールや高山植物などの見どころが多く、交通の便が良いこともあり今でも非常に人気が高い山です。駒ケ岳と言う名前は春先になると中岳の山腹に馬の形の残雪が現れることに由来し、この他にも島田娘や種蒔き爺が現れ、麓の人々に季節の推移を知らせているそうです。ちなみに地元では全国各地にある駒ケ岳の最高峰である甲斐駒ケ岳(海抜2967メートル)を東駒、木曽駒ケ岳を西駒と並び称する一方で、連山である木曽前岳、中岳、伊奈前岳、宝剣岳を木曽駒と総称することもあります。山容としては個性的な宝剣岳が一番目立っていますが。
登山計画では8月26日午前5時に麓を出発、途中で内ノ薹、行者岩、将棊山、濃ガ池などの名所を巡りながら中岳に登り、その稜線から駒ケ岳山頂に到達し、そこで野営をして翌27日に下山、学校で解散の予定でした。ところが出発時には好天だったにも関わらず季節外れの台風が関東地方に接近した影響で天候が急激に悪化し、山頂に到着したのは計画から大幅に遅れた午後8時前後だったのです。その頃には暴風雨状態になっており野営は断念、無人の山小屋に避難しますがここも大きく破損して風雨をしのぐことができず、さらに夜間の冷え込みで山頂付近は零下になっていたと推察されています(「雨水が凍った」との証言がありました)。
このため翌朝、生徒の1人が低体温症で死亡、2名が意識混濁になったため暴風雨の中、校長と清水准訓導が2名を背負い下山を開始したのです。ところが天候は悪化の一途を辿り、ようやく濃ガ池に着いたところで生徒2名が死亡、生徒に防寒用シャツを与えていた校長もあの世へ引率するかのように倒れました。それでも生存者たちは下山を続けますが、先に村へ向かい急報しようとした征矢訓導と生徒を背負って疲労していた清水准訓導で前後に大きく離れてしまったため、生徒や卒業生たちは自分の判断で下山しなければならなくなったのです。
昼過ぎになって生徒の一部が内ノ薹村に辿り着き、遭難を知った村人たちによって駐在所の巡査を指揮官とする20名の救助隊が編成されて出発、続いて麓の伊那警察署からの40名に医師と郡役所の職員が同行する約70名の救助隊が出発し、消防団約700名も招集されました。
こうして行われた捜索の結果、道に迷っていた生徒や卒業生たちも救助されましたが11名が命を落としたのです。
現在では天気予報の確認は登山の基本中の基本ですが、国民新聞が全国版の天気図を掲載し始めたのは大正13年8月、ラジオで天気予報が流されるようになったのは大正14年3月からなので当時は東京の中央気象台に依頼しなければ天気予報は判りませんでした。合掌
- 2015/08/25(火) 09:06:00|
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そん折、私は氏原教官に呼ばれた。
「君は短剣道何段が欲しい?」「へッ?」「今の君の技量なら急速練成で国体に出ている連中よりも上だ。国体の公式審判員になるには銃剣道と短剣道の5段以上が必要だから両方5段にすればどうかね?」「はァ・・・」恩のある氏原教官からここまで言われると恐縮だが防府での経験で段位を買うには多額の代金が必要なことも分かっている。入校に際して用意していた軍資金は美恵子のご機嫌取りに分けたため幾分目減りしていた。
「実はあまり手持ちのお金が有りませんので・・・」「確かに検定料は必要だ。幾らなら払える?」「はい、6万円までなら」「そうか、銃剣道は部隊でも取れるから短剣道を5段、銃剣道は4段にしておこう」防府で取った銃剣道3段は明らかに金で買ったが、今回の銃剣道4段、短剣道5段は実力と胸が張れるだろう。ただし、試合経験は別だが・・・。
「君の意見を楽しみにしてるぞ」卒業のアンケートでは伊東教官から特別命令が下った。
「幹格(=幹部格闘課程)の連中は原隊に気を使って常識的なことしか書かない。書くとすれば防大でやっていた奴が徒手格闘よりも少林寺を採用しろってことくらいだ」確かに関節技は徒手格闘よりも少林寺拳法の方が理に適い効果がある。しかし、少林寺拳法では技のバリエーションが昇段の資格なので高段者になると「そんな技が何の役に立つんだ」と首を捻るような特殊性を帯びてくるのも事実だ。
「判りました。遠慮なく正直に書かせてもらいます」「遠慮なく正直なのは入校以来一貫していたぞ」「はァ・・・」伊東教官に言われた痛烈な皮肉に私は頭をかいた。
私のアンケートは期待に応えて意見の羅列になった。先ずは徒手格闘の防具の問題からだ。
「日本拳法の防具は面が金属製のため拳を保護するグローブが必要である。ならば防具はクッション式の胴とプラスチック製の面にするべきだ。そうすれば拳の保護はサポーターですみ、試合教習中の投げ技、関節技も容易になる」書き物が苦手な陸の同期たちは私のアンケートをのぞき、「これもらった」と言っていたから多数意見になったのかも知れない。次は短木銃の問題だ。
「短木銃の形状は極力64式小銃に近づけ、特に右手の握りの部分は小銃の銃把のように指の引っ掛かりがない直線状にしなければ実銃との違和感が生じる」同期たちはこれものぞいていたが「意味不明」と説明を求めてきた。そこで図を書いて説明したが「そんな繊細な感覚で刺突する奴はいないぞ」と呆れただけだった。最後は要望になった。
「徒手格闘は丸腰になった自衛官が戦場で身を守り、敵を斃すために用いる戦闘技術である。ならば日本拳法を基礎にするとしても幅広く各種格闘技の長所を取り入れ改良する研究努力を怠るべきではない。ソ連のサンボ、中国の功夫(=カンフー)、北朝鮮の跆拳道(タイコンドー)に圧勝し得る格闘技術たるべきである」これをのぞいていた陸上自衛官たちは内容よりも「功夫」「跆拳道」と言う漢字が読めなかったようで質問はそちらに集中した。そのまま「最強格闘技」談議になって「徒手格闘は極真になる」で意見が一致したが私は不同意だった。
- 2015/08/25(火) 09:04:39|
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検定が終われば後は楽しい時間だ。ただし、部隊の名誉を担って入校している陸の同期たちは「上級指導官」になれるかも大問題で互いに評価し合っては一喜一憂している。
教官たちもそれは分かっていて気分転換になるように軽作業を与えていたが、そこでまたまた陸上自衛隊気質を目の当たりにした。
グランドの周囲に植えてある桜並木の落ち葉の掃除をした後、教官が「穴を掘って埋めろ」と指示して帰ってしまった(この時も陸の隊員たちは「帰って成績を決めるんだぞ」と心配を始めていた)。
こうなると施設部隊から入校している同期が工兵魂を発揮するのだが、その穴のサイズが問題だった。私から見れば集めてある落ち葉の量から判断すれば良いと思うのだが、陸上自衛官たちは「教官が指示されなかった以上、作業中止を命じられるまで止めることはできない」と掘り続け、縦横深さ2メートルの大穴を作ってしまったのだ。
そこに教官が「悪い悪い」と言いながら戻ってきたが、私ともう1名が底を掘り、他の隊員が紐をつけたバケツで土を出している穴を覗き込み唖然としていた。
校長閣下を始め自衛隊体育学校の首脳陣を招いてオリンピック要員専用の食堂で昼食会が行われたが、会食準備も陸上自衛隊式だった。
机の配置、椅子の位置を一直線にするのは航空自衛隊でも同じだが、それをテーブルの端に顔をつけて見通して確認するのは射撃のようだ。
さらに盆にご飯とオカズ、汁と副食、湯呑を並べるやり方も全く違う。航空自衛隊ならモデルを1つ作り、「このように並べろ」と指示すれば隊員が自分で考えて始まるが、陸上自衛隊では全員が陸曹であっても、指揮官が「飯はこの位置」「オカズはこの位置」「湯呑は・・・」と指示し、隊員はそれだけを載せたお盆を持ってテーブルの上のお盆に並べていくのだ。それも盆を持つ係と器を並べる係の2人掛かりだった。
私は呆れ半分、感心半分で眺めていて、「ボーとしていないで働け」と怒られてしまった。
作業が終われば仕事が終わる。そんな普通の生活が戻ってきた。レンジャーや空挺の経験者も入校していたが、朝から晩まで格闘漬け(寝言で「ヤーッ」と気合を入れる者もいた)の3ヶ月間は訓練を耐えればすむ別の課程とは違う厳しさがあると言っていた。
「おい、朝霞の名物コースを走りに行こうぜ」同期の中でも若い3曹が提案した。どうやら助教から「円谷コース」について情報を仕入れてきたらしい。「円谷コース」と言うのは悲劇のヒーロー・円谷幸吉3尉が存命の頃、朝霞駐屯地内に丁度10キロのコースを作り、毎日何周も回っていたものだ。
陸上競技班の長距離走の選手たちの間では「1人で走っていて円谷選手の足音が聞こえれば次のレースは勝てる」と言う伝説があるらしい。しかし、最近の体育学校勢の成績では足音は聞こえないだろう。勿論、私たちにも聞こえなかった。
- 2015/08/24(月) 09:10:40|
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文禄3(1594)年の明日8月24日(太陰暦)に大泥棒・石川五右衛門が釜茹で(油を使ったので「釜煎り」とする説もある)で刑死しました。
石川五右衛門についてはイエズス会の宣教師・ルイス・フロイスの日記や貿易商・アビラ・ヒロンの日本滞在記に登場し、墓だけでなく処刑に使用されたとする大釜も実在している(この話をした刑法の教授は名古屋刑務所で実物を見たそうです)にも関わらず歴史家の多くが実在を疑問視しています。本来であれば京都・大雲院(=銀閣寺)にある墓を発掘調査し、仮に遺骨が出てくれば科学的な鑑定によって解明できるはずです。ちなみに五右衛門の墓が大雲院にあるのは処刑前の市中引き回しの途中、大雲院の門前で聖誉貞安上人から引導を与えられた縁だと伝えられています。貞安上人は織田信長の命で行われた安土法論で法華宗の代表を完膚なきまで論破した浄土宗の名僧ですから五右衛門が西方浄土へ往生したことは間違いありません。
五右衛門の伝説でも信憑性がある記録としては、先述の貿易商の滞在記に「当時、京を荒らし回っていた15人の盗賊一味の首領が捕らえられ、三条河原で生きたまま煮られた」とあります。一方、宣教師の日記には「名前はIxicava Goyemon」と記されています。さらに公家の山科言経の日記にも「三条橋間の川原で盗人、すり10名、また1名が釜で煎られた」とありますから、この時期に京の三条河原で釜を使って処刑された盗賊がいたことは確かなようです。
一方、五右衛門自身の人物伝になると江戸時代に入って歌舞伎や浄瑠璃の人気演目になっていただけに滅茶苦茶で、出身地だけでも「元は伊賀の忍者=脱け忍だった」と言う時代劇の定番化している伊賀説や盗賊の産地・遠江説、大坂の土着民で後からやってきた秀吉に反抗したとする河内説、さらに秀吉に滅ぼされた守護大名・一色氏の家老・石川氏の家系=丹後説などがその後に続く物語の「だから=根拠」として語られてきました。
五右衛門の相手は豊臣秀吉が一般的ですが、江戸時代に入ってからの歌舞伎や浄瑠璃なら秀吉を翻弄する盗賊の物語は公儀の怒りに触れることもなく、庶民の方は秀吉を実際の権力者に置き換えて胸の中の鬱屈を晴らしていたのでしょう。ところが史実誤認もあり五右衛門の時代には存在しない名古屋城の金の鯱鉾を盗もうと大凧を使って天守閣に登り「絶景かな、絶景かな」と決めたのも歌舞伎の名場面です。
五右衛門の捕縛は秀吉の寝所に忍び込んだ時、千鳥の香炉(現在は名古屋・徳川美術館にある)
が鳴き声を上げ、それで秀吉が目を覚ましたためと言うことになっています。ところが大坂城の天守閣の屋根の上まで逃げる展開になると名古屋城で吐いた名台詞が登場するのです。
処刑の場面にも色々なバリエーションがあり、奈良・東大寺門前の隠れ家に置いてきた7歳の息子も一緒に殺されることになって、五右衛門は父親として我が子を苦しめることができず、熱くなる前に油に沈めて溺死させたと言う説や逆に頭上に掲げて少しでも先延ばししようとしたとする説、更に熱さに耐えかねて我が子を沈めて足の下に敷いたとする説などがあります。
野僧の記憶に残っているドラマの石川五右衛門はNHK「黄金の日々(1978年)」の根津甚八さんと同「秀吉(1996年)」の赤木英和さんです(「ルパン3世」は除く)。リアリティで言えば根津さんですが釜で茹でる処刑法は地獄の責め苦をこの世で味あわせるのが目的ですから、あのドラマのように熱湯に飛び込ませて即死させるようなことはないでしょう。
それにしても「大泥棒」と言う割には盗む場面はあまりなく、然も徒党を組んで強奪していますから、その点では鼠小僧次郎吉に敵いません。
辞世「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」ホンマかいな?
- 2015/08/23(日) 08:52:11|
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卒業前の体力測定には驚いた。入校時にも陸上自衛隊式の体力測定は受けていたが、要領が判らず航空自衛隊式よりもかなり悪かった。ところが今回は21分間トレーニングの成果もあり格段の飛躍を遂げていたのだ。
短距離走は航空式の50メートル走でも毎回6秒前半と得意だが、陸上式の100メートル走で12秒4だった。スパイクを履けば12秒が切れるかも知れない。
遠投は航空式のハンドボールでは手が小さく腕が短い私には苦手な種目だが、陸上式のソフトボールでは78メートルとプロ野球の入団テストでも通用しそうだ。
航空式にはない土嚢運搬も色々な体力増強をやってきているので50キロが軽く感じられ、前方に放り投げながら担ぐ技も使うことができた。
ところが最大の苦手種目である走り幅跳びはあまり進歩していなかった。
「どうしてあれだけの飛び蹴りができて4メートルしか跳べないんだ?」「21分間トレーニング(の50メートル走)でも毎回6秒台だったじゃないか」計測をしている助教たちも不思議がっていたが、やはり「翔べない男」は跳べないのだろう。
「要するに50メートル走のつもりで全力疾走してきて、踏み切り盤の上で飛び蹴りをやれば良いんだ」「はい、やってみます」2度目の助走に向かう私に伊東教官が指導を加えたので、頭の中でイメージをまとめて走り出した。
「アチョーッ」踏み切り盤の上で気合いを入れて跳んだものの足は空を切り、背中から砂場に叩きつけられた。
「最後まで笑わせてくれたな」伊東教官がオチをつけて同期たちも大爆笑した。
3ヶ月間愛用した道具の手入れを始める前、不思議な試合を体験した。
手入れの初日、実銃と一緒に入校直後に使用した銃剣道の防具を持ってくるように言われた。我々も「忘れるところだった」としばらく使わなかった防具を運んできたが、すると助教が竹刀を分解した竹を20センチほどに切り、そこに木銃のタンポをはめた物を配り、銃剣の鞘に取り付けさせた。
「これから実銃で銃剣道の試合を実施する。あくまでも体験だから熱くならないように」銃剣格闘の戸村主任教官の説明に我々は唖然とした。まさか検定が終わってから試合をするとは思っていなかったのだ。それでも試合が始まるとその意味を体感できた。
4・3キロの64式小銃に銃剣を加えた重量を木銃のように扱うことは不可能であり、「銃剣道の鬼」を自称している猛者たちも日頃馬鹿にしていた弱者の初一本でやられていた。
「これで諸官たちも銃剣道が単なるスポーツ種目に過ぎないことが判っただろう。新小銃の導入も決まっている以上、陸上自衛隊の体育訓練の底辺を拡大するためにも旧軍の形見のような銃剣道とは決別しなければならない」こう講評した戸村教官自身も銃剣道8段範士・全日本を連覇してきた神様だ。私は自説をカミに許してもらった預言者のような気分になり思わず鼻をすすってしまった。
- 2015/08/23(日) 08:51:17|
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沖縄では6月23日に牛島満第32軍司令官、長勇参謀長が割腹自決して組織的戦闘が終結し、大日本帝国自体も8月15日にはポツダム宣言を受諾して降伏していた中、戦闘終結から2カ月が過ぎた沖縄で歩兵第32連隊が軍旗を焼却し、故郷・山形から遠く離れた地での戦闘をようやく終えました。ちなみに同日、千島列島の東端・占守島(しゅむしゅとう)でも8月18日に侵攻してきたソ連軍との間で停戦が成立し守備隊の武装解除が行われています。
歩兵第32連隊は日清戦争後、軍備の拡充を急ぐ陸軍によって明治29(1896)年に秋田で創立され、日露戦争に出征した後、山形城に帰って駐屯したのです。
その後、シベリア出兵に4年間も派遣されますが、帰還して3年後の大正14(1925)年に宇垣軍縮が行われ、青森の歩兵第5連隊、弘前の歩兵第31連隊、秋田の歩兵第17連隊と共に第8師団(師団司令部は弘前)を構成し、「東北4兄弟」と呼ばれるようになりました。
昭和に入ると昭和6(1931)年の満州事変に1個大隊を派遣した後、昭和12年には満州駐留となり、このため現地で編成された第24師団の所属になります。そして日米開戦後、昭和19年3月には1個大隊がサイパン島に派遣されて7月に守備隊が全滅し、その7月に連隊主力は沖縄への派遣が命ぜられたのです。
8月5日に沖縄本島に上陸すると当初は本島中部の恩納村と読谷村の境界付近に配備され、陣地構築を始めたのですが、12月に大本営が第9師団を台湾へ抽出すると本島南部糸満地区へ移動させられ、ここで昭和20年4月1日の米軍上陸を迎えました。
ところが八原高級参謀が立案した持久戦略を弱腰と断じた大本営からの非難を受け、長参謀長が反転攻勢を主張するようになると牛島軍司令官もこれに同意したため、その非を認識していた八原高級参謀は長参謀長が納得する程度の中途半端な作戦を立て、その捨て石に第32連隊が使われたのです。
4月25日、自然洞窟を利用して建設を進めていた陣地から出て首里北東・太平洋側の小波津地区に進出し、ここで米軍と激突しました。米軍は4月8日から24日まで嘉数高地で激戦を繰り広げており、その多大な損害から戦力を回復する必要に迫られていたところに新たな敵を迎えて大混乱に陥りました。しかし、嘉数高地の戦闘は横に続く台地の上から登ってくる米軍を攻撃したから多大な戦果を上げられたのであって、砲火力や機動力に劣る日本軍が陣地もない開豁地で敵と交えても長くはもたないことは誰の目にも明らかです。それでも長参謀長の強行により無謀な敵陣突破の命令が繰り返され、これを実行した第32連隊の戦力は約5000名が200名にまで激減しました。この状態で首里の第32軍司令部陣地の防御戦闘に加えられ、さらに摩文仁への移動に同行する形で糸満の担当地区に戻ったのです。
その後は南部地区へ侵攻してくる米軍を迎え討って国吉地区を中心に激闘を繰り広げますが、やはり消耗した戦力は如何ともし難く、米軍に置き去りにされる形で洞窟陣地内に留まることになりました。ちなみに戦闘が終息しつつあった6月18日に国吉地区の丘の上で視察していた米上陸部隊指揮官・サイモン・ボリバー・バックナー・ジュニア中将が戦死しています。
置き去りにされた第32連隊は通信手段もないまま洞窟陣地内で潜伏し、8月22日になって軍使として訪れた米軍の情報将校と接触し、沖縄戦どころか大東亜戦争そのものが終結したことを知らされ、この日を迎えたのです。
連隊長・北郷格郎大佐以下の生存者50名は6月29日に武装解除を受け、捕虜収容所に入りました。

国吉の丘にある「山形の塔」
- 2015/08/22(土) 09:15:26|
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最終の試合も格闘の検定項目に入っている。つまり徒手格闘・銃剣格闘のそれぞれ2回行われる試合では審判としての知識と技量、試合中の動作も確認されるため格闘技量総動員で同期最強を追求することは諦めなければならない。ところがそれ以前の問題だった。
「モリヤ、試合では頼むワ」休憩時間にトイレに行くと隣りで用をたしていた古参2曹に声をかけられた。先ほどのくじ引きでこの2曹と対戦することが決まったばかりだ。
「へッ?」「俺も教育隊で助教をやっているから航空の助教に試合で負けたと知られると困るんだ」「はァ・・・」「型どおりに動作して引き分けなら成績に関係ないだろう」まだ負けを要求されていないのが救いだが、これでやる気はかなり下がってしまった。
結局、この2曹とは睨み合いに終始したが伊東教官から「馴れ合いは止めろ」と注意された。やはり教官の目は誤魔化せないのだ。
次の試合でも失敗した。相手が前蹴りからの連打で私の蹴りを封じようとしたのを芦原会館の「サバキ」で転がしてしまった。つまり徒手格闘の禁じ手を使ったことになる。仕方ないので腹に「ヤーッ」と一撃加えて「一本」を取ったがポイントとしては「個癖修正不十分」でマイナスだろう。
格闘検定は2日掛かりだった。徒手格闘の方は半日ですんだが、銃剣格闘は空砲を使った仮標刺突から始まり、訓練棒操作、そして実銃を使った型を半日ずつ行う。
訓練棒と言うのは両端に針金の輪とウレタンを詰めたゴムボールを取り付けた2メートル強の竹の棒で、教官が輪を示すと試技者は刺突、ボールなら打撃技を実施する。この他にも射撃や正面打撃を示す動作もあり、相棒との呼吸が大切だ。
これは何とかなったが型は大変に緊張した。別に銃剣で刺されて出血多量、打撃技で頭部陥没、斬撃で首が飛んでも(仮標訓練で青竹を試し切りしたが真っ二つになった)構わない。ただ運動神経が欠落したド素人に誠心誠意の教育を施してくれた教官・助教の恩に報いることができないことが怖かった。
いよいよ私たちの番が来て銃剣格闘の道場に入った。最初は実銃を使った銃剣道の刺突動作からだ。相棒の「構え銃」の号令で実銃を構える。そして「突け」の声で踏み切るのと同時に実銃=着剣した64式小銃を突き出した。
「よし」その時、判定員席から氏原教官の声が聞こえた。本来、判定員は無言でいなければならないはずだが、教官も思わず声を漏らしてしまったのだろう。
その声で私は緊張が消え、自分でも納得できる型を演じ切ることができた。
学科試験は妙なことになった。試験後、私は伊東教官に呼ばれたのだが、それは回答用紙の訂正だった。第1教育群では成績不良の者を救助するため同様のことを行うが私の場合は逆だ。
「満点を取られると試験問題が変更になるから1問間違えてくれ。どれが良い?」「・・・」
- 2015/08/22(土) 09:10:29|
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我々の世代にはトリスウィスキーのCMの鼻が大きな小父さん=アンクルトリスが印象に残っている漫画家・柳原良平さんが8月17日に呼吸不全で亡くなったそうです。84歳でした。ちなみに誕生日も昭和6(1931)年の8月17日です。
あのCMはサントリーの前身・壽屋(連ドラ「マッサン」では亀井商店)宣伝部の社員だった柳原さんが同僚の開高健さん(後に作家)や山口瞳さん(同左)と一緒に制作したもので、BGMの歌はビリーバンバンだそうです。あのBGMは歌詞がありそうでなく、なさそうであるため正しくスキャットしないと全く受けませんでした。そのため父親が夜勤の日にトリスのCMが流れる大人の番組までおきていて(母親と妹は隣室で爆睡していた)ラジカセに録音して歌詞にしました。つまり野僧の性分は子供の頃から変わらないのです。
その後、柳原さんとは船の本で再会することになりました。野僧は中学校の社会科の授業で日本が資源の大半を輸入していることを学んで船乗りを志して以来、商船大学校、東海大学海洋学部、運輸省海員学校、鳥羽商船高専、地元の水産高校、後に海上自衛隊生徒を目指していましたから(当時は水産大学校、水産高専の存在を知らなかった)船の本は必読書で、アンクルトリスが船長を務める柳原さんの本は夢を果てしなく広げてくれました。
結局、野僧はあの家に生まれたため思い描いていた夢を頭ごなしに断念させられましたが、愚息1が水産高校に進学した時、柳原さんの本を練習船・愛知丸の書棚に寄付しましたから遠洋航海の間に将来の船乗りたちが読んでいることでしょう。
感謝を込めて合掌
- 2015/08/21(金) 13:21:01|
- 追悼・告別・永訣文
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天文13(1544)年の明日8月22日(太陰暦)は東照神君・徳川家康公の曽祖父で三河松平家が興隆する基礎を築くと共に凋落の憂き目をもたらした元凶とも言える松平長忠さま(一応、敬称はつけます)の命日です。長忠さまは文明5(1473)年に安祥城城主の松平親忠さまの嫡男、若しくは2男か3男として生まれました。
徳川家の前身・松平家については三河一向一揆によって資料が散逸してしまった上、江戸時代には将軍家の研究を行うことが制限・禁止されていたため家康公の父・広忠さま以前の事跡については明確ではない点が多いのです。
長忠さまは名前1つ取ってみても長忠の他に長親、忠次などが伝承されており、これも「親忠の嫡男なら長忠だろう」「2男や3男なら当主の兄・親長と父親の1字ずつをもらって長親かも知れない」などと推察されているに過ぎません。この他にも出家して道閲と名乗ったとも言われていますがその時期が確定できないのです。さらに松平家の場合、現在の岡崎市北部・岩津を本拠地とする同族があり、こちらが親忠さまの嫡男・2男が継承した本家とする説もあり史実の確定が難しくなっています。
何にしろ長忠さまが父の隠居で安祥松平家を継いだ時期から東三河・今橋城主(現在の豊橋)の牧野氏を勢力下に入れた今川氏の脅威に直面するようになったと言われています。
1506年前後(文献によって数年の差異がある)に今川氏は後の北条早雲公を大将に据えた1万の大軍で侵攻してきました。それに対して岡崎城の守護・西郷氏は屈服し、岩津松平家は籠城して静観しましたが、長忠さまは約5百騎の手勢を率いて討って出ると巧みな軍才を発揮して現在の岡崎城北方の井田野で撃退しました。この結果、西三河で守護・西郷氏と岩津松平家を抑え盟主の座に躍り出たのです。ただし、この侵攻の目的は三河全土の奪取ではなく、戦力格差を見せつけて東三河への野心を挫くための威示行動だったため早々と撤退したと言う推理もあります。ちなみに井田野の地は松平歴代が合戦を繰り返していて戦没者の亡霊の呻き声が毎夜響いて住民を悩ませたため親忠さまが千人塚を造って供養しています。
そこから先は行状が伝承されているだけで確かな期日の記録がないため、現在の研究者は資料を発掘することと事跡を並べての推察ばかりです。例えば出家のタイミングをこの時期とすれば家督を嫡男に譲ったことになりますが、年齢的には30代前半でありその理由が謎になります。
問題なのは嫡男の信忠さんが病弱な上、暗愚だったことで、家督を譲った後も合戦や治世を任せることができず、長忠さんは出陣に必ず同行して実質的に指揮を執り、折角、集めていた家臣・領民の忠誠心は急速に離れていきました。このため信忠さんの嫡男・清康公が長じると早々に世襲させています。
しかし、流石の長忠さまも親としては目が眩み、孫の清康公を支える一方で、3男の桜井城主・信定を寵愛し、やがては家督の乗っ取りを狙う野心を抱かせてしまいました。それが実行されたのが三河全土の平定を成し遂げた清康公が美濃への出兵の途中で阿部正豊に暗殺された「森山崩れ」の直後でした。本来であれば松平家の危機として一族が団結しなければならない時に信定は、清康公の嫡男・竹千代(後の広忠さま)の暗殺を画策し、それを察した家臣が逃がすと松平家と清康公が攻略した岡崎城を乗っ取ったのです。この時も長忠さまは出家の身として黙認したとされ、信定を諌めたとする文献はありません。
長忠さまは「功罪半ばにする」ではなく「功は大なれど罪も大なり」と言わざるを得ないでしょう。3代将軍・家光公が「忠の字の名は不吉」と断じたことも納得できます。
- 2015/08/21(金) 09:49:00|
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格闘課程も終盤になり野外格闘実習が行われた。これは道場ではなく野外で格闘技術を発揮する状況を体験させるもので、昼の部は分隊斥候が敵に発見され、襲撃されたと言う想定だ。
普通科連隊の陸曹を分隊長に10名が駐屯地の外れの藪の中を歩いて行く。手には銃剣格闘用の棒を銃の代わりに握っている。すると突然、1個の石が飛んできて立ち木に当たり、同時に周囲の藪から棒を持った隊員たちが突入してきた。
「捕虜は指揮官だけで良いぞ」と叫びながら我々を滅多突き・打ちにする。勿論、こちらも応戦するが防具なしで殴られると流石に痛い。私も早々に戦死し、英霊として捧げ銃を受けてしまった(別の分隊の時は私がヘルメットを木魚にしてお経をあげた)。
夜の部はスリルがある。1名ずつ敵陣地に潜入し歩哨たちを殺してくるのだ。手には銃剣格闘用の棒だが、腰には実銃から外した銃剣が吊ってある。つまり防衛秘密に属するので公には語れない殺害方法で枕と毛布で作ったダミーを殴って、蹴って、斬って、刺して、折って、絞めてこいと言うことだ。順番はくじ引きで外れた私の時には深夜になっていた。流石に12月初旬の夜は冷え込んでいる。
「次、モリヤ3曹、行ってこい」トランシーバーを片手に発進統制をしている伊東教官の指示で出発する。私は生まれつき夜目が利くので枝を踏まないように足元を気にしながら歩いて行ったが、そこをいきなり徒手格闘の防具をつけた助教が殴りかかって来た。私は顔面を殴られたが、逆に胴を蹴り、間合いをとって棒で突いた。
「よし、行け」助教の指示で先に進むと前方に歩哨陣地が見えてきた。ここからは夜間の第1匍匐だ。おそらく教官はどこかで監視しているのだろうが気配は全くなかった。
歩哨の通路を見つけ前進すると外柵の照明でヘルメットをかぶった歩哨2人の影が見えた。つまり1人で2人を殺さなければならない。私は1人を銃剣で刺殺し、1人は首の骨を折って殺すことに決めた。そこからは夜間の第2匍匐で接近し、棒を置いて銃剣を抜き、右側の歩哨の背後ろから襲いかかり、左手で口を押さえ刃を内側にしながらある部位を深く刺した。これで即死だ。
本来であれば左側の歩哨は驚いて逃げるか、反撃に出てくるので銃剣を抜いている暇はない。そこで飛びかかり、後方から右手で首を固定し、ある方法で首の骨を折った。ダミーには棒が差してあるようで折った瞬間、「ボキッ」と嫌な音がした。
ところが仕事を終えて安心しているところを助教に襲われた。今度は遠慮なく殴ってくる。相手は日本拳法の全日本チャンピオンであり、全自衛隊少林寺拳法大会・組演武・初2段の部チャンピオンでは太刀打ちできない。そこで私はヘルメットをかぶった頭から相撲の打ちかましを喰らわした。これには流石の助教も驚いたようで、その場は「よし」と言って解放してくれたが、後で「あれは相撲か?モリヤ3曹は本当に何でもありだね」と呆れていた。
他の学生たちの殺害方法は棒=銃剣で突く、後頭部を蹴る。首に紐を掛けて絞めるなどバラバラだったが、助教に襲われた時は勝てなくても徒手格闘をやったらしい。
しかし、素手で人を殺すのは嫌なものだ。殺るなら顔が見えない夜に限る。
- 2015/08/21(金) 09:47:56|
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昭和46(1971)年の明日8月21日午後8時45分に陸上自衛隊朝霞駐屯地で警衛勤務の動哨中だった一場哲雄士長が殺害される事件が起きました。
野僧は朝霞駐屯地にある自衛隊体育学校の格闘課程に入校して最初に事件現場へ連れていかれ、教官が「彼が格闘技に習熟していれば殺されなかったかも知れない」と訓示し、格闘の必要性を再認識したものです。実は中退した大学の過激派たちはこの事件の再現=自衛官の殺害を公言しており、その後、警備小隊長になると守る側として真剣に研究することになりました。
現場は広い朝霞駐屯地でも道路を挟んで鉄筋コンクリート4階建て数棟が並ぶ官舎地区があり、輸送学校のモータープールなどに隣接した場所でした。ただし、当時の外周道路には電信柱に裸電球の外灯が点在していただけで、官舎は木造平屋、道路も十分に舗装されていませんでしたから現在のように視界が利いて常に車通りがあった訳ではありません。
この日、一場哲雄士長は動哨として駐屯地の外周を1人で歩いていたのですが(この事件以降、夜間は2名になった)、交代時間の10時30分になっても到着しないため捜索したところ現場の側溝の中に血まみれで倒れているのを発見され、病院へ搬送したものの既に死亡していました。21歳。殉職後は2階級特別昇任で2等陸曹になっています。
事件現場には「赤衛軍」と書かれた赤ヘルメットやビラが散乱しており、小銃は側溝の底から発見されたものの「警衛」と言う腕章が紛失していたことから、警察と防衛庁警務隊は左翼過激派による犯行と見て、「赤衛軍」を名乗る過激派の捜索を開始したのです。
10月5日発売の「朝日ジャーナル」に「謎の超過激派赤衛軍幹部と単独会見」と言う記事が掲載され、その内容には未発表だった「警衛」の腕章を奪取したことが述べられており、この取材相手が真犯人であることが明白になりました。警察は取材相手を徹底的に捜査した結果、日本大学と(曹洞宗系の)駒沢大学の学生3名が浮上し、11月中に相次いで逮捕されたのです。
逮捕後の供述によれば犯人たちは用意した幹部自衛官の制服を着て待ち伏せし、「幹部巡察だ」と思った一場士長が立ち止まって敬礼するといきなり腹部を刺し、その痛みを「殴られた」と勘違いして「何をするんだ!この野郎」と抗弁するのをさらに胸を刺して殺したのです。
当初、犯人たちは小銃を奪おうと思ったのですが、一場士長が抱えたまま暗い側溝に転落して判らなくなったので遺骸から腕章を奪い、自分たちの犯行=革命闘争であることを宣言するため遺留品を残して逃走しました。
事件には共犯者もいました。「朝日ジャーナル」の記者・川本三郎は犯行前から犯人たちと交流を持っており、(自衛官殺害の)事件を起こした後には独占取材する約束で資金を提供して便宜を図り、取材時には犯人が奪ってきた「警衛」の腕章を預かって、捜査の手が伸びると証拠隠滅のため朝日新聞の宿舎の焼却炉で焼却しました。さらに「週刊プレイボーイ」の記者も取材時に「逮捕は近い」と警察の情報を提供し、逃走資金として1万円を渡しています。
川本は有罪判決によって懲戒免職になった後、文筆家になり60年安保からこの事件までを描いた(自分は時代の波に巻き込まれた被害者にしている)私小説「マイ・バック・ページ」を発表し、2011年には人気俳優・妻夫木聡と松山ケンイチ(=自衛官の甥)の共演で映画化されています。
この3人の学生=実行犯の背後には黒幕がいました。それは京都大学経済学部助手で京大パルチザンを結成していた竹本信弘です。事件後は活動家たちの手引きで10年も逃走・潜伏を続けて、逮捕されたのは野僧が曹候学生基礎課程を卒業した翌日昭和57年8月8日でした。現在は「有限会社メディアドットコム」の代表になっています。
左傾マスコミ各紙は犯人たちを政治囚扱いして量刑を軽くするよう世論を喚起し、殺人事件としては異例に短い刑期で出所していますから、背後に奴らの全面的バックアップがあったことは想像に難くありません。一場哲雄士長だけが勝手な革命遊びの犠牲になった事件です。
- 2015/08/20(木) 08:41:27|
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同期たちが食中毒から復帰し始めたものの自主トレ状態だった頃、格闘道場に森山先輩が顔を出して教官に断り、私をオリンピック要員の道場見学に連れ出してくれた。
先ずはレスリング道場だがボクシング道場と壁を隔てた大部屋で戦前は帝国陸軍の乗馬練習場だったそうだ。道場には宮原1尉がいて森山先輩と立ち話を始めたが、「先日は有り難うございました」と言う私の丁重な挨拶には「どうも」と軽く会釈を返してくれた。
天井板がない高い梁からは何本もロープが垂らしてあり、それを練習生たちが手だけで上り下りしている。床ではブリッジをして頭を支点に体を捻りながら首を鍛えていた。
道場の隅には鉄棒があり、練習生が懸垂を繰り返しているがコーチが「あと30秒」と声をかけたところを見ると回数ではなく時間で懸垂をやっているようだ。
中央には丸いレスリングの試合場があり、若手の選手たちがベテランの胸を借りている。
「パーンッ」突然、大きな音が響いたが若手が投げ飛ばされ、背中から落ちたのだ。
「あれは俺と同じグレコだから投げ技が主体なんだ。フリーだとタックルもあるからもう少し寝技ぽくなるがな」森山先輩の説明にあらためて見ると選手たちは柔道着を着ていないにも関わらず首や腕を使って鋭い投げを繰り出している。
森山先輩は全自衛隊柔道大会での活躍をスカウト班に認められ、練習生として体育学校に入り、メキメキ頭角を現したのだが、先輩自身は「選手層が薄い重量級だったから何とかなった」と謙遜していた。
次のボクシング道場も旧馬小屋なので「明日のジョー」の丹下ジムのようだった。道場の隅にはサンドバッグが何本も吊ってあり、どれも若手たちが激しく打っている。中央にはリングがあり、若手がベテランにスパーリングを受けてもらっていた。
こちらの道場にはBGMとしてディスコ音楽が流れていて、それが練習にリズムを与えている。スパーリングのフットワークもBGMに合わせたダンスのステップのようだ。
そこでゴングが響き、スパーリングが終わるとコーチが森山先輩に近寄って来た。
「こちらさんは?」「格闘課程に入校中の後輩です」森山先輩の説明にコーチは悪戯ぽい笑顔を見せながら私に訊いてきた。
「格闘課程なら興味があるでしょう。スパーリングをやってみませんか?」「へッ?」私の胸に築城基地で芦原会館の練習に参加した時の子供染みた好奇心が湧いてくる。
「本当に良いんですか?」この返事が意外だったようで、横から森山先輩が止めた。
「度胸が良いのは判ったが止めておけ。怪我すれば課程免(=コースアウト)になってしまうぞ」確かに怪我をして課程免になった同期を見送ったばかりだった。陸上自衛隊では入校に部隊の名誉が掛かっているそうで、課程免になると途中で行方不明になる者もいるそうだ。このため伊東教官は「訓練中のやむを得ない負傷だ」と詳細な状況を記した報告書を持たせていた。しかし、格闘家の端くれとして本当にオリンピック選手の卵の実力を身体で確かめてみたかったのだ(本当は軽―くやらせてもらいました)。
- 2015/08/20(木) 08:40:32|
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昭和20(1945)年の明日8月20日に何が何だか判らない巨大な悪人・甘粕正彦大尉(予備役)が青酸カリをあおって死にました・
甘粕大尉がどのような悪事(?)を行ったのかは大正12(1923)年9月1日に起きた関東大震災の直後、東京憲兵隊麹町分隊長として日本の代表的アナーキスト(=無政府主義者)・大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、そして7歳の甥の3人を虐殺した事件以外は明確な記録は残っていませんが、これだけでも戦後は昭和8(1933)年に特別高等警察が行ったプロネタリア文学者・小林多喜二の虐殺まで憲兵隊の仕業にされる結果になっています。しかし、実際にはクーデターの共謀者、スパイの容疑者などを除けば陸軍の憲兵隊が民間人を逮捕し、拷問を加えた記録はなく、この事件はむしろ甘粕大尉が陸軍内の政治運動の一員として個人的に手を下した犯罪である可能性が高いのではないでしょうか。
事件後、甘粕大尉は軍法会議にかけられ懲役10年の判決を受けて服役しました。ところが3年後の大正15(年10月には出所し、免職ではなく予備役に編入されると翌年の昭和2年(昭和元年は1週間しかなかった)から陸軍の予算でフランスに留学したのです。陸軍が一介の大尉にこの厚遇を与えることも甘粕大尉の背後に巨大な悪が存在することを想像させるのです。
昭和5年に帰国すると満洲に渡り、南満州鉄道の重役に就任すると共に奉天の関東軍特務機関長・土肥原賢二大佐の指揮を受け、現地での情報収集や内部工作を行いようになりました。この時の組織が民間の特務機関とも言うべき甘粕機関です。甘粕機関はアヘンの密売でも資金を稼いでいました。昭和6(1931)年に南満州鉄道の線路が柳条湖付近で爆破された事件に際しては中国側の犯行であるかのように偽装するため奉天市内で爆破事件を起こし、関東軍がハルピンに侵攻する口実を作りました。さらに清朝最後の皇帝・溥儀を幽閉先の天津から略奪し、満州へ移送したのです。昭和7(1932)年に満州国が成立すると日本の警察庁長官に相当する要職に抜擢され、さらに満洲国では唯一の合法的政治団体の理事にも就任し確固たる地位を築いていきました。
そして昭和14(1939)年、満州映画協会の理事長に就任しますが、それを日本国内で支援したのが安倍晋三首相の祖父、後の岸信介首相だと言われています。満州映画協会時代の甘粕大尉は一転、極めて評判がよく、昭和13(1938)年に満州国訪欧使節団の副代表としてドイツを訪問した際には最新鋭の器材と撮影技術を持ち帰り、日本人と満州人を同じ待遇にし、俳優だけでなく現場の社員の給与を大幅に引き上げ、当時は常識だった女優の枕営業(夜伽の相手)を禁じそうです。このため満州映画協会に参加していた俳優、女優たちも称賛する人が多く、その人材や技術は戦後、日本国内に移り東映の基盤になっています。
この甘粕正彦大尉の暗躍を支えた人脈がどこから作られたのかを調べてもやはり謎です。明治24(1891)年に仙台市北3番丁で、旧米沢藩士で警察署長の父と仙台藩士の娘である母の長男として生まれ、父の転勤で三重県へ転居し、そこで名古屋陸軍幼年学校に入校して中央幼年学校、陸軍士官学校へ進んでいっただけです。野僧自身は大学を中退して一般空曹候補学生として航空自衛隊に入隊し、そこから部内幹部候補生で幹部に任官しただけの叩き上げですが、人脈は上から下まで、右から左まで、国の内から外まで、存命から死没にまで広がっています。おそらく甘粕大尉もそんなものなのでしょう。野僧は人脈を自分のために利用することは絶対にしませんでしたが。
- 2015/08/19(水) 09:04:28|
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徒手格闘の試合教習中に事故が起きた。それは接近戦になり激しく殴り合った腕が相手の首にからんでそのままヘッドロックになり、防具の上からヘッドロックされた側は逃れようと胴を連打したが、ヘッドロックした側は足を掛けて倒そうとした。それは余りにも無理な技だった。
倒された側はピクリとも動かない。足を掛けた側は呆然として立ちすくんでいた。教官と助教が駆け寄って首を動かさないように気をつけながら面を固定している紐をハサミで切る。別の助教は衛生隊に救急車を要請していた。この冷静沈着、手際のよさは体力測定の千五百メートル走で倒れた同期を放置して殉職させた航空教育隊とは雲泥の差だ。
面を外すと教官は呼吸を確認し、手で首に触れながら骨折していないかを確認した。そこへ救急車が到着し、外で待っていた助教の案内で担架が入ってきた。
結局、強度の頚部ねん挫ですんだが一歩間違えば首の骨を折って命はなかっただろう。
銃剣格闘でも事故が起きた。実銃を使った練習中、正面打撃が顔面を直撃してしまったのだ。倒れた隊員の鼻と口からは大量の血が噴き出し、鼻自体の形が大きく歪んでいる。教官は「止血できない」と判断し救急車を要請したがやはり鼻の骨を折っていた。これも折れた鼻骨が脳に刺されば命がなかった。
ここまで負傷者が続出すると我々も「次は死人が出るぞ」・・・「殺したらすまん」「死んだら後を頼む」と互いに覚悟を決めていた。
おまけのような事故も起きた。ある日の夕食、私は副食の中の生ハムの色がおかしいのに気づき周りの仲間たちに声をかけた。
「これ、おかしくない?」「そうかなァ」「平気、平気」「酢がきいたドレッシングだな。酸味で美味いぞ」短時間で食事を終えて自主トレに行かなければならない我々は細かいことを気にしている余裕はないのだ。それでも私は副食には手をつけずにおいた。
その夜の自主トレ中、腹痛・吐き気を訴える者が続出した。代わる代わるトイレに駆け込み嘔吐、下痢を繰り返している。中には悪寒=発熱を訴える者もあった
教官も自主トレの中止を命じたが、我々の部屋は2階のため1階のトイレの前には座り込んで順番を待つ学生たちが並んでいた。
翌日、衛生隊の隊員が便や嘔吐物から検体を採取し、医官が往診にきたが、やはり食中毒だった。しかし、朝霞駐屯地としては糧食班が機能停止になると数千人の隊員の食事を外注しなければならなくなり、その予算の確保ができない。したがって対策は1つ、緘口令だった。駐屯地内の居住者は外出止めになり、書簡は事前審査を受けるよう指導が出て、ポストには連隊本部の隊員が立ち、所属・氏名を控えている。公衆電話も使用禁止だ。このやり方を見ていて「帝国陸軍は生きている」と実感させられた。
ところが私は全く異常がなく「陸上自衛官よりも丈夫な腹を持つ航空自衛官」と言う称号を得ると共に各教官から集中個人レッスンを朝から晩まで受けることになり、「このままいけば上級指導官かァ」と妙な期待をしてしまった。
- 2015/08/19(水) 09:03:30|
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天保3(1832)年の明日8月19日(太陰暦)に義賊と呼ばれた実在の泥棒・鼠小僧次郎吉が刑死しました。次郎吉は無学文盲ですが抜群の記憶力の持ち主で2度目の捕縛後の取り調べでは時系列ごとに詳細な供述をし、奉行所の役人が驚嘆したと言われています。このため盗人でありながら一代記のような記録が残っているのです。
次郎吉は江戸・吉原門前に住む町人の息子として生まれ、商家へ奉公に出て戻った後、鳶職の親方に弟子入りしました。次郎吉は小柄で身軽なため高いところに登るのは得意でしたから真面目に働くかと思いきや博打・女色を覚え、稼ぎを湯水のように浪費し始めたのです。このため親も堪忍袋の緒が切れて25歳で勘当されました。こうなると特技(=次郎吉の場合は身軽さ)を悪用するのはよくあることで、たちまち盗人稼業に入ったのです。
次郎吉が狙いをつけたのは大名・武家屋敷でした。豪商は財産を守るため金目の物は堅牢な土蔵に収めている上、浪人やヤクザを用心棒に雇っており、見つかれば惨殺されて闇に葬られる危険性がありました。一方、大名屋敷は外への警戒は厳重でも(と言っても門番と巡回だけ)内側は広い敷地に家族が別れて住んでおり、家臣の控えの間も身分ごとに分散しているのです。さらに体面を気にするため泥棒の被害を家の恥として届け出ないことも見抜いていたのかも知れません。当時の制度では大名屋敷は大目付、庶民の犯罪は町奉行の管轄なので合同捜査本部が設置されない限り上手くいかないのも明らかでした。
こうして28軒、32回の窃盗を繰り返した後、土浦藩(藩主は土屋彦直)屋敷で捕縛されます。当時の刑罰の規定では「10両盗めば首が飛ぶ」と言われていた通り被害金額が重要でしたが、前述のように大名家は面子を重んじて被害届を出しておらず、次郎吉は「初めて泥棒に入った」と嘘の供述をして、刺青の上、中追放に処せられました。中追放と言うのは田畑、家屋敷を没収され、犯罪被害地と居住地、武蔵と摂津、和泉(=大坂)、大和、肥前、下野、甲斐、駿河の各国、東海道沿道、木曽路沿道、さらに江戸10里四方への立ち入りを禁ずるものです。
それで次郎吉は一旦、姿を消したものの勘当されたはずの父親の長屋に舞い戻り、また博打や女色に走って盗人稼業を再開しました。
それから7年間に71軒、90回の窃盗を繰り広げ、小幡藩(藩主は松平忠恵)屋敷で捕縛されたのです。ここで自分の生い立ちから過去の犯行歴を詳細に供述しますが、大名家などからの届け出がないため立件は不可能でした。それでも北町奉行・榊原忠之は市中引き回しの上、死罪、獄門の判決を出します。本来、窃盗は前述のように斬首ですが、次郎吉が大名・武家屋敷を専門に荒し回っていたことで、「武家の体面を傷つけた」として重罪人扱いされたのです。
ところが市中引き回しは噂を聞いた庶民が伝馬牢から小塚原の刑場までの沿道に殺到してパレード状態で、奉行所としても庶民の反発を懼れ、派手な装束を着せ、化粧まで施していたと言われています。このため次郎吉が「天の下 ふるきためしは 白波の みこそ鼠と あらわれにける」と辞世を吟じたと言う伝説が生まれましたが、無学な盗人には無理な話でしょう。
次郎吉が義賊と呼ばれるようになったのは、かなりの金額を盗んでいたにも関わらず本人は貧乏長屋でつつましい生活をしており、捕縛後の家宅捜索でも小判どころか、めぼしい家財道具もなかったそうです。このため金の使い道が話題になり、庶民の希望を込めた噂が噂を読んで「盗んだ金を貧しい家々に投げ込んだ」と言う義賊伝説が出来上がったのです。
映画、テレビ、漫画などにも登場し、「ルパン3世」にも4代目が出てきました。

みなもと太郎作「風雲児たち」より
- 2015/08/18(火) 09:34:53|
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禁欲生活が長くなると練習中に鼻血を出す者が増えてきた。防具の上から大して強打していないのに鼻血を吹き出し、試合教習が中断するのだ。
確かに徒手格闘の防具は日本拳法のもので、面は紐で後頭部を締めつけているため、頭からの血の巡りが少し阻害されているのかも知れない。しかし、本人は気づかず鼻血を飛び散らして試合を続けられると道場の畳の上にも点々と血痕が残り、練習後の掃除では箒で掃くだけでなく雑巾がけまで必要になってくる。
一方、私は少林寺拳法の弱点を見破られ、顔面を狙い打ちされるようになっていた。少林寺拳法では最初に顔面、次は腹部、最後に蹴りを出す「上・中・蹴り」が攻撃の定型で、入門以来、準備運動に続く基本練習はこれの繰り返しだった。それを身体に刻み込んできた私は無意識にワンパターンが出てしまうのだ。
然も腹部への中段突きは姿勢を低くし、真っ直ぐ拳を突き出すため、相手は顔面への攻撃を防いでそのまま拳を突き出せばこちらの顔面にカウンターが入ると言う寸法だ。
少林寺拳法では顔面への上段突きがきまれば中段はトドメ、きまらなくても相手は仰け反っているから腹部に隙ができると言うのだが、私が航空自衛隊に入った頃にボクシングで活躍していた日本拳法出身の世界チャンピオンも同様の中段突きでカウンターパンチを喰らってダウンを喫しているのでやはり技として間違いだと痛感した。
日本拳法を元にしている徒手格闘でも同様の形だが試合教習になれば無視しており、高い姿勢からの中段突きではどれほど強打しても「一本」は取れない。
そんな同期の中にはトンデモナイ実戦訓練を提案する奴がいた。朝霞駐屯地の警衛勤務は所在部隊が交代で当たるため婦人自衛官教育隊にも順番は回ってくる。婦人自衛官教育隊の隊員の多くは当然、WAC(陸の女性自衛官)であり、昼間は1名、夜間は2名の陸士が動哨として駐屯地の外柵を歩いて回っているから、これを襲おうと言うのだ。
「陸士なら10代のピチピチだぞ。ゴクリ(生唾を飲む音)」「アイツらは鍛えているからスタイル抜群だな。ジュル(涎をすする音)」「消灯後に抜け出せば目撃者はいない。フン(荒い鼻息)」「銃を持っていても奪うのは簡単」「我ら格闘指導官」「オーッ(雄叫び)」そんな馬鹿話で盛り上がっている奴らの目はギラギラ欲情に燃え上っていて今にも鼻血を吹きそうだ。
しかし、朝霞駐屯地では昭和46年8月21日に動哨中の陸士が過激派に刺殺された事件が起こっており、入校時に事件現場へ行き「彼が格闘に熟練していれば殺されないですんだかも知れない」と格闘訓練の意義を学んだはずだ。それを思えば冗談でも許されないない不謹慎な話だろう。
そんな私は長くなる沖縄への電話は駐屯地の外れの公衆電話で掛けていて、人気がない外周道路をWAC2人が動哨してくるのを見たことがあった。その時は「御苦労さん、気をつけてな」と声をかけ、「はーい、有り難うございまーす」と可愛い返事をもらったが。
- 2015/08/18(火) 09:33:09|
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日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏していた昭和20(1945)年の明日8月18日に千島列島の最東端にある占守島(しゅむしゅとう)をソ連軍が攻撃し、日本軍守備隊の指揮官・池田末男大佐が戦死しました。停戦成立後に軍事行動を継続することは国際法慣習に反し、しかも前日には対岸のカムチャッカ半島から砲撃を加えていますから、守備隊が応戦したのは当然のことです。
指揮官の池田大佐は愛知県豊橋市向山の出身です。この地域は現在でこそ大きな住宅地になっていますが、当時は広々とした丘陵地帯でその中央に陸軍が駐屯していました(現在の愛知大学構内)。つまり池田大佐の父も軍人=憲兵少佐で、兄は陸軍中将になっています。
戦後育ちの日本人は憲兵と言うとナチス・ドイツのゲシュタポのように国民を常に監視し、政府に反対する者を強引に逮捕して拷問を加える極悪非道の鬼だと思ってしまいますが、それは治安維持法の成立を受けて設立された特別高等警察がやったことで、戦後の「陸軍=諸悪の根源」とする洗脳教育に便乗して警察が責任を押しつけたのです。実際の憲兵は「軍の模範たるべし」と言う厳正な生活態度を守り、家族にもそれを求めるような堅物が多かったようです。
捕虜を逮捕するのは憲兵ですが法律に基づいて処理することを基本としており、戦後、C級戦犯として処罰された虐殺事件の多くは捜索に当たった一般の部隊の暴走でした。
池田大佐は旧制・豊橋中学校(現在の時習館高校)を卒業してから陸軍中央幼年学校に入学し、国内には軍縮気分が広がっていた大正11年に陸軍士官学校を卒業して騎兵少尉に任官しました。しかし、「坂の上の雲」の秋山好古大将が育成した騎兵も時代の趨勢には勝てず、天皇の傍に侍る近衛騎兵を除いて騎兵士官の多くは新兵器である飛行機と戦車に転身しています。
池田大佐は戦車士官になると秋山・騎兵精神を再現し、教官・指揮官として勇名を馳せていきますが日本の戦車は性能が極めて劣り、戦術も稚拙の域を出ていませんからドイツ陸軍の機甲戦術の大家・ハインツ・グデーリアン大将やエドヴィン・ロンメル元帥、そのドイツ軍機甲部隊を撃破したソ連軍のミハイル・カトゥコフ大将、アメリカ軍のジョージ・スミス・パットン大将、イギリス軍のバーナード・モントゴメリー元帥と同格に評価することはできないでしょう。
それでも人格・見識は卓越していたようで、戦車学校の教え子だった作家の司馬遼太郎先生は基本的に昭和の日本軍には批判的ですが、池田教官だけは生涯尊敬していたそうです。占守島に着任してからも部下に洗濯をさせず、凍った水で洗濯しているのを申し訳なさそうに見ている当番兵に「お前は俺に仕えているのか?国にだろう」と言ったと伝えられています(これは「上役ではなく主君に仕える」と言う三河武士の気風に通じます)。
この日の深夜2時30分頃、ソ連軍の先遣隊・1個大隊が島で唯一上陸可能な竹田浜に侵攻したのですが、日本の陸軍守備隊は第5方面軍から「16日の時点で停戦し、軍使を派遣せよ」「敵が攻撃してきた場合の自衛戦闘は妨げない」と言う命令を受けており、前日から対岸でソ連艦艇の動きが活発になっていることを察知・警戒していたため直ちに攻撃を加え、沖のソ連軍の艦艇も応戦し戦闘が始まったのです。1時間後には主力の1個狙撃連隊も上陸を開始し、日本軍は激しい砲撃で多くの船艇に損害を与えました。
池田大佐は部下たちに「赤穂浪士となって恥を忍び後世に仇を報ずるか、それとも白虎隊となり民族の防波堤として玉砕するか」を問い、全員が後者を選んだのを確認した上で出撃し、激戦の中、乗っていた戦車が炎上して戦死しました。敗戦後の戦死でも少将に特別昇任しています。
果たして時習館高校はこの人物を知っているのでしょうか?サイパンの英雄・大場栄大尉の出身校=蒲郡高校は知りませんでしたが。
- 2015/08/17(月) 08:19:38|
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私が部内幹部候補生の1次試験に合格した話が広まると体育学校の航空自衛隊の幹部たちが激励会を開いてくれた。私としては自主トレを休むのは迷惑だったが全日本連覇中、オリンピック連続出場の森山泰年大先輩が幹事となれば身に余る名誉だろう。
「モリヤ3曹、合格おめでとう」「流石は曹学だ」「2次試験なんて楽勝だろう」「目指せ3等空尉」学校本部の1等空佐の挨拶、記録分析班長の3佐の音頭の乾杯の後は口々に声を掛けてくれる。その中には何故かレスリングの宮原1尉の姿もあった。
私が立ち上がってビールを注ぎに回ろうとすると森山先輩は「今日は主賓なんだから気を使うな」と手で制した。その横で人事課の1尉が「早い話、酒の摘まみだろう」と言ってニヤリと笑った。
そこからはビールを注がれて質問に答えていたが、私が第83航空隊で航空機整備員をしていたことに1尉以外は驚いた(1尉は人事課だけに知っていた)。要するに根っからの教育職だと思っていたのだろう。
この4名の幹部の中で航空部隊を知っているのは人事幹部の1尉だけで、1佐は防衛大学校を卒業して要撃管制幹部になった後、1尉で教育幹部に転換し、熊谷の第2航空教育隊で中隊長をしてからは訓練幕僚として歩んできたと説明してくれた。
「ところで君が陸の部外を受けたって噂を聞いたぞ」1佐の質問で宮原1尉が姿勢を正したところを見ると、この話題のために来てくれたようだ。
「はい、先日、合格通知が届きました」「なんで陸なんだ?」「・・・」このメンバーを前にして「航空の幹部に失望した」と言えるはずがない。私は笑って誤魔化した。
「航空の幹部は嫌いか?確かに頼りない奴も多いからな」1佐が出してくれた助け船に私は軽くうなずいた。ここで森山先輩が注いでくれたビールを飲むと航空の幹部4名から集中する視線での詰問に応え、私は口を開いた。
「パイロットに比べると一般の幹部の方は武人としての覚悟が欠けているようです」「うーん・・・」思いがけず重い話に1佐から2尉までの幹部たちは貌を見合わせる。この理由に解答を与えられるのは最高位の1佐しかいないだろう。他の幹部たちに促されて1佐も3佐に注がれたビールを飲むと両手をテーブルの上で結び、話し始めた。
「お前も若い癖に古いタイプの自衛官だな。確かに今の幹部連中は俺が見ても歯痒いような甘ちゃんばかりだ。だからこそお前が本当の幹部になればいいんだ」1佐は灰色の旧夏服を愛用しており今日もそうだった。つまり自分が古い航空自衛官であることを服装で表現しているのだろう。その一方で妥協を許さぬ過激な言動を教育隊の上司や航空幕僚監部に疎まれて、本来であれば教育幹部として1佐職の部隊長になるべき時期にも関わらず体育学校で花形とは言えない席に座っていることも噂として聞いている。やはり出る杭は打たれるのは間違いないようだ。
この後、トイレで一緒になった宮原1尉は「他の自衛隊も大差ないですよ。自分は部隊を知らないけど」と助言してくれた。
- 2015/08/17(月) 08:18:40|
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昭和20(1945)年の本日8月16日に太平洋戦争に於ける日本軍の組織的集団自決・上級指揮官による大量殺人=神風(しんぷう)特別攻撃隊を解禁した大西瀧次郎中将が自刃しました。
野僧は死に損なった元武人ですから使命に殉じた多くの特別攻撃隊員の英霊を冒涜する気持ちは毛頭ありませんが、「成功すれば死」「失敗しても死」と言う死そのものを目的とした任務は指揮官が決して犯してはならない禁忌であり、それを組織的に繰り広げる切っ掛けを作った大西中将の罪は決して許されるものではないでしょう。
最近では「人間魚雷・回天の開発を一部の若手士官が思い立ったのは、大西中将が捷1号作戦の栗田艦隊のレイテ湾突入を支援するため神風特別攻撃隊を出撃させた昭和19年10月よりも前、ガダルカナルが陥落した昭和18年末であり、試作機2本は翌年7月には完成していたのだから、大西中将の判断は当時の日本軍の追い詰められた状況では仕方ないことだった」と弁護する意見が出ています。しかし、それは好きで戦史を研究しているに過ぎない趣味人の「新事実を発見した!」と言う自己満足の類でしょう。
一方、以前から大西中将を熱烈に尊敬する人物は存在しており、野僧は横浜鶴見の総持寺で境内にある大西中将の墓=海鷲観音の位置を訪ねられました。彼らは「大西中将は飛行機乗りの先駆けとして搭乗員たちの尊敬を集めていた。そんな大西中将の命令だから搭乗員たちも喜んで従ったのだ」「おそらく大西中将自身が戦闘機に乗り、先頭を切って敵艦に突入したかったのだろう」「大西中将は敗戦の翌日、特別攻撃隊員たちと遺族に謝罪するため自刃した。特別攻撃隊員には必ず俺も続くと言いながら生き延びた奴が多い中、指揮官として見事な責任の取り方だ」などと絶賛します。しかし、それは無能な作戦指揮で幾多の将兵を無駄死にさせた山口県出身の某愚将を「優れた漢詩をものした」「2人の我が子を死なせた」「飼い主に殉じて腹を切った」ことで軍神・名将に祭り上げたのと同じく余技で罪過を相殺する詭弁です。
提督・将軍には現場レベルを超えた大所高所に立ち戦況全般と今後の展開を見極める眼力・識見と自己の判断が与える影響を洞察する想像力が必要です。大西中将自身は「劣勢挽回の最後の機会であるレイテ湾突入を支援するため必要な攻撃機が確保できない以上、戦闘機に250キロ爆弾を搭載しての体当たり攻撃を加えるしかない」と判断したにしても、若手士官たちが自ら乗る人間魚雷・回天の開発に着手するような狂気が海軍内に蔓延しつつあることを考えれば「今、自分がこれを実行すれば止めようがなくなる」ことを察し、思い留まることこそが責任であり、それが判らないようでは提督の階級章を付けるべきではありません。
何よりも問題なのは大西中将が鈴木貫太郎内閣の進める降服に向けた外交工作と内部調整に断固反対し、「本土決戦」を叫ぶ陸軍の若手将校たちに同調して玉音放送の阻止に向けて暴動を計画したことです。本人は「自分が始めた特別攻撃に殉じた英霊たちを無駄死にはできない」と思い詰めていた=狂っていたのでしょうけれど、本来であれば米軍の迎撃態勢が確立し、神風特攻隊の大半が途中で撃墜され、初期の戦果が挙げられなくなった時点で作戦の中止を決めるのが提督としての責任です。やはり提督としての器ではなかったのでしょう。
現在の若いハンセン(=反戦)病患者たちは「特攻は自爆テロと同じ」と揶揄し、それを前述のような趣味人たちが「英霊に対する冒涜だ。特攻は軍事目標しか攻撃していない。無差別テロとは違う」と反論していますが事実は違っても動機は同じです。
野僧としては非キリスト教徒=宗教的第3者の日本人がイスラムの大義に殉じた戦士たちの英霊を冒涜することも許せません。むしろ真情だけは理解するべきです。

かわぐちかいじ作「ジパング」より
- 2015/08/16(日) 08:48:25|
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部外の合格発表があっても防府からは何も言ってこなかった。確かに受験案内には「合格者にのみ通知します」と書いてあったので結果は「モミジチル」だったのだろう。
私も落胆したが期待してくれている伊東教官にも報告しなければならず、練習の合間の休憩時間に「どうも駄目だったようです」と言った。
すると伊東教官は「そんなはずはない。俺や他の教官たちも自分の人脈で『陸上自衛隊には必要な人材です』と言ってある。誰が合格通知を受け取るんだ?」と質問してきた。言われてみれば官舎は留守だ。原隊も部外については「私的受験」としてノータッチだった。「郵便受けの中に大切な合格通知が放置されているのではないか?」そんな心配が胸に湧き起こり、どうしたものか悩んでしまった(結局、三浦曹長に頼んで送ってもらったが、後で簡易書留の代金と送料を請求された)。
「陸上自衛隊、幹部候補生予定者、3等空曹、モリヤニンジン。前へ」終礼の時、いきなり伊東教官が私を呼んだ。陸上自衛隊では身長順ではなく昇任序列順に並ぶこともあり、私は列の中央付近だった。そこから列の右に出ると伊東教官は手招きして隣に立たせた。
「モリヤ3曹はこの度、陸上自衛隊幹部候補生に合格し、春から陸上自衛官として前川原の幹部候補生学校に入校することになった。だよな?」断定的に説明しておいて教官は私の顔を見たが、咄嗟に「はい」と返事ができなかった。しかし、私以上に前に並んでいる陸上自衛官の同期たちは唖然として口を空けている。特に日頃私を「空中分解自衛隊」と批判している宇都宮駐屯地の航空機整備員の3曹は顔が青ざめているようだ。
「みんなから見ればモリヤ3曹は理屈っぽい頭でっかちな奴かも知れないが、幹部になる頭で3曹をやっているからそう見えるんだ。切れ者の幹部は部隊に必要だぞ」伊東教官の説明に同期たちはうなずいてくれた。
「拍・・・手」教官が声をかける前に列中から拍手が起こり、私は敬礼ではなく帽子を取って頭を下げた。伊東教官は陸上幕僚監部第1部の教え子に合否を確認してくれたのだ。
ところが話は一件落着とはならなかった。部内の1次試験にも合格してしまったのだ。
また大隊本部人事の2曹から電話が入り、いきなり「おめでとう」と言われても返事に困ってしまった。格闘課程の中では将来、上司になるかも知れない相手として妙な遠慮がある処遇を受けている。相変わらず教育内容の記録作成に励む私に「モリヤ3尉殿、お勉強ははかどっていますか?」などと皮肉に声を掛けてくる者はいるが航空自衛隊の幹部となれば話は別だろう。
格闘課程も大詰めに向かう中、次々と余計な悩みが降りかかってくる。困ったものだ。
- 2015/08/16(日) 08:46:12|
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1959年の明日8月16日は日本人を徹底的に蔑視・憎悪し、それを太平洋中にぶちまけて暴れ回ったウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督の命日です。
「Kill Jap, Kill Jap, Kill more Jap, You will help to kill the yellow bastards if you do your job, well(ジャップを殺せ、ジャップを殺せ、ジャップをもっと殺せ、お前が職務を上手く遂行すれば黄色い雑種を殺す力になることができる)」この日本人を侮蔑する言葉を並べた標語はハルゼー提督が指揮するツラギ基地の入り口に掲げられていた看板ですが、これが公式な場での訓示の内容から抜粋したと言うのですから呆れるしかありません。ソロモン諸島にあったこの基地には魚雷艇PT109の艇長をしていた若き日のジョン・フィッシュランド・ケネディ大統領も勤務していて、この看板を記憶していたそうです。
こんな奴でも国際常識として儀礼は払うべきなので提督を付けますが、ハルゼー提督の日本人嫌いは太平洋戦争以前の少尉に任官し、遠洋航海で日本に立ち寄った時に始まっていました。当時の日本は日露戦争に勝利した直後で、チェスター・ニミッツ提督やレイモンド・スプールアンス提督は三笠に乗艦し、東郷平八郎元帥に会った感激を生涯忘れず、太平洋戦争中も日本海軍を「好敵手=ライバル」としていましたが、ハルゼー提督は日本海海戦を「卑怯な騙し討ち」と断定し、艦上のパーティーで談笑している日本海軍の軍人たちを「顔はニヤニヤ笑っているが腹の中で悪事を企んでいる奴ら」と憎悪を積のらせていたのです。
それにしても作戦参謀・秋山真之中佐が立案した日本海軍・連合艦隊の戦術は過去に例がない画期的なものではあっても、決して卑怯ではなく騙し討ちでもありません。要するに「黄色い雑種の日本人」が「白いロシア人」を敗ったことが許せなかったのでしょう。
この偏見と憎悪は終戦にまで続いており、戦艦・ミズーリで行われた降伏文書の調印式で日本側の全権代表・重光葵外務大臣が半身不随のため机に歩み寄り、署名するのに手間取っているのを「降服を遅らすための時間稼ぎ」と決めつけ、すぐ横に並んでいる列の中から「早くサインしろ、この野郎、サインしろ」と罵ったのです。
部下の士気を鼓舞するため敵を口汚く罵倒することは有りがちなことで、日本でも「撃ちてしやまん鬼畜米英」を叫んでいたのですが、友好を図るためのパーティーの席で世界の称賛と尊敬を集めている提督と軍人たちを蔑視する感覚はまともではありません。ましてや降服文書の調印式と言う公式な場で、身体に障害を持つ全権代表を公然と罵倒するのは人格破綻者と断ずるべきでしょう。
尤もアメリカ人には良識ある善き国民と肉食動物そのままの猛き国民があり、後者の残虐性があったから移民してきた時に手を差し伸べ救ってくれたネイティブ・アメリカンたちを荒野に追いやり、抵抗すれば根絶やしにしようと大量虐殺する暴挙を繰り広げてきたのです。アメリカで偉大な4人の大統領の1人とされているエイブラハム・リンカーンはその推進者です。
その罰は当たり、沖縄で神風特別攻撃隊の直撃を受けたスプールアンス提督に代わり沖縄戦の指揮を執りますが、そこへ大型台風が着撃し、艦艇36隻が損傷を受け、航空機142機を失う被害を受けました。つまりハルゼー提督には神風特攻隊ではなく「神風」が当たったのです。
ハルゼー提督は捷1号作戦の時、小沢治三郎中将が率いる囮部隊にまんまと引き出され、フィリピンから遠く離れて栗田健男中将の決戦艦隊のレイテ湾突入を助けましたが、あそこで栗田艦隊がマックアーサーの上陸部隊と補給船団を壊滅していれば、その主犯として解任は間違いなかったはずです。惜しいことをしました。
- 2015/08/15(土) 09:01:54|
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幹部候補生の発表前に防府の大隊本部の人事担当の2曹から電話が入り、我々は21分間トレーニングの最中だったため遠く離れた教官室から助教が走って知らせに来てくれた。道場から電話をすると待ちくたびれていたのか2曹は唐突に用件を切り出した。
「部内の願書を出しておいたから入間で受けるように」「へッ?」つまり部内選抜の幹部候補生を受験しろと言うのだ。
「私は部外を受けていますが」「どうせ陸や海では部外者と同じだから駄目だろう。部外の1次に合格するくらいなら部内も大丈夫、頑張れ」原隊・第1教育群では私が受験資格を得た昨年を辞退してまで今年の陸上自衛隊を志望した理由を全く関知していないようだ。体育学校に入校し、実力に裏打ちされた威厳を備えた教官たちに接し、私は古参空曹の好き勝手にされている航空教育隊の幹部たちにはない魅力と敬意を感じ始めている。それは那覇で現場の作業を遠目に眺め、粗探しばかりに励んでいた整備幹部も同様で、今回の部外に失敗すれば航空機整備員に戻れない以上、警備職の空曹としてやっていこうと考えていた。ところが人事担当の2曹は私の困惑にトドメを刺した。
「受験職種は希望が判らないから教育幹部にしておいたからな。給食通報や宿泊依頼は処置してあるよ。それじゃあ頑張って」2曹は一方的に用件を伝えると電話を切った。こちらとしても道場から気合いが聞こえ始めているので助かったが士気は急降下、超低空飛行だ。要するに教育職の空曹たちの下僕である区隊長、面従腹背の班長連中に担がれる神輿の中隊長への道である。
「どうしても航空自衛隊の幹部になれ」と言うのなら部外でパイロットを目指しただろう。ただし、高校時代に海上自衛隊の飛行学生を受験したものの2次試験で落ちているのでおそらく無理だった。
結局、課程教育も佳境に入っている中、1日半(午後から出発した)も入間基地へ行くことになり、教官、相棒にひたすら謝って出かけた。特に伊東教官は「君は陸の幹部になるんだろう。やっぱり航空が良くなったか?まァ、保険として受けておけ」と嫌味を言ってから送り出した。
しかし、私は基地の食堂で12期曹候学生の教え子たちに会ってしまい、緊急招集された彼らと外出して深夜まで大酒を飲み、翌日は集合時間2分前に受験会場に駆け込んだ。
「防府南のモリヤ3曹、空教隊のモリヤ3曹、体育学校のモリヤ3曹・・・」すでに出席確認を始めていた監督係の声が廊下まで聞こえる中、会場に入り「まだ遅刻ではないですね」と言ったため、その1尉はあからさまに不快そうな顔をして席を示した。
部内の試験は5者択一のマークシートなので感覚で回答できる。したがって10分で問題を読めば記入は5分もあれば十分だった。試験開始から30分間は退室できないので私は机の上で仮眠を始めた。そして監督の1尉が「回答が終わった者は退室しても・・・」と言うのと同時に立ち上がり、回答用紙を渡して退室した。
「アイツ、何しに来たんだ」と言う1尉の声と受験者の失笑が背中を追いかけてきた。
- 2015/08/15(土) 09:00:40|
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昭和24(1949)年の明日8月15日は我が山形県が生んだ天下の奇才・石原莞爾中将の命日です。閣下は明治22(1889)年1月18日に現在の山形県鶴岡市で旧庄内藩士の警察署長の3男として生まれました。閣下は6男4女の10人兄弟姉妹の3男ですが、兄2人は夭折しているので事実上の長男でした。
父の転勤により引っ越しを重ねたため粗暴な性格になった一方で、未就学の閣下を姉が子守りしながら小学校に通ったことで勉強を覚えてしまい、ある日、校長が1年生と一緒に試験を受けさせてみると1番の成績だったそうです。このため2年生として入学しました。
明治35(1902)年、仙台陸軍幼年学校に合格して3年後には中央幼年学校に進み、この頃から正課の勉強だけでなく戦史や哲学書、特に日蓮宗=田中智學の本を読み耽るようになり、東京にいることを活用し、高名な人物を訪ねて教えを受けるようになったのです。
明治40(1907)年、陸軍士官学校に進みますが、ここでも正課の勉強は講義と自習時間だけですませ、休日は外出して図書館に通い、戦史や哲学書、社会科学などを個人研究しつつ高名な人物訪問を続けていました。学科の成績は350名中3位でしたが、区隊長に対する反抗的態度で心象を害して6位にされています。
士官学校卒業後は見習い士官を務めた会津若松の歩兵第65連隊に再配属され、その後、部隊が朝鮮半島・龍山へ移駐したので、大陸と地続きの半島から中国情勢を眺めていたのです。
大正2(1913)年に中尉へ昇任すると連隊長から陸軍大学校の受験を命ぜられ、現場を離れたくない本人は落ちるように全く勉強をしなかったにも関わらず合格してしまいました。
この時の口頭(=面接)試験で「機関銃の有効な使用法」を問われ、当時は実例がなかった「飛行機に搭載して敵の縦隊を空襲する」と答えています。ところが試験官の方が理解できなかったため黒板に図を描き、「酔っ払いが小便を撒き散らすように連続射撃する」と説明したそうです。後年、閣下は最終兵器=核兵器の出現を予言しましたが、これも修験の国・山形県人の霊能力でしょうか?
陸軍大学校でも相変わらず戦史や哲学の個人研究に打ち込み、日蓮宗の革新運動を推進していた田中智學からは直接教えを受けるようになりました。
関東軍の作戦参謀時代、強引な攻撃計画を躊躇する若手に「南無妙法蓮華経を唱えながら突撃すれば佛果による加護があるから必勝間違いなし」と言ったそうですが真偽は不明です。
閣下の卒業成績は2位でしたが、これには首席卒業者は天皇の前で講演する伝統があり、「季節構わず汚れた夏服を着ている石原を天覧に供することはできない」「何を言い出すか判らないから危険」と言う陸軍内の配慮があったためとも言われています。
卒業後は65連隊の中隊長、歩兵第4連隊長(仙台)、第16師団長(京都)を歴任しますが、連隊長として体罰の解消に努力し、各中隊を出身地別にするなどの対策を取り効果を上げました。
また参謀本部に勤務している時に発生した2・26事件では警備司令部に加わり、そこに皇道派の頭目・荒木貞夫大将が顔を出すと「馬鹿!お前のような馬鹿な大将がいるからこんなことになるんだ」と罵倒したと言われています。
このような天衣無縫・傍若無人な言動が閣下の持ち味ですが、小心・狭量な上官には徹底的に疎まれました。特に関東軍参謀本部の上司だった東條英機には左遷・予備役に追い越まれ、後には閣下の方が東條の暗殺を計画する程、対立しました。ところが東條の命令で監視に来ている憲兵たちは閣下の識見と人格に触れると心酔してしまい罪状探索の用を為さなかったそうです。
この東條との対立と左遷・予備役編入のおかげで満州事変を企画・立案・実施した首謀者であったにも関わらず東京裁判の戦犯の指定を受けませんでした。
余談ながら予備役に編入されていた石原閣下が提唱していた日米の対立激化に対する打開策の私案は東條が絶対に受け容れられないと開戦を決意した=最後通牒と受け取ったハル・ノートとほぼ同じでした。

かわぐちかいじ作「ジパング」より
- 2015/08/14(金) 08:51:40|
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