fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月1日・実在した悪鬼・カーチス・ルメイ大将が地獄の奥底に堕ちた日

1990年の明日10月1日は日本人にとっては絶対に許すことができない現実の悪鬼でありながら、旭日大綬章を授与されているカーチス・ルメイ空軍大将が無間の下の地獄の奥底に堕ちた日です。
カーチス・ルメイ大将の大罪はイギリス空軍でブッチャー(虐殺者)と飛ばれたサー・アーサー・ハリス元帥に習い、日本全国の大中小各都市への無差別爆撃を大々的に行ったことです。それも爆撃に先立って日本の木造家屋を焼失させる方法を研究するためアメリカ・ネバダ州の砂漠に日系人の大工や左官、家具や畳職人に建てさせた日本の街で実験を繰り返して、爆弾による爆風や破片の飛散よりも焼夷弾の炎上の方が効果は高いことを確認し、江戸時代の大火や関東大震災などの被害状況を綿密に検証した上で実施した残虐非道ぶりでした。確かにハリス元帥もドイツの石積みの家屋を破壊するには最初に屋根を破壊して、その後から焼夷弾を降らせて内部から炎上させる方法を編み出して、古都・ドレスデンを灰燼に帰していますが、ルメイ大将がやったことは更に念入りな上、長期間・大規模でした。
昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲の時にはB-29の大編隊で飛来しながら東京上空で右折して千葉方面から太平洋に抜け、これにより空襲警報が解除され住民たちが防空壕から出て家に戻った頃を見計らって、再度、襲来して都市部でも下町の周辺に焼夷弾を降らしたのです。これにより住民たちは逃げ場を失い、大炎上によって巻き起こる火災旋風が木造の住宅街を舐め尽し、多くの住民は身動きができなくなりました。そこに新たな編隊が現れ、中心部に爆弾の雨を集中的に投下し、爆風と破片で住民たちを打ち砕き、切り刻んだのです。
3月10日の時点では硫黄島は陥落しておらず空襲はここまででしたが(これでも十分過ぎますけど)、その後は硫黄島から発進する戦闘機が随伴するようになり、爆撃後に低空で機銃掃射を加え、生き残っている住民を1人残らず狩り尽くすまさしく大虐殺でした。こうして広島・小倉・京都・新潟などの原爆を投下する予定だった11都市を除く日本全国の各都市を空襲し、農・漁・山村にも機銃掃射を加え、とどめに2発の原爆投下も指揮したのですが、終戦後、ルメイは「もし戦争に負けていれば私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことに我々は勝者になった」と述べていますから、これが当時の武力紛争関係法の趣旨に違反する非人道的な戦術であったことは自覚していたのでしょう。
しかし、その自覚がどこまで本気だったのかは大いに疑わしいのです。キューバ危機に際して空軍参謀総長だったルメイはアメリカ空軍の圧倒的優位を狂信して、ケネディ大統領にキューバの空爆を進言しましたが却下されています。この時点でソ連はキューバに10数基の核ミサイルを配備しており、空爆を強行していれば発射ボタンが押されてアメリカ本土で核爆発が起きただけでなく、報復としての核攻撃が繰り広げられて人類の歴史はそこで終っていた可能性が高いのです。つまり日本各都市への空襲が勝利をもたらし、広島、長崎への原爆投下が降伏を早めたと言う自己満足が病的レベルにまで進行しており、すでに対抗する戦力を喪失していた日本と核兵器で刺し違えることが可能なソ連の違いを考慮することができなくなったのでしょう。さらにベトナム戦争で北ベトナムの支配地域への爆撃を始めたのもルメイ大将です。
こんな奴の退役3ヶ月前に何故、「国家又は公共に対し勲積ある者に之を賜う」とされる旭日大綬章が贈られたのかと言えば「航空自衛隊の創設に尽力したことへの謝意」でした。しかし、本人はドイツ空爆の功績でサー・ウィンストン・チャーチル首相から授与されたイギリス空軍殊勲十字勲章ばかりを大切にしていたそうです。こんな奴の尽力で創設されたとされることは航空自衛隊にとって屈辱以外の何物でもありません。
  1. 2015/09/30(水) 09:33:06|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ228

「折角だから太刀洗の飛行場跡に行きませんか?」ファミリー・レストランから出ると伊藤候補生が提案した。先日の知覧特攻平和会館への研修で陸軍の振武特別攻撃隊(後に海軍・連合艦隊の統合指揮を受けることになり「神風」と改称された)が久留米の太刀洗飛行場で編成されたことを学んだのだ。
「あそこは朝倉郡にまたがっているから久留米でも北の方だね」「そうなんですか?」太刀洗飛行場については曹候学生基礎課程の時、三浦訓練班長の部下だった長尾2曹に教えてもらった。久留米出身の長尾2曹は大の戦史マニアで同好の徒であるモリヤ曹候生を可愛がってくれたのだ。
市内からタクシーに乗り、運転手さんに「太刀洗飛行場跡をお願いします」と頼むと「デートであそこに行くなんてお2人さん、前川原(まえかわばる)の候補生さんばい」と言い当てた。こうなれば到着まで観光案内が始まるのはどこも同じだろう。
この時、運転手さんが披露してくれた「特幹の歌」は私も長尾2曹に習って知っている。
「翼輝く日の丸に 燃える闘魂眼にも見よ 今日もさからう雲切れば 風も鎮まる太刀洗 ああ特幹の太刀洗」ただし、小父さんとデュエットはしたくないので黙っていた。
途中の運転手さんの説明によれば太刀洗飛行場跡は現在、キリンビールの工場と農地になっていて門柱と記念碑、時計台、監視壕、あとは最近、地元の人が食堂を改築して作った小さな資料館があるだけだそうだ(当時=現在は海軍の零式艦上戦闘機32型と復元・実寸大の97式戦闘機が展示されている町営の平和記念館がある)。
「だからタクシーは拾えんたい。このままグルッと回って帰る方がよか」そう言って運転手さんは車で各史跡を案内してくれた。運転手さんが言うとおり飛行場の史跡は広大な農地の真ん中に点在しているだけでタクシーどころか自動車も通らない。
「記念碑に参ってきますから止めて下さい」この言葉が伊藤候補生の口から出たことに運転手さんは驚いたようだ。
「へーッ、やっぱり幹部候補生になる娘(こ)はそこらの女子大生とは違うばい」そう言って止まったタクシーから降りると2人で記念碑の前に歩いて行った。記念碑は真新しいが脇の説明に「昭和61年9月7日建立」とあったので当然だろう。
「『西日本航空発祥の地』かァ・・・」伊藤候補生は碑文を眺めながら妙に感慨深げだった。
「私の父は輸送機のパイロットなんです」「えッ?」お経の後、夏の大空を見上げながら伊藤候補生が口にした言葉に私は返事ができなかった。
「私が中学生の時、母とは離婚しましたが・・・」「どこの輸送航空隊だったの?」「いいえ、MACのです」「マックって米空軍のかね?」「はい、だから私はハワイで生まれたんです」MAC(Military Airlift Command)とはかつてのアメリカ空軍の軍事空輸軍団のことで戦略補給拠点から戦場までの空輸を任務としていた(前線までは現地部隊の担当)。ただし、1987年からは各軍から独立した輸送軍に統合されている。
この告白で以前から感じていた伊藤候補生に関する謎が少し解けたような気がした。

  1. 2015/09/30(水) 09:31:00|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ227

「モリヤ候補生、映画につき合ってくれませんか?」半袖の夏服が心地よくなってきた候、伊藤候補生に声を掛けられた。男子の薄茶色上下の3種夏服は航空自衛隊の旧制服を思い出させて好きだが、女子の黄ばんだような半袖ワンピースは興醒めだ(当時)。
「映画って『彼女が水着にきがえたら』かい?」これは原田知世主演のバブリィな青春・恋愛映画シリーズだ。実は原田知世と母親の弟の嫁=お寺の美恵子さんは瓜二つなので少しだけファンだった。と言ってもこれは冗談だ。
「違いますよォ。『226』です」「へーッ、もう公開したのかァ」確かにこれは見たい映画だが、雪の東京を描いた映画を夏の九州で見るのは違和感がありそうだ。
「良いけどメンバーは?」「2人じゃ駄目ですか?モリヤ候補生と一緒なら解説付きだって思ったんですけど・・・」「そう言うことなら良いよ」そこで休憩時間が終わり、教場に戻ったが伊藤候補生は他のWACの候補生たちに指で丸を作ってハシャイでいた。
この映画は制服で行けば臨場感が増すかと思ったが、逆に反対派の市民から「自衛官が興奮していた」などと言われるとまずいので私服にした。と言っても私服はポロシャツくらいしか持っていないので飾り気はゼロだ。一方、伊藤候補生はこちらに合わせて地味な服装だが今日は髪形を変え、化粧も念入りにしており意外と美人なのに驚いた。
つまりデートと言うことになったようで、案の定、一緒に外出証を受領に行くと防大組の当直学生が「不倫デートだな」と声を掛け、隣で伊藤候補生は「はい」と嬉しそうに答えた。これも非常にまずい展開だろう。

「結局、青年将校たちは皇道派の真崎に利用されたんですね」映画の後、一緒に入ったファミリー・レストランで感想を話し合った。
「確かに真崎の後任の渡辺錠太郎教育総監が殺されたのを見れば明らかだな」「山下少将ってマレー作戦の山下大将ですか?」「そうだよ。マレーの頃は中将だったけどね」妙な解説が加わって伊藤候補生は頭にメモするような顔をした。
「山口県の長門市には磯部浅一の墓と顕彰会があるんだよ」「磯部って竹中直人ですね」「うん、奴が他の青年将校を巻き込んだ事件の首謀者だから一体何を顕彰するのか判らないな」「山口県人って血生臭いことが好きですよね」「おまけに自分たちが作った新政府に反抗した萩の乱の首謀者・前原一誠の顕彰会もあるよ」「へーッ、呆れちゃう」ここで注文した料理が来た。私は大好物で安上がりの冷やし中華、伊藤候補生はパエリアだ。
「ところで安藤大尉って不思議な人ですね」「うん、事件の前に鈴木貫太郎侍従長を訪ねて一緒に酒を飲んで語り合っていたんだよ」「反対派の意見も聞ける度量があったんですか」「その尊敬する鈴木侍従長を自分が殺すことになって心中では苦悩していた筈だよ」「それでも実行してしまった・・・」「そこが敵と見なせば話し合いの前に殺してしまう長州人が作った陸軍と言うことだろう」航空自衛隊は米空軍によって作られたが陸軍航空士官学校出身者によって染められた部分もある。果たして陸上自衛隊はどうだろうか。
岡田有紀子当時のWACの制服(モデルは佐藤佳代さん)
  1. 2015/09/29(火) 09:30:41|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ226

1989年6月4日の自習時間が終わった時、突然の一斉放送が入った。
「本日の点呼は各中隊の娯楽室内で行う。当直幹部が巡回するので当直学生は廊下で報告せよ。それまで候補生はニュースを見るように」「えッ?」各居室にテレビはなく当時は個人で持つ小型の携帯電話もなかった。ただ、各部屋で取っている新聞で竹下登首相の辞任を受けた自民党の総裁再選挙で番狂わせが起こり、宇野宗佑と言うさえない小父さんが総理大臣になったのは知っている。その「総理大臣が何か語るのかな」と噂しながら娯楽室に行くと当直学生が点けたテレビの前で立ちすくんでいた。
「先ほど北京市の天安門広場の前に集まっている学生たちを人民解放軍が強制排除し始めました」こう言う時、防衛大学校出身者は躊躇することなく前を占拠する。当直学生も防大組なのでそれを当り前にしていた。我々一般課程の候補生は防大組の背中越しに見える画面と音声だけで我慢するしかない。
「ニュースの前に点呼だろう」画面が見られない腹いせに私が大声を出すと当直学生は各区隊ごとに整列させ、点呼を始めた。その間もテレビからは装甲車のエンジン音や銃声、群衆の怒声と悲鳴が流れてくる。

点呼終了後、私と部内部外組の候補生で列の正面にテレビを移動させ、当直学生に背が高い前の学生に座るよう指示させるとようやく全員でニュースを見られる状態になった。その頃には同じ画面の繰り返しになっており、中国当局による情報統制が掛かっていることが想像できる。これが日本では絶大な人気がある鄧小平の共産党政権の実態だった。
それにしても群衆の中央に装甲車を乗り入れ(当然、轢かれた人もいる)、逃げ惑う人々に向かって迷うことなく発砲を始める人民解放軍の姿には戦慄さえ覚えた。
ただ、同じニュースを見ていても防大組と一般課程組では視点が違うことに気がついた。防大組は人民解放軍、一般課程組は群衆=学生の立場で事態を受け止めているようだ。この相対する視点が両立していれば陸上自衛隊は組織として健全なのだろう。
「候補生は解散し、居室に戻って消灯準備」この一斉放送で解散になり、娯楽室を出ると伊藤候補生に呼び止められた。WACの居室は階が違うので廊下を歩きながらの会話はできないのだ。
「モリヤ候補生、これをどう思います?」「俺は沖縄でデモ対処に出ていて突入してきたトラックにはねられたことがあるから群衆の恐怖はリアルに感じるな」「へーッ、危なかったですね」「でもやっていることは人民解放軍の方だから複雑だよ」「なるほど」「自衛隊が治安出動した時にどのような手段を選択するかの教材にするべきだろうね」60年安保の時、国会を包囲される事態に赤城宗徳防衛庁長官は岸信介首相から治安出動を打診されたが、「若し銃口を国民に向ければ自衛隊は永遠に支持を失ってしまう」と断ったそうだ。今はそんな事態が現実にならないことを祈るだけだ。愛知大学にいた中国人留学生の友人たちの無事も併せて・・・・。
  1. 2015/09/28(月) 09:40:42|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月28日・ローマ教皇=ヨハネ・パウロ1世が暗殺されたかも知れない日

1978年の明日9月28日は長年にわたりカソリック内部に巣くっていた暗部を自己浄化してくれるとの期待を一身に負って就任したヨハネ・パウロ1世がわずか33日の在位で急死した日です。通常、「1世」は2世が就任した後から付けるものですが、ヨハネ・パウロ1世は2つの聖人を合わせた異例の名前は最初で最後だと言われていながら自ら「1世」を付けていたようです。
ヨハネ・パウロ1世=俗名・アルビーノ・ルチャー二は1912年にイタリア北部でオーストリアに国境を接するベッルーノ県の貧しい季節労働者の長男として生れ、敬虔なカソリック教徒だった母親の影響で幼い頃から聖職者になる夢を抱くようになりました。
11歳の時、県内フェルトレ市の神学校に入りましたが、後に教区の神学校に移っています。23歳で県内の聖ピエトロ教会で司祭に叙され、以降は類まれな宗教者としての資質と一貫した清貧な生活態度によりカソリック内で存在感を増し、ついに58歳でヴェネツィアの大司教にまで昇ったのです。しかし、それでも清貧な生活は変わらず担当地域の貧困層や障害者の救済や発展途上国への援助活動に尽力していました。
この頃、カソリック内では聖職者専用の銀行とバチカンの財政を取り仕切るバチカン銀行の株式がアメリカ人の大司教によってマフィアやフリーメイソンなどとつながりを持つ銀行家に不正売却される不祥事が発覚しました。これに対してルチャーニ大司教はバチカンに抗議しましたが、その表現が教皇に問題が及ばないように配慮した文面だったことでパウロ6世の信頼を得て、61歳で最高顧問である枢機卿に選ばれたのです。
そして5年後、パウロ6世の死去を受けて行われた教皇選挙(コンクラーヴェ)では本命を抑えて当選し、1978年8月26日に就任することになりました。
教皇に就任すると今まで貯めに貯めていた改革への意欲が堰を切ったように流れ出し、矢継ぎ早に前例のない施策を実行しました。例えば教皇の権威の象徴である冠を拒否し、多額の経費を要する戴冠式も就任式に変更しました。さらに教皇の法話にフランスのSF作家・ジュール・ガブリエル・ヴェルヌやピノキオを引用し、これまでの聖職者とインテリの信者にしか理解できない占有物から広く一般に開放したのです。
こうした英断をカソリック教徒だけでなく世界中の多くの真摯な人々が歓迎しましたが、バチカンの権威によって権力・利得を確保していた守旧派と実際の巨額な利益を奪取していた寄生虫が脅威に感じない訳がありませんでした。
この日の早朝4時45分に通常の起床時間になっても姿を見せないことを不審に思った修道女が発見したのですが、教皇の個人秘書から連絡を受けたジャン=マリー・ヴィヨ国務長官は医師に連絡せず、自分の側近たちに何らかの支持を与えてからようやく医師を向かわせたのです。
結局、教皇の遺骸は解剖を行われず外観の検屍だけで「心筋梗塞」と断定されましたが、医師に通報が行く前にバチカン専用の葬儀社に連絡が入っており、何かを隠すように防腐処理が行われています。
その後も謎=疑惑は続き、教皇の手元にあったとされる国務長官や問題を起こしたアメリカ人の大司教とバチカン銀行関係者の更迭者リストが国務長官自身によって持ち出されて紛失し、通常は用意してあるはずの遺書も発見されませんでした。
後任の教皇・ヨハネ・パウロ2世はポーランド人なので目新しさだけで人気を博した一方で内部事情に疎く守旧派には扱い易い存在だったようです。その後の活躍は予想外だったのでしょう。
  1. 2015/09/27(日) 08:51:05|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ225

ある日、美恵子は新聞の求職欄で「理容師急募」の記事を見つけた。世間では仕事に慣れてきた新入社員が職場への失望や人間関係に悩んで退職する5月病と言われる時期だった。
「ふーん、ここだったら淳之介を託児所に預ければ通えるね」思いついたら即行動の美恵子は記事に一通り目を通すと電話をかけた。すると美恵子が「経験者」と聞いた先方は大喜びして「明日からでも店に来て欲しい」と言ってきた。
行動してから考える美恵子は応諾して電話を切ってから「給料・手当て」「出勤日・勤務時間」などの処遇を確認するのを忘れていたことに気づいた。当然、夫への連絡や自衛隊の扶養に関する手続きなどは眼中にない。
幸か不幸か?託児所はバブル景気の高収入で共働きの家庭が減り、子供を幼稚園に入れて早くから勉強させることが流行しているため簡単に見つかった。こうなれば防府に来て以来、我慢していた本業にイケイケ・ドンドンで邁進するだけだ。それでも美恵子は夫が月に1回帰宅する土・日曜日だけは休ませてもらえるように申し出るだけの知恵は回した。

今回の帰宅では美恵子の機嫌がよく私も快適に過ごすことができた。最近、私たちは高良台での各個戦闘から大野原訓練場での分隊戦闘に移っている。暑さに向かう中の戦闘訓練はやはり辛かった。2度目の松真も必死で頑張っているはずだ。そこで夕食の時に訊いてみた。
「松真も今頃は戦闘訓練で頑張ってるだろう」「今度は見てないさァ」しかし、美恵子は関心なさそうに答える。
「どうした。去年は自転車で見に行って可哀そうだって怒ってたじゃないか」「あの子は好きで曹候学生になったのさァ、好きでやっていることを私が何か言う筋合いはないよ」これは今まで聞いたことのない冷淡な言葉だった。私が愛した美恵子は仕事に一生懸命で、それ以上に家族にも一生懸命なシマンチュウの女だったはずだ。本土に来て3年で何かを落とし、何かに染まってしまったのかも知れない。
「それでも8月になれば卒業してしまうから会うなら今のうちだぞ。卒業前に家へ呼んで手料理でも御馳走しろよ」「・・・時間があったらね」時間があったらと言っても美恵子は淳之介の育児以外に予定はないはずだ。私が幹部候補生になる前に美恵子が口にしていた不満が増幅しているのではないかと心配になってきた。
「前なら俺が言わなくても松真のお姉さんしてたのにな・・・」「ここは沖縄ではないのさ。いつまでも家族優先にはできないよ」「それじゃあ、俺が親を捨ててまで美恵子と結婚した意味がなくなるぞ」「・・・」快適だった帰宅が一転、重苦しい気持ちで高速バスに乗ることになってしまった。
  1. 2015/09/27(日) 08:48:37|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月27日・日本拳法の創始者・澤山宗海(さわやまむねおみ)の命日

昭和52(1977)年の明日9月27日は日本拳法(日本国憲法の略ではない)の創始者である澤山宗海先生の命日です。澤山先生は1906年に奈良県内で生まれ、本名は勝(まさる)と言いました。幼い頃、新田源氏の流れを汲む名門・澤山家の養子になりますが生来の病弱だったため養父母に過保護と言えるほど溺愛されて育ちました。このため小学生の時は通学だけで疲れてしまって他には何もできないような虚弱体質になり、尋常小学校を終えて日進商業学校に進学したのを機に「これではいけない」と奮起し、筋力強化(現在で言うボディビル)と柔道を始めたのです。しかし、柔道には当身技がないことに強い疑問を持ち、後に沖縄空手・糸東流(しとうりゅう)の創始者になる摩文仁賢和さんと剛柔流の宮城長順さんに師事して唐手(とうでい)を学び、入学していた関西大学内に「唐手(からて)研究会」を創設しました。
ところが当時の唐手の稽古は2人で組んだ型が中心で、5段にまでなっていた柔道を捨てて乗り換えた目的に合致しませんでした。そこで澤山先生は独自に「約束」「自由」「真剣」の各種組手を考案し、大学卒業後に大阪で「大日本拳法会」を発足させたのです。
この頃から大阪府吹田市内の垂水神社(=現在は「日本拳法発祥の地」と称されている)で防具を着けての稽古を始め、やがて試合に発展させたことで学生を中心に広まっていきました。戦後は自衛隊の徒手格闘の基礎となり(主な違いは対武器の技法があること)、それが在日米軍にも伝わって、やがてマーシャルアーツと呼ばれる新格闘技になったとも言われています。ただし、ショーとしてのマーシャルアーツはハイキックを多用する点など日本拳法の経験者には全く違うように見えます。
澤山先生は日本拳法を「全方位的な武道」と定義しており、古代ギリシャの素手での殺し合いであったパンクラチオンを防具とルールの補完で安全化したもの」と説明しています。このため他の武道や格闘技の技法の導入にも比較的寛容ですが、それは型よりも試合を重視する修業体系によることも確かでしょう。
日本拳法の技で最も特徴的なのは「波動突き」かも知れません。これを言葉だけで受け取ると波を描くように突く変則技のように思われますが、実際は力の入れ方を表現した名称です。
通常、他の格闘技ではストレートのパンチを繰り出す時、拳を握りそれを相手の身体に叩きつけるように突きますが、波動突きでは拳を握らず軽く開いた状態で立てて構え、それを突き出しながら脚・腰の捻りと共に自然に拳を作り、当たる瞬間には固まっていると言う技なのです。
実際、パンチの衝撃度を測定して比較すると日本拳法の波動突きはボクシングや空手を凌駕しており、数値だけ見れば空手家が自慢する瓦や板の試割りも容易なように思われますが、拳をそのような鍛え方にはしていないのでやめておいた方が良いでしょう。
日本拳法が抱えている問題としてはインカレッジ、インターハイ、国体の種目になっていないことがあります。後発の少林寺拳法が映画などを利用した巧みな宣伝によってこれらの大会の正式種目になっていることを考えても異常なことです。要するに政治的な立ち回りに於いては澤山先生よりも少林寺拳法の開祖・中野道臣さんの方が一枚上手だったと言うことのようです(組織を宗教法人にしている点など経済面でも巧者です)。
澤山先生は昭和50(1975)年に肺癌を発病し、2年間の闘病の後、「私は日本拳法の中心的な部分を作っただけだ。さらに研究を重ねて、より高いものへと発展させねばならない。それは君たちの仕事だ」と言い遺して息を引き取りました。71歳でした。
野僧は澤山先生に他の武道家のような人間離れした超人伝説がないとことが崇敬している最大の理由です。雰囲気は講道館柔道の嘉納治五郎先生に似ているかも知れません。
  1. 2015/09/26(土) 09:17:51|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ224

知覧市内では武家屋敷なども見学できたが、やはり特攻平和会館が目的地だった。
最初に館長の案内で平和会館の裏手にある観音堂を参った。参道には遺族などから寄贈された石灯籠が並んでおり、建物も観音堂と言うには立派で小規模な寺院のようだ。
中に入る前、教官から合掌をせずに頭を下げるよう言われた。制服を着た自衛官が部隊行動で宗教行為をすることに問題があるらしい。航空自衛隊なら一般常識で片づけられることだが陸上自衛隊ではそうはいかないようだ。
退堂する時、私は坊主の端くれとして個人的に両手を組んで小声で延命十句観音経を唱えていると館長が気づいて声をかけてきた。
「これは信心の篤い候補生さんですな」「はい、一応坊主でして」「ほう、佛教系の大学の御出身ですか?」「そうではありませんが得度を受けています」「なるほど・・・」これはまずい展開だった。私は大津島での失敗を思い出して早々に館長から離れた。
ミュージアムでは特攻隊員の遺書が展示物の中心なのは江田島や大津島と同じだが私は意外なことに気がついていた。
「どうですか?」先ほどのお経で印象に残ったらしくここでも館長が声をかけてきた。同期たちはWACに限らず感動してハンカチで涙をぬぐっている者も多いが、私は冷静に展示物を読んでいたのだ。
「海軍の特攻隊では学徒出身の初級士官が半分ですが、陸軍では下士官や所沢出身の熟練パイロットが多いんですね」「それは未熟な人間に操縦させて途中で墜落しては飛行機が勿体ないからですよ」「なるほど、だから搭乗員も必要最小限したのですね」「貴方は若いのに随分詳しいですね」ますますまずい展開だ。私は会釈をして距離を置いた。
「モリヤ候補生は特攻隊をどう思いますか?」気がつくと隣に伊藤候補生が立っていた。
「俺かい?死んで逝った隊員たちは立派だけど作戦としては絶対に犯してならない大罪だと思うね」「私も同感です」「ナチス・ドイツでさえゾンダーコマンド・エルベと言う特攻作戦を1回実施したけれど犠牲に対して戦果が上がらないからと止めているんだ」「そう何ですかァ」「ほーッ」後ろで妙な声がしたので振り返ると館長が聞いていた。
「その話は知らなかった。是非、詳しく教えて下さい」「・・・」私が困っていると教官が心配そうな顔で近づいてきて伊藤候補生は素早く背後に回った。
「教官さん、こちらの候補生さんは素晴らしいですよ。私も教えを乞うているところです」「モリヤ候補生は航空自衛隊出身だからでしょう」教官の渋い顔を見て私の背中には冷汗が流れる。やはり馬鹿は死ななきゃ治らないようだ。

夜は国分駐屯地に宿泊したが第12普通科連隊や第113教育大隊など駐屯地に所在する部隊の一般課程出身の幹部が歓迎会を開いてくれた。
私は「今度こそ目立たないように」と控えていたが、教え子たちに囲まれた教官の口から名前が出ているのが聞こえてきた。まずい!まず過ぎる!
  1. 2015/09/26(土) 09:16:39|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月26日・洞爺丸の転覆事故が起きた。

昭和29(1954)年の明日9月26日に青函連絡船・洞爺丸(4337トン)の転覆事故が起こり国内最多の1171名(この数字には諸説がある)が犠牲になりました。
この日は台風15号が日本海側を北上しており、東北地方に到達しても勢力が衰えず、26日11時には函館海洋気象台が暴風警報を発令しています。
そんな午後6時30分に洞爺丸は近藤平七船長以下の乗員110名と1117名(この数字にも異説がある)の旅客を乗せて函館港を対岸の青森港に向けて出港しました。ところが港外に出ると暴風波浪は予想を超えており、航行困難に陥っていた出港30分後に近藤船長は防波堤外で投錨・仮泊して台風の通過を待つ決断をしました。
しかし、午後8時には函館市内で風速43メートルを記録するまで台風の猛威は強まり、海上では更に強い暴風に晒されている上、激しい波浪が船体を激しく揺さぶったのです。
やがて錨の鎖は切れ、不安定になった船体には午後8時10分頃から機関室に海水が浸入し始め、続いて各天蓋からも雨と波が流れ込んできました。
午後10時頃、事態の重大性を認識した近藤船長は「本船は間もなく七重浜(ななえはま)に座礁する」と放送し、救命胴衣の着用を命じたのです。それから間もなく七重浜沖の砂浜に座礁しましたが、この時、船体は大きく傾き、低部の3等船室の舷窓(船体側面の窓)は水没してしまいました。さらに大きな浪が船体を襲い、大量の海水が船内に流れ込むと船首を北に、右舷を下にした状態で120度回転しながら煙突を海底に突き刺す形で転覆したのです。
救助については大型台風の直下だったこともあり完全に出遅れ、激しい波で海岸に流れ着く犠牲者を救助することしかできませんでした。
天候回復後には余波で荒れる海上での本格的な救助活動が始まったものの現実的には遺体回収作業になっており、近傍の公民館などには白木の棺が並び、身元が判明した遺骸から荼毘に伏そうとしてもフル稼働でも対応し切れず、七重浜に仮設の火葬場が設けられたのです。
事故原因については台風の通過が殆んどない北海道の、然も船舶の運航については素人の国鉄の認識の甘さが指摘されました。さらに乗客の中には東京での会議に出席する国鉄の重役3名と国鉄労組に影響力を持つ社会党の国会議員2名が含まれており、このうちの誰かが船長に無理な出港を強要したとの噂も流れました。結局、海難審判では死亡した船長の判断ミスと言うことで片づけられましたが真相は不明になっています。
犠牲者の外は「娘が乗船している」と思い込んでおり、ニュースを見てショック死した父親もいましたが、娘は乗船しておらず葬儀では複雑な表情だったようです(娘にとっては「娘想いな父親だった」のは間違いないものの「自分の責任」や「馬鹿な父親」と言えなくもない)。
ちなみにこの台風では大小8隻の船が函館港内で無事に台風をやり過ごしましたが、逆に港外では2隻を除き5隻が沈没、2隻が座礁しており、この沈没した5隻は全て青函連絡船でした。
この事故は死亡者数にも諸説があるように真相不明な部分が多く、作家には格好の材料になったようです。
有名なところでは水上勉氏の「飢餓海峡」で野僧は左幸子さんの映画と藤真利子さんのドラマの両方を見た上、下北半島のロケ地(藤真利子さんのヌード・シーン)である湯野川温泉にも宿泊する機会を得ました。さらに三浦綾子さんの名作「氷点」にも登場します。
藤真利子「飢餓海峡」の藤真利子さん
  1. 2015/09/25(金) 09:25:03|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ223

陸上自衛隊幹部候補生学校には地の利を活かした研修がある。その手始めは鹿児島県の知覧基地跡にある特攻平和会館だった。一般空曹候補学生基礎課程でも大津島の回天特攻基地を研修し、愛国心と自己犠牲を考えさせるが部外から入隊した候補生にも同様の趣旨なのだろう。私は元航空自衛官だけに特別攻撃隊については知る機会が多く、それなりに詳しいのだが、一般的には海軍特攻隊の方に注目が集まり、陸軍については本なども少ないようだ。
研修の前に予備知識として陸軍特別攻撃隊に関する教育を受けた。しかし、戦史の教官も航空作戦については門外漢のようで、配布された資料も市販されている本からの抜粋のようだった。
「質問はないか?」「はい」講義が終わる前の確認に手を挙げると教官は「やばい」と言う顔で私を指名した。最近は「特例者として控え目に」と言う自戒は棚上げにしている。
「私は神風(しんぷう)特別攻撃隊を行ったことは海軍の失策だと考えています」「シンプウ?」「正式にはシンプウ特別攻撃隊と言うんだよ」「カミカゼは?」「情報を文章で知った報道関係者の読み間違いだ」質問の前に同期たちから横槍が入りまくった。
「陸軍は海軍とは違い特別攻撃隊にあまり積極的ではなかったように思いますが・・・」「本当か?陸軍の方がやりそうな作戦じゃあないか」「実際、海軍は陸攻や艦爆などで出撃させる時、全ての搭乗員を乗せましたが、陸軍は必要最小限、時には見張り員なども欠員にしています」「へーッ」「さらに知覧から出撃したのは97式戦闘機や1式戦闘機・隼などの旧式機ばかりで、単に海軍への面子を立てただけのように見えます」「ホーッ」ここまで独演会を繰り広げてしまうと質問にならなくなった。
「モリヤ候補生、知覧の会館ではあまり敬遠されるような質問はするなよ」教官に極めて適切な注意をされたがそれが一番危ないところだ。

当日は早朝から駐屯地を出発した。陸上自衛隊では「バスは弱い兵隊の乗り物」と言って移動はトラックが一般的だが、OD色の幌は5月の日差しでも熱を持つので吹き抜ける風と相殺しても快適とは言えず、九州縦断の行程を考えれば厳しい道中になりそうだ。
この頃、九州自動車道は八代から人吉の間が開通しておらず国道3号線を海岸沿いに南下する。途中には公害病で有名な水俣、海軍特攻隊の基地があった出水、レーダーサイトがある下甑島への連絡船の発着港の川内などがあるが同期たちは疲れ果てており、外の風景を見る余裕はないようだった。
「うーん、座布団が欲しい」幹部候補生として後続車両の民間ドライバーに見苦しい態度は見せられず、背筋を伸ばしたまま座り続けて4時間、流石に腰が痛くなる同期が増えてくる。そもそも衣替え前のため冬服を着ていることが苦痛なのだ。
しかし、部隊に配属されれば演習に行くのにも長距離移動があるが、幹部であればジープの助手席のはずなので陸曹や陸士のように荷台で横になることはできないだろう。
  1. 2015/09/25(金) 09:22:54|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月25日・太平洋戦線の米軍指揮官・アイケルバーガー中将の命日

1961年の明日9月25日は太平洋戦線の島々で日本軍守備隊と激闘を繰り広げたアメリカ陸軍第1・第8軍団司令官・ロバート・アイケルバーガー中将の命日です。敗戦後の1945年8月30日に占領軍司令官として着任したダグラス・マックアーサー元帥を厚木飛行場に出迎え、最初に握手した人物でもあります。
アイケルバーガー中将は1941年12月8日に太平洋における日米の戦争が生起した時、陸軍士官学校長でした。翌年1月には第77歩兵師団長、その半年後には第1軍団司令官に就任しましたが、当時の第1軍団はアメリカ本土で予備役などの将兵の訓練にあたることが主任務の支援統括部隊だったのです。しかし、オーストラリアの連合軍南太平洋地域総司令部に赴任すると実戦に投入されることになった第1軍団を率いて日本軍との激闘が始まりました。
初戦の相手はニューギニアのブナを守備する日本海軍陸戦隊のトップ・安田義達大佐が指揮する横須賀第5特別陸戦隊と増援として派遣されていた陸軍の歩兵第144連隊でした。この海軍陸戦隊は本来、飛行場建設するための設営隊であり、保有する火器・弾薬は不十分でしたがアジア各地で幾多の陸戦を経験してきた安田大佐の指揮により頑強な抵抗を繰り広げ、アメリカの公刊戦史にも「Toughest Fighting in the World(世界随一の激闘)」と明記されています。
その一方でニューギニアの日本陸軍第18軍は兵站の見込みもないまま投入されていたため連合軍側としては制空・制海権さえ確保しておけば後は自滅するのを待てばよく、アイケルバーガー中将は1944年9月には新編された第8軍団司令官に就任して、マックアーサー個人の名誉と財産への執着により戦略的には無価値のフィリピンへ上陸することになったのです。
大本営は当初、首都マニラがあるルソン島を山下奉文大将が指揮する陸軍第14方面軍で守備すればレイテ島は海軍と航空兵力で制海・制空権を確保するだけで良いと考えていました。しかし、台湾沖航空戦で大戦果を挙げたとの虚報を信じてレイテ島の守備も第14方面軍の任務に加えましたため、ルソン島からレイテ島へ兵員を送ることになり、海峡を渡る途中で米軍の攻撃を受け、貴重な戦力の多くを失うことになりました。
レイテ島の組織的戦闘が終結した後に続くルソン島の戦闘では既に日本軍の指揮系統は存在せず、島内に分散・孤立した小部隊がアメリカ軍と地元住民によって発見・殺害され、逆に飢えた日本兵が食料を奪うため集落を襲撃することの繰り返しだったようです。
ただ、ルソン島には日本軍の戦車第2師団があり、太平洋における日米の戦争では珍しい戦車同士の戦闘が行われましたが、ドイツ軍の戦車が相手では全く歯が立たないアメリカ軍でも時代遅れな日本軍の戦車には圧勝したと言われています。ところで山下大将はドイツを訪問した時、戦車戦術の大家・ハインツ・グレーリアン大将と面談していますが少しは役に立ったのでしょうか?
敗戦後は1948年9月に離任して帰国するまで日本に駐留し、第8軍の占領地域として首都圏と九州、四国を担当していたようです。
駐留中から再軍備の必要性を占領軍司令部だけでなくアメリカ政府にも主張するようになりましたがやはり時期的に無理があり、将来の海軍としての海上保安庁を創設するに留まりました(その後、海上警備隊=海上自衛隊が分離・独立すると様々な経緯から両者の対立は水面下で先鋭化していきました)。
1949年に退役したものの1954年7月には大将へ昇任しています。
  1. 2015/09/24(木) 09:18:04|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ222

ゴールデン・ウィークにはようやく帰宅できた。と言っても5月の3日から5日の2泊3日で第1土曜日の4日は休日にならなかった。一般課程の候補生たちは毎月2日ずつ加算される休暇日数が貯まっておらず日曜日と祝日が重ならなければ連休にはならない。
通常の単身赴任であれば福岡県から隣の山口県なら高速バスを利用すれば毎週末に帰ることも可能だろう。しかし、陸上自衛隊の幹部候補生学校は学科で習うことも半分は未知の領域で月曜日に提出する課題も多く家に帰る余裕ができないのだ。
今回、私は陸上自衛隊の制服で帰宅した。防府南基地の官舎に帰る以上、自分の中で一線を画さなければ古巣への帰巣本能が起こるかもしれないからだった。
「ニンジンさん、やっぱり『愛と青春の旅立ち』の軍曹さァ」入隊式で見たはずの美恵子は玄関でいきなり声をかけた。しかし、私が航空教育隊に転属することになって班長の仕事を説明した時、美恵子は軍曹を悪役と言ったはずだが、本人はそんなことは覚えていないし、何も考えていないのだろう。
「お父さん・・・」淳之介は見慣れた制服が濃紺でないことを不思議そうだったが、まだ言葉で表現できるようにはなっていないようだ。
「淳之介、ただいまァ」そう言いながら淳之介を抱き上げて居間に入ると帽子を玩具にし始める。
「淳ちゃん、触っちゃ駄目だよ・・・でも茶色の制服なら汚れが目立たなくて安心さァ」淳之介への注意に続く美恵子の意見は主婦のそれだった。

今回の帰宅で気になることがあった。それは夜の営みの時、美恵子が避妊具を用意していたことだ。私自身もそれなりの経験があるので淳之介以来、美恵子を妊娠させたことはない。そこで理由を訊いてみると美恵子の答えは信じられないものだった。
「子育てと仕事は両立できないからもう子供はいらないのさァ」「それじゃあ淳之介は一人っ子になっちゃうよ」「ニンジンさんは仕事、私は育児じゃあ不公平さァ」やはり美恵子の仕事に対する執着は相変わらず強いことが分かった。しかし、我が子の思い、夫の願いよりも自分の仕事を優先する美恵子の考え方には納得できない。
沖縄の女性たちが積極的に働くのは男性に家族を養うだけの十分な収入を得られるような仕事がなく、その補完をすることが目的だ。それで夫が働かなくなれば自分で子供を育て上げる気概もある。美恵子の仕事に対する執着はそれとは異質のように思った。
「美恵子が子供を欲しくないなら俺だって避妊に気をつけるよ。だからこんな物を使わせるな」「ニンジンさんだって男だもん。気持が良くなればどうなるか分からないよ」これでは夜の営みを愛情の確認行為と信じていることが土台から否定されたことになる。
そう言えば夕食の時、「今年は基地の理容店でのアルバイトができなかった」との不満を聞いていた。それが原因なのかも知れないが困ったことだ。
  1. 2015/09/24(木) 09:16:59|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ221

前川原駐屯地に来て先ず不思議だったのは教育隊がある山口駐屯地のような戦闘訓練場がないことだった。まさか防府南基地のようにグランドに杭で幕を張ってボサ(草むら)を作るのではないかと心配したが、駐屯地のそばの高良台訓練場で思い切り戦闘訓練を満喫できるらしい。しかし、高良台と言えば航空自衛隊第2高射群第8高射隊がある分屯基地だろう。私の班員はいないが教え子はいるはずだ。つまり外出して市内で会う可能性はある。
考えてみれば高射部隊は千歳、入間、岐阜、芦屋、那覇などの基地の片隅や陸上自衛隊の演習場に作られており、第1高射群の習志野、第4高射群の饗庭野、そして高良台は訓練場の中だ。そう言えば饗庭野で勤務している教え子が夜中に車で帰隊すると迷彩服に偽装網を付けた陸上自衛官に停車させられて誰何を受けることがあると言っていた。
私としては航空自衛隊と変わりない基本教練は切り上げて本家本元の戦闘訓練を始めたいのだが基本教練の練度がある程度、上がってから始めるのが陸空共通の常識のようだ。
そんな訳で基本教練は曹候学生なら基礎課程の最終段階で行われる分隊長動作に早くも入っている。これから分隊長、小隊長へと指揮する単位が大きくなるのだが、基礎課程の総合点検前に小隊教練を教えた経験もあるので何とかなるだろう。

基本教練の休憩時間、航空教育隊の班長時代の習慣で立ったまま休んでいる私の所へ区隊長と助教が歩み寄ってきた。
「モリヤ候補生の基本教練は随分、完成度が高いなァ」大学を出たての同期に交じって基本教練で指揮者になると、私は航空教育隊仕込みの要領で個癖修正まで念入りに実施していた。
「これなら任せておけば私の出番はないですね。助かりますワ」区隊長の横で助教も口を揃える。確かに最近は私が指揮者に選ばれると助教は区隊長と並んで後ろから眺めているだけだった。
「それにしても航空自衛隊の教練は随分と理論的なんだな」区隊長が言うとおり身体で覚える陸上自衛隊の基本教練に比べて航空自衛隊は手足、腕の角度や距離、動作の段階など各種基準の説明を重視する。
「基準を知っていないと指揮者の個癖修正ができませんから」「それを聞いて判るだけ隊員も頭が良いんだ」私の説明に助教が体育学校と同様の皮肉を返した。
「それなら幹部候補生学校には丁度いいな。続きも頼むぞ」「ラジャー(了解)」雑談の最後は区隊長が締めくくったが、これは冗談ではなく本当に2人は引き上げてしまった(ただし、教官室から双眼鏡で見ていたらしい)。おそらく指揮しながら私が説明する基本教練の知識が陸上自衛隊と差異がないことを確認した上でのことだろう。
実は陸上自衛隊と航空自衛隊の基本教練では1点だけ違いがある。それは横隊の正常間隔で陸上自衛隊は片手間隔、航空自衛隊は肘を張る短間隔なのだ。
  1. 2015/09/23(水) 08:57:20|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

大阪が生んだ大物政治家・塩川正十郎さんの逝去を悼む

軽薄短小だった小泉内閣の中で独特の存在感を発していた塩川正十郎さんが19日に亡くなったそうです。93歳でした。
あの頃、若さをアピールしていた小泉純一郎首相自身が高齢化し、最近では明らかに痴呆(あえて認知症とは呼ばない)の症状が出ているようですから、その内閣の長老だった塩川さんが老齢になっていても不思議はないのですがやはり残念です。
それにしても大阪の政治家と言えば77歳2ヶ月で首相に就任すると頑強に抵抗する陸軍を抑えて降伏を実現した鈴木貫太郎大将もそうですが、「老害」とは反対に「老益」をもたらすようです(奈良県の田舎出身とは言え大阪選出の辻元清美などは明らかな「若害」でした)。
むしろ自分が犯した大罪を反省することもなく国内外で「老害」をばら撒き続けている村山富市元首相・91歳や河野洋平新自由クラブ党首・78歳を一緒に連れて逝ってもらいたいものです。村山談話・河野談話によって日本が被った外交上の損益だけでも万死に値しますから。
一方、塩川さんが財務大臣を務めていた第1次小泉内閣の経済・財政政策は是は是、非は非として守るべきは守りながら切るべきは容赦なく切るメリハリが効いたモノでした。
塩川さんの答弁は極めて率直でしたが独特の言い回しに関西弁が加わってマスコミも批判の対象にはしなかったようです。一般会計を削減している時、特別会計を持つ省庁が浪費していることを「母屋でお粥をすすっている時、離れですき焼きを食べている」と表現したのは今も記憶に残っています。特に野僧が納得したのは国民年金まで削減の対象とした時、「国民年金で生活できるか?」と質問されて、「ほんなんできるかいな。僕らはアンタら(=一般人)と生活レベルが違うやないか。毎月100万円かかるよ。皆、人間平等と思っていたらとんでもない間違いや」確かにその通りです。
それがアメリカ人以上にアメリカ式グローバリズムを信仰している経済学者・竹中平蔵に小泉が心酔し、塩川さんが去った第2次小泉内閣で発言力を持たせるようになると株主の利益だけを優先する悪しき経済システムを十分な検証もなく日本に持ち込み、その結果、経営者は従業員の幸せを考え、従業員は会社のために奉公する日本的な企業倫理と労使の信頼関係が崩壊したのです。つまり塩川さんあっての小泉純一郎であり、後見人・塩川さんなしでは単なる「奇人変人」「人気政治芸人」「ジョージ・ブッシュ2世の愛犬」に堕してしまったようです。
野僧は何故、あれ程まで軽薄な信念に固執しながら得意分野以外では場当たり的対処に終始した小泉純一郎がいまだに人気があるのか理解できません。第2次小泉内閣が竹中主導で押し進めた経済政策、ブッシュに迎合した外交、防衛などは全て破綻しているのではないですか?
塩川さんは大正10(1921)年に大阪府中河内郡布施村で生まれ、後に父は布施市長を務める地元の名士でした。父の命令で慶応大学経済学部に入学しますが、在学中に学徒出征で従軍しました。そのまま卒業扱いを得て、戦後は大阪に帰って会社を立ち上げ、経済界で名を上げていきました。こうした経歴があの独特の存在感を醸成したのでしょう。
それにしても御本人は今回の訃報でも見出しにまで使用された「塩爺」と言う愛称は「確かに爺だから仕方ない」と許していたもののあまり好きではなかったようです。
野僧は三重県の寺の盆と春秋の彼岸の手伝いをしていた時、東大阪市にも檀家さんがあり、電車でお勤めに行ったのですが、塩川さんのお屋敷は見渡す限りの平屋の住宅街の中で神社や寺院のように木立になっており車窓からもすぐに判りました。合掌
  1. 2015/09/22(火) 08:52:41|
  2. 追悼・告別・永訣文
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ220

入隊して半月が過ぎて最初の外出が許された夜、久留米市内の居酒屋で区隊の団結会があった。今回の幹事は助教だが、次回からは学生が交代で担当するのだろう。
私は教育隊で入隊してくる学生の顔と身上を早急に覚える訓練をしてきたため区隊のメンバーのプロフィールとキャラクターは把握している。しかし、酔って語る本音には興味があった。
若い同期たちは大学時代のコンパの感覚で好きな席に座ろうとしたのだが、部内部外の3名が区隊長と助教を奥の席に案内し、その横から年齢順に座らせようと指図を始めた。
これが航空自衛隊であればそれほど堅苦しいことは気にしないのだが、私も体育学校で陸上自衛隊式の宴会を経験しているので彼らに任せることにした。
「それじゃあ長老はこちらに」最年長の私を区隊長の隣に座らせようとする。確かにここではくつろいで飲むことはできないから私に接待役をさせるのは適切な処置だろう。
「モリヤ候補生かァ、話が硬くなりそうだな」私が隣に座ると区隊長は妙な反応をする。
「そうですか?私は豆腐やコンニャクの話も好きですよ」「料理談義か?それは面白そうだな」「美味しそうでしょう」私が冗談で返すと区隊長も応じてくれた。
「失礼します」すると私の隣に伊藤候補生が座った。伊藤候補生は新卒の同期よりも2歳年上なので年齢順であれば上座に近くなるはずだが、ここまで年かさではないはずだ。
「おう、伊藤候補生も来たか。モリヤ候補生相手では話が硬くなると心配していたんだが、これで楽しみだ」どうやら区隊長の浮かない顔を見て部内部外組が気を利かせたらしい。いつの間にか宴席を取り仕切っている部内部外組の進行で団結会が始まった。
「モリヤ候補生はマイケル・ウォルツアーの本をどこで手に入れたんですか?日本ではまだ売っていないでしょう」「あれかね。沖縄時代にエア・フォースのオフィサーの友達からもらったんだよ」私の返事を聞いて伊藤候補生は「なるほど」とうなずいた。
「でもウォルツアー博士の学説を学んでも、アメリカの正義の押し売りは簡単に治らないでしょう」「確かに自分たちの軍隊を現代の十字軍だと信じているからね」「ヒョッとして在日米軍は日本人を監視するための番犬なのかも知れませんよ」「そうかなァ、航空自衛隊ではホステージ(人質)って呼んでたよ」「ナイスなパーブーですね」伊藤候補生の発音では「parable(喩え)」もパーブーに聞こえてしまう。その点、私としてはこちらの方が理解できるようだ。すると区隊長が横槍を入れてきた。
「お前たちは楽しく盛り上がっているようだが、こちらとしては理解不能で困っているんだぞ」「エス(イエス)、アムソーリー、サー」2人一緒に英語で謝罪して頭を下げると区隊長は呆れたように苦笑した。
「俺も(大学の)第2外国語で英語をとったが、やはりアイ アム ソーリーと言ってもらわないと謝ってもらった気がしないんだよな」「イズヴィニーチェ(すみません)」「何だそれは?」「ロシア語です」「馬鹿野郎」果たしてこんな調子で良いのだろうか。ここは幹部補生学校だから許されるだろう(多分)。
あ・JunJiHyunイメージ画像
  1. 2015/09/22(火) 08:51:38|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ219

「モリヤ候補生、敬礼ってこれでいいんですか?」各個動作の基本教練が終って隊舎に戻る時、同じ区隊のWAC・伊藤佳織候補生が訊いてきた。伊藤候補生とは先日の防衛学の後、マイケル・ウォルツアーについての見解を訊かれて以来、少し距離が近づいた感じだ。それにしても大学を卒業したばかりのはずなのに妙に動作が決まっていて不思議だった。
「それはアメリカ空軍の敬礼だね」「やっぱり」伊藤候補生の敬礼は指を揃えて曲げるUSAF式だった。私が手本を見せるが鏡がないので今度は伸ばすことを意識しすぎて指が反ってしまう。
「うーん、今度は指が反ってるなァ」「こうですか?」「今度は曲がってるよ」何度か繰り返したが中々上手くいかない。
「直して下さい」やがて伊藤候補生が私の目を見ながらリクエストしてきた。
「うん」私は指で手のひらを伸ばして直した。
「この感覚を覚えればいいんですね」伊藤候補生はそう言って自分の手を見る。
「でも、WACの部屋には鏡があるだろう。その前でやれば簡単だよ」「教官直伝の方が完璧でしょう」「ここでは学生だよ」伊藤候補生の誉め言葉だったが私は分相応を忘れないように努めているのだ。次は体育なので着替えるために隊舎の階段を一緒に上り始めた。
「でも、敬礼って色々あるんですね」「うん、陸上と航空は同じだけど海上は違うね」「米軍もですか?」「空軍は狭いコクピットでやるのが癖になったらしいけどね」私の部屋は3階、WACは2階だが話しながら上ったのでようやく2階に着いた。そこで別れようとすると伊藤候補生が呼び止めて質問してきた。
「最後に1つ教えて下さい」「えッ?」「敬礼ってどうしてこんな形になったんですか?」意外に手軽な質問だったが伊藤候補生には真剣なものだったようで真顔だった。
「ヨーロッパの冑って顔に前盾があるだろう」「はい」「それを開けて顔を見せる動作が敬礼になったらしいよ」説明しながら何度か実演して見せると伊藤候補生は感心したようにうなずいた。
「だからヨーロッパの軍の敬礼は掌を返して見せるんだね」これも実演すると伊藤候補生は急に慌てた顔をした。
「ありがとうございました。あッ、急がないと遅れちゃいます」「オッと遅刻だ」勉強家の同期につき合ってツイツイ時間を忘れていた。
私が部屋に入ると着替え終わって雑談していた同期たちが声をかけてきた。
「モリヤ候補生、伊藤候補生に個人レッスンだな」「個人教授ってね」「奥さんに怒られるぞ」「俺がばらしてやろっと」残念ながら私に相手をする余裕がなく言われっ放しで慌てて着替えた。
集合すると伊藤候補生も珍しく髪が乱れたままだった。
  1. 2015/09/21(月) 08:54:38|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月20日・奥州武士の誉れ・九戸政実が惨殺された。

豊臣の時代になっていた天正19(1591)年の本日9月4日(太陰暦)に奥羽武士の誇りと強さを天下に知ろしめた武将・九戸政実さまがあろうことか主君の南部信直(のぶまさ)によって騙し討ちにされました。
旧・南部領である岩手県北部から青森県東部には一戸から九戸までの関があり、それぞれを守る豪族はその地名を名乗っていますが、九戸家の居城・九戸城は現在の二戸市にありましたからややこしいのです(四戸の地名は現存しませんが、三戸と海岸の中間辺りに在ったらしい)。
九戸家は源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後に進駐させた武田源氏(後の南部家)・光行の6男・行連(ゆきつら)さまが九戸の庄に住んだことから、この姓を称するようになったと言われています。行連さまから11代目の当主が政実さまで若い頃から武勇に優れ、その名は遠く中央にまで知られていました。
当時、当主の晴政には実子がなく、従弟の子である信直を長女の娘婿に迎え、次女を政実さまの弟に嫁がせて家内の結束を固めたのですが、やがて晴政に男子(後の晴継)が生まれ、同じ頃に信直と結婚した娘も病死したのです。そうなれば内紛になるのは必定ですが、信直は後継ぎの座を退くと本拠地の三戸城から退去して事態は沈静化したように見えました。ところが晴政が病没したことで家内の信正派と晴継派の対立が表面化した中、晴継が急死(暗殺?)したことで一触即発の事態に陥ったのです。
そこで評定が開かれたものの信正派と晴政の次女と結婚した九戸実親派の間で熾烈な家督争いになり、裏工作に勝っていた信直が当主と決定しました。
こうして自領に籠った九戸兄弟は天下人となった豊臣秀吉に恭順する信直に反旗を翻したのです。このような内紛はどこでもあることですが、信直は極めて南部家らしい手段で決着を付けようとしたのです。
信直は自分ではなく秀吉への謀反として届け出て、奥羽仕置きに来た豊臣秀次、蒲生氏郷、浅野長政、井伊直政らの中央派遣軍の力を借りて制圧しようとしました。しかし、九戸城の守りは固く容易に落ちなかったため、あろうことか家臣・領民の助命を条件に降伏を勧め、それに応じた政実さまをだまし討ちにした上、城内にいた家臣、城兵、領民を婦女子に至るまで皆殺しにしました。
いまでも政実が斬首された9月20日(太陽暦の11月9日との伝聞もある)になると九戸城への街道には武者行列の亡霊が現れ、女子供の泣き声が響き渡ると言われています。
そもそも南部家は鎌倉時代、奥州藤原氏が滅ぼされた後に送りこまれた進駐軍であり、家臣・領民をいたわる気持ちに欠け、家臣の反発に対しても策略や中央の力を借りての弾圧を繰り返し、領民には重税を課す暴君でした。
浅田次郎先生の名作「壬生義士伝」では主人公・吉村貫一郎・嘉一郎父子が最期まで南部武士の忠誠と誇りを失わなかった姿を感動的に描かれていますが、逆に言えばこれ程の武士を脱藩せざるを得ない窮状にまで追い詰めた南部藩の愚かさの物語と読むこともできます(ただし、この作品の半分は創作であると著者が認めています)。
現在、天下は戊辰戦争と言う反乱を画策して武士としての忠義・節度を貫いた奥羽越列藩同盟に朝敵の汚名を着せて滅亡に追い込み、それを正当化する虚構の歴史を捏造した薩長土肥の首魁・山口県出身者が手中に収めています。今年も度重なる恨みを抱いた亡霊たちが岩手県二戸市内をさ迷い歩くのでしょう。
  1. 2015/09/20(日) 08:42:53|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ218

それは防衛学でもやってしまった。我が国の防衛体制を説明する教官が日米安全保障条約意義を説明している時だった。候補生の1人が「米軍は自己満足な理由をつけて世界中で勝手な戦争を繰り返している。将来、自衛隊がそれに巻き込まれるようなことになるのではないですか」と質問した。それに教官が候補生たちに意見を求めた。
「自衛隊単独ではソ連軍に対抗できるはずがないから仕方ないのではないか」「むしろアメリカの同盟国として積極的に国際紛争に関与できるようにするべきだ」「自衛隊は日本の防衛に専念すべきであり、国際紛争には別の手段で解決する方法を模索するしかない」やはり大学を卒業して自衛隊に入ってくる以上、一般的な大学生よりも防衛問題に関する勉強はしているようだ。それも意外にタカ派的な意見が大勢だった。そこでまたまた悪い癖が出てしまった。
「アメリカ軍内では過去の単独での軍事行動による暴走に対する反省から多国籍軍による相互監視の下での作戦行動に転換する動きがあります」「へッ?」これには教官と同期たちは呆気に取られている。
「情報収集と分析評価などでもアメリカ単独では独善に陥る危険性があり、第3者と意見の整合を図ることでそれを防止し、責任の分担も担保すると言うことです」「それは何の本に書いてあるんだ。根拠を示せ」自分が知らない情報を候補生が述べたことで少し気色ばんだ教官は出典を質問してきた。
「日本では発売になっていませんがアメリカの戦争哲学者・マイケル・ウォルツアーの・・・」「Just and Unjust Warsですね」私が言いかけた本の名前を女子の候補生が答えた。それは伊藤佳織候補生だった。伊藤候補生はアメリカの大学へ留学したため秋の入学・卒業になり、他の候補生よりも2歳年上だと聞いている。
「伊藤候補生、君も知っているのか?」「はい、アメリカにいた時、書店で見つけて買いました。アメリカの学者なのに太平洋戦争でアメリカ軍が行った都市空襲の違法性も率直に認めていて非常に感動しました。ウェストポイントやアナポリスでも必読書になっているそうです(コロラドスプリングでも)」「・・・」伊藤候補生の説明に教官は黙ってしまった。
「他に読んだ学生は?2人だけだな。ところでモリヤ候補生は大学中退と聞いているが、英語の戦争哲学書を読めるのかね」「航空自衛隊では米空軍の技術指令書を使って仕事をしますからある程度の英語力は必須です」「・・・」また黙らせてしまった。これでは大学中退の分度を守るどころか航空自衛隊のレベルを誇示しているようだ。それは体育学校でも経験した一番まずい展開だろう。
私は岩国基地研修などに際して曹候学生たちに日米安全保障条約を「自衛隊は科学特捜隊、米軍はウルトラマン」と説明していた。これなら分相応だったのかも知れない。
椎名素夫外務大臣の「米軍は我が国の番をして下されるお犬様」と言う得意ネタもあるが、「後悔先に立たず」「三つ児の魂百まで」「馬鹿は死ななきゃ治らない」ようだ。
  1. 2015/09/20(日) 08:41:34|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月20日・203高地を攻略した大迫尚敬大将の命日

昭和2(1927)年の明日9月20日は日露戦争で乃木希典と同郷の伊地知幸介参謀長の愚将タッグの第3軍に入れられ、203高地を攻略することになった大迫尚敏大将の命日です。
大迫大将は天保15(1844)年に島津藩で生まれ、文久3(1863)年の薩英戦争に参戦しています。明治になると陸軍に入り、明治10(1877)年の西南戦争では政府軍側として熊本城に籠城しています。明治28(1895)年の日清戦争に歩兵第5旅団長・少将として出陣し、戦後は参謀本部次長を経て・中将で明治33(1900)年に北海道全土を守備する第7師団長に就任しました。
第7師団は屯田兵を母体にして日清戦争後の明治29(1896)年に新設されており、大迫中将は2代目の師団長でした。
屯田兵は明治7(1874)年に敗軍士族を開拓と防衛に充てるために設置され、当初は札幌付近の開拓に当たっていたのですが、次第に北と西に展開していったのです。屯田兵はその任務の特性から志願制であり、家族同伴のため集落をもって中隊などを編成していました。
戦歴としては西南戦争、日清戦争に参加を命ぜられましたが、元々は北海道の守備を任務としており遠距離を機動する組織制度にはなっていなかったため、西南戦争では敗走する西郷軍の追撃に間に合ったものの日清戦争では編成・訓練の段階で戦争は終わっていたのです。
ちなみに北海道を守備する第7師団は道民から「北鎮師団」と言う尊称を与えられており、現在も旭川に師団司令部を置く陸上自衛隊第2師団に継承されています。
同様に日本が降伏した後、千島列島・占守島に侵攻してきたソ連軍を迎え撃った池田末男大佐の「士魂」戦車部隊の名は「十」と「一」の文字から恵庭にある第11戦車大隊が名乗っており、日露戦争の英雄・橘周太中佐の歩兵第34「橘」連隊も同じナンバーの第34普通科連隊が踏襲しています(駐屯地が同じ静岡県内でもある)。
そんな第7師団が日露戦争への参戦を命じられたのは乃木の第3軍が3個師団、1個歩兵旅団の5万1千名の兵力で旅順要塞の攻撃を始めながら無能な司令官と阿呆な参謀が立てる拙劣な作戦によって最終的には戦死1万5千4百名、負傷者4万4千名の多大な損害を出しても攻略できず、旅順軍港内で息をひそめているロシア極東艦隊が温存されたままバルチック艦隊の来航を待つことになり、これを打開する責任が陸軍に課せられたからです。
本来、対ロシアの戦争であれば北海道も攻撃正面であり、この命令はかなりのリスクを覚悟した上でのことだったのでしょう。
こうして大迫中将が指揮する第7師団は激闘に身を投げ入れることになりますが、幸いにして満州軍参謀長・児玉源太郎大将が異例の作戦介入をしたおかげで組織が健全な形で機能し始め、新たな攻撃目標となった203高地を奪取することができました。その後も奉天会戦に参加していますが、ここでも乃木は愚将ぶりを遺憾あり発揮したため北鎮師団の名を飾るような戦果は挙げられていません。
大迫大将は3男・三次中尉を日露戦争で亡くしていることから「薩摩の乃木」と呼ばれることがありますが、乃木が第7師団所属だった2男・保典少尉を203高地攻撃の初頭で失ったのは自業自得と言わざるを得ないので、「同じ扱いをするな」と抗議するべきですが、そんな非礼・狭量な人物ではありませんでした。
余談ながら大迫大将は乃木が明治天皇から皇孫(=昭和天皇・秩父宮殿下)の育成を託されながら殉死した後を引き継いで学習院の院長に就任しています。乃木の尻拭いばかりの役回りでした。
  1. 2015/09/19(土) 08:58:09|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ217

一般課程の学生はやはり部外からの入隊なので当初の教育内容は曹候学生や新隊員と変わりなかった。しかし、相手は大卒者であり航空教育隊のように教官が自衛隊の常識・政府の見解を一方的に語るだけで済むはずがない。
関係法規の手始めは憲法からなのは一般空曹候補学生や新隊員も同様だが(陸の新隊員は服務規則だけらしい)、航空教育隊の幹部たちは深入りしないように自民党政権の見解を紹介した後、「反対意見もある」と言うだけで逃げるのが普通だ。ところが日本の法学界では「自衛隊は違憲」とする見解が大勢であり、法学部出身の候補生たちは当然、この立場で意見を述べた。
教官も毎年このような連中を相手にしているので青二才の候補生が教授の受け売りで自衛隊違憲論を強弁しても「君はその違憲の自衛隊に就職したのかね」と肩透かし、はたき込みで沈黙させるのはお手の物のようだ。そこで私の悪癖が出てしまった。
「モリヤ候補生、君は航空自衛隊上がりだったな」手を挙げた私を指名して教官は「援軍が来た」と言う表情をし、同期たちは「自衛隊の立場の合憲論が始まる」と眉をひそめた。しかし、私の意見も左翼系大学法学部と同じものだ。
「私は入隊時から自衛隊は違憲だと考えています」「へッ?」教官と同期たちは逆の意味で呆気にとられる。
「日本国憲法の前文と第9条の条文をどう読んでも自衛のための武力を保持できるとは解せません。何よりも国の交戦権が認められないのであれば防衛行動そのものが成立しないでしょう」ここまでは先ほどまで同期たちが教官と交わしていた討論の確認だった。
「しかし」「しかし?」ここで教官は真顔になり、同期たちも妙に身構えた。
「我が国の法制史を見れば大宝律令を中国から導入するに当たっては軍事の規定を削除しており、云わば戦争の放棄と武力の不保持を国是としたのでしょう。このため防人や検非違使は令外官(りょうげのかん)として存在していたのです」「令外官?」「令外官とは・・・」専門外の用語だったのか教官が一瞬、困惑した表情をしたので補足説明した。
「さらに武力紛争関係法の戦闘員の要件には軍人であることはなく、防衛組織が軍であろうと自衛隊であろうと関係ないと考えます」「それじゃあ、憲法は無視しろって言うことか?」同期の誰かが質問したのでそれにも答えた。
「日本人の法慣習では17条憲法の昔から最高法規は単なるスローガンに過ぎないようです。自衛隊は令外官であることを負い目にして自重すれば十分と言うことです」「・・・」「結局、我が国に於いては武力を保持することが戦争を招くと言う言霊信仰があり、律令や憲法でそれを否定する精神風土があるのではないでしょうか」「・・・」「つまり憲法違反の令外官である自衛隊は日本国においては極めて正当な武力組織と言うことです」「・・・」予定外に熱弁を奮ってしまったが教官や同期たちは「理解不能」と言う顔で私を見ている。
「大学中退の特例者として控え目に過ごす」と言う誓いを実に呆気なく破ってしまった。
  1. 2015/09/19(土) 08:56:18|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ216

留守宅で美恵子は怒っていた。夫は入校したとは言え自分は防府に残っている以上、今年も基地の理容店から入隊時の手伝いを頼まれると待っていたのだ。しかし、待てど暮らせど連絡は入らない。夫の転属で家族入門証を取り上げられたため売店まで訪ねることもできず、思い切って電話をしてみた。
「もしもし、モリヤですが」「あッ、モリヤさん。久留米からかね」「えッ?」「そろそろ引っ越して2週間だね。もう落ち着きましたか」どうやら小父さんは美恵子も久留米へ行ったと思っているようだ。
「私はこっちに残ってるんですけど」「えッ?それじゃあモリヤさんは単身赴任してるんかね」「はい」電話口の向こうで小父さんが小母さんに「モリヤさんから・・・旦那さんは単身赴任してるんだって」と説明しているのが聞こえる。
「それで学生さんも入って来たからそろそろ手伝いに行こうかなと思って」「・・・」ここで小父さんが受話器の口を押さえたのが判った。
「モリヤさん、いつも手伝ってもらって有り難かったけどもう結構です。今年は娘に手伝わせることになっているんですよ」小父さんの娘は美恵子と同年代で理容学校を卒業してから市内の大型スーパーに出店している理容店で働いていたはずだ。ただ理容店の同僚と結婚することが決まり夫の実家の店を継ぐため退職すると聞いている。
「モリヤさんはいつまでこっちにいるのかね?」「官舎は半年で出なければいけないから夏頃までです」「それじゃあこっちで仕事を探すのは無理だね。まァ、しっかり家を守って下さい」それだけ言うと小父さんは電話を切ってしまった。
確かに半年で辞めることが分かっている理容師を雇う店はないだろう。それならば夫が言っていたように無理しても久留米について行けばあちらで1年間の短期就職ができたのかも知れない。あの時、夫の考え過ぎを馬鹿にしたが、今度は自分の考えなしを後悔する羽目になった。しかし、それは反省ではなく勝手に幹部候補生になった夫への不満として湧き上がってくる。美恵子は部屋の中で淳之介が広げて遊んでいる玩具を取り上げて片づけてしまった。そして泣き出した淳之介を大声で怒鳴りつけた。

午後、美恵子は淳之介を官舎で親しくしている奥さんに預け、市内へ求職活動に出掛けた。最初は基地の理容店夫婦の娘が務めていた大手スーパー内の理容店からだ。理容師が2人揃って辞めてしまっては後任が簡単に見つかるはずはない。そこに経験者が求職に来れば渡りに船のはずだ。しかし、応対した店長は首を横に振った。
「申し訳ありませんが当店は理容師の募集はしていません」「でも理容師が2人も辞めてしまったんでしょう」「はい、それは以前から決まっていたことなので後任者を確保していました」それは至極当然な処置だろう。
結局、美恵子は仕事を見つけられず不機嫌なまま家に帰ることになった。そもそも新人の理容師たちが就職した直後に飛び込みで求職すること自体が無理な話なのだ。
  1. 2015/09/18(金) 09:33:04|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月17日・岡田資(たすく)中将の死刑が執行された。

昭和24(1949)年の本日9月17日に戦犯としての法廷闘争を「法戦」と名づけ、被告となった旧部下19名と弁護団を率いてアメリカ軍人の裁判官・検事と闘った岡田資中将の吊首刑が執行されました。岡田中将は巣鴨の獄中で手記「毒箭(どくせん)」を執筆しましたが、「毒箭」とは毒矢のことで、阿含経の「毒矢が刺さった時には先ず矢を抜くべきであり、それもせずに毒の成分や効果を考えることは愚かなことである」と言う教説に由来しているようです。
東海軍司令官だった岡田中将と部下たちの罪状は名古屋市と周辺地域を空襲して撃墜されたBー29の搭乗員27名を処刑したことでした。この処刑方法が斬首であったことからアメリカ軍は「報復のために残酷な方法で処刑した」と決めつけましたが、岡田中将は「米軍の都市への無差別爆撃と市民を狙った機銃掃射は武力紛争関係法に違反する重大な戦争犯罪行為であり、搭乗員はその刑に服しただけだ。日本刀による斬首は武人としての作法に則った礼節だ」と反論しました。
法戦の中で岡田中将は「私は始め早く斬り死にすることを願っていたが、米軍の違法行為を目の当たりにして雌雄を決するまで戦い抜く決意をした」と述べています。
岡田中将が担任していた東海地方では昭和19年12月13日に飛行機の4割を生産していた三菱発動機の工場を空襲されましたが、司令官が正統派のヘイウッド・ハンセル少将から狂人・カーチス・ルメイに交代して以降、都市部への無差別爆撃に転換し、名古屋市内だけでも昭和20年7月26日までの38回に及び、特に5月14日と6月9日の大空襲では死者8152名、負傷者10950名、罹災者52万名が出たのです。さらに東海軍に捕獲された搭乗員たちは浜松、大阪、神戸、姫路への空爆も証言しており、「度重なる文民殺傷は死刑に相当する戦争犯罪」と判断したことにも法的根拠はありました。
アメリカ軍は昭和17年4月18日に行った空母に搭載したBー25による日本初空襲で大陸へ逃れた一部が日本軍の占領地域に不時着し、捕獲された搭乗員が同様の罪で処刑されたことを重視しており、南洋諸島でも僚機によって脱出が確認された搭乗員が発見されないと戦後、その地域を担任していた指揮官を自動的に戦犯として訴追し、ほぼ全員を処刑しています。
岡田中将は「毒箭」の中で「敗戦直後の世相を見るに言語道断、何も彼も悪いことは皆敗戦国が負うのか?何故堂々と世界環視の内に国家の正義を説き、国際情勢、民衆の要求、さては戦勝国の圧迫も亦重大な戦因なりし事を明らかにしようとしないのか?要人にして徒に勇気を欠きて死を急ぎ、或いは建軍の本義を忘れて徒に責任の所在を弁明するに汲々として、武人の嗜みを棄て生に執着する等、真に暗然たらしめらるるものがある」と述べています。
確かにアメリカ軍はイギリス軍がドイツで行った最初に市街地周辺を炎上させて逃げ道を塞ぎ、その後に中心地を爆撃し、さらに機銃掃射で皆殺しにする残忍極まりない違法な戦術を踏襲していましたが、ヨーロッパにおいてもナチスと当時のドイツ軍のみが断罪され続けているのです。
岡田中将はこの法戦の意義について「法戦は身の防衛に非ず、部下の為也。軍の最後を飾らん為なり」と妻への手紙に記しています。実際、この公判で死刑になったのは岡田中将だけで、参謀の佐官は終身から15年の重労働刑、刑を執行した中尉2名は30年と20年の懲役刑、補助した下級士官と下士官13名は10年の懲役でした(中将が存命中に13名は釈放され、その他の受刑者も昭和28年5月までに全員が生きて出所しました)。
裁判を終えて岡田中将は「判決はご勝手にだ。之は米軍にても都合のあることゆえ」と述べ、むしろ自分が死刑になることで部下の刑が軽くなることを期待していたようです。合掌
  1. 2015/09/17(木) 09:34:17|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ215

「一般課程の自衛隊出身者=部内部外は一般空曹候補学生の現職組のようなものだ」と思っていたが少し違っていた。曹候学生では義弟・松真のように新隊員から入校する現職組が2割程度いて、班長は大まかな指導をすれば後は現職組に「やらせておけ」と指示するだけでよく、それが「指揮能力の練成になる」と理由をつけていた。
しかし、幹部候補生学校では学生が中途半端な知識と経験で余計な影響を与えることは許されず、むしろ大学卒の同期たちは通信課程卒の部内部外の連中が先輩面することに反発し、かえって蹴落とすチャンスを虎視眈々と狙っているようだ。
その点、元航空自衛官の私は珍獣扱いであり、中退した大学も通信課程ではなかったことで単なる経験豊富な年寄り扱いしてもらえるかも知れない。

松真と私の入隊式は金曜日と月曜日だった。おかげで両親は美恵子と淳之介を連れて梯子で出席してくれた。式の後、学生は家族と面談することが許された。
「昨日は古賀政男記念館に行ってきたさァ」昨日、我が家の車で久留米へやってきた両親と妻子は市内のホテルに泊まった。その前に柳川へ行って来たらしい。
「まぼろしの影を慕いて 雨に日に・・・」桜の下の美恵子と淳之介、義母を眺めながら義父は、仕事中に車内で聴くことがある古賀メロディの「影を慕いて」を低く口ずさみだしたので、祖母から習って知っていた私も低く合わせた。
「水路巡りはどうでしたか?」「うん、河童がいたさァ」私の問いに義父はグランド沿いの桜並木を見渡しながらうなずいた。そう言う私自身は柳川に行ったことがなくガイドブックの請け売りだった。
「沖縄ならキジムナーですね」「うん、あっちも川にすんでいるな、それにしても詳しいね」私の話に義父は今更のように感心してくれる。キジムナーはヤンバルの暗い川にいる髪も体も赤い妖精と言うか妖怪と言うかの化け物だ。
「それでドジョウを食べたのさァ」「そうですか、マーサイでしたか?」私の問いにうなずきながらも義父は思い出し笑いをした。
「まだ生きているドジョウを煮てしまうなんて残酷な料理さ・・・」柳川名物の柳川鍋は豆腐とドジョウを一緒に煮て豆腐の中に逃げ込ませる料理なのだ。
「それでも山口県にはシロウオの踊り食いって生きたまま食べる料理もありますよ」「へー・・・」私の説明に義父は顔をひきつらせた。
「丸呑みするとノドをクネリながら通って胃の中で泳ぐのが好いって言うんです」「本土の料理も色々さァ」義父は少し顔を歪めて呟いた。
「これからはモリノさんと賀真のところへ行って全国を回るのさァ」「はい、そうして下さい」義父の気持ちが前向きなのを知って私は深くうなずいた。
「美恵子にも幹部自衛官の妻になるための勉強をさせないといけないな」「・・・」それが悩みの種だった。やはり両親は前回の入校で何か問題点を見つけていたようだ。
  1. 2015/09/17(木) 09:29:42|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月17日・黄海海戦で「勇敢なる水兵」が戦死した。

明治27(1894)年の明日9月17日に日清戦争の黄海海戦で軍歌「勇敢なる水兵」に謳われた三浦虎次郎3等水兵が戦死しました。
野僧は中学生の時、日本の産業が海外から輸入される資源によって成立していることを学び、その海路を防衛する海上自衛官になろうと志しましたが、その決意を聞いた祖父は軍歌「勇敢なる水兵」と「広瀬中佐」を教えて激励してくれたのです。
黄海海戦はこの日に日本の伊東祐亨司令長官が指揮する連合艦隊と丁汝昌提督の清国北洋艦隊の間で戦われました。戦力としては清国艦隊が戦艦2隻、巡洋艦10隻などを擁するのに対して日本艦隊は巡洋艦8隻の他にはコルベット(小柄な巡洋艦)2杯やガンボートなどの小型艦艇しかなく明らかに劣勢でした。そんな不利な海戦で伊東司令長官は艦艇の速度が優っていることを最大限に活用し、単縦陣と呼ばれる縦列で清国の大型艦の間を通り抜け、切れ目のない砲撃を加えたのです。その結果、清国艦隊は巡洋艦5隻が撃沈・大破、死傷者850名の損害を被ったのに対して日本艦隊は4隻が大破、死傷者300名弱でした。
三浦水兵は防護巡洋艦・松島(兄弟艦・橋立・厳島と合わせて三景艦と呼ばれた)に乗り組んでいて15時30分頃、左舷4番速射砲付近に戦艦・鎮遠の30・5サンチ砲弾が命中し、装薬(当時は薬莢ではなく弾頭の後に火薬を入れた袋を詰めて射撃した)が誘爆したため28名が戦死した中の1名になったのです。
この時、艦上の被害状況を確認するため通りがかった副長の向山慎吉少佐に「まだ沈みませんか、定遠は?」と問い、「あれを見よ。もう沈みがかっているぞ」との答えを聞き、「必ず仇を討って下さい」と言って絶命しました。しかし、ドイツ製の定遠は159発もの命中弾を受け、55名の死傷者を出しながらも健在で、その後も任務についていました(終戦直前に捕獲されることを嫌って自沈した)。同型艦の鎮遠も終戦時まで生き残り日本海軍に引き渡されていますから「もう沈みかかっている」のは別の巡洋艦でしょう。
三浦水兵は明治8(1875)年12月23日に佐賀県与賀村の豪農の長男として生まれ、17歳で海軍に志願し、佐世保海兵団に入営して5等水兵(当時の階級制度)になりました。その後、4等水兵としての水雷艇勤務を経て日清開戦の半年前の明治27年1月に松島乗り組みになり、6月には3等水兵に昇任しています。こうして迎えた黄海海戦で戦死したのですが、大破した松島で佐世保に戻って上陸した向山少佐が本屋に立ち寄ってこの話をしたところ新聞社に伝わり感動秘話として記事になったため、それを読んで感動した歌人・佐佐木信綱が詞を書き、軍歌「勇敢なる水兵」が発表されたのです。
1番「煙も見えず雲もなく 風も起こらず波立たず 鏡の如き黄海は曇り初(そ)めたり時の間に」2番「空に知られぬ雷(いかずち)か 波にきらめく稲妻か 煙は空を立ちこめて 天津日影も色暗し」3番「戦い今やたけなわに 勉め果たせる丈夫の 尊き血もて甲板は 唐(から)紅に飾られつ」4番「弾の破片(くだけ)の飛び散りて 数多(あまた)の傷を身に負えど その魂(たま)の緒を勇気もて つなぎ留めたる水兵は」5番「間近く立てる副長を 痛む眼(まなこ)に見とめけん 彼は叫びぬ声高に まだ沈まずや定遠は」
6番「副長の眼はうるおえり されど声は勇ましく 心安かれ定遠は 戦い難くなしはてき」7番「聞きえし彼は嬉しげに 最後の微笑(えみ)をもらしつつ いかで仇を討ちてよと 言うほどもなく息絶えぬ」8番「まだ沈まずや定遠は この言の葉は短きも 皇国(みくに)を思う国民(くにたみ)の 心に永く記(しる)されん」ちなみに漫画「のらくろ」の主題歌はこの替え歌です。  
  1. 2015/09/16(水) 09:11:28|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ214

服装も整ったところで教場に集められ、区隊長の挨拶と自己紹介になった。区隊長は同じ一般課程出身の特科の1尉で、助教は普通科の2曹で格闘の上級指導官だ。区隊には男子27名と女子3名がおり、年齢は私が最年長、陸上自衛隊からの部内部外(通信課程などで大卒の資格を取った部外合格者)が3名いる。
「それでは1人5分で自己紹介してもらうとする。順番は姓のアイウエオ順だ」区隊長の説明に互いの名前を知らない学生たちは顔を見合わせた。
「先ず安藤候補生、言っておくが今後、君たちは自分の姓に候補生と付けるように」「はい」「・・・」区隊長の指導に返事をしたのは私と部内部外の3名だけだった。
「返事をしなさい」区隊長の隣りから助教が指導すると他の候補生たちは小声で「はい」と返事をする。それを区隊長が「声が小さい」と一喝したので私は大声で「はい!」と返事し直した。その大声で返事をしかけた大卒者は息を呑んでしまったようだ。
「モリヤ候補生、見本としては非常に良いが周囲を呑むような大声は不要だな」この辺りが元気だけで暴走も許された曹候学生とは違う幹部としての分別と言うものだろう。
こうして順番に自己紹介が始まったが、流れから言えば出身大学を説明しなければならず、名簿順が後半の私は悩んでいた。それにしても世の中は好景気なため(バブルの真っ最中だった)安月給で制限が多い公務員は人気がなく、中でも「3K職種の典型」と言われる自衛隊に入ってくる有名大学の卒業者は見当たらないようだ(女子は除く)。
「次、モリヤ候補生」「はい、モリヤ候補生」私は同期たちの略歴をメモしていた手帳を閉じて立ち上がると教壇に歩いて行った。
「モリヤ候補生、自己紹介を実施します」壇の手前から区隊長に報告するとそれが意表を突いていたのか同期たちは呆気に取られ、区隊長と助教は顔を見合わせて苦笑した。
「最年長のモリヤ候補生です。長老と呼んで下さい。出身地は愛知県岡崎市、つまり三河武士です」ここで先ほど名古屋市出身と自己紹介した同期が顔を上げた。
「学歴はあまり言いたくないのですが卒業したのは第7期一般空曹候補学生です」そこで同期の1人が「それは大学相当の教育機関なんですか?」と質問した。父親は大学を中退して曹候学生に入った時、「防衛大学校の短大」と言い触らしたが嘘はつけない。
「いいえ、大学は地元のローカル大学を中退しました」「それって・・・」「愛知大学です」名古屋市出身の同期が何かを言いかけたので先に白状した。
私は中退では学歴にならず、むしろ一般空曹候補学生出身であることに誇りをもっているため愛知大学については一切語ってこなかった。そもそも愛知大学に入ったのは志望していた京都の佛教系大学の哲学科を父親に「坊主にでもなる気か」と一方的に禁じられた結果であり、始めから嫌で仕方なかったのだ。
「愛知大学って国立ですか?」「いいえ、私立です」「愛知県内では上の方だよ」同期の質問に私が答えると名古屋市出身の同期が補足説明した。彼の大学は体育会系としては全国的に有名だが学科レベルでは数段下がるはずだ。何にしろあまり楽しい話題ではない。
  1. 2015/09/16(水) 09:10:30|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

9月16日・甘粕事件=大杉栄・伊藤野枝・大杉の甥が殺害された。

関東大震災から半月後の大正12(1923)年の明日9月16日に憲兵大尉・甘粕正彦によって無政府主義者の大杉栄とその内妻である伊藤野枝、さらに大杉の7歳の甥が殺害されました。
無政府主義=アナーキズムと言うのは政治を人間の自由な精神活動を阻害する悪しき存在として否定し、最終的には廃止しようとする当時、ヨーロッパを中心に盛り上がっていた社会運動です。本場であるヨーロッパでは無政府主義の本質が理解され、共産主義との相違点も正しく認識されていましたが、日本では反政府=共産主義と短絡的に受け止められていたのです。
ただし、日本における無政府主義運動の指導者であった大杉栄は無政府主義と活発化していた労働組合の争議を結び付け、無血革命による政府打倒と共産主義国家の樹立を目指していましたから政府の認識は必ずしも間違いではなかったようです。
このため大正6(1917)年に勃発したロシア革命により、ソビエト社会主義共和国連邦が成立したことによる波及を危惧する世界的潮流を受け日本でも治安警察法に代わる専用法=後の「治安維持法」の制定を目指す動きが始まり、その対象者の中に無政府主義者も加えられました。しかし、大正デモクラシーの人権意識の高まりに反する思想統制の法律への反発は強く、政府としても強行することを躊躇していたのですが、そんな折に関東大震災が生起したのです。
壊滅状態に陥った首都・東京では山本権兵衛内閣により戒厳令と同時に「治安維持の為にする罰則に関する件」の勅令(緊急性が高い場合に出される暫定的な法規定)が発布されました。それでも都内では「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などと言う噂が広まり、見知らぬ人物を拘束して言葉遣いが不自然と言うだけで拷問を加える異常な事態が頻発していたのです(東京へ出てきたばかりの地方出身者や強度の吃音・聾唖の日本人も数多く被害を受けた)。
その混乱の中、大杉栄は内妻・伊藤野枝を伴って横浜市鶴見区の伊藤の前夫・辻潤(虚無主義の思想家)宅に被災見舞いに出掛けたものの不在だったため近傍にあった弟宅に寄りました。すると末の妹が息子を連れて来ており、その甥が「東京の焼け跡を見たい」と言ったため連れて東京府本郷区駒込の自宅に帰ると待ち構えていた甘粕正彦大尉と部下の憲兵に拘束され、淀橋警察署に連行された後、麹町憲兵司令部に移送されました。
ここで何が行われたのかは甘粕大尉と共犯者・協力者とされる憲兵4名の軍法会議によるしかありませんが、甘粕大尉は「自ら両手で首を絞めて大杉を殺した」と証言しているものの証拠とされた死亡診断書によれば大杉と伊藤は顔面から胸部にかけて激しく殴打された痕跡が顕著であり、大杉の実子と間違われたため一緒に拘束された甥は絞殺だったようです。3人の遺体は憲兵司令部内の古井戸に投げ入れた後、馬糞や瓦礫で埋めて隠蔽されています。
大杉は労働運動を巧みに扇動していたこともあって庶民の人気が高く、事件発生直後から「憲兵に拘束された」との噂が広まっており戒厳令下の政府でも問題視されました。このため警察から「憲兵の犯行」と言う情報が流出し、軍法会議で甘粕大尉は「淀橋警察署から自分たちにはやれないから憲兵で処置してくれと依頼された」などと弁明したようです。
しかし、あまりにも杜撰な犯行であり、事件後の処理も後手に回っていることを考えると陸軍内でもあまり高い立場の人間が画策した謀議とは思われず、有罪判決を受けても3名の殺害の割に10年の服役で済ませられ、皇太子の成婚による恩赦で出獄した後、官費でヨーロッパへ留学させられる程度の影響力を持つ程度の人物との共謀だったのでしょう。
何にしてもこの一部の人間の凶行を以って陸軍憲兵隊を治安維持法による思想弾圧、拷問虐殺の実行犯とすることは史実の重大な誤りです。
  1. 2015/09/15(火) 09:27:15|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ213

総合点検の翌々日、卒業式の前々日には前川原駐屯地への出張命令で出発する。転属の命令が出ていないため朝礼での紹介や見送り、送別会もない。航空教育隊としてはあくまでも身体検査で落ちて戻ってくることを想定しているようだ。
しかし、陸上自衛隊の入校前身体検査で落ちた者が航空自衛隊の幹部候補生に入校できるはずはなく、あくまでも人事上の確実性のための処置なのだが、これから命令が出るまでの自分自身の存在が判らなくなる。仮にこの時点で事故があればどちらの隊員として処置されるのだろうか?
あまりにも落ちる可能性を最大限に考慮した人事手続きを見せつけられたため、私は陸上自衛隊幹部候補生学校の入校前の身体検査が高校の時に小月基地で受けて落ちた海上自衛隊飛行学生の2次試験のような難関かと心配していた。が、何のことはない普通の身体検査で当然のように合格した。
その結果を電話で連絡すると大隊本部の人事担当の1曹(1月1日付で昇任した)は「それでは幹部候補生・陸曹長になっているよう処置します」と極めて適切に答えた。
「ところで官舎の退去手続きは?」「半年間は家族を置いておきます」「えッ?後任の班長が来れば入居させようと思っていたんだけど」「それでも転出後、半年間は継続可能でしょう」「確かに落ちた時にはそのまま住むしかないから、それを考えたんだね」この1曹はあくまでも「落ちる」と思っていたようだ。
身体検査に合格すれば直ちに制服などの被服が貸与される。確かにいつまでも大学時代の服装で駐屯地内をウロウロされるのは好ましくないはずだ。
私は航空自衛隊の制服で来る訳にはいかず身体検査での着脱を考えてジャージの上下だったが、陸上自衛隊からの部内部外組の中には曹長の階級章をつけた作業服を着ていて「もう発令されたのか?」と注意を受ける者もいた。
体育学校で制服は入校式と修了式で着ただけなので気がつかなかったが、意外なことに陸上自衛隊と航空自衛隊では同じで違っていた。
生地は色が違うだけで材質は完全に同じだ。一方、航空自衛隊の上衣の裾はサイドベンツだが陸上自衛隊はセンターベンツだった。本来であれば騎兵の軍服はセンターベンツなので、その流れを組む航空兵の方が踏襲するべきなのだろうが、デザインした森英恵はそのような歴史的経緯まで考慮しなかったのだろう(米空軍はセンターベンツだ)。
ボタンは単なる金の丸いノッペラボウで航空自衛隊のように模様がなく、身嗜みで向きを気にする必要はなさそうだ。肩章は襟の中で固定されており(航空自衛隊は襟の外のボタンで留めるため気をつけていないと端が出てしまう)、これも身だしなみが楽だ。
作業服は膝と肘が2重になっていて匍匐前進をしても破れることはないだろう。逆に言えばそれ用の服だと言うことなのだ。
作業帽は体育学校で習った方法でワイヤーを入れ、上面が平らのドゴール帽にした。徽章が赤い星なら人民帽風も悪くないが、それではフェーカー(=仮想敵)になってしまう。
  1. 2015/09/15(火) 09:26:17|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ212

前川原駐屯地は福岡県=九州だけに呼び名は2種類ある。地元の人は「まえかわばる」と呼び、正式には「まえかわばら」なのだ。
自衛官から一般(部外)課程に入校する学生は転属扱いだが官舎には入れてもらえない。道一本を隔てて隣接している前川原駐屯地と久留米駐屯地でも幹部候補生学校総務部(駐屯地業務隊に相当する)と久留米駐屯地業務隊は別であり、所属隊員が少ない前川原駐屯地用の官舎には学生を入居させる余裕はないようだ。さらに一般(部外)課程の学生の年齢は私の27歳が上限であり、やはり妻帯者は少数派なのだ。
航空自衛隊の部内課程のように10ヶ月間の長期であれば(当時)家族帯同で入校する学生もいるはずだが、陸上自衛隊は防衛大学校卒業者が終了するのと入れ替わりに秋から春の半年なので(当時)こちらも滅多にいないだろう。
おまけに私の転属命令は入校前の身体検査が無事に終わってからさかのぼって発令されるため着隊した時点ではまだ航空自衛官である(合格すると陸上自衛官に変身する)。
現実的な選択としては転属後半年以内と言う官舎の退去基準(当時)を利用して家族を防府に残したまま赴任し、課程教育が落ち着いてからアパートを探して呼ぶことだ。しかし、航空自衛隊でも受かった幹部候補生を捨てて陸上自衛隊に転換する以上、恩を仇で返した防府南基地に顔は出せない。私は進退窮まっていたが美恵子に相談すると意図もあっさり答えた。
「そんなの簡単さァ。私がここに残ればいいのよ」「だからそれは嫌だって・・・」「ニンジンさんは基地じゃなくて家に帰ってくるのさァ」そう割り切れる性格なら始めから悩みはしないことが判らないのだろうか。私は少し腹が立ってきた。
「でも体育学校の時も沖縄へ帰ったのに大丈夫か?」「淳ちゃんも1歳半になったから心配いらないよ。ねッ、淳ちゃん」まだ悩んでいる私を無視して美恵子は隣に座っている淳之介に話しかける。
「待てよ。ここに帰ってくれば知った顔に会ってしまうよ」「だって困ってるんでしょ」私の制止を真っ向から否定して美恵子は淳之介の相手を始めた。
「でも半年後には出なければいけないことが分かっているのか?」「その時はその時で考えれば良いのさァ」美恵子と話しながら私は色々なことを考えた。確かに家庭と課程を両立させながら入校するよりも美恵子と淳之介をこちらに置いて教育開始に全力を傾注する方が好ましいのは間違いない。沖縄の実家には体育学校の時に迷惑をかけているから何度も頼むのは気が引ける。何よりも部隊の連中が期待するように入校前の身体検査で落ちればこのまま住まなければならないのだ。考え込んでいる私の顔をのぞき込み、美恵子がキツーイ一言を投げつけた。
「ニンジンさんは余計な事を考え過ぎるからいけないのさァ」確かにその通りです。
何はともあれ防府との縁はしばらく切れないことになった。
  1. 2015/09/14(月) 08:21:34|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

若緒も大きくなりました。獲物レポート付き

小庵の飼い猫・音子(ねこ)の1匹娘・若緒(にゃお)も生後4カ月半になり、かなり大人びてきました。サイズもあまり変わらないようです。
比較的広い庵内を縦横上下無尽に駆け回るのは母親譲りですが、音子に比べるとやや運動神経が落ちるようです。音子は前の飼い主の家では自由に外に出て裏山から畑までを走り回って育ちましたからその点が箱入り娘の若緒とは違うのでしょう。
網戸にしたついでに障子を硝子戸にしたところ(ローテーションしただけ)、若緒が入っても姿が見えて重宝しています。昨年の夏、音子は雨戸の戸袋の隙間から床下へ脱走しましたが、今回は対策を執ったため若緒には残念なことになっています。
残念ながら相変わらずオスの野良猫が周辺を徘徊しているので若緒まで幼な母にする訳にはいかず、避妊手術を受けさせることが外出許可の条件になります。
一方、避妊手術を受けた音子は生まれて1年半なのにすっかり母親になり切っていて感心するような子育てに励んでいます。困るのは外で虫や小動物を捕まえて帰り、若緒の玩具に与えることで昨日は蝙蝠(こうもり)でした。
この蝙蝠を室内で放し、飛ぶ所を若緒にジャンピングキャッチさせていましたが、蝙蝠はヤモリ同様に害虫を捕まえるため直ちに保護して逃がしました。どこでどうやって捕まえたのやら。
に0・同じサイズ?15・8・15に1・母親譲りのカーテンレール歩きに2・昼寝中に3・ガラスと網戸の間でに4・網戸越しの対面母子対面
ぬ0・蝙蝠さん危機一髪




  1. 2015/09/13(日) 08:52:26|
  2. 猫記事
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

振り向けばイエスタディ211

課程教育の総合点検の準備が始まる直前の3月中旬、防府南北基地愛知県人会の転出者送別会があり(私の陸への転換は秘密扱い)、玄関を出ると麻野理美士長が待っていた。
「モリヤ3曹、飲みに連れていって下さい」麻野士長は私と同じ岡崎市の出身で防府北基地の航空機整備員だが、私が転入した時の愛知県人会で知り合い、航空機整備と言う共通の話題もあり、人間関係や仕事などの悩み、将来の夢などの相談にのってきたのだ。
私は「一番街」と言う曹候学生の空曹候補者課程以来の行きつけの店へ連れていったが、この店に美恵子はまだ来ていない。
「いらっしゃい」ドアを開けるとカウンターの向こうでマスターが声をかけてくる。ほかに客のいないカウンター席に並んで座ると理美は防府には珍しい静かな店内を見渡した。
「奥さん?」マスターは私が忘年会の帰り、つまり冬のボーナスでキープしたボトル=シーバースリーガルとグラスを2つ、水割りセットを持ってきながら訊いた。
「はい、主人がお世話になっています」私が答えに困っている隙に理美が答える。私が呆気にとられながら顔を見ると理美は悪戯っぽく笑いながら見返した。
マスターは何かを察したのか意味ありげに笑いながら2人の顔を見比べた。純日本風の切れ長な目をした理美では沖縄で結婚した相手としては雰囲気が違い過ぎる。人と接することに慣れたマスターならこの嘘を見破ることはたやすいことだろう。
マスターは水割りを作り「どうぞ」と言って、カラオケのメニューを2人の前に置くと、カウンターの奥に座って会話には入ってこなかった。
乾杯をしてグラスが鳴った音と一緒に私の心の中でも何かが響いた。思い出話から始まり、理美がプロペラ機整備員として航空救難隊で勤務したいと夢を語った後、カラオケを始めた。何曲か歌って時計が気になりだした頃、理美がマイクを差し出した。
「お別れに何か唄って下さい」私はうなずいて受け取った。
「若き旅人」リクエストを伝えるとマスターは「狩人かァ、懐かしねェ」と言いながらカウンターのリクエストカードに曲名を書き加えて機械を操作し、軍歌のようなイントロが始まった。この歌は硬派過ぎるイントロが若い世代、特に女性ファンに敬遠されて「あずさ2号」「コスモス街道」と続いていたヒットに水を差す形になったのだ。それでも歌詞は情感あふれ、今夜、この女性(ひと)に捧げるにはピッタリの歌だろう。
「旅立つ朝に散る花びらの そのはかなさを 白い指先受け止めて 涙ぐむ貴女・・・必ず、いつか必ず 幸せ君に、君に贈ろう・・・」狩人は私たちと同じ愛知県岡崎市出身なので小学校時代の愛唱歌だった。ただ3歳年下の理美にはあまりピンとこなかったかも知れない。 
この歌を最後にしてタクシーで帰ったが、後部座席で理美は「(狩人なら)『アメリカ橋』が聞きたかったです」と言いながら手を握ってきた。つまり意外に通なのだ。
「アメリカ橋って知っていますか?目黒と恵比寿の間にある 下を山手線ゴーゴー走る 鉄でできた青い橋・・・」結局、車内でのデュエットになった。
  1. 2015/09/13(日) 08:48:41|
  2. 夜の連続小説8
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ