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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月1日・偉大なる教育者・広瀬淡窓の命日

安政3(1856)年の明日11月1日(太陰暦)は江戸時代の九州でも片田舎の日田に全国各地から幾多の学究の徒を集めた偉大なる教育者・広瀬淡窓先生の命日です。
広瀬先生は浅間山が大噴火する前年の天明2年に日田の商家の長男として生まれましたが、幼い頃から大の学問好きで、日田の代官所に関わっていた久留米藩の浪人から漢詩や文学を学び、19歳の時には筑前の亀井塾に入門しています。しかし、3年後に大病を患い退塾して帰郷することになりましたが、体調不良を理由に家業は弟に譲り、自分は学問に専念しました。
そして、23歳の時に近傍の寺で私塾を開きますが、これが桂林荘を経て明治30年まで82年の歴史を刻み、幾多の英才を輩出した咸宜園(かんぎえん)になるのです。
咸宜園は師の広瀬先生自身が商家の出身でもあり、「三奪(さんだつ)の法」と言う校則により身分・出身・年齢による上下は一切認められていませんでした(女性の塾生もいて男女の差別もなかったようです)。入門希望者は入学金を納め、名簿に必要事項を記入すればそれでよく、全ての塾生は平等に学ぶことができたそうです。
咸宜園への入門者は全国68カ国(律令国)のうち66カ国から来ており、このため寮も併設されていました。記録に残っているだけでも門弟は4300名に上ります。
広瀬先生は儒学者で漢詩人ですが、数学や天文学、医学の講義も行われており、特に「三奪の法」を学問的に説明した「均是人也(ひとしくこれひとなり)」の思想は身分の序を守らせる儒教本来の教えからは完全に逸脱しています。この教えに対して士分の塾生たちは内心反発を示していましたが、咸宜園では学業成績が唯一の上下関係であり、「嫌なら退塾せよ」と言う空気が充満していたようです。広瀬先生は塾生に対して毎月の試験を課しており、「月旦評(げったんひょう)」と言う成績発表によって塾生を1級から9級までランク分けしていましたから、威張りたければ学問に励むしかなかったのでしょう。
その広瀬先生自身は亡くなる3年ほど前から「万善簿(まんぜんぼ)」と言う記録を付けていたそうです。これは良いことをすれば白丸を書き、食べ過ぎや寝坊などの失敗をすればそれを黒く塗りつぶしていき、白丸が1万個になるよう努める自己評価記録でした。実際、1度は1万個を達成し、2度目に挑戦中に体調を崩して中断したまま亡くなってしまいました。
咸宜園の出身者としては長崎への遊学の途中で立ち寄った高野長英さんやシーボルトの鳴滝塾で高野と同門だった岡研介さん、優れた蘭方医なのに天才的軍学者でもある村田蔵六(=大村益次郎)さん、日本の写真家の草分けである上野彦馬さん、豊後の出身ながら討幕軍参謀として活動した長三州さん、そして豊後の「三絶僧(絵・詩・書の三芸を極めた)」と呼ばれた平野五岳さまなどが代表格でしょう。
中でも村田蔵六さんは防府市の梅田幽斉さんに入門した時、漢文が全く読めず、それを習うために入塾し、比較的短期間で退塾していますが(約1年2ヶ月)、「均是人也」の思想は正しく受け継いでおり、明治新政府で徴兵制を実行しています(これが暗殺の原因になりましたが)。
山口県人は「徴兵制は松陰先生の『草莽掘起』を実現した」と思い込んでいるようですが、村田さんと松陰に接点はなく、むしろ「埋もれている草の根も掘り起こして使う」と言う上から目線の平等主義とは異なり、「国家の防衛は国民が等しく負う義務」とした村田さんの真意を正しく認識するべきでしょう。
何よりも吉田松陰は松下村塾をテロリスト養成所にするようなことはせず、過激な若者に人の道を説き、有意な人材の育成に専念すべきでした。
・広瀬淡窓みなもと太郎作「風雲児たち」より
  1. 2015/10/31(土) 09:40:30|
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振り向けばイエスタディ259

年が明けて湾岸でいよいよ戦争が始まった時も我々は国分台演習場で訓練に励んでいた。
「第2小隊、前方の台地を左から制圧しろ!」演習場での私は無線で中隊長からの指示を受けながら小隊長として指揮の基本を演練している。こうして本格的に取り組んで見ると航空教育隊の教育が単に表面的なモノマネに過ぎないことがよく判った。
迫撃砲の援護を受け1小隊と連携を取りながら敵陣地に突入すると突撃開始が最終弾着の前だったと指摘された。しかし、これは実戦では有り得ない間違いだろう。
次の演習では十分に間を取って大声で叫びながら銃を構えて敵陣地に突入すると仮想敵役の隊員は陣地から機関銃を構え応戦してくる。
私は真っ先に陣地へ飛び込むと後に続く隊員に手で指示しながら仮想敵を個別に制圧する。これがシナリオだった。
状況終了後は幹部テントの中で飲みながら反省会が行われる。
「どうしてもモリヤ3尉は先走りますねェ」これが毎回繰り返される指摘だった。
「まあ、指揮官先頭はいいのだが自分がやられた後、その場で次級者が指揮官代行できるように仕込んでおかないといかんな」中隊長の意見は現実的だった。
「早いうちにモノのいい防弾チョッキを調達してもらうしかないねェ」こちらも部内出身の1小隊長の意見はさらに現実的だが、これは現在、中央で進められている被服と装備品の導入プランの請け売りだろう。
「でも中部方面隊の2混団じゃあ、入荷は北方の5年後でしょう」「そうだなァ、新小銃もいつになることやら」私の意見に中隊長は妙に事務的に答える。
「個人的に沖縄で米軍の放出物資を買って来ますか」「冗談じゃあないぞ、気をつけろと言うことだ」私の茶化したような言葉に中隊長は少し語気を強めて反省を促した。

貯めていた代休で買ったばかりの新車に乗って暖かい高知へ出かけた。香川県は瀬戸内海越しの北風と四国山地越えの南風が吹くため意外に寒冷なのだ。
「玉泉洞みたいさァ」美恵子は竜ヶ洞の鍾乳石を見上げながら感嘆していた。
「秋芳洞と岩手の竜泉洞と竜ヶ洞を組み合わせると日本3大洞、玉泉洞だと日本3名洞になるのさァ」私は淳之介の手をひいて説明した。
「本当、玉泉洞よりも長いさァ」美恵子は歩いてきた距離を思い出して答えた。
「ところで秋芳洞と玉泉洞と竜ヶ洞を組み合わせたら何になるのさァ」「えッ?」美恵子の意表をついた質問に私は絶句する。
「だって私たちはその3つには行ったさァ」黙っていると美恵子は私の顔を見て「日本3名大洞さ」と答えを出した。美恵子も私の妻歴が長くなって随分、機転がきくようになったようだ。
竜ケ洞の次はアンパンミュージアム、淳之介はそこで流れていたアンパンマンの歌を大声で唄い出して車の中は遠足のバスのようになった。やはり親子は似るようだ。
  1. 2015/10/31(土) 09:37:30|
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振り向けばイエスタディ258

全員で手を合わせて食べ始めると私と松真、彼女は泡盛を飲んだ。
「陸上自衛隊はどうですか?」一杯入ったところで賀真が身を乗り出して訊いてきた。
「うん、毎日頑張ってるよ」私はそう答えて泡盛を飲んだ。
「陸上の演習って大変でしょう」WAFの彼女の質問はやはり自衛隊的だ。
「幹部も曹士も一緒に頑張る、それがやりたかったのさ」「モリヤ3尉って本当に松真さんがいつも言ってる通りの方ですね」彼女はそう言うとあらためて私の顔をジッと見つめる。私は若い娘に見つめられて視線のやりどころに困ってしまった。
「北陸の冬も大変だろう。デートはどうしてるねェ?」私は照れ隠しに2人を冷やかした。
「俺の下宿ばっかりです」「それって同棲中てことかァ?」私の指摘に若い2人は今度は赤くなって下を向いた。

四国から沖縄へは直行便がないので大阪・伊丹空港(当時)から乗らなければならなかった。そして那覇空港へは両親が出迎えてくれていた。
空港のロビーで淳之介は義父に抱き上げられ、義母に「オバァさァ」と声をかけられて驚いている。両親は堅苦しい挨拶もソコソコに淳之介の取り合いを始めた。

夜、私たちは淳之介を連れて久しぶりにママさんのスナックへ行った。
「モリヤも美恵子も久しぶりさァ」叔母のママさんは再会を大喜びしてくれる。ママさんとは美恵子と防府へ出発する時、空港で見送ってもらって以来だ。
「年末の里帰りねェ?」「はい、4年ぶりです」「それは懐かしいねェ、メンソ―レ」ママさんはそう言いながらカウンターの陰で私たちの間に立っている淳之介に気がついた。
「これがあんたたちの子供ねェ、モリヤに似て男前さァ」ママさんカウンターから出てきて淳之介を抱き上げてくれた。この歓迎にも慣れた淳之介は嬉しそうに腕の中で笑った。
ママさんは淳之介をあやした後、私たちにボックス席を勧めた。
「私も年だから、そろそろ立ちっ放しの仕事が辛くなってきたのさァ」一緒に座りながらママさんは珍しく弱音を吐いた。ママさんは義母の末の妹なので50歳前後だろうか。
この店は義母の祖母が那覇の漁師が揚げる魚を使った小料理屋を始め、沖縄戦の後も廃墟に小屋を建てていち早く再開したのだ。本土復帰後の都市開発でビルが建った時も一角をスナックとして残すことで同意し、テナント料なしで続けている。
最初は長女である義母がママさんをやっていたのだが、店で知り合った玉城村に住む義父と結婚したため末の妹のママさんが受け継いでいる。そんな歴史を思い出していると現在のママさん=義叔母さんが訊いてきた。
「今はどこにいるねェ」「四国の善通寺です」「四国ねェ?」「弘法大師が生まれた古いお寺がありますよ」私の説明にもやはりママさんは弘法大師がピンとこないようだ。
その日は子供連れなので沖縄民謡のメドレーを歌っただけで他の客が来る前に帰った。
  1. 2015/10/30(金) 09:52:25|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ257

松真と彼女はクリスマスにやってきた。私と美恵子、淳之介の3人は高松駅に出迎えた。
「松真、メンソ―レ」「ニィニ、ご苦労様です」松真は3歩手前で自衛隊の教練通りの十度の敬礼をして来た。松真の隣ではワンピースにコートを羽織った若い女性がそれに倣って敬礼をしている。彼女は目鼻のハッキリした顔立ちだが肌は抜けるように白い。
「よし、直れ」私も自衛隊の答礼をすると松真と彼女は姿勢を正した。このまま「休め」と号令をかければ足を25センチ開いて手を後ろに組みそうだ。
「折角、素敵な服を着て来たなら教練は忘れないと駄目だよ」「はい」私が彼女に声をかけると2人は顔を見合わせて恥ずかしそうに笑い合う
彼女は玉置美代子と言って、旧姓の玉城美恵子と似た響きだった。

今日は美恵子が松真のために沖縄料理に腕をふるっていた。私はオカズを食卓に運んでいる彼女=美代子さんに声をかけた。
「彼女、讃岐うどんは外で食べたからウチでは沖縄料理を味見してみれば好いさァ」「私、初めて見ました」松真と並んで席についた彼女は並んだオカズを見渡している。
「沖縄には琉球料理と沖縄料理があるのさァ」「へえ、どう違うんですかァ」「琉球料理は宮廷料理、沖縄料理は家庭料理なのさァ」私の説明には感心した彼女の横で松真まで「へェ」と驚いた。
結局、今夜は大人の分のチャンプル各種と全員分のフーチバジュウシー(蓬雑炊)、後はラフテー(豚の角煮)に中身の吸い物を味わったが、肝心のゴ―ヤは季節が違うためなかった。

松真と彼女は私たちと行った善通寺市内と金毘羅参り以外は電車に乗って出かけ、2泊3日で帰って行ったが、最後の晩は美恵子の指導で彼女が沖縄料理に挑戦していた。
「うん、飲み込みが早くて手際が好いのは自衛隊だからかなァ」美恵子の誉め言葉に彼女ははにかんだように笑った。
「でもフ―イリチ―は難しいです」「野菜の汁が出るのを待って入れればいいのさァ」美恵子の説明に彼女はうなずいて自分が作ったフ―イリチ―を眺めた。
「沖縄の麩はこんなにでかいのさァ」私が手でサイズを説明すると彼女は驚いたような顔をして松真を見る。
「それからゴ―ヤがないのが残念だな」「ゴ―ヤですか?」「本土では苦瓜って言うのさァ。夏バテ防止の健康食品さァ」「へーッ」「あとはヘチマの味噌炒めも美味しいな」「ヘチマですかァ?」今度は驚いた顔で私を見る。私も若い娘に見つめられてドキッとした。
「青いうちに味噌で炒めるのさァ、水分補給の健康食品だよ」「相変わらず詳しいさァ」「本当さァ、だけど食べながらでないと冷めちゃうさァ」そう言われると淳之介がもう手を合わせて「イタダキマス」を待っていた。
や・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/10/29(木) 09:45:51|
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10月29日・中島飛行機=富士重工の創始者・中島知久平の命日

昭和24(1949)年の明日10月29日は中島飛行機、現在の富士重工=スバルの創始者である中島知久平社長の命日です。
中島社長は明治17(1884)年に群馬県太田市の農家の長男として生れますが、海なし県出身なのに海軍機関学校を目指して合格、中尉の明治43(1910)年にはフランスへ出張しています。
1903年12月17日にアメリカのライト兄弟が初の動力式飛行機の飛行に成功しましたが、フランスでも1906年10月22日にブラジル人・サントス・デュモンが成功しており、その後も1909年7月25日にブレリオXⅠがドーバー海峡を横断し、1909年には2人乗り旅客機・アンリ・ファルマンⅢが飛行するなど開発競争ではアメリカよりも先行していたのです。ちなみに明治43(1910)年12月19日に徳川好敏大尉が日本国内では初の飛行に使用したのはこの機体です(14日には日野熊蔵大尉が滑走中、浮上させている)。
さらに海軍大学校を修了した明治45(1912)年にはアメリカに、大正3(1914)年に再度フランスへ出張し、最新の航空技術を吸収して帰国すると1つの信念を抱くようになりました。それは「航空機は国産、然も民間が開発・製造しなければならない」と言うもので、その実現のため退役することを決意したのです。
こうして大正6(1917)年に実家がある群馬県太田市に「飛行機研究所」を設立すると甲式3型戦闘機を製造し(フランスのニューポール24のライセンス生産)、大正8年には関西の実業家・川西清兵衛の援助を得て中島飛行機製作所に改称し、国産飛行機の開発・製造を本格的に始めました(川西も後に飛行艇や紫電改で有名な川西航空機=新明和工業を創設する)。
昭和5(1930)年には航空機の戦力化に腰が重い軍部を側面から叱咤するため政界に身を投じますが、弟に経営を譲った中島飛行機は続々と新型機を開発していきました。
昭和5年には海軍の90式艦上戦闘機(複葉)、6年に陸軍の91式戦闘機(単葉)、9年に陸軍の94式偵察機(複葉)、11年に海軍の95式艦上戦闘機(複葉)、95式水上偵察機(複葉)と陸軍の97式輸送機(以降、単葉金属製)、12年に陸軍の97式戦闘機、海軍の97式艦上攻撃機、13年に海軍の4発の13試陸上攻撃機「深山」を生産するなど戦前の軍用機はほぼ独占状態でした。中でも97式戦闘機は現在も水平旋回の世界記録を保持しているとの風説があり、その高い技術力は続く1式戦闘機「隼」へ継承されました。
中島社長は政界にあっても卓見を発揮しており、「アメリカが大型長距離爆撃機=B-29を採用した」との情報に「これが実戦に投入されれば日本は焦土と化す」と戦争末期の惨状を的中させています。これに対抗するため6発の超大型爆撃機「富嶽」を開発し、太平洋を渡ってアメリカ本土を爆撃する壮大な構想を提案しましたが、緒戦の勝ちに奢る陸海軍首脳には聞く耳がなかったのです。実現していれば風船爆弾よりも強烈な1矢を報いることができました。
中島飛行機の航空機はやはり卓越した元軍人が開発を指揮しただけに技術屋ばかりの三菱とは違い実戦の様相を的確にとらえた機体が多いようです。それが日本軍では最高の傑作戦闘機と評価される4式戦闘機「疾風」を生んだのでしょう。
航空自衛隊が採用した初の国産ジェット練習機T-1「初鷹」も富士重工=中島飛行機ですが、三菱のT-2とは比べ物にならない流石の完成度でした。
中島社長は戦後、A級戦犯に指定されていますが、これは政治家として戦争を遂行したことの罪だと思われます。生涯独身でしたが女中さんとの間に1女1男を儲け、認知しています。
  1. 2015/10/28(水) 09:23:18|
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振り向けばイエスタディ256

善通寺に赴任して最初の正月休暇は4年ぶりに沖縄へ帰省する。そんな12月、中隊の幹部室に小松の松真から部内回線の電話が入った。
「ニィニ、休暇は前段ですかァ?」「おう、後段で4日から帰省するぞ、玉城曹候生は前段だよな?」「はい、7日から入校です」松真は年明けから卒業する前の課程で防府へ戻って来るのだ。基礎課程の時には久留米に入校し、今回は善通寺なので会えそうもない。そんなことを思っていると義弟が意表を突いたことを言い出した。
「俺、正月休暇に四国へ行ってもいいですか?」「沖縄へは帰らんのか?」「沖縄に帰って暖かいのになれたら防府で風邪をひきます」「そうかァ、それが正解かも知れないな」確かに私は沖縄から大寒波に襲われた防府に入校して風邪をこじらせ、空曹候補者課程を棒に振ってしまったのだ。
「来たいなら来ればいいけど12月27日から大晦日は連隊当直幹部だからな」「えッ?5日間もですか」「うん、陸上自衛隊は半週交代なんだ」「へーッ、御苦労様です」「ところで美恵子には訊いたのか?」「ニィニの許可が先だと思いまして」松真も随分、本土的な考え方をするようになったと感心しながら電話を切った。

夜、家に帰って夕食を食べながらこのことを話していると電話が鳴って美恵子がでた。
「うんうん、今、旦那さんから聞いたところさァ」電話はやはり松真からだった。相変わらず美恵子は玉城家で話すのと同じような口ぶりだ。
「でも、帰省前だからウチはお金ないよ」美恵子の話でこれが帰省前の出費になることに気がついて下を向いた。どうも最近は陸上自衛隊に染まって身体でモノを考えるようになってきたようだ。
「ところで松真は彼女できたねェ」いきなり美恵子が質問をする。
「どんな子なの?」質問の展開からすると松真にも彼女ができたらしい。
「北海道の子?すごいさァ」「士長さん?」「WACさんねェ?」どうも彼女はWAFのようだが、美恵子は最近、官舎にいる女性自衛官の奥さんをWACと呼ぶことになれてしまっている。
「どうせなら彼女を連れて来なさいよォ」美恵子のノリはどこまでも沖縄的だ。
「まだそんな付き合いじゃあない?そんなこと固く考えないのさァ。私たちの面接試験のつもりで連れておいで」ここで電話を私に替わった。
「ニィニ、どうしよう。ネェネには逆らえないさァ」と言いながら松真の声は必ずしも困ってはいない。
「いい子だって自信があれば連れてくればいいさ、彼女が来るって言えば決まりだな」私は松真の真意を確認するつもりで美恵子に同調してみた。
「うん、ニィニたちみたいになれればそれもいいかなァ」「それが玉城家さァ」電話を切ってから私は姉の友紀子の面接試験を受けさせられたことを思い出していた。
  1. 2015/10/28(水) 09:22:14|
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10月28日・徳川四天王の筆頭・酒井忠次の命日

慶長元(1596)年の明日10月18日(太陰暦)は徳川四天王の筆頭である酒井忠次さまの命日です。忠次さまの他の徳川四天王は本多忠勝さま、榊原康政さま、井伊直政さまですが、この3人は家康公の代になって仕えたのに対して忠次さまは先代の松平広忠さまからです。
織田から取り戻された竹千代くん(後の家康公)が今川の人質として駿府に送られる時には23歳になっていましたが相手役として同行しました。
駿府で竹千代くんが元服するとそのまま家臣として仕え、永禄3(1560)年に桶狭間の合戦で今川義元が討たれて岡崎に戻り、宿老として重んじられていきます。
永禄6(1563)年初頭から約1年間の三河一向一揆では一族の多くが門徒側に与した中、あくまでも家康公への忠義を貫きました。
一揆を鎮定して家康公が三河統一に乗り出すと吉田城(現在の豊橋市)攻めでは先鋒を務め、城代・小原鎮実を敗走させ城主を任されています。このため東三河での国人・豪族の取りまとめ役としての役割を果たすようになりました。
家康公が三河の主となり、織徳同盟によって東に勢力の拡大を図るようになると甲斐の武田晴信(=信玄)公も駿河を手中に収めるべく動き出し、その交渉を担当しました。
しかし、武田は駿河、徳川は遠江と言う約定があったにも関わらず武田軍の一部が侵入し、その違反を巡り苦しい立場に置かれます。さらに晴信公が上洛に動き、飯田街道を南下し始めると東三河の諸将は続々と寝返り、苦境に追い打ちを掛けられたようなものでした。
三方ヶ原の合戦では浜松城に逃げ帰ると城門を開け広げさせて松明を炊き、櫓で陣太鼓を打ち鳴らしたと言う伝承が残っています(歌舞伎の演目「太鼓音智三略」にもなっている)。
これは暗夜に逃げてくる味方に城門の位置を知らせるためとも考えられますが、これを見て追手の武田軍は「何か奇策があるに違いない」と勘繰り撤退したと言われています。
長篠の合戦では軍議の席で「(武田側の)鳶巣山砦の奪取」を主張したところ、信長公から「決戦を前に小手先の策を弄するとは」と嘲笑されますが、後で1人呼ばれ「敵に内通している者がいるかも知れないから否定したが、極めて優れた策である」と称賛され、4千名の兵を与えられ攻撃の指揮を命じられました(添付した絵はその場面)。この結果、長篠城を救った上、退路を断つことにもなり、武田騎馬軍団は織田・徳川連合軍が馬防柵を建てて待ち構えている設楽ヶ原で死の突撃を敢行せざるを得なくなったのです。
その後も軍功を上げて徳川家筆頭の重臣となっていきますが、忠次さまの隠居後に嫡男の家次さんが家康公から与えられた禄高は3万石で、他の四天王たちが10万石であることに比較すると冷遇と言えました。
そのことを家康公に抗議すると「お前でも息子が可愛いのか」と言われたそうです。それは家康公の嫡男・信康さまと正室の築山どのに信長公から謀反の疑いが掛けられた時、弁明のために安土城へ派遣された忠次さまが武田との内通を認め、自刃を阻止できなかったことを指していたのです。家康公は信康さまが二俣城で自刃する時、逃がさなかった大久保忠世さまにも同じことを言ったとの伝承があります。
近年、インターネット上では信康さまの自刃はその武勇を懼れた家康公の画策であったと言う説が出ていますが、素人の奇をてらった邪推に過ぎないでしょう。家康公は祖父・父が非業の死を遂げる悲哀を味わい続けていますから我が子を手に掛けるようなことはあり得ず、築山どのを失って以降、秀吉に妹・旭を押しつけられるまで正室は娶っていません。
酒井小五郎忠次石井あゆみ作「信長協奏曲」より
  1. 2015/10/27(火) 09:08:09|
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振り向けばイエスタディ255

私の歓迎会が市内の料亭旅館で開かれた。体育学校では幹部に気を遣う宴会に戸惑ったが、今回は私が上席に座ることになった。それでも両脇に座っている中隊長と1小隊長に気を配り、酒を注いだり注がれたりしなければならない。
こうして和室での宴会を眺めていると酒が進むうちに陸曹・陸士たちは上席に座っている幹部3人と反対側に固まって盛り上がっている。時々、こちらを見ているのは幹部の噂をしているのだろう。それでも上級陸曹たちが交代で酒を注ぎに来るので、幹部だけ隔離されている訳ではない。そんな1曹の1人が訊かれたくない質問をしてきた。
「先ほどの自己紹介によればモリヤ3尉は曹学(一般曹候補学生)出身とのことですが、大学には行っておられないんですか?」一般の隊員にとって部外出身の幹部は大卒と言う認識があり、その出身大学でレベルを測るのは航空自衛隊も同じだ。
「大学は中退したんです」「へーッ、中退でも部外に入れるんですね」「はい、学科試験に合格すれば」気がつくと両側の幹部たちまで聞き耳を立てている。
「それでどちらの大学ですか?」「愛大です」「それじゃあ、四国は慣れていますね」「へッ?」「四国ではトップの国立大を中退したのか・・・勿体ないなァ」1曹の話に中隊長まで同調したが、私は訳が分らなくなった。
「私が止めたのは愛知大学ですが・・・」「何だ、愛媛大学じゃあないのか?」「愛大って言えば愛媛大学だろう」言われてみれば愛媛大学の頭文字を取ると愛大になる。
本州の人間は金毘羅詣の香川県が四国の顔だと思い込んでいるが、妙なことで人口、産業、文化などの中心は愛媛県だと言うことを学んだ。

私が善通寺に赴任して間もなく駐屯地の少林寺拳法部員が2人で勧誘に来た。
「モリヤ3尉は那覇航空隊支部で全自大会にも出ていましたよね」「確か初・2段の部で最優秀だったでしょう」「うん、まぐれだったけどね」少林寺拳法の大会は試合ではなく、組演武で競い合うため優勝ではなく最優秀と言っている。私の人事記録は整備小隊長の三谷2尉が勘違いして記入したのだ。
「どうです。ここでも続けませんか?」「御存知のように善通寺駐屯地が少林寺拳法を発展させたんですよ」開祖・中野理男が多度津で少林寺拳法を始めた時、善通寺の隊員たちが入門し、彼らが北海道に転属したことで全国へ広まったと言われている。
「ワシは体育学校で少林寺の癖が抜けなくて上級指導官を逃したんだ。やるなら日本拳法にしたいね」「それでも上の段を取らないと勿体ないでしょう」「ここから先の段位なんて使いもしない特殊な技ばかりで興味ないな。少林寺が乱取りを解禁したならやっても良いけど」「・・・」「折角、四国に来たんだから芦原会館を再開したいんだけど道場は知らんかね?」「知る訳ないでしょう!」こうして少林寺拳法を再開しなかった私はランニングの後で体育館のサンドバッグを叩く以外は練習らしい練習もせずに格闘指導官としての技量を維持することになった。
  1. 2015/10/27(火) 09:05:51|
  2. 夜の連続小説8
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10月27日・三河武士の恥・松平信定が死んだ日

天文7(1538)年の明日10月27日(太陰暦)に忠誠無比を誇る三河武士を束ねる主家・松平一門でありがなら家督の乗っ取りを画策し続けた恥晒し松平信定が死にました。
信定は東照神君・徳川家康公が天下人になる礎を築かれた祖父・清康公の祖父・長忠さまの3男ですから叔父にあたり、当時の松平家は安祥城を居城にしており、信定も現在の安城市の桜井に居を構えていたため桜井松平家と呼ばれています。
長忠さまは軍才に優れ、安祥松平家を守護の西郷家や嫡流の岩津松平家を凌ぐ西三河の主に押し上げましたが、嫡男の信忠さんが病弱で暗愚だったため家督を譲ってからも合戦や治世を任せることができずにいました。武家の作法で言えば信忠さんに不測の事態があれば嫡男である清康公を立てて祖父が後任になるべきですが、長忠さまは3男の信定を寵愛し、家臣の一部も兄の信忠さんに比べ才覚がある信定の擁立を望むようになったのです。尤もこれは家中の実権を握り続けている前当主の顔色を伺い胡麻を擂っていたに過ぎないでしょう。
信定もその気になって、兄の信忠さんが嫡男・清康公の元服を待って家督を譲っても従わず、長忠さまもこれを黙認していたため、次第に松平家中の火種になっていきました。
当時の東海地方は美濃の土岐氏、尾張の斯波氏、三河の西郷氏など守護大名にとって代わる国人領主・豪族が力をつけてきており、松平家は東三河を支配下に入れた今川家からの脅威に抗しながら力を蓄える時期であったにも関わらず信定は尾張の織田信秀さんの妹を妻(信長公の叔母)に迎えました。
一方、清康公は祖父・長忠さまを遙かに超える軍才と人望を発揮し、たちまちのうちに三河全土を平定しますが、この合戦の中で信定は味方(次兄父子)を見殺しにするなどの不穏な動き見せたため家中での評判は急激に悪化したのです。
三河を平定した清康公は美濃の国人領主からの要請を受けて出兵し、経路上の尾張の守山に逗留中、軍馬が暴れた騒ぎを「父に謀反の疑いを掛けられている」と思い込んでいた阿部弥七郎が「父が討たれた」と激昂し、24歳の若さで惨殺されました(森山崩れ)。
この一門の危機に信定は兄・甥の2代にわたる乗っ取りの野望の実現に動きます。家督を継いだ清康公の嫡男・仙千代くんは7歳であり(後の広忠さま)、本来であれば叔父としてこれを支えなければならないのですが信定は反旗を翻し、清康公が西郷氏から奪取した岡崎城を攻めたのです。この時、仙千代くんを助けたのは清康公を討った阿部弥七郎の父・阿部大蔵さんでした。
信定は岡崎城に入りましたが、これが逆に家臣の結束を固め、「追い腹を切ろう」と言う声が、「幼君・仙千代くんを守り抜くことが御恩に報いる道」に変わり、矢作川下流の吉良を経て駿河に入り今川氏の支援を得た仙千代くんに加勢する者が続出したのです。
やがて今川軍と松平家中の協力で仙千代くんが三河南部の幡豆に進攻すると、これに攻撃を仕掛けますがあえなく失敗、これを見た岡崎城留守居役を務めていた清康公の弟が仙千代くんを迎え入れ、信定は屈服しましたが、それでも懲りないのが信定で、その後も今川氏との連携を図る岡崎城に対し織田氏との内応を続けていました。
こうして一族の中で孤立していった信定は死にましたが、裏切り者の血は愚息・愚孫にも受け継がれ、それは家康公の時代の三河一向一揆まで騒いでいたようです。
それにしても森山崩れは信定の陰謀ではないのか?三河一向一揆の首謀者は信定の愚息・愚孫ではないのか?状況証拠とその前後の行動から見れば果てしなく黒に近いようですが。
  1. 2015/10/26(月) 09:20:33|
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振り向けばイエスタディ254

十月、イラクのクエート侵攻で湾岸危機が叫ばれている中、私は富士学校を卒業した。任地は希望外の四国は香川県の善通寺駐屯地だった。
四国には航空自衛隊がないので(当時)周囲の者は知らないと思っていたが、私は隣の多度津に在る少林寺拳法の本部に行ったことがあり、よく知った土地だった。
官舎から荷物を運び出した後、東名高速、山陽自動車道を西進して岡山市内で1泊、翌朝は本四連絡橋を渡ればもう四国だ。今回も愛知は黙って素通りした。
昔は岡山の宇野から高松までは宇高連絡船で船旅気分を味わえ、船上で讃岐うどんの喰い始めもできたが今回はそうはいかなかった。

トラックは午後に到着するよう依頼したので空っぽの官舎に美恵子と淳之介を残し、私は3種夏制服に着替えて駐屯地へ向った。
昼休み中だったが今度配属になる第15普通科連隊2中隊では中隊長と先任陸曹が待っていてくれた。中隊長は部内出身らしく1尉としては比較的年齢がいっていて小柄だが鍛え抜いた引き締まった体形だ。定年間近に見える先任陸曹の方が割腹は好い。
「モリヤ3尉は航空上がりだそうだが」「はい、航空教育隊にいました」「そうかァ、ならば教練や戦闘訓練は得意だな」「いえ、単なる陸上のモノマネです」私の答えに中隊長は安心したようにうなずき、続いて先任陸曹が質問して来た。
「航空教育隊はどちらですか?」「山口県の防府市です」「防府市は・・・」「山口駐屯地からは近いですよ、実弾射撃では射場を借りています」質問の続きを予想して応えると正解だったようで先任はうなずいた。
「おや、その徽章は格闘指導官だな。航空からも格闘課程へ行くのか?」制服の徽章を体力検定と思っていたのか中隊長が驚いたような声を出した。
「1昨年の秋に体育学校へ入校しました」「オリンピックイヤーでは大変だったな」「はい、体育学校勢が討ち死にして校長閣下の機嫌が悪くなって大変でした」私の冗談のような実話に中隊長と先任陸曹は顔を見合わせて笑った。
「部外組のお坊ちゃんかと思ったが、これなら即戦力だな」「中隊長、今年はクジ運が好いですから宝くじを買うと良いですよ」中隊長と先任は口々に誉めてくれたが、私は期待が先行することに困っていた。
その時、中隊長室のドアがノックされて「昼礼です」と声がかかった。
「申告と中隊での紹介は明日の駐屯地朝礼での紹介の前にしよう」「はい、わかりました」中隊長の指示に私と先任は声を揃えて返事をした。
「引っ越しは十人で大丈夫ですね」「はい、お願いします」本当はこれが挨拶の目的だったのだ。
  1. 2015/10/26(月) 09:19:30|
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振り向けばイエスタディ253

私は富士学校でもやらかしてしまった。それは座学「演習対抗部隊」の講義でのことだ。
政治的な制約上、仮想敵を作ることができない自衛隊では「演習対抗部隊=演習の時の敵役」と呼んではいるが、解説されている人員、兵器、常用する戦術などを見ると実際は「甲」がソ連、「乙」は中国、「丙」が北朝鮮なのは明らかだ(現在はこの呼称と分類は止めた)。その点、航空自衛隊は英単語=米軍資料として巧みに逃げている。
私は沖縄時代に米海兵隊の友人からソ連軍と中国軍の情報を仕入れていたので、この内容が一昔前のアメリカ軍の資料の翻訳であることが判った。
教官がその教程(持ち出し禁止なので講義が終了すると回収された)を使いながらする解説に疑問を感じて手を挙げてしまった。
「ソ連軍の主力戦車のTー72(当時)は現在、補強材を装着しているようになったと聞いていますが」この頃、ドイツのレオパルドⅡやアメリカのMー1などは装甲を二重構造にしているため避弾効果を狙った曲線(命中した砲弾が逸れることで信管が作動・破裂しない)にはなっておらず、直線的な外観をしている。装甲が二重であれば破裂した火炎や破片が内側の壁で遮断されるため分厚い金属装甲よりも強度が高く西側では主流になりつつあった。しかし、ソ連はエンジン出力の向上や主砲の口径の拡大などの改良が中心で出遅れたため、応急処置的に装甲の上に箱状の防弾補強材を装着しているようだ。この情報もアメリカ軍から仕入れた。すると教官は少し不快そうな顔をして答えた。
「そのような話があることは知っているが、陸上幕僚監部が発刊する教程が改定されるまではこの記述が対抗部隊(甲)の戦車だ」「はい、判りました」ここで引き下がるところが陸上自衛隊生活で身についた処世術だろう。
しかし、それで終わらないところが私の病気だった。今度は対抗部隊(甲)の戦術だ。
「ここで紹介されている戦車の横隊で蹂躙する戦術は主にヨーロッパ戦線で行ったものですが・・・」「違うと言いたいのか」教官は私が手を挙げた時点で身構えている。
「ソ連はアフガニスタンの山岳戦で戦車が通用しないことを学んでいます。おそらく日本でもその教訓は忘れないでしょう」「だから?」「ソ連は機甲師団、自動車化狙撃師団だけでなく空挺師団を合わせて一五〇個有しています。むしろ制空権を奪った後、日本の各地に空挺降下する可能性の方が高いのではないでしょうか」「それを3等陸尉が主張してどうするのだ」「教官に申し上げれば陸幕にも届くのではないかと思いまして」「お前は俺を使う気か」「とんでもありません」ここでも教官の声に怒気が混じったところで撤退した。しかし、幹部候補生学校の卒業序列を思えば今更、気をつかっても無駄だろう。そこで対抗部隊(乙)でもやらかしてしまった。
「中国の人海戦術に対する評価は間違っていませんか」「中国ではない演習対抗部隊の乙だ」「なるほど・・・」教官にとって私は教場対抗学生になっているようだ。
それにしても演習対抗部隊(丁)=アメリカ、(戌)=韓国は必要ないのだろうか。私は韓国軍が明らかに日本との戦闘を想定した演習を行っていることを知っているのだ。
中国人民解放軍演習対抗部隊(乙)ではない。
  1. 2015/10/25(日) 08:51:29|
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振り向けばイエスタディ252

会場を見渡すと談笑しているのは私以外数人だけで、殆どの海兵隊員と陸上自衛官たちは仲間同士で集まって酒を飲んでいてややシラケ始めている。
その時、パーティー会場のどこからともなく「レッツ シンガソング(歌うかァ)」「US
マリンコー ソング」と言う声が上がり、海兵隊員たちは肩を組んで合唱を始めた。
「From the hall of Montezuma,To the shores of Toripoli・・・」これはアメリカ海兵歌「マリーンズ ヒム(海兵隊賛歌)」だ。私も普天間の連中から習ってよく知っている。確かに日米協同訓練の打ち上げでは空軍にしろ海兵航空隊にしろ軍歌を必ず唄うようだ。
「We fight our country’s battle,In the air, on land and sea.」私も1人で口ずさんでいると海兵隊員たちが手招きをして肩を組んできた。
「We are proud to claim the title of United Stats Marine」最後まで歌い上げると私は海兵隊員たちから拍手喝さいを受け、バーボンが残っているグラスにビールを注がれ、口に含むときついビールと言うような不思議な味がした。
「ジャパンも歌え」「歌え、アーミー」「ジャパン アーミー ソング」海兵隊員たちからリクエストが起こったが陸上自衛隊歌を誰も知らなくて隊員同士で顔を見合わせている。そこで私はグラスのビールを飲み干すと大声で歌い始めた。
「万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男の児と生れては 散兵戦の花と散れ」これは我々普通科部隊の先輩にあたる帝国陸軍歩兵科の軍歌「歩兵の本領」だったが部内出身の同期も知っていて一応は合唱になる。
「退く戦術われ知らず、知るや歩兵の操典を 前進前進また前進、肉弾届くところまで」歌い切ると大きな拍手が起こった。私は海兵隊員たちに囲まれてさらにビールを注がれた上、歌詞の意味を訊かれたが酔いが回って英訳に苦労した。
「これだけ盛り上がったパーティーは珍しいよ。モリヤ3尉の英語力と社交術は大したもんだ」部隊に帰るバスの中で主任教官が感心したように誉めてくれた。

部内課程の候補生たちは陸曹時代に着用していた制服で入校し、卒業後の任官時に更新されるため襟に幹部候補生徽章の穴がない幹部専用になるが、入隊して1年の我々は更新には該当せず、そのまま肩に階級章を付けるしかない。
このため幹部候補生学校に注文を取りに来る専門業者で私物の制服を作ることが一般的なのだが、今年はそれがなかった。と言うのも1年後の平成3年から制服が全面改定になり色からデザインまで一新されるのだ(WACはダブルからシングルになる)。
新しい制服の写真は見ているが私はあまり好きではなかった。何よりも生地が安っぽい緑色で肌が黄色いアジア人には似合わない(和服でも緑系は萌黄色と浅葱色)。同じ緑色なら第302保安中隊の特別儀仗用の黒に近い深い緑色の方が風格があって良いと思う。
私個人としてはスターウォーズの帝国軍の軍服が好きなのだが、それは時代が進み過ぎだろう(スターウォーズの時代設定は遠い過去だが)。
  1. 2015/10/24(土) 09:07:45|
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振り向けばイエスタディ251

富士学校ではキャンプ・フジのアメリカ海兵隊と交流がある。訓練後のパーティーで私は彼らと談笑するのが楽しみだった。
那覇での海兵航空隊とのパーティーではジュディと知り合い、基地内でイケナイことをしたが今回は逞しい男性の士官・将校だけだ。然も服装は迷彩服で、袖をまくり上げた太い腕には護符の刺青が見える。
一方、我々は迷彩服を1着しか持っていないので訓練が終われば洗濯しなければならず、OD色の作業服(一応は戦闘服と呼んでいる)だ。
そんな妙な風景のパーティー会場で私は同じバーボンを飲んでいる大尉と談笑を始めた。
「ルテナン・モリヤ、君の英語は随分と話し慣れているね。バーボンの発音なんて普通の日本人にはできないよ」確かにバーボンは「ボォウブォン」に近い発音なので片仮名表記では正確な表現ができない。
「イエス・サー、昔、沖縄にいましたからフティマ(=普天間)の海兵隊員とも付き合いがありました」海兵隊と空軍は仲が良くないと聞いていたので自分が「元航空自衛隊だ」とは言わなかった。
「普天間かァ、奴等は海兵隊員なのか空軍なのかよく判らん」案の定、大尉は腹に一物あるような顔で答える。ようするに技術者集団の航空部隊は腕と度胸で勝負の海兵隊の中では異質な存在なのだ。
「岩国にも行ったことがありますよ」「あそこもエンジニアばかりで同じだよ」岩国基地には曹候学生の教え子たちを引率して日米親善デ―に行っただけだ。
それにしてもWM(ウーメン・マリーン=女性海兵隊員)のジュディは男性隊員にもひけを取らない筋肉の持ち主で私も腕相撲で負けた。あれでも1人前の海兵隊員と認められないのでは地上戦闘員はどんな連中なのだろうか?
「君は航空部隊にばかり関わっているが航空ファンなのか?」大尉は手に持ったグラスのバーボンを飲み干すと赤くなった顔で訊いてくる。
「ノ―・サー、この通り武道ファンですよ」私が胸の格闘徽章を示して答えると大尉は唇を歪めた。
「ジャパンのアーミーもそう言ったスペシャリストの徽章が好きなんだな。海兵隊は海兵隊員であることが特殊能力なんだよ」言われてみると海兵隊員の胸には特殊技術を示す徽章類は一切ない。空挺やレンジャー、私のような格闘も彼等には当たり前の戦闘技術なのだろう。
「一応、アーミーですからドレース ドギィ(犬ころ=米陸軍へならえ)ですね」ミリタリー・スラングを使ったジョークに大尉が笑ってくれたので私は追い打ちをかける。
「頭はジャ―ヘッドですが、海兵隊ではありません」そう言って美恵子が御手製の海兵隊刈りの頭を撫でて見せると大尉は「スラングにも詳しいなァ」と感心して笑ってくれた。
アメリカ海兵隊は太平洋戦争の好敵手・日本陸軍には敬意を抱いてくれているのだ。
  1. 2015/10/23(金) 09:17:46|
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振り向けばイエスタディ250

富士学校では就職できない美恵子の機嫌を取るよう私は家庭サービスに励むようになった。その手始めに富士サファリパークへ出掛けた。
駿東郡小山町の官舎から富士サファリパークまでのコースは富士山を下って御殿場市に入り、さらに裾野市に向かうため富士山を半周する感じだ。
防府からも秋吉台のサファリパークへ行ったことはあったが、日本一のサファリパークだけに期待は膨らみ、淳之介は昨晩から興奮気味で中々寝つかなかった。
「お父さん、サファリパークまだァ?」出発してすぐから淳之介は何度も聞いてくる。
「ううん、訓練場につながっていたらお父さん、ライオンに食べられちゃうよ」私の答えに後ろの席の美恵子が笑ったのが判った。
裾野の市街地に入ると交差点ごとにサファリパークの看板があり、あとは案内通りに進むだけだ。
「僕、ライオンバスに乗るの?」淳之介は看板にあるライオンバスを指さして訊いてくる。
「うーん、車で来てるからそのままだね」ライオンバスからは猛獣に餌をやることもできるらしいが料金が判らない。
「でも、この間、テレビで車がライオンに引っ掻かれて壊れたって言ってたよ」美恵子が言ったことは私も新聞で読んでいた。
「へー、ウチの軽4じゃあバラバラにされるな」「象なら踏みつぶされるさァ」父母が冗談を言い合っていると淳之介は真剣におびえた顔をして「怖い」と言った。
「大丈夫、お父さん強いから」「でも、ライオンに食べられるっていったもん」美恵子の言い訳にも淳之介は先ほどの私の台詞を覚えている。
私は我が子が成長すると親も言動に気をつけなければいけないことを学んだ。

それから美恵子は毎週のように日曜日の朝1番の高速バスに乗って東京へ出かけ、最新の流行を探索し、夜に帰ってくるようになった。その費用は美恵子が防府の理容店で稼いだ給料だから文句は言えないが、入校中、必要最低限の小遣いで過ごした私の苦労は何だったのだろうか。
「東京って凄いさァ」帰ってくると美恵子は異様に光る眼で状況報告する。
「山手線に乗っても、ずっと那覇や福岡や小倉に広島くらいの街が見えるんだよ」「ふーん」私は都会が嫌いなので生返事を返すだけだ。それでも美恵子は興奮して報告を続ける。
「それに歩いている人が雑誌に載っているのと同じ髪型をしているのさァ」「へー・・・」私は心の中で「だからどうした」と呆れていたが、美恵子は禁句を口にした。
「私、東京の理容店に勤めたいさァ」「何ィ?」私の卒業序列がかなり後退した原因は美恵子が無断で就職したことだ。しかし、これから幹部としての勤務で家庭にも負担を掛けることになる以上、美恵子の心証も尊重しなければならない。
国家と家庭、公私共に防衛の任務を遂行することができて幸せだ。かなァ・・・。
富士サファリパーク
富士サファリパーク(並走するライオンの巨大さにビビッた)
  1. 2015/10/22(木) 09:50:09|
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振り向けばイエスタディ249

「もう駄目ェ、酔っちゃったァ」散々飲まされた伊藤候補生は学生隊舎の前でバスを降りると倒れるように抱きついてきた。顔はやや上気し、目はトロンとしていて息からはビールと洋酒の匂いがする。ほかの同期たちは何故か羨ましそうに遠巻きにしていた。
「歩けるか?」「駄目ェ、抱っこしてェ」伊藤候補生は甘えてすがりついてくる。どうやら同じ学生隊舎の2階にあるWAC居室まで連れて行くことになりそうだ。
「モリヤ候補生、頼みますよ」「それじゃあ、よろしく」同じ区隊の同期たちは申し合わせたように伊藤候補生を私に任せて帰ってしまった。
私は眠っている伊藤候補生を背負うと学生隊舎の2階まで階段を上って行った。
「重いよォ、大丈夫?」背中で眼を覚ました伊藤候補生は自分からリクエストしておいて心配もしてくれる。ただし抱っこではなかった。
2階のWAC宿舎のドアまで来ると伊藤候補生は耳元で「屋上へ行こう」と囁き、耳たぶ
を噛んだ。腕時計を見るとまだ点呼までは時間があるのでそのまま上がっていった。
屋上のドアを開けるとホテルのバスが次の学生を乗せて戻って来たのが見える。
「風が気持ちいいィ」「うん、酔い覚ましに丁度いいね」そう言って屋上で風に当っていると伊藤候補生は背中から下り、ふらつく足で立ち上がると座った目で見詰めてきた。
「ねえ、モリヤ候補生」「はい」私も彼女の目を見つめ返して返事をする。
「グッド・ラックのキスをして下さい」「えっ?」私は突然の「命令」に戸惑った。
「してくれないと朝までここから帰らないよ、だからキス・ミー・ナウ・・・」伊藤候補生は甘えて私の首に腕を回し、そっと目を閉じた。
私は一瞬ためらった後、酔いに任せて・・・酒のせいにして抱き締めるとキスをした。しかし、これは伊藤候補生の希望を実現するため同期たちが仕掛けた作戦だったような気がしていた。

我々の修了式は部内課程と一緒だった。入隊・入校式は防衛大学校出身者と同じだったので、両方の課程を合わせた分量の教育を受けたことになる(現在は全課程統一)。
修了式には美恵子と淳之介を呼ぼうかと思ったが、移動期間中に引っ越しする準備でそれどころではなかった。富士学校では間もなく3等陸尉になることを見越して妻帯者は官舎に入り通勤することができたので、流石の美恵子も今回は仕事を辞めてついてくるのだ。
結局、美恵子の無断就職は服務事故にはならなかったものの金銭トラブルと受け取った中隊長以上の心証を著しく害してしまった。このため不慣れな陸上自衛隊式の試験問題に苦戦した学科の成績も重なり、卒業序列は予想外に悪かった。
「あんなに頑張っていたのに何だか申し訳ないなァ」修了式の後、区隊長は妙にすまなそうな顔で声を掛けてきたが、坊主としては「自業自得」「因果応報」と納得するしかない。
  1. 2015/10/21(水) 09:26:35|
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10月21日・悪徳官僚・海原治が死んだ日

平成18(2006)年の明日10月21日は防衛庁に巣食った悪徳官僚にして戦後の防衛政策を大きく誤った元凶である海原治が死んだ日です。
海原の犯した罪は数え切れませんが、最大の過ちは本来、国民によって選出された政治家による戦闘員の統制を意味するシビリアン・コントロールを国家試験に受かった以外は何の選考も受けていない官僚による統制に変質させ、同じ任務を負う防衛庁の同僚を主従関係=敵対関係にしてしまったことでしょう。
海原はヨーロッパで第2次世界大戦が勃発する昭和14年に東京帝国大学法学部を卒業して内務省に入りました。戦前の内務省は現在の警察庁、消防庁、国土交通省、厚生労働省に加え、国家神道までも掌握する絶大な権力を持っていました。
海原は入省翌年の昭和15年には高知県に赴任してエリート官僚の道を突き進み始めたのですが、間もなく四国(司令部は香川県の善通寺)から満州に派遣されていた第11師団に出征して主計将校になり大尉で終戦を迎えました。
戦後は内務官僚に戻り警察畑を歩みますが、朝鮮戦争勃発に伴い警察予備隊が創設されるとこれに関わり、そのまま保安隊=保安庁に加わることになったのです。
しかし、海原は保安庁、続く防衛庁でも警察官僚であり続け、防衛予算が警察への予算配分の妨げになっていると感じればこれを潰すことに躍起になっていたそうです。特に60年安保闘争で警察力による治安の維持が限界を示し始めると自衛隊では治安出動の訓練が本格化したのですが、これを徹底的に妨害しながら警察に機動隊の編成を促し、70年安保闘争とその後の成田闘争でその実力を見せつけて、陸上自衛隊の主要幹部たちに「お前たちの出番はない。残念だったな」と嘲笑していたと言います。
また海原は巨額の予算を必要とする海上自衛隊、航空自衛隊を「無駄」と断じ、陸上自衛隊を軽装備にして上陸してきた敵にはゲリラ戦で抵抗することを持論にしていました(軍事評論家になってからは消防団の武装=民兵化も言い出した)。その本音では「海上自衛隊が(堀悌吉中将の尽力により)帝国海軍の伝統を継承する形で創設されたため自分の思う通りにならず、航空自衛隊も同様にアメリカ空軍の影響下にあることが気に入らなかっただけだったのではないか」と言うのが迷惑を被った=憎悪していた草創期の幹部の人たちの意見でした。
若しこの素人の愚策が継続されていれば尖閣諸島の水中深く中国海軍の潜水艦と対峙している現在のような防衛行動は不可能であり、沖縄は早々に占領されていたでしょう。
海原は官僚が制服組の高級幹部の人事と予算の配分を握り、官僚には専門的知識がない防衛計画(=装備の取得)から作戦の立案・作成にまで事務手続きに於いて承認権を得るような組織・制度を作り、防衛庁長官と制服組の接触を徹底的に遮断し、官僚に都合の良い情報だけが耳に入るようにしていました。さらにマスコミも制服組を弾圧する海原を持ち上げ、後輩の官僚たちにもやり方を踏襲するように扇動したのです。
そんな海原も国防会議事務局長に転出すると同じコースの1年後輩だった中曽根康弘防衛庁長官に「お茶汲みの事務官と同じような仕事」と評されて面目を失いました。
海原が作り上げた異常な官僚統制システムも上級職国家公務員試験の合格者の中では環境庁と並んで成績劣等劣者ばかりが揃っている防衛庁の官僚では限界があり、やがて時代の変革に対応できなくなって国際常識に則った組織制度に改革されたのです。それまでに要した時間は60年、海原の罪は重過ぎます。
  1. 2015/10/20(火) 09:42:56|
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振り向けばイエスタディ248

一般課程の解散式=卒業パーティーが久留米市内のホテルであった。今回は「弱い兵隊の乗り物」=ホテルのバスで駐屯地から運ばれるので安心して呑めそうだ。
私は先日の職種発表で普通科に指定されている。区隊長からは元航空機整備員としての経験を活かすため航空科を勧められたが、それでは航空機整備幹部と同様に現場の粗探しのような仕事になると思い歩兵第22旅団長だった曽祖父に倣い普通科にしたのだ。
本当は区隊長と同じ特科で海軍陸戦隊が陸軍以上の強さを発揮した秘訣である敵の動きに合わせて着弾地点を決める迎撃的砲射撃を研究したかったのだが、区隊長は賛成しなかった。やはり陸上自衛隊の特科も日本陸軍の砲兵と同じように前方の敵に一斉射撃する制圧射撃に固定されているのかも知れない。
パーティー会場には卒業式に出席する陸上幕僚長以下の来賓もおられ、気軽に我々学生との談笑の応じてくれる。区隊長は私を「航空自衛隊からの献上品です」と来賓に紹介してくれた。この辺りは陸曹・空曹の格闘課程とは少し違うようだ。
ただ東北大学出身で通信幹部のこの幕僚長は3月に交代される予定で、後任はいよいよ防衛大学校1期生の北部方面総監が就任するらしい。

そんな楽しくも騒がしい会場から離れ廊下のソファーで休憩しているとトイレから帰って来たらしい伊藤佳織候補生が隣に座った。
「みんな飲ませ上手で酔っちゃいました」伊藤候補生はそう言うと赤くなった顔で笑う。確かに会場では同期だけでなく来賓や教官たちからも酒を注がれ大分飲まされていた。
「モリヤ候補生、長いこと有り難うございました。次は富士学校ですよね」私の職種・普通科は富士学校の幹部初級課程(BOC)に入校することが決まっている。
「うん、伊藤君は通信だったよね」「はい、NTTに就職します」そう言うと伊藤候補生は自分のジョークに自分で受けて笑った。
その時、廊下にも流れている軽音楽がムードのいいブルースに変わった。
「モリヤ候補生、踊りませんか?」伊藤候補生は酔った目で私の顔を見つめると突然なリ
クエストをしてきた。これは盆踊り大会の時の約束でもある。
「いいけど酔ってるだろう、大丈夫か?」「ダンスでも私を酔わせて下さい」伊藤候補生の台詞にはいつも洒落たセンスがあり、私はそれが好きだった。
私は立ち上がると伊藤候補生の前に立ち、手をとって立ち上がらせた。
「お嬢さん、私と1曲お願いできませんか」「はい、よろこんで」ここで音楽はスローなブルースから軽快なタンゴに変わった。私と伊藤候補生は廊下でステップを切りながらタンゴを踊ったが酔っているだけに息が上がってくる。これではダンスで酔わすのではなく酒が回るだけだ。時々、伊藤候補生は足元がふらついて、すがりついてくるので私は腰にまわした腕で腰を支えた。そんな様子をトイレに行く出席者たちが感心しながら眺めて通り過ぎて行った。
  1. 2015/10/20(火) 09:41:27|
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逝去・追悼の記事が重なりました。

「養老乃滝」木下藤吉郎社長の逝去を悼む
10月3日に居酒屋チェーンの草分け「養老乃滝」の創業者である木下藤吉郎(本名・矢満田富勝)社長が亡くなりました。95歳でした。
野僧は沖縄で本土の料理が食べたくなると「養老乃滝」に行きましたが、美味しそうに食べているのを見て勉強家の亡き妻は店長さんを通じて厨房の調理師さんに材料や作り方を訊いて、アパートで作ってみることを繰り返したため野僧も顔を覚えられて親しくなりました。
店名の由来である「養老乃滝」は岐阜県にあるので「社長は岐阜県出身か?」「本店は岐阜か?」と訊いたところ出身は長野県松本市、本店は東京とのことでした。さらに1号店は横浜だったそうです。
本土のチェーン店には「養老ビール」と言うブランド物があるそうですが、これはサッポロ・ビールの生黒ラベルのラベルを張り替えただけだそうです。残念ながら沖縄の店では「最も新鮮・オリオンビール」でないと売れないため置いてありませんでした。
その後、本土に帰って「養老乃滝」を探したのですが西日本では見当たらず、奈良の幹部候補生に入校して見つけると毎週のように通い詰めました。本土の味を沖縄にまで伝えて下さって有り難うございました。合掌

橘屋円蔵師匠の逝去を悼む。
10月7日に上方落語の8代目・橘屋円蔵師匠が亡くなりました。81歳でした。
我々の世代だと円蔵師匠は黒縁眼鏡でナンセンスなギャグを連発する月の家円鏡さんのイメージが強烈ですが、それは東京の放送局が伝統芸能を気取った江戸落語のイメージを正当として(東京の寄席では落語以外は色物と呼んで格下にしていた)、漫才などに伍して受ければ何でもあり上方落語を蔑視した売り出し方をしたためです。実際の円蔵師匠は上方落語の正統派であり、東京では軽く扱われた月の家円鏡の名も幕末から続く5代目の名跡でした(大名跡とは言わない)。
本来、落語は寄席で演じられる庶民の芸能であり、畏まった席で鑑賞するような芸術ではありません。その意味では落語も漫才も曲芸も客を喜ばした者が勝ちと言う上方の芸風こそが本来の姿なのです。上方落語の至宝・桂米朝師匠を江戸前の柳家小さん師匠よりも格下に扱ってきたことでも明らかなように東京のマスコミの独善性は日本の庶民文化を変質させています。
円鏡さんが獲った爆笑こそが芸人にとっては最高の勲章でした。ところで師匠の奥さんは本当に「セツコさん」なのでしょうか?合掌。

俳優+声優・熊倉一雄さんの逝去を悼む。
10月12日に俳優で声優の熊倉一雄さんが亡くなりました。88歳でした。
熊倉さんと言えば野僧も子供の頃に見ていた「ヒッチコック劇場」に登場するアルフレッド・ヒッチ監督の声が印象に残っていて、後に本人の英語の声を聞いても「どっちが本物?」などと馬鹿なことを考えてしまうほど見事な吹き替えでした。
それからNHKの子供人形劇「ひょっこりひょうたん島」の海賊・トラヒゲの役では藤村有弘さんのドン・ガバチョとの絶妙な掛け合いが最高でした。またサンデー先生に密かに恋心を抱きながら告白できない時の口調は子供心にも共感を覚えたものです。
次の「空中都市008」では所長の役でしたが番組自体が早く終わってしまいました。続く「ネコジャラ市の11人」ではガンバルニャンだったと思いますが、野僧の方が見る年齢ではなくなり、妹がかじりついているのを後ろから眺めるだけでした。
何よりも熊倉さんと言えば「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌でしょう。あの独特の声は妖怪向きのような気がしますがそちらは記憶にありません。
あの個性的な声と風貌は色々なアニメやドラマで印象に残っています。楽しい思い出を有り難うございました。合掌

古代史家・古田武彦先生の逝去を悼む。
野僧が大変に影響を受けた古代史家で親鸞研究の権威でもある古田武彦先生が10月14日に逝去されました。89歳でした。
野僧が最初に先生の著作に触れたのは奈良の幹部候補生学校を終えて福岡県の春日基地に勤務している時、親しくしていた春日市教育員会の学芸員さんに勧められたことからです。それは「邪馬台国はなかった」以降の一連の九州王朝に関する研究書でしたが、野僧も邪馬台国の畿内・九州論争の現地を実際に見比べた実感として九州の史跡の方が時代は古く、「邪馬薹国」が登場する魏志倭人伝が編纂された3世紀は日本の弥生時代後期のはずなので未だ統一国家が成立していない以上、畿内から中国・四国・九州各地の土豪を出し抜いて朝貢使を派遣することは不可能だと結論付けました。
次に手にしたのは車力に赴任して津軽の豊穣の大地に育まれた縄文文化を目の当たりした時で、先生の「東日流外三郡史」の研究書をかなり読み込みました。
その一方で「親鸞・人と思想」などで浄土真宗の坊さんとは違う切り口から聖人を考える鍵を与えてもらいました(本はスリランカの大学に寄贈しました)。
先生のおかげで全国各地の官費旅行に古代史探究の楽しみが加わり充実したものになりました。合掌
  1. 2015/10/19(月) 09:02:11|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ247

そこへ区隊長と元気がある同期たちが集まってきて囲みながら「どうした?」「大丈夫か?」と声を掛けた。しかし、伊藤候補生の表情が緩み、私の手の動きがスムーズになったのを見て区隊長は「モリヤ候補生と一緒に来い」と指示して先に台地から下りて行った。

「よし、これでいいだろう」最後に爪先を持って回すと伊藤候補生もうなずいた。
「最後まで本当によく頑張ったね」「まだ、終わっていません」自分で靴の紐を締めながら伊藤候補生はもう一度うなずき直した。
確かに状況は終了したが訓練は終わっていない。この大学を卒業して入隊したはずの同期のプロ意識は現職の自衛官以上の物があるように感じた。
ようやく立ち上がった伊藤候補生に銃を渡したが歩くのはかなり辛そうだった。
「下までおぶろうか?」「残念だけど結構です」それでも肩を貸しながら坂道を下り、哨舎への道を並んで歩いた。
「モリヤ候補生と2人きりで歩いてみたいって思ってたけど、こんなところで実現するなんて・・・」「まあ、公務のハイキング、ピクニックってところじゃないか」伊藤候補生のぼやきに私は苦笑しながら答えた。2人で映画に出掛けたがあれは別なのだろう。
「ハイキングなら歌でも唄いたい気分だな」「状況は終了しましたけど、まだ訓練中ですよ」「なら軍歌なら好いのかな」「今度、カラオケに連れて行って下さい」その時、私は足元に小さなスミレの花を見つけた。
「春、スミレ咲き春を告げる・・・スミレの花 咲くころ 初めて君を知りぬ・・・」それは軍歌ではなく宝塚歌劇団の主題歌「スミレの花咲くころ」だったが兵庫県出身の伊藤候補生も鼻歌で合わせてきた。

80キロ行軍は終了し、その夜は哨舎に宿泊する。哨舎に到着し、区隊長に報告すると出口で伊藤候補生が水筒を差し出した。
「モリヤ候補生、お疲れさまでした。水をどうぞ」私の水筒は途中で同期に飲ませて空になっていることを伊藤候補生は知っているようだ。
「あんなに声を出して喉が渇いたでしょう」「でも・・・」私がためらっていると伊藤候補生はさらに水筒を突きだした。
「それじゃあ、遠慮なく」私は水筒を受け取り1口飲んだ。早春の冷気に冷やされた水は嗄れた喉に染み亘るように美味かった。
私が飲んだ水筒の口を手で拭おうとすると伊藤候補生は素早く手を伸ばして奪い取り、唇にあてて1口飲んだ。私は呆気に取られて口を開けて見ていた。
「これは私へのご褒美です」伊藤候補生はそう言って笑ったが私は訳が判らなかった。
  1. 2015/10/19(月) 09:00:28|
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振り向けばイエスタディ246

今回、最後の試練として演習場内を進攻する時は教導隊ではなく候補生が分隊員を務める。小隊長は学科成績が優秀な男子の候補生だが、やはり慣れておらず指揮に余裕がない。私は立場を超えないように気をつけながらも同期たちに気を配った。
「停止」「装具点検」「周辺監視」分隊長の横で大き目の独り言をつぶやいて指示することを教え、疲れて余裕のない同期たちに手を貸し、励ました。
やがて演習場の奥の台地の下に取りつき突撃に入る。副分隊長として最左翼に位置する私の隣りはWACの伊藤候補生だ。やがて分隊長が丸暗記している号令を叫び始めた。
「第4分隊」「第4分隊」「前方20の線、突撃発起位置」「前方20の線、突撃発起位置」分隊員も大声で復唱する。私は分隊長に代わって隊員の動作を確認した。
「突撃発起位置までに突撃準備を完了せよ」「第3匍匐」「前へ」復唱し終えて我々は第3匍匐で前進を始める。しかし、伊藤候補生は足が痛いのか地面が上手く蹴れず遅れ気味になった。
「伊藤候補生、頑張れ」「頑張れ」「もう少しで第4匍匐だ」「頑張れ」第4匍匐になれば蹴る位置が両足の親指になり、右足への負担は軽くなるはずだ。
「頑張れ」「はい」伊藤候補生が返事をした時、前進は第4匍匐になった。
「着剣」「弾倉交換」「装弾」「突撃準備よし」匍匐しながら動作を口で確認する。そして台地への斜面の下の壕に転がり込んだ。
「最後だ。ファイト!」伊藤候補生の背中に声を掛けるとヘルメットがうなずいた。
「最終弾着5秒前、4、3、2、1。突撃に」「突撃に」「進めェ」「進めェ!」我々は一斉に立ち上がって初弾を発射、数歩ごとに射撃を繰り返した後、「突っ込め」の指示で「ワー」と喚声を上げて突撃する。
本当ならアドレナリンが分泌されて気分が高揚するはずだが、私はこの場面に旅順要塞の戦訓を学ばぬ愚かさを感じており1人白けていた。

「状況終了、その場に立て」区隊長の指示で立ち上がったが同期たちは燃え尽きてしまったようで立つ者は少なかった。そんな中、隣りに伏せている伊藤候補生が呻き声を上げているのに気がついた。
「どうした?」私は武器・装具確認の手を止めて駆け寄った。
「両足がつってしまって」伊藤候補生は顔を歪めて訴えた。
「そうか、大丈夫か?」私は伊藤候補生の64式銃を取ると脚を立てて置き、仰向けにして半長靴を脱がすと開放された両足は爪先立ちのようになり、伊藤候補生は「ウッ」と苦痛に声を漏らした。
「痛いけど我慢してな」そう言って足を持ち、上下、前後させながら柔軟運動を加えるとようやく固まっていたふくらはぎが柔らかくなった。しかし、右足の靴下の裏は真っ赤に染まり、かなり出血しているようだ。
お・Jun Ji Hyunイメージ画像
  1. 2015/10/18(日) 00:00:52|
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振り向けばイエスタディ245

「どうしたんだい?」「右足にマメができて処置してもらってきました」そう言うと伊藤候補生は爪先立ちで歩み寄って来て月明りでも顔が判るようになると懐中電灯を消した。
「初日に大変だね」「はい、困っちゃいます」「休憩時間には半長靴の紐を緩めて靴下のしわをのばすと良いよ」「そうなんですか?」「そうかァ、WACさんにはその話をしなかったな」前日、トラックに必要資材を積み込む作業をしている時、同期たちにその話をしたが、そこにWACはいなかった。
「罪滅ぼしに明日は少し荷物を持とうか?」私の申し出に伊藤候補生は首を振る。
「いいえ、最後まで頑張ります。私も幹部候補生、ソールジャー(兵士)ですから」月明りに照らされた伊藤候補生はギュッと唇を引き締めて真顔だった。
「そうかァ、かえって失礼したね、ゴメン」「いいえ、嬉しかったです」そう言うと伊藤候補生は「オヤスミナサイ」と言って懐中電灯を点け、歩いて行った。

翌日は徹夜で歩き、最終日の明け方に佐賀県の大野原演習場に到着する。山を下りて人里に入ると歩くには楽だが体力は限界で、小隊でも大学で運動部ではなかった連中がドンドン落伍していく。明け方の冷気に彼らが絶え絶え吐く息が白かった。
朝の早い田舎の年寄りたちは庭先に立ち毎年恒例の行軍を眺め、目が合うと微笑んで会釈してくれる。そんな感激を噛み締めていると前の小隊から非情な声がかかった。
「モリヤァ、寺だぞォ!」ようするにお地蔵さんではなく寺があるからお参りしろと言うことだ。しかし、石の地蔵や観音なら兎も角、寺では何を詠めばいいのか判らない。
私はダッシュしながら考えて、暗記しているお経の中では一番長い般若心経を唱えた。すると境内を掃除していた老齢のお坊さんが合掌して頭を下げ、「南無阿弥陀佛」と唱えてくれた。宗旨が違っていました。アシカラズ。
それにしても長いお経の上、挨拶までしたため追いつくのにエライ目に遭ってしまった。

演習場に到着して状況開始と言うのは「徐州 徐州と人馬は進む」と歩いて前線に赴き、戦った大日本帝国陸軍そのままにこれからが本番と言うことだ。
私は初日にマメを作っていた伊藤候補生が気になっていた。休止地点での健康状態の確認では「異常なし」と答えているが、それでも足を引きずっている。今までは歩きだったが、これからは発進・停止を繰り返すのだ。
「大丈夫か?」「はい、最後ですから」腰を下ろして靴下を換えている伊藤候補生は立っている私を見上げて微笑んだ。しかし、脱いだ靴下のかかとは真っ赤に染まっている。私は「座らない」と言う誓いを忘れて膝をつき、傷を確認してしまった。
それに気づいた伊藤候補生は驚いた顔をしたが目を潤ませて「ありがとうございます」と呟いた。
  1. 2015/10/17(土) 09:21:16|
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10月16日・大正天皇の生母・柳原愛子(やなぎわらなるこ)の命日

昭和18(1943)年の本日10月16日に大正天皇の生母=昭和天皇の実際の祖母である柳原愛子さんが薨去しました。84歳でした。
野僧が山口県防府市で教えを受けた師僧の母親は結婚前、大正天皇の皇后・節子(さだこ=後の貞明皇太后)さんの女官を勤めていたそうで、修行の合間の雑談の中で色々な宮中の秘話を話してくれました(ご本人は言葉が不自由だったため奥様が)。
節子皇后は農家に預けられて育ち、「九条の黒姫」と渾名されるような健康優良児であった反面、宮中の立ち振る舞いの修錬や和漢の典籍、和歌などの教養が不十分で、病弱な大正天皇との婚儀が決まっても心中は不安を抱えていたそうです。
節子さんを昭和天皇の4兄弟を生み育てた稀代の皇后に成長させたのは、周囲に気を配りながら守り支え、適切な助言を与えて導いた愛子さんの力が大きかったと言います。
愛子さんは明治天皇の美子(はるこ=後の昭憲皇太后)皇后の女官から側室になったことで「成り上がり者」と誤解されることもありますが権大納言だった公家の娘でした。
さらに大正天皇が暗愚だったと言う誤解からそれを母親の血が原因だったと非難する者もいましたが実際は和歌の名手で、姪は美貌でも有名な女流歌人・柳原白蓮であり、大正天皇も漢詩・和歌の秀作を数多く残していることを考えるとその才能は母親譲りだったのかも知れません。
明治天皇には正妻である美子皇后の他に葉室光子さん、橋本夏子さん、柳原愛子さん、園祥子(さちこ)さん、千種任子(ことこ)さんの5人の側室がいたようで、美子さんとの間に子供はなく、光子さんは男の子を死産、夏子さんは女の子を死産、愛子さんは女男男と3人を産みますが上の2人は夭折しました。さらに祥子さんも女の子2人を産んだものの夭折しています。そして任子さんは8人の子宝を授かりながら男の子2人と女の子2人は夭折し、女の子ばかり4人が成人したのです。つまり15人の子供のうち成人したのは5人だけ、その中でも男の子は大正天皇だけでした。
夭折した子供たちの死因は全て脳膜炎であり大正天皇も幼いこと罹っていることを考えると宮中の環境に問題があったのかも知れません(その前に戊辰戦争の怨念と廃佛毀釋の佛罰です!)。
大正天皇は自分の母親は美子さんだと信じていたようで、側室である愛子さんが実母と知って衝撃を受け、塞ぎ込んだと言われます。しかし、愛子さんの愛情は深く、特に女官として仕えることになった節子さんには美子さんの側近たちからの嫌がらせ(=姑の嫁いびりの代行?姑の威を借る女狐?)には身を盾にして庇い、節子さんに仕える女官や下働きの女性たちにも事細かに気を配って忠誠心を高揚させたので、実母のように慕われていたのです。
このため大正天皇の病気が重篤になって葉山御用邸で療養した時、節子さんから医療関係者以外に病室へ立ち入ることを許されていたのは節子さん本人と摂政宮夫妻(昭和天皇夫妻)とその兄弟、そして愛子さんだけで崩御の時も立ち会うことができたそうです。
愛子さんが薨去した時、皇太后になっていた節子さんは自宅まで訪ね、遺骸の手を握りながら「長い間、私が無事に過ごしてこられたのも全て貴女のおかげです」と語ったと言われています。
昭和の陛下と言う英君を得て、この国が消滅の危機を乗り越えられたのも大正天皇を生み、その皇后を「黒姫」から賢母に成長させた柳原愛子さんの功績が大きいのでしょう。
柳原愛子
  1. 2015/10/16(金) 09:22:41|
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振り向けばイエスタディ244

卒業前、幹部候補生は草創期以来の伝統である80キロ行軍の山岳徒歩行進訓練に出る。太刀洗の陸軍では「百里行軍」と言って長崎や熊本、大分まで往復の400キロを踏破したそうだが、こちらは山道を歩くので厳しさは変わらないだろう。
おまけに背納の中に通常の荷物のほかに「根性」と書いたレンガ、「ど根性」と書いたコンクリートブロックを入れて自分に試練を課し、蛮勇を競わさせられるのだ。
私は陸上自衛隊の出身ではないが航空教育隊の班長出身の格闘指導官と言うことで部内部外組に準ずる扱いを受けている。つまり特に気合を入れなければならなかった。ところが出発する前日、私には区隊長から特別メニューが言い渡された。
「モリヤ候補生、お前は坊さんだろう、だったら道端のお地蔵さんに訓練の安全祈願をしろ」「はァ、それは業務命令ですか?」「そんなもんだ」何故か区隊長の頬は緩んでいる。
結局、私はど根性ブロック1個とお地蔵さんへの安全祈願をすることになった。

翌日の午後、我々は80キロ行軍訓練に出発した。
駐屯地から背振山系の出発地点までの移動はトラックなので特別なことはないが、荷台に座っていても3泊4日分の食料、衣類などのほかにど根性ブロックが入っている背納はズッシリと重かった。
行軍が始まると私に課せられた特別メニューの意味が判ってくる。脊振山系には山岳信仰の歴史があり、行者たちが建てた石佛が難所に鎮座しているのだ。
「モリヤ候補生、お地蔵さんだ!」小隊の前を歩く警戒員から声がかかると私は一気に駆け出して石地蔵の前に立ち手を合わせ、延命地蔵菩薩経偈という短いお経を唱え、頭を下げる(観音なら延命十句観音経)。その間に自分の小隊は通過しているのでまた駆け出して自分の位置に戻らなければならない。そんなことが数キロに1回は繰り返された。
「しまったァ、線香も持たせればよかったな」そんな私の姿を見ながら区隊長は笑っていたが、線香に火を点けて具えていてはさらに時間がかかってしまう。私は心の中で「冗談じゃあない」ときっぱり拒否していた。

部隊はやがて筑紫山系の山道に入り、最初の宿営地である山林に着いた。
野営と言っても2人用の天幕では相棒と話す以外にやることはなく、みな夕食後には早目に眠りについたようだ。ところが私の相棒は眠ると同時に大イビキをかき始め、耳にティシュで栓をしても眠られず、仕方ないので外で星空を眺めていた。冬の夜空には星が輝いて美しいが我々の天幕からはイビキが聞えてくる。
「流石に冷えるなァ」そう言った自分の白い息に寒さが余計に身に染みた。その時、月明りの中、懐中電灯を点けてこちらへ歩いて来る人影があった。
「モリヤ候補生も眠れませんか」その声は伊藤候補生だ。
「うん、この音聞こえるだろう」私がイビキの音を示すと伊藤候補生の影が笑った。
  1. 2015/10/16(金) 09:19:17|
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10月16日・マリー・アントワネットが処刑された。

1793年の明日10月16日にフランス王妃だったマリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュが断頭台(ギロチン)で処刑されました。37歳でした。
野僧が中学生の頃、池田理代子さんの劇画「ベルサイユのばら」が大ブームになっており、シュテンファン・ツヴァイクの伝記「マリー・アントワネット」を読んで詳しかった野僧も珍しく好意的な会話に加えられました。
ただ、池田理代子さんは少女漫画的に描いているのでモデルのような美貌と抜群のスタイルですが、実際のアントワネットの身長は当時の標準である154センチ、ウェイスト58センチ(ドレスを着る時はコルセットで締め上げていた)、バストは108センチの巨乳だったそうです。
そして顔はオーストリア皇室・ハプクスブル家の血筋で鷲鼻の下膨れ顔の上、下唇が厚かったと言われています。それでも肌は乳白色、髪は輝くような金色で、表情には見る者を惹きつけて止まない愛くるしさがあり、社交会場に咲く大輪の花だったのは間違いないようです。
そもそもアントワネットと言うのは嫁いでからのフランス語の名前で、母親のオーストリア帝国の女帝・マリア・テレジア、父親の神聖ローマ帝国の皇帝・フランツ1世・シュテファンの下で暮らしたウィーンではドイツ語のアントーニアでした。
アントーニアの結婚は他家に嫁ぐ予定だった姉が急逝したため次の姉が代わりになり、その姉が結婚する予定だったフランス王・ルイ15世の孫が回ってきたのです。
こうしてフランスに嫁いだアントーニアですが、同時のヨーロッパの中心はローマからウィーンに掛けての南部・東部であって、フランスなどは大陸の片隅にある田舎の小国に過ぎませんでした(皇帝=ENPEREURを名乗ることが許されず王=ROIだった)。
このためパリの社交界でも最高峰のウィーンの流儀を学ぼうとする貴族とフランス式に固執する貴族に分かれ、それにルイ15世の娘と成り上がりの愛人が絡む対立に巻き込まれて大変な目に遭ったようですが、周囲に平伏されて育っている令息・令嬢は悪意を感じる神経が欠落しているので、本人は何も感じていなかったのかも知れません。
一方、夫であるルイ16世との仲は良好でしたが、残念ながら真性包茎で性行為が不能だったのです(後に手術を受けて可能になると子作りに励んだ)。このため欲求不満を解消するため不倫を繰り返すようになりました。
このような醜聞が庶民にまで広まると「生活苦の原因は全てアントワネットの贅沢である」と曲解され、言動の些末事まで悪意を以って指弾されるようになったのです。
その一例が「パンが食べられなければお菓子を食べれば良い」ですが、このお菓子は間食用の堅焼きのパンのようなもので、悪意を持っていなければパンの代用品として通用します。
やがてフランス革命が勃発すると実家であるオーストリアへ逃げようとしますが、馬車に好みのワイン樽などを満載したため革命軍に追いつかれ、「国王が国を捨てた=国家反逆罪」で逮捕されました(オランダ王室はナチス・ドイツの侵攻前に一家総出で亡命しましたが処罰されていません)。
おまけにアントワネットには革命により敵対することになったオーストリアに情報を流したスパイの罪も加わりましたから、判決は始めから死刑しかありませんでした。
この日、最期の化粧や着替えることも許されず、幽閉されていたタンブル塔から肥桶用の荷車で断頭台へ運ばれ、首を落とされました。この時、仰向けに寝かせて落ちてくる刃を見せたとする伝説がありますが明確な記録がなく疑問がもたれています。フランス人ならやりそうですけど(当時は高貴な女性の遺骸を屍姦することが黙認されていましたがアントワネットは・・・?)。
  1. 2015/10/15(木) 09:25:21|
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振り向けばイエスタディ243

年明けの寒稽古で徒手格闘が行われた。私は区隊長に呼ばれ、「汚名(=美恵子の件)返上のため助教の助手をしろ」と特命を受けていた。昨年、体育学校で格闘指導官の資格を取得したばかりなので、まだ更新検定は必要ないのだ。
「上級指導官、よろしくお願いします」「今年は本当に助かりますワ」打ち合わせをする前、あらためて挨拶をしたが、助教の胸の格闘徽章は中央が金の上級指導官、私の徽章は銀の部隊指導官だ。区隊長は腕組みして2人の顔を見比べている。
「先日の銃剣道の刺突を見て何で上級指導官になれなかったと思っていたが、こっちの腕前はどうだ?」「教官からは少林寺拳法の癖が抜け切れていないと言われました」私の答えに区隊長は「全自衛隊大会の優勝者だからなァ」と相槌を打った。
「大学で空手やボクシングをやっていた連中は癖が抜けない上、指導をしても自分の方が強いって素直に従わないから困ります」助教は具体的な注意点を雑談的に説明した。
「試合になると教えたことはどこかに飛んでしまって、ただの殴り合いですワ」「それでは上級指導官が叩き伏せないといけませんね」「それは部隊指導官に任せます」と言う訳で私も課業外にサンドバッグを相手に猛訓練に励む羽目になった。

「モリヤ候補生、自主トレですか?」その日も体育館でサンドバッグを叩いていると突然、後ろから声をかけられた。手を止めて振り返るとそこには伊藤候補生が立っている。
「うん、伊藤候補生こそ自主トレかい?」「はい、効果がないダイエットです」ハワイからの帰国子女である伊藤候補生はアメリカ的なジョークで答えた。
「俺は自主トレをしておかないと試合で負けてしまいそうだからね」「さっきから見ていたんですけど、あんまり真剣なので声が掛けられませんでした」「そりゃすまん。それにしても注意力が足らんなァ。背後から襲われたらやられてしまうよ」私がそう言って汗を拭うと伊藤候補生は安心したように笑い一歩近づいた。
「徒手格闘って護身術に好いですよね」「護身って言っても戦場用だけどね」「だったら個人レッスンして下さい。戦場でも身を守れるくらい」伊藤候補生は真顔になって私の正面に立ち、習ったばかりの徒手格闘の構えをとった。寒稽古では私が展示要員を務め、助教が指導している。他の中隊では部内課程の候補生が一般課程の候補生に色々と教え込んでいるようだが、ウチの区隊では格闘指導官の資格を持つ私がいるためそれはないようだ。
「それじゃ復習から始めようか」「はい、お願いします」私もこの同期の熱心さに感心しながら構えの復習から始め、明日やる動作の予習を教えた。

その後も伊藤候補生は体育館にやってきて個人レッスンを受けたが、そのおかげかWACではただ1人、検定で2級になった。
  1. 2015/10/15(木) 09:24:15|
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10月15日・島原の乱後の天草代官・鈴木重成が自刃した。

承応2(1653)年の明日10月15日(太陰暦)に島原の乱後の天草復興に尽力していた天領代官・鈴木重成さまが自刃・諌死しました。
島原の乱では対岸の天草からも多くの領民が参加しましたが、それは天草も領有していた唐津藩主・寺沢広高・堅高父子が実際の石高を無視した重い年貢を課し(実際の2倍以上)、過酷な取り立てを行ったことが原因でした。
重成さまは三河国足助の則定城を領していた鈴木重次さまの3男として生まれましたが、兄の正三(まさみつ)さまが幕臣として別に家を興したため鈴木家を継承しています。
島原の乱に於いて重成さまは苦戦している板倉重昌さま(後に戦死)の交代として鎮圧に赴いた知恵伊豆=松平信綱さまに従って参戦すると一番乗りの武功を挙げたこともあり、鎮圧後に唐津藩から召し上げられて天領になった天草代官に任じられました。
天草に赴いた重成さまは寺沢時代の石高・4万石強に疑問を持ち、検地をやり直すと共に出家していた兄の正三(しょうさん)和尚を招請し、キリシタンたちの慰撫に努めたのです。
重成さまは正三和尚の「キリシタンによって破壊された寺社を復興させることが領民を帰属させる道である」との提言を実現するため幕府から巨額の資金を引き出し(実際は田畑の整備や灌漑施設の建設にも流用した)、現在で言う大規模な公共事業を押し進め他国からの移住者を積極的に受け入れました。
その一方で正三和尚は「破切利支丹」と言うキリシタンを論破する手引書を寺社に配布し、摘発・弾圧するだけでなく改宗させることによって心から帰属するよう教化したのです。
この「破切利支丹」は野僧が現役時代にもキリスト教系の新興宗教の勧誘を論破するのに引用しましたが、例えば「ゼウスが万物創世の主であると言うのなら何故、この国にも伝承が残っていないのか」「キリシタンにならない者は地獄に堕ちると言うが、それではキリシタンが渡来する前に死んだ日本人はどれ程の善人でも地獄へ堕ちたのか。それはキリシタンの手抜かりであろう」などと明快に聖書・教義の矛盾点を突いています。
しかし、再検地が完了するとやはり半分の2万石弱に過ぎず、重成さまは幕府に対して石高の改定を申し出ましたが、幕府としては年貢の引き下げ=減収に直結し、他藩や各天領が同様の訴えを始めると折角、落ち着きを見せた幕藩体制に動揺を招きかねない重大事として全く認めようとしませんでした(実際の石高が低ければ手柄に対する恩賞とした与えた領土が不足することになる)。そして重成さまはこの日、江戸の自邸で割腹したのです。
最近の研究者は物的証拠を以って真実と認定するマルクス史観に染まり切っているため、「重成さまが自刃したとする公式な記録がない以上、単なる病死である」と否定しますが、この時代の諌死は主君の非を糾弾する不忠として志を汲む代わりに家門断絶などの処罰を受けることが通例でしたから、名門の鈴木家を守るため自刃・諌死の事実を隠蔽したことは十分に考えられることです。物的証拠・記録を以って事実と認定するのは当然としても、それがないから事実ではないと否定するのは間違っています。
天草代官は正三和尚の実子を養子にしていた重辰さまが、鈴木家は重成さまの実子である重佑さまが継ぎました。そして重辰さんの代になって2万石への石高改定も実現しています。
その三河武士として見事な筋の通し方と領民への慈愛の深さを後世に伝承するため、天草の人々は正三和尚を含む鈴木兄弟・父子を祭神とする鈴木神社を創建し、子々孫々へ語り継いでいったのでしょう。果たしてこれがキリシタン弾圧の舞台でしょうか?
  1. 2015/10/14(水) 09:19:27|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ242

その夜、美恵子の帰宅は遅かった。私は自分で夕食を作り、淳之介を風呂に入れ、寝かせてから課題を始めていたが、それでも帰ってこない。
私はカーテンを開け、窓の外の暗い裏路地を眺めながら高校時代に聞いていた伊勢正三の「あの頃の僕は(=イルカのデビュー曲でもある)」を思い出していた。
「あの頃の僕は若過ぎて 君の気まぐれを許せなかった・・・朝から続く雨の日に 泣きながら飛び出していった・・・」美恵子は泣きながらではないが飛び出して行ったのは間違いない。この歌詞の設定は後年の財津和夫のヒット曲「サボテンの花」に類似している。この女性たちはアパートに残した身の回りの品をどうしたのだろうか?
「ただいまァ」美恵子は自衛隊で消灯ラッパが鳴る頃に帰ってきたが、私は返事に困ってしまった。
「おかえり」と声を掛ければ制止を振り切って飛び出していったことを許すことになる。かと言って無視すればこれからの会話は成立しないだろう。そこで注意と叱責を込めた言葉を掛けた。
「遅かったな」「うん・・・ついでに店の人が忘年会をやってくれたのさァ」そう言って美恵子はコートを壁のフックに掛け、ポーチを鏡台に置いた。
「だったら夕食はいらないな」「うん・・・ごめんなさい」美恵子は私が台所に立ったのを見て、ようやく自分の夕食が用意してあったことに気づき謝った。
結局、美恵子は流行に関係ない新入隊員が相手の基地の理容店ではプロとして得るものはないと不満を抱いており、私の入校をチャンスと受け止めていたようだ。家賃が高い市内のアパートを選んだのも就職した理容店と淳之介の託児所に近かったからなのだ。

「区隊長、お休み中のところを誠に申し訳ありません」美恵子の話を聞き終わって私は前川原の官舎にいるはずの区隊長に電話を掛けた。
「おうモリヤか、何事だ?事故じゃないだろうな」「はい、事故ではありませんが・・・」この一件は扶養認定を受けている配偶者に収入が生じたことを申告しなかった会計上の問題になる可能性があった。このことは美恵子が防府南基地の理容店でアルバイトを始めた時に会計隊の担当者から厳しく詳細に教えられていたが、その質疑応答は私がやっていたため美恵子は十分に認識しなかったようだ。
「そうか、早い話が申告漏れになる可能性があると言うことだな」「はい、私の監督不行き届きであります」「うん、服務事故にはならないと思うが、年明けには総務部(通常、陸上自衛隊の会計隊は単立した部隊だが、前川原駐屯地では幹部候補生学校の総務部に入っている)へ説明にいけ」「はい、申し訳りません」電話をしながら何度も頭を下げている私の背後で美恵子が「私は何も申し訳ないことはしてないさ」とうそぶいた。
私は受話器を置くと崩れ落ちるように座り込んでしまった。拳は固く握っていたが奮う訳にはいかない。幼い頃から父親に言われてきた通り、全て私が悪いのだから。
  1. 2015/10/14(水) 09:18:27|
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振り向けばイエスタディ241

平成元年の祝日は見事に外れだった(この頃は第2、第4土曜日のみが指定休日)。9月15日の敬老の日は金曜日だが翌日は第3土曜日なので半日勤務、9月23日の秋分の日は第4土曜日の指定休に重なったが代休はない。10月10日(当時)の体育の日は火曜日だから月曜日は平日だ。このためか防衛大学校組は9月の中旬に卒業し、入れ替わりの部内組は10月10日過ぎに入校してくる。我々部外組だけが割を喰う形なのだ。
11月に入ってからも3日の文化の日の翌日は第1土曜日なので半日勤務、23日の勤労感謝の日は木曜日であり、今年から祝日になった12月23日まで第4土曜日と重なっている。つまり1度も連休にならないのだ。
自衛隊では毎月2日ずつ加算される休暇日数を入院などに備え(病気休暇を取ると賞与などに影響があるため)、年度を繰り越すことができる30日まで貯めることにしていため、部外から入隊した同期たちにも年次休暇はなるべく取らせないようにしていた。そうして迎えた年末年始休暇に私は激怒することになった。
美恵子が選んだ防府市内のアパートに帰宅しても私は課題を抱えていて淳之介と遊ぶことができなかったが、そんな昼過ぎに電話が入った。
「もしもし、モリヤですが」「えッ?モリヤさんですよね」「はい、モリヤです」電話の主は私が出たことに異様な反応をする。すると台所から美恵子が慌てて飛んできた。
「あのう、河村理容店と申しますが、奥様には大変お世話になっています」「えッ、美恵子にですか?」私の返事を聞いて美恵子は奪うように受話器を取り、背中を向けて話を始めた。
「はい、美恵子です。はい、はい」美恵子の口調からすると業務連絡のようだが、こちらで仕事を始めたことは聞いていない。私は美恵子を疑い始めた。
「はい、判りました。大丈夫です。これから行きます」美恵子は受話器を置いて振り返ると一方的に話を始めた。
「私が手伝ってる店が年末で忙しいから来てくれって言うのさァ」「手伝ってる?いつからだ」「そんなことは良いさァ。急いでいるから行くよ。淳ちゃんをよろしく」そう言って部屋の鏡台から化粧品が入ったポーチを持ち、壁に吊ってあるコートを取ろうとする美恵子の肩を私は掴んだ。
「仕事を始めたのか?」「だから急いでいるんだって」「答えろ!」「痛い!乱暴は止めて」そう言って手を振りほどいた美恵子は部屋を飛び出していった。
私の大声で昼寝をしていた淳之介が目を覚まして泣き出した。抱き上げても最近は私の腕の感覚を忘れてしまったのか泣き止まない。それでも私が沖縄民謡の子守歌を口ずさむとようやく落ち着いて眠りに落ちた。
「天からの恵み 受けてこの世界に 生まれたる我が子 私が守り育てる・・・(童神)」泣き寝入りした淳之介の寝顔を眺めながら私の胸には怒りよりも悔しさが込み上げてきた。
も・岡田奈々イメージ画像
  1. 2015/10/13(火) 08:39:35|
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10月13日・ファティマでの集団催眠をローマ教皇庁が奇跡と認めた。

1917年(日本では大正6年)の明日10月13日の土曜日にポルトガルのファティマで起きた集団催眠、若しくは異常現象をローマ教皇庁が「聖母出現の奇跡」と認定しました。
1916年5月13日、ポルトガル中部のファティマの3人の子供たちが羊を連れて郊外のコダ・ダ・イリアと言う低地に行きました。すると空中で閃光が走り、天使が姿を現してカミに対する拝礼の仕方を教えたそうです。天使はその後も子供たちの前に現れて色々なことを教え、1年後の5月13日に美しい女性が姿と引き合わせたと言います(=この日がカソリックの「ファティマの祝日」)。
その女性は毎月13日にここへ来るように告げ、それは口外しないように命じたのですが、1番幼かった小娘が様子を怪しんだ母親に問い詰められて打ち明けてしまい、噂が狭い街に広まってしまったのです。
次に子供たちがその女性と約束した6月13日には噂を聞きつけた野次馬が60人くらい一緒だったそうですが、大人たちには子供たちが対話している相手の姿は見えず、ただ「バーン」と言う衝撃音と共に小さな光る雲が柊の傍から天に昇っていくのを見たそうです。
こうした噂が広まると7月13日の野次馬は5千人に膨れ上がりましたが、やはり対話は聞こえなかったと言います。しかし、この時、子供たちは女性から重要な3つ予言を受けていて、それは後に「ファティマの予言」と呼ばれることになりました。
そして6回目で最後の出現となった10月13日、聖職者や科学者、新聞記者を含む1万人の群衆が集まり、彼らの目の前でそれまでの豪雨が止み、太陽が狂ったように大空を飛び交い、熱風が吹いて人々の衣服が乾いてしまったと言います(天文台は異常気象を観測していない)。これを以ってローマ教皇庁は「出現した女性は聖母である」と奇跡を認定したのです。
その予言の第1は「死後の世界の実在と地獄の様子を示した上で、(当時の)現代人の無信仰・自堕落な生活では大半が地獄へ堕ちることになり永遠に出ることはできない」。第2は「第1次世界大戦は間もなく終わるが、次の教皇の時に再び世界大戦の予兆が起こり、やがて戦火が世界を覆う。さらにロシアは世界を大きく傷つけ、害悪を撒き散らす」。そして第3は「1960年まで絶対に秘密にしなければならない」と言うものだったようです。
実際、第1次世界大戦の終結は予言の約1年後のことであり、次のピウル11世の時にイタリアではムッソリーニが政権を奪取したためバチカンは共存を模索しました。さらにドイツではヒトラーが政権を獲得しています。そしてロシア革命に端を発した共産主義が世界の半数の国と地域を奪取し、その政権は宗教の否定を公言していました。
これを防ぐためその女性=聖母(?)はローマ教皇に対して「ロシア正教との連携により、ロシアで起こる害悪の芽を摘むこと」と「人々に正しい信仰を取り戻させ、清廉な生活を遅らせること」を要望しています。
第2の予言がここまで的中していると第3の予言が気になりますが、ローマ教皇庁は1960年の公開に際して閲覧した教皇・ヨハネ23世や次のパウロ6世は衝撃的な内容に再度の封印を命じたと言われます。ところが1981年5月2日にはアイルランド航空機がカソリックの修道士にハイジャックされる事件が起こり、犯人の要求が「ファティマ第3の予言を公開せよ」だったことで勝手な推測が飛び交うようになりました。このため2000年になってヨハネ・パウロ2世によって公開されたものの、その内容は教皇の暗殺などが中心でした。
予言を受けた3人の子供のうち最年長の小娘は修道女として生涯を送りましたが、2005年に亡くなる前、「教皇庁は嘘をついている。あれは一部に過ぎない」と告発しています。
それにしてもローマ教皇庁はカミさんの使者である女性に1960年の公開を命じられた予言を隠しても罪にならないのでしょうか?
我々はカミさんに地獄に堕とされようと念佛で必ず救われますから大丈夫です。「南無」
  1. 2015/10/12(月) 08:55:11|
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振り向けばイエスタディ240

「また映画を見に行きませんか?」冬のボーナスが出た頃、伊藤候補生に誘われた。
「もしかしてバット・マンかい」「うーん、それも捨てがたいなァ」「俺としてはニュー・シネマ・パラダイスが希望だけどね」「それもあったァ」どうやら承諾の返事の前に見る映画の相談になってしまったようだ。
「それで何を見に行くんだい」「実は自衛隊の映画なんです」「えッ?そんなのやっていたっけ」「はい・・・ゴジラVSビオランテです」それは年末年始休暇で帰宅した時、淳之介を連れて行こうか思案していた映画で、2歳の幼児に判るような作品なのかを確認する意味では有り難かった(昔のゴジラ映画は子供向きだったが、これは怖すぎた)。
「それじゃあ映画の梯子をしよう」「良いんですか」「沖縄時代、毎週4本ずつ見ていたから大歓迎だよ」「それじゃあ、今回は3段梯子ですね」それにしても映画3本の梯子だと午前1本、昼から1本、夕方1本のハード・スケジュールになりそうだ。

「モリヤ候補生的には黒木特佐の作戦をどう思いますか?」最初に「(伊藤候補生が言う)自衛隊の映画」を見た後、食事に入ったハンバーガーショップで解説を求められた。
つまり高島政伸が演じる黒木特佐が「ゴジラは若狭湾に集中する原発を狙う」と推測し、名古屋に戦力を集中させたが大阪に上陸した判断ミスに関する評価のようだ。
「要するに地図で考えた結果じゃないかな。地図上では伊勢湾からが最短コースだけど、地形を考えれば日本アルプスで遮られた伊勢湾に放射線の気配を感じるかは疑問だよ」「なるほど・・・」これは航空自衛隊の発想だった。警戒管制のレーダー波は地形だけでなく地球の丸みまで影響を受ける。これを放射線にも当てはめれば答えは出た。
「それにしてもゴジラが上陸したのは大阪だったから実家も危なかったね」「今は留守ですけどやっぱり故郷です」私はあまり個人的なことには立ち入らないように気をつけているため伊藤候補生が兵庫県伊丹市出身であること以上のことは知らなかった。
「そうかァ、俺なんか酷い目に遭った愛知県の豊川市をゴジラに破壊してもらいたいけどな」「豊川?岡崎じゃあないんですか」「俺は岡崎で育ったけど中学生の時に親が自分たちの出身地に家を建てたんだよ」個人情報の告白が始まりそうになったが、次のニュー・シネマ・パラダイスの時間が迫ってくる。そこで慌ててハンバーガーを食べ、コーラを飲むと店を出た。幹部候補生たる者が歩きながら飲食することはできないのだ。
「権藤1佐ってモリヤ候補生みたいですよね」権藤1佐は峰岸徹が演じた一匹狼の実戦型幹部だが、大阪の高層ビルからゴジラの口に抗核バクテリアを撃ち込んで殉職する。
「俺は1佐まで上がれないよ」「そんな・・・普通科の1佐だったら連隊長ですよね」「だね」そんな馬鹿話をしながら私は一瞬、沖縄の生越ドラゴンを思い出した。
映画館に入ると、こちらは意外に空いていてゆっくり名画を鑑賞できた。それにしても「エレナ(=アニェーゼ・ナーノ)は美しい」とウットリしていると隣の席で伊藤候補生が膨れてしまった。これではデートをしている恋人同士ではないか。
  1. 2015/10/12(月) 08:54:23|
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