最初に施設大隊が建設していた道路の予定区間が完成し、記念式典には伊藤2尉もUNTAC要員として出席した。
「モリヤ2尉はお坊さんでしたよね」「エッ?」式典が終わった後に行われた記念会食で無理矢理隣りに座った伊藤2尉は乾杯が済むと妙なことを思い出していた。
「今日の式典でお坊さんが祈っているのを見て前川原のことを思い出しました」確かに幹部候補生学校では80キロ行軍の時、区隊長から道端の石地蔵に安全祈願のお経を上げる誓いを立てさせられて走り回った。
「モリヤ2尉が戦争中に東南アジアにいたらきっとビルマの竪琴の水島上等兵みたいになっていますよ」「オーイ、モリヤァ、一緒に日本に帰ろうってね」「はい」私のジョークに伊藤2尉は可笑しそうにうなずいた。
「中国語は本当に大学で習っただけなんですか?」これは先日の橋の建設で中国人民解放軍工兵隊と交渉する際、相手の「日本語が解らない振り」を見破った話だ。
「うん、ウチの大学は中国語と中国史だけは日本でもトップクラスだって自慢していたからね」これは事実だったが私はアルバイトが忙しくてあまり大学へは顔を出しておらず、本当は沖縄の中華レストランで台湾から出稼ぎの女性たちと知り合い、彼女たちとの交流でヒヤリングを磨いたのだ。
「でも助かりましたよ」「いいえ、お役に立てて嬉しかったですよ」隣の席の指揮所要員が私と伊藤2尉の親しげな様子に変な顔をしたので話し方が少し他人行儀になった。伊藤2尉も状況を察したのか表情を変えて食事を始めた。一通りの食事が終わったところで雑談が再開した。
「でも、もう3月ですよ。ここは真夏みたいだけど」「そうだねェ、日本では桜が咲いているかも知れないなァ」私は防府南基地全周堀沿いの桜並木を思い出した。
「ハワイならイースター・フェスティバルのシーズンですね」「あれは2週間くらいの間の1日だろう」私の補足説明に伊藤2尉は「流石ァ」と感心してくれた。イースター(=復活祭)は春分の日の後の満月の次の日曜日なのだ。
「ところでハワイのキラウエアと富士山ってどちらが高いんだったかなァ?」「それはキラウエアの方が遥かに高いし大きいです」今度は私が「流石ァ」と誉めると伊藤2尉は「オフ・コース」と自慢そうに笑った。
その時、会場はブレーク・タイムになり隅に並んだバンドがダンス・ミュージックを演奏し始め、出席者たちも何組か踊りだしたが居並ぶ自衛隊員は黙って眺めるばかりだ。
「モリヤ2尉・・・」「イエス、シャル ウィ ダンス?」伊藤2尉の呼び掛けに私は先回りして答え、手をとって立ち上がった。
迷彩服姿の私と伊藤2尉は正装の人々のダンスの輪に加わると踊り始めたが、久留米のホテルの廊下に比べると広く、生バンドの演奏で本格的にダンスを楽しめた。それはそれでマナ―なのだが歩調を乱したように受け取られるのが陸上自衛隊だった。
- 2015/11/30(月) 09:03:25|
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社会党の視察団がカンボジアにまでやってきた。社会党はPKO法案の決議の時、牛歩戦術なる愚策を用いて投票を妨害した反対派であり、これが粗探しを目的にしていることは誰にでも判った。しかし、宮沢改造内閣の河野官房長官から「失礼のないように対応せよ」と支持されたことが内局を通じて伝達された。
「失礼のないように」と言われても相手は失礼なことをやりに来るのであり、現地部隊のできることには限度がある。それでも一応は「相手も日本人、異郷の地で国際貢献している姿を見れば少しは判ってくれるだろう」と思うことにして可能な準備を進めた。
社会党の視察は日帰りだった。日程はこちらの都合の確認もせずに一方的に通知してきた。それもプノンペンのホテルから警察の護衛付きの4WDの車列で飛ばしてくるのだ。
指揮所での事前説明もなく直接現場に向かうと言うので大隊長が出向くことになった。
「大隊長、あれがそうでしょう」大隊本部1科の1尉が指さす方向には未舗装の道路から土煙が立ち上っている。やがて東南アジアの強い日差しをフロントガラスが反射しているのが見えてきた。
「気をつけ」大隊長の号令で出迎えの隊員たちが姿勢を正し、そこへ車列が到着したが、車を降りた視察団長の見たことがある政治家は敬礼している大隊長は無視して「要求した場所を見せなさい」と命令した。
仕方ないので1科の1尉が「どうぞ」と言って案内すると別の一団は「土砂を掘り出している場所を」と言って車に乗り込んだため、こちらも自衛隊のジープが先導して現場へ案内した。
現場の視察を終えて駐屯地に寄って昼食にしたが、ここでも敵意丸出しだった。
「食堂はエアコンが効いて快適だな」「現場の隊員には暑い思いをさせておいて好い気なものだ」席に案内されると特別に強く掛けていたエアコンを批判の材料にした。そう言う自分たちはカー・クーラー全開で快適な視察ドライブを楽しんでいるのだろう。
おまけに無理して揃えた特別メニューも批判の対象になった。
「こんな贅沢な物を食べているのか」「まさか幹部食だけじゃないだろうな」「いいえ、これは皆さんを歓迎するための特別メニューです。普段は全隊員が同じ物を食べています」会食前に大隊長が説明したが、気まずそうに顔を見合せ、「これに税金を幾ら遣ったんだ」と小声で言い合っていた。結局、最後まで一言の挨拶もなく帰って行った。
指揮所に戻ってきた案内係の話では土砂を取っている場所で「環境影響評価はどうなっているのか」を細かく聞いてきたので、「特に実施していない」と正直に答えると「河川が泥水で汚れれば現地の人たちが生活用水に困るではないか」と非難を始め、濁った川の写真を撮っていったらしい。
作業現場では汗を流して仕事をしている若い隊員たちをつかまえて「コンドームをもらっているだろう。もう使ったのか」とばかり訊いていたと言う、全く何をしに来たのか判らないが、マスコミが我々を監視している情報の送り先が判明したような気がした。
- 2015/11/29(日) 00:03:38|
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11月26日午前10時頃に山口県萩市三見在住の航空総隊司令官だった松尾宣夫元空将閣下が老衰で逝去されたそうです。老衰と言う割に85歳でした。
松尾閣下は野僧が沖縄に勤務していた頃の南西航空混成団司令ですが、顔は作家の源氏鶏太さんみたいで惚けているものの性格は昔のパイロットそのものでした。
次の司令が松尾閣下に決まったことを聞いたパイロットたちは揃って「ゲッ」と絶句しました。と言うのも松尾閣下が指揮官を務める部隊では必ず航空機事故が続発し、第6航空団司令だった時には多くのパイロットが殉職して部隊葬が続いたため「弔辞に熟練している」と陰口を叩かれていたそうです。実際、第83航空隊では司令から安全班に「これからは危険要素が増大するので航空機事故の防止に万全を期すように」と言う特別指導が下ったとの噂が流れました(名目上はF-104Jの老朽化を理由にしたらしい)。
そして松尾閣下が就任して15日目に第83航空隊ではT-33A連絡機が滑走路端のテトラポットに激突して前席のパイロットが殉職する事故が起き、さらに久米島へ視察出張していた南西航空警戒管制隊司令が入浴中に心不全で急死したため部隊葬が行われましたが、どちらも南西航空混成団の儀礼ではなかったので閣下の熟練した弔辞を聞く機会はありませんでした。
また酔うと非常呼集を掛ける「呼集上戸」の悪癖があり、特に当時の第83航空隊司令だった生越龍生(=生越ドラゴン)空将補が俳優のような男前なので飲み屋の女性たちが集まってしまうと、その場から姿を消して私服のまま基地にタクシーで乗り付け、警衛車両で基地当直室に向かい、寝ている当直幹部を叩き起こして非常呼集を掛けさせたのです。
それが午前2時頃のため隊員たちも熟睡モードで「変な夢でも見ているのか?」と半信半疑でしたから、当直空曹が廊下を「本当に呼集だぞ」と叫んで走り回っていました。各部隊当直は司令に電話をしても官舎は当然のように不在、副官を通じてVIPが行きつけにしている飲み屋に片っ端から電話を掛けて探す羽目になり、その夜は那覇市内の飲み屋には航空自衛隊から電話が掛かりまくったのでした(「戦争でも起きたのかと心配した」とママさんが言っていた)。それどころか閣下の副官も基地当直からの電話を受けて「司令は部隊長と飲み会だぞ」と反論したため、閣下が電話を取り「どうだ、驚いたかァ」と一喝したそうです。
一度、この快感を覚えてしまうと松尾閣下の呼集上戸は常習化して、各部隊長が集まる定例飲み会の日には南西航空混成団司令部から「呼集注意報」が発令されるようになりました。
おまけに非常呼集を発令すると南西航空混成団司令部の前で出勤してくる隊員の車を笑いながら見物するようになり、仕舞いには少し下った交差点で交通整理を始めたのです。
隊員たちからは「それでなくても急いでいるのに司令が立っていては欠礼することもできない=撥ねてやる」と非難の陰口が下がり(=陰口だけに声を上げてはいない)、その後は非常呼集と同時に警衛隊員が1名駆けつけて司令の代わりに交通整理をすることになりましたが、人手不足の中、迷惑だったことでしょう。
現在であれば酒気帯び運転の可能性が高く、実際にパトカーを追い越して捕まった隊員が摘発されて通勤手段がなくなったため生越ドラゴンが諌言して深夜の呼集上戸は控えてもらったそうです。
そんな松尾閣下が総隊司令官に就任したと聞いて「呼集上戸が全国区になるのか」と心配しましたが、非常呼集後の飛行前点検だけでも多額の燃料代が掛かるため流石に頻発はしませんでした。
楽しい(?)思い出を有り難うございました。ご冥福をお祈り申し上げます。合掌
- 2015/11/28(土) 11:38:01|
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平成3(1991)年の明日11月28日に日蓮正宗が創価学会を破門しました。日蓮正宗はそれまでも再三にわたり創価学会に対して自主的な解散を勧告していたのですが、創価学会は「破門と言う形で絶縁した方が公明党の宗教色を払拭するのに好都合」と言う政治的な判断があり、宗門の非をあげつらう挑発を繰り広げ、破門に踏み切るよう追い込んでいったようです。
日蓮正宗と日蓮宗の分裂は宗祖・日蓮の高弟である日向・日興・日昭・日朗・日頂・日持の6人が日蓮の没後に身延山における主導権争いで対立したことに始まります。
6人の中でも過激教条主義者だった日興は、日頃から他の弟子たちを公然と罵倒・誹謗していたため孤立しており、穏健派だった日向が身延山に堂宇を寄進した領主である南部貫長の信任を得ると一門を離脱して、富士山麓に拠点を移しました。
この場所には日蓮正宗の総本山である大石寺(たいしゃくじ)がありますが、山号を「多宝富士大日蓮山」と称していますから、国民の至宝を私物化しているとも言えるでしょう。
その後は木っ端微塵に分裂していたのですが、明治になって佛教への統制を強めようとする国家神道の画策によって宗派が制限されると(=開宗の原点に戻された)、バラバラだった各派が日蓮宗1つに合併させられることになりました。
しかし、臨済宗は公案の見解(けんげ)などの違いによって分派したとは言え互いに切磋琢磨し、人的交流も盛んでしたが(江戸時代の中頃からは実質的に白隠禅師の宗門になっていた)、日蓮宗は宗祖自身が他の宗派を徹底的に批判していた伝統を受け継いるため宗門内の各派は完全に敵対関係になっており、この合併は火種を寄せ集めて油を注いだようなものだったのです。
このため統制が緩んで宗門内の分派が認められるようになると早速に分解を始め、日興の法系は日蓮宗富士門流、そして日蓮正宗と名乗るようになりました。
日蓮正宗と日蓮宗の教義上の違いは根本経典である妙法蓮華経と衆生の間に釋迦牟尼佛を置くか日蓮だけを置くかの違いと言えば間違いではないでしょう。つまり個人崇拝の意識が極端に強い宗門と言えます。
一方、創価学会は地理学者で教育者の牧口常三郎が日蓮正宗を一般人に広めるために始めた団体で(戦前は「創価教育学会」と称していた)、その創設に当たっては日蓮正宗との間で「折伏(しゃくぶく=布教)によって獲得した信者は日蓮正宗の信者とする」と言う約定を結んでおり、あくまでも日蓮正宗の出先実働組織だったのです。
ところが戦時中、国家神道による思想統制が強まる中、伊勢の神宮への帰依・信仰(=一種の踏み絵)を拒否する創価学会と服従する大石寺との間で立場の違いが生じ、牧口や門弟の戸田城聖が治安維持法違反と不敬罪で逮捕されて、牧口は獄中で病没、戦後は戸田が指導者として組織の立て直しに努力し、昭和27年には創価学会が単立の宗教法人の認定を受けました。
こうして獲得した信者が増大すると日蓮正宗の下部組織に甘んじていることが不満になり、次第にヨーロッパにおいてローマ・カソリックに抗した宗教改革と同じ論理で、宗門の権威や伝統的教義を否定するようになり対立は決定的になっていきました。
破門以前は創価学会員の家には場違いに立派な佛壇がありましたが、破門されるとそれを捨てさせられて、宗教色抜きの奇妙な祭壇に替わっています。
葬儀も坊主抜きの学会葬になっていますが、先祖代々日蓮正宗の信者だった学会員もいるはずなので、この対立を祖先供養と言う宗教儀礼の上ではどのように解決しているのでしょうか。
学会式法要では坊主の読経や題目を求めている御先祖様が浮かばれないかも知れません。
- 2015/11/28(土) 09:57:59|
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日本のマスコミには本当に悩まされた。彼らが願っているのは自衛隊の失敗であり、それによってPKO法を廃棄し、自民党政権に打撃を与えることに集約されているようだ。
UNTACの活動が軌道に乗り、カンボジアの政権を決める国民議会選挙が迫ってくると、それを阻止するためポルポトの残党はゲリラ活動を散発させるようになった。
つまり我々にも危険が迫っているのだが、マスコミの感覚では「PKO法が定める自衛隊の海外派遣の前提条件(=非戦闘地域)の破綻」であり、むしろそれを期待している。
そのためには自衛隊が攻撃を受け、戦死者が出ることが最大の効果を生む。だから毎朝のように指揮所へ顔を出し、実弾が入った弾薬箱の封印が解かれていないことを確認していくのだ。若し、封印が解かれ、実弾が隊員に配布されたとなれば、「自衛隊が戦闘準備」と日本の本社に急報し、大々的に批難キャンペーンを展開するのだろう。
そんなマスコミは地元の住民から批判的な声を引き出そうと懸命な努力をしていた。
「お爺さん、日本の自衛隊に迷惑を掛けられていませんか?」「とんでもない、日本軍には感謝している」老人の返事に大手マスコミの若い特派員は困ってしまった。
「でも、帝国陸軍も皆さんに酷いことをしたんでしょう。今の日本軍も同じことをするかも知れませんよ」「・・・この日本人は何て言ったんだ?」老人がクメール語の通訳に訊き返したので、特派員が持ち出した(日本の学校教育で学んだ)帝国陸軍の悪事を説明すると穏やかな表情が一転した。
「帝国陸軍は規律正しく勇敢だった。今の日本軍と再会してそれが変わっていないことを知りと本当に嬉しかった。日本軍が占領していてくれればポルポトの出番などはなかった・・・お前は本当に日本人か?」同様のやり取りを繰り返しながら若い特派員も何かを学んだのかも知れない。しかし、粗探し取材はUNTACや外国軍にまで及んでいた。
「ここは戦闘地域ですか?」「武装したゲリラが暗躍している以上、戦闘地域だ」「自衛隊は戦闘地域に来ることは法律で許されていません」「それでは任務を途中で放棄して撤退すると言うことか?」「それは政府が決めることですが・・・」マスコミは関係者にインタビューをしながら自衛隊が抱えている問題点の情報を流し、それに対する疑問や同情のコメントを掴むと非難や不安に変質させて(日本語に翻訳する時に手を加えれば容易にできる)書き立てていたのだ。
その頃、日本国内では隊員に男性用避妊具が配られていることが問題になっていたらしい。これは現地女性と親密になり、性交渉に及ぶことになった時、子供を作ってしまうことや性病の感染を予防する目的で配られたのだが(現地では入手困難であることを前提に)、それを従軍慰安婦の問題に結び付けて「自衛官が現地女性を性欲解消に使っている」と報じる大手新聞もあったようだ(吉田清治の捏造本は昭和58年の発刊)。
日本での報道はカンボジアの現地部隊には注意情報として伝わるだけだったが、実弾同様に未使用であることをマスコミに確認させなければならない。と思っていたが帰国後、現地女性と国際結婚した隊員がいたから未使用ではなかったようだ。
- 2015/11/28(土) 09:56:44|
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突然、伊藤2尉が私の所へやって来た。施設大隊が建設している道路が川を挟んで中国人民解放軍工兵隊が建設中の道路とつながることになり、橋の構造が異なるため調整が必要になったのだ。施設大隊の指揮所に寄った伊藤2尉は困った顔をしている。
「人民解放軍って英語が判るんですかねェ」「うーん、戦前の日本だったら敵性語だよな」「文化大革命もありましたからね」ここまで話して2人は揃って溜息をついた。
しばらく黙りこんでしまったが私から助け船を出した。
「でも、我を知り彼を知れば百戦危うからずって孫子だろう」「こんな譬え話、何だか幹候校の頃みたいです」前川原を思い出したのか、ようやく伊藤2尉は元気を取り戻した。
「日本としてはこの規格で橋を作りたいと考えています」図面を示しながら3科長が説明をして伊藤2尉が同時通訳するが、中国軍の通訳は首を傾げ、担当者は苛立った顔をする。どうやら通訳が上手く中国語にできず説明が理解できないらしい。
「すみません、もう一度、ゆっくりお願いします」通訳はかなり癖がある発音で頼んでくる。そこで伊藤2尉は1つ1つの単語の補足説明を加えて通訳した。しかし、通訳の説明を聞いた中国軍の責任者は首を振り、怒気を含んだ声で通訳を叱り飛ばした。
「どうも英語があまり得意ではないようだな」「それでは向こうの規格に合わせないと完成が間に合わないかも知れません」「ウチの隊員なら多少の応用は可能でしょう」中国軍と伊藤2尉のやり取りを聞いて施設大隊の首脳陣が日本語で話し合い始めた。
すると中国軍の出席者が「成就(成功)、多一點如可按成為彼想(もう少し押せば思い通りになる)」「就這麼簡単(チョロイもんだ)」とささやき合っているのが聞こえた。そこで私は後ろから3科長の耳元で注意した。
「表情を変えないで聞いて下さい。どうも中国軍は英語だけじゃなく日本語も判っているようです」「何?」「もうひと押しで思い通りになると言っています」「モリヤ2尉は中国語も判るのか?」「大学で学んだ初級ですが」「そうか」そこで3科長は表情を変えないまま小声で両側の席の幕僚に注意を与えた。
そんな様子を怪訝そうに見ていた伊藤2尉が近づいてきたので、耳に口をつけて小声で話すと何故か「アーン」と悩ましい声を出した。それにしても流石は孫子の国である。
建設工事が完了すると日中の隊員と兵隊は橋の上で握手した。その場面を撮影すれば第2次世界大戦の最終局面で東から攻めたソ連軍と西からのアメリカ軍がエルベ川の岸で出会って握手した「エルベの誓い」のような感動的な写真になっただろう(その前にOD色の作業服姿の陸上自衛官では解放軍の人民服と見分けがつかないかも知れない)。
しかし、カンボジアに取材に来ている大手マスコミの特派員たちは自衛隊の失敗を願って粗探しに明け暮れており、今までの懸命な努力(?)を水泡に帰すような報道をするはずがなかった。

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- 2015/11/27(金) 10:38:22|
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ある夜、指揮所の電話が鳴り響き残業中の私が受話器を取った。それは宿営地内からの「銃声がしました」と言う報告で、直ちに警備隊に確認すると「銃声は聞いていない」と答える。
「それでは宿営地内で発砲があったのか?」流石に私もこの状況は訳が判らなかった。とりあえず指揮所の先任者として銃声と負傷者、被害の確認と初動対処要員の編成、武装を指示し、大隊長に第一報した。
「銃声がしたという報告がありましたので初動対処要員の編成を取り、武装するように指示しました」「銃声?こちらでは聞こえなかったぞ」若し銃声であればもっと広範囲に響き渡り指揮所でも聞こえたはずだ。指揮所、大隊長の宿舎、何よりも外柵でも聞いていないとなると情報の信憑性が疑われる。その時、最初に報告してきた宿営地内の隊員が続報を入れてきた。
「先ほどの銃声は隊員が天幕の中で見ていた戦争映画の大音響を聞き間違えました」私は電話を受けてホッと溜め息をつき、指揮所にいる隊員と顔を見合った。
私は今回の対応が航空自衛隊のスクランブルなどに比べあまりにも杜撰であり、これを「いい訓練」と活用するため大隊長の許可を得て現場の動きを確認した。何よりも銃声を聞いた時の隊員たちの対応、そして初動対処要員の編成から武装までに要した時間、これらを実際に確認すると多くの問題点が見えてきた。
先ず銃声を聞きながら「伏せ」などの自己防護の対処をした者はわずかで、これは緊張感の欠如と言わざるを得ない。また、初動対処要員に編成をとることを指示したにも関わらず、その指示の伝達が不十分でほとんど機能していなかった。
「いい訓練になったな」私が分析した報告を大隊長は皮肉に笑いながら受けた。
「はい、多くの教訓を得ました」私は出過ぎないように気を使いながら相槌を打ち、問題点を列挙したレポートを手渡した。
「モリヤ2尉は航空上がりだったよな」「はい」「航空なら初動対処はお手のものだろうけど、陸上は図体が大きい分、動きも機敏じゃあないんでな」私のレポートを見ながら大隊長は言い訳のように呟いた。
「はい、警備についている時とそれ以外の時の意識が違い過ぎるように感じました」「確かにな・・・演習以外の時は休みと言う日頃の意識に通じるのかも知れないが」「しかし、ここは戦場ですから国内とは違うと言う自覚がないと・・・」「いや、PKO法では自衛隊は戦場には来られないはずだぞ」大隊長の指摘は正論だが、その後ろにPKO法が規定する自衛隊の海外活動の限界に対する疑問を読みとった。
「隊員の意識改革は施設大隊の仕事です。一指揮所要員が口をはさむことではありません」「うん、わかった。何とかしよう」私の分相応な意見に大隊長も深くうなずいた。
- 2015/11/26(木) 09:44:32|
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「モリヤ2尉、カンボジアの子供たちに挨拶したいんだけど、何て言えば良いんだい」土木作業の現場に行くと茶山1尉から声を掛けられた。茶山1尉の周りには見物に来た子供たちが集まっている。やはり人を惹きつける魅力があるようだ。
「(カンボジアの)クメール語は専門ではないですが、『チャムリアップ・スオ』で良いはずです」「それで『こんにちは』なのかァ、長くて覚えられないな」「『茶山ップ・しよ』でも大丈夫でしょう」「それなら自己紹介みたいだな」そう言って茶山1尉が子供たちに呼びかけると「チャムリャップ・シュオ」と返事が返ってきた。
それから茶山1尉は休憩時間を使って男の子に相撲を教え始めたが、暑いカンボジアでは薄着なため柔道は無理なようだった。
「中隊長は何だか金太郎みたいですね」食堂で会った時、茶山1尉に声を掛けると意外な返事が返ってきた。
「そうかね、私としては桃太郎の方が嬉しいんだが」「へッ?」「何せ私の先祖は桃太郎を育てた爺さん夫婦だからね」どうやら岩手県にも桃太郎伝説があるらしい。確かに本家を自称する岡山だけでなく愛知県の犬山市にもあり、蒲郡市の沖に浮かぶ三河大島が「鬼ヶ島だ」と言われていた。茶山1尉は豊川から蒲郡の鬼ヶ島にも行ったのだろうか。
「地雷だ!」地雷探知機を操作している隊員が大声を上げた。道路建設の予定地では作業を始める前、地雷の探索が必要不可欠だった。陸上自衛隊で地雷の敷設と排除を担当するのは施設科なので彼らはプロ中のプロなのだが、土木工事を主任務とする後方施設部隊なので演習ではあまり経験していないようだ。
地雷は大まかに言えば対人地雷と対戦車地雷に分けられるが、対人地雷は車両が通行する道路でも歩行者が通る路側や草むらの抜け道に仕掛けてあることも珍しくない。
「この辺りは敷設記録にありませんが」「うん、ゲリラの接近を防ぐために現地部隊が埋めたんだろう」現場指揮官の茶山1尉と小隊長たちがUNTACから提供を受けている資料を確認している。地雷の敷設場所は記録することが武力紛争関係法で義務づけられているが、それが履行されていないのが最大の問題だった。
「よし、全員、銃剣を抜いて横一列になって伏せろ」「えッ?まさか」「そうだ、帝国陸軍以来伝統の地雷探しだ」これは地面に横一列になって伏せ、前進しながら決められた間隔で金属性の棒で地面を突き刺し、地雷を探す帝国陸軍以来の伝統技能だ。
「うーん、新隊員後期課程以来だな」「これで俺たちがただの土建屋じゃあないことを証明できるな」地雷が破裂すれば無事ではすまないはずだが隊員たちに緊張感はない。これも毎晩、点呼の後に唱えている「施設科精神」の清華だろうか?
「施設科の隊員は使命に対する誇りと、技術に対する自信を持ち、積極進取にして堅忍自給、沈着周密にして剛胆機敏、身を挺して任務を遂行しなければならない。また資器材を尊重愛護し、これを活用しなければならない」いつの間にか暗記してしまっていた。
- 2015/11/25(水) 09:27:13|
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昭和23(1948)年の明日11月25日は沖縄空手上地流の創始者である上地完文先生の命日です。
野僧は若い頃、極真会の初段と乱取り稽古をやって負けたため少林寺拳法部を首になり、この機会に「沖縄空手を学ぼう」と思い立ち、基地周辺の各流派の道場を見学して回りました。
沖縄空手では「剛柔流」「小林流(しょうりんりゅう)」と「上地流」を3大流派としていますが、他の2つの流派は基地の空手部の「松濤館流」と大差なかったのに対して(釵=サイや旋棍=トンファー、棒、鎌を使う技はあるものの)、上地流は明らかに別の武術でした。
先ず驚いたのは構えが拳を握るのではなく指を伸ばした貫手(ぬきて)で、逆に蹴りは足の指を握っていたことです。しかも足を両側に開いた姿勢で肘を胸に当て両腕を前に構える三戦(さんちん)の構えで、その伸ばした指を強く叩き、上下半身も棒で打って鍛えているのです。
さらに道場の隅では両手で土の瓶(水が入っていた)の口を上から鷲掴みにして腰を落としながら歩いている者、柱状に笹を束ねた物を貫手で突いている者、握った足で蹴っている者がいて、極真会館のボディビル的な筋力トレーニングとは違う独特の鍛練法でした。
沖縄空手の大会で他流派の者が誤って上地流の選手の体を打撃すると(試し割りで瓦や板を破壊している)拳や足を怪我すると言われるのも納得できました。
その道場の壁には紋付を着た沖縄的な顔立ちの男性の大きな写真の額が飾られていて、下には「開祖・上地完文先生」と札が貼ってありました。
(沖縄上地流の友人から聞いたところでは)上地先生は明治10年5月1日に沖縄本島から東シナ海に突き出した本部町の伊豆味で生まれ、成長していく過程で自然に那覇手(庶民の護身術)、首里手(王家・貴族の護衛役の武術)、泊手(中国からの伝来武術)などの伝統的な拳技を学んだそうです。やがて中国に渡る機会を得ると福建省で少林寺の僧侶であった周子和先生に出会い、13年(17年説もある)にわたる修業をして免許皆伝を受けとのことです。
その後は中国で少林寺拳を教える道場を開きますが、門弟の1人が灌漑用水を巡る争いで拳技を使って相手を殺してしまったため失意のうちに帰国して農耕生活に入りますが、折角の拳技は封印していたそうです。
そんな上地先生は多くの沖縄県人が就職していた関西に出て、和歌山市の紡績工場の守衛になったのですが、そこでは経営者が労働争議に暴力団を使って抑える横暴が行われており、それに対抗する手段として沖縄県人の若者に拳技を教えたことが再始動する好機になりました。
始めは中国での残念な経験からあくまでも護身術として沖縄県人だけに伝授していたのですが、希望者が増えてきたため社宅内に道場を開くことになり、自分の流派を「半硬流(パンガイヌーン)拳法」と名乗りました。そこに沖縄から長男の完英さんがやって来て入門し、やがて正式な後継者となると「上地流空手術」と改名しています。
大東亜戦争が始まっていた昭和17年に完英さんが沖縄へ帰り本部半島の付け根である名護市に道場を開き、戦後の昭和21年には上地先生も沖縄へ帰って本部半島の沖に浮かぶ伊江島に住むことになりました。
こうして上地流は沖縄がアメリカの占領下にあった中、本土の関西と2箇所で発展していったのです(現在もパンガヰヌーン流唐手術研究所は和歌山市にある)。
ところで少林寺拳法の中野理男(宗道臣)さんは「少林寺正統の陳良先生から免許を受けた」と言っていますが上地流の方が独自色は強いようです。
- 2015/11/24(火) 09:29:40|
- 日記(暦)
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そんな緊張感の中、ホッとするような珍事が持ち上がった。
「キャンプ内にオランウータンがいます」突然、指揮所に連絡が入った。その電話を取った指揮所要員の1曹は「続いて監視せよ」と指示していたが、本当にオランウータンなら「観察」ではないのか?
「オランウータンってカンボジアにいたかなァ」1曹の会話を聞いて私たちは顔を見合わせている。
「あれはスマトラ島とボルネオ島だけで大陸にはいないはずですよ」これは小学生の頃に読んだ動物図鑑の知識だった。
「だよな、それじゃあチンパンジーだろう」「あれはアフリカです」「ゴリラは?」「あれもアフリカです」「ヒヒは?」「あれもアフリカです」「そんなことはないぞ、日本の昔話に狒々(ひひ)って妖怪が出てくるじゃあないか」いきなり1尉殿に反論されて私も子供の頃の知識に自信がなくなる。しかし、そこに同世代の2曹が助け船を出してくれた。
「確かにジャングル大帝・レオにもマントヒヒのマンディ爺さんって出てきましたよ」「なるほど・・・何にしても現場を確認してこい」話題が反れまくっていた指揮所で冷静になった2科長が指示を出した。その時、再び机の電話が鳴って私が出た。
「はい、指揮所」「先ほどのオランウータンは茶山(ちゃやま)1尉でした」「へッ?」指揮所内の全員が注目している中、これをどう報告すべきか・・・私は困ってしまった。
「オランウータンは茶山1尉でした」私の報告に指揮所内は妙な空気になる。今回のカンボジア派遣施設大隊には中部方面隊第4施設団隷下の豊川の第6施設群、大久保の第7施設群、善通寺の第8施設群が参加しているのだが、茶山1尉を知っている者と知らない者で反応が違うのだろう。
「茶―さんかァ、相変わらず木登りが好きだなァ」「茶山1尉って6群の中隊長ですか?」「うん、豊川の与作さんだ」「豊川って言ってもあの人は岩手県人だぞ」「そうそう、与作って言うよりも北国の春だな」知っている者の説明で普通科の私だけが蚊帳の外になった。そこに話題の主人公・茶山滋1尉がやってきた。
「どうもお騒がせしてすみませんでした」そう言って頭を下げた茶山1尉に2尉の私が注意してしまった。
「この辺りの木の上には虎やコブラもいますよ」これも小学生の時の動物図鑑の知識だが事前講習でも説明は受けている。すると横から別の指揮所要員たちが口を挟んだ。
「それは大丈夫だ」「茶山1尉なら虎は皮を剥いで雷さんの褌、コブラは焼酎漬けにしてコブラ酒にしちゃうよ」「何せ柔道の達人だからね」どうやら茶山1尉は柔道の達人として有名な人らしい。しかし、こちらを見ている優しい顔は言われる通りの東北人で、そんな荒っぽい人には見えなかった。すると茶山1尉は原色の花が咲いた枝を差し出した。
「花が綺麗だったから枝を切ってきました」その顔には何とも言えない魅力があった。

70歳にしてこの勇姿!(勝手に使ってスミマセン)
- 2015/11/24(火) 09:28:26|
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平成20(2009)年の明日11月24日は我々よりも上の世代には忘れられない数々の名曲を作詞した丘灯至夫さんの命日です。92歳の長命でした。
野僧が丘さんの名前を意識するようになったのはビデオを入手して何十回も見た戦史アニメの主題歌の画面で、真珠湾攻撃に向かう艦載機が飛び立つところに「主題歌・決断 作詞・丘灯至夫、作曲・古関裕而」と映し出されていたからです。
間もなく幹部候補生学校に入校すると戦史の講義でこのアニメを見た防衛大学校出身者が朝礼の時、主題歌を唄い始めため、隊歌係だった野僧も歌詞を調べてマスターしたのです。
1「知恵をめぐらせ頭をつかえ 悩み抜け抜け男なら 泣くも笑うも決断一つ 勝って驕るな 敗れて泣くな 男涙は見せぬもの」
2「辛い時には相手も辛い 攻めか守りか腹一つ 死ぬも生きるも一緒じゃないか 弱気起こすな泣きごと言うな 伸るか反るかの時だもの」
3「右か左か戻るか征くか ここが覚悟の決めどころ 勝も負けるも決断一つ 一度決めたら二の足踏むな 俺も征くから君も征け」
この見事な歌詞に感銘を受けて丘さんの作品を調べたところ、意外な歌が続々と見つかりました。例えば「どんぐり音楽会」と並ぶ名古屋のローカル人気番組「天才クイズ」の主題歌です。
1「天才クイズだ。ドンと来い 帽子の下から友達見たら みんな白い帽子かぶってた 安心安心ひと安心」
2「天才クイズだ。ドンと来い 帽子の下から友達見たら 僕だけ赤い帽子かぶってた ドッキンドッキンどっちかな」
ちなみに白い帽子は○印の「イエス」、赤い帽子は×印の「ノー」でした。全問正解すると天才賞、最後で間違えると秀才賞で、商品は文房具や図書券とスポンサーの敷島パンのパンでしたが、賞に届かなくても出場すると記念にこの帽子が記念にもらえたそうです(友達が持っていた)。
この他にもアニメの主題歌では「ハクション大魔王」と「アクビ娘(作曲は前者が市川昭介さん、後者は和田香苗さん)」や「みなしごハッチ」、さらに「キカイダーは行く(唄は「およげ!たいやきくん」の子門真人さん)」などがありました。
歌謡曲でも大ヒット曲の「高校三年生」や野僧が中学校の修学旅行のバスの中で熱唱した「東京のバスガール」、信州だった高校の修学旅行で唄った「高原列車は行く」など今でも歌詞カードなしで唄える曲ばかりです。北海道の襟裳岬に2つ歌碑がある「襟裳岬」の島倉千代子の方も丘さんの作品です。
そんな丘さんの遺作になったのが「あの世はパラダイス」と「霊柩車は行くよ」です。
「なんまいだァ なんまいだァ なんまいだァ なんまいだァ 世の中さよなら おさらばすれば ああ、あの世と言うところ ああ、あの世と言うところ 誰もが帰ってこないから 誰も戻ってこないから 楽しいところ好いところ 素敵なところ好いところ 苦労がない喧嘩がない ああ、あの世は素晴らしい みんな神さま仏さま みんな神さま仏さま ああ、あの世はパラダイス あの世はパラダイス ららパラダイス」90歳を過ぎて本当の死が迫っているのが判っていながら、このギャグのセンスには感服いたします。それでも葬儀場のBGMには使えないでしょう。
- 2015/11/23(月) 00:02:03|
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ポルポト派の残党たちがUNTACに参加している文民(=民間人)を襲撃する事件が続発するようになって指揮所でも真剣な議論が始まっていた。
「警備の強化のため隊員に実弾を携行させる必要があります」「しかし、武器の使用については警衛隊と大差ないからな」「結局、警察官職務執行法第7条、刑法第36条の正当防衛と第37条の緊急避難か・・・」流石にPKO派遣部隊の運用幕僚は法的根拠を暗記している。しかし、これも銃器となれば文章の命令に基づく警護任務に就いていなければ使用は許されず、ここが戦場ではない以上、戦闘行為は想定外なのだ。
「マスコミが常時監視している分、警衛隊の弾薬庫歩哨よりも制限されているでしょう」今度は総務幕僚が常識的な意見を述べた。確かに宿営地に到着した直後に乗り込んできたマスコミ各社の特派員たちは実弾の管理状況に異常な関心を示し、弾薬箱の公開を強く求めてきた。この問題は東京でもマスコミ各社に要求された日本政府=宮沢内閣が応じたため陸上幕僚監部を通じて「全面協力せよ」との指示が届いている。このため特派員たちは64式小銃の7・62ミリNATO弾が入っている木製の箱の蓋に紙のテープの封がしてあることを確認し、翌日から入れ替わり立ち替わり指揮所にやってきて実弾の箱の封を確認していくようになっていた。
つまり封を切って実弾を配布したことを察知されれば「PKO部隊が戦闘準備」と本社に急報し、政治問題になるのは明らかだった。
私は大隊長の命を受けて、この地域を守っているフランス外人部隊を訪ねた。名目上は治安維持に関する情報収集と連絡調整だったが、実際はマスコミに現場警戒要員の実弾携行を隠すため7・62ミリNATO弾の実弾を購入したのだ。
ここは官僚がどんな作文=PKO法を書こうとも一触即発の準戦場だ。そこで身を守る手段である実弾の携行をマスコミに迎合して取り上げた日本政府=宮沢喜一首相・加藤紘一官房長官、渡辺美智雄外務大臣トリオには徹底的な不信感を抱いた。それにしても加藤氏は防衛庁長官だった時のエリート外交官出身らしい切れ者のイメージは買いかぶりだったのだろうか。
フランス外人部隊の宿営地は鉄条網を張り巡らして土嚢を積み上げているのは自衛隊と同様だがキャンプ内でも兵士たちは銃を身につけていて緊張感が違っている。その時、目の前を一見して日本人と思われる下士官が敬礼して通って行った。
「すみません」私は思わず日本語で声をかけたが彼は無視していく、「エクスキューズ ミー」と今度は英語で呼びかけたが振り返りもせず遠ざかってしまった。その様子に案内役のフランス人の中尉が英語で耳打ちした。
「彼等は母国を隠していますから判っても判らないふりをするのです」結局、私はNATO弾の木箱一箱を施設部隊の裏金で購入したが、フランス軍は自衛隊の政治的な立場と世論への過剰な配慮に呆れながらも同情してくれた。
- 2015/11/23(月) 00:01:15|
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飼い主としては断腸の思いで音子の一匹娘・若緒に避妊手術を受けさせ、ようやく屋外を解禁しました。ところが当地は野生動物がたむろするサファリパーク状態なので箱入り娘が憧れていたような楽園ではありませんでした。
始めは仲良く日向ぼっこをして開放感を満喫していましたが、音子と一緒に周囲の偵察に出ると隣家の畑でオスの野良猫に遭遇して威嚇され、逃げたのは良いが害獣除けの網に引っ掛かり野僧に救助されることになりました(だから避妊手術が必要だった)。
続いて隣家の飼い犬の散歩に出食わして柿の木に避難したものの降りられなくなり、これも野僧が救助しました。
それから3日間の長雨が続いた後、朝一番で外に出ると猪が庭中を耕作していたのです。これは晩秋になって餌がなくなるとミミズを探して始める定例行事ですが、今年は猪の数が増えたようで例年以上に大規模でした(毎晩、鼻息が響いている)。この他にも昼は猿や夜には鹿が庭先を駆け巡っていますから要注意です。
ただし、野生動物は敵か餌と思われなければ互いに無視し合いますが、若緒の方がうっかり近づいていけば危ないでしょう。
しばらくは飼い主としても飼い猫母子の所在を気にしていなければなりません。

憧れの日向ぼっこを満喫中の母子

必死に逃げれば柿の上

ここに種を蒔けば花畑になるかも。
- 2015/11/22(日) 08:51:27|
- 猫記事
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カンボジア派遣施設大隊の指揮所ではUNTACからの要請を現場に伝え、現場の作業状況をUNTACに伝えるだけの翻訳機のような役割だった。
伊藤2尉はUNTAC本部に詰めて施設部隊と停戦監視要員の双方との連絡調整に当っている。そんな中で直接電話をかけてきて英語で雑談をすることもあった。
「モリヤ2尉、今度の休みは何時ですか?」「次は3日後だな」「プノンペンに来ませんか?」「それは無理だよ、1日だけの普通外出じゃあ」流石の伊藤2尉も海外では持ち前の行動力は発揮できないようだ。電話は次第に「miss you=会いたい」の回数が増え、最近は「I am horny=抱いて」に変わってきている。
UNTACが活動を開始すると各国の派遣要員に対しゲリラによる銃撃・強盗事件が起き始め、私は普通科の幹部と言うことで警備体制の見直しをすることになった。
これにも伊藤2尉が電話をかけて来たが、警備上の対応は秘密に属する部分も多くUANTAC本部と言えども全てを話すことはできない。
「モリヤ2尉、危険なことをしていませんよね」「うん、本業をやってるよ」伊藤2尉は心配をしてくれるが、やはり普通科(歩兵)の本領発揮が嬉しかった。
私は急遽、届いた新型迷彩服とアーマーベスト(=防弾チョッキ)を着て、派遣施設大隊3科の運用訓練幹部と一緒に宿営地の中を確認して回った。陸上自衛隊が採用したアーマーベストは父親の会社の製品なので私個人としては使いたくなかったが仕方ない。
「見張り櫓の周囲を補強している鉄板は意味ないですね」「うん、確かに防弾の役には立たんな」見張り櫓の最上部には応急舗装用の鉄板が打ち付けてある。しかし、小銃弾の威力から言えば簡単に貫通してしまう程度の強度だ。
「AKー47の7・62ミリ弾はNATO弾よりも初速は遅いですが、やはり小銃弾ですからね」「しかし、櫓の構造から言えばあまり重い補強材を取り付ける訳にもいかないな」「それではアーマーベストを手すりに被せましょう」「そうだね」アーマーベストは弾丸を繊維に巻きつけて止める構造だが、東レの製品は補強材をポケットに入れることができる。それを鉄板と2重にすれば少しは効果があるはずだ。続いて宿営地の周囲を銃弾が届く距離(約2キロ)まで見て回った。
「あそことあそこが敵の接近経路になりますね」現地での私の指摘に同行する施設幹部の1尉はうなずいている。彼等の演習は陣地構築や道路建設などが殆どで戦闘状況はあまり経験がないようだが、普通科の私は敵の接近経路側から確認して危険度を判定しているのだ。
「普通科の幹部がいてくれて助かるよ。流石は戦闘部隊だね」「施設科なら地雷原でも作ったらどうですか」「それじゃ地雷排除の仕事が増えてしまうよ」そう言って笑った。
運用訓練幹部の1尉は愛知県の豊川駐屯地から来ていると言っていた。しかし、豊川の両親は私がカンボジアにいることも知らないだろう。
- 2015/11/22(日) 08:48:09|
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大正2(1913)年の明日11月22日は江戸幕府の幕を引き役になった第15代将軍・徳川慶喜公の命日です。76歳でした。
慶喜公ほど評価が難しい人物は珍しいでしょう。先進的で大局を見渡す視野を持つ優れた政治性の一方で、無責任に全てを投げ出す冷酷さもある。何にしても江戸幕府の最後を締め括った憎まれ役を一手に引き受けていますから、立場を問わず好意的に見られるはずがありません。
慶喜公は大塩平八郎の乱の1ヶ月後の天保8(1937)年9月に水戸では英雄視されている幕末の大問題児・徳川斉昭と正室・吉子さま(有栖川宮家の息女)の7男として生まれました。
父の斉昭は自分が生まれる99年前に亡くなっている先祖の光圀に憧れており、その考え方を金科玉条のように実践していたため、生後7カ月で水戸に送られ、そこで育つことになりました。
しかし、9歳の時、実子の家定公が心身と頭脳が病弱なため跡取りの不安を抱えていた12代将軍・家慶公の意向で御三卿・一橋家の養子に入り、慶喜と名乗ったのです。
その後の紆余曲折を経て14代将軍・家茂公が20歳の若さで急逝すると、15代将軍は慶喜公しかいないのは誰の目にも明らかだったのですが、ここで絶妙な駄々を捏ねます。
孝明天皇を始めとする上下左右から将軍就任を要請されても固辞し続けて、「徳川宗家(=本家)は継ぐが将軍職は断る」などと言って周囲を困らせますが、これも内外情勢が多事多難な時に将軍が務まる人物は自分しかいないと見切った上で、就任後の立場を強固にするため幕閣の懇願によって引き受けた形を取りたかったのです。
こうして渋々(?)15代将軍に就任するとトップ・ダウンによる幕政改革を連発します。ただし、そこにはトップとして協力者までを自分の道具と割り切って使い捨てる冷淡さがあり、続々と味方は減り、敵が増えていきました。
例えば公武合体派として慶喜さまを14代将軍・家茂公の後見役にするため努力した島津久光さまを面前で罵倒して敵にしてしまい、同じく幕政改革の最高の協力者だった福井藩主・松平慶永さまも損な役回りを押し付けた挙句に裏切ったことで愛想を尽かされています。
さらに孝明天皇を拉致して自領内に拘束しようとした計画が発覚して皇室警護の職を奪われた毛利藩士が起こした禁門の変の懲罰としての追討の勅命も勝手に取り止め、その後も討幕軍側の戦力が優勢と見て大政奉還を決断しました。
確かに京都以西での戦力はアメリカの南北戦争の終結後の不要兵器を大量に購入してきた討幕軍側の方が圧倒的に優勢だったのですが、幕府軍の主力は江戸にあり、こちらもフランスから輸入した近代兵器を揃えていたので、我が国で唯一、幕府が保持していた海軍力(討幕側は海軍と呼べるレベルではなかった)を加えれば互角以上の戦いは十分に可能だったはずです。
結局、大政奉還してでも回避しようとした内戦が起こると鳥羽伏見の戦いなどでも「戦争を回避したいが現場がやりたいと言うからやる」などと裏腹な判断を下したため、多くの忠義の武士たちが命を散らしたのです。あの時、「主戦場は駿河」と決意し、早々に江戸へ戻って準備を整えていれば、東海道・中山道沿いの諸藩もあのような醜態を晒すことなく武士の本分を遂げたはずなので、薩長土肥の田舎侍と世間知らずな公家どもが明治新政府を作り、私利私欲を奪い合うこともなく、慶喜公がオランダ留学から帰った西周(にしあまね)に練り上げさせていた「議題草案」に基づいた穏健な新時代が訪れた可能性が高いのです。
やはり頭が良過ぎる人間はトップではなくナンバー2=将軍後見役が似合います。

みなもと太郎作「風雲児たち・幕末編」より
- 2015/11/21(土) 09:41:27|
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カンボジアの宿営地の設営はその道のプロ・施設部隊の仕事だけに流石だった。熟練した隊員が専門の建設機械を使って整地すると周囲に鉄条網を張り、重要個所には土嚢を積み上げる。その仕事は普通科の人力と比べると迅速、かつ確実だった。
そんな中、監視櫓を建てるための丸太を運ぶ陸士たちが不思議な教練をやっている。
「材点検」「1、2」最後尾に位置する指揮者の号令に復唱して全員がシャガンで丸太の表面をなで回し、それが終わると「よし」の号令で立ち上がった。
「重材料運搬、2段挙げ」「1、2」また号令に復唱すると膝を曲げて丸太に手を掛ける。
「腕に」「1、2」「肩に」「1、2」これで丸太を肩に担ぎ、「前へ」で前進した。その時も「1、2.1、2」と歩調を数えている。
「どうだ、珍しいだろう」私が感心しながら見ていると後ろからカンボジア派遣施設大隊長の渡瀬1佐が声を掛けてきた。
「あれは教練ですか?」「施設基礎作業の重材料運搬って言うんだ。普通はあそこまで基本通りにはやらんのだが、こう言う場所だから気合を入れているんだろう」確かに富士学校でも特科の隊員の砲を設置する動作が教練式になっているのを見たが、施設バージョンも興味深かった。
実際、円匙(えんぴ=シャベル)を置く時には1本を横にしてその上に4本を並べ、5本をセットしている。これは普通科でも取り入れるべきだろう。
宿営地ができ上がった頃、隊員たちの間で体調を崩す者が続出した。その症状は下痢であったり、目眩であったりと様々だったが、中には虫に刺されて腫れあがり、高熱を出している者もいる。
衛生隊員はその度に「マラリアか?」「赤痢か?」と右往左往しているが、出発前に全員、その手の伝染病や風土病の予防注射を打ってきているはずだ。
結局、「日本の衛生状態が完璧過ぎるため隊員だけでなく日本人の抵抗力が弱くなっている」と言うのが医官の意見だった。
医官から示された薬の手配のため指揮所へきた衛生隊員は慣れない仕事と心配で気疲れしているようなので、私は激励と参考のため沖縄での経験談を話した。
「沖縄の蚊は強力で夏制服の上からも刺されて、刺されると腫れあがって熱を出す奴もいたよ」「へー」「痒さもすごくて、血が出るまでかきむしったもんだぜ」「ふーん」「それで米軍の虫除けスプレーを使うと強過ぎてかぶれてしまってな」「ほー」「だから夜間警備につく時は暑くても下に長袖シャツを着ないといけなかったね」あの頃は腰に下げる蚊取り線香はまだ売られておらず、それが最善の自衛策だった。
「ところでモリヤ2尉は沖縄にいたことがあるんですか?」「うん、航空自衛隊にな」私の告白に彼は驚いた顔をしたが、その後は毎度の陸上自衛隊へ転換した経緯や理由を説明することになり、すぐに「元航空自衛隊」と言う噂が広まってしまった。
- 2015/11/21(土) 09:35:01|
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駐屯地のプールは意外に空いていた。この駐屯地の隊員たちは朝から外出すると大阪まで遊びに行っているらしい。
伊藤2尉はスポーツ水着を着ているが、向き合って準備体操をしていて前屈すると胸の谷
間にまた視線が行ってしまった。
私は「ライフセーバーだ」と申告してしまった手前、50メートルプールを何度も往復して各種泳法を展示して見せたが、やはりハワイ仕込みの伊藤2尉の方がフォームは洗練されている。どっちにしろ幹部同士では戯れる訳にはいかないだろう。
その分、夜は伊藤佳織2尉の肉体に溺れてしまったが。
「PKOは戦闘行動にあらず、平和を維持し国土再建の支援に我々も力を尽くし・・・」出発前、伊丹駐屯地の広い中央訓練場(グランド)で行われた式典で防衛庁長官に続いて陸上幕僚長はこう訓示した。
我々は新型の防暑服に身を包み、遠い壇上に顔を向けて拝聴しているが、そんな部隊の間を多くのテレビ局や新聞社が歩き回って収録していた。こんな自由な取材を許すのもこの派遣に対する世論形成に対する政府の協力姿勢だろう。
やがて部隊の中央にいるカンボジア派遣施設大隊長が回れ右をして部隊に移動を命じた。
我々も指揮所長の指示で回れ右をして指揮所用のマイクロバスに乗り込み、それぞれの車両で観閲台の前を通過して航空自衛隊の小牧基地に向った。
一昨日、善通寺では駐屯地朝礼が行われ、すでに見送りは受けている。美恵子は理容師の仕事と言う日常があり、土日の淳之介の世話の件など解決すべき問題に追われ、PKOそのものにまで意識が回らないようだった。
小牧基地では、また曹候学生の教え子に会った。
出発準備で忙しいエプロンのC―130輸送機の手前に整列して、搭乗を待っている陸上自衛隊員の中に私を見つけた整備員の彼は歩み寄って来て敬礼をした。
「モリヤ班長が陸上へ行ったのは聞いてます」「そうかァ、噂になっちゃってるのかァ」考えてみれば彼は築城で会った整備員の教え子・杉村3曹と同期だった。教育隊的には2尉なら区隊長だが教え子の呼び名は昔のままだ。
「モリヤ班長もPKOですか?」「おう、出番だぜ」彼の念を押すような確認に私がワザとふざけて答えると隣で伊藤2尉も笑った。
その時、搭乗開始になって指揮所要員にも整列の指示が出た。
「それじゃあ、行ってくるぜ」と私が親指を立てると彼も表情を引き締めて親指で「Good Ruck」を返した。
- 2015/11/20(金) 09:32:34|
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1975年の明日11月20日にスペインの独裁者であるフランシスコ・フランコ・イ・バアモンデ総統が亡くなりました。83歳の長命でした。
愛知県豊川市の中学校の歴史の授業で教師は「3国軍事同盟を結んで世界を戦争に引き込んだドイツのアドルフ・ヒトラー、イタリアのベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニと大日本帝国の全体主義国家は正義のソ連と中国、おまけのアメリカによって滅ぼされた。つまり全体主義国家が地上に存在することは許されないのだ」と熱弁を奮っていましたが、フランコ総統の伝記を愛読していた野僧が手を挙げて質問すると、教師は「生徒は知らない」と高を括っていたようで、「先生に恥をかかせたいのか」と激しく罵倒しました(その教師は「ヒトラーと並ぶ日本の独裁者は昭和天皇だ」と断言していた)。何にしてもフランコ総統は戦後30年間も生存し、それまでスペインの独裁体制を維持していたのです。
フランコ総統は1892年12月4日にスペイン北西部でポルトガルの北にはみ出しているようなガリシア地方で軍人の子として生まれ、15歳でトレドの士官学校に入って18歳には少尉に任官しています。20歳の時、頑強な抵抗運動が続いていた対岸の植民地・モロッコに派遣され、以降5年間も鎮圧に明け暮れましたが、その軍功で少佐に昇任すると帰国後はサラゴサの陸軍士官学校の校長に就任しました。39歳の時、スペインはボルボン王家が倒されて共和制に移行しますが政権内で左右両派の対立が激化して、フランコ将軍は左翼政党の扇動によって生起したゼネラル・ストライキを武力鎮圧した功績で陸軍参謀長になり陸軍軍人としての頂点にまで上り詰めたのです。
ところが次の総選挙で左派が勝利すると右派であるフランコ参謀長は解任され、大西洋上のアフリカ沖の孤島・カナリア諸島に総督として追いやられてしまいました。
その留守中に左派政権が進める社会主義的政策を支持する農民や労働者たちと反対するカソリック教会などの右派の間で抗争が勃発し、それがスペイン内戦に発展しました。内戦は植民地のモロッコにも波及し、その報を聞いたフランコ総督は現地に渡り、ここで反政府軍を指揮して勝利すると、スペイン本土でも右派側についた軍の指揮を執りました。
やがてフランコ将軍は右派の旗頭となり、反政府軍の総司令官と政治指導者としての総統(あくまでも日本語訳の定義)に任命されて、内戦に勝利すると国家元首となりました。この時、ドイツのヒトラーとイタリアのムッソリーニの支援を受けたことで盟友となりますが、第2次世界大戦が勃発すると「内戦によって荒廃したスペインでは戦争に耐えられない」と言う政治的判断で参戦を見送り、果てしなく3国同盟側に近い中立の立場を選択したのです。
それでも緒戦のドイツの圧勝を目の当たりにすると参戦を模索し始め、フランス占領に続くイギリスへの上陸作戦には軍を派遣するとの密約を結んでいたもののそれが頓挫したため先送りにしたことが幸いしました。傍観者として形勢逆転を見極めると連合国側に乗り換え、満州国承認の見返りにフランコ政権を正当と認めて友好関係を結んでいた日本ともフィリピンでのスペイン人の待遇を問題として断交しています。その後、連合国と独伊の和平調停を仲介しようと動きますが、それは完全に無視されて終戦を迎えたのです。
フランコ総統は「母親が人生の師」と公言しており、反対派への弾圧(意図的殺害は見当たらない)の一方で寛大で温情あふれる逸話も数多く伝えられ、「独裁者」と呼ばれることが似合わない人物だったようです。だから自分の没後は混乱を回避するため立憲君主制への移行を決め、周囲が求める息子を後継者とする体制維持を拒否したのでしょう。
- 2015/11/19(木) 09:55:49|
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その夜は外泊せず、駐屯地の途中にあるカ―・ホテルに歩いて入った。
「私を抱くのは戦時国際法違反じゃあないですよね」一緒にシャワーを浴び、裸のままベッドで抱き合うと伊藤2尉=佳織はそう言って笑った。
「韓国じゃあ犯罪だけどな・・・姦通罪」これは不倫を禁じる犯罪で戦前の日本では女性だけに適用される罪だった。
「これって罪なんだ・・・」私の返事に佳織は目の中で何かを考えた。私はその目を口づけで閉じさせ、「戦争での人殺しは英雄的愛国行為だよ」と自分に言い聞かせるように答えた。それは私たちがこれから一緒に戦場へ赴くことを意味している。
「貴方と一緒なら地獄にだって・・・」「Go to heaven(天国へ行こう)、Follow me(後に続け)!」私が英語でそう言うと今夜も佳織が上になって私を受け入れ、戦友予定者同士、激しく熱く燃え上がった。
土曜日の午後、幹部宿舎に伊藤2尉が電話をかけて来た。待ち合わせは例のスナックのはずなので「何事か」と思いながら電話に出た。
「モリヤ2尉、泳ぎに行きましょう」「おッ、それは好いなァ」私は即答した。こう暑くては冷房のない宿舎で時間を持て余していたのだ。
「でも、水着は持ってきていないよ」「PXで買いましょう」と言うことは伊藤2尉は駐屯地のプールへ行くつもりらしい。
この宿舎には同じ善通寺の第8施設群の幹部もいて、あまり公然と伊藤2尉と会うことはできないが駐屯地のプールで水泳ならいいだろう。
「モリヤ2尉、水泳は得意なんですか?」スポーツ用品店で水泳パンツを選んでいると横から伊藤2尉が訊いてくる。
「ワシかァ、これでもライフセーバーだぜ」「へーッ、凄いですねェ」伊藤2尉は素直に感心してくれたが、赤十字水難救助員の資格は航空教育隊で取ったもののスイミングスクールへ通った訳でないので泳法に自信はない。伊藤2尉はスポーツ万能だと誤解しているようだが、私は人一倍の努力家であってどちらかと言えばスポーツ音痴なのだ。
「伊藤君は得意だろう」「一応、ハワイ仕込みです」そう答えて伊藤2尉は半袖シャツの両腕を曲げて力こぶを見せたものの私はそれよりも盛り上がった胸に視線が行って慌てて顔を背けた。
そんな話をしながら地味目のトランクス式パンツを選んでレジで代金を支払った。中身を出して持ってきたバスタオルに包みながら玄関にむかうと伊藤2尉が店先に吊ってある女子用スポーツ水着を眺めながら呟いた。
「でも、駐屯地のプールじゃあビキニは着られませんね」「そうだねェ、残念だなァ」私が素直に残念がると伊藤2尉は噴出した後、耳元で囁いた。
「中身は後で見せてあげますよ」「ゴクッ」私はそれを想像して生唾を飲みこんだが伊藤2尉はそれを可笑しそうに見ていた。

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- 2015/11/19(木) 09:53:19|
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昭和22(1947)年の明日11月19日は日本が世界に誇る救難飛行艇・US-2を製造している新明和工業の創始者・川西清兵衛さんの命日です。
新明和工業は戦前には川西航空機と言う社名で97式飛行艇、2式飛行艇だけでなく「日本海軍の戦闘機としては最高」との評価を得ている紫電改も製造しました。
川西さん自身は幕末の慶応元(1865)年に大阪で生まれた商人で、明治29(1898)年に27名の実業家たちと日本毛織を創業して成功したのを皮切りに、山陽電鉄の前身である兵庫電気軌道や日本毛織に他の毛織会社を吸収した日本毛糸紡績を設立するなどの事業で大きな収益を上げ、川西財閥と言われる実業家になったのです。
大正12(1923)年に日本航空機を創立して航空機産業に関わることになりましたが、昭和6(1931)年には海軍を退役して民間航空会社を創業していた中島知久平さんの依頼を受けて出資し、本格的な航空機の製造を始めます。3年後には川西機械製作所を創業し、この飛行機部門を独立させたのが川西航空機です。その社長は次男の川西龍三さんでした。
川西航空機は中島飛行機から技術者を引き抜く形で成立したのですが、イギリスの飛行艇メーカー・ショート・ブラザーズ社と提携して技術を吸収すると、昭和9年の94式水上偵察機から始まり12年の97式飛行艇、そして17年には2式飛行艇が海軍に制式化されています。
さらに水上戦闘機「強風」を地上機に改造した「紫電」、その中翼を低翼にして自動空戦フラップを装着するなどの改良を加えた「紫電改」に発展させて日本海軍航空隊の最後の花道を飾る役柄も演じました。ただし、「紫電改」の製造機数は44機に過ぎません。
川西航空機と言えばやはり2式飛行艇=通称2式大艇ですが、開発に当たっては海軍から無理難題とも言える高性能を求められていました。それは当時の主力戦闘機・96式艦上戦闘機と同程度の速度240ノット=時速444キロ(外国の飛行艇よりも100キロ上回る)。航続距離は1式陸上攻撃機やアメリカのB-17爆撃機の1・5倍、B-29の1・3倍に当たる爆装時6500キロ(偵察では7400キロ)。さらに多数の20ミリ機関砲を装備し、機体には防弾装甲を施す(攻撃した米軍の戦闘機を多数、撃墜したため恐れられた)。そして魚雷2本や1トン爆弾を搭載して爆撃・雷撃することが可能な操縦性と言うものです。
三菱重工業は海軍が突き付けた同様の無理難題に対して機体の強度を捨てることで軽量化した零式艦上戦闘機を製造しましたが、川西航空機は当時、日本では最高出力だった火星エンジンを4発搭載することでこれらを実現しました。
一方、新明和工業のUS-2飛行艇は2式大艇の経験を最大限に活かして開発されたPS-1対潜飛行艇や武装・対潜探知機などを取り外したUS-1救難飛行艇の改良型です。
PS-1やUS-1は「波高3メートルでも離着水が可能(前部から吸入した海水を後部から噴射して波を消す装置がついている)」と言う他の追随を許さない高性能を持っていましたが、同時に操縦が難しいと言う大きな問題を抱えていました。
これを機体の材質変更による軽量化、フライ・バイ・ワイヤー(パイロットの操作を電気信号化して装置を作動させる)やグラス・コクピット(飛行データをガラスに投影する)の採用、エンジンをロールスロイス社製に換装し、プロペラを4枚から6枚に変更するなどによりかなり改善したと言われ、ようやく海外への輸出も現実味を帯びることになったのです。
ただし、川西さんは空襲で工場の大半を失い、敗戦後は財閥解体によって財産を没収され、失意の中で亡くなりました。それでも自分が蒔いた種が大輪の花を咲かせているのですから、以て瞑すべきでしょう。
- 2015/11/18(水) 09:30:49|
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2尉になって間もなく私は中隊長に呼び出された。私は銃剣道か持続走の訓練指揮官の件だと思案しながらドアをノックした。
「モリヤ2尉、カンボジアPKOに行ってもらいたい」中隊長の机の上にはPKO法案可決を報じる部内の一般紙「朝風新聞」が置いてある。
「PKOですか?でもあれは施設部隊でしょう」今回のPKOではカンボジアのUNTACの要請で日本からは施設部隊が派遣され道路工事などを行うと聞いている。
湾岸戦争において日本は多国籍軍に巨額の財政支援を行いながら人員を出さなかったため欧米や中東諸国での評価は低かった。それに懲りて日本政府は憲法論議をせぬまま自衛隊の海外派遣の道をこじ開けたのだ。
「ひょっとして停戦監視要員ですか?あれなら普通科ですが」私は一部タイ国境での停戦監視要員も派遣されることを思い出した。
「あれは1尉、3佐クラスだからそれはないだろう。また指揮所要員のようだ」そう言いながら中隊長は「あれ(=停戦監視)には英語が得意なら自分が行きたい」と付け加えた。部内出身の中隊長は英語があまり得意ではないようだ。
「やっぱりモリヤ2尉も一緒なんだァ」伊丹駐屯地での講習会でまた伊藤2尉に会った。
「今度は2人で海外逃避行ですね」「2人きりじゃなくて団体旅行だけどね」伊藤2尉のジョークに私もジョークを返したが、周囲はそんな冗談を言っている雰囲気ではなく、どの隊員も緊張して顔を強張らせている。何よりも会場にはマスコミが詰めかけていて、カメラの砲列を並べ、記者は隊員たちの雑談にも聞き耳を立てながらメモを準備している。
会場を見渡すとWACの参加者は伊藤2尉だけだった。私はマスコミの目に留まらぬように少し離れて座ることにした。
講習も半ばに差し掛かった頃、2人で飲みに出た。あのスナックに入り、割り勘でボトルをキープした後、伊藤2尉が訊いてきた。
「モリヤ2尉は戦時国際法にも詳しいんですね」最近の講習内容は戦時国際法になっていたが大学教授の杓子定規な説明に私は現場での解釈、運用からの質問を繰り返していた。
「航空教育隊で学生がいない時、暇つぶしに研究していたんだよ」「すごいですね、法律用語なんて難しいのに」私の説明に伊藤2尉は水割りを作っているママさんと顔を見合わせて感心してくれる。
「一応、大学は法学部だったんですよ。中退したけど」するとママさんは「中退したの?勿体ないねェ」と意外そうな顔をした。
「一般空曹候補学生と言う自衛隊の課程に受かったんで止めました」その補足説明でママさんは一般空曹候補学生と我々の一般幹部候補生がゴッチャになり、かえって混乱したようだった。
- 2015/11/18(水) 09:29:20|
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夏、私が2尉に昇任し、31歳になった頃、沖縄から義父母が善通寺までやって来た。
私は訓練でつき合えなかったが美恵子は店を休み、淳之介を連れて伊丹空港まで電車で出かけ、一緒に大阪泊で観光して来た。
「ハイサーイ」「メンソーレ」訓練を終えて家に帰ると居間で義父母はもうスッカリくつろいでいて懐かしい挨拶をしてくる。
「大阪は暑かったでしょう」「それさァ、沖縄よりも暑くって驚いたさァ」義父の呆れたような台詞に義母も「同感」とうなずいた。
「善通寺は涼しいですよ」「本当、日が陰ったら好い風が吹くさァ」義父の言葉で私はエアコンを入れず窓を全開にしているのに気がついた。私は寝室に入って制服を着替えたが美恵子は台所だ。
「今夜は讃岐うどんさァ」やがて美恵子は暑い中、ゆで上げたうどんを運んできた。
今回は多度津の刺身に土産の泡盛「瑞泉」もついた。カッチーサビタン(いただきます)。
「モリヤさん、美恵子に幹部自衛官の妻が務まっていますか?」美恵子が淳之介、義母と一緒に買い物に出かけた時、義父が真顔で訊いて来た。
「はい、家庭も仕事も頑張っていますよ」私の返事にも義父は硬い表情のままだ。
「私はタクシー運転手なんて気楽な商売で、娘たちに男が一生懸命働く姿を見せて来なかったから、美恵子が貴方の仕事を支えることができているか心配なんです」義父には義父の苦労があったのだろうけれど夜勤を終えて家に帰れば仮眠するだけだったはずだ。そのためか美恵子の姉たちも仕事には人一倍意欲的で夫以上に稼せいでいる。
「美恵子は美恵子のできることを一生懸命やっていますから・・・」私の返事を遮って義父が言葉を続けた。
「モリヤさんは優し過ぎるから美恵子のワガママまで受け止めて許してしまう。だけどそれじゃあ、貴方の休まる場所がない。妻も心配しています」義父母は私の両親も気がつかないでいた私と言う人間の本質を見通していた。
「お義父さん、何か気になることでもあるんですか?」義父の口調が珍しく断定的なので敢えて真意を訊いてみた。私自身も伊藤2尉との関係を思えば一方的に美恵子を非難することはできないのだ。すると義父は姿勢を正した。
「ウチで預かった時、我がまま放題にしているのを見て申し訳なくなったんです」義父は一呼吸置いて言葉を続けた。
「美恵子の仕事は貴方の仕事の枠の中でやればいいんです。この家を守ることが美恵子の一番の仕事なんですから」私はこの両親の息子になれたことを感謝した。
幹部候補生学校に入校中、防府に残った美恵子が無断で仕事を再開し、その給料が私の扶養手当と重複したことで「金銭トラブル」になってしまった。
これが私の内務の点を大きく落とし、卒業序列は上からよりも下から数えた方が早くなっている。おそらく将来は3佐まで、部内出身と変わらない階級・地位で終わるのだろう。
- 2015/11/17(火) 09:14:13|
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守山駐屯地には第10師団隷下の部隊から選抜された陸曹たちが集まっていた。体育学校格闘課程への入校資格である1級の認定には(航空自衛隊は例外)上級指導官と複数の部隊指導官による技量確認が必要なため単独の部隊では実施できないことが多い。何よりも関節技まで含まれる教育・訓練を行うには教官の方も十分な技量を有していなければならないので、やはり集合訓練が必要なのだ。
実際の訓練では金沢駐屯地の第14普通科連隊の2尉が指揮官を勤めていたため私は平の教官で陸曹の助教たちと同じ仕事だった。体育学校では検定が近づいてくるまで教育に当たる幹部の教官は1人だけだったから私の存在は迷惑だろう。
「モリヤ3尉、何だか動きが鈍くなりましたね」助教として参加している体育学校の同期に言われてしまった。確かに防府北基地の少林寺拳法部に参加していた入校時に比べれば、1人でサンドバッグを相手にしている現在は技量が落ちているはずだ。
「うん、流石に30を過ぎると年を取ってね」「それはお互い様ですよ」同期の口調もやはり幹部と陸曹になっている。
「まァ、お互い中年太りしていないだけ良いってことにしよう」「はい、自分は3月に北海道へ転属しますから身体を作っておかないといけません」「そうかァ、だったら良いタイミングで守山に来た訳だ」「でも幹部の方と飲むのは遠慮します」私自身は航空自衛隊で同世代の幹部たちと飲みに出掛けていたが善通寺でも誘われたことはなかった。その背景には酔って漏らした本音が自分の不利益になることへの心配があるような気がしている。何とも難しい組織のようだ。
守山駐屯地では伊藤3尉立案のミッションが実行された。幹部外来には富士での演習に向かう九州の連隊が入れ替わりに泊っているが、名古屋の夜を満喫するため顔見知り同士で連れ立って外出している。私は電話で待ち合わせに指定された駐車場へ向った。
広い駐車場を歩き回りながら伊藤3尉=佳織に教えられた車種、ナンバーの車を探しているといきなりヘッドライトで照らされた。すでに車に乗って待っていたのだ。
「モリヤ3尉、遅いですよォ」「ゴメン、ゴメン、待たせたね」車の窓を開けて声をかけた制服姿の佳織に私も手を上げて助手席に乗った。
「ゲートは幹部引率で良いですよね」佳織の言葉に私もうなずいた。
佳織がエンジンをかけて走り出すと広い駐車場では数台の車が同じように走りだして同じ方向に向かい、その車列はゲートが近づくと次第に長くなっている。
2人でゲートに差し掛かると警衛所の前に座っている陸曹が大声で「気をつけ」と号令をかける。それは陸上自衛隊式の礼式なのだ。
私が助手席で姿勢を正すと佳織は窓を開け、歩哨に「御苦労さん。幹部引率1名」と声をかけた。その夜は素面(しらふ)で佳織を抱いた。もう酒のせいにはできない・・・・。

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- 2015/11/16(月) 09:36:58|
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12月25日(ロシア正教のクリスマスは1月7日)、ソ連のゴルバチョフ大統領が辞任し、演習対抗部隊(甲)が崩壊してしまった。
ソ連と言えば中学、高校時代の教師たちが「労働者の聖地」「誰もが平等な国」「日本が目指すべき国家」と熱く語っていた理想郷のはずだが、その大国がわずか半年で崩壊してしまった(ベルリンの壁が打倒されてからなら2年間を要しているが)。
私は小学生の時から戦史を研究していたため日本が降伏する直前に日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州へ侵攻し、樺太でも起きた悲劇、千島での激闘を知っていた。それを「反戦平和」を唱える教師に質問すると日本軍のような鉄拳制裁を受けてしまった。
そんな中、ミグ25亡命事件が起こり、「ソ連は軍人が逃げ出すような国だ」と判明したのだが、教師はアメリカからソ連に亡命した人間を紹介して打ち消しに躍起になっていた。あの連中はどんな顔をして今も授業をしているのだろうか。
「何を聞いているのさァ」就寝前、普段はカセット・ステレオとして使っているレコーダーのラジオのダイヤルを合わせていると風呂から出てきた美恵子が声を掛けてきた。
「うん、モスクワ放送を聞いてみようと思ってね」「モスクワ放送ねェ、言葉わかるの?」「夜の6時から11時まで1時間ごとに30分間の日本語放送があるんだ」「ふーん」これは私が中学・高校時代に勉強しながら聞いていた番組だ。この放送でロシア民謡を覚え、ロシア語を学び、チャイコフスキーやショスターコヴィッチ、ラフマニノフの曲を楽しんだのだが、美恵子は特に関心がないようで、そのまま鏡台に歩いて行った。
「うーん、やっぱり放送していないなァ、それとも四国では入らないのかも知れないな」ダイヤルを色々合わせてみるが聞き覚えがある番組は入らない。九州のリスナーにまで届くように放送しているはずだから、やはり国内の混乱が原因だろう。
「ゴ―」その時、美恵子が髪を乾かすためにドライヤーを作動させたため轟音でスピーカーの音は全く聞こえなくなった。「はい、諦めます」スイッチ・オフ。
翌年12月が体育学校で格闘指導官の資格を取得して5年になるため、それまでに更新の検定を受けなければならなかった。その検定は師団、混成団などが実施するのだが実際は徒手格闘の集合訓練で教官・助教をすることで認定を与えていることが多い。
第2混成団の普通科は我が第15普通科連隊のみ(現在は高知に第50普通科連隊がある)、特科も海を渡った岡山県の日本原駐屯地に預けられている(平成6年から松山駐屯地)。
このため本格的な集合訓練の機会がなかったのだが、私の確認を受けた2混団の担当者が丁度、守山駐屯地で行われる第10師団の集合訓練に参加できるように手配してくれた。私は宿命めいたものを感じていたが案の定、伊藤3尉から電話が入った。
「守山で集合訓練ですか、一緒に外出しましょう」「でも集合訓練中は宿舎に缶詰だよ」「大丈夫、私が車で送迎します」「それはナイスなミッションだね。腕を上げたな。流石ァ」私の誉め言葉に電話口で伊藤3尉は笑った。
- 2015/11/15(日) 08:48:08|
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スナックを出ると私が停めたタクシーに伊藤3尉が先に乗り込んだ。
「ホテル伊丹をお願いします」伊藤3尉は私が「駐屯地」と言う前に運転手に声をかけ、驚いている私の手を握ると黙って胸に押し当てた。
ホテルはダブルの部屋が予約してあった。ドアの前でためらっている私の手を引いて伊藤3尉は部屋に入り、ドアを閉めると首筋に腕を回してキスをしてきた。
最近、生活の一部になっている美恵子とのキスに比べ、伊藤3尉=佳織との口づけは胸が高鳴り、熱いモノが湧き上がって来る。
「シャワーは?」「早く抱いて・・・」私の言葉に佳織は首を振って答え、もう一度首筋に腕をまわしてきて私はそのまま抱き上げた。
部屋の灯りを消しながら佳織をベッドに運ぶと、もう私の身体は臨戦態勢になっている。
「本当は前川原の頃に抱いて欲しかったんだ・・・」腕の中で佳織は喘ぎながらささやき、私はダブルベッドに寝かして重なり、もう一度口づけた。
残っている小さな明かりを消すと部屋はカーテン越しの街灯りだけになる。佳織は舌を絡めながら上になると自分で服を脱ぎ、私のズボンを下ろして腰を沈めた。その瞬間、私の中でガラス瓶が割れて弾けたような音が響いた。
演習から戻って玄関を開けると知らない女性がいた。台所に立っているその女性はアフロとは言わないがパーマのロングがフワッと膨らんだような感じだ。
「あのォ」玄関を上がり台所でその女性に声をかけると、それは美恵子だった。
「あれッ、帰ったんネ」振り返った美恵子は特別に変わった様子もなく返事をした。
「何だかすごいことになってるなァ」私が顔を見ながら呆れると美恵子は得意そうな顔をしながら自分の首筋に手を這わせ髪を浮かせて見せた。
「これがソバージュ・スタイルだよ、店長の練習台になったのさァ」美恵子は自慢そうな口ぶりだが私は返事に困ってしまった。派手な顔立ちの美恵子に似合ってはいるが、かえって水商売の女性のように見える。それは家族にも模範的生活態度を要求される幹部官舎で変な意味で目立つことを心配した。
「気に入らない?」「何で?」「いつもは誉めてくれるさァ」美恵子は怪訝そうな顔で見ている。「これが美恵子の仕事だ」とは判っているがやはり賛成はできない。私は話題をそらすため淳之介にテレビのボリュームを下げるように声をかけて着替えに行った。
食卓に座り、夕食になったところで私は遠回しにコメントした。
「少し派手だなァ」「ここが田舎だからさァ、東京なら普通だよ」「でも田舎じゃァ、目立つだろう」「だから個性的でいいのさァ。ここで流行らせるのよ」どうやら店の宣伝も兼ねているような口ぶりだ。東京ではお洒落な男性も美容院へ行くもののようだが、田舎ではまだ男性は理容店、女性は美容院と住み分けている。
美恵子に反省する気がないのなら「言っても無駄」と思い私もそれ以上は何も言わなかった。

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- 2015/11/14(土) 09:39:25|
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1988年の明日11月14日はサイパン島・テニアン島を陥落させたアメリカ軍が開始した日本本土への空襲の指揮を執ったヘイウッド・ハンセル少将の命日です。
ハンセル少将は陸軍航空隊のパイロットで、昭和19(1944)年7月上旬に守備隊が無意味な万歳突撃で全滅してサイパン島が陥落した後、同年8月28日にB-29による日本本土爆撃部隊の指揮官として赴任しました。この時、サイパン島で第21爆撃集団司令官のヘンリー・アーノルド大将から「日本の経戦能力の徹底的な破壊」と言う任務を与えられたのです。
ただし、サイパン島は占領から1カ月半、隣接するテニアン島は3週間に過ぎず、滑走路などの建設は不十分だったので大型のB-29を同時多数に発進させることは不可能でした。
現在の日本人は大東亜戦争における空襲は軍用施設の有無に関わらず全国各地の都市を無差別爆撃し、多くの一般市民を殺傷したと思い込んでいますが、開始当初は宇都宮の中島飛行機や名古屋の三菱重工などの重要軍用施設を狙い、迎撃を避けるため日本軍機の飛行性能の限界を超えた1万メートルの超高高度を飛来していました。しかし、高度1メートルからでは投下目標を選定することも困難で爆弾を命中させることは実質的に不可能だったのです。
このため期待した戦果が上がらず、限定的に都市部への空襲を始めました。11月27日には東京の市街地を空襲し、143戸を焼失させていますが、昭和20年3月10日以降に悪鬼・カーチス・ルメイが指揮した東京大空襲とは規模・惨状が全く違います。
確かにハンセル少将が指揮を執っていた間も焼夷弾による都市部への空襲を実験的に行っていますが、ヘンリー・アーノルド大将は第1次世界大戦中にイギリス、ドイツ、フランスでは実現している陸軍航空隊を独立した空軍とするために陸戦、海戦以上の戦果を上げる必要性を求めており、それには常識的な軍人であるハンセル少将では役不足だったのです。
こうしてハンセル少将は昭和20年1月20日に解任され、後任にはヨーロッパ戦線でイギリス人の残虐性を体現したアーサー・パリスの非人道的戦術を学んできたカーチス・ルメイを指名しました。この人事の背景には前述の空軍独立への悲願があり、犠牲になった多くの日本人はその実績作りに利用された人身御供(ひとみごくう)とも言えるでしょう。
ハンセル少将は戦後、「若し自分が指揮を執り続けていれば、都市部への大規模な無差別爆撃は実施していない」「自分の解任は常識的な精密爆撃から地域を破壊し尽くす都市爆撃への戦術転換の結果である」と述べています。
現在の非自衛官=素人の戦史マニアたちは瑣末な事例から自分勝手な主観を断定する傾向がありますが、軍と言う組織に所属していれば課せられた戦果を上げることは義務であり、その実現のために個人的信条に反する作戦を実施しなければならない場面は多々あります。
ですから軍が日本の木造建築物には爆弾よりも焼夷弾の方が効果的と言う結論を出していれば、それを採用しなければならず、直属上司であるアーノルド大将から戦果を求められれば日本人の戦意を削ぐために都市部への空襲も実施せざるを得ないのです。
ハンセル少将は戦争が終結した翌1946年に予備役編入を願い出て、その年の12月31日付で退役しました。中国の介入により朝鮮戦争が手詰まりになっていた1951年から55年まで1947年9月18日に成立していた空軍に復帰しますが、それ以外は民間企業の雇われ経営者として活躍したようです。
- 2015/11/13(金) 09:54:17|
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演習が終わっても引き続き伊丹駐屯地での反省会があり、指揮所要員が部隊へ帰る前夜には市内で打ち上げ会が行われた。
私は相変わらず米軍と盛り上がったが遅れて会場を出ると伊藤3尉が待っていた。このシュチュエ―ションには覚えがある。あれは防府での愛知県人会で同郷の麻野理美3曹が待っていて一緒に2人きりの送別会をやったのだ。
「2人で同期会をやりましょう」そう言うと伊藤3尉は私の腕に腕をまわしてきた。
「でも俺、伊丹は詳しくないよ」「大丈夫、私はこちらが地元ですから」そう言うと伊藤3尉はそのまま住宅地の洒落たスナックへ案内して行った。
「ただいまァ」「お帰りィ、佳織ちゃん」スナックに入ると顔馴染みらしいママさんが声をかけてくる。
「この人がいつも言ってるモリヤさん?」「うん、そうやァ」伊藤3尉の返事にママさんはあらためて私の顔を見た。伊藤3尉は事前講習中も時々外出してこの店に来ていたようだ。私たちがカウンターの席に座るとママさんはお絞りを差し出した。
「モリヤさんが佳織ちゃんにはミスター・アーミー(陸上自衛隊)なんやて」ママさんの説明に隣の伊藤3尉も黙ってうなずいているが私は頭をかいた。
それからしばらくは前川原の思い出や現在の任地での仕事、今回の演習の反省などを語り合ったが、話が一区切りになったところでママさんがカラオケを勧めた。
「モリヤ3尉は軍歌でしょう?」「ワシはそんなイメージかい?」「はい、隊歌も色々詳しくて上手かったですよ」そこで私は半分期待に答えて町田義人の「戦士の休日」を唄うことにした。
「・・・男は誰もみな無口な兵士 笑って死ねる人生 それさえあればいい・・・」この曲のレーザーディスクの画面は映画「野性の証明」の戦闘シーンだった。
「・・・この世を去る時きっと その名前呼ぶだろう」歌い切ると伊藤3尉とママさんは感心した顔で拍手をしてくれた。
「そう来たかァ、だったら私はこれだね」伊藤3尉は悪戯っぽく笑うとメニューを指差してオーダーした。するとママさんは「えッ、これって佳織ちゃんの・・・」と言いかけ、伊藤3尉は「今夜、ここで歌いたいんや」と言ってうなずいた。
やがて画面にはハワイのワイキキの風景が映りウクレレの前奏が流れ始めた。
「This is the moment I’ve waited for・・・Blue sky of Hawaii smile on this our weddingday」それは「Hawaiian Wedding Song」で、エルヴィス・プレスリーの映画「ブルーハワイ」の挿入歌だが、私は味の素の景品だったアンディ・ウィリアムスのレコードで覚えていた。
そして最後の「I do」「I do」「Love you」「Love you」のデュエットと「All my heart」を一緒に唄い切って店を出た。
- 2015/11/13(金) 09:52:52|
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昭和56(1981)年の明日11月13日に沖縄本島の与那覇岳で捕獲された鳥が新種であると認定され、ヤンバルクイナと命名されました。ヤンバルとは沖縄方言の「山原」のことで沖縄本島北部の山岳地帯を指しています。
一般的にはこの日のことを「ヤンバルクイナを発見」とされることが多いのですが、本島北部の友人たちは「昔からアガチ(赤足)って呼んでいた山ドゥイ(=山鳥)さァ」と言っていましたから学術的に認定されたに過ぎないのでしょう。
おまけにインターネット上ではこの地元の呼び名「アガチ」を「慌て者」と説明されていることがあります。沖縄方言は単語のバリエーションが少ないため同様の誤用は珍しくありません
ヤンバルクイナは体長30センチくらいで意外に小さく、友人たちが言っていたように足と嘴は赤色ですが、頭から背は黒、羽は濃い褐色、首から胸と腹にかけては白に黒の横縞、顔の側面には白の筋が入っています。これは沖縄で実物を見たのではなく上野の国立科学博物館に展示してある剥製で確認しました。
ヤンバルクイナが認定されたのは野僧が沖縄に赴任する前年ですからブームが沸き起こっているところで、地元の新聞やニュースでは連日のように生態が紹介されていましたが、それを見た職場の先輩たちも車で最北端の辺戸岬まで出掛けてはヤンバルの山道で探していました。
勿論、簡単に見つかるのであれば新種などにはなりませんが、野僧が自転車で行った時には似た鳥が前方を駆け抜けたような気がしています(一緒に行ったアラスカ人の彼女も目撃しました)。野生の鳥なので車のエンジン音は警戒しても自転車なら大丈夫なのかも知れません。
この他にも基地の外れの草地を鳥が走って行くのを見た隊員たちが「ヤンバルクイナだ」と大騒ぎすると自衛隊には確認する担当者がいないので自分たちで図鑑を調べて確認することが命じられました。結局、バンの幼鳥でしたが、本島北部のヤンバルから南部にある那覇基地まで飛べない鳥が歩いて来るはずがないのです。
当時、南西防空管制群の部隊章がヤンバルクイナになりましたが、そのデザインは在沖縄アメリカ海兵隊の機関紙「OKINAWA MARINE」からの盗作でした。それでも提案者は商品をもらったそうですが流石にもう時効でしょう。
ヤンバルクイナの不幸は沖縄本島に生息していることでしょう。沖縄本島はハブの天敵にするためマングースが移植されましたが、コブラを捕食するのは対峙した時だけで危険を冒してまで捕食することはないのです。おまけにコブラよりもハブの方が攻撃的で敏捷性が高いため沖縄では養鶏を襲うようになって害獣に転落しました。ところが養鶏所に防護処置がされると野鳥を襲うようになりヤンバルクイナも餌食になったのです。
また沖縄県が政府に寄生して略奪した予算を消化するため、目につく沖縄本島では山口県と同様の無駄な道路工事が行き渡り、車が滅多に通らないヤンバルの道も舗装されてしまったため、蓋がない側溝に落ちて上がれなくなって飢え死にしたり(然も雛のための餌を探しに出た親鳥が多いので家族全滅の可能性もある)、高速度で走る車に轢かれる犠牲鳥も増えています。
これが西表島なら大自然のままですから本当に可哀そうな鳥です。
ヤンバルクイナがあまりにも有名になったため「沖縄県の鳥だ」と思われていますが、こちらは沖縄のキツツキであるノグチゲラです。こちらは本鳥に会ったことがありますが、本土のキツツキとは違う色合いの可愛い鳥です。そのノグチゲラもヤンバル開発の犠牲鳥なのです。
ヤンバルの野生動物たちは沖縄県に多額の金を渡してもロクなことにならないことを訴えたいはずです。
- 2015/11/12(木) 09:36:19|
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「モリヤ3尉、久しぶりです」伊丹駐屯地での指揮所要員の事前講習に行くと前川原で同期だった伊藤佳織3尉から声をかけられた。彼女は通信幹部で守山駐屯地の通信大隊にいると聞いている。
「君も指揮所要員か?」「はい、これしか能がない英会話要員です」今回のジョークには少し自嘲があるように感じたが、駆け出し幹部の苦労はどこでも同じなのだろう。それでも有名国立大学卒の同期のWACは「(優秀な)私を新米扱いする」と退職したらしい。
「モリヤ3尉の英語はミリタリー・イングリッシュだから好いですけど私のハワイ訛りの学生英語では心配です」そう言われて伊藤3尉がハワイからの帰国子女で留学生だったのを思い出した。
「ワシのも雑談専用で正式な会議や調整には自信がないよ」これは中隊長から命令を受けて以来、考えていることだった。かと言って田舎部隊の善通寺では軍事英語のテキストは売店に売っている隊員向けの初級版しかなく、私は幹部候補生学校の教程を取り出して復習に励んできたのだ。
「判らないことがあったら助けて下さいね。前川原の時みたいに」「ワシ、君を助けたっけ?」「はい、モリヤ3尉のアドバイスと激励で私も頑張れました」確かに前川原での伊藤3尉は同期たちの日本人的な感覚と外れたところがあったかも知れない。
伊藤3尉が手を差し出したので私はそれをギュッと握った。
日米協同訓練の指揮所は大津駐屯地の体育館に設けられた。私は自衛隊側の指揮所で米軍との調整事項を英語にする連絡要員だった。ここからの指揮を受けて饗庭野演習場で実動部隊が地上戦闘を繰り広げるのだ。
伊藤3尉は師団長専属の通訳として行動を共にしているため視察時に会うくらいだ。演習も実動段階に入ると指揮所の仕事は情報伝達と戦況確認くらいになり、私も幕僚たちと雑談をする時間的余裕ができた。
「米軍の行動は戦時国際法の拡大解釈ですよね」「確かに日本の感覚とはだいぶ違うな」米軍の行動を確認しながら私は防大出の若い1尉の幕僚にそんな感想を漏らした。
私は航空教育隊当時、学生がいない時期は戦時国際法の研究で過ごしていたのだが、米軍の戦闘行動は戦線を拡大しがちで、民家が密集した地域へも砲爆撃を加えることを躊躇しない。然もその地域の住民の避難は日本側の責任であって攻撃に巻き込まれることには一切関知しないのだ。しかし、この攻撃で破壊される土地が祖国・日本、殺傷される住民が日本人であることを思うと我慢できなかった。
「米軍はベトナムやクエートと同じように日本国内でも敵がいれば攻撃するだけなんでしょう」私の批判的な言葉に幕僚は顔を強張らせてジッと見返してきた。
「モリヤ3尉は部外だったな」「はい、一応ですが」「将来があるのだから発言には気をつけろ」「はい・・・」この組織では疑問を抱くことも控えないといけないようだ。

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- 2015/11/12(木) 09:34:39|
- 夜の連続小説8
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明治31(1898)年の明日11月12日はジョン万次郎こと中浜万次郎さんの命日です。
万次郎さんは四国唯一の航空自衛隊(と言っても移動警戒隊の展開地)がある現在の土佐清水市出身なので赴任した同僚たちが資料を大量に送ってくれました。
現在では一般的に用いられているジョン万次郎と言う名前は昭和13年の第6回直木賞作品「ジョン萬次郎漂流記」に由来する通称で、それまでは本名の中浜万次郎だったようです。
文政10(1827)年に土佐清水市中浜の半農半漁の家の次男として生れますが、父が早逝した上、兄は体が弱く、代って幼い頃から漁師の下働きとして海に出ていたそうです。
そんな14歳の時、沖で嵐に遭遇して伊豆諸島の無人島・鳥島に流れ着き、ここで生き残った漁師たちと約半年間を過ごしました。その間、魚と海鳥や卵ばかり食べていたようです。
幸運にもアメリカの捕鯨船・ジョン・ハウランド号に発見されますが、「異国船討ち払い令」が出されている日本に送り届けることはできず、そのまま太平洋を渡ることになったのです。
その航海中も万次郎さんはアメリカ人の水夫たちと一緒に働き、頭がよく働き者の万次郎さんは「ジョン・ハウランド号の万次郎」=「ジョン・マン」と呼ばれるようになりました。
特にホイットニー船長には目を掛けられ、船頭や他の漁師たちは寄港したハワイに残したにも関わらず万次郎さんだけはアメリカ本土へ連れて行き、やがて養子としてアメリカの正式な教育を受けさせることにしたのです。この時、入学を申し込んだ教会の学校から万次郎さんがヨーロッパ系でないことを理由に拒否されたことで人種差別も経験しました。
万次郎さんは日本での教育を全く受けていなかったことが幸いし、アメリカ式の教育を前提なしに吸収することができました。若し日本で教育を受けていればアメリカで与えられる知識も比較の中で理解することになり、本質を体得する上で障害になったでしょう。
こうして当時のアメリカの庶民では考えられない高等教育を受けた万次郎さんは捕鯨船に乗り組み、ここでも同僚たちに愛され、副船長に選ばれています。
その後、金鉱山の開発にも関わって資金を貯めるとハワイに渡り、かつての船頭と漁師仲間の3人で上海行きの商船に乗り込んだのです。遭難して約10年が経過していました。
鎖国中の日本に商船が接岸することはできず、万次郎さんと船頭、漁師仲間の3人は積んできたボート「アドベンチャー号」を沖縄本島の糸満の海岸へ漕ぎ着けました。
ここで島津藩の役人に捕縛され、宗門改めなどの厳しい取り調べを受けましたが、やがて鹿児島へ送られると待遇は一変します。日本一の蘭癖大名である藩主・島津斉彬公はこの珍客に大変な関心を示し、アメリカの政治制度、産業・文化などを質疑応答する当時の身分制度では信じられないような生活になったそうです。
続いて長崎に送られる長崎奉行所の取り調べになり、最終的に土佐藩に引き渡されました。ここでも山内容堂公の寵臣である吉田東洋さんからの質疑応答を受けている間に実力を認められ、身分制度が厳しい土佐藩では異例の士分に取り立てられますが、間もなくペリーの来航の情報を入手していた幕府によって直参旗本になり、ここで中濱=中浜の姓を受けました。
こうして表舞台に立った万次郎さんは単なる通訳ではなく、外交アドバイザーや技術指導者、教育者として活躍するのですが、明治3年に渡欧米から帰国すると軽い脳卒中を起こし、以降は療養生活のような長い余生を送ることになりました。
万次郎さんが壮健で外交の中枢に席を占めていたのなら世界情勢・慣習を知らない明治新政府が繰り広げた鹿鳴館の社交などの愚かな外交施策は行われなかったでしょう。

みなもと太郎作「風雲児たち・幕末編」より
- 2015/11/11(水) 09:50:36|
- 日記(暦)
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